フリードリヒ・ゲルシュテッカー (1816−1872)
ゲルメルスハウゼン ―幻の村―
フリードリヒ・ゲルシュテッカー(Friedrich Gerstecker)は、19世紀のドイツの作家。ハンブルクに生まれ、農業を学んだあと、1837年に北米に渡る。さまざまな仕事についた後に、故国へ帰り、その体験をもとに、アメリカを舞台にした作品を書き、成功する。その後、世界中を旅して回り、多くの体験に基づく作品を書き、冒険小説作家として、知られるようになる。「ゲルメルスハウゼン」は、ドイツの山地をさすらう若者を主人公とした、伝説的な村の物語である。 |
異界への招待 ゲルメルスハウゼン ―幻の村― フリードリヒ・ゲルシュテッカー作 1848年の秋のこと、ある快活な若者が、背に背嚢をおい、手に杖をとって、マリスフェルトからヴィヒテルハウゼンに向かう街道を、悠然と歩いていた。 彼は町から町へと、仕事を求めて遍歴する、手職人ではなかった。それは一目で見てとれた。背嚢に取りつけられた、小さな、こぎれいに作られた、革の紙ばさみからも、すでにそれと知れた。どう否みようもなく、彼は芸術家に見えた。いきに一方に傾けた、黒いつば広の帽子、長い巻き毛の金髪、やわらかで、まだ若々しいが、豊かな一面の髯、どれもそう思わせた。ややくたびれた黒ビロードの上着は、暖かな朝なので、少々暑げであったが、それもそう思わせた。彼は上着のボタンを外していたので、その下の、チョッキを着ていない白シャツは、黒絹の布で、首の回りにゆるく巻きとめられていた。 マリスフェルトから15分ほど歩いた頃、その地の教会の鐘がなった。彼は立ちどまって、杖に身をもたせ、すばらしく響きわたってくる、豊かな鐘の音に聴きいった。 鐘の音はとっくに鳴り止んだが、彼はまだそこに立ちつくしたままで、夢見るように、山の斜面を見上げていた。彼の想いは故郷の家族のもとに、タウヌス山脈(*)のふもとの、穏やかな小村の、母や姉妹たちのもとにあった。彼の目から、一粒の涙がこぼれそうになった。しかし彼の快活な心は、憂鬱な思いをおしとどめた。彼は帽子を取り、心からの笑みでもって、故里のある方向に挨拶を送ったのみであった。そして、よりしっかりと太い杖を握りしめ、もとのとおりに、街道を元気よく歩んでいった。 (*)ドイツ南西部の、フランクフルト・アム・マインの近くにある山地。 そのうちに、日差しはかなり暑くなってきて、広い、単調な街道を照らしつけ、道には埃が、厚いかたまりとなって積っていた。さすらい人は、もうかなりの間を、右や左に目をくばって、もっと歩きよさそうな道が見つからないか、探していた。 いちど右手へ折れる道があったが、さしてよい道とも思われず、またゆく方向とは離れすぎていた。それで、しばらくはもとの道を歩きつづけると、小さな山川に出合った。そこには小さな、崩れた石橋があるのが目にはいった。その向うには草の道があって、谷底へつづいていた。特にこれといった目的地があったわけではなく、美しいヴェッラ川(*)の谷間へでもゆき、画帳に描こうと思っていたので、彼は足をぬらすこともなく、いくつかの大きな石の上を飛びわたり、川をこえて、向かいの短く刈り込まれた草地にたっした。そして、はずむ草の上を、よい道を見つけて上機嫌になり、よく茂ったハンノキの木蔭を、足早に歩んでいった。 (*)ドイツ南部の山地に発し、北へ流れて、ヴェーザー川と合流し、北海へ注ぐ川。 「ちょうどうまいことに」と彼はひとりでほくそえんだ。「どこへ行くという当てもないうえに、ここには退屈な道標がない。どこそこまで何時間かかるとか、次の村はなんという名かとか、しかも、いつでも距離がでたらめだ。ここの人たちが、時間をどう計っているのか、知れたもんではないな。この谷底は、不思議と静かだ。もちろん、日曜日には、農民たちは戸外ですることなどはない。平日には鋤をおしたり、荷車のわきを走ったりしているのだから、日曜日には散歩など、たいして考えもしまい。午前には教会で、ぐっすり寝入っていることだろうし、昼食後には、料理屋のテーブルの下へ、脚を伸ばしていることだろう。料理屋のテーブルか――ふむ、この暑さだから、一杯ビールといくのも、悪くはないな。しかしその前に、とりあえずこの清流で渇きをいやそう。」――そこで彼は背嚢を投げ下ろし、帽子をぬぎ、水際までおりて、心ゆくまで飲んだ。 ふたたび立ち上がると、奇妙なふうにくっつきあった柳の古木が目にはいった。彼はすばやく、慣れた手つきでスケッチした。それから、渇きもいやされ、十分に休んだので、軽い背嚢をふたたび背にして、どこへ道がゆきつこうとおかまいなしに、歩みつづけた。 一時間ほど歩いたであろうか、あちらこちらの岩塊や、ふうがわりなハンノキの茂み、あるいはこぶだらけの槲(かしわ)の枝を、画帳にスケッチした。太陽は、だんだんに高く昇っていた。悪くても次の村で昼食がとれるように、頑張って歩こうと、彼は心を決めた。その時、谷底の川沿いの、以前聖者の像が立っていたのであろう、古い石の上に、ひとりの農民の女が座って、彼の来た道のほうを見おろしているのに気づいた。 ハンノキに覆われていたので、彼は、彼女が彼を見るよりも先に、彼女を見ることができた。しかし彼が、川沿いに歩きながら、それまで姿を見えなくしていた茂みから出るや否や、彼女はつと立ち上がり、嬉しげな叫びをあげて、彼の方へ急いでやってきた。 アルノルトは、それが若い画家の名であったが、びっくりして立ちどまった。彼女は絵に描いたような美しさの、17になるかならぬかの年頃の娘であった。まるでふうがわりな、とはいえよく似合っている農民の服を着ていて、両腕を伸ばしながら、彼の方へ走りよってきた。アルノルトはすぐさま、彼女がだれかと勘違いしていることが分かった。彼女もまた見知らぬ男であることが分かり、驚いて立ちどまると、まず青さめ、ついで顔じゅう真っ赤になった。そして最後に、おずおずと、当惑しながら言った。「ご免なさいまし、見知らぬだんな様・・・私は・・・私は・・・思いちがいして・・・」 「きみの恋人と思ったのでしょう、ね娘さん。」若者は笑って言った。「そして、きみのご機嫌をそこねてしまった。ほかの、見知らぬ、どうでもよい男が、道に現われたのでね。私がお目当てではなくて、腹を立てないでください。」 「ああ、なんというおっしゃり方でしょう。」彼女は不安げにささやいた。「腹を立てるなんて――でもあなたがご存知でしたら、私がどんなに楽しみに待っていたかということを・・・」 「それなら、彼は、きみがこれ以上待つことに値しない男ですよ。」今ようやく、この素朴な農民の子の、まことに驚嘆すべき優美さに気がついて、アルノルトはそう言った。「もし私が彼の立場なら、きみを一分も待たせはしないでしょう。」 「なんというおっしゃり方」娘は恥ずかしげに言った。「彼は来るかもしれないのに、きっともう、すぐそこにいるかもしれないのに。もしかしたら病気なのかも、――ひょっとして――死んでしまったのかも。」彼女は深いため息をつきながら、おもむろに付け足した。 「彼はそんなに長く、たよりがないのですか。」アルノルトは当惑して訊いた。 「本当に、本当に長い間、ないのです。」 「それでは彼は、この村から遠いところに住んでいるとでも?」 「遠いかですって?ええそうです、この村からとても離れたところ、」娘は答えた。「ビショッフスローダです。」 「ビショッフスローダですか!」アルノルトは叫んだ。「そこで四週間ほど暮していました。その村の人なら、みな知っていますよ。彼はなんという名ですか。」 「ハインリヒ――ハインリヒ・フォルグートです。」娘は恥ずかしげに言った。「ビショッフスローダの村長の息子です。」 「フーム」アルノルトはうなった。「村長の家なら、出入りしていましたよ。でも、村長の名は、私の知るかぎり、ボイエリングであり、フォルグートという名は、村中で聞いたことがありません。」 「あなたはたぶん、村中の人をご存知ではないのでしょう。」娘は主張した。そして愛らしい顔の上にうかべた悲しげな表情には、わけありげな、かすかな笑みが忍びいって、それは憂鬱よりも、彼女にはいっそう似合っていた。 「しかし、ビショッフスローダからは」と若い画家は言った。「山を越えて、二時間か、三時間もあれば、やって来れるでしょう。」 「でも、彼は来ていません。」彼女はまた、深いため息をついて答えた。「あれほど堅く約束したというのに。」 「それなら彼は必ず来ますよ。」アルノルトは誠実に保証した。「きみみたいな娘(こ)に、いちど約束したからには、もし約束を破ったりなどしたら、石のような心の持主だよ。きみのハインリヒは、そんな心の持主ではないはずだ。」 「そうですとも。」彼女は答えた。「でも、これ以上彼を待ってはいられないの。お昼には家に帰らないと。お父さまにしかられるわ。」 「きみの家はどこにあるの。」 「ちょうど谷底の、あちら。鐘の音が聞こえません?ちょうど礼拝が終わるところですわ。」 アルノルトは聞き耳をたてた。たいして遠くないところに、ゆったりと鐘の鳴る音が聞きとれた。しかし、たっぷりとした深い音ではなく、かん高く、調子外れに響いていた。じっとその方を見ていると、谷のその辺りには、濃い煙霧が覆っているようにも思われた。 「あなた方の鐘は、ひびが入っていますね。」彼は笑って言った。「音が変です。」 「はい、私も知っています。」娘は平然と答えた。「きれいに鳴らないのです。とっくに鋳なおさなければいけなかったのですが、そうするには、いつもお金も時間もないものですから。このあたりには、鐘を鋳る人もおりませんし。でも、それはたいしたことではありません。私たちはこの鐘になじんでいて、どういう時に鳴るかを知っていますし、ひびの入った鐘でも十分役立ちます。」 「それで、きみの村の名はなんていうの。」 「ゲルメルスハウゼンですわ。」 「そこからヴィヒテルハウゼンまで、行くことができるの。」 「すぐですわ――そこへ越えていく道は、歩いて30分もかかりません。元気にお歩きなら、もっとかからないでしょう。」 「それなら一緒に行って、きみの村を通ろう。村によい料理屋があれば、そこで昼を食べることにして。」 「とてもよすぎる料理屋がありますわ。」娘はため息をついて、待ち受けた男がまだ来るかもしれないと、ふりむきながら答えた。 「料理屋が、とてもよすぎるとは、どういうこと。」 「農民にとってはです――はい。」娘は彼のそばを、ゆっくりと歩きだしながら、生まじめに答えた。「農民は、仕事を終えて晩になっても、まだ家ですることがたくさんあります。夜遅くまで、料理店ですごすと、それがなおざりになりますから」 「でも私としては、今日はもう何もすることがないんだ。」 「ええ、町の殿方には、別ですとも――働く必要もなく、なおざりにすることも、たいしてないでしょう。農民たちが、パンのお世話をしているのですから。」 「まあ、耕すわけにはいかないのだが、」アルノルトは笑って答えた。「われわれもパンは、みずからかちとらねばならない。しかも、たびたびつらい目にあってね。なにしろ、農民たちは作ったものを、高い値で売るからね。」 「でも、あなたは働いていませんわ。」 「どうして、そう思う?」 「あなたの両手は、働いているように見えませんもの。」 「それなら、私がどうやって仕事をするかを、いますぐ証明してみせよう。」アルノルトは言った。「そこの大きなニワトコの茂みの下に、ひらたい石があるから、座ってごらん。」 「でも、なにをすればいいの?」 「そこに座っているだけでいいよ。」若い画家は、背嚢を投げおろし、画帳と鉛筆を取り出しながら、大声を出した。 「でも、家に帰らなければいけないの!」 「15分で仕上がるから。きみの思い出を一緒にもって帰りたいのさ。きみのハインリヒも、きっと文句は言うまいさ。」 「私の思い出ですって。なんてご冗談をおっしゃるの。」 「きみの似顔絵を、もって帰りたいのだよ。」 「あなたは――画家なの?」 「そうさ。」 「それは好都合だわ。」彼女は小声で言った。「それならゲルメルスハウゼンで、教会の絵を、新しく描きなおすことができるわね。どれもとてもひどくいたんで、見るにたえないの。」 「きみの名は、なんていうの。」すでに画帳を開いて、娘の愛らしい顔立ちを、すばやく描いていたアルノルトは、尋ねた。 「ゲルトルートよ。」 「きみのお父さんは、なにをしているの。」 「村長よ。あなたが画家なら、料理屋にいかれる必要はないわ。一緒に家に来てくださればいいの。食事のあとで、お父様とお話しして。」 「教会の絵についてかい。」アルノルトは笑って言った。 「はい、もちろんです。」娘はまじめに言った。「そして、あなたは私たちのところに、いなければならないでしょう。とても、とても長く、予定の日が来て、絵が仕上がるまでです。」 「まあ、それについてはあとで話そうよ、ゲルトルート。」若者は言った。「ところで、きみのハインリヒは怒らないかい。きみの家にたびたびいて、きみとたくさんおしゃべりをしたりして。」 「あのハインリヒのこと?」娘は答えた。「彼はもう来ないわ。」 「今日はたぶんね。しかし、明日来るかもしれない。」 「いいえ、」ゲルトルートは落ちついて言った。「11時までに来なかったので、またいつか私たちの予定の日になるまでは、彼はやってこれないのです。」 「きみたちの予定の日だって?それはどういう意味だい。」 彼女は大きく眼を見開いて、彼を見つめた。しかし彼の問いに答えなかった。そして彼女の視線が、頭上高く流れる雲に注がれているあいだ、彼は自身の痛いような憂愁の思いを、雲に寄せていた。 ゲルトルートは、この瞬間、じつに天使のように美しかった。アルノルトは、絵の完成に熱中して、ほかのすべてを忘れた。 もはや多くの時間が残されていなかった。娘はふいに立ち上がり、頭の上に布をかぶせ、陽差しを防いでから言った。「もう行かなければなりません。日は短いし、家ではみなが待っていますから。」 アルノルトは彼の小さな絵を、すでに仕上げていた。衣裳の襞とりに二、三手をくわえてから、彼女に絵をかかげ見せて、言った。 「きみにそっくりかい?」 「これが、わたしですって?」ほとんど仰天して、彼女は叫んだ。 「まあね、ほかのだれというのかね。」アルノルトは笑った。 「それで、この絵をあなたは持っていて、もち帰るつもりなのですね。」彼女はおずおずと尋ねた。 「もちろん、そのつもりだよ。」若者は大声を出した。「そして、ここから遠く、遠く離れたところにいても、何度でも君のことを、せっせと思い出すつもりだよ。」 「でも、私のお父さまが、いやがらないかしら。」 「きみのことを、私が思うことをかい?私がそうすることを、邪魔するとでも言うのかい。」 「いいえ――そうではなくて――あなたがその絵を持って、世の中にもどることなの。」 「それはお父さんでも、邪魔できまいよ、ねえきみ。」アルノルトは親しげに言った。「でもきみは、この絵が私の手もとにあるのが、いやなのではあるまいね。」 「私がですって?――いいえ。」ちょっと考えてから、娘は答えた。「もし・・・ちがいます・・・でもお父さまにそのことは、訊いてみなければなりません。」 「きみは、おばかさんですね。」若い画家は笑った。「お姫さまだって、画家が肖像を手もとにおくことに、反対はしないでしょう。そうしても、きみになんの害も起こりはしないのに。ああ、そんなに速く走らないで、おてんばさん。わたしも一緒に行くから――それとも、私を昼食なしで、ここに置きざりにするつもりかい。教会の絵のことは忘れたのかい?」 「そう、教会の絵でしたね。」娘は立ちどまって、彼を待ちながら言った。アルノルトは、すでに画帳をすばやく結びなおしていたので、すぐさま彼女のそばにいた。二人は村へ向かって、道を急いだ。 村はアルノルトが、ひびの入った鐘の音から推測したよりは、近くにあった。というのは、若者が遠くからハンノキの森と見ていたものは、近づいてみると、生垣に囲まれた果樹園であって、そのすぐ背後に隠れて、北から北東にかけて、広い畑に囲まれた、古い村が、低い教会の塔と煙で黒ずんだ家々が、見えてきたからである。村にはいると、両側に果樹の植えられた、よく舗装された道に出た。しかし、村の上空には、先ほどアルノルトが遠くから見た、薄暗い煙霧がおおっていて、明るい陽差しをさえぎり、黄色っぽい、異様な輝きが、古びた、灰色の、風雨にいたんだ屋根の上を、照らしていた。しかしアルノルトは、それらすべてを一瞥したに過ぎなかった。並んで歩いていたゲルトルートは、最初の家々に近づくと、彼の手をそっとにぎって、次の通りへ曲がったからである。 温かな手に触れられたことによって、この生気にみちた若者は、不思議な感覚に身をふるわせた。思わず、彼のまなこは、娘のまなこをさぐっていた。しかしゲルトルートは、彼のほうを見上げようとはせず、しおらしくうつむきながら、客を父の家に案内していた。アルノルトの注意は、出あった村人たちによってそらされた。彼らはみな、黙って通りすぎて、彼に挨拶をしなかった。 それは奇妙に思われた。近隣の村々では、よそ者に対して、せめて「こんにちは」とか「お気をつけて」とか言わなければ、無作法とみなされかねないからである。この村では、だれもそのような配慮をしない。しかも、まるで都会にいるように、人々は黙って、無関心にすれ違うか、あちらこちらに立ちつくして、二人の方を見ている。彼らに話しかける者が、だれもいないのだ。娘に対してさえ、だれも挨拶しない。 とがった、彫刻のほどこされた破風と、風雨に晒された固いわら屋根の、古い家々は、なんとも奇異に思われた。日曜日ではあったが、どの窓もきれいに磨かれてはいなかった。鉛の枠にはまった丸窓の硝子は、どんよりと、曇って見え、その表面は虹色に映えていた。行く道のところどころで、窓の扉があいて、親しげな娘の顔や、上品な老婦人の顔が、外をうかがった。また人々の奇妙な衣裳が、アルノルトの目にとまった。近隣の村のそれとは、すっかり違っていた。この村のどこも、ほとんど声というもののない、静けさにつつまれていた。その沈黙が苦痛になってきたアルノルトは、同行の娘に尋ねた。「きみたちの村では、日曜日はこんなに厳格に過ごすのかい。村人は、互いに出あっても、挨拶一つしないではないか。ときどき、犬が吠えたり、雄鶏が鳴いたりしなかったなら、村中が死んでしまって、声も出せないと思うではないか。」 「お昼時ですから。」ゲルトルートは平然と答えた。「だれもしゃべりたがらないのです。今晩になれば、そのぶんだけ、彼らはおしゃべりになります。」 「ありがたい!」アルノルトは大声をだした。「やれやれ、あそこに、道で遊んでいる子供たちがいる。まったく、不気味な気持になりだしていたところだ。ビショフスローダでは、日曜日は、まったく違ったふうに祝うからね。」 「あれが私の父の家です。」ゲルトルートは小声で言った。 「きみの父の家には」とアルノルトは笑って言った。「お昼時に、突然お邪魔するわけにはいくまい。きみのお父さんには、都合が悪いかもしれない。親切な人に囲まれて、食事がしたいからね。ねえ、きみ、それよりも料理屋を教えておくれ。または自分でさがすことにするよ。ゲルメルスハウゼンも、ほかの村とは例外ではあるまい。教会のすぐそばには、たいてい居酒屋があって、教会の塔へ向かいさえすれば、まず間違いないからね。」 「あなたのおっしゃるとおりですわ。私たちの村でも、そうです。」ゲルトルートは穏やかに言った。「でも、家ではもう私たちを待っています。あなたを、いやいや迎えるなどという、ご心配にはおよびません。」 「私たちを待っているって? きみとハインリヒのことかい。それなら、ゲルトルート、もし、きみが今日、私を彼の代理にするつもりなら、きみのもとにとどまってもいいとも。――きみ自身が、私に立ち去るように命じるまではね。」彼は、ほとんど我知らず、真心のこもった声で、最後の文句を発していた。そう言いながら、これまで彼の手をにぎったままでいた、彼女の手に、そっと力をこめた。するとゲルトルートは、突然立ちどまって、目を大きく見開いて、彼を見つめ、言った。「あなた、本当にそうしてよいの?」 「喜んでそうするとも。」娘のこの上ない美しさに心奪われて、若い画家は叫んだ。 ゲルトルートは、それ以上なにも答えずに、同行者の言葉を熟慮するかの様子で、歩みをすすめ、背高い家の前に来ると、立ちどまった。鉄の手すりで護られた、広い石段が、その家の前にあった。彼女はもとの、ずっと控えめな、恥じらうような声で言った。「ここに住んでいますの、だんなさま。よろしければ、いっしょにお上がりになって、父のところへまいりましょう。あなたを食卓に招くことを、誇りに思うことでしょう。」 アルノルトがそれに答える間もなく、石段の上のドアが開いて、村長が現われた。そして窓の一つが開いて、人のよさそうな老婦人の頭が出て、彼を見下ろし、うなずくと、村長は叫んだ。「ああ、ゲルトルート、今日はずいぶん長く外にいたなあ。まあ、見てみな、見てみな、なんていきな若者を、彼女はつれてきたことだろう。」 「親愛なる村長殿」アルノルトは言いかけた。 「まあ、石段でのご挨拶は抜きにして、――お入りなさい。肉団子ができている。でないと、冷めて、固くなってしまう。」 「ハインリヒではないわ。」老婦人は窓から叫んだ。「だから、彼はもう来ないと、いつも言ってなかったかしら。」 「わかったよ、母さん、わかったとも!」村長は言った。「この方でもよろしいのだ。」そして、よその者に手を差しのべながら、つづけた。「ゲルメルスハウゼンにようこそ、若いお方。娘がどこであなたを見初めたにしてもです。さあ、中へ入って食事をなさるとよい。心ゆくまで、自由にお食べなさい。ほかの話は、一切あとにしましょう。」彼は若者に、言い訳をするひまを与えなかった。ゲルトルートが離した手をにぎり、荒々しく握手し、彼が石段に足を乗せるやいなや、親しげに彼の腕の下をとって、広々とした居間へとみちびいた。 家の中には、湿った、土くさい空気がこもっていた。ドイツの農民は、好んで部屋の中に新鮮な空気が入らないようにし、夏でさえも、丁度よい熱で肉が焼けるように、部屋を暑くすることが珍しくない。アルノルトは、そうした彼らの習慣をよく知っていたが、それにしてもこの家は、何日も、何週間も、空気をとおしていないことが、明らかに分かった。同様に、せまい玄関ホールは、感じのよいものではなかった。壁からは石灰がはがれ落ちていて、ひとまず掃き寄せられただけのように見えた。奥にある、ただ一つの曇った窓は、かろうじて、わずかな光を通すだけであった。上の階に通じる階段は、古びて、崩れているように見えた。 しかし、それらすべてを観察するには、わずかな時間しかなかった。つぎの瞬間には、愛想のよい主人が、居間の扉を開けていた。アルノルトは、天井は高くないが、幅広く、奥行きのある部屋に入った。その部屋は新鮮な空気をとおしてあり、白い砂がまかれ、真中には、雪のように白い布で覆われた、大きいテーブルが置かれていて、家のそのほかの、ややすさんだ造りとは対照的な、好ましさを見せていた。 ちょうど窓を閉めて、椅子をテーブルに動かしてた、老婦人のほかには、隅のほうに赤い頬をした子供たちが二、三人座っていた。そして、やはり近隣の村人とはまったく違った衣裳の、体格のよい農家の主婦が、大きな鉢を持って入ってくるメードに、扉を開けているところであった。すぐさまテーブルの上で、肉団子が湯気を上げていた。みなが、それぞれの椅子に殺到した。しかし、だれも座らずにいた。子供たちは、ほとんどおびえた眼で、父親を見ているように、アルノルトには思われた。 父親は椅子に近づき、腕をのせて寄りかかったまま、動かずに、黙って、まるでふきげんに、手前を見つめていた。祈っているのだろうか。アルノルトが見たところ、彼は唇を固くむすんだままで、彼の右の手は握りしめられ、脇にだらりとたれていた。この振る舞いは、祈っているのではなく、かたくなな、しかし迷いのある強情さであった。 ゲルトルートはそっと父親に近づき、手をその肩においた。老婦人は、黙ったままで、不安そうな、懇願するような眼差しを、彼に向けた。 すると、「食べようではないか!」父親は荒々しく言った。「どうにもならないからな。」そして彼の椅子を脇にのけ、客ににうなずくと、みずからかがみこみ、大きなお玉をつかみ、みなに食事を出した。 アルノルトには、この男の振る舞いすべてが、ほとんど不気味に思われた。ほかの者たちの、おし黙った気分につられて、彼もまた気持が落ちつかなかった。しかし村長は、昼食を不機嫌に食べるような男ではなかった。彼がテーブルを叩くと、メードがまた、壜とグラスをたずさえて現われ、彼が年代ものの貴重なワインを注いでまわると、食卓を囲むものたちの間には、がらりと生気がよみがえってきた。 アルノルトの血管に、そのすばらしい飲物は、とろけた火のようにめぐった。これまで、これほどのワインを味わったことがなかった。ゲルトルートもそれを味わい、また老婦人も。彼女は、そのあと隅にある紡ぎ車のそばに座り、低い声で、ゲルメルスハウゼン村の陽気な暮らしぶりを、小唄にして歌った。村長自身が、別人になったようだった。先ほどまで、生まじめで、言葉すくなであった彼は、いまは快活に、上機嫌になっていた。アルノルトもまた、この貴重なワインの影響をまぬがれなかった。一体どうしてそうなったのか、アルノルトは、はっきり思い出せなかったが、村長は手にヴァイオリンを持っており、陽気なダンス曲を弾いていた。アルノルトは、美しいゲルトルートを腕に抱き、部屋中をあまり勢いよく踊ってまわったので、紡ぎ車や椅子をひっくりかえしてしまい、紡ぎ車を運び出そうとしたメードに、ぶつかってしまった。そのほか、あらゆる滑稽なことをしでかしたので、ほかの者たちは笑いころげた。 突然、部屋の中が静まりかえった。アルノルトが驚いて、村長の方をふりむくと、彼はヴァイオリンの弓で窓のほうを差し、楽器をまた、まえに取り出した大きな木の箱にしまった。アルノルトが見ると、窓の外の通りに、棺(ひつぎ)が運ばれていくところであった。 白シャツを着た六人の男が、棺を肩の上にかついで、うしろには、ただ一人の老人が、ブロンドの髪の少女の手をとって、歩いていた。老人はいかにも弱々しく、通りを歩いていたが、まだ四歳になるかならぬかの少女は、暗い棺の中にだれが納められているのか、まだ知ってはいなかったろう。知った顔に出合うたびに、にこにこと会釈した。数匹の犬が走りすぎて、一匹が学校の前の階段にぶつかって、ころげた時には、明るく大声に笑った。 棺が見えている間だけ、沈黙がつづいた。ゲルトルートは若い画家のそばに来て、言った。「すこし休憩なさったら。あなたは、ひと騒ぎなさったのですから。そうしないと、強いワインが、どんどん頭にのぼってきます。さあ、帽子を取っていらして。すこし散歩をしましょうよ。もどる頃には、料理屋へいく時間になっているでしょう。今晩はダンスがあるの。」 「ダンスだって、それはいいね。」アルノルトは上機嫌に叫んだ。「ちょうどよい折に来たものだ。きみは私と最初に踊ってくれる、ゲルトルート。」 「もちろんよ、あなたさえよければ。」 アルノルトはすでに、帽子と画帳を手にしていた。 「その帳面は、どうするのかね。」村長は尋ねた。 「彼は絵かきなの、お父さま。」ゲルトルートは言った。 「彼はもう、私の肖像画を描いてくれたわ。ちょっとそれを見てくださいません。」 アルノルトは画帳を開いて、その絵を父親の前にかかげた。 村長はしばらく黙りこんで、その絵を見ていた。 「それで、あなたはこの絵を家にもち帰り、」彼はやっと言った。「たぶん額縁に入れて、部屋にかざるおつもりか。」 「そうしては、いけないのですか。」 「そうしてよいでしょう、お父さま?」ゲルトルートは尋ねた。 「彼がわれわれのところにいないのなら、」と村長は笑って言った、「そうしてもかまわないが、――しかし、そうするには、してもらわねばならないことがある。」 「なんでしょうか?」 「葬列を前のほうに、その絵に書き加えてもらいたい。そうすれば、あなたはその絵を持っていってもよい。」 「しかし、ゲルトルートに葬列ですか。」 「この絵には、まだ充分に空いたところがある。」村長はかたくなに言った。「葬列を絵にくわえてもらいたい。そうでなければ、私は好かないね。私の娘の顔だけを、あなたが持っていくのは。そんなふうな重々しい連れがあれば、この絵について、浮ついたことを考えるものはおるまい。」 アルノルトは、このうるわしい娘に、名誉の護衛として、葬列をともなわせるという、奇妙な提案に、笑って頭を横に振った。村長はしかし、今やその病的な考えに取りつかれているようだった。そこで彼を安心させるために、アルノルトは、彼の意に従った。あとで彼は、その陰鬱な添えものを、簡単に消し去ることができるだろうから。 彼は熟練した手さばきで、たった今通りすぎた、記憶に残っているかぎりの人物たちを、画帳に描きそえた。家族はみな、彼のまわりに群がって、すばやい描きぶりを、驚きを隠さずに見ていた。 「うまく描けたでしょうか。」アルノルトは、椅子から勢いよく立ち上がって、絵を両腕で前にさしだしながら、大声で言った。 「すばらしい!」村長はうなずいた。「あなたがこんなに早く、描きあげるなどとは、夢にも思わなかった。それでけっこうです。では、娘と一緒に外出なさって、村の見物もしておくとよいでしょう。――また見るということは、すぐにはないでしょうから。――五時までには、ここに戻ってらっしゃい。今晩は、お祝いごとをするのですからな。あなたも、いなければいけませんよ。」 アルノルト自身も、ワインが頭に残り、湿っぽい部屋の中が、息苦しくなってきたので、戸外へ出たいと思っていた。数分後には、彼は美しいゲルトルートと並んで、村をぬける大通りを歩いていた。 今は先ほどのように、通りは静まりかえってはいなかった。子供たちは道で遊んでいたし、年寄りたちは、あちらこちらの扉の前に座って、彼らのほうを見ていた。もし屋根の上を雲のように覆っている、厚い褐色じみた煙を、日光がつらぬくことができたなら、この古風な、変わった建物の村全体が、気持ちのよい印象を与えたことであろう。 「この辺には、野火とか、森林火災とかがあるのかい。」画家は娘に尋ねた。「このような煙は、ほかの村々にはないし、煙突からのものではありえない。」 「これは地中からの煙です。」ゲルトルートは平然と答えた。「あなたはゲルメルスハウゼン村について、一度も噂を聞いたとがないのですか。」 「一度もないね。」 「それは不思議です。この村は、とても、とても古くからあるのですから。」 「家々は、少なくとも、そのように見えるね。それに村人も、みなひどく変わった振る舞いかただし、きみたちのしゃべり方も、近くの村とは、まったく違っているね。きみたちはたぶん、めったに村を出ないのではないかね。」 「めったにです。」ゲルトルートは、一言で答えた。 「それに、燕はもう一羽もいないのかい――飛び去ってしまったきりなのかい。」 「とっくにです――」娘は同じ調子で答えた。「ゲルメルスハウゼンでは、燕はもう巣を作りません。たぶん地中の煙が、我慢できないのでしょう。」 「でもきみたちは、それを年じゅう我慢していないかい。」 「年じゅうです。」 「それなら、きみたちの果樹が実をつけないのは、煙がまたその原因なのだ。マリスフェルデでは、今年はたくさん生りすぎて、枝を刈りこまねばならなかったほどだ。」 ゲルトルートは、それには何も答えず、黙って彼のそばを歩み、ふたりは村のはずれまでやって来た。道々彼女は、子供たちに出合うと親しげに会釈し、娘たちの一人とは、たぶん今晩のダンスと舞踏着について、小声で二、三の言葉を交わした。その際、二人の娘は、若者を同情に満ちあふれたまなこで見つめたので、彼は、なぜか自身でも分からなかったが、胸が熱く、痛むのを覚えたのである。しかし、彼はゲルトルートに、あえて問うことができなかった。 しまいに二人は、いちばん外れの家々まできた。村のこれまでが生き生きとしていたのに較べて、この辺りは静かで、もの寂しく、まるで死んだようであった。庭は、長年だれも足を踏み入れていないように見えた。道には草がおい茂り、とりわけ、どの果樹も実を一つもつけていないのが、若いよそ者には奇異に思われた。 すると、村の外から来た人々が、彼らと出合った。アルノルトはすぐに、もどってきた葬列の人たちであることが分かった。人々は、黙って彼らのそばを過ぎ、村に帰っていった。ほとんど考えもなく、二人の足は墓地に向かっていた。 アルノルトは、あまりに生まじめに思われる同伴者を、元気づけようとして、彼が滞在したほかの村のことや、外の世界での様子を、語った。彼女はまだ、鉄道というものを一度も見たことがなく、聞いたことすらなかった。彼の説明に、注意深く、驚きながら、聞きいった。また電信についても、まるで見当がつけられなかったばかりか、近来のどの発明についても、同様なありさまだった。若い画家は、ドイツにおいて、ほかの世界から、これほど隔離され、まったく切りはなされ、まるで交渉もなく、暮らしてゆける人々がいるなどとは、それが可能であるとは、とても考え及ばなかった。 ![]() このような会話を交わすうちに、彼らは墓地についた。ここでは、古風な墓石や記念碑が、どれもシンプルであったが、すぐに若いよそ者の目にとまった。 「これは、とても古い墓石だな。」一番近くにあるものの上にかがみこんで、彼は言った。そして骨折って、記されている飾り文字を判読した。「アンナ・マリア・ベルトルト、生家の名ジークリッツ、1188・12・1生、1224・12・2没。」 「それは私の母です。」とゲルトルートは言った。そして大粒の、きらきらする涙が、二、三滴、彼女の目にわきでて、コルセットの上にゆっくりとしたたった。 「きみのお母さんだって?まさかね、きみ。」アルノルトは驚いて言った。「きみの祖母の祖母の母親だね。たしかに、そうだったかもしれない。」 「いいえ、」とゲルトルートは言った。「私の本当の母です。――父はその後、再婚したのです。いま家にいるのは、私の義母です。」 「しかし、そこには1224年没と、書かれていないかい?」 「そんな年などは、どうでもよいのです。」ゲルトルートは言った。「母親から、こんなに切り離されていることが、とてもつらいのです。でも、」と彼女は低い声でつけ加えた。「母が先に、神さまのみもとに行くことが許されたのは、ほんとうに良いことだったでしょう。」 アルノルトは頭を横に振りながら、墓石にかがみこみ、しるされた文字をより細かに調べた。年号の最初の2が、8の間違いではないかと思った。古風な書体からして、その可能性があった。しかし次の2も、最初の2と毛ほども違わず、それに1884と記すことは、まだ先のことだった。たぶん石工が間違えたのだろう。娘は死者への思いに、深くひたっていたので、彼はそれ以上、面倒なことになりそうな問いで、邪魔したくはなかった。娘は墓石のそばにしゃがみこんで、小声で祈っていた。、彼は娘をそのままにしておいて、そのほかの記念碑を調べてみることにした。しかしどの墓石も、例外なく、何百年も昔の年号が記されており、なかには紀元930年、900年とあるものまであった。比較的新しい年号の墓石は、一つも見つからなかった。それなのに、死者たちは、今もなおここに埋葬されていることは、最後の真新しい墓が証明していた。 墓地の低い壁ごしに、この古い村が、すっかり見渡せた。アルノルトは、ちょうどよい機会なので、手ばやくそのスケッチをすることにした。しかし、この場所にも奇妙な雲霧がおおっていて、遠くの森の方では、日差しが明るく、くっきりと、山腹に落ちているのが見てとれた。 すると村で、ふたたび、ひびの入った古い鐘が鳴った。ゲルトルートは急いで立ち上がり、涙を両目から拭いさり、若者に、彼女についてくるようにと、やさしく手まねきした。 アルノルトは、すぐさま彼女の脇にきた。 「今はもう、嘆いてはだめなのです。」彼女は、ほほ笑みながら言った。「教会の鐘が鳴り終わって、これからダンスが始まります。あなたはたぶん、ゲルメルスハウゼンの村人は、全員ふさぎやだと、思いこんだことでしょう。今晩は、その反対なことに、お気づきになるでしょうよ。」 「おや、あそこに教会の扉が見えるね。」アルノルトは言った。「しかし、だれも出てこないようだ。」 「それは当然です。」娘は笑って言った。「なぜなら、だれも入らないし、――牧師さんですら入りません。年とった役僧だけがいて、休むことなく、始めと終わりに、教会の鐘を鳴らすのです。」 「それで、きみたちのだれも、教会には入らないの。」 「入りません――ミサにも、告解(懺悔)にも。」むすめは平然と言った。「私たちは外国にいる教皇と、争っているのです。彼は私たちが、ふたたび服従するまでは、それを許さないのです。」 「しかし、そのようなことは、私はこれまでに聞いたこともないのだが。」 「はい、すでに遠い昔のことですから。」娘はあっさりと言った。「ごらんなさい、役僧がひとりだけ、教会から出てきて、扉の鍵をかけています。彼は料理屋に行かずに、家で黙って、ひとりで過ごすのです。」 「それで、牧師は来るの?」 「来るにちがいないわ。彼は、だれよりも陽気な人です。なにも気にかけない人ですから。」 「そして、どういうわけで、こうしたことになったのかね。」事実よりも、むしろ娘の平然とした様子が、不思議であったアルノルトは、尋ねた。 「それは長い話になりますわ。」ゲルトルートは言った。「牧師さんが、すべてのいきさつを、大きな、厚い本に書きとめています。あなたにとって面白ければ、それにラテン語がお出来になるなら、それをお読みになるといいわ。――でも、」と彼女は警告するようにつけ加えた。「父がそばにいる時は、その話はしないで。父はそのことが好きでないの。ごらんなさい、若者や娘たちが、もう家から出てきます。私も家に帰って、着がえねばなりません。一番最後になるのは、ごめんですから。」 「そして、最初のダンスの相手はだれ、ゲルトルート?」 「あなたとですよ。約束しましたから。」 二人は急ぎ足で村にもどった。村では、午前と違って、活気にあふれていた。若者たちが、笑い声を立てながら、あちこちで群がっていた。娘たちは、お祭りの装いをしており、若い男たちも同様に、晴れ着を着こんでいた。居酒屋の横を通ると、窓から窓へ、葉飾りがわたされ、ドアの上には、幅広い凱旋のアーチがしつらえてあった。 アルノルトは、みなが最上の着こなしをしているのを見て、旅衣裳のまま、祭りを楽しむ者たちとまじわるのは気が引けたので、村長の家につくと、さっそく背嚢を開け、彼の晴れ着を取り出した。そして、ちょうど着替え終わったところに、ゲルトルートがドアをノックして、彼を呼んだ。素朴ではあるが、たっぷりと身を飾った娘は、なんとすてきに、美しく見えたことか。そして、なんと優しく、彼に同伴を求めたことか。父と母とは、遅れて後から来るというのである。 恋人のハインリヒへの想いは、さして彼女の心の重荷とはならないようだ。若者は、彼女の腕に彼の腕をからませて、夕暮の中を、ダンスホールへと歩みながら、当然そう考えた。しかし彼は、そのような考えを口に出さないように、用心した。奇妙な、不思議な感情が、彼の胸を震わし、腕を通して彼女の心臓の鼓動が伝わると、彼自身の心臓もまた激しく鼓動した。 「しかも、あすはまた旅立たねばならないのだし。」彼はひとりでに、小さな溜息をついて言った。そのつもりはなかったが、その言葉は、連れの女性の耳に届いてしまった。彼女はほほ笑みながら言った。「そんな心配はなさらないで。――私たちは、もっと長くいっしょにいるわ。たぶん、あなたがいたいと思うよりも、長くなるかもしれません。」 「それで、私がきみたちの村にとどまることを、きみは喜んでくれるかい?」アルノルトは尋ねた。そう尋ねながら、彼の額やこめかみに、一斉に血がのぼってくるのが感じられた。 「もちろんよ。」娘は、なんのこだわりもなく答えた。「あなたは優しくて、よい人です。――私の父もあなたが好きなのが、分かります。それに、」――「ハインリヒは来ませんでしたし。」と彼女は小声で、怒ったように、つけ足した。 「もし彼があす来たら?」 「あすですって!」そう言ってゲルトルートは、その大きな黒目で、彼をまじまじと見つめた。「――あすまでは、長い、長い夜があります。あすですか!――その言葉がなにを意味するか、あす分かることでしょう。でも今日は、そのことは話さないようにしましょう。」彼女はあっさりと、おだやかに話題をかえた。「今日は陽気な祭りの日です。私たちは、とても、とても長いこと、楽しみに待ち続けていたんです。お祭り気分に、水を差さないようにしましょうね。さあ着きましたわ。私が新しい踊り手をつれてきたのを、若い人たちも、悪くは取らないでしょう。」 アルノルトは、なにか返事をしかけたが、料理屋から響いてくる騒々しい音楽が、彼の言葉を聞こえなくした。音楽家たちは、奇妙な曲を奏でていた。それらの一つとして、彼は聴いたことがなかった。たくさんの燭台の輝きが、正面からまばゆく照らしたので、彼はほとんど目が開けられなかった。ゲルトルートは、彼をホールの真中へとみちびいた。そこには村の若い娘たちが群がって、おしゃべりをしていた。そこまで来て、彼女は彼の手をはなしたので、彼は、ダンスが始まる前に、しばらくあたりを見まわしたり、ほかの若者たちと、知り合うことができた。 最初の内は、たくさんの知らない者たちのあいだで、彼は気持ちが落ちつかなかった。また村人の奇妙な衣裳や言葉づかいは、不快な気分にさせた。ゲルトルートの唇からは、この荒い、耳なれない音声は、心地よかったが、ほかの者たちからは、彼の耳には、粗野に聞こえた。しかし若者たちはみな、彼に対して親切であった。一人の若者が近づいてきて、彼の手を握って言った。「私たちの村に、あなた様がとどまってくださるのは、賢明なことです。――楽しい生活をおくりなさい。あいだの時期は、すぐに経ってしまいますから。」 「あいだの時期というのは?」アルノルトは尋ねた。若者の言いまわしよりも、彼がこの村を故郷にしようとしているのを、若者が固く信じていることに、もっと驚いていた。「私がこの村にもどってくるまでの間、ということですか?」 「あなたは、またお立ちなのですか。」若い農民はすばやく聞いた。 「あす、立ちます。――あるいは、あさって――しかし、またもどってきます。」 「あすですか?――本当に?」若者は笑って言った。「それなら、まあ結構です。――では、あす、それについては、もっと話しましょう。今のところは、あなたに我々の楽しみごとを、教えておきましょう。あなたがあす、立ち去られるおつもりなら、それを結局、見ることすらないでしょうから。」 ほかの者たちは、ひそかに笑いあった。若い農民は、しかしアルノルトの手を取って、店全体を案内してまわった。店は、集った陽気な客たちで、いっぱいに混みあっていた。最初に彼らは、カード賭博をする者たちが、貨幣を積みあげて座っている部屋べやをめぐり、それから、ピカピカ光る石で敷きつめられた、九柱戯(ボーリング)場に入った。その次の部屋では、レスリングや、その他のスポーツがおこなわれていて、若い娘たちが、笑ったり歌ったりしながら、出入りして、若い男たちと冗談をかわしていた。するとふいに、それまで陽気な音楽を奏でつづけていた楽団が、ダンスの始まりの合図である、ファンファーレを鳴らした。すぐさまゲルトルートが、彼のそばに現われて、彼の腕を取った。 「いらっしゃいな、一番最後になってはいけません。」美しい娘は言った。「村長の娘として、私がダンスを始めねばなりませんから。」 「しかし、なんて奇妙な曲なんだ、あれは。」アルノルトは言った。「拍子に合わせることができないよ。」 「だいじょうぶですよ。」ゲルトルートは、ほほ笑んだ。「五分もすれば、慣れるでしょう。私が教えてあげます。」 カード賭博をする者たちをのぞいて、みなが大声で歓喜の叫びをあげながら、ダンスホールに押し寄せた。アルノルトは、この上なく美しい娘を、腕に抱いている幸福感にひたって、ほかのことはすべて忘れた。 なんども、なんども、彼はゲルトルートと踊った。ほかのだれ一人として、彼からダンス相手を奪おうとしないようだった。ほかの娘たちは、すれちがいざま、たびたび彼をからかっていたのだが。たった一つのことだけ、彼は奇妙に思い、気にかかっていた。それというのは、料理屋のすぐそばには、古い教会が建っていたが、ホールからは、ひびの入った鐘の、耳ざわりな、調子の外れた音が、はっきりと聞こえた。最初に鳴るごとに、あたかも魔法使いの杖が、踊る者たちに触れたかのような状態になった。音楽は、曲の途中で、演奏がとまった。快活に踊りまわる人の群れは、その場に魅せられたように停止し、動き止んだ。そして全員が黙って、一つ一つ緩やかに鳴る、鐘の音を数えた。しかし、最後の鐘の音が鳴りやむやいなや、活気と歓呼の叫びが、あらたに解き放たれた。八時、九時、十時と、みな同様のありさまだった。そして、アルノルトが、この奇妙な振る舞いの理由について、尋ねようとしたとき,ゲルトルートは指を唇にあて、とても真剣に、悲しげに見えたので、彼は、たとえなにに換えてでも、彼女をこれ以上悲しませたくはなかった。 十時になって、ダンスはひと休みとなった。鉄の肺を持っているにちがいない楽団員は、若者たちの先にたって、食堂へ下りていった。食堂は、陽気に賑わった。ぶどう酒はふんだんに飲まれた。ほかの者たちに、後れを取るまいとしていたアルノルトは、ひそかに計算して、この一晩の浪費で、彼のつつましい財布が、どれほどの穴を開けるかを、心配していた。しかしゲルトルートが彼のそばに座って、彼とともに、グラスを手にしていた。それなのに、どうしてそのような心配をする必要があろうか。――しかし、もしハインリヒが、あす来たならば・・・? 11時の最初の鐘が鳴り、飲食する者たちの浮かれ騒ぎは、ふたたび静まり、またもみなが、息をひそめて、聞き耳をたてた。アルノルトは、なぜか分からなかったが、身のうちがぞくぞくするのを感じた。故郷にいる母への思いが、心に浮かんだ。彼は、おもむろにグラスをとりあげ、遠くにいる愛する者たちに挨拶をして、飲みほした。 十一回目に鐘が鳴ると、客たちは、テーブルから勢いよく立ちあがった。ダンスが再度始まるので、みなはホールに急いでもどった。 「最後にお飲みになったのは、どなたのため?」とゲルトルートは、彼の腕に腕をからませてから、訊いた。 アルノルトは、答えをためらった。それを答えたならば、ゲルトルートは自分をからかうのではあるまいか。いや、それはない。――彼女もまた昼間に、自身の母親の墓で、あんなに熱心に祈っていたではないか。彼は小声で答えた。「私の母にだよ。」 ゲルトルートは、なにも答えずに、彼と並んで、黙って階段をのぼった。しかし、彼女の笑顔もまた消えていた。そして、もう一度ダンスホールに入る前に、彼女は訊いた。「あなたは、あなたのお母さまが大好きなのですか?」 「命も惜しまないくらいね。」 「そして、彼女もあなたを?」 「子を愛さない、母親ってあるかい。」 「もしもあなたが、――故郷の母のもとへ、決してもどれなくなったら、どう?」 「あわれな母よ!」アルノルトは答えた。「彼女の胸は破れるだろうよ。」 「さあ、ダンスがまた始まるわ。」ゲルトルートは、急に叫んだ。「いらっしゃい、もう一秒も遅れてはならないわ。」 そしてダンスは、これまでになく、あらあらしく始まった。若者たちは、強いワインに煽られて、踊りまくり、歓呼の叫びをあげた。音楽をもうちまかすほどの、大騒ぎが起こった。アルノルトは、その騒ぎの中で、もはやよい気分になれなかった。ゲルトルートもまた、生まじめになり、黙りこんでしまった。ほかの者たち、みなの間でだけ、歓呼はましていくようだった。ダンスが途切れたとき、老村長が二人のところへやってきた。若者の肩を親しげにたたき、笑いながら言った。 「結構なことですな、絵かきさん、今晩は愉快に、踊りましょうや。またくつろぐ時間は、たっぷりとありますからな。おや、トゥルートヒェン(*)、そんなにまじめくさった顔をして、どうしたんだい。今晩のダンスにふさわしくない。愉快にいこう。――さあ、また始まった。家内をさがして、最後のダンスをせねばなるまい。あんたたちもだ。音楽家たちが、もう頬を膨らませているからな。」村長は、歓声をあげて、群れの中へ押し入っていった。 (*)ゲルトルートの愛称。 アルノルトは、またゲルトルートに、腕をまきつけた。すると彼女は突然に、彼から身をはなし、彼の腕をとってささやいた。 「来てください!」 彼は、どこへいくのか、尋ねる間もなかった。彼女は、彼の手をとって、ホールの扉口へと急いだからである。 「どこへ行くの、トゥルートヒェン。」ダンス仲間の娘たちの、いく人かが呼びかけた。 「すぐにもどるわよ。」と短く返事をした。そして数秒後には、彼女とアルノルトは、料理店の前の、戸外の新鮮な夜風の中に立っていた。 「どこへいくつもりなのかい、ゲルトルート?」 「いらっして。」彼女は彼の腕をふたたびとり、村の中を父親の家までつれてくると、すばやく家の中へ跳びいり、すぐさま小さな包みをもって、また出てきた。 「なにをするつもりなんだい?」アルノルトは驚愕して尋ねた。 「いらっして。」彼女は、そう答えるだけだった。 家々を通りすぎて、彼女は彼とともに歩いて、村はずれの、丸い囲いの壁をあとにした。ふたりはここまで、固められた、わだちのある、広い道を歩いてきたが、ゲルトルートはその道から左手におれ、小さな、平らな丘を登りはじめた。その丘の上からは、料理店の、明るく照らされた窓や扉が、ちょうどよく見わたせた。ここで彼女は立ちどまり、アルノルトに手を差しのべ、心からの思いで言った。 「あなたのお母さまに、よろしくどうぞ。――さようなら。」 「ゲルトルート!」アルノルトは、当惑と驚きとで、叫んだ。「こんな真夜中に、きみは私を、きみから別れさせようとするのかい。きみになにか、気にそまないことでも言ったのかい。」 「ちがうわ、アルノルト。」娘ははじめて、彼の名で呼んで、答えた。 「私はあなたが好きですから、だから、だから、あなたは去らねばならないの。」 「しかし、暗闇の中に、きみひとりを村に置きざりにするなんてことは、わたしにはできないよ。」アルノルトは懇願した。「娘さん、わたしがどんなにきみが大好きか、どんなにきみが、わずかな時間で、私の心をしっかり、とらえてしまったかを、きみは分かっていない、分かっていないんだ――」 「それ以上、お話にならないで。」ゲルトルートは、すばやく彼の言葉をさえぎった。「お別れするのはやめましょう。鐘が12時を打ったならば、――もう十分の間もないでしょう――もういちど料理店の扉のところへいらっして、――そこであなたをお待ちしています。」 「そして、その間――」 「あなたは、ここに立ったままでいてください。鐘が12回、打ち終わるまでは、一歩たりとも、右や左に歩かないでください。約束ですよ。」 「約束するよ、ゲルトルート。しかし、それから?」 「それから、いらっして。」そう娘は言って、お別れに手を差しのべ、去ろうとした。 「ゲルトルート!」アルノルトは懇願する、苦しげな声で、叫んだ。 娘はためらったように、一瞬立ちどまった。――そして突然彼女は、彼のほうへ向きなおり,彼のうなじに両腕をまわした。アルノルトは、美しい娘の、氷のように冷たい唇が、彼の唇にしっかりと重ねられたのを感じた。しかし、それは一瞬のことだった。次の瞬間には、彼女は身を解きはなし、村へ飛ぶように去っていった。アルノルトは、彼女の不思議な行動に当惑したものの、約束を思い出し、彼女が置き去りにした場所に、立ちつくしていた。 今になって、この数時間で、天気が変わったことに、彼は気づいた。風が、木々の間で鳴っており、空には、一面に厚い雲が走っていた。大きな雨粒がいく滴か落ちて、近づく嵐をつげていた。 暗い夜の中に、料理店の明かりが、まばゆく差していた。風がそちらから吹き寄せると、楽器の鳴る音が、とぎれとぎれに聞こえてきた。――しかし、それも長い間ではなかった。彼は数分間立ったままでいた。すると教会の塔の、古い鐘が鳴り始めた。同時に、音楽が鳴りやんだ。あるいは丘の上を猛烈に吹きぬける、嵐の咆哮によって、かき消されたのであろう。アルノルトは、ふらつかないように、かがみこまねばならなかった。 地面の上に、ゲルトルートが家からもちだした包みがあるのに気づいて、触ってみると、彼の背嚢と画帳であった。びっくりして、彼はふたたび立ちあがった。時を告げる鐘は鳴りやんだ。突風が、咆えたくって過ぎた。しかし、村のどこにも、もはや明りが見えなかった。ちょっと前まで、鳴いたり、吠えたりしていた犬も、静まっていた。地中からは、濃い、湿った霧が、わきたっていた。 「ちょうど時間だ。」アルノルトは、背嚢を背負いながら、ひとりつぶやいた。「ゲルトルートにもう一度会わなければ。こんなふうに彼女と別れることなんて、出来ないよ。ダンスは終わっている。踊り手たちは、家に帰るだろう。村長が一晩泊めてくれなければ、料理屋に泊まろう。なにしろ、こんな暗闇では、森の中の道を行くわけにはいくまい。」 彼は、ゲルトルートと登ってきた丘の斜面を、用心して、また下ってゆき、村なかへ出る、広い、白い道に出ようとした。しかし、灌木をかきわけても、かきわけても、道は柔らかく、ぬかるんでいた。薄手の長靴は、くるぶしの上まで沈んでしまった。固い道があるはずのところには、いたるところ、厚く茂ったハンノキがそびえていた。暗闇の中で、道を通り越してしまったとも思われなかった。道に出たならば、それと分かったはずだから。そのうえ、村の囲いの壁が、道を横切っていることが分かっていた。この壁を、見落とすはずはないのである。しかし、不安にはやる気持でそれを捜しても、むだだった。地面は、先へ進むほど、いよいよ柔らかく、いよいよぬかるんでいった。灌木はいよいよ繁くなり、いたるところ刺だらけであった。彼の服は破れ、彼の両手は傷ついて、血がにじんだ。 右か左かに、道をそれてしまったのだろうか。彼はこれ以上迷い歩くのが不安になり、かなり乾いた場所へ来て、立ちどまった。そこで、古い鐘が一時を打つまで、待つことにした。ところが、鐘は鳴らなかった。犬も吠えず、人家からの音も、彼のところまで、聞こえてこなかった。そこで、さんざん骨折って、びしょ濡れになり、霜に凍えながら、ゲルトルートが彼を置き去りにした、丘の中腹の高みにまで、彼はなんとか戻りついた。 ここから、彼はまたいくたびか、村を捜そうとして、藪の中を突き進んでみたが、むだであった。とうとう、疲れはてたうえに、異様な恐怖に襲われて、彼は深く、暗い、不気味な谷底を避けて、覆いとなる木を探し、そこで夜を明かすことにした。 しかし、時間の経つのが、なんとゆっくり感じられたことか。霜に震えながら、長い夜を、彼は一睡だにできなかった。再三、再四、彼は闇の中に耳を傾けた。そのたびに、彼は鐘の荒々しい音を聞くような気がしたが、そのたびに、空耳であることが分かった。やっと、遠く東の空が明るみ始めた。雲は過ぎ去って、空はまた晴れわたり、星の光が見えた。目覚めた鳥たちが、暗い木々の中で、小さな声でさえずりだした。 金色の曙の帯は広がり、明るさを増した。アルノルトはすでに、まわりの木々の頂を、はっきり見ることができた。しかし、彼の目は古い、褐色の、教会の塔と、風雨にさらされた屋根とを捜したが、どこにもなかった。彼の前に広がるのは、年へたハンノキの森と、その間にある、いく本かのいじけた柳の木だけであった。下へくだる道は、右にも左にも、見あたらなかった。近くには、人の住む様子が見られないのである。 日は、いよいよ明るさを増していった。最初の日光が、彼の前に広がる、緑の平地に差した。アルノルトは、この謎が解けなかったので、谷底まですっかり戻ってみた。昨夜、村を捜したとき、迷って村から遠ざかったにちがいなかった。今、もう一度村を捜しだそうと、固く決心した。 彼はやっと、ゲルトルートを描いた時に、彼女が座った石のあるところに、たどりついた。その場所は、ほかのどことも、まぎれようがなかった。彼は、がっしりした枝をつけた、古いニワトコの木を、正確に描いておいたからである。彼はまた、どちらの方からやって来て、ゲルメルスハウゼンがどちらにあるかも、今は分かった。そして、きのうゲルトルートと一緒にむかった方向へと、急ぎ足に谷間へもどった。そちらには、陰鬱な煙霧におおわれた、山腹のうねりも見えていた。最初の家々は、ハンノキの森に隠れているだけだった。ついに森にたどりつき、森を抜けておし進むと、――昨夜、彼が徒渉してまわった、同じ泥沼に出た。 途方にくれて、おのれの感覚が信じられなくなり、彼は、この沼を何とか突破しようと思った。しかし、どろどろした沼の水のおかげで、結局、乾いた地面に戻らざるをえず、その場を、あちこち行き来するだけにおわった。村は消え去り、消え去ったままだった。 この無益な試みに、数時間はついやしたであろうか、とうとう疲れた四肢が、言うことをきかなくなってしまった。それ以上は無理であったので、休まねばならなかった。こんな無駄なことをしていても、らちがあくまい。最初にたどりついた村で、ゲルメルスハウゼン村への案内人を頼むことは、容易にできよう。そうすれば、道をまた間違えることはなかろう。 そう考えて、彼は一本の木のもとに座りこんだ。彼の晴れ着は、さんざんな有様だった。しかし今は、それどころではなかった。彼は画帳を取り出し、ゲルトルートの肖像を開いた。烈しい苦痛をおぼえて、彼の目は娘のいとしい容貌に、釘づけになった。驚くべきことに、すでにあまりにも強固に、彼の目に焼きついていた。 その時、彼の背後で、草が騒ぐのが聞こえた。一匹の犬が吠えて、彼が急いで立ち上がると、ほど遠からぬところに、一人の年とった猟師が立っており、上等な服を着ているが、ひどい有様の、奇妙な人物を、珍しげに見つめていた。 「こんにちは!」アルノルトは、人に出会ったのが嬉しくて、呼びかけ、絵を画帳にしまいこんだ。「ちょうどよいところに、来てくださった、山林官の猟師さん。どうやら、道に迷ってしまったようで。」 「ふむ、」と老人は言った。「ここに一晩、藪の中で過ごされたなら、――しかもディルシュテッドへ越えれば、30分もかからずに、よい宿があるのに、――どうやらその通りですな。おやまあ、あなたは、せっせと、いばらや沼地を通ってきたかのような、有様ですな。」 「あなたは、この辺の森に詳しいのですか。」なによりも、自分がどこにいるのかを知りたかったアルノルトは、尋ねた。 「そう思いますよ。」猟師は笑って答え、火を打ちだし、パイプに、火をつけなおした。 「次の村の名は、なんと言いますか。」 「ディルシュテッド――真直ぐ向うへ越えたところです。あそこにある小さな丘の上へ出れば、すぐ目の下に見えますよ。」 「そして、ここからゲルメルスハウゼンまでは、どのくらいありますか。」 「どこへだって?」猟師は驚いて叫び、パイプを口からはずした。 「ゲルメルスハウゼンです。」 「神さまお助けを!」 老人はそう言って、不安そうな眼差しを周囲にめぐらせた。「森については、十分よく知っていますがね。しかし、地中どのくらい深くに、あの呪われた村があるのかは、神さまだけがご存知です。――私らには、まったく関わりのないことです。」 「呪われた村ですって?」アルノルトは驚愕して叫んだ。 「ゲルメルスハウゼンなら――そうですな。」猟師は答えた。「あそこの、昔からの柳やハンノキのある、沼地のちょうど真中ですわ。何百年も昔に、あったといいます。その後、沈んでしまったのです。どうして、どこへ沈んだのかは、だれも知りません。伝説によれば、百年ごとの、ある定められた日に、日のあたる世界へ、また出てくるそうです。キリスト教徒であるなら、だれもそんな場所に、うっかり近寄らないように、願いたいですな。それにしても、なんとまあ、藪の中で一夜を過ごして、あなたはひどく具合が悪そうですな。お顔が、チーズみたいにまっ白です。さあ――この壜を、一口お飲みなさい。お元気になるでしょう。さあ、ぐっと。」 「ありがとう!」 「ああ、まだ足りませんな。――さあ、もっとごくごくとお飲みなさい。――そう――よいワインですわ。さて、山向うの宿へ行って、暖かいベッドに、おはいりになるとよい。」 「ディルシュテッドへですか?」 「はい、もちろんです。それより近くにはありませんから。」 「それで、ゲルメルスハウゼンは?」 「お願いですから、その村の名を、二度と口にしないでください。――今私らの立っている、この場所ではね。死者たちは、やすらわせておきましょうよ。特に、そもそもやすらいもなく、ふいと私らのあいだに、浮き上がってくるかもしれない、死者たちですから。」 「しかし、きのうは、まだその村はここにあったのです。」アルノルトは叫んだ。彼は、もはやおのれの五感を信じられなくなっていた。「私はその村にいて、――そこで食べ、飲み、ダンスをしたのです。」 猟師は、若者の身体を、頭から爪先まで、落ちついて見た。それから彼は、微笑して言った。「でも、別の名の村ではないですか。――たぶんあなたは、ディルシュテッドから、ここへ来られたのでしょう。あの村では、きのうの晩、ダンスパーティーがありましたし、亭主がこしらえている、強烈なビールに、やられてしまう人もいますから。」 アルノルトは、答える代わりに、画帳を開き、墓地からスケッチした絵を取りだした。 「この村をご存知ですか。」 「いいえ。」猟師は頭をよこに振って言った。「このような平らな塔は、この辺り一帯にはありませんよ。」 「これがゲルメルスハウゼンです。」アルノルトは叫んだ。 「そして、このあたりの農民の娘たちは、この娘のような衣服を着ていますか。」 「ふむ、――違うね。その絵に描かれている葬列は、なんとも変わっているね。」 アルノルトは返事をしなかった。彼は、絵をまた画帳にしまいこんだ。言いようのない、悲哀が、彼の身をつらぬいた。 「ディルシュテッドへ行く道は、間違いようがないですよ。」猟師は親切に言った。というのは、この見知らぬ若者が、少々頭がおかしいのではないかと、うすうす感じたからである。――「お望みなら、村が見えるところまで、一緒にまいりましょう。たいした回り道では、ありませんからね。」 「ありがたいですが、」とアルノルトは断った。「そちらへ行く道は、よく分かります。それでは、百年ごとに、あの村は浮かび上がってくるというのですね。」 「そういう噂です。」猟師は言った。「本当かどうかは、だれも知りませんが。」 アルノルトは、背嚢をまた背負った。「ごきげんよう。」猟師に手を差しのべながら、アルノルトは言った。 「ありがとう。」山林官は答えた。「どちらへ行かれるつもりで?」 「ディルシュテッドです。」 「それがよろしい。あちらの山腹を越えれば、また広い街道に出ますよ。」 アルノルトは身をひるがえし、道に沿ってゆっくりと歩いた。向かいの山腹に登り、そこから谷底を見渡せるところまで来て、彼ははじめて立ちどまり、ふり返った。 「さようなら、ゲルトルート。」彼は小声でつぶやいた。そして、山腹越しに歩きながら、彼の目からは、きらきらする大粒の涙がわいてでた。 原題:Germershausen (ゲルメルスハウゼン)1860年 作者:Friedrich Gerstecker (フリードリヒ・ゲルシュテッカー) 翻訳者:脩 海 copyright: shu kai 2025 入力:マリネンコ文学の城 Up:2025・6・3 (原文はテキストによって異同があり、おもに1885年の版に従った。) |