ヤコプ・ヴァン・ホディス(Jakob van Hoddis 1887-1942?)
ドイツ表現主義の詩人。ベルリンに生まれる。本名 Hans Davidsohn 、筆名はDavidsohnのアナグラム。前世紀初頭の表現主義の文学運動に参加した多くの詩人たちの中の一人であるが、1911年に発表した詩Weltende (世の終り)によって、表現主義の一方向を代表する詩人となった。1912年には精神異常の最初の兆候が表われ、生涯の大部分を精神病院で過ごしたのち、ナチスの収容所に移され行方不明となった。 訳者はヴァン・ホディスの作品についてはアンソロジーに散見するもの以外を知らないので、一斑をもって全豹を推すの外はないが、トラークルやシューレアリストにつらなるヴィジョンの持主であったと言えよう。(K) |
ハッケル博士の最期 ヤコプ・ヴァン・ホディス作 ハッケル博士は、黒い石造りの途轍もない大広間と、諸王の立像と翼のある獣どもの夢を見た。巨人の通る階段を夢に見て、躓きながら下りて行った。彼は考えた――‘わしは大いなる秘密へと向かっているのだ’。そして立ち止まって、この小説めいた言い草を恥じらった。一人の若者が松明の蒼い灯の許に坐っていた。この者は天使であろうか? ‘そうお考えなら’彼は博士に訊ねた。‘あなたは神のもとへ来たとでもお思いか?’博士は決然としたふりを装った。‘ここにあるもの全てが現実であると、あなたにどうして解るのですか?’‘神は遍在する’博士は答えた。‘そしてわしは彼をここに見る力を有しておる’若い男は目をくるくる回して彼を幻惑しようとした。その者は口うるさい地の精であって、博士が間違っていることを知っていた。‘世界は単に測り知れないものの私の解釈であるに過ぎない’ハッケルは疑いながらも主張した。彼はばったりと倒れた。 気がつくと彼は、おのれの寝台の上で、服を脱ぎかけたまま横たわっていた。醜い陽光が既に部屋の中に差し込んでいた。一脚の椅子の上に、半分紅茶の残ったカップが載っていた。ランプはまだ燃えつづけている。夜の家畜じみた臭いが彼を取り巻いていた。 ‘物がそれ自体ではどのような状態にあるか、知ることはできない’――彼は苛まれるような憤りを覚えながら考えた――‘現象と名づけられるある物がわしに与えられる。わしはそれを秩序づける。わしの遂行しうるどの秩序も正しい’彼は彼の幻影に戻ろうとした。‘おそらくわしは狂っているのだろう’彼は考えた。‘とはいえ――’彼は澄んだ大気の中に雪原を見た。‘とはいえ’彼は思考を完成した。‘それだけの値打ちはある’彼はハンマーを手にとって野原を駆けた。地面から巨人の金髪の頭がもち上がった。そいつは鋼のように青い目で彼を凝視した。ハッケルはその頭から一かけら打ち欠いてみたく思った。山高帽を被った若いユダヤ人が呼びかけてきた。‘おおい!あなた!’ハッケルはどんどん駆けて行った。ユダヤ人は彼の上着の裾をとらえた。‘あなた、博士殿!お聞きなさい!気でも狂ったのですか?’ハッケル博士は‘それだけの値打ちはある’という返事を忘れていた。 突然我に返ると、彼は部屋の中にいて、彼の長い手足をぶらつかせ、毛のない頭を壁に打ちつけていた。‘もう一つの新しい世界!わしの夢の世界!’彼は訴えた。 そして彼は古い毛布をひっつかみ、これはアッシリアの偶像であると言い張った。彼は不安に酔い痴れていた。彼は外套をまとい、家からとび出していった。どの通りにも人影はなかった。 ミルクを載せた車ががたがた鳴った。カフェの窓から椅子どもが脚を伸ばしていた。一匹の小さな白い犬が車道を越えて走ってきて、彼を貪り食ってしまった。 (原題:Doktor Hackers Ende ) * * * * 詩抄 ヤコプ・ヴァン・ホディス作 <曙光・世の終り・映画・夜の歌> 曙光 ぼくらは心乱れ年老いて家路へと歩を進める けばけばしく黄ばんだ夜は盛りを過ぎた ぼくらは見る 街灯の上を冷たく青黒く 空が威嚇し輝き初める様を 間もなく朝の幅広い光輝の中に重く まだらに長い通りは身をくねらせる 力強い曙光が朝をもたらす 肉づきの良い赤く凍えた指でおずおずと (原題:Aurora ) 世の終り 町の人のとがった頭から帽子が飛ぶ 大気の到る処に叫びのようなものが起こる 瓦職人が墜落して真二つになる そして海岸では―新聞によると―潮が高まっている 嵐が起る 荒れた海が陸にのしかかり ぶ厚い堤防を押しつぶす 大抵の者は鼻風邪をひいている 列車が鉄橋から落ちる (原題:Weltende ) 映画 館内は暗くなる 僕らは見る ガンジスの急流や椰子の木やバラモン寺院 声なく激する放蕩家の家庭劇 加えて仮面舞踏会 連発銃が抜かれる 嫉妬がうごめく ピエフケ氏度を失って決闘する 次いで背負い籠と甲状腺腫のアルプス女 峻険な坂道に現われる やがて彼女の道は落葉松の森を抜け ほどもなく鍵の手に曲がった所で険しい岩山 ぬっと聳えて人目を驚かす 見下ろす谷間には 牝牛とじゃが芋畑のにぎわい 暗い館内へ―僕の目の中へ―こうしたものが 恐るべし!次から次へと飛びこんでくる 最後にアーク灯がはじけて明るくなる― 僕らは欲情して欠伸しながら外へと押しくらする (原題:Kinematograph ) 夜の歌 夕焼けが青空を引き裂いた 血が海に落ちて熱病が燃え上がった 年若い夜を灯火が突きさしていた 通りの上 白い部屋の中 明るく そして人々は光に傷ついて身もだえする 浮浪者は叫ぶ 小さな子供達はすすり泣く 森の夢を見て不安げに 一人の狂人 ベッドにうずくまりあたりをうかがう 逃げ出すべきだろうか? ‘ぼくらはなぜ母の胎内から這い出したりなぞしたのか だれもが別の人でありたいと思うのに そしてだれもが君の中に眼(まなこ)をねじ込んでくる 君の夢の中に臆面もなく押し入ってくる 彼らの手足が君の骨にへばりつく 身の置き場がないとでも言うように それなのに人々は相変わらず死にたがらない 一人として月のように孤独にさすらいはしない そして月さえもが滅びを意味するにすぎない その愛も死をもって報われるのであるからには― ぼくのはるか下で病んだ夜が死んでいく 恐怖にみちた明日がやがてのぼってくる 朝はすみやかに暗黒を打ち殺す 夜が呑み込んだ兄弟の昨日よりも 彼が荒々しいのはなぜであるか’ 呪われた山からトランペットの響き― 大地と海とが神の中に沈むのは何時のことか? (原題:Nachtgesang ) 翻訳・入力:脩 海(エポス文学館) アップロード:2006.7.5 copyright: shu kai 2006 |