〜バレエ「ドナウの娘」〜

フィリッポ・タリオーニ/作 (1836年)
ピエール・ラコット/復元 (1978年)

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<ラコット復元版のあらすじ>


 フルール・デ・シャンはドナウ川上流で発見され、村の老女イルメンガルデの養女となった美しい娘。フルールはこの地方の領主ヴィリバルト男爵の従者ルドルフと恋仲であり、イルメンガルデの反対にもかかわらず、毎朝二人で楽しい時間を過ごしていた。ドナウの女王もそんな二人を祝福して婚約させた。
 ある日、村にヴィリバルト男爵の伝令が現れて、「村で一番美しい娘を妻にすることにしたので、村中の娘はお城へ来るように」」という男爵のおふれを伝えた。常々フルールならばきっと玉の輿に乗れると思っていたイルメンガルデは大喜びしたが、ルドルフは美しいフルールが選ばれるのではないか、と心配になった。しかし屈託のないフルールは、選ばれないように足をひきずってぎくしゃくと歩き、間抜けな顔をしておくから大丈夫、とルドルフを慰めた。
 そして花嫁選びの日、村中の娘たちは期待に胸をふくらませてお城を訪れた。フルールはルドルフとの約束通り足をひきずり、痴呆を装い、そして密かにルドルフの所へ行って愛情を示しながら楽しく踊っていた。しかしそんな彼女はかえって目立ってしまい、男爵はフルールを花嫁にと望んだ。あわてたルドルフは、フルールは自分の婚約者なのだと男爵に訴えるが、男爵はルドルフを反逆罪でとらえるように指示した。そして男爵がフルールの手をとろうとすると、フルールは男爵をかわし、ルドルフに別れを告げながら身につけていた忘れな草を投げ与えた。そしてバルコニーからドナウ川に身を躍らせ、川底へと引き込まれて行った。
 正気を失ったルドルフは自分もまたドナウ川へ飛び込んで死のうとした。男爵はフルールがまだ生きているように見せかけ、何とか自殺を思いとどまらせようとするが、男爵の制止を振り切ってルドルフは川へ飛び込んでしまった。男爵は二重の悲劇を嘆いた。
 ルドルフが気がつくと、そこはドナウ川の川底で、フルールがドナウの女王やオンディーヌたちと一緒に彼を取り囲んでいた。フルールを返してください、と言うルドルフに対し、ドナウの女王は、たくさんのオンディーヌたちの中からフルールを見分けることができれば返してあげよう、と答えた。同じ姿をしたたくさんのオンディーヌに取り囲まれたルドルフは最初はまったく見分けがつかなかったが、愛する心によってついにはフルールを見分けることができた。ドナウの女王は約束通りにフルールを返してくれた。そして二人はオンディーヌたちに見守られて無事に地上へと帰ったのであった。
(終わり)


<初演台本による物語>


〜第一幕〜


 この伝説はドナウ川流域に15世紀から伝わっているものである。ドナウエッシンゲンその他幾つかの地方を領有するヴィリバルト男爵は、兄とその結婚をめぐっての不吉な運命を自分も引き継ぐのではないか、と不安におののいていた。男爵の兄は三度結婚したが、その三度の結婚のどれも結婚直後に新妻が因縁めいた怪死を遂げたのである。自らの運命を呪った兄は死を求めて神聖ローマ皇帝の軍にはせ参じ、反乱軍と戦って望み通り戦死を遂げた。
 そしてヴィリバルトは兄の後を継いで男爵となったが、兄の結婚の呪われた事情を知る近隣の貴族たちは誰一人として娘をヴィリバルト男爵に嫁がせようとはしなかった。人々は兄個人のみならずヴィリバルトの家系が呪われていると考えたのである。
 しかし何とか妻を得たいと願うヴィリバルト男爵は呪われているのは自らの家系ではなく、怪死を遂げた身分の高い兄の妻たちとその家系であったのではないか、と考える事にした。そこで騎士や貴婦人たちのひんしゅくを買うことは覚悟の上で、呪われた貴族出身の女性ではなく、素朴で健康的な村の娘の中から妻をえらぶことにしたのである。
 ヴィリバルト男爵は幼い頃から気に入っていた「花々の谷間」の光景を思い浮かべた。ドナウ川のせせらぎ、種々の植物が群生する静かな谷間、花々の芳しい香り、そしてばら色の頬をした健康的な娘たち。その中でも特に男爵の心を惹きつけたのは、素性がわからないある娘の噂であった。
 フルール・デ・シャン(野の花)と呼ばれているその娘はイルメンガルデという年老いた女性の養女となっていたが、実の親はどこの何者なのか、どこから来たのかなどその素性については何もわかっていなかった。彼女はある日ドナウ川水源近くに群生する忘れな草の中にひざまづいているのを村人に発見されたのである。
 付近の人々もフルールについては全く心当たりがなかったが、ただフルールが見つかった日には不思議なことが起こっていた。何の天変地異もないのにドナウ川の水が草原まであふれ出し、そしていつの間にか元通りになっていたのである。またイルメンガルデが言うには、フルールは毎朝早くに水源に祈りを捧げに行くのであるが、その時川面には年老いたドナウ川の姿が映っていると言うのだ…。
 いろいろと不思議な噂が絶えない娘なのであるが、その清らかな美しさ、自然に備わった品格、無垢な心は若く美しい「花々の谷間」の娘たちの中でも際立っており、人を惹きつけてやまないという事であった。
 男爵はぜひその娘に会ってみたいと思った。力ずくではなく娘の笑顔を損なわないような方法で彼女をお城へ連れて来ることはできないだろうか。
 考えた末、男爵はよい方法を思いついた。「花々の谷間」の娘たちの中から妻を選ぶので、娘たちは全員お城の舞踏会へ来るように、とおふれを出すことにしたのである。舞踏会には騎士や貴婦人たちも招待しよう。そして一生妻をめとれないだろうと自分をあざ笑っている彼らの前で幸せを手に入れるのだ。
 男爵は早速「花々の谷間」に伝令官を派遣することにした。




 さて、そのフルールであるが、すでにヴィリバルト男爵の侍臣であるルドルフという青年と純粋な愛情で結ばれていた。二人は朝早くの祈りの後、ドナウ川の川岸で花を摘んだり冠を編んだりして無邪気に過ごし、しばし眠りについた。そんな時ルドルフは二人のこれからについて夢見がちに語ったが、フルールはにこやかな笑顔で聞いているだけで、未来にはあまり興味がないようにみえた。それは過去についても同じで、不思議な娘フルールにとってはドナウ川の川岸で花や緑に囲まれて無邪気に戯れること以外には何も望みがないように思われた。
 その日も二人はいつものように花を摘んで冠を編み、楽しく過ごしてから眠りにおちた。そこへフルールを見守っているドナウのニンフがオンディーヌたちを連れて現れた。ニンフは眠っている二人にただ無邪気なだけではない愛の夢を見させる深い眠りを吹き込んだ。そして二人の指に指輪をはめて祝福した。
 目覚めたフルールはかつて味わったことのない感覚に困惑したが、自分たちの指にはめられた指輪を見つけ、ルドルフへの愛を体いっぱいに感じた。そして二人は抱き合い、自分たちがドナウのニンフの導きによって婚約したことを喜んだ。
 そこへイルメンガルデがやって来て二人を引き離した。美しく品格のあるフルールならば玉の輿は間違いないと信じるイルメンガルデにとっては、ヴィリバルト男爵の侍臣にすぎないルドルフは邪魔者にすぎなかったのである。
 その時はなばなしいファンファーレが響き渡り、ヴィリバルト男爵の伝令がやって来て男爵からのおふれを伝えた。ひょっとしたら自分が男爵夫人に選ばれるかもしれない…村の若い娘や母親たちは大喜びで着飾り始めた。常々自慢のフルールを身分のある男性に、と願っていたイルメンガルデの喜びと期待は誰よりも大きかった。
 しかしフルールとルドルフにとっては思いがけない災難であった。ルドルフは美しいフルールが選ばれてしまうのではないかと不安にかられた。そんなルドルフをフルールは慰めた。お城では足をギクシャクとひきずって歩き、間抜けな顔をするから大丈夫、というのである。
 そんな事で男爵をごまかせるのだろうか、とルドルフは不安であったが、邪気というものがまったくないフルールは私たちは婚約したのだし、ドナウのニンフが守ってくれるから大丈夫、とルドルフを慰めた。期待に満ちたイルメンガルデは念には念を入れてフルールが逃げ出さないように自分も監視のために一緒にお城へ行くことにした。



 さて、お城には騎士や貴婦人たちが招待され、華々しい祝宴の用意がされており、ヴィリバルト男爵は「花々の谷間」の娘たちの到着を今か今かと待っていた。やがて待ちわびていた娘たちが到着した。白い晴れ着に花を飾っただけの娘たちは豪華な衣装をまとった貴婦人たちよりも生き生きとして見えた。
 てっきり一生妻をめとれないと思っていたのに、どうも男爵はこの身分の低い娘たちの中から未来の妻を選ぶつもりらしい。何たる非常識。それに呪われているのは自分の家系なのに女性の側に問題があると思っているのだわ…貴婦人たちは不愉快な気持ちになり、眉をひそめた。 
 男爵は健康的な美しさに満ちた娘たちを歓迎し、ダンスの輪に加わるように言った。娘たちは踊り始めたが、その中でも忘れな草で簡素に身を飾ったフルールの姿は際立って美しかった。足をひきずり間抜けな表情をしてみせるのであるが、その天使のように清らかな美しさは隠しようがない。
 男爵の目はフルールに惹きつけられた。あの娘だ、噂のフルール・デ・シャンとはあの娘に違いない。それを見たイルメンガルデの顔は期待に輝き、ルドルフの不安は募っていった。
 ダンスが終わると、不愉快さに耐えられなくなった貴婦人たちは早々に帰ろうとした。しかし男爵は自分をばかにしていた貴婦人たちに仕返しをしてやりたいと思っていたので、今から未来の花嫁を選ぶのでどうか見届けてください、と慇懃無礼に貴婦人たちに申し渡した。そして男爵は貴婦人たちの冷たい視線の中、喜びに満ちてフルールに近づき結婚を申し込んだ。
 フルールは衝撃を受けて男爵の申し出を拒否した。男爵があきらめずに懇願していると、たまりかねたルドルフが飛び出して言った。自分とフルールは婚約しているのです、どうか彼女のことはあきらめてください。男爵は邪魔をするルドルフを取り押さえるように指示し、強引にフルールの手をつかもうとした。
 その瞬間フルールは素早く男爵の手を逃れ、ドナウ川に面したバルコニーに飛び出した。そしてルドルフに愛情を込めて忘れな草を投げ、吸い寄せられるようにドナウ川に飛び降りてしまった。
 イルメンガルデや村娘たちは悲痛な叫び声を上げ、貴婦人たちは驚きの中にもそれみたことか、と残酷な喜びを感じた。ルドルフは絶望へと突き落とされた。そして予想もしなかった悲劇を招いてしまった男爵は呪われた運命の再現に色を失ったのであった。


〜第二幕〜


 突然の悲劇に、ルドルフは半分気が狂ってしまった。誰のどんな慰めも彼を正気に返らせることはできなかった。そして彼はフルールの姿を求めて自分もまたドナウ川へ飛び込もうと川岸へやって来た。、ルドルフは、フルールが別れ際に彼に投げ与えた花束を胸元から取り出して接吻した。
 と、神秘的で甘美な音楽が水の上から聞こえてきた。そしてオンディーヌたちを従えたドナウのニンフが現れた。何とニンフの傍らにはフルールがいるではないか。ルドルフは自分の目が信じられず、幻影ではないかと思ったが、それでもわらにもすがりつく思いでひざまづき、フルールに帰って来てくれ、と訴えた。
 しかしフルールは彼の取り乱した様子に脅えて答えようとしない。ルドルフはドナウのニンフにもフルールを返してください、と懇願した。ニンフが何か言おうとした時、足音がしたのでルドルフは振り返った。そしてもう一度向き直ると、ニンフやフルールたちはすっかり消えていた。
 足音の主はヴィリバルト男爵と供の者たちであった。自らの軽率な行動からフルールを死に追いやり、更にルドルフまでも命を絶つことを恐れた男爵が彼を探しに来たのである。今にも川に飛び込もうとしているルドルフを見た男爵は何とか身投げを思いとどまらせようとして、連れて来た娘たちにルドルフを取り囲ませた。
 娘たちは皆フルールと同じ衣装をつけ、顔をヴェールでおおっていた。男爵は、フルールはこの中にいるから探してごらん、とルドルフを川から遠ざけようとした。しかしすっかり錯乱しているルドルフは男爵に斬りつけようとした。その時、一人の娘がルドルフと男爵の間に割って入ったので、ルドルフは彼女がフルールなのかもしれない、と思って駆け寄った。しかしその時娘のヴェールがはずれ、フルールならぬ別の娘の姿が現れた。
 またもやショック受け、完全に正気を失ったルドルフは思い出の忘れな草を空高くかかげてから胸に抱きしめ、川へ身を投じた。悲劇の連鎖を止めることができなかった男爵はがっくりと膝をつき、神に祈りを捧げた。



 不意に川は荒れ始め、雷鳴がとどろいた。男爵たちの一行がルドルフの冥福を祈り始めた頃、気を失ったルドルフはオンディーヌたちに支えられて年老いたドナウ川の洞窟へと下って行った。そしてフルールとルドルフの婚約を祝福したあのニンフがルドルフに生命と正気を取り戻させた。
 素性の知れない娘フルールは年老いたドナウ川が生み出した娘であり、そしてドナウ川は娘が愛している男を死なせるに忍びず、そのふところへ受け入れたのである。
 気がつき、事情を知ったルドルフは、ニンフに自分のフルールへの愛を訴え、どうか彼女を返してください、と懇願した。するとニンフは言った。「ドナウ川はもはや地上が娘にはふさわしくないと思ったので娘を手元に呼び寄せたのです。どうしても返して欲しいのなら、あなたのその愛を私たちに示してください。」
 それではどうすればいいのですか、と戸惑うルドルフに更にニンフは言った。「そろいの衣装とヴェールをつけたオンディーヌがあなたを取り囲みます。その中にはフルールも混じっています。川岸では男爵に欺かれたあなたですが、愛によってフルールを見分けることができるならば、彼女を再びあなたに委ねることにしましょう。」
 そしてヴェールで顔をおおったたくさんの若いオンディーヌたちがルドルフを取り囲んだ。彼女らは優美な物腰で彼に近づき、珍しい貝や海草を差し出して愛情を示し、フルールであるかのように装った。どのオンディーヌも同じように見え、全く見分けがつかない。ルドルフは次第にあせってきた。しかし彼は自分とフルールには切っても切れない心の絆がある、と自分に言い聞かせた。そしてフルールが愛情を示そうとして彼に投げ与えたあの忘れな草をしっかりと胸に抱きしめた。
 すると、みんなが気にもとめずに通り過ぎる中で一人だけ忘れな草に手を差し伸べるオンディーヌがいた。ルドルフは直感した。フルールに違いない。つかまえようとすると、そのオンディーヌは逃げたが、ルドルフは必死で追いかけて彼女をとらえた。ヴェールをあげると、そのオンディーヌは清らかな笑顔を見せた。それはやはりフルールだったのである。二人はしっかりと抱き合った。
 ニンフは再び二人を祝福し、オンディーヌたちに二人を地上へ送って行くように命じた。オンディーヌたちは二人の回りに群れを作り、そのまま二人を連れて水面へ浮かび上がった。こうして二人は再び地上に戻ったのである。


 



 ヴィリバルト男爵は自分の過ちを心から悔いていた。愛という至福の恵みは神が与え給うものなのだ。自分は神の意思に背いて更なる不幸を作り出してしまった…。
 そこへフルールとルドルフが無事に帰ってきたものだから、男爵は奇跡が起こったのだと思って神に感謝した。そして男爵は帰って来た二人の間に至福の恵みである愛を認めた。男爵は二人を祝福し、「花々の谷間」のあるドナウエッシンゲンの領地を与えた。そして自らは修道院で一心に祈りを捧げ、神に至福の恵みを乞うたのである。
 10年後、男爵はボローニャの修道院で穏やかに一生を終えた。そしてルドルフは恩人のために慰霊の礼拝堂を建てた。その廃墟は今もドナウエッシンゲンからフェーレンバックへの途上にある「忠実の岩」の中腹にみることができるのである。
(終わり)




<MIYU’sコラム>


 <ドナウの娘・初演基本情報>
      La Fille du Danube
      
      台本    ユジェーヌ・デスマール、フィリッポ・タリオーニ
      振付    フィリッポ・タリオーニ
      音楽    アドルフ・アダン
      初演    1836年 9月21日  於 王立音楽アカデミー(パリ・オペラ座)
      配役    フルール・デ・シャン   マリー・タリオーニ
             ルドルフ          ジョセフ・マジリエ
<ラコット復元版>
      台本    ユジェーヌ・デスマール、フィリッポ・タリオーニ
      振付    ピエール・ラコット (フィリッポ・タリオーニの作品に基づく)
      音楽    アドルフ・アダン
      初演    1978年 コロン劇場(アルゼンチン)
      配役    フルール・デ・シャン   ギレーヌ・テスマー
             ルドルフ          ミカエル・ドナール



 「ドナウの娘」は「ラ・シルフィード」と並んでロマンティック・バレエが生んだ最大のスター、マリー・タリオーニの代表作です。他の多くのロマンテックバレエと同じく一旦は消滅しましたが、1978年にピエール・ラコット氏が膨大な資料を基に復元しました。それを2006年東京バレエ団がレパートリーとし、再演したのです。総勢128名が登場するこのバレエはとても華やかで美しいダンスに彩られています
 しかしダンスが美しいことは認めながらも、このバレエには様々な疑問が寄せられています。話の展開に納得できないという意見が多いのです。web上で集めた主な意見を挙げてみますと、
 フルールは恋人がいるくせにお城の舞踏会へ行きたがったりして、あまりにノー天気。お城でも男爵の目を盗んでルドルフとイチャイチャしたりして、一体何を考えているのか。
● ルドルフも家臣のくせに仕事もしないで主人の舞踏会でフルールとイチャイチャした上に、男爵がフルールを選んだと思ったら彼女は自分の婚約者だと言いだす。そしてフルールが川に飛び込んだ後は後追い自殺を止めようとする男爵に斬りかかったりして、とんだ不忠者だ。
● フルールが「びっこで痴呆の真似をすれば男爵に選ばれないから大丈夫」とするのは、障害者差別で嫌な感じがする。(なお初演台本ではフルールは聾唖者という事になっています。)
● 川底でどんな波乱があるのかと思えば、ルドルフは簡単にフルールを見分けてしまう。フルールが自ら名乗り出たか、ドナウの女王が親切にも教えてあげたようにさえ見える。
● 二人が地上に浮かび上がるところで終わってしまうのは中途半端。最後は地上で男爵と和解して欲しい。
● 憂いに満ちており、真面目で臣下思いの男爵がかっこよすぎる。あれではフルールも男爵に惚れるのが自然だろう。
● 全体的にお話がご都合主義にすぎる。
● 全体的に踊りが長すぎる。特にフルールとルドルフの舞踏会イチャイチャ・シーンは退屈。川底で二人が再び結ばれてからの踊りも無駄に長すぎる。 
 つまり、お話がご都合主義でつまらなく人物にも共感できない。そして踊りがやたらに長すぎる、という事になると思います。これでは消えてしまうのも、ラコット氏が復元した後も誰も上演しようとしなかったというのも納得できますね。



 しかし、初演台本はラコット復元版とは全く違うのです。初演台本は男爵を主人公として、呪われた状況にもかかわらず妻をめとって家系を継いで行こうとする男爵の苦悩と襲いかかる災難、そしてそれを乗り越えた後の心の安らかさが描かれています。物語としてきちんと形が整っているのです。それなのになぜラコット復元版はあのようになっているのでしょうか。
 答えを探す鍵は「ダニューヴの娘」の初演台本を収録している「19世紀フランス・バレエの台本パリ・オペラ座」にありました。19世紀のフランスでは初演前に台本が出版されるのが通例であったらしいのです。人々は台本を読んでからバレエを観に行っていたようですから、現実の舞台がどんなものであれ、物語がわからなくて困るということはあまりなかったのですね。以下、平林氏の解説よりを引用します。
 「ダニューヴ河の娘」のように、むしろ最初から観客が台本を読むことを前提に、バレエが制作されたこともある。この台本は年代記の形を取っていて、舞台で演じられるのはその一部にすぎない。この年代記を読まない限り「ダニューブの娘」の筋立てを理解することは難しい。このバレエは、年代記においてもっとも瞠目される人物のヴィリバルト男爵を脇役にして、野の花(フルール・デ・シャン)とルードルフの恋愛ーバレエのお決まりの題材ーを主題にしてしまった欠点はあるものの、台本の知識に則しながらバレエを観るということ自体は、果たしてそれほど忌むべきことなのであろうか。」(「19世紀フランス・バレエの台本パリ・オペラ座」 平林正司/著 より引用)
 当時のマリー・タリオーニはまるで女神のように崇められる大スターでした。観客はマリーの踊りを見るためにやって来るのに、男爵を主人公としてバレエを作ったならば、フルール・デ・シャン役のマリーの登場シーンも踊りも限られたものになってしまいます。そこで物語は台本を読んでもらう事にして、バレエの方はマリーの踊りをたっぷり見てもらうためにフルールを主人公にし、フルールとルドルフのロマンスものという事になってしまったのでしょう。
 そして客観的にみれば「お話がご都合主義」で「人物に共感できない」、「ダンスが無駄に長すぎる」作品ができあがり、マリーが踊り続けている間は観客たちはマリーの魅力をたっぷり味わえる作品に熱狂し続けたのだと思います。
 スターの絶頂期にはみんな魅力全開作品に熱中しますが、それが過ぎ去れば人々は冷静に作品そのものの価値を判断するようになります。その時に初めて作品そのものの真価が問われるようになるのでしょう。そして今、マリー・タリオーニを歴史上の人物としてしか知らない我々は、ラコット氏が復元した「ドナウの娘」を冷静に見てその価値を判断しているのです。



 21世紀に生きる我々は初演の作品であっても台本を読んでから劇場へ行くわけではありません。ですから、「ドナウの娘」も19世紀のままでは通用しないのです。お話をわかりやすくするために改訂する必要があると思います。
 
 ラコット復元版を改善するためには二つの方法があると思います。一つめは初演台本(年代記)通りに男爵を主人公として物語を首尾一貫させること。しかしすでにフルールを主人公として軽妙で華麗なダンスがいっぱいの舞台が出来上がっています。これを男爵中心の物語に戻すのは今ある作品を否定するに等しく、難しいかもしれません。
 残りの方法ですが、今の軽妙なロマンスのままで良しとし、気になる部分を改定して全体的な調和を取り戻すことです。それにはやっぱりかっこよすぎる男爵の人物像に手を入れることは必須でしょう。フルールとルドルフのロマンスものであれば男爵はお邪魔虫なわけですから、あんなにかっこよくてはいけないのです。
 うすら馬鹿でお人よしの男爵が貴族の女性に相手にされず、美しい村娘と結婚してみんなを見返してやろうと思いついて、フルールとルドルフという恋人たちに一波乱起こしてしまう、というドタバタ喜劇風であれば男爵の存在も納得できるものになると思います。
 あくまで道化的な存在の男爵なので、ルドルフを追いかけて自分もドナウ川に落ちてしまい、川底ではルドルフと主従逆転してサンチョ・パンサよろしくルドルフについて回り、ついにはオンディーヌたちに追い出され、ルドルフとフルールに助けられて地上へ帰って来る。そして地上で男爵と恋人たちは和解してめでたし、めでたし…とすればすっかり喜劇になります。まあ、それが良いのかどうかはわかりませんが。
 平林氏は更に次のようにも書いておられます。
 「バレエの筋立てに舞踏に従属する面があることは事実で、文学的、演劇的には、筋立ては自己完結していない。オペラの台本作者と同じく、バレエの台本作者も、文学点な成功を追及してはいない。しかし、それは、台本を軽視して構わないということではないのだ。」
 「ドナウの娘」が消えてしまい、復元してさえ不人気であるのは、まさに平林氏の言葉を裏付けるものであると思います。ドラマ性がすぐれている「ジゼル」は今も世界中のあちらこちらで頻繁に上演されていますし、単純とはいえドラマに無理のない「ドン・キホーテ」も大人気の演目ですしね。



 「ドナウの娘」が消えてしまったその他の理由としては、フィリッポ・タリオーニが娘のマリー以外にはフルールを演じることを許さなかった、またはマリーのカリスマ性が強すぎて他の人ではとうていフルールを踊ることはできなかった、と公演を観に行った際のパンフレットに書いてありました。父娘の並々ならぬ努力によってロマンティックバレエは花開いたのですから、自分たちだけのものにしておきたいという気持ちもわからないではないです。しかし多くの名作が後世の人々の知恵と工夫でより素晴らしい作品となって今も人々を楽しませていることを思うと、ちょっと残念な気がします。
 何はともあれ、マリーの踊りによって大評判をとり、そしてせっかくラコット氏が復元し、東京バレエ団が日本でも紹介してくれたのです。これからも多くの人の知恵と工夫、そして勇気と努力でよりよい作品になって演じ続けられて欲しい、と思います。

   



<参考文献>


19世紀フランス・バレエの台本パリ・オペラ座   平林正司/著   慶応義塾大学出版会
        (「ダニューブ河の娘」初演台本を収録)
「ドナウの娘」 

    第15回神奈川国際芸術フェスティバル・東京バレエ団公演
    振付    ピエール・ラコット
    音楽    アドルフ・アダン
    配役    フルール・デ・シャン: 斉藤友佳理
           ルドルフ:        木村和夫
           男爵:          中島周  
    2008年4月29日 於 神奈川県民ホール
                     


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