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          第9章 カイメラ氏の英雄詩講座第4回:エッダ


 (再びサロンの場。朝遅く、食事をすませた面々が登場。先ずカイメラ氏、グラーフ・マリネンコと食後のワインとをワゴンに載せ登場する後に、森番の爺や弁解しつつ続く。)

森番の爺や 「あいすまんこってす。旦那様方のお食事のことも忘れて、婆あばが家出するとは、思ってもおりませんでしたで。あっしも目覚めのはえーほうですが、夜明け方にバロンの旦那が庭で歌っているのを聞いて目覚めた時には、置手紙だけのこしてもう姿がありませんでした。何の用やら、アポルダへ出かけるとだけ走り書きしてありました。」
カイメラ 「アポルダのことならバロンに尋ねるんだね。食事のことなら気にかけることはないよ。おかげで今度売り出すレトルト食品の試食がしてもらえたわけだから。」
 (バロン背後から登場)
バロン「それは皮肉なことですな、カイメラさん。われわれの味覚をご利用なさったとは。」
カイメラ 「聞かれてしまいましたか。他の方々にはご内緒に。そもそもバロンが婆やさんにあらぬことを吹き込みなさるから、本気にしてアポルダへ立ってしまったではないですか。」
バロン 「まあ、結果を楽しみに待ちましょう」
爺や 「バロンの旦那、一体婆あばは何をしにアポルダなんぞへでかけたのでござんすか。」
バロン 「ロイマチによく効くひき臼にかかりにいったのじゃよ。おまけに少々若返ってまいろう。それを聞いて朝まで待てなかったのであろうな。」
爺や 「悪い冗談はやめにしてくだされ、バロンの旦那。婆あばだけ若返って、あっしはどうなるんでやんすか。」
バロン 「それは婆やさん次第であろう。悪いが、それ以上のことは言えんが・・・」
 (アフララ、ブルフローラ登場)
アフララ 「ナタニエルさんが、誰にも挨拶なく立ち去ってしまったのは不思議ですわね。」
ブルフローラ 「突然現われて突然消えてしまうのも、活動家らしいではないですか。兄もある日突然姿が見えなくなりましたわ。革命家になるんだという書き置きを残して。」
バロン 「ナタニエル君に関しては、書き置きはなくとも、伝言ぐらいはござらんかったか。昨夜お二人でデートの約束を交わしておるのを小耳にはさんだのじゃが・・・」
ブルフローラ 「地獄耳ですわね、夜おじ様。少しベランダで星を見ながらお話をしただけですの。あの方は時々モバイルとかいう遠隔通話装置で、例の同志と連絡しておりましたわ。」
バロン 「それならばいずれ同志とともに戻ることであろう。」
ブルフローラ 「それはそうと、今朝方お庭で素晴らしい美声をお聞かせでしたわね。おかげで早起きできましたわ。」
バロン 「皆様の睡眠のお邪魔でしたかな。夜明けの荘厳の中を出歩いておると、自然と咽喉が歌をほとばしらせるのじゃ。プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラス、ルチアーノ・パパロッチとまではいかずともじゃな。」
 (マリネンコ、ダルシネア登場)
ダルシネア 「三大テノールにお弟子入りなさいましたの、バロン。」
バロン 「奥様、過大なお褒め言葉を」
ダルシネア 「美しいお声のおかげで、つもるお話しに忘れていた睡眠に入ることができましたわ。」
マリネンコ(あくびをこらえながら)「徹夜となるところを、バロンのおかげじゃ」
ダルシネア 「あれだけ長くお居眠りなさったのに、やはり夜には普通にお眠りなさるのには呆れてしまいますわ。」
マリネンコ 「にゃんにはあらゆる眠りは甘美なるにゃり。」
バロン 「マリネンコ殿の特技は、悪夢と無縁なるがゆえに、この世で最上の幸福と申せよう。」
ダルシネア 「バロンの詩は悪夢そのものでございますものね。」
バロン 「この世では存在そのものが悪夢と申せよう。デカンショ博士も、この世界は悪魔の見る夢なりと喝破してござる。」
ブルフローラ 「では夜おじ様は、夜明け方にどのような悪夢にうなされて、お庭で歌われていらしたのかしら。」
バロン 「夜明けのパープルの荘厳に打たれて、この世の終末について思いを寄せており申した。」
ダルシネア 「バロンはこの世がお嫌いで、早く無くなってほしいのでしょうか。」
バロン 「人類の大半がそう願ってはおらぬだろうか。かつて終末を願わなかった民族や宗教があろうか。積み木の城を築きあげた子供に残された欲求は、早くもそれを破壊することではござらんか。出来上がった物、完成された物は、もはやそれを壊す以外の魅力を持たぬのじゃな。ましてや、それが苦痛を与えたり、不条理であったりすれば、それの不在を願わぬものはなかろう」
ダルシネア 「世界が不在であるならば、バロン、あなた様も存在いたしませんでしょうに。自殺でもなさるのですか」
バロン 「矛盾のようでござるが、余が存在するがゆえに、世界はあってはならないのじゃ。余が存在しなければ、世界の存在などどうでもよいのでござる」
ダルシネア 「よく分かりませんことよ。わたくしの分かるのは、相変わらずお一人よがりでいらっしゃるということですわ」
マリネンコ 「いかにもバロンらしき論理にゃり。バロンにとっては、世界の存在の前にバロンがあるのにゃ」
バロン 「残念なことに、余にはこの世界をどうすることもかなわん。せめて終末を願う以外のことは。その点マリネンコ殿は、世界と共に生まれ、世界と共に存在するのであってみれば・・・」
カイメラ 「皆さまお飲み物が入りました。ティーなりとワインなりとご自由に。男性方はもちろんワインでございますね」
 (マリネンコ夫妻と客達、ワゴンからそれぞれグラスやカップを取る。)
バロン 「ところでカイメラさん、今朝は手作りの美味なる朝食に堪能いたした」
ダルシネア 「カイメラ先生がお料理上手とはこれまで存じ上げませんでした」
カイメラ 「お褒めに預かるようなものではございませんが、皆様ご満足なすってほっとしております」
マリネンコ 「にゃんの舌には初めての味のスープであったにゃん。いかなる調理法にゃるか」
カイメラ 「通常の鶏がらスープにマタタビの粉末を少々・・・」
マリネンコ 「さようにゃるか、よき味であったにゃり」
カイメラ 「光栄でございます」
バロン 「ところで、今日はナタニエル君が欠けて寂しいのじゃが、カイメラさん、人類の終末願望を例証する物語なぞ語ってくれもうさんか」
マリネンコ 「そうにゃ、マタタビの味に劣らぬ物語を一つ語ってくれにゃん」
カイメラ 「よろしゅうございますが、モーグルさんが現われるまでお待ちになっては」
バロン 「モーグルさんもブラックミラーが気がかりで、あちこちの様子を探っておるようじゃ。しかし噂をすれば影で、どうやらご到着じゃ」
(ブラックミラーに影映り、モーグルするりと抜け出す。)
モーグル 「グーテン・モルゲン、皆様方。少々情報収集に手間どりました」
バロン 「そのお顔では、あまり良きニュースはなさそうじゃな」
ダルシネア 「わたくしにはいつものお顔と区別がつきませんが、モーグルさんは笑い顔というものをお見せになったことがございませんから」
モーグル 「笑いというものはとうの昔に忘れてしまいましたので」
バロン 「モーグルさんはいくら酔うても面には表われませんな。自制心の塊のようなお方じゃ」
ダルシネア 「それならばなぜお酒など飲まれるのでしょう」
マリネンコ 「マイ・ディアー、モーグルさんとバロンとにゃんにとりては、ワインは命の泉ぞにゃる。酒はお神酒と言うて、人にとりては毒なれども、神々にとりては永世の霊薬にゃり」
バロン 「veritas in vino とも申しまして、酒中には宇宙の真理が隠されております。バッカスこそ生命の真理を表わす神でござる」
ダルシネア 「わたくしには酒飲みの都合のよい理屈にしか思われませんが。せいぜい神になったようなお気持ちをお楽しみ遊ばせ。」
バロン 「ところでモーグルさん、何か不都合な事情でもござらっしゃったか」
モーグル 「皆さんを不安がらせてはいけませんが、不穏なニュースがございます。ブラックミラーの破壊が、どうやら例の秘密結社の仕業であることが分かりました。」
バロン 「と申すのは、ゲヒンダーのアララン党でござるか、それとも姿を消したナタニエル君の同志の・・・」
モーグル 「ナタニエル君の同志のオネイロ団ではなく、アララン党の仕業です。もはやどちらの結社も公然と姿を現わし、世界中で物議をかもしています。ナタニエル君の一派は自由ウイルスを世界にばら撒き、国境をなくそうとしています。しかしより危険なのはアララン党です。アララン党の天才青年科学者アルヴィッセント博士が、ダーク・マターのコントロールに成功し、世界を背後から支配する装置を完成しつつあるということです。ブラック・ミラーの破壊はその実験の一つに過ぎなかったようです。」
バロン 「なるほど、ダーク・マターの世界に住まわれているモーグルさんとしては、尋常ならぬ事態でござるな。アララン党はギリシャ神話の神々のような地位につこうとしておるのじゃろう。そのためにわれわれのごとき古き妖怪は、巨人族のように追放されかねませぬな」
マリネンコ 「その時はにゃんの城に立て籠もるがよかにゃん」
バロン 「かたじけのうござる」
モーグル 「ここにブラック・ミラーがある限り、いずれウラノボルグの存在がかぎつけられるかもしれません」
マリネンコ 「にゃんは、来るものは拒まずにゃり。カイメラ君、その時のために良きワインと、マタタビ・スープとをたっぷり準備してくれにゃん」
カイメラ 「承知しました、ワインはともかく、あらゆる種類のレトルトが準備してございます。百年は引きこもれます」
マリネンコ 「レトルトとはにゃんにゃ」
カイメラ 「本来宇宙食として発明された、栄養価の高い簡易食品です。今朝お食べになったので、一日食事の必要がございません」
マリネンコ 「にゃんと、一日一食と申すか」
カイメラ 「さようでございます、お食べになるのはかまいませんが、メタボになるおそれがあります」
ダルシネア 「それ以上お太りにならないでくださいませ、にゃんさま」
マリネンコ 「七福神ほどではにゃかろうに」
バロン 「ところでカイメラさん、世の中の事態は切迫しておるようじゃが、このウラノボルグに及ぶのは今日明日と言うわけではあるまい。その時に備えて、かのアスガルドの戦士たちについてお話しくださらんか」
カイメラ 「それはよろしゅうございますが、今のモーグルさんのお話を聞いて、一つだけ気になることがございます」
バロン 「それは何かな」
カイメラ 「お話の天才青年科学者のことです。名をアルヴィッセントと言いまして、発明家の世界ではつとに知られております。11歳で大学に入り、13歳で博士号を取りました。特に脳髄の物理化学的分析において功績を挙げました。トランスマイグレーターなどという装置も発明しました。そのアルヴィッセントがついにダークマターの世界を究めたということは、科学的には賞賛すべきことですが、その発見が秘密結社の世界支配に使われるとなると、その結果が憂慮されます」
ダルシネア 「そんなにおつむの優れた青年が、どうしていかがわしいカルトなどに入信なさるのかしら」
バロン 「天才と狂人とは紙一重と申しますからな」
カイメラ 「アルヴィッセントが関係しているなら、事態は急展開することもありえましょう。しかし今のところは、彼らの当面の矛先はオネイロ団に向かうことと思われます」
バロン 「それでナタニエル君も急ぎ姿を消したのであろう」
カイメラ 「それは存じませんが、オーディンも安泰ではなかったように、ウラノボルグも安心はできません」
マリネンコ 「そのオーディンについて語ってはくれにゃんか、カイメラ君」
カイメラ 「承知しました」

       *            *            *


        カイメラ氏の英雄詩講座その4 <エッダ>


                 使用テキスト:「エッダ――古代北欧歌謡」(谷口幸男訳)

 口承的な文芸、あるいは口承的な伝統の世界を母胎にしている文芸には、今日の主に活字を媒介とする文芸とはだいぶ異なった法則や特質があります。それは詩型や韻律や叙述の仕方といった技術的な問題から、登場人物の性格、世界観の共通性といった内容にまで及んでいます。ここではそうしたことを論じるのが目的ではありませんが、一つエッダの物語を紹介する前に、エッダの口承詩というものの特徴的な例を先ず挙げておきたいと思います。

 “オーディンの子、紅に染まる神バルドルに定められた運命をわたしは見た。野面に高く、ほっそりと、それは美しい寄生木の枝が生い茂っていた。
 ほっそり見えるこの木が危険きわまるわざわいの矢にかわり、ヘズがそれを射た。バルドルの弟がすぐに生れ、オーディンのこの息子は生れて一夜すると戦いはじめた。
 彼は、バルドルの敵を火葬薪の上にのせるまでは、手も洗わず、髪に櫛も入れなかった。だが、フリッグは、ヴァルハラの惨事に、フェンサリルで慟哭した。おわかりか。”
                        (“巫女の予言”31,32,33)

 北欧神話に初めて接する人は、これだけでは何らかの筋のとおった物語を想像することは困難でしょう。何やらノストラダムスのように謎めいた詩句に、首をひねるばかりだろうと思います。これは現代人にとってばかりでなく、エッダのザーゲンクライス(伝承圏)に属さない民族にはやはり理解できなかった筈です。しかし古代北欧人の間では、オーディンの息子バルドルの悲運は、北欧神話の中でもあまりにも知られたエピソードでありました。“巫女の予言”の詩人は、聴衆に向ってこの歌謡を歌うにあたって、田舎者のようにことの次第を改めて語り直すことはしなかったわけです。わずか三つのストロ−フェ(節)で、彼はこの神話の要点を詩的にまとめてみたのです。
 古代歌謡の晦渋さというのは、テキストのコラプションもさることながら、こういう共同体文芸であることの了解から来る、後の世代や異文化圏に対する晦渋さでもあるわけです。これは個人的な了解が幅を利かす、現代詩の晦渋さとは質を異にします。
 さて、エッダは素材の混沌とした世界であります。大ざっぱに“ゲッター・リーダー(神話歌謡)”と“ヘルデン・リーダー(英雄歌謡)”に分かれますが、内容的には“神話”と“箴言”と“英雄”の物語の三つの項目を立ててよいでしょう。

 <神話
 北欧の神話は「古エッダ」の中の神話歌謡と、スノリ・ストルルソン(1178−1241)の「スノリ・エッダ」の神話の部分に、そのほとんどの概要が見いだされます。古エッダの神話歌謡は、上述したように暗示的な簡頸な表現がなされていますから、前もってある程度の知識がないと、そこからあるまとまった筋をつかむことは容易なことではありません。幸い訳者の谷口氏の詳細な注釈が付けられていますから、それを手引きに読めばよいわけですが、それにしてもこれはかなりやっかいな読書であって、もっとストレートに入りたいむきには、スノリのエッダ(‘ギュルヴィたぶらかし’)から始めるべきでしょう。これは問答の形で北欧神話のあらましを語ったもので、独特の飄逸の味わいがあります。スノリは十三世紀頃のアイスランドの学者・詩人で、北欧王朝のサガ「ヘイムスクリングラ」の作者でもあります。北欧神話の概略については、その方面の書物がたくさん出ていますし、なによりも「スノリ・エッダ」の一読が一番手っ取り早いでしょうから、ここでは北欧神話のいくつかの特徴のようなものを拾いながら、話を進めるとします。
 「エッダ」一巻をながめた限りで気づくことは、ギリシャ神話などと較べて、‘神々の世界’と‘人間界’とが大分はっきりと分かれていることです。ギリシャ神話では、神と半神半人と人間を両親に持つ英雄と、段階をなしていますが、それぞれの間には相当な交通や交流があります。これはホメロスにおいて見た所です。しかも、こういう神人混淆において必ずしも神にプライオリティが与えられるわけではありません。アルゴーの遠征では、隊員はヘラクレスを隊長に選びますが、ゼウスの息子はイアソンにゆずります。神と人との扱いにおいて対等であるわけです。
 “エッダ”における神と人間のエピソードは、先ず“グリームニルの歌”に見られます。フラウズング王の息子たちアグナルとゲイルロズは、ある日海へ釣りに出たところ、強風にあい異国の岸へ運ばれてしまいます。難破した兄弟を見て、小作人夫婦が家に伴い、冬の間めんどうをみます。彼らはオーディンとその妻フリッグのかりそめの姿でありました。オーディンはゲイルロズを、フリッグは兄のアグナルを養子にします。さて、春になって二人を故国へ帰す時に、オーディンはゲイルロズに策略を授けます。ゲイルロズは教えられたとおり、故国の岸へついた時にアグナルを海へ流し、やがて父が死ぬと王になりました。
 ところがフリッグはその仕打ちに腹を立てたと見え、オーディンに向かってゲイルロズの客あしらいの悪さをくさすのでした。そこでそのことが本当かどうか、オーディンは変装して王を訪ねるのですが、その前にフリッグは王に使者を送り、魔法使いに騙されないよう警告しました。そこで王は変装したオーディンを捕らえ、八昼夜火あぶりの拷問にかけます。王の息子のアグナルが角杯をさしだす所で、散文の導入部は終わり、本来の“グリームニル(オーディンの別名)の歌”が始まります。しかしこの歌謡は話の筋とはほとんど関係のない神話的描写でうまっており、最後にオーディンはゲイルロズの不信をなじって正体を現わします。ゲイルロズはあわててオーディンを火から離そうと立ち上がったところ、剣が鞘からすべりおち、つまずいた王の胸を貫いたのでした。
 これは神が人間を試すという神話なのでしょうが、それにしてもゲイルロズには、オーディンを見抜けなかったという点の外には、これといって咎があるようには思われません。もともとフリッグとオーディンの夫婦の争いが、この兄弟の運命を左右したのであって、兄弟は神々の競争心や不和の犠牲にされているわけです。運命の気まぐれをパラフレーズした物語とも考えられますが、神々にペテンにかけられるようでは人間も救われません。
 もう一つ神と人間との関係を語ったものをあげますと、“リーグの歌”という、古代北欧の社会構成を知るうえでは貴重な資料とされる歌謡があります。これはヘイムダルという、世の終わりにラッパを吹き鳴らすことになっている神(生成の神ともされます)が、人間界をへめぐって、夫婦のいとなみに干渉し、奴隷、自由農民、貴族の三階級を創出するという筋です。身分構造が直接神話に反映した例ですが、エピソードとしてはそれだけのものです。
 世界の創造、世界の終末を語るエッダは、また人間の創造について、小人のそれと並べて語っています。‘小人族’は土から、‘ユミルの肉’の中から蛆虫のようにわいて出たのですが、人間の方はある日神々が海岸を歩いていると、アスクとエムブラという痴呆のような男女を見つけたのでした。これはスノリによると二つの木であって、神々はこれに息を与え、心を与え、生命の温かさと容姿を与えたのでした。これが北欧のアダムとイヴであります。人間たちは、世界樹ユグドラシルの三つ目の根の下に住んでいるようです。このとてつもないトネリコの大樹の梢には、その額に鷹を止まらせた大鷲が住んでいて、また根もとにはニーズヘグという龍がたむろしています。この両者は仲が悪く、気のきいたリスのラタトスクを使者にたてて、年中悪口を言いあっています。

 “とねりこユグドラシルは人が考える以上に苦労をなめている。上の方は牡鹿が食べ、脇腹は腐り、下の方はニーズヘグが噛んでいるのだから”(グリームニルの歌)

 エッダでは、神々は人間よりも巨人族の方にずっと関心があるようです。この世界はユミルという巨人の屍から造られています。その肉から大地が、血から海が、骨から岩が、髪から木が、頭蓋骨から天が、またその脳味噌からむら雲が、まつ毛から人間界をとりまくミズガルズの垣が造られました。この巨人族というのは、‘アース神族’やその同盟者である‘ヴァンル神族’よりも古くて、世界の原住民のようであります。アース神の祖先はスノリによると、ユミルの飼っていた牝牛が道端の石をなめていると、やがてそれが色の変わる飴のように人間(!)の姿に変わったのでした。アース神は‘霜の巨人族’を滅ぼすが、碾臼にのって助かった一対の巨人から‘新霜の巨人族’が発足します。
 アース神と巨人族の関係はなかなか複雑であって、神々の脳裏には彼らの存在がたえず強迫観念となってこびりついているようです。かと思うと、恋の道では両陣営にまるで区別はないようです。オーディンも女巨人との間に子をもうけたようですし、ヴァンル神のニョルズは、巨人の娘スカジを嫁に迎えたものの、住まいのことではいつも夫婦喧嘩が絶えないようです。彼らの息子フレイが、ある日見初めた巨人の娘ゲルズに求愛する没騎士道的ないきさつは、“スキールニルの旅”が物語るところです。さらにアース神に加えられているヘイムダルやチュールは、巨人の間の息子であり、やはり巨人の子であるロキに至っては、アース神のアンビヴァレンス(反対感情並存)をそのまま象徴したような存在であります。
 このロキから世の終わりに大暴れをするフェンリスウルヴ(フェンリル・怪狼)と、普段は海にあって世界を一巻きするほど長い大蛇ヨルムンガンド(ミズガルズ蛇)と、地獄の女あるじヘルが生れます。 ‘ラグナロク(神々の黄昏・宿命、ラグナレクとも)’の時が来ますと、南の国ムスペルヘイムに雌伏していた得体の知れないスルトが火焔を吹きながら攻めこみ、東からはロキを先頭に巨人族が狼と共に大挙して押しよせます。オーディンはフェンリスウルヴに食われ、トールは宿敵ヨルムンガンドと相打ちし、その他の神々も仆れ、やがて世界はスルトの火焔に焼き尽くされます。この凄絶な相互殲滅戦において、一番被害をこうむるであろう人間たちのことについては、残念ながらエッダは暗示的にしか語りません。ただ、オーディンの宮殿ヴァルハラに死後招かれた戦没戦士たちは、

 “ヴァルハラには五百四十の扉があるように思う。狼との戦いにおもむくときは、一つの扉から八百人の戦士が一挙にうって出るのだ”(“グリームニルの歌”)

 そうでありますが、何分にも彼らは‘死人’でありますから、再び死ぬことを恐れはしますまい。
 ここで前に述べた北欧神話の‘飄逸’ということについて、少し考えてみます。スノリのエッダの語り口で、印象の類似という点で想起されるのは「ミュンヒハウゼン」のような‘リューゲンディヒトゥング(ほら話)’の味わいではないでしょうか。この点は世界樹ユグドラシルの描写、またトールの一行の巨人国への旅のエピソードなどに顕著でありますが、“ギュルヴィたぶらかし”という物語の構成にも、どことなくけむにまくような所があります。ギュルヴィは神々の世界のことが知りたくなって、彼らの住まうアスガルズを訪ねるのですが、神々は事前に予知して彼を迎えます。ギュルヴィがあれこれ尋ねる形で問答が終わると、彼は神々の宮殿と思いこんでいたのが、気がつけば野原の真中に一人とり残されていて、今まで聞いたことがすべて夢幻であったかのような印象を与えるしめくくりであります。この設定をキリスト教に遠慮したためとみる人もあります。
 スノリのエッダは既にキリスト教化した時代に書かれたのでありますから、作者はその点では北欧神話に対して、寛容であれ批判であれ、自在な対し方ができるわけです。神話の無際限なメルヘン化、世俗化を抑制しているものが、本来神話と密接な関係にある祭儀と宗教的敬虔であるとするならば、スノリにはもはやそういう抑止力は欠けているわけです。古エッダにも同じことはある程度言えるようです。“ロキの口論”を見ると、この歌では酒に酔ったロキが、居並ぶ神々を端から罵倒してゆきます。神々の愛欲は、場末酒場での悪態のように口汚なく暴露されます。こういう無礼講的な祭儀が存在したのでないとすれば、ここには敬虔とは全く正反対の感情があります。
 あるいは、エッダの神話の中での神々が、すでに自分らの先に起こる運命を予知しているという、興味深い点をとりあげてもよいでしょう。神々は事のなりゆきを百も承知でありながら、真面目くさってどこまでも演技をつづけてゆきます。これは舞台の上で演じている俳優の心理と、少しも変わりはないでしょう。俳優は舞台で起こることの筋書を予め心得ているが、それを知らぬふりをして演じねばなりません。この俳優の心理、即ち運命を心得た神々の真理はまた、外ならない劇の作者、神話の作者の心理でもあります。
 北欧人は古くから盤上遊戯を好んだようであります。神々が滅び、世界が焼き尽くされたあとで、海中から再び緑の地面が持ちあがります。世界は復活し、神々も再出発するようです。野原の草かげからは、昔神々の用いた黄金の将棋盤が見つかります。将棋は神託にも用いられたようですが、これは駒を動かす者が駒の運命を支配することから来るのでしょう。北欧神話は将棋にたとえることができそうです。一方では運命(筋書)を表わし、他方では遊戯性を表わす。一勝負終われば、盤の上は一掃されるでしょう。決着したものをくずす‘ラグナロク’の快感は、 盤上遊戯の一種の魅力でもありましょう。
 話は変わりますが、文学と盤上遊戯の関係は、例えばチェスが物語の枠組を構成している「鏡の国のアリス」などがよく知られています。また「鏡の国のアリス」の、人の首を見ると斬りたくなる女王の国のいわば‘ラグナロク’は、アリスの次の言葉が引きがねになっています。

 “あんたたちはただのトランプじゃないの”

 ここで誤解のないように言っておきますと、北欧神話の遊戯性ということは、もちろんその一面にすぎません。神話の遊戯性ということは、また他の神話体系にもみられることで、北欧神話の専売ではありませんが、その飄逸が特に印象的なスケールを持っていることは認められるでしょう。こういう特徴は、これら神話の作者である北欧人の‘気質’でもあるようですから、次にそれを見てゆきます。

 <箴言
 古代北欧人が神話と現実の世界を比較的区別し、一方をメルヘン化して遊戯的に扱おうとする態度が見られることは、彼らが本来現世的な心掛けの民族であることと関係があるようです。有名な「ハヴァマル(オーディンの箴言)」には、古代北欧人の現世的な生活観、叡知が、簡潔な詩句に表明されています。この中には現代からみて、かなり殺風景に思われるものもあり、また万古不易の‘常識’を表現しているにすぎないものもあります。小泉八雲が日本の明治期の学生に向けて講義したものを、ここに引いてみます。

 「『ハヴァマル』によれば北欧の人々の最大美徳は、あらゆる人種のうちで、実に英国人種に今日の偉大なる地位を与えた美徳――あらゆる美徳のうちでも最も簡単なるもの――即ち常識であった。しかし常識(コモンセンス)という言葉は、日本の学生に、あるいは英語の慣用語に慣れていない人に、この文字が伝えるよりも遥かに意味が深いのである。常識、あるいは生れながらの知恵は、養成されたあるいは教育によってできた聡明の反対、あるいはそれと無関係の生来の聡明の意味である。・・・それは先見の明を意味する。それは他人の性格を直覚的に知ることを意味する。それは博く物を会得することと、ならびに狡獪を意味する。現代の英人はいつでも、どこででも特にこの才能にたよるのである」(“「ハヴァマル」古代北欧の人生倫理” 田部隆次訳)

 “もって出かけるのに、すぐれた分別にまさる荷物はない。これは、見知らぬ国では、財産より役に立つように思う。これは、みじめな者を守る鎧だ。〔10〕
 ひろく旅をし、処々方々をめぐった者だけが、人々は誰も、分別を舵に世を渡っていることがわかる。が、その者こそ分別をそなえた知恵者だ。〔18〕
 誰でもほどほどに賢いのがよい。賢すぎてはいけない。あまり賢すぎると、その心が晴れることは稀になるから。〔56〕
 もし、信頼できぬ友を持ちながら、彼からよいことを期待しようと思うなら、口先だけきれいごとをいって、心では嘆き、ごまかしにはごまかしでむくいるべきだ。〔45〕
 ・・・知っていることは一人で秘めておき、他人には知らすな。三人が知れば世間中が知る。〔64〕”

 分別(常識)を身に備え、広く旅する(世間を知る)ことでその分別にみがきをかけ、中庸を守り、その上狡猾・用心を失わずにいることが古代北欧人の倫理でありましたが、またそれは八雲によれば大英帝国を築いた英人の倫理観でもありました。
 古代北欧人も、現代の英人も、一面では互いに相手の腹を探りあう、だいぶ窮屈な人間関係の中に暮らしている印象ですが、前者の場合は彼らの社会構造、風習が特に用心ということを強調する必要を起こさせたようです。彼らの社会では家族というものが生活の中心であり、一人の人間がこうむった侮辱や損害は、家族全体の名誉をかけて報復しなければならないものでした。そこで個人の行動は慎重にならざるを得ないわけですが、その抑制の分だけ、また彼らは侮辱や嘲弄に対しては、過度に敏感であったようです。北欧人の狡猾さということは、ヴァイキングにも有名な例があります。イタリアのある市を襲った時、彼らの首領は死人のふりをして、市のキリスト教会で葬式を挙げてもらったのです。もちろん頃をみて、剣を手にした死人が甦ったことは言うまでもありません。
 北欧人の生活態度は、他面ではまた、大変現世享楽的、楽天的であります。

 “愚か者は毎晩目を覚まして、ああでもない、こうでもないと考える。朝になると疲れ果てるが、すべては前とかわらず、みじめなままだ”〔23〕

 ‘愚か者’というのは八雲によると、‘困難の時にどう処置してよいか分らない弱い性格の人’のことであります。そういう優柔不断の人は、北欧社会では時に‘危険な馬鹿者’となる惧れがありました。

 “家はよいものだ。たとえ小さくとも家では誰でも主人だ。食事ごとに食事を恵んでもらわなければならない人は、胸から血の出る思いだ。〔37〕
 人の子らにとって、火と太陽の顔と、かなえば健康と、恥のない生活のできることが最高だ。〔68]
 生きていて生活を楽しめるほうがよい。生きていればいつでも牝牛が手に入る。・・・〔70〕
 太陽のように美しい輝くビリングの娘が、ベッドの上に寝ているのをわしは見た。このような娘と一緒に暮らすのでなかったら、王侯のしあわせもとるにたりぬ、とわしには思えた。〔97〕”

 これらは大抵の人間の感情ですから、余計なコメントはひかえますが、ただ北欧人の‘恥’の観念は‘名声’や‘評判’の観念と呼応しています。

 “財産は滅び、身内の者は死にたえ、自分もやがては死ぬ。だが決して滅びぬのが自らのえた名声だ。〔76〕
 財産は滅び、身内の者は死にたえ、自分もやがては死ぬ。だが決して滅びぬものをわしは一つ知っている。死者すべてをめぐって取沙汰される評判だ。〔77〕 ”

 古代北欧人はこれで見る限り、来世への期待よりもこの世に残していく評判の方が気にかかったようです。北欧人の目がもともと現世により多く向けられているのですから、神話世界での彼らの役割は生者にせよ死戦士にせよ、マイナーなものになるのは自然の趨でしょう。オーディンに招かれたヴァルハラ宮の戦没戦士たちが何をしているのかというと(スノリ・エッダ)、

 “毎朝、衣服をつけると、武装して庭に出て、互いに戦い、倒し合うのだ。これが彼らの遊びなのだ。そして朝食の時刻になると、馬でヴァルハラに戻る。そして次に歌われているように、酒宴の席につくのだ。
  すべての戦士らは
  オーディンの庭にて
  日ごと戦いあう
  彼らは死者をえらび
  馬にまたがり戦より馳せ帰り
  互いに打ち解け 席を同じゅうす”

 彼らは、ヘイズルーンという牝山羊の乳房から流れ出る蜜酒――これは戦士たち全員が腹いっぱい飲めるほど多量に出るようです――で養われています。天国のイメージがその民族の気質を表わしているとすれば、古代北欧人はよほど戦闘好きな民であったということになります。これはヴァイキング時代には相応しいあの世の観念ではあっても、平和に定着した時代ともなれば、ややジョーク気味のイメージと映るのは当然でしょう。北欧人はむしろ、この世の墳墓の方に死して後執着を持ったようです。時々は生者の様子を見舞うこともありました(“ヘルギの歌”)。

 <英雄
 神々と人間との間には、様々な神通力や魔力を持った者たちがいます。巨人、侏儒、妖精、ヴァルキューレなどであります。彼らは神々よりも身近な存在として、民話的物語の中に登場します。“ヴェルンドの歌”は鍛冶に巧みな“妖精の王”をめぐる羽衣テーマと復讐の残酷なメルヘンです。“レギンの歌”では巨人、小人の所業が人間界に災を及ぼします。“シグルドリーヴァの歌”と“ヘルギの歌”では、ヴァルキューレ(乙女戦士)が英雄の守護者として、連れあいとして、また人間の娘としてあらわれます。ヴァルキューレは女神というよりも、オーディンの小間使いのような所があり、ギリシャ神話のニンフにあたるでしょう。
 英雄は単に武勇に優れるだけでなく、特殊な能力を獲得したり、超自然的な存在の庇護を受けたりもします。これら神話、魔術の世界から遠ざかったところに、専ら人間界の愛憎、諍い、復讐をテーマにした最もゲルマン的な歌謡があります。
 ここで紹介しようとするシグルズとグズルーンの物語は、そのテーマへの普遍的関心においてゲルマン世界に共通のものであります。シグルズ(ジークフリート)の冒険、グズルーン(クリームヒルト)の復讐は、南ドイツのより壮大な叙事詩「ニーベルンゲンリート」のテーマであり、シグルズの目醒めさせるヴァルキューレはグリムのいばら姫であります。もちろんこの北欧の“ニーベルンゲン”は、その人物や素材において北欧人の神話や気質を反映した、それなりの特色を出しているわけです。
 エッダの英雄歌謡はそれぞれの歌謡の成立の時期、場所において差異があるため、内容的に矛盾や異なった展開が見られ(おまけにテキストの混乱や解釈の難しさもあり)、すっきりした筋書をとらえることは困難であります。(ちなみにエッダの編集は1250年頃アイスランドでなされたとされますが、個々の歌謡の成立時期はAD800年から1100年にわたり、成立場所もアイスランドとは限りません。)しかしながら、エッダの詩人たちはいろいろな素材をヒーロー(ヒロイン)において統一し、異なった歌謡の登場人物を大体において血族・姻戚関係の枠の中でとらえ、まとめようとしているようですから、ここではそれに従ってシグルズとグズルーンの数奇な生涯を追い、ニヴルングの宝の呪いによって悲劇的な最期を遂げるまでを、簡略に述べて行きたいと思います。

 この物語の日本風に言うならば‘巡る因果’の、北欧では‘宿命(ノルネ)’の糸口は、あるのどかな日のアンドヴァラフォルスの滝口で、捕えた鮭に目をつぶってかぶりついていた一匹の河ウソにまで遡ります。これは巨人フレイズマルの息子オトでありました。ちょうどそこへ通りかかったのは、オーディン、ヘニル、ロキの一行であります。ロキが石を拾って投げると、うまく当たって、一石二鳥ならぬ、鮭と河ウソの皮の両方が手に入ったのであります。一行は晩になってフレイズマルの家に宿を請いました。フレイズマルは変わりはてた息子の姿を見て、皮の内と外を覆うだけの黄金の賠償(ブラッドマネー)を迫ったのでした。ロキは仕方なく、滝にカマスとなって住んでいる小人アンドヴァリを脅し、ためこんでいた黄金をまきあげます。小人は命の代わりにしぶしぶ黄金をさしだしましたが、それに呪いをかけておくことを忘れませんでした。

 “グストがもっていた黄金が二人の兄弟の死となり、八人の王の不和の種になるようにしてやる。おれの財宝が誰のとくにもならぬように”

 さて、宝を手に入れたフレイズマルに対して、残った息子のファヴニルとレギンは賠償金の分け前を要求するのでした。フレイズマルが拒絶したので、ファヴニルは寝ている父を刺し殺してしまいます。今度はレギンがファヴニルに分け前を迫りますが、腕力ではかなわないので逃げ出さねばなりませんでした。
 鍛冶屋のレギンは、シグルズという名の若者を養育します。シグルズはヴェルスングの子シグムントと、エイリミ王の娘ヒョルディースの息子でありましたが、シグムントがフンディングとの戦に仆れ、ヒョルディースがヒァ−ルプレク王の息子アールヴと再婚した時、連れ子であるためあまり喜ばれなかったのでしょう、ヒァールプレクのところに出入りしていたレギン(巨人とも小人とも言われる)のもとにやられたのであります。
 さて、シグルズは父親ゆずりの腕力のある若者でした。そこでレギンはシグルズにファヴニルを殺させ、宝を奪おうと考え、利剣グラムを鍛えます。その頃ファヴニルは、宝への執着がつのったあまり、一匹の竜となって宝の隠し場にとぐろをまいていました。シグルズは竜がいつも水を飲みにいく路に穴を掘り、身をひそめていました。竜が毒気を吐きながら頭上を通った時、グラムをその心臓に突きたてたのでした。ファヴニルは苦しい息のもとで若者に警告します。

 “シグルズ、悪いことはいわぬ。わしのいうことをきいて家へ帰れ。響きのよい黄金、燃える焔のように赤い宝、腕輪などは、お前の命取りになるのだぞ”

 そこへなりゆきを見ていたレギンがやって来て、竜の心臓をとりだし、傷口から血をすすります。これは竜の力にあやかろうというのです。シグルズはレギンに言われて、竜の心臓を火にあぶっていましたが、焼き加減を見ようとして指でさわったところ、やけどをして思わず指を口にやり、心臓の血をなめてしまいます。すると近くの枝で囀っている、鳥の言葉が分かるようになりました。鳥たちは口々に、レギンを殺して宝を奪えと言うのでした。もとよりレギンは、宝を分ける心づもりではありませんでした。そこでシグルズは親方の首を斬り落とし、ついで焼きあがった竜の心臓を食らい、兄弟の血をすすって精力をつけたところで、ファヴニルの棲み処へ赴き、呪われた宝を手に入れたのでありました。
 さて鳥たちはヒンダルフィアルの山に、一人の囚われの乙女が眠っていることを教えましたので、シグルズは馬のグラニに宝を積んで、山へと向かいます。乙女の館の周りは楯の垣で守られ、天にまで届く光焔が、近づくものの胆を冷やしていました。シグルズは難なくそれらの障害をのりこえ、館に入りますと、一人の鎧兜に身をかためたヴァルキューレが、オーディンの怒りにあって永の眠りについていました。シグルズが利剣グラムで乙女の堅い鎧を開くと、シグルドリーヴァは目を覚ましました。シグルズとシグルドリーヴァは連枝を誓い合ったようですが、ここで物語はいきなり溶暗(フェイドアウト)して、舞台はギューキの息子たちの国へと移ります。

 シグルズはギューキの息子グンナル、ヘグニの兄弟と仲良くなり、兄弟の血盟を結びます。シグルズは彼らの妹のグズルーンをめとることとなり、グンナルはブズリの娘ブリュンヒルドに求愛することになりました。このブリュンヒルドは、男を寄せつけない名高い女丈夫でありました。

 “フリュムダリルでは、わたしのことを知っているものはみな、兜をつけたヒルドと呼んでいた”

 こう彼女はのちに地獄へ下った時、地獄の不遜な女巨人にたんかをきっています。シグルズはグンナルに手をかすことになり、兄弟と共にブズリの国へ出かけて行きます。エッダの欠落した部分を「ヴェルスンガ・サガ」で補うと、ブリュンヒルドは地をどよもし、天を焦がす火焔で身を守っていました。その焔の中へ進んで跳びこもうという勇士はいません。一人シグルズだけは、レギンの鍛えた甲冑に身を固め、馬のグラニにまたがって、難なく焔をこえます。シグルズはグンナルと名乗り、ブリュンヒルドと三夜床を共にします。二人の間には‘抜き身’の剣が置かれたままでした。

 “南の国の生れの勇士は、ルーネの彫られた抜身の剣を二人の間に横たえ、口づけはおろか抱擁もしなかった。彼はうら若い乙女をギューキの子に渡した”

 こうしてブリュンヒルドは、策略によってグンナルの妻となります(この瞞着はグズルーンの母のグリーミルドが勧めたもので、彼女はのちにも女策士として登場します)。しかし、またこれとは違った筋書もあるようです。ブリュンヒルドはやって来たのがシグルズであることを知っていて、またシグルズは彼女の意中の男でありました(‘ブリュンヒルドの冥府への旅’)。

 “オーディンは私の館の南に樹の敵(火)を炎々と燃え上らせ、ファヴニルの下にある黄金を私のところにもたらす勇士だけが、そこを馬で越せるようにしたのだ”

 これは前のヴァルキューレのイメージと重なりますが、とにかく彼女は運命を甘受して、心に染まぬグンナルの妻となったのです。他の女の夫であるシグルズに対する絶望的な愛憎は、ついに死の世界での結合へと彼女を駆るのであります。
 ブリュンヒルドにシグルズ殺害の決心をさせたのは、ある日グズルーンが、ブリュンヒルドとシグルズが無垢の床を共にした時、彼女からシグルズに送ったリングを、これ見よがしにひけらかしたことでありましょうか。ブリュンヒルドは、シグルズが求愛の瞞着の際に誓いを破ったことにして、グンナル、ヘグニの兄弟を語らい、彼を殺してニヴルングの宝を奪うようそそのかすのでした。初めは渋っていたグンナルも、ついには欲に負けて、シグルズを森の中へ誘い、無防備でいるところを打ち殺します。

 “ラインの南でシグルズは殺害された。樹の上の鴉が声高く叫んだ。「アトリがあんたたちの刃を赤く染めるだろう。偽りの誓いが戦にはやる者を滅ぼすだろう」”
 (シグルズはまた、館の内でグンナルの愚弟グトホルムに刺し殺されたことにもなっています。)

 馬のグラニが、主人の屍の上で悄然と頭をたれていました。ブズリの娘、王女ブリュンヒルドは夜明け少し前に目を覚ましました。

 “「わたしに、悲しみを口にするよう、あるいはおさえるよう、すすめるにせよ、とどめるにせよ、不幸は起きてしまった」
 このことばをきくと、すべての者は口をつぐんだ。笑いながら勇士たちをいざなったことに涙しながら言いおよんだとき、女の本心のつかめる者はいなかった”

 ブリュンヒルドは誓いを破ったのがグンナル、ヘグニの兄弟であることを告げ、明るく笑って自ら命を絶つのでした。八人の奴隷と、五人の侍女を道連れにしました。もっと多く連れて行きたかったのですが、いくら宝石をやるといっても、今は虫の息の王妃の前に皆はしりごみしました。

 “薪の山を壁かけと楯、、色鮮かな異国の布とたくさんの奴隷でおおい、私の横にならべてあのフンの勇士を焼いてください”

 という彼女の遺言にたがって、二人は別々に焼かれたようです。
 さて寡婦となったグズルーンは、兄たちを恨んでばかりもいられませんでした。やがてシグルズとの間の薄幸の娘シュヴァーネヒルトも生まれますし(シグルズには他にシグムンドという息子がいましたが、一緒に殺されたようです)、ブリュンヒルドの兄アトリ(歴史上のアッチラ、「ニーベルンゲン」のエッツェル)からも、賠償をめぐって、ギューキの息子たちに圧迫が加えられました。そこでグンナルは、グズルーンをアトリの嫁として与えることにします。
 その頃グズルーンは、デンマークの知人の館でいまわしい思い出から逃れるため、刺繍に精をだして静かな日々を送っていました。そこへ母親のグリーミルドがやって来て、笹縁をうちやり、彼女に再婚を勧めるのでした。各地から求婚者が集まり、その中には‘長髯’のアトリの姿も見られました。母親と兄弟は初めからアトリとめあわせる腹づもりでした。それを知ってグズルーンは驚愕し、拒みますが、ついにあやしげな飲物の効き目もあってか、グズルーンは一族の意に従い、先夫を殺させたブリュンヒルドの兄に嫁いだのでありました。
 一旦はギューキの息子たちとアトリの間に和平がなったかに見えましたが、宿命の糸はさらにうち重なる悲劇へと、ニヴルングの宝の持ち主を導いてゆきます。ある時アトリは、グンナルの館に使者を送って、国へ招待します。アトリの穏やかならない心中を見抜いたグズルーンは、腕輪に狼の毛を巻きつけたものを送って警告します(ルーネ文字で知らせたとも)。不吉な気分がギューキの一族にみなぎりましたが、王は一座の者に黄金の杯を回し、毅然として言いました。

 “もしグンナルを失えば、灰色の老いぼれ狼が、ニヴルングの遺宝を手におさめるだろう。もしグンナルが戻らなければ、黒い毛の熊が突き出た牙で噛み、犬の群をよろこばすことだろう”

 はたして一行がアトリの館につくと、待ち構えていたアトリの兵が襲いかかり、ヘグニもグンナルも果敢に応戦しましたが、とうとう傷つき捕えられてしまいました。アトリは(ニヴルングの)黄金で彼らの命を贖うことを要求しますが、グンナルは承知しません。とうとうヘグニは生きたまま心臓をえぐられ、皿にのせて兄の前に供されます。グンナルは平然として言います。

 “これは剛勇ヘグニの心臓だ。臆病者ヒァルリとは違う。皿の上におかれても、ほとんどふるえない。胸の中にあったときも、そうふるえなかったろう”

 グンナルは蛇牢に入れられ、竪琴を鳴らして蛇たちを眠らせましたが、一匹の蛇が王の肝臓を噛んで命を終らせます。グズルーンは心ひそかに兄たちの復讐を誓うのでしたが、その恐ろしい方法を運命が囁いたのは、ある朝アトリの語った夢の予告でありました。

 “大きく育てようと思っていた若枝が、この庭で倒れ、根こそぎにされ、血で赤く染められて、長椅子の上に運ばれ、喰え、と差し出された夢を見た”

 その時、グズルーンの胸におぞましい計画がきざしたのでありましょう。兵たちが荒野から戻り、館は馬の押しあいへしあい、武具のたてる響きでかまびすしさのかぎりです。やがて広間で酒宴が始まりますと、グズルーンは王に杯をさしだして言いました。

 “王よ、あなたの館で、グズルーンの屠った若い獣をご機嫌よう召し上がって下さい”

 王は上機嫌に獣肉をたいらげ、やがて祝宴たけなわに達した頃、グズルーンは憎々しげにアトリに向かって言いました。

 “剣を分ち与える者よ、あなたは今、蜜をつけてご自分の息子たちの血まみれの心臓を召し上ったのですよ”

 グズルーンはアトリとの間にもうけた、エルプとエイティルの二人の息子を料理したのでありました。広間は騒然となり、人々はうろたえ、忍び泣き、泣きわめきました。ただ一人アトリだけは、茫然として酒を飲みつづけ、もはやグズルーンには目をやりませんでした。やがてグズルーンの放った火が館をつつみ、アトリはヘグニの息子に討たれ、復讐はなったのであります。
 グズルーンは死のうとして浜辺におもむいたのですが、死にきれず、波に運ばれるままヨーナク王の国に渡り、王の妃になりました。この地でも、グズルーンの不運は果てることを知りませんでした。一緒に伴ってきたシグルズの忘れ形見、スヴァンヒルド姫を、グズルーンは今は誰よりもいつくしみました。やがて年頃になり、姫は権勢あるイェルムンレクのもとに嫁ぎます。ここに、あることないことを告げ口するビッキという男がいました。彼はイェルムンレクの息子ランドヴェールにスヴァンヒルドを誘惑するようそそのかしておいて、すかさず王に報告したのでした。王はランドヴェールを縛り首にし、スヴァンヒルドを馬の蹄にかけて蹂躙しました。これを伝え聞いたグズルーンは悲しみ、激昂して、二人の息子に姉の復讐をたきつけるのでした。
 勢い盛んなイェルムンレクに敵することの無謀さをよく心得、息子たちを死に追いやる母の非情を皮肉りながらも、ハムジル、セルリ、エルプの三兄弟は勇んで仇討ちに旅立ちました。途中でささいな兄弟げんかのすえに斬り合いとなり、‘腹違い’の弟エルプは斬り殺されてしまいます。さて、スヴァンヒルドの弟たちが仇討ちにやって来たことを聞いて、イェルムンレクは愉快そうに、

 “わしの館でハムジルとセルリに会えるとは運がいいぞ。ギューキの孫どもを絞首台につるしてやる”

 ハムジルとセルリは多数の兵士を相手に奮戦しました。そのうちイェルムンレクは、兄弟の鎧兜に槍剣では通じない何かの魔法のあることに気づいたのでしょう。

 “ヨーナクの息子は石を投げて殺せ”

 と指図しました。ハムジルは今になって、途中で殺した弟のヨルプのことが悔やまれるのでした。戦い好きの‘不死身の’!弟を、彼らは運命の女神にそそのかされ、殺めてしまったのでした。

 “われわれはよく戦った。枝の上にとまった鷲のように、ゴートの死者の上にわれわれは立っている。今死のうが、明日死のうが、名誉は手にした。誰だとて運命の女神の宣告がくだれば、夕べまで生きることはできぬのだ”

 こう呟きながら力尽き、セルリは破風のそばで、ハムジルは館のうしろで倒れました。

 グズルーンは、今こそ一族の中でただ一人とり残されてしまいました。運命に翻弄されるままに、三人の王のもとに褥を変えてきました。今は最初の夫シグルズのことが、しきりと追懐されるのでした。

 “シグルズ、二人で寝床の上に坐ったとき、どんなことを語り合ったか覚えていますか。大胆なあなたは冥府から出てきて私のところを訪れよう、わたしは家から出て、あなたのところへ行こうと語りあったのです”
 “シグルズ、白馬に手綱をつけ、駿馬をこちらにまわしてください”
 “候たちよ、樫の薪を積んでください。勇士の下にうず高く積みあげてください。悲しみではちきれそうな胸が、火で焼かれるように、心の憂いがとけるように”

 こうして幻の夫を胸にいだきながら、グズルーンは火葬薪の上に身を横たえたのでありました。

         *       *       *      *

 さて、ここでわたくしがエッダの歌謡をかなり自由に継ぎ合わせてまとめてみた“ニヴルング”の物語と、南ドイツの壮大な“ニーベルンゲン叙事詩”との対応が気になることかと思います。これについては相良守峯「叙事詩の世界」やバウラの「英雄詩論」にふれられていますので、そちらに当たられるとよいでしょう。エッダとの際だった筋書の相違は、クリームヒルト(グズルーン)の役割です。ニーベルンゲンでは彼女はアッチラに対して兄弟の仇を晴らすのではなく、夫ジークフリート(シグルズ)の恨みを兄弟一族に対して報いるのです。つまり重点が同族的結合から、夫婦の結合へと移っており、この違いを相良氏はキリスト教倫理の介入に見ます。更にバウラによれば、ニーベルンゲンにはエッダに見られないミンネ(愛)の観念が浸透しだしており、このイスラムからプロヴァンスの詩人に受けつがれ、全欧州に広まった女性崇拝と至上愛への奉仕が、叙事詩のロマンスへの後退を方向づけ、この過渡期にあるのがニーベルンゲンであるとされます。
 最後にエッダの詩型について簡単にふれておきます。エッダは歌われたのではなく、‘朗読’されたのであるとする学者もあります。西洋詩の感覚から言って、この古代の詩はなかなか歌いづらい所があるのでしょうか。これに対して、訳書には巫女の歌が歌われたというメロディーが紹介されているので、その最初の部分だけをここに転記させていただきます。

 

 これは巫女の歌第三節の最初の行です。エッダには三通りの韻律が用いられている由ですが、ここでは代表的な‘古譚律’というものの訳者の説明を繰り返すこととします。これは普通四行一節をなし、各行(長行)は二つの短行(ハーフ・ライン)からなります。各短行には二個所に強勢がおかれ(上の楽譜のダッシュ)、これがリズムの単位となります。この強勢のあるところはまた頭韻が来るところで(頭韻は前の短行に二箇所、後の短行に一箇所の例が普通)、それによって短行間の連絡がはかられます。ゲルマン古語では単語の第一音節にアクセントがあり、それが詩の強勢と一致し、さらに頭韻によって高揚を受け、行のまとまりを与えられ、全体としてパワフルなリズムをかもしだす。これがゲルマンの頭韻詩というものの本質のようです。
 さて、上に引用した古譚律を歌って見ますと、エッダの旋律が日本の謡などと違って、ひなびた民謡風であることが分かります。

        *       *       *        *

作品名:カイメラ氏の英雄詩講座その4<エッダ>
作者:ミスター・カイメラ
copyright: Mr.Kaimela 2010
入力:マリネンコ文学の城
Up: 2010.9.4
画像はJohn Martin:The Great Day of His Wrath