バロン・ナイトのゲストルーム


第二夜 時の学校

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夜男爵の部屋 

サロン・ウラノボルグが、いよいよ風雲急を告げそうな模様にて、余もそちらが気がかりなれば、ゲストルームはしばらく空き部屋となるやもしれざるなり。とりあえず、羽和戸玄人氏の残していった作品を貯蔵しておかんとす。うまく熟成して、読み頃となる時が来らば、また彼と歓談することもあらん。(B・N)


                      風の中の家・第ニ話

                        時の学校

                        羽和戸玄人 作


                         幕間
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 一人の男が深い睡りの底からうめくような叫びを、真昼の部屋のたそがれめいた空気の層をおしのけて、枕から外れてのけぞった薄い喉からしぼりだした。それは夢の中とも覚醒ともつかなかったが、そのやけつくような声音は明らかに男の睡りを浮上させ、あるいは少なくとも夢のきずなを一時断ち切らせたようだった。男はむっくりと半身を起して、定まらぬ眼差で前方を見すえた。そして再び‘いみじ’と口唇の奥でつぶやいた。カーテンに外光を閉ざされた鈍い白色の中で、男はしばらく時と空間を記憶の中に確認できないままでいた。そしてあたかも蘇生する実在をそれによって防ぐことが可能かのように、突然バッタリと、起した身を再び沈めて、掛け布団を頭の上まで引いた。‘いみじ’――呪文のような言葉が綿の中に吸い込まれた。
 五、六名の女達が前に並んだ。その一人一人の顔を順に見ていった。どれか一人を選ばねばならない。時は迫っている。一番右端と真ん中の女のどちらか、彼は迷った。真ん中の女を選ぼうとした時、じっと見直すと、その表情はひどく厭わしいものに思われた。彼は絶望的になった。そしてその気分のまま手にしたボタンを押そうとした時、その切迫の状況の中で彼は実にほっとしたことに、一番右端の女のボタンを押していた。そして予想したとおりに相手の女も彼を選んでいた。ランプがついて彼は女の方の席へ行った。その顔を見直してあらためて満足のようなものを覚えた。そして額に接吻した。
 女達の顔はどれも互いによく似ていた。ただ少しずつどこかに欠点があるようで、それが一種の濃淡のぼかしのように美醜の階梯を作っているようだった。その中で最も濃く現われてくるものを選べばよかったのだが、その選択には何か残酷さがあって、ついその残酷さに負けておのれの望まないものを自虐的に選択するようしむけるのであった。そしてその負けた瞬間に彼はおのれの意志を発見していた。その瞬間に彼はおのれの求めているものをはっきりと見た。そして最後の運命の切れ目にその意志を決行したのであった。おのれを欺くことによる絶望と不満から、彼ははじめておのれを救ったのであった。
 風の吹く縁に彼は腰を下ろしていた。その風は温かくも寒くもなく、しかしひょうひょうと身にまつわりついて過ぎていった。女は縁台の端に腰かけて、彼と斜めに向かって話をした。合わせた膝の上で短いスカートが時おりひらひらした。彼はそれに眼をやることの遠慮から、つとめて女の顔を見るようにした。そしてそれさえ彼にしてはいつにない大胆なことに思われて、われながら不思議な気がした。一つにはそれは女の打ち解けた態度によるものであった。女はよくしゃべった。彼は笑みをつくって聞き手にまわっていた。少しも怖じるところなく彼の顔を見すえてしゃべる女をも、彼は不思議に思った。そしてそれはー―その状態は何か壊れやすいもののようで、一瞬の失策も、例えばちょっとした眼の動きでもたちまちよそよそしさに変えてしまいそうな不安が、心安さと溶けあった奇妙な心理的雰囲気で彼をつつんでいた。女の顔は小さかった。しかしそれは印象であって奇形的に小さいというのではない。細面の卵形は体全体の細さとよく釣り合っていて、それはそうでなければならない小ささだったというだけだ。痩身というのでもない。その体つきや体形にふさわしい肉づきというのがその女のそれだ。要するに適度な細さと適度な肉づき、それに細面にありがちのとがりのない、どちらかと言うとふくよかな頬の女というのが、彼のいま眼にしている、彼の前で饒舌をほしいままにしている女なのだ。それらの条件は彼を満足させた。そして彼はもっとよく容貌に注意した。それに似た女を過去から想起しようとした。女の容貌は整っていた。整いすぎているようでもあった。しかし大抵なにやら薄いヴェールのようなぼやかしが女の顔に漂っていて、それを際立たせないのであった。
 女はしゃべりながら少しも彼に気兼ねする様子が見られなかった。時には人形のような無表情におちいって、言葉だけが表情を従えずに口から流れた。女は郷里(くに)のことを語っていた。同じ県のはずれであると言った。彼の頭には山や森やその上に浮かぶ雲が侵入した。そうしたところがまた彼の故郷であるような気がした。女はまた尾張へ行ってみたいと言った。尾張で生まれたのだと言った。前の話と矛盾するようだが、彼はまた尾張へ女とともに旅立つおのれを想像していた。風は相変らずひょうひょうと流れていた。吹くというよりも確かに流れていた。その透明な気体を体に感じた。風は彼のそばの黒ずんだ柱にまつわって渦をなした。そして開け放した玄関から吸いこまれるように家中へ流れていた。その時彼ははじめて気がついた。自分が縁に腰を下ろしている家は昔の借家であったことに。そして今は無い家であることが。
 ‘いみじ!’――重い憂鬱のなかで彼はうめいた。すべての啓示がこの呪文に籠められていた。すべては過去のimage であった。そして女を見た。女は若かった。女は二十歳になるかならないかの初々しさ、いや少女らしさがあった。‘いみじ!’――彼はおのれを見た。重い憂鬱の中にあるおのれを見た。そして知った。老いつつあるおのれを・・・。女と彼の間にある年月の隔たりの中に深淵を見た。深い夜を覚えた。そして失われたものが潮のように彼を襲った。時が侵入した。‘いみじ!’――呪文のように苦痛の底からうめきが起こった。あたかもそれによって時の侵食を阻むことができるかのように。襲いかかる実在をそれによって化石しうるかのように。
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                    時の学校

 夏休みに入ろうとしている教室に人影はまばらだった。まだ帰らないのは受験勉強が気にかかるせいだ。ほかに用事はない筈なのに、教室を離れられないでいる者たちだ。教室にいなければならないことはないのだが、彼らはもともと、どこででも居所をもてあましている。Hは机の一つに所在なげにおさまっていた。残っている他の連中と話もしないが、また別に彼らの散漫な存在が気にならない。また何もしないでいることも気にならない。名前のつく場所には人の心を命令的に脅かす雰囲気が具わっているものだが、Hは自分が教室にいることに何の抵抗も覚えなかった。Hには通学という観念がない。家を出てある場所へ通い、一定の時間をすごした後に、再び出発点へ帰る。そういう営みに慣れている者たちには、この用もなくがらんとした教室はいたたまれないだろう。だがHは実に不規則に教室に現われたし、別に慌てて帰る場所も持たないように見えた。Hが現われると教室では授業が行われていることもあり、またがやがやと秩序もなく乱れていることがあった。授業ではHは指されはしないかとびくびくしていた。そしてとっくに忘れてしまった数学の問題を必死に思い出そうとした。時には方程式が頭の中で奇跡的に解かれることがあったが、黒板に書いてみるとどうもでたらめのようだった。Hは絶望を覚えた。なぜなら受験はすぐ目の前に控えているのに、買ってきた問題集はまだ一頁も手をつけていない。教師の来ない時間には皆は勝手なことをしていた。どこからか一升壜を持ち出して宴会が始まった。Hは見つかるのが怖くて仲間にならないようにしたが、あまり不安が昂じたために、一緒に車座に加わった。体操の時間にはHはたいてい準備に手間どって遅れて行く。時には体操着を忘れていることもあった。出がけに玄関を出たところで今日は体操のあったことを思いだす。絶望的に体操着をナップサックにつめる。ナップサックには既に幾年も洗っていないシャツがつまっている。そんなに気になりながらも忘れてしまった時には、Hはズボンのままに肌着のシャツ姿で体操に出る。運動場はローマの廃墟のようながらんとしたアリーナである。泥で積みあげられた段状の見物席から望むと、人気のないグラウンドがやたらと広く見える。遅れて行ったHは、皆の姿が見つからないままに放心している。
 夏休みは不安を起こさせる。教室には誰もいなくなってしまう。Hはこの先つづく長い月日にただ空虚ばかりを覚える。何をしたらよいのか、見当すらつかない。Hは気落ちして、がらんとした教室の座席についている。いつの間にか、一人の男が横に立っている。Hは古い知人のイスカであることに気づいた。イスカはHに話しかけてきた。どうもとげがあるようだとHは感じた。しばらく避けていたからな。明日、同僚達と海へ出かけるのだとイスカは語った。どうしてそんな話をするのだろうとHは不安になった。おれを誘っているのだろうか。それにしてはイスカの調子はそっけない。こっちから先手を打ってやろう――Hは切りだした。行ってもいいが、明日はだめだな、あとから合流することにしよう。ところでどういう連中が来るんだい。イスカの気の乗らない説明によると、来るのは皆Hの昔の同僚であった。女達も来る。Hは気後れがしたが、いまさら撤回するわけに行かない。気の良さがあった。何とかなるだろう。場所はどこなんだい。イスカは待ち合わせのホームと時間と旅館の名とを告げた。Hは少しも頭に入らなかった。紙に書いてくれないかな。イスカは面倒くさそうに鉛筆を出し、Hの前にあった下敷きに今喋ったことを書きつけた。
 明日午前十時新宿駅若菜線五番ホーム・・・・・・新宿にそんな線があったっけ、Hは読み返しながら訊いた。こんど出来たんだ、イスカは軽蔑するように答えた。Hは不安になった。海のうっとうしい日差しが、Hの頭の中でぎらついていた。徒刑囚のようにその日差しの下に引きずり出されている。おまけに裸の羞恥。来るんなら遅れないようにな、イスカは言って姿を消した。Hはしばらく茫然と立っていたが、やがて今の出来事を忘れて家に帰った。家ではミカン箱に一杯の参考書がつまっている。Hは畳に横になって、その埃のかぶった本たちとにらめっこしている。たいていは従兄の使ったお古であった。従兄もずいぶんと揃えたものだな、Hはひと事のように考えた。しばらくすると頭が鈍く痛みはじめた。それら参考書の発する有毒の気が目を侵したようだった。Hは一冊手にとってパラパラとめくってみたが、頭痛は一層増すようだった。Hは立ちあがった。何か忘れている気がした。明日海へ行くのだ。Hには憧れる心はない。ただ誘われると断れない心を持っている。断ることによってひどく消極的な気持になる。Hはそれに反撥した。苦痛でさえも立派な体験ではないか。彼らと海で出会うことは、過去と対面することだ。Hは誇れるような過去を持っていない。なによりも誇れるような現在を持っていない。それは赤裸なHを曝すことだ。海ほどHの羞恥にふさわしい場所はあるまい。ここまで考えて、Hはイスカのメモした下敷きを学校に忘れてきたことに気づいた。
 やっかいなことだが、取りに戻らねばならない。日は暮れかかっているが、まだ学校はあいているだろう。Hは電車に乗った。ほどなくして駅を出、コンクリートの校舎の見える所へ戻った。学校は薄暮にまぎれて静まり返っていたが、人のまるでいないわけではなかった。Hは門から入ることに気後れを覚えた。Hは前に帽子を忘れてわざわざ電車を乗りかえて取りに戻ったことを、他校の生徒に笑われたが、今はそれよりももっと滑稽な気がした。Hはこそ泥のように顔を赧くして、階段をのぼっていった。
 教室は様子が変わっていて、クラブ活動に使われていた。部員はほとんど女生徒で、男子はまばらだった。彼女たちは部屋の飾りつけをやっていた。Hが近づくと、同じ部員と思ったのであろう、机をいくつか並べたまわりに群がっていた女生徒らは、すっと身を引いてHに場所を空けた。Hが覗きこむと、机の上には寿司屋の使う平たい桶にトロの刺身が盛られていた。女子達は刺身を一つ一つ手に取り、傍らに積んだ短冊に張りつけている。短冊には糸がついていて、糊づけの終ったものは窓際につるされる。Hが理由を尋ねると、学園祭の準備であるという。女子達は皆Hの知らない顔だったが、Hのことは知っているようだった。Hは自分が美男であると思っていたので、彼女らが特に注目しないのが心外だった。そのことは女子達のつつましさのせいにして、Hは手伝う気になり、桶から刺身をつまんだ。皿に溶かれた薄い糊を指でぬりつけ、短冊の上に重ねた。飾りつけの係がそれを持って、窓につるしに行く。刺身は落ちずに短冊に張りついている。刺身の中には小さくこま切れにされたものもあり、それらは細い短冊につけられた。Hはふいに吐き気をもよおして机を離れた。それなり食欲を失って教室を出た。
 あくる日、Hは待ち合わせ場所の五番ホームへ出かけなかった。海へ行くことを断念したのではなかった。Hの頭の中で海は岬の向こうに光っていた。そこは電車なぞで行く場所ではない。岬へと向かう広い道が深くスロープして波打っていた。そこには数台の車が点のように張りついているだけで、この雄大なスロープを下るのは魂を乗せた車輪しかあるまい。そういうイメージを浮かばせたのは、薄暗い喫茶店の中だった。Hと向かい合って女がいた。女はHの大胆な視線を怒っているようだった。女はHの知っているトホーカだった。トホーカは年上の女で、Hに対する時はその意識を保つことを忘れなかった。Hがそれに挑戦すると不機嫌だった。Hはしかし彼女を彼女としか見ていなかった。それで時にトホーカがなぜ不必要に不機嫌なのか、深くは考えなかった。トホーカの隣にはママヤが坐っていた。この男はHに絶えず圧迫感を覚えさせた。ある日、ベルグソンを読んでいるというHをママヤは笑いとばした。その日からHもベルグソンを嫌いになった。
 Hの隣にはもう一人の女が坐っていた。Hはトホーカの手前、その女をふり返って見ることができなかった。女はさっきから影のように坐ったり、起っていったりした。彼女はこの喫茶店の娘だった。Hの目あてはこのコモという同窓生だった。コモはHに気があるのかもしれない。しかしコモの父親が用心深く見張っていて、時々用もないのに店の中をうろつく。そのたびにコモはHの傍から起っていく。まだ一言も言葉を交わさないうちに、目さえ合わさないうちに、コモは奥へ消えたまま出てこなくなった。Hはそれまで気のり薄にママヤの話を聞き流していたが、ふいに身を乗り出して快活に喋りだした。トホーカがいぶかしがるほど多弁になった。茫漠とした心の空間に岬の果ての海が光っていた。Hの言葉は全く無縁のことを酔ったように語っていたが、それは海の酔いであった。果てのない波の無条件な逃走であった。そしてHの目は波の底の幽霊を見ていた。
 夕暮れの林の蔭の黒ずんだ空間へ、一台のバスがカーブを切ってのめりこんで行く。未知の運命をになったそのバスの影は、快美な戦慄をあとに残した。Hはそのバスにおのれが乗っていないのがひどく心残りだった。夕闇が深まっていたが、Hは海へ出てみようと思った。樹々の間を、岬へ出る道がほの白く消えている。道行く人の姿は見えなかったが、かなりの人の気配が林のあちこちにざわめいていた。岬へ出る前に墨のような夜になった。高い草が狭くなった道にかぶさっている。空は黒々として、星明りもない。Hはいつの間にか崖ぞいの道を進んでいた。右手に海の気配が黒く沈黙している。Hはどうしても突きあたりまで行ってみたい気がした。あの闇の中に消えていったバスのように、おのれの運命をためせるものなら。足下には手ごたえのない空間の震えが感じられた。草は胸の辺りまで達した。道はしかし足の下に踏まれた。Hはかえって歩速を早めていた。背後から見ている者のいるように。Hは追われていた。そして実際、話し声がHの方へ近づいてくるのである。
 Hは犯罪者のような臆病に打たれて足を止めた。振り返ると影が囁きながら近づいてくる。ふいと二つの顔がわいて、宙に止まった。君じゃないか、来ていたのか。――イスカだった。もう一人の男は、やはり知人のカワホだった。カワホは無愛想だった。Hはある時散歩していて、カワホの家の前を通りかかった。近頃、古い屋敷を買い入れて夫婦で移り住んだと聞いたが、こんなに自家の近くとは思ってもみなかった。Hが門からのぞき込むと、古びた住宅は錠でもかってあるように、よそよそしく静まり返っていた。広くもない庭は荒れはてて、コンクリートの塊がいくつも転がっていた。のぞいているところへカワホが帰ってきて、Hの挨拶にも応えないで家の中へ消えてしまった。Hはその後カワホに出逢うこともなく、カワホの家がどこにあるのかも忘れてしまった。今出逢ったカワホもやはり他人顔であった。イスカはHに宿へ来るように誘った。イスカもカワホも妻子連れであった。Hは遠慮して断った。翌日海岸で会うことにして彼らと別れた。
 海岸は崖の下に半円を描いていた。崖面と水打際の間の砂浜は広くもなく、入江全体も小ぶりではあったが、水は澄んで落ちついていた。日光は崖の上の空間からレンズを透かしたように降って来た。Hは裸の解放的な海水浴客の中で快活になっていた。Hは長いこと人前で裸になることも、日光に浴することもなかったが、今その羞恥を忘れていた。Hの皮膚はロウのように白く、乾いたつやをにじみ出させていた。手足の肉は落ちて、胸の肋骨もあらわに、臑にまつわりつくこれだけは男性的な臑毛も歪んだ身体的発達の印象をきわだたせていた。Hは海水につかって泳ぐまねをしただけで、すぐにあがった。うすべりの上に寝ころんで目をとじ、熱い日光のシャワーを水分の蒸発していく身体のすみずみに感じ、やがて乾ききった肌が痛みを覚えだすと、寝がえるために半身を起こした。ふと横を見ると、Hの知っている女が敷物の上に腰を下ろし、両腕で膝をかかえこむようにして海の方を見ている。眩しさのためか、しかめ面に近い表情をしていた。だがそのしかめ面は眩しさのためばかりではないのを、Hは見てとった。ターラはHを意識していた。Hが見ているのに気づいていて、知らないふりをしていた。もっともなことだった。Hはターラに親しみを覚えたが、話しかけるのはなれなれしすぎる気がした。ターラは肥りぎみで、その尻からの線は丸みを帯びていた。Hはわずかな視線でターラのプロポーションを批評しおえると、すぐに眼をそらした。再び海水に入って、今度は長く遊んだ。水底に潜って貝を拾った。やがて見ると、ターラが黒い浮き袋の中で浮んでいた。子供のような悪戯心だったが、Hは横からターラの浮き袋にとりついた。浮き袋は二人分の重みで沈んだ。ターラは暴漢に襲われたような蒼い顔をした。Hは彼のやせた尻には大きすぎて、プカプカする海水パンツを気にしながら、岸へ泳いでいった。
 陽が傾きかけていた。海水浴客はしだいにまばらになっていった。影の差した波の間で、果敢に遊びつづけている子供たちの姿のほかには、もう海水に入ろうとする者はいない。Hはボートで沖へ出ていた。戻ってみるとターラの姿はなかった。イスカやカワホにも出逢わなかった。Hは葦簀張りの出店でサザエの壷焼を注文した。床机にかけて味わっていると、ビキニの女が近づいてきてHの隣に腰を下ろした。Hはすばやく女の身体に目を走らせた。当惑させるほどの美人でもプロポーションでもなかった。女はごくあたり前のようにHに話しかけてきた。Hはサザエを勧めたが、女はやんわり断った。Hが一人旅なのを知って、女は羨ましいと言った。一人旅が好きな人もいるのね。わたしなどはとてもこわくて出来ないわ。彼女は団体で来ているのだと言ったが、それらしい連れは見当たらなかった。Hは見知らない女と気楽な話をかわすのが快かったが、いつまでもこうしているわけにはいかない気がして、サザエを食い終ると立ちあがった。海岸をぶらぶら歩いて行った。夕闇が迫っていた。海から風が起こって、塩気のきいた皮膚を快くなでる。単調な波の音がどこまでもついてくる。海岸の後ろの山々は黒いシルエットと化し、Hの接近を拒んでいる。Hは歩きつづける。闇は深まる。・・・・・・
 Hはあれからコモに遇っていなかった。講義の合間や昼休みには、この老朽した校舎の間の芝地は、信じがたいほどの人かずの往来で埋まる。どこからわいてどこへ行くのかは、Hには謎のように思われた。人かずの半分は女で半分は男だった。こんなに波のような人ごみの中でコモを捜すのは不可能に近い。Hは絶望してぼんやり立っていた。Hの前を過ぎて行くのは、ほとんど顔も知らない連中だ。中にはHの美男ぶりに惹かれて、笑みを投げかけたり、頬を染めたりする女達もいた。Hはそれら見知らない女達に不遜な眼差を返す。Hはほとんど服装にかまわない男だったから、その身なりはかなり滑稽だった。で女達は鼻に皺を寄せて軽蔑を示した。Hは仕返しにいつも裸の女の写真をポケットに忍ばせていた。Hは人波について食堂へ向かった。そこでノサに逢った。ナサはHの数少ない友人の一人だったが、知り合ってからほどなくしてHは退屈を覚えてしまった。ノサと会っているとひどく気持ちが消極的になってしまい、Hはむしろ一人でいることを好んだ。Hはおのれにない可能性を友人に求めていたが、ノサはH自身のうっとうしい面を鏡に映したようだった。Hとノサは逢ってもしだいに喋らなくなり、Hはぶしつけでさえなければ逃げだしたいとさえ思った。で今食堂でノサに逢っても、Hの沈んだ気分はあまり改善されなかった。Hはノサにいくらか貸しのあるのを思い出した。わずかな金額で言いだすのも気が引けたが、Hは恥じながら請求した。ノサは黙って返却した。Hは少し気分を良くして話題を探した。ノサはいかにも疲れたような、億劫な喋り方をした。一緒に喋っていると気が滅入っていくのをどうすることも出来ない。だが退屈しているのはノサも同じだった。Hとノサはまるで疲れた人格が寄り合うように、飛躍することを知らないのだった。Hは壁に張ってある写真を眺めた。米兵に乳房を切り取られたベトナム婦人の写真だった。一枚の写真の方がより多くのインスピレーションを与えた。Hはノサと別れてキャンパスを歩いて行った。男が退屈させるものを、女ならば別のふうに補ってくれるに違いないとHは考えた。それにはコモに出逢わなければ。
 コモはこの所姿を見せなかった。前には週に一度はどこかですれ違った。彼の後ろに席を取っていることもあった。彼は振り向かなかったが、背後のコモの視線でHは幸福な緊張感に包まれた。また彼の前をコモが歩いていたり、通りかかったりしたことがあった。そんな時、Hはコモが想像したほど美人ではないのに気づいて落胆した。Hの感情はピティに近いものに変わっていった。キャンパスでは古本市が開かれていた。手に取ると崩れそうな日焼けした本の列をたどって行くうちに、いつかキャンパスを出外れて、公園に入っていた。古本市の先には天幕が張られていて、喫煙コンテストが催されていた。天幕の下に並んだ床机には、歌舞伎衣装の毒々しい泥人形がいくたりか坐っていた。衣装から顕われている首から顔にかけて、手首から先は、青銅の粉でまぶされ、ひび割れそうに固められていた。異様な者たちはそのなりで煙管を吸うポーズをとったまま、微動だにしない。Hは奇形な見世物を見せられでもしたように不快になった。彼らはよく見ると死人ではなかった。口に持っていった長煙管から煙が立ちのぼっている。Hはニコチンに緑青がふいたような怪物達を後にして、公園の砂利道を歩んでいく。
 陽は西に落ちていった。鴉がベンチに群がっている。Hが近づくと飛び立ちそうにした。Hは足を止めてベンチの一つに坐った。鴉は安心してふたたび彼らの無言の集会を続ける。雀がつぶてのように飛んで来て、鴉とHの間のベンチにとまった。広い散歩道を隔てて、松をまばらに植えた芝地がある。その松の枝の間で都会の埃に汚された夕陽が病んでいた。Hはそのみすぼらしい太陽の恵む熱に感謝した。松の背後には車が川のように流れていた。その間断のない瀬音は、Hの意識の不協和な通奏低音となった。Hは足許に目をやった。ベンチの置かれた所は、散歩道より一段高く舗装されていた。散歩道との境はコンクリートのブロックで限られ、その境界線はどこまでも真直ぐ延びていた。Hは首を斜めにしてその誤差を測った。そしてその正確さに腹を立てた。一つ一つのブロックを真直ぐに置くというさして意味のない作業にまで、だれか知らない人間の精魂がこもっているというのは、一体どういうことなのか。一体どうして彼は一つぐらい曲げておかなかったのだろう。Hは不安になった。ひょっとして幸福とは狂いなく並べられた鋪石の一つになることではないのか。Hは松の向こうの流れる機械をながめた。あの一つ一つの函には、一人ずつ人間が坐っていて、彼らの意志はハンドルやアクセルを伝い百倍にも拡大されていく。彼らがそんなにエネルギッシュにも行先を決めて走っていく様は、Hを嫉妬させた。だがその憎しみは彼らに対してというよりも、彼らの守護神に向けられていた。彼らがハンドルやアクセルを操るように、彼らの手足を操っているものがいる。足の下で踏まれるアクセルが、車を快感に震わせるように、彼らもまた彼らを操る誤りのない手に、彼らの快感を委ねている。彼らは信号が変われば止まらねばならないが、Hはその信号に屈辱を覚えるのである。



作品名:時の学校 (風の中の家 第ニ話)
作者:羽和戸玄人
copyright : hawado kuroto 2009
入力:エポス文学館
UP : 2009.7.3