夜男爵の部屋

第六夜 クレピュスクルム

マリネンコ文学の城 Home
夜男爵の部屋 Top

   アフララの手紙

 夜男爵様

 先ほどの件について、直接お話するよりも、お手紙の方が私としては気持が楽ですので、ご面倒とは思いますが、お読みになってくださいませ。
 私のクレピュスクルムでの体験を、夜男爵様のお部屋で語ってほしいとおっしゃいましたね。先ほどは躊躇して、一旦はお断りしました。私は小説家ではありませんし、私の体験はごくプライベートなもので、人に語って聞かせるようなものではありません。
 たしかに私は皆さまの前で創作を読みあげました。でもそれは、直接語れないものをフィクションの形で紛れさせる試みでした。思えばへたな策を弄して、私自身を私でないものにしてしまいました。ああいうことは一度で充分です。
 もし私が自らの口で私の体験を語るとしたら、また同じような虚構化に頼らざるを得ないでしょう。私は虚しく自分に嘘をつかねばなりません。それが小説というものの罪です。
 だからと言って、私は私の全てを人前に正直に告白できるでしょうか。これもまた困難で、不可能なことです。そればかりか、おこがましく滑稽でぶしつけですらあるでしょう。誰が縁もゆかりもない他人のすべてを知りたいと思うでしょう。そうした人間の冷たさに出会えば、誰だって沈黙を選ぶに決まっています。
 私はたいていの分別のある人間がそうするように、自分の一生を墓場の沈黙にまで運んでゆきます。けれども心のどこかには、私のことをすべて分かってくれる神のような存在を求めていることは、私は正直に告白します。それが誰なのか、どのような存在であるのか、私には分かりません。 もし私が真に何かをこの世に書き残したいとしたら、それはそのような存在に向けてであることでしょう。
 こんなことを書きましたのは、何も夜男爵様が私の話し相手として相応しくないなどという、自惚れた気持ちからではありません。私は自分自身をいたずらに好奇の目の前に、その実は無関心と敵意の前に晒したくはないからなのです。私は夜男爵様が、皮肉な見かけはどうあれ、心の奥には同情心のあふれる方だと信じています。その前では決して滑稽には映らないだろうということも分かっています。
 けれどもやはり、面と向かっては私は私の何事もお話しできないと思います。私はいずれウラノボルグを出立して、再び黄昏の国をさまよわねばならないでしょう。それが私の定めであり、運命です。そうして、皆様方とは二度とお会いすることがないかもしれません。私が再び異界にさまよう時は、もはやあの月の世界から来た月姫のように、この世のことはすべて忘れ去るでしょう。
 私はある時期、クレピュスクルムに関してメモのようなものを記したことがあります。それはとても作品などと呼べるものではありませんが、もし私について少しでもご関心がおありでしたら、お読みになってください。お読みになって廃棄なさるもどうなさるも、夜男爵様にお任せします。いずれ私はすべてを忘却して、あの世界に戻ることでしょうから。

   夜男爵様
                      かしこ     アフララ     


                 


               第六夜 クレピュスクルム

                        アフララ 



 

 その頃のわたしは、人間の世界をさすらうことを諦めていました。わたしの求める幻は、白昼の街や公園や人の集まる建物や森の中にはなかったのです。そこにはどこもかしこも、わたしの求めるのとは別の人たちがいました。彼らはあまりにも快活であったし、またあまりにも陰険で、しかもなれなれしかったのです。わたしはしいて彼らに近づこうとして、彼らの眼差しに反撃され、彼らのなまなましさに嫌悪に満たされ、そうかといって、彼らを風景のようにみなして、自分を透明に考え、彼らの中を過ぎようとしても、たちまち邪悪な影響がわたしの心を氷らせてしまい、<悪い眼>にとりまかれた檻の中にいるのと変わりはなかったのです。わたしはある時狂女を見ました。その中年の女の人は、調子外れな高い声で、呪文のような歌を唱えながら、人ごみをあたかも無人の砂漠を行くように突っきっていくのでした。その歌は氷のように冷たくわたしの胸を刺しました。その歌声はもはや人間の孤独を突きぬけてしまって、どこか知らない世界で、その唱和者を見いだしているかのようでした。冷えびえと、異界の怖れが、その歌を聞くすべての人の胸に突き刺さったにちがいありません。人間の世界で独り生きることの宿命と悲惨を、わたしはその女の人に見たような気がして、暗澹となりました。それからは求めることをやめました。少なくとも人間の世界に当てのない願いをかけることだけは、諦めることにしました。その狂女の姿はわたし自身と重なり、わたしはそこにわたしの行く末をまじまじと見ていたのですから。
 わたしの放浪は、人間の世界をさまようことをやめてからは、夜の世界へ向かいました。昼の光には、そこに夜の到来を予感させものがない限りは、もはや何の期待も見いだせませんでした。わたしは夜と闇の中にかえって光を見ました。そこでは幻燈の像のように、厚いすり硝子を濾過した風景が、なつかしげに、しかも未知のままに揺れているのでした。夜へ帰るとともに、わたしの魂はまた時間をも遡ってゆきました。わたしはいつのまにか喪われたものを手探りで求める幼児にかえっていました。しかし、わたしの探すものは時の中にはなかったのです。わたしはただ若返っただけで、やはりわたしの人生という檻の中に閉じこめられたままでした。たとえばわたしは中学生になって、教室の椅子に行儀よく坐っていました。実に居心地が良いので、わたしは大人であることを忘れていました。わたしの知っている人が教師でした。数学の授業でした。わたしは問題の指名をされるのではないかと、内心びくびくしていました。すると案の定あてられました。懸命になって問題を解こうとしますが、どうしても解けないのです。数字やらイコールやらが、てんでバラバラに動きだして、自分の頭とは勝手に計算をしているようでした。かと思うと、わたしは宿題を忘れてきたので、ひどく萎縮しています。
 こういう気ままな時間的遡行には、なんら持続的な満足が見いだせませんでした。そこにはあまりにもわたしの人生の影が落ちていて、わたしは一人の人間の、というよりもわたし自身の経験の狭さを身につまされるのでした。わたしはどうしてもこの経験というものを越えたかったのです。何か夜の中から自発的に生まれてくる幻を探しました。それははじめはごく目立たない形で、目立たない場所に見つかりました。たとえばある日の白昼、私は久しぶりで訪れる街角を歩いていました。するとわたしはその現実の街角のたたずまいの背後に、ひとつのハーローを見ました。わたしの眼はその風景に重なりながら、しかもその風景に何かをつけ加えている幻影を見ていました。つまりわたしは、夜の闇を翔けて、しばしばその街角の客となり、しかもいつの間にか違った構図をそこに与えたり、また不思議な劇場や、薄暗い古書店などをどこからか移転させてきていたのです。これも単に時間的配置換えと同じ、空間的配置換えにすぎないかもしれません。けれどもそれが現実以上に現実に見えたところに、わたしの夜の探求の成果らしいものが、そこに看取されたのです。
 わたしはその古書店や劇場を探しはしませんでした。それらがリアルであるという確信を、いつまでも保ちたかったからです。そしてもしわたしがその場所へ行ったならば、不思議な狂乱におちいって、そのまま正気の世界へ戻ってこれないのではないかと不安になったからです。だから回り道をして、その街路に深入りするのを避けたのでした。
 でも、わたしは再び夜の世界へ戻らねばなりません。夜の世界では、闇がそうした昼と夜の二律背反をおし包んでくれます。均質な幻影がそこではくり広げられ、そこでは狂気と正気の垣根が取り払われています・・・。


 2


 ・・・そんな頃でした、この世の果てにクレピュスクルムという夢の国があるということを、どこからともなく耳にしたのは。それはかすかなかすかな、夢の記憶のようにたよりない噂ではありましたが、それを聞いた時から、どういうわけでしょう、わたしの人生が味気なく、つまらなく、無意味に思われるたびに、天上のメロディーのように記憶のひだからいざない、ささやきかけてくるのでした。ただの夢なのだと、わたしは落胆を予防して、自身にとき聞かせていました。
 ・・・ある夕暮れ時、それは紅蓮の後光が西の地平を大火のように燃やしていた、めったにない荘厳な色彩の交響にさそわれてのことであったかもしれません、わたしはクレピュスクルムに向けての旅立ちを決意したのです。わたしはその空を燃やす炎の峰によじのぼり始めました。もはや地上のことを忘れ、ただひたすら眼を天上に向けて歩いていたわたしには、そう思われたのです。そして地の回転するにつれてしだいに移り、薄れてゆく荘厳を、わたしの足がとりもどせでもするかのように、まるで七里靴で翔けているかのように、いよいよ歩を速めてゆきました。しかし闇が急速に憂愁の翼を地の上に広げてゆきました。わたしはまだ人間の世界にいるわたし自身を見いだしました。
 ・・・月のない夜でした。日が落ちて間もないのに、もうすべてが寝静まってしまったような静かさでした。わたしはどこか郊外の住宅地を彷徨っているのでした。背後には逃れてきた巨大な都会の気配が、遠い潮鳴りのように感じられました。わたしのたどっていた道は、ひとつの溝渠にうちあたりました。高い金網が溝の両側に張られていて、それが眼もはるかに左右の夜の中に消えていました。溝の底にはかすかにどす黒い汚水が流れているようでした。向こう側にはこちらと同じような家並が広がっています。一体右と左のどちらへ行くべきかと、わたしは迷いました。いずれにしてもどこかに橋がなければなりません。そしてわたしは二つの方向へ同時に行けないことにかすかな不満を覚えながら、左へと折れたのでした。行けども行けども金網はつきません。最初は愉快な気持で歩んでいたわたしも、一向に橋が現われてこないので妙に不安になりました。ひょっとしてこのまま向こうへ渡れないままなのではなかろうか。するとひどく向こう側の家並や、さそうように口を開けている小路などが、いとしいものに思われてくるのでした。舗装されていた道はいつのまにか土に変わり、ところどころにこんもりとした樹木がおおいかぶさったりして、街灯もひどく心もとなく見えました。わたしの足は速まっていました。それにつれて心は重苦しい不安に圧倒されそうになるのでした。足の速さとは逆に、踏みだす一歩一歩がいよいよ当惑をつのらせてゆくのです。いっそのこと引き返したらどうだろう。右へ曲ればよかったのだ。しかし今まで来た道のりを思うと、その徒労感にもまたたえられそうにありません。クレピュスクルムに向けて出立したばかりというのに、それ故にまた心の焦燥もひとしおであったのですが、いまいましい金網が、わたしに人間界から飛びたつことを禁じてでもいるかのように、立ちふさがっているのです。絶望感と羞恥がわたしをとらえ始めました。きっとわたしが必死にたどっているこの道も、まるで嘲笑そのもののように、ある所でつきてしまうにちがいない。そしてわたしは心に恥じながら、もとの世界に退却する外はないのだ。そう思うとわたしはひどく滑稽でみじめな気持がしてきました。アンチクライマックスほど人生の尊厳を損なうものはないのです。するとその時、道のはるか先に、溝を横切っている光が見えてきました。近づくにつれて、それは街灯ではなく、どうやら溝の上にかけられた灯りらしいのが分かりました。そこが橋でなくてなんでありましょう。わたしの心にはようやく安堵が萌してきました。
 わたしはまた快活な気分をとりもどし、道を急ぎました。今までの憂鬱は、まるで根拠のない例のわたしの習い性のひとり決めにすぎなかったのです。わたしには未来の企てを前もってすべて暗黒に描いておこうという性癖があるのですが、それはそうすることによって実際の挫折をあらかじめ緩衝しておこうという用心深い魂胆からなのです。しかしその灯火が近づいてくるにつれて、まったく予想外の光景がわたしの前に現われてきました。どうみても橋などかかっている様子はありません。かわりに一本の針金が両側の金網のてっぺんから渡されていて、その中央に裸電球が溝の上低くつるされているのです。その電球の下では、二三人の黒い影がなにやらうずくまっていました。そのそばまで来ると、わたしは金網にくぐって通れるほどの小さな出入り口がついていて、その錠前が外されていることに気づきました。そこでわたしはその出入り口をくぐって、溝渠に下りて行きました。岸の近くは丈なす草におおわれていましたが、中ほどは水がまったく干あがっていて、空缶やらゴミやらが散乱しています。その底の土を踏んで人影の方へ寄ってみました。三人の人影が、なにやら地に伏せっているものの周りを囲んで、見下ろしているのです。わたしは彼らの隙間から、その地に倒れているものを見ました。女がうつぶせに倒れているのです。その制服から女生徒のようです。衣服も手足も土にまみれていました。うつぶせの顔がどちらかに傾かずに、まともに土にうずまっているのがなお凄惨な感じをそそって、わたしは目をそらしました。そうしながらも、やはり横目でじっとその死体を見ないではいられませんでした。三人のうちの一人は看護婦のようでした。手に大きな注射器を持っていました。そして少女の死体の上にうずくまると、そのスカートをめくりあげて、あっというまに腿にその大きな注射をうちました。それも下着の上からでした。<こうすれば腐らない>と看護婦はつぶやきました。それから三人でなにかひそひそ声に囁きはじめました。二人の男が何者かは分かりません。わたしの方から声をかける勇気はありませんでしたが、彼らの方も特にわたしの存在をいぶかしがる様子は見えません。そこで看護婦が彼らから離れた時、わたしは彼女に話しかけることにしました。<クレピュスクルムへ行くには、どう行ったらよいでしょう>――三度くり返して、彼女はやっと私の存在に気づいたようでした。何かとてつもないことを訊かれたかのように、眼をパチクリさせてわたしの顔をまじまじと見ました。そして黙っています。わたしはもう一度同じ問いをくり返しました。すると電灯の陰になって不吉さの増した彼女の表情に、それと分かる嘲笑の笑みが浮かんで、黙ったまま顎で地に伏している死体を示しました。わたしもまた死体を見つめました。すると得体の知れない不安がそこから立ちのぼってきて、みるみるうちにわたしの息をふさぎ、嘔吐をこみあげさせるのでした。<クレピュスクルムへ・・・彼女もまた行こうとしたのさ>――そうつぶやく看護婦の嘲りを背に聞きながら、わたしは溝の岸を登ってゆきました。そして金網の出入り口をくぐって出た時、私は溝の向かい側の道に立っていることに気づいたのでした。


 


 ・・・暗い夜をただ星だけを道しるべに歩んでゆきました。星々の沈んでいく方に、きっと目的の地があるにちがいないという予感が、わたしを導いているのでした。道の両側の灯りの消えた家々からは、何の物音も、また人の気配も感じられません。まるで死そのものの中を歩んでいるようでした。あの金網の境界を離れてから、まだ人一人出会っていないのでした。人ばかりでなく、動物も、またなべて動くものの気配が、空を渡る風も、梢を鳴らす音も、感じられないのでした。すべてが重くよどんでいました。万物から生気が失われたようでした。それでもわたしは歩きつづけてゆきました。心はこの沈んだ世界とは対照的に、いわばデスピレイトな自由感を呼吸していました。ふりかえる何ものとてもはやないのです。責めたてる記憶もなければ、後ろ髪を引く悔いの不安もない。ただかなたからの呼びかけに応じて、磁力にすいよせられる鉄片のように、嬉々としてすべてを捨て去り、かの国へと旅立ってゆく。それは見知らぬ国へ向かう旅人の不安と興奮に満ちたエクスタシーではなく、異境に病み果てた人の倦み衰えた心身をかりたてるハイムケーアの衝迫にも似た憧憬でありました。
 いくつかの町を過ぎ、いくつかの村を過ぎ、川を越えて、やがて前方に深い森が黒々と浮かび出てきました。その闇に溶けこんでひとつのかたまりとなった木々の作る妖怪じみたシルエットは、あたかもかつてテュルクの王ギルガメシュの前に立ちふさがった冥府の番人のように思われるのでした。わたしの行く道は、その巨人の黒暗々の衣の裾に失われていました。私はひるむことなくその暗黒の中にふみ入ってゆきました。ただ闇だけがありました。そしてその闇は膚で感じることができるくらい、厚みのある闇でした。手探るようにして進んでゆくうちに、しかしやがて道の幅が広がりだし、眼もなれてきたのでしょうか、物の形がぼんやりと分かるようになり、さらに進むと頭上に重なりあっていた木々の梢が開け、真っ黒な空にはぐれ星が輝いているのがのぞかれるようになりました。たしかにわたしは山中の広い街道を歩んでいるのでした。それにしても道の両傍にそびえる木々のなんというとほうもない巨大さ、見上げるとくらくらと目眩がして、その重量感だけでもう虫けらのように押しつぶされてしまいそうなのでした。そんな巨木が幾本となく連なりそびえている間を、わたしはひとり歩いているのでした。そして今にも倒壊する巨木の下敷きになりそうな戦きをおさえることができずに、いっそ地に這ってしまいたいような、そしてその地そのものもわたしの戦きにあわせてふるえてでもいるような不安に苛まれていました。
 すると道の傍らに巨木にはさまれて、一軒の茶店のような家が見えてきました。その店の前に置かれてある露台に腰をおろして、しばらく休みました。奥の方に店の主人らしい男が、背を向けて坐っているのが見えました。その主人に思いきって声をかけて、クレピュスクルムへの道を訊ねてみました。男はやはり背を向けたまま、黙って店の横手を指さしました。そこへ出てみると、一本の細い道が家の裏手に続いていて、そこからは家の蔭になって見えなかった盆地のような谷間へとカーブを描いて下っているのでした。その谷のふちに立って見下ろすと、またもや目眩におそわれました。暗い穴のようなその小さな盆地へまっしぐらに落下でもしそうに、両脚がふるえだして、もはや立っていられないのです。わたしは思わず両手をついてしまいました。そしてその姿勢のまま、あたかも蟻地獄へ一歩一歩落ちこんでゆくように、谷を下ってゆきました。というよりも、なにか得体の知れない重力に引きずられているようでした。草の根もとや灌木にすがりつき、いまにも転げ落ちそうなくらいに加わってくる加速度をこらえながら、胸は不安のあまりいまにも破れそうなほど高鳴っていましたが、やっとのこと谷底の平地にたどりつきました。その辺は上から見た時は一面真っ黒な森のかたまりでしたが、下についてみるとかなりあちこちに空き地があるようでした。その空き地の一つに一軒のすすけた小屋が、星明りにぼんやりと見えていました。近寄って戸を叩いてみましたが、応答はありません。人の気配もなく、ただ窓のガラスが黒い不気味な瞳をかがやかせているばかりでした。そこで戸を開けて中へ入ってみました。中は真暗で、何の物音もしません。しかしなにやら床の上に並べられ、積み重ねられているようです。じっと眼をこらしているうちに、それらがみな人の屍であることがわかりました。すべて裸で、丸太のように床に転げてあるのです。
 わたしは嘔吐をこらえながら死の小屋から離れました。そしてしばらくあてもなく彷徨っているうちに、一つの洞窟からかすかな光のもれているのに気がつきました。近づいてみると、そこは今は廃坑となった鉱山のようでした。その横穴の一つから光がもれているのです。中へ踏み入ってみると、一人の山男がランプを傍らにおいて、石の上に腰をおろしていました。そのそばには深い竪穴が黒い口をあんぐり開けていました。そこでこの男にクレピュスクルムへの道を訊ねてみました。すると山男は、その褐色の野人の顔に微笑を浮かべて、<あんたもいきなさるのか>そう言って、その竪穴を指さしたのです。その竪穴は普通の井戸ぐらいの広さはありましたが、なんのためか真中には一本のパイプが通っていて、そして穴のふちからは細い縄梯子がたれさがり、それらがまるで地の底まで達しそうな深淵の奥へと消えているのです。わたしは思わず戦慄をおぼえて後にすさりました。<恐れることはありませんでよ>山男は言いました。<わしなどは、ここへ来るもののあるたびに、おりなけりゃならんのでよ。わしのつとめですからな><あなたもごいっしょですか>わたしは訊ねました。<いや>そのまま山男は黙ってしまいました。そこでわたしはふるえる両脚をこらえて、再び深淵をのぞいてみました。まったくの暗黒の底から湿りをおびた吐息のような風が顔をなでてすぎました。もしやこの底には思いもよらない光明の世界が待ちもうけているのではないか、一瞬そんな気がして、わたしはくらくら目眩がするままにそこへ尻もちをついてしまったのでした。
 その時です、一人の男が洞窟の入口に姿を現わしました。男は山男やわたしには目もくれずに竪穴のそばまでやってくると、じっとその底をのぞきこみ、そして何のためらいもなく縄梯子をつかむと、それに足をかけて穴の底へおりだしたのです。そして男の姿はたちまち深淵にのみこまれ、後にはただ男の重量を伝える縄の張りきった震えがあるばかりでした。その縄の震えを見ているうちに、わたしは自分の臆病がひどく恥ずかしくなりました。そして縄梯子をつかむと、山男の意味ありげな微笑をあとにのこして、わたしもまた勇敢な男のあとを追うように、深淵の底へとおりていったのです・・・。

  ――レムール――

 それは何という不安と息苦しさと嘔吐と震えの地獄であったことでしょう。一歩足を踏みおろしたとたんに、制しがたい身震いがまるで地そのものが揺り籠であるかのように全身をゆさぶり、息は目に見えない翼にふさがれたかのように喘ぎ、激しい心室の鼓動がわたしを地の底につき落とさんばかりに内から責めたてるのです。意識はくらくらと目眩の海にたゆたい、縄をつかむ手や腕も豆腐と化したかのように力を失ってゆくのでした。墜落の観念が――不安が今やわたしをとらえていました。そしてその観念の増大が、いよいよ墜落を、暗い竪穴の底の暗黒への落下をそそのかし、実現させていくようでした。そして実際、わたしの体はずるずると、まさにおそれそのものとなって穴の底へすべりこんでゆくのでした。それはわたしが足を踏み外したというよりも、たしかに縄にしがみついていられるのはわたしには奇蹟としか思われなかったのですが、わたしの腕が力を失い落下する前に、縄自体がずるずるとすべっているようなのでした。そしてそれはもはや先ほどの縄梯子ではなく、等間隔に結びこぶのある一本の細い縄にすぎないのでした。しだいに増してゆく加速度の中で、私は恐怖のために全身の硬直した一個の昆虫となって、やがて無の中に沈みこんでゆくのでした・・・。
 暗い、じめじめした、なめくじのねとつくような、時の沈殿してふりつんだ、原初の腐植土のような地面の上に、のたうつように、なみうつように、意識がもどってきました。汚物にまみれ、異臭につつまれ、目覚めた酔っぱらいのように、あるいは、ふりつもった蛋白の海底に、はじめて芽生えた生命のように、わたしは欝蒼とした羊歯の森の湿潤なしとねに、ふたたびわたし自身を見いだしたのでした。曇り日のようにあたりはどんよりして、物音ひとつしません。ここがクレピュスクルムなのでしょうか。何という荒涼とした、物寂しい世界なのでしょう。巨大な羊歯の葉を揺するそよとの風もありません。まるですべてが真綿につつまれたような静けさ、鬱陶しさ。
 わたしは歩き出しました。歩くにつれて、羊歯の森はしだいに開けてくるようです。圧迫するような空気もだんだんにやわらいできます。いつのまにか森を出て、川岸の堤を歩いていました。堤といっても人工のものか自然のものかわかりません。谷のふちを歩いているのかもしれません。かなりの傾斜が眼下になだれています。その斜面には葦のような草がまばらに生えていて、あとはただでこぼこした土くれや石の広がりでした。斜面の落ちこんだ先に、満々と水をたたえた川が流れています。その色は空の色を映してどんよりした灰色でした。そのわきたち盛りあがるような川水のボリュームには、言いようのない不安がかくされていました。こんな川で釣れるものは一体どんなものだろうとわたしは思いました。すると何か奇妙なものが川面を飛んでいるのに気がつきました。はじめは遠くてよく分からなかったのですが、近づくにつれよく見るとそれはヒトに他なりません。両手両脚を前に突きだした人間が、すいすいと川面を飛んでいるのです。わたしはあっ気に取られてしばらくながめていました。するといつのまにかそばに一人の男が立っているのに気づきました。男も黙って川面を見おろしています。そこで話しかけてみました。<馬鹿げたことですね。>なぜか軽蔑的な言葉が出ました。<ヒトが飛ぶなんて不可能でしょう。><そう思うかね。>男は答えました。そうして両腕両脚をまっすぐ前に突きだして、今にも飛び立ちそうな様子です。<一緒に来るかい>そしてうしろにつかまれという身振りらしいのです。そこでわたしは男の背後にまわり、両手で男の両脇につかまり、両脚をまっすぐ前に伸ばしました。するといつのまにか、男の体ばかりでなくわたしの体も、そのままの姿勢で宙に浮いているのです。そしてゆるゆると堤の斜面をすべるようにくだり始めました。それは何という奇妙な感覚だったでしょう。それは飛翔という言葉のもつ軽快さ、愉悦とはまったく別物であって、おもい重力にずるずると引きずられながら、なおかつそれに抵抗する浮力のあがきとでも形容するしかありません。それは浮遊の楽しさであるどころか、落下の恐怖に他ならないのです。その恐怖の大きさが、かろうじて地への接触をさまたげている。わたしは斜面をすべりながら体の震えをこらえることができませんでした。
 すると、いつのまにか先を飛んでいる男の言う声がひびきました。<恐がらずに、足先に力を入れてごらん。脚全体に鋼になったかのような張りをみなぎらせるのだ。>そのようにすると、前よりもかなり楽に飛翔できるようになりました。やがて満々と水をたたえる川面が近づいてきました。その溶けた鉛のような、液体というよりはのたうつ生き物のような水は、恐怖を呼びおこしました。うまく飛翔しないとこのまま水の中につっこみ、得体の知れない苦悶にのみこまれてしまいそうで、不安は加速を加えてゆきます。そしてすでに水の上に来ていました。何という重くるしい飛翔、水とわたしの脚との間には1センチの隙もなかったでしょう。そしてその水に触れることが、ちょっとでもぬれることが、たまらなく恐ろしいのです。そしてそれを恐怖することが高まるほど、、その恐怖は実現されざるをえなかったのです。わたしの足先はもはや水につかり、ずぶずぶと妙に弾性のある感覚のなかに、しだいに体ごと沈んでゆきました。わたしはもがきました。泳ぎということを忘れて、ただひたすらにもがいたのです。ただ首だけが水の上にでていました。それがわたしの命でした。そしてわたしの手も足も疲れはてて、すべてが没してしまうのは一瞬のことのように思われました・・・。
 どうしてわたしが助かったのか、わたしにもわかりません。ただ気がつくと岸辺に立っていました。水銀色の川水が滔とうと眼の前を流れてゆきます。その岸辺に一人の釣人が糸をたれていました。一体こんな川で何がつれるのか、わたしは好奇心をおこして近づいてみました。釣人は黙然と糸をたれていますが、少しもあたりがあるようには見えません。<何がつれるのですか。>わたしは訊ねてみました。男は黙って右手を指さしました。すると今まで草のかげになって見えなかったところに、るいるいと死体が横たわっていました。わたしは嘔吐をこらえながらそこを離れました。
 またしばらく行くと、道は川岸から分かれ、田畑をぬって小暗い林のほうへわけ入ってゆきます。木の間をすかして人家の気配も感じられ、やがて大きな伽藍が行く手に黒々と浮かびあがり、どうやら境内へ出たようです。松の喬木が亭々とそそり立つ道をたどって近づいてみますと、見あげるばかりの御堂で、墨色の空よりもひときわ黒い翼を木々の上に広げています。歩みは自然と遅れがちになって、心にのしかかってくる夢魔をなんとかして払おうとするのですが、蝙蝠のはばたくような不安はいよいよつのるばかりです。御堂は修理工事の最中らしく両側に高く足代(あししろ)が組まれて、白いカンヴァスをまとっていました。だが長く放置されているようで、人の姿も槌音もなく、荒廃だけを発散して静まりかえっていました。近づくと庇はぐんぐん伸びあがって、巨木の下の蟻のようなめまいに襲われました。大きな建物や巨木の前に立った時の、今にも頭の上に倒れてきて押しつぶされそうな、あのいつものめまいでした。足はよろよろくだけそうで、それに合わせて地面がゆれはじめます。わたしは傍らの松の木につかまって目をとじます。すると松の木はゴムのように弾力をおびてきて、たわいもなく重みに屈して前へのめってゆきます。それは大地そのものが斜めにかしいで、突然口を開いた崖のふちへと滑っていくようでした。わたしは必死に、いまは松だか草だか手ごたえのなくなったものにすがりつきました。それも手につかむたびに、かつらかなにかのように根こそぎ抜けてしまいます。わたしはもう崖の中腹に、冷汗をかきながらぶらさがっているのでした。眼の下には、といってもまだ目をつぶったままでいましたが、地球の腸(はらわた)が真っ黒に覗かれるような気がしました。
 これで最後だと思った時、下の方で人の話し声がして、目を開けてみると、案外すぐ下に道があるのでほっとしました。手を離して飛びおりると、思ったより高さがあって、瞬間はっと心臓がちぢみましたが、少しつんのめっただけで無事着地し、まだふるえの残っている両脚で立ちました。五、六メートル先に数人の人が集まって、なにやら黒い塊をとりまいて話しています。近寄って見ると、それは黒々とひからびた木乃伊でした。お寺の工事で発掘されたのだそうで、昔の生仏だろうという話です。こんな所に思いがけずさらされて、木乃伊は羞恥と怒りで身もだえしているようでした。わたしは同情をおぼえてなおも見ていると、最初炭の塊のようだった木乃伊の頭部が少しずつくずれだし、なにやら表情のようなものが動きだし、やがて手も足も細かく痙攣をはじめたのです。<生きてる!>とわたしは叫んでいました。周りの人々を見てみると、全然気づかなげに話をしています。<皆さん、生きてますよ!>わたしは恐怖にかられてまた叫びました。彼らはあたかもそれがあたり前のように、少しも関心を示しません。木乃伊は自分の掘り出された土の中に帰りたく思っているのですが、それがわたしには土中から季節の前に掘り出されてしまった蝉の蛹があられもなくもがく様とかさなって、嘔吐を起こさせるのでした。生きた木乃伊は大変珍しいので、やがて調査団が来るだろうと人々は話しています。博物館に陳列することになるだろうと一人が言います。いやいや寺の本堂に安置して、観光客を呼んだほうが儲かるだろうとまた一人が言います。わたしは木乃伊と彼らをあとにして、背後からの黒い影に追われるように道を急ぎます。
 林が切れて広い通りへ突きあたりました。砂礫のしかれた町中の通りのようですが、向かい側には長い土塀が左右に伸びて視界をさえぎっていますし、こちら側は林のほかには何も見すかせません。左手はるかから、人のやってくる気配がします。どうやら走っているようです。褌一枚のほかは裸の老人が走ってきます。老人とはいえ脂ぎった肥満男で、太鼓のような腹が突きでています。この老いたる肥大漢は、息切れひとつ見せず、褌をたなびかせて走っているのです。老人のあとには沢山つづく者があると見えて、ざわざわ気配だけを伝えてきます。老人が前を走りぬけたとき、ぴったりその後についている者たちの姿がはじめて現われました。すべて老婆でした。あるものは杖を引き、足を引きずり、あるものは四つんばいになって匐いずり、髪を乱し、裾を乱して、遅れじと懸命にくっついていくのです。それらは生き身のものというよりも、老人があとに引きずっていく悪霊の群のように思われました。<皇帝の朝のマラソンだよ。>いつのまにかそばに来ていた男が言いました。<ああやって毎朝運動をして、老いてもますますカクシャクということさ。><あの老婆たちは?>わたしは訊ねました。<あれは兵隊たちの母親さ。息子たちの魂を皇帝にすがって呼びもどしてもらおうというのさ。>皇帝と老婆の群はやがて遠ざかってゆきました。まるで一場の悪夢のように、彼らの踏んでいった砂礫の音さえ耳にしなかったような気がしました。わたしは男のほうを向き、ここはどういう名の市(まち)なのかを訊ねました。皇帝がいるからには、皇帝の都にちがいありません。<よそ者はレムールと呼んでいるようだが、>男は言います。<この市に来たらもう名前なぞないよ。名前なぞつけたがるのはよそ者だけだ。>そう言って、それからふと関心がなくなったように背を向けて、林の中へ消えてゆきました。

 

 わたしは土塀に沿って歩いてゆきました。はてしなく長い土塀、頂いた瓦の向こうに何があるのか、おそらく皇帝の宮殿にちがいなかろうと推測するばかりで、この白い土の壁を通してうかがうすべもありません。また見てみようという好奇心もほとんど起こらないのでした。きっとこの壁は宮殿を四角にとりまいていて、一辺が何キロも何キロもつづくのだろう。わたしが壁沿いに歩いているのも、入口をさがしているのではなく、たまたま水がせかれて流れの向きを変えるように、一つの方向を与えられてそれに従ったまでのことでした。はてしない白壁がいつまでもとぎれなくつづき、もはや自分が壁の外にいるのか、内にいるのかもあやふやな気がしてきた時、見回すとあたりは町並に変わっていました。いつのまにか古い家居の錯綜した路地に迷いこんでいました。軒の低いしもた屋かなにかのつくりの家々が、両側に櫛比(しっぴ)して、路地はその間を波のように起伏しながらくねっています。人影はなく、人々の生活の音は聞こえません。ただどこからともなく、ギッチョン、スッチョン、かわいた音がひびいてきます。その音は歩むにつれ高まり、広がり、左右からくるように思われたのが、しだいに方向を失い、地からわき天にぬけ、また空気そのものとなって空中に漂うかと思われました。格子のはまった家々の窓の奥に営まれているある秘密の作業が、その秘密を一斉に発散させることで、かえってその正体を混乱させ、在処をくらましているかのようでした。わたしの踏み入った音の宇宙は、やがて背後に消えてゆきました。わたしはその音の不思議な陶酔をもう一度味わってみたいと思いましたが、一度踏み出てしまったら長いこと出くわすことができない定めに引かれているようで、ただ歩きつづけるのでした。
 やがて道は喬木のそびえる森の中へ入りました。一軒の家が見えてきました。普請中の家のようで、骨組みだけでできていました。1階だけは普通に住めるようになっていて、その上に柱や梁や何やらが、むきだしの木材のままに組まれているのです。いましもその木材の交錯する間を、一人の男がするする登ってゆきます。てっぺんの板組みのところまで達すると、そこに坐りこみました。まるで高い木のてっぺんに鳥が巣くっているようでした。わたしはどこかで仙人の噂を聞いたような気がして、あれが例の仙人なのだなとひとり納得しました。彼を特に尋ねてきたわけではもとよりありませんが、ちょっとばかり寄ってみようかと思いました。でもあんな高いところまで登るのはどうかなと、ためらわれました。家の前でまよっているところへ、ひとりの男がやって来ました。この男は仙人を訪ねてきたらしく、感じから新聞記者のようでした。勇を鼓して一緒に入りました。下の部屋は広い畳敷きの一間があるだけでした。家具調度らしきものは見当りません。仙人の弟子らしき男が応対に出ました。寡黙な若い男です。わたしたちは上がりこみ、畳の上に坐って仙人の下りてくるのを待ちました。新聞記者の話にのって、若い弟子はけっこうしゃべりだしました。なにか新しい宗教運動でも始めようという熱気が、その言葉にこもっていました。わたしはその熱気に少々あてられたらしく、自分が弟子いりしなければならないような気がしてきました。すると弟子いり後の生活が思い浮かべられました。裸の仙人と一緒に、骸骨のような家のてっぺんに登って修行している姿です。<いやだな>と思うと、急に出たくなりました。どんな宗教かは知りませんが、自分のようなインテリ向きではなさそうです。辞去するタイミングをはかりかねていると、部屋の隅の階段にことこと音がして、仙人が下りてきました。仙人は髭むくじゃらの顔で、一見品がないように見えました。まだ中年にさしかかったくらいの年でしたが、体は骨ばって眼だけがぎらぎらしていました。仙人が来ると、わたしは退散する機を逸したことでデスピレイトになり、何だか自分でも分からないことを酔っぱらったようにしゃべり始めました。相手の言葉尻をとらえて勝手に気炎をあげたり、おべっかをつかったり、余計な知識のあるところをふりまわしたり、要するに人と話をするときのわたしのすべての悪いくせを発揮していましたので、われながら泣きたくなりました。わたしは完全に浮きあがっているわたしを感じて、最後にツァラツストラだかを引用して、なにやら仙人の行いとの類似点をそこに見いだしたかのごとく得意になったあとで、いたたまれなくなって座を立ちました。心にもないおしゃべりをしたあとの気分の悪さでふらふらになりながら、仙人の家を出ました。もう一度家を見あげた時、普請の途中でほったらかされたように材木の組まれた上に、おおいかぶさるように葉の落ちた枝を広げた裸の巨木が伸びあがっていて、その眼のくらむような梢のてっぺんにこそ、仙人は鳥のようにいるべきではないかと思いました。

 

 森を抜けると、寥々とした野原へ出ました。草も灌木も灰色に枯れていました。空はどんよりとして、地の単色に呼応していました。あたりはいよいよ暮れるのでも、また明るみが増していくのでもない、永遠の黄昏の原でした。<どこから来たのだろう。どこへ行くのだろう。>ただひたすら歩きつづけてきました・・・。歩いている限り、途方に暮れることはない。立ち止まりさえしなければ・・・。もう何を求めているのか、何を失ったのかも忘れてしまいました。ただ黄昏の忘却の原が茫々と開けているばかり・・・。
 枯野にも道はありました。道はつづいていく。妙に不安が胸を去来します。この先へ行くとなにかに遭いそうな気がします。そのなにかが怖いのではなく、出逢いが怖いのです。こんな人気のない原をひとり歩いている、その頼りなさを思い起こさせる出逢いが怖いのです。空は今にもこうべを垂れて居眠りでもしそうです。その灰色の髪が落ちる目路はるかに、一筋の銀線が光っていました。道はしだいにゴツゴツして、あたりの草は強情な茎の葦にかわり、河原へとつづいています。河原には生き物の気配が死に絶え、葦をそよがせるそよとの大気の流れも封じられ、ただしずしずと音もなく浅い水が流れています。すると火のようなものが対岸はるかに燃えあがりました。黄昏が重畳して夜のようになったあなたから、火は点々と浮かびあがり、近づいてきました。<そうだ、今夜はどこかでお祭りがあったのだな。>お祭りの行列が、いま手に手に提灯をさげて、こちらへねってくる。いやな所で出くわしたものだ・・・。
 やがて向こう岸の遠くに、白装束の姿がつらなって現われました。無音の死者の行列が河原をこちらへ向かってきます。間には浅い、たよりない水のシーツがあるばかり。<彼らは川を渡るつもりだろうか。>コースを変えてうまく鉢あわせにならなければいいが。いまさら彼らを避けるために、道をもどる気はしませんでした。もどっても追いつかれてしまうだろう。そうなったら、いっそうやましさをつのらせるばかりだ。こんな場所にひとりさすらっているやましさを・・・。彼らが川を渡らないでほしい・・・。
 白装束の行列は音もなく川を渡りはじめました。大人も子供も何の躇いもなく、水を徒渉っています。ある者は杖をつき、ある者は無音の太鼓をたたき、たいていが提灯をさげ、白無垢の帷子をはたりともなびかせずに、しずしずとこちらの岸へただよってきます。自らの惧れが、彼らをこちらへ呼び寄せたのでしょうか。寂しい場所での出会い頭というものは、いつでも嫌なものです。心の中で自分がそんなところにいるわけを弁解しなければなりません。たとえ近所であっても、<ええ、ちょっと散歩を・・・>などと弁解が必要なのに、このような場所でどんな言葉が出せるでしょうか。<ちょっと川の向こうに用事がありますの・・・><実は、人と待ち合わせておりますの・・・。え、あいびきかって。いいえ、ただの友達なんですの・・・><どこかに自家(うち)があるはずなんですの・・・。ちょっと大回りして帰ろうと思いまして・・・>自家へ帰るという誰もが疑わない、便利な口実を考えた時、その言葉になんの実体も伴っていないことに気づきました。<いいじゃないか、どうせ言い訳なんだから。>でも、こんなつまらないことでも、嘘をつくというのはどうして気分を不快にするようにできているんだろう。まるで誰かが心の中を無作法に検閲しているように、まるで自分の心ではないような・・・。
 行列は川を渡りおえ、すぐ目の前まで近づいてきました。<いっそ知らんふりをして通り過ぎよう。>わたしがどこから来て、どこへ行くのか、わたしにすら定かではないのですから。しかしすべては余計なとりこし苦労でした。行列は黙々として傍らをすれちがってゆきます。わたしはうつむいて、なるべく顔の小部分しか見られないようにするばかり。ざわざわと肌に感じられる行列の過ぎていく気配。沈黙、なんという雄弁な沈黙。行列は過ぎてゆきました。しばらく行って見返ると、闇の中に弧を描く白い光の筋が見えました。この一瞬の出逢いの沈黙の中で、わたしの心は無残に陵辱されていました。<人間から逃れてどこへ行くのか。人間をこわがり、人間になにかを求めている限りは、おそれ、求めている限りは、人間から逃れられない。>人間を克服して、はじめて人間が捨てられるのです。死者たちはそれを教えてくれました。
 でも、この黄昏はどこまでつづくのでしょう。立ち止まれば化石してしまう。でもどこへ行けばいいのだろう。もうどこまで来たのだろう。この黄昏はどこまでつづくのでしょう・・・。

     

作品名:クレピュスクルム
作者:アフララ
copyright: Aflala 2010
入力:マリネンコ文学の城
UP:2010.12.7
画像はジョン・マーティン「渾沌にかかる橋」(John Martin :The Bridge over Chaos )