夜男爵の部屋
第9夜 夜の中心への旅
余近頃、ハワード・クロフト(羽和戸玄人)氏の長編小説の草稿をを読む機会を得、なにがしかの感銘を受けしことあるによって、一言評して、その一部なりとも掲載したく思えリ。全十章からなれる本作は、半ば自伝的と思われるフィクションならん。各章出来不出来あり。作者の小説を書かんとする情熱のあふれるはよし。技術の足らざるを補うところあらん。思うに、全体としては若書きの失敗作ならんか。かく厳しきことを言えども、その熱く悩める文章の、若き魂に迫るところ必ずやあるべし。読む人、自ら判ぜんことを。(B.N.) |
夜の中心への旅・第一章 ハワード・クロフト 作 <夜>という名の魔王の 黒い玉座に厳(いかめ)しく統(す)べる ただ悪霊ばかりがゆきかう 暗くうら寂しい道をへて 私は近頃のこと 北の果ての幽冥の国トゥーレより 故郷(ふるさと)に舞い戻った ――E.A.ポオ T 夜の香り 玄人(くろと)はふと眠りを破られた。胸の中をどす黒い影が過って、玄人の心を睡神の領域に居たたまれなくした。影はどこからとなく現われ、胸の中で次第にふくらみ、ぐんぐん黒い雲のように、夢の視界を覆い尽くして行った。玄人は出口のない洞穴に閉じ込められ、得体の知れない物の怪が、どろどろと渦巻く影の中から恐怖の形を現わすのを、追いつめられた獣のように慄き、待ち受けていた。その不安の余りの大きさに、夢の中の玄人は意識のヴェールを突き破って、覚醒(うつつ)の世界へ戻ったのである。玄人は薄っすらと額に汗の玉を浮かべていた。夢の中の洞穴で聞いた、ヒタヒタという音とも感触とも知れない感覚が、まだそこらへんに漂っているような気がした。 玄人は耳をそばだてた。隣の部屋に寝ている女の気配をうかがった。何か足音を聴いたように思ったのは、そしてその足音が玄人のうつらうつらしている意識に侵入して、心の奥底から黒い影を喚び起したのは、きっと女が手洗いにでも立ったからであろう。玄人は安楽椅子に眠りこんでしまい、固くなった体を半ば起こした。腹の上には読みさしの本が、手から落ちたままに乗っていた。体は疲れていたが、眼は妙に醒めてしまい、神経は冴え返っていた。こんな時には家の中のどんな小さな物音も、手に取るように聞こえるような気がした。静かな夜更けだった。耳鳴りの外には家の外からも、内からも、どんな物音も聞こえてこなかった。黒い夢から醒めたばかりの玄人には、この完全な静寂が急に不気味に思われてきた。いまにもこの静寂を破る得体の知れない物音を聴きはしないかという、感覚の過度の緊張に身をこわばらせた。体中の毛は一本一本繊細なアンテナのようにピリピリ顫えて、空気にひそむものの気配を伝えていた。眼は渦巻いている暗黒の粒子を眼じりにとらえていた。迷信的な不安は加速度的に増していった。 玄人は身動きしようとした。体からまといつくような不安を払い落とすことで、理由(いわれ)のないパニックを遠ざけようとした。だが身を動かしたとたんに、胸の中の黒い恐怖のかたまりが重い油のように揺れて、一層の戦慄と麻痺が身内を走るのだった。肺は息をすることを忘れたように停止し、ために心音の轟きがひときわきわだって、胸郭に谺した。玄人は身を動かした隙をねらって、黒い魔の群が部屋の隅々の暗がりから、また背後から、自分を目がけて一斉に飛び立ったような気がした。低い呻きが玄人の口唇から洩れた。 だがその自分のものとも思えない、瀕死の魂からしぼりだされるような呻きが、まだ耳の中に消えやらぬうちに、それに答えるかのように、今度ははっきりと玄人のものではない呻きが隣の部屋から洩れてきた。 玄人は金縛りにあったように体中から力が抜けていくのを覚えた。いくら意志をふりしぼっても、もはや指一本動かせまい気がした。濡れた真綿のような恐怖が体中に詰まっていた。と思うと、突然瘧のように体中が顫え始めた。まるで自分一人に地震が襲ったように、堪えようもなくこの肉と骨のかたまりが痙攣した。恐怖というものは不思議に感染するものである。隣の部屋の女が玄人の呻きにあわせて、獣のようなおびえの呻きを発した時、玄人のあらゆる意志の抵抗はもろくも潰えていた。 女の呻きは続いていた。魂の最奥からむりやり絞りだされるような、その嗄(しゃがれ)た唸りは、女のものとは思えなかった。玄人は襖一枚へだてた隣の間にいるのは、いつものおよしではなく、人間の理知の光のもはや照らすに耐えない夜の怪物に変わり果てている姿を想像して、なおのこと兢いた。だが玄人が顛えたまま身を堅くしていたのは、その間無限のように思われたものの、わずかの間だった。理性と常識がしだいに頭をもたげて、玄人の手足を呪縛から解き放とうとしていた。魘されている女の苦しげな呻きは、かえって彼自身の子供じみた恐怖をいくぶん払い落とした。もしこのまま放っておいたら、およしは本当に夢魔のために、どこか戻りようのない場所へ連れ去られてしまうのではないか――懸念がはじめて玄人の心に涌いた。玄人は自分のものでないようにぎごちない手足に力を入れて、椅子から立ちあがった。足元がふらふらして、眼がかすむようだった。<およし!>と呼びかけてみたが、咽喉は堅くこわばって、音を堰き止めていた。そのまま柱にもたれこんで、、間の襖を開けようとしたが、指先がなかなか言うことを利かない。 すると女の呻き声が急に低くなった。と思うとぱったり止んで、深い沈黙が再び思いだしたように夜を領した。がそれも束の間のことだった。あの魂を絞る深い唸りとはうって変って、今度こそ本当に玄人の骨の髄まで凍らせるような無邪気な笑い声が、女の部屋から洩れて来たのである。何か幸福な夢を見ている童子のそれだった。その笑い声にはこの深夜の静寂の中で、しかも夢魔に魘されたあとにしては、ひどく不自然なものがあって、ほとんど超自然的ともいえる冷たいものを玄人の背筋にあびせたのだった。恐怖のあまりの緊張の中で、女の中の何かがプツリと切れてしまったのに違いなかった。玄人は石像のように硬直したまま、襖を開けることも忘れてつっ立っていた。 すると今度はその笑い声に混じって、荒い息づかいが聞こえてきた。せっぱつまったようなその短い息の連続が何を意味するものであるかを、玄人は良く知っていた。同時に、鼻にかかったような甘ったるい呻きが、今度は恐怖とは正反対の感覚をはっきりと告げ知らせていた。魂を押しつぶさんばかりの夢魔が、いつの間にか肉体的な悦楽に揚棄される、恐怖とエロスのあの微妙な弁証法の瞬間に、今、玄人は立ちあっているのであった。玄人の緊張は一瞬やわらいだ。この世ならぬ次元の感情から、あまりに人間的、現世的情動への転瞬の墜落は、心ならずも玄人に安堵の息をほっと吐かせかけたのである。が、玄人の心に湿った綿のようにずっしりと沈んでいる、恐怖のにじみだす沼のような感情の凝固(しこり)は、少しも揺さぶられはしなかった。 玄人は依然として四肢を棒のように硬直させたまま、しきりの襖の前にたたずんでいた。襖に触れた指先からピリピリと電気のような気配が、隣室から伝わってくるようだった。あらゆる恐怖はその指が襖を開ける瞬間に凝集されていた。その行為によって魂は突然無防備のまま、闇の中からふいに煙のようにわいてくる得体の知れない黒い腕によって、咽喉元をつかみかかられるのである。人間の魂がこれほど取るに足らない存在であろうとは・・・。闇に怯える小児そのままに、ただ正体の知れないものと襖一重で向き合っているということのために、心は鍵のかからない扉がいくつもある狭い部屋に追いつめられて、素手のまま刺客を待っている、ただもうむやみに小心な盗賊のように、前後を忘れて慌てふためいている。 玄人は張りつめた弦のように、五感を引き攣らせていた。耳は遠い地の底の営みにまで、そのかすかな振動をあやしく聞きとっていた。眼は空気中の光の微細な粒子からちょっとした油断をねらって形を取ろうとしている、呼ばれもしない異形のものの姿を、絶えず振り払わねばならなかった。皮膚は――皮膚の感覚はもはや肉体から離れた、一個の独立した感覚の塊だった。ともすると、それがおのれ自身とは別の存在に思われた。すでに肉体の領域より伸びあがり、ふわふわと漂いだすかと思われた。鼻は――鼻は湿ったカビの夜の異臭を嗅いでいた。 夜に匂いがあることは、夜の住人のよく知るところである。それは本をただせば大気の熱量の変化や地の吐息の知覚であり、空気の微粒子や水蒸気のたゆたいに外ならず、建物や植物の吐くやめる溜息に過ぎないものであろう。だがいつかそうした夜の香りは、深夜に目覚めている者の意識を染色し、あたかも夜そのものの実体から漂い出てくるように知覚されるのである。玄人は古家の吐く夜の異臭を、一瞬ひときわ鮮やかに嗅覚に甦らせていた。そのあえかな香りはとらえ所のない連想を生みだし、空間と時間の遥かさの中に玄人の思いを運び、その一瞬に恐怖を逆転してほのかな憧憬に変えていた。その遥かさはあたかも<時>そのものが朽ち果て、そのふりつもった埃が内に包んだ屍<永遠>の香りをにじみださせてでもいるようで、また空間を越えたどこかの空間で立ち枯れ、無化していく<存在>の溜息のようでもあった。 こういう想念に侵食されているうちに、隣室の女の喘ぎはピークを過ぎたとみえて、しだいに静まっていった。息とともに洩れる低いかすれ声は、だんだん喘鳴と区別がつかなくなっていった。女と夢魔(インキュブス)との戯れはようやく終ろうとしているのだろうか。玄人は女の静まっていく気配が、耳もとで手にとるように聞こえる気がした。女が夢魔と格闘するさまを、最初の魂をしぼるような呻きから、あられもない歓喜の喘ぎまで、揺り起こそうともせず、襖一枚へだてた隣の部屋でたたずんだまま、聞き耳を立てているというのは、非情と呼ぶべきだろうか。だが、玄人は身も心も呪縛するような迷信的恐怖の前に、共感の情さえままならなかった。しかも心ひそかに憎んでいるおよしである。 夜の静寂(しじま)が再び屋内に訪れた。隣家から離れているこの家に届く人間世界の営みの物音は、それでなくてもわずかであったが、今は草木もやすらう深更である。風のない、空気の生ぬるい、晩春の夜であった。玄人は女の安らかな寝息を聞くような気がした。だがそれは、彼の耳の中に鳴りひびいて、しだいに引いていった女の喘ぎの余韻のようなものであった。それが一筋糸のように、いつまでも玄人の頭の中に留まって、いっかな薄れようとはしなかった。 玄人はこわばっていた四肢が、少しずつほぐれていくのを感じた。うつむきかげんのままでいた上体をはじめて伸ばすと、思わず大きな溜息が窮屈な胸の奥から吐いて出た。するとその溜息があまりに大きく、自分のものとは思われなかったために、重い油の上を伝わるどっぷりした波紋のような不安が、その残滓を吐き出して、これまで止まっていたように思われた心臓の鼓動が、突然思いだしたように激しく心室の壁を叩きだした。 玄人はそっと境の襖を開けた。卓上灯の光の足が、さっと仄明るい楔を打ちこんだ。空気をかき乱した光の粒子が、一瞬おぼろな形を闇に向けて飛ばせた。およしはいつも豆ランプも灯さず、真暗闇にして眠るのが習慣だった。動物のように、わずかな光を眩しがった。今玄人の部屋から差し入るシェードに翳らされた仄明りは、二本の倒壊した彫像のそれのように転がる脚を浮きあがらせていた。おぼろな光は闇を扇形に押しのけて、濃淡の渦を巻きながら、四隅の暗がりに溶け入っている。だがおよしの影のさした頭から、光の中で妙に艶めいた爪先まで、全身を見てとるのに十分であった。 玄人の眼が明るさから薄明へ調節される間の、それはほんのたまゆらの印象であった――玄人はほとんど眼の錯覚といっていい、影のような動きをおよしの体の上、腹の上に認めたような気がした。眼が定かに見きわめる前に、一瞬後には影はするすると部屋の隅の闇に溶けこみ、そこから不可視のまなこでこちらを凝っと見つめているような気がした。 玄人は再び体を緊張させた。胸を締めつけ、体のタガをきしらせるような迷信的恐怖が、内に黒い塊を形成しだしている。部屋の空気は、陰険な悪の気配で満ち満ちているように思われた。玄人はまだ一歩も部屋に踏みこまない先に、その場に呪縛されてしまったのを覚えた。時は止まり、魂の苦痛は永遠に続くかと思われた。すると、はたしてそれを聞いたのか、あるいは空想したのかはっきりしない、あたかも観念自体がそこに投影されて音と化したかのような、これまで彼を丸ごと縛りつけているように思われた悪しき影響が、ふと矛先をそらせて、彼方へ歩み去ったかのような、ヒタヒタという足音の遠ざかるのを中空にとらえたような気がした。 何ものかの去ったのを玄人は知った。空気の今にも叫びだしそうな緊張はゆるみ、闇は前よりも明るみをまし、濃度を減じたように思われた。空気の分子が固化したような息苦しさはやわらぎ、肺は自由な活動を思いだした。 玄人はしがみついている恐怖を振り払うように、一歩二歩部屋に踏み入った。彼の体が光をさえぎって、一瞬闇が増した。玄人は体を斜めにして、そのまま蛍光灯のスイッチのコードを引っぱるために、女の寝ている布団に歩み寄った。今では嗅覚が慣れてしまって、それほど知覚されなくなっていたあの夜の異臭が、にわかに強まった。生きながら存在そのものの根が腐れ、す枯れて行くような、気の滅入る、しかも今では甘美でさえあるこの香り。きっと年月を経て、有機物とも無機物ともつかなくなった木乃伊は、こんな匂いを発するのであろうか。玄人はコードに伸ばした手を止めて、足元の女を凝っとみた。匂いは女の上にも漂っていた。この女がこういう墓場の香りのする寝化粧をするとは。だが同時に女の汗と熱気が、たちまち、この遙かな夜の香りを、肉体のねとつく放射によって溺らせていった。夜の香りはしばらく玄人の頭の中に滞り、やがて観念の気流にのって、しだいに四方へ薄まっていった。 およしは裸だった。およしは寝ている間に、無意識のうちに着ている衣類を脱いでしまう癖があった。どう手足を動かしたのか目覚めた時に思いだせないのだが、時には寝巻きばかりでなく下着も取ってしまい、気がつくと丸裸で布団の中にくるまっていたりした。今夜は特に暖かいせいか、布団をはねてしまって、それが右足にかかっている他は、一物もその裸体を覆っていなかった。さすがに露骨な灯りを点けるのがためらわれ、玄人は傍らに敷かれた自分の布団に膝をついた。坐りこんだ途端に、ひどく疲労しているのに気づいた。節々に固いしこりがきしみをあげた。 玄人はおよしの寝顔をうかがった。頭が枕から少し乗りだし、顎があがっていた。額にうっすらと汗を浮かべ、影の具合で死人のようにも見えた。口を半ば開けているのが、なおさらその印象を強めた。その表情は滑稽とも、怪奇とも、意地悪げとも映り、いつもの童顔が隠している本当の歳をあらわにして見せた。顎の下からは短く太い首が、こればかりは女らしい曲線を描いて、肩になだれている。広い胸の上には平たい袋のような二つの乳房が、重力に引かれて両脇に流れていた。乳房の間を縫った曲線はしばらく下がって、急激に孕み女のように盛りあがり、高まり、低まり、この女の生命のありかを告げていた。さらに行くと、そこには色艶の良いpubic hairが行儀悪く逆立っている。それは女であることの滑稽さと悲哀とを隠していた。二本の脚は脂肪のわりには柔らか味を欠いて、太い棒のように乱暴に投げだされている。その腿は、三十に近い女にしては妙に少女じみた生硬なところがあって、この女の童顔と良くマッチしていた。 およしは安らかな息で寝入っていた。脂ぎったというよりは、生白い肉の固さを思わせる腹部の規則的な隆起が、そのままこの女の存在のふてぶてしさを、律動として伝えていた。恐怖と喜悦の一場の夢幻劇を演じながら、この女はついに眠りのヴェールを破ることなく、再び魂の鈍重な安静を取り戻して、何事もなかったように、女に特有の底知れない睡眠に、前後を覚えずのめりこんでいる。夢を見ていたのは、果たして自分ではなかったろうか、玄人はそう思った。 玄人が隣の部屋で耳にし、ために心臓をわしづかみにされるような魂の痙攣と肉の緊張にとらわれたあの苦悶の呻き、あれは何であったのか。夜の翼をはためかせた魔のものにのしかかられ、黄昏の意識の中で出口もなくもがき、喘いでいたあの苦悶、そしてついに逃れられぬと知ると自ら身を開き、フューゼリのあの<夢魔>の図のように、恐怖と交わることによって、その苦悶を快楽へとすり替えてしまったあの手並み・・・・・・そこには呆れるまでの生の貪婪さ、ふてぶてしさ、そして玄人に言わせれば、嫌らしさがあった。 女の羞恥もなく投げだされた解体を待つマグロのような裸体を見ていると、玄人は憤りとも、おぞましさとも、嘔吐ともつかぬものを臓腑の底に覚えた。女の肉の中にある生命が憎らしかった。小児がわけもなく昆虫を踏みつぶしたがるように、玄人は命の動きをこの女の腹からひねり出してしまいたかった。同時に、その行為の想像は、例えば生き物の命が断末魔においてひときわ激しく、いとわしい律動をくり広げることを予想して、かえって虫酸の走る生物でもつぶすことができなくなるように、有機体の生へのあられもない意欲、身の内に粟を生ぜさせる抵抗を想起させることで、彼の意志を麻痺させていた。玄人は自分の想像に息苦しくなって、眼をそれだけが独立した生き物のように息づく腹部からそらせて、顔の方へもっていった。それは反射的であったというよりも、自分の残虐な想像を、女がどうかしたはずみに夢の中でキャッチして、猛獣のように目を覚ましはしないかという不安が、ふと彼のやましさを呼び起こしたからである。 玄人はおよしの動かぬ寝顔をうかがった。構えもなく口を半開きにして眠りこけているその顔は、子供にはあどけなくても、成人には無慙という他はない。玄人はおよしがこんなにも無防備にしているのを、初めて見たような気がした。床の中ではたしなみは無くなるが、今は奔放を越して、男の眼からは淫らの極致である意志のない眠り人形を装っているように見えた。いっそのこと肉体を起伏させている息の根を止めてしまったならば、その淫らさは一層完璧なものになるに違いない。物体と化した有機体、もはや肉と肉とがぶつかるのでなく、おのれの欲情がそこからおのれに撥ね返ってくる無機的な交わり――そうしてこそ、初めて玄人はこの女を、芋虫のように厭うているこの女を、愛せるのではないか。ミダス王が、大理石の女に血を通わせることを神に願ったのとは反対に、玄人はおよしを血の通わない大理石に変えてしまいたかった・・・。 眼をいつまでもおよしの顔に注いでいると、いつの間にか彼の視線がおよしの脳髄に侵入して、そこに映像を結んでしまうような気がして、玄人は眼差を喉もとに移した。そこは開いた口よりも、一層無防備に思われた。太く、短い頸筋は、何をするのも御随意に、と言いたげに、おのれをむきだしにしていた。こんな時に、男は女の頸を、また女は男の頸を、切り裂きたくなるのであろう。それは別に憎しみでなくともよい。ちょいと悪戯気(いたずらぎ)に、ナイフを当ててみたくなるのであろう。こんなにも人間は他人の前に無防備になれるのだ。ただひたすら相手の善心と慈悲を信ずるあまりに・・・。こういうふてぶてしい信頼感が玄人にはいまいましく思われた。 玄人はおよしの肉づきのよい、白い首筋を凝っと見つめた。何かを誘っているようであった。およしの生命をつないでいる太いパイプ、何ものとも知れないものがそのパイプを下り、また上り、頭の天辺から爪先までメッセージを伝えあい、その律動を腹部に露わにしている・・・。そのパイプを閉ざしてしまえと挑発するものがあった。およしを絞め殺すのではない。およしの中に蠢いているあるふてぶてしい生き物、肉体の中に封じられたあるおぞましい躍動を窒息させてしまうのだ・・・。玄人はマジックハンドのような気のする両手を、そろそろと伸ばしていった。そうしながら、玄人の頭には、まだ、これは本気ではない、戯れだという気があった。いつかはこうするかもしれない。今はその予行演習にすぎないのだ。だが両手がおよしの首筋に触れそうになった時、玄人は突然ドキドキと胸を高鳴らせて、両手が頸を覆ったままの形で動きを制止させた。玄人は自分が怖い顔をしておよしの寝顔をにらみつけているのに気づいた。およしの寝顔は明暗の加減で笑っているように見えた。ひょっとして、およしはすでに目覚めていて、これまでの玄人の振る舞いを密かに観察していて、それを嘲弄するため、あるいは玄人の情欲をかきたてるため、わざと眠ったふりをしていたのでは。そして今、玄人のあきれた行為に笑いを噛みころしている・・・。 玄人がおのれの殺意を本物であると感じたのは、その考え――疑念が頭にひらめいた時だった。玄人はおよしの寝顔をにらみつけたまま、そのままの姿勢で決定的な瞬間を待った。もしおよしがクツクツと笑いだしたり、眼をパッチリと開けたりしたら、その時は間髪をいれず、両手にありったけの憎悪をこめてこの女の息の根をとめてしまわねばならない。玄人はすでに指の下に弾力のあるものを押しつぶしている感覚を覚えた。駈けぬけようとして堰きとめられている何ものかの脈動を、その弾むものの下に感じた。鎌で断ち切られた蚯蚓が、あられもなくあさましくのたうつ、命というもののおぞましさを膚に覚えていた。およしはしかし目覚めなかった。近づけた玄人の顔に甘酸っぱい口臭を吐きかけながら、およしは何も知らぬ小児のように眠りこけていた・・・。 玄人はそっとおよしの体から離れた。自分の床に就くと、溜めていた息を吐きだした。冷汗が文字通り額に玉となってふいていた。自分の両手を最後の瞬間におし留めたものは何であったろうか。現世的な法とか慣習への懸念からではない。自分の憎悪はもはやそういう便宜的な拘束を突破してしまっている。なぜなら玄人の憎悪は打算とか、恨みとか、人間的なものに発しているのではなく、感覚そのものの中に病的に巣食っているからである。それとも、いわゆる理性とか、良心とかに求めるべきであろうか。それも違うような気がする。理性とは、所詮打算の産物にすぎず、法や慣習に従うことであり、良心にしても、その時玄人の中に、善悪の区別をもたらす対立があったとは思われないのだった。現世的報復の惧れでもなく、良心の囁きでもなく、ましてや超越的存在からの罰を懸念したのでもない。玄人の殺意を実行に移させなかったものは、やはり玄人の感覚そのものの中にその所以を求めるほかはない。 あけすけな生命力の発現、無邪気さ、無意味な戯れ――なべて生の過剰を誇示するものに対して、玄人は気遅れを覚え、気遅れは嫉妬の色を帯び、嫉妬はさらに生理的な憎しみに変わっていった。その感情のプロセスを玄人は論理的に理解することをしない。すべては感覚の痙攣と生理的反応に翻訳されて、試験紙のように彼自身がその反応に呼応して、青くなったり赤くなったりした。 感覚はおよしという存在に耐えられないばかりでなく、それに抵抗し、反撃しようとする彼自身の神経の過敏にも堪(こら)えきれなかった。彼の感覚を圧迫し、膚に生理的嫌悪の反応を起こさせるおよしの生は憎むべきかもしれない。彼女の死は生よりも望ましいかもしれない。だが、その生が死へと移っていくプロセスの凶暴さに、彼の神経は、感覚は、耐えようとしないのだ。なるほど玄人は蜘蛛という昆虫を何よりも嫌っていた。その形を遠くから見ただけで、もう彼の生理は拒否反応を起こした。しかしその蜘蛛を殺すことは、その存在を許すことよりもなおさら厭わしく、おぞましいことだった。自らの手が、足が、その破壊の道具となった時、それらを伝って、蜘蛛という存在の厭わしさのエキスが、彼自身の体に消しがたく乗り移ってくるように玄人には感じられるのだった。およしに手を下すことをさし控えさせたのは、その同じ感覚だった・・・。 玄人は眼が暗さに慣れてしまって、満月のように明るい豆ランプを消した。暗闇の中で横になっていると、どっと体の疲れを覚えた。廊下側の障子越しに、玄関がほの明るんでいた。夜が静かに明けようとしている。だがこの部屋はいつまでも暗いであろう・・・。 作品名:夜の中心への旅・第一章<夜の香り> 作者:ハワード・クロフト copyright: howard croft 2013 Up: 2013.11.26 |