ラフカディオ・ハーン(1850−1904)


夢中飛行

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翻訳城では、ハーンの夢や悪夢に関するエッセイを、幾篇かとりあげることにします。進化哲学にもとづいた解釈が、単なるファンタジーを超えて、今日的興味をそそることでしょう。


  夢中飛行

  ラフカディオ・ハーン 作

 とある階上の窓から、私は黄色に塗られた家々の建ちならぶ街路を見下ろしていた。それは屋根瓦の上から椰子の頂がのぞいている、古風な、狭い、どこかの植民地の通りだった。そこには影がなかった。日も射していなかった。ただ暮れかけのような柔らかい灰色の光があった。
 ふいに気がつくと、私は窓から落ちかけていた。私の心臓はドキリと不安な鼓動を鳴らした。窓から舗道までは、思ったよりもずっと距離のあることが分かった。それは恐怖を通りこして、不思議な気持になるほどだった。依然として私は落下をつづけていた。恐れている衝撃はいまだ起こらない。すると恐怖が消えて、奇妙な快感がそれに代わったのだった。つまり私は自分がすとーんと落下しているのではなく、ふわふわ“舞い下りている”ことに気づいたのだ。おまけに私は足のほうを先にして漂っていた。落ちているうちに宙返りしたにちがいない。やっとのこと私は舗石に触れた。しかも片方の足でごく、ごく軽く。すると触れたとたんに、また廂の高さまで舞い上がった。人々は立ち止まって私の方を見つめていた。私は超人的な力をえた感激を覚えた。その瞬間神になったような気がしたのである。
 それからゆっくりと私は沈みはじめた。下に集まっている顔どもを見ているうちに、私は突然に、その通りを見物人たちの頭ごしに飛んでみたくなった。もう一度私はシャボン玉のように飛び上がった。そして一息に雄大な曲線を描いて、自分でも驚くほどの距離を飛行したのだった。風は感じられなかった。ただ勝ち誇った飛行の喜びにひたっていた。もう一回舗道に触れて、いっきに千ヤード浮遊した。そして街路の果てにまで達すると、私は身をひるがえし、驚くほどの高さに舞い上がる緩慢な、長距離滞空ジャンプをくりかえして、すいすいと舞い戻ってきた。その通りはしんと静まり返っていた。たくさんの人が見物していたが、だれ一人口を開かない。人々は私の芸当をどう考えているのか、これがこんなに容易いことだと知ったら、どんなに驚くことだろう、などと私は思いめぐらせた。まったくひょんなことから、私はその方法を発見したのである。それが芸当に思われたというのも、理由はただ一つ、他にそんなことを試みたものが誰もいなかったからだ。私は直覚的にその発見を導いたあの偶然について、お喋りするのは賢明ではあるまいと気づいた。するとその通りの奇妙な静寂の本当の意味が、私に分かりかけてきた。私はみずからに言いきかせた。
 《この沈黙は“夢の沈黙”なのだ。はっきり分かっている、これは夢なのだ。前にも同じ夢を見た覚えがある。しかしこの力を発見したのは夢ではない。“これは天啓だ!”・・・一度飛び方を覚えたからには、この先もはや忘れまい。泳ぎ手が泳ぎを忘れないようにだ。明日の朝、町の屋根の上を飛んで、みんなを驚かせてやろう。》
 朝が来て、私は窓から飛び立とうという固い決心そのままに目覚めた。しかし寝床から起き上がったとたんに、忘れていた感覚のように物理的関係の知識がよみがえってきた。そして私は、結局どんな発見をしたわけでもなかったという不愉快な事実を、認めるのほかはなかった。
 これはそうした夢を見た最初でも最後でもない。しかし、とりわけ鮮やかな夢であったから、その種の夢の適当な一例として、ここに記してみたわけである。私はいまでも時折り飛行する。野原や川の上を飛ぶこともあるし、見なれた道路を飛ぶこともある。そうした夢には必ず、過去に見た同様な夢の記憶が伴なっている。また自分は実際に一秘術を見いだし、実際に新しい能力を体得したという確信が伴なっているのである。“今度こそはどうしてもだ”私は心中言いきかせる。“間違いなどはありえない。目が醒めてからも私はきっと飛べるのだ。これまで何度も、別の夢の中では秘密を学びはしたが、目覚めると忘れてしまった。だが今度こそは絶対の確信がある。”そして実際その信念は寝床から離れるまで、私につきまとっているのである。その時になって、肉体を動かしだすと、直ちにどうにもしがたい重力の存在が思いだされてくるのである。
 この体験のもっとも奇妙な部分は、浮揚の感じである。それはふわふわ漂う感じ――例えばぬるま湯の中を浮き沈みする気分にそっくりである。しかも少しも力を出す感じがない。それは快適ではあるが、たいていなにか物足りない気分が残る。それは低空飛行のせいである。私はモモンガや飛び魚のようにしか、それもずいぶんと低速でしか飛べないのだ。おまけに時々は地面に足をついて、新しく勢いをつけなければならないのだ。二十五フィートか三十フィートの高さ以上に舞い上がることはめったにない。ほとんどの時間、私は地表をかすめて飛んでいるだけだ。数百ヤードごとに地に足をつけばよいのだから、愉快な滑空ではある。しかしその間、常にかすかながら足下に水のまつわるような、地球の逃れがたい引力を感じている。
 私の知るところでは、たいていの夢中飛行者の体験は、私のと大同小異である。より上等な能力をもつと称する人を、私は一人だけ知っている。その人は山々を飛びまわり、峰から峰へとトンビのように渡るそうである。ほかに私が質問した人々は、皆ゆるい放物線を描く低空飛行で、しかもたびたび地に触れねばならないのであると打ち明けている。また彼らのほとんどが私に告げたことだが、彼らの飛行は、普通に落下を想像することから、あるいは決死の跳躍から始まるのである。そして四人もの人が言うには、そのスタートはたいがい階段のてっぺんからなされるのである。

 *   *   *

 人類は限りない歳月、こうした夜間飛行を行なってきたのである。実生活の体験と共通するところのほとんどない、この空想的な運動が、どうして睡眠生活の中で普遍的な体験となったのであろうか。
 ある種の空中運動、たとえば跳ねたりぶら下がったりする愉快な体験の記憶印象が、夢の中で誇張的に引き伸ばされて再現し、飛行の錯覚を生みだすのかもしれない。たいていの夢の持続する時間は、実際にはかなり短いものであることを我々は知っている。しかし眠りという半分の生命の中では、(悪夢の場合には驚くような例外があるが)活動する脳の敏捷なひらめきや鮮明な慄動に比較して、意識はかすかにくすぶるくらいの程度を出でないのである。そこで夢中の脳髄に対して、時間は、たとえばそれが昆虫の微弱な意識に対しては比較的に拡大されてあるに違いなかろうように、拡大されて思われるのであろう。もし墜落の感覚の記憶が、それに伴なう恐怖の記憶と一緒に、眠りの中でたまたま呼び醒まされたとすると、その自然的結果である衝撃に阻まれることがなければ、夢によって延長されたその感覚とその情動は、他の快適でさえある空中運動の記憶を呼び醒ますのに充分ではなかろうか。その記憶はさらに、長い夢幻劇の全出来事、全情景を供給するに足る、他の関連した記憶の結合を喚起するのであろう。
 しかしこの仮説は、覚醒時のどんな体験とも違った、ある種の感情や観念を充分に説明はしまい。力を出さずに自在に動けるあの有頂天、まったくの不可能事をなす快さ、重さをなくした霊妙な喜ばしさを。またそれは、跳躍や墜落の感覚で始まらない、そして快適なたぐいであることはまれな、他の夢中飛行体験を説明する役には立つまい。たとえば悪夢の最中に、しばしばこんなことが起こる。動くことも喋ることも全く出来なくなってしまった夢中の人が、自分の体が実際に宙にもちあげられ、自己のうちの恐怖の力によって漂わされていく気がするのである。さらに、夢見ている人が全く肉体をなくしてしまう夢もある。私はこんなふうに肉体をなくしてしまっている自分に、気づいたことがある。目に見えない声なき幽霊となって、黄昏時の山道を舞い飛び、かすかな呻くような声を立てて、行きくれた人々を驚かそうというのである。それはただ意志力だけで空中を動いている感じであった。地表に触れることもなく、道の上一フィートの高さを、たえず漂っているようなのだった。
 夢中飛行の感覚は、人類よりも古い生物――重たくて翼のある、したがって地表からわずかの高さを重たげに飛ぶ生物――の事情の有機的記憶で、ある部分は説明できないだろうか。または、ある万物に偏在する“世界霊”のようなものがあって、普段は眠っているが、われわれの睡眠生活のまれな瞬間に、脳中に目覚めるのであると、仮定してもよかろうか。人間の限られた意識が、太陽スペクトルの可視部にたとえられてきたのは適切である。その部分の上下には、目に見えない色彩の全域が、よりすぐれた感覚の進化を待ちうけているのである。そして神秘家たちは、より開けた精神の紫外線や赤外線のいくばくかが、夢の中で一瞬垣間見られるのであると主張している。たしかに我々個々人の中にある“宇宙生命”は、空間時間のあらゆる状況の中で、あらゆる事物であったのだ。読者はこんな風なことを信じてみる気にならないだろうか。太陽よりも古い事物の、ある茫漠とした感覚記憶を、宇宙生命は眠りの中で呼び醒ますのではなかろうかと。重力のより少ない、そこでは恣意運動の正常の形態が、我々の飛行の夢が実現した場合のようであったろう、失われた惑星の記憶を・・・。

 (原題‘Levitation' in Shadowings)



作品名:夢中飛行
作者:ラフカディオ・ハーン
翻訳者:脩 海  copyright: shu kai 2019
入力:マリネンコ文学の城
UP: 2019.6.12