人の人生を作り上げる根本の要素が、先天的性格であるか、後天的境遇であるか、については、人それぞれの考えがあることでしょう。
一つだけ確実に言えることは、境遇は人間の素質ををどのようにでも変更できるということです。おのれのあるがままの本性を、自然に発現させるためには、例外的な好条件が必要である。たいていの人はこの好条件に恵まれることがないため、良かれ悪しかれ、おのれの本性どおりに生きることを妨げられています。
人間がおのれの本性をほしいままに発展させうる条件とは、おおまかに言って、一つは理想の家庭環境と、いま一つはなに不自由ない経済的ゆとりとが挙げられます。芸術家で言えば、フェリックス・メンデルスゾーンやヨハン・ヴォルフガング・ゲーテが、この条件の下で、おのれの本性を思うがままに発展させた好例と言えます。もちろんこの条件は天才だけに当てはまるものではなく、あらゆる素質の人間について言えることです。いわば花が花となり、虫が虫となるための、絶好の条件と等しいものです。
ところが、人間の場合に限って、この絶好の条件が自然界のようにはうまく行っていません。さまざまな差別や逆境やが、人間の本性をゆがめて成長させます。場合によっては全く押さえつけてしまいます。本来そうあるはずの本質的おのれとは全く違った、作られた人格が、そこに本当のおのれであるかのように幅を利かせます。
現在(いま)の自分は俺ではない
本当の俺は
心の奥底
意識と無意識の境する所
ものうげに光っている
一つの眼
そ奴は
存在と不存在を克服しようと
無限の影をはっきり見ようと
巨大な怪物に立ち向かったが
自分のほのおに焼かれちまった
そうして闇の奥に閉じこめられても
いつの日にか
身内に熱い光を感じて
明るい世界にとびだすことを
わすれない
存在の眼
恥ずかしながら青年期の詩を載せてみましたが、こうした人格的違和感は、青年期において特に強烈に起こるものです。境遇が挫折を生み、または別の方向へと人生を導き、あるべきおのれの本性は影を潜めてゆきます。そうして出来上がっていった自分なるものは、果たして本当の私なのであろうか。
本来の私と、境遇によって作られた私との間には、自然界には見られない精神的格闘が起こります。本来ありえたかもしれない本質的自分に対して、境遇はこうあらねばならないおのれを打ち立ててくるのです。
しかしながら、もし絶好の条件の下でおのれが本性のままに形成されていたならば、どのような人生であったかを考えると、たぶんよほどの天才でない限りは、案外と平凡な、ありきたりの人生になりかねないことに気付きます。人間の本性は大部分が共通の本性であるからには、自然界と同様に共通の条件下では平均化に向かうからである。もし境遇に恵まれて、私自身の本性のままに生きたならば、私は決して文芸に惹かれることはなかったろうし、人間について思索することもなかったろう。経済的には幸福で、人間関係においても孤独者にはならなかったろうし、サザエさん一家のような家庭人であったかもしれない。もしくはカサノヴァのような官能の人生を送ったかもしれない。そうしたどこかのパラレル・ワールドにおいてありえたかもしれない本質的私を、しかし、今の作られた幻としての私と、いまさらファウストのように交換したいとは思わない。
いまの私は境遇によって強いられ、作り出された幻としての私であるが、今でははるかに本来の私よりも魅力あるものである。この私を幻とはいえ、そう簡単には手放したくは思わない。今では本質の私と格闘することは、幸いにもそれほど苦痛ではない。大いに私の本質を認めてあげよう。とはいえ、人類の文明が常に悲惨からかちとられて来たように、境遇の不幸からかちとられたものを、より価値あるものとしてよいだろう。
たぶん文明も思想も芸術も、人類の本性をゆがめることによってのみ生まれてきた幻なのであろう。この私もゆがめられた本性から、蜃気楼のように立ちのぼった夢なのであるかもしれない。
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