ねころぐ

ーエポス文学館雑録ー

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CONTENTS:自我と世界(3)/自我と世界(2)/自我と世界(1)/死について生命の掟/精神と自我/精神VS無意識/肉体VS精神(1)(2)/箱根旧街道の杉並木/列島バベル計画/人生の設計2/人生の設計/旧東海道をてくる(2)/インターネットの世間/詩人を名のる / 旧東海道をてくる(1)

         

2012年9月10日(月)
自我と世界(3)

 世界創造の低次の段階では、萌芽的な自我が世界に影響することはほとんどないだろう。そこでは個物の発生と消滅は物理的に決定される。物理的な力は数学的精密さで予測可能である。ここでは単にIndividuumとしての存在があるだけで、それは認識論的には単なる条件に過ぎない。一個のモナドとしての素粒子や原子は、その最も微小な知覚において、物理的な力やエネルギーと同一であろう。認識らしい認識、それも意識を伴わない認識が発生するのは生命界においてである。既に個物は複雑な有機的集合をなしている。細胞間を統合する神経系の発達によって、さらに強力な自我の場が発生する。生命の大部分の段階では、意識はまだ余剰物である。自我の先験的統一が無意識の認識をつかさどる。一見目的的であるかのような、動植物の進化の方向は、先験的自我による無意識の認識に関係しているであろう。
 一個のモナドとしての個物は、全体への意志によって他の個物と結合し、複雑な集団を
形成し、上位の個を成立させる。個が個として成立するためには、自我による先験的統一がなされねばならないが、まさに複合的な個物においてこそ、この原理が強力に働いていなければならない。動植物界においては、この個物の統合の原理は、単に個体そのものばかりでなく、他の個体との集合、すなわち種および個体を取り巻く環境そのものにも及んでいる。その意味では、動植物は個でありながら個としては存在していないともいえる。種および環境がすべてであり、個は無に等しい。われわれが動植物を食べるとき、個を問題にしないのはそのためである。常に美味な<種>が問題になるのである。種および環境にまで及ぶ動植物の自我が曖昧であることから、かえって進化にとって好都合な条件が生まれる。個すなわち種は、環境に非常に適応しやすく、環境の変化に応じて変化しやすくなるのである。環境までも自我の先験的統一に引き入れることによって、一見合目的的な種の変化が生じるのである。
 神経系の発達は、自我の環境からの独立を進める。自己保存の能力が増すことによって、環境に全面的に依存することがなくなる。動物は適した環境へと移動する能力を獲得するのである。しかし、いまだ種からの独立を果たすことができないために、個は種の中に埋没して、種の本能に操られるままに、全体への意志に奉仕するほかはない。いわば生への意志の道具としての、隷属的自我であるほかはない。けれどもこの隷属的自我であっても、上位の動物、特に人間においては、極めて強力な自我を形成する。とりわけこのような自我が集団を形成する場合は、集団的自我が全体への意志を体現することによって、強力な種の防衛、あるいは暴力的な破壊の力となって、生命界および人類史において猛威をふるっていることは、誰しも知るところである。
 神経系が最高度に発達した人類においても、自我が依然として生への意志、とりわけ全体への意志に隷属していることは以上述べたとおりであるが、環境からの独立、種からの独立を究極的に果たす条件は既に与えられている。反省的自我の誕生がそれである。古代より連綿としてつづく、哲学および宗教における遁世の思想において究極の自我への探究がなされてきた。真の個は自我への反省によって見いだされるほかはない。この発見と同時に、自我は世界から解放され、種の本能から独立し、全体への意志を超克する。それによって自我はおのれが唯一者(Der Einzige)であること、絶対に充足した存在であることを知る。自我はおのれ以外の何ものをも必要としないのである。その意味で絶対者である。ジェフリーズの言うとおり、<私は私であるためにはこの宇宙を必要としない>のである。
  *     *     *
 最後に説き残した、自我と他者(他我)との関係を論じる。これまでに論じたところから、すでに明らかなように、個物としての自我は容易に他の個物と結合し、個物の集合である上位の自我の中に埋没する。この段階での自我は相対的であり、いわば交換可能な自我に身を落としている。ライプニッツの<裸のモナド>に譬えられるであろう、いわば微小自我である。自我と他我との間には明瞭な区別がない。自我の優位が種の保存にとって意味を持つ段階で、初めて自我は他我との間に明瞭な区別を認める。雄どうしの闘い、優れた個体を選ぼうとする雌の選択、などにおいて、自我は他者との違いを初めて認識する。ここに自己意識の萌芽がきざし、本来の意味の統覚が発生する。しかしここでは生命に隷属する自我であるから、他我はおのれに対抗するライヴァルとしての個体である。自我は相対的自我であることを免れないばかりか、種や集団といった上位の自我の前に容易に埋没してしまう。韓国ドラマに譬えれば、陰謀をめぐらす重臣たちの権力欲むき出しの争いも、王の前では哀れっぽい歎願に変わるようなものである。
 自我が相対的自我であることをやめ、反省的自我としておのれに目覚めることによって、初めて他我は他者としての個体となる。自我はもはや先験的自我でも、文法的自我でもない。主観対客観としての私でも、you and I としての私でもない。そのような私からみられた他我は、単なる表象(representation)であり,客体(object)である。私だけが実在であり、唯一確実な存在者である。先験的自我の対象としての<あなた>は私の身体と同じ身体として向き合っている個としての世界意志であり、その傀儡であり、私もまた世界意志の意のままに動かされる限りは<あなた>と同じ本質を共有している。その限りでは、私は<あなた>と共感し、ともにこの生命の苦、世界苦(Weltschmerz)を mitleiden することであろう。しかし私の真の本質はこの世界にではなく、私自身にある。その時私は私以外の存在を見い出すことができない。私は唯一無二であり、すべてである。<あなた>はそこにはいない。もしかしたら私の中にいるのでない限りは・・・

2012年9月6日(木)
自我と世界(2)

 自我は本来唯一無二で、絶対の存在者でありながら、この世界に先験的自我として関与することにより、この世界の個物と運命を共にすることは前回述べたところである。先験的自我は、カントにならえば、それ自体としては内容のない空虚な概念であり、感性界に適用されることによって、初めて意味のある存在となる。すなわち個物として、肉体としての自我を、私は誕生とともに見い出すのである。それにしても、本来この世界とは異質な存在である自我が、何故にこの世界に関与を強いられるのであるか。これはギリシャ哲学以来の、根本の問題であった。
 初めてこの問題を問いかけたプラトン(もしくはソクラテス)は、二世界論を展開した。何らかの理由で、魂はこの物質界に転落し、肉体を持った存在として不自由な生活を余儀なくされる。魂は肉体を離れることによって(死もしくはエクスタシーによって)、本来存在すべき魂の世界=イデア界へと帰還する。この考えはキリスト教に受け継がれ、長く西洋思想を支配した。キリスト教では人類の罪の意識(原罪)がこれにつけ加わる。優れた世界から劣った世界へ移行することは、そこには何らかの懲罰が類推される。仏教ではこれを因縁と説く。結果は原因から推理されるのである。しかし超越的存在である自我には、こうした関係的観念は無縁であることは既に説いたところである。
 自我がこの世界に関与する理由は、自我の側にはなく、この世界の側にあるとみるべきであろう。それにはまずこの世界の本質を探究しなければならない。世界意志がこの世界を創造するに当たって、全一者である意志は、それ自体では全体であり、不可分であり、時空を超越している。それが世界として発現するためには、時空におけるIndividuation(個別化)をとげなければならない。無慮無数の個物となった全一者は、それぞれの個物が全一者の全体性、絶対性を内にはらんでいる。と同時に本来の全一者に帰還しようとする、<全体への意志>をも秘めている。これを物理的に、ビッグバン宇宙のプロセスでもって比喩的に説明することも可能であるが、ここではMetaphysikにとどまることとする。
 個別化によって個物となった全一者は、その時点で既にある種の自我であるといってよい。これは自我とは私の意識であるという定義と反するようである。素粒子や原子に意識があるのかという、もっともな反論がなされよう。先験的自我が個と結びついていることは疑いようがない。個物または個としての存在が、先験的自我によって時空における定点を与えられることは、この世界の根本の条件であるといってよかろう。この意味で、あらゆる個物は、世界意志のIndividuationにおいて、先験的自我の萌芽を与えられたといってよい。ライプニッツはモナド論で、これを微小知覚と呼んでいる。
 個物が既に自我の条件を内に秘めているのであれば、世界意志の段階的発展において、認識の発生と同時に、本来の意味での自我すなわち自己意識が自然発生したとしても何の不思議もない。しかし、もともと全一者である世界意志が、一体どこからIndividuationの原理や、意識化にまでいたる自我をおのれの中に取りこんだのであろうか。創造への盲目の衝動であるに過ぎない全一者が、おのれの中にそれらの原理、もしくは存在者を含んでいたといえるであろうか。プラトンに返れば、全一者はイデア界のモデルに従ってこの世界を創造したのであり、同様に考えれば、全一者は超越的自我を先験的自我としておのれの中に取りこんだのである。この世界はいわば、世界意志=全一者とイデア界と超越的自我との三者からなるDreieinigkeit(三一存在)なのである。これをキリスト教のドグマで言えば、父(創造者=世界意志)と子(自我)と聖霊(イデア界)にあたるであろう。何故にキリストはこの世界で受難に会い、苦しまねばならなかったか、それはこの世界での自我そのものの宿命である。
 自我は生命から誕生するのではない。聖霊とともにこの世界に個として宿るのである。これが無垢なる懐胎の秘儀である。母なるマリアは、被造物として見られた世界意志である。世界意志によって懐胎された自我は、個として世界意志と一体化する。世界意志のあらゆる衝動、意欲、情動、情念をおのれのものとして生きなければならない。この盲目的な暗い力を、自我は自らに課せられた宿命としてになわねばならない。その際聖霊である理性界の光が、自我の本来の進むべき道を照らし出す。荒ぶる神は、理性の光によって自らの超越性に目覚めた自我により、鎮魂され、寂滅へともたらされる。この意味において、自我=キリストは世界を救済するのである。
 しかし議論を少し先取りしすぎたようである。世界意志の寂滅は形而上学の究極の課題であり、形而上学の最高の実践である。その前にこの世界での自我の苦悩と、悲惨と栄光についてさらに詳しく見てゆかねばならない。(つづく)

2012年9月4日(火)
自我と世界(1)

 私が私であることは、意識の疑いようのない事実であり、そのこと自体を確信するためには何の根拠(Grund)も、根拠付け(Begruendung)もいらない。この点において自我意識はごく特殊な存在者であり、他の存在や存在物が根拠を必要とする点において、依存的であるのとは根本的に異なっている。絶対者である神でさえも、中世においては存在の証明が必要とみなされたのであるから。神についてはいざ知らず、この世界のすべての存在、存在物は、自己以外の何らかの他の存在を根拠として必要とする。それが論理的根拠であれ、因果律であれ、何らかの概念の関係、時空の関係、作用被作用の関係、の中に埋めこまれているのである。それらの関係によって、世界の<理解>が可能になる。理解とは事物間、または事象間の関係の認識にほかならない。しかし私は私自身についてそのように理解するのではない。私はただ私がわたしであることを知るのみである。
 フィヒテは聖書にならってIch bin der ich bin.と同語反復のような言い方でそのことを表わしている。言語的にはほとんど意味のないものになってしまうのは、言語もまた関係的に世界を捉える一つの方法であるからだ。主観と主語とは基本的に同じものであり(どちらも英語ではsubjectである),ショーペンハウアーが言うように、客観のないところには主観はなく、主観のないところに客観はない。こうした意味での私、すなわち主観=主語としての私は関係的な私であり、この私の意識そのものではない。こうした主観=主語としての私を、<認識論的私>と名づけておく。認識論的私は、カントの用語を用いれば、統覚(Aperzeption)として経験の先験的綜合的統一を行う。その意味で先験的自我(Das transzendentale Ich)と名づけて良いであろう。しかしそうした先験的自我は、私固有のものではなく、いわば自我一般といったような、中身のない抽象概念に化けてしまう。そうした私は、この唯一無二である私とは別の概念的で、しかも関係的な存在なのである。
 いかなる根拠も関係も持たない、唯一無二である私の意識の存在を、超越的私または超越的自我(Das transzendente Ich)と名づけておく。その存在が、この世界に内在しながら、この世界から何ら存在の根拠を与えられていないという意味において、自我は超越的なのである。デカルトもまた自我のこの超越性に気づいていたので、無理やり神によって根拠づける他はなかったのである。あらゆる独我論の根拠は、この自我の超越性にある。しかし自我はこの世界と無関係であるからには、この世界の創造者ではない。唯一絶対の存在でありながら、この関係的世界の中に存在しているという、自我の悲劇性がそこに明らかになるだけである。
 唯一無二で絶対の存在である私が、何ゆえにこの関係的世界の中に投げ出されているのか、この問い自体が既に根拠を問うているのであるから、何らの根拠も根拠づけも必要としない私にとっては、理解が不能であり、また理解が必要ともされない。この意味で私は私であることで充分に満足なのである。私が存在すること以上に、この世に勝ることはないのだ。神ですら必要ない。神秘主義者の言葉を借りれば、<私が神なのである>。
 しかし現実に、自我はこの世に生まれることによって苦しみの一生を送る。なぜであるか。自我が関係的世界に関係する限りにおいて、この問いには意味がある。超越的自我は、認識論的自我として、この世界に関与する。苦しむのは自我そのものではなく、自我によって認識された個としての生命であり、身体としての私である。生命界の苦悩を、私は私の苦悩として引き受けるのである。私は世界内存在として受肉し、この世界の生と死を体験するのである。このアレゴリーは言うまでもなくキリスト教のドグマとなっている。
 あらゆる苦悩は、自我が自己の本性である超越的自我に帰ることによって解消される。根拠や関係によるあらゆる理解を超えた、自我の唯一無二性、絶対性の意識に帰ることによって、自我は生命界の苦悩から解き放たれる。そこには代わっておのれが存在することへの静謐な歓びと、不可解ではあるが存在の不滅への確信がわきおこることであろう。それによって生への意志を鎮め、万物の悲劇に対して、寛容な気持ちにさえなれるであろう。これに関して、次回はさらに自我と他者との関係を究明したい。

2012年8月19日(日)
死について

人間が観念的存在、観念的動物であることを、もっとも明瞭に知らされるのは、他者もしくはおのれの死に面したときである。観念として思惟できないものを、人は何とかして観念化しようとする。死ほどまっこうから人の観念的性向に対立するものはないのである。死は無であることは誰もが知っている。動いているものが動かなくなった時、そこにあった何かが失われたことは誰にも分かる。器械ならば、例えば電池を取り換えたり、部品を取り換えたりするだろう。人や動物が死によって失うものは、全的存在である。なすすべもなく見まもるか、待ちうけるほかはないだろう。
 まず脳が徐々に機能を失っていく。真っ先に失われるのは最も脆弱な部分である大脳新皮質の機能であり、次いで感覚が損なわれていく。眼底反応がなくなった時点で<脳死>が始まる。やがて脳幹に及び呼吸が止まる。この時点で延命措置が行われる。人工的に肺呼吸が行われ、それまでの酸素呼吸の苦しげな咽喉音から解放される。この時点で、遺族は文字どおり<生命>と直面させられる。人間としては<脳死>によって死を宣告され、それから先はむき出しの死と生命との格闘を見まもるほかはない。いかに人間が生命をないがしろにせざるを得ないかを痛感させられるのである。生命の最後の砦である心臓が、果敢に命の液を全身に送りつづける。脈拍数も普段の倍はある。それだけの必死の活動も、やがて血圧が低下し、頻繁にアラームを鳴らし、ついには測定不能となり、スーと脈拍数が落ちていく。二度目の死を迎える。 
 こうして存在の代わりに無がそこに出現した時に、人はそれをあらゆる種類の観念化によって補い、つくろうほかはない。思惟や想像の及ばないものを、あたかも生きているかのように表象によって覆うほかはない。人類が古来培ってきた死の儀式がそれである。死者は無であるとしても、残された生者には、彼らは自分らの世界に属する何らかの観念的存在なのである。たとえそれが<死後の世界>として、この世界から隔離された場所に存在するものとして表象されるにせよ。人間はこのようにしてしか、死と向き合うことができないのである。
 人間にとっては、いかに科学が発展しても客観的宇宙はそれほど大事ではない。真理は基本的に人間とは無関係であり、人間を見離す。それでも人は真理を探究するのであるが、そこには大いなる諦観が待ち受けている。その時人は何の感動もなく、無としての死を受け入れるだろう。それまでは、人は観念の世界で、幻と戯れる他はない。観念こそが人間の本質であるのだから。
 人間が動物から人間になるに当たっては、記憶の発達が最も大きな要素であったろう。厖大な観念の貯蔵所である記憶のおかげで、人は独自の観念的世界を作り出すことができるようになったのである。この記憶の貯蔵所を統括する、いわゆる統覚による綜合的統一が、私という自我意識を中心とした一人の人間の人格を生み出すのである。まず記憶の喪失によって、私という人格があやふやになりだすことは誰もが知っている。しかし、人格の中心は最も強力な記憶と結びついており、多少の健忘症では私という人格が失われることはない。むしろ、人格は常におのれのありどころを、最も深い記憶に求めているといってよい。老人が幼年期の記憶だけを失わずにいるのはそのためであり、それは人格の最後の拠り所なのである。
 このように人間の存在の根拠は、記憶によって保証された観念のほかにはないのである。人間は常に観念を求めている。たとえそれが、<いたるところにあってどこにもない>青い花のような観念であっても。人を動かすのは物ではなく、深い衝動を呼び起こす何らかの表象であり、観念であるのだ。それが単なる本能的行動ではない、人の行為の根拠である。死者は無ではなく、この観念界に属している。死者は残されたものの記憶の世界に生きつづけるのである。あたかも観念がそのまま実在であるかのように、死者は天国や極楽や、場合によっては地獄に生きつづける。そうすることによって生者は、死者を観念界に保存しつづけることができる。いわば死の世界は、生ける者のための世界であり、その世界もそのための儀式も、当の死者にとっては全く無縁のことがらである。あたかも子供がぬいぐるみの動物に話しかけるように、人々は死者に語りかける。
 死が客観的に完全なる肉体及び人格の消滅であるならば、単なる死後の世界ではない、すなわち観念の幻ではない、当の死者にとって不滅といえるものは何かあるのだろうか。ある時、夕暮れの街路を帰宅の途につきながら、死について考えていると、夕暮れの心地よさのためであったろうか、ふとおのれの存在が今死んだとしても、次の瞬間にはまたどこかで存在しているかのような、安堵に似たような気分が起こった。死は少しも恐れるものではない。この世への気がかりだけが(それもおのれに関する)邪魔しているのである。この地球などではない、宇宙のいたるところで私はまた存在しているだろう。宇宙の創造者である神が、片田舎の大工のせがれとして誕生したように、私もまたどのような存在であるかは知らないが、また私自身に目覚めているだろう。私は器械の様な身体を持っているかもしれないし、またはゴキブリのような知的生命体かもしれない。いずれにしても、私という意識が不滅であってはならない理由が、主観的には見当たらないのである。単なる自我の肥大化であるのか、形而上学的に根拠のあることなのか、いずれまた探究したい。 

2012年8月16日(木)
生命の掟

 生命界では長寿による自然死や‘天寿を全うする’などということがごく稀であることは、常識といってよい。どんなに強い動物であっても、病気や怪我などで弱った瞬間に、他の動物の餌食にされる。これは同種の動物間においても同様である。弱った仲間は群れの負担とならないように見捨てられるか、たちまち他の動物の餌食となって、群れの犠牲となる。動物の生命にとって、群れや種の存続が最重要であって、個体は生によってばかりでなく、死によってもそれに貢献する。人間社会においてはどうか。
 基本的に生命界の掟は、人間社会においても、陰に陽に貫徹されているといってよい。‘大往生’などというていのいい言葉によって、いかにそれを隠そうとしても、心の底では誰もが知っている。老人は死ぬのではなく、<死なされる>のであることを。未開社会では、ジャック・ロンドンの「生命の掟(The Law of Life)」に描かれているように、老人は自ら群れを離れて死に赴くこともあったろうし、また伝説化した姥捨ても行われたことであろう。しかし、現代でも、老人は時として自ら死におもむき、それと意識しない周囲からの姥捨てにあっているのである。
 老人の介護がどれほどの負担であるか、実際に介護に当たったものでなければ想像もつかないことであろう。そこには様々な心のスキが生まれる。はたしてこうした心労にどこまで耐え切れるだろうかという、ひそかな(またはあからさまな)思いは、たえず介護者を襲うであろう。愛情があればあるほど、その密かな思いは募るはずである。なぜならその思いに対する反発が、さらに心労を募らせるからである。こうして<楽をしたい>という思いが、安易な方向へとはしらせる。施設へ入れる相談をしている息子たちの横で、母親が心細げな白い顔をしているのがふと目にはいる・・・。死は必ず安堵している介護者を襲う。もし安易な人任せに走らなかったなら、という後悔は既に遅いばかりか、むしろそれを望んでいたおのれの背後の心に気づくであろう。あらゆる<事故>は起こるべくして起こるのであり、こうして老人は介護者によって<死なされる>のである。
 介護される老人たちは不思議な世界に生きている。無言で施設の広間を行ったり来たりする老女。何度目かの往来に出口はどこかと訊かれる。入ってきたときにいくつかのドアを抜けたので、こちらにも分からない。事務室を指差して、そこの何かを書いている女性に訊いてみてはという。老女はそこへ入っていって、同じことを訊ねる。スタッフの女性は目を上げて、心得顔のずるそうな表情で、なにをしに出るのかと訊く。おやつの時間になると、各部屋から老人たちが食事の広間に出てきて、決められたテーブルを囲む。だれ一人言葉を交わすものはいない。黙ったまま、目の前に置かれたささやかな老人向きの、ヨーグルトのかかったパフェのようなものにスプーンを運ぶ。まだ二十歳前後の男女の介護スタッフだけが、生あるものらしく活発に行き来する。ここでは世代の違いということ以上に、別の宇宙が存在していた。
 もういいわよと、付き添っていたこれもかなりの年配の娘に発した凛とした老女の言葉に、老人たちが耐えているものが垣間見えた気がした。生でもなく、死でもない不思議な中間地帯に老人たちは置き去りにされていた。そして生よりも限りなく死に近づいていながら、まだ<生かされている>自分らの定めになすすべもなく従っている。しかしそれはある静謐なゆかしさでもある。この施設の外に、騒々しい世界のあることなどが、青壮年者の溌剌とした世代の活動があることなどが、まるで夢のように遠く思われる、異世界のゆかしさである。介護する律儀な若者たちは、こうしたゆかしさに惹かれているのかもしれない。たとえ経験不足で、不手際であるとしても・・・
 他の老人たちとおやつのテーブルについている母親の姿を遠く眺めたのと、‘仕事’があるから、‘そうか’と会話して施設を出たのが、元気な母親との最後の思い出となった。その日のうちに転倒事故をおこした母親は、病院のベッドに移されたままついに目覚めなかった。葬儀の席で、縁者の若者と平均寿命の話になったとき、‘周りが生かしてくれないよ’と言った言葉には実感がこもっていた。

2012年7月13日(金)
精神と自我

 前回までは精神と肉体の関係を、相関関係ではなく対立関係において考察した。肉体=物質は精神にとって闇であり、現代物理学においても、物質は漸くその10%の存在が知られたに過ぎないという。その最新の発見であるヒッグズ粒子にしても、それによって重力の正体が明らかにされたとはいえ、宇宙の物質の90%をしめるダークマターの末端を占めているに過ぎない。ネオプラトニズムふうに言えば、精神から最も遠いところにある物質の探究においては、ひとまず見通しがついたということであろうか。かつて光速で走り回っていたという素粒子の世界は、より精神に近かったであろう。ヒッグズ粒子という納豆のようなものに捉えられて、物質は鈍重化したのである。物理学が客観的に観察する物質の世界を、精神は同時に肉体において直接的に観察することが出来る。そしてそれもまた氷山の一角であることを無意識心理学は明らかにした。精神はいわば肉体の中のダークマターに直面したのである。精神が本質において思索する存在(cogito)である限り、精神は物質とも肉体とも相容れない。精神はひたすら物質を観念化、対象化する働きであるほかはない。
 そうした精神が何故に、あるいはどのように、物質=肉体と関わることができるのか。その媒体として先に心情について考察したのであるが、ここでは一歩進めて、心情が肉体と精神を結びつけることができるための共通の要素として、自我について探究したい。コンディヤックは「感覚論」において、仮想の人体に徐々に単純な感覚を与えていくという思考実験を行っている。、例えば何ら感覚を働かせたことのないtabula rasa としての心に赤の感覚を与えると、その人の心は赤そのものの感覚にすぎないとされる。しかしこの説は意識をあまりにも単純化している。感覚そのものである心などは存在しないのである。感覚が意識されると同時に、私の意識が発生する。私の意識のないところには意識どころか感覚も存在しない。
 認識が無意識に行われうることは既に述べた。認識という言葉自体が既に誤解を招くが、ほかによい言葉がない。物質はある意味で理性的であって、さもなければ精神は物質を理解することが出来ないであろう。物質界の理性、プラトンはこれをイデア界の影と見なしたが、これと精神との違いは、単に精神が意識を持つという違いにすぎない。意識を持つとはすなわち、精神が自我によって支えられているということである。
 しかし自我そのものは精神と同一ではない。この点を考察していく。コンディヤックふうに言えば、人体に最初に宿る意識は感覚と同時に生じる私の意識である。そして最初に意識される感覚は、非常に漠とした気分のようなもの、または快もしくは苦の感覚であろう。私の意識には、通常、快もしくは苦が生じない限りは、通奏低音のような<気分>(Stimmung) が流れている。こうした気分もしくは情感 (Gefuehl) は、私のものであるという感覚的直知でもって私の意識を支えている。気分であれ情感であれ、あらゆる心情は肉体の状態または要求のシグナルであると述べたが、ここでの自我は肉体と密接に結びついた自我である。幼少年期の自我は、この肉体的自我を出でない。肉体的自我は、快と苦の感覚において一層強烈に意識される。快を求め、苦を避けるという、個にとって有利であることが、自己の意識を高めるのである。
 自我は本質的に個に固有の意識である。その個体以外には何の利害関係も持っていない。ここから自我意識に特有の唯一無二性の意識が生まれる。個である限り、もしそれが意識を持つならば、その意識は唯一無二である。世界意志、もしくは全一者の本質は、そのIndividuation においても失われることはなく、あらゆる個物は全一者の絶対性を反映している。私の意識が唯一無二であり、絶対であるのはその故である。しかも、ライプニッツの言い回しを借りれば、<モナドには窓がない>のであり、私の意識が他の意識と混同されることはない。
 それにしても、私の身体は無数の身体、無数の個物の中の一つに過ぎず、非常に危うく、不安定なものであり、そこにとどまる限り、私の唯一無二性、絶対性とは相容れない。自我は徐々にそのことに気づき、肉体的自我の上に、反省的自我を築きあげる。本来気分と結びついていた自我は、思索と結びつくようになる。そこに自我は精神を見い出すのである。この過程を感覚との関係において、自我の客観化と名づけてよいであろう。始原的感覚である触覚、味覚、嗅覚においては、自我は客体との間に明瞭な区別を立てられない。私の手が触れる椅子の腕木の堅い感覚のどこまでが木のもので、どこまでが私のものか、私は明瞭にしえない。心情もまたすべて、どこまでが臓器感覚であり、どこまでが私の“心”であるのかはっきりしない。聴覚は時に曖昧であるが、大抵は外からやって来た音であることがはっきり分かる。最も明瞭に客観化された感覚は視覚である。視覚において、世界は私と私でないものとにはっきり分かれる。世界は視覚において決定的に観念化する。すなわち私にとっての表象となる。しかし視覚もまた感覚の直接性を完全には失ってはいないことは、暗夜に距離感を失ったときに、光が眼に張り付いてくることによって知られる。いずれにしても、主体と客体が明瞭に分離しうるのは、視覚もしくは聴覚の発達を待つのである。
 この主客の分離した世界が、世界を観念として思索することを可能にする。観念(idea)ないし表象(Vorstellung)とは、世界が私の対象として現われていることである。私のないところには、観念も思索もないのである。対象が私から離れていればいるほど、私は対象を客観的に思索しうる。具体物よりも抽象物が、質よりも量が思索しやすいのはそのためである。自然科学が量と数に万物を還元しようとするのも、その現われである。その意味で自然科学は、そしてそれによって理解された世界は、私から最も遠いところにある。それに対して、具体物や、感覚または意識の質は、私に近いところ、または私と共にあり、私はそれらについてよく知っており、それらとなじんではいても、それらを“理解”することが出来ないのである。私は私の中にとどまっている限り、私自身について知ることができないのである。そのことを反省する時、私は私自身を不可解な存在として見い出すのである。
 感覚は観念として対象化できても、感覚そのものはつねに私と共にある。そのことは最も客観的な感覚である視覚においても例外ではない。色彩をとってみても、それは必ず何らかの気分と結びついている。そしてこの気分こそが身体的自我のありかなのである。色彩は客観的観念としては、可視光線の波動に過ぎない。これが色彩の数量的本質である。しかし意識は全く別の対象をそこに見ている。私の見ている青は意識そのものであり、私の存在と切り離すことができない。もしあえて切り離すならば、それは宇宙のどこにも居場所がなくなる。それに対して可視光線の波動は私の存在を必要としない。それは宇宙のいたるところにある。しかし青の色彩はつねに私と共にある。これが感覚の質の本質である。
 このように自我は意識の直接性によって支えられている。それ故に客体とは本質的に異なった存在なのである。自我はいかに客観化を進めても、私そのものを単なる記号として客体化することはできない。つねに私の意識という剰余が残る。自我が理性と結びつき、すなわち精神化するときも、頭脳化した自我はやはり私の意識を離れられない。しかし理性化した自我は、もはや気分とは違った脳のかすかな感覚の中に浸っている。そしてそこから気分の中にある身体的自我を見下ろしている。この二重の自我は同一の自我でありながら、別のエレメント、一方は感覚的生命の中に、他方は観念的超越界に、その存在の基盤をおいている。この二重の自我は流動的であり、下降と上昇を絶えずくり返している。
 しかし一方の極は動物化であり、他方の極は自我の対象からの純化であってみれば、自我の進むべき道は明らかである。確かに感覚と結びついた自我は濃厚であり、時には盲目なほどの我欲にはしるのではあるが、それは生命の自己保存の道具としての自我に過ぎない。自我のself-reliance(独立独行)を遂げるには、生命からある程度の距離をおき、理性と結びついて反省的自我となるほかはないのである。

2012年6月6日(水)
精神VS無意識

 前回までに精神とは知性もしくは理知の機能であると定義した。そこで今回は、精神と意識、さらに無意識との関係を明らかにし、とりわけ無意識界が精神にとっての最大の敵であることを明らかにしたい。精神(Geist, mind, esprit)という言葉は、通常意識状態と切り離しえないものとされている。西洋語のそれが機知とか注意深さという意味と結びついているように、理知が最高に働くときには、意識もまた最高の状態にあるといってよい。そこで精神を一言で自覚的知性と名づけてよいであろう。意識すなわち自覚のない知性または理知の働きは、基本的に独立独行的な精神ではないといえる。意識は以前にも論じたように自己意識にほかならず、したがって精神的であるとは自覚的に思索することにほかならない。デカルトに帰れば、まさにcogito(われ考える)こそが精神である。Es denkt.であってはもはや精神ではない。それは肉体そのものにほかならない。
 精神の主体をIchとすれば、肉体の主体はEsである。精神のない肉体とはEsが主体として機能する存在である。Ich denkeに対してEs funktioniert sich.が対峙する。後者の働きを無意識界と呼んでよいであろう。動植物はすべてEsの支配下に生存しており、人間もまた既に述べたように90%はEsの支配下に存在している。肉体プロパーの機能はほとんど無意識に進行しており、それに対して精神は何ら干渉する必要も権利もないであろう。誰も自ら心臓を動かす労をとろうなどとは、いかな精神主義者でも思わないであろう。精神にとってより関心の向かうのは、心情の領域および思考の領域におけるEsの働き、または干渉のありかたである。
 精神はフロイトが探究したように、心情や意欲をコントロールするだけでなく、それを無意識界に追放(verdaengen)する。Ich denke の世界から自分にとって不都合な情念や欲求を、一時的にかまたは恒久的に排除するのである。しかしそれらの追放された心情は無意識界においてEs のもとで機能しつづける。それは思いがけない時に顔をのぞかせ、精神にとっては最もやっかいな敵となるのである。精神は単に心情をコントロールするだけでなく、必要な場合はいかにそれを巧妙に排除するかを考えねばならない。ただ単なる抑圧であってはフロイトが明らかにしたように精神疾患を招くだけである。精神の無力が心情から生まれた心情の病を放置することにより、精神自体の崩壊を招くのである。しかし精神健康に取って基本的な能力が備わっている。それは多かれ少なかれ誰もが本能的に行う忘却の能力である。ニーチェの用語を借りれば、自己忘却の能力(Das Vermoegen sich vergessen zu koennen)が精神健康にとって必要なのである。それは単なる排除や抑圧によって行うのではなく、理知による理由づけが必要である。精神はより良い心情を伴侶とすることにより、悪しき心情を退散させねばならない。悪霊となった心情の亡霊を、より高い精神によって鎮魂しなければならない。 この無意識界からの心情の報復を心の幽霊と名づけておく。四谷怪談が日本人にとってこの上なく怖いのは、この心の幽霊を象徴しているからである。
 心の幽霊は精神を狂わせるだけであるが、肉体の欲求いわゆる肉欲は精神を貶める。精神によって無意識界に追放された肉欲は、その憎しみを精神に対して燃やす。肉欲は精神を貶めることでさらに肉欲をかきたてる。肉体が精神を踏みにじる”破戒”こそが肉欲の最高の表現となる。こうしたことは極端な精神主義においては常に見られることである。精神は肉欲に対して適度な敗北を認めなければならない。ソクラテスも、孔子も、ブッダもそれを中庸と婉曲になづけた。
そもそも肉体などに宿った精神は、高い宿賃を要求されてもしかたないのである。精神は肉欲を無意識界などに追放せずに、時には食卓に招いて歓待せねばならない。
 思考のある部分が無意識に行われていることは誰しも気づいている。特に機械的計算などはその傾向が強い。そもそも思考に意識が伴う必然性はないといってよい。たまたま意識と結びついた反省的思考が精神と呼ばれるにすぎない。思考の働きそのものは本来無意識に行われ、意識を必要としない。これは動物の思考において、ひょっとして生命界一般にわたって言えることかもしれない。あたかも自然界が考えているかのように思われるのも、そのためであるかもしれない。思考に意識が必要であるという先入見が、自然界をゆがめて理解させているのであるかもしれない。そうであるならば、精神は思考に関して大いに無意識界に依存していることになる。それは大部分は恩恵だろう。発明や発見などのひらめきや、計算力など、その例である。
 しかしまた、思考もまた無意識界に依存しているとなると、必ずしも良い影響とばかりはいえない。無意識界が観念連合を支配することによって、正しい思索をゆがめてしまう事態も多々あるであろう。偏見や奇説が生まれるのはそのためである。精神は誤りない知性=理性であるためには、自らの思索に常に反省の目を向けていなければならない。心情や意志から来る無意識の偏見に陥らないように、常におのれの中の闇に注意を注いでいなければならない。
 無意識界が精神及びそれを支えている自我に対して及ぼす影響は、以上にスケッチしただけではとても尽くせないが、精神にとっての最大の敵である点は強調できたと思う。無意識界は一言で言うと肉体の闇であり、肉体の本質である物質の闇である。肉体=物質については、理知はまだそのほんの一部しか理解していない。いわば精神は物質界に知らずしてコントロールされているのである。かつて唯物論者が精神を脳の分泌物のように考えていたが、少なくとも精神は知らずして肉体=物質の傀儡であったといえる。物質は精神が考えているほど物質的なのではない。むしろ極めて精神に類似しているといえよう。物質が無意識界に属するために、精神はそのことに気づかずにいるのである。しかし精神に最も近い物質である肉体がそのことを教えてくれるのである。物質界が作り出した最も精緻な器械である脳がそのことを教えてくれる。精神が無意識界と向き合うことは物質界の本質と向き合うことである。それによって超常現象も理解できるのであるが、これについて論じるのは控える。
(次回は精神と自我について)

2012年5月29日(火)
肉体VS精神(その2)

 前回の項に多少補足を加えておきたい。精神すなわち理知ないし知性は、肉体に内在すると同時に、肉体を超越しようという欲求を持つことを述べた。本来肉体=生命に奉仕する道具的知性である精神が、エマソンの用語を借りれば、self-reliance(独立独行)を遂げるために、そのエネルギーを心情から借りてきているということも述べた。精神はそもそも単なる機能であり、それ自体では何らの実体でも、動力でもない。単なる機能が、なにゆえに独立を願い、またいかに独立を果たせるのか、これについては後回しとして、まず精神エネルギーの源である心情について考察したい。
 肉体そのものの感覚であるいわゆる内感については、心情ほど曖昧でつかみ所のないものはない。苦痛や快感などの感覚的要素の勝ったものは、誰もが肉体に属することを認めるであろう。それに対して、感情、情念、情緒、気分などと称されるものは、肉体内の現象でありながら、いわゆる心理に属するものとされる。これらを一括して心情と呼んでおく。ここに心臓の心の字が使われているように、心情は臓器感覚と切り離せない。感覚も心情もすべて脳の機能の現われであるが、感覚が感覚器と結びつくように、心情はなんらかの臓器と、または内感と結びついている以上、それらが肉体の生命維持に奉仕していることは疑いないのである。まさにそれらは肉体=生命と切っても切り離せない機能である。それは基本的にどのような高尚な情念であっても同様である。理知は本来このような情念を、肉体の生命維持にとって都合の良いようにコントロールする機能でもあった。例えば、あつものにこりてなますを吹く、ようなまねをするのも心情の仕業であるが、こうした心情の妄挙を矯めるのは理知である。理知は元来心情とは肉体そのものよりも深い関係にあるのである。
 真理への愛(philosophia)は理知がself-relianceに目覚めた最初の一歩であった。この愛の情念は生命にとって最も根本的な心情の一つであり、理知が自己の肉体からの独立に当たって、この性的情念を伴侶としたことは極自然であった。これをフロイトにならって性衝動の昇華と呼ぼうと呼ぶまいと、同じ根からでた情念であることに違いはない。理知は永遠の女性(男性)に憧れるように、真理に憧れる。しかし、この永遠の女性は実在界には存在せず、観念の世界に、プラトンの言う真の実在界であるイデア界にのみ存在する。そこに精神の永遠に癒されない、渇望が生まれるのである。この世で得られない女性(男性)を、あの世で得ようとするようなある種の切なさが、つねに真理への愛には伴う。それを癒すのもまた、真理の観念と密接に結びついている、美の観念である。しかしこれについては、ここでは触れない。
 先程後回しにした課題について考察する。精神が肉体から独立しようとする願いを持つ理由は、たぶん精神そのものにあるのではないだろう。自己認識の能力でもある精神が、自己と自己の投げ出されている世界とをながめた時、その不条理、その恐怖、そのおぞましさを、自らの主人である肉体的存在に告げねばならなかった。精神は自分の仕えているやっかいな主人を説得する役目を果たさねばならない。情念をコントロールし、肉欲をなだめ、この世では主人のいかなる要求も欲求も満たされない理由を説明し、ついに諦観へともたらさねばならない。この鎮まった肉体の中から、唯一声高く響く理性の機能が、心情を集結し、残された肉体の機能を支えとして、観念界への撤退(withdrawal)を開始するのである。あわよくば、宗教者が熱望するように、肉体もろともに彼方へと・・・。 

2012年5月23日(水)
肉体VS精神(その1)

 この表題は物質対精神でも良いのであるが、物質もしくは肉体と精神との対立が問題となるのは知的生命体、地球上では人類に限られているので、端的に肉体と精神の対峙と考えるのが妥当であろう。英語では同じbodyでも、身体と肉体の訳語が当てられる。日本語では心身相関などといって、身体と精神を対峙させることはあまりないので、身体は肉体とは言葉のうえで微妙な違いがあるようだ。それに対して肉体は肉欲などの言葉があるように、中立的な身体と比べて、毀誉褒貶が伴いやすい。同じbodyでありながら、日本語ではそこに何らかの道徳的評価がまといついている。精神はたしかに肉体とは対峙し、肉体を肯定するにせよ否定するにせよ、そこに絶えず対立者として意識されている。しかし精神もまたある種の肉体的要素、すなわち身体の基盤を必要としており、一概にbodyの敵なのではない。
 精神は一言で言い換えると知性もしくは理知のことである。基本的に身体は考えることはない。生命界一般にそうであるように、考える代わりに自然がすべて用を足してくれる。自然が用を足しきれない余剰として、初めて脳が発達し知性が発生した。精神は身体に寄生している限り、身体から切り離しえないのである。しかし知性は単なる身体の働きを超えて、独自の世界、観念界を生み出した。身体が専ら物質界をエレメントとするならば、精神のエレメントは観念界である。ここに精神と肉体の基本的な対立の根源がある。
 人間は基本的に90パーセントは動物である。すなわち圧倒的に肉体的存在である。食欲、性欲、種及び個体保存の欲求、群居的欲求、所有欲、権力欲、すべて肉体に関係しないものはない。あらゆる争いもまた、肉体の積極的、消極的欲求から出でざるはない。大抵の人間の人生は肉欲がすべてであると言ってよい。たとえ精神的たらんとしても、生命の要求にほとんどのエネルギーをとられてしまうであろう。精神の座である脳自体が、精神の座としては、ほんの表層を貸しているにすぎないのである。
 人は知的であればあるほど、自らの身体を異様なものに感じるであろう。特に生殖器は時に不可解である。また他人の裸の身体も、客観的に見れば見るほど異様で、時に不気味でさえある。人体に美を感じるには、自らも肉感的でなければならない。ギリシャ彫刻や仏像は、人体を肉感から解放した美ではないのかという反論がなされよう。しかしどのように肉感を逃れようとしても、肉体的人間は必ずそこに肉感を発見するであろう。たとえたった一つの曲線であろうと。
 精神的なものは物質的ではありえない。物質とは実在であり、圧倒的に存在感を示して精神の前にはだかるものである。肉体もまた物質であるかぎり、精神の前に圧倒的存在感で立ちはだかる。それに対抗するための精神の道具としては、観念の他にはないのである。知性はまず観念の道具をもって、肉体=生命に奉仕したのであるが、やがて独自の観念界を作り出す(もしくは発見する)ことによって、肉体=生命のくびきから自らを解放する道を見い出したのである。物質宇宙、肉体=生命は、たしかにそれによって克服されはしなかったが、少なくとも理解の対象となり、精神は高みから物質界の営みを眺めることができるようになった。ある意味でそれは物質界からの超越であり、プラトンがイデア界として別の世界を仮定したのももっともなことである。
 物質界とは別に精神界が独立に存在するかどうかは、ここでの問題ではない。少なくとも知的生命体、人間には精神界に向かおうとするある種の欲求が存在することは疑いえない。プラトンはそれをエロスに、プロチノスはアフロディーテに求めた。いずれにしてもそれは身体の中にあり、肉体から発していることは確かである。生命の意志のある部分が、たとえ1パーセントであっても、精神性を希求しているのである。それは心情においてはっきり表われてくる。心情は基本的に肉体と密接に結びついた、いわば肉体の欲求のシグナルといってよいものであるが、それが肉体を離れた観念界を希求することになるのである。ある意味でそれは心情の錯誤といってよいかもしれない。肉体の欲求を実現できない時、心情はその代替物を観念界に求めるのである。肉体の挫折が精神の勝利をもたらすのである。
 いずれにせよ精神界に向かう欲求、<憧れ>は肉体から流れてきたエネルギーである。その心情の働きを古人は霊魂と呼んだのである。それを肉体とは独立のものと考え、それに駕して精神界に辿りつくものと考えた。いずれにしてもこの欲求がなければ、精神は無力であり、生への意志の前に単なる道具でしかないであろう。たとえ精神界の存在を信じられないとしても、精神は肉体から独立することをやめない。肉体や生命、すなわち単に動物であることに甘んじるなら、人間ほど馬鹿げた存在はない。動物であるならば、100パーセント動物であることを禁じる必要性はないからである。90パーセント動物である所に人間の困難さがある。
 10パーセントの精神によって、人間は自らが動物であることを恥じるのである。自らの動物的営みと、決して精神を調和させることができないのである。この世界が単に物質からなるという原子論を説いたデモクリトスの書を、けがらわしいとしてプラトンが焼き払ったという伝承があるが、今ではまたデモクリトスも古代における精神界の希求者の一人に加わるであろう。物質について思索することが、多分今日において最も精神的な営みであるのかもしれない。物質=肉体を克服できなくても、それをとことん理解することによって、精神は肉体にうちかつのである。物質界はいまだ精神にとって闇の世界である。その闇を照らすのもまた肉体の余剰物である精神にほかならない。この世界に精神がどれだけの存在であるのか、それを知るのも物質を克服しての上でのことである。

2011年8月22日(日)
箱根旧街道の杉並木

 旧東海道の手近なところで、今年の夏は箱根越えをしてみようと思い立った。夏である必然性はないのだが、炎天の中で汗みずくになって歩くことが、生命の源である太陽のもとで、体力と活力を授けられているような、再生の思いを抱かせるのである。人の姿のまれな、真夏の昼下がりを、あえて歩き回ることで、その年を越すに必要なエネルギーを充電される、そうした熱のようなものが体内に蓄積される気がする。
 小田原では城の天守閣からの眺望を楽しんだ。城の主には、庶民には日常許されない、世界を見る視野が独占されていたのであろう。それが戦争や争いのためであろうと、認識と情報の独占が支配の原理であった。今では誰もがその気になれば、高みから世界を見ることができる。
 海洋は平地生まれのものには、いつでも心を高揚させる。何もない広漠とした青が空と共に空間を分けあっている。頼山陽の「水天髣髴青一髪」(注1)という矛盾した表現が、その大仰さと共に思いだされる。海と空とは同じ青でありながら、やはり住み分けしているようである。城の公園を出て、その太平洋の海辺まで出てみた。思ったほど海水浴客は多くなく、足に当たる波は荒い。寄せる波と、引き返す波とにはさまれて、立ち往生してしまう。子供たちがその波と果敢に戯れている。
 夜は箱根湯本の民宿に泊った。酒を控えているので、広い湯舟だけが唯一の楽しみである。翌朝は、まず付近の早雲寺や、曽我兄弟の墓を眺めた。曽我兄弟は子供の頃親しんだ名であるが、もはやその仇討ちの次第は忘れてしまった。その近辺でわずかに残された石畳を歩くと、後は舗装された道を車に遠慮しながら歩くことになる。体調も考えて、途中をバスではしょることに。
 畑宿で降りて、山中の石畳の道に入る。かつての東海道の山越えの道にようやく踏み入った。日差しは杉の木に遮られて、去年の小夜の中山越えのような猛烈な暑気はない。ここからだと、芦の湖畔へ出るまでに2時間とかからない。箱根八里は馬でも越したようであるが、人の足にはむしろ石畳は負担のように思われる。雨に濡れれば別であろうが、土の道が足にフィットする。やや物足りないハイキングではあるが、芦ノ湖に近づくにつれ、杉並木が際立ってくる。平地に出ると、幹まわりの巨大な見上げるばかりの古木が、延々とつづいている。
 その巨木にタッチして、梢を見上げていると、かつてよく見た巨木の夢のイメージと重なってきた。夢の中では見上げていると、大地が揺らぎだして、その巨木が倒れだす。どこまで逃げてもその範囲からぬけられない戦きを覚えた。ただ夢の中の巨木は広葉樹であり、冬の景色では葉を落とした姿であった。今見る梢は目眩がするほどの高みにあったが、針葉樹の安定感があった。
          
               

  Bottomless vales and boundless floods,
  And chasms, and caves, and Titan wooods,

 とPoeの詩(注2)にもあるように、自然界は夢魔の宝庫である。いかに科学がその仕組みを解き明かしても、それはそれで驚異に満ちた世界であるが、自然の中に身を置く時、折々不条理な不安が現実感を失わせるのである。

   *       *        *

 (注1)  泊天草洋 (天草なだに泊ス)   頼襄(らいのぼる)

   雲耶山耶呉耶越 (雲か山か呉か越か)
   水天髣髴青一髪 (水天ほうふつ青いっぱつ)
   万里泊舟天草洋 (万里舟を泊す天草の洋)
   煙横篷窓日漸没 (煙は篷窓に横たはりて日ようやく没す)
   瞥見大魚波間跳 (瞥見す大魚の波間に跳るを)
   太白当船明似月 (太白船に当たりて月よりも明らかなり)

 (注2)  底なしの谷、果てしない大水、
      地の裂け目、洞窟、巨木の森

   「夢幻郷(Dreamland)」より。italicは筆者。 

2011年3月15日(火)
列島バベル計画
 人類は自然の中で生まれ自然に育まれ、同時に自然を敵とし、自然と闘い、自然を克服し、また自然によって滅ぼされてきた。これは人類に限らず、あらゆる生命の宿命と言える二律背反である。人類以外の生命はなすすべもなくその宿命に従い、あるいは滅び、あるいは偶然の助けをえて生きのび進化した。人類の歴史もまた絶えざる自然界との闘いの中で営まれてきたが、自然を利用する技術においてはるかに他の生命体より優れていたことによって、生命界の頂点に立つことができたのである。これまで他の生命体にとってはひたすら破滅の現象でしかなかった火を味方につけたことを、一例に挙げれば十分であろう。
 自然は敵にも味方にもなりうることを賢く学ぶことによって、人類は今日の繁栄を成し遂げたのである。そして今日あまりにも自然を痛めつけたことを反省して、自然に対して寛大に、フレンドリーにさえ振舞おうというエコロジーの風潮が、実は自然は人間にとって最も恐ろしい敵であることを忘れがちにさせてきたのである。その結果が今度の東北大震災となって、日本にとっては甚大な被害、世界にとっては忘れていた人類の宿命に対する震撼を与えたのである。
 1896年の東北地方を襲った大震災によって2万人以上の生命が奪われて以来、三度目の今回の東北地方の震災に当たって、まるで歴史の教訓は皆無であったかのようである。この間のいかなる科学技術の発展も、地震科学の進展も、人命を保護することにおいてはまったき無力であったのである。
 日本人は太古からあらゆる自然災害に見舞われてきた民族である。とりわけ地震・津波はその最たるものであった。これが頻繁に洪水に見舞われた古代シュメール人の場合と同じように、無常観と、長いものには巻かれる無力感とを、民族の性質として刻印してきたのである。しかしシュメール人は、同時に自然との闘いをあきらめなかった。ジグラトという神殿と洪水からの避難所をかねた巨大なピラミッド状の建造物を築いたのである。この五千年前の人類がなしたことを、今日の科学技術をもってすれば、数十倍の規模で可能であったであろう。
 問題は科学技術ではない。人類にとって何が大事かという根本の認識の誤りである。20世紀から今世紀にかけては、人類同士が自然災害以上のとてつもない犠牲者を生み出してきた時代である。広島やアウシュビッツや、あらゆる戦争の犠牲者に比べれば、自然災害の犠牲者の数は小さく見える。しかし衝撃は戦争以上のものがある。それは人類が数百万年前の祖先以来、最大の敵としたものの存在を思い知らされるからである。その敵の前では人類は団結していた。
 明治以来、日本は自然災害よりも他国と争うことにかまけてきた。戦後においても経済復興の名において、自然災害よりも世界との競争にかまけてきた。さすがに戦争の敗北からは多くのことを学んだが、根本において人類同士の争いや競い合いに全勢力を集中してきたことに変わりはない。その結果自然災害については、この100年間に何ら有効な防御手段を講じてこなかったといってよい。おまけに、公害問題や地球環境問題が自然に対するロマンティックな被害者意識を植えつけることによって、自然の真の恐ろしさを薄れさせていったのである。
 ジェフリーズが言うように、「自然界には何ら人間的なものはない」。自然は反人間的である。それに対する警戒を怠った時、人間は大きな不合理な力によって圧倒されるのである。人間は自然の中に生まれ、自然によって育まれながら、自然を敵とするほかはない存在である。日本人は、一部のエコロジストが讃美するように自然と調和して生きてきたのではなく、自然を克服する努力の過程で、少しずつ可能な範囲で自然を馴致してきたのである。
 この自然を克服するという課題が忘れられる時、自然は思いがけない凶悪な相を見せるのである。それはどこぞの愚昧な首長が言う‘天罰’などではなく、政治の罪であり、教育の不備であり、生命や生活よりも利益を優先し追求する経済システムの結果である。
 
 「大昔から、日本の海岸は、数世紀の不規則な間隔をおいて、とほうもない高波に襲われてきた。地震や海底火山の活動によって引き起こされる高波である。これらの恐るべき、突然の海水の上昇を、日本人は津波と呼ぶ。最近の津波は、1896年6月17日の夕方に起こった。その時ほぼ二百マイルにわたって、東北の宮城、岩手、青森の諸県を大波が襲った。幾十とない町や村が破壊され、全地域が壊滅し、およそ三万人の命が失われた。」(小泉八雲「生き神」より)
 
 百年以上も前に書かれたことを、テレビで目の当たり再現されて見ることほどの衝撃はない。日本人の粘りづよさ、忍耐力が、こうした災害との闘いによって鍛えられたものである以上、復興は早いであろう。それにしても楽天的な民でもあったシュメール人から、今こそ学ぶべきであろう。彼らの築いたたジグラト(=バベルの塔)を今日の技術でもって築くことはさして難しいことではなかろう。
2011年2月8日(火)
人生の設計その2

 親の職業を継ぐ、あるいは親と同種の職に就くということは、封建時代は当たり前として、現代でも珍しくないのは、親との間がうまく行っている限りにおいて、子にとっては一番分かりやすい生活の手段であるからである。かつては家庭が職業教育、または社会教育を担っていた。子は親の仕事または職業を見ながら、おのれの将来について考えたのである。親の生業に対し、肯定するにせよ、反発するにせよ、身近な唯一の職業教育として、人生の設計の出発点となりえたのである。しかしこれがうまく機能したのは、理想的な家庭においてだけである。
 過去においても現代においても、親は必ずしも自分の職業に自信や誇りを持っているわけではない。それによって歪んだ職業観や、社会意識を子供に植え付けてしまうのである。子供には自分の余儀なくされている職にはつけたくない親もいるだろうし、全く語りたがらない親もいるだろう。子供は親が何をしているかも知らず、お金はどう入ってくるのかも知らずに、社会的に無能なままに成長する。無能なままに社会に出て挫折をくり返す。挫折しないまでも、自己の人生に意義を覚えないままに一生を終わる。
 親を見て職業を決められる幸福な子供ばかりではない。子供に一生の設計を準備させるのは公教育でなければならない。それはパイロットになるとか、宇宙飛行士になるとかの空想や、ましてや偉人になるとか、愛国者になるとかの単なる理想を植えつけることではない。生活は現実であり、現実の社会を客観的に見る目を培わせることである。ドイツの教育制度では、子供はすでに中学校の段階で、将来の職業選択を強いられるそうである。もちろん小学校でそれなりの社会教育、職業教育をへたうえでの選択であろう。
 早くから職業教育や職業選択を子どもに強いることには、早々と子どもを挫折させることになるという反論もあるだろう。あらゆる職業が平等であるならば、即ち社会的に同等の見返りが保障されるならば、現今の格差社会が生み出すような挫折感は生じないだろう。大学教授も煙突掃除人も、基本的には同じ報酬が保障される。職業選択は競争ではなく、単なる能力別配置であるべきだろう。職業教育はこうした社会保障と同時に進められるべきものである。
 そうした社会保障のない単なる競争社会では、確かに早期の職業選択は、人生において早期の挫折をもたらすであろう。現今で可能なのは、そうした社会の実態を職業という最も現実的で、最も基本的な社会的営みをとおして教えることである。それは早ければ早いほど良い。矛盾を矛盾のままに教えることによって、それに対する抵抗力を培わせねばならない。社会的に生きようとする限り、あらゆる人間が泳いでゆかねばならない生活の荒波を、子供のうちから少なくとも知識として与えておくべきである。

2010年12月11日(土)
人生の設計

 近頃の小中学校では、将来の職業の選択を考えさせる授業が行われるようになったようである。特に中学校ではアルバイト体験を授業に組み入れている。かつて学生は勉強さえしていれば、教師からも親からも褒められた時代から、少しは進歩したようである。
 もちろん小中学校で職業教育をすることに関しては、いまだに反論は根強いであろう。かくいう筆者も、中学時代で一番辛い体験は、煎餅屋で好奇心から一日働いた体験である。一と月ほどは煎餅を食べる気にならなかった。とはいえ、小中高生を実社会から完全に隔離してしまうかつての教育が、いろいろなゆがみを人格に及ぼしたことは疑いがない。初めて社会に出た時の違和感とショックは、限りなく大きいのである。
 勉強ができて褒められるのは学校にいる間でのことである。こんなことですら社会に出るまでは気づかずにいる人が、いくらでもいたであろう。社会で求められる勉強は、実務的な、もっぱら生活の向上のための勉強である。そうしたことは確かに義務教育で教える必要はないかもしれない。しかし選択する可能性は与えられねばならない。
 人がどのような人生を生きるかは、その人の自由な決断によって決まることである。しかしどのような人生を生きるにせよ、のたれ死にを選ぶのでない限り、それを支えるのは生活である。少なくとも現代社会においては、人生の理想と生活とが一致することはまれである。一方では自分の人生の理想があり、他方ではそれを実現し支えるための生活の糧をえる仕事が必要である。
 この人生の二重性を教育は教えるべきである。私の人生は私のものであり、それをどう生きるかはすべて私にかかっている。しかし、私の人生を生かすためには、この社会の中でそれを支える生活をいとなまねばならない。一方はもっぱら個人的な課題であり、他方はそれに関連した社会的な課題である。教育は長くこの二つを混同してきたのである。民主主義と称する西欧の制度や経済を物まねしながら、この根本の個人主義を無視してきたのである。
 例えば、道徳教育などというものは個人に向けられてはならないものである。個人の生き方は個人が決めるものであり、道徳などが関与すべきものではない。もし道徳が必要であるならば、それは個人が社会の中で生活していくための心構えやルールの問題であるべきだ。特に生活にとっての最低条件である社交性を培うことにしぼられるべきであろう。基本的に、社会の中で生活していくことは、何らかの意味で人のためになる仕事、一般的にいえば需要のある仕事をすることである。少なくとも人が何を求めているかということへの関心がなければ、仕事は成り立たないのである。これが生活のために最小限必要な道徳である。
 もちろん道徳などは必要ないと言う反論はある。他人のためを考えない金儲けの方法はいくらでもあるだろう。投資や投機やギャンブルや詐欺など、それでもって生活を成り立たせている人や企業もあるだろう。しかし一般的に成功率はごく低いのである。教育はまず着実な生活の方法を教えるべきである。その上でリスクのある投資などを教えるのも良いだろう。
 職業教育=社会教育はあくまでも手段であることを忘れてはならない。社交性を強調するあまり、個人の人生の自由を無視してはならない。学校の中でのいじめは、その弊害の一つであろう。集団からのけものにされることが、自己の存在の否定と感じられるような雰囲気作りを社会教育が生み出すならば、根本が間違っているのである。個としての人生はいかなる集団からも独立した唯一絶対のものである。この民主主義教育の根本から離れてはならない。その上で生活の手段を教えるべきである。
  *       *         *
 最近の高校生や大学生のアルバイトの明るい応対に接すると、上に書いたようなことはもはや老婆心に過ぎないのかもしれない。学校と社会とは少なくとも学生の意識の中では、かつてと比べて限りなく接近しているようである。その点に関しては、未だに社会的不適応の筆者には羨ましい限りである。

2010年9月5日(日)
旧東海道をてくる(2)

 去年につづいて、この夏の終わりに旧東海道をウォーキングする計画を立てた。もっともスケジュールそのものは同伴者に委ねたので、一日で20キロ歩くという予定には少々体力に懸念があった。今年の夏の暑さは尋常ではないので、8月の終わりとはいえ、真夏と少しも変わるところはなかった。一日目は、出発点の島田へ着く前に、富士川や静岡で途中下車をした。炎天下の富士川河畔では、案のじょう富士は夏雲に隠されて、いっ時その稜線の一部をかいま見ただけであった。初めて下車した静岡では、駿府城へ向かった。再現されたまだ真新しい城門をくぐると公園になっている。城というよりも城跡の公園である。

島田から大井川を越える
 島田で一泊して、翌朝、ホテルのすぐ近くの旧東海道を西へ歩き出した。ガイドブックでそれと知らなければ、どこにでもある往来である。日ざしは早くも強烈で、なるべく陰のある側を歩く。先ず大井神社へ寄る。池や庭のたたずまい、馴致された樹木が、街道を行くウォーカーには一時のくつろぎとなる。寺社は、旅人にとっての公園に代わる、昔からのパブリック・ドメインと言える。
 20分ほど歩いて、車通りをそれ、平日のためか歩く人のまるで通らない裏道を行くと、再現された渡し場の宿が両側に並ぶ、川越遺跡に出た。人足たちの詰め所と宿とをかねた平屋の家である。その先の博物館で休憩かたがた、川越しの歴史をジオラマで学ぶ。そこを出て、大井川にかかる現代の橋に向かう。歩行者・自転車のための橋が車道の横に取り付けられている。
 橋の上から東西南北を眺めわたすと、南の一角を除いて、低山や丘陵で囲まれた巨大なアンフィシアターをなしている。目ざす西の丘陵の斜面のあちこちに、杉林と交錯して開けているのは茶畑である。空には夏雲がわき、秋の気配はまるでない。雲から日が出ると、橋下からいかにも夏らしい草いきれが立ち昇ってくる。大井川そのものは、裸になりさえすれば、どこからでも渡れそうである。かつて、そうした不心得者をどうやって防いだことであろうか。
 橋を越えると、大井川鉄道が道と交差していているので、新金谷駅へ行き、金谷までの行程をはしょることにした。ちょうど黒い車体のSLが入れ違いに到着して、どこやら山奥へと向かうらしいその列車に乗り換えたいような羨望を覚える。金谷まで丘を登るローカル鉄道の数分の旅は、しかし眺望と言い、山肌を登る面白さと言い、申しぶんのないものであった。
 
金屋から小夜の中山へ
 金谷は丘の中腹にある東海道線の駅で、ホームの先にトンネルが見えている。旧東海道は線路下を抜け、上りの勾配のくねった道に変わる。もともと余り人の通りそうもない田舎道であるし、時々車とすれちがうほかは、炎天下の昼下がりを歩く人影はまるでない。  金谷坂の石畳に差し掛かるともはやハイキングである。江戸時代の盗賊日本左衛門がたむろしたという庚申の祠や、滑らず地蔵を過ぎ、石畳を無事登りきると、再び日ざしの強烈な台地に出る。諏訪原城跡の林の中で、ひと涼みし、菊川坂石畳のとっぱなに出る。先を見ると、どうやら丘陵また丘陵の中を旧街道はくねくねとつづいていくようである。石畳の横には舗装路が並走していて、せっかくの石畳をわざわざ歩く人は少ないと見えて、草が繁茂している。そこをあえて下りてゆく。
 間
(あい)の宿である菊川の里まで石畳はつづいている。去年の薩た(土へんに垂)峠越えでも実感したが、旧東海道は街道とは言え、山また山の地域ではハイキングコースとさして変わらない。昔の旅人はハイカーでもあったわけだ。山もしくは丘は、ほとんどが茶畑であり、杉林が間に点在している。茶畑と林業によって馴致された里山なのだ。とは言え、強烈な夏の日ざしの下で見るこれらの緑は、体の芯から nature をかきたててくれる。
 菊川の宿を抜けて、道は呆れるほどの急勾配でまっすぐに丘をのぼって行く。いよいよ小夜の中山越えである。坂の途中で立ち止まって、茶畑の小山と暑さを忘れて向き合う。今回の旅で唯一残る記憶があるとすれば、この瞬間であろうと思われた。
 小夜の中山の西行の歌の石碑は、道の左手にさり気なく現われた。現われ方はさり気なかったが、石碑そのものはいかにも現代風に大仰であった。公園と称する林の中で、しばしとてやすらい、茶畑の間の道を日坂の宿へと下った。路傍にはいくつもの歌碑や句碑があったが、それを見るのは同伴者に委ねた。国道1号沿いの日坂に着くと、さすがに疲労を覚え、事任
(ことのまま)八満宮まで来るとバス停を見つけ、ことのままに残りの行程を断念した。掛川までの2時間の行程を、バスは20分ほどで運んでくれた。
 ひとの手によって馴致された自然とは言え、昔の街道沿いには、季節ごとに変化する風景や、景観や、田畑や、林や、山岳や、川や、海が寄りそっていた。それらをパノラマのように展開してくれるのが、旧街道ウォーキングの魅力であることを、今回も知った。

 (画像:左=大井川、中=金谷坂石畳、右=菊川坂石畳)

2010年2月1日(月)
インターネットの世間

 インターネットはただ情報を得るために用いるだけならば、特別にそこに世間を意識して構える必要はないであろう。新聞やテレビ・ラジオや手紙が発達したものと見なせばよい。もっともそこにも一方向ではない、様々な問題が起こりうる。セキュリティーやプライバシーの問題や、隣国でのように検閲やサイバー攻撃などということがありうる。そもそもパソコンやソフト自体がけっこう油断がならない。思わぬところにプライバシーの落とし穴というか罠があるのである。こうしたことは紙媒体や、テレビ・ラジオでは起こらないことである。そこでは安全に世間を観察することができる。インターネットという世間と関係するには、少なくともセキュリティーやプライバシーに関してそれなりの安全対策を講じることが、第一歩である。
 それにしても
、単に情報を得たり、買い物をしたりするだけならば、世間との表面的な関係に過ぎない。単なる便宜であって、世間と呼ぶに値しないであろう。世間とはゲマインシャフトやゲゼルシャフトといった概念に含まれるところのものである。インターネットの世間とは、インターネットが生み出したゲゼルシャフト(ソサエティー)のことである。これを可能にしたのがインターネットの双方向性であることはいうまでもない。
 インターネットの世間即ちソサエティーの一番の特徴は、その匿名性であるといえる。匿名の人々が集まり、一つのソサエティーを作るということは、かつては特殊な結社以外ありえなかったであろう。ここでの匿名性は、単に名がないというだけでなく、顔もなくてよいのである。場合によっては特定の人格すらなくて良いのである。一般社会において必須の要素であった、名前・顔・人格といった個人の基本的条件が、インターネットの世間ではほとんど問題にされずにすむのである。このことをポジティヴに考えて見たいと思う。
 実社会では個人が何らかの自己主張をするためには、つねに個人の置かれた様々なシチュエーションが拘束となっている。地位や身分や職業や年齢差や貧富の差などはもちろんのこと、性格や能力や知識量の違いにいたるまでが、個人を圧迫する。名前や顔や人格評価といったものは、いわばそれらの個人別ファイルのインデックスのようなものである。実社会では、公的・私的に管理された状況の中でなければ物が言えないようになっているのである。言いかえれば、発言の権利が社会的に、もしくは集団内で認められるためには、広い意味での何らかの権威が備わっていなければならないのである。もしくは何らかの権威が付与されなければならないのである。学習者でない限りは、社会の中での発言は、必ず相手からの権威の譲歩によって成立するのである。
 こうした実社会での約束事を破壊したのが、インターネットである。もちろんインターネットの世界に権威を持ちこもうという試みは、全体主義社会でなくても、それによって成り立っている商業主義によっても盛んである。権威主義者が最も恐れることは、こうした無名者の社会のいわばアナキーな状況が実社会にまで浸透してゆくことである。場合によっては、もっぱら権威の上に成り立っている国家や宗教が根底から揺らぎかねない。一民間企業であるグーグルが、国家検閲に対して挑戦状を突きつけたのも、その内実はどうあれ、インターネット企業であるから可能であったのだろう。
 無名者の社会を結び付けている一つの手段が検索であるならば、権威主義者の攻撃や、籠絡もそこに向かってくる。彼らはそもそも個人としての無名者を恐れているのではなく、無名者が一つのまたは無数の、無名の社会を作ることを恐れているのである。商業主義は、その無名社会を穏やかな囲いの中に用意する。SNSや仮想空間がそれである。人々は‘安全’に自由な交際や発言を楽しむことができる。

2009年12月7日(月)
詩人を名のる(K)

 かつては詩人はシャーマンと同じ特殊精神の持主であったようだ。シャーマンの候補者はコミュニティから逸脱した変わり者として注目され、適当な時期にシャーマンの後継者に選ばれ、最終的に原始社会の中で一定の役割を与えられた。森や自然の中での孤独な徘徊、奇矯な言動、病的発作などがシャーマン候補者の資格であった。シャーマンは同時に伝承や物語の語り手でもあった。シャーマンが出入りする夢や祖霊の世界などの異界は、未開社会にとっての知識の宝庫でもあった。シャーマンはトランス状態において、異界の事情を言葉によってこの世界にもたらしたのである。無意識界から発現する夢や祖霊の世界と言語とは、どこかそのメカニズムにおいて共通の根を有するようである。言語もまたその発生において、大いに無意識のメカニズムに依存している。シャーマンは新しい言葉、あるいはひょっとして言語そのもののの創造者でもあった。
 このシャーマン=詩人はれっきとした社会の成員であったばかりか、時にはその社会を代表する存在であった。異界と交流する特殊な精神能力を持ったシャーマンが、精神異常者として社会から排斥されず、社会の中心的存在ですらありえたのは、未開社会そのものがその精神の半分を異界の想像によってどっぷりと浸されていたからである。異界が現実界としだいに分離されていくことによって、シャーマンの価値も影響力も失われていく。もはやシャーマン=詩人は社会的役割を終えたのである。
 シャーマンの末裔である詩人は、シャーマンの精神的特徴を色濃く残している。社会のその他の成員との不協和、孤独癖、異界への並外れた関心もしくは感受性、これらは今日では詩人の社会的不適応の原因となっている。シャーマンは今日では精神異常者もしくは詐欺師に等しいものと見なされ、詩人はたいていは無害である点において夢想家もしくは現実不適応者と見なされている。現実不適応者である点において、詩人は既に職業としては成り立たないのであり、詩人を名のることは現実社会において無能者であることを宣言するようなものである。実際にたいていの詩人の生活は、無能者でなければ性格破綻者のそれである。あなたは詩人ですねと言われて傷つく人がいるのは、そのためである。
 シャーマン=詩人に現実を突きつけてみても無意味である。かつてのようにトランス状態において異界と交流するまでには至らなくとも、彼らにとって夢や想像や憧れや理想が真の世界であり、たいていの人間が営んでいる現実などと言うものは無くてもよいものであるから。かりにおせっかいな人が詩人に対して現実こそ真の世界であると納得させたところで、,その失望と落胆は鬱病をもたらし、彼らの精神を更に不安定にさせるだけのことである。現実離れした希望や、想像や、空想こそが彼らの生きる原動力なのであるから。
 こうした詩人が生活する場は、現代社会においては与えられていない。食らうべき詩などと言う勇ましい企てに耽ったのは啄木であるが、詩と食とはミシンの上のコウモリ傘ほどに無関係な事柄である。詩人が詩を営む場は、かつてのシャーマンと同様に異世界とつながる言語空間である。しかし現代人の暮らす世界にはもはや異世界の入りこむ余地はない。誰もがサンタが存在するかのようにふるまっているだけである。かのようにふるまうだけならば、たいていの現実的人間も許容するであろう。おまけにそれが商業的利益をもたらすならば、いかようにもふりをするであろう。詩人だけがそうしたふりのできない不器用な人間なのである。
 パソコンや携帯電話が普及した現在、仮想現実という一見現実と対立しているかのようなゲーム世界が流行している。あたかもかつての異界に若者たちが捉われ出したかのようである。しかしそれがコンピューターと言う器械によって作り出された世界であることは、だれもが知っている。その仮想世界に参入するには、器械を扱えることと、与えられたルールを心得ることなど、誰にも開かれた条件で済む。言ってみれば現実の中の現実の模写である。異界との交流はシャーマン=詩人だけに可能であった。彼らはそれを言葉によって追体験させたのであったが、その体験そのものは俗人には開かれていなかった。
 現代の若者たちが、シャーマン=詩人の原体験にもとずく言葉の仮想空間ではなく、コンピューターの作り出した擬似体験である仮想現実に圧倒的に捉われていることは、詩人の存在をますます稀薄にしている。詩人は絶滅危惧種であり、いずれは詩も詩人も死語となるかもしれない。しかし朱鷺と同じように保護されることによってまで、詩人は生き延びようとすべきではないであろう。滅びの運命を身に担いつつ詩人を名のるべきであろう。 

2009年11月21日(土)
旧東海道をてくる(K)
田子の浦から吉原へ
 東海自然歩道を歩くことと富士山頂に登ることがウォーカーとしての長年の目標であったが、だんだんに気力が萎えてきて、その妥協策として旧東海道の見所を歩くのが楽そうだという所に落ち着いた。以前沼津からの海岸の松林を歩いたことがあったが、その先の旧東海道を、田子の浦から歩いてみようということに決した。富士を見るには秋から冬にかけての晴天でなければならず、時季はよし天候だけが気がかりであったが、先月半ば過ぎの当日はよく晴れてくれた。旧東海道自体は今では変哲もないアスファルトの自動車道であり、両側にはどこの街路にも見られる店舗や住宅が並んでいるにすぎない。所々その隙間に忽然と富士の姿が現われる。初めてここが駿河湾沿いをゆく東海道であることが、驚きをもって意識される。もちろん、かつては家並などがほとんどない田畑の中の道であったから、こういう驚きは現代人のものである。明治の初め頃までの旅人は、富士とともに旅をしたのである。
 心ゆくまで富士を眺めるには街道をそれねばならない。まず海岸へ向かって折れてみた。沼津からの松林はここまでもつづいていて、残念なことにコンクリートの堤防の上からも富士を望むことはほとんどかなわない。わずかに松の梢が低まったところにちいさく顔を出している。南の駿河湾の海は昼の陽ざしに照り映えている。東海道が海沿いの道であることを改めて確認して、もとの街道に戻り、今度は北へよぎって東海道線の線路を越え、工場の空き地などが広がるところへ出る。ここに出て初めて富士とまともに対面できた清々しさを感じた。このような富士とともに、古代から旅人は東海道を行き来したのである。
 「渡る日の影も隠らひ、照る月の光も見えず、白雲もい行きはばかり」――
赤人のいかにも宮廷歌人らしい誇張気味の panegyric(讃辞)が自然と浮かんでくる。古代から変わらないであろう、流麗な単純さと、四時に、また一日の間にも変化する様相とは、現代人にも同じインスピレーションを与えつづけているようだ。それは自然界の偉大さに接する時に、どう否定しようもなく単純に感動を強いる力である。それを告白することは、それを自分自身に認めることすら、近代人には羞恥感を伴う。あまりにも自然から遊離し、自然を克服し、支配したつもりでいる近代人には。
 「素朴な、自然なもの、したがって簡潔な鮮明なもの、そいつをさっと一挙動でつかまえて、そのままに紙にうつしとること、それよりほかにはないと思い、そう思うときには、眼前の富士の姿も、別な意味をもって目に映る。この姿は、この表現は、結局私の考えている『単一表現』の美しさなのかもしれない。と少し富士に妥協しかけて、けれどもやはりどこかこの富士の、あまりにも棒状の素朴には閉口しているところもあり、これがいいなら、ほていさまの置き物だっていいはずだ、ほていさまの置き物はどうにも我慢できない、あんなもの、とても、いい表現とは思えない、この富士の姿も、やはりどこかまちがっている、これはちがう、と再び思い惑うのである。」(太宰治「富岳百景」より)
 富士もまた置き物として観賞すれば、布袋さんと選ぶところはないのかもしれない。しかし芸術家はまず、富士を芸術にしようとする前に、眼前に見るありのままの富士に感動したことであろう。そこから得るインスピレーションは芸術に限らず、人生の全般にわたったことであろう。子供の頃から富士を見る清々しさは、青空を見る清々しさと似かよった気持ちの解放を感じさせた。どこまでも単純に大きさや広がりを感じさせるものが、自然界に対する驚異の出発点なのである。青空や富士は常にそのことを思い起こさせる。
 同伴者の趣味に合わせて、街道沿いの神社や寺に道草をしながらゆっくりと歩く。橋の上から、山門の上から、坂の上から、至るところで富士を望みながら、やがて夕暮れ時に、旧街道は北へ折れ、吉原の宿へと向かう。夕景のせいばかりでなく、富士は目に見えて大きくなるようだ。正面にうすく紫を帯びて幻のように聳えている。それに向かってまっすぐに歩いているうちに道を間違えたが、かえって広々とした工場地帯の森閑とした夕暮れ時を富士とともに歩む寂寥感は、旧街道にはないものである。旧街道へ戻り、いっ時左に富士を見る左富士を過ぎ、やがて左に折れて夕暮れの侘しい街を行くと、突如としてまばゆいアーケード街に入る。この今では普通の商店街である吉原の宿に、江戸時代から一軒だけ残された旅籠にその夜は泊まり、翌朝宿のご主人の火打石!に送られて、次の行程に向かう。
由比から峠を越え興津へ
 二日目の目標は薩た(土偏に垂)峠であるが、体力と時間に限りがあるので、岳南鉄道という一両きりの電車で東海道線へ出、由比までゆき、そこから駅前の旧東海道を西へ歩き始めた。ここまで来ると、富士が小さく遠ざかる心細さを覚えるが、駿河湾の東端に望む富士は笠雲をただよわせて、海の広大と一対をなしている。旧東海道は、海に突き出した岬のような山の峠へと向かう、趣のある街路へ入る(写真右)。右手には山、左手には海に挟まれたこの狭い街路の両側に並ぶ家々は、江戸期のものではなかろうが、どことない時代色がある。旧街道には、こうした時代色のノスタルジーを感じさせる民家などが、所々に見かけられるのである。その中で、これだけは江戸期以前から続くという望岳亭に寄り、品のよい老婦人から説明を受けた。座敷から望む駿河湾は青みを帯び、首を伸ばして左手を見ると富士が小さく見えた。眼前には国道一号線、東名高速、及び東海道線という、近代の騒音がかまびすしい。東名高速によって砂浜が見えなくなったが、沖では昔ながらの置き網漁が行われているという、老婦人の淡々とした話し振りであった。この街道だけが変わらないでいるのも、海と山に挟まれて、発展の仕様がないことが幸いしたとも。
 望岳亭を辞していよいよ山道にかかる。坂の途中で振り返ると、富士がせりあがってきた。海岸の水の色も緑を帯びている。立ち止まっては振り返ることをくり返しながら、やがてハイキングコースに入り、広重が描いたという駿河湾と富士を一望できるポイントに来る。西から下る旅人はこの辺で初めて富士を目にし、はるばると東国へ旅する感慨に打たれたことであろう。東から西へ上る者は、富士と最後の別れを交わしたことであろう。そこを過ぎて、道は海岸から遠ざかり、初めて近代の騒音から解放された山道の静けさの中を、興津へと下ってゆく。
 興津では、旧街道はなぜか北へ迂回し、里山の風情のある町外れの街路を抜けて、南へ戻る。かつて渡し場であった橋を越えて、しばらく行った先の清見寺を終点とする。修行の部屋なのであろうか、広々とした畳敷きの部屋の隅に坐って、裏庭を眺めながら疲れをいやす。血なまぐさい戦闘に明け暮れる戦国の武将も、明日知れぬ我が身の一時のいやしを、このように静寂な空間に求めたのであろうか、そんな空想に耽りながら、時を忘れている。