サロン・ウラノボルグ


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サロン・ウラノボルグ第一章


   第5章 ナタニエル作<虹を追う少年>


(どこか地下深くにある鍾乳洞。頭上には白く鈍く光る石のつらら、足もとには奇怪な姿をした大小の石筍が、身もだえするようにいくつも隆起する。右手奥から光がもれ、プラズマーナに導かれるようにしてブルフローラとナタニエル登場。)

ナタニエル 「驚きました。カイメラ先生の実験室の地下に、こんな地下道があり、自然の洞窟に通じているなんて」
ブルフローラ 「昔の人たちの知恵には感心させられますわ。古代にこのお城を築いたチムーリの天文学者たちは、天ばかりでなく地球の内部にも関心を持っていたのです。彼らは地球内部は空洞であると考えていたので、神々の焚く火をたどって、不滅の日の輝く永遠の世界へ到達しようとしたのです」
ナタニエル 「その伝承は、アルヌ・サクヌセンを通じてヴェルヌにまで伝わっていますね」
ブルフローラ 「わたしと兄は子供の頃、カイメラ先生には内緒でこの洞窟を探検して、すっかり迷子になってしまったことがあります。どこからとなく光を発するこの鍾乳洞にたどりついて、二人で抱き合って震えておりました。兄は自分から探検を言い出したくせに、わたしよりも暗いところや、狭いところはこわがりで、年下のわたしにすがりつかんばかりでした。もう一生ここから出られない。こんなところで死んで石になるのはいやだって、泣き立てました」
ナタニエル 「フーン、ダックスがね・・・」
ブルフローラ 「兄をご存知ですの」
ナタニエル 「いえいえ、わたしの知っているのは伝説だけです」
ブルフローラ 「兄の言葉で、わたしはあらためて周りにいくつも立っている鍾乳石を見つめました。なるほど、どれも人がもだえながら石になったかのような姿が、半透明の内部から浮き出てくるように見えました。すると不思議なことですが、それまでの不安が嘘のように消えて、ちょうど食虫植物に虫を食べさせている時のような喜びがわいてくるのでした。こんなふうにして生き物を石にして見たい。生き物ばかりでなく・・・とにかく、わたしはこれらの鍾乳石に魅せられてしまったのです。カイメラ先生がわたしたちを見つけ出してくれた時も、わたしは兄ほど狂喜して喜びませんでした。わたしはいつか一人でここへ来られるように、注意深く帰り道を記憶に留めておきました。兄は二度と地下道へ入ろうとしませんでしたし、入口の扉は用心のために鍵がかけられましたが、わたしは苦心して合鍵を作らせ、密かにこの鍾乳洞を訪れるようになったのです。こんなわたくしが怖くはありませんか、ナタニエルさん」
ナタニエル 「この狭い伝説の城に三百年間も閉じこもられていたのでは、だれでも少々変わったことがしたくなるものです。世界は広いのですよ、ブルフローラさん。このお城からお出になりなさい。わたしがお手伝いしましょう」
ブルフローラ 「あなたはまだ、わたしの半分しかお知りにならないのです。わたしがお城から出るよりも、もしわたしが、あなたをここに見捨てておいたなら、あなたはどうやってここから出られるおつもり。そのことをお考えにならないのですか」
ナタニエル 「わたしはあなたを信じています、ブルフローラ姫」
ブルフローラ 「<沼の王の娘>の物語をご存知ですか。昼間はこの上なく優しい娘、夜は醜く残酷な・・・」
ナタニエル 「それを言わないでください、ブルフローラ。わたしもその話はアネルセンで知っています。そのかわいそうな娘は、愛によって呪われた運命から解き放たれるのです」
ブルフローラ 「わたしもまた沼の王の娘なのです。わたしの醜く、残酷な夜の姿にあなたは堪えられるでしょうか」
ナタニエル 「堪えて見せます。いいえ、そうではなくわたしの愛の力であなたにかけられた呪いを解いて見せます」
ブルフローラ 「そうまでおっしゃるなら、わたくしの本当の姿を見せてあげます。後悔なさらないで」

(突然に照明消える。やがて徐々に明るくなる。舞台中央に巨大な牛蛙と化したブルフローラと、驚愕のあまり倒れそうになり、石筍をつかむナタニエル。)

ブルフローラ 「ここにはあなたのお友達がたくさんいらっしゃいます。さあ、あなたも石におなり!」
    ・・・・・・・・・・・・・・・
    ・・・・・・・・・・・・・・・
(おっとっと、作者の手違いで、話がずいぶんと先へ飛んでしまいました。今ここで、ナタニエルに石になられたのでは、お約束の物語が聞かれずじまいです。もとのサロンの場面へ戻しましょう。)
    
    *         *          *
:
(ウラノボルグ城サロン)

マリネンコ 「ナタニェール君、いつも手放さずにいるその大きなトランクの中には、さぞかしたくさんの物語がしまわれておることにゃらん」
ナタニエル 「今の時代ですから、たいていの情報は電子化されています。物語も例外ではありませんが、私の集めているのは活字以前の物語です。手書きのものや、口伝えのものさえあります。特にオネイロス語で書かれた物は好事家に珍重されています」
マリネンコ 「にゃんの国語で記されたものも集められておるとにゃ」

(ナタニエル、トランクの秘密の錠を押す。ふたが勢いよく開き、たくさんの古びた文書がこぼれ出る。そのいくつかを手に取り)

ナタニエル 「これはアフレカのズール族の伝説を記した未解読の文書です。オリオン座からやって来た祖先が、アフレカを征服する次第が語られているそうです。それから、これはヤバン国のKOZIKIです。やはり宇宙から来たヤオヨロズの神々と人間との、結婚の物語です。それからこれは、アメラリアのロポポ族の戦闘の風習に関する古文献です。面白いので、ちょっと読んでみます。

 “・・・・・・この部族では、普通人類一般の間に見られる死の観念が欠如しているようだった。たとえば彼等は戦争というものを一種のゲームのように考えている。ゲームの目標は互いに死を与えあうことである。彼等の主要な耕作物である玉蜀黍の収穫が終ると、部族の男たちの戦闘の季節が始まる。先ず近隣の集落からそれぞれ送られてきた代表が集まって、どことどこが争うかをクジ引きで決める。戦闘はトーナメント形式を取り、勝った者と勝った者同志が争い、最後に勝ち残った者達の部落がこの部族の次の一年間の支配者として、他の部落から貢物を受け、また他の部落の女達を自由にする。戦闘に出る男達は先ず一昼夜絶食し、祖先の神の前に戦捷を祈った後、更に女達の用意した酒で腹の中を清浄にする。これは一種の占いの意味もあり、一旦飲みこんだ液体をどこまで遠くまで再び吐きだせるかを競うことによって、その日の戦闘の立役者を予想する。また部落の男の一人をシンボルとして選ぶ。これは神託による。選ばれた男は去勢され、全身に部落のトーテムを刺青される。身動き出来ないように体の筋を切られたこのシンボルを、木の枝で編んだ輿に乗せて出陣する。戦闘は互いに相手の側のシンボルを奪った方が勝ちである。勝敗の趨勢が傾き、もはや負けの見えた側は敗退する際にシンボルの首だけを切りとっていく。そうしないとシンボルに乗り移った部落の守護霊までが持ち去られてしまうからである。もし負けた側が首を持ち帰れなかったならば、その部落の者は勝った部落の者の奴隷とならねばならない。その状態は次の戦闘で奪われた首を取り返すまで続く。
 この戦闘は年に一度行われるが、四年に一度この部族に属する集落は一致団結して、河向うの他部族と一大トーナメントを展開する。年毎の戦闘にも拘らず、部落間の友好は普段は保たれている。戦闘が終ると奴隷となった者を除いて、生き残った戦士達は互いに健闘を讃えあう。年毎の戦闘はむしろこの四年毎の大祭典のための訓練であり、部落間の友好と団結を促すためのものである。彼等の死の観念について言えば、彼等は全く死を懼れない。彼等の考えによれば、死とはこの世と全く同じように出来ているあちら側の世界のことである。戦闘で死ぬと、彼等は鏡に映したようなあちらの世界に生れ変り、育ち、同じく年毎に戦闘を繰り返し、死ねば更にあちら側の似たような世界に生れ変る。ロポポ族が死を懼れないのは死を無視しているからではなく、反対に絶えず死と慣れ親しんでいるからのようである。死は単に苦痛として懼れられる以外は、全く日常的な営みとして、たとえば家の引っ越しのようなものと考えられている。敵を殺すことは――単に傷つけることは卑怯と見なされる――ただ家畜を別の囲いに入れるようなものであるから、ゲームは囲い込んだ敵の数によって競われるのである。ロポポ(‘囲い込み’)という部族名はここから来ているとされる。敵を殺すことに容赦は許されないように、また敵に傷つけられたり戦闘能力を失った時は、逃げ帰ったりしないで、潔く殺されるのが闘いの作法とされる。彼等の戦闘は従って、最初の衝突の後は、抵抗の意志を失った一方を他方が苦もなく打ち仆していくことになる。つまり最初に交す槍や斧の手合わせの優劣ですでに双方の意志が勝敗のいずれかに傾き、一旦その意志が両者の間で固まりだすともはや無駄な戦闘をやめて、一方が他方におとなしく殺されるままになる。ただし先に述べたように、シンボルの首を持ち帰る役目の者だけは逃走を義務づけられている。死に対するこういう寛大な観念は戦闘場面だけでなく、ロポポ族の日常生活にも浸透している。同じ部落内で諍いや個人間の決着を要する問題が起った時には、部落の長老の裁定によって決着がつけられるが、あとくされを残さないために非のあるなしに拘らず、どちらか一方が死なねばならない定めになっている。この場合も死を厭うのは卑怯とされるので、自分が正しいと思う方が進んで死を望みでる。たいてい当事者双方が望みでるので、クジ引きで決める。生き残った方は死んだ者の財産と家族を我が物とする。
  さて、四年毎の他部族との戦争に関して言えば、これは部落間の戦闘を大規模にしたものである。部族の壮丁からなる選り抜きの戦士達、双方それぞれ二百人ずつが、取り決めた場所で戦闘を行う。あらかじめ双方の代表によってルールが設けられ、戦闘の日取り、場所、使用する武器などが取り決められる。戦場は大抵広い草原が選ばれる。それは残りの部族の者達が、女子供も含めて見物に群がるからである。戦闘の方法は部落間のそれとは異なる。多人数が入り乱れてする戦闘は行われない。双方の部族から順々に十人ずつ進み出て、定められた武器で戦うのである。斧、槍、石、弓などが順ぐりに用いられる。弓の場合に限って、苦痛を長びかせないように矢尻に毒が塗られる。それ故、弓の戦いでは双方外すことを知らない名人揃いであるから、助かる者は先ずない。その他の武器を用いた試合でも、生き残るのは大抵最後の一人二人だけであるが、それも傷ついた場合は味方の者がクウ・ド・グラス(‘なさけのとどめ’)を与え、五体満足の場合でも、最後に生き残った者ばかりで戦闘が行われるので、結局ニ百人の内一人として生き残らない場合が殆んどである。双方生存者のいない場合には引き分けとし、一人でも五体満足な者が残った側には、負けた側から莫大な貢納と女達が贈られる。戦士の死体は家族が首だけを持ち帰り、あとは野晒しにされる。すでにあの世に旅立って行った者達にとって、この世に残していった肉体は何の意味もないものと考えられている。首には部族の守護霊である聖獣の霊が宿るとされ、部落の一定の場所に堆く積みあげられる。
 ロポポ族の女達に関して言えば、彼女等には貞操観念は全くなく・・・・・・”

 残念ながら古文書はここで途絶えています。もともと断片ですから、完全なものが発見されない限りは、ロポポ族の女達についての記述は永遠に失われたことになります」
バロン 「毎年失われていく沢山の戦士の補充にいそしまねばならない女達の運命は、さぞ興味深かったであろうことよ。ロポポ族についてはご存知か、モーグルさん」
モーグル 「アメラリアの住人の中では、モモヒカ族とロポポ辺りの部族の戦士とが古来より勇猛の名をはせていましたが、ご存知のように新来のエスパニ族とアングル族の火器の前に滅ぼされてしまいました。私は一二度ロポポの女達のお世話になりましたが、戦士たちには極力見つからぬようにしておりました」
バロン 「それはさぞかし極楽のような思いであったことでござろう」
ダルシネア 「何のお話でございましょうか。殿方同士のお楽しみでしたら、どうぞお部屋で」
バロン 「これは失礼つかまつりました、奥様」
ダルシネア 「だいたいですはね、バロンもモーグルさんも、お若いナタニエルさんも、殿方はどうして野蛮な戦闘だの、不道徳な女達の話をシャアシャアとお出来になるのでしょう。ロポポなぞ、そもそも名前からしていかがわしくはありませんこと」
バロン 「失礼ながら、ナイナイバー国と同じほど由緒ある部族と聞いております。ナタニエル君の古文献によって、初めて詳しく知ったのでござるが、古代エデナの楽園を戦いの木の実を食べたがゆえに追放された七支族の一つとされております。このように戦いの楽園を築いておったとは」
ダルシネア 「わたくしどもは知恵の木の実を食べて追放されたアダンとエヴァの末でございますから、戦争と聞くだけでも身の毛がよだちますので、どうぞおてやわらかに」
ナタニエル 「すみません、私が不適切な文献を読み上げたばかりに・・・ご婦人方に不快な思いを・・・」
ブルフローラ 「あら、そんなことはありませんわ。わたくしには大変ためになる、興味深いお話でした」
ダルシネア 「フローラちゃん、なにをおっしゃるの、あなたは」
ブルフローラ 「いいえ、お母様、こうした文献は学術的価値があるものです。個人的な好悪でものを言うべきではありません。そもそもここに書かれていることは世の中で普通に起こっている事ではありませんか。ロポポ族は世の中で最も正直な戦争をしていませんこと」
バロン 「大人になられましたな、ブルフローラ姫」
ダルシネア 「わたくしには近頃の若い娘の考えることが分かりません」
バロン 「今の世は女性が何事にも意見を持つ時代でござる。それにしても、姫の考え方はトンでいらっしゃる。どうだね、ナタニエル君、頼もしかろう」
ナタニエル 「ええ、私がこれから物語ろうとする南海の伝説も、ロポポ族ほどではありませんが、繊細なモラルをお持ちの方々には、いささか粗野な慣習にもとづくものですから、ご気分を悪くされるのではないかと心配です」
バロン 「“良き野蛮人(ボン・ソヴァージュ)”という伝説を作り上げたのは、かのルソー以来のロマン派のノスタルジアにすぎなかろうが、ありのままの未開人のほうがずっと魅力あるのではなかろうか。どうかな、モーグルさん」
モーグル 「私は文明人以外なら喜んでお付き合いしたいと思う。文明の及ばない様々な地域を渡り歩いて見ましたが、彼らの慣習の愚かさはさておき、人の心の素朴なるは私のような放浪者でもついほだされてしまいます」
バロン 「アダンとエヴァ以前からの生活をつづけておる彼らは、知恵の木の実を食べた文明族の失った自然の叡智をいまだに失わずにおるのじゃな。それが文明族には野蛮で粗野に見えるのは、自然や生命を敵対視する偽善が文明の根本にあるからなのじゃろう」
マリネンコ 「お言葉にゃが、にゃんは良き野蛮人も、良き文明人も、どちらも拒まずにゃり。領主としては良き文明人を心がけ、日常においては良き野蛮人たりゃんと思うにゃり」
ダルシネア 「なおそのうえに、良き父親であられませ」
マリネンコ 「子供は父親を見て育つものにゃれど、不覚にも三百年寝ておったものにゃれば、そなたとカイメラ君に任せっぱなしであったにょん」
ダルシネア 「母親としてのわたくしも到りませんでした・・・」
カイメラ 「奥様、マリネンコ様。弁明を申すわけではございませんが、お嬢様もお坊ちゃまも、立派に一人前に育っております。子供はいつかは自立して、自分の思うままの人生を生きてゆくものです。それは両親であっても、誰もとめることのできないことです」
バロン 「カイメラさんの言うとおりですな。子供は大人の父ともうすではござらんか。ブルフローラ姫ほどしんの強い女性を、余は知らぬほどじゃ。ダックス君ともいずれお会いするのが楽しみじゃ」
マリネンコ 「ダックスのことはともあれ、ブルフローラが未開人の物語を聞くのは差し支えにゃかろうにゃん。ナタニェール君も困っておるようにゃ」
ナタニエル 「私の素朴な物語がまだ始まらないうちに、こんな物議をかもすとは思いませんでした。私はただ、シャトーブリアンとまではゆきませんが、まだ文明に毒されていない南の島に伝わっている少年少女のナイーヴな恋と、野蛮な慣習の悲劇の物語をリトールドしてみたまでです。自分の作品を語る前に弁解がいるとは思いませんでした」
バロン 「作品の前に批評があるというのも面白かろう。批評を事とするナタニエル君らしいではないかな」
ナタニエル 「それなら申しますが、私自身非常に物足りなく思っている作品なのです。第一に、私自身はイマジネーションに欠ける人間ですので、想像することが苦手で、しかも不正確なのです。ですから、どうしても細部に一貫性ともっともらしさがなくなります。第二に、構想を途中で変更する癖があります。第三に、余計なわき道に脱線しがちで、重点がはっきりしなくなります。この三つの主要な欠点を、いまだにどうしてよいか分からずにいるので、私の作品はすべて未完成の段階です」
バロン 「君は大望を抱きすぎているのじゃな。完全な作品などは天才に許されているだけじゃ。それでは世の中に物語りも、小説もなくなってしまおう。小説家になるのは神になることではなかろう」
ナタニエル 「私には天才作家しか目に映らないのです」
アフララ 「それではとても書くことはできませんわね。まして発表することなんて」
ナタニエル 「おこがましい限りです。でもついアフララさんにつられて、約束してしまいました」
マリネンコ 「ナタニェールくん、お願いにゃ、弁解はそれまでにして、早く君のアタラ・ルネを物語ってくれにゃん」
ナタニエル 「もったいぶってすみません。では、下手な再話ですが・・・」

        *           *           *

      虹を追う少年―ある南海の伝説―

                          ナタニエル再話

 タラウは少年の憧れを浮かべたまなざしを、青空を映した湖の沖に注いでいた。今朝からのことが、ぼおっとかすんでいって、気の遠くなるような思いに満たされた。心が空の雲のように、痛いほどに広がって、そこにはただ一つだけの思いが、きらきらと浮かんでいた。その輝きは、湖面に時々はねる魚の立てる波紋のきらめきと、一つになって揺らぐようだった。見つめていると、揺らぎはいつまでも静まらないばかりか、ぼおっと広がりをおびて、だんだんに近よって来るかにさえ思われた。それは横向きにかがんでいる、少女の姿に見えた。タラウは、はっとした。オワナにちがいない、どうしてあんなところにいるのだろう。疑いは一瞬のことだった。次の瞬間には、悲しみと喜びの不思議に入りまじった、えもいわれぬ甘美さがタラウの胸を満たしていた。もっと近づいてみたくもあり、またこのままで遠く見ているほうが、彼にはふさわしいように思われた。すると、あまり長く見つめたために、ものの遠近が失われでもしたように、少女の姿がぐんぐん寄ってくるように見えた。タラウは木の陰にでも隠れたく思ったが、体は魅せられたように動かなかった。何かを拾っているらしかったオワナは、タラウに気がついて体をのばし、にっこりとほほ笑みかけた。
 「タラウ、あんただいじょうぶ」
 「オワナ・・・」
 こんなに親しく呼びかけられて、タラウはいちどきに、あらゆる臆病さが体から消えて行くのを覚えた。あんたという呼びかけには、すでに二人が長いこと特別の関係であったかのような、思いがけない親しみがこもっていたのだ。
 「オワナ、おいら勇ましく闘った。みんな勇ましかった。アマングーなんか、思ったほどでもなかった。おいら、おいらのモリでずんずん刺した。そしたらアマングーのやつ正体を・・・」
 「やめて、その話はもういいの。あたい、聞きたくない。あんたが勇ましかったら、それでいい。それよりか、ねえ、あんた・・・あたいといっしょに来ない、いい所へ」
 オワナはさっきから笑みをたやさずに、タラウの顔を見つめている。タラウも夢の中で酔ったように、自分の大胆さを不思議とも思わずに、オワナの顔を見つめ返している。
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 その日の朝、タラウは生まれて初めてアマングー狩りに出ることを許されたので、嬉しくてならなかった。お父の支度ができる前から、もう我慢ならないで、家の外へとびだし、この日のために河原からとがった石を拾ってきて、一生懸命といだのを、まっすぐな木の枝に蔓でしっかりと巻きつけたモリを、手に振りまわしながら、草ぶきの家のまわりをとびはねた。弟や妹たちがそのあとを追って、いっしょにはねながら、羨ましそうにタラウとその新しいモリとを、交互に見た。タラウは得意になって、弟と妹にアマングー狩りの話をして聞かせた。みんなお父の受け売りだったが、なんども話すうちに、タラウはもう狩に出かけて、モリを手に大きなアマングーと勇ましく闘ったような気がしてきた。アマングー狩りに出かけるのは、この村では一人前と認められることである。この村で信頼されるひとりの男として、自他共に認められることである。お母も朝からそわそわしていた。この日のためにと、特別な木の繊維で編んでおいたチョッキのような上着を、裸のタラウの腕に通して、胸と腹のところでしっかりと結んだ。これまで腰布のほかに、衣服らしい衣服を着たことがなかったタラウは、それをまた誇らしく思った。裸の弟や妹は別のタラウを見ているようで、しばらくは遠巻きに見ていた。
 やっとお父が出てきた。ほかの家からも、今日アマングー狩りに出かける少年たちと、大人たちがやって来た。タラウといっしょに、一人前になるための試練を受ける少年は三人いた。みんなお父といっしょか、お父のいないものは、代わりの大人に連れられていた。少年たちはどれもタラウと同じ恰好をしていた。お母やお婆の編んだ上着を着て、手にはやはり手製のモリをたずさえていた。少年たちは互いに目を見交わせた。みんな同じ村の遊び仲間だが、今日だけは試練の前の緊張と、家同士のライバル意識で、よそよそしい態度をとっていた。タラウはしかし、みんなが固くなっているのがおかしかった。どうしてみんな、もっと嬉しそうな顔をしないのだろう。大人たちはもちろん、アマングー狩りには慣れているので、落ち着いた様子で、今日の手はずについて相談している。その間も、タラウたち新米は、互いに横目で仲間をうかがっている。タラウも少し心配になってきた。今日のアマングー狩りで臆病な態度を取ってしまわないだろうか。そしたら、村中の笑いものになって、女の子たちにも馬鹿にされて、もうこの村にはいられない。そんなことになるくらいなら、アマングーに食べられてしまったほうがましだ。でも食べられるのも、さぞ痛いだろうな。
 いよいよ出発だ。少年たちの家族や村人たちが集まってきている。タラウの目は、その中に一人の少女の姿を探していた。少女たちは少し離れたところに集団をなして、これから男の世界に入ろうとする少年たちを好奇の目で見つめていた。タラウは少女と目が合うと、赤くなってあわてて目をそらした。ほかの少年たちも、同じように彼女の方を見ていたことには気づかなかった。タラウは一番先に立って駆けだした。大人たちは笑いながらゆっくり歩いてくる。ほかの少年たちも、タラウの気分に感染されて駆けだした。森の前まで来て、少年たちは大人のやって来るのを待った。大人たちも、見送りの村人も、だいぶ遅れてなかなか姿が見えない。一人の少年がタラウに言った。
 「タラウ、おまえばかにはりきってるな。おまえ死ぬのこわくないのか」
 「おいら死ぬもんか。アマングーをやっつけるんだい」
 「アマングーってすごいんだぞ。お父が言ってた、おいらの背丈の、五倍も十倍もあるって」
 「そうだぞ、そして毒の息をおいらたちに吹きつけるんだ」
 別の少年が興奮して口をはさんだ。
 「そんなのへっちゃらだい。おいらのあ父が言ってた、ちゃんと耳と鼻に薬草をつめるんだって」
 「だけど目につめるわけにはいかないって。だから、おいらたちにはアマングーの本当の姿が見えないんだって」
 「そんなことは、おいらのお父がちゃんと教えてくれたい」
 その時、大人たちの姿が見えてきた。少年たちはそれぞれの保護者のもとへ駆けよった。見送りとはここで別れることになっている。母親らは最後の激励を少年たちに送り、上着の紐がしっかり締まっているか、もう一度確かめてやった。タラウはお母のくどくど言う注意をうるさく思った。後ろにさがってタラウのことを眼を丸くしてながめている、弟たちや妹たちのてまえ、もう子供あつかいされたくなかった。それに、とりわけて目のはしで気づかれないように意識している、一人の少女の前では。それでお母の手を振り切って、お父の方へ駆けていった。お父は大きな棒ぐいを、モリといっしょに背にかついでいる。お父のモリをタラウは誇らしげに受けとった。やがてタラウとお父が先頭に立って、アマングー狩りの一行は森の中へ分け入っていった。
 タラウと少年たちは歩きながら、今日の手はずをあらためて大人たちから聞かされた。アマングー狩りには入江を通らずに、密林を抜けて行く。ここから四分の一日ほど歩いた密林の奥に、ふだんはめったに人のよらない湖がある。アマングーはそこに棲んでいた。聖なる生きものであるから、狩ることはタブーとされていたが、大昔から年に一度だけ、大人となる少年たちにだけ狩が許された。しかし少年たちだけではとても手に負えないので、その日は大人も参加する慣いになっていた。タラウたち少年四人と大人四人で、ひとつのアマングーを倒す。決してそのほかのアマングーに手を出してはならない。アマングーは湖の岸辺の浅いところに、半分姿を現わしている。しかし、その姿は直接見ることができない。アマングーのいるところには、湯気のようにゆらゆらとシンキロウが立ちのぼっている。
 「お父、シンキロウってなんだ」
 タラウは何度も聞いたことを、また問い直していた。
 「シンキロウというのはな、何もないものがそこにあるように見えることだ。なんでも、美しいものや、欲しいものを思い浮かべると、そいつが本当に目の前に現われてくるのだ。嬉しくなってそいつと遊んだり、そいつを取ろうとしたりすると、知らぬ間にアマングーに食べられてしまうのだ。だから、アマングーをやつける時には、余計なことを考えてはいけないぞ。ただアマングーを倒すことだけを考えるのだ」
 「おいら欲しいものなんて何もないやい」
 タラウはむきになってそう言った。言ってしまって、お父に嘘をついたことに気づいた。
 タラウはこのアマングー狩りに、お父にもだれにも話せない目的を持っていた。タラウの村に、オワナという名の村一番の器量よしの女の子がいた。オワナは村中の少年たちの憧れの的だった。少年たちは競いあってオワナのご機嫌をとったり、贈り物をしたりした。オワナはいつも女王のように、周りに少年たちを引きつれていた。タラウも、たいていその端につらなっていた。タラウはオワナの前に出ると赤くなって、何も話せなくなってしまう。だから、ほかの調子のいい少年たちに、ずいぶん遅れをとっていた。ところが、アマングー狩りの近づいたある日のこと、ほかの少年たちの見ていないところで、オワナはあまい息のかかるほど顔を寄せてきて、タラウの耳に囁いた。
 「あたい、おまえが好きだよ。でもね、あたい、なんにも贈り物くれない子は嫌いだ。あたいに虹の珠をとってきてちょうだい。そしたら、あたい、おまえともっと仲良しになってあげる」
 タラウは真っ赤になった。どきどきする心臓が、喉もとまで飛びだしてきそうだった。
 「でも、虹の珠は取ってはいけないんだ。湖に返すんだよ」
 「ふん、それならほかの子に頼もうかな。あたいがおまえだけを見こんで、頼んでいるというのに」
 オワナはそっぽを向いた。しかし、横目で自分の言葉の効果をタラウの表情に確かめていた。
 「わかった。おいら絶対に取ってくる。だれにも渡さないよ」
 「そうかい、おまえって案外頼もしいんだね。あたい好きになっちゃった。でも、あたいに頼まれたって、だれにも言っちゃだめだよ」
 オワナははすっぱに言うと、タラウの首に腕を巻きつけた。タラウは自分だけがオワナに信頼されて、大事な任務を言いつかったと思い、有頂天になったが、オワナは今度アマングー狩りに行く少年たち全員に、同じことを、同じような親しさを見せて、言いつけていたのである。

 途中でひと休みした時、大人の一人が袋の中から薬草を取りだし、みなに分けた。タラウはお父のするとおりに、両耳の穴と鼻の穴に、きつい匂いのする丸めた薬草をつめた。急に耳が遠くなり、息がしづらくなった。でも、この薬草のおかげで、ほんとうは聞こえない音を聞いたり、眠くなるような香りを嗅いだりしなくてすむのだ。あとは目に映るものだけに注意すればよい。何も余計なことを考えさえしなければ、アマングーのシンキロウはただゆらゆらと揺れる、真珠色の光の柱に見えるだけだ。
 湖に近づくにつれて、一行の足取りはだんだん慎重になっていった。アマングーは遠くから人の近づく気配を嗅ぎつける。入江を通らずに来たのも、水の上を来る者には敏感に反応するからだ。用意のない者は、たちまちシンキロウの中に捕われてしまう。森が途切れて、樹々の間から広い湖の明るい水面が現われ出た。その光景に見とれている余裕はなかった。一行は湖岸に沿って、用心深く進んだ。アマングーがいるのは、砂の岸が広がって、湖が遠浅になっているところだ。すると、先頭を行く大人が、急に身振りであとの者たちを制した。今まで何もなかったように見えた前方少し先の水際で、突然空気が日の光をはじいて、ゆらめきだすように見えた。タラウは息をのんだ。ほかの少年たちも、大人たちの傍らで固くなったようだった。タラウの方を振り向いたお父の眼が、何も考えるな、何も考えるな、と言っているようだった。ゆれる光の柱はだんだん広がって、急速にこちらへ近づいてきた。あっという間に、あたりは光の霧につつまれたようだった。ひとつひとつの水滴が七色の光をはじき、だんだん集まりながら、ものの形をとり始めていた。太陽はもうどこにあるのか、見つからなかった。タラウは初めて怖くなった。自分ひとりだけこの不思議な世界にとり残されて、みんなはもうとっくに逃げ去ってしまったような気がした。おいらはアマングーに食べられてしまうんだ。おいらが虹の珠を横取りしようなんて考えたから、アマングーは怒っておいらだけをねらっているんだ。
 急に腕を引っぱられて、タラウはいよいよアマングーにつかまったと思い、女の子のように叫んでしまった。腕を引っぱっているのはお父だった。タラウは女の子のように叫んだのが恥ずかしくなった。みんなに聞こえたろうか。お父は前に進めというジェスチャーをしている。目がくらくらして、ほかの者たちの様子が分からないが、みんな先へ行ったらしい。お父のいらいらした様子でそれが分かる。タラウはあわててお父のモリと自分のモリを両手にしっかり握って、お父のあとをおって走りだした。水遊びで水をばしゃばしゃかけられている時のように、一面に光る水滴が顔を打つ中を、タラウはひたすら走った。もう何も考えなかった。最初の臆病風を、なんとかみんなの前で挽回したかった。みんなにあとで笑われるのは、とてもたまらない。
 タラウはお父のあとを走りながら、前方を見た。どのくらい先か分からぬところで、真珠色の柱がゆらゆらゆれていた。その柱が広がって天に達するところで、大きな虹がかかっていた。柱は天の半分をおおいつくさんばかりに、左右にぐんぐんと広がりながら、タラウの方へ落ちかかってくるように思われた。お父は走りながら、肩にかついだ棒ぐいを両腕にかかえ直した。柱が天の半分を越えて、すでにタラウを呑みこもうと、すぐ頭上にまで迫ってきた時、お父は棒ぐいを垂直に立て、両手で支え、両足をふんばらせた。真珠色の柱はお父の頭上でくずれかかる寸前、はたと止まってしまった。お父はうしろに化石したようにつっ立っているタラウの手からモリをもぎ取り、真珠色の光のもやの中へ力いっぱい突き刺しはじめた。タラウにはお父が気が触れてしまって、五彩にはじける光の渦と格闘し始めたのだとしか思えなかった。しかしほかの大人たちが走りよって、同じように格闘している姿に気づいた。自分があなどったほかの少年たちも、モリを手におずおずと近づいていた。タラウは夢から覚めたように、猛然と、はじけ散る光の渦へ突進していった。意外にも、もりの先にはしたたかな手ごたえがあるのだった。モリの先は何ものかに吸いつかれるように、ぐいぐいと彼の腕を引っぱり、気をつけないとモリを取られるばかりか、自分も引きずりこまれてしまいそうだった。しかし、だんだんモリの先の抵抗が感じられなくなってきた。それとともに、あたりに散乱していた光の水滴はしだいに薄れだし、頭上をおおっていた真珠色の天蓋も、急速に消えてゆき、最後に天空に再び回復した陽光のもとに、ほのかに浮かんだ虹の橋を残して、タラウの眼の前には巨大なアマングーの動かぬ正体が、そのむくろをさらしていたのである。いく本かの棒ぐいでかわれたアマングーの貝殻は、タラウの家の屋根ほどあった。その中に横たわっている白々とした肉塊は仔クジラほどもあった。
 呆然としているタラウや少年たちを尻目に、大人たちはアマングーの解体に取りかかった。アマングーの肉を村まで運ぶには、いく片にも切らなければならない。切った肉片をモリにとおして運ぶのである。ふいに、少年たちがタラウのお父のまわりに走りよった。お父の手のひらには虹色に光るものがのっていた。タラウもはっとして、あわてて走りよった。少年たちも、大人たちも、しばらくその虹の珠を黙ってじっと見つめていた。少年の一人が手を出して取りそうになった。お父は首を横に振った。誰もが言い聞かされているように、虹の珠は湖に返さなければいけないのだ。そうすることによって死んだアマングーはふたたび甦り、絶えることなく村人たちを養ってくれるのだ。お父は赤子の頭ほどもある虹の珠を手のひらにのせて湖に入り、、できるかぎり遠くへ投げ入れた。タラウはオワナとの約束を思っていたが、どうにもならなかった。
 タラウは美しい虹を吐きだす生きものが、自分たちが遠い昔から食用にしているこのなま白い肉塊に過ぎないことを、これまでなんども話には聞いていたものの、今目のあたりに見て、かえって信じることができなかった。あの恐ろしくも美しいシンキロウと、目の前のむくろとを、どうしても結びつけることができなかった。美しいものはあくまでも美しくなければいけない気がした。美しいものが本当はそこにないものであり、醜いものが真の姿なのだということは、なんだか納得がいかなかった。そして美しいものは危険なものであり、それから逃れないと命をなくしてしまうのだということも、なんだか公平ではない気がした。あの美しいオワナも危険だというのだろうか。そして本当のオワナは、このアマングーのように醜いというのだろうか。タラウは物思いにふけりながら、解体の手伝いをしているほかの少年たちから離れて、ひとり砂の岸を歩いていった。
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 オワナはさっきから笑みをたやさずに、タラウの顔を見つめている。タラウも夢の中で酔ったように、自分の大胆さを不思議とも思わずに、オワナの顔を見つめ返している。
 「いい所?・・・」
 タラウは半分夢の中でのように聞き返した。
 「あたいたち二人で暮らすところ」
 「でも、お父やお母が・・・」
 と思わず口をついて出た言葉に、タラウはかすかな不安が、湖水のおもてのような喜びの上に翳を落とすのを見た。お父、お母、いっしょの仲間・・・眠りこもうとする意識の底から、なにか針でつくようなかすかな叫びが、彼を一瞬間はっとさせた。タラウは今ここにいるオワナと、出発の時に見たオワナとを重ねてみた。あの時すみの方に、年頃の娘たちにまじって、しきたりに従って控えめではあるが、それでも少女たちの中ではひときわ誇りたかい姿を、それとなくひけらかしていたオワナ。今まぢかで見るオワナのサンゴのような赤いくちびるが、揶揄するようにゆがんで、
 「あたいより、お父やお母がいいの?」
 泡のはじけるようなふくみ声で言って、オワナはくつくつと笑いだした。タラウは恍惚となった。
 「どっちも好きだよ。でも、おまえの方がずっとたくさんだな」
 「そんならおいでよ」
 「だけどみんなが心配するよ。それにアマングーの肉を運ばなくちゃ」
 「そんなのほかの子にまかせればいいじゃないの。ねえ、ほんとにすばらしい所よ。あたいとあんたと二人だけで暮すの」
 「どうして二人だけで暮すの。お父やお母はいけないのかい」
 「だめよ、夫婦になったら、だれだって二人で暮すことになってるんだから」
 「それじゃ、行くよ。でも、お父にだけは話してくる」
 「だめ、話しちゃ」
 「どうしてだい」
 「話したら、あたいの所へ来れなくなる。まだ早いって、反対されるに決まってるんだから」
 オワナは近よって、タラウの手を取った。オワナの手は、モリを握りしめて硬くなったタラウの手のひらの中で、溶けてしまいそうなほど柔らかかった。
 「タラウ、どうしてそんなものを鼻につめているの。取ってしまいなさいよ」
 「だめだよ、これはどうしても取ってはいけないって。お父が・・・」
 「ホホホ、なんでもお父、お父ね。タラウって、ほんとに子供みたい」
 「おいらもう子供じゃないよ。今日から大人なんだ。オワナも見においでよ。おいらたちの倒したアマングーを」
 「あたいは見たくないの」
 オワナは一瞬間眉根をひそめたが、次の瞬間には笑顔にもどっていた。
 「ねえ、あたいの声がもっとよく聞こえるように、その耳につまったものを取ってしまわない」
 「そういえば、不思議だ。これまでお父たちの声が聞こえなかったのに、オワナ、おまえの声はよく聞こえるよ」
 「ホホホ、女の声は特別なのよ。でも、もっとよくあたいの声を聞きたいと思わない」
 「そりゃ、ききたいさ。でも、お父が・・・」
 「そのお父はやめなさいって」
 「わかった、取るよ」
 タラウは耳につめた薬草をほじり出した。すると、これまで聞こえなかったえもいわれぬ音楽が、どこからともなく漂ってきた。風の音のような、波の音のような、甘くせつなく、タラウのオワナに対する気持ちをそのまま表したような、ものういささやきだった。
 「さ、タラウ、その鼻につまってるものも取っちゃいなさいよ」
 オワナの声は前よりもいっそうすずしく、耳に快かった。タラウは鼻の薬草をほじり出した。するとえもいわれぬ香りがオワナの体から立ちのぼってきた。これまで嗅いだどんな花の匂いとも違って、それでいて妙になつかしい気持ちにさせる甘い香りだった。
 「さあ、行きましょう、タラウ」
 「うん、オワナ」
 オワナは空にかかる虹を指さした。
 「あれがあたいたちのお家だよ」
 「でも、おいらそんな遠くまで行けないな」
 「あたいがついてるから、大丈夫」
 オワナはタラウの手を引いて、湖水を渡りはじめた。タラウは足の下に水を覚えなかった。
 「さあ、急ごう、タラウ」
 二人は手に手を取って、波の上を駆けだした。
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 タラウの父は少年たちの興奮した身振りで、初めてタラウがいなくなっていることに気づいた。あわてて少年たちの指さす方向へ走って行った。タラウの足跡は、水際に沿って長く続いていた。それから急に湖の中に消えていた。その先どこまで行っても、ふたたび足跡は現われなかった。悲嘆にくれて帰ってくる途中、タラウの父はタラウが鼻と耳からぬいたらしい薬草の塊を、水際に見つけた。お父はそれを拾って帰った。それだけがタラウの亡きがらだった。

                  (「虹を追う少年」完。2008・7・16 UP)