夜男爵の部屋


第16夜 続・ミニマム・ポエトリー

海のイデア


ゲスト 羽和戸玄人

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バロン:君の詩を何度も読んでみた。音楽的にできておるので、口ずさみやすいのう。さりげない音楽性といおうか、

 海胆をみる
 浅海
 子供心に

 なんということもない言葉のつらなりだが、うにとあさうみが交響して、さらに心にや、みるともつながっておる。詩はやはり音楽でなければなるまい。現代詩は言葉の音楽性を否定しきったが、詩の大きな部分がそれでもって失われたようじゃ。単なる音楽ではなく、意味のある音楽が。
玄人:私もそう思いますね。エドガー・アラン・ポーが詩の音楽性を強調したことによって、大きな誤解が生まれたようです。詩が音楽でなければならないのではなく、ことば自体がすでに音楽なのです。意味は必ずしも曖昧であって良いわけではなく、しっかりした意味が音楽によって補強されるべきなのです。逆に音楽の側から考えてみると、楽音があまりにも魅力的であるため、場合によってはどんな言葉も必要としないのです。音楽がかもしだす情緒なり、心情を、言葉でもって生みだすなどということは、まったく不利この上なく、無駄な努力といってよいでしょう。これはポーの詩でさえそうです。しかし、そうだからといって言葉の音楽が無用だということにはなりません。なによりも音楽を欠いた言葉などというものは、そもそもありえないのですから。単なる絵画や象形文字などは、視覚イメージに過ぎず、ことば(パロール)とは言えず、詩とは別物です。
バロン:ことばの音楽が無用だという現代詩の主張は、詩に対して理知性やメッセージ性を第一とする社会的意義を求めているからであろう。それは言葉が本来他者に対して発せられるものであるという、言葉の根源における機能を、詩と混同しておるからなのである。それに対して純粋な音楽は、鳥のさえずりを聞いていると分かるとおり、必ずしも異性を求めて鳴いているのではない。たいていはみずからの囀りに陶酔しているのである。すなわち音楽は起源において、自己陶酔でもあるのじゃ。ことばが音楽と結びついた起源における詩も、他者へのメッセージと自己陶酔の両面をもっていたはずである。一方は叙事詩へと向い、他方は抒情詩となる。一方は客観性、事実性、社会性へと、他方は主情性,主観性、自己陶酔、観照へと向かう。
玄人:そうとするならば、詩の音楽性は求愛でない限り、自己陶酔であると言うことになりますね。
バロン:その自己陶酔を現代詩は否定しようとするのであろう。
玄人:詩がなんらかの主張をしようとすれば、音楽性が邪魔になり、ことばそのものの対他的な攻撃性が全面に出ることになるわけですね。
バロン:まあ、攻撃的な音楽と言うものもないわけではないが、一般的にそういうことになるじゃろう。ことば自体がバトルの道具となるのじゃから。君の詩にもその傾向がないわけでもない。
玄人:言われてみればその通りです。自己陶酔にとどまりきれなかったわけですが、それらは結局たいした詩ではなく、自己主張にすぎないものとして、大目に見てもらうほかはないですね。
バロン:まあ、君の詩には特定の立場というものがなさそうだし、俳句のようでいて俳句ではない、イメージ詩のようでいて、抒情的で、ときに理知的で、ときにシュールで、ときに難解で、ときに素朴で、君という人物そのものであるな。
玄人:ミニマム・ポエトリーという形式とはいえない形式ですが、その中にあらゆる言語の実験が可能になる点で、詩のあらゆる方向が含まれうるわけです。それにしても私自身の限界が、どうしても表現を狭くしてしまいます。言葉自体に語らせるということが、本来の目的なのですが。尾崎方哉や山頭火がその良い例です。

 墓のうらに廻る        方哉
 炎天のレールまつすぐ   山頭火

 ごくありふれた言葉を発することが、無限の詩的広がりをもつ、これこそがミニマム・ポエトリーです。これは言語自体のもつ魔術的力といってよいし、それを発見する詩人の神通力といってもよいでしょう。西洋詩では、

 Du, trueber Nebel, huellest mir
 Das Tal mit seinem Fluss,
 Den Berg mit seinem Waldrevier
 Und jeden Sonnengruss.

 Nimm fort in deine grauen Nacht
 Die Erde weit und breit !
 Nimm fort,was mich so traurig macht,
 Auch die Vergangenheit !

     ――Nikolaus Lenau Nebel

 抒情詩ですから比較は難しいですが、霧のイメージが、すでに暗鬱と悲哀の心象を与えます。それが全世界を包み、こし方をも消し去れと終るところに、宇宙的な虚無(Weltschmerz)が現われてきます。ちなみに脩海さんの訳詩を以下に。

    

  霧よ
  沈鬱な霧よ
  おおいつくせ
  谷と川を
  山と森を
  われのために
  こぼれる夕陽を
  なごりなく

  ひろやかな大地を
  お前の灰色の夜の中へ
  奪いとれよ!
  そうしてまた
  われに悲哀をもたらすもの
  わが過去(こしかた)をも
  奪いされよ!

 弱強の調べに乗せた簡潔なドイツ詩が、自由に分断されており、おまけに二度くりかえされるnimm fort が変えて訳されています。そもそも180度違う西洋語と日本語ですから、それも止むを得ないでしょう。このstanzaが私のめざすミニマム・ポエトリーに近いでしょう。それもさらに言葉をしぼることが出来るでしょう。
バロン:余には君の言うミニマム・ポエトリーすなわち最短詩が、ずいぶんと雄弁に思われるのじゃが。それはどういう訳かのう。
玄人:西洋詩は確かに一般に雄弁です。しかし雄弁なのは西洋語に限らないでしょう。日本語は一般に省略的といわれますが、それも背後に雄弁が隠されているからです。ただ語らないだけです。沈黙の言葉が、かえって大きな雄弁なのです。芥川也寸志という人の「音楽の基礎」にこんなことが書かれています。

 「程度を超えた静けさ――真の静寂は、連続性の轟音を聞くに似て、人間にとっては異常な精神的苦痛をともなうものである。日常生活のなかでは、このような体験をすることはないが、音響器材の実験などに使われる無音室に閉じ込められると、音を発してもほとんど百パーセント壁や床や天井に吸収されてしまい、自分の声さえ充分に聞くことができなくなるので、恐怖に近い非常に強い孤独感に襲われ、それに耐えるのは苦痛であり、限度をこすと精神の異常さえきたすという。・・・
 このような真の静寂は、日常生活のなかには存在しないまったく特殊な環境ではあるが、この事実は音楽における無音の意味、あるいは、しだいに弱まりつつ休止へと向う音の、積極的な意味を暗示している。休止はある場合、最強音にもまさる強烈な効果を発揮する。
 われわれがふつう静寂と呼んでいるのは、従ってかすかな音響が存在する音空間を指すわけだが、このような静寂は人の心に安らぎをあたえ、美しさを感じさせる。音楽はまず、このような静寂を美しいと認めるところから出発すると言えよう。」(p.1-2,岩波新書)

 我々がふつう沈黙といっているのは、この例にならえば、言葉やイメージが無音の中に飛びかっている状態であるといってよいでしょう。それを充分な雄弁と感じるか、あるいは言い足りないと感じるか、そこに詩もしくは言語の特性の違いが現われるわけです。言葉の真の沈黙は、恐怖以外の何ものでもないでしょうから。ポーの散文詩Silenceが思い出されます。詩から、もしくは言葉から、雄弁をとったら、何も残らないのではないでしょうか。
バロン:そもそも人間は度しがたくおしゃべりだということじゃな。沈黙してもまだ喋りつづけておるのじゃから。それをあまり自己自身のうちにとどめておいては、狂わんともかぎらんがな。
玄人:それを救うのが文芸ではないでしょうか。もし漱石が小説において悲憤慷慨をほしいままにしなかったならば、狂人でしかなかったでしょう。最短詩においては、その表に出るお喋りを最小限にとどめるというのが眼目なのです。
バロン:それはつつましい心がけであるな。情報などというものがあふれかえっている、この騒々しい世の中で、ほとんど耳に届かぬささやかな言葉を発しようというのは。
玄人:いわば詩の世界でのtwitterといえるでしょう。たとえ情報の海に圧倒されても、言葉を発していれば、溺れることはまぬがれます。鳥たちが囀るのと同じで、囀ることによって常におのれの存在を確認しているのです。
バロン:言葉がやっかいなのではなく、囀らざるを得ない生き物の宿命と言うべきか。かつてピタゴラス派では沈黙の行を幾十年と行なったようじゃが、ことばの代わりに身体で喋っておれば同じことじゃな。真の沈黙などは生き物にありえないのじゃ。そもそも音楽にせよ、言葉にせよ、その根本には生命のリズム、宇宙のリズムが躍動しておる。生命そのものが宇宙的リズムの発現であり、まさに宇宙の言葉なのだといってよかろう。この宇宙があるかぎり沈黙などはありえないのじゃ。
玄人:脩海さんの言う宇宙意志がこの世界や被造物の本質であるならば、われわれの意志・意欲が絶えないかぎり、われわれは喋りつづけることになりますね。

 ニーチェと釈迦の相会す午バオバブの根に

 と作ってみました。釈迦は絶対の沈黙を表わし、ニーチェは宇宙の雄弁を表わします。
バロン:詩は形而上学でもありうるということじゃな。
玄人:詩は言葉であるかぎり、あらゆる表現が可能になるはずです。それは最短詩でも同じです。
バロン:百万言をもって語るも、一行でかたづけるも、本質においては同じということじゃな。本質はひとつということなのじゃ。
玄人:やはり芥川也寸志の言っていることですが、

 「日本人の民族的美感は、音楽の上でしばしばするどくヨーロッパ人のそれと対立する。日本の民族楽器は、笛の類でも太鼓の類でも、琴や三味線のような弦楽器でも、楽器の構造は一見きわめて単純である。 一方もっとも一般的な楽器であるピアノは、構造的には比較にならない複雑さをもっている。ところがその楽器から出される音色は、日本の楽器とは比較にならぬほど単純なものだ。音楽に限らず、日本人は古来、単純なものから複雑なものを引きだすことに熱中し、ヨーロッパの人たちは、複雑さのなかから単純なものを引きだすことに情熱を傾けたのである。
 音楽の形成に根源的な役割を果すリズムにも、同様なことがいえる。ヨーロッパ音楽を支配する拍子が、機械的な周期的反復であるのに対して、日本の民俗音楽にはそのようなリズムはほとんど存在しない。第一、邦楽でのリズムの概念に相当する<間>というものは、ヨーロッパ音楽にあってはまったく存在しない。いわば裏側の概念であり、東西の時間や空間に対する考え方の対立を、これほど象徴的に物語っているものはないといえよう。」(上掲書p.88-89)

 単純から複雑へ、複雑から単純へということは、物の本質の二つの探究の仕方であって、一方は現象の発生へ、他方は現象から根源へと向います。一方は直観的で、他方は分析的です。その根源にはやはり同じ沈黙があるのでしょう。東洋では間という沈黙から出発し、絶えずそれを背景にして音もしくは言葉を展開し、西洋では音あるいは言葉のあくことのない連続の果てにおとずれる静寂が、充足もしくは諦念を生むわけです。最短詩はどちらかといえば、単純から複雑へに属しますが、必ずしも複雑さをこばまないわけです。単に短いということが単純であるわけではありません。現に、最短詩を詩集として全体的に見渡すならば、これほど複雑なものはないでしょう。創作者の全体験、全人生がそこに現われてくるわけですから。
バロン:結局詩はその人となりということになろうか。
玄人::現代詩ではそうだと思います。その人となりが最もよく現われてくるのが詩だといえるでしょうね。古代の詩や、口承詩や、民謡や、叙事詩などは別でしょうが。現代ではどんなに客観的な言葉遣いをしても、作者が意識されてしまうわけですから。言葉自体に語らせるといっても、その言葉がすでにきわめて主観性にそめられているのです。たとえ模倣であっても、模倣する人の主観性が現われてしまう。ことばの末期症状といってよいでしょうか。ですから沈黙が理想としてたち現われてくるのです。
バロン::それは難儀のことであるな。言葉でもって沈黙を語るとは。言語道断とか、不立文字とかいう境地を、言葉で語るなぞはナンセンスであるが。
玄人:たぶん言葉がそこへ導いてゆく境地というものがあるのでしょう。それも禅問答のようなものではなく、言葉を否定せず、言葉自体の力によって、言葉を超越させる境地へと。それは言葉が音楽でもあることから、その可能性が開けてくるのです。ポーもそれを目指しました。音楽は沈黙との対比から出来あがっているとするならば、その沈黙を目ざす詩があっても良いわけです。音楽が自ずと意味をになうことによって、沈黙へ、沈静へと、意識を誘導し、自覚へと向かわせるわけです。西洋の宗教音楽はそのようなものですが、音楽そのもののパワフルな力に頼らずとも、言葉そのもので同じことをさらに明瞭に実現しようとするのが、詩であると言えるでしょう。
バロン:そもそも言葉の音楽とはどのようなものなのかね。それは純粋な音楽とは別のものなのかね。ふつう日常の言葉自体と歌謡のようなものとは、混同されることはなかろうが。
玄人:私が考える言葉の音楽とは、基本的に音韻もしくは音声と意味とからなります。音声に関しては音楽と同じ原理が当てはまるでしょう。基本はリズムであり、meterと称されるものです。このリズムを規定したものが音楽における拍にあたる律格です。律格をつくるものは、強勢と長短の二種類があり、それぞれの言語によって、そのどちらか、あるいは両方が、meterすなわち拍子を作ります。レーナウの詩で言えば、弱勢と強勢が一行に三つ四つ並び、iambusの律格がを作られています。これが拍子をなし、その上に言葉のメロディーや韻のような響きあいが工夫されます。これだけでしたら音楽と変わりありません。音楽にないものは、音声とともに浮かぶ具体的イメージや思想です。これを言葉の意味としておきましょう。この意味を分断するようなmeterはあまり良い詩とは言えないでしょう。また逆に、言葉の意味が音声の音楽を支配するということもあるでしょう。どちらか一方が優勢になっても、詩から離れて行きます。音楽が優勢になれば、意味は二の次の歌謡になるでしょうし、意味を強調しすぎれば単なる散文に落ち着きます。
 そもそも言語は、音声と意味とが一致したところに生まれてくるのですから、起源において詩そのものだと言ってよいのです。それが歌謡に高まったり、散文に分化したのです。言語本来の発生に帰れば、それが詩になります。ルソーが原初の言葉は感情そのものの表出であるといったのも、同じ意味だと思います。原初の意味とは感情そのものであったからです。今でも動物たちは人間の言葉を聞くと、それを感情的に理解しているのであり、それが彼らにとっての意味なのです。そこからイメージや概念を抽出してゆけば、人間の言葉が生まれるわけです。言葉はむしろ詩から発生したと言ってもよいのかもしれません。この国の古代の詩人も、生きとし生けるものいかでか歌をよまざらむ、と言っています。
バロン:言葉はUrpoesieであるということじゃな。それならばわれわれは言葉を喋るかぎり、皆詩人であるということになるのう。さすれば、特別に詩を作ることの意義はなんなのじゃろうか。鳥がさえずり、鶏が時をつくるのと、さして違わんいとなみなのかのう。
玄人:そういうことになりますね。特にこの国の言葉は、リズムといっても特別のものがあるわけではなく、日常の言葉がそのまま詩の言葉です。西洋詩のmeterに当たるものがないのです。いわゆる音数律は、圧倒的に意味によって支配されていますし、韻に当たるものは強勢がないために目立ちませんし、母音が少ないのでなおさらです。そのために脚韻よりも、頭韻が有効になります。

 ささの葉はみ山もさやにさやげどもわれは妹思ふ別れきぬれば

 などはよく知られた例です。
バロン:音数律が意味によって支配されているとはどういうことかね。
玄人:機械的な57577などというものよりも、言葉の意味が圧倒しているということです。上の詩の音楽は、機械的な5音7音によってつくられているのではなく、2音3音4音でできている言葉の意味の流れによって拍が作られており、この意味のまとまりが音数の長短と結びついて、全体をひとつの音楽にまとめているのです。(*注)われわれが言葉を喋るときは、意味的まとまりが中心となります。それが律や拍に乗っているかどうかは、通常意識しません。それを意識的におこなうのが、詩の創作です。その際初めて言葉の音楽性が意識され、言葉自体における音楽性の探究がなされるのです。5、7のような形はその結果です。
 この人麻呂の歌では、音楽にたとえると5、7は楽節をなしており、全体が5節の音楽となっています。

 ささの葉は(休止)
 み山もさやに
 さやげども(休止)
 われは妹思う(休止)
 別れきぬれば(終止)

 休止や終止によって、全体のリズム(拍)のバランスが保たれます。二節目は休止を入れなくても良いでしょう。一節、二節、三節はいわばsa音を中心とした対位法(カノン)となっています。詩はこのポリフォニック(多声)な効果を出すことができるのです。朗誦のとき、四節、五節をくりかえせば、平行カノンとなり、さらに効果的です。自作でおこがましいですが、

 鵙鳴くや(休止)
 われも変わらず(休止)
 かれも変わらず(終止または休止)

 鵙かへらず(休止)
 栗の木病みて(休止)
 残る秋(終止)

 最初の詩の二節、三節が上行するカノンです。独立した詩として終止させずに、次の詩のstanzaとするならば、次の連の最初の行と、この二節は対位法的につながります。詩ですからメロディーを作るのは意味であって、意味的旋律の関係において、変わらずの上行するメロディーと、かへらずの下行するメロディーが反行カノンをなします。人麻呂の詩で言えば、三節までは意味的に上行するメロディーであり、四、五節が意味的に下行するメロディーです。
 このようなミニマム・ポエトリーにおいては、記憶がすべての行をいわば譜面として保持していますから、詩のメロディーがカノンをなすというのは、必ずしも比喩ではありません。こうした意味的な対位法の上で全体が保持されて、そこにさらに音韻的な和声が加わり、拍の統一の作用のもとに、詩の音楽が生まれてくるのです。
バロン:最短詩なればこその音楽性ということなのじゃな。
玄人: ポーが言うように、長い詩では音楽性が損なわれてしまいます。叙事詩のようなものはそもそも音楽が伴ったり、特別な歌い方があるのですから、別ですが、純粋詩においては音楽性は短いほど有利ということになるでしょうね。


(*注)この詩を意味的な拍に分けると、「ささの/葉は| み山も/さやに|さやげ/ども|われは/ 妹/思う|別れ/きぬれ/ば」のように22233の拍子でできていて、拍をつくる語は緩急をつけて詠むことになります。拍(拍子)とリズム(律動)は似たようなものと考えられていますが、音楽にならって厳密に考えるならば、拍とはその節の強勢の数にあたり、リズムとは拍を作る音の長短(緩急)と言うことになるでしょう。音楽で言うならば、この詩はたとえば4/4拍子と3/4拍子でできていることになります。つまり前半が2拍子で、後半が3拍子に変わっています。強勢はほぼ無いにひとしいのですから、意味的に語頭を強調することになります。音の足りないところは休止または長音によって補います。

  sasano hawa-/miyamamo sayani-/sayage domo--/warewa imo- omou
/wakare kinure ba--

のように休止(または長音)をいれ、各語に緩急をほどこし、拍子に合わせたリズムを形成します。自作で考えると、

  unio miru-/asa umi -/kodomo gokoro ni --

 2/4拍子から3/4拍子への変化です。三節目で急口調になることによって、一、二節と音楽的に対立します。つまり不協和を形成しています。それが音楽的に意味を補うことになるわけです。



 最短詩集 U

 海のイデア

 (三浦半島)

 硬(こわ)き肩寄せ見る
 洞窟の
 眩き
 イデアの海

 道おしへの老婆
 ぶつけし頭
 撫でつつ
 行く道

 岩うつ波に語る
 出さざりし
 手紙の夢

 夢はすべてカラーなりと
 信じこしひと

 海黒み
 光の狩るか
 盗人(ぬすと)狩

 とつ国へ
 入り日くぐらす
 島の大橋

 (湖へ)

 無何有の里
 牡丹越え行く
 幸何処

 身の丈の
 地蔵の背を覗く
 痒さ

 滝のごと
 すなおに落ちたし
 君とがめれども

 面影を
 緑とどめて
 乙女湖やせ

 (K山にて)

 春雷に
 雹の降り籠む
 にほひ髪

 (古池変化)

 葦のまに
 蛙跳ぶ音
 亡き人の
 面影ゆれ 

 野の池に
 春日みなぎり
 身投げし友の
 屍流れく

 (山越え)

 水青き堰の
 春の眩暈

 もぐりて見あぐ
 みつばつつじの
 花の屋根

 悔いなしと
 春日照りはゆ
 笑顔

 谷水の
 流れる思い
 手に掬ぶ

 (水の遊園)

 青稲の化して
 遊園に
 水の子らのきらめき

 とがりし弟(こ)なだめる
 小さき姉の白さ

 (荒崎)

 見晴らしに
 君ふれずして
 言葉のみ
 風の中

 白き波
 押し寄せ
 押し寄せ
 心問う

 こしかたに
 欠けし言葉
 荒磯(ありそ)にさがす

 畑中に
 君なに怒る
 初ひばり

 (花の里)

 窯跡に
 いにしへ人の
 みやこ焦がるる
 思いすなりと

 鶯鳴く
 四つ辻に
 メービウスの二老婆

 冬桜
 君触れえずして
 フロイト論ず

 (里山)

 頂きに太鼓鳴りくる花霞

 橋姫を運びゆく
 枯葉舟

 行く末の甘くて苦き灌仏会

 葉の先に咲くつつじもあり
 二人山径

 (森の公園)

 ローズマリー咲く園に
 スカボロフェアの歌iい手

 花冷えの
 トンネル急ぐ
 ハイヒール冴え

 白鳥寄り来る
 沼の黄昏
 二人と一羽

  (森にて)

 迷い来て
 茶畑のあり
 ハイヒール

 脱ぎし靴
 見えぬもの見つめ
 草の丘

 トトロとは
 アイヌの語かと
 オキクルミ

  (星の旅)

 あおみどろ
 寒き沼辺に
 落す影
 ふたつ

 振り向けば怖しと
 過ぎし森の小暗さ

 塵埃(ほこり)たつ庚申の辻に
 少女たたずむ
 いにしへ人の声して

 白き日に
 詩を作り贈る
 星の旅

 (志賀高原)

 明星をのみし深山の瀬音かな

 天狼の落ちて小暗し笠の山

 (秩父路)

 山見ると石仏見ると秋二つ

 行き行きて日暮れの駅にそばの花

 粉吹いていかつい山の春のうまい

 山若葉撫でたくも抱きたくも

 崖下に千の石仏しゃが咲いて

 (冬至)

 アポロンの手に相応しき柚子の実や

 ヴィーナスの胸に黄金(おうごん)の柚子浮かべ



作品名:最短詩集(ミニマム・ポエトリー)・海のイデア
作者:羽和戸玄人 copyright : hawado kuroto 2019
入力::マリネンコ文学の城
Up : 2019.6.4