ロバート・ルイス・スティーヴンソン ( Robert Louis Stevenson 1850-94)
スコットランドの冒険小説作家、紀行文作家、随筆家、詩人。エディンバラに灯台技師の子として生まれる。早くから文筆の道を志し、父親の期待に反して祖父の代からの灯台技師にもならず、エディンバラ大学で学んだ法学を職とすることもなかつた。病弱であったにも拘らず、旅と放浪を愛した。 フランス、アメリカ、そしてついの地となるサモアへと旅の一生を送った。彼の文学の大きな部分は、旅と放浪のロマンが占めている。
スティーヴンソンは「宝島」の作者としての名声に隠されて、その厖大な著作が忘れられがちである。最高傑作「ジェキル博士とハイド氏の怪事件」を始めとした、数多くの冒険・歴史ロマンや中・短篇は上質のエンターテインメントであり、随筆や紀行文にはスタイリストとしての彼の面目がうかがえる。
ここに取り上げた「砂丘の冒険(The Pavilion on the Links)」は物語集 New Arabian Nights (新アラビア夜話)の中の一篇である。海辺の荒涼とした舞台で繰り広げられる、わずか四人の主要人物の間の熾烈なかけひきと恋の鞘当て、影のような敵の襲撃、スティーブンソンの冒険小説のエッセンスがここに凝縮されていると言えよう。
(画像は The Lore of the Wanderer, J.M.Dent & Sons 1920 より)
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砂丘の冒険 R・L・スティーヴンソン 作 翻訳copyright: Shuuji Kai 2006 第 一 章 グレイデンの海岸林での野営、および展望館に灯火を認めた次第 若い時分の私は、大いに孤独を好む人間だった。他人との交わりを避け、おのれ自身を楽しませることで万事足れりとすることを、私は誇りに思っていた。だから、私は、私の妻となり、私の子供たちの母となってくれた友と出会うまでは、ひとりの友人も知人も持たなかったと言ってよい。たった一人、個人的な関係を結んだ男がいた。この人は、スコットランドのグレイデン・イースター出身の郷士、R・ノースモアと言って、大学の同窓だった。われわれの間には、これと言った好感や親密さがあったわけではなかったが、気質的に大いに似かよったところがあったので、お互いに気の置けない交際ができたと言うわけだ。われわれはお互いを人間嫌いと見なしていたが、今になって思えば、単に気難しいだけの人間にすぎなかった。この交際は、交友とするには足らない、打ち解けない共存とでも言ったものだった。ノースモアの人並みはずれた激しい気質は、私以外の人間とは折り合いを付け難いものであった。彼の方では、私の無口な態度に敬意を払ってくれ、会うも辞するも私の気ままにさせてくれたので、私としては気に障ることもなく、彼がそばにいることを我慢できたというわけである。私たちはお互いを友人と呼んでいたように思う。 ノースモアが学位をとり、私の方は学位をとらずに大学を去ろうとしていた時のことだ。彼は、グレイデン・イースターを訪れて、しばらく滞在したらどうかと、私を誘ったのである。これが機縁となって、私はこれから話すつもりの冒険の舞台を、初めて目にすることとなった。グレイデンの館は、北海に面した海岸から、三マイル(訳注・1マイルは1・6キロメートル)ほど内陸にある、うら寂しい地方にあった。館は兵舎ほどの広さがあったが、海浜の荒々しい空気を吸収しやすい柔らかな石で建てられていたので、内部は湿っぽく、すきま風だらけで、外部は半ば廃墟の相を呈していた。そのような棲家に、若い二人の男が快適に過ごすことなぞ、思いもよらなかった。しかし、所有地の北部の、森林と海との間に広がった、風吹きすさぶ砂原と砂丘の地に、現代風の意匠の展望館(Belvidere)とでも言うべき小ぶりの別館が建てられていた。この建物がわれわれの要求にぴったりとかなっていた。そして、この隠れ家でノースモアと私は、ほとんど言葉を交わすこともなく、読書にふけり、食事の時でもなければめったに顔を合わせることさえなく、荒天続きの冬の四ヵ月間を過ごしたのである。この滞在はもっと続いたかもしれなかった。ところが、三月のある晩のこと、われわれの間に口論がもちあがり、私は去らざるを得なくなった。思い返せば、ノースモアが激した言い方をしたので、私はたぶん、何か辛辣な返答をしたにちがいない。彼は椅子から飛び跳ね、私につかみかかった。私は、おおげさどころでなく、命の危険を感じて、格闘せざるを得なかった。彼は、身体的に私と同じほど頑強であったし、悪魔にでも取りつかれたかのようでもあったので、彼を屈服させるのは、並大抵のことではなかった。あくる朝、われわれはいつもの態度で顔を合わせた。しかし、私は引き下がるのが礼儀と考えた。彼も又私を引きとめようとはしなかった。 この地方を再び訪れたのは、九年後のことだった。その当時の私は、日覆いの付いた二輪馬車に、テントと料理用の焜炉を積み、日がな一日馬車のそばを歩く旅の生活を送っていた。夜は都合次第で、丘陵地の谷間や、森のはずれで、ジプシーのように野営したものだった。こんな風に旅を続けて、私はイングランドとスコットランドにまたがって、人の住まないような、荒寥とした地域のほとんどを訪れたことと思う。私には友人も親戚もいなかったので、手紙などに煩わされる心配もなく、本拠地といえば、年に二回私の収入を引き出していた、私の弁護士たちの事務所がそれと言えるばかりだった。私はこの生活を楽しんでいたのだ。旅の途上で老いぼれ、あげくは路傍に行き倒れようとも、それが本望と思っていた。 人気のない土地で、誰にも邪魔されずに野営できる片隅を見つけることが、私の関心の全てだった。そういう訳で、たまたま同じ州の別の地方にいたことから、私はふと、砂丘地帯にあるあの展望館のことを思い出したのだった。展望館から三マイルの範囲内には、道らしい道はない。一番近い町、といっても漁村に過ぎないが、それも六、七マイル離れていた。この不毛の土地は、長さ十マイル、幅三マイルから二分の一マイルの帯状をなして、海沿いに延びていた。天然の通路をなしている浜辺には、いたるところに流砂があった。まったく、イギリス国内で、ここより良い隠れ場所はまたとあるまい、と言ってよかろう。私はグレイデン・イースターの海辺の森で、一週間を過ごそうと決めた。そして、九月のある天候不順な日のこと、休まず歩きつづけて、日暮れには当地にたどり着いた。 すでに話したように、この土地は、砂丘と砂原(links)とが入りくんでできていた。スコットランドでlinksと呼んでいる砂原は、移動しなくなった砂の上を、草がある程度固くおおった砂地のことだ。展望館は開けた平地に建っていた。この建物の裏手の少し離れた所には、風にさらされて身を寄せ合ったニワトコの垣があり、そこから森が始まっていた。正面には、建物と海との間に、二三の崩れた砂丘が隆起していた。一部の岩礁が露呈して、砂の進出を防いでいたので、ここには海岸線を二つの浅い湾に分かっている岬が形成されていた。さらに真正面の沖にも、岩礁が現われ、こぶりだが、際立った形をした小島をつくりだしていた。引き潮の時には、広い範囲にわたって流砂が見られ、この土地では悪名をはせていた。小島と岬の間の、岸に近いところでは、流砂は人を四分半で呑み込んでしまうという噂だった。もっとも、正確に四分半である根拠はなさそうだったが。この地域には兎の姿がたくさん見られ、カモメ達もやってきては、展望館の周りをめぐりながらしきりに鳴き交わしていた。夏の日には、明るく、愉快ですらある眺望が開けていた。しかし、九月の頃の日暮れともなると、強風が吹き、砂原の近くまで大きな波が押し寄せてきて、その光景が物語るものは、溺れた船乗りと海難との他にはなかった。水平線上に一隻の船が風に向かって進んでいるのと、また私の足もとの砂の中に半分うずもれている、大きなこん棒のような難破船が、この光景が暗示するものをさらにつのらせていた。 この展望館は、ノースモアの伯父である先代の所有者――愚かで、浪費家の趣味人であったが――によって建てられたのであるが、少しも古家らしくなかった。イタリア風の意匠の二階建であって、周囲に庭が作られていたが、庭にはいくらかの粗野な花が咲くばかりであった。雨戸が窓をふさいでいる様子は、人が住まなくなった家というよりも、これまで誰も住み手のなかった家のように見えた。この様子では、ノースモアは不在であった。いつものように、彼の帆船の船室でむっつりを決めこんででもいるか、あるいは、気紛れでも起こして、社交界での奇矯な交際の最中なのであるか、もちろん私には知るよしもなかった。この建物のある場所は、私のような孤独者でさえ怖じ気を覚える寥々とした趣があった。煙突に吹き込む風が、奇怪な泣き声を立てていた。きびすをめぐらせて、荷馬車を追いたて、森の境へ踏み入った時には、まるで家の中に逃げこんだかのように安堵したものだった。 グレイデンの海岸林は、背後にある耕地を保護するために植えられたものであり、吹きつける砂が侵入するのを防いでいた。海岸側からその森林に入ると、ニワトコの茂みは、他の丈夫な低木にとって代わられた。しかし、木々はみな萎縮しており、藪のようになっていた。森は苦難の生活を送っていた。激しい冬の嵐の中では、木々は一晩中揺れつづけることに慣らされていた。春まだ浅い頃から、すでにこの吹きさらしの植林地では木の葉が舞い、秋が始まっていた。海岸から離れるにつれ、地面は盛り上がり、小さな丘となった。この丘は小島とともに、船乗りの航海の目じるしとなった。丘が小島の北方に見えている時は、船は十分に東へ進路を取り、グレイデン・ネス(岬)とグレイデン・ブラーズ(荒磯)を回避せねばならないのだ。低地部では、木々の間をぬって、一つの小さな流れがあった。落ち葉や、自らが運んだ土によってせきとめられては、あちこちであふれ、よどんだ水たまりをつくっていた。森の周辺には、一、二の廃屋が見られた。ノースモアによると、これらは教会によって建てられたもので、かつては敬虔な隠者たちの棲家であった。 私は一つの隠れ場を見つけた。そこは、澄んだ泉がわきでている、小さなくぼ地であった。私は茨を取り除けてテントを張り、夕食を調理するための火を起こした。私の馬は、森の奥にあるちょっとした草地の棒杭につないでおいた。その隠れ場の盛り上がった縁は、たき火の明かりを隠してくれたばかりか、冷たい強風を防いでくれた。 私が送っていた生活は、私を剛健で質素な人間にした。私は決して水以外は飲まなかったし、オートミール(訳注*)よりも値の張るものはめったに口にしなかった。それに私はわずかな睡眠しか必要としなかった。日の出と共に起きはしたものの、暗夜も、星づく夜も、しばしば目覚めたまま長い間横になっていたものだった。そんなわけで、グレイデンの海岸林でも、晩の八時には、私はありがたく眠りに就いたのだが、十一時前には、眠気も疲れも失せ、全身に活力を覚えながら目覚めていた。私は起きあがってたき火のそばに坐り、頭上で激しく木々が揺れ、雲が飛び去る様をながめたり、風の音や海岸に寄せる波の音に耳を傾けていた。やがて、何もしないでいることに飽きてきたので、私は隠れ場を出、森のはずれの方へぶらぶらと歩いて行った。霧につつまれた半月が、私の足もとをかすかに照らしていた。月の光は、砂原に歩みでると、明るさを増した。同時に、さえぎるもののない海原の潮の香のする、砂まじりの風が猛烈に吹きつけて来たので,私はうつむかねばならなかった。 訳注* ひき割りにした燕麦(からすむぎ)をかゆ状に煮たもの 再び顔を上げて辺りを見回したとき、私は展望館に一つの明かりが灯っているのに気づいた。その明かりは静止していないで、窓から窓へと移動していた。誰かが、ランプかロウソクを手にして、あちこちの部屋を点検してまわっているかのようだった。私は非常な驚きを覚えて、その様を数秒間見つめていた。その日の午後、私がたどり着いた時には、その別館は明らかに人が住んでいなかった。しかし、今は明らかに人がいるのだ。私の頭に当初閃いたのは、盗賊の一団が押し入りでもして、いくつもある上に結構な品がつまっているノースモアの食器棚を、いましもあさっている最中なのではないかという考えであった。しかし、一体盗賊なぞを惹きつけるだけのものが、グレイデン・イースターの地にあるだろうか?おまけに雨戸がみな開け放してあるのは、そうした連中にとって、閉め切っておくのがより自然ではなかろうか。そこで私は最初の考えを棄て、もう一つの考えに思い到った。ノースモア自身がやって来たにちがいなく、今展望館の空気を入れ換え、点検をしている最中なのだ。 この人物と私との間には、真の友情があったわけではないことを、先ほど話したが、たとえ私が彼を兄弟のように好いていたとしたところで、私はその当時は孤独というものがことのほか気に入っていたので、やはり彼との交際を避けたことだろう。そういうわけで、私はきびすを返し、一人になれる場所へと急いだ。たき火のそばに、何事もなく再び腰を下ろした時には、私は心からの満足感を覚えていた。私は知人と顔を合わせるのを避けたのだったが、その一晩だけは心ゆくままに過ごしたかった。明朝は、ノースモアが出歩く前に立ち去るか、それともできる限り短い訪問をしておけばよかろうと考えたのだ。 ところが、朝になると、この事情がひどく面白いものに思われて来て、私は引っ込み思案を忘れてしまった。ノースモアは私の掌中にあった。私は一つ悪戯ごとをひねり出した。もっとも、わが隣人はうっかり悪戯をしかけようものなら、危険な目に合わされかねないことは承知の上であったが。ともあれ、私はうまく行った場合を想像してほくそ笑みながら、森のはずれのニワトコの茂みの間に身を隠した。そこからは展望館の扉がよく見渡せたのである。雨戸はすべて元のとおりに閉められていた。それを奇妙に思ったことを、今も思い出す。朝の光の中で、白い壁と緑のよろい戸の映えた展望館は、瀟洒な棲家に見えた。一時間、二時間と過ぎたが、ノースモアは姿を現わさなかった。私は彼が朝寝坊であることを知っていたが、さすがに正午近くなると、辛抱しきれなくなった。実を言うと、私は展望館で朝食をとることを期待していたので、空腹がたまらなくつのって来ていた。この好機を、なんら愉快なことをせずに逃してしまうのはしゃくだったが、より強力な食欲には負けた。残念ながら、悪戯ごとはあきらめて、私は森の外に出た。 展望館の様子は、そばへ近づくにつれて、不安の念を起こさせた。昨夜以来、どこといって変ったところはないようだった。私はなぜとはなしに、建物の外見に、人の住んでいるしるしが現われていることだろうと予期していた。ところが、そうではなかった。窓はすべて雨戸がぴたりと閉めてあり、どの煙突にも煙はなく、正面の扉そのものにも、しっかりと錠前がかけられていた。するとノースモアは裏口から入ったことになる。これは当然の、そう考える他はない結論であった。であるから、館の裏手に回ってみて、裏口の扉も同じように錠前がかけられているのを見たときの私の驚きは、想像もつこうというものだ。 私の考えは、ただちに、当初の盗賊の想定にもどっていった。そうなると、昨夜手をこまぬいて眺めていたことが、ひどく悔やまれた。私は一階の窓をすべて調べてみた。どの窓も人のこじ開けた形跡はなかった。錠前も調べてみたが、どちらもしっかりと掛けられていた。そこで、問題は、もし盗賊が押し入ったのなら、彼らはどうやって館の中に入ったかである。彼らは、ノースモアが彼の写真道具をしまっておいた、納屋の屋根にのぼったにちがいない、と私は推理した。そこを伝って、書斎の窓からか、以前の私の寝室の窓からか、侵入をとげたにちがいなかった。 私は彼らの手口と思しきやり方をなぞってみた。まず、屋根にのぼって、両方の部屋の雨戸を試した。どちらもしっかりと閉ざされていた。しかし、簡単にあきらめる私ではなかった。少し力をこめると、一方の雨戸が勢いよく開いた。そのはずみで、手の甲に擦り傷を負った。今も思い出すが、私は擦り傷を口に当て、犬のようになめながら、たぶん三十秒ほども立ちつくしていたろうか。そして、背後の荒寥とした砂原と海とを何気なしに見つめていた。そのわずかな時間に、私の目は、北東数マイルの沖に、大型スクーナー船(訳注**)の影を認めていた。それから、私は窓を押し上げ、身を乗り上げて部屋の中に入った。 訳注** a large schooner yacht: ヨットは一本マストの縦帆船であり、スクーナーは二本マスト以上の縦帆船であるから、ここは単にスクーナーとしておいた。 私は家中を調べて回ったが、私の当惑は言葉に表わせないほどだった。荒らされた様子はまるでないどころか、反対に、どの部屋も普通以上に清掃されており、快適だった。暖炉の準備も、火をつけるまでになっていた。三つの寝室は、ノースモアの習慣とは全く相容れない贅沢さでしつらえられており、水さしには水が入れてあり、寝具は折り返されてあった。食堂には三人用のテーブルが置かれ、食料庫の棚には、冷肉や猟鳥の肉や野菜類がふんだんに蓄えられていた。来客のあることは明白だった。それにしても、人づき合いの嫌いなノースモアに来客とは?なによりも、真夜中に、家の中をこんなふうにこっそり準備したのはなぜなのか?しかも、雨戸を閉めたり、扉に錠前を掛けたりしたのはなぜなのか? 私は私の訪れた痕跡をすべて消し去り、気がかりな、まじめな気分で、窓から外へ出た。 スクーナー船はまだ同じところにいた。瞬間、この船が館の所有者と客たちとを乗せて来る<レッド・アール(赤い伯爵)号>ではないかという考えが、私の頭にひらめいた。しかし、船の船首は別の方角に向けられていた。 第二章 帆船からの夜の上陸 私はひどく腹を空かせていたので、ひとまず隠れ場へ戻って食事を作り、それを済ませてから、その朝はいささかなおざりにしておいた私の馬の世話を見た。時々森の端まで様子を見に出たが、展望館には何の変化もなく、砂原には一日中人影が見られなかった。沖に浮かぶスクーナー船が、私の目の及ぶ限りで、ただ一つの生き物の気配であった。船は見たところ、定まった目的もなく、何時間もの間、遠ざかったり近づいたり、風上に舳(へさき)を向けて停船したりをくり返していた。しかし、暮れ方になって、船は次第しだいに近づいてきた。私は、この帆船がノースモアと彼の友人たちを乗せていて、たぶん暗くなってから上陸するつもりであろうという確信を深めた。それと言うのも、その点は密かな準備と符合するばかりでなく、十一時になるまでは、海岸からの侵入者を阻(はば)んでいるグレイデン・フローやその外の流砂を覆うまでには、潮が十分に満ちてこないからだ。 昼の間は風も波も静まりかげんであったが、日暮れ時には前の日の荒天がぶり返した。真暗な夜になると、海からの風は、時に雨をもまじえた突風となって一斉砲撃を始めた。寄せ来る波は、潮が満ちるにつれて、いよいよ激しさを増した。私はニワトコの茂みの中の見張り場にひそんでいた。その時、スクーナー船の帆柱のてっぺんに灯火が掲げられた。先程、夕明かりの中で見た時よりも、船は近づいていることが分かった。この灯火は、海岸にいるノースモアの仲間への合図に違いなかろうと私は考え、砂原へ出て行き、それへの応答がないかと辺りを見まわした。 森の縁沿いに人の通る小道ができていて、展望館と邸宅との間を最短距離でつないでいた。その方面に目をやった時、四分の一マイル(400メートル)と離れていない先に灯火がきらめき、どんどん近づいてくるのが目に入った。そのふらついた進みぐあいから推して、くねった小道を、突風がひとしきり荒れるたびによろめいたり、面くらったりしている人が手に提げている、カンテラの灯りらしかった。私はニワトコの茂みにもう一度身を隠し、その新たな人物が近づいて来るのを熱心に見まもった。それは女であることが分かった。彼女が私の隠れ場から二、三メートルほど先を通り過ぎて行った時、その顔をはっきりと見分けることができた。ノースモアが子供の頃に乳母をしていた、耳も口も不自由な老女が、この秘密の仕事における彼の相棒であった。 私は少し距離をおいて彼女のあとをつけた。それには砂丘の数限りない凹凸が好都合であったし、暗夜にも隠され、おまけに乳母の耳の聞こえないことや、風と波の怒号が幸いしていた。彼女は展望館に入り、すぐさまニ階へ上がって、海に面した窓の一つを開き、そこに灯火をおいた。するとほどもなく、スクーナー船のマストの頂に灯されていた灯火が下ろされ、消された。その目的は果たされたのであった。乗船している者たちは、迎えの準備のできたことを確信したのであった。老女は準備をつづけた。他の窓のよろい戸は閉められたままであったが、かすかな明かりが館の中を行き来するのが見て取れた。それに、一つまた一つと煙突から火の粉が飛び出すのを見て、火をおこしているのが分かったのである。 ノースモアと彼の客人たちが、流砂に潮が満ちしだい上陸するつもりであることは、もはや確かであった。それにしても、ボートで上陸するには荒天(しけ)の夜であった。その危険性を考えると、私は好奇心に加えて、いささか心配を覚えた。わが旧友は、確かにまたとない変わり者であったが、今のこの常軌を逸した企てにいたっては、心配なばかりか気味が悪かった。そんなこんなの感情に誘われるようにして、私は浜辺へとおもむき、展望館へと向かう小道から六フィート(1.8メートル)程離れたくぼ地に、うつ伏せの姿勢でひそんだ。そこから、上陸してくる者たちの顔を見分け、彼らが知り合いであることが分かったならば、上陸したところで彼らに声をかけるつもりであった。 十一時少し前になって、潮がまだ十分に満ちていない危険な状態の中で、岸の近くに一隻のボートの灯りが見えてきた。私の注意力は俄然かきたてられたので、まだ沖合いに、もう一隻のボートが大波に激しくゆすられ、見え隠れしているのにも気がついた。夜がふけるにつれて悪化していく天候と、海岸を風下にして停泊している帆船の危険な状況を考慮して、彼らはできる限り早い刻限に、上陸を試そうとしたらしい。 それからしばらくして、非常に重い箱を運んでいる四人の船員と、カンテラを手にして先に立ったもう一人の船員とが、腹這いになっている私のすぐ前を過ぎていった。そして、乳母によって展望館に通された。彼らは浜辺へと引き返し、二度目には前のよりは大きいが、見たところそれほど重くないもう一つの箱を運びながら、私の前を通り過ぎた。彼らが三度目に運搬した時には、船員の一人は革鞄(ポートマントー)を運んでおり、他の者たちは婦人用のトランクと旅行鞄を運んでいた。私の好奇心はいたくかきたてられた。ノースモアの客人の中に女性がいるとなれば、彼の習性が変わったことになるし、彼のお気に入りの人生観から変節したことにもなるから、私を驚かせるだけのことはあったのである。 彼と私が二人で暮らしていた頃には、展望館は女人禁制の寺であった。それなのに、今や嫌悪されている当の性別に属する一人が、その屋根の下に宿りを与えられようというのである。前日、館内の準備を調べてまわった時に特に気のついた一、二の点、優美な、もしくは、ほとんどなまめかしいばかりの雰囲気を私は思い出した。それらの目的が今はっきりした。最初からその事に気づかなかったのは、私としては間抜けたことであった。 こんなことを考えている間に、第二のカンテラが浜の方からこちらへ近づいて来た。それを手にしているのは、これまで見かけていない船員であった。彼の後について、別に二人の人物が展望館へ向かっていた。この二人は、間違いなく、館で迎えの準備が整えられていた客人たちであった。そこで私は、目をこらし耳をそばだてて、この二人が通り過ぎるところを観察しようとした。一人は並外れて背の高い男であった。旅行帽を目深にかぶり、顔が隠れるくらい、ボタンをぴたりとはめ、襟を立てた高地地方のケープをまとっていた。彼について観察できたことは、今言ったように、並外れて背の高い男であるという点と、ひどく前かがみで、よろよろと歩いているという点だけだった。彼のわきに、彼にしがみついているのか、彼を支えているのか、どちらとも見極められなかったが、若くて背の高い、細身の女の姿があった。彼女はことのほか蒼白い顔色をしていた。しかしカンテラの明かりの中では、彼女の顔は、踊る濃い影によってひどくゆがめられていたので、はなはだしく醜く見えたり、また後で知れたように美しくも見えた。 二人がちょうど私のすぐそばを通った時、若い女が、風の音に消されて聞き取れなかったが、何事かを口にした。 「静かに(Hush)!」連れの男が言った。その言葉の発せられた調子の中には、私の心胆に染み入って、震えを覚えさせるようなものがあった。それは、とてつもない恐怖にさいなまれている胸から、吐き出されでもしたようだった。私はその時以来、これほど感情のこもった一音節を耳にしたことがない。今でも、熱に浮かされた夜などは、それが聞こえてくる。すると、私の心は昔のことで一杯になる。その男は、言葉を発すると同時に、若い女の方を振り向いた。私は一瞬ではあるが、豊かな赤い髯と、若い頃にへし折られたように見える鼻とをとらえた。それに、彼の透きとおった両の眼(まなこ)が、何やら強烈な、穏かでない情念をぎらつかせているように見えた。 しかし、二人は通り過ぎてゆき、展望館の中へ迎え入れられた。 船員たちは一人ずつ、または連れ立って、浜へもどって行った。「押し出せ!」と叫ぶ荒い声が、風に乗って私のところまで届いた。それから、しばらくして、いま一つのカンテラが近づいて来た。それは一人でやって来るノースモアであった。 わが妻と私は、それぞれ男と女の見地からして、一人の人間が、ノースモアの場合のように、すこぶる好男子であると同時に、すこぶる不愉快な男でありうるということに、しばしば奇異の思いを共にしたのである。彼は完璧な紳士の外見を持っていた。彼の容貌は、知性と勇気のあらゆるしるしを帯びていた。ところが、彼がどんなに上機嫌な時でさえ、一目彼を見さえすれば、彼が奴隷船の船長のようなかんしゃく持ちであることが分かるのだ。激しやすいばかりか、同じ程度に恨みがましい人物を、私はほかに知らない。彼は南方人の激越さと、北方人の根深く、度しがたい憎しみをあわせ持っていた。この両方の特徴は、彼の顔の上にはっきりと描き出されて、一種の危険信号となった。身体的には、彼は背が高く、頑健で、活動的であった。髪と顔の色は濃い褐色をしていて、顔の造作は整ってはいたものの、威圧するような表情がだいなしにしていた。 その時のノースモアは、もとからの顔色よりもいくぶん蒼ざめていた。おまけに、険しいしかめ面をして、口唇をぴくぴくさせていた。不安に襲われた者がするように、歩きながら油断なく辺りを見まわしていた。とは言え、そんな態度の奥に、どこか勝ち誇ったような様子が見られる気がした。いわば、かなりの所までこぎつけて、成功までにあと一歩という思いをかみしめてでもいるような、そんな様子だ。 一つには、非礼な行為していることに気が咎めてきたためであったが――たぶんそれを感じるのが遅すぎたようだ――また、一つには知人をびっくりさせる面白さから、私は自分のいることを今すぐ彼に知らせたいという気持ちになった。 私は突然立ち上がって、前に歩み出た。 「ノースモア!」と私は呼びかけた。 一生の間で、あんなにひどく驚いたことはなかった。彼は無言のまま私に飛びかかって来た。彼の手は光るものを握っていた。彼は私の心臓をめがけて短剣で突いたのだ。間髪をいれず、私は彼にパンチを食らわせ、転倒させた。私の方が機敏であったためか、それとも彼のねらいが定まらなかったためか、いずれにせよ、刃先は私の肩をかすめただけに終わったが、つかを握った彼の拳がしたたかに私の口元を打った。 私はあまり遠くない所まで逃げた。長く隠れたり、ひそかに前進や後退をするために、うまく砂丘の地形を利用できるようにと、何度もくり返し観察しておいたのが役立った。立ち回りの舞台から十メートルと行かない所で、私は前のように草の上に身を伏せた。カンテラは地に落ちて、消えていた。しかし、何とも驚いたことには、ノースモアがひとっとびに展望館へ逃げ込む姿が目に映った。そればかりか、鉄の閂(かんぬき)を内で閉ざす音が聞こえたのだ! 彼は私の後を追わなかったどころか、彼の方が逃げ去ったのだ。私の知る限り最もなだめ難く、無鉄砲な男であるノースモアが、逃げ去ったとは! 私は自分の頭が変になったのかと思ったくらいだ。しかし、何もかもが信じがたいこの不思議な企てにおいて、ちょっとやそっと信じがたいことがふえたからといって、いちいち騒ぎ立てることもなかった。そもそも、展望館でひそかな準備がなされていたのはなぜなのか?ノースモアと客たちは、わざわざ風の強い真夜中を選んで、しかも潮がまだ十分に流砂を覆っていない時に、なぜ上陸したのか?ノースモアはなぜ私を殺そうとしたのか?彼は声を聞いて、私と分からなかったのだろうか?不可解であった。なによりも、彼はどういうわけで、手に短剣なぞをたずさえていたのだろう?あの時分には、短剣だとか小刀だとかは、時流にそぐわない代物に思われたのだ。たとえ、夜中に何らかの謎めいた事情から、一紳士が自分の所有地の海岸に、帆船から上陸する事態に至ったところで、こんなふうに相手を刺し殺そうと身構えながら歩くなどということは、どう考えても尋常ではない。考えれば考えるほど、私はわけが分からなくなった。私は指折り数えながら、謎の要素をもう一度あらい出してみた。秘密裏に、客を迎える準備のなされた展望館。彼ら自身の命の危険を冒したばかりか、帆船までもさし迫った危険にさらして上陸した客たち。客たちの、少くともそのうちの一人の、まぎれもない、しかも一見理由のない恐怖心。抜き身の短剣をたずさえたノースモア。彼の最も親しい知人を、一言呼びかけられただけで刺そうとしたノースモア。そして、最後に、一番不思議なことだが、殺そうとした男から逃げ去って、展望館のドアの背後に、追いつめられた動物のように立てこもったノースモア。以上の少くとも六つに分けられる点が、極端に私を驚かせた要因なのだ。それらの一点一点は互いに重なりあう部分があって、全体として、一つのつじつまの合う筋書きをなしていた。わが目わが耳を疑いたくもなろうというものだ。 そんなふうに、不可思議の念にとらわれて立ちつくしているうちに、先ほどの応酬で受けた傷が痛みだしているのに気づいた。そこで、砂丘の間をこっそりと迂回して、再び森の中に身を隠した。その途中で、またもあの年老いた乳母が、数メートルと離れていない先を通り過ぎていった。相変わらずカンテラを手にして、グレイデンの館へと帰るところであった。このことは、この一連の出来事において、七番目の不審な点であった。ノースモアと客たちは、どうやら自分たちで料理や掃除をするつもりらしかった。他方、老婆は庭園に囲まれたあの兵舎のように広い空き屋敷に住みつづけるらしかった。そんなに多くの不便をしのんでまでも守らねばならない秘密とは、さぞ重大な理由があってのことに違いなかった。 そんなことを思案しながら、私は隠れ場に向かった。用心に越したことはないので、私はたき火の燃えさしを足で踏み消し、カンテラを灯して、私の肩の傷を調べた。それは小さな傷口だったが、かなりの出血をしていた。布きれと泉の冷たい水で、なんとか手当てをした(傷の場所が手の届きにくいところにあったのだ)。傷の手当てをしながら、私はノースモアと彼の謎のくわだてに対して、心の中で戦いを宣告していた。私は生まれつき、怒りに駆られやすい人間ではない。だから、私の心中では怒りよりも好奇心が勝っていたことだろう。いずれにしても、私は宣戦を布告したのだ。そこで、それに備えて、連発銃を取り出し、弾を抜いて銃の手入れをし、念入りに弾をこめ直した。次に、私は私の馬が気がかりになった。逃げ出したり、いなないたりしたら、海岸林に私が野営していることがばれないともかぎらない。馬を身辺から遠ざけようと決めた。そこで、夜明けを待たずに、私は馬を連れて砂原を越え、漁村の方へと向かった。 * * * 作品名:砂丘の冒険(The Pavilion on the Links)1,2章 作者:ロバート・ルイス・スティーヴンソン 翻訳:脩 海 (copyright:shuh kai 2006) 入力:マリネンコ文学の城 |