夜男爵の部屋 第十四夜

志馬氏の夢日記(後篇)

ゲスト 夢遊星人

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 志馬氏の夢日記(後篇)

    夢遊星人 作

(18)入浴

 女が湯槽につかっているそばで、志馬氏はうずくまって、組み合わせた両手の上に額をのせていた。顔を挙げれば、女の裸体が湯の中にのぞかれた。しかし女にその下心を見せるのがしゃくで、わざと憂鬱そうなふりをしてしゃがんでいた。志馬氏はどうして自分がこんな所にいるのか、思い出せなかった。女に誘われたのか、そうではないらしい。それにしてはやましい気持がありすぎる。やっぱり好き心をだして忍びこんだのであろう。しかしその目的を達する前に萎縮してしまって、こんなポーズをとる仕儀に至ったのであろう。すると女が笑いながら湯槽から立ちあがった。扉をあけて外へ出ていった。きっと人を呼びにいったのだろう。
 志馬氏はすっかりあわててしまった。どうしたらいいだろう。志馬氏はとっさに着ている衣服をぬいで、湯槽にとびこんだ。たまたま風呂へ入りにきたら、女とはちあわせになった。もっともらしい理由だと思った。そこへ扉があいて、女の友達らしい二人の女の顔がのぞいて、からかうような、さげすむような笑いを挙げた。しかし志馬氏にはもっともな理由があるので、動ぜずに湯につかっていた。女たちはあきらめて去っていった。

(19)朝鮮へ

 朝鮮へ行くものの中に、志馬氏も手を挙げた。なぜだか行きたい気がした。他にはいないようだった。しかし学校が終って朝鮮へ行くものだけ集まるというので、その集まりに出てみると、同じ考えのものが志馬氏をいれて六人集合した。そこは昔志馬氏が手紙を出したことのある、T子さんの家だった。T子さんも朝鮮へ行くのだった。こんな思いがけない偶然からT子さんに再会できたばかりか、同じ席でしじゅう彼女の存在を意識できるというのは、なんとも心楽しいかぎりだった。みなは長椅子が喫茶店のようにいくつも並んでいる、広い応接間の隅に陣どっていた。T子さんはみんなの中に腰をおろさないで、しじゅう志馬氏の左うしろに立っていたので、姿や顔をよく見ることができなかったが、たえず志馬氏の意識に快適な気配を与えていた。ときどき父親が部屋の隅のほうに顔をみせたりするのが、いやみではあったが。みなは朝鮮のことなど話さないで、たわいないむだ口をたたいていた。同じ並びのとなりの長椅子からは、K子が身をのりだすようにして愉快がっている。志馬氏は彼女の存在を意外に思って、ちょっと不快な気がした。
 朝鮮へ行く船に乗るために、志馬氏は自転車で港に向かっていた。アスファルト装の広い道は、うねりながら谷の底に落ちこんで、ふたたびスロープを這いあがり、先方の岬の陰に回りこむようにして消えている。車の通らない静かな昼下がりだった。自転車がこの巨大な下り坂にさしかかると、志馬氏はあたかもふたたび這いあがれない淵にのみこまれでもするような畏怖にうたれて、よろよろと倒れてしまった。

(20)ざんげのことば

 所有するよりほかに、もうなんの意欲も目的もないのであるか。無いものを所有することばかり頭につきまとい、あるものには所有したとたんに興味をなくしてしまう。なんとおそるべき欲望であるか。欲はみたせばみたすほど大きくなり、もうここまでというふんぎりが、どこまでいってもつかない。しかしその欲をなくしてしまえば、あとにはなにものこらない。ただ空虚のおそろしさばかり、無為の不安ばかり。それを逃れたいばかりに、また欲に身を投げて、みずからはじながらも、ただ欲の動かすままに動き、ひたすら貪欲の餓鬼となりはてて、都会の喧騒を走り回る。
 昨夜も志馬氏は、人のこみあったどこかの書店に、自分を発見した。目を皿のようにして書棚を眺めまわしている。そこには椅子などもすえられていて、本を手にのんびりくつろいでいる姿もある。なかに女優のK子がいて、大判のアリスを自分の本のようにいつくしんでいたが、その本はすでに志馬氏が目をつけていたので、すきをみてとりあげた。そのほかに十冊近くかかえて支払いにもっていくと、全部で七千五百円するというので、はじめてはっとした。それでも家へ帰って書棚に並べてみると、満足を覚えた。
 家にはさっきのK子がH子になってきていた。学校をやめ、家をとびだして、あちこちで働いて、最後に、知りあった志馬氏の家に、ころがりこんできたのであった。まだあどけない中学生なのだ。人をくったように笑いながら、こたつにすわって志馬氏の顔を見かえす。朝、顔を洗ったときに、よくおとさなかったと見えて、一方の鼻のあなから鼻くそがのぞいているのに気がつかず、顔をくしゃくしゃにして愛想笑いをしている。美人ではないが、笑っているとなんとも愛くるしい。志馬氏はその鼻くそをなめてやりたいくらいだった。志馬氏は彼女の行く末を思って、説教をたれるつもりであった。中学も卒えないで、この先どうなっていくだろう。自分の力で何とか学校を卒えさせて、できればその上も行かせてやりたいと思った。しかし彼女を養っていくのは、なんとも不安な気がした。自分にその資格はなく思われた。現に今もセクシャルな欲望が、志馬氏の中にないとはいえない。彼女のためのようにしゃべりながら、志馬氏には自信がかけていた。そして逆に、自分が彼女のために征服されそうな懸念をおぼえるのだった。

(21)雨の日

 旅行に出るという。一緒に行かないかとS君がさそいにきた。一泊の温泉旅行なのだ。
志馬氏の知っている連中がみんな来る。さそいをことわるのは、なんとなく気が引ける。いつもの決断力のなさだ。行くとも行かないとも言わずにいる。出かけていって彼らとひさしぶりに顔をあわせたい気がする。同時にひどく照れくさい気がする。それ以上に羞恥感が先立つ。今さら彼らと会ったところでどうなるというんだ。おのれの弱さをさらけだすだけじゃないか。それでもとうとう最後までどっちとも気持のふんぎりがつかなくて、志馬氏はとりあえず待ち合わせ場所まで行ってみることにした。人ごみの中の停留所のそばで立っていた。はじめはまだだれも来ていないようだった。志馬氏はなんだか急に気が小さくなって、停留所に背を向けて、人ごみにまぎれていると、だんだん集まってくるようで、Kさんやその他の連中の気配が感じられた。志馬氏はどうしてもふりむいて彼らと会う勇気がだせなかった。その実やっぱりなつかしくもあった。そうして立っているのがいかにも苦痛であった。とうとう志馬氏は歩きだして駅へ行き、電車の切符を買ってプラットフォームに立った。こんな時にはピンク映画でも見るにかぎると思った。
 電車がいく本か通りすぎた。やっと各駅がとまって、それに乗り、いく駅か先で下りた。まえに何度か前を通ったことのある映画館が、駅から少し先にある。いつも看板を見るだけで入ったことはない。この前見た看板には、女の人がうしろ向きに肛門をさらしていた。またいつかは、見ただけでひどく不安になる化物じみた絵看板だった。その蛇じみた化物の胸には豊かな乳房がついていて、恐怖とエロとを折衷させた映画のようだった。今見てみると上映しているのは普通の映画で、志馬氏の期待は外れてしまった。スチール写真をよく見ようとして近づいてみると、それは書架になっていて、洋書のペーパーバックがタイトル背を裏向きにして並べてあった。怪奇小説のようだった。一冊手にとってみたが、だれが書いたとも知れない、不気味な雰囲気だけがただよってくる。
 駅から家までタクシーに乗った。雨降りだった。傘を用意していたのだが、歩くのは面倒だった。タクシーは家のある土の道へ折れると、まだずっと手前で止まってしまった。そこはM君の家の前だった。運転手は五千八百円要求した。いくら何でもそれは高いと思った。まだ家のずっと手前で、その上ぼられてはふんだりけったりだ。志馬氏は車から下りて傘をさした。運転手も下りてきて金を要求した。言いあらそった。これはもうおまわりさんに来てもらうほかはないと、志馬氏は思った。電話を借りにMの家へ入った。運転手はついてきた。Mは家にいた。志馬氏は縁側から傘をさしたまま上がりこんで、Mに事情を説明した。二千四百円のはずなのに、五千八百円はそれはないよ、ね、そうだろう。Mはなにも言わずに志馬氏の顔を見た。あきれているようでもあり、無関心のようでもあり、ひどく冷淡だった。母親も出てきたが、やはりなにも言わずに志馬氏の顔を見つめるだけだった。志馬氏は電話をかしてくれと言った。二人はなんとも答えなかったが、志馬氏は電話機をつかんだ。警察を呼びだした。出てきたおまわりさんに、また同じ苦情をくり返した。すぐに来て、この悪党の運転手をなんとかしてくれ、とたのみこんだ。電話の向うのおまわりは、聞いているのかいないのか、少しも手ごたえがないのだった。

(22)古屋敷

 Kの町を散歩していた。なんだかいつもと様子が違うようである。車通りがなくなって舗装のない道に変わっている。人通りも少なく、店などもあまりない。要するにいつもの騒々しい通りが、閑静な住宅地に変わっているのだ。歩いていると大きな古い門構えがあった。志馬氏はその前でぱったりとO氏にであった。今帰りとみえて門を入るところであった。顔を見合わせて、志馬氏も相手もしばらく口に出す言葉を考えていた。やあ、しばらく、どちらからともなく言った。そのあとO氏は志馬氏の顔を見つめたまま、もじもじしている。半分当惑しながらも、志馬氏は当然内に案内されると思っている。門から中をのぞきこむと、かなり大きな屋敷である。庭にはプールがあって、黒い水をたたえている。家は古い造りで、しんとたたずんでおり、人がいないような感じがする。彼の奥さんは旧い家柄で、結婚してこんな結構な住まいを手に入れたのだなと、ぼんやり記憶のようなものが浮かんだ。しかしこんな所にあったとは、ちょっと不思議な気がした。むかしのよしみで、あがれとでも言うだろうと思って、無遠慮に門から首を入れて、そのまま引っこめずに待っているのに、いっこうにお召しがかからない。どうやら迷惑げに、O氏は黙って志馬氏の顔を見ている。なにやら言いたげにその唇がふるえている。志馬氏は急に自分の厚かましさが恥じられて、なにも言わずに門を離れた。
 しばらく行くと町のはずれに出たようで、そのあたりにあるはずのパチンコ屋を探した。入ると狭い場所にゴタゴタと台が並んでいる。その間を行くうちに、なんだかいや気が差してきて、そのまま店を通り抜けて出た。

(23)花火

 志馬氏は旅館の一室にいた。はじめ中学時代の連中ばかりなので、教室のように錯覚していた。広い部屋だったからそう思ったのだろう。たくさんの人数が集まって、なにかの会を開いていた。ほかの部屋では女子達が同じように集まっているらしかった。Nという男が特に目立って、みんなの間をなにやらしゃべりまわり、とりもっていた。部屋のあちこちに手荷物が散らばっている。団体旅行のようでもあった。なにかを始めようとしているのだが、なかなか始まらない。というより、もう終りかけているようだった。だれかが荷物の中から袋に入ったものを取りだした。見ると花火であった。てんでに手にとって火を点けると、パチパチと火の粉を飛ばす。それが閉会のセレモニーであったのか、火の子がつきると、だれからともなく帰り支度をはじめて、さっさと部屋を出ていく。志馬氏はなんだか自分一人とり残されそうな気がする。同時に一人で残っていたい気もする。一緒に出ていく決心のつかないうちに、気がつくと部屋の中には志馬氏一人しかいない。志馬氏は半分そうなることを望んでいたように、妙な興奮を覚える。
 どこかに人の気配がする。隣との仕切りを開ける。空き部屋があって、気配はさらに先の襖の蔭からする。そっと開けてみると、女子達が居並んでいる。上着をとって肌着になり、なにごとか議論している。こちらには気づかないようだ。志馬氏は中へふみこんで行きたい誘惑をおさえて、もとの部屋へもどる。散らばっている雑誌をひろいあげた。一冊は推理小説の特集で、「赤い館の秘密」のほかに十篇ほど並んでいる。もう一冊はSF特集で、ゼラズニーの長編の翻訳その他ずらり。頁をめくっていると人の来る気配がする。校長らしい男が入ってきた。なにやら文句をつけたそうな顔色である。めんどうくさいことにならないうちに、志馬氏は旅館を出ることにした。
 玄関へ出て靴をさがした。片方しかない。旅館のものが済まなそうな顔をしている。志馬氏の茶色の革靴は、もうだいぶくたびれている。そんなものを履きまちがえるのがいるのだ。靴のたなにぴかぴかの茶色の靴が、片方残っているのを見つけた。これではどうにもつりあわない。部屋にだれかの靴があったのを思いだした。番頭にそう言って、もう一度部屋にもどった。部屋にはだれもいない。靴はあった。そのそばにまだ点けていない花火がいく本かあった。なぜかそれを点けてみる気になった。マッチをすって火を近づけると、火花を飛ばすかわりにぶすぶすとくすぶるだけだった。もう一本点けてみた。やはり同じようにぶすぶすとくすぶるだけで、それをいつの間にか来て、番頭が肩口からのぞきこんでいる。

(24)ユメイストの独白3――恐怖――

 恐怖というのは何なのだろう。同じことが恐い場合もあれば、別の時には恐くもなんともない。心の受容性しだいでどちらにでもなる。普段何でもないものが、心の状態しだいでは、ひどく恐いものに思えてくる。はたして恐いのが本当なのか。恐がらないのは、心が鈍感になってしまったためなのか。それとも恐いというのは、事物があるその奥底にひそむものを、突然になにかの拍子で垣間見させるからなのか。とにかく恐怖というものは、その時恐がっている心だけに理解できるものである。あるいは理解なんかできなくて、ただやみくもに恐いのかもしれない。その体験が怖さについてすべてを教える・・・。
 だから怖さというものを言葉によって追体験しようというのは、なんとなく気のぬけた話だ。怖がらせようというのなら話はべつだが、怖かったしだいを書いてみようとなると、その事件というのはたいしたことではない場合が多くて、ただそれがむやみに怖かったというだけにすぎない。こんな場合がそうだ。夜中に突然その日買ってきた本を読みたくなった。手にとってパラパラとめくってみる。なぜか一番最後のあたりから読みはじめる。もうどんなことが書いてあったかは忘れてしまった。はなしは最初のページにもどったときである。読んでいる内容が実に鮮やかなイメージとなって眼前に髣髴した。どこかで教会の鐘がしきりに鳴っているようである。あるいは火事の半鐘であったかもしれない。とにかく画面の中央には赤色のイメージがあった。たくさんの人々が、おそらくどこかの街の市民であろう、道の両脇にすきまなく並んで、いま闇の奥から進みでてくる何者かを待ちうけている。なかに中心人物らしい僧服の姿が、視界を半分おおっている。突然押し殺したような恐怖の叫びが、叫びというよりも呻き声が、群集の間を走り、お主婦さん連は急いで胸に十字を切る。闇の奥から黒い影が進み出る。人々は両脇へのき退く。人々は目をそむけた。それと同時に黒い影は、はっきりとしたイメージをとらない前に視野から消えた。また同時に、一瞬男の狼狽の心が伝わってきた。男は世にもいまわしい所業のまさに絶頂において、思わぬ舞台の脚光をあびたように、衆人環視の中に置かれたのである。しかしその狼狽の意識は、ただちに観客の側の恐怖にとってかわられた。人々の前にあるのは、最もいまわしい性的怪物の姿であった。それは恐怖そのものであった。このような所業が人間として可能であろうか。恐怖のうめきはしだいに高まり、その伴奏に送られるようにして、いま男は裁きの座へ導かれるのであろう。その回りにみるみる暗黒がわいて、画面を真っ黒にぬりつぶしていった・・・。男の名はジャックといった。私の読んだ小説はゾラの「ラ・ベト・ユメンヌ」であった。ジャック・ザ・リパーの所業に嫌悪を覚えることはあっても、恐怖を覚えることはめったになかろう。それだけに転落の深さがそこに測られるというべきか。

(25)傑作

 一人の若い男とまだ高校生くらいの少女。男は蒼みがかった皮膚に鼻筋の通った、まだ固まりきらない青年の顔。年下に対しては信頼を起こさせる謙虚な自信と落ちつき、同時に戸惑いのようなものをただよわせている、まさに知的な青年の顔である。詩を書くか、文芸にたずさわっているにちがいない。相手の少女になにやら批評めいたことを、遠慮がちにしゃべっている。話の途上で少女はからからと笑う。その人を戸惑わせるような男性的な笑い声は、決して不快というわけではなく、イノセンスの証明のような、まだ成熟しない年頃にかえってふさわしく思えるくらいだ。
 少女のひとみは輝いている。それを受ける男の眼はまぶしそうだ。なにかたくましさというもので反対に圧倒されているようだ。といって少女が無骨者であったり、、肉体的容量においてどうのというのではない。それは若さのおのずからな力というものだ。青年は若い。少女はさらに若い。若く、イノセントで、底知れない。それはただその事実だけで年長者に憧憬を、時にはエンヴィをいだかせるていのものだ。
 少女はプレインフェイスであった、とだけ書いておこう。この際、容色(きりょう)など問題でなかった。男がなにをしゃべったか書くべきであろうが、忘れてしまった。少女は一冊の劇画を画きあげた。それをこの文学青年のもとへもちこんで、批評を乞うたのである。青年の当惑は少女のまごうかたない才能にあったかもしれない。才能は才能に嫉妬するものだ。青年の評はしかしよどみなくつづく。未熟さの欠点をあげ、かつその中にきらめく宝石を認めるにやぶさかでない。少女は青年の一語一語に眼をかがやかせ、なにが可笑しいのか、さりげない言葉に笑い声をあげる。
 志馬氏はたまたまこの少女の作品というのを手に入れた。印刷されたものでなく、彼女の生の作品である。その入手経路については、本人でさえ明らかでないのだから、さておくとして、志馬氏がそれを手にしたときの気持は複雑であった。率直に言うと、それを読んで志馬氏は非常なねたましさを感じた。志馬氏よりはるかに若い少女にこうした作品が画けるというのは、志馬氏のプライドにとって、野心にとって、少なからぬ打撃であり、いまいましいことだった。同時に、これはなんとも志馬氏のイジきたなさをさらけだすようだが、読み終わって画用紙の粗末なたばを再びたたんだ時、志馬氏の心には将来きっと価値のあがるに違いないオリジナルを手にしているという、投機的な考えが起こったというのは、年のせいでもあろうか。
 さて、肝心の作品のことだが、絵画的イメージを言葉に換えようというのはすこぶる困難である。単にスジをとらえるということも、もともとスジなどは無視した連想によって動く作品なのだから、不可能に近い。だが一つ二つのイメージを思いだすままに断片的に描いてみよう。出だしは確か眼のイメージであった。その眼は最初小さく、しだいに大きくなり、同時にそれは鏡のレフレクションでもあった。鏡に映ったものとして読者を見つめているのである。それから突然に、それは二人のおびえる男の姿となる。さらに遠くから地鳴りをあげて、たくさんの象が走ってくる。登場人物は、それは同時に志馬氏なのだが、壁際の一段低くなったところにうずくまって、それを避けようとする。象の群はぐんぐん近づいてくる。巨大な足裏がふりあげられ、ふりおろされ、恐怖は極度に高まる。そこをどう逃れたのかは知らない。あるいは読者はさまざまな逃避手段を、いつの間にか作品の中で考えている。一目散に逃げるもよし、もよりの木によじのぼるもよし、しかしその木の枝には蜂の巣がある。しかもこの怒涛のような象群の勢いの前に、このかぼそい木はもちこたえるであろうか。さまざまな危惧と不安の想像のうちに、場面は一転する。そこには狂った頭脳がある。狂った頭脳というものを、はたして描きうるであろうか。しかしそこには歪んだイメージが連続していて、読むもの、つまり見る人の脳にその歪みが反映するのである。それはほとんど耐えがたいくらいの不安と苦悩である。最後のページを閉じるときには、安堵がいまだ圧倒的な胸苦しさの中にかろうじてその片鱗をみせる。これほど強烈なイメージ、連想の奇怪さ、不安の効果のなまなましさをもった作品を、かの少女は画いたのである。志馬氏のねたましさを越した憧憬もむべなるかな。
 しかし残念ながら、この劇画のオリジナルというのは、いつのまにか志馬氏の手元から失われてしまった。どうして消えたのか、どうして手に入れたのかと同様、志馬氏の記憶にない。少女に会う機会とても失われた――もっともこれまでだって、最初に書いたように間接にしか会っていない。いまとなっては、作品を読んだときのあの深い印象だけが、志馬氏のその作品について知るすべてなのである。

(26)怪物

 それは人間だった。人間であって怪物だった。だから恐ろしかった。それはヨーロッパ、特に地中海あたりでひそかに行われているという、奴隷労働についての番組だった。むち打たれ、酷使され、苛まれたそれらの怪物、いや人間。彼らは化物として迫害され、奴隷にされて重労働に押しつぶされている。だが彼らはその外見にもかかわらず、化物ではないのだ。知力を持った人間なのだ。彼らの顔は、それは顔であろうか。頭部が二つのコブに隆起して、ひしゃげたハート型にアゴへ細まっていく。その皮膚は網模様、口は見あたらない。眼は、これが一体眼だろうか。丸い革ボタンが二つ張りついている。どうみても、この頭は、顔は、瓦センベイの化物だ。だが恐ろしいのは、そのセンベイがしゃべるのだ。シューシューと空気のもれるような音をだす。ただシューシューと聞こえるだけだが、それを通訳をつとめるヒューマニストの活動家が翻訳する。彼は不正を訴え、圧制に抗議する。彼らは見かけはどうあれ人間だ、こんな迫害が許されてよいのだろうか――解説は言う。化物人間のシューシューいう音をよく聞くと、人間の言葉らしく思えてくる。
 志馬氏はとうとう胸苦しくなって家を出た。なんだか今にも怪物が部屋の中へ躍りこんできそうで、一緒に閉じこめられることがたまらなかった。しばらく行くと、後ろから一人の男がついてくるのに気づいた。なんだが危害を加えそうだ。志馬氏は駄菓子屋の角を曲がった。男も曲がった。先は行き止まりだった。志馬氏はてれ笑いしてひき返した。男と向きあって互いにわけもなくニヤニヤした。男はどこか見覚えがあった。一緒に女子高生のハントに行かないかという。いいぞ最近の女子高生は、紹介してやるよ。志馬氏は聞かなかったふりをして、男から離れた。男の言葉はなんだかいつまでも引っかかっている。駅へ出た。ここでひょっとしたらガールフレンドと出会いはしないかと思った。思うそばから彼女が向うからやってきた。急ぎ足だ。志馬氏のいるのに気づいたのだろう。だが志馬氏の方を目ざしているのではなかった。まったく無視するように駅の中へ入っていって、そこで待っている男と落ちあった。
 アブラアゲをさらわれたようなみじめな気持になって、志馬氏はどんどん道を歩いていった。道は人家から離れてだんだん野原へ出るようだ。しばらく行って道なりに右へ折れると、右側には石垣が盛りあがり、門があって広い校庭が見はらせた。校庭では女子高生が群れている。きっとさっきの男の言葉が頭のどこかにあって、知らず識らずここへ引き寄せられたのだろうか。石垣ぞいの道は狭くなって、水の涸れた堀か、それともなんのために掘ったとも知れない広い溝が、左側を限っている。道は橋を支える盛り土につきあたって終っていたので、その溝に下りるしかなかった。溝をしばらく行くと、しだいにのぼりになって、普通の高さに出るとあたりは田圃に変わっていた。田圃の中の野道をさらに行く。するとM氏が志馬氏を追いぬいていった。あとからもまだ一人見知らぬ男が来る。志馬氏はM氏がそらとぼけて先をぐんぐんゆくので、ちょっとふざける気になって、手にしていた洋傘で、破れたところがヒラヒラしている黒いコートの裾を幾度か突いてみたが、やはり知らんふりをしている。するとふいに、あとから来た男が志馬氏の首にからみついてきて、酔っぱらったように話しかけてくる。――おれは昔は勤め人だった。志馬氏は何だか不快になって身をふりほどくと、どんどん歩いていった。歩いていると今度は妄想につきまとわれた。志馬氏は裸の女と抱きあっていた。それは実にあざやかな感覚をともなっていて、歩いている志馬氏と、妄想のなかの志馬氏と、どちらが本当か判断のつかないくらいだった。志馬氏はよろめいて、いつの間にか道からはずれ、田圃の中を歩いていた。

(27)坂道

 志馬氏はMの家へ行った。つれの男と二人、大きな部屋へ通された。他にも人が来ていて、がやがやと歓談していた。なかにMの姿もあった。その部屋には一方の側に古い本のコレクションが並んでいた。志馬氏とつれは他の連中と交わる気になれず、二人でその古書をながめていた。なんだかさわると崩れそうな代物が並んでいる。引きぬいてみると乱歩の本で、乱歩が所持していたものがここに蒐集されているのだ。金文字もはげ落ち、色あせ、カビの生えた本ばかりで、吐気がもよおされてくる。なかに袋に入った日記のようなものがあったが、読むのをためらっていると、Mが近づいてきた。Mとはずっと気まずい状態がつづいていたので、顔を合わせることもできず、志馬氏はここへ来たことが悔やまれてきた。
 Mは連れの男と話している。連れもまた、なんとかよりを戻そうと親しげなところを見せようと努めるのだが、Mはとぼけている。はじめそのつもりで来たわけではないが、こうして気詰まりなのが息苦しくなる。すると急にMが志馬氏に顔を向けて、さりげない調子で自分の家を見せようという。Mは結婚して別棟を建てまし、そこに住んでいるのだが、志馬氏と連れを窓の方へつれていって、カーテンを引き開けると、その家が見えた。母家の裏手にあって、木々に囲まれ、五階ほどのほっそりした建物が心もとなげにたっている。それは薄っぺらな平屋を順に重ねていったようなあやうさだった。
 三人は近くの公園へ散歩に出た。畑の中を散策しながら行くと、石崖のうえに出た。かなりな急勾配だが、途中でゆるくなって最後はなだらかに下の道へつながっている。崖のようでも、また坂道のようでもあった。志馬氏はMといるのがどうにも気づまりまので、ここを下りて一人になろうと思った。しかし一足下りるとたちまち眩暈がした。下りた当初は垂直に近く、背を石崖にぴたりはりつけて足場をさぐる間もなく、すべり落ちていた。あっという間もなく真ん中へんのゆるやかなところへ来て、あとはつんのめるようにして坂を走り下りた。つまずかなかったのは幸いだ。下に下り立ち、ドキドキする胸をしずめていると、上で見ていたほかの散歩者たちが、真似をして下りようとする。一人の婦人がまず下りてきて、途中なだらかなところへ来て足を急がせたはずみに、長スカートの裾をふみつけて転んでしまった。次に下りてきた女性もまた同じように転んでしまった。志馬氏はよせばいいのにと思いながら見ていたが、まだまだつづいて下りてくる。志馬氏は胸苦しくなって、さっさと道を歩んでいった。

(28)ユメイストの独白4

 ものみな寝しずまった深更に、重苦しい眠りからふと覚める。夢を見ていたようだが、どんな夢だったか、にわかには思いだせない。それともなにか眠りの中で考えつづけていたような気もする。それが突然とぎれて、長いトンネルのしばしの切れ目にさしかかって、暗い夜空を見上げているような断絶の境にいるおのれに気づく。おのれを目覚めさせたものはなんだったろうか。不吉な気配がとりまいている。心は暗い不安に沈み、張りつめた感覚がいまにもおのずから鳴りだしそうだ。身を固くしたまま聞き耳をたてる頭と、こわばった体とが、別の存在であるかのように、ただ耳と目とに感覚が集まる。目は窓からくる夜の相対的な明るさで、光の微細な粒子をいくぶんか散らしている闇の中へ、じっと見入っている。闇のひだの陰に、なにかおびやかすものの形を恐れながらも、挑発している。たしかに、なにものが、どんな不条理なものが、そこにひそんでいようとも、それは渦まいて、いまにも姿をあらわして、なんの不思議があろう。目はそれに挑みながら、しきりに押しとどめている。どこかで、現実と呼ぶ世界と非現実のあわいのようなところで、ものがはぜる音がする。それは音ではなくて、どこかで花火のように広がっていく、光の膜であったかもしれない。光を音ときき、音を光としてみる、意識のあわいにあっては、感覚の区別はない。

(29)体操着

 またしてもあの心をしめつけるあせりだ。どうしてこういつも準備を忘れてしまうのだろう。まったく出かけるまぎわになって、いざ玄関を出ようとすると、必ずおそってくる忘れものの不安だ。なんだって今の今まで失念していたのだろう。今すぐ出なければ電車に間に合わない。遅刻だ!気持は矢のように駅へ走っているというのに、体はぐずぐずと玄関にとどまっている。それというのも、志馬氏は今日の時間割に体操があるのに、運動着を用意しなかったのだ。運動着ばかりいつも忘れる。そのあまりの恐怖に、志馬氏の足はかえってすくんでしまった。もう間に合わないよ。どこかで囁いている。こうして不安に歯ぎしりしているあいだに、電車は出てしまった。何本も何本も出てしまった。もう一時限目が終わっているだろう。こうしてはいられない。志馬氏はやっとのことで心を不安からもぎはなした。そうだった、体操着は全部ナップサックにつまって、どこかにころがっているはずだ。もうだいぶ洗濯してないから、土だらけで真っ黒なはずだ。どうして洗いに出さなかったのだろう。あんまり忘れっぽすぎはしないか。しかたない、それを着るしかなかろう。志馬氏は腹が立ったが、このまま学校を休んでしまう勇気もなく、遅刻しても出ないよりはましな気がして、家を出た。

(30)恋もどき

 彼女がきたときは、志馬氏は実に思いがけない気がした。長いあいだ彼女のことは思いだしたことがなかった。昨夜、突然家の中に見かけたとき、志馬氏はどう挨拶しようもなくて、便所の中へ逃げこんでしまったくらいだ。自分に会いにきたなどとは、もちろん考えなかった。なにか家族に用があるのだろう。志馬氏の知らないうちに知り合いになったらしい。昔彼女ととくに親しかったわけでもない。このところほとんど記憶から消えていたことだし。彼女は美人だったな。だからこわくなって、はじめは避けたのだ。彼女の方から近づくそぶりを見せたというんじゃない。いや一度だけそういうことがあったな。
 集団で海水浴に行ったときのことだった。彼女はまぶしいくらいのグラマーだった。ギリシャ彫刻のようなといっても大げさではない、実に肉感的なももをしていた。実に大理石のようだった。まぶしかった。プロポーションもすばらしかった。顔だって・・・たしかに間のぬけたような表情を時にすることがあったが、ギリシャ的な顔立ちといってよかった。声はすこし鼻にかかっていた。いつも少し鼻のつまったような印象を与えるのが、タマにキズだった。
 だがあのころ志馬氏はあまりにパーフェクトなものを求めすぎていた。とくに声が美の条件として欠かせなく思われた。志馬氏は声だけを聞いてほれてしまうことだってあったろう。とにかく彼女の間のぬけたような、というよりこれだって彼女のたんに鷹揚な性格の反映にすぎなかったろうが、そういうたまさかの表情と、鼻にかかった声が、最初眩惑されていた志馬氏にも、まあだんだん欠点として映るようになってきた。志馬氏ははじめからアラさがしをしていたようなものだった。自分とは関係のない美人には、あのころはすぐアラさがしをこととしていたのだから。
 その彼女が一度だけそれと分かる態度を志馬氏に見せたことがあったのは、その海水浴の時だった。泳ぎからあがって、どこかの飲食店でカウンターに並んだときだった。たまたま彼女が志馬氏のとなりに坐ったのだった。志馬氏はひどく固くなったのを覚えている。彼女は水着、志馬氏も上にシャツぐらいははおっていたかどうか。彼女は志馬氏に話しかけようとするそぶりをみせた。志馬氏は固い顔をして横を向き、知らないふりをしていた。志馬氏は今でも彼女の表情をはっきりと思いだす。彼女は無邪気そうに、いや実際志馬氏が考えた以上に無邪気だったのかもしれない、彼女は体を寄せて、満面に笑みを浮かべ、志馬氏に話しかけようとしたのだ。いかなる臆病の虫が志馬氏の顔を冷たくこわばらせ、となりの男へそむけさせたのだろう。彼女の顔はたちまちくもり、うらめしそうな上目づかいをして、志馬氏の方に触れんばかりにしていた裸の両膝をふるわせたのだった。それだけのことだ。
 それ以後は、彼女の方も志馬氏の方も顔を合わせれば実にさりげなく、挨拶をかわすことだってほとんどなかったようだ。志馬氏もだんだんと女に対する恐怖心をなくして、彼女を最初見よりそれほど美人とは思わなくなり、いややっぱり美人ではあったが、引きつけられるほどでもなく、仕事をやめてからはほとんど忘れてしまった。一度だけある観光都市の郊外電車の中で、彼女に似た女性が男と一緒のところを見たような気がしたが、はたして同一人であったかどうか知らない。志馬氏は失業中で髪を長くしていたから、もし彼女だとしても先方は気がつかなかったようだ。志馬氏はその時ひどくドキリとして、よく先方の顔を見もしなかった。だから別人なのだろう。他人のそら似に驚かされるほど、志馬氏はあのころ神経がまいっていたようだ。
 その彼女が、昨日よりによって志馬氏のうちへ何用あってかやってくるなんて、どうして予想できたろう。志馬氏があわてて便所の中へ飛びこんだというのも、あながちむりないだろう。その便所というのが汲みとり式で、下がひどくすずしいんだが、それよりも鍵がかからないので、たまたま遊びにきている親類の子供たちが開けようとしてしょうがない。もちろんただ便所に隠れていてもしかたないから、右手で戸を押さえながら、ちゃんと用を足していたのである。しばらくして出てみると、彼女は家の者らと話しこんでいる。志馬氏は目を合わせることもなく、廊下に出て小鳥と遊んだ。通勤電車の中で飛び回っていたやつをつかまえて、胸の内ポケットにしまっておいたのだが、家へついて見てみると、ぺシャンコになっていた。穴を掘って埋めようとして土の上におくと、だんだんふくれてきて、やがて息を吹きかえしたのだった。それを籠にいれて飼っている。
 志馬氏は籠の前にすわって考えた。彼女はやっぱり自分に会いにきたのではないかと思った。挨拶もなく、目を合わすこともしないが、本当はそれ以外に用事などあるはずがないと思った。彼女の豊かな、はじけるような、大理石のような肢体が目にうかんだ。・・・部屋には彼女一人だけ残っていた。海辺の民宿の一室で志馬氏はギターを手にして、ひとつ覚えの曲を弾いていた。食事時でみな出ていったが、志馬氏は一人で弾きつづけていた。いや、彼女だけがそばで聞いていた。うっとりしているようすで、志馬氏が引きまちがえると意外な顔をした。志馬氏は彼女があまりに真剣に、すり寄るようにしてへたなギターを聞いているので、息苦しくなり適当に切りあげた。なにか名人のように誤解されたようで、それが彼女がささやかな好意を寄せた原因であるなら、面はゆいかぎりであった。ギターを早々にあきらめたように、志馬氏は最初のアプローチで、彼女から逃げ出したのである。

(31)教室

 授業が終わったのだが、志馬氏はうっかりして黒板を写しておかなかった。時間中に十分写せたはずだったが、ぐずぐずしているうちに終わってしまった。今日の授業はこれで終いなのだが、帰らずに写すことにした。半分ほど写した時には、半分ほど消されてしまっていた。教室にはまだ幾組か残って、おしゃべりしている女子たちの姿があった。その中の二人がノートのようなものを読んでいたが、よく見るとどうやってすり取ったものか、志馬氏の日記帳だった。いろいろなつまらないことが、中学に入って以来書かれているのだが、学校へなんかもってきた覚えはないのにな。失恋のことだとか、悲観的な詩だとか、稚拙な小説だとか、まったく人に読まれたら顔の赤らむことばかりだ。それでも、なんとなく志馬氏はひとかどの作者になったような気もしなくなくて、彼女らが読んでいるのには、得意と恥とが奇妙にいりまじった気持だった。
 ノートをしまって帰り支度をしているときには、教室にはほかに二人しか残っていなかった。忘れ物はないかと机の中をさぐると、古い教科書がでてきた。めくるとたくさん書きこみがしてあり、どうも自分のらしかったが、昔使ったものがどうしてこんな所にあるのか、見当もつかない。もって帰って書きこみなど読んでみたかったが、人のだと困るのでまたもとにもどしておいた。教室に二人残っていた女子たちは、机の下でさっきからドタバタ格闘している。行ってみると、デブッチョの女子が小さな女子を組みふせている。小さな女子は下になってほとんど身動きもできない。お尻だけが見えていた。志馬氏は行き過ぎようとしたが、また戻ってそのお尻をながめた。

(32)屋根裏

 校舎の屋根裏にサッカー場を作ろうという話だった。どうしてそんな話が出たのか知らないが、志馬氏は体操教師のあとについていって、その屋根裏を見てみようと思った。あがってみると、実に広々としていて、もう九分どおり出来あがっているのだった。運動不足の教師たち専用の場所になるということだった。そんなことが原因だったのか、ある日掃除をしていると、天井から雨もりがあった。最初はしたたるくらいだったが、だんだんはげしく噴きだしてきた。一人の男子が天井板をはがしてのぞいてみると、どうやら水道管が破裂したらしい。そこで志馬氏は長いホースをもってきて彼にわたし、天井裏に差しこませた。水はホースを通って出てきたので、それを廊下へだして水道場に流した。そこで彼と志馬氏と二人うずくまっていると、一人の美少年が通りかかった。男子は、このジャック・ザ・リパーめ、とののしった。少年は内気そうに去っていった。この前何人かの男子が、女子を襲って殺してしまった事件があったが、彼も見かけからは信じられなかったが、犯人のうちの一人なのだった。

(33)事故

 実に怖かった、あれは。志馬氏はもう怖い話は読まないぞ、書かないぞ、と思い、ナムアミダブツ、ととなえた。志馬氏は線路を歩いていた。どうして線路なんぞを歩いていたのか、たぶん電車に乗りそこなったのだろう。後ろからいつでも列車がやってきそうで、気がせいていた。少し先にポイントがある。そこから引きこみ線沿いに行けば安全なのだろうが、なかなか見えてこない。気ばかりがあせる。体より先に、気持はもうずっと先を歩いていた。その時風のように特急列車が志馬氏の背後にせまってきた。どうしてはねられなかったのか、なにしろあっという間にはしり過ぎていた。列車がポイントを越えていったとき、奇妙な不安を覚えた。だれかがはねられたのだ。ポイントのところを曲がらずに、まっすぐ行ってしまったらしい。列車がバックしてきた。その鼻面に子供の体が乗っていて、顔のようなものがフロント硝子にはりついていた。志馬氏は目をそむけた。ぞっとした。それは志馬氏自身だった。おろかにもまっすぐ行ってしまい、はねられてしまったのだ。ナムアミダブツ、神にも仏にも縁のない志馬氏だが、そうとなえるほかなかった。



作品名:志馬氏の夢日記(後篇)
作者:夢遊星人 copyright: muyu seito 2017
入力:マリネンコ文学の城
Up: 2017.5.29