Adelbert von Chamisso (1781-1838)


ペーター・シュレミール ――影をなくした人―― (第一章)

マリネンコ文学の城Home
翻訳城Top翻訳城

アーデルバート・フォン・シャミッソー(1881−1938):
 ドイツ・ロマン派の詩人、自然科学者。フランス貴族の出。革命で追われて、家族と共にドイツに移住、ドイツ語で著作をする。軍隊に入り少尉となるが、ナポレオン戦争で捕虜となった後、帰国。詩作と植物学に向かう。1914年に発表した「ペーター・シュレミール奇譚(Peter Schlemihls wundersame Geschichte)」で、一躍知られる。そののち、ロシアの探査船に乗り、世界を周航して、学術調査を行う。自然科学者としての研究をつづけ、高い評価を受ける。島の名(Chamisso Island)や小惑星の名としても記念されている。
 「ペーター・シュレミール奇譚」は各国語に訳され、ドイツ・ロマン派の代表的な創作メルヘンとして、古典の位置を占めている。影をなくすということの象徴性が、様々に論じられている。その文学における影響は、E・T・A・ホフマンやアンデルセンなどに顕著である。


 ペーター・シュレミール ――影をなくした人――

  アーデルバート・フォン・シャミッソー 作

 第一章

  (1)

  私にとっては難儀ではあったが、なにはともあれ順調な航海ののちに、船は港に着いた。上陸のボートが岸に着くやいなや、私はわずかな荷物をみずからたずさえて、人ごみをかき分け、看板のかかっている手近の安宿に向かった。部屋を求めると、宿のものは私をじろりと見てから、部屋に案内した。冷たい水をもってこさせ、トマス・ジョン氏はどこに住んでいるかを尋ねた。「北の門の前、右手の最初の別荘、大きな新築の家で、柱のたくさんある、赤と白の大理石造り」ということであった。まだ早い頃合いなので、私はすぐさま荷物をほどき、裏返したばかりの黒い上着を取り出し、こざっぱりした晴れ着を着こみ、推薦状をポケットに入れ、その人のもとへ出かけた。私のささやかな希望をかなえてくれるはずであった。
 長い北の大通りをのぼり、門にたどり着くと、すぐに緑の中に柱の輝いているのが見えた。「ここだな」と私は思い、ハンカチで足のすその埃をはらい、ネクタイを直し、思い切って呼び鈴をひいた。扉があいた。玄関の間で、私は用件に答えねばならなかった。執事は私の用向きを伝え、ありがたいことに私は、ジョン氏が楽しんでいる、庭園でのささやかなつどいに招かれたのである。
 私はすぐさま、そのでっぷりした、満足げな様子から、その人を見分けた。彼は、金持ちが貧乏人に接するときのように、私を親切に迎えてくれたばかりか、私の方をふりむきさえした。もっとも、ほかの人たちから離れはしなかったが。そして私の差しだした推薦状を受け取った。「おや、おや、兄弟からだ。長らく彼の噂を聞いていない。元気でいるのかね?――向うに」彼は答えを待たずに、つどった人々に向けて話しつづけた。そして、推薦状でもって岡を指し、「向うに、新しい建物を造らせるつもりだ。」
 彼は封印を切りながら、話しつづけ、話題は富にかわった。「せめて百万長者でなければ」と彼は言った。「乱暴な言い方だが、ごろつきだね。」――「ああ、本当ですね」私はあふれるばかりの感慨をこめて、叫んだ。それは彼のお気に召したと見えて、私にほほ笑みかけ、言った。「ここにいらっしゃい、あんた。あとで時間があったら、この件をどうするか言いましょう」推薦状のことであった。それをポケットにしまうと、彼はまた、つどった人々に向き直った。彼は若い婦人に腕をかし、ほかの紳士たちも、ほかの夫人たちに連れそい、それぞれがお似合いで、バラの咲く岡へとぶらぶら歩いていった。
 私は後ろから、だれの邪魔にもならないように、そっとついて行った。私のことをそれ以上気にかけるものは、一人としていなかったので。そこにつどった人たちは、とても陽気だった。からかったり、冗談を言ったり、時にはつまらないことを重大ぶったり、大事なことをしばしば軽薄にあしらったり、とりわけ、そこにいない友人たちのうえに、ジョークが自在に飛びかっていた。私はその場では、まったくのよそ者であったので、そうした会話のすべてに、たいした理解がおよばなかった。それらの当てこすりを解き明かすには、私自身に気をとられすぎていた。
 バラの森にたどり着いたときである。うるわしの〈ファニー〉が、どうやらその日の女主人であるようだったが、わがままから、花の咲く枝を自分で折り取ろうとした。彼女はバラの刺でその柔らかな手を傷つけ、黒バラから出るような緋色の血が流れた。この出来事は一座の人々を動揺させ、イギリスの膏薬(絹の絆創膏)はないかという騒ぎになった。私は気がつかずにいたのだが、近くにいっしょに歩いていたひとりの、静かな、痩せた、顔のやつれた、ひょろ長い、年のいった男が、昔のフランケン地方の、灰色の琥珀織りの上着のすその、きっちりしたポケットに、すぐさま手を入れ、小さな紙入れを取り出した。それを開いて、くだんの婦人にうやうやしくお辞儀をして、要求されたものを差し出した。彼女は指し出した者に一瞥もくれず、感謝もなく、それを受けとった。傷口は膏薬を張られ、岡の散策はつづけられた。岡の背から、緑の迷路のような庭園と、彼方のはてしない海洋の眺望を、楽しもうというのだった。
 その眺めは広大で、すばらしかった。 黒ずんだ海水と天の青とのさかいの水平線に、一つの明るい点が現われた。「ドロンド(望遠鏡*訳注1)をもってこい」とジョン氏は叫んだ。すると叫びに応じて現われた従僕が、まだなにもしない前に、あの灰色の男が、つつましやかにお辞儀して、上着のポケットに手を入れ、ドロンド製望遠鏡を取り出し、ジョン氏に手渡した。ジョン氏はすぐさま目に当て、あれは昨日出航した船が、逆風にあって港のほうへ戻されたのである、と皆に告げた。望遠鏡は手から手へ渡され、持ち主の手もとに戻らなかった。私としては不思議に思って、その男を見つめていた。その大きな道具が、どうしてちっぽけなポケットから出てきたのか、分からなかった。しかし、だれもそのことには気づかないようだった。皆は私に無関心であったように、その灰色の男にも無関心であった。
 元気づけに、極上の器にもった、世界中の珍しい果物がさし出された。ジョン氏はいささか上品に私を招き、二度目の言葉をかけた。「まあ、食べたまえ。海の上では食べられなかったでしょう。」私はお辞儀をしたが、彼はそれを見ていなかった。すでにほかの誰かと話していたのだ。
 「しめっぽい地面がいやでなかったら、岡の中腹の草の上に座りこんで、広々した景色を眺めるのだがな。トルコ絨毯でもあって、ここに広げたら、すばらしいことだ。」と一座の誰かが言った。その願いが発せられるやいなや、灰色の上着の男は手をポケットに入れ、つつましやかに、うやうやしい態度で、豪奢な金糸ぬいのトルコ絨毯を、引っぱりだそうと努めていた。従者たちは、あたかも当然のように、それを受け取り、要求された場所に敷きひろげた。一座の人々は、遠慮なくその上に座った。私はふたたび当惑して、その男と、ポケットと、絨毯とを見つめた。その絨毯は長さ20歩以上、幅10歩もあるのだった。どう考えてよいのか分からず、目をこすったが、とりわけだれもそのことを不思議に思わないのが、いぶかしかった。
 私はその男についてよく知りたく思い、何者なのかを尋ねたかったが、だれに問うてよいのか迷っていた。というのは、私には主人の従者の方が、仕えている主人よりも、恐いくらいだったからである。私はついに勇を鼓して、ほかの人たちよりも見栄えのしない、たびたび一人でたたずんでいる、一人の若者に近づいた。私は小声で、あの灰色の服を着た、愛想のよい男は何者なのかを、教えてくれるよう頼んだ。――「あの、仕立て屋の針から抜け落ちた、より糸の端のような男のことですか」――「ええ、あの一人で立っている」――「知りませんね」と彼は答えた。そして私との長い会話を避けるかのように、別の方を向いて、ほかの者とどうでもよい話をかわした。
 太陽は今は強く照りだしていたので、婦人たちにはきつかった。うるわしのファニーは、私の知るかぎり、これまでだれも話しかけたことのなかった、灰色の男に、それとなく軽い質問をした。――「もしかしたら、テントをお持ちでない。」男は身に余る光栄とでもいったふうに、深いお辞儀で彼女に答え、すぐにポケットに手を入れた。ポケットからは、布地や、棒や、紐や、金具など、要するにこの上なく華美な娯楽用のテント一式が、出てきたのである。若い紳士たちはテント張りを手伝い、絨毯の上全体が覆われた。しかも、だれ一人そのことを奇怪に思わないのだった。
 私はすでに不気味さを覚えていたが、いや恐怖さえ覚えていたが、次に願いが出されたとき、彼のポケットから三頭の乗馬が、なんとまあ、鞍と馬具のつけられた、三頭の大きくて見事な黒馬が、取り出されるのを見た時には、全く仰天したものである。考えてもごらんなさい、君、すでに紙入れと、望遠鏡と、長さ20歩、幅10歩の、金糸織りの絨毯と、同じ大きさの娯楽用テントと、それに必要な棒や金具一式とが出てきた同じポケットから、鞍のついた三頭の馬ですよ!私が自分の目でそれを見たと保証しなかったならば、きっと君は信用しないことでしょう。
 その男自身が困った様子でへりくだって見えるほど、またほかの者たちが、彼にはほとんど注意をはらわないでいるほど、彼から目を離せないでいた私は、その蒼白い姿がひどく不気味に思われてきて、それ以上彼を見ていることに耐えられなくなってきた。
 私はこの集いから、こっそり抜けだそうと決心した。その中での私の取るに足りない役割から、それは簡単なことに思われたのである。町へ戻って、翌朝ジョン氏を再訪し、あらためて運を試そうと思い、またその勇気が出せたら、あの不思議な灰色の男についても尋ねようと思ったのである。――そんな風に、うまく抜け出すことができていたらよかったのだが!

*訳注1:John Dollond(1706-1761)の発明した色消しレンズを用いた望遠鏡のこと。

 (2)

 実際にバラの森を抜けて、うまくこっそりと岡のすそへ下り、広々とした芝原へ出たときに、私は道をはずれて草地を通っているところを、人に見られはしないかと心配になり、周辺に目をくばった。どんなに驚いたことか、あの灰色の男が私の後をつけ、私の方へやってくるのが見えたのである。彼は私の前へ来ると、すぐさま帽子をとり、これまで誰にもされたことがないほど、深々としたお辞儀をしたのである。疑いなく、私に話があるようなので、それを避けることは、無作法でしかなかった。私もまた帽子をとり、お辞儀を返した。そして日の照るなかで、帽子をぬいだまま、根でも生えたように立ちすくんでいた。私は恐怖にみちた思いで、彼を凝視していた。それは蛇に見こまれた小鳥のようだった。彼自身も、ひどく当惑しているように見えた。彼は視線をおとしたまま、なんどもお辞儀をして、私に近より、物ごいでもする調子で、弱々しいかすかな声で、私に話しかけた。
 「だんな様、まるで面識のないだんな様に、お訊ねするあつかましさを、どうかお許し下さい。あなた様にお願いがあるのでございます。どうかおかなえ下さい――」「しかし、一体全体、あなた!」と私は不安のあまり叫びました。「あなたのような方に、私などが何をできるのです」私たち二人は言葉に詰まって、顔が赤らんだようでした。
 彼は一瞬黙ったのちに、言葉をつぎました。「あなた様の近くにいる光栄によくした短い間に、だんな様、こう申すのも失礼ながら、だんな様の、それはそれは、美しい影をいくたびか目にいたしまして、実に言葉にならないほど感嘆したのでございます。だんな様は日向に立って、ご自身ではお気づきにならず、いわば貴顕のかたが見下すように、素敵な影を足許に、投げ出しておられるのです。あつかましく、だいそれたお願いでございますが、どうかお許し下さい。だんな様の、この影を、わたくしにお譲りくださる、わけにはゆきませんでしょうか」
 彼は黙った。私は頭のなかで水車の回るような思いがした。私の影を買い取るなどという、奇妙な申し出を、どう考えるべきか。彼は気が狂っているにちがいない、と私は考えた。そして彼の声のへりくだった調子に、より相応しく、語調を変えて次のように答えた。
 「ほう、ほう、あんた、ご自分の影だけでは、満足がいかないというわけですか。まったくもって、奇妙なたぐいの取り引きですな」
 彼はすぐさま、返答した。「私はポケットの中に、だんな様にもとても貴重に思われるものを、たくさんもっているのです。このとてもすばらしい影のためならば、どんなに高い値をつけても惜しくはありません。」
 そのポケットのことを思いださせられると、私はふたたび冷や水を浴びる思いがした。
そして彼のことをあんたなどと、ぞんざいに呼ぶことができたのが、われながら不思議だった。私は答える際に、可能なかぎり、この上なく丁重なことばで、それを償おうとした。
 「ですが、だんな様、あなた様のしもべが恐れながら申し上げます。あなた様のお考えが、よく分からないのでございます。そもそもどのようにして、わたくしの影を、――」彼は私の言葉を中断した。「わたくしはただこの場で、この高貴な影を拾いあげ、わたくしの身につけることを、あなた様にお許し願うばかりです。それをどう行うかは、わたくしにおまかせください。それに対する、わたくしのだんな様への感謝のあかしとして、ポケットの中に私がもっている、あらゆる宝物を、だんな様にお選びしてもらいます。本物のマンドラゴラ、アルラウンの根(*訳注1)、戻ってくる硬貨、仲間をつれてくる銀貨(*訳注2)、ロランの小姓のテーブルふきん(*訳注3)、いくらの値でもつけられる刑死者のマンドラゴラ(*訳注1)、などがありますが、おそらくあなた様のお好みではありますまい。それよりも、フォルツナーツスの願い帽子(*訳注4)、新しく、もちの良いように作り直してあります、それと、彼の持っていたような、福袋(*訳注5)があります。」――「フォルツナーツスの福袋ですって」私は彼の言葉をさえぎった。私の不安はとても大きかったにもかかわらず、彼の一言が私の心全体をとらえてしまったのだ。私は目まいを覚えた。目の前にたくさんの金貨がきらきららしていた。
 「だんな様、どうぞこの袋をごらんになって、おためし下さい。」彼はポケットに手を入れ、中くらいの大きさの、コルドバ革でできていて、二つの丈夫な革ひもがついている、しっかり縫った袋を、取り出した。そして当のものを私に手渡した。私は手をつっこみ、金貨十枚をつかみ出した。さらに十枚、さらに十枚、さらに十枚とつかみ出した。私はすばやく彼に手を差しのべ、言った。「いいとも!商談は成立だ。この袋の代わりに、私の影をあげましょう。」彼は手打ちをし、直ちに私の前にかがみこむと、驚くほど巧みに、私の影を頭から足先まで、そっと草地から切りはなし、拾いあげ、丸めてたたみ、最後にポケットに入れた。彼は立ち上がり、もう一度私の前でお辞儀をすると、バラの森へ戻っていった。その時、私には、彼がひそかにほくそえんでいるのが、聞こえたような気がした。しかし私は袋のひもをしっかりと握りしめており、まわりの大地は、日に明るく照らされており、私は相変わらず呆然としたままだった。

(*訳注1)Die echte Springwurzel,die Alraunwurzel:どちらも毒草マンドラゴラの根のこと。根が人の形をしており、魔術に使われる。Galgenmaenlein(刑死者のマンドラゴラ)は、絞首架のもとに生えるとされる特殊なマンドラゴラ。
(*訳注2)Wechselpfennige,Raubtaler:前者は支払っても持ち主のところへ戻ってくる小銭、後者は支払うと、それに触れた貨幣とともに戻ってくる銀貨。
(*訳注3)das Tellertuch von Rolands Knappe:ロランは中世伝説の英雄、テーブルふきんはそれを広げると望みの料理が出てくる。
(*訳注4)Fortunati Wuenschhuetlein:フォルツナーツスは同名の中世ドイツの物語文学の主人公。願い帽とは、どこへでも自在に移動できる帽子。
(*訳注5)ein Gluekssaeckel:フォルツナーツスが所持していた、いくらでも金貨の出てくる袋。



作品名:ペーター・シュレミール――影をなくした人――(1)
原題:Peter Schlemihls wundeasame Geschichte
作者:アーデルバート・フォン・シャミッソー
翻訳:脩海  copyright: shu kai 2019
入力:マリネンコ文学の城・翻訳城
Up:2019・9・13