サロン・ウラノボルグ
サロン・ウラノボルグ第10章 ―デカンションへの旅(1)― シーン:ウラノボルグ城天文台。古風な天文観測器具が乱雑に置かれている。丸天井の一角がスリット状に開いていて、昼の明かりが室内にやわらかく広がっている。バロン・ナイトとカイメラ氏登場。 カイメラ 「長らく掃除をいたしておりませんので、こんな埃だらけの場所ではいかがでしょうか」 バロン 「いや、いかにも時代がかっておって、デカンショ博士の幽霊を呼び出すにはうってつけではござらんか」 カイメラ 「また奇怪なことを思いつかれたものですなあ。ほかの方々が賛成いたしますかどうか」 バロン 「なあに、好奇心旺盛な方々ばかりですから。後はブルフローラ嬢に、お手伝いを願うばかりで。ところで、私は天文には詳しくないのじゃが、この巨大な分度器みたいなものは何でござる。」 カイメラ 「六分儀と言いまして、昔の台員がウルグ・ベクに注文して作らせたものです。」 バロン 「望遠鏡とも思われんが、一体どういう装置でござるか。」 カイメラ 「星の位置を正確に測る器械です。これで丹念に観測して、ウルグ・ベク星表などが作られました。ここには、アラビニアやカタイ由来の観測器具をはじめ、ガリレオ以来の望遠鏡がコレクションされています。これは渾天儀と言いまして、カタイ製の天球儀です。こちらは初期のガリレオ式遠眼鏡、これでも木星の衛星が四つも見えます。それからあのブランコのようなのが、空中望遠鏡で、色収差を極力少なくしようとしてあんな長いものになるのです。その欠点をなくしたのが、ニュートン卿の反射望遠鏡です。これは横からのぞきますが、反射鏡の真中に穴を開けて、普通にのぞけるようにしたものもあります。こちらのほうは焦点が長い場合には便利です。真中にある大きな望遠鏡がそれです」 (カイメラとバロン、中央にある巨大なカセグレン式反射望遠鏡のそばに立つ。) カイメラ 「長年使っていないので、鏡面がさだめし曇っていることでしょう。それでも小さな望遠鏡とは比較になりません。ハーシェル卿がウラノボルグを訪れた時、羨望のあまり一万ポンドで買い取りたいと言いましたが、お断りしました。宇宙とつながるものがあってこその、ウラノボルグですからとね」 バロン 「それで、デカンショ博士が残していった望遠鏡と言うのは、これのことかね」 カイメラ 「いいえ、こんなまともなものではありません。望遠鏡のようなものと言ったほうがよいでしょう。まだ誰にも使い方が分からないのですから」 バロン 「それは興味深い。一体どれなのかね」 (カイメラ、少しためらいを見せて、) カイメラ 「実はある種、奇妙なしろものでして、普段は誰の目にも触れないようにしてあります。モーグルさんのブラックミラーが地下倉にしまわれたように、ここ天文台の片隅に、こっそりと置かれています」 (カイメラ、片隅の雑然と置かれた器具の裏に回り、バロンを招く。バロン近より、) バロン 「どうやら、あの黒い布地を掛けられたものらしいのう。除けてもよかろうか」 カイメラ 「お気をつけなさい。かなりの人が・・・その、なんといいますか、消滅していますので」 バロン 「それは面白い。それで二度と戻れぬとでも」 カイメラ 「それは私にも分かりません。デカンショ博士か、アンブローズ・ビアースにでも聞いてみたいものです。私の知る限り、消滅した方は、少なくともウラノボルグには戻っておりません。デカンショ博士もその一人です」 バロン 「そのデカンショ博士にご登場願いたいのじゃが・・・」 (バロン、掛けられた黒い厚手の布をそろそろとのける。架台にのった、一見反射望遠鏡のような器械が現われる。) カイメラ 「ご覧のように鏡筒の先がふさがって、アイピースのような筒が付いています。反射鏡をひっくり返したような感じですが、鏡筒の前もフードになっていて、奥はまたふさがっています。そうでなければある種の顕微鏡かとも思うでしょう。この筒の中はまだ誰も調べていません。なにしろ、調べようとすると消滅してしまいますから・・・特にそのフードの中には頭を入れないように、ご用心ください」 バロン 「余も今すぐに消滅したいとは思わぬので、手出しは差し控えよう。ところで、デカンショ博士は自ら望んで消滅したようじゃが」 カイメラ 「博士の理論では、より高次のディメンションへ旅をすることのようですが、未完の小説にもそのことが少し触れられています」 バロン 「その小説はあとの楽しみとして、まずは博士自身もしくはその幽霊に、高次のディメンションとやらについてお話を伺いたいのじゃがのう」 カイメラ 「それはブルフローラ嬢のご機嫌しだいです。どうやら皆さまおいでです。」 (ブルフローラとアフララ、連れだって登場。) ブルフローラ 「影おじ様のお頼みというのは、こんな古ぼけた天文台で、昼間の幽霊を呼びだすことなのですか」 バロン 「午後のティータイムにふさわしい幽霊として、お奨めいたしとうござる。高尚なる哲学議論が、人の品性と趣味とを洗練させること、たとえ相手が幽霊であっても、哲学者の幽霊は格別であろうと請けあいもうす」 ブルフローラ 「哲学者は熊のように人に食いつくものと思っておりましたが」 バロン 「なるほど熊のような容貌のソクラテスは、アテネの人々に嫌われたようでござるが、それは人々が痛いところをつかれたからでござる。自分たちがいかに愚かであるか、それは人にも自分にも知られたくないことじゃからのう」 ブルフローラ 「ソクラテスはともかくイデア界に昇天いたしましたが、その後幽霊となって戻ったという噂は聞きませんわ。もし幽霊となっておもどりになったら、さぞかし小うるさい霊であったことでしょう」 バロン 「デカンショ博士は生前、いや消滅前はテーブル・トークに堪能な、上品な紳士でござったそうだ。インゴルシュタットの町の哲学者として、一生をより高い世界の研究に身を捧げたお方でござる。きっと、かの世界についての有益なディスクール(お話し)が拝聴でき申そう」 (マリネンコ、ダルシネア、モーグル登場。) マリネンコ 「インゴルシュタットと言えば、かのフランケン氏の誕生せし町にゃらずや、バロン」 バロン 「さようにござる。それのみか、デカンショ博士とかのヴィクトール・フランケンシュタインは、子弟の間柄であったそうな。されど観念論者のデカンショ博士と、唯物論者のヴィクトール青年は結局あい容れずに喧嘩別れしたそうにござる。より高い想念界に引かれた博士は、生々しい生命や血みどろの肉体には共感できなかったのでござろう。生命の創造よりも、生命の否定に傾いたのでござる。人の手によって生み出された生命などは、博士にとって忌まわしい錯誤以外の何物でもござらんかったろう」 マリネンコ 「そうは言っても、生れてきたものに罪はにゃかろうに」 バロン 「それは神の創った人とてもそうでござる。創られたものに罪はござらん。ヴィクトールは自ら創った者として、罪を負わねばならなかったのでござる。彼は永遠の贖罪者となって、今も極寒の地を彷徨ってござる」 マリネンコ 「創造者も被造物もともに悲惨にゃるかな。ヴィクトールは極寒の地を彷徨い、フランケン氏は・・・」 モーグル 「私が最後に逢った時は、とある田舎町のお化け屋敷に出演しておりました」 バロン 「フランケン氏も、ヴィクトールが自ら贖罪の苦しみを引きうけた以上、もはや復讐の張り合いをなくしたのでござる。神もまた贖罪の神となることによって、人類の呪詛をまぬがれておるのでござる」 マリネンコ 「神であることも、なかなかににゃんぎなことにゃらん」 (森番の爺や、マリネンコの安楽椅子を抱えて登場。) 爺や(安楽椅子を舞台中央に据えながら) 「旦那様方、ご婦人方、またどんな気まぐれで、こんな黴臭い天文台で午後のティーパーティーなど開かれなさります。まるでお星さんどころか、昼間から幽霊でも出そうではございませんか」 バロン 「その真昼の幽霊を呼び出そうと言うのじゃ」 爺や 「ご冗談を。幽霊は地下倉だけで充分でございやす。あっしは年のせいか椅子をお運びしただけで、情けないことに腰が抜けそうでございやすから、下で休ませてもらいやす」 ダルシネア 「爺やさん、ご苦労様でした。下でお茶でも頂いててください」 爺や 「へい。あっしとしてはお茶よりも・・・」 マリネンコ 「ワインを好きなだけ飲むと良い。にゃんが許す」 爺や 「へい、ありがていこってす、マリネンコの旦那」 (爺や喜んで退場) バロン 「それでは、マリネンコ殿の安楽椅子をもって、舞台道具も揃いましたこととて、ほかの皆さまは、少々黴臭いのは我慢なされて、椅子なりソファーなりにお坐りくだされ。先ほど打ち合わせましたとおりのセアンスを、これから催したくござる。このたびの主役は、つまり語り手は、あれなる奇怪なる装置でござる。カイメラさん、ご説明を」 (バロン、片隅の望遠鏡様の装置を指さし、カイメラにうなづく。) カイメラ 「私としてはあまり気のすすまない企画なのですが、少しスリルのある催しをというバロンのたってのご要望ですので、一口乗りました。ご存知の方もいらっしゃいますが、あの天体望遠鏡のような装置は、デカンショ博士がウラノボルグを訪れた時に残しておかれたもので、言ってみれば博士の形見のようなものです。と申しますのは、博士はこのウラノボルグを最後に、地上から姿を消されたからです。観念界は実在すると言うのが博士の持説です。もちろんこの説は珍しくもなく、すでに古代ギリシャではプラトンがイデア界の実在を唱えていますし、その後も観念の実在論者は後を絶ちません。唯名論者や唯物論者が、風に吹き飛ばされる空虚な音のようなものと見なしている、人間の頭の中のもろもろの思念や思想が、それ独自の世界の産物であるというのが、観念論者の主張です。ただそれだけの主張であるならば、デカンショ博士の説は、改めて取り上げるまでもないのですが、博士はそれをただ単なる主張に留まらせずに、実験的に実証もしくは実践しようとしたのです。数学では高次の次元(ディメンション)のあることが知られています。それらは単に頭の中での操作に過ぎませんが、博士はその次元にあたる高次の観念界に、存在ごと移住することを考えていたのです」 マリネンコ 「にゃんと、観念の世界に存在ごと移住するとにゃ。勇ましき博士にゃり。にゃん思うに、にゃんという存在が、にゃんの頭の中にもぐりこむようにゃり」 バロン 「マリネンコ殿の言われようでは、まるで肉体が裏返しにされて、脳の中にもぐりこむようではござらんか」 カイメラ 「確かにそのような批判は、デカンショ博士の生前からありました。博士を物笑いにしたり、狂人扱いする者もありました。ジョンソンという博士は、デカンショ博士を杖で叩こうとしました。確かな肉体かどうか試してやるといってね。すんでのところで博士の脳天は打ち砕かれるところでした。これにこりて、博士は秘密の研究をつづけてゆきました。博士は天文学者でもあったので、星の世界と観念界の関係についても思索をめぐらせました。毎晩大きな望遠鏡で観察を続けているうちに、あるとほうもない想念に思い当たったようです。その具体的な内容については詳しくは知りませんが、極大と極小について思いをめぐらせているうちに、ついに観念的存在の奥義に到達したようです。その結果生まれた装置が、あの望遠鏡とも、大きな顕微鏡ともつかない不思議な装置なのです」 マリネンコ 「にゃんはデカンショ博士とは面識なきにゃれど、面白き人物がにゃんの昼寝中にウラノボルグの客とにゃりたるかな。博士は何用あってにゃんが天の城に客となられたにゃらん」 カイメラ 「この城が天界に一番近い場所と思われたからです。人の世の塵から離れ、空気の澄んだこの土地こそ、博士のいわゆるデカンション、即ち純粋観念界へ昇天するには、最適の場所と思われたからです。ここであの装置を組み立てました。博士の説明によると、ある種の光学装置なのだそうで、レンズとプリズムの複雑な組み合わせからなっており、その中に観念を投影することによって、まるで万華鏡のように限りなく増幅したり、拡大したりできるということです。しかしただの万華鏡でないことは、博士の意図からして当然ですが、この装置を非常にやっかいなものにしています。それを覗いているうちに、まあ運がよければ発狂ですみますが、悪くすると、というよりも博士の場合は願いどおりに、デカンションへ向けて昇天、もしくは消滅してしまいます」 マリネンコ 「そのデカンションとはどのような世界にゃるか」 カイメラ 「それは私にも分かりません。デカンショ博士に直接聞くほかはありません」 マリネンコ 「博士は消滅したそうにゃれども、どのように博士とコンタクトするのにゃ」 バロン 「そのためにブルフローラ嬢にお手伝い願って、セアンスを催さんとしておるのでござる、マリネンコ殿」 マリネンコ 「にゃんが娘がさようにゃる能力のもち主とは、意外にゃるかな」 ダルシネア 「にゃんさまの能力にはあきれますことよ。にゃん様のお居眠りの間に、寂しい城に取り残された娘は、いつの間にか霊界などといういかがわしい世界の、妖しい存在とお付き合いするようになってしまいましたの。わたくしは娘がこのような実験で、危険な目にあいはしないか、そちらのほうが心配です」 ブルフローラ 「お母様、ご心配なく。わたくしもことさらに霊媒として扱われるのは心外ですが、皆さまのご退屈しのぎに、演技の一つもして見せましょう」 バロン 「かたじけのうござる、ブルフローラ嬢。あなたを余興のだしにして、ご不興ではなかろうかと心配しておった。ところで、冗談は抜きに、あなたの中には特別な世界が存在しているような気がしてならぬ。いやむしろ、特別な存在があなたを世界としていると言ったほうがよかろうか。あなたはそのような存在に、あなたを仮の宿として貸すことができる。デカンショ博士が今どのような存在であるか、想像もつかぬのであるが、あなたはそれを伝えることができるように思われるのじゃが」 ブルフローラ 「デカンショ先生が滞在なされた時、私はまだ少女でしたが、天文学について様々なことをお聴きしました。天界はただ目で見たり、望遠鏡で覗いたりするばかりではなく、実際にそこへ行くことができるのだよ、ということを聞いて私は不思議な思いに駆られました。デカンショ先生は常に、観念の偉大さと言うことを口にされていました。理性が思うこと、考えることはそのまま実在するのであって、ただ思いや考えが、あまりにも小さく、力ないがために、肉体や物質の前に挫折するのであると。人間のひよわな理性を増大し、拡大することができたならば、人間はこの宇宙を意のままにすることができるであろうともおっしゃっていました。 当時のわたくしには、よくのみこめませんでしたが」 バロン 「非常に興味深い説じゃわい。博士は増強された観念によって、世界支配でももくろまれたのか」 ブルフローラ 「デカンショ先生は謙虚な方でしたから、そのような妄念とは無縁でした。食うものと食われるものとが相克する、この地獄のような世界に愛想がつきて、より良い理性によって支配されるより高い世界への解脱を目指しておりました」 バロン 「ふむ、ゴータマのような方であったか。それならば、なぜこの世界を理性によって改造し、万物を救おうとはされなかったか」 ブルフローラ 「わたくしにもよく分かりませんが、博士が消滅する少し前にお聞きしたところでは、いったん高次の世界へと旅をされてから、56億7千万年後にこの世界へ帰還されるとのことでした」 バロン 「どうやら時空を超えた世界のようでござるな」 マリネンコ 「さようにゃれば、にゃんの夢の世界も同様にゃり」 ダルシネア 「にゃんさまは時空に無頓着すぎるのでございます。まったくカイメラさんが几帳面でいらっしゃらなかったら、今がいつで、ここがどこなのか、お城の誰にも分からなくなってしまったことでしょう。カイメラさんは叙事詩に興味がおありですから、いつかお城の物語でもお書きになられることでしょう」 カイメラ 「恐縮でございす」 マリネンコ 「にゃんの城の物語はキャイメラ君にまかせるとして、デカンショ博士についてもっと聞かせてほしいにゃん」 バロン 「この先は出来うべくんば、デカンショ博士よりじかにお話をうけたまわれんものかとぞんずる。ブルフローラさん、ちとあの器械を覗いてはくれもうさんか」 カイメラ 「お気をつけて。博士の後を追うことになりかねませんので」 ブルフローラ 「博士にお聞きしたところでは、ただ覗いただけではせいぜい気が触れるだけとのことです。かの世界へ旅立つには、この世界から逃れようという強力な意志が必要なのだそうです。わたくしも一度覗いてみましたが、観念の渦巻に呑みこまれて気を失いそうになっただけでした。強固な意志と誤りない理性によって、その渦巻を乗り越え、理想の世界へ到達することができるのだそうです」 バロン 「そこまでの危険をブルフローラさんに負わせては済まぬことであるから、ただ、もし可能ならば、博士とコンタクトをはかってもらいたいのじゃ」 ブルフローラ 「わたくしを買いかぶらないでくださいませ。わたくしは理性よりも感性のほうでございますから」 ダルシネア 「さようでございますわ。おやめなさい、フローラちゃん。なんでも気味の悪い器械だということですから、触らぬ神に祟りなしです。デカンショ博士はご立派な学者で、お話し上手の紳士でいらっしゃりましたが、突然挨拶もなく立ち去られたのにはがっかりいたしました。噂では、あの器械に呑みこまれたのだということですが、どこか秘密めいたお方でしたので、そういえばナタニエルさんもそうですわね、突然お消えになって、何か特別な事情がおありだったのでしょう」 マリネンコ 「にゃんはその特別の事情を知りたく存ずるにゃん」 ダルシネア 「まったくにゃん様は好奇心のかたまりでございますから」 ブルフローラ 「デカンショ先生とコンタクトするのはそれほど難しくはありませんわ、皆さま。わたくしはあの器械を覗かずに、手で触れているだけで、何らかの存在の気配を感じることができます」 (ブルフローラ、片隅の望遠鏡様の器械に近づき、その鏡筒をいだくように両手を触れる) ブルフローラ 「なんという静寂がこの中から感じられることでしょう。ゴータマのいうニルヴァーナとはこのような世界なのでしょうか。デカンショ先生はよくゴータマについて語られていました。ゴータマはオリアンのとある小国の王子でしたが、あらゆる幸福を味わった末に、世界には苦のあることをはじめて知った衝撃のあまりに、もはやあらゆる幸福を幸福とは感じられなくなり、ついに妻子を捨て、森に入りみすぼらしい修行者となったのでした。十年の間、あらゆる苦行によって幸福の思い出を断ち切ろうとしましたが、悪魔の囁きのように快楽が彼につきまといます。苦行さえ快楽に思われてくるのです。こうした苦闘やジレンマの果てに、疲れはてて小川のほとりで倒れていると、牛飼いの娘が近寄ってきて一杯のミルクを彼に差し出しました。彼は思わず手を出して、そのミルクを飲み干しました。それはこれまで彼が味わったどんな幸福よりも甘美な美味しさでした。その瞬間に彼は悟りました。これまでの修業がすべて無益であったことを。肉体でもって肉体と闘うことの無益さを。この世界は快と苦でできていて、肉体である限りはその網から逃れることは不可能であることを・・・さようじゃ、ゴータマはこの真理の認識に遅ればせながら到達したことによって、肉体を超越した世界の視点に立つことが可能となったのじゃ。それによって肉体即ち物質の世界に対して、かえって寛大な気持ちになることが出来、衆生への慈悲心となって、梵天の勧請を待たずともこの世へ帰還されたのじゃ。」 バロン 「ようこそ、デカンショ博士。初めてお目に、いやお耳にかかり申す。余はバロン・ナイトと申すもの、ここにおられるはウラノボルグ城の城主マリネンコ伯爵及びダルシネア伯爵夫人にござる。余及びほかの方々は伯爵のサロンのメンバーにてござる」 デカンショ 「堅苦しい挨拶は抜きにして頂きたい。サロンのことはよく存じている。こちらの世界は何事にも簡を要とせる、涼しき世界なればなり」 バロン 「失礼申した。噂はかねがねうかがってござるので、余も初めてお会いする気がいたしませぬ」 デカンショ 「肉体と精神は反発しあうが、精神と精神は純粋であるほどなごむのである。2たす2は4であるほかはないようなものでな。そのかわり自我が曖昧になって困るのであるが。私が私であるのか、ブルフローラさんであるのか、どちらでも良いような気がする。自我は肉体が活発であるほど、強力に意識されるようじゃ。自我が精神化し、自我の自我をとことん追究していくならば、究極の我は希薄化して宇宙と一体化するのである」 バロン 「古代ヒンダスの賢者の言うアートマンでござるか、デカンショ博士。さすれば、博士は今アートマンとなって宇宙と一体化されているのでござるか」 デカンショ 「そうとは言えない。ブルフローラさんの肉体を借りてこの世界に一時帰休している限りは、そうも言えようが、アートマンもしくはブラフマンの世界はこの物質界のもとでもあるので、それを超越することが私の目的であり、実践なのであれば」 バロン 「その超越界について、お話を伺いたいのでござるが」 マリネンコ 「さようにゃり、デカンショ博士。にゃんはマリネンコ伯にゃり。博士の滞在中は居眠りしておって、まこと失礼いたしたり。にゃん、夢見ること快美とするにゃり。博士の快美とする世界はいかなりや」 デカンショ 「その節は、マリネンコ伯の温顔にまみえて、この世を去る前の楽しき一時を過ごさせていただいたことを、超越界から感謝いたします。マリネンコ伯は、失礼ながら一種特別な存在でいらっしゃって、いわば存在自体が超越であるようなもの、私やほかの人間たちのように肉体と精神の相克とは無縁でいらっしゃる。不完全な存在であるが故に、超越も、超越界も必要なのです」 マリネンコ 「にゃんは超越そのものであると申すか」 デカンショ 「超越者であるために、かえってそのことに気がつかれない」 バロン 「差違のないところには差違の意識も生まれぬということでござるな」 デカンショ 「さよう。肉体と精神が完全に合一して、理想の超越をとげたのが伯の存在と思われます。それはそれで理想の宇宙かもしれませぬ」 バロン 「肉の身であると同時に精神が宿っておるのが、この世界の存在と見受けるが、理想の合一がこの世界で可能なのであろうか」 デカンショ 「それを具現しているのが、どうやらブラフマーやマリネンコ伯のようであるな。そもそもこの宇宙には、初め肉体も精神も区別がなかったのであるが、異常に脳の発達した人間の登場によって、いわば精神の謀反が始まったのである。知性は元来が肉体の、というよりも、生命の道具に過ぎないのだが、生命の余剰のエネルギーが物質界よりも観念界に向かうことによって、あたかも精神だけが独立して存在しうるかのような錯誤に陥ったのである。肉体のないところには精神はなく、精神のないところには肉体もない。それがこの世界であり、あらゆる存在は、無機物であれ、動物であれ、それを具現した存在である。人間だけがその合一から逸脱しているのである。」 バロン 「それでは、博士の今いらっしゃる世界はどのような世界であるか。物質でも精神でもない世界であるとでも申されるか」 デカンショ 「そう話を急がれるな、バロン。人間は動物にもなれず、神にもなれない。せいぜい哲学者という中途半端な存在でしかない。動物として生きるには知性を持て余すし、精神界に生きるには肉体の反乱を制しきれない。仮に理想の合一を遂げたとしても、ひとたび知性の眼によって眺めたこの世界は、地獄とも、修羅道とも映るのであるから、安易に悟ってなどはいられまい。まことに屋根の上のヴァイオリン弾きならずとも、不安定な生存を余儀なくされるのだ」 バロン 「単に精神と肉体が調和しただけでは、人間はこの世界では幸福にはなれぬというは、まことに余もそのとおりと存ずる。この世界では束の間の幸福しか保証されておらぬ。そも幸福自体が幻であって、生命の狡猾なたくらみに過ぎぬのではなかろうか。余もそう疑うことがある」 デカンショ 「幸福もまた宇宙理性の定めに従うならば、そう言ってよかろうと思う。この宇宙は人を幸福にするためにあるのではなかろう。宇宙理性にしたがって、人は諦念を抱くことはできても、とわの幸福を得ることは出来まい」 バロン 「とわの幸福を得ることができないことが分かっていながら、やはり束の間の幸福にしがみつこうとするのが人の性ではござらんか」 デカンショ 「それをヘーゲルにならって理性の狡知とでも言いましょうか。あるいは生命のわなとでも言いましょうか。不平不満の中にも、朝三暮四わずかでも幸福があたえられるならば、やはり生きていてよかったと思うのである」 バロン 「そのような生命、そのような世界でありながら、われわれは耐えて生きねばならぬのであるか。余は自殺を肯定するにはあらねど、しばしばこの思いに駆られたり。博士の意見を請う」 デカンショ 「ストアの賢人は自殺を肯定せること、周知の事実なれども、それは世界観よりではなく、外的内的事情により無意味な苦痛をこうむるおそれのある場合のことであった。純粋に世界観から生命に絶望して命を絶てるものは、まずなかろうと思う。思想はいかにその内容が悲観的であろうとも、正しく思索する限りはそれ自体が喜びであり、自己救済でもあるからじゃ。そこから生まれてくるのは、死への願望ではなく、より高い世界への限りない憧れである。この宇宙を超越して、さらに純粋なる理性の世界へと赴かんとする意志の力である」 バロン 「それが博士のおっしゃるデカンションでござるか」 デカンショ 「わが名を冠して不遜のようであるが、そのとおりである」 マリネンコ 「デカンションはいかなる世界なりや」 デカンショ 「ひとまずプラトンのイデア界を想像されたい。イデア界はこの世界の設計図と言ってよい。すべてが概念であって、具体物は何一つとしてない、まるで空虚のような世界じゃが、そのなかをデミウルゴスが動くと、たちまち形が現われ、世界が生まれる。その創造の世界をひと見物して、さてその裏に回ってみるのじゃ。そこにのっぺらぼうの世界がある。概念もなく、創造者もない。――と思われるのは、まだ自我が邪魔しておるからだ。自我の自我の自我の自我・・・へとさかのぼることによって、そこに神が現われる。しかしその神と思われたものは、究極にまで希薄化された私自身にほかならぬのだが・・・」 マリネンコ 「すると博士は、デカンションで神になられたと申されるか」 デカンショ 「それは一つの比喩にすぎぬのでな。神などというものは存在せん。ホーキングも言うておろう。私は私の中に永遠を見い出したのだ。それが神でなくてなんであろう」 バロン 「エムペドクレスは神にならんとしてエトナの火口へ飛びこんだが、博士はこの奇妙な光学器械で神になられたわけでござるな」 デカンショ 「私の発明したこの器械だけで、すぐさま解脱ができるというわけではない。不用意なものには、かえって災いをもたらすであろう。私の弟子のマインレンデルは、これを自殺器械と見なしたために、いまだどこを彷徨っておるのか、こちらの世界で出会ったことはない。自殺は生への意志の錯誤であり、我が身を喰らう蛸といかほどの違いがあろうか。苦楽を超えてこその解脱である」 バロン 「たしかにゴータマが十年かけて果たした解脱を、博士の発明とはいえ瞬時にして果たそうなどとは、ちとむしが良すぎますかな。余もまだこの世に未練のたんとあるゆえ、遠慮申しておこう。それにしても、この奇怪なる装置の秘密を、よろしければ少々おうかがいしたい」 デカンショ 「これは器械であると同時に、精神に感応するものであるゆえ、いわばメタマシーンと呼んでよかろう。まさに物体として具現したメタフュジークである。原理は至って簡単、人間の精神を無限の両極から覗くものである。二種の無限がある。無限大と無限小である。その器械を上からのぞいてみよ。あたかもはてしなく極微へと向かう顕微鏡のごとく、精神は自己の根源へと縮小してゆく。その器械を下からのぞいてみよ。無限の宇宙がそこに広がるであろう。精神は光速を超えて宇宙の果てを果てしなく求めゆく。果てしなく拡大した果てに、自己の根源をたずねあてる。無限大と無限小とはそこで出逢い、coincidentia oppositorum の秘儀により、精神は宇宙と一体化し、宇宙を超えるのである」 バロン 「難しいメタフュジークであるが、要は博士はそれを実践されたのでござるな」 デカンショ 「さよう。形而上学は思弁ではなく、実践でなくてはならぬ」 バロン 「まさに魔術のようなものでござるな」 デカンショ 「古来魔術は、ある種の形而上学の実践ではあったが、もっぱら欲望に奉仕することによって、真実の形而上学とはなりえなかった。理性の発見によって、初めてそれを媒介とした、世界超越へと向かう解脱への意志が生まれたのじゃ」 バロン 「いまだ理性の声に耳をかさず、解脱への意志もなく、何なすこともなくこの世を彷徨う余輩のごとき存在には、耳の痛き言葉でござる」 カイメラ 「ここでデカンショ博士に、ひとつお願いもうしたいことがあるのですが」 デカンショ 「カイメラさんですな、その節はお世話になった。ダルシネア伯爵夫人にも、遅ればせながら、ここでご挨拶申し上げる。突然おいとまいたしたので、さぞご不快に思われたことと存じます。何しろ解脱に人情は禁物でして、ゴータマも深夜ひそかに王城を抜け出したと申します。サイギョーというオリアンの詩人は愛娘を蹴倒して出家したと申します」 ダルシネア 「博士のテーブルトークがお聴きできなくなって、しばらくは寂しい思いをしました。でも殿方というものは、誰しもわがままでいらっしゃるので、わたくしは慣れております」 マリネンコ 「にゃんも今、博士のトークに親炙せるを喜べり」 デカンショ 「こちらの世界へ来て久しいので、言葉などという感性で概念を包んだ団子のような物をあつかうのは、少々しんどいのであるが、上手く料理できているでありましょうか」 マリネンコ 「やや硬けれど、よくかめばアジのあるお言葉なり」 カイメラ 「先ほどのお願いの件ですが・・・」 デカンショ 「そうでしたな、どのようなことであろうか」 カイメラ 「たいしたことではございません。サロンの趣旨をご存知のことと思います。ご登場なさった方には、何か物語をお話願っています」 デカンショ 「私は哲学と天文学以外は学んだことはござらんのだが。物語といわれても・・・」 バロン 「ウラノボルグの図書室に<デカンションへの旅>を残しておかれたのではござらんか」 デカンショ 「うむ、その覚えはある。あれはヴィクトール・フランケンシュタインの物語が出たのをきっかけに、若気の到りで走り書いたたつまらぬものである。反故にする機会を失して、いまだ図書室に眠っておったとは」 カイメラ 「その<デカンションへの旅>を、サロンで朗読してもよろしいでしょうか」 デカンショ 「今の私の精神のありようからは、まるで他人の作のようにも思われよう。私の名を出さずに、そうだ、どこかオリアンの無名の青年の作とでもしてもらえば、私としてはここで再び客となった以上、反対はしますまい」 カイメラ 「ありがとうございます。それでは朗読は誰にいたしましょう」 マリネンコ 「キャイメラ君、君がよかにゃん」 カイメラ 「それならば早速始めます」 (カイメラ懐より草稿の束を取りだして広げ、朗読を始める) * * * タイトル:サロン・ウラノボルグ10.−デカンションへの旅1.− copyright: shuh kai 2012 UP:2012.4.25 入力:マリネンコ文学の城 (画像は観測するチコ・ブラーエ) |