サロン・ウラノボルグ
第7章 モーグルズ・フェイブルズ ・・・暗い・・・寒い・・・何も聞こえない・・・おいらは死んだのか・・・だれも答えてくれない・・・コンピューターは死について教えてくれなかった・・・こんなことなら、おいらたちは生まれてこないほうが良かった・・・何かが間違っている・・・おいらたちはだまされたのか・・・コンピューターに・・・神様に・・・いいえそれは違うわ・・・だれ?いま、答えてくれたのは?・・・フローラ、わたしの名はフローラよ・・・フローラ、きみも殺されたの?・・・いいえ、ちがうわ・・・フローラ、おいらはいまどこにいるの?・・・あなたは、わたしのなかにいるの・・・きみのなか?・・・魂は死んで神様に食べられるのよ・・・神様に?・・・宇宙は神様の牧場なの。美しい魂だけが、神様のお気に召すの・・・フローラ、あなたは神様なの?・・・いいえ、わたしはフローラ、さまよっている魂を見つけると、わたしのなかに宿らせてあげるの・・・わたしといっしょに生きるのよ。いつか神様に食べられるまで・・・フローラ・・・ブルフローラ・・・フローラちゃん・・・ * * * ダルシネア 「フローラちゃん、フローラちゃん。よかったわ、やっとお目が覚めたのね」 マリネンコ 「にゃんに似て、ひとたび眠りの世界に遊ぶと、そこから去りがたいのにゃらん」 ダルシネア 「それだけは似てほしくありませんことよ。本当に心配しました、このまま夢の世界からもどって来られないのではないかと」 ブルフローラ 「お母さま、ご心配なく。しばらく魂と語らっていましたの。今は静かになりました」 マリネンコ 「月の少年と語らっておったと申すのきゃ」 ブルフローラ 「はい」 マリネンコ 「その悲惨にゃる物語はそにゃたのつくれるものきゃ」 ブルフローラ 「月の少年の物語ったことを、皆さまにならって、少々小説風にアレンジしてみました」 マリネンコ 「ゲヒンダーとは何者きゃ」 ブルフローラ 「わたくしの頭に自然と浮かんできた、未来の支配者ですわ。それ以上のことは分かりませんの」 ナタニエル 「私も物語にゲヒンダーの名が出てきたのでハッとしました。近頃ユーロニアに、またまたアララン民族の優越を説く秘密結社が生まれたと聞きます。その指導者がゲヒンダーです。彼はあのユウデとツィンガリの絶滅を図ったナチョ党の党首、ヘドラーの隠し子の子孫だといわれています」 マリネンコ 「アララン民族は何故に他の民族に優越せるのにゃ」 ナタニエル 「アラランはアラランだけを人間と見なしているからです。実際には、すべての人種は共通の祖から生まれ、共通の遺伝子を担っているのですが、彼らはその科学的事実を認めません。そればかりか、彼らは遺伝子改良を行ない、自分らの民族を超人に進化させようとしているのです。彼らゲヒンダーの徒は、同志の言うところでは、われらの最大の敵となるかもしれません」 モーグル 「ナタニエル君、そのアララン党もまたブラックミラーを探しているのかね」 ナタニエル 「それは存じません。しかし彼らは迷信家であるとともに、都合のよい科学主義者でもあるのです。ブラックミラーに興味をもっても不思議はありませんね」 バロン 「迷信と科学とはえてして結びつきやすいものじゃ。科学主義者でマテリアリストのナタニエル君の前で講釈するのもなんだが、科学はもともと善でも悪でもない、価値から自由な知の世界じゃ。それをどう使おうと、使うものの意志しだいと言うわけじゃな」 ナタニエル 「おっしゃるとおりですが、真理を探究する心は、本来善と結びつくべきものです。科学は迷信や宗教と闘いながら、人類をよい方向に導く努力をしてきたのです」 バロン 「なるほど科学は迷信を打ち砕き、宗教の詐欺や迷妄を暴露してきたのは疑いない。しかし人間の欲望にはうち克てなかった。人間の欲望の集合が戦争への意志となって、国家や民族が争いだした時、科学はまさにその争いの道具となったではないか。大空を翔りたいという願いは飛行機を生み出したが、それが人の頭の上に爆弾を降らせることになり、きみら唯物論者の神であるアインストーン博士の方程式 e=mc^2 は、一瞬にしてソドムならぬ、ヒロサーキ国の全住人を滅ぼしたではないか。科学は迷信や宗教にうち克ったように、何故戦争や憎悪にうち克つことができんのじゃ」 ナタニエル 「かつて科学は人間を幸福にしようという目的を持った学問でした。科学は勝利におごって、そのことを忘れてしまったのです。科学は初心に帰って、善によって導かれねばなりません。今や善なる科学が、悪しき科学を克服すべき時なのです」 バロン 「君らの科学が善であり、ゲヒンダー率いるアララン党の科学が悪であるというわけじゃな」 ナタニエル 「そのとおりです、バロン」 バロン 「それならば、君らは何が善であり、何が悪であるかの規準を、前もって知っておるわけじゃな」 ナタニエル 「もちろんです」 バロン 「相反する価値観の持ち主が、互いに相手を悪党とか悪魔とかののしる例は、歴史上枚挙にいとまなかろう。近頃も、クスランのテロリストの破壊の報復として、アメリンゴの大統領が十字軍を組織し、互いに悪魔、悪党と呼び合っておるが」 ナタニエル 「われわれは何が人類の善であるかを綿密に研究しました。その善の達成を妨げているものを、科学によって除去してゆくのです」 バロン 「君らのいわゆる善を、知らぬ間に人類に接種しようとでも言うのかね」 ナタニエル 「手段は目的によって正当化されます」 バロン 「それも君らの善の原理のひとつというわけじゃな」 ナタニエル 「この世の善きことの大部分は、知らずして実践されているものです。宗教家はそれを神の導きとか、摂理とか呼びますが、それを人間自身が計画して悪いことがありましょうか。気がついたら人間は善人になっているのです」 バロン 「余は悪人になる可能性も、つねに持っていたいと思うが」 ダルシネア 「可能性だけに留めてくださいませ、バロン。お口の悪さだけで充分ですから」 バロン 「奥様ご心配なきよう。うるわしの奥様が余の胸に永遠に留まりつづける限りは、悪は深き闇に封印されてござる。男にとって女人こそ善への導き手なれ。そうではござらんか、ナタニエル君」 ナタニエル 「それもまあ、そうとも言えますが・・・私らはそれをもっと徹底して、人類のすべての善は女性の中にあると考えます」 マリネンコ 「にゃらば、人類を女人に近づけたらいかがにゃらん、ナタニェール君。人類の善きものがすべて女人の中にあるというにゃらばにゃ」 ナタニエル 「伯爵のおっしゃるとおりです。人類のたいていの悪は男の攻撃性からきているということは間違いありません。男の破壊欲、残忍性に比べれば、女のそれは取るに足りません。その根本は、男の狩猟本能と、生殖本能における攻撃性に由来するのですが、それらは徐々に去勢され、穏やかなものに変えられてゆきます」 バロン 「やれやれ、われわれなどは真っ先に去勢されそうじゃのう。どうかね、モーグルさん、この若者たちの考えは」 モーグル 「私も去勢されたくはないが、ナタニエル君の議論の根本は正しいと思う。この世の中が女性だけであったなら、何と言う天国であろうか」 ダルシネア 「それでは女性は退屈いたしませんこと。殿方が、モーグルさんとバロンだけでは」 モーグル 「奥様、あからさまに申しますと、他の男性はともかく、あらゆる女性を独占したいという願望が、私とたぶんバロンのフェミニズムですので」 ダルシネア 「ご都合のよいフェミニズムですこと」 ナタニエル 「えーと、先ほども言いましたが、真のフェミニズムは男女の根本的平等です。そればかりか、今の議論のつづきとなりますが、女性の中により多くの善が具わっているのですから、男性はあらゆる点で、極力女性に近づくようにしなければなりません。女性が男性に権利などと称して、男性の習性と同じものを要求するなどは誤ったフェミニズムです。一言で言えば、フェミニズムとは女性の問題である以上に男性の問題であり、男性の究極の女性化を意味します。さらに言えば、人類の究極的な性の廃止を意味します」 バロン 「それはわれわれ男性にとって寂しい見通しじゃが」 ナタニエル 「人類というよりも生命界の最大の悪は、有性生殖とともに始まりました。男が女を奪い合うという悪が、生存競争の上につけ加わったのです。ご承知のように、有性生殖の行為には、攻撃性や残忍性などの凶暴な本能がつきまとっています。これが生命界の争いをより激しいものにしました。人類は善の名において、この生命界の悪の根源を絶たねばならないのです」 バロン 「そのためにわれわれを去勢しようというのかね」 ナタニエル 「その言葉は比喩的に理解してください」 バロン 「比喩的であれなんであれ、男でなくなるのは寂しいことじゃ」 ナタニエル 「それが善に向かうことであるとしてもですか」 バロン 「この世に悪は必要ではなかろうか。去勢された神のようになっても、何の喜びがあろう。のう、モ−グルさん」 モーグル 「私としては、男性の喜びとともに女性の喜びも味わえるならば、モノセックスもよろしかろうと思う。ナタニエル君の同志も、よろしくその辺を考慮してもらいたいものだ」 ナタニエル 「快楽も善の範囲内にとどまらねばなりませんが」 バロン 「窮屈な快楽じゃのう」 マリネンコ 「セックスの問題はともかくも、にゃんはワインさえ飲めれば、じゅうぶんに快楽を得られるにゃり」 ダルシネア 「にゃん様には、ワインとお話が一番でございますわね」 マリネンコ 「そにゃたのことも忘れてはおらにゃん」 ダルシネア 「三百年もお忘れでございました」 マリネンコ 「にゃんには邯鄲一炊の夢にゃり」 バロン 「その間に、他民族を滅ぼして、自分らを超人化しようという者たちや、ナタニエル君の一派のように男性を根絶しようという者たちが、この世界を牛耳るようになりましたな。われわれ古き妖怪にとっては、なんとも嘆かわしいことでござる」 アフララ 「わたくしはナタニエルさんをマテリアリストであることで、誤解していたようでした。あらゆる暴力や、男性の横暴がこの世からなくなることは願ってもないことです。わたくしの妹はその悲惨な犠牲者の一人ですから・・・」 ナタニエル 「マテリアリストであることは平和主義者でもあることです。このことはいずれ同志が・・・」 バロン 「物語ってくれることを楽しみにして待つこことしようかのう。とりあえず、今宵最後の語り手となるお方はおらんかな。どうじゃな、モーグルさん」 マリネンコ 「そうにゃ、そうにゃ、モーグルさん、若者たちのいささか過激にゃる物語のあとに、れいの心やすまるファベルとにゃらを、お聞かせ願いたいにゃん」 モーグル 「私はもともと口下手ですが、皆さんのお話を拝聴する間に、苦しまぎれの小話をひねり出せるまでになりました。鏡の後ろから小耳にはさんだうわさ話や又聞きを、私好みにアレンジしたものを語らせてもらいます」 * * * モーグルズ・フェイブルズ 第一話 釣り人 ある人が川で釣りをしている所を、通りがかった人が、この人も大の釣り好きで、思わず用事を忘れて足を止めてしまいます。そこは流れが深く淀んで、向う岸の影を濃く落とした辺りには、いかにも釣り人の竿先を引きつける、神秘な趣を湛えていました。誰もが釣りをする者にかける決まり文句で釣り人に近づきますと、通りがかりの人はまずビクを見、次いで釣る人を見、更に竿の先、浮きの浮かぶ辺りを見ました。釣り人は曖昧に笑って、ビクを揚げてみようともしませんでした。川の面はほとんど流れを失って、浮きは向う岸の影の中に微動だにせず静まり返っています。見る人は、今にも当りがあるだろうという期待に、ひと事とも思われませんで、じっと注意をこめて目を離さずにいましたが、どうしたことか、いつまで経っても波紋一つ立たないのです。そのうち釣る人のそわそわする様子が感じられました。釣れない所を見られているのは、誰しも照れくさいものですが、この釣り場の常連である通りがかりの人には、それよりも、ひと事ながら当りの悪いのが、わが事のようにいらだちを覚えさせたのです。 「失礼ながら、どんな餌をお使いか」 と尋ねてみましたが、釣り人は口を濁しています。釣る者と見る者と、共にじっと見つめる間にも、浮きは微動だにもしないままに時が移っていきます。そのうち、見る人がふと妙に思ったのは、釣る人が少しも浮きの位置を変えずにいることでした。釣り人の常として、当りがなければせっかちに鉤(はり)を上げたり、下げたりするのがならいですが、この人はじっと一所に耐えています。ついに我慢しきれなくなって、見る人はお節介とは知りながら、 「ちょっと竿を動かしたらどうでしょう」 と言ってみました。すると、釣る人はにっこり笑って言いました。 「実はその必要がないのです。あなたに気の毒だから打ち明けますが、実は糸の先に鉤など付いていないのです」 言われた人は、何か悪い冗談でも浴びせられたように、耳を疑っていますと、釣る人はいかにも済まなそうに、しかし毅然とした態度を持して、言いました。 「そもそも魚を釣るということは、魚釣りの本当の目的でしょうか。取るに足らぬ魚を釣り上げて、それで何になるというのでしょう。獲物を釣り上げる喜びなどというものは、児戯に等しいものです。けれども、この子供の世界というものが、私ら大人にとっても、また欠かせないものなのですな。年を取るにつれて、どこかで子供に帰りたがっている。けれども、なんのてらいもなく子供に帰ってしまうには、大人はあまりに見栄っ張りなんですな。何にでも口実が必要になります。世間から逃れて、天然自然の中に遊びたくとも、そこにもっともらしい口実が必要となるのです。釣りもまた、大人が子供になる事を許されるための口実の一つです。人気の無い自然の中で、誰憚ることなく独りになれる。子供のように自由を呼吸できる。そのための口実の一つですな。どうせ口実なら、無意味な殺生に本気になることはない。ここにこうして、誰から咎められることもなく、ぼんやり坐っていられる。ああ、あの向う岸の、魂を蕩かすような深い碧の影・・・」 聞く人はもはや聞いていませんでした。「ああ、馬鹿馬鹿しいことに時間を潰してしまった」と腹立たしげに言い残して、足早に去って行きました。 第二話 おじさんの一億円 ある所に、働くことが嫌いな、ものぐさな人がいました。彼は食べていくのに必要な仕事しかせず、好きな事のできる暇を持つことだけが、唯一の生き甲斐と考えていました。家族もなく子もなく、他人に何一つの迷惑もかけなかったので、彼を知る人は、ただ少し変わり者だと思うだけでした。いろいろなお節介や忠告をしたがる人も、彼の性格が改まらないと知れると、誰もその熱意が醒めてしまうのでした。けれども、これだけならば、彼はよくある、ただの適当に怠惰でものぐさな人間にすぎませんでした。ところが、子供の頃から彼にはある一つの空想がとりついていて、それは大人になっても治らないばかりか、いよいよますます確かな信念に固まっていくようでした。その空想というのはこうです。ある時、彼のおじさんという人がやって来て、彼に一億円のお金を預け、いつか取りに来る時まで、それを秘密の場所に匿しておくようにと告げたのです。彼は言われたとおりに、それを誰にも知られないように森の中に匿しました。 けれども、両親でさえそのような金持ちの親類のあることを知らなかったし、子供にそんなことを持ちかける大人のあろうはずもなく、周りの者は気の利かない嘘を初めは笑い、後には叱りつけたものでした。ところが、彼はその頃から既に、自分は大金持ちなのだという空想にとりつかれ、それは彼の生まれつきの怠惰な性格を助長したばかりか、彼の態度や振る舞いにも、貧乏人らしからぬ鷹揚さを帯びさせるようになりました。若者になったある時、彼は、「おじさんが死んだから、預かった金は自分のものになった」と皆に吹聴し始めました。嘘がここまで発展してきたのを、身近な者たちは悲しみましたが、中には意地悪く借金を申し込む者もいました。すると彼はいつもの鷹揚さにもかかわらず、すげなく断るのでした。彼の言い分は、その金はある特別な理由があって、使う時が来た時に初めて使う金なのであり、吝嗇で断るのではなく、おじさんとそのように約束したのであるから――という事でした。 そして、実際、彼自身その一億円の金によって、安楽に暮らそうということも無いのでした。親から受け継いだささやかな商売を、つぶさない程度にいとなみ、暇を作っては山野を歩き回り、読書に耽ったり、のらくらと日を送るばかりでした。将来になんの備えもないその生活を、親しい人が咎めることがあると、彼はいつも、例のどこかに匿されてあるらしい一億円を持ち出し、相手をけむに巻くのでした。こうして歳月が経ち、中年となり老年となり、時には日々のものにも困っているように見えることがあっても、彼の一億円はいまだにその使われる時を待ちあぐねているようでした。 彼はしかし、ほとんど飢え死にしかけている時でさえも、子供の頃からの鷹揚な、ものぐさな態度に改まるところがありませんでした。いよいよとなれば、私にはおじさんから預かった一億円がある、と言うのが変わらぬ口癖でした。そして、それを遠く山の中へ掘り出しに行くのが面倒だとでもいう様子で、わずかに糊口をしのぐ賃仕事に精を出すのでした。 とうとう病気になって、死が間近に迫った時、枕許に一人看取っていた子供の頃からの知り合いの者が、冗談とも溜息ともつかず、「一億円も、これでとうとう使わずじまいかね」と呟いたところ、死にかけている男はたちまち目を輝かせて、ふるき友を見つめ、「いや、今使い切ったところだ」――そう言って、やがて静かに息を引き取りました。 第三話 ワタ氏の寝言 ある朝、目覚めぎわに、ワタ氏は自分の寝言に気づきました。さかんにあられもないことを喋っているのですが、どうも自分の声のような気がしません。現に自分は目覚めているのに、咽喉だけが勝手に寝言を言うのは変ではないか。ふと思いあたることがありました。昨日、電車の座席の隣にすわった初老の男が、やはり、雑誌を読みながら突然にひとり言を言うのでした。何とかちゃん、とふいに呼びかけるのですが、本人は自分のひとり言にいっこう気づいていないように、生まじめくさって雑誌を読んでいます。一度だけでない、二度も三度もくり返されるので、ワタ氏はそのつど不安になって男の方へ目をやりましたが、本人はいっこうに平気なのです。ワタ氏は自分も時々ひとり言を言うくせがあるのでしたが、人がひとり言を言うのをはたで聞いているのは、あまり感じの良いものではありません。これは気をつけなくてはいけないな、と思いました。いつの間にか、ひとり言を言っているのを自分では気づかなくなってしまうのかもしれません。 この場合、寝言が問題でした。でも寝言とひとり言と、それほど違ったことでしょうか。どちらも自分を相手に、または想像された相手を相手に会話をするのです。とりたてて区別があろうとは思われません。そうなると、ワタ氏のひとり言を言うくせがとうとうひとり立ちして、今目覚めぎわに勝手にお喋りを始めたのでしょうか。やっかいなことに、ワタ氏の意志ではもはや止めようがないのでした。最初はとりとめのない、相手のない、文字通りのひとり言でしたが、そのうちワタ氏の存在に気づいたのでしょう、ワタ氏に話しかけてきました。自分の寝言、あるいはひとり言に話しかけられるというのは、めずらしい体験のような気がしました。が考えてみればあたり前のことで、自分の寝言に話しかけられたからって、恐れるにはあたるまいと思われました。 ワタ氏の寝言は、家を出て会社へつくまでも、ワタ氏につきまとっていました。会社のタイムカードを押すために、いつものように駆け足したためであったでしょうか、しばらく寝言はワタ氏を忘れたらしく、またワタ氏も仕事につくと、朝の妙な体験を忘れたようでした。が、やがてしんとした部屋の中で、ワタ氏の寝言がひときわ高く響きました。部屋の同僚、課長は声の主をさがし、ワタ氏も一緒にさがしました。犯人の知れないままに仕事にもどると、再び寝言が不埒なことをわめきだしました。もうワタ氏の寝言、あるいはひとり言であることに、だれもが気づきましたが、それがワタ氏でなくワタ氏の寝言であることはだれも知りません。ワタ氏は窮地に立たされました。同僚にワケを説明しました。。ワケを説明する間にも、ワタ氏の寝言は同僚の悪口をやめません。女子事務員と課長との情事をばらし、課長や同僚のいろいろな欠点をあげつらいます。みんなワタ氏の知らないことばかりでした。ワタ氏は早退を許されました。 廊下へ出ると社長が通りかかり、ワタ氏の寝言はこの好機を逃がしませんでした。ワタ氏はもう首にちがいないと思いました。ワタ氏は道を歩きながら、ワタ氏の寝言をののしります。寝言も負けずにやりかえします。ですが、なにしろ寝言は、ワタ氏について何もかも知っているのに、ワタ氏は、ワタ氏の寝言についてほとんど知るところがないのでした。勝負は見えていました。ワタ氏は屈辱感にうちのめされ、寝言に復讐を誓います。 ワタ氏は咽喉科へ寄りました。医者は扁桃腺がやや腫れていると言いました。ワタ氏の寝言は医者に悪態をつきました。ワタ氏はワケを話しましたが、医者は怒ってそんな病気は治せないと言います。ワタ氏はしかし精神病でもないのに、精神科へ行くのは癪でした。これはきっと眠り足りないのだと思いました。家へ帰って、早々に寝ることにしました。 不思議なことに、一度寝床につくと、ワタ氏はたちまちワタのように眠りこんでしまいました。三日三晩目が覚めませんでした。空腹で死にそうになり、やっと目を覚ましました。ラーメンを作り、ワタ氏はインスタント・ラーメンを、こんなに美味しく食べたことはありませんでした。気づいてみると、寝言は止んでいました。会社もこの二日さぼってしまいました。ですが、さわやかな気分です。なんだか、これまで自分が言いたいと思っていて、とてもその勇気がなかったことを、寝言が代わりにすべて言ってくれたようでした。ワタ氏は明日からの生活のめども立ちませんでしたが、そのほうが人間らしいと思いました。これまで、何だか犬小屋につながれた犬のようだったのが、今ではくさりを断ち切って自由の天地をかけ回るような、茫漠とした喜びを覚えました。ワタ氏は辞表を持って会社へ出かけました。 第4話 悪魔の尻尾 悪魔の尻尾を踏むなかれ――アフリカの諺 ある日、M氏は街中を歩いていて、不動産屋の前を通りかかりました。このところ不動産屋を見つけると、必ず、ガラスに張ってある家の広告に目がゆきました。その時も、たまたま最初に目についた手頃な値段の売り家に、ふと誘われて中へ入ってみました。店には二人の、M氏と同じ年輩の、男性がいました。M氏は応対に出た愛想のよい男に、店頭の広告にある物件について尋ねます。M氏の考えていた条件によく合いますので、とりあえず見させてもらうことにしました。それならば車でご案内しましょう、と愛想のよい男は言い、隅のもう一人の男に声をかけました。M氏が店の前で待っていますと、車が回ってきて、隅にいた男が運転しています。M氏が乗り込むと、このもう一人の男は、先ほど応対した者は他の客との約束があるので、自分が代わって案内する、と言いました。 M氏は、店に入ってこの二人の男性を見比べた時から、この隅のほうで書類か何かを繰っていた、どこか陰険そうな男に、かすかな不快感を覚えていました。しかし、人は見かけによらないものですから、M氏は気を取り直し、後部座席に腰を落ち着けました。男は商売柄でしょうか、運転をしながらさっそくM氏に話しかけてきました。最初は当たりさわりのない天候の話だとか、車のこみ具合だとか、ただ相づちを打てばよいだけの話題でした。M氏も、男が案外気さくな人物であることに少々心を許して、物件についていろいろ尋ねてみました。間数は少ないものの、まだ築年数も新しい、新所帯にふさわしい家でした。M氏はだんだんに心地よい気分になり、聞かれもせずに、ある女性と婚約しており、近々式を挙げることまでも口にだしていました。男は突然、ぶっきらぼうに、その女は誰なのか――と訊きました。M氏はそのぶしつけな質問に黙っていますと、男は急ブレーキをかけました。M氏はつんのめって、前部座席の背にぶつかりそうになりました。 M氏は前を見ましたが、何事もなかったように車はまた走り出しました。男はまた同じ質問をしました。M氏はやはり黙っていました。ふたたび車は乱暴に止まりました。しかし、M氏が降りようなどと思いつく前に、すぐ走り出しました。男がまた同じ質問をくり返した時に、M氏は仕方なしに適当に答えておきました。男は急にスピードを上げました。信号を次々に無視してゆきます。そして、女の名前は、とくり返しました。M氏は仕方なしに本当の名を言いました。しかし男の暴走は止まりません。道を渡っている老婆をはね飛ばし、自転車を転がしましたが、まるで知らん顔です。M氏は男を止めようと思いましたが、恐怖のためにまるで体が言うことをききません。 男が運転したまま振り返って、おれを忘れたか、と言います。言われて良くみると、M氏の中学時代の友人Sでした。いいえ、友人と呼んでよいものか。M氏は背筋にぞっとするものを覚えました。M氏は、中学時代にふとしたことから彼の餌食になりました。発端はつまらない足の踏み合いでした。隣の席のSと、休み時間にちょっとしたいさかいから、たがいの足先を踏みつけることを始めたのです。それが授業が始まっても、ひそかに延々とつづきました。ついに根負けして、怖気づき、それ以来Sの言うなりになってしまいました。悪夢の中学時代でした。高校に入り、転居してから、初めて彼の魔手から逃れることができたのです。その後社会人となって、Sのことは長いこと忘れていたのですが。 運転手がSであることが分かった瞬間から、M氏の望みは消えました。車は猛スピードで郊外を走りつづけます。おれから逃れたつもりか――悪魔的な嘲笑が響きました。突然ストップして、おれの代わりに運転しろ――と言いました。M氏は昔免許証を取り、使わずに運転もほとんど忘れていたのですが、言われるままに運転席に坐りました。何かに憑かれたようにハンドルを握り、アクセルを踏みました。車はいつの間にか高速道を走っています。パトカーのサイレンが鳴っています。ひき逃げをして逃げているのはおまえだ――と言う声がします。Sはいつの間にか後部の座席に移っていました。女の声がして、彼と語らっています。くすぐったそうな笑いも起こりました。M氏のフィアンセでした。いつの間にか、Sのものになっていました。女も奪われ、社会的に破滅し、M氏はやけくそに車を飛ばします。足はアクセルに張りついています。まるで誰かの足に、上から踏みつけられているように・・・。 * * * モーグル 「夜もふけたことですので、このくらいにしておきましょう」 マリネンコ 「もっと、もっと聞きたいのにゃ。にゃんは少しも眠とうはにゃきにゃり」 ダルシネア 「にゃん様はたっぷりお休みでございましたから。皆さまはそろそろお疲れでいらっしゃいましょう」 カイメラ 「寝室の用意は整っております。また明日がありますことですし、マリネンコ様も今夜はこのくらいになされて、奥様とお休みなさいませ」 ダルシネア 「つもるお話もございますことですわ。それともわたくしのお話ではご不満でしょうか」 マリネンコ 「にゃ、にゃ、それはにゃけれど・・・」 カイメラ 「バロンはいつものお部屋で、モーグルさんは・・・」 モーグル 「私は鏡の中が一番快適です」 カイメラ 「そうでしたね。アフララさんはブルフローラ姫のお隣で、それからナタニエルさんは・・・」 ブルフローラ 「ナタニエルさんはわたくしがご案内いたしますわ。少しお話の続きがございますので」 カイメラ 「そうですか。バロンのお隣になります」 ブルフローラ(ナタニエルに) 「先ほどわたくしの申しましたことを、冗談とおっしゃいましたね」 ナタニエル 「何でしょうか。たしか、獲物のコレクションの件でしたでしょうか。私としては比喩のつもりで受けとりましたが」 ブルフローラ 「もしご興味がおありなら、いくつかお見せしてもよろしいのですよ」 ナタニエル 「私としては、あなたとそのようにして深夜のデートが楽しめるのならば、願ってもないことです」 ブルフローラ 「それではお部屋にご案内いたしますから、お休みにならずに、わたくしのノックをお待ちくださいね。(ナタニエルから離れ)アフララさんもご一緒にお部屋へまいりましょう」 (三人揃って退場。マリネンコ、ダルシネア、バロン続いて退場。カイメラ部屋中のプラズマーナを招き集め、ランプ様の壷に閉じこめる。鏡の前に一人立つモーグルに会釈して、最後のプラズマーナを閉じこめると、舞台に闇。) (第7章完) 作品名:モーグルズ・フェイブルズ copyright : eposbungakukan 2009 入力:エポス文学館 Up : 2009・7・17 |