サロン・ウラノボルグ


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                  第六章 ムーン・ファーム

(ウラノボルグ城サロン)

ナタニエル 「いかがでしたでしょうか。皆さんにご不快を与えたりはしませんでしたか。特に奥様には」
ダルシネア 「いいえ、たいへん有益なお話でございました。この世の中では言いつけを守らなかったり、油断したりすると、命を落とすことさえあるということでございますわね。子供たちに読み聞かせたいたとえ話でございました」
ナタニエル 「そうですか。おほめ言葉はうれしいのですが・・・」
バロン 「ナタニエル君の物語には、どこか裏があるようじゃな。もっとも、子供に読ませても気がつかれんじゃろうが」
ダルシネア 「裏ですって。ナタニエルさんのような好青年に、裏表があるようには思われませんわ」
バロン 「ナタニエル君の人格に裏表がなくても、物語には本人でさえ気づかぬ、裏のメッセージというものがひそんでおるものでござる」
ダルシネア 「それは何でございます」
バロン 「それを言うのは、ちょっとはばかられるのじゃが・・・」
ダルシネア 「どうぞ、ご遠慮なくおっしゃってください」
バロン 「奥様はよろしいとしても、ナタニエル君はどうじゃな」
ナタニエル 「作者も気がつかない、隠れたメッセージとやらをぜひ聞かせてください、バロン」
バロン 「なあに、たいした事ではござらん。余としては、一見無邪気なこの物語の中に、隠された女性嫌悪を嗅ぎとったまでじゃ。極端な女性崇拝の反動とでも言おうか。その点では文明人の寓話でござった」
ブルフローラ 「わたくしとしては、ある種の残虐物語として聞かせてもらいました。攻撃的でもあり、被虐的でもあるところに、肉体と精神の矛盾が表われておりました」
ナタニエル 「まいりましたね。私はミソジニストで、フェミニストで、サディストで、マゾヒストということになりますか」
マリネンコ 「にゃんのよう知らんイストが流行りおるようにゃれども、ナタニェール君、君は何よりもノヴェリストにゃり。どんどん面白いお話を作りたまえ、にゃん」
ナタニエル 「サロン・ウラノボルグに来られたおかげです。皆さんのご批評を励みとします」
アフララ 「わたくしも一言ご批評させていただきますわ」
ナタニエル 「どうぞどうぞ。お聞かせください」
アフララ 「私は男性の暴力というものが身震いするほど嫌いなのです。ですから、それからなっているこの世の歴史というものが大嫌いです。昔の賢人たちも暴力の世界から逃れようとして、空想の世界に様々なユートピアを描きました。でも少しでもそれを現実化しようとすれば、たちまち暴力の餌食になってしまいます。このような世界は根本からして間違っているのです。女性は少なくとも暴力の主体ではありませんでした。けれども暴力を受けることによって、その精神は残忍化してゆきました。わたくしはこの寓意をナタニエルさんの物語の中に投影したいと思います」
ナタニエル 「私の物語がお役に立てて光栄です」
バロン 「それにしても、物語や小説が現実に近づくほど、現実に影響されて残忍さや悲惨を反映するようになるのはやむをえざることじゃ。それどころか、かえって空想や幻想に逃れるほど、現実はどこまでも悪夢となって追いすがってくるようじゃな」
ブルフローラ 「それならば、いっそ悪夢を現実化してしまうほうがましではありませんこと、夜おじ様」
バロン 「それは悪魔的な発想でござるな、ブルフローラ姫。小説とはそうなる一歩手前で踏みとどまることなのであろう」
ブルフローラ 「現実に従うことが悪魔的であるなら、この世界は悪魔の創造物であるということになりますわね」
バロン 「確かに、かの厭世の哲人デカンショ博士もそう申してござる。悪魔の創造したこの盲目・仮象の世界をのがれて、より高次のデカンションへと解脱する道を説いてござる」
ナタニエル 「私もデカンショ博士の残した唯一の小説<デカンションへの旅>を探しています」
バロン 「残念ながら断片にとどまったようじゃが、ここウラノボルグとバベルの図書館に写本が残されてござる。それによると、人類よりも知能の発達した宇宙人に導かれて、天体望遠鏡に似た巨大な装置のアイピースよりもぐりこみ、存在を解消されてデカンションへと昇天する次第であるらしい」」
マリネンコ 「お話じゃが、バロン、デカンショ博士の御説ごもっともにゃれども、この世界が不完全にゃることと、悪魔の創造物にゃることとは同じからざるにゃらん。にゃんもし悪魔にゃれば、やはりこの世界をもの足りなく思わん。にゃんもし神にゃれば、神なれども失敗はあるにゃリ。その償いを考えるにゃり。もしくは、この世界を再度、創造しなおすにゃり。不完全なる神の創れる不完全なる世界の不完全なる人間が、不完全なる神を悪魔ともののしるは仕方にゃからん。人が悪魔たるは造物主の責任にゃり。かるがゆえに、悪魔のごとき人造人間を創りしフランケンシュタイン博士は、自ら創りしものに呪われ、苦しめられたり。神はフランケンシュタインにゃり」
バロン 「完全なる神ならば、完全なる世界以外のものを生み出さぬであろう。この根本の矛盾を神学は解きえずに、詭弁を弄して糊塗してきたのでござるな。不完全な世界に相応しい神は、不完全な神以外になかろうものを」
マリネンコ 「神は不完全にゃれども、自ら創りし世界にゃれば、また自ら解消することもあるにゃらん。されどひとたび創り出した生命をほろぼさんは、神もまたためらわん」
バロン 「そのためらいが、今の世のノアの一族をはびこらせたのでござるな。一抹の善の可能性にかけた神の期待は、見事に打ち砕かれたわけでござる」
ナタニエル 「お言葉ですが、バロン、私らノアの末裔は確かに多くの戦争と多くの破壊によって、自分ら人類ばかりか、この地球そのものを痛めつけてきました。しかし、神が(もしそのようなものが物語り以外にありとするならばですが)ノアに託した一抹の希望は、いまだ失われてはいません。地上の楽園を目指して多くの同志が汗を流しています。私は形而上学にも神学にも疎いのですが、そもそもこの世界のことを、この世界以外のものと関係づけることが間違いなのではないでしょうか。この世界は神の創造物なんぞではありませんし、まして悪魔などに何の関わりがありましょうか。世界はあるがままにあります。それを研究し解明するだけで充分ではありませんか」
マリネンコ 「ナタニェール君の説を聞いていると、にゃんの存在そのものが疑わしく思われてくるにゃん」
バロン 「ナタニエル君、君は思ったよりも矛盾した人間のようじゃな。古い物語や神話伝説を愛好しながら、同時にマテリアリストでもあるようじゃ。なにゆえに、アイディアリストのデカンショ博士に関心を持たれるのじゃ」
ナタニエル 「確かに私は子供の頃から昔話や神話伝説が大好きでした。しかし私の生まれた国は小さな国で、絶えず政変や戦争に明け暮れていました。私はそうした人類の悲惨から目をそむけるため、なおいっそう過去のロマンにのがれようとしました。ところが、ある時街中に潜入したテロリストによって、私の両親も兄弟も皆殺されてしまいました。悲嘆と絶望のあまり自殺しようとした私を、偶然ある見知らぬ人物が止めました。それは私が知らないだけで、ある国際的に知られた人物なのでした。夢想の中に生きていた私が、むき出しの暴力的な現実と突然向き合わされて、生きる意志さえ失っていた時に、彼は現実の世界というものを正しく指し示してくれたのです。彼は私の空想好きを否定しませんでした。それは人間の楽しみの可能性として大事なものではあるが、しかしそれは現実の生活によって保障されていなければならないのです。現実を見て、それを嫌ってはならない。もしそれが真に厭うべき状態であるなら、それを意志と行動によって変えてゆけばよいというのです。それは私には新しい啓示でした。私はすぐに彼に従うことにしました。多分それには復讐の気持ちも混じっていたと思いますが。彼の思想は、バロンのおっしゃるとおりマテリアリズムです。世界も人間も物質であるからには、物質の本性と状態を時空にわたってよく研究し、全てを科学によってコントロールできるようにしなければならないのです。彼が同じような思想を唱えて実践した聖マルグズや、その使徒ブレーニンと異なるのは、完全な平等主義です。わたしらは彼ですら同志としか呼びません。わたしらの唯一の武器は科学ですから、大衆の支持もまた必要としないのです」
バロン 「なるほど君の生い立ちと、君の思想についてはよく分かった。彼なる人物についても興味を惹かれるが、先ほどの質問と、今ひとつ、どうやらそれと関係ありそうだが、ここウラノボルグを訪れた本当の理由を教えてほしいものじゃ」
ナタニエル 「私たちは直接に人類を支配したり、服従させようとしたりなど、暴力的なことは一切控えています。人類に有害な影響を与えるものを、暗々裏に排除してゆくことが目的です。例えば人類に最大の害悪を及ぼしている宗教を始め、あらゆる迷信的な事柄、また人間の極端な物欲・性欲などを、人類が気がつかぬ間に排除してゆきます。これらの調査のために、私の神話伝説好きも、やや気が重いのですが役立っています。デカンショ博士に関心を持ったのは、現世超越的アイディアリズムの調査の一環です」
バロン 「それらの調査の結果、君の言う人類に有害な影響を与えるものをどうしようというのじゃな」
ナタニエル 「とりあえず迷妄博物館に貯蔵されることになります。人類がそれらを完全に忘れ去った時には、一般公開され、人々の笑いを誘うことでしょう。ところで、私がサロン・ウラノボルグにおじゃましましたのは、これらの調査に様々な便宜を得られると思ったからでもあります。もちろん、伝説に名高いウラノボルグを見つけ出してみたかったのが第一の理由ですが」
バロン 「ナタニエル君から見れば、我々は君の調査に便宜を与えるどころか、調査の対象になりかねまい」
ナタニエル 「とんでもないことです。あなた方は全て私と同じく実在の人物ですし、人間や生き物に危害を及ぼすことは我々の目的から外れています」
バロン 「もし我々が人間でも生き物でもなかったとすれば・・・」
ナタニエル 「その時は私が夢でも見ているのでしょう」
バロン 「ヒンダスの神話に宇宙は神の見る夢とあるが」
ナタニエル 「それは残念ながら排除されるべき迷妄に属します」
マリネンコ 「君は実に窮屈な思想で自分を縛っておるようにゃり、ナタニェール君。にゃんもまたいつか迷妄博物館とにゃらに飾られるのであろうか」
モーグル (やや興奮気味に)「一つだけナタニエル君に聞きたいことがある。かつて宗教者同士が過激な偶像破壊を行い、今も行っているが、君らもマテリアリストの立場から同じことをしようというのか」
ナタニエル 「わたしたちは人類の記憶から消し去ることだけを考えています。人類が偶像を偶像と見なくなればそれでよいのです。人類の文化の大本は全て記憶ですから」
モーグル 「それならば君たちの仕業ではないのか。世界にいくつとないブラックミラーが、すでに二つ破壊されている。通常の手段では不可能なのだが」
ナタニエル 「ブラックミラーに関しては、宗教者の間でも悪魔の鏡として恐れられています。特にモーグルさんが女子大の学園祭などに出演なさるので、それを探す欲深い者たちが現われています。しかしそれを破壊するとなると、私もそういう指令は・・・」
バロン 「なるほど、鏡の件はともかくとして、どうやら君に指令を与えてここへ来させた人物がおるようじゃな。その君の言う彼とやらに、いずれ出会うことになりそうな予感がするわい」
モーグル 「君は私が鏡からぬけ出るところを見ているはずだが・・・」
ナタニエル 「お見事なマジックです。さすがに学園祭に招かれるだけあります」
モーグル (バロンに)「何をかいわんやですな」
ブルフローラ 「それではナタニエルさんは、魂というものの存在を否定なさるのでしょうね」
ナタニエル 「人間はもちろん、ある種の動物でも、魂と呼ばれる心的現象のあることは言うまでもありません。私が否定するのは、それが身体と離れた別の存在であると考える迷妄です。今ここにいるモーグルさんが、鏡をぬけ出てきた魂であるなどとは、今の時代子供でさえ騙されませんよ」
ブルフローラ 「それならばナタニエルさんに診断してもらいたい、わたくしの近頃見た奇妙な夢があるのです。わたくしにはどうも、ある魂がわたくしに語りかけてきたとしか思われないのですが、一体それはどのような病気なのでしょうか」
ナタニエル 「夢ですか。その言葉がすべてを語っているとお思いになりませんか。人類は魂について夢を見ていたに過ぎないのです。プラトンやデカルトのような哲学者すらそうでした」
ブルフローラ 「夢には何の実質も意味もないとおっしゃるのですか」
ナタニエル 「ああ、私ほど夢に親しんだ人間はおりませんよ。夢の楽しさ、素晴らしさ、怖さ、悲しさ、それらが私の幼少年期そのものです。けれども今それらを現実と取り違えることはありません」
モーグル 「君は惜しくも夢の神秘に気づくまえに夢から覚めてしまったようだ」
ナタニエル 「現実の悲惨が私の夢の世界をうち壊したのです」
バロン 「ナタニエル君の幻滅ももっともだが、せっかくウラノボルグへ来たからには、夢の饗宴に与りたまえ。ところでブルフローラ姫、その魂の語りかけてきたとかいう奇妙な夢を、われわれ皆に語って聞かせてはくれまいか」
ブルフローラ 「少々ためらわれます。それというのも、魂そのものよりも、その物語る話のとてつもなさが、皆様の気を悪くさせるのではと心配です、とりわけお父様、お母様の前では」
バロン 「今の若者たちの物語に、もはや古き良きメルヘンを求めることはかなわぬようじゃな。マリネンコ殿いかがじゃ」
マリネンコ 「にゃんの娘が、お客人方の顔を赤らめさせるような物語をするとは思われんにゃん」
ダルシネア 「お父様は不道徳なお話だけは好まれませんのよ」
ブルフローラ 「わたくしが心配なのは、先ほどナタニエルさんがお話しされた人類の悲惨に輪をかけるような未来の悲惨が、皆様のお心を暗くするのではと気づかわれるからです」
バロン 「不完全な神の創造した不完全な宇宙の、不完全な人類のなすことならば、何事も不可能ではあるまい」
マリネンコ 「にゃらばにゃんも聞かずばにゃるまい。娘よ、語るがよい」

            


                ムーン・ファーム
     
                 ――ブルフローラ口寄せ・ある魂の語る


 暗い・・・何も見えない・・・何も聞こえない・・・やたらと寒気がする・・・ここはどこだろう・・・おいらはどうしてこんな所にいるのだ・・・おいらの生まれた世界・・・おいらの乗ってきた宇宙船・・・そしておいらの仲間たちは・・・みんなどこへ行ってしまったのだ・・・何も分からない・・・誰か教えてくれる人はいないだろうか・・・誰でもいい・・・ここはどこなのか・・・おいらは一体どうなるのか・・・
 誰でもいい、おいらの話を聞いてほしい。そうすれば、おいらが今どんな目にあっているのか、おいらの仲間はどうなったのか、知っている人がいるかもしれない。おいらは月の世界からやって来た。地球へ行くロケットに乗りこみ、宇宙ステーションに到着した。それから・・・それから・・・一体あれはどういうことなんだろう。おいらの頭はまだ混乱している。筋道たててものを考えることができない。そこでずっと前のことから、おいらがまだ平和に、何の不安もなく暮らしていた、あの月世界でのことから話してみよう。そうすればだんだんに、気持も落ち着いてくることだろう。
 月世界は死の世界だ。でもそう言われたのは昔のこと、今ではあちこちに巨大なドームが、クレーターの陰やクレバスの底に巣くっていて、おいらたち地球から移住した者の子孫であふれている。ドームの中は全く地球と同じ環境だ。違う点といえば、強烈な日光をさえぎるために、ドームの窓は墨のように黒い。その窓に張りついた太陽は、ゆるゆると十五日もかけて空を低くわたって行く。一年中太陽の高さはほとんど変わらない。実際は幾日かは岩山の陰に隠れるような位置に、おいらたちのドームはある。太陽の差さない窓からは、針のような星をまき散らした暗い空が見える。星々も、太陽よりはわずかに短い日数で空をめぐって行く。でも一番すばらしい空の見ものは、何といっても一箇所、特別にしつらえられた窓に浮かんでいる、青い、神々しい、三十八万キロ彼方の世界、つまりおいらたちの本当の故里<地球>だ。地球だけはこの月の世界の黒い空で、ひと所に張りついたように、いつまでも動かない。ただ太陽の動きにあわせて、鎌のような形から、まんまるいボールまで、満ち欠けをくりかえす。それがおいらたちの、何よりの見ものだった。
 おいらの生まれ育った月世界からは、毎月一回、地球へ帰省する仲間たちを乗せた、大きな宇宙船が出る。毎月というのは、月にいるおいらたちからすれば、おかしな表現だけれども、おいらたちは地球の人たちに合わせて、エヴリーアースと言わずにエヴリーマンスと言うことにしている。というのは、地球はおいらたち月の住人にとって心の故郷であり、憧れの地だからだ。
 おいらたちは、この月世界の厖大なドームのもとで、人工的に生まれた生粋の月人だ。おいらたちは父を知らない、母を知らない。本当の意味での兄弟姉妹を知らない。それというのも、おいらたちの誕生はすべてコンピューターの遺伝子管理によって、精子、卵子のバンクからセレクトされるのだから、両親が特定の誰というようなことは、最初から問題にされていないのだ。そればりか、今ちょっとふれたように、またこれから詳しく述べるように、おいらたちは一定の年齢に達すると、みんな地球へ帰れるのである。だから月には年寄りがいない。その中から両親を探せるような年齢の者たちは、一人もいないのである。
 そのことがまた、おいらたちの地球に対する憧れを、いやましにかきたてる。まだ見ぬ親たちが、地球のどこかに住んでいないだろうか、という漠然とした期待が、おいらたちの胸をふくらませるのである。おいらたちは幼い頃から、地球に関することを、学校のコンピューターからくり返し聞かされている。月のように、年中ドームに鎖された不自由な世界ではなく、そこには天然の空気がある。天然の林や森や山があり、そしておいらたちには一番の驚異だったが、目の届くかぎり満々と水をたたえた海という領域が、地球の表面の三分の二をおおっているという。おいらたちは黒い空に浮かぶ青緑色のボール球を、ドームの窓ごしに見上げるたびに、その海のことを思い、広大な緑の陸地を思い、そこに住む人たちを思い浮かべ、そしてその空色の――おいらたちの空のように真っ黒でない――空色の大気の中にいつか帰って行く、おいらたちを乗せた宇宙船のことを、夜昼となく、何度も夢のなかに思い描いたものだった。
 月ではおいらたちは、みんなが兄弟であり姉妹である。みんながおんなじコンピューターから生まれ、おんなじように器械装置によって育てられ、おんなじような生活をしている。地球では違った意味に使われている言葉だそうだが、おいらたちの結びつきは、地球の兄弟姉妹の結びつきに、きっと劣っていないと思う。月の世界では、何よりも争いということがない。みんな仲良しだ。乱暴な振舞い、喧嘩、それにののしりの言葉や口論などというものも、おいらたちは知らない。おいらたちのコンピューターは、そういう可能性のある遺伝的性癖を、前もって除去してしまうか、あるいは全くそういうふらちな可能性を持ったスペルマまたはオーヴムを交配しないので、おいらたちにはすべて最良の性質ばかりが受けつがれている。同胞愛、命令への服従、それに平和を愛する心と奉仕の精神、これがおいらたちだ。おいらたちは子供の頃から、学校で――つまりコンピューターから――こういうことを学び、心に植えつけ、そしてその通りの人間になることを誇りにしている。それに、おいらたちの心は、それ以外の心の状態があろうとは理解できないし、もしそういう異質の心が起こる時は――たとえば監督官に反感を持ったり、憎しみをいだいたり――そんな感情が仮に起こっても、おいらたちはたちまち鼓動がたかまり、息が迫ってきて、冷汗を流しながら卒倒してしまうのである。それほど、おいらたちは善良なのだ。コンピューターの言うところでは、理想の人間なのだ。
 それなのに、おいらたちの故里、地球では、まだ争いばかりか、もっと恐ろしいことも行われていると言う。コンピューターは地球人については口をにごして、あまり多くを語ってくれない。ただ、地球の人たちはおいらたちよりは遅れた状態にあって、おいらたちが一定の年齢になると地球へ送られるのも、おいらたちの模範的な行動によって、地球の人間をすこしでも良い方向に導いて行く、教化のよすがとなるためなのだということだ。そのために、おいらたちは自分らの魂と肉体を育んで、地球人に奉仕するその日のために、準備おこたりなく勉学と労働に励まねばならないのだ。おいらたちは、心からおいらたちの使命を果たすことを望んでいる。
 おいらたちの学習は、ほとんど心と肉体を養うことに向けられている。詩、小説、音楽、絵画、その他、想像と空想と心の従順さを培うものは、何でもおいらたちに与えられ、また許されている。なかにはもっと現実的なこと――たとえば歴史とか科学とか(地球の過去と現在についてはみんなが知りたがった。そしてあの巨大な月地間連絡船のメカニズムについてもだ)――おいらたちの周りのほんとの出来事について知りたいと、コンピューターにせがむ者もいた。しかし、そういう頭を過度に使う学習は、おいらたちの心にはふさわしくなく、また肉体を培うかわりに衰えさせるだけだから、そういう事柄は地球の遅れた人々にまかせておけばよいというのが、コンピューターの教えだった。そう聞かされて、おいらたちは誇らしく思った。つまらない好奇心を持ったことが恥ずかしくもあった。
 おいらたちは、つねづね身体に最上の注意と愛護を向けるようにと教えられている。おいらたちの部屋のどの扉の上にも Corpus Pinquis Fecundo Animo (豊かな心に豊かな肉体) という標語が掲げられている。肉体を豊かにするのは心である。地球では何よりも肉体の美が尊重されているという。おいらたちは一日三回体重を量り、定められた重量より落ちないようにしている。何よりもおいらたちの間では肥ることが奨励され、誉れとされている。それはむずかしいことではない。月では重力が少ないため、身体は余計なエネルギーを運動に消費しないので、その分、肉体の形成にまわされるからだ。おいらたちはきそって体重を増やしあい、毎月、部屋で一番の者、ドームで一番の者は表彰された。
 おいらたちの仕事は、一日の数時間を外の鉱山や農園、牧場の作業にあたることだ。それも今ではだんだん機械に代わられてきて、適度な運動のようなものになっている。昔はすべての作業をおいらたちの行なった時代があったそうだが、その頃は今のように肥ることができなかったという。いずれ月面上の労働は、監督官を除いてすべてロボットに任せられ、おいらたちはもっぱら、勉強と肉体の世話にかかりきればよいことになるだろう。
 一つのドームには、乳幼児の大部屋は別として、100ほどの居住用の部屋があり、五歳以上の者が年齢別に、それぞれ50人ずつ、集団で暮らしている。乳幼児も合わせると、だいたい一万人近くが、同じドームのもとで暮らしているわけだ。男女は別の部屋に分けられていて、一緒になるのは、ドーム中央のコンピューター室をとりまく教室で勉強する時と、運動の時間を除けばほとんどない。だから、おいらたちは男女であい対する時は、非常にシャイだ。お互いにろくろく口もきけないし、眼を合わせることすらできない。地球では男女の間はもっと大胆で、言葉にできないようなハレンチなことも行なわれると、地球から来た監督官は、コンピューターには内緒で教えてくれる。監督官から教わることは、ほかにも沢山あって、ほとんどが身の毛のよだつような、あるいは息の止まりそうなことばかりだ。みんなは信じるに値しない作り話だと言うが、それでも好んで監督官から、コンピューターの教えない地球の話を聞きだそうとする。信じないながらも、お化けの話を聞きたがるような、つまらない好奇心だと思う。。
 男女のことについて、おいらたちはコンピューターの教えてくれたこと以外は信じない。ある年齢に達すると、おいらたち男の体からスペルマが造られ、女たちの体からオーヴムが造られる。それらがコンピューターによってかけ合わされ、おいらたちの後継ぎである子供たちが生まれる。それだけだ。だけれど、なぜ男女が別々の体をしているのか、またおいらたちが女子に対して、女たちがおいらたち男子に対して、不思議な気持を感じるのはなぜなのか、コンピューターは教えてくれない。おいらたちのスペルマは、ある決められた器具に、決められた期間ごと放出するよう定められ、それ以外の時と所で射出することは固く禁じられている。女たちは月に数個の卵子――昔は一つだったという――をやっぱり器械に提供する。そのスペルマと卵子が間接的においらたち男女を結びつけているわけだが、なんだか男女間はそれだけではなく、ほかに何かがあるような気がするのだ。
 それが何であるか、誰も知らない。たまに男と女が二人きりになった時、互いに男と男、女と女のように相手を見るようにし、ふるまうようにしながらも、なんだか違うような、物足りない気がする。しかし何が違い、何が物足りないのか分からない。男も女も同じ服装をして(ド−ムではトーガというゆるやかな布地をまとうだけだ)、同じように肥満している。外見からでは違いは分からない。しかし裸になると、女はどこか男よりも肉づきが柔らかく、乳房が男よりもあり、一か所男と違った器官、つまり卵子の出てくる所があり、女たちがおいらたち男の突起物に興味をもつように、おいらたち男の好奇心を惹いた。しかし好奇心のほかに何があったわけではない。その部分は単に排泄と排卵以外の役目を持たないんだから。
 まったく信じがたい話だが、監督官たちの妙な薄笑いを浮かべながらする、おぞましい地球のうわさ話の中では、地球人たちはそれら男女の器官を互いに用いて、身の毛のよだつ行為を行うのだという。そしてスペルマとオーヴムの交配はコンピューターが行なうのではなく、女の腹が自らするのであるという。そんなことが可能だろうか?!おまけに子供はコンピューターが分娩装置の中で産むのではなくて、女が自分で産むなんて!
 監督官たちのそんなヒワイな話には、誰もが吐き気をもよおした。女たちにもそれは最高のショックだった。ある時、監督官の一人が、ある少女に地球の女にするようなことを、たわむれに仕掛けたところ、少女は恐怖のあまり窒息死してしまった。その監督官はコンピューターによって、種に反する罪とかいう、おいらたちにはよく分からない罪名で、月の裏側の刑務所へ送られたそうだ。おいらたちが女たちに対してそんな仕儀に及ぶことは、想像もつきがたい。まったく、おいらたちの器官の目的に反したことだからだ。
 ただ、監督官が言うのには、地球人のそうした行為には快楽というものが伴っていて、単に子孫のためばかりでなく、お互いの快楽のためにも、男女はそれぞれの器官を提供し合うのであるそうだ。その点で、コンピューターの教えるところでは、おいらたちには快楽の欠けていることが、地球人にまさりこそすれ、少しもその欠乏を嘆く必要なんかないのである。快楽は精神を弛緩させ、肉体を憔悴させる。もし快楽なんぞがおいらたちに与えられていたら、おいらたちはこれほど肥ることも、また心の平安を得ることも出来ないであろうと。
 おいらたちはコンピューターの説明に満足した。それでなくても、コンピューターの言うことはいつでも正しい。どうして正しさが分かるかというと、コンピューターに逆らう時、つまり正しくないことをすると、たちまちおいらたちの胸はせばまり、息苦しくなり、冷汗が出、おいらたちが正しくないことを、即座においらたちの体が教えてくれるからだ。だからおいらたちは、男と女の間には、スペルマと卵子の合体のほかに何かありそうだと予感のようなものを抱きながらも、それが地球人のするようなこととは、とうてい想像できなかったのだ。おいらたちは、それを心に求めた。おいらたちの心が合わさって、未来の子孫に伝わって行く。おいらたちの心は、その子孫の心を要に、磁石の両極のように、互いに知らず知らず惹かれあっているのだと。
 だから、おいらたちは監督官の目をかすめて、ひそかにこれと思う相手と落ちあうことがあった。そんな時、おいらたちは伏目がちに、互いの手をにぎりあい、また時には心と心を寄せて、じっと抱き合うこともあった。そうすると、こんな大胆な行為に速さの増した鼓動と鼓動とが共鳴して、いつか一つのものとなって、おいらたちの体を互いに行き来しているような気がした。そんな所を監督官に見つかったりすると、ホースでしたたかに水を浴びせられる。地球では、犬たちが路上でつがっていると、そうするのだそうだ。監督官たちは、おいらたちが地球人と同じことをするんじゃないかと、いつも眼を光らせているんだ。でも、おいらたちにはそんな真似は、しようったって出来っこないのに。
 おいらたちは、生まれてから十年以上、長くて十ニ、三年は、この月面のドームで過ごす。いつ地球へ立つかは、コンピューターが決める。だいたいひと月前には、その審査の合格がコンピューターから告げられる。十分な体重、身長、肥満度に達していること、スペルマと卵子の供給をすでに規定量行ったこと、などが条件である。おいらたちはほとんど病気にかからない。ドームの中は完全無菌状態で、出入りには厳重な予防・消毒が行なわれる。それでも時々、成長がどうしても規定に達しない者がある。彼らは月面上の特別の診療所へ送られる。彼らの中で帰ってきた者はいないから、彼らの欠陥は先天的なものなのだろう。そこで一生を送るに違いない。
 月には人間の住むドームのほかに、巨大な農園と家畜の飼われている牧場があることはすでに述べた。それらは今では、ほとんどロボットとコンピューターによって管理され、おいらたちの食糧を供給している。おいらたちの主食はミルクとパン、それに豊富な野菜である。地球人たちのように動物の肉は口にしない。肉を食べるのは、地球から来た監督官たちだけだ。彼らは最初に地球から来たばかりの時は、笑ってしまうほどやせているが、月の重力が少ないおかげで、おいらたちほどではないが、たちまち肥ってくる。それにしても、彼らがおいらたちと違って粗暴で、下品で、意地悪いのは肉食のためではないかと、おいらたちは考えている。
 おいらはまだ十歳になったばかりだったが、来月地球へ帰る仲間に入ったことを、コンピューターから告げられた時には、踊りあがるほど嬉しかった。小さい頃から、健康優良児として何度も表彰されてきたので、予想しないことではなかった。部屋の中でも一番肥っていたし、色つやも良かった。勉強も仕事もよくしたし、監督官の命令にも、コンピューターの指図にも、逆らったことはなかった。部屋ではおいらと一緒に五人選ばれた。来月行けない者はみんな羨ましがった。、羨ましがりながらも、みんな喜んでくれた。地球での新生活に励ましの言葉をよせてくれた。でも、おいらがとくに嬉しかったのは、おいらの子孫の魂の片半分を伝え合う相手ではないかと、心ひそかに目しあっていたロミが(おいらたちは正式には番号で呼ばれるが、親しい間で名前をつけあっていて、おいらはプディンという名だ)、そのロミが、女たちの部屋の一つで地球行に選ばれたことを聞いたことだ。おいらたちは一緒に地球へ行けるのだ。別れないですむばかりか、もしかしたら向こうで一緒に暮らせるかもしれない。監督官の話では、地球では男女は一つ屋根のもとに、同じ部屋で寝起きするそうだ。少なくとも、毎日顔を見られるようにはなるかもしれない。
 おいらの体重は地球の重さで180キロある。地球人ニ、三人分だ。月では何の不自由もないが、重力の増す地球ではどうなるか、少々心配だ。ロミもほかの仲間も同じ思いだ。でも、これまで地球へ行ったたくさんの月生まれの者たちも、みな向こうでちゃんとやっているんだろうから、余計な心配と言うべきだろう。彼らはきっと歓迎してくれるだろう。それに、おいらたちが模範となって教化しなければいけない地球の人たちだって、ここに来ている監督官たちは例外であって、本当はもっと優しい人たちにちがいない。そうでなければ、おいらたちを地球に迎えてくれるはずはないじゃないか。監督官たちは地球を離れているから、自然と気が荒くなっているので、でも地球へ帰ればほんとはもっと優しくて、人間らしいんだ。そんなことをおいらたちは話し合った。
 たしかに監督官たちは、地球へ行くことに決まったおいらたちに急に優しくなった。ロミに会うことも、もうおおっぴらに許してくれた。仕事もなくなり、毎日これまで以上の食事と休息がおいらたちに割りあてられた。おいらたちは出発の日がくるまで、まだ見ない地球のことを飽きることなく語りあい、想像してすごした。
 前に話したように、おいらたちが地球と地球人について知っていることは、ほんのわずかだ。コンピューターはなぜか多くを教えてくれない。それが決まりであるという。おいらたちはそのわずかなことの周りに、さまざまな空想をたくましくして、ふくらませていった。おいらたちの祖先は、遠い昔この月に移住してきた。これらのドームを造り、農園と牧場を月の過酷な環境のもとに築いていった。彼らは偉大な科学者だった。しかしどういう理由でか、いつしか大人たちはこの月面には住まなくなり、子供たちばかりがコンピューターの養育のもとに残された。大人たちは地球へ帰って行った。そして子供たちも成長すると、地球へ帰って行く。そこにはどんな事情があるのだろう。どうしてその事情は教えられてはならないのだろう。しかし、その謎も地球へ行けば明らかになる。地球へ行けば、これまで五里霧中にあったすべてが明らかになる。
 それに、地球は断片的な知識の寄せ集めによっても、何とすばらしい星だろう。そこにはどんな驚きが待ちかまえていることだろう。その驚きのために、これまですべてが秘密にされてきたのだとしたら、その驚きのためになら、それも当然の配慮だという気がしてくる。おいらたちは何も知らされずに地球へ行く。地球へ着いたら、なによりも地球の事物をとらわれのない心で、新鮮な感動で受け入れることができるように。
 出発の日が来た。おいらたちドーム全体で、百人近くが四台の月面バスに分乗した。ドームの窓から残った者たちが、しきりに手をふっている。おいらたちも走りだしたバスの小窓に顔をつけて、向きの許す限り、ふたたび見ることのない、住みなれたわが家に別れをつげた。クレーターやクレバスをぬって五時間も走ると、前方に銀色の物体が見えてきた。しだいに大きく空にせりあがっていく、巨大な流線型のボディーが、背後の星々をおおっていった。おいらたちは息をのんで、その怪物を見つめていた。やがてその足もとにたどりついた。骨ばった手のようなクレーンが下がってきて、月面バスをつかみあげ、脇腹に黒々と空いた洞穴にまるごと呑みこんでしまった。四台のバスがつぎつぎに呑みこまれた。バスから降りると、すでに地月間連絡船の中だった。ほかのドームから来たバスも、もうたくさん呑まれていて、すでに他方の口から排出にかかっている。空のバスはそれぞれのドームへ帰って行く。
 おいらたちはバスから降りるとすぐに、ちょっとした部屋ほどあるエレベータで、指定の船室へ案内された。そこは二百人くらいが一遍に入れる大きな船室だ。一体いく人くらいがこの宇宙船に乗れるのか、千人とも、二千人ともいう。毎月こんな馬鹿でかい船が、四、五回地球へ向かって発つ。五千人から一万人のおいらたちが、地球へ帰還するわけだ。地球の近くを、この船よりもさらに一段と馬鹿でかい中継基地が回っている。そこで地球へ下りる船と乗り換える――おいらたちが教えられていたのはそこまでだ。
 いつ出発したのか、ほとんど振動もなく船は月面を離れていた。一つだけある窓から、おいらたちの棄ててきた星の醜い素顔が、うらめしそうにのぞいている。宇宙連絡船は実に速い。小一時間で地球までの空間を渡ってしまう。蒼白い月は消えて、緑の地球が急速に窓一面をおおいだす。おいらたちはまるで魔法にかかったように、窓の前にぎっしりと集まって、まばゆい光景に見せられている。青い地球がいよいよ迫ってくると、おいらたちは奇妙な不安と期待の入りまじったおののきにとらわれだした。何か分からない予感のようなものに押しつぶされて、みんな声を上げて泣きだした。うれし泣きとも、また不安のためともつかない、奇妙に胸のつまる思いだった。やがて快活な音楽がどこからか響いてきて、おいらたちの心をなぐさめた。
 宇宙ステーションに移ってからは、数日、何の通告もないままに、おいらたちは100人ずつの部屋に分かれてぶらぶらすごした。ステーションには一万人近く集まった月からの住人が、地球行のロケットを待っている。ここで予想以上の手間がかかるというのは、地球へ入る前の病気予防のため――月人はほとんど無菌の状態で育ってきたため、そういう処置が必要なのである――いろいろな検査や接種を受けねばならないからだ。だから一回に千人ほどしか地球へ発てないのだ。
 ステーションでは船中と同じく、男女を分けることをしないので、おいらはいつもロミと一緒にいることができた。おいらたちは地球での将来のことを、不安と期待の入りまじった空想に描きあった。ロミは両親を探すのだと言う。顔形は知らなくても、心さえかよわせればきっと探しだせると信じていた。おいらは何よりも海が見たいと言った。それに緑の山、青い空、白い雲――これまでコンピューターから言葉だけで聞かされたものを、この眼で確かめ、この膚で感じてみたかった。ロミもまた、それにほかの誰だって、同じ気持だった。だからみんなの話はたいてい似かよっていた。それでも飽きずにくり返した。
 ステーションの役人が部屋に入ってきて、おいらたちの番だと告げた時、おいらたちは思わず一斉に歓声をあげた。躍りあがる者もいた。役人はなぜか苦い顔をした。きっと自分がからかわれたと勘ちがいしたのかも。おいらたちはその場で、全員衣服を脱ぐように指示された。最後の検査なのだ。おいらたちはちょっと躊躇した。男と女が一緒に裸になることは、これまでほとんどなかったので、おいらたちには羞恥心があったのだ。でも、地球へいよいよ降りて行ける嬉しさがあったので、役人がいらだちだす前に、おいらたちはあっさりと裸になっていた。ロミの前で裸になるのは初めてだったが、おいらたちは互いに眼をそらすようにした。
 おいらたちは長い廊下を二列になって行き、エレベーターを乗り降りして、大きながらんとした部屋に案内された。百人にはちょっと狭い気がしなくもない。天井にはシャワーのような装置がいくつかあり、そこから予防薬が散布されるという。薬が撒かれはじめたら大きく深呼吸するようにとの、役人からの注意があった。ドアが閉まった・・・。シャワー装置から白い霧がふってきた・・・。
 最初一息吸った瞬間、胸の中を何かでえぐられるような苦痛が走った。たちまち咳きこみ、咳きこむたびに喉が締めつけられてきた。おいらは自分でも信じられないようなうなり声をあげていた。頭の中が真っ白になり、気が遠くなっていった。意識を失う寸前、、部屋の中の百人がみんなおんなじような形相で、おんなじような恰好でもがいている――おいらのかたわらにいるのはロミのはずだったが、その顔は見分けがつかなかった――地獄のような光景が一瞬眼の前を流れた・・・。
 おいらは深い恐怖の中をさまよっていた。真暗闇の中で、まったく一人だった。ロミはどこだろう、みんなは・・・。まだ苦痛が喉のあたりを、胸の奥を、えぐりつづけているようだった。一体、おいらはどうなったんだろう、どうしてこんな暗闇にいるんだろう。ふと気がつくと、明かりがぼんやりと上のほうに見えている。体はふわふわとそちらへ漂っていくようだ。首から先に、そのぼんやりした明かりの輪の中を抜けて行った。薄ぼんやりした明かりが広がった。ここは、ここは・・・。
 おいらは恐怖の部屋に立っていた。部屋いっぱいにうずたかく、おいらたち仲間の死体が重なっている。誰も動かない。ロミは、ロミは・・・おいらの足もとにロミの死体が、身を不思議な形によじって倒れている・・・そして・・・そのかたわらに・・・同じような姿勢で・・・おいら自身が・・・死体となって・・・その顔・・・
 突然、扉が開いて、ロボットが四台、続いて二人の役人が・・・役人は部屋を見回す・・・事務的にうなずいて、壁のスイッチを・・・壁が開いて、何かが、動きだす・・・ロボットは・・・おいらの仲間の、死体を・・・荷物のように、その口へ・・・ほうりこむ・・・おいらは、氷りついたように・・・じっと立って・・・ながめているだけ・・・
 役人の一人が、おいらの方へ、寄って、来た、おいらの、死体を、指さす、もう一人と、うなずきあう、腰から、銃を、抜く・・・おいらは、悲鳴をあげる、おいらは、両手で、役人を、おしとどめる、おいらの、両手は、役人の、体を、突きぬける・・・おいらは、おいらは、まだ、生きてるんだ!・・・プシュッと、音がして、おいらの、横たわった、体の、額に、穴があいた・・・その瞬間、おいらの、眼の前は、急に、暗く、なって、もう一度、あの、暗い、暗い、夜の中へ、恐怖の中へ・・・おいらは・・・沈んで・・・行く・・・・・・・・・

        *       *        *

 「わたし昨日、ブラツキー夫人の降霊会へ出てみたのよ」
 妻が食卓を囲んでいる夫と客に向かって言った。
 「今日、月の缶詰が届いたでしょう。それで思いだしたんですけれど・・・」
 「ほほう、それじゃわれわれの口にしているのは、かの Selenite Delicious, made in Moon というわけですな。なるほど口あたりが違うと思いましたよ」
 客のアルヴィッセント博士が言った。
 「それで思い出したんですけれど・・・」
 妻は客に笑顔を向けて、会話の糸口を手離すまいとする。
 「どうぞ、どうぞ、月の肉がどうかしましたかな」
 「いえ、月の肉ではありませんのよ、魂ですの、問題は」
 「はて、魂とね」
 「月の家畜にも魂があるんでしょうか」
 「あらゆる動物には魂がありますよ」
 博士は Selenite Delicious にかぶりつきながら言った。
 「ただし、精神となると話は別ですな。魂ならアメーバーにもありますよ。いや、原子にだって、つまりあらゆる物質にあるといってよいでしょう」
 「そういう哲学的な話はわかりませんの。ただ、昨日ブラツキー夫人に憑依した霊というのが、どうやら月の家畜の魂らしいの。こんなケモノにとりつかれたのは、わたしの霊媒人生のうちでも初めてだって、夫人ひどくご不快でいらしたわ。たぶん前の日に食べたセレナイトがいけなかったのかしらって」
 「感受性の過敏な方には、えてしてそういうことが起こりますな。わたしは憑依などということに大して価値をおきませんが、要するに、1パーセントの死者の残留エネルギーに、99パーセントの生者の妄想が重なってでっちあげられたものです。だから月の肉の食べすぎが、想像力に影響を与えて、月人の魂を呼びだしたとしても、何の不思議もありませんな」
 「えへん、その月人という呼び方は禁止されているのですよ、博士」
 これまで黙って聞いていた夫が口をはさんだ。
 「これは失礼、月獣でしたな、ハイル・ゲヒンダー!ところで、あなたは今度、木星の衛星に作られる牧場の総監督になられるそうですな」
 「ニ、三年ばかりの予定で、向こうへまいります。なかには左遷だというふうに陰口をたたく者もおるようですが、地球へ戻ってきたときの地位は、もうゲヒンダー総統からじきじきに約束されております」
 「で、こんどはどこの、そのケモノですかな」
 「それは極秘です」
 「ねえ、あなた、どうして家畜たちに人間の形をさせておくのです。せめて、四ツ足とか・・・」
 「おまえ、それは言いつくされた議論だよ」
 「そうです、奥さん」
 アルヴィッセント博士がひきとって言った。
 「さまざまな理由から、家畜たちには今のままの形が一番良いということになったのです。なにしろ四ツ足よりは場所を取らない、それに四ツ足に退化させた場合、肉の味が落ちるという実験結果が出ておるのです。それは、四ツ足にするとどうしても魂も退化する・・・」
 「その魂を、どうして彼らから奪ってしまわないの」
 「そこなんですよ、奥さん、自然の一番微妙な目的性の現われというのは。一般に動物の肉の味については、進化した動物ほど美味であるという実験結果がでています。爬虫類よりは鳥類が、鳥類よりは哺乳類が、食べておいしいのです。さらにネズミよりはサルが、サルよりは・・・とにかく昔、人類に食人の風習があって、なかなか絶えなかったのは、やはりこの一般法則に逆らうことがむずかしかったからです。しかしヒューマニズムという、あらゆる人種をいっしょくたにする誤った思想が風靡しだすと、彼らはヒツジ、ウシ、ウマ、ブタなどというおとった哺乳類の肉に甘んずるようになり、いくらおいしいからといって、高等動物の肉を食らうのはけしからんという偏見にとらわれていったのです」
 「その偏見をはじめて打破したのが、初代ゲヒンダー総統の偉大なる功績というわけだ。ハイル・ゲヒンダー!」
 夫が口をはさんだ。
 「ハイル・ゲヒンダー!自然が進化させたのは魂だけではありません。その魂を培う肉体をも、より良いものに向上させたのです。ただ、肉体はつねに他の優れた精神のための犠牲としてのみ、魂と共に進化したと言うべきでしょう。高等な動物は、下等な動物の肉などに甘んじていてはいけない。精神がより向上するための糧が自然によって準備されているというのに、それをほっておく手がありますか」
 博士は一息いれて、聞き手の顔を見較べた。夫も妻も敬虔な面持ちで謹聴している。博士は続けた。
 「われわれ科学者は、まず人間に近い高等な脳を持った動物から始めたのです。遺伝子改良を行ない、まず四足から二足歩行に進化させ、次いで大脳を肥大させ、言葉を与え、いわば人並みの魂を与えて行ったのです。彼らは実にやすやすと抵抗もなく、われわれの家畜となった。彼らは自分らが食べられるなどとは信じられなかったのだ。われわれはヒューマニズムという阿片を彼らに与えていたのだ。自分らの信じたくないことは信じないという、実に好都合な思想だ。おかげで世界がわれわれの計画に気づきだし、抗議の声をあげるまでには、われわれの施設は九分どおり完成していた。もちろん猛烈な抗議をした国々があった。しかしわれらが総統は、彼らを徐々に仲間に入れることによって、つまりわれわれと同等の民族であるという錯覚をいだかせ、さらに分け前を与え、懐柔し、ついで征服して行った・・・」
 妻と夫の間の席で二人の子供たちが食べあきて、ホークで互いの皿の肉をつついて遊んでいる。兄が妹の足をわざとふんずけて、妹に大きな叫びをあげさせた。妻はちょっと兄妹のほうを睨んでから、
 「それで先ほどの魂の話に戻りますと・・・」
 自分の演説に陶然となって、宙を見つめていた博士は、ふとその眼を落として、気のなさそうに、
 「ああ、そんなことですか。奥さん、魂と肉体の相関関係ということをご存知ですね。昔、サイコソマティックなどと言われたものです。魂は肉に影響を与える。言ってみれば、魂は肉にとってスパイスのようなものです。やわらかい肉、美味しい肉、それには魂が必要なのです・・・」
 「おじさん、月の家畜って、昔は地球にいたんだってね」
 兄が突然、妹をからかうことをやめて、博士に訊いた。
 「なんでも、ヤバンだとかいう島にいたんだって」
 「そんなこと誰に聞いたの」
 妻が驚いて息子の顔を見まもった。
 「極秘というのは、えてしてそんなもんですよ。アハハハ」
 アルヴィッセント博士は愉快そうに笑った。

                         

作品名:「ムーン・ファーム」
copyright : eposbungakukan 2009
Up : 2009.4.16
(次回は「モ−グルズ・フェイブルズ」の予定)