Lafcadio Hearn (1850-1902)


円環

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ハーンのBuddhistとしての仏教観は、彼の作品のあちこちからしのばれますが、直接述べたエッセイもいくつかあります。このWithin the Circle もその一つです。日本人の通常の俗な仏教観とはやや違う、いわば原理主義的な把握といえるかもしれません。空観や唯識がその根底にあり、それらの思想を徹底すれば、一見虚無主義に思われる仏教観にたどりつくでしょう。それも仏教のある面の真理ですが、無我を説く仏教の倫理面が、ハーンの場合にもたんなる虚無に陥らせることはないわけです。(なお、ハーンの美文の幾分かを味わってもらうため、少々原文を添えてみました。)


 円環

 ラフカディオ・ハーン

 個々人が感じる苦痛であれ、快感であれ、言葉でもって如実に表現することは、不可能である。それら快苦を、もとの状態で伝えることは、決してできないものである。それらを惹き起こした、事情なり条件なりを、鮮やかに描くことで、同情心のある人の心に、せいぜい類似した質の感情をかきたてることはできよう。しかし苦なり快なりを引き起こした事情が、人間が共通に経験することとは、まったくかけ離れている場合には、いかにそれらを表現しようとも、そこに惹き起こされた感情を、十分に伝えることはできなかろう。
 そういうわけであるから、私が私の前世を見たときの、ありのままの苦痛を語ろうと努めても、甲斐のないことである。ただ私にはこう言える。個人としての存在に可能な苦痛を、どんなにむすび合わせても、あの苦痛、無数の生命から織りなされた苦痛に、たとえることはできまいと。あたかも、私の神経の一つ一つが引き延ばされ、百万年もの過去にわたって、とてつもない感覚の織物となって、紡ぎだされたかのようであった。さらに、その数限りない横糸と縦糸の全体が、すべての震える糸を伝わって、過去の深淵から、私の意識に注ぎこまれるかのようであった。それは名状しがたいおぞましさであり、人間の脳がたえるには、あまりにも巨大な恐怖であった。
 それというのも、過去を見渡している私は、二重にも、四重にも、八重にもなるのであった。私は算術級数的に倍化して行くのであった。私は百倍にも、千倍にもなり、いく千もの恐怖にとらわれ、いく千もの苦悶にさいなまれ、いく千もの断末魔に身をふるわせた。しかも、いかなる快をも知らないのである。あらゆる喜び、あらゆる快感は、霧のような、影のようなものに過ぎなかった。ただ苦痛と恐れだけが、現実であり、しかも、たえずたえず増していくのだ。すると、感覚そのものが破裂して、砕け散るかと思われた瞬間に、ある神々しいものが触れて、恐るべき幻影を終わらせ、単一の現在の、単純な意識へと、私をつれもどした。あー、なんと言いがたく甘美なことか、多重なものから、単一なものへと、突然に縮小していくことは! 世界我(Self)が、個我(individuality)という盲目で、すべてを忘れ去る麻痺の中へ、とてつもなく、測り知れない崩壊を遂げることは!

 Neither personal pain nor personal pleasure can be really expressed in words. It is never possible to communicate them in their original form.It is only possible, by vivid portrayal of the circumstances or conditions causing them, to awaken in sympathetic minds some kindred qualities of feeling. But if the circumstances causing the pain or the pleasure be totally foreign to common human experience, then no representations of them can make fully known the sensations which they evoked.
 Hopeless, therefore, any attempt to tell the real pain of seeing of my former births. I can say only that no combination of suffering possible to individual beeing could be likend to such pain, ―the pain of countless lives interwoven. It seemed as if every nerve of me had been prolonged into some monstrous web of sentiency spun back through a milion years,―and as if the whole of that measureless woof and warp, over all its shivering threads, were pouring into my consciousness,out of the abysmal past, some ghastliness without name,―some horror too vast for human brain to hold.
 For, as I looked backward, I became double, quadruple, octuple; ―I multiplied by arithmetical progression;―I became hundreds and thousands,―and feared with the terror of thousands,―and despaired with the anguish of thousands,―and shuddered with the agony of thousands; yet knew the pleasure of none. All joys, all deligits appeared but mists or mockeries: only the pain and the fear were real,―and always, always growing. Then in the moment when sentiency itself seemed bursting into dissolition, one divine touch ended the frightfull vision, and brought again to me the simple consciousness of the single present. Oh! how unspeakably delicious that sudden shrinking back out of multiplicity into unity!―that immense, immeasurable collaps of Self into the blind oblivious numbness of individuality!

 「ほかの者たちにも」と、私をこのように救った、神々しいあるものの声が告げた。「同様な状態にあるほかの者たちにも、彼らの前世のいくぶんかを、見ることが許された。しかし誰一人として、はるか先まで見ることには、耐えきれなかった。すべての前世を見る力は、世界我の束縛から、永遠に解き放たれた者のみに、許されている。そのような者たちは、幻影のそとにおり、ものの形や名のそとにいる。苦痛も彼らに近寄ることができない。
 しかし、幻影にとどまっているそなたには、ブッダですら、少しばかり前のこと以上に、前世をふりかえる力を、授けるわけにはいくまい。
 そなたは、いまだに、愚にもつかない芸術やら、詩やら、音楽やらに魅了されている。色や形や、甘美な言葉や、甘美な音の、まやかしにすぎないものに。
 いまだ<自然>と称される、かの幻影、空虚と影の別名にすぎないものに、そなたは欺かれ、魅せられている。そなたを五感の世界への渇望によって、夢見させるものに。
 しかし、まことに知らんと欲するものは、自然という幻影を愛好してはならない。晴れわたった空の輝きに、喜びを見いだしてはならない。海原の光景にも、川のせせらぎにも、峰みねや、森や、谷間の景観にも、それらさまざまな色彩にも。
 まことに知らんと欲するものは、人類の作りだすこと、成すことをながめて、喜びをおぼえてはならない。彼らの会話を聞くことにも、また彼らの情熱や激情の、あやつり芝居を見物することにも。
 これらはみな、煙のあやなすごとくであり、陽炎のごとくであり、無常であり、幻である。
 なんとなれば、人々が、高尚な、高貴なと称する快楽も、感能の拡張にすぎないものであり、繊細な欺瞞にすぎない。見かけはよいが、毒のある、我欲の開花にすぎない。どれもこれも、欲望や願望の、古くからの汚泥の中に、根を張っているのである。晴れわたった空の輝きに喜びをおぼえ、山々が日のめぐるにつれて、彩りを変えるのを見、うちよせる波や、夕焼けの移ろいを眺め、草花や木々の開花に心惹かれること、こうしたすべては五感から来ている。偉大なる行為、美しい行為、英雄的な行為とされるものを見る喜びも、同様にして五感から来ている。なんとなれば、それもまた、人類がこの哀れむべき世界で、哀れむべく、得ようと努力するもの、すなわち、はかない愛情と名声と名誉とを、心に描く喜びにほかならないからだ。それらはどれも、たまゆらの泡のように、空なるものである。

 For the pleasures that men term lofty or noble or sublime are but larger sensualisms, subtiler falsities: venomous fair-seeming flowerings of selfishness,--all rooted in the elder slime of appetites and desires. To joy in the radiance of a cloudless day,--to see the mountains shift their tintings to the wheeling of the sun,--to watch the passing of the waves, the fading of sunsets,----to find charm in the blossoming of plants or trees: all this is of
the senses. Not less truely of the senses is the pleasures of observing actions called graeat or beautiful or heroic,--since it is one with the pleasure of imagining those things for which men miserably strive in this miserable world: brief love and fame and honour,--all of which are empty as passing foam.

 空も、日輪も、海も、峰みねも、森林も、平原も、すべての輝きも、形も色彩も、幻にすぎない。人類の感情と思考と行為とは、高かろうと、低かろうと、貴かろうと、卑しかろうと、永遠を目的とする以外の目的で、考えられたり、為されたりしたものは、すべて夢幻より生まれ、そのまた空に帰する夢幻なのである。覚者にとっては、我なるもののあらゆる感情は、あらゆる愛憎、快苦、望みと悔いは、どれも同じくして幻影である。若さも老いも、美も醜悪も、優しさも邪悪も、違ったものではない。死と生とは、一にして同じである。壮大な空間も時間も、永劫の影芝居の、舞台にして書割にすぎない。

 Sky, sun and sea;--the peaks,the woods, the plains;-- all splendours and forms and colours,--are spectres. The feelings and thoughts and acts of men,--whether deemed high or low, noble or ignoble,--all things imagined or done for any save the eternal purpose, are but dreams born of dreams and begetttting hollowness. To the clear of sight, all feelings of self,--all love and hate, joy and pain, hope and regret, are alike shadows;--youth and age, beauty and horror, sweetness and foulness, are not different;-- death and life are one and the same; and Space and Time exist but as the stage and order of the perpetual Shadow-play.

 時間の中にあるものは、すべて滅びるさだめである。目覚めたもの(覚者)には、時間も空間も変化もない。日も夜もなく、寒暖もなく、月も季節もなく、現在も過去も未来もない。形も、形の名も、おなじくなにもない。覚り(Knowledge)のみが真実である。覚りに達したものには、宇宙は実体のないもの(ghost)となる。教典にあるごとく、「未来および過去の時を超えたものは、この上なく清浄な覚りに達している。」
 そのような覚りは、そなたのものではない。そなたの目には、いまだ影は実体と映り、闇が光と映り、空虚なるものが、美と映る。それゆえに、前世を見ることは、そなたには苦でしかないのである。」
 私はたずねた。
 「もし発端にまで、時間の果て(劫初)にまで、さかもどって見る力が、私にあったならば、宇宙の奥義を読みとることができたでしょうか。」
 「だめだね。」と返事がかえった。「無限に見とおすことによってだけ、奥義は読み解かれる。そなたの力が許す以上に、果てしなく過去を見返すことができたとしても、過去はそなたにとって、未来となるであろう。そなたがさらに努めたにしたところで、未来はそなたにとって、現在へと還流したであろう。」
 「でも、どうしてでしょうか。」私は驚いてつぶやいた。・・・「なぜそのような円環があるのでしょうか。」
 「円環などはない。」と答えがかえってきた。「円環などはないが、生と死の大いなる幻の転輪〈輪廻〉があり、無明に住する者たちが、自身の思いや行為によって、それにとらわれ続けるのである。しかしこの転輪は、ただ時間においてのみ存在しており、時間自体は虚妄なのである。」
 


作品名:円環
原題:Within the Circle (from Gleanings in Buddha-Field)
作者:ラフカディオ・ハーン
訳者:脩 海 copyright: shu kai 2026
入力:マリネンコ文学の城
Up:2026・7・6