雑録より(1)


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ねころぐ

Contents:幻の人生/文学と人生/文学はカネくい虫?/焼津にて


2007年5月6日(日)
幻の人生 (K)

 人の人生を作り上げる根本の要素が、先天的性格であるか、後天的境遇であるか、については、人それぞれの考えがあることでしょう。
 一つだけ確実に言えることは、境遇は人間の素質ををどのようにでも変更できるということです。おのれのあるがままの本性を、自然に発現させるためには、例外的な好条件が必要である。たいていの人はこの好条件に恵まれることがないため、良かれ悪しかれ、おのれの本性どおりに生きることを妨げられています。
 人間がおのれの本性をほしいままに発展させうる条件とは、おおまかに言って、一つは理想の家庭環境と、いま一つはなに不自由ない経済的ゆとりとが挙げられます。芸術家で言えば、フェリックス・メンデルスゾーンやヨハン・ヴォルフガング・ゲーテが、この条件の下で、おのれの本性を思うがままに発展させた好例と言えます。もちろんこの条件は天才だけに当てはまるものではなく、あらゆる素質の人間について言えることです。いわば花が花となり、虫が虫となるための、絶好の条件と等しいものです。
 ところが、人間の場合に限って、この絶好の条件が自然界のようにはうまく行っていません。さまざまな差別や逆境やが、人間の本性をゆがめて成長させます。場合によっては全く押さえつけてしまいます。本来そうあるはずの本質的おのれとは全く違った、作られた人格が、そこに本当のおのれであるかのように幅を利かせます。
 
 現在
(いま)の自分は俺ではない
 本当の俺は
 心の奥底
 意識と無意識の境する所
 ものうげに光っている
 一つの眼
 そ奴は
 存在と不存在を克服しようと
 無限の影をはっきり見ようと
 巨大な怪物に立ち向かったが
 自分のほのおに焼かれちまった
 そうして闇の奥に閉じこめられても
 いつの日にか
 身内に熱い光を感じて
 明るい世界にとびだすことを
 わすれない
 存在の眼

 恥ずかしながら青年期の詩を載せてみましたが、こうした人格的違和感は、青年期において特に強烈に起こるものです。境遇が挫折を生み、または別の方向へと人生を導き、あるべきおのれの本性は影を潜めてゆきます。そうして出来上がっていった自分なるものは、果たして本当の私なのであろうか。
 本来の私と、境遇によって作られた私との間には、自然界には見られない精神的格闘が起こります。本来ありえたかもしれない本質的自分に対して、境遇はこうあらねばならないおのれを打ち立ててくるのです。
 しかしながら、もし絶好の条件の下でおのれが本性のままに形成されていたならば、どのような人生であったかを考えると、たぶんよほどの天才でない限りは、案外と平凡な、ありきたりの人生になりかねないことに気付きます。人間の本性は大部分が共通の本性であるからには、自然界と同様に共通の条件下では平均化に向かうからである。もし境遇に恵まれて、私自身の本性のままに生きたならば、私は決して文芸に惹かれることはなかったろうし、人間について思索することもなかったろう。経済的には幸福で、人間関係においても孤独者にはならなかったろうし、サザエさん一家のような家庭人であったかもしれない。もしくはカサノヴァのような官能の人生を送ったかもしれない。そうしたどこかのパラレル・ワールドにおいてありえたかもしれない本質的私を、しかし、今の作られた幻としての私と、いまさらファウストのように交換したいとは思わない。
 いまの私は境遇によって強いられ、作り出された幻としての私であるが、今でははるかに本来の私よりも魅力あるものである。この私を幻とはいえ、そう簡単には手放したくは思わない。今では本質の私と格闘することは、幸いにもそれほど苦痛ではない。大いに私の本質を認めてあげよう。とはいえ、人類の文明が常に悲惨からかちとられて来たように、境遇の不幸からかちとられたものを、より価値あるものとしてよいだろう。
 たぶん文明も思想も芸術も、人類の本性をゆがめることによってのみ生まれてきた幻なのであろう。この私もゆがめられた本性から、蜃気楼のように立ちのぼった夢なのであるかもしれない。

2007年4月8日(日)
文学と人生(K)

 前回の記事は、文学趣味と金の問題という、アマチュアにとっては頭の(ふところの?)痛い、とはいえあまり本質的でない無粋な話題から入りましたので、今回は正面きって、文学の意味を考えて見たいと思います。
 今日、文学は
個人的いとなみとされることが多いのですが、そして私自身もそのように考えますが、古来、文学の発生などを見ますと、今日よりもずっと実社会に近いところで、社会的機能を果たしていたようです。神話伝説なども、今日我々が文学として読んで楽しむような、単なるファンタジーの世界ではなかったはずで、共同体全体の想像力がそこに参加して、ひとつの社会的集合意識を作り上げていたことでしょう。
 文学は本来、共同体の集合的想像力の産物でした。それが今日のように、個人的想像力の産物となって行った過程には、文学の享受の媒体が耳から目へと移って行ったことと、社会と個人とが必ずしも調和しなくなったことが、大きな分岐点となっています。一方では文字の発明、印刷術の発明、他方では社会の際立った階層化、知識人の孤立、などが、今日の文学の享受と創作のあり方を生み出してゆきました。
 人間が世界と交渉する仕方には二とおりあります。デイヴィド・ヒュームはそれを哲学的に印象と観念に分かちましたが、簡単に言えば、一方はオリジナルな世界であり、他方はそれの影もしくは写しであります。我々が普通に世界と呼んでいるものは、印象によって伝えられる、いわゆる実在界であり、外界です。それに対して観念とは、記憶や想像力によって生み出される世界のことしてよいでしょう。人間はもとより、この二つの世界を行き来しつつ、ホモ・サピエンスとしてのあらゆる生活を営んでいるのですが、この二世界を長く分離しなかったばかりか、時には混同さえしたのです。
 古代の神話伝説の世界は、この二世界の意識の未分化の段階の産物と言えます。ここでは神々や英雄の世界が観念の創出であるという意識はなかったことでしょう。おそらく、人類文化において、この二世界の分化を強力にもたらした第一の要因は、書物の出現であったと思います。皮肉なことに、人間の観念界は、文字というれっきとした実在物を媒介とすることによって、より観念性を高めていったと言えるでしょう。 ミヒャエル・エンデの物語では、書物そのものが架空世界への入口であることによって、書物のこの意識分化の役割を二重に暗示しています。
 少年期や青年期に受ける書物からの圧倒的影響の大きな部分は、この意識分化の完成にあると言えます。読書にふけることによって、自己自身をも含めた周囲の現実世界がいかにに貧しいものであるかに気づいてゆきます。青少年期に特有の強力なイマジネーションによって、現実よりも書物の世界の方がはるかに魅力的に映ります。
 特に文学の読書は青少年期の意識分化の過程において、強力な役割を果たしています。空想力豊かな子供時代に読む物語は、写実的であれ空想的であれ、子供にとって決して現実の代用品ではありません。子供の生命力は物語の中に、現実と勝るとも劣らない世界を見出します。むしろ子供の情念は物語りの中にこそ、より強烈な執着の対象を見出すほどです。この段階では、子供にとって想像力の世界は現実界に見いだされる一つの喜びの可能性にすぎません。それが現実でないなどという意識は、子供にとって無意味なのです。観念界が、と言うよりも空想界が現実界を覆いつくしています。その意味では、未開人や古代人の未分化な意識と通じるものがありますが、今日、書物を媒介として自在に空想と現実を行き来する子供たちは、空想と現実とのすみわけを行なっている点において、もはや未開人ではありません。子供は情念を物語の中に注ぎ込んでも、それを現実界と混同することはまずないのです。
 子供は既にすみわけと言う形で意識分化を行なっているのですが、次第に空想界は現実からの圧迫を受けて、対等の価値を揺るがされてゆきます。この圧迫は外部からと、最終的には内部からの二重の圧力であって、この圧倒的な現実の力と闘うことは並大抵のことではありません。青年期におけるこの格闘によって、人間は生命の欲求によって現実界に縛り付けられた存在であることに気づいて行きます。空想界によってはもはや太刀打ちできない、この圧倒的な生命の力に対抗するためには、総力をあげた観念界の反撃が必要になります。知性や、精神や、理想が援軍としてはせ参じます。終いには、宗教や神までが登場してくることでしょう。しかし、いまだかつて、生命を放棄すること以外によっては、生命に打ち勝つことはできなかったのです。
 青年はこの敗北によって、いったんは生命欲と現実の軍門に下ることでしょう。そうして密かに観念界を温存しておく他はないのです。生活の欲求が唯一の価値として君臨します。かつての知性や精神や理想は生命に奉仕する道具と化します。その時文学もまた、現実に奉仕する観念界の道具となります。リアリズムが合言葉となり、生活を描くことが理想視されます。しかしまさにその地点から、文学のひそかな反撃が始まります。文学はかつて現実界から独立した存在として、楽園に暮らしていた記憶を失ってはいないのです。
 文学は言葉と言う現実界の道具を媒体とした観念の世界です。現実界を言葉で写しとろうとする時、ヒュームの用語で言えば、観念でもって印象を写しとろうと言うのですから、影が実体に代わろうとするようなものです。一つの体験は千万言をもってしても尽くすことは出来ないでしょう。文学は現実に仕えるためには、あまりにも不完全な道具です。それに対して、文学が本来のエレメントである観念界に遊ぶ時、言葉は無限の連想を生み出してゆきます。文学は言葉の媒介によって逆に現実界を取り込み、そのエネルギーによって観念に印象の持つ鮮明さを付与してゆきます。文学は現実に仕えるかのようなふりをしながら、逆に現実をおのれの思うがままに作り変えていったのです。その世界はもはや無垢のエデンではありませんが、文学が現実との闘いにおいて勝ち取った一つの自由の世界であることに違いはありません。  

2007年2月11日(日)
文学(文芸)はカネくい虫?(K)

 今年の最初が既に二月となってしまいました。
 遅ればせながら、今年も、ねこひよともども、エポス文学館とよろしくお付き合いください。
 妙なタイトルをつけましたが、ある同人雑誌で、文芸はカネくい虫というようなことを読みましたので、それについての感想を書いてみようと思います。私自身はこれまで同人誌に関係したことはなく、言ってみれば一匹猫なのですが、その場合どうしても発表の場がありません。
 それでもたいして困らなかったのは、もともと書くものは、常に習作の意識段階を出ないからです。たまに良いものが書けたと思うことがあっても、書いたことだけである種の満足感を覚えてしまって(例えばそれによってトラウマが克服できたりすることで)、読み返すことすらしません。何年も経ってから読み返してみて、ある種の感動を覚えることがありすが、既に過去の私とは違った私になっていますので、いまさらの発表はためらわれてしまいます。まして、稚拙さが目につけばなおさらです。
 自らエゴ小説と名づける、そんな習作を何篇も書きましたが、それはそれ自体で私の人生にある機能を果たしていました。私自身を客観視する手段であると共に、創作することによる陶酔もしくは慰撫を与えてくれたからです。創作の行為そのものが充分に報酬でした。発表するかどうかは、その先の別次元の問題です。
 ある人は、自分の作品の客観的評価がほしいから発表するのだと言います。私は、十年も経てば自分の作品の客観的価値はそれなりに分かるものだ、と考えています。その時なお読むにたるものであるならば、万難を排して発表しても遅くはないでしょう。またある人は、創作する時は人に語りかけるのだと言います。私は、少なくともこれまでは、創作する時はおのれに語りかけました。こうすることで、おのれ以外の読者を排除できるからです。これがエゴ小説たるゆえんです。
 そういうわけで、私にとっては、文芸は、いかに発表を考えずに創作できるかと言う問題一つでした。それなのになぜ努力できるか。ある人は、誰にも読まれないならば書く意味はないと言います。私は少なくとも、ただ一人の読者(私自身)があればよいとします。もともと私にとって、純文学はいわば日記の延長のようなものですから、その動機は、日記がそもそもそうであるように、個人的領域に発しています。私にとって日記とは、身辺雑事の記録ではなく、おのれの本質が最も赤裸に吐露されうる場所です。そこから文学への根本的衝動も生まれてきます。
 もともと文芸趣味と言うものは、たいていの場合、世にある文学作品を読む喜びから始まります。そして、一生読むことの喜びだけで終わるならば、それにこした事はないのでしょう。それなのになぜ作る側に回る必要があるのか。私は海辺の一軒家で、何の生活の心配もなく、毎日「アーサー・ゴードン・ピム」や「白鯨」や「氷のスフィンクス」などを読みふけっていられる老後が、昔から理想として浮かびました。そうした作品を自ら書こうなどとは夢にも思いませんし、めったに書けるものではないでしょう。一読者であることの幸福感で充分です。 しかしその理想は、決して実現することはないでしょう。一つの文学世界で満足できた若年期の理想を、老年期に投影しているだけなのですから。リチャード・ジェフリーズではありませんが、この巨大な宇宙と言えども彼の自我の膨張には及ばなかったように、おのれのすべてを尽くしてくれる文学は、厖大な世界文学と言えどもそうそう簡単には見つからないのです。
 誰も書いてくれないことは自分が書くしかありません。これがあらゆる真摯な創作のきっかけだと思います。
 もしそれが発表の必要があるものなら、出版の費用は少しも惜しくはないでしょう。おのれが生きてきたことの証しとして、国会図書館に一部残しておくのも愉快かもしれません。
 幸いインターネットと言う金のかからない媒体が生まれたため、アマチュア作家にとって、文芸は金がかかるという嘆きも、少しは緩和されるかもしれません。

2006年8月14日(月)
<焼津にて>(K)

 「古くからの漁業の町焼津は、明るい陽ざしの下で、色彩のない独特の魅力を現わしだす。小さな入り江に沿って延びるこの町は、灰色の粗い浜辺の種々の灰色を蜥蜴のように写し取る。この町は大石を積み上げた厖大な波よけによって、大波から護られている。この波よけは、海の側では階段状に造られていて、それを構成する丸石は、地中深く打ち込まれた杭の列の間に張られた、一種籠状の構造によって固定されている。それぞれの段を、それぞれの杭の列が維持している。この築造物の上に登って陸の方を望むと、町全体が見渡せる。灰色の瓦屋根と、風雨に曝された灰色の木造家屋が遠く広がり、所々に寺の境内を示す松林がある。海の方は何海里にも渡って、広大な眺望が開けている。鋸状の青い山並が鋭く押し合うように水平線を埋める様は、まるで紫水晶の奇跡である。そして山並の左手彼方に、すべてを圧して聳え立つ富士の麗しさは、幻を見るようである。波よけの堤と海との間には砂浜はなく、ただごろごろした石の灰色の斜面があるばかりである。これらの石は磯波と共に転がるので、荒天の日に砕け波を渡ろうとするのは剣呑なことである。石まじりの波に一度打たれてみると――私は何度も打たれたが――すぐにはその体験を忘れまい。」(小泉八雲「焼津にて(At Yaidzu)」)

 以上は八雲の名作「焼津にて」の冒頭部分である。この作品を初めて戦前の翻訳で読んだ青年期以来、焼津と言う変哲もない漁業の町の海岸は、一種特別の文学的幻影を与えられてしまったようである。八雲が毎年の夏をこの浜に過ごしたのは明治も終りの頃(明治30年から37年にかけて)であるから、すでに遙かな時代の面影をそこに髣髴させるばかりでない。このIllusion の名人がそこにつむぎ出した夢想のヴェールが、一見写実的な描写をも包みこんでいる。浜に沿って広がる町の有り様を蜥蜴に譬えた所から、たちまちにこの町は現実から夢想に変貌する。リアリズムは単にこの夢想を持続させるためのトリックである。選別されたリアリズムはそれ自体が夢想である。簡明にして華麗な比喩が写実の上にそそり立つ。夢想された外界から、内面の瞑想へと向かう道筋が準備されていく。
 こうした作品の性質上、この‘漁師町’に特別な思いを寄せながらも、長年訪ねてみる事がなかった。夢想以外にそこには何ものも見出せないであろうことは、判りきっていたからである。たまたま沼津の海岸の松林を見に行くことになって、少し足を延ばし、焼津で一泊することを思い立った。夜八時に駅を下り立って、人も車も閑散とした通りを宿まで歩く。閑散としているのはお盆休みのせいであるらしいが、それにしても静かで暗いビル街である。飲食店のないことだけを気にして歩く、何とも散文的な第一印象であった。
 翌日、何はともあれ、くまんぜみの鳴く中を漁港へ向かった。途中、白装束に脚半、地下足袋といういでたちの祭りの衆が、何事か叫びながら奇妙な山車を引いてくるところに出くわした。八雲の読者でありながら、お祭にはさして関心のない身として、山車に載せられたアニメのキャラらしきものには呆気にとられた。八雲の描く祭りは、エトランジェとしての視点で祖国を見るものの心を和ませてくれるが、現実の祭りにその幻影をかぶせることは愚かである。やがて今では遠洋漁業の港であるコンクリートの海岸へ出る。やはりお盆休みで閑散としている魚市場の横から水際に出てみる。岸には三々五々釣り客の姿が見られるばかり。日差しはあっても曇り気味であるから、駿河湾のかなたに紫水晶の奇跡(prodigious amethyst )を見ることなど思いも寄らない。左手に入り江に佇むようにして、小さな茶碗を伏せたような山が見えるのが唯一の見もの。漁船の姿は、コンクリートの岸の少し先に一隻だけ、遠洋漁業のものらしいペイントも真新しく見える瀟洒な船が停泊していた。それを近くから眺め、逞しい乗り組みの漁師に訝しがられる前に、市街へと歩を返した。
 緑色に濁った小さな川の手前の変哲もない狭い通りを行くと、目ざす物が見つかった。八雲が滞在した家は今は明治村(愛知県犬山市)に移されて、その跡に黒い石づくりのそっけない記念碑が、普通の民家の前に立てられている。この八雲通りと名づけられた通りを歩みながら、明治の昔に思いを致すことは難しい。せいぜい八雲の作品の世界に、思いをあそばせるばかりである。
 再び漁港に出て、岸沿いに歩く。釣り船程度からちょっとした大きさの漁船まで、たくさん並んだところを眺め過ぎる。先程の茶碗を伏せたような小山が近づいてくる。そこまで行くと、当目海岸と言う海水浴場が現われた。八雲は専ら海水浴のために夏の間焼津に滞在したのだが、この当目海岸まで足を延ばしたそうである。波消しブロックで保護されたこの穏やかな海水浴場は、子供たちを始めとしてほどほどの水浴客で賑わっていた。遠浅を嫌い、波の荒い海岸を好んだ八雲には、今の様は物足りないであろう。海水は冷たく、身をしずめると水風呂である。泳ぎの苦手な身、早々に上がった。
 旅と文学と言う取り合わせは、芭蕉の昔から日本人の好むところである。松江を訪れた時もそうであるが、焼津を訪ねてみて、私自身気おくれする人間であるためもあろうが、やはりある違和感をぬぐいきれない。文学の与えるものはすべて文学の中にある。これが私の相変わらずの確信である。松江にしろ焼津にしろ、私にとってその魅力は八雲の文学の中にあるのであって、現実の日本人の住むそれらの町ではない。同じことはひょっとして八雲の見た日本そのものについても言えるであろう。読者はそこに美しいイリュージョンを楽しむのであって、決して玉手箱を開けてからくりを見てはならないのである。