夜男爵の部屋
第13夜 志馬氏の夢日記(前篇)
ゲスト 夢遊星人
夜男爵の部屋 第13夜 志馬氏の夢日記(前篇) ゲスト 夢遊星人 バロン: 今宵はめずらしい客人をお招きした。このサイト自体を訪れる人は稀なのであるが、おまけに余の部屋に問い合わせのあるということは実に稀なことであるので、ご返事の代わりに、ご訪問を願ったわけである。 星人: すいません、こちらから押しかけたようなことになって。 バロン: いや、サロン自体が暇なので、ご意見のある方は、なんなりと申されるが良い。 星人: 私の作品集もサイトで紹介してもらっていますので、お礼かたがた、サイトの近況について問い合わせてみました。失礼ですが、翻訳以外にはほとんど動きがないようですが。 バロン: 甲斐君、いや脩海さんにでも代わって答えてもらいたいが、創作に限界を感じたのであろうかのう。翻訳に逃げているようじゃ。 星人: デカンションへの旅は断片的であるのが惜しまれますね。あれで終わりでしょうか。 バロン: デカンショ博士が甦らない限りは未完のままであろうな。どうせなら君が完成させてみたらどうかね。 星人: 私みたいな通俗的な発想ではどうでしょうか。 バロン: 君の作品を読ませてもらったが、思い切り俗なところもあるようじゃが、まあ一定のレベルを心得ておるようじゃ。世の中ではあれより俗なものは山ほどあろうからな。 星人: すいません、純文学のサイトで俗な人間がお邪魔して。 バロン: 君はまだしもだ。君の作品では、<ヨナ>と<山田もる僧都>が気に入っておる。 星人: 私もそれ以外の作品はなくてもがなと思っています。 バロン: それは極端な謙遜じゃな。このサイトでは、文学の価値や評価は、文学の本質に基づいていれば良いので、世間での人気や売れ行きなどとはまったく無関係なのじゃ。 星人: それは分かっていますが、どうしても人から読まれたいという気持が、文学をゆがめてしまいますね。文学は本来サービス業ではないのでしょうが、読者を意識するとどうしてもサービスしたくなります。 バロン: そうした文学があるのはもちろん認めても良いが、サービス業かそれとも文学の本来の価値か、どちらかを選ぶ決断力が不足してもダメなのじゃろうな。生活や野心がかかわってくればサービス業を選ぶほかはない。それ以外の動機ならば、文学の本質を究めるほかはない。そもそも世の中に大作家というものがいて、古今に広く読まれており、尊敬されているということが、文学というものの考え方をあやまらせるもとでもあるのじゃな。作家はえらくなければならない、広く読まれねばならない、などと考え出したら、文学に手を染めるものは途方もないノイローゼに襲われてしまうじゃろう。それならば、金のためにサービス業に転じるのがよほどましである。もっともその才がなければ失敗するのは、どの商売でも同じじゃが。 星人: 耳の痛い話です。私などは文学本来の価値であれ、サービス業であれ、どちらにもたいした才のない人間なので、いいかげんあきらめて、ほかの才のある人の作品を楽しむ方が、よほどましのように思われてくるくらいです。 バロン: 他の人の作品を読んで、どうにも似たようなものを書いてみたくなるのが、文学の素質の始まりだから、ただ読んでいれば良いというわけでもあるまい。その辺の事情を考察してみれば、文学というものの本質も見えてこよう。文学の始まりは模倣なのじゃ。その典型は口承文芸じゃな。言葉を口移しに伝える。伝わった言葉は集団の文学であると同時にその人の文学でもある。気にいらない部分をちょっとだけ変えてみる、するとそれが他の人の口に伝わり、残っていく。それが口承文芸の創作である。記憶するに価すること、それを言葉として口伝えに回覧すること、これが文学の発端における本質なのじゃ。ここには、言葉と回覧される共通の情報という二つの要素がある。このどちらを欠いても、文学は発生しなかったろう。言葉が誰のものでもないように、文学もまた発端においてはだれのものでもなかった。言葉と同じように、文学はそこにすでにあるのだ。これを今日の状況に当てはめてみよう。 実を言うと文学は誰が書いたのであっても良い。それは私が書いたものであったかもしれないし、君が書いたものであるかもしれない。その作者が問題なのではなく、文学という共通の情報がすべてなのである。それを商品として買わなければならないというのは、文学の本質からいって論外である。情報は商品ではない。それを商品にしてしまったのは何でも金儲けの種とする資本主義経済である。それをいみじくも情報革命と称しておる。少し前の時代までは、文学は生活のゆとりのあるものの営みであって、それを生活のために行うものは少なかった。それでもって商売をする商人はいたものの、作家は商人ではなかった。もっとも、金のないものが文学をやれば、それは悲惨なことではあったが。 星人: さいわい私も文学と生活とは別に考えています。昔の人が書いた本を読むのに金が要るということは、金のない若い頃には難儀でしたね。図書館の本はかぎられていますし、いかにも貧乏たらしくていやでした。いまはインターネットによってこの状況はかなり改善されました。一文無しでもネットとつながりさえすれば、世界のあらゆる文学が思うままに読めるのですから。 バロン: その同じ状況が文学の営みを本質に戻しているとはいえんじゃろうかね。少なくとも、金銭の絡まない文学が可能なのじゃ。 星人: かりに金銭が絡まないとしても、広く読まれたいという、そういう欲望はどうなのでしょうか、それもやはり抑えるべきでしょうか。 バロン: それは人間が言葉を使う存在であるという、度しがたい性癖から来ているようじゃな。言葉は他者なしには成立しない。たとえ独白や、反省であっても、言葉によって絶えず他者を念頭においておるのじゃ。特定の他者ならば、その者との関係において対話は完結する。それ以外の者は通常いなくても良い。その場合でも、その人が別の他者とつながることによって、対話の間接的相手は広がるかも知れぬが、そこまで考えて対話することは少なかろう。ところが文学は特定の他者を相手にするものではない。広く漠然と他人を考えて言葉を発するのであるから、そもそも最初から聴者または読者という抽象的な集団を前提としているのである。その前提のもとでの欲求や必要がなければ、誰も文学などという面倒なことを思いつきはしなかろう。人間がおしゃべりなのは、この言語という文化的遺伝子のセットを受け継ぐことで、そのネットワークに広くつながりたいと思うからじゃ。 星人: その言語的遺伝子の延長線にあるのが文学であるというわけですね。遺伝子ならば、それはなるべく広範囲に伝わりたいと思うわけです。それならば言語そのもののウイルス的拡張意欲であって、単なる自己顕示欲と見なさなくても良いわけですね。 バロン: そう考えるべきではなかろうか。文学は広まるべきものなら勝手に広まるであろう。だれぞの意志によってそうなるのではなく、言葉自体の繁殖力、生命力次第で、はびこりもすれば、滅びもする。それが真の文学ではなかろうか。少なくとも、そう信じることで、世の中の流行や評価やに超然としていられはしないかね。 星人: そうありたいものです。それはそうと、ハワード・クロフトさんの長編の連載がとまっていますが、この作などは世の中の傾向からまったく超然としたものではないでしょうか。一体誰が読むのだろうと心配になりますが。 バロン: 連載が止まったのは、本人が読み返してみて自身の人生がつくづくいやになったことと関係しているようじゃ。おまけに当人は、ただいま恋愛中と来ていて、まったく別の情熱にとらわれているようじゃ。 星人: それは目出たいことですね。作物からは想像もできないことですが。一体お相手はだれです。 バロン: このサイトで知り合ったアフララ嬢ですな。文学的傾向がそっくりなので、意気投合したことであろう。しかし、恋愛すると、いずれ文学などはつまらなくなるであろう。文学は所詮観念の世界に過ぎんのだから。 星人: ともに文学を志すということもあるでしょう。 バロン: いや、それは難しかろう。文学ほど微妙な感性の違いが、互いの間の不和を招くものはないのじゃから。芸術家同士の仲を考えても、うまく行く場合よりも、不幸をもたらす場合が多かろう。音楽家のシューマン夫妻や、ゴッホとゴーギャンの関係や、高村光太郎と妻との関係などが、その典型であろう。余としては、うまくいってほしいと願っているが。 星人: 恋愛と互いの人生の目的とが調和するような関係はないものでしょうか。 バロン:若い人は得てしてそうした理想にとらわれるようじゃな。かつて、妻は夫を成功させるためにのみ、恋愛・結婚というコースを決められていた時代があった。自分の人生を他人の人生に従属させるという、そういう恋愛が女性にとっての美徳とされたのだ。その結果は、大抵は女にとっての不幸な一生に終ったものじゃ。男性がそうした関係を女性に求めたのは、この社会が男の世界であったからじゃ。女もまた、そう生きる以外にはおのれを社会において主張する場を持たなかったのじゃ。それが封建道徳によって、しっかりと固められていた時代には、両者それなりにうまくいくこともあったじゃろう。しかし保守政治家がいかに女を家庭に、男の従属的地位に甘んじさせようとしても、もはや大抵の女性は、他人の目的のためにおのれの人生を従属させることのばかばかしさに気づいている。女性はおのれの目的で恋愛するのであり、男性も当然そのことに気づいていなければ、滑稽な時代錯誤に落ちいるのじゃな。 星人: バロンはフェミニストのようですね。それでは大抵の女性の人生の目的とはなんなのでしょうか。文学や芸術や真理の探求が、女性にとっても人生の意義となることはないのでしょうか。 バロン: もちろんそれは、数少ないが、あるであろうな。ところで余はフェミニストでなく、女性に関してはリアリストであると思うておるが。大抵の女性の人生の目的は、子を生み育てることで、そのための安定した家庭を求めることである。これはほぼ生理的本能に近いのであって、子のない女性は必ずペットを可愛がるのであって、それが代用品なのであるな。それにしても、女性は子育てにとどまらず、それ以外の人生の価値や目的を目ざしていくのであれば、男性などには及びもつかぬ忍耐力と努力を必要とするであろう。そうした女性を、君は伴侶として求めたいのかね。 星人: 私は人生をのらくらと生きたいと思っているのですから、そんな目的に意気投合する女性はなかろうと思います。 バロン: この世界でのらくら生きるのも立派な目的であろう。ボドレールではないが、世の中の役にたつ人間にだけはなりたくないということじゃな。妄想に生きる詩人か、狂信にとらわれた坊主か、人殺しを商売にする軍人だけが、彼にとって意義のある生き方であったようじゃ。 星人: 坊主と軍人はごめんですが、私などは妄想家である点で、ボドレールの後塵を拝したいと思います。 バロン: 詩人は方法的妄想家である点で、単なる狂人とは異なっていよう。管理人の脩海さんによれば、人類はみな狂人じゃそうだが、それを自覚するとしないとでは大違いで、芸術は自覚した狂気といってよいじゃろう。このサロンの作品はすべてそれじゃ。ところで、今夜はなにかの作を披露してもらえるじゃろうか。 星人: 私は近頃はあまり創作することもないのですが、時々昔の作をみつけ出して、何とか物にならないかと、リトールドの意欲を覚えたりします。たぶん、バロンの夜の部屋にふさわしいのは、「闇からの呼び声」なのでしょうが、インターネットで公開するのは、少々はばかられるところがあって、躊躇しています。これは狼男の伝説に基づいています。これを現代人の心理で語ったものです。結末が悲惨なので、何とかならないものかと、考案の最中です。このオリジナル原稿は、kdpあたりでの公開を考えています。 バロン: オリジナルの方がインパクトがあるなら、特に変えることもあるまいが。ブルックナーもオリジナル版のほうが良いという場合もある。 星人: それもそうですが、もう少し考えます。代わりに、「志馬氏の夢日記」という、夢文学の断片を持参しました。これはほぼ素材に近いのですが、夢というのは本来そのようなものですから、あえて脚色を避けました。他人の夢ほど退屈なものはないと、一般に思われていますから、おのれのものであれ、他人のものであれ、夢に関心を持つ人だけに意味のある作品になるでしょう。 バロン: プラトンは芸術や文学は、真実在の影の影と述べたが、夢はさらにその影ということになろうな。影の影の影であるな。しかし、そこに内面の真実が現われてくるということは、プラトンも思いつかなかったことじゃ。夢は内面への超越の手段であることは、夢文学が教えてくれよう。 志馬氏の夢日記(前篇) 夢遊星人 作 氏家志馬(うじいえ しま)氏は、誰とも知れない人物である。たまたまその日記を、公園に捨てられていた古雑誌の間から見つけた。一読して、そのままゴミ箱に捨ててしまってもよかったのだが、なぜか捨てられずに家に持ちかえった。近頃押入れの整理をしていて、黄ばんだノートを見つけ、数十年前のその記憶が甦った。嘘とも本当ともつかないその記述ぶりが、その時捨てることをためらわせたのだが、今読み返してみて、夢の中で夢を思い出すような、妙な魅力を感じさせる。題して夢日記として、好事家のなぐさみ草に供せんとす。(なお夢には本来タイトルなどないのだが、読み物としての便宜上、仮の題を付しておいた。) * * * (1) 終末 世界の終末が近づいていた。志馬氏は小説を読んでいたのだが、それは現実になりつつあった。それはクービンの小説によく似ていた。まるでそっくりじゃないか。志馬氏は少し苦々しく思った。それでも熱心に読んでいた。外では雪が降り出した。たちまち積もっていく。志馬氏は終末、いや革命の興奮を抑えきれずに、外へ出た。いつもの食堂へ行く。皆もやはり興奮気味に、喋り散らしながら、カウンターについている。志馬氏も端に腰をおろして、その話に聞き入っていた。一向に食事はやってこない。亭主は忙しげに立ち働いている。皆の所へは食事が行くのだが、志馬氏の前は空白のままだ。注文もしなかった気がしたが、あきらめて外へ出た。雪は消えていた。 しばらく行くと、また一軒の食堂があった。中はがらんとして、人の気配がない。志馬氏は中に入って、くつろぎながら色々なことを考えていた。するとどやどやと人が入ってくるようだった。テーブルについて、やはり革命の話を始めた。皆知っている顔のようだった。ここを自分らのたまり場にしようか、そう大した確信もなく志馬氏は言った。気づくと、死人が出たようだった。葬儀屋を呼ばねばならなかった。志馬氏は引き受けて、急いで出かけた。葬儀屋と一緒に車を走らせた。志馬氏はひどく悲愴な気持がして、二人の葬儀屋に挟まれながら、体をまっすぐに緊張させて、前方を見詰めていた。二人の男にはそれが気に入らないようだった。車が止まると、彼らは意地悪く志馬氏を転がしたので、志馬氏はマットの下から這い出さねばならなかった。死体を引き渡し、ついでに前から気になっていた古雑誌とゴミを彼らに押しつけ、志馬氏は外へ出た。 食堂の裏はすぐ崖になっていて、広い浅い川が流れている。志馬氏は崖伝いに下りた。わずかな足場を頼りに、草につかまりながら、川岸に下り立った。川岸と言っても、わずかに岩の足場が細々と続いているだけで、うっかりすると水の中へ落ちそうである。上流を見ると、山が屈曲して迫り、先はその陰に消えている。川床に段差があるようで、それが川水に滝の気配を与えている。行けそうもないなと思っていると、一人の男がするすると崖を下りてきた。志馬氏の知っている男だったが、ものも言わずに岸の細い足場を伝って、上流のほうへ行く。やがて岩に隠れて見えなくなった。志馬氏はその男の勇気を羨ましく思った。あんなところを一人で歩いて行く自信が、志馬氏に欠けていた。連れがいれば話は別だが、一人で行くことを思うと、羞恥と不安にまつわられた。それでも志馬氏は行きたいと思った。今ではなく明日、必ずあの男のように、上流まで行ってみよう。そう考えると、ひどく期待がもたれた。 志馬氏は戻ろうとして、崖をよじ登り始めた。思ったより崖は険しい。登っているうちに、どんどん勾配が増すようだ。足場は頼りなげにすべり、つかんでいる草は今にも抜けそうだ。とうてい登れそうもないと覚って、志馬氏は元のとおり下におり立った。景色を眺めていると、新しく隆起したという山のことを憶いだした。川向こうに、二つばかり盛り上がっている所があった。そのどちらかがそれに違いない。猟師か山男かのような男が、川を渡ってきた。その男に訊くと、確かにアレだという。アレといってもどちらであるかは、自分で見当をつけるほかはなかった。男は崖をするすると登っていった。志馬氏はその二つの岡を眺めていると、いくぶん大きい、上に欅のような木が枝を広げている方が、むくむくと少し盛り上ったような気がした。 上流から、学校の終った小学生か、幼稚園児のような子供らが、川の中にできたコンクリートの道を伝ってやってくる。志馬氏は岸に沿って、川下に向かった。崖を登れないことが分ったので、回り道をするつもりであった。河原の丈高い草の間を抜けていくと、丁度道に出る所で、草叢の中に煙がみなぎっていた。火薬の臭いを嗅いで、志馬氏はとっさに両手で両耳を覆った。パンと鈍い音がして、急に耳が馬鹿になったようだ。子供達が花火遊びをしていたのである。そのまま道を行くと、小学校の校庭のような所をすぎた。かしましく遊んでいる子供達の気配がする。道端で二人の児童が、いやに大人びた顔つきで、なにやら話しこんでいる。その頭は禿げて、テカテカと光っている。そのいびつな形を見ていると、志馬氏はひどく胸苦しくなった。 (2) 校舎 校舎、腐朽を孕んだ暗く大きな建物。車椅子、車のついた箱と言うべきか、志馬氏は不具を感じてはいないのに、この車椅子を転がしながら進む。いざりのように進む。志馬氏は遅れてしまった。教室の中ではもう皆が整然と席について、白いパンを食べている。空腹がここへ駆りたてたのだ。志馬氏の教室はどこだろう。階段、いつの間にか車椅子のまま登っていく。標札、志馬氏の名がかなで記されている。いよいよ白いパンにありつける。 志馬氏は駅の雑沓の中にいたのだ。切符を買えそうにないほど混み合っている。志馬氏が行くと、自動販売機のそこだけ空いている。両隣には長蛇の列が感じられるにも拘らず。志馬氏は十円玉三枚で切符を急いで買った。急がせるものが雑沓の中にあった。志馬氏は五千円を横領したようだ。なにかこの五千円には訳がありそうだったが、とにかくある正当性が感じられた。しかし志馬氏は今この金を返却することに、より大きな正義を覚えた。駅のどこかに銀行があって、そこでこの金の返却が待たれているようだった。志馬氏は車椅子を引きずりながら、駅前広場をよぎっていく。早く捜さないと皆に遅れてしまう。黒服の高校生が整列している。志馬氏は銀行をのぞく。F銀行ではない。志馬氏は追跡の気配を感じた。自分の振るった暴力が咎められているようだ。そこで車椅子を転がして、白いパンにありつくため、この校舎にやって来たのだった。 (3) 卵 I氏教壇に立つ。どよめきの感覚が広がる。I氏は手ひどく殴られたのである。それで皆は出てこまいと思っていた。顔はいつもより険しく、絆創膏のようなものも見られたが、そう醜く腫れてはいない。保健の授業であった。I氏は黒板に文字を連ねて、ある文句を何度も言いまちがえた。その度に手で消して書き直したが、一向に正しい音が頭の中に見つからない。ちらりと教科書をのぞいて、やっと納得したように、意味のわからぬ言葉を呟きなおした。志馬氏は最前列の左端に坐っていた。題目は結婚であった。教科書を開くと、ゴシック活字だらけの一向に保健らしくない本である。志馬氏はうんざりした。これだけ沢山の事件やら歴史の記述やらを覚えなければならないのだ。しかも時は迫っている。志馬氏は不安に胸を締めつけられた。 とんでもないことが思い出された。すっかり忘れていた。どうした訳だろう、貸本を二冊借りていて、それもだいぶ前のようだ。貸本屋の前へ来て、そのことを思い出したのだ。たしかいつかの夢に借りた、白土三平の漫画と、もう一冊は何であったか。志馬氏は不安に圧迫されながら混んだ店で立ち読みした。貸し本屋ではなく、どうやら新刊書店のようだ。なんとかという和歌の雑誌を取り上げると、幽鬼を詠った歌の特集のようだった。店を出て踏切をよぎり、人も車も稀な、広くても薄暗い道を行く。志馬氏はなぜか気が結ぼれて、いつの間にか手に持っていた卵を遠くへ投げる。どこか見なれた小道へ入ると、先へ少年が行く。遠くから卵を投げると、当たらずに傍へ落ちたようだ。少年は脇道へ逃げこんだようだ。しばらく行って振り返ると、少年が卵を持ってこちらへ投げている。垣根の木々に当っている音がする。 (4) 塔へ 塔へ、塔へ行かねばならなかった。暗い、腐朽と不安に満ちたあの部屋へ。志馬氏には女性の連れがいるようであった。志馬氏は案内しているようでもあり、されているようでもあった。傾いた柱をくぐり、穴のような所を這いぬけたりして、志馬氏は進んでいった。その部屋は高い所にあるらしい風の気配があった。いつの間にか志馬氏は一人で、いつものように一人で、何かを捜さねばならなかった。部屋のどこかに、隅の暗がりに人がいるようで、恐れながらも寄っていくと、椅子におさまったそのものは、ひからびた木乃伊であった。 怪物が出現し、皆は家に閉じこもっている。何とかして助かりたいと思う。その怪物は人間であったが、何かの拍子に人をむさぼり食う怪物になったのであった。いくら戸締りしても、怪物にはへいちゃらだ。どこからともなく入って来て、人に襲いかかる。怪物から逃れるには、志馬氏も怪物になるほかはなかった。 (5)橋の下 志馬氏が橋の上を通ると、下の河原に人がいるようだった。さっと光が差して来て、志馬氏の顔をねらっているようだった。志馬氏はテレビ・カメラに隠し撮りされているのだと思って、両手で顔を覆った。さっきからものを食べていたので、それも口の中にやたら詰めこんだので、まりのように両頬がふくれてしまっていた。それをもぐもぐ噛みながら、志馬氏は照れくさくて、唇をさすったり、弁解めいたことを橋の下に向って口走ったりした。すると下から何かがほうり上げられた。志馬氏といっしょに撮られていたらしい後ろの人にも投げられた。紙包みのようであった。志馬氏はうまく受けとって、何であるかを考えないでいると、橋の下のざわざわいう声が志馬氏と並んで来るようだった。志馬氏は下をのぞきこんだ。真黒な水があるようであり、河原のようでもあり、また一面になにかの工場地帯であるようだった。遠くにはそれらしい建物群が、夜の底に黒くそびえている。 すると一団の歩いている人の群から、はっきり声があがった。こっちへ来いよ、そう言っているのは主任のSであった。他に同僚のOやNもいた。志馬氏は無視して更に歩んでいくと、Kの家に着いた。木造の三階ぐらいはありそうな、煤けた家だった。家にはKと奥さんと赤ん坊がいた。志馬氏は下宿を捜していた。それならここの二階がいいだろうと、いつの間にか来ていたSS氏がすすめた。志馬氏は奥さんや子供を見ていると気が進まなかった。すると二階からガサゴソ下りてくる男があった。間借りしているHだった。気に食わないから出て行くという。そして出て行った。先夜Hに逢った時、Hは勤めを替えて、どこかのセールスマンらしく、ぱりっとした水色の服装で走り回っていた。志馬氏はそんなHの行動力を賛嘆し、羨ましく思った。 志馬氏はKの家に留った。薄い紅をさした奥さんの桜のような唇を美しいと思った。そんな自分にいつか過ちを犯しそうな危惧を覚えた。そこでKの家族がそろってどこかへ外出した時、志馬氏も家を出ることにした。軒端を離れようとすると、上からつぶてが降ってきた。志馬氏は軒に隠れて、別の方から出ようとした。するとまたつぶてが顔に当った。志馬氏はもとの方に戻るふりをして、同じところからまた出ようとした。すると上にいる男はその考えを読んだらしく、志馬氏はまたしたたか顔を打たれた。一体どんな男が上にいるのだろうと思い、そっと見上げると、窓から身をのり出した男は志馬氏の長兄だった。志馬氏は部屋に戻って、兄弟らとトランプ遊びをした。そのトランプは一枚一枚が大学ノートくらいあって、しかも不揃いだった。それを切るには、ただ乗せ替えればいいのだった。 (5)知らない男 その男がだれであるか、志馬氏は知らなかった。知らないというよりも、彼には判別する力がないのであった。しかし志馬氏はその男と同じ車輌に乗りあわせた時、恐れに近い不安を覚えた。なぜ恐れなければならないのか、その男の存在からは何か知れぬ圧迫感のようなものが、肉体的、暴力的恐怖に近いものがおし寄せてきた。志馬氏はどこか広々としたターミナルを歩いていた。出勤の途上のようでもあり、またこれから帰宅するところであるようでもあった。そこはいく本もの路線が集中している場所だった。志馬氏は広い構内を自分の乗る線のホームを求めて、ぐるぐると歩き回っていた。いく本もの電車があわただしく発着している。志馬氏はいつも乗り遅れるのであった。いつの間にか志馬氏は駅の外を歩いていた。コンクリートの巨大な建物と、高架道路との間の人気の寂れたところをうろついていると、思いがけず電車の乗り場が見つかり、ちょうど停車しているところなのだった。車輌の中はがらんとしていて、そこにその男がいたのだった。その電車は回り道だが、志馬氏の住む町の方に向かうに違いないと彼は思った。そして発車を待つ間、志馬氏はいやにその男からの無言の圧迫を意識しつづけるのだった。 (6)彼女 どうしてそんな所にあるのか知らないが、町外れに薄暗い古本屋の通りがあるのだった。志馬氏は昔来たことがあるのを思い出した。そして中へ入って、一軒ずつ丹念に本をあさったことも。するとまた、明るい大きな古書のデパートのことも思い出した。そしてどこにその入口がああったかを考えてみるのだった。賑やかな人なかにいたようだった。百貨店であったか、映画館であったか、ちょうどそこから出てくるところで、ぱったり彼女に遭ったのだった。彼女は小さい子を連れていた。不思議にその子が男であるか女であるか、どういう間柄であるか、少しも関心が向かわなかった。ただ彼女は二人連れだった。そして志馬氏が気づくと同時に、志馬氏に気づいて、親しく会釈するのだった。志馬氏はその瞬間の当惑を押し殺して、ごく自然にふるまえたようだった。そして彼女を自分の家に招待したのだ。というのは、いつの間にか三人は部屋でくつろいでいたから。連れの子は一人で遊んでいるようだった。彼女は畳に横になっていた。志馬氏は夜も遅いので彼女に気がねしていた。そして、彼女はどうしてこう気楽な気持でいられるのだろうと思った。志馬氏は彼女の家が気がかりだった。しかし彼女の落ちついた寝姿を見ているうちに、志馬氏はこれまで彼女に少しも手を触れなかったことを罪のように意識しはじめた。志馬氏は接吻の誘惑を覚えた。彼女の口唇は砂のように乾いていた。志馬氏は遠慮がちに口唇を合わせた。彼女は眠っているのか少しも抵抗がない。志馬氏は少し大胆になって、乾いた口唇を舌の先でうるおしたのだった。 (7) 小鳥 志馬氏はプラットフォームにいるのだった。電車は坂を登っていくはずである。明るい日中であった。志馬氏は人の波を感じた。自分の連れがだれであるかを知らない。ただ一緒にいるという感覚だけで満足している。あちこちに死体が転がっていた。まるで戦争映画を見ているようだ。だれも奇異に思わない。だれか線路の上を指差す人がいた。見るとそこにも死体があって、陽に焼かれているのだが、見ているうちに手足が動きだした。ああ、ああ、と群集の発する嘆声のようなものが起こった。死体が陽に焼かれて動くことは不思議でなかったが、一人の少女がその死体をまたぎ越そうとしていた。きっと死体の手足が少女に巻きつくだろうと、だれしも懸念した。そしてそのとおりになった。死体は蔓のように少女をだきこんだ。その時その少女は志馬氏自身になった。死体が重い空気のように志馬氏にへばりついていた。志馬氏は厭わしさと恐怖で全身がざわざわとすくんだ。そして自分と死体が人形のように小さくなっているのに気づいた。 電車が来たので、志馬氏は死体からのがれたと思った。しかし死体も一緒に乗ったようだ。しかも電車だと思ったのは、いつの間にか坂道を行くバスの車内に変わっていた。死体はやはりバスの中にいるのだった。空気の中に隠れて襲う時をねらっていた。そしてとうとう小指を噛まれたのである。見ると死体はしっかりと志馬氏の小指に噛みついていた。そしていつの間にか小鳥のようになって留まっているのだ。志馬氏はその小鳥を家に連れ帰って飼うことにした。 (8)ユメイストの独白1 夢は心のシンボルであるといいます。普段意識に現われない欲望や不安や恐れなどが、映像となって夢の舞台に上演されます。夢によってその心の病が暴露されます。だから夢見のよしあしは必ずしも現実生活と無関係ではないのです。現実の悲惨はそのまま夢の悲惨でもあります。いや夢の悲惨はしばしば現実以上でさえあります。悲惨な時に幸福の夢を見る、ありし栄光を夢見る。それも何よりも悲惨であり、現実以上の悲惨であります。そればかりか夢のなかの幸福はまた現実の悲惨の記憶によって蝕まれてゆきます。幸福な夢見はもはやめったにおとずれません。むしろ夜ごとに夢見ることが苦痛になります。昼の悲惨に加えて、それ以上の夜の悲惨、もはや心の逃れる場所はないのでしょうか。何よりも記憶というこの呪われた貯蔵庫から、記憶の牢獄から。 恐怖と不安、たしかに夢はそれをキャッチするのでしょう。夢は正直者です。夢はあるがままの心を示します。臆病、卑屈、恥、孤立、欲情、夢はあばきたて、告発し、真実を語ります。醒めた意識が承認を拒むもろもろの真実を、真相を、おののく魂の前にくり広げます。何と恥じ入り、何ともだえることでしょう。何と容赦ない暴露の前に、魂は苦痛のうめきをあげることでしょう。毎夜毎夜が、魂をすり減らす拷問の連続であります。そして目醒めます。なんという目醒め、そしてなんという一日。時間が、ただやり過ごさねばならない時間が、重苦しい厭わしい曇り日のように垂れ込めています。そしてそれを抜けきってふたたび眠りに達することが、ただ一つの目的らしい目的なのです。 しかし何かペシミズムからこんなことを言うのではありません。そこにも生の喜びはあるのです。生存そのものに何かの意味があるとしたら、それが毎日の人を生かしているもとのようなものです。つまりナマの生命といったものが頼りなのです。それは幸いひどくささやかな営みで満たされています。ささやかな欲望、ささやかなパッション、どこからみてもつまらない生存形態のようですが、事実そうなのでしょう。活動も自立も野心も社交も要りません。要するに動物の生活です。動物はもっぱら現在という時間の中に生きて、満ち足りています。人間も本来そうなのです。少なくともそうありたいものです。われわれはどこへ行くのでもなく、どこから来たのでもない。連綿とつづく生の連鎖の一つに過ぎないのです。しかし現実には人間はなんという矛盾に満ちた、悲惨な存在なのでしょう。現在に満ち足りることができないのです。これはだれの責任でもありません。すべての人間が、他のすべての人間を、そう生きられないようにしているのです。ですから不安です。時にとり残されることが不安です。時にとり残されることは、社会から捨てられること、人から無視されること、忘れ去られることです。だから人は時の中に生きるしかありません。未来を考え、過去を思い、それらのものに決定された今を生きねばなりません。ただ遅れないために、見捨てられないために。 過去を失った人間は未来も失います。そしてもちろんそれらによって決定された今をも。その時唯一可能な時は、動物がそうであるように、現在という時間以外にはありません。犯罪者は、社会から一生消えない失格者としての烙印を押されます。未来にはもうなんの希望もなく、現在は絶えざる過去からの拷問です。その人は忘却を願います。過去の人格を失って、新しい人格として生まれ変われたらと願います。しかしおのれが忘れたところで社会は忘れません。その烙印は目に見える烙印ではありません。しかしそれは常に人の顔の中に表われます。その見えない烙印が人の表情の中に鏡に映されたように反映することは、どれほど恐ろしいことでしょう。その恐怖に較べて、忘却とは何と弱々しい言葉ではありませんか。その人にとって過去は、忘れ去ったと思った過去は、現に生きて保存されてあるのです。他人の記憶の中に。それを滅ぼすには、人類全体を滅ぼすしかないでしょう。そのすべての成員を時間の中に束縛する人類の歴史を滅ぼさねばなりません。これほどの怨念、これほどの怨恨を人間に対して抱いた人は、もはや自らを滅ぼすこともできないでしょう。人類の不幸を目撃することに、一般の悲惨の中に、自らの苦い心を癒されることに、生存の目的を見い出しさえするかもしれません。 こうした激越なルサンティマンに人間は往々にしてとりつかれてきたようです。宗教文献や夢文学の中に終末のイメージが頻繁に現われてくるのも、こうした人間心理を反映しているのでしょう。現実にそれをジェノサイドとして行ってきた歴史に較べれば、夢はまだまだ無害な代用品ですが。 (9)受験 M子にこんなところで逢ってしまった。思いがけないので、志馬氏は言葉をかけるべきかどうか迷った。それにこちらに気づいているのかいないのか、まるで冷淡なのだ。なにか無視されているようなのだ。志馬氏は恥ずかしさが先にたった。相手が冷淡なのよりもなによりも、自分がこんなところで出会ったのが、ひどく羞恥を覚えさせた。何ごとかを待ち合わせている人ごみの中であった。腕には大きな袋をかかえていたが、自分でも何がはいっているのやら分からない。こんなところを見られて、志馬氏は大いに狼狽していた。それにしても、M子はなんて冷淡なのだろう。志馬氏をまったく見るそぶりもなく、誰かと話している。よく見ると、やはり大学の同窓のM男であった。志馬氏は二重に羞恥を覚えた。それに腹立たしくもなった。そこで思いきって声をかけた。しかし二人からは一向に反応がないのだ。気がつかないというのではなく、どうやらまったく無視されているようだった。志馬氏は大人の中にわりこんだ子供のように恥ずかしくなって、こそこそ逃げだしてしまった。なんだってこんなところで、しかもM男のやつまで。みんなで志馬氏を馬鹿にしているように思われた。志馬氏は迷路の中にもぐりこんだ。近道をするつもりだった。あたりは急に暗くなって、いりくんだ知らない路地を、志馬氏は手探りしながら進んだ。なんて息苦しいんだ。人っ子一人いない夜道だった。やっと迷路を抜け出すと家についていた。なんだか今すぐにでもしなければならないことが、あるような気がした。思い出すと、そうだった、試験がひかえていた。入学試験があと一月に迫っていた。どうしてこんなことに気がつかず、これまでのらくらしていられたのか。志馬氏は不安で胸が締めつけられるようだった。何よりも不安なのは、物理がまるで手をつけていないことだった。志馬氏は問題集を開いてみた。一つ一つ見ていくと、なあんだ簡単じゃないか。志馬氏はだいぶほっとした。しかし、よく見てみると歴史の問題集であった。 (10)姉妹 晩い帰りだった。志馬氏は灯りを消した飲食街を通っていた。ここではまだ完全に寝静まったという気配はない。人の活動の気配が家々に感じられた。すると一人の女が志馬氏を呼びとめた。コーヒーを飲んでいかないかとすすめた。志馬氏はふり切って行こうとした。しかし踵をめぐらせたとたんに、思い返していた。たまにはいいか。なにやら不安な魅力があった。バーのような扉をくぐって、コーヒーを注文した。酒を飲むところのように思われたが、酒を頼むのがなにか不安で、コーヒーを飲みにきたようなふりをしていた。すると女は、さらに奥へと志馬氏を案内した。そこはむさくるしい平屋の裏口のようなところだった。志馬氏にははっと思い当たることがあった。そうか、あそこへやってきたのか。ここは確かに初めての場所ではないように思われた。この淫売屋へ最初に来たのは、ずいぶん昔のような気がした。いつのことだったか、幾人かで連れだってここへはいった。志馬氏は風呂へ入り、なにごとも行わなかったのだが、それからなぜかこの家が気になってならなかった。そこには姉妹がいて、いとも手軽に春をひさいでいたのだが、その最初の日以来、すっかりその家がどこにあるのかを失念してしまっていた。それは学校の、志馬氏の通った中学校の近くのように思われた。そこで志馬氏はいくたびかそのあたりを歩いてみたが、どうもあるようなないような、その気になって入って見るとただの定食屋だったりするので、またたまたま寂しい原っぱの多いところなどを歩いていて、突然その家が目の前にあらわれてきて、しかし入ってみるとただの旅館だったりするので、もうすっかり失われたものと半ばあきらめていたのである。 女はすぐに切りだした。志馬氏はまだ、ただコーヒーを飲みにきただけのふりをしていた。志馬氏は曖昧な返事をした。それはなにか道徳的な不安というよりも、ふところの心配に近かった。まったく一文無しのような気もし、またよく考えてみると胸のうちポケットにかなり持っているような自信もわいてきた。いつのまにやら了解に達して、志馬氏は部屋にあがっていた。部屋には例の姉妹と、その兄弟らしいのが、所狭くたむろしている。やすく値切ったので、妹が相手をすることになった。姉妹は、とくに姉は顔形のととのった美人なのだが、どこか全体に汚れのようなものがこびりついているようで、ふしぎにチャームを欠いていた。ちょうど埃にまみれたロウ人形のような、精神的欠如と恥じらいの喪失がつくりあげるであろう無機的感じがした。部屋は一部屋しかなかったので、カーテンで仕切ったすみに、妹は志馬氏を連れていった。この妹はまだほんの少女だったが、よごれた無機的な感じはやはり姉と同じだった。カーテンとはいえほんの名ばかりなので、部屋の連中からはまる見えだった。少女はしきりにからみついてくるのだが、志馬氏は気にかかってしかたがない。少女の皮膚はロウのように無機質で、ちょうど石鹸をだいているような気がした。少女の性器は人形のそれのようだった。志馬氏は先ほどからこの家のむさくるしさ、薄汚さに辟易していたのだが、とうとう我慢ができなくなって、少女をつきとばして立ちあがった。志馬氏はなにやらデスピレイトなことを叫んだようだった。そしてしきりに胸をたたいて、自分はその気になればいくらでも調達できるんだということを示そうとした。姉が立ち上がってやってきた。志馬氏を畳におちつかせ、恐いものね、恐いものね、といっている。気がつくと志馬氏は裸で畳に横たわっていた。そして姉と妹は、その恐いものをしきりにからかっている。姉がさっとひとこすりすると、たちまちいく滴かがしたたり、畳を汚した。姉妹はそれを見て笑い、またしおれるさまをみてまたも笑った。 (11)オバサン こづかいをしていたオバサンが離婚したというので、家へ帰ってきた。ドーして志馬氏のウチへなど来たのか、よくはわからない。深く考えてもみなかった。ただやもめだというので、これはほっておく手はあるまいと、志馬氏は考えた。オバサンはよくこえていたが、顔はたいへん優しいのだった。子供のようといえば、もっとあたっているだろう。前に勤めていたところでは、よくオバサンの部屋へいって、いっしょにお茶を飲んで話したりした。また時には黙ってひとりで新聞を読んで、オバサンたちの話を聞くともなしに聞いていることがあった。そして女同士の話が、ある微妙な点にたちいたったりすると、志馬氏はわざと新聞に読みふけっているふりをしたが、それを見て時々おかしそうに横目をつかったりするので、志馬氏はますます固くなってしまった。これもみな昔の話だ。志馬氏は職を変わり、オバサンもまたやもめになってそこを辞めた。そして志馬氏のウチへきていた。ウチへ来てなにをしているのかは知らない。ただウチへ来ていると知ったとき、ああ、これはきっとやもめになったのだなと、志馬氏は思った。そしてウチに一緒にいるからには、きっとなにかおこるな、オットがなくなったいま、自分との間はきっとただではすまないだろうと予想された。いや、もっと露骨にいうと、自分はこのチャンスを利用しない手はあるまいと、志馬氏はもう最初の瞬間からきめてしまっていた。 志馬氏はそのとき近くの川へつりにでかけていた。川というより下水というのが正しいかもしれない。なにしろ町の中を、家の塀にそってコンクリートの底を流れているのだから。しかし水は澄んでサラサラと音をたてていて、たしかに小魚がはしりまわっているようなのだった。そこへつり糸をたれて、一日つりをしていた。ときにはすごく大きなのが、淀んだところにいて、見ていても胸がおどるような胴体をゆらゆらさせていたが、針には一向見むきもしない。きっと手でつかみとった方が、てっとりばやかったかもしれないのだが、なぜだか釣りあげなければいけないような気がして、志馬氏は竿をもって魚の動くままにあっちへゆき、こっちへゆきして、とうとう一日獲物のないままに過ごしてしまった。家に帰ってみると、そこにオバサンが来ていたのだった。志馬氏はつかれたので、すぐごろりと横になって休みながら、オバサンのことを考えた。オバサンはグラマーでも 美人でもない。その体は太ってはいたが、どこかまだ少女のように固い、青い感じがあった。とても小学六年生の親とは思えない。言い忘れていたが、オバサンには娘があるのである。オバサンに似てかわいらしく、少々ふとめではあったが。前にこの子のはなしがでて、このごろの子は早いね、と言っていたのを思い出す。志馬氏がいるのを気づかなくてそう言ったのか、あるいは気づいていても何の気なしにそういったのか、そう言ったひょうしに、志馬氏の方をチラとみて、ちょっと顔を赤らめたようだった。そんなことまでが思い出されるのだった。 志馬氏はオバサンのすわっている茶の間へいった。茶の間にはコタツがすえてあって、オバサンはひとりぽつねんとすわっていた。志馬氏はさし向かいにコタツにはいった。なんの話もせずにいた。たださし向かいにすわっているだけで、たがいの心が知れわたってしまって、言葉の必要を感じなかった。いつのまにか志馬氏はオバサンとまじわっていた。はじめからきっとソーなるだろうと思っていた。ソーならなければいけないのだと思った。そしてそれはひどく無機的なまじわりだった。たがいにけがしあうというのではなく、たがいにたしかめあう、いわば挨拶のような、少なくとも志馬氏にとっては淫したという感じがかけているのだった。そしてそれはまたこのごろの志馬氏につきものの嘔吐の感じをかすかに覚えさせはしたが、その無機的欲望によってむしろ大理石のようななめらかさに、感情にも硬度があるとすれば、石質の不快といったものにかわっていった。幻想の温かみも、粘液の発散するおぞましいリズムもない、ただ空漠たるなかにうちしずんでゆく、あわい不快であった。 (12)和解 女がそこにいた。ずいぶんとあわなかった。この長い年月、志馬氏は女のことをまじめに思い返したことはまれにしかなかった。それがふいと今眼の前にあらわれた。眼の前というより、女とならんで席についていた。教室のなかだった。本の講読をやっていた。周りにたくさんの人の気配があった。講師がそのなかに立っていた。しかし女のほかには意識にのぼらなかった。女が本の解釈をした。その声が頭のなかに響いてきた。しかしなぜかその声とその女が別のものである気がした。一枚の幕をとおして、その声は女と志馬氏からへだてられている気がした。女は読みながらしかも同時に読んでいないようだった。声は普遍的な響きとなって、頭の上からふりかかった。志馬氏は時々女の方をちらりと見た。そのたびに女の方が眼をそらすように思われた。たった今まで女は志馬氏の横顔を盗み見ていたにちがいなかった。抗しがたい力に惹かれて女の横顔に眼を走らすと、いれちがいに女の視線が逃げていった。そして眼をもとにもどすと、ふたたび女の視線を痛いほど横顔に感じた。苦痛のあまり目を向けると、女の顔はふたたび本に落ちていた。その表情の寒々とした無関心、とりつきようのない静寂。志馬氏はまたまたなすすべもなく引き下がるほかはなかった。 テクストはヘッセの小説であった。その日本語訳を女は解釈していた。そしてひどく訳文とかけはなれた読み方を女はした。日本語がこんなに別様に日本語に訳されるのは驚きであった。実に深い解釈であったが、志馬氏にはついてゆけなかった。だれやら講師に質問を発した。講師はできそうな男であったが、あっさり答えると思いのほか、ひどくみにくいジェスチャーをして、辞書を引いてみてくれと弁解した。Couldenとかいう単語であった。こんな英語ともドイツ語ともつかない語が突然でてきたのは奇異であったが、それよりも女のことが気にかかった。そしてふと見てみると、女はこれまで正面向きに坐っていたのが、斜めに位置をいつのまにかずらせていたので、ほとんど向きあわんばかりであった。志馬氏は心をうたれてその面をじっと見つめた。白い皮膚に浮いたソバカスが妙に生々しかった。それほど近くで見るのははじめてなので、志馬氏は嫌悪さえ覚えた。女はそんな位置をとったこともまるで忘れたように、無表情をつづけていた。その顔を見つづけることは苦痛であった。志馬氏もまたこわばった表情でなにを言うこともできずにいるうちに、ふいのこと下半身になにやらうごめくものを意識して、あわてて顔をそむけた。しかしその狼狽のなかで、志馬氏の心は氷りついてしまった。誇りのために、意地のために・・・。その顔からはほほ笑みがはなたれず、口からはたった一言の和解の言葉ももれず、たった一言魔法を解く呪文のようなゆるしの言葉が・・・。 いつの間にか志馬氏は荒寥とした建物のあいだに立っていた。講義は終わり、女の姿を見失っていた。この長い年月に、この建物へ幾度やって来たことだろう。いつもある期待にすいよせられるように。そしていくたび重い心のままにたち去ったことか。それでもまるで奇蹟のようなことがまれにはあった。大勢の人の波のあふれかえる昼休み時、ふと行きかう人の群の中にその姿をかいま見た時、次の瞬間、どこの虚空へ消え去ったとも知れぬ底知れぬ空虚さ・・・また教室の人なかに姿はなくてもその気配を感じた時、時が過ぎて人々の去ったあとにひとり残される苦痛・・・暮れゆく大気の中にただその人の気配のいずこかにひそむような、あくがれにひかれるままにいつまでも立ち去ることのできないでいる不安・・・それももう昔のこととなっていた。それらのことがらの実体が、そもそもいつのことであったのか、今は定かでなく、現実であるか影であるかもしれない。そしてその女が何ものであるかも、今はだんだんに記憶からこぼたれようとしている。それは女一般であるかもしれない。永遠の女性であるかもしれない。しかし少なくともその女はいつも若い。年をとらない。そしてその女に遭う志馬氏も、つねに若い。つねに臆病で、つねにおどおどしている。それで時には志馬氏もたまらなくなって、われとみずからを叱りつけてもみる。人生も半ばにさしかかって、いまだにこのざまはなんだ、せめてこの世界でくらい、ものにしてみたらどうなんだ。そして志馬氏はいつのこととは知れない次の機会を待つことにした。今度あの女と隣り合わせに坐ったら、建物の陰にその姿をかいま見たら、その時はどうして言葉をかけずにすませようか。臆病な心をむりにでも断ち割って、血のような笑みを女にあびせてもいいじゃないか。それがこの中年男となり果てた身の、過去に対する贖いではなかろうか。 (13)自転車乗り 志馬氏はある日から自転車に乗ることを覚えた。それまで乗れなかったのではない。すっかり忘れていたのである。散歩は足を使って歩くものだと長いこと決めこんでいて、機械の上にまたがる感覚というものをずっと忘れていた。それがある時久方ぶりで一度乗ったことが、その新鮮なスピードの感覚、おまけにこれまで気づかなかった歩行者に対する優越、さらには高さのうえからくる自動車にまで対する優位などが、特別の印象を残したのである。それでこの頃すっかり、志馬氏の散歩は自転車ですることが多くなってしまった。昨夜のことである。志馬氏はまた自転車で町はずれをウロウロしていた。冒険の心が志馬氏を妙にせきたてていた。志馬氏のいるところは昔住んでいたO市の家を北にまっすぐ、陸橋の方へ向かう道であった。なぜかこのあたりはよく来てしまう場所である。薄暗い家がごみごみと建てこんでいる。その間の狭い迷路のような路地を歩き回ったりしたこともあったが、昨夜は何ということのない好奇心から、ひたすた北へと一本道をつきつめてみようという気になったのである。見知らぬ道を見知らぬ方角へ行く・・・不思議なエロティックな不安と興奮に身をつつまれる。しかも道はしだいに人家の群をはなれて、寂しげな野原や畑の気配を加えていく。とある十字路で前をいく女の人に逢う。この女性は子供を負ぶさって自転車に乗っているのだが、どういうわけか後ろ向きに坐って、前後を逆に走らせている。それだけでなくハンドルを握っていない。見たところ両腕がないようでもあり、または孩子をつつんだ綿入れの陰にかくしているようでもある。志馬氏はそのあぶなっかしげではあるが、実に平気でなにごともなくこいでいく婦人に感嘆を覚えた。人間も必要にせまられると、慣れと練習によってこんな芸当もできるものだと納得しながら、その手離しで自転車を逆行させる女性につづいた。しばらく行くと踏切があった。バーが下りていたが警鐘が鳴っていない。その時あとから来たバスが志馬氏たちを追いこし、どこをどうくぐったものか線路に飛びだして行った。電車の気配を感じていた志馬氏は、はっとして息を止めた。バスは間一髪のところで電車とすれ違って、向こう側へ走り去っていった。その瞬間、一瞬前の気分とは逆に志馬氏はひどく落胆を覚えた。大惨事の目撃をのがしたのが、なんとも残念な気がした。エロティックな欲情をすかされた気がした。鐘が鳴らないなんて危ないなあ。志馬氏は傍らに居合わせた男に言うともなく言った。男はとがめるような眼で志馬氏を見たので、志馬氏はなにか不都合なことをいったような気がした。やがてバーが上がって、志馬氏はやけにたくさんある線路の上を越えていったが、途中二度ほど電車の来るのをかわさねばならなかった。さらに進んでいくと、人家はいよいよまばらになり、森や岡の起伏があたりに迫ってくる。さっきの婦人はどこかで折れてしまって、行くのは志馬氏一人である。もう夕闇が深まって、だんだんに不安が身を押しつつんでくる。その不安が志馬氏をここまで駆ってきたのではあるが、引きかえしたくもなる。やがて前方に登り坂が見えてきた。たくさんの子供たちがその坂のあたりの草むらで、なにやら遊びたわむれている。近づいてみると短いながらかなりの急坂で自転車を降りて引っぱりあげねばならなかった。子供たちはワイワイと何ごとかをわめいている。志馬氏のことらしいのだが、そのなかで「ウィッチ」という言葉だけが聞き分けられた。やっとのことで自転車を引き上げると、子供たちの陰口をあとにして、また走行をつづけた。にわかに山気が増したようだった。道はゆるやかな下り坂となって、細々とつづいていた。左手に農家があらわれ、道はその前の畑をぬってふいに川の岸へ出た。岸というより湿地であった。その湿地の先に浅い川がゆったりとよどみ、木の板を並べた細い道が湿地をよぎって川の上に渡されていたが、対岸もまた湿地でそこには板切れもなく、その先は行けそうになかった。川の岸に沿ってもう一方の道が右に走っていたが、その道もどこまでつづくものか、川の流れに沿ってくねりながら人家のようなところに消えていた。前方には黒々とした山塊が不安そのもののようにふさがっていた。志馬氏の最初の考えではまっすぐ川を渡って、対岸沿いに進み、どこか先にあるにちがいない大きな舗装路までたどりついて、そこから引きかえすというあてをえがいたが、それは対岸の泥のなかに消えている道を見てすぐに撤回せざるをえなかった。次にはこのまま直ちにもと来た道を引きかえすという強迫観念じみた退却意識がせきたてたが、それにはさっきの子供たちの前をふたたび通らねばならないのが、妙に気を重くさせた。志馬氏はあれこれ弁解を考えた。おじさんは用をすませて帰るところだ。もう用はすんだんだよ。簡単な用だ。すぐに済んだんだよ。そんなことを子供たちに言う必要は毛頭なかったのだが、志馬氏は自分で自分の心を納得させなければ通れない気がした。しかし所詮帰り道は帰り道だ。一度通ったところを戻るのは、なんとも味気ないアンティクライマックスを覚えさせる。志馬氏はそれで、その幻滅感から免れるために目覚めたのである。 (14)ユメイストの独白2 感情をどう言葉で直接に表現したらよいか。言葉は所詮役立たずの代用品でしかないのか。異質のもどかしさ。音楽は直接の感情であるが、あまりに一般的であって、特定の、個々の感情体験を保存できない。感情とイメージの結合が夢である。言葉はイメージを描き、感情を説明する、それだけか。苦しいといえばそれでいいのか。美しいといえばそれでいいのか。形容の貧困、形容とはミカンの色を黄色と表現すること。果してミカンは黄色か、黄色を描写できるか、言語で。たくさんの夢を見た。どの一つとして言葉でリプロデュースできない。ものたりないのだ。なにかが失われるのだ。充実したあの感情の濃淡が、陰翳が、表現できないのだ。ただ物語ってなんになる。 昨夜は、志馬氏は飛行船で飛んだのだ。実にめざましい体験だった。しかし飛び始めた時は、自分でも飛んでいるとは気づかなかった。人に誉められてみて、自分がしっかりと宙を飛翔していることを知った。妙な構造の飛行船だった。船体はただ骨格だけで、それに手足をふんばってつかまっているだけだった。ほかにも二、三人の人が、同じようにして乗っているらしいのだが、気配だけして姿は見えない。しっかり前を見ている必要があるからだ。頭上には全体を支えた、大きな風船があがっている。飛行船は志馬氏の操縦の上手なせいか、ぐんぐんスピードを増して飛翔している。墜落の不安がなくもないが、五体には自信がみなぎっている。(この先、船はどこかに着陸したようである。あるいは突然消失したのであるか、定かでない。) 飛行士の沈着さを誉める声がする。飛行士は女であった。志馬氏も人々に混じって、彼女を賞賛の気持で見つめていた。その感情は表現しがたい。飛んでいたのが志馬氏でなくて、彼女であったことなどどうでもよい。ただその表現できない気持だけがすべてだった。そしてその気持も、書くうちに失われた。言葉に表現できないものを、直接経験を、何とか書きたいものだ。音楽を、絵画を、言葉で表現したいものだ。 そんなことが可能か? (15)抱擁 最初のやつはそう高くはなかったが、次のはかなりありそうだった。コンクリートのビルディングだった。どうして登らなければいけないのか、それは忘れた。志馬氏はただ階を登っていく。うしろからやはり男女が登ってくる。最上階へついたときは、もう今にも建物が足元からぐらぐら崩れそうで、とてもじゃない、何十何階とかいう高いところに住んでいる人の気がしれなかった。そこには窓があって、そこから見える下界は、こんなにもあがってきたのかと思うくらいに小さく、目まいがするくらいはるか下にあって、いっしょにあがってきた誰とも知れないアベックものぞいていたが、志馬氏はその下界に吸いこまれそうになって、思わず腰をおとしてしまった・・・。 下りる時はスイスイとうまくいって、しまいには手摺かなんかにつかまって、ジェットコースターのようにすべったものだ。あんまり勢いがよすぎて、その先どう止まったものか覚えていない。 ・・・水をわたると岡があって、それをのぼると上には学校の運動場があった。そこの隅のコートで女子高生がバレーボールだかドッヂボールだかをやっている。志馬氏はそばまで行って、小屋のような建物のまえの土の一段高くなった所に坐って、彼女らの練習のさまを眺めていた。自分が彼女らにどう見られているか、かっこよく見えるだろうか、などしきりに気になったが、幸い彼女らの方は志馬氏の存在にほとんど注意を払わなかった。彼女らの間ではボールがビュンビュンうなりをあげて飛びかっていた。女でもこれほど力を出せるのかと、あらためて感心した。彼女らは運動シャツに黒いブルマーをはいていた。志馬氏はたまたまそばに来た女生徒に、その感嘆をもらした。彼女は聞いたようでもあり、聞かないようでもあった。男の教師がなかで指導しているのに気づいた。志馬氏は何となくうらやましいやら、やましいやらの気持になって、そっと小屋の裏に回った。裏は林になっていて、少し行くと急に地面が落ちて崖のようになり、すぐ下には道があって人が通るようだった。気がつくとさっきの少女がいっしょについてきていた。いつのまにやら了解ができていて、崖ぞいの木々の間にある、枯葉の散り敷いた、人目をまぬがれそうな窪地に、二人は横たわった。乳房と乳房、腰と腰とが触れあって、二人の裸の女がそこに抱き合った・・・。 (16)行き倒れ 広いテーブルには料理が並べられ、ビールの壜が間に幾本も立っている。これから会食が始まろうというのである。テーブルの周りに坐っているのは、全部西洋人の中学生か高校生かで、ほかに大人が三人、志馬氏とN氏と、それともう一人どこかで会ったような人だが名前を思いだせない人物がいた。西洋の少年というのはずいぶんと大人ぶっていて、志馬氏たちと同様ビールをつぎあっているのを見ても、別に不思議な気がしなかった。志馬氏はそんな感想を右隣のN氏にもらした。N氏ははにかむような笑いを見せて、相槌をうった。なんという合図もなしに、みなは食事を始めている。志馬氏も目の前の料理に手をつけだした。黙々と食事は進んでいる。なんのためにこうやって集まって会食をしているのか、だれもみな忘れてしまったようだ。志馬氏も思いだせない。そのうちビールが回ってきたのか、志馬氏の舌は活発になった。N氏と献酬をくり返しながら、たわいない雑談に花が咲いた。そのうち気がつくと、左の方にいる名前の思いだせない某氏が、志馬氏の皿の上の料理にものほしそうな目つきを送っていた。志馬氏はちょうど食べようとしていた厚そうな肉片をフォークで半切れにして、半分を彼に提供した。それが縁で彼も話しに加わってきた。志馬氏たちは少年たちのことも忘れて、しばらくビールや料理をやり取りしているうちに、テーブルが静かになったのに気づいて、見回してみると、少年たちはいつの間にか全員床の上に車座になって、ビールが切れたものとみえて、いつもちこんだものか、二升もありそうな大壜を中にかかえこんでいる。それもつぐとき泡だつ様子から、中味はやはりビールのようなものらしい。歌など歌って、さかんにはしゃいでいる。それを見ていた某氏は、こらえきれなくなったらしく、コップを手にして少年らの中に割りこんでいった。少年らはさかんに招くので、とうとう志馬氏も抗しきれなくなってコップを差しだすと、大きな壜から泡だつ液がなみなみとつがれた。 行き倒れ人が出たという。酒に酔って雪の中に倒れたまま、夜を明かしてしまったのだそうだ。志馬氏は、とても生きてはいないだろうと思った。行ってみると、雪の中でうつぶせに倒れてカチコチになっている。だれももう看護しようとはしない。救急車もいっこうにこないし、呼んだのかどうかも知れない。志馬氏は、最初死人だと思ったときは、非常にイヤーな気持になったが、もしかしたら生きているかもしれないと思うと、まわりの人の無関心なのが腹立たしくなった。知らない男のようだが、ひょっとしたら知人かもしれない。そう思うとどこかで見たような気がしてきた。とりあえずいま自分が抜けだしてきたばかりの寝床の中へいれて、温めようと考えた。布団がびしょ濡れになってしまうが、人命には換えられないと、奇特な決心を固めた。男をかついで布団の上へ寝かせた。上に新聞紙や毛布などかけ、最後にまだ寒そうで綿布団をかけ、おまけに自分では使ったこともない電気アンカをもってこさせて足許に入れた。 数日後、道を歩いていると、この男にぱったり出会った。男はすっかり元気になっていて、旧知の間柄のように話しかけてきた。志馬氏はやっぱりこの男と前にどこかで会ったことがあるような気がした。 (17)マヨネーズ 暗い大きな建物の中の一室で、志馬氏たちは競技にふけっているのだった。どんな競技かというと、実にたわいないことで、いろいろなガラクタをあちこちにくまなく積みあげるのだった。さわれば崩れそうな石板のかたまりや、そのほか何と形容しようのない瓦礫を、うまく崩れないように積みあげておくのだ。それを判定する男が回ってきて、あれこれコメントしながら崩していくのである。志馬氏はその暗い実験室のような小部屋の、雑然とした器具やらテーブルやらの上に、そうしたガラクタを積みあげて、一人悦にいっていると、判定員が入ってきて、無雑作にそれらを崩しながらぶつくさ難じるので、すっかり自信を失って建物の外へでた。運動場にさしかかると、人々がぶらぶらしている中に、大学時代の同窓のK子の姿を見つけた。幸い背中を向けてだれかほかの女性と話していたので、志馬氏は見つからないように大回りをして、砂場までくると、そこで役者のような男がなにやら弁じていた。鉄棒のそばに腰をおろして話を聞いてみると、明日の学園祭に演じる出し物の宣伝を子供たちに向かってしているのだった。と思ううちに、いつの間にか眼の前にテレビがあって、そこでその三人で演じるという劇の一部が映し出され、しゃべっていた役者のような男が主役で、時代がかった舞台劇が大仰な身振りでくりひろげられていった。見ているうちに志馬氏のそばに黒い皮膚の半裸体の男が、身をくっつけるようにして坐ったので、志馬氏は未練ながらもつと立ち上がって、校舎の方へ歩きだした。校舎と塀の間の狭まった路地を行くと、左の校舎ぞいに、明日の学園祭の出しものの屋台やら展示場やらが、目白おしに並んでいる。途中小便小僧の仕掛けのあるところへさしかかると、男の像の前でパッと霧のようなシャワーが降ってきたが、ただの水のいたずらだった。女の像は原始人の彫るような素朴な平ぺったいやつで、女陰のところは一本の線が子供のいたずらのように刻まれていた。そこを抜けると門へ出るのであるが、何か忘れ物をしたような気がしきりにしてきたので、志馬氏は建物を左にめぐって、何か置き忘れをしたらしいその部屋を探すことにした。 日は落ちて夕暮になっていた。校舎は黒い影に変わっていた。この広い構内の巨大な建物群の中で、一つの部屋を探すのは大変なことに思われてきた。気はあせるばかりで、とうとうどこをどう歩いているのかも判らなくなってきた。突然あたりがまっ暗になった。どこをどう来たものか、森の中へ分け入ってしまったのである。もう道も見えない闇の中で、志馬氏はへなへなと腰を下ろしてしまった。するとそのままの姿勢で、志馬氏の体はぐんぐんと森の中へすべっていった。草を分け枝を払う感覚が体をかすめてゆく。それでも道だけは何とかはずれないように、気をはっていた。森の真ん中で志馬氏の体はとまった。志馬氏は闇の中で獣のようにあたりをうかがった。すると先にぼおっと明りが見えていた。志馬氏は狼狽してそこまで這うようにしてゆき、障子をぴたりと閉めた。もう一方の端の障子も閉めた。志馬氏は薄暗い座敷の中に坐っているのだった。畳の上にはマヨネーズのようなものがこぼれていた。ちり紙を出してふいてもふいても、それはなかなかなくならないのだった。 |