サロン・ウラノボルグ
サロン・ウラノボルグ第12章 デカンションへの旅 (3) 断章1・2 <聖マルガスの星> <セミラミアとサルダナバルの対話> 断章1 <聖マルガスの星> 「一体どうなってるんだね、この星は。山も川も森も町も、まるでミニチュアじゃないか」 「僕らの宇宙船が大きすぎるからだよ。普通の星なら地上すれすれまで降りたところだが、ここではまだ、一番高い山よりも数倍の高さがあるのだ。今眼下にある町などは、この宇宙船で空がすっぽり覆われてしまっているわけなのだが、うまく光を透過させているので、住民には薄い雲がかかったようにしか見えないはずだよ」 「すると僕らは、小人国へやって来たということかい」 「そうともいえるし、また必ずしもそうではない。だいたい空間というのは、そこに住んでいる住人にとっては相対的なものだし、空間に合わせて身長を変えることなどは、さしたる難事でもないのだ。そこの空間に僕らの次元を一致させれば、僕らはたちまち彼らと同じ大きさになる。どの空間系においても、自然のプロセスの度や量の関係はだいたい一致しているものだ。その関係に適応することが、その空間系に入っていくことの条件なのだが、僕らは今他の次元にいてこの星のある空間を眺めているので、彼らが途方もなく小さく、あるいは同じことだが、僕らが途方もなく大きく思われるのだよ。それにこの星の空間系に合わせたくない事情もあるのだが・・・」 「その事情というのは」 「まあ、まず拡大鏡でこの下の町の様子を見てみたまえ」 宇宙船の床の一部が急に盛りあがったようになって、そこから透かして見えている眼下の光景がぐんぐんと近づいてくる。点のようであった建物の群が、雨後の筍のように一斉にせりあがってきた。筍と形容したのはほぼ文字通りであって、その表面には無数の窓とおぼしき穴が整然とうがたれている。建物は専らこの筍型に限られていて、高さにおいても間隔においても几帳面な規則性があって、もしこの規則性がなかったなら、人工物というよりも、自然に生えた植物のように思われたことであろう。あるいは壁面にうがたれた無数の穴の印象から、蟻塚の集落のように思われたことでもあろう。 町全体はほぼ円形をなしていて、そのどこに拡大鏡を向けてみても、この筍だか蟻の巣だかがニョキニョキと現われるばかりだった。円の中心部が拡大された時、そこにやっと変わった光景が浮きあがってきた。変わったといっても、そこはかなりの広さで建物がなく、つまり円形の広場をなしていて、その中央に三角柱のオベリスクのような、これだけは筍のようではなく、すらりと伸びた塔がそびえ立っているのである。その塔には窓がない代わりに、なにやら人の顔のような模様が、三つの面のそれぞれを飾っていた。見下ろす方向の加減で、二つの面の二つの顔が見えただけであったが、友の言うには、 「あれはドリリング(三聖者)の塔というんだ。この星のどの町のどの広場にも建てられている。というよりも、このドリリングの塔を中心に町が作られるわけだ。聖者の顔が三方から住民を守護し、というよりも監視している。君らの星で、未開人がトーテム・ポールを崇めているように、この星の住人はドリリングを崇め、畏れるよう強いられているのだ」 「強いられているというのは?」 「宗教というよりも、政治的体制の象徴としてのトーテムであるからだ。もともと宗教は支配、被支配の統治の原理でもあるわけだから、政治が民衆を統治しやすく馴致するために、宗教の象徴を用いるのはよくあることだ。宗教はいわば民衆の小児的な心の中にある被支配の願望を、うまく催眠暗示的に引き出すことなのだが、それによってある階層の利益を守護することになるのだ。この星では支配者たちは、この宗教心理を徹底して利用しているね。集団のあるところには指導者がなければならない。集団は指導者に指導されることを求め、そのために進んで指導者の前におのれの意志を投げ出すものだが、ここまでは集団的に行動する場合の、そうあらざるを得ない力学といっていい。そして一旦、集団の目的とする事柄が達成されてしまうと、集団として行動した者たちはもとの一人一人の個人に戻るはずだ。集団の存在理由は目的のための手段にあったにすぎないのだから。 ところが、ここに個人に戻ることを潔くしない連中があるのだね。それは、集団の力学の必要上、指導者の役目をつとめた少数の連中のことだ。この少数と多の関係は集団の中でしか成立しないのだが、集団が解消した後も、この連中はかのエリートの味が忘れられないのだ。彼らはいつでも、他の連中は自分らに指導されないと生きてゆけない哀れな存在だと思いこんでいる。その実彼らは、集団の力がおのれに結集した時の、あの超人的な力の感覚に、いつまでも阿片のように酔いつづけていたいだけのことなのだがね。その力は彼らのものではなく、彼らをいわば電極とした集団のエネルギーの爆発にすぎないのだが、その爆発の張本人は自分らだと思いこんでいる。革命は革命家が起こすのではなく、革命家をもろともに吹き飛ばす民衆の鬱積したエネルギーの産物なのだが・・・」 「お談義の途中だが、君の革命理論はいずれゆっくり拝聴するとして、一体この星のドリリング(三聖人)とはどういう連中なのだね。どうやら革命家であったようなお話しだが、それがこのトーテム・ポールとどう結びつくのだね」 「どうも地球でつきあった学生たちの口調になってしまったようだ。彼らはなかなか雄弁だから、つい模倣本能がでてしまうのだよ」 「君ら宇宙人も、結構進歩がないとみえる。われら遅れた地球人の口真似をしてもらうのは、はなはだ光栄ではあるが」 「When in Rome, act like a Roman (郷に入らば郷に従え)、というのは私ら宇宙旅行者のモットーでもあるのだ。君らだって、時に動物の真似をしてみることもあるでしょう。あのピグミーのモンキーダンスは見事なものだったね」 「・・・・・・」 「いや、失敬。君らをチンパンジーに譬えたわけではないのだ。チンパンジーはまずもって人間に進化することはないが、可能性としては君らと私らは同等のレベルに立っているのだからね。ただ君らの発見能力が、いまだ私らの段階にまで達していないまでのことなのだが・・・。ちょっと倍率をあげてみるから、この町の住人を観察してみたまえ」 これまで筍型建物の林立する光景で停止していた拡大鏡が、再びズームして、見る見る建物の間隔が広がり、コンクリートの道路が一面にせりあがり、通行している蟻のような住民が見え、蟻が蜂ほどに、蜂が甲虫ほどになった。いや大きさは甲虫でも、やはり蟻の印象であった。というのは、四肢の大きさに比較して、信じがたいほどのスピードでこの町の住人が、右へ左へ往来していたから。 「ずいぶんとはしっこい連中だな。まるで蟻ではないか。それとも・・・」 私はちょっと早回しのフィルムを連想したので、 「この星は空間系ばかりでなく、時間系も他の星とは異なっているのかい」 「そうではなくて、これが彼らの普通の活動する早さだよ。彼らは移動する乗り物を必要としないくらいなのだ」 「彼らに比べたら、僕ら地球人はまるでなめくじだよ。一体何の用があって、連中はこんなにもせわしなく走り回ってるのだい」 「たいした用がなくても、彼らはいつでもそうさ。家へ帰る時も、広場へ散歩に行く時も、もし立ち止まってでもみたまえ、たちまちまわりからうさん臭い目で見られるね。<いつでも用のあるごとくせよ>、というのが例の三聖人の一人のお言葉だ」 彼らこの星の住民を、蟻と譬え、甲虫と譬えたが、拡大鏡の視野の中を蠢く彼らを見れば見るほど、この最初の印象は強まっていった。彼らは一様に薄茶色の作業服のようなものを着していたが、衣服からあらわれた顔や四肢は、日焼けしたようなこげ茶から純黒色にいたるまで、ほとんどが有色の肌をしていた。で全体としては、黒色の蟻が餌を求めてしきりに走り回っている印象を強めたのである。中に、黒光りする金属製の平たいリュックのようなものを、背に負う者らもあって、それがいわば甲虫族であった。蟻族も甲虫族も、走り回りながら、互いに喧嘩でもするように両腕をやたらと振り回していた。とはいえ、衝突しそうになると、実にたくみに互いの傍らをすりぬけるのであった。 「あれは一体何のそぶりなのだい」 「彼らのほとんどは地下労働者なので、視力が衰えてしまった代わりに、両腕を触手のように用いているのだ」 「するとこの星の住人は、小人で黒人で盲目ばかりなのかい」 そう言った途端、珍しい生き物が拡大鏡の視野に現われてきた。珍しい生き物というのは、褐色の皮膚をして両腕を振り回し、火事でも見物に行くように走り回っている連中とは、まるで違った生き方をしているらしい住人が現われたからである。まず彼の顔や四肢は、周りの黒とは際だって白色であった。次に彼の動作は際だって緩慢であった。黒人が十米行く間に、この白人は二米とは動かなかった。もっともわれわれの散歩する動作も、彼ら蟻や甲虫の間にあっては、同じほどスローモーであったろう。第三に彼の衣服は純白の制服で、その肩や胸にいくつもの金ボタンやリボンのようなものをつけていた。 「やっと人間らしく、まともに動くやつが現われたね」 「彼が人間らしいかね。彼はこの町のエリートの一人で、この星の支配層であるアパルチの一員なのだ。彼らアパルチは、この星の制度を、歴史上最も人間らしい制度であると誇っているね。人間を労働の疎外から回復して、労働者を労働者のエレメントに帰したのは、聖マルガスの使徒であるわれらアパルチの功績であるとね」 「そのマルガスというのは何者だね」 「ドリリング(三聖人)の一人で、その第一位にある者だ。この星の今のようではなかった、はるかな昔のことだが、その頃はいまだ、労働というものは金銭で売り買いできるものだと考えられていた。他人のある労働を必要とする者は、それだけの価値を持つと見なされるものとの交換で、それを購うことができた。自分のためにある者を戦わせたいと思えば、代わりにその者に土地を与えたり、貴金属や女を与えたりした。ところが商業という観念が生まれてきて、この等価の交換は一方の側の利益を生むものでなければならなくなった。労働は、労働の生む価値よりも値引きして交換されるようになったのだ。労働を労働の生む価値よりも安く買えば、その分が買った者の利益となる。まあ、単純に考えて、ある者の労働の結果が、その労働を1ドラクマで買った者に、2ドラクマの価値をもたらしたとしたら、本来、労働を買った者は、不足分1ドラクマを支払わねばならないことになるが、事実は反対に、その1ドラクマの差は労働を買った者の利益として、労働を売った者から詐取されているわけだ。 この単純な計算によって、遠い昔労働者の不利益に気が付いて、この星の労働者にマニフェスタと称する革命文書をを配布したのが、それまで敬虔な宗教者であった聖マルガスなのだ。聖マルガスの教えはたちまち万国の労働者の間に広まって、時の支配者たちや彼らを支えている商人や雇い主たちを脅かしたので、大弾圧が行われた。兵隊たちは皆傭兵であったが、皮肉なことに、彼らはマルガスが言う、一日1ドラクマの上乗せがなければ働こうとしなかった。とにかく、支配者達はしぶしぶ日給2ドラクマを払うことによって、兵たちにマルガスとマルガスの徒を捕らえさせた。マルガスは十字架に架けられ処刑され、散りぢりになった彼に従う労働者たちは、皆文字どおり地下にもぐったのだ。マルガスにつづく指導者となったのは、彼の右腕であった聖ウンガリであった。彼はもと雇い主の階級であったが、マルガスの教えに共鳴し、自ら率先して労働者に倍の賃金を払うようになった。地下にもぐってからは、地下に大工場を建設し、マルガスの兵と称する自前の軍隊を養成し、時宜を計って地上に打って出たのだ。革命戦争の時代と称する長い戦いの後、農民開放を旗印にしたズビズバが革命軍に加わることによって、ついにマルガスの徒がこの星を支配することになったのだ。この長い戦争で、王や皇帝やのすべての支配者、カピタリストといわれたすべての雇い主たちが、残りなく粛清されてしまった。マルガスが預言した、労働者の理想のミレニアム(至福千年)が始まったのである。この体制はミレミアムどころか、もう数万年つづいている。その結果が今見るこの星の、この状態なのだよ」 「労働者の理想の世界が、どうしてこんなふうな社会になってしまったんだい」 「生命の根本にある階級本能を克服できなかったからだ。支配と被支配は生命の生き残り闘争において、種を保存するための極めて有効な手段だった。特に群れや社会を作る動物や人間には、欠くことのできないシステムだった。生命界では種がすべてで、個体は無に等しい。動物でも人間でも、個体は取るに足りない存在だ。いざ種の危険、もしくは集団の危険が生じると、個体は進んで身を犠牲にするように、生理的心理的にプログラムされているのだ。その音頭とりをする集団の長または指導者が生まれ、他の大多数は彼らのもとでこの種の本能に従い行動するのだ。個は集団と一致し、というよりも集団そのものなのだ。これが階級の本質なのだが、一旦種が安定し、集団が繁栄を遂げても、この階級本能はそう簡単に消えてなくならない。それどころか階級の旨味を覚えた指導層は、それを永続化し、正当化し、また被支配階級もそれを宿命として、必然として受け入れるようになる。それが生命の本能に基づいているだけに、どちらの階級にとってもごく自然に思われるのだ」 「この星では、労働階級も自分らの現状に満足しているということかい」 「そのとおりだね。あれらの建物を見たまえ。筍の頂点に住んでいるのが、人口のわずか数パーセントを占める支配層のアパルチたちだ。その下に人口の二割を占めている兵士たちが暮らしている。あのリュックを背おった者たちが兵士だ。あのリュックの中にはいろいろな兵器が収まっているが、なかでも彼らの忠誠を保障している特別なものが設置されている。もし兵士たちが反乱でも起こそうものなら、たちまちそれが作動する。つまり自爆装置だ。そのスイッチを支配層が握っているわけだよ。その物騒なものを、兵士たちは唯々諾々と背負っているわけだ」 「それはまた思想教育以上に効果がありそうだね」 「革命戦争の苦い経験から、支配層は兵士たちの思想には、まったく信を置いていないのだ。兵士たちの下には、農工業の労働者が暮らしている。彼らの働き場所はほとんど地下なので、地に近いところが便利なのだという理由から、そう決められたのだ」 「農民たちはどこで働くのだい。地上には見かけないようだが」 「この星の住民の主たる食糧は菌類なので、地下に広大な茸農場があるのさ。工業もまたそれにならって、革命後は専ら地下で行われるようになった」 「するとこの星の住人にとって、地上は何のためにあるのだい」 「もともと大気が薄いので、彼らはあまりむき出しの生活を好まない。地面または地中が彼らに向いているのだ。Of the earth, earthy. と君ら地球の宗教家の言う存在なのだよ。おかげで彼らは宇宙には無関心でいるので、彼らの体制を他の星にまで及ぼそう、などと考えないでいるわけだ」 断章2 <セミラミアとサルダナバルの対話> 「わたしたちの世界ははたしてあるがままの世界なのだろうか、サルダナバル」 「それはどういうことだね、セミラミア」 「このごろふと思うのだが、わたしの見ている世界はあなたや他の人たちが見ている世界と本当に同じなのだろうか、たとえばこの楽園の星アイデンの色とりどりの植物、生きもの、鉱物、はたしてサルダナバル、あなたの目にもわたしの目に映ったとおりの色彩や形が映っているのであろうかと」 「セミラミアよ、またあなたは哲学という悪しき病にとりつかれているね。あなたの眼に小さく映っている世界がそのまま私の目の中の世界であることには、何の疑いもないではないか。ごらん、何というきらびやかな虹の衣装をまとった極楽の鳥たちが、むせかえるほどの花園の芳香につつまれて、どんな硝子よりも透明な陽の光の中に湯浴みをしているではないか。あなたの目はこの誰にも疑いようのない神の恵みの世界にも懐疑の影を見ずにはいられないのかね」 「その神という言葉を口にするのはよしなさい、サルダナバル。その言葉が口の端にのぼるや、たちまちあらゆる理知の光は曇らされてしまう。一体不可解なもので不可解なものを説明したところで、不可解なものは少しでも不可解であることをやめるだろうか。理知が行き詰まった時、理解困難なことがらを、更に理解困難なあるものにその解決を委ねたところで、それはただ理知の絶望の表現でしかなく、神という言葉はその敗北のネガティヴな象徴でしかないではないか」 「しかしセミラミア、スコラの学者やカルテシウスにとっては、神の観念は彼らの理知が最も明白にとらえる観念とされているではないか。しかも理知が謬りないためには、無謬の神が理知の背後に必然的に要請されねばならない。もし絶対的正義の神が存在しないならば、理知は何一つ肯定することも否定することも出来ないであろうと」 「そうした主張は、サルダナバル、理知と信仰がいまだ未分化の時代には盛んに行なわれたものです。一旦神の存在を信仰によって認めてしまえば、この世に明らかでないものは何一つないでしょう。啓示の光によって理知の光が曇らされると、理知は勝手な飛躍を始め、理知にとって何一つ不可解なものは影を落とさず、悪は善といいくるめられ、不合理なものは神の名において存在をゆるされ、およそ信仰の跳梁するところにはまたあらゆる妖怪が跋扈するといってよい。あらゆる不可解のなかで最大の不可解が容認されてしまえば、あらゆる不可能は不可能でなくなるのだ。しかし信仰から離れた理知の目で神の観念なるものをながめれば、そもそも積極的な観念として神なるものが存在するかどうかも疑われてくるのだ。神の属性として最も完全なるものという観念をとってみても、はたしてわたしたちは完全なるものという観念を頭に思い描くことができるであろうか。あるいはそうした観念を所有するであろうか。わたしたちの持つ完全の観念は既に限定された観念でしかない。たとえば完全な円という観念でわたしたちが思い描くのは、特定の条件を完全にみたす図形ということではないか。無条件に完全なものをわたしたちは思い描くことができない。またかりにこの無条件に完全ということを神の属性としたところで、そこに何ら積極的な観念が伴わないのだから、そういう属性を持った神の観念は空虚と同一ということになる。つまりわたしたちが神の観念と考えている完全とか無限とかは、何ら積極的な観念ではなく、また観念として存在するかどうかも疑わしく、結局わたしたちの理知の限界をネガティブに表現しているにすぎないことになる」 「だがセミラミア、神というのは理知の対象であるよりも、むしろ心情によって要請されるものではないだろうか。不完全な存在であるわたしたちが、完全なものの存在を希求したとて、それは非難すべきことだろうか。もちろんセミラミア、あなたの論法によれば完全なもののイメージは有限でしかないだろう。神のイメージが理想化された人間の似姿であるというのは、この間の消息を伝えているものだろう。理知からみれば笑うべき錯誤には違いない。しかしセミラミア、心情にとってはこのイメージは滑稽ではなく、人間にとって完全への努力を象徴しているものとはいえないだろうか」 「心情が幻影を必要としていることはわたしも認めます、サルダナバル。しかし哲学は神が幻影にすぎないことを見破った時、神とは縁を切ったのです。理知は長いことこの幻影と共棲を余儀なくされてきました。神とは今では理知のテラ・インコグニタを指す言葉のあやでしかない。かのパステルの心情に感じられる神についていえば、それは恐怖と臆病の産物でしかないでしょう。自己の無力が神の存在の証明とされるならば、原始人が幽霊を恐れたのとどれほどの径庭があるだろうか。こういう感情の要請や“直感”や霊感やらが理知の働きに微妙な影響を与えつづけていることは、嘆かわしいことといわねばならない。理知が神から訣別したようには、心情が神を離縁するのは容易ではない。カルテシウスが考えるわれの存在から神の存在を証明しようとし、ベカントが単なる理性の範囲内の神に甘んじようとしなかったのも、かの心情の要請なるものが蔭で糸を引いていたのであった。だが哲学が――即ち理知が――神に求めるものの正体がやがて明らかになると、哲学は神から、同時に心情からも解放されることになるのである。すでにカルテシウスは、神とは自然の謂であると目立たないように洩らしているが、理知を支えるものが神ではなく、理知の普遍妥当性の信念に他ならないことが、すなわち理知の神的な権利に他ならないことが、やがて誰にも明らかとなっていった。そして謬りない自然は理知のシンボルとなった。理知は神を追放したばかりか、自ら神の地位に登ろうとしたのである。それは解放された奴隷が、一時の狂喜に今までの圧迫者の椅子に坐り、主人の悪徳を真似るようなものであった。やがて理知の不遜はおのれの母胎である自然をさえ足下に踏みつけ、途方もない“体系”となって妄想の宇宙を自らのまわりに紡いでいった。しかしこの理知のヒュブリスを打ち壊したのは外ならぬ自然であったというのも、また当然のなりゆきといえよう。自然は今は理知の理解を拒否するかにも見え、かつて理知の足台であったものが、かえって理知の自信を打ち砕くかに見えるのです。理知は今や神の位地から退位し、かくして理知は二重に神を追放したといえる。そして今こそ理知はおのれの本来の姿に立ち返り、謙虚な探求者の眼を取り戻し、理想や観念の瓦礫の中で絶望という心情の狼藉に身をまかせたくなければ、あらためて世界をとらわれのない目で見直し、理解し直さなければならないのです」 「理知の力が絶大であることはわたしも認めましょう、セミラミア。理知は神を追放し、心情を追放し、そして理知が限界に突き当たった時でも、理知は相変わらず人間の希望であることをやめない。今さら中世の蒙昧に戻ることは、四つ足に帰ることよりも屈辱的であろう。しかし理知をここまで押しあげて来たものは一体どんな力だったか。いわばそれ自体では意志を持たない何ものかの道具でしかない理知が――一体エゲールの体系は機能と本体を混同しているのではなかろうか――おのれに目醒め、おのれを啓発していったには、背後に運動する存在がなければならず、それは外ならぬ目に現われた存在としての肉体である。理知は肉体に宿ることによってのみその機能を果たし、自然を足場にすることが出来るのです。そしてそもそも理知はおのれの力で活動し存在するのではなく、わたしたちの生命が、意志がそれ自身の保存のためにあみだした便宜でしかなく、もし機械を操作し、動力を送りこむところのこの主人がその手を動かすことを拒むならば、理知は電源を失った全くのからくりであり、空虚なコイルにすぎないでしょう。そうではないかね、セミラミア。理知は実在的なあるものであったり、それ自体が宇宙の本体であったリー―いったいコイルや歯車やベルトが、いわばイデア界にのみ存在する設計図に合わせてつくられたこれらのからくりが、どうして肉をもった存在となることができよう――そうしたことはみな抽象的なたわごとであり、このわたしたちの肉体こそ、この足や手や眼や脳味噌や骨やらが、そしてわたしたちのこの生命が、意志が、内臓のうごめきが、これらこそがわたしたちにとって真の実在と言えるものであり、神が――あるいは自然が――わたしたちに恵んだものではないだろうか」 「哲学者は人間が機械であるという主張を拒みません、サルダナバル。それどころか、積極的に肉体を歯車や発条の集合であるとみなし、理知でさえそうした機能の発現であるということを進んで認めます。そしてわたしたちの本性は全くそれらの機械の運動ということにあり、運動が止まればわたしたちの存在も止むでしょう。哲学者の生涯はそれらの機械をいかによく操縦し、その運動をいかに最善のものとするかにかかっています。哲学者は人間の機能をよく調べ、肉体や知性のさまざまな働きを観察して、最も有効な運動とはどういうものであるかを計算し、予測し、そして自らの人生に応用します。そして人間の持つ機能の中では理知が最も誤りなく、正しく人生を導くことを確信しています。この理知がなければ、人間は他の物質、他の動物と自己との間に何の違いも見い出せないでしょう。それ故にカルテシウスは理知による情念の制御を説き、スピザーノは理知の正しい働きの規則を研究したのでした。理知はこの世界の判定者であり、内在的でありながら同時に超越的な批判者なのです。すなわち理知は肉体の一機能でありながら、肉体を超えており、肉体を超えた世界を希求しさえするのです」 作品名:「デカンションへの旅(3)断章1・2」 作者:不詳 copyright: marinenkobungakunoshiro 2012 入力:脩海 UP: 2012.5.27 |