ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn 1850-1904)


夢の書から

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 夢の書から

 深夜の暗闇の中で、私はよく一冊の本を読んでいることがある。大きな、かさばった本――夢の書。“夢の書”といっても、夢に関する本のことではない。そうではなく、夢のもととなる素材からできあがった本である。
 その本の題名は知らない。著者の名も知らない。まだ表題の頁をのぞきこめたことがないのである。欄外の見出しもついていない。その本の背表紙はどうかというと、あいにく月の裏面と同じように、永久に見えないままだ。
 これまで、その本に少しでも触れたことがない――頁を繰ったこともないのである。いつでも眼に見えない誰かが、その本を捧げていて、闇の中で私の前に拡げる。私がそれを読むことができるのは、どこから来るとも知れない、光がさしているせいだ。その本の上方も下方も両側も、漆黒の暗闇だ。それなのに、頁の上だけは、以前そこを照らした黄色い灯影を、とどめているかのようだ。
 奇妙な事実だが、私は頁上の文字すべてを、一度に見ることができない。頁全体は、はっきり見ることができるのにである。文字は見つめていると、紙面に浮かびあがってくる――そんな風に思える。それで、読み終わると、忽然消え去ってしまう。意志をちょっと働かせるだけで、その消えうせた文章を、紙上に呼び戻すことができる。しかし戻ってきた文章は、前のとは同じものではない。その間に、妙なふうな改訂をこうむってきたようなのだ。一行きりの断片であったものでも、それを最初に読んだとおりに、うまく再現するわけにはいかない。しかし、私はいつでも、なんらかの文章を呼び戻すことができる。その文章は、読んでいる間は鮮明である。そのうち薄墨色になり、濃やかな乳白色に呑みこまれるように、視界の外へと沈みこんでゆく――そう見える。
 覚めるやいなや、夢の書で読んだことを思いだして、書きつけておくよう習慣的に気をつかうことで、昨年来、私はその内容の一部を再現することができるようになった。今ここに発表する、それらの断片の順序は、私が再現した順序とは全く違っている。そこになんらかの、内的関連があるように見えるとすれば、それは私が合理的な配列と考えて、それらを按配したまでのことである。それらの断片の、本来の場所と関連とについては、私はほとんど何も知らない。おまけに、その書物の正体にしてからが、私に発見できた点といえば、その書の大半が“不可思惟者(The Unthinkable)”についての、対話からなっている、ということきりである。

 断章 その一

 ・・・かくて波はとこしえに波たらんことを祈りたり。
 海は答(いら)えぬ、
 “ならじ、なんじ砕けざるべからず。わがうちには休らいなし。億に億を重ねたるあまたたび、なんじはうねりつつ砕け、砕けつつうねるべし。”
 波は歎きぬ、
 “われは懼る。われ再びうねるべしと、なれ言う。されど、かつて砕けし場所より、戻りたる波のありたるや。”
 海は応(いら)えぬ、
 “えもいわれぬ、限りなきあまたたび、なんじは砕けしなり。かくして、なおなんじはあり。見よ、数限りなき波、なんじの前をゆくを。数限りなき波、なんじの跡を追うを。これみなすべて、言語を絶したるあまたたび、砕けしものどもなり。またかの場所へ急ぎて、砕けざるべからず。かれら、わが中へと消えうせて、さて再び波として現わるべし。かれら、消えゆかざるべからず。これ、わがうちには、いかなる休息もなきが故なり。”
 波はつぶやき答えたり、――
 “われは程なくして、これら幾億となき波にうち混じるべく、砕けゆかずや。いかにして、われふたたび興らんや。われふたたび、同じわれなること、あらじ、あらじ。”
 “同じわれなること、なんじ、げになきなり。”海は返しぬ。“なんじ波うつたびごとに、同じからず。とこしえの変化こそ、なんじの存在の法則なれ。なんじの<われ>とは何ものぞ。忘れられし数々の波の実体より、なんじは絶えず形づくられおるを――わがなぎさの真砂にまさりて、数限りなき波より。なんじは多数よりなるものなれば、そもなんじは何ものぞ――幻のごとき、無常の存在なるを!”
 “苦こそ、まざまざとあれ。”波はすすり泣きぬ。“恐れと、希望と、光の喜びもまた。われもし実にあらざれば、これらはいずこより来たりて、何ごとなるか。”
 “なんじは苦をもたざるなり。”海は応えぬ。“恐れも、希望も、喜びもまた。なんじは何ものでもなきなり。ただ、わがうちにのみぞある。われは、なんじの自我にして、なんじの<われ>なり。なんじの形は、わが夢なり。なんじの動きは、わが意志なり。なんじの砕くるは、わが苦なり。なんじ砕けざるべからず。わがうちには、いかなる休息もなきが故なり。されど、なんじ砕くるは、ふたたび興らんがためなり。死こそは、生の循環なればなり。見よ!われもまた、生きんがために死するを。これら、わが波どもは、うねり去り、またうねり来るであろう。無数の輝く太陽のもとで、無数の世界がほろびゆきたるがごとし。われもまた、言語に絶して多重なり。億に億を重ねたる過去の潮が、わが満ち引きとなりて甦るなり。なんじは、かつてありたればこそ、今あり。なんじ今あればこそ、ふたたび生じん。それを知りて、心安んずべし。”
 波はつぶやきぬ、――
 “われは解せず”
 海は答えたり、――
 “なんじが務めは、うねりて去りゆくこと。解せずともよし。われもまた、大いなる海であるわれですら、解することなければ・・・”

 断章 その二

 ・・・“石ども、岩どもは感じたのだ。風は息にして、言葉であったのだ。地上の川や海は、心房に封じこめられた。かくして、宇宙の各粒子が、あたうかぎり高度な生命の、あたうかぎり最高の経験をけみするまでは、輪廻転生は止むことがかなわない。”
 “しかし、惑星の核につてはどうか? それもまた、感じ、思考してきたのか?”
 “あらゆる肉体が、燃える太陽であったのと同様の程度に、まさにそれほど確かなことだ。統合と分解との、数限りない連続において、万物が関係と位置とを、幾億回となく変えてきたのである。滅びた月の心臓が、未来の世界の表層をなすであろう。”

 断章 その三

 ・・・“いかなる悔いも、無駄ではない。悲しみこそが、糸を紡ぐのである。月光よりも柔らかく、香りよりも細く、死よりも強靭な、大いなる記憶の、グレイプニルの鎖である糸を。
 数百万年後に、あなたらは再会するであろう。その時間は、長くは思われまい。百万年と一瞬とは、死者にとっては同じことなのだから。その時、あなたは、今のあなたの、すべてではないだろう。彼女もまた、これまでの彼女の、すべてではないだろう。あなたら二人は、同時により少なくもあり、とてつもなく多くでもあるのだ。その時、あなた方に生じるにちがいない渇望にとって、肉体そのものは、あなたが彼女に、または彼であるかもしれない相手に、心躍らせる時に、越えねばならない障害に過ぎないものと、思われるであろう。なにしろ、性はそれまでに、何度となく転換したことであろうから。あなた方は、ふたりながら思い出すことはなかろう。しかし、それぞれに、かつて出逢ったことがあるという、そこはかとない思いに、満たされるであろう。・・・”

訳注)Gleipnir-chain : 北欧神話において、巨大な狼フェンリルを縛するために作られた絹糸のように細い鎖で、世界の終末(ラグナロク)までフェンリルを縛り続けた。ナグナロクにおいては、鎖を脱したフェンリルは、神々と戦いオーディンを食らう。

 断章 その四

 ・・・“かくして、愛する存在者――たった昨日だけの存在者と、盲目的に思いこまれた存在者を害することで、この嘲弄者は、世界霊の歴史における神的なものを嘲笑う。その時、愛する存在者の胸に、忘れられた墓にうずもれた、幾百万とない悲しみが甦る。時の始まり以来、憎しみとの辛抱づよい闘いをつづけた、愛のすべての古い苦悩が。
 神々は知る――空間の彼方に住み、形相と名との秘儀をつむぎ出す、あのおぼろな者たちは。なんとなれば、神々は生命の根源に座しているゆえ、苦痛は彼らにまで届くのだ。あたかも蜘蛛が、巣のふるえによって、一本の糸の破れを感じとるように、彼らはその悪を感じとるのだ。”

 断章 その五

 ・・・“目で見て恋することは、死者の選択である。しかし、たいていの死者たちは、倫理思想よりも以前の存在である。彼らの大多数の選択は、めったに倫理的ではない。彼らは美によって、すなわち肉体の美点の記憶によって、選ぶのである。そして肉体の健康は、精神と倫理の能力の基礎であるから、彼らは選択を過つことが少ない。とはいえ、時として彼らは、奇妙な錯誤におちいる。魂を決して肉体に宿らせえない者ども――内実の無い妖怪――を、彼らはえてして欲するのであることが、知られている。・・・”

 断章 その六

 “自我をつくる小心な魂どもは、死を分解として恐れるのではない。彼らは死を再統合として――他生の奇怪な厭わしいものとの、再結合として――恐れるのである。つまり彼らは、別の肉体の中で、愛する心と、憎む心とが、牢獄を共にすることを恐れるのだ・・・”

 断章 その七

 ・・・“かつてエル女(El-Woman妖女)は、荒野や寂しい道の傍らにだけ、姿が見られた。しかし今では、都市の薄暗がりで、彼女は若者たちに乳房を与える。彼女に誘惑されるものは、ほどなく気が狂い、彼女と同じぬけ殻となる。若者の気概をなすべき高尚な魂が、かの妖怪のてくだに滅ぼされ、まゆの中でさなぎが死ぬように、殻となって朽ちはてるのである・・・。”

 断章 その八

 ・・・男は、残された魂どもの群れに向かって言った:―― 
 “おれは人生にうんざりしている。”
 残ったものどもは答えた:――
 “われらもまた、このひどい棲みかで、恥辱と苦痛にまみれていることには、うんざりしている。梁が裂けて、柱がひび割れ、屋根が落ちてくるようにと、日頃努めているのだがね。”
 “たしかに、おれの上には呪いがかかっている、”男は呻いた。“神々には正義はないものか!”
 そこで魂どもは、嘲るように、どっと笑った。森の中の木の葉が、風に一斉にそよぐかのようだった。それから彼らは男に答えた:―― 
“あんたは愚か者だな!あんたのひどい肉体をつくったのは、あんたのほかのだれだというのか?それがつくられたのは、というよりも畸形にされたのは、あんた自身の行いや想念以外の、だれのしわざというのか?”
 “おれは何も思い出せない、”男は答えた、“こんな目にあうような、行いも思いもだ。”
 “思い出すなどとはな!”魂どもは笑った。“いや――愚行というのは前世でのことだ。われらは思い出すとも。思い出して、嫌悪するのだ。”
 “あんたらはみな、おれと一体ではないか。”男は叫んだ。“どうして嫌悪などできるのだ。”
 “われらと一体とはな”魂どもは嘲った,――“服を着るものが、服と一体と言えるのか!・・・どうして嫌悪できるのかと?火をおこすものがいて、焚き木につけた火が、焚き木を食らいつくすように、われらもそのように嫌悪できるのだ。”
 “忌まわしい世の中だ!”男は叫んだ。――“なぜあんたらは、おれを導いてくれなかった?”
 魂どもは彼に答えた:――
 “あんたは、われらよりも賢い霊たちの導きを、聞こうともしなかった・・・卑怯者と臆病者は、世の中を呪う。強者は、世の中を咎めだてたりしない。彼らが望むすべてのものを、世界は与えるからだ。力によって、彼らは壊し、取り、保つ。生命は、彼らにとって喜びであり、勝利であり、高揚なのだ。しかし、力のないやからは、何ものにも値しない。何もないことが、彼らの取り分なのだ。あんたもわれらも、まもなく何もないところへ入るだろう。”
 “恐れているのか?”――男は尋ねた。
 “恐れるわけがあるからだ、”魂どもは答えた。“とはいえ、あんたのような存在の一部としてあり続けるよりも、はやく恐れるものが来て欲しいと、われわれ皆が願っている。”
 “それでは、あんたらは幾度となく死んできたというのか?”――男は不思議に思って訊いた。
 “いいや、そうではない、”魂どもは言った。――“そうした記憶は一度たりともない。われらの記憶は、この世の発端にまでさかのぼる。われらが死ぬのは、人類が死ぬ時だ。”
 男は黙った、――恐れたのだ。魂どもは、ふたたび語りだした:――
 “人類は終わる。その存続は、われらの目的に奉仕すべき、あんたの力にかかっている。あんたはすべての力を失ってしまった。あんたは、ただの納骨堂であり、墓穴でしかないではないか。自由と広がりを、われらは求めた。われらは狭苦しくここに押し込められ、厖大であるべきものが、針の先ほどに小さくされている。われらの部屋には扉がなく、目も利かない。通路はふさがれ、壊されている。階段はどこへも行きつかない。またここには幽霊たちがおり、われらが仲間ではなく、名づけようもないやからだ。”
 男はしばし、死と滅びについて、ありがたく思った。しかし突然に、彼の仇の顔が、記憶に浮かびでて、邪悪な笑みをたたえていた。すると彼は、もっと長く生きたいと、百年ものあいだ生きて苦しみたいと、ただ仇の墓の上に草がしげるのを見たいと、願っていた。魂どもは、彼の願いをあざ笑った:――
 “あんたの仇は、あんたのことなぞを、たいして気にかけていないよ。彼は、あんたの仇は、中途半端な人間ではないからな。彼の肉体に宿る霊魂は、広々として、光あふれるところにいる。その棲家の天井は高く、通路も広く明るく、庭は光りかがやき、清潔だ。あんたの仇の頭脳は、よく守備された要塞のようであり、そのどの方面も、戦いにのぞんで、守備兵がたちまちに招集されるのだ。彼の子孫は絶えるまい。――それどころか、彼のあの顔は数世紀にわたって殖えつづけるだろう!あんたの仇は、いつでも彼のより高い霊魂の要求に応え、その忠告に注意を払い、彼らをいつでも正しい仕方で喜ばせたのだからだ。彼らに敬意を払うことをおこたらなかったのだ。だからこそ、彼らは今では、彼が求める時に、彼を助ける力を発揮するのだ。・・・あんたは、われらに敬意を払ったり、喜ばせたりしたことがあったろうか?”

 男はしばらく黙りこくった。それから、突然の疑惑に襲われたように、彼は尋ねた。
 “あなた方は、なぜ恐れることがあるのか――終わりには何もないというのに。”
 “何もないとはなんであるか?”魂どもは答えた。“ただ言葉に眩惑されて、終わりというものがあるのだ。あんたが終わりと呼ぶものは、じつは始まりそのものなのだ。われらの本質をなすものは、終わることがない。諸世界が火と燃えても、それは焼きつくされることはない。それは巨星の核において震えるだろう。ほかの太陽どもの、光の中で脈うつだろう。そしてふたたび、未来のどこかの宇宙で、知識を取りもどすことだろう。だれにも思い浮かばないほどの、たびたびの進化を遂げた後のことなのであるが。最初の名もない形相の中から、そこよりさらに、あらゆる絶滅した生き物のサイクルを通して、浪費されたあらゆる苦痛の連続を通して、過去のあらゆる深淵を越えて、それはふたたび昇らねばならない。”
 男は黙ったままでいた。魂どもは語りつづけた:――
 “いく百万年となく、われらは火の嵐の中で震えねばならない。それからわれらは、新たに原初の泥の中にはいるだろう。 そこで胎動し、ふたたびあらゆる口も利けない、目も見えない、汚らしい形のものとなって、のたうちながら上昇するだろう。数限りない変身を遂げるのだ!――数限りない苦痛と共に!・・・その過誤は、神々のものではない。それはあんたのものだ!”
 “善にせよ、悪にせよ”男はつぶやいた,−―“それがなんの意味がある?最善のものが、終わりない変化に砕かれて、最悪のものとならざるをえないならば。”
 “いやちがう!”魂どもは叫んだ。“強者には目標がある。あんたが努めて達しようとはしなかった目標が。彼らは、よりよい世界を作ることに手をかそうとし、より広大な光を得ようとし、炎となって燃え立ち、神の領域に昇ろうとするのだ。しかし、あんたとわれらは、泥土へともどるのだ。われらのためにありえたかもしれない、十億もの夏を思ってもみよ。打ちすてられた、数多くの喜びと愛と勝利を、思ってもみよ。夢にさえ知られない知識のあけぼのを、想像だにされない感覚の輝かしさを、限りない力の高揚を!・・・思ってもみよ、思ってもみよ、ばか者よ、あんたが失ったすべてのものを!”
 そして、男の魂どもは蛆虫に姿を変え、男をむさぼり食った。



作品名:夢の書から
原題:Readings from a Dream-book  (from Shadowings)
作者:ラフカディオ・ハーン
翻訳者:脩海 copyright: shy kai 2025
入力:マリネンコ文学の城・翻訳城
Up:2025・2・14