冷夏の東京から灼熱の母島へ
2003年8月24日、母島への第一歩。
8月19日に社宅を出て、21日におがさわら丸(通称おが丸)に乗り、22日小笠原父島へ到着。主人の勤務先へのあいさつなどがあり、父島に2泊し、やっとははじま丸(通称はは丸)に乗ることができました。
父島から2時間の船旅はべた凪で、デッキでトビウオを見ながら、少しずつ近づく母島へ、これから1年半よろしくね、と声をかけていたのです。
桟橋では、島の子どもたちが、中学生の娘の名前入りの『歓迎』と書かれた紙を持ち、降り立った娘へ、生徒会長さんのさらなる歓迎の言葉。思いがけないことで、娘は戸惑っていましたが、私は、その心づかいがありがたくて、嬉しく思いました。
しかし、この暑さはなんでしょう。今まで経験したこともない暑さです。ジリジリと、ジリジリと、ホントに暑いんです。
そのうえ、もう5泊も外泊。きょうも、引っ越し荷物が片付いていないのでペンションへ。主婦業を休めるのはいいのですが、さすがに自分でカップラーメンでも作って食べたいと痛切に思いました。ぜいたくですよね。
やっと自分の家、とはいえある意味仮の宿、ですが、とにかく引っ越し荷物の中で、ほっと一息つくことができました。
「ここまで来るのに遠かったねぇ」
日本にいるのに、6泊もしなくては引っ越せないなんて、考えられますか。
もちろん、社宅住まいだったので明け渡しなどがあって、移動にそれだけかかったわけではないんですが、それでも、おが丸は25時間半。父島から母島までは、はは丸で2時間。乗船時間だけで単純計算でも27時間半。
東京から一番遠い日本が東京にあるなんて思いもよりませんでした。
でも主人の仕事が母島ではなかったら、私は今も、そういう場所が東京にあるなんて知らずにいたと思います。好奇心いっぱいの私としては、これもまたラッキー!と思っているんですが。
隣はハワイ州??
東京竹芝桟橋から1050キロ、沖縄とほぼ同緯度に位置する母島です。
母島へ来て驚いたのは、というか気になっているのは日章旗、国旗です。村役場の支所、都庁の出張所、駐在所などの官公署には、国旗がはためいています。
小さい島なので、よけいに目につくのかもしれません。
でも考えてみると、この海の向こうは外国です。
ここは、日本だよ〜〜、首都東京なんだよ〜〜〜、と精いっぱいの自己主張をしているのでしょうか。
聞けば、駐在所の仕事の中に、密航者対策もあるとか、ないとか。
排他的経済水域の重要地点、沖ノ鳥島も小笠原村だし、30以上のこんなにたくさんの島があるのですから、どの島かに、ひっそりと暮らしている人がいるかもしれません。なんて。
ほんと、暑いんです
「これ、壊れてるんじゃないの?」
思わず温度計を冷蔵庫へ入れてしまった私。夜になっても30度を指している温度計なんて、信じられませんよね。でも、温度計は壊れていませんでした。はあぁ〜、もう驚きです。
一日中、30度、なんて。
「なんで、こんなに暑いのよ」
だれかの顔を見れば、それしか言葉が出てきません。
一番困ったのは、【ものごと】が考えられないこと。自称童謡詩家の私としましては、童謡雑誌への投稿の締め切りが悩みの種です。
暑い暑いの詩、なんて書いてしまいそうです。
事件発生?!
ドンドンドン、激しくドアをたたく音に、玄関かと思ったら、お風呂からでした。
「どうしたの?」
「おお〜い、開けてくれぇ〜」
「ええっ〜」
堅く締まったドアを開けると、赤くさびたノブを手にした、おとうさん。
「取れちゃったよ」
…そういえば、社宅の引き継ぎのとき、ノブの調子が悪くて、とは聞いていたような気がします。それにしても、ボロッとみごとに取れています。
「どうする?」
どうするって、修理しなくっちゃ。
おとうさんの初仕事が、ノブの修理、ですかぁ〜!!
エアコン、ダウン
ドアのノブが取れたと騒いでいたら、次の事件発生!!
エアコンが壊れてしまいました、この暑さのなかで。
修理は頼んだのですが、なにしろ6日に一度の定期船です。部品が順調に手に入り、次の入港便に載せられたとして、きょう入港したばかりですから10日はかかります。
壊れたのが娘の部屋だったので、夜は親子3人、文字通り川の字で寝ることになりました。まさか中学生になった娘と川の字で寝るとは。赤ちゃんのとき以来です。
「おかあさん、私が小さいころ、寝るときにお話ししてくれたよね」
「覚えてるの?」
「うん、なあんとなく」
娘は『ももたろう』『おむすびころりん』が大好きで、なんどもなんどもしました。絵本を読むのではないので、一度も同じストーリーだったことはなく、始めと終わりは同じでも、途中があっちの話こっちの話と飛んでいくのです。ときには、その日あった姉弟げんかの話を入れてみたり。
もしきちんと記録をとっていたら、おもしろい話になったかもしれません。
「ねえ、今度は私がお話創るから、聞いて」
主人のイビキを聞きながら、娘はいっしょうけんめい話してくれるのですが、なにしろ、暑さと引っ越し作業の疲れで、私もヘトヘト、つい眠りに誘われてしまいます。
「おかあさん、聞いてる?」
「ごめ〜ん。気持ちよくって」
毎晩、同じ言い訳を繰り返していました。私が眠そうなのを見ると、娘は私に話を要求します。
私は今さら『ももたろう』でもないでしょうから、娘が授かったとわかってからのことを、いろいろ話しました。
妊娠の定期検査で、風疹の抗体が高い数値だったので、再検査をしたこと。妊娠初期で風疹にかかると、おなかの赤ちゃんの耳や目に障害を与えてしまうのです。もし再検査でも数値が高ければ、妊娠そのもの、娘のことをあきらめなくてはならないと、覚悟を決めたこと。
再検査の結果は大丈夫でしたが、そのころ手話の講習会に参加していた私はもう他人(ひと)ごとではなくなり、それまでより勉強したこと。
安定期に入り、三宅島へ行き、生まれる前から海に入っていたこと。
姉と兄がおなかに向かって声をかけると、ちゃんと返事をするように反応していたこと。
予定日より10日も早く、助産婦さんに看護学校の生徒さんたち、あわてて駆けつけたお医者さん。分娩室は午後の明かりが差し込み、にぎやかだったこと。
生まれてから、目が見えていそうだ、耳も大丈夫そう、とわかったときの安堵感。
興味深げに聞いていたのは、生まれた直後のこと。
娘は午後3時半ころ生まれましたので、その日のうちに主人が息子を連れて病院に来ました。(姉娘は風邪で留守番)
新生児室をのぞき込み、
「あれがうちの赤ちゃんだよ。かわいいねえ」
主人が息子に声をかけたときの彼の反応。
病室へ戻ってきて、主人が、
「赤ちゃん、かわいかったねぇ」
といったのへ、なんともいえないヘンな顔をして、下を向いてしまった息子。あれほど、早く生まれてきてね、と声をかけていたのに、どうしたのでしょうか。
その理由は、しばらくしてわかりました。
「うちの赤ちゃん、かわいいよね。すっごくかわいいよね」
とニッコリして、私にささやいたのです。
「病院のとき、怖かったけど」
「そうか。怖かったのね。そうよね、あのとき、赤ちゃん、おかあさんのおなかから出てくる大変な仕事をしたあとだったから、そうかもしれないね」
主人が『かわいい』といったのは『愛(いと)おしい』という意味のかわいい、だったのですが、6歳の息子にそういういう感覚は理解できなかったでしょうね。
息子にしてみれば、このサルみたいでシワシワなのに、おとうさんはどうして、かわいいっていうんだろう、と思ったに違いありません。
一度病院に来たきり、退院するまで来なかった息子の気持ちがよくわかりました。
「おにいちゃんて、おとうさんもおかあさんもヘンだなって思ってたのかな」
「そうね」
「私って、そんなにおかしな顔してた?」
「そうじゃなくて、赤ちゃんはみんなそうなの。でも毎日顔が変わっていくのよ」
「サルから人間に近づいていくんだ」
ふううんとつぶやきながら、しみじみいう娘の言葉に、夜中、ということも忘れて、大笑いしてしまいました。
そういえば(1)
「おはようございま〜す」
子どもたちの元気な声がします。
母島ではだれにでも、あいさつしてくれます。ニッコリされてあいさつされると、え〜っと、どなただっけ?と考えてしまうのですが、今の私には、だれもが知っているようで知らない方ばかりなので、とにかく返すことしかできません。
でも、こういうのっていいですよね。住むとなれば、あいさつは当然ですが、観光で来ても、
「こんにちわ」
なんて自然にあいさつしてもらったら、なんだかホッとすると思います。
船で一日以上も揺られて、遠くへ来た、と思っていたのに、なんだか自分の田舎に帰ったみたい、という感じでしょうか。
そんな自然なあいさつができるように、私も心がけていきたいと思っています。
島っ子はすご〜い!
遠泳3キロ。絶句です。小学校3・4年生は1キロ、5・6年生は2キロ、中学生は3キロだそうです。しかも海で。
内地では一度もプールには入れないまま母島に来た娘、水は嫌いじゃないけれど、さて泳ぐとなると、どうなんでしょうか。
それに、敬老の日にブラスバンドの演奏も入っているとのこと。小中学校合わせて33人、娘を入れて34人の小さな学校ですから、ひとり一人の力は大きいんでしょうね。それが娘にとって、どんなに大変なことか、のんきな母親の私は、
「いろんなことできて、いいんじゃない」
なんて思っていたんです。
娘にとって、この引っ越しは、私たち以上の大きな壁になりつつあったのです。そんなことに気づけず、かわいそうなことをしてしまいました。
「いろんなことできる」
それは、なんでもやらなくてはならないということでもあります。今まで、どちらかといえば、みんなのうしろにいた娘には、青天の霹靂だったでしょう。
でも、最初は戸惑っていたのに、帰るときには、すっかり島っ子になっていた娘。
島の子たちもすごいけど、娘もそれなりに成長したと思います。
生活のリズム
暑い暑いといっても、生活しなくっちゃいけない、当たり前のことですが、6日に一度しか入らない定期船に頼る食生活に、まだ慣れません。手紙も来なくて淋しいです。
どこかで、いつもの生活に戻らなくては、いえ、この島なりの生活のリズムを見つけなくっちゃと、学校生活に必死になっている娘を心配しながらも、自分のペースを探している私。
「そうだ、バレーボールを見に行こう」
暑くて運動なんか考えられなかったのですが、週に一度のバレーボールは、内地にいたころの楽しみでした。
母島にもチームがあると聞き、小中学校の体育館へ。
「でも、なんだか雰囲気が違う…、!6人制なんだ」
若い人ばかりだし、どうしようと迷ったのですが、一年半ボールに触らずにいられるわけもなく、とにかく体調管理のために入れてもらうことにしたのです。
ボールを手にしたとたん、?、そう5号球なんです。4号球とはわずかの差しかないはずなのにズッシリ来るんですよね。
「ごめんなさい。私9人制しかやってないから」
と毎回いいわけを繰り返し、でも、少しずつボールが手になじみ、自分の納得いくプレーができるようになり、下手は下手なりに楽しんでいます。
ようやく、母島モードの生活がみえてきたような気がしていました。
そういえば(2)
母島にはカラスがいません。スズメもいません。代わりにメジロがい〜っぱぁい。ハハジマメグロという天然記念物もいます。メジロとメグロの違いは、もう一目瞭然。写真をごらんになれば、わかるでしょ。
大きなカジュマルのそばに住んでいたときは、メグロが遊びに来ていました。でも住宅地ではメジロが強いようで、メジロの隙をぬってエサ取りをしていたようです。
『天然記念物』とつくと、個体数が少なくて、運がよくないと会えないものもありますが、ハハジマメグロはほんの少し山へ入れば、たくさん見ることができます。
ちなみにハハジマメグロは、人の住んでいる島では、世界で母島にしかいない鳥なんですよ。
この写真は5月中旬、大沢海岸へ行く途中のギバンジロウの林で撮りました。
まだ幼鳥みたいでしょう?
同じ場所で、メジロもウグイスも見ることができます。
ウグイスも1年中鳴いています。大剣先山の見晴らしのところにいるウグイスはけっこう近くまで寄ってきてくれます。
ウグイスは好奇心の強い鳥なんだそうです。(私みたい…)で、こっちがのんびり休んでいると、「なあにしてるのぉ〜」なんて感じで、一歩進んで二歩下がる状態で、だんだん近くに来るんです。
娘、ドラえもんになる
「ベッドがほしい」
突然なにをいいだすやら。転勤先なので仮の宿ということもあるのですが、社宅が建て変わるため赴任して、すぐにも引っ越しがあるような話でした。だから、できるだけ荷物を持ってこないようにしていたのに、ベッドなんてとんでもない。
「ベッドの方がいいなぁ」
いやにこだわる娘に、
「じゃあ、押し入れにでも寝たら」
「えー」
ほっぺをふくらませ、いったんはそういったものの、
「いいの?」
「いいよ」
嬉しいことにこの社宅は、押し入れがたくさんあるんです。使っていないのもあるので、娘のベッドになりました。
上の段にニコニコと布団を運び入れ、暑さ対策の小さな扇風機、懐中電灯まで持ち込んで、なにやら秘密基地状態。
川の字で寝られなくなったのは残念ですが、小さな小さな親離れ、でしょうか。
ドラえもんになった娘です。
そんなある日のこと、とんでもない事件発生。
じつは数日前から、なにやら夜中にガジガジと不穏な音がしていたのです。今朝もその音がするので、発生源を調査すると、な、なんとネズミが飛び出してきました。
「ひゃあ〜」
私の声に、娘が押し入れベッドから顔を出し、
「なにやってんの?」
「ネズミ、ネズミ。もしかして、そこから出てきたんじゃないの?」
「ええーっ! 押し入れからかぁ」
娘が跳ねるように出てきて、
「こいつか」
ネズミを捕捉。ふと見ると、携帯電話の充電器のコードがかじられています。
「なんでこんなもの。コードがダメになったら、どうするの」
「おかあさん、いいから。早くあそこのゴキブリホイホイの中に入れようよ」
ふたりでネズミを壁沿いに誘導?し、ついにラックの後ろへ追いつめました。ホイホイまではもう少し。娘がラックを斜めにすると、ネズミも身動きが取れなくなってしまいました。
「おとうさんに捕まえてもらおう」
私が事務所へ行こうとしたときです。
「おかあさん、なんかポキッて、音がした」
「なんの音?」
「わかんない」
おそるおそるラックの下をのぞくと、それまで逃げ道を探してチョロチョロしていたネズミがバッタリ倒れていました。
「脊椎骨折?」
「かも」
ドラえもんの娘がネズミを退治してしまった、と思わず吹き出した私です。
「おかあさん、笑ってないで、ネズミどうにかしてよ」
ラックを支えたまま、かわいそうなことをしたね、と娘は泣き笑いの状態でした。
それから、さらに数日後の午前6時。『どおん』とすごい音に、地震か、と飛び起きると、娘が足もとに『転がって』います。押し入れベッドから落下したようです。
「大丈夫?」
「うん。あれっ、私、落っこちたのかな」
「かな、じゃなくて、落っこちたのよ」
「あははは」
あはは、じゃないでしょ。ケガもないようなので安心しましたが、半開きなのに、こーんなでっかいのがまるごと落ちるなんて、とあきれてしまいました。
そんなこんなで、娘のドラえもんのベッドは終了したのです。
母島気象予報士
おとうさんが桟橋で釣りをしていたので見に行くと、6年生の男の子と仲よくなっていました。
パラパラきた雨に、
「これって、洗濯物入れた方がいいかな」
と聞くと、
「うん!」
あわてて家へ帰り、お隣へも声をかけて、洗濯物を取り込みました。
ほどなく、バシャバシャバシャと激しい雨音。よかったぁ。
しばらくして、雨が上がったので、浜へ行くと、みんなガジュマルの下で雨宿り。
「ありがと」
とさっきの彼に声をかけると、そばのおじさんが、
「もうひと雨くるぞ」
向かいの島の手前に真っ黒な雲があり、その下にグレーのラインが見えています。
あそこには、雨が降っているのでしょうか。さっき出した洗濯物を、もう一度取り入れました。
それから小1時間ほどして、また雨。
島の気象予報士に感謝です。
ガジュマル、ガジュマル、あなたの下で雨宿り
いつのころに生まれたのでしょうか。やさしい雨傘
人も鳥も、あなたの木陰が好きになる、いい木陰。
雨の日も日照りの日も、その手を伸ばし、鳥や人を受け入れる。
そんなあなたがいる浜は、どこか物語の一ページ。
ボラすくい
昼の暑さを避け、夜涼しくなってから散歩しています。
波打ち際で、ボラの稚魚が波乗り?でもしているように、遊んでいるのを見ているうち、ふと、なんかすくえそう、と思ってしまいました。思ってしまったら、やらなきゃ、と考えるのが私。
娘を誘って、ボラすくい。台所のボールを使って、いざ!!
波に合わせて、そお〜っと近づき、波に運ばれてきたボラを、一網打尽的にボールでバシャバシャ。波を跳ね上げるようにして、すくい?ます。
でも、ボラだって、じっとしているわけではなく、私たちの気配を感じて、スルスルと波打ち際から離れていきます。
息を潜め、波に合わせて動きながら、そう、まるで、ライオンの狩りのようにボラを狙うのです。
波の寄せる音と、ときおりバシャバシャと不規則でけたたましい音。ボラが沖へ行くとしばらく休憩。月夜の浜で、娘とふたり。なにを話すわけでもなく、同じ時間を過ごしている、そのことがしあわせに思えるのです。
最初にボラをゲットしたのは、娘でした。サケを捕る熊のように、ズワズワ、バシャバシャ、ボールですくい上げた水が月の光を受けてきらめいています。浜には街灯に照らされるボラの姿。
「やった、やったぁ!!」
おっとっと、お静かにお静かに。でも、私も興奮気味。
「やったじゃない。すごいよ。ボールですくえたねぇ」
ピッチン、ピチッ。娘がすくったボラが跳ねています。
「うん!」
ただそれだけ、ただそれだけのことなのに、なんだか嬉しくて。娘と顔を見合わせ、ニッコリ。
ボラは跳ねているうちに、じわじわと満ちてきた波が海へ連れて帰りました。
じつは、ボラと思っていたのは、ゴンズイだったと、のちのち写真を見て気づきました。
イヤイヤ、毒のあるゴンズイ相手の、あぶない『ボラ』すくい、でした。
PTAのソフトボール大会
小中学校合同のPTA行事、ソフトボール大会がありました。
私も娘も参加。娘は内地でソフトボール部に入っていましたから、お手のものです。都大会にも出たんですよ。いいチームにいたので、そこから娘を連れてきたことを、娘に対して申し訳なく思っていたのですが、グラブを手にした彼女の瞳の輝きにほっとしました。
試合は混合戦。小学生チームと母親チーム。中学生、先生、父親チーム。小学校の1年生からいるのに、つい夢中になってしまう自分が恥ずかしいです。でも、小学生だと油断していると勝てないので、親チームも必死になります。
負けてしまった小学生チームに
「大人げないよな」
といわれてしまいましたが、大人が全力で相手をしてくれることって、いいことだと思いませんか。なんて、調子いいかな。
娘たちは先生チームに負け、リベンジするために再試合を申し込んだようです。
私は、早く子どもたちの名前を覚えなくっちゃと思いました。だって応援するのに、名前をいわなきゃ力が入りませんよね、やっぱり。
今度はゲートボール、ですって!?
毎週のように、なにかの行事がある母島です。
きょうは防犯ゲートボール大会。台風の余波で開催が心配されましたが、多少の雨では中止にならないのが島スタイル。
小学生からお年寄りまで島中から10チーム以上のエントリー。一応なんでも参加、ということで、チームに入れてもらいました。私は補欠。一度もやったことがないのですから、当然といえば当然です。
ゲートボールって、お年寄りのスポーツ、なんて思っていたのですが、なかなか奥深いスポーツです。将棋や碁のように三手も四手も先のことを考えてゲームをするんですね。
私はそういうの苦手なので、あっちへ打って、このあたりに止めて、と指示されても、なぁんにもできません。まず、あの第一ゲートが通過できないのですから、もう話になりません。練習のときは30分立ち続けでした。
でも、そんな私でも試合に出れば、だれかれとアドバイスをしてくれます。できなくてもできないなりに楽しめるところがいいところです。
試合場は小中学校のグランドなんですが、芝生なんですよ。運動場全体は一面の緑ですが、その緑に隠された起伏がけっこうあり、ボールのコースがずれたり跳ねたり、見た目ほど楽な試合場ではありません。
だから珍プレーもありで、おもしろいんですよ。
予選リーグをして、決勝トーナメント。忙しいけれど、こういう生活楽しいよね、と思っている私です。
学芸会、だって。
学芸会?久しく聞かなくなった言葉ですよね。でも、母島では小中学校の学芸会があるんです。島の人たちも見に来られるのって、いいですよね。
娘も劇や歌の練習にがんばっているようです。劇は『天国の本屋』です。シナリオを読むと、それぞれ台詞も多く、話がミステリアスなだけに表現も難しいだろうなぁと思いました。元演劇部員としては、上演が待ち遠しいと思える作品です。
のんきな母親も、子どもの立場になって、なんとか失敗なくできればいいのだけど、と当日が来てほしいようなほしくないような微妙な気持ちです。
でも学芸会は大切なことを教えてくれました。
母島へ来て、あまりの環境の違いにカルチャーショックを受け、娘がどんなに悩んでいても、ただ見守ることしかできなくて、親ってなんて力のないものかと、私もまた思い悩む日もありました。
それがきょうは娘の成長に驚かされたのです。いえ、娘だけでなく、子どもたちみんなにです。遠泳大会のあと、わずか1ヶ月でこんなふうにできるものかと。
なかでも印象的だったのは、ボディパーカッションでした。中学生13人の呼吸がぴったり合って、最後の最後までミスはありませんでした。
私は娘がミスをしたらどうしようと、もうそれだけが心配で。息を詰めるようにして舞台を見つめていました。
最後の一打がパンと決まったとき、一瞬の間をおいての大拍手。
「やったね」
舞台の娘に駆け寄り、そう声をかけてあげたくなりました。
娘、太平洋を漕ぐ
学芸会の後、中2の遠足を先生が企画してくださいました。お弁当も副担任の先生が作ってくださると、もうおんぶにだっこの遠足です。
「晴れるといいね」
久々にてるてる坊主を作った娘。
「学芸会」というハードルを越えた自信でしょうか。なんだか大きくなったような気がします。
「見送りなんか、来ないでね」
行こうと思っていた私の気持ちがみえたのか、先制攻撃です。
「だって、先生にお弁当のお礼もいいたいし」
「それは私がちゃんというから、いいの」
桟橋までは、家から30秒なのに、ですよ。
「えー、行きたい」
「どこのおかあさんも来ないよ」(同級生はふたり)
う〜ん、それはそうかもしれないけど、だったら、おかあさんが代表で、なんて思春期の微妙なお年頃のあなたには通じないかもね、しかたない。
「じゃあ、先生によろしくね」
「わかってるって」
私の声をうるさそうに振り切って、でも後ろ姿は弾んで出かけていきました。
「朝がこなけりゃいいのにね」
島へ来てしばらくしたころでしょうか、娘の言葉にドキッとしたことが思い出されます。
学校が重い…いやだとかではなく、距離的には近くても心の中では遠い、そんな状態の中で、あの子はあの子なりに苦しんだと思います。
私たちも、島へ連れてきたことを悔やんだこともあります。あのまま内地の上の娘のところに預けてくればよかったのかも、と。
でも娘は一度も自分から帰るとはいいませんでした。と思っていたのですが、一度だけあったそうです。私の記憶違いでした。そういえば、と思い出したのです。
一度だけ娘が帰りたいといったとき、
「いいよ。次の船で帰ろう」
と主人とふたりで答えました。彼女が望めば、なんでも受け入れてあげたいと思っていたからです。そのとき娘は、え、と思ったそうです。うまくいえないけど、とうさんがせっかく連れてくれたんだ。なにかいいことがあるんだって、唐突に思ったそうです。だから娘は次の船には乗りませんでした。
環境が激変したなかで、娘なりに父を支えようとしながら、葛藤をしていたのかもしれません。そんな娘に追い風をくれたのは、島の子どもたちはもちろんのこと、先生方に地域のみなさんです。
そして、なにより大きな力になったのは、内地にいる姉と兄。学校へ行けないとふたりに伝えると、すぐに応援のFAXを送ってくれました。メールではない手書きの文字、姉と兄、それぞれの『らしい』言葉、それも嬉しかったようです。
私には、このことが『きょうだい』の関係を変えてくれたように思っています。もともと姉と息子、姉と末娘の関係は良好でした。ところが私から見ると、息子とワッチは王子と王女のように、なにかお互いをライバル視していました、六歳も離れているのに。いえ、六歳離れているからこそ、だったかもしれません。
どちらもが、おとなになったのかもしれませんが、親としては、母島がくれた素敵な変化だと思っています。
「がんばってるね」
そんな言葉を、知らない人からかけられて、初めのころは驚いていた娘も、
「ありがとうございます!」
返事も元気よくなりました。
娘とふたりでおつかいに出たときなんか、
「おう、この前はいいスイングしてたね」
私の知らない人が娘に声をかけてくれるので、
「え? 今の人、どなた?」
「うん。ソフトで一緒だった人」
「へ〜え」
うちの子に限らず、子どもたちに『じょうずだね』『すごいね』といろんな方がほめてくださるので、親としては、ありがたく思っています。
おかげで、娘の笑顔も戻ってきました。
「ただいま! おかあさん、私ね、シーカヤック漕いだんだよ」
「へえ」
「長浜からひとりで漕いで帰ってきたんだ」
「えっ? 長浜から」
長浜といえば、港を出て北へ4・5キロ行ったところです。
「うん。行きはね、先生といっしょだったんだけど、帰りはひとりで漕いできた」
「すごいねぇ。太平洋をあんな小さな船で渡ってきたんだ。おとうさんだって、おねえちゃんもおにいちゃんも、そんなことしたことないよ」
「そうなんだ」
ちょっぴり得意そうな顔。
「はは丸からの景色と違ったでしょ」
「うん。水面が近くってきれいだったぁ」
「おかあさんも見たかったなぁ」
「写真、撮ってきたから、見せてあげる。それにね、水上バイクにも乗っけてもらったんだ」
久しぶりに見る娘の子どもらしい笑顔。またひとつ、ハードルを越えたようです。
写真は娘撮影
巨大生物
社宅の横にある川に、うごめくものが。
なんだろうと身体を乗りだしてみると、
「ウ、ウナギぃ??」
でも、そんなはずはありません。体長1メートルはあります。胴回りも20センチはありそうです。
フェンスに寄りかかって、川をのぞき込んでいた私に、
「なにやってんの?」
主人が声をかけてきました。
「ほら、あれ、あれ、なんだろうねぇ」
「うん?」
しばらくながめて、
「ウナギだ」
「え〜、だってウツボみたいだよ」
ふたりで騒いでいると、島の人が、
「どうしたの?」
「でっかいウツボみたいなウナギがいるんですよ」
「ああ、ウナギだよ。うまくないけどね」
「た、食べたんですか?」
「島に戻ってきたころは、けっこうなんでも食べたよ。だけど、このウナギはかたくてうまくなかった」
「へ〜ぇ」
ウナギとわかれば、私的にビッグニュースです。この大きさ、なんとか表現したいと、500ccのボトルを横に並べてみました。ウナギは、私たちの騒ぎを気にするようすもなく、のんびりカラダを伸ばしています。
翌日、驚いたことにウナギは2匹になっていました。
うまくないウナギ、だからこそ、今会えるのかなぁ。
地球の歴史に残っていなくても、おいしいからとか、きれいだから、ヒトに捕まえられて絶滅した動植物っていうのもあるのでしょうね。
11月に海水浴
まだまだ暑い日が続いています。
娘がシーカヤックで太平洋を渡った日から数日後、家族でシュノーケリングを楽しむことにしました。
家からすぐの石次郎海岸です。ここは沖港の向かいにあるプライベートビーチ。
主人と娘はさっさと沖へ出たのですが、私は基本的に、「水は怖い」。ゆっくりと、自分の身の丈が立つであろうあたりを浮かんでいます。
それでも海はたくさんの魚を見せてくれるのです。シャコ貝が分厚い唇のようにパフンと閉じたり開いたり。白い砂の海底に、陽の光が波を通して屈折して映っています。海の底にも影が落ちているんですよ。不思議な感じです。
でも一番不思議なのは、11月の半ばだというのに、泳げることかな。さすがに島の人の姿は少ないようですが。
内地にいれば、もう暖房器具のお世話になっているでしょうに、ここでは半袖です。これって、すごいぜいたくって思うと、なにもせずにいることがもったいないって思うんですよね。
写真は娘撮影
そういえば(3)
「ねえねえ、そういえば、ここって台所に湯沸かし器がないねぇ」
ある朝、突然気がつきました。
「お水暖かいけど、どこかに湯沸かし器がついているわけじゃないよね」
「あたりまえじゃん」
娘が笑っています。
「やっぱり南の島だ」
私が得心がいったようにいうと、主人も娘も、今ごろなにいってるのと少々冷ややかな目つき。
【内地にいたら】で始まる、私の言葉にふたりともあきれているのです。
「だって、内地にいたら、今ごろは手が切れるような冷たい水でしょ。湯沸かしなしじゃ、つらいんだもん。それがさ、母島じゃ(これも最近お決まりのフレーズ)存在すら気にしなくていいんだもん。やっぱり南の島だよ」
娘が数日遅れで入ってきた漫画本から顔を上げ、
「はいはい。そうですね。でもね、おかあさん、いつまでも内地内地っていってると、母島の人になれないよ。今は母島にいるんだから、母島の人にならないといけないんじゃない?」
そうでした、そうでした。ここでの生活を受け入れないとね。…でもさ、湯沸かし器の必要も感じないなんて、やっぱりははじ…おおっと、また始めてしまいそう。
母島ってそんなところです。
母島ルール(ソフトボールの場合)
今度は壮年部主催のソフトボール大会。
私は支庁のチームに入れていただいて出ました。
まず驚いたのが、母島ルール。ピッチャーは山なりボールを投げること。
バッターはそこにいる人みんな打てること。つまり守備をしなくても、攻撃ができるんです。おもしろいでしょ。
私はピッチャーをやらせてもらったんですが、山なりボールはむずかしいです。ホームベースの上でストンと落ちればいいんだからといわれても、そういうボールはなかなか投げられません。
でもタイミングをずらして投げないと、みんな強打者ばかりですから打たれてしまいます。
支庁のチームはバックがしっかり守ってくれるので、私のようなヘナヘナピッチャーでもやれるんですよ。
いやぁ、おもしろかったです。
おまつり
炊き出し
11月23・24日は月ヶ岡(つきがおか)神社の例大祭です。月ヶ岡神社は島の神さまです。
母島には、大きな飲食店がないので、おまつりなど多量の食事を作るときは婦人会のみなさんが作ることになっているようです。
私は婦人会には入っていませんが、このおまつりは島の土地神さまなので手伝わせてもらうことにしました。
婦人会の会長さんの段取りで、なにもかもがスムーズに流れていきます。200食からのお弁当ができあがっていくさまは、いつものことよ、とはいわれても、たくさんの人がそれぞれ違うことをしているうちにできあがるのですから、すごい、と思います。
そういうところ、私が育った田舎でもありましたから、懐かしくもあります。でも、炊き出しに慣れていない私は、コンニャクのあく抜きを気合いいっぱいやっていたら、
「ほらほら、それじゃ使い物になんないわよ」
といわれてしまいました。そのいい方が、なんとなくいいんですよね。注意されているんですけど、素直に、
「すみませ〜ん」
っていえる雰囲気なんです。こんな感覚、すてきでしょ。
ちんどんや
「だれがやるの?」
「私たち」
「え? 子どもたちがやるの?」
「そうだよ。ピエロの衣装もあるんだ」
「ふ〜ん」
聞けば、おまつりの人寄せのために、ピ〜ヒャラピ〜ヒャラ村内を歩くらしい。
「ピ〜ヒャラじゃない。小さな世界なの!」
「楽しそうだね。おかあさんもやってみたいなぁ」
「だぁめ」
最近娘は、私とだけじゃなくて主人とも、家族でいることを避ける傾向にあります。私としては淋しいのですが、でも彼女が親離れの準備をしているんじゃないかと思うと、そういう時期に来てしまったと認めるしかないようです。
でも、親から離れても、島のおとなからは離れられないのです。ちんどんやなど子ども会を支えてくださっているみなさんが、娘のようすを教えてくださるので、彼女がなにをしているかわかるところが母島のいいところです。
子ども会のちんどんやは、にぎやかでかわいいちんどんやでした。
南の島のクリスマス
桟橋のガジュマルにイルミネーションが取り付けられました。
「南の島のクリスマス!」
雪はないけど、季節はやってきます。
サンタさんはアロハを着てくるのでしょうか。
サーフボードに乗ってくるのかもしれません。プレゼントがぬれちゃう?それはだいじょうぶ。プレゼントは飛んでくるんだもの。そうなの、プレゼントひとつ一つに魔法がかけてあって、みんなのところへ飛んでいくんだよ。
ガジュマルの下で、そんなこと考えました。
クリスマス子ども会がやってきました。
支庁長さん扮する女神さまが開会宣言をし、子どもたちによるキャンドルサービス。とってもあったかな雰囲気です。
青年会による劇、「ハハジマン」は大爆笑。おやつタイムは婦人会の手作りケーキ。これは母島がアメリカから返還された30年前から続いているとのことでした。
「へ〜ぇ」
と思ったのは、ケーキを食べた子どもたちが食器を片付け、おやつタイムのBGMをピアノとチェロで演奏してくれている先生たちのそばへ、ひとりふたり集まり、♪散歩♪の大合唱。それが自然で、まるで映画のワンシーンを見ているようだったのです。
最後は子どもたちのブラスバンド演奏。アンコールがないのが残念!
そしてそしてお楽しみのプレゼント。生まれたばかりの赤ちゃんから中学3年生まで、サンタさんが手渡しです。うちの娘もくすぐったそうな顔をして、でもしっかり受け取っていました。
こうして島じゅうの愛情をいっぱいもらって、15歳の旅立ちがあるんですね。…母島には高校がありませんから、当たり前のことですが、私はつい内地と比べて、15歳で手放さなくてはならない島の親御さんたちのことを考え、せつなくなってしまいました。
ケンタッキーフライドキチン
「ほんとに?!!」
お正月用品?に混じって、ケンタッキーが注文できるんですって。
娘が、うれしそうな顔をして帰ってきました。
「ねえ、頼んでいい?」
「いいよ」
何ヶ月ぶりかのフライドチキンです。
思いがけないことって、とってもしあわせな気持ちになれますよね。
(キチンくらいで、しあわせになれるんですから、私のしあわせもハードルが低いかな〜)
なんだか、お正月って感じです。
いつもと違うことがあるんですから。
お正月だよ!
母島のお正月は海開き。今年は数年ぶりで、小富士への初日の出登山もでき、クジラのブリーチも見られたとか。住民が住んでいる場所で、日本で一番早い日の出なんですって。私もほんとうは登りたかったのですが、お昼からのカヌー競漕に備えて、体力温存と自重したのです。
海開きのメインイベントはカヌー競漕。3人ひと組でシングルアウトリガーと呼ばれるカヌーで、脇浜なぎさ公園沖に設置されたブイを一周してくるのです。タイムはもちろん、チームのネーミングやコスチューム賞もあり、飛び入りの観光客さんでも楽しめます。
私たちは年末休暇で遊びに来ていた上の娘と出ました。下の子には振られてしまったので。でもとってもおもしろかったです。20歳過ぎた娘と、こんなに体力を使う遊びができるなんて思ってもいませんでしたから。参加できたことが今年初めのしあわせでしたね。
どこぞやの民放で『日本で一番早い海開き』と某所を紹介していましたが、それは情報不足でしょう。3月の海開きなんて、母島に比べたら、遅い遅い。なにしろ海終い?のないまま、海開きなんですから。
ふ、船が来ない?
いえ、いえ、船が来ないわけではありません。船がドッグに入るので、代わりの船が2週間に一度になるだけです。
やっと1週間に一度のペースに慣れてきたところなのに、2週間、ですかぁ。でも、なんとか食料品を確保しておかなくっちゃ。
さて、なにを買う?買えばいい? 気がつくと根野菜(ジャガイモ・ニンジン・タマネギなど)が少なくなっています。やっぱりねー、保存のきくものですよね。
でもまあ、共勝丸という貨物船もあることだし、なんとかなるでしょう。この物のあふれる世界で、たまには『食べるものがない』生活も必要かも。将来どんな世界が来ても、なんとか生きていける気持ちだけは娘に持っていてもらいたいし。なんて勝手に理屈をこねて、乗り切ろうとしている私です。
船が来ないとわかっているのに、こんな状態だと主人と娘が知ったら、どうなるでしょうね。でも、ないときはないんです。主人に魚でも釣ってきてもらうことにします。
船がドッグにはいることで一番影響があるのは、高校受験生かもしれません。小笠原高校を受ける子はいいのですが、内地の高校を受ける子は1月半ばの船で内地へ向かいます。
2週間に一度では、受験日に間に合わなかったり、代わりに来る船は、おが丸より小さい船なので、揺れるらしいのです。しかも冬の海は荒れますから、一日苦しんで翌日試験なんて、大変です。だから早めに島を出て、内地で体調を整えて受験に臨む、というか、臨ませたいと、これは親心です。
ですから受験の日まで、親戚や島嶼会館などに長期間滞在しなければなりません。うちの娘も来年はそうなのですが、まだ留守宅に姉と息子もいますから恵まれている方です。
子どもたちの乗った船を見送りながら、どうか海が静かでありますようにと願わずにはいられませんでした。
母島探検隊?(1)
内地の2月は寒いですよね。でも、母島はいい季節です。
地図作りが趣味の私にとっては、最適な毎日。ただし、海は荒れるんですが。
きょうは乳房山に登ることにしました。持っていくものは、飲み物500CCのペットボトル2本。おべんと、救急セット、タオル、メモ帳、ペン、時計。帽子も忘れずに。
乳房山は右回りと左回りのコースがあるんですが、きょうは右回りで行きます。
家から出て、時間をチェック。ハイキングコースに入ります。
最初の分岐までは23分。大剣先山(だいけんさきやま)の見晴らしです。さらに30分、分岐して玉川ダムへの道ですが、藪になっていたので戻りました。
私はひとりで歩きますから、危険は避けるようにしています。携帯電話も持っていないし、なにかあっても主人が、
「こんなに遅くなっても帰ってこない、おかしい」
と気づくまで、助けは来ないのですから。それに、もしケガをしても、動けるようだったら這ってでも帰るんだと思っています。
のんきなひとり歩きだと見られるでしょうが、これでも細心の注意をしているんです。…なんて、こんなこと、当たり前ですよね。
ひとりだと、ついつい先を急いでしまうのも私の悪い癖、心がけて周りを見ながら歩くようにしています。
乳房山のコースで好きなのは頂上付近の尾根線です。吹きさらしなのですが、一方は緑の腕にスッポリ入ったような集落と、もう一方は一歩まちがえば落ちてしまいそうな、はるか下の透明な海の景色がいいんですよね。
大崩湾といわれるように、一部崖が崩落しているところがありますが、マンタやクジラがいれば、透けて見えることでしょう。なんどか登りましたが、残念なことに、私はマンタもクジラも見ることはできませんでした。
その上、乳房山の登山証も観光協会に申請していなかったので、もらえずじまい、失敗してしまいました。
でも、なんども登ったので、記憶のコースを辿ることはできます。
頂上を過ぎたあたりで、向島付近のクジラのジャンプを見たり、ガジュマルのトンネルで、たくさんのメグロと出会ったり、静かな景色と小鳥の声がよみがえってきます。
こうして集めた時間と景色は、手書きの地図の1(ワン)ピースです。できるだけその日のうちに清書して、ひとりニコニコ。乳房山は左回りのコースもありますから、もう一回登らなくては完成ではありませんが、そうやって集める楽しみ、なんですよね。
さあ、今度はいつ登ろうかな。
おばちゃんは太陽だね
母島ゲートボールクラブ主催のゲートボール大会でのこと。
内地でいうと5月のさわやかな風が吹いています。いえ、日向(ひなた)に出るとクラクラしそうないいお天気です。
母島ではゲートボール大会が5回行われます。
ゲートボール初心者の私ですが、たまには試合に出ることになります。今も小学生のチームとやっているのですが、なかなか第1ゲートが抜けられず、4年生の彼が私にいってくれたのです。
「おばちゃんは太陽だね」
(そ、それって、輝いてるって、ほめてくれてる?)
思わずにんまりした私に、きつ〜いひと言。
「ズーッと動けないもんね」
ううぅ〜、そりゃないでしょ。確かに、もう20分ほど第1ゲートの前で踏ん張ってますけど。
だけど、君だって同じじゃない? 私のマネしなくたっていいよ。言い返したくなりそうな言葉をのんで、
「すっごく喜んだのに、おばちゃんは30分、このままなの?」
「うん!」
もう〜、思いっきりいってくれるんだから。ぜったい先に行くぞ!、子ども相手になに必死になってるの、と頭の隅で笑う声がするのですが、いやいや、母島の子どもたちは侮れないんです。
子どもなんだから、なんて考えていたら、負かされてしまいます。で、ついついムキになっちゃう私です。
ゲーム時間が経過し、一緒に立ちんぼしていた他の子どもたちも次々ゲートを通過するのに、私と彼は『待った』がかかったようにコートには入れません。
「やっぱ、太陽かなぁ…」
情けない声でつぶやいていると、さっきの彼が、
「まっ、がんばろうよ」
「そうだね」
けなされたり励まされたり、第1ゲートに残っているのは、ふたりだけになってしまいました。
「やったぁ!」
ボールがよろけるようにゲートをくぐっていきます。やっと通れた第1ゲート。彼の顔を見ると、
「あ〜あ」
「ゴメンね、先に行かせてもらうよ」
「太陽が動いちゃったよぉ」
「動けて、よかった」
「うん、よかったね。がんばって!」
ニッコリ笑ってくれる、その潔さ、おばちゃん、好きだなぁ。
ロース石
ロース石というのは、母島にある石です。加工しやすいので、昔はかまどなどいろんなものに使われていたようです。
私は、篆刻もやります。娘が授業で、印鑑を造ってきました。
ロース石が加工しやすいとは聞いていたのですが、これほどとは思いませんでした。
そんなとき、思いがけず、ロース石のかけらをもらえることになりました。
かけらでも、嬉しくて、なにをデザインしようか、あれこれ考え、母島の印鑑を造ることに。
ザトウクジラとハイビスカス、メグロを入れてみました。
早速、封筒の裏にペタン。なかなかいい感じ。
こうして、自分だけのものを造って使うって、すごくぜいたくだと思います。
母島で三宅島?
3月7日、村館(村民会館)で、三宅島の噴火災害復興支援のためのバザーが開かれました。
私たちは17年前、三宅島にいました。そのとき、姉娘は5歳・息子は7歳。末娘は、もちろん、影も形もありませんでした。
三宅島から内地へ戻り、翌年からは毎年三宅島へ遊びに行っていたのです。ですから、末娘はおなかにいるときから、三宅島ファン。
でも、3年前の噴火で、島の全島民避難になり、以来三宅島には行けなくなりました。
できれば、三宅島の復興に関わりたいと思って、再び島での勤務を希望したのですが、残念ながら、願いは叶いませんでした。
でも、だからといって、母島に来られたことを悔やんでいるわけではありません。
こうして、東京都最南端の地で生活できることも、大きな願いでしたから。
それにしても、こうして、母島のみなさんが友島三宅島のためにと、バザーを開いてくださることに、感謝しています。
タコノ葉細工
ロース記念館で、タコノ葉細工の体験ができます。たしか、水曜日と金曜日だったと思います。
私はブレスレットに挑戦。もとになるタコノ葉に色染めした細めのタコノ葉を織り込んでいきます。
幾何学模様や、アルファベットもできるんです。
教えてくださるロース記念館の方と、話をしながら編み込んでいたら、パターンがずれてしまいました。それでも、世界にたったひとつのブレスレットができあがりました。
ほんとうはタコノ葉細工も、タコノ葉を取ることから始めたかったのですが、かなりの手間暇をかけないと編むところまで行かないことを聞き、断念してしまったので、こうして、手軽に体験できることは、ありがたいことです。
母島で雨に降られたら、このタコノ葉細工はおすすめですよ。いいおみやげにもなると思います。
レモンの花
散歩していると、風に乗って、さわやかな香りが漂ってきます。その香りを辿っていくと、レモン畑に着きました。柑橘系のさわやかさとスッキリした甘いにおいがします。
母島の歌の『レモン林』の一節に、
♪レモン林のあ〜まい香りのな〜かでぇ キッスをしたのを お月さまが見てた♪
というのがあるんですが、そのロマンチックな光景が浮かぶような香りなんですよ。
思わず、この詩を書いた方の実体験かしら、なんて考えてしまいます。
この時期、ふんわり香るレモンは母島の春を告げる風物詩です。
別れの季節
3月、島から出る人たちを乗せた船が汽笛を引いて離れていきます。
主人の上司も転勤です。娘のことでは、
「大丈夫だから」
と支えていただきました。短い7ヶ月のおつき合いでも、別れの淋しさはあります。
でも、私たちだって来年の今ごろは船の中。あっという間です。
私はふと、私たちのような短期滞在者を短いサイクルで見送り受け入れ、島の人たちは、こんな時間をずーっと続けているのだなあと思ったのです。
「慣れちゃったから、平気」
そういう人もいます。そうかもしれません。
でも、なんだかせつないですよね。
そう思うのは、6日に一度しか定期船がない、といいながらも、そういう生活も楽しくなってきたからかもしれません。内地とは違う時間の流れの中で、自分たちなりに生きていく、海を見て空を見て星を見て、いい生活です。
どんなにいたくても、転勤族の私たちは、いつかは帰らなくてはなりません。遅かれ早かれ別れは待っているのです。
せつないのは島の人たちではなく、自分なのだと思います。
東京から1050キロ、離れれば離れるほど、別れは辛く、もう一度会える可能性は少なくなります。
母島に着いた日から帰る日のことがみえてしまう1年半、船を見送りながら、そんな生活が淋しいと思いました。
母島フェスティバル
3月末の日曜日、漁協・農協周辺で、母島フェスティバルが行われました。
母島の物産展です。野菜に果物、カメ肉もあります。
試食もできます。カメの煮込み、ジャガイモ、島野菜のカレー。
三宅島にいたときにも、カメの肉を食べたことがありますが、そのときはみそ汁仕立てで、カボチャとアシタバを入れるのが三宅風、でした。
母島ではしょうゆ仕立てのような気がします。カメ肉がゴロゴロしていて油がいっぱいなので、つゆがよくわかりません。ただ、たくさんは食べられないなぁと思いました。
農産物の即売会もあり、私はパッションの鉢植えを買いました。花が咲いているし、実も四つほどついています。まだ青いので、これが熟すまで育てる楽しみがあります。
新婚?生活
娘が、B&G財団の海洋体験学習『体験クルーズ』で内地へ行きました。
一度竹芝へ行き、そこから、ふじ丸という大型船に乗って、研修をしながら、3泊4日で父島へ帰ってくる予定です。小笠原の子どもたちによる発表『小笠原の自然と人々の生活』もあるようで、スケジュールがビッチリ入っていました。
さすがに今どきの研修旅行で、インターネットで、『B&G体験クルーズ「ただいま実施中」』とそのものが公表されています。私は、ひとりで出した娘のことが気になって、ついパソコンの前に座ります。
母島ではインターネットの回線がISDNなので時間がかかるし、うちのパソコンの動きも悪くて、途中で、『ウッ』って感じで止まったり。あわてて立ち上げ直すのにも、また時間がかかるんですよね。
そうそう、母島フェスティバルものぞきにいかなっくちゃ。お隣にも声をかけて、といっても引っ越して来られたばかりで、お忙しそうなので、なにか手伝わなくっちゃいけないかなぁなんて気になるし、私が焦ってもしかたないのに、こちらもバタバタしてしまい、気づくと、娘が帰ってきていたという状態でした。
主人と23年ぶりにふたりっきりになった時間は、そんなふうにどさくさに紛れて消えてしまったのです。かといって、ふたりっきりの生活に慣れていないので、なんだかヘンな感じだったんですけどね。
娘は、おが丸とは比べものにならないくらい大きなふじ丸で、充実した生活を送ってきたようです。
ついに海の人?
ようやく体験ダイビングの日がやってきました。
3月にはクジラの歌が聴けるというので、是非聞いてみたいと申し込んでいたのですが、海の状況(海況)がよくないので延び延びになっていたのです。
前にも書きましたが、私は海が怖いんです。でも、好奇心には勝てず、とにかく一度、と決意(こういうところに恐怖心がみえるでしょ)しました。
インストラクターさんの説明を聞いているうちに、
「やっぱり、やめようかな」
とのど元まで出かかっています。でも、この機会を逃したら、一生できないと自分を励ましていました。
ダイビングポイントは『アナダイの根』。母島の向かい平島の前です。
ここまで来たのはいいけれど、状態の私。肝心の耳抜きができなくって、潜れません。とインストラクターさんに泣きついています。
「ツバを飲み込む感じがわかればだいじょうぶです」
といわれ、二度目の挑戦。船に乗るときに、ダイビングショップのおねえさんが、
「スローダウンですよ」
そう声をかけてくれたことを思い出しながら、ゆっくりゆっくり沈んでいきました。
海の底に手がついたときはホッとしましたね。でもボンベの背負い方が緩くてフラフラです。キイロハギがそんな私を見て、
「なにしてんの?」
と近づいてきます。
「わ、笑わないでよ。初めて潜ってんだから」
思わず言い訳している私。
安定しない私を、インストラクターさんが猫の首を持ち上げるようにして、移動させてくれます。
水中というのは、胎児だった頃の記憶があるのでしょうか、なんとなくやすらぐ気がするんですよね。
海にもいろんな音があり、にぎやかです。
インストラクターさんによると、クジラの歌も聞こえたそうです。残念ながら、私には判別できませんでしたが、ほんの少し海の人になったようで、満足満足の海中散歩でした。
サクラのない4月です
母島にはサクラの木がありません。当然花見もありません。サクラが恋しいと思うのは日本人だからでしょうか。
娘たち中学3年生は11泊12日の長い長い修学旅行に出かけていきました。きっと日本一長い修学旅行でしょうね。船の入出港の関係で、こうなるんだそうです。
太平洋戦争の激戦地・硫黄島は小笠原村です。そこから平和を考える授業の流れで、広島へ行き、京都、一度東京へ戻り、雪を求めて新潟へ。そして、東京での学校交流会。
盛りだくさんの修学旅行です。
写真はもちろん娘撮影
昨年転入したとき、修学旅行でどこに行きたいか、娘は希望を聞かれたようです。同級生は、雪を見たことがないので、そう希望したとのこと。
同じ東京に住んでいるのに、そういう子もいるんだね、と妙に納得したものです。私たちは東京でも山の近くだったので、娘は雪かきもそり遊びもできました。
娘はもといた中学校へ行きたいといったらしいのですが、それは無理だったようです。でも、新潟でスノーボードができると、喜んでいました。
さて娘が家を出たあとの私たち夫婦。先日体験クルーズに行ったときは、なんだかあっという間に過ぎてしまったのですが、10日間って、長いですよ。
掃除も洗濯も食事も、ふたりだと、なんだか張り合いがありません。でも、子どもたちが巣立てば、いつかはふたりになるのですから、毎日張り合いがないではつまらないですよね。
体験クルーズのときには、それほど感じなかったのですが、娘の修学旅行は、これからの私たちにとっても大切な問題を教えてくれたような気がします。
人の輪
そのうち、ご主人に(奥さんもですが)娘が柔道を習うようになり、その指導に、彼女なりに柔道のおもしろさを見つけてくれたと思います。
な〜んとなく習っていた(ようにみえていた)娘が、内股だ、大外刈りだ、と技を覚えたいといい始めたときは、うれしかったですね。
なにをするにも目標を持つことが、成長できるきっかけになると思うからです。
ヒキさんは体で、もうひとりSさんは、娘に会うたび、言葉で励ましてくださっていました。
それにしても、娘はしあわせものです。
柔道を少しかじっただけなのに、柔道を通じて、いろんな方と話ができ、励ましてもらい、さらには、一歩先へ進む意欲まで持たせてもらえるんですから。
スポーツって、いいですね〜。
そしてまた、娘を通じてのつながりが、母島のみなさんとのつながりを、ドンドン広げてくれているような気がします。
そういうのも、いいんですよね。
おまけ
ヒキさんちの畑へ行く道には、カワラヒワの水場があるんですよ。御幸之浜へ下りる道を、ほんのちょっと先へ行ってみてください。
楽しげに水浴びしているカワラヒワの集会が見られることでしょう。
知ってる?母島お弁当事情
「ねえ、知ってる?」
おとなりの奥さんです。
「なにを?」
「お弁当のこと」
…まあ、知ってるというか、母島小中学校では、給食がない代わりに、お弁当か自宅へ帰ってのお昼のどちらかを選べます。そのことは聞いていますが。
「きょうね、カレー持ってきた人がいたの」
「えぇ〜、カレー?」
「うん、お皿に盛ったまま」
へえぇ、カレーを!
おとなりの奥さんが、焼きそばをお弁当に入れてるって聞いたときも驚きでしたが、今回はまた、それ以上の驚きです。
たしかに、お昼までにお弁当を持っていけばいいのですが(校舎入り口にお弁当置き場と冷蔵庫が用意されている)、そこまでとは、ねぇ〜。
でも、給食時間は楽しいでしょうね。バラエティ豊かなお弁当のオンパレード、かなぁ。
うちの娘は、お昼は家で食べながら、笑っていいとも!を見て、が、日課だったので、知りませんでした。
おとなりのおかげで、母島のお弁当事情がわかりました。
で、娘が数回しか持っていかなかったお弁当のうち、一度は、冷やし中華弁当にしてみました。
具をラップでくるみ、給食時間寸前に持ち込んだのです。
帰ってきた娘が、
「私もビックリしたけど、みんなも驚いてたよ。小さい子がね、『ワッチのおべんと、いいね』だって」
『目から鱗』といいますが、母島のお弁当も、私にとってはまさにそのものでした。ご飯とおかず、というお弁当の概念が吹き飛んでしまいましたからね。
母島探検隊?(2)
大沢海岸にユリの自生地があるというので出かけました。
先ず北港まで車で行き、その先は歩きです。
ハイキングコースにはジュズサンゴの白い花と赤い実がにぎやかでした。最初の登りが急ですが、あとは緩やかな道です。ちょうど山肌に沿って曲がりくねっています。
15分ほども歩いたでしょうか、ギバンジロウの木が多くなってきました。実も落ちています。足を止め、実がなっているのを確かめようとしていると、ウグイスの声。それもすぐそばで。
そおっと腰を下ろしてじっとしていると、メグロにメジロ、ウグイスも姿を見せ始めました。
ギバンジロウの木を飛び渡っています。チィチィ、ホーホケキョ、静かだった林は小鳥たちの声で騒がしくなりました。でも、耳に心地いい騒がしさです。
ゆっくりとデジカメを取り出し、シャッターを押しました。幼鳥のせいか、こちらを不思議そうに眺めてくれるので、いいタイミングです。
思いの外、いい写真が撮れたはずと、メグロたちを驚かさないように先へ進みます。
北側の斜面に、ユリの花がちらほらと咲いています。ジャングルで見るユリは、場違いな感じです。でも、そのアンバランスさが、南の島にいるという実感でもあります。
南の島の運動会
修学旅行から戻った娘を待っていたのは、運動会です。もう1ヶ月もありません。
「おかあさん、私、紅組の応援団長になったよ」
それからは応援歌を決め、振り付けをし、小学生にも教える、というように、先生のアドバイスはあるのでしょうが、子どもたち主体でやっているようでした。
ゴールデンウィークも、自分たちで予定を組み、練習していました。小学校に入ったばかりの子もいるのですから、教えるのも大変だろうなと思います。でも、なんとかがんばっているようです。学校から帰るとバタンキュー。ハードすぎて、無理しないでね、と思ってしまいます。
いよいよ運動会。
お天気は最高! 母島ではほんとは5月は梅雨なんだそうですが、今年は空梅雨も空梅雨で、4月終わりからきょうまで雨らしい雨がありません。
まずは入場行進。優勝旗の返還。選手宣誓。
人数は少ないけれど、どこの学校と比べても見劣りしない、すごい運動会です。でも、子どもたちは出ずっぱり。この春引っ越して来たばかりのお隣のお嬢さん、そう、仮に名前はスミレちゃん、としておきますね。スミレちゃんも島の踊り・南洋踊りを見事に踊っています。
私たちは三宅島にいたこともありましたが、同じ東京都の島でも、ここが違う、といえるのは、伝統芸能かもしれません。
三宅・八丈島までは、着物姿が定番ですが、小笠原はハワイアン姿です。それを初めて見たとき、
「うわぁ、遠くへ来たんだ」
としみじみ思ってしまいました。
運動会は一般参加の綱引きも白熱した戦いで、盛り上がっています。駐在さんもマスゲームに参加。保育園の子どもたちも負けていません。
笑ったり、応援に大声を出したり、思いっきり楽しめました。でも、私は子どもたちの名前がまだまだ覚えられなくて、きょうも間違えてしまいました。もっと努力します。
応援合戦は赤白、それぞれ工夫したもので楽しめました。残念ながら、娘の紅組は負けてしまいましたが、今までの練習を見れば、どっちにも優勝をあげたいです。
夜、マッサージタイム。娘と私たちのスキンシップの時間です。主人お得意のマラソンマッサージで、親子3人、運動会の話をしながら、また娘の成長を感じた一日でした。
南十字星はどこに?
母島では1月から6月まで、南十字星を見ることができます。
その夜、私は旧ヘリポートに向かいました。南十字星を見るために。
ところが旧ヘリポートは真っ暗。向かいの丸島の上の当たりに見られると聞いてきたのですが、その丸島が確認できません。1回目はあえなく断念。
翌日、明るいうちに丸島の位置を確かめました。これで、今夜はバッチリ。
2回目のチャレンジです。しかし、今度は水平線付近に雲がかかっていて、見ることができません。あの厚い雲さえなければ…、思い通りにならない自然には勝てず、再び断念。
こうなったら、是が非でも見るんだと、やや意固地になりながら、3日目の夜を迎えました。
きょうは丸島の位置も確認できてるし、水平線の雲もありません。やったぁと思ったのもつかの間、南十字星って、どれ?
あまりに星の数が多くて、確定できないのです。
「あれとあれが、そうみたいなんだけど、ねぇ」
つぶやいてはみたものの答えてくれる人はいません。でもまあ、この満天の星。しばらく夜空を見上げていましょう。
私は、ヘリポートのコンクリートに仰向けになりました。コンクリートに残っている昼間の熱で、背中がほんわり暖かです。身体の上を風が抜けていき、リラックスタイム。流れ星が流れていきます。3回願い事をいうには、ちょっと短いようです。
と、そこへ車の音。島の人です、たぶん。
「すみませ〜ん。南十字星、教えてくださぁい」
暗がりから声をかけてしまいました。
「だれだれ?」
「私です」
「あ〜あ、あなたでしたか。真っ暗だから見えないのよ。ごめんなさいね」
「いいえ。私だって、どなたかわからないのに、声をかけました」
こういうところが、のんきでいいんですよね。みんなでワイワイいいながら、やっと南十字星を確認することができたのです。
そのときまた流れ星。大きくてクッキリした長い尾を引いて流れていきました。これだったら、3回願いごと、いえます。
夜の海
「夜光虫見に行かない?」
漁師の奥さんが誘ってくれました。好奇心のかたまりの私はもちろん、
「お願いしま〜す」
夜の海って、コーヒーゼリーの断面、みたいです。え? 想像できないって。う〜ん、ツヤツヤ光ってて深い色なんです。よけいわからないですって。それじゃあ、もう見に行くしかないですよ、母島まで。
なんて、話が脱線ですね。
でも、ホントに夜の海って、暗いけど光を感じる、不思議な空間です。
夜光虫は、いえ、海ほたるは、衝撃に反応して光るんだそうです。港のあたりでは明るくて見えませんでしたが、太平洋へ出ると、船の舳先にこぼれるように見えます。水のしずくと一緒に跳ね上がってくるようです。まるで真珠が踊ってるみたい。
すくったら、手のひらには、なにが残るのでしょうか。
見上げると南十字星。
もう、すごいぜいたくですよね。
船の揺れが心地よくって、海ほたるに南十字星、母島に来られて、よかったぁ!!
母島の夜は大忙し
今晩こそは、カメの産卵を見たいと思い、脇浜へ出かけました。
クラブノアのカメコさんが、
「今、上がってますから、あと30分くらいで始まると思いますよ」
アオウミガメのことなら彼女、と私は思っています。
産卵した卵の保護、個体調査、ウミガメの産卵は一回に100コ前後、それを世話するのですから、もう大変、などという言葉では表現できない、ご苦労があるのではないかと尊敬しています。
産卵が始まるまでのあいだ、私はテトラブロックに寄りかかって夜空を見上げていました。月夜なので雲が走るように流れていくのが見えます。静かです。昼間の暑さに息を潜めていた植物の深呼吸が聞こえそう。
「バサッ、バサッ」
アオウミガメが砂を掘る音が、風に乗ってきます。表面の乾いた音から、少し湿り気をおびた音に変わっているような気がします。その音が途切れたころ、
「始まりましたよぉ」
カメコさんの密やかな声。
アオウミガメは掘った穴へ身体をおしりから入れるようにして産卵していました。2・3個ずつ、
「ふう〜っ」
と息を吐きながら産んでいます。大きな目からは涙が…。そのようすが、自分のお産のときと重なってしまうくらいヒト的で、ふと、見てはいけない神聖な領域に踏み込んでしまったのではないかという、畏れにも似た思いになりました。
「88個でした。少し少ないかな」
カメコさんが保護した卵を、ネットで囲った保護施設に移しています。こうして保護した卵が2ヶ月後には孵化。コガメが出てくるんですって。
ノアさんではコガメの放流にも立ち会わせてくれるそうですから、ぜひ、参加したいと思っています。
それにしても、この1週間、忙しかったです。
南十字星を探して、海ほたるを見て、オアウミガメの産卵、内地にいて、夜、こんなに出歩くことはありませんから、娘と主人に、あきれられています。でも、私にいわせれば、ここでしか出会えないことなのに、どうして行かないんだろう、です。
もったいないと思いません?
引っ越し、大変
社宅が建て変わるので、引っ越しです。
自分たちの荷物もそうですが、会社のものもあるので、気が重いです。
この仮社宅、すごいんですよ。古くて。
島の人によれば、乳房山からの風と小剣先山からの風、そしてB線(都道の村内線)からと、三方向から吹いてくる風が集中する場所なんだそうです。
「台風のときは、気をつけてね」
入る前から、そうなんですから、気が重いって、わかっていただけます?
でも、ここの場所は最高です。
正面に小中学校、娘とスミレちゃんはほんの30秒で登校完了。玄関先からは乳房山が見え、テラスからは小剣先山が見える、そばには大きなカジュマルの木があり、涼しげな木陰をつくってくれています。
私は大きな木があると、ホッとするんですよね。転勤族だからでしょうか。その土地に根づいている姿を見て、なんだか『あやかれる』気がするんです。
短い間だけど、そこの人になれるような気、がするのかもしれません。
敷地続きにはレモン畑。それもあって、よけいに『島にいる』って実感できるんですよね。
お隣の奥さんとも、洗濯タイムにおしゃべりができ、開放的です。
そのうち、バーベキューでもやりましょうか。
駅伝、出るんだって、私が?
もう、ほんとに私ったら、おちょこちょいです。
運動会が終わると、島は返還祭に向けて、スポーツ大会が目白押しです。ゲートボール、バドミントン、そして駅伝。一人1キロを6人ひとチームで繋ぎます。
娘が駅伝に出るのは知っていました。ですから、支所の人に、
「子どもが参加するんだから走るんだよ」
と、いわれたとき、そうか、他のおかあさんたちも走るんだと、思ったので、
「すっごく遅くていいんなら」
「だいじょうぶ、最後まで走ってくれればいいんだから」
「そうですか。じゃあ私でよければ」
と請け負ってしまったのです。それがレースの3日前。翌日メンバー表を見てびっくり。オーバー40歳のおばさんは、私ひとり。
「えーっ、どうして」
騒いでもどうしようもなくて、とりあえずコースを回ろうと。ところがコースもよくわかっていないので、だいたいこんなものかなぁと走ったのですが、1キロってこんなに長かったっけ? もうこうなると破れかぶれです。でも、このおかげで、娘といっしょに練習できました。夜の道をふたりで走りながら、いつもは親といることを避けているので、なんだか嬉しくて。
でも、試合は壮絶でした。
娘も私も5走だったんですが、私の方が早くたすきをもらったのです。私は中学生チームの娘の方が早くに出たと思っていたので、折り返しであとから来る娘を見たときは、あれっという感じでした。
このまま抜かれずにいけるかなと思ったのもつかの間、なんとなく足音が近づいてくるんですよね。
もちろん力いっぱい走っているし、負けたくないとも思っているんですが、か、身体が動きません。心ははるか向こうを走っているのに、身体はここ、状態です。
中継地点の直線コースがみえたとたん、娘の足音が大きくなり、あっという間に背中を見ることになってしまいました。
お隣の奥さんが、抜かれる瞬間をしっかり写真に納めてくれ、紛れもない証拠写真です。
でも、一時はとんでもないこと引き受けたと後悔したのですが、こうして娘との思いがけないバトルを体験でき、よかったなぁと、声をかけてもらったことを感謝しています。
ほんと、私ったら調子もいいんだから。
手話始める
私は内地にいるとき、手話の勉強をしていました。で、母島へ来るときも、観光地だし、きっと手話サークルがあると楽しみにしてきたんですが、残念なことにサークルはありませんでした。
ところがある日、農協の入荷物リストを見ていたら、バレーの友だちが、
「ねえ、手話のサークルあるんだけど、やってみない?」
そういうのです。いやあ、びっくりしました。
だって、どうして私が手話をやってること、知ってるんだろう、ですよ。私、話したことなかったよね。島の情報網っていったいどうなっているんだと驚き、思わず、
「えー、どうして私が手話やってるの、知ってるの?」
と口に出てしまったのです。でも、今度は彼女が驚く番でした。
「なに?、手話やってたの」
聞くと、私がなんにでも興味を持つようなので声をかけてみた、らしいのです。(好奇心いっぱいだってこと、見え見えなんですね。)
「大当たりだったよ。教えてくれない?」
「とんでもない、教えられるほどのものじゃないから」
でも、私としても手話の勉強ができるので、喜んで入れてもらうことにしました。
そして、返還祭に出よう、を合い言葉に手話サークル活動が始まったのです。お隣の奥さんとスミレちゃんも巻き込んで。
ついでに巻き込んで、島レモンのオーナー?に
仮社宅の敷地につながる島レモンの畑。厚かましい私は地主さんに頼んで、島レモンの木を1本、丸ごと買うことを思いつきました。
そういう子どもっぽいことは、よく考えつくんですよね。で、手話だけでなく、お隣にも声を掛けることに。
だって、スミレちゃんやワッチにも収穫を、あるいは自分の手で取ったものを食卓にのせる嬉しさを感じてもらいたかったので。
いきなりの申し出に地主さんは、かなり戸惑われていたようですが、結局私の強引な願いを受け入れてくださったのです。
そうなると、毎日島レモンを眺める目も変わってきます。
のどは渇いてないかな… 母島の陽射しは強いから
実は大きくなってるかな
どれくらい収穫できるかな
毎朝、「おはよう、元気?」なんて、あいさつしたり。
島には、そこここにバナナやパパイヤなどがなっています。でも、どなたかの敷地なので、かってに取ることはできません。
取るが盗るになってしまっては大変です。
でも、自分の手で収穫できるって、楽しいですよね。
建物は古いけど、ここでしかできないこと、のひとつを見〜つけ!!
情け容赦ない???キャスト
返還祭では、壮年会による母島の歴史が上演されます。
主人と上司も、もちろん(いや本人たちにとっては強制かな)参加です。
ふたり、いくつもないセリフを、あ〜だこ〜だといいあってます。上司は女性役なので、いよいよ複雑な気持ちなのだと思います。
島の男衆が、仕事の合間を縫っての練習。配役のすばらしさ?。
演劇をかじったことのある私には、興味津々です。
返還祭だよ
小笠原諸島は第二次世界大戦後、アメリカに収用されていました。
アメリカから返還されて、今年父島は36年、母島は31年になります。戦後30年近く、特に母島はほとんど人が入ってなかったそうです。*平成16年現在
ですから返還されたときは、島はジャングルだったとのこと。それを人力で切り開いたそうです。
私がすごいなと思うのは、そういう母島復興の歴史を生きた人たちが、まだまだいらっしゃるということです。苦労された話はいっぱい聞くことができます。島の成り立ちもよく見えます。ただ、島の歴史が分断されているということもわかり、戦争ってまだ終わっていないのではないかとさえ思います。
また道のそばに、ぽっかり口を開けている防空壕。山へ入ればトーチカもたくさんありますし、木々の中に大砲や機銃のあとも残っています。戦争中のコンクリートの台座にしっかり座っているのを見ると、これほどの建設力があっても戦争には勝てなかったんだと、アメリカの力を思い知った気になってしまいます。と、私は歴史学者ではないので、このくらいでやめておくことにします。
さて、母島の返還祭は、こじんまりした、でもとっても温かいおまつりです。
子どもたちの小笠原太鼓で、演芸会が始まります。
婦人会・壮年会・青年会、有志、今年は昇岸族という、子どもたち有志と若い農業者の会も参加して、屋台もにぎわっています。
娘は昇岸族に入れてもらい、野菜の天ぷら作りを手伝わせてもらいました。
できあがりが心配でしたが、なかなかおいしそうにできています。大きなゴムの葉のお皿が、南の島らしくってグッドアイデア。
暑い島で熱さに耐えながら揚げられた天ぷらは、島の将来を担う若者の熱い思いがいっぱいでした。
子ども会も、ゲームやお花屋さん、お菓子屋さんのお店を出し、がんばっていますし、ステージでは小笠原太鼓や恒例の壮年会の劇。これは都の支庁長さんや役場の支所長さん、先生、駐在さんたちも参加しての島の歴史をたどる壮大?な劇なんですよ。
コーラス部や先生方が中心になっての『よさこいソーラン』も迫力満点。
心配していた手話コーラスも終わり、あとはもうのんびりです。
なにより楽しかったのは花火。
風向きも陸から海に向かって吹いていたので、火薬の匂いに悩まされることも花火の煙に、仕込まれたカラフルな色彩が遮られることもなく、よく見えました。
母島の花火は頭の上に上がります。公園の芝生に横になって仰ぎ見る花火なんて、そうそうないでしょう。
海に映る花火もいいですよ。優雅な気持ちで見ることができました。
そんな騒がしい返還祭のそばでウミガメが孵化し、子ガメが拾って?こられ、駐在さんも戸惑っています。
「あんまり楽しそうだから、出てきたんだね」
母島の返還祭はウミガメまでも引きつける魅力的なおまつりなんですよ。
そういえば(4)
島では年配の方が、お医者さんのことを、
『ドクター』
と呼んでいます。それが自然で、違和感がないんですよね。
これもアメリカの統治下にあった名残なのでしょうか。
それと、下水道100パーセント完備というのも、そうなのでしょうか。
台風がやってきた
6月30日、この時期には珍しい台風です。
小笠原では、夏の台風というのは少なくて、島を直撃するような台風は、11月から12月に多いとのことです。
小中学校は臨時休校。
AM 6:30 風が時折強く吹き、雨も混じっている。
PM 1:00 雨風が強くなる。
社宅のゴミバケツが道路を走っているのを追いかけ捕まえる。
PM 8:00 いよいよ風が強くなる。
PM 9:00 台風の目に入ったよう。風も雨もストンとなくなる。
PM 11:00 吹き戻しの風が出てきた。
久しぶりに雨が横に走るのを見ました。サッシは内側へグワッとへこみます。
「おわっ、わ、割れちゃうよぉ」
引っ越ししてからカーテンも取り付けていなかったので、焦ってしまいました。こうなると、カーテンひとつでもガラスが割れたときのクッションとして、必要なんだと思います。
「明日、カーテン取り付けよう」
「おかあさん、遅いって」
そうなんだけど。
「バァ〜ン!!」
今度は天井近くの押し入れの戸が、いきなり開きました。風が天井を伝って、噴き出したのです。
建物もユラユラしているし、
「台風のときは要注意だよ」
と心配してくれた島の人の言葉を実感。
台風一過の青空。お隣の奥さんと井戸端ならぬ、ベランダ会議。
「よかったねぇ。社宅が壊れなくて」
「ほんと」
「どう見たって、島で一番危ない建物はここよね」
「うん。けっこう揺れたから、気が気じゃなかったもんね」
そんな話をしているところへ、主人がカップラーメンの器を持って帰ってきました。
器には、ピィピィと震えるヒナが二羽。
メジロかメグロかわかりませんが、育ててみました。
パパイヤやマンゴーをすりつぶして、先を斜めに切ったストローであげたんですよ。
でも、残念ながら、一羽が数日で、もう一羽もひとりで飛べるようになったとたん、姿が消えてしまいました。
そういえば(5)
「おかあさーん、テレビで母島っていってるよ」
娘の嬉しそうな声。
「なんて出てるの?」
興味津々テレビを見に行くと、天気予報で、台風接近のニュースをやっていました。私は娘があんまり嬉しそうな声なので、観光案内かなにかの番組だと思ったのです。
「台風来るって」
それは十分承知しています。こんなに海が荒れているんですから。
「やっと母島っていってくれたよ。テレビでいうのは、いっつも父島ばかりで、母島は小笠原じゃないのかって思うんだもん」
そうそうそれはあります。住んでいると、父島母島の距離50キロは温度差も違うし天候も違うのですから、
『同じじゃないんだよ』
って思います。
それに台風がフィリピン沖で発生すれば、内地よりかなり早く海のようすが変わってくる母島ですが、天気予報で、
『日本には影響はないでしょう』
なんていってると、
「母島は日本じゃないのかい?」
ついテレビに向かっていってしまう私です。
でも、そんなことにこだわっているのは、私たち短期滞在者くらいでしょうか。
島の人たちは、昔からの生活の知恵とインターネットを使った最新の情報で母島ピンポイントの予報をしています。
娘がいう、小笠原は父島だけじゃないのに、という気持ち、よくわかります。でもね、それはしかたないのかもしれません。父島には気象観測装置があっても、母島にはないようなのです。
私も母島へ来て、そういうことなんじゃないかとわかるまでは、娘と同じ気持ちでした。そういえば、お隣の奥さんも、
「母島には地震がないって聞いてきたんだけど」
と地震のあと、首をかしげていたので、
「地震がないんじゃなくて、地震のデータが残ってないっていうのが正しいかな」
実際、私たちがいた1年半に3回ほど揺れたと記憶しています。でも、速報もされないしニュースにも出ません。
そんなとき、これほど情報化社会になっているのに、この島だけ取り残されてるみたいね、と思います。
日本に、この母島のような場所はどのくらいあるのでしょうか。
といいつつ、もしかしたら観測装置は母島のどこかにあるのに、知らないまま過ごしたのではないかとも思うのです。
地図作り大好き!の私としては、そんな重要?施設をチェックできなかったことが悔しいことでもあるんですよね。
ほんとはどうなんでしょうか。
母島ルール(バレーボールの場合)
返還祭の最後の行事になるのでしょうか、母島バレーボールクラブ主催の大会がありました。
6人制なのですが、ここでも母島ルールを発見。8人いても補欠はないんです。コートに入るのは6人、残りはサーブ権のときにローテーション。
男女混合チームあり、学校チームあり、チーム構成の多様さは、それだけで、島の縮図まで見えたりするんです。
私は、オーバー40歳の混合チームに入れてもらいました。
試合は真剣ですよ。なにしろ、うちのチームは、みんなバレーボールクラブなんですから。
でもまあ、真剣だからこそ生まれる笑いもあるわけで。
平島上陸だ!
7月11日、PTAの行事で平島に行きました。平島というのは母島の向かいにある無人島です。
桟橋はありませんから、船で島へ寄せてもらって、ボートや和船で上陸しました。
風はちょっと強かったのですが、いいお天気です。私は水着を持っていかなかったので、海へは入れませんでしたが、焼きそばを作ったり、子どもたちの捕ってきたタコの料理を手伝ったりして、楽しかったです。
ミニ探検もしました。小さな島なので、5分も歩くと島の裏側に出ます。丘に登り、浜に下りると、浜辺の植物が這うように枝を伸ばしています。その枝の下、わずかな隙間にウミガメが入り込んだのでしょう。産卵のあともありました。
砂が白いので、海の底までクッキリ見えますから、ホント、きれいでした。このまま住んでみたいようなかわいい島なんですよ。
いざ、東京へ
11ヶ月ぶりの東京です。
主人の仕事と娘の高校見学、少年柔剣道の錬成大会。予定はビッチリです。
ところが娘は1週間前のソフトボールの試合で、左手親指付け根を負傷。
「ゴキッて音がした」
といいながら、好きなソフトなので、試合は最後までやってきました。
「まったく、手加減すればいいのに、力一杯投げるもんだから。悪かったね」
キャプテンが、せっかく娘のフィルディングを見込んで、スカウトしてくださったのに、返って心配をかけることになってしまいました。
「いいえ、私がファーストミットでやってればよかったんです」
ちゃんと娘なりに反省はしているものの、これで、内地で病院行きの追加です。
武道館
母島は大人だけではなく、子どもたちも、スポーツはなんでも来い!、状態です。
ですから、今回の錬成大会も楽しみ。
錬成大会というのは、警視庁の各警察署で行われている少年柔剣道の大会です。場所は武道館。
主人は剣道をやるのですが、母島に行ったころは、練習から帰ってくると、
「もう〜、だめだぁ」
とこぼしていました。
島の柔剣道は駐在さんが指導してくれるのですが、任期が1年半ですから、慣れたころに転勤の繰り返し。
それはそれで、違う先生に指導されることで、子どもたちを多面的にとらえてもらえ、いろんな面を伸ばせる可能性もあるとは思います。
でも、私は母島のように、島に住んでいる方が先生だと、基本的な指導方法が変わらないので、子どもたちにとってはプラスではないかと思うのです。
島の先生を軸に、駐在さんたちが得意技をひとつずつ残していってくれると、いいんじゃないかな、なんて考えています。
ところで、普通、剣道のたれには、それぞれの警察署の名前が書かれているのですが、母島は、『小笠原』ではなく『母島』で出ています。太平洋に浮かぶ、ちっちゃな島の意地、いえ、心意気みたいなものを感じるんですよね。
それにしても、東京の子どもたちは恵まれています。武道館に立てるのですから。試合には出られなくても、柔剣道それぞれの基本錬成に師範とのかかり稽古。特に柔道は、全日本の棟田選手も子どもたちの相手をしてくださっていました。
娘も大きな先生を2回も投げさせてもらったと、いくぶん上気した顔で戻ってきました。貴重な体験ですよね。
これで、我が家は家族全員が武道館に立てたことになりました。姉娘は柔道、息子と主人は剣道、私は合気道。若いころ、一度だけ、合気道の演舞をさせていただいたことがあります。『武道館に立てた』その思いは忘れられないものですよ、いくつになっても。な〜んて、笑っちゃいますね。
おまけ
台風が来てしまいました。主人は、私たちより早く島へ帰ることになっていたのですが、船が欠航したのです。
思いがけない休暇に、どこへ行こうにも、台風ですから、どこへも行けません。
常々私は、『雨男』ではないかと、主人のことを疑っていましたが、まさか台風まで連れてくるとは思いませんでした。
父島探検隊?(1)
息子にいわせれば、なにがおもしろくて母親と旅行、でしょうけれど、両親のいる島を見たいとついてきました。
末娘は、もうしばらく内地に残るので、息子と親子3人、というのも初めての家族形態?です。
母島へ渡る前に、父島を見ていくことにしました。
8月4日、竹芝桟橋から小笠原へ。私は日ごろの行いがいい?ので穏やかな船旅でした。
お昼に父島に着くと、午後からは南島とドルフィンスイムです。
南島はどうしても行きたいところでした。島への上陸に期間と人数の制限があり、石灰質ということで、地形が変わっていく島と聞いたからです。
自分がいたときの南島の姿をきちんと見ておきたいと思いました。
8月5日
ドルフィンスイム
父島タクシーさんのドルフィンスイムに入れてもらって行きましたが、波が高くて、サメ池からは入れないので、扇池のアーチをくぐっていくことになりました。
私はライフジャケットをしっかり身につけ、とにかく気をつけていこうと、最後に船を出ました。
岩と岩とのあいだが狭いので、波に身体を持っていかれないように慎重にアーチへ向かいます。
アーチをくぐるとき、海底を見ると、ナンヨウブダイの鮮やかな水色が砂地の白さに映えていました。
南島の波打ち際は、岩?がひさしのように張り出しています。その下にも魚が泳いでいるのが見えました。そのひさしの上に腰を下ろし(その状態で水はおへそのあたり)ゆっくりシュノーケルとフィンをはずしました。
8月の陽射しを反射してまぶしく光る砂浜。ヒロベソカタマイマイの殻をかぶったオカヤドカリ。島は静けさの中にありました。
ガイドさんのあとをトレースしながら、島の頂上へ上がっていきます。赤土が扇池の白さとは対照的です。この土が流れ出すのを防ぐため、植生の復元が計られているとのことでした。
頂上は風が吹き抜け爽快です。登ったルートを同じように下り、サメ池に向かいました。ほんとはここから上陸するのだそうですが、私はきょうのように、扇池から入ってこられて、よかったと思っています。ワイルドで楽しかったんですもん。
サメ池には、観光客など知らんふりのサメがのんびりとお昼寝?中でした。
あこがれの南島上陸のあとは、ドルフィンスイム。ところが、なかなかイルカと出会いません。
私はのんきにクルージングを楽しんでいましたが、なにしろこのツアーはドルフィンスイムですから、他のみなさんはイルカの姿を探して、右左を見渡しています。
「いたいた」
「何時の方向?」
「11時!」
イルカの背びれが見えました。みんなは船の後部から次々海へ飛び込んでいきます。
私はいったいなにが起きたのか、すぐには理解できず、
「お客さん、行かないんですか?」
ガイドさんの声に、力いっぱい首を横に振ったのです。でも、息子には、
「行ってくれば」
と、無責任な親。
息子もイルカを追いかけ、海へ飛び込みました。でも、イルカはすでに遠くへ行ってしまったようです。海に浮かんだ「点」のようになった人たちを船が拾いに回ります。
私は船の舳先で、イルカ探しをすることにしました。細かく立つ波が、みんなイルカの背びれに見えます。見つけると、「〇〇時の方向」
なんてなまいきに叫んだり。
泳がなくても、船縁にすり寄るようにイルカがついてきますから、楽しいですよ。
息子は、イルカを追って潜っている女性を見て、すごかったと戻ってきました。
最後はイルカが尾っぽを立て、海面をバシャバシャとたたくようすも見られ、じゅうぶん楽しめました。
海中写真は息子撮影
ナイトツアー
夕食後、ナイトツアーに。
母島ではなかなか見られないオガサワラオオコウモリに会いに行きます。
マルベリーのガイドさんを頼んで、他の観光客さんたちと出かけました。
まず最初に亜熱帯植物園へ行き、コウモリ探し。ガイドさんが、懐中電灯に赤いセロハンをつけて案内してくれます。私は東京の高尾山にいましたが、高尾山でムササビを見るときも、そうするんですよね。できるだけ刺激しないようにとの心配りだと思いますが、ガイドさんによって違うようで、うちのガイドさんがそういう人でよかったと思いました。
でも残念なことに、コウモリはいません。植物園の中を今度はグリーンぺぺに会いに。散策路(遊歩道)のそばで、ほんのり光るグリーンぺぺ。カラー写真のぺぺは、かなり大きく見えますが、実際は直径1センチ足らず。それが闇の中で自己主張しているんですよね。かわいいです。
母島では、グリーンぺぺに会おうとすると、桑の木山まで行かなくてはなりません。集落から車で10分ほどかかるかと思います。ですから、こうして散策しながら見られるのが、いいなあと思いました。
(写真中央の黒い縦縞のところ上に出ています)
コウモリ探しはまたあとで、ということで、夜の海岸へ向かいました。カニを見に行くんですって。コペペ海岸へ。白い砂の上を、シャラシャラ音をさせてカニが動いています。波の音をバックに静かな景色です。
波打ち際には、きらきら光るものが。そうなんです、夜光虫・海ほたるがいたんです。波に反応して光っています。
息子は初めて見たので感激して、水をすくい投げ、夜光虫の反応を増加?させていました。まだまだ子ども、です。
さて、ふたたび亜熱帯植物園へ。オオコウモリの集合ポイントの木の下に。どうかなぁと見上げていると、バタバタと羽ばたきの音です。
「あ、あそこ!」
息子が叫んでいます(もちろん小さな声で)。闇の空にひときわ黒い影。羽?を広げたら1メートルほどにもなる、オオコウモリですから、よく見えます。バタバタとせわしない音をさせて、あとからも飛んできます。木の枝では葉っぱを食べているようすもわかりました。
私はイメージが…、と思っていました。夜行性ということで、なんとなくムササビと同じように、滑空とまではいかなくても優雅に舞うのかと考えていましたから、ほんとうにバタバタ、オオコウモリがやってくる、みたいな登場に、う〜ん、ちょっと違ったなぁと。でも、見られたので、そういうこともわかったんですよね。
月が隠れていたのか、なかったのか忘れてしまいましたが、天の川もよく見ることができました。
で、車に戻ったとたん、スコール。あの星空はどこへ行ったの?という感じでしたよ。でも、私の父島で見たいものリストのオガサワラオオコウモリの項目に○をつけられ、明日は心おきなく母島へ帰れます。
息子、母島上陸
「いやあ、とうさん、走ってるよ」
息子がおもしろそうに見ています。
はは丸の接岸も主人たちの大切な仕事。腕の太さのロープを持って、大人たちが岸壁を走るのです。
8月6日、午前9時30分、息子が母島へ一歩を印しました。三宅島と比較すると、港も町も小さくて、驚いたようです。
「ただいま」
港へ来ていた父親に声をかけていると、島の人から、
「息子さん、似てるねぇ」
といわれ少々照れくさそうです。
社宅を見て、
「かわいいところだね」
いやぁ、かわいいというか、息子と主人の180センチがふたりになると、小さい部屋がますます小さく見えます。これで、163センチの娘がいたら、酸素濃度まで低くなるところでした??
一本取れない
私 「おとうさん、船の時間だよ」
息子 「どこ行くの?」
主人 「桟橋」
息子 「ぼくも行く」
遊ぶところもないので、父親のあとをついて歩いている息子。
「接岸、手伝えよ」
息子を試すようにいう主人に、
「わかってるって」
息子は、ムキになって答えています。手伝いになっているかはわからないのですが、息子なりに父親の仕事の多様さを実感しているようです。
夕方、剣道の練習の準備をしながら、主人が息子に声をかけました。
「おい、剣道の稽古、行くか?」
私はたぶん、NOというのではないかと思っていたら、思いがけないほどの素直さで、
「剣道? とうさんとやるの、久しぶりだね」
嬉しそうに息子が答え、ふたりで出かけました。
帰ってくると、開口一番、
「なんで、一本取れないんだ」
息子が悔しそうにしています。主人はニヤニヤ。
6年前、中学生だった息子は、主人に突き飛ばされるは、いいように打たれるはで、けちょんけちょんに負かされていました。
でも、大学生になった自分の成長を考え、今なら勝てる、と考えたようです。しかし、主人の剣道はクセのある剣道で、まだまだ息子の手には負えなかったらしい…。
主人としては、『父親の面目躍如』といったところでしょうか。
でも、こんなふうに親子で剣道ができるなんて、母島に来られたからですよね。
島の勤務は大変なときもありますが、こうして思いがけない体験もたくさんできますから、そういうのが魅力です。
男ふたりは、打ち方がどうの、さばき方がこうの、と剣道話に盛り上がっています。
なんだか、ちょっぴりうらやましいなぁ。
無人島探検隊?
息子をダシに、きょうはクラブノアさんで、ネイチャーツアーに、連れて行ってもらいます。体験ダイビングもいいかと思ったんですが、息子曰く、
「潜らなくても、じゅうぶん見えるからいい」
海が澄んでいるので、まあ、そうなんですが。で、ネイチャーツアーで、無人島めぐりをすることにしました。
赤いゴムボートで、カメコさんが船長兼ガイドです。専門学校の研修生さんも一緒。
ゴムボートは全長7・8メートルくらいあるのかな。船外機付きです。水に濡れた赤い船体?が母島の大陽にも負けないくらい輝いています。
ボートの縁に座っていると、波を駆ける振動が伝わってきます。いいですよね、このワイルドな感じ。探検隊、ですよ。
「イルカに会えるといいですけどね」
そんなことをいってると、
「あ、ウミガメ」
蓬莱根の沖で、カメさんがプカリプカリ浮いています。
「やったね、ウミガメが見れた」
次はイルカだと、目をサラのようにしていましたが、こちらの思いどおりにはいきません。
ボートは南崎をまわり込んで、平島を目指しています。
平島は先月行ったばかりですが、なんどでも行きたいところなので、ワクワクしながら上陸しました。
平島に立って母島を見ると、ここが太平洋だとは思えません。右には向島、左には二子島に連なる小さな小さな島があり、なんとなく瀬戸内海のイメージがダブってきます。
息子と私はのんびりと浜を歩きました。人の手ほどもある貝殻を見つけて、記念写真。
あとから来る人にも見てもらいたくて、そのままにしてきましたが、魚のおもちゃに波がそっと持っていったかもしれません。
シュノーケリングはカメコさんのお薦めで二子島ですることにしましたので、平島ではボートからの水中(上)散歩です。
平島を出て、初めてダイビングしたアナダイの根を通り、二子島到着。
私は島の探検。奥行きがほとんどない浜から土手をよじ登りました。沢のようにも見える植生のないところを歩いて、島の裏側に出ました。
こちらは切り立った崖になっています。そこからさらに上に行こうとしましたが、カツオドリの巣があり、白い羽毛のヒナがじっと私を見ています。
「大丈夫、そっちへは行かないからね」
ヒナといっても、もう親鳥と変わらないくらいでっかい。座っているのを見てもカラスより大きいと思いました。
下りてきて、今度はシュノーケリングです。
カメコさんについて沖へ出ました。
「動かないで浮いていましょう」
もっと沖へ流されたら、と不安はありましたが、そこはガイドさんがいるのですから大丈夫、と、身体の力を抜いて、波に漂うことにしました。…ライフジャケットをつけているのですから、沈みようもないのですが。
いくらもしないうち、魚が群れはじめ、私のまわりに寄ってきました。
(お、おおおぅ!)
って感じでしょうか。私は、いつのまにか群れに入っていました。うしろを見ると魚の顔、横には並んで魚、前には魚のしっぽ、思わず、
(うふふ、私も魚、かな?)
カメコさんは細い身体をすうっと伸ばして、海の底に向かっています。陽の光がゆらゆらと海へ入る、そのあいだを縫うように。
人魚、みたい…。いえ、人魚がいたら、たぶんこんな感じではないでしょうか。
波に揺られながら、泳いで魚に出会うことのほかに、こういう海の楽しみ方もあるんだなと思いました。
帰って、戻って、納涼祭
息子が内地へ帰り、娘が戻ってきました。納涼祭に参加するためです。
お祭り大好きの娘は、昇岸族でお祭りを盛り上げることにいっしょうけんめい。
島へ来たころの娘が、姉や兄、友人からもむりやり引き離されたと、思っていたのではないかと考えている私には、昇岸族という新しい仲間を得て、娘が自分の居場所を確保できたと、密かに喜んでいます。
学校とは違いますが、これも娘の人生にとれば、大切な経験になるだろうと、親としては期待しています。親ではできない教(共)育が、そこにあるような気がするのです。
というのも、昇岸族は、農業に携わっている青年のみなさんが中心なんです。
自分たちの作物を自分たちの手でPRする、それは現実を見つめながら足もとを固めていく、大切なことではないでしょうか。
娘にとって母島は、大切な土地になりつつあります。島に帰りたいと思ったとき、懐かしく温かい顔が浮かべば、どんなにか嬉しいことでしょうか。
そういう受け皿が長く続いてほしいと願っています。
そのために、私たちで協力させてもらえることがあれば、もっと楽しいのですが。
納涼祭に、浴衣で出かけた娘。なんだか急に大人びて見えました。
子どもが成長する嬉しさと戸惑い、なんども経験しているのですが、そのたび、ふっと淋しくなっちゃうんですよね。親心もまた、複雑です。
だぁれが一番かなぁ…
サイダーの早飲み大会。おとなはビールですよぉ。
だから、好き!
夕方、スコール。この分では、納涼祭は中止、かなぁ。事務所にいた私は、ドアや壁、窓ガラスにたたきつける雨を見ていました。
「すみませ〜ん。雨宿りさせてください」
観光客さんが駆け込んできました。
「どうぞ、どうぞ」
男性ひとりに女性がふたり。狭い事務所が、あっという間に満員状態。
「そういえば、返還祭のとき、腹話術をしてませんでしたか」
若い彼からいわれたので、
「返還祭にも来てたんですか?」
「ええ」
では、違います、ともいえません。雨宿りの時間つぶしにはなるでしょう。でも、猛烈なスコールですから、自宅へ行って、相棒の『けんちゃん』を連れてこられる状態ではありません。そこで、事務所にあった犬の指人形…というか、腕人形?を使うことにしました。そうそう、パペットマペットさんが持っている、あれです。
返還祭のときに話した母島の歴史をすこし広げて話してみたのですが、けっこう喜んでもらえたので、よかったぁ。
こういう出会いって、私、大好きです。
さらにいわせてもらえれば
「ねえねえ、ここ行きました? こんなところもあるんですよ」
にわか観光協会にでもなったつもり。
住んでいるけど、どこか観光客のような微妙な立場だからこそ、観光客さんに、アドバイスできることもあると思ってるのです。
かなり強引なお世話かもしれませんけど、ね。
帰ってきてね
またまたクラブノアさんにお願いして、コガメの放流です。
夕方、カメコさんにレクチャーを受け…コガメのお弁当箱は、自然のすごさを感じ、カメコさんの母親にも似たコガメたちへの想いがたっぷりこめられた楽しい話やクイズに、初めて聞くことが多くて、ずいぶん物知りになったような気がしました。
そのあとノアさんの前でコガメと対面。もう一組の観光客さんと、カゴの中でゴソゴソしているコガメをそおーっと持たせてもらいました。
思わず私は、コガメと中学を卒業して島を離れる母島の子どもたちをダブらせてしまいました。こんな小さな身体で、広い広い海原を危険と戦いながら生きていくのです。
もちろん、ヒトはコガメほどには危険な毎日ではありませんが、できるだけ平穏な日々であってほしいというのが正直な気持ちです。
コガメは石次郎海岸からの放流です。
対岸の明るい光に誘われないように、といい聞かせて、コガメを放しました。ヒレのついた手?で、ペタペタと波打ち際へ向かうコガメたち。波に押し戻されながらも海へ、海へ。私と観光客さんたちは、次々とコガメを送り出します。
長い長い時間と距離を経て、母島に戻ってくるのは、いつのことでしょうか。
「できるだけたくさん帰ってきてねぇ」
思わず声をかけてしまいました。
一年経ちました
母島へ来て1年。任期もあと半年、いえ7ヶ月となりました。
今までは、母島を知ることでいっぱいいっぱい。これからも、社宅の引っ越し、娘の受験、さらに内地への引っ越し。怒濤の毎日のような気がします。
でも、30年に一度の社宅の改築時期に来られたことの幸運?。 私はこうして文章を書くのが好きですから、珍しい体験は「大変やねぇ〜」といいながら、けっこう…いえ、かなり楽しんでいます。
そして、自分の宝箱に、母島の思い出を詰め込めるだけ詰め込まなくっちゃと、焦ってもいるんですよね。焦ったって、どうなるものでもないんですけどね。
父島探検隊?(2)
9月11日・12日、おがさわら丸で行く硫黄島三島クルーズに参加しました。
このクルーズは『おがさわら丸で行く』となっています。来年にはTSLが就航予定なので、今回限りかもしれないということです。
【平成17年8月、残念ながらTSLの就航はなくなりました】
集合時間は11日午後6時。母島からは船便の関係で、前日父島に入りましたから、それまで、シーカヤックを楽しむことにしたのです。
シーカヤック
父島のことはさっぱりわかりませんから、主人の同僚に勧められた、ブルースカイ・ビッグホースさんにガイドをお願いしました。
起き抜けに雷、スコール、心配しましたが、予定どおり、シーカヤックに挑戦。
まるで小笠原の太陽をひとりで浴びたような、いい色をしたジロウさんが迎えに来てくれました。おばさんがひとりでシーカヤック?と不審がられそうで、そうそうに、実はと、友人の名前をあげ、ヘンなやつじゃありませんと訴えてしまいました。
カヤックはコペペ海岸に準備されていました。海岸に着くと、きょう一緒に行く大学のダイビングクラブの子どもたちがいます。なにしろ、うちの息子と同年なのですから、子どもたち、です。
「みんなの足、引っ張らないようにしなくっちゃ」
「だいじょうぶですよ」
思わず、ほっとするようないい笑顔でミドリさん。カヤックの説明を受け、記念写真、子どもたちとフレームに入れてもらいました。
海況がよければ南島までという話でしたが、海はなかなか思い通りになりません。目的地はジニービーチ。歩いて行くには大変なところだそうです。でも海からだって、私にしてみれば、大変なところなんですが。
いよいよコペペ海岸から出発。私はミドリさんと先頭です。
母島で乗ったゴムボートより、さらに水面に近い景色。パドルの飛沫(しぶき)が心地いい。自分の力で海を渡っている、それが嬉しいなぁ。
湾を出たところで事件発生。学生さんのカヌーが転覆。荷物が澄んだ海へ散らばっていきます。最後尾にいたジロウさんが駆けつけ(漕ぎつけ?)すばやくフィンをはき、水中へ。
ミドリさんはひっくり返ったカヌーを戻すため、海へ。いきなりひとりになってしまった私は習ったばかりのパドルさばきで、潮に流されないように、パシャパシャと海をたたいていました。
透明度のいい海ですから、のぞき込めば、ジロウさんの捜索?活動が見られそうなので見たいのですが、それをすると、今度は私が転覆です。
なんども潜り、ジロウさんは散らばった荷物をすべて拾い上げました。
「すご〜い」
みんなで大拍手。照れくさそうなジロウさんの顔がいいんですよね。少年ぽくって、さわやかで。
捜索活動が終了したところで、気を取り直して、ジニービーチ目指し、漕ぎ出しました。私はミドリさんのおかげで楽ちん、楽ちん!
「ゴメンね、おばさんと一緒だから、漕ぐのが大変でしょ」
「いいえ、大丈夫です」
滑るように走るシーカヤック、ふと、娘のことを思いました。あの子もこんなふうに海を走ったのでしょうか。海という自然を相手に堂々と渡り合っているような、おもしろさがあります。
ところどころにボッと出ている岩を避けながら、潮の力に負けないように漕ぎます。
「うん、じょうずですよ。けっこう腕の力あるじゃないですか」
「バレーしてるからかなぁ」
年若いミドリさんに褒められ、くすぐったい。ファーストネームで呼ばれるのも、こそばゆい。でもいい気分!
大きな岩のあいだを抜けて、いよいよジニービーチ。白い浜がまぶしい。
浜に上がりひと休みすると、シュノーケリングです。私はライフジャッケットをつけたままですから、水上散歩。潜れなくても十分楽しい私です。
お昼はミドリさん手作りのお弁当。20数人分のお弁当作り、ごくろうさま。一生懸命な気持ちが伝わってきます。
食事のあとは、なんとビーチバレー。学生さんに入れてもらって、若返ります。だって、自分の姿は見えないでしょ。私が見ているのは若い子たちばかりなんですから、つい自分もそのくらいの歳のつもりになってしまいます。
若い子たちといいながら、こんなおばさんにも声をかけてくれる学生さんもいました。きっと、ひとりで淋しげに見えたのかもしれません。気をつかってくれたんですね。
うちにも大学生の息子がいます。彼はどうでしょうか。そういう子に育ってくれていれば嬉しいのになぁと思いました。
さて、帰りのルートはジョンビーチをまわるそうです。
ジョンビーチはジニービーチとは少し砂の色が違うような気がしました。(写真はジョンビーチの端にある岩のトンネルからビーチを見たところ)
自然は、たくみな芸術家ですよね。ひとつとして同じものはなく、ひとつとして無駄なものはない、地球という広く大きなキャンバスを隙間なく創りあげています。
その中に生きている、そんなことを考えました。
自然体験を満喫して、コペペ海岸到着。即解散、と思っていたら、ジロウさんお手製の砂絵のプレゼント。父島の石に描かれたイルカ・クジラ、いい思い出になります。
三島クルーズ
午後6時が近づいてきました。しっかり酔い止めを飲んで乗船。
なにしろ、これから太平洋を南へと下るのです。どんな海が待っているか。私は船に強いわけではなく、ただただ好奇心のみで動いていますから、苦手なことにも突っ込んでいってしまうんですよね。こういう性格、直らないんでしょうね。って、他人に聞いて、どうするんでしょ。
船室はレディースルームだったので快適でした。確かにレディはいましたが、私のようなおばさんもちらほら。ほっとしています。
旅の楽しみは出会いです。
ある人は自分の名前のルーツの旅ということでした。戦争に行かれたお父さまが、太平洋から名づけてくれた、その島が見たいと。
小笠原が好きで好きで、という人。
私は、せっかくここ(母島)まで来たのだから、この先の島も見ておきたい、特に硫黄島ははずせない、と思っていました。
私なりに、戦争を理解できたら、と考えています。
そんなことを島の人に話したら、硫黄島への慰霊墓参もあり、小笠原村民であれば優先的に行ける、と教えてくれたのですが、私の心のどこかに、一時的な村民だというためらいがあって、この三島クルーズを選んだのです。
参加してわかったのですが、戦争に関するもの、鳥に関するもの、島の遺跡に関するものなどの講演会が予定されていて、思いがけず、いろいろな勉強ができました。
また、考えていた以上の戦時中の記録を見ることができ、三島クルーズという、和やかな船旅だけではない充実した内容のツアーだったのです。
そこで見た記録映画に、塹壕に向けて発射される火炎放射器のような映像があり、ショックを受けました。硫黄島自体が火山の島で地熱が高く、塹壕内は蒸し風呂のような状態だというのに、その上に火の攻撃。中にいた兵隊さんたちは、どんなに苦しかったことでしょうか。
記録映画は語ります、戦争に正義はないと。
南硫黄島 東京から約1330キロ
母島から約280キロ。硫黄島三島で一番南の島。
夜明けです。島の向こうから朝日が昇ってきます。船は島をまわりますから、お陽さまが昇るにつれて変わっていく島の景色。有史以来、人が住んだこと(記録)のない島。人を寄せ付けない切り立った海岸線が、文明を阻んだのでしょう。
島の最高地点は916m。頂上付近には雲がかかっていて島全体を見ることはできませんでした。
バードウォッチャーのみなさんから歓声が上がります。アカオネッタイチョウがいたようです。
『猫に小判』状態の私。鳥の知識がないので、それがどんなに珍しい鳥であっても、「ふ〜ん」くらいの反応しかできません。デッキのあちこちで交わされる、鳥に関する話でさえ、日本語なのに理解できないんですよね。
疎外感、というわけではありませんが、自分が異邦人にでもなったような感じでした。
島をぐるりとほぼ2周し、船は北へ向かいます。
硫黄島東京から約1270キロ
母島から約220キロ。硫黄島三島の中央。
海にポッコリと小山が浮かんでいるように見えました。摺鉢山(169m)です。いよいよ硫黄島。目をこらすと、その奥に平らな地面が広がっています。
戦時中、米軍が、どうしても硫黄島をほしかった理由が、私にもわかりました。島全体が平な天然の飛行場。飛行時間の関係からも、ここから日本、東京を狙うには格好の場所です。
米軍は硫黄島を短期間(2日間)で制圧する予定でいたとのことですが、思いがけない日本軍の抵抗を受け、米軍史上最大の人的被害を出したのです。
まだ噴気をあげている硫黄島。
船上で行われた、ささやかな慰霊祭。
戦後何年経とうが、絶対に忘れてはいけない、たくさんの犠牲者のこと。
私は手を合わせながら、平和への感謝と祈りを込めて、さらに強く手を合わせていました。
北硫黄島 東京から約1200キロ
母島から約150キロ。硫黄島三島の一番北に位置する。
ここが本籍地の人がいます。島は簡単に人を受け入れるような地形ではありません。でも、戦前には、ここに住んでいたのです。
はるかマリアナ文化の影響を受けたとされる遺構もある、歴史の島。海から出たフタコブラクダの背のような島は、見る方向によってまったく違う形に見えました。
島の最高地点は792m。南硫黄島と同じで、こちらも雲がかかった島です。
イルカが歓迎してくれていたそうですが、私は見ることができませんでした。それが残念だったかなぁ。
母島
母島の東側を船は走っています。
夕陽が東山あたりに沈もうとしています。
雲の隙間から天空へ向かって、光の筋がクッキリ浮き上がっていました。
クルーズは、これ以上ないと思うほど、穏やかな船旅でしたが、それだけではない重い歴史を辿る旅でもありました。
気持ちよく出してくれた主人と娘、自分の思いどおりに、好きなところへ行ける、平和にも感謝です。
父島到着後の話(不思議なこと)
主人の会社の人たちと夕飯を食べることになり、お店へ。
注文すると、5人分のお通しやコップが出てきます。みんなで4人しかいないのに。
お店の人に、1人分多いですよ、というと、ヘンな顔。
「5人でいらしたでしょ」
「ええ〜っ」
「最初から4人、だったよね」
あとの方はコソコソと。
ついて来ちゃったのかな、とふと思いました。
船で同じ部屋の人が、
「私ね、硫黄島で、東京まで帰るけど、一緒に帰りたい人はついてきていいよって、いったのよ」
そう話していたのです。
それで私は、心の中で、
(ごめんね。私は母島に帰るの。もし東京に帰りたいんだったら、他の人についていかないとダメよ)
やんわり断っていました。
『帰りたい』そんな思いで亡くなられた方、たくさんいらしたでしょうね。怖いとかそういうのではなく、あらためて望郷の思いの強さを感じていました。
でも、こうも考えられます。
このお店の常連さんである会社のみなさんは、たいていは夫婦で食事をされています。で、いつものように、夫婦二組と私で、5人。と勝手に思い込まれたのかもしれません。
どちらでもいいのですが、そのときが硫黄島帰りだっただけに、思わず納得してしまう話ではありました。
リベンジ、遠泳大会
ついにやってきました、遠泳大会。娘は去年のリベンジ、スミレちゃんは初挑戦。
お天気はいいものの、赤潮が出て、海はいや〜な臭い。でも、やるんですよね。
3・4年生は1キロ、5・6年生は2キロ、中学生は3キロ。カヌーを持っているおとうさんたちも海へ出て、応援と救急体勢をとっています。
泳ぎ始めた娘の顔をそぉーっと見ると、ニコニコ。心はバクバクしているのかもしれませんが、とにかく、みんなに遅れずに泳いでいます。スミレちゃんも余裕の笑顔。
なんどもいうようですが、私は水が怖いんです。ですから、水の中では口は息をするために開けておきたいところ。でも、子どもたちは、おやつの氷砂糖をなめながら、先生と漫才のような掛け合いをしています。
「泳ぎながら、アメ玉なめるなんて、できないよ」
あきれながらつぶやく私に、お隣の奥さんもコックリ。
島の人たちには、当たり前のことでしょうけれど、転勤族の私たちには、なにもかもが驚きになってしまいます。
「がんばれ〜」
応援をしながら、ほんとのところは、子どもたちの、このがんばる姿に、自分が励まされているんだなぁとも思います。
なんでもやれるということは、なんでもやらなければならないというプレッシャーにもめげず、苦手なことでも努力して、なんとかクリアしていく、その力。少人数だから、できる指導もあるでしょうけど、それについていく、子どもたちの可能性。
「大丈夫か?」という親の心配も、最後は取り越し苦労だったねと、嬉しい思い違いにしてくれる子どもたち。
しかも、娘だけでなく、スミレちゃんはもちろん、島の子どもたちすべての輝く姿を、自分の子と同じように、喜べる気持…、いいものですよ。
2時間以上かけて、3キロを泳ぎ切った娘。
「去年できなかったから、嬉しい」
学校から戻り、小麦色の顔をニッコリ。
ほんと、がんばったね、とうさんもかあさんもすっごく嬉しいよ!
オールダーズ
内地へ行く若者の送別会を兼ねたビーチバレー大会に入れてもらいました。
チーム名オールダーズ。ホント母島の人たちはネーミングがじょうずです。
当日は荒天。台風の余波で風と雨が好き勝手な方向から吹いてきます。半ば、中止かな、と思っていたら、
「やるよ」
うわぁ、さすが母島! これくらいの雨風には負けないってことですね。
それでも濡れて風に当たると冷えるので、寒さ対策にTシャツの下に水着を着ていったら、若い人たちに、
「やる気あるねぇ」
そんなんじゃありません。Tシャツが身体に張りついたら、目も当てられないでしょ。水着でごまかそうとしているだけです。まあ、それはおいといて。
脇浜なぎさ公園のビーチに設置された2面のコート。どちらもゆる〜い傾斜があります。砂はたっぷり雨を含んで走るとボテボテです。
ビーチバレー母島ルールは3人制。
いよいよ試合開始。台風を味方につければ、我がオールダーズにもチャンスがありそうです。
なんといってもオーバー40歳のおばさん3人とおじさん1人、元気だけはめいっぱいなんですが、身体が動かない、といってもそこは技で。
大半の、そして自分たちの予想もはずれ、栄光の一勝!!
身体はぐったりだけど、すっごく楽しかったです。
夜、青年会の打ち上げと送別会にも参加させていただきました。
親子ほど違う年ごろのみなさんとお酒を飲めるなんて、嬉しいです。
また誕生日の娘さんのためのバースディケーキが用意されていて、温(あった)かないい誕生会でした。
そういう仲間がいっぱいなんですね、青年会って。
マイディシュ
PTA行事で、陶芸教室が開かれました。
私は娘と参加するつもりで、ふたり分の材料を買ってしまったのですが、例の如く、娘にはふられてしまい、ふたり分こねることになってしまいました。
デザインは漠然と、母島の思い出になるものを、と考えていました。
ははじまメモリーのイラストが先だったか、このお皿のデザインが先だったか、あいまいなのですが、とにかく、それを描こうと思ったのです。
ものは、お皿。三角形の大皿を1枚、小皿を5枚。
クジラ・イルカ・ウミガメ・ハイビスカス・ハハジマノボタン。
内地でがんばってくれた姉娘と息子の分も感謝を込めて造りました。
ぶかっこうだけど、マイディッシュのできあがりです。
ふたたび、スポーツの秋?
秋というには陽射しが強すぎる毎日ですが、毎週末のスポーツ大会が始まりました。
PTAのソフトボール大会が一番です。
去年と違うのは、私が子どもたちの名前を呼べるようになったこと、でしょうか。
でも、手抜きはしませんよ。特別ルールはありますが、負けるつもりで相手をすることはないんです。
子どもたちも、1年生から守備につき、1・2塁間に3・4人います。まさに水も漏らさぬ陣営です。
だけど、その小さな隙を狙って、おかあさんたちは打っていきます。
「おとなげないよね、ほ〜んと」
どこかで聞いた言葉をかけてくる彼。でも、1年で、君すごくじょうずになったよね。ボールも早いし、バッティングもシャープになったね。
目で見える成長のあと。子どもたちの1年は、なんでも身についていく、充実した時間なんですね。
来年はどんな成長をしているのでしょうか。立ち会えないのが残念です。
さあ、来週はゲートボール大会だし、来月には支庁杯のソフトボール大会も待ってます。
まさに、スポーツの秋、突入です。
学芸会、今年はマツケン?!
「おとうさん、きょう来る?」
娘がそっと聞いてきました。
「うん。いやだ?」
「そうじゃないけど」
「うれしい?」
「う〜ん、微妙。きょうは1日いてくれるかな。途中で仕事、なんてないよね」
「いてほしい、っていえばいいじゃない」
「うん、でも仕事の方が大切でしょ」
小さいころから、父親の仕事は家庭より優先される、と育った娘です。いてほしい、見てほしいと願えば願うほど、仕事に父親を持っていかれる淋しさを感じているのかもしれません。
主人にしても、
「1日行くのか?」
「そうよ、おねえちゃんのときもおにいちゃんのときも行ったことなかったでしょ。3人分、見てくるつもりで行ったら」
「なんか、恥ずかしいなぁ」
自分の子どものために、時間を割くことに慣れていないのです。
「おとうさん、来てね」
「おう」
それだけでいいのに、素直にいえない親子。
「もう、別にあの子だけを見に行くわけじゃなくて、子どもたちを見てくればいいでしょ。絶対感激するから」
娘のことを見たくないわけではないのに、ねぇ。
娘たち中学生は英語劇に挑戦。泣いた赤鬼を先生が脚色、いきなりマツケンサンバまで登場。にぎやかで、マツケンもビックリの派手な衣装でした。
それにしても、母島の先生たちは、流行のアンテナがバリバリ張っています。マツケンサンバは夏休みから準備されていたようで、私なんか、「なに? マツケンって、食べ物?」
といって、娘に笑われてしまいました。
娘の劇が終わってほっとすると、今度はお隣のスミレちゃんの劇です。
練習のようすは、おかあさんから聞いて、演技力の重要なところがあるらしいと、ドキドキしながら、その場面を待ちました。
スミレちゃん扮する、委員長が風に飛ばされて川へ落ちるシーン。傘が風に吹き上げられるタイミングがむずかしそうでしたが、それも、あとに続く川へ落ちるのも、迫真の演技。思わず、あっあぶないと、いってしまいそうなくらいでした。
「よかったね」
お隣の奥さんと、学芸会のあと、ベランダ会議?。
「こうして行事が終わるたび、子どもたちがグーンと大きく見えるよね」
「ほんと、今までだって見ていたはずなんだけど、母島にいると、なんだか、もっともっと大きくなってるように感じるから、不思議ねぇ」
そうなんですよね、行事が終わるたび、うちの子、こんなこともできるんだって、感心してしまうんですよ。
今まで、どこ見ていたのかなという反省も込めて。
おまけ
お隣のご夫婦はコーラス、私は南洋踊りに、とPTAの演目に参加。
遠くへ来たら、やっぱり、そこの文化を身につけて帰りたいですよね。で南洋踊りなんですが、これがまた、不可思議な踊りなんです。歌詞がどこの言葉かわからないんですよ。途中に、日本語が入るんですが、
♪ よあけまえに あなたのゆめみて
おきるとみたら たいへんつかれた ♪
意味がわかるような、どういうこと?といった感じでもあります。
前にも書きましたが、衣装もヤシの葉を編んだようなこしみの風のものですから、日本の着物文化とは違っています。
フラダンスのように、踊り自体に意味があるのかもしれませんが、とにかく踊りを覚えることが先決。
お隣の奥さんは、
「コーラスの最後が、アナダコさんばいもってこい、っていうらしいのよ」
と練習も本番も、コーラス組は、そこだけ、いやに張り切って歌っていたような気がします。
娘、巫女さんになる
月ヶ岡神社のお祭り
月ヶ岡神社の大祭は、七五三のお祝いもするんです。で、娘に巫女さんのお役がまわってきました。
どんな巫女さんになるんだろうと、私の方が楽しみにしていたかもしれません。なにしろ娘は最近、女の子らしい格好からトンと遠ざかっていましたから。
『馬子にも衣装』でしょうけど、見てみたいんですよねぇ。
気になりながらも、炊き出しの手伝いをしていた私に、
「ねえ娘さん、巫女さんするんでしょ。見てきたら」
とまわりのみなさんが声をかけてくれました。こんなとき、狭い世間がありがたいです。
「じゃあ、少しのあいだ」
「いいわよ。ゆっくり見てきて」
デジカメをしっかり握りしめ、月ヶ岡神社の参道を登っていきます。でも、でも、娘はどんな顔をするでしょう。
(ええ〜)
という顔で、私を見ている娘。
「きれいだね」
そういうほめ言葉が、照れくさいんですよね、きっと。もう一人の娘さんとふたり、ちょこんと座っている姿が、なんともいえず、かわいい。でも、それをいうと、娘がハリセンボンになりそうで、言葉を飲み込みました。
あ〜あ、あのアブ(あか)ちゃんが、こんなに大きくなっちゃって。しばし、感激の時間。
私のデジカメには、わざと渋い顔をして写っていたのに、お友だちのおとうさんが撮ってくださった写真では、A4版にいっぱいの自然で素敵な笑顔のお嬢さんになっていました。
腕のせいかなぁ、と悩みつつも、いい写真をいただいたと感謝しています。
ちんどんやさん
御神輿に乗りた〜い
月ヶ岡神社のお祭りの続き
御神輿が集落内をまわります。子ども御輿、若者御輿、なかなかにぎやか。真っ青な空に、御輿の飾りがきらめく午後です。
巫女さんを終えた娘も、お菓子を入れるバッグを持って加わっています。
社宅の前を通り、メイン?ストリートを小岸壁へ出て、御神輿に上っての恒例の飛び込み。ただし男の子限定で。
娘は男だとか女だとかいうのが大嫌いですから、きっと納得できない気持ちでいたと思います。そのとき、担任の先生が、いきなり、
「わっちも行けぇ」
背中を押し出し、娘は海へドボーン!!
ビショビショになって戻ってきた娘に、驚いていると、
「もう、先生に海へ落とされたんだよぉ」
口をとがらせてはいますが、目はキラキラ輝いています。嬉しかったんだと思います。
「男の子しか御神輿に乗っちゃいけないなんて、ヘンだよね」
「なに? わっちも御神輿から飛び込みたかったの?」
「うん、かっこいいんだもん。でも、女の子はできないんだって」
「で、その濡れネズミは?」
「だから、先生がぁ…」
娘の性格をわかってくださっている先生の一押し。
私はしかたないなぁ、早く着がえないとカゼひくよ、といいながらも、娘の満足そうな顔を見て、さすが先生!!。男の子女の子と区別されたくない彼女の気持ちを読んでくださったことに、ひとり、ニヤニヤしてしまいました。
お祭りの夜は演芸大会。
まずは、奉納の剣道形の披露です。
受験モード
お祭りが終わると、娘は受験モード。私も娘とがんばろうと、漢字検定を受けることに。
先生から検定の資料をいただいて競争です。
娘が夜学(よるがく…午後7時から午後9時まで学校で先生が教えてくださる)に行ってるあいだ、夕飯の後片づけをして、私は自主勉。学校から戻ってきた娘とミニテスト。
バレーボールと手話のない日は、できるだけ続けることにしました。
娘の受験に比べれば、低い低いハードルですが、それでも、なにかに向かって努力?する姿を見てもらいたかったのです。
「おかあさんはいいよねぇ」
「そうね。わっちはこれからが勝負だもんね」
勉強ももちろんですが、海を渡って内地へ行って、自分で健康管理しながらの受験。
姉や兄がいるとはいっても、また違うプレッシャーもかかるでしょう。
ついて帰ってあげたいけど、主人の仕事を考えると、そう自分たちのわがままもいえません。そんなことを心配していると、娘が、
「おかあさん、島の先輩たちはね、島嶼会館にひとりで1ヶ月も泊まって受験する人もいたんだって。私はおねえちゃんやおにいちゃんといられるんだから、大丈夫だよ」
私を信じてよ、というのです。
わかってはいるんですが、親としてはね、なにかしてあげたいと思うんですよ。
母島コーヒー、グッド!
ギバンジロウをたくさん島の人からいただいたので、ジャムを作ってみました。食感は西洋なし、ですかね、ちょっとざらいついた感じとやわらかさが似ていて、香りはギバンジロウの方がさわやかな酸味を含んでいると思います。
で、ジャム。試作品1号は、小さなタネが口に含むと気になったので、2号ではタネを取りのぞいて作りました。
これが、けっこういいんです。ふわっと南の島の香りがするんですよ。ジャムを作った残りは、果実酒にしてみました。
3ヶ月後が楽しみ。
ギバンジロウをいただいた人の畑は、すごい見晴らしだと、主人に聞いたので、ジャムを持っていく、という口実で、伺うことにしました。
地図作りをしている私ですから、いい場所なら、地図に書(描)き込ませてもらいたいというお願いもしたいので。
車で細い道を登っていくと、そんなに高い場所でもないのに、見晴らしのきくなかなかいい景色です。でも、かなり私有地に入ったところですから、地図に載せるのは無理と判断しました。
作業小屋というには立派なハウスの前で、
「こんにちわ〜」
と叫ぶと、
「おおーい」
と段下から声が返ってきました。崖の斜面に作られた畑から、おじさんが軽い足取りで登ってみえました。とここで、気づいた私。
(主人のことはご存じだろうけど、私のことはどうなんだろ?)
一瞬不安になったものの、
「おう、どうしたね」
「あの、私こと、おわかりですか…」
「うん、わかるよ」
ニッコリ笑ってくださいました。
よかったぁ、ほっとしながら、
「じつはギバンジロウでジャムを作ったんです。で、主人が、おじさんのところは景色がいい、っていうんで、持ってきてしまいました」
「そうか、そうなんだよ。ここからの朝陽は最高なんだよ」
「そうでしょうねぇ」
景色もそうですが、手入れされた畑、つややかな木々の葉っぱが気持ちよさそうに揺れています。斜面での農作業は大変だと思うのですが、楽しそうに働いているおじさんの姿が見えるような畑です。
「そうだ、うまいコーヒー、入れてやるよ。飲んできな」
「いえ、お仕事のじゃましたんじゃあ…」
「俺もひと休みしたいとこだったんだ」
おじさんちのコーヒーは間違いない母島産、以前いただいたときのスッキリした味が思い出され、断りながら、すっかりお客さんになっていた私です。
ああ、おいしい。このコーヒー、みんなに飲ませてあげたいなぁ。
5分、寝かせて
早めの夕飯を食べたあと、台所の床にバッタリ。
このところ毎日、こんな感じです。
7時からの夜学に行くために、しばしの休息。1階には畳の部屋がないので、2階へ上がればいいのに、それじゃあホントに寝てしまうからと、堅い床に横になっている娘。
ストンと眠りに落ちてしまうらしく、スヤスヤと寝息をたてています。
「そろそろ時間だよ」
と声をかけると、
「う〜ん、わかったぁ」
丸まるように寝ていた身体を思いっきり伸ばし、テーブルやイスがガタガタ。
「大丈夫なの?」
「うん、やらなくちゃいけないことがたくさんあるんだから」
そうだよね、受験生だもん。だけど、毎日、よくがんばってるよね。
父と母は、そんなワッチがまぶしい。
母、なんてこった
「あっちの中学は私服なんですって。制服、いらないから、もらってくれる?」
そういって、近所の方に娘の制服をあげてきたんですね、私。
ところが、ここへ来て、高校の面接を受けるのに、制服が必要だと先生にいわれ、焦りに焦っている、私。
娘には、通販で自分で好きなように制服をアレンジできるじゃない、楽しいね。なんて、半ばごまかしながら、なんとかするしかありません。
先生にはあきれられるし、娘にはひんしゅくを買うし、主人には…、ん、まあ、主人は、私のそういうところ、じゅうぶんにわかってくれているので、またかと、あきらめの境地に達した顔で、みられているんです、私。
で、自分で自分を笑うしかない、ってことになってしまった、私。
焼き肉激励会
お隣の奥さんから、
「高校入試を乗り切るために、ワッチの激励会、しましょうよ」
と声がかかりました。
「えー、私のために?」
戸惑いながらも、嬉しそうな娘。
「ホントは、おかあさんたちが、ビール飲みたいんでしょ?」
うーん、まあそれもないとはいえないけど。
内地の子どもたちに肉を送ってもらい、焼き肉パーティをしました。
仕事ではお隣が上司、うちが部下。ふたりしかいなくても立場は違います。
そうはいいながら、お隣のご夫婦もうちの娘のことを気にかけてくださり、私たちもまた、スミレちゃんを3人目の娘のように思っています。
ですから、先日の学芸会では、スミレちゃんの劇のときもドキドキするし、風に傘を飛ばされ川に落ちるという、満点演技には、もう『すご〜い』と無条件で感激。
母島にいると、子どもたちがすばらしい力を持っていて、それが次々と引き出されていくような気がするのです。
どこのお子さんでも、大拍手をしたくなる成長ぶりを、お隣の奥さんと話せることが楽しいんですよね。
そのなかには、もちろん自分たちの子も含まれています。
内地にいたら、自分の子どものことを褒めるなんて、他人さまの前ですることはなかったでしょう。でも、ここでは、なんの抵抗もなく、
「がんばってるよね」
「すごいよね」
っていえるんですよ。
スミレちゃんもワッチも、けっこうシャイで、親がそういうことを恥ずかしく思っているようですが、
「ホント、親バカだよね〜」
といいながら、ひとりではない心強さ(?)で、きょうも子どもたちの成長を確かめ合いながら、お隣の奥さんと喜んでいるんですよね。
星に願いを
12月のこの時期、流星群が見られます。で、娘とふたり、新へリポートへ。
涼しい風が吹き抜ける闇の中で、車のエンジンルームに寄りかかって、空を見上げました。
「背中があったかくて気持ちいいねぇ」
「でしょ」
静かな時間がありました。受験から解き放たれた、ひとときのゆとり。
「あ、ああ〜っ」
長い長ーい流れ星です。消えたあとにも光跡が残っているような、そんな大きな流れ星でした。
「うわあ、大変」
「どうしたの?」
「願いごというの、忘れた! 3回いう時間、たっぷりあったのに。あんな長い流れ星、もうないよね」
焦っている娘に、
「大丈夫。かあさん、お願いしといたから。…それにね、めったに見られないものが見られること、それだって幸運なんだもん。きっと合格できるよ」
「うん!!」
いつになく、素直な娘の返事。思春期の微妙な心も、すばらしい自然の前ではこんなふうになるんですね。
『しあわせ』ふと口に出ていました。娘と過ごした特別な時間、忘れられない思い出になります。
サワラの解体ショー
母島周辺では、サワラが捕れます。豪快な漁師さんから、サワラを1本いただきました。
これをさばくのは主人の担当。
白身の魚なので、いろいろ使えますが、この量は多すぎます。もちろん、お隣と半分こするんですが、それでも、多いんですよね。
まずは、島寿司に。醤油のタレに漬け込んで、わさびの替わりにカラシを乗っけて、ピリ辛のにぎり寿司にします。
他には、ソテーにして、ニンニク醤油で、いっただきまぁ〜す、が我が家の定番でした。
残りは冷凍保存。来月のおが丸ドック入りに備え、非常食???として確保。
12月のスイカ
社宅の隣の畑に、最近気になるものがあるんです。なにかというと、スイカ。
でも、今は12月。どう考えたって季節ではありません、内地では。
しかし、母島では、内地の常識は通用しません。と思いながらも、それでも、この時期に露地物のスイカ?と自問自答しているのです。
暮れも押し迫った、ある日、畑の持ち主さんがいましたので、
「あの〜、お聞きしていいですか。それ、スイカですよね」
「ああ、そうだよ」
「この前から気になってたんですけど、やっぱりそうですかぁ。この時期にスイカなんて、やっぱり母島は暖かいんですね」
「いやいや奥さんにみつかったんじゃあ、かくしとけないな」
「またぁ」
この前は、カボチャですか、と聞いたら、メロンだよって、いわれ、しっかり横取りしてしまったんですよね、私。またそんなことになったら大変と、そうそうに帰ってきました。
ところがやっぱり気にされていたらしく、お正月に食べて、といただいてしまいました。
珍しいものがあると、どうしても聞かずにはおられない、好奇心の強さはどうしようもなくて。
でも、お正月のスイカは、シャキシャキした甘さで、おいしかったですよ。母島産のものをいただける、しあわせも合わせて、ごちそうさまでした。
南の島のクリスマス(2)
憩いのガジュマルのイルミネーションが、昨年よりバージョンアップして輝きを増しています。
クリスマス会では、子どもたちと先生の作詞作曲による『ポカポカクリスマス』で、心がポカポカになりました。
そうそう、ハハジマンも仲間が増え、クリスマス会の一番人気でした。
例年どおりに婦人会の手作りケーキもおいしくて、いい島時間です。
暖かいクリスマスもいいものですよ。雪はありませんが、降るような星の輝きの中での、きよしこの夜。サンタさんも足を止めたくなる、ガジュマルのイルミネーション。
イブは、波の音とともに静かに更けていきます。
海開き
今年のお正月は雨。予定されていた小富士への初日の出登山も中止。
日本一早い海開きは村民会館で行われました。
娘とスミレちゃんは、村館にまわってきた、お獅子に頭をガブリ。
♪ いいことありますように。 ♪
お昼ころになり雨脚が弱くなったところで、カヌー競漕が始まることになりました。
主人は仕事で留守番部隊。
お隣は家族で、私は村館の職員さんちの応援で、娘は中3トリオ合格機動隊として参加。
スミレちゃん作のチームフラッグは、アイデアいっぱいチーム名入りのなかなかのものでした。
レースを終え、お隣の奥さんと、
「楽しかったねぇ」
「ほーんと! いい思い出になるよ」
「考えたら、来年のこのレースには出たくても、島にいないんだもんね」
「そうよね。なんだか淋しいね」
3月にはうちが、8月にはお隣が、それぞれ引っ越しです。わかっていることですが、こうして今を過ごしていると、来年はいない自分たちのことが他人ごとのように思えてきます。
「帰る前には社宅の引っ越しっていう大仕事があるから、とにかくそれを無事終われるよう、がんばらなっくちゃね」
そうなんですよね。1週間後には、父島へ行って武道始式。娘の受験もあるし、スポーツ交流会、新築になった小中学校の引っ越しもあります。のんびりしている時間はなさそうです。
母島のはねつき。イチビやタマナの板に竹の羽根。
カーンカーンと乾いた音がします。
母島 鏡開き
年末から朝稽古をしていた子どもたち、今日は、鏡開きです。
村館に響くかけ声、この1年、大きくなった子どもたちの姿に、目を細める地域のみなさん。
内地のようなキーンとしびれるような寒さはありませんが、年の初めの大切な行事です。
小笠原警察署 武道始式
自衛隊の体育館での武道始式。
荒れ気味の海で、子どもたちも、な、なんと引率の駐在さんまで船酔い。
しかも、父島についてひと休みする間もなく、武道始式が始まりました。
母島の子どもたちは大変だったと思います。
どんど焼き
青年会の提案で、前浜で、どんど焼きの開催です。小岸壁ではトン汁も作っているようです。
子どもたちは、お正月のお飾りを手に集まってきました。
ドラム缶に投げ込まれたお飾りの火で、おもちを焼いています。
自然のものの焼ける匂いって、私、好きです。なんともいえず、ほっとするんです。これって、もしかして、太古の昔、食べること、そのものが人生であったころ、ヒトが収穫をしたときの安堵感が、火を通して残っている遺伝子かな、なんて思ったり。
うちの子は、しっかり焼きすぎて、真っ黒になったおもちを、友だちとつつきあって食べています。
楽しい行事が、また増えましたね。続けることはたいへんでしょうけど、子どもたちの笑顔を見ていると、青年会のみなさん、よろしくお願いしますね、なんて頼みたくなります。
船出
「あ、あれに乗っていくの?」
私は腰が引けてしまいました。防波堤の上まで波が上がりその上に船、波が下がると船も見えなくなるといった状態。
1月16日、娘と同級生の男の子が内地へ向かう船は、荒れる海に出ていきます。ふたりとも船に弱いんですよ。どうなることでしょう。でも、この船に乗らなければ、受験できません。
「酔い止めは飲んだ?」
「おかあさん、さっきからなんど聞けばいいのよ」
「だって」
「一度に飲める量は決まってるんだからね」
「大丈夫だって、私ひとりじゃないんだから」
「娘のこと、お願いね」
だれかれ構わず声をかけてまわりたい私。そんな私を、恥ずかしいよ、というような顔で見ている娘。
「がんばってこいよぉ」
先生たちの声援が飛びます。ふたりは2階のデッキから手を振っています。船は大きく揺れながら、桟橋を離れていきます。ドラマのひとコマのようにゆっくりと映像が流れていくようです。
桟橋の端から、先生たちが海に飛び込んでくれました。その姿でさえ波に隠れそうになっています。
とにかく、とにかく、船酔いが軽くすみますように、と祈るしかありません。
おまけ
一緒に行った彼のおかあさんから
「ワッチ、大変だったみたいね」
「え?」
「うちの子が、はは丸のトイレから出てこなかったみたいだった、っていってたよ」
「まあ」
娘は私に、なんとか大丈夫だったよ、とだけでしたから、ビックリ。
でも、彼だって、船には弱いので苦しい思いをしていたでしょうに、娘のことも気にしてくれていたのかと思うと、嬉しくなります。
確かめると、娘は
「うん、でも心配させるといやだから、いわなかった」
と、大人びた言い方。
娘の意地っ張りに、これも成長のあと?なんて、思ったり。
サンポウカン【三宝柑】
Mさんから、サンポウカン取りに連れてくと声をかけてもらい主人と出かけました。
サンポウカンというのは、柑橘類です。甘夏より少し大きめで、ヘタのところがプクンと盛り上がっています。おもしろい形です。
乳房ダムへの道から脇へ入り、道なき道を、というか、古い道を辿って登っていきました。
私は、わくわくしながら、ついていきます。なんだか、田舎にいたときみたいです。
田舎では季節になると、野イチゴや山桃、アケビなどを、子どもが集まって取りに行っていました。そのときも、こんな感じでしたね。
かなり登ったところで、やっとサンポウカンの木に巡り会いました。
Mさんのおとうさんが、いえ、おじいさんだったか、植えられたそうです。戦前のことですから、もう60年は経っています。
見上げると、重たげな実がたくさん。
サンポウカンは、傷みやすいので、商品としては成り立たないんだそうです。
で、もいだ実を下で受け取るんですが、これがけっこうむずかしくて、楽しい。
「ほい、ほい、ほい」
みたいな掛け合いで袋に詰めていきます。もちろん、ギュウギュウじゃなくて、ふんわりと。
そんなふうに上からの実を受け止めていたら、いきなりジュボッ…、ゆ、指がぁ〜、思いっきりサンポウカンに埋もれてしまいました。ちょうどサンポウカンのヘソのあたりに、親指がスッポリ入ってしまったのです。
これがボールだったら、間違いなく、突き指、でしたよ。
でも、そのタイミングがおかしくって、ひとりで笑い転げてしまいました。
サンポウカンはみずみずしくって、さわやかで、島でしか食べられないとなれば、これはもう、最高です!
マラソン大会
1月21日、小中学校の恒例のマラソン大会です。
中学3年生はひとり。担任の先生と競い合っています。
「がんばれぇ〜」
島の人も応援に出てきて、駐在さんも交通整理。私もこれが最後になるだろうと思うので、子どもたち一人ひとりの名前を呼びながら応援しました。
「スミレちゃ〜ん、しっかりぃ」
主人とふたり、娘の分も合わせて、声をかけます。私たちのいるところは坂の上。みんな苦しそうな顔です。
「もうすこぉ〜し」
ここを登れば、あとはゴールへほとんど平坦なコースですから、踏ん張りどころ。
坂を登り終え、ほっとしたような背中に、もう一声、
「がんばれぇ〜!」
マラソン大会終了後の感想文集に、娘の同級生の彼が、
『中学三年生は自分ひとりだけど、内地でがんばっているふたりの分も一緒に走った』
という内容のことを書いてくれていました。そういう気持ちが嬉しくて、そういうふうに思っている彼がとても大きく見えるんですよね。
学習発表会
動くかな? 性格があらわれてるかも…
節分会
2月3日は節分。じつは私は年女。
島の思い出の写真を撮ってくるね、といいながら、ちゃっかり参加してしまいました。
月ヶ岡神社に人々が集まってきます。
祝詞があがり、いよいよ豆まき。
母島へ来る前、山にいたころ、山のお寺でも豆まきをやっていました。
裃を着て、時間ごとにまかれます。
この節分の時期には、寒が強まり、雪になることもありました。
でも母島では、寒さに震えながら、豆まきを待つこともなく…。居合わせた私でも参加させてもらえる、のんびりした節分会。
どちらが、というのではなく、土地土地にとって、風習が違うことを実感しています。
父母(ちちはは)スポーツ交流会 2月5・6日
毎年、父島と母島のあいだで行われるスポーツ交流会が、今年は母島で開催されました。
私もバレーボールでの参加です。でも、この大会はけっこう真剣な?大会ですから、補欠。なにしろ、6人制で、フォーメーションもあるんですから。
もちろん、6人制でローテーションがあるのは知っていましたよ。でも、フォーメーションは知りませんでした。セッターレフトとライトでは動きが違うし、サーブ権のあるなしでも変わってきます。それが全くわからないので、メンバーに迷惑のかけ通し。申し訳ないと思いながらも、母島にいるからこそ、こんなことさせてもらえるんだと、感謝しながら、試合の日を迎えました。
第1セットは母島。第2セットは父島。一球一球、気の抜けない好ゲームです。応援のしがいのある試合に、どうか、このままもう1セット、と祈るような気持で迎えた第3セット。
シーソーゲーム、それも胃の痛くなるような、そんな緊迫したゲームです。そんなとき、チームメイトにアクシデント。コーチが私を見て、
「入って!」
「えっ」
このまま応援でがんばるんだ、と思っていましたから、「は、入るんですか?」という顔でコーチを見返したと思います。
「大丈夫だから」
不安そうに見えたのでしょう、コーチはそういってくれました。
不安、でした。とても不安でした。
拮抗したいい試合が、私という異分子が入ることで、試合の流れそのものが崩れてしまうのでは、と思ったからです。
この選手交代が、試合の行方を決めてしまうことのないように、と願いながら、コートへ入りました。
野球で、よくいわれることですが、代わった選手のところへボールがくると。
バレーでも、それはかなりの確率であるような気がします。だから私なりに、次の一球は、マイボール、と集中。いえ、これからゲームセットのホイッスルが鳴るまで、マイボール。
気がつけば、母島勝利でホイッスル。よかったぁ、足をひっぱらなくて終わった!、正直な気持ち。
でも、楽しい試合でした。点数さえなければ、このまま、ずうっとゲームをしていたい、そんなふうに思えたんですよね。
ローテーションもフォーメーションも、それをこなせることが、とてもうれしかったんです。
単純なんですよね、恥ずかしい。
ふ、船は…
とうとう私も船に乗ることになりました。この節分時期は海が荒れるので、絶対に船には乗りたくなかったのですが、そうもいきません。
中学校の先生から、娘さんの顔を見てあげてください、と勧められたからです。
船には乗りたくなくても、娘のことは気になっていましたから、『先生からいわれたから、しかたなくて』という顔をして、内地へ行きました。
娘は、先生からいわれたんじゃ、しゃあないかとあきらめたようす。
姉と兄は、ほんとに過保護なんだから、といわんばかりです。
でもとんぼ返り。10日に着いて16日の船に乗り小笠原へ。
26日には社宅の引っ越しが決まっているので、荷造りもありますし、ね。
手紙
25時間半と2時間10分の旅を終え、母島へ帰ってきました。
たとえ仮の宿でも、あと数日しかいられない家でも、我が家です。
やっぱり、ここが一番!
引っ越しの準備も気になるけど、まずはのんびり留守中の手紙を開くことにしました。
手紙を読んでいたときです。童謡詩の会の先輩から電話がかかり、先生が亡くなられたと聞きました。…でも、先生の手紙があるんです、私の手に。
文字の乱れもなく、いつものようにやさしい文字です。一度も会ったことのない弟子に、温かい励ましの言葉をつづってくださっていました。
この弟子(私)は、とんでもない弟子で、戦後の童謡界の重鎮である『おてだま』誌に、実力もないのに、向こう見ずにも飛び込んだのです。それがわかったときには、入会して1年以上も過ぎていました。
今さら辞めるともいえず、厚かましく居座ることにしたのです。
『できの悪い子ほどかわいい』そう思ってくださっていたのかもしれません。いえ、そう思ってくださっていたら、嬉しいです。お会いしたこともないのに、気持ちはいつも先生と奥さまに甘えていました。どんな詩を送っても、どこかにいいところを見つけてくださって、アドバイスや応援をしてくださったんですよ。
まだまだ教えていただきたいことがたくさんあったのに。
先生の詩をもっともっと読ませていただきたかったのに。
おてだま誌は、後継される方がいないので、廃刊になります。
月の20日の締め切りは、かなり厳しいものでしたが、生活のリズムでもありました。ときには締め切りに追われているような気さえしました。でも、私にとってはそれが、子どもの目でまわりを見る貴重な時間だったのです。
大切なものって、失ってから気づくものなんですね。
私の先生…平成16年、山形県の斎藤茂吉賞を受賞された、結城よしを先生。
ふたたび引っ越し
島の人に手伝ってもらい、新しい社宅へ引っ越しです。
うちは頼んで、コンテナを借り、荷物を分散しながら引っ越しました。でも、分散するといっても、内地への引っ越しまで20日間あります。
できるだけ少なくと思っていても、生活するには、ほとんどの荷物を開かなくてはなりません。その区分けに疲れてしまった私。最後は、もうどうでもいいわ!といった感じで、開けて使わないものだったら、コンテナへ入れればいい、なんて、ほとんど投げやり。
島の人が、仮の社宅にいれば、といってくれるのですが、工期は仮社宅を更地にするまでなので、うちが勝手に居座るわけにはいかないのです。
娘の荷物もひと荷物あります。でも彼女は内地。しかも今度は3階建てなので、荷物を3階まで上げなくてはなりません。
父島にいる会社の人たちは、
「新築に住めていいね」
といってくれるのですが、うちにとっては、この引っ越しはありがたいものではありません。
1年半しかいられないのに、引っ越し荷物を作る時間(会社の荷物もあります。でも、ほとんどお隣のご主人ががんばってくださったのですが)は、もったいないです。その時間があれば、もっと母島を楽しめたのではないかとさえ思っています。
それに古いといっても、わずか1年半、我慢できますよ。
前にも書いたと思いますが、大変だけど、30年に一度(コンクリート住宅の寿命は30年と聞いています)、その時期に立ち会えること、それは貴重な体験です。
でも、なによりラッキーだったのは、お隣のご主人が、マメな方だったことでしょうか。お休みの日でも、気づくと、会社の荷物をひとりでまとめてくださっていました。
会社のものは細かいものが多くて、失ってしまうと、すぐには手に入りません。引き出しにあるときには、どうということもないものでも、それを移動するとなると、手間や暇がかかります。
うちの主人は『なんとかなるさ』人間ですから、お隣のご主人の慎重な性格には感謝しています。
…けど、私もお隣のご主人と同じ血液型なんですが、なんだか不純物が混じっているようで、それとも、うちの主人に感化されたのか、『おんぶにだっこ』してしまいました。
すみません!
帰ってきたよ
娘と同級生が凱旋?帰国(島)。ふたりとも第1希望の学校に合格して帰ってきました。
12月に推薦入学を決めていたもうひとりの同級生に出迎えられ、これでいつもの3人組復活です。
桟橋には『合格おめでとう』の文字が躍っていました。
ふと見ると、お隣の奥さんが、娘に声をかけてくれています。
こんなふうに自分たちのことを思ってくれる人たちがいるって、どんなにしあわせなことか、娘は感じてくれているでしょうか。
親にしても地域の人が自分の子を大切にしてくれることが、とってもありがたくて嬉しいんですよね。
しかし、うちの娘、なんて運のいいヤツなんでしょう。
たしかに、受験は大変だったでしょうけれど、帰ってくれば、学校も新築、家も新築、引っ越しはすでに終了しているんですからねぇ。
引っ越し要員として母島に来たんじゃなかったのかい? ちょっと突っ込んでみたくなりました。
ローズウッド
この気になる名前は、その和訳の通り、木のバラです。
写真を見てもらえればわかると思いますが、どう見ても茶色のバラですよね。
これが、冬の姿なんですよ。ふっくらした中心の部分に、タネが入っているんです。
残念ながら、夏にどのような花が咲くのか、見ていません。
けっこう母島を歩いたつもりでしたが、ゆったりと眺めることができていなかったのだ、と反省しています。
もっともっと島にいたいと痛切に思いました。
【庭の月桂樹に置いてみました】
近づく別れ
きょうはバレーボールクラブの総会です。
母島へ来て、9人制ではなく6人制だと聞いたときは、躊躇しましたが、同じ年齢の人がいて、
「私もやってんだから」
と声をかけてくれ、それじゃあと入れてもらうことにしました。
ところが彼女、仕事が忙しくて、私の行く練習日には、来れない日が続いたのです。
「あなたが来るっていうから」
と愚痴ると、アハハと笑って、
「ごめ〜ん、そういったよね」
でも、彼女が忙しくしていることは、小さな島ですから、よくわかります。
彼女とは、手話も一緒でした。母島でも手話で歓迎できたらいいと、彼女が音頭をとっているのです。
そんなパワフルな彼女を見ていると、こちらまで元気になります。というか、母島の女性はみんなパワフルです。
ゲートボールの指導をしてくださっている方も、おかあさん方も。
バレーの総会からは話がずれましたが、母島へ来て、いろんなパワーをもらったような気がします。
子どもたちにも島の人にも。
こんな気持ち、わかっていただけるかどうかわかりませんが、ひとりで島の道を歩き、青い空を見上げ、風に吹かれているとき、ふいにしゃがみ込んで泣きたくなるのです。そう、人目がなければ、泣いた赤鬼のように、おんおんと。
この島から、というか、ここでは存在し続けられない、切迫した気持ちになるのかもしれません。
せつなくて、せつなくて、でしょうか。
でも、それが感覚としてではなく、現実の問題としてやってきます。
ギバンジロウ酒
きょうは手話のみなさんと飲み会。
ひとり一品を持ち寄り、ラメーフさんの八角亭(勝手に名づけました)で、楽しいお酒。
12月につけたギバンジロウ酒も甘い香りの果実酒に仕上がりました。
私の一品料理は、主人の釣ってきたカイワリのマリネ。
島で採れたもので、いただくビールは最高です。
思いがけないことから、入れてもらった手話の会。細くても長く続けていきたいと考えていた私には、いい時間になりました。
♪レモン林 ♪南崎 ♪四季 ♪涙そうそう ♪アオウミガメの旅
それぞれにつけた手話。…母島の生活は歌とともに。
卒業式
3月18日、母島小中学校の卒業式です。
卒業生は小学生3人、中学生3人の小さな式。
内地では初夏の陽気のような母島の3月。澄んだ空が子どもたちの未来を象徴しているようで、嬉しくなりました。
私は主人と卒業式に参加。これで、子ども3人目、義務教育最後の卒業式です。
山の分校に入学し、本校へ変わり、離島の学校を卒業する娘。人生15年にしては変遷の日々だったかと思います。
でも、自分なりの努力をして、きょうを迎えました。
こぢんまりしているけど、母島らしい卒業式が進んでいきます。小学校の卒業生との呼びかけが終わり、中学生3人が正面に立ちました。そして、思い出とお別れの言葉。
なんども書きましたが、母島には高校がありません。中学卒業は、そのまま親元を巣立つ日でもあります。
うちの娘はまだしも、両側に立っている彼らはどんな思いでしょうか。親御さんたちは…。
在校生との呼びかけが始まり、いくらもたたないうち、娘の目から、大粒の涙がポロポロこぼれ落ちました。こらえようとしているのに、できずに、ボロボロ泣いています。
朝、家を出る前に、
「おかあさん、泣かないでよね」
なんていってたのに、あなたが先に泣くなんて。戸惑いながらも、娘の涙に、もともと泣き虫の私もグスグス。
それでも、別れの言葉はしっかりといってました。
3人とも、最後は、家族への感謝の言葉で締めくくられていたので、私はまた涙。もう、先生たち、親を泣かせようとしないでくださいよ〜、なんて思いながら。
それにしても、娘が真ん中で大泣きしていたのに、両側のふたりは、いつものポーカーフェイス(のように見えました)。いつもは強がっている娘の変ぼうにあきれていたのかもしれません。
式の最後はBIGINの『島人ぬ宝』でした。
もう最後まで憎い?演出の卒業式。
おまけ
泣き虫の私ですが、卒業式であんなに泣いたのは、初めてでしたよ。
なにしろ、まわりから、すすり泣きの声が聞こえてきて、泣いてるのは、私だけじゃないんだぁ、なんて安心したとたん、…というか、ここで、自分たちも母島から離れるという思いも重なって、さらに、子ども3人、義務教育終了の安堵感、恥ずかし気もなく、泣いてしまいました。
「今年の卒業式は泣きの卒業式だったね」
と島の人がいってたところをみると、いつになく、涙が多かったんですね。
私だけじゃなかったんだと、またまたヘンな安堵感。
レモンを植えました
母島フルーツロードに、レモンを植えさせてもらいました。港の入り江が見える1等地です。娘とスミレちゃんちと自分ちの分。プレートをつけて、ね。
このフルーツロードというのは、観光客のみなさんに、母島産の果物を自分で取ってもらえるようにと、昨年から計画されたものです。パパイヤは1年生ですから、もう青い実がなっています。
この道の両脇には、その他に、バナナ・パイナップル・パッション・アセロラなどが、記念植樹されています。私たちのように島で暮らした記念に植えて行かれた方もあるようです。
何年か後、母島を訪れ、植樹したレモンに会えれば嬉しいですよね。
会えなくても、観光客のどなたかの手でもがれるような実をつけてくれれば、どんなに嬉しいでしょう。
レモンの木と夢も植えてみました!って、いいでしょ。
「これ、ワッチのおとうさん」
スミレちゃんと同級生が、新しく赴任する方の歓迎の絵を描いています。
桟橋で、麦わら帽子をかぶり、釣り竿とバケツを下げている姿に、額を寄せ合ってクスクス。
「ワッチのおとうさんって、釣り好きだもんね」
「あの帽子かぶってるから、すぐわかるんだよね」
子どもたちって、よく見てますよね。そうはいいながらも、
「新しい人のことばかり描くと、ワッチのおとうさんがかわいそうだから」
なんて、やさしい言葉。
だから、母島の子どもたちって、好き。
♪ 子どもたちの気持ちがうれしくて ♪
私の理想としては、ワッチがスミレちゃんのことを、妹のようにかわいがってくれれば、と思っていました。
でも、そういうことにはなりませんでした。
ワッチが末っ子のせいもあるでしょうけど、スミレちゃんが、しっかりしていたからかもしれません。
でもふたりは、ベタベタした関係ではないけれど、いつも心のどこかで、お互いを意識していたみたいです。
ワッチは思い出したように、
「スミレちゃん、太鼓ずいぶんじょうずになったみたい、すごいね」
とか、
「スミレちゃん、プール、がんばってたよ」
なにげなく、そんな話をしていました。
スミレちゃんにしても、おかあさんにワッチのことを話してくれていたようで、
「へえ〜、そんなことしてたの」
と、おかあさんを通じて、私がワッチのことを知ることもありました。
つかず離れず、それもいい人間関係だと思います。
ふたりとも、父親の仕事で、否応なく母島に来ました。ワッチはかなりのカルチャーショックを受け、大変なことになりました。でも今では、母島が大好きです。たぶん、スミレちゃんも母島が大好きだと思います。
島を出たあと、いつか、ふたりで母島に来れるような日が来るでしょうか。
きっと、きっと、きっと来ると思います。
その日のための出会いなのかもしれません。
ヘンな感じ
きのうまで自分ちだった家は、きょうは他人の家。なんだかヘンな感じです。
でも、それが今の私たち。後任の方がみえたので、私たちはペンションへ。
ブーゲンビリアの赤紫の花がひときわ映える、白いデッキのラメーフ。ここの奥さんとも手話仲間です。
夕飯にカメのお刺身が出て、娘はビックリ。
いわれなければわかりませんよ。赤身のきれいなお肉?のよう。カメさんの悲しそうな顔がチラッと浮かびましたが、食べちゃいました、臭みもなくおいしかったです。
クラフト・イン・ラメーフには、奥さんの草木染めなどが置いてあります。
翌日はドルフィン。ここも手話の友だち。社宅に近いのとランチも食べられるし、頼んでおけば、誕生日のケーキも作ってもらえます。
ランチのおすすめは島野菜のカレーです。
またクリスマスには、食堂(ディナールーム?)のグランドピアノで、ディナー付きのミニコンサートもあり、普段着でぜいたくな時間が過ごせました。
小剣先山から
母島から出る日、小剣先山へ登りました。
ほんの10分ほどで登れる山なので、30分もあれば、そういうことができるんですよ。
どこかのおうちの台所の音が聞こえてきて、朝の島のようすが、見えるような気がします。
吹き抜ける風を受け、山頂から見下ろす景色の中に、1年7ヶ月生きていたことを思い返しています。
母島へたどり着いたときの暑さ。
澄んだ空に透きとおる海。
バナナやパパイヤが道ばたで見られる景色。
人をおそれない魚たち。
さび付いた大砲に羽を休めるメグロやヒヨドリ。
島の人たちの温かさ。
ひとつひとつを心の宝石箱へしまい込んでいます。
「ありがとう」の気持ちと一緒に。
いよいよ…
とうとう来てしまいました、別れの時間が。
島の人たちへの挨拶を終え、船に乗り込みます。
この船で島を離れることが、ずっしり心にのしかかってきました。
笑顔で、と思っているのに、涙はポロポロ。
1日でも長く島にいたいという娘を残して、主人とふたり、母島を離れて行きます。
静沢のサンセットシアターから、お隣や都庁のみなさんの最後の別れのあいさつが送られています。そのあいさつに、はは丸が汽笛を鳴らして応えてくれました。
去年はあっちにいたのに、ほんとうに1年なんて早いですね。
母島での生活は貴重でした。同じ島の仕事なら、小笠原。どうせ行くなら東京最南端の島、母島。
その願いが叶った1年半でした。
娘には大変な思いもさせてしまいましたが、それを自分の力にしてくれたのではないかと思っています。
私は、たくさんの童謡詩のヒントをもらいました。頭の中には、まだまだ形にならない童謡詩が眠っているような気がします。
今はまだ、言葉が見つかりませんが、そのうち、母島への思いを言葉にしていきたいと思っています。
おまけ
母島を出るときにいただいたミニトマト。揺れに揺れるおが丸で、なんともおいしく感じました。
娘が、柔道でお世話になったヒキさんからいただいたものです。
船酔いで食欲のない娘も、ミニトマトをひとりで一袋開けていました。
真っ赤なトマトは、柔道に対するヒキさんや剣道の指導をされてるMさんの情熱の色のようにも見えます。
母島の人たちの熱い心かもしれません。
不思議の島、母島、東京都の宝物(!?)なんていうと、いい過ぎですかね。
でも、沖縄とは違う欧米系の文化が残っているのですから、日本であって、日本とはちょっと違う時間が流れているような気がします。
輝くトマトを前に、短い期間ではあっても、そこに暮らせたことを、しあわせに思っている、うちの家族です。
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母島の1年7ヶ月を振り返ってみました。
まだ、書き加えることもあると思いますから、
『おわり』は入れません。