〜うたかたの恋(原題:マイヤリング)〜

小説・・・・・・クロード・アネ (1930年)
バレエ・・・ケネス・マクミラン(1978年)

HOME

ストーリー辞典に戻る



       
<登場人物>
 
ルドルフ皇太子 オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子。フランツ・ヨーゼフ皇帝の嫡子。
マリー・ヴェツェラ ルドルフの最後の愛人。心中時にはまだ17才。一応、男爵令嬢という事になっている。
フランツ・ヨーゼフ皇帝 オーストリア・ハンガリー帝国の皇帝。ルドルフの父。
エリーザベト皇后 フランツ・ヨーゼフ皇帝の妻。ルドルフの母。
ステファニー皇妃 ルドルフ皇太子の妻。ベルギー王家の出身。
ジャン・サルヴァトル大公 オーストリア大公。ルドルフの従兄弟。自由主義者。
ヘレーネ・ヴェツェラ夫人 マリーの母。コンスタンチノープルの銀行家の娘。上流階級に食い込もうと必死になる。
ラリッシュ伯爵夫人 ルドルフの従姉妹。(バレエでは前愛人となっている。)ルドルフとマリーの仲を取り持つ。
ミッツィー・カスパール 高級娼婦。ルドルフ皇太子の一番のお気に入りの愛人
ブラトフィッシュ(あだ名) ルドルフ皇太子がプライベートに使っていたお気に入りの御者。
カタリーナ・シュラット 皇后が自分の身代わりに、と皇帝にあてがった女優。皇帝の大のお気に入り。
ターフェ伯爵 帝国宰相。保守主義者。ルドルフ皇太子を監視し、政治的に締め出す。
コーブルク公爵 ルドルフの親友。ステファニー皇妃の義兄。
ルイーズ ステファニーの姉。コーブルク公爵の妻
ホヨス伯爵 ルドルフの親友。
ロシェック ルドルフの従者
'ベイ'・ミドルトン(あだ名) 英国の騎兵将校。皇后のお気に入り(あだ名は彼の馬にちなんでつけられたもの)




<クロード・アネの小説>


 オーストリア・ハンガリー帝国を治めるハプスブルグ家の皇太子ルドルフ(30才)はウィーン市民からの評判も良く、老朽化した帝国に新しい風を吹き込む存在として期待を集めていた。夢見がちな少女マリー・ヴェツェラも遠くから熱烈な憧れを抱いて皇太子を見つめていた。
 しかし自由主義的な考えを持つルドルフと旧態依然たるハプスブルグ家の伝統を何一つ変えようとしない父のフランツ・ヨーゼフ帝との間はうまくいかず、ターフェ伯爵ら皇帝を取り巻く保守政治家はルドルフを政治的な役割からほぼ締め出していた。一方自由主義者たちは何とかルドルフを利用して自分たちの主張を通そうとしており、ルドルフはその板ばさみとなっていた。
 母であるエリーザベト皇后はルドルフの理解者であったが、自らが宮廷に居場所を見出せない状態であり、ルドルフとも疎遠になっていた。また政略結婚で押し付けられた妻ステファニーとの折り合いも悪く、家庭的にも身の置き所のない状態であった。
 そんな中でルドルフは放縦な女性関係で憂さを晴らそうとしたが、そのツケで性病を患い、性病から来る欝状態や頭痛で、ますます心身の健康を悪化させていた。ピストルとどくろを机に置いており、絶えず死への誘惑を感じながらかろうじて生きているような状態であった。
 そんな時、ルドルフはプラテルの競馬場でマリーを見かけ、心を惹かれた。憧れの皇太子から熱い視線を投げかけられたマリーは夢中になったが、宮廷に出入りできるような身分ではなく、恋に恋焦がれる日々が続いた。しかしルドルフの従姉妹ラリッシュ夫人がヴェツェラ家に出入りするようになり、夫人がルドルフとマリーの仲を取り持った。
 当初ルドルフは数多い情事の一つとしてマリーに近づいたのだが、マリーの純粋な心に触れ、真剣な恋に陥った。マリーと共に生きる事に最後の望みを見出したルドルフは、ステファニー皇妃との離婚の許可をローマ教皇に願い出た。しかし許可はおりず、しかも不許可の返事はルドルフ自身にではなく、父である皇帝の元に届いた。スキャンダルを恐れた皇帝は、ルドルフにマリーと別れるように厳命した。 
 唯一の希望であるマリーとの別れを宣告されたルドルフには、死が一挙に具体的なものとなった。マリーも例えあの世であれ、どこまでもルドルフについて行く決心をしていた。ルドルフは自分専用の狩猟用の館マイヤリングを最期の地として選んだ。1889年1月30日。2発の銃声がルドルフの寝室で響き、あの世で結ばれる事を願って、二人はこの世から去って行った。
 ルドルフはマリーと共にマイヤリング近くの市民墓地に埋葬してくれるように遺言したが、その亡骸はホッフブルグへ運ばれ、ハプスブルグ家の嫡流としてカプツィーナの霊廟に葬られた。一方、マリーの亡骸は三十数時間放置された後、心中の事実を隠すため、生きた人間の如く馬車に座らされて運び出された。そして母親や兄姉が立ち会う事も禁じられて、さびしく埋葬された。
(終わり)


<マクミランのバレエ>


 自由主義者であるオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子ルドルフ(30才)は、保守的で圧政的な父、フランツ・ヨーゼフ皇帝に頭を抑えられ、政治的に徹底的に干されていた。一方、政略結婚で押し付けられた妻ステファニーに対しては暴力的な態度で接しており、夫婦仲は冷え切っていた。また皇帝と皇后はそれぞれ愛人を持っており、ルドルフは家庭的にも孤立していた。
 行動する勇気はないが理想を語るのは好きなルドルフは、しばしばいかがわしい酒場にも出入りし、お気に入りのハンガリーの将校たちと政治を語ったり、宮廷の政治を批判する政治ビラに記事を書いたりしていた。また、数え切れない女性たちと情事を重ね、憂さを晴らしていた。中でも高級娼婦ミッツィー・カスパールを一番気に入っていたルドルフは、ピストルをミッツィーに見せて心中しようともちかけており、冗談だと思われて、うまくかわされていた。
 こういった生活の中で性病にかかったルドルフはうつ状態やひどい頭痛に襲われていた。それをモルヒネ注射でごまかし、また更に放蕩な生活にのめりこんで、ますます心身の健康を悪化させるという悪循環に陥っていた。ルドルフの机にはどくろとピストルが置かれており、冗談などではなく、ともすればすべての苦悩からの解放を願って、死へと心が引き寄せられるのであった。
 そんな時、昔の愛人ラリッシュ夫人がルドルフに17才の美少女マリー・ヴェツェラを引き合わせた。遠くから熱烈にルドルフ皇太子に憧れていたマリーは、暴力的なところ、性に耽溺する事を含めてルドルフと同じ嗜好性を持っていた。ルドルフはそんなマリーとの関係に燃え上がり、溺れた。
 ただでさえ父皇帝や取り巻きの保守政治家たちから要注意人物とされていたルドルフであったが、ある日皇帝と共に狩猟に出かけた際、猟銃を暴発させて皇帝のすぐ側にいた従者を死亡させてしまった。皇帝暗殺未遂の噂もたてられ、ますます立場を失くしたルドルフの心は、死によるすべてからの解放へと一挙に引き寄せられていった。
 ルドルフは共に死んでくれるようにマリーに懇願し、ルドルフを熱愛するマリーは承諾した。ルドルフは、マリーを伴って自分専用の狩猟の館マイヤリングへ赴き、まずマリーを撃って退路を断った後、自分自身のこめかみを打ち抜いて「死」へとたどり着いた。
 こうして共に死んだ二人だが、死後はすぐに引き離された。ルドルフの遺体はすぐにホッフブルグ宮殿に運ばれ、帝国の皇太子にふさわしい埋葬がなされた。しかしマリーの遺体は三十数時間放置された後、心中の事実を隠すため、生きている人間のように馬車に座らされ、ハイリゲンクロイツの墓地へ運ばれた。そして母や兄姉の立会いも禁じられて、さびしく埋葬された。
(終わり)








<クロード・アネの小説>


 1858年8月20日。オーストリア・ハンガリー帝国の若き皇后エリーザベトは帝国の跡継ぎとなる男児を出産した。帝国は喜びに包まれたが、エリーザベトは弱々しく見える赤ん坊を見つめてため息をついた。この子はこれからのしかかって来る重荷に耐えられるだろうか…。自身、堅苦しく保守的な宮廷に窒息しそうになっているエリーザベトには、ルドルフと名付けられた男児の将来が不安に思われてならなかった。

 それから30年が経ち、ルドルフは保守的な帝国に自由主義的な新しい風を吹き込み立て直す存在として、ウィーン市民の人気を得ていた。また彼はウィーン中の女性の憧れの的でもあった。17才の少女マリー・ヴェツェラも皇太子ルドルフの肖像画を見てはうっとりとしていた。しかし男爵令嬢の肩書きを持っているとはいえ、成り上がり者のヴェツェラ家はとても宮廷に出入りできるような家柄ではなく、マリーは遠くから皇太子を見ては憧れるだけであった。
 自由主義的な思想を持つルドルフは、民族の独立を求める自由主義者たちとも親しく、彼らと会って政治的な理想を語る事も多かった。実行力に乏しいとはいえ、政治的な勘に優れたルドルフは彼らと話す時には生き生きとして見えた。
 しかし実際は政治的にはほぼ無力であった。父であるフランツ・ヨーゼフ皇帝は600年近く続いて来たハプスブルグ家の伝統的なやり方を何一つ変えようとせず、民族主義の高まりを感じながらも旧態依然たる方法で、多民族国家である帝国に君臨していた。そして皇帝と彼を取り巻く保守政治家たちは、独立を求める自由主義者たちがルドルフを担ぎ上げて謀反を起こすのを警戒し、30才にもなる皇太子に何一つ政治的な権限を与えようとしなかったのである。
 また、ルドルフはハプスブルグ家の伝統にのっとってベルギー王女ステファニーとの政略結婚を強いられたが、この結婚はうまくいっていなかった。
 皇妃には5才になる娘が一人いるだけであり、帝国の跡継ぎたる男児はまだ誕生していなかった。ルドルフはここ1年ほど皇妃とは疎遠になっており、それを恨んだ皇妃は教会の聖職者を通してその事を皇帝の耳に入れようと騒ぎ立てていた。それがまたルドルフにはわずらわしくてならなかった。
 しかしながら皇妃が嫉妬に狂うのにも理由がないわけではなかった。政治的に封じ込められたルドルフは憂さを晴らすため、数え切れないくらいの女性と情事を重ねていたのである。
 そしていかがわしい場所にも出入りしていたために、やっかいな性病にかかってしまった。そこから来る欝状態や頭痛にも悩まされており、もともと同族結婚によって血が混濁しており、過敏で壊れやすい神経を持っていたところにそれらが加わったものだから、ルドルフの心身の健康状態は加速度をつけて悪くなって行った。
 母であるエリーザベト皇后はそんな息子を心配したが、自身が宮廷の窮屈さに窒息しそうになって流浪の生活を送っており、ルドルフを支える事はできなかった。
 そんな中で八方塞の中であっても、ルドルフの心の中には美しい理想が生き続けており、常にその理想と現実の狭間で苦闘していた。

 そんなある日、1888年4月12日のことだった。ウィーンを訪れているプロシアの皇子を案内してプラテルの競馬場に行ったルドルフは、一人の美しい少女と視線がぶつかった。近くにいた士官に聞いてみると、その少女はヘレーネ・ヴェツェラ夫人の娘のマリーであることがわかった。マリーの方も、憧れの皇太子の熱い視線を感じて心がときめいた。
 それからというもの、マリーは夢中になって新聞や人の噂から皇太子の近況を探り、その姿を見ようと皇太子が現れそうな劇場やプラテルの競馬場に通いつめた。たまにその姿を見かけた時は皇太子の方も、マリーを意識しているようにも思えたが、自分が皇太子にどう思われているか、マリーにはしかとはわからなかった。 
 夏の間マリーは家族と共に英国へ旅行したが、会えない間も想いは募っていった。恋に恋焦がれるマリーは現実の生活も上の空となり、空想の中で皇太子と会話し、彼と共に生きる生活が続いた。

 

 そうして夏が過ぎ、ある日、母のヘレーネ・ヴェツェラ夫人がマリー・ラリッシュ・ワレルゼー伯爵夫人を連れて帰って来た。ラリッシュ夫人は皇后エリーザベトの姪にあたる人物で、皇后からも可愛がられており、ルドルフとも親しかった。
 マリーは早速ラリッシュ夫人から皇太子の噂を聞き出そうとし、そんなマリーの心の秘密はすぐに世慣れた伯爵夫人の知るところとなった。
 ラリッシュ伯爵夫人を通じてやがては皇太子に手紙を渡せるようになるかもしれない…いや、ひょっとしたら会えるようになるかもしれない…。マリーの胸は高鳴った。
 当時ルドルフはポーランドの美しい伯爵夫人に夢中になっていたが、それに嫉妬した皇妃が表立って騒ぎ立てたため、うんざりしていた。
 ラリッシュ伯爵夫人はルドルフをつかまえて、マリー・ヴェツェラという美しい少女があなたに夢中になっている、と告げた。ルドルフはプラテルで見た美少女を思い出し、ラリッシュ伯爵夫人に、彼女の事は忘れられないでいる、そのうち合わせてください、と頼んだ。
 ルドルフにとって、17才にしかならない美少女が自分を熱愛していてくれるという話はとても新鮮で、自分の中で死んでいた何かが甦るような気がした。しかしルドルフは公務で忙しく、いつマリーい会えるか、目途はつかなかった。
 一方、マリーはラリッシュ伯爵夫人から皇太子の言葉を聞き、しばし胸は喜びではち切れそうになった。しかしそれも長くは続かず、程なくマリーの心はもっと先へ進みたいという飽くことのない恋のエネルギーでじりじりとするようになった。

 その頃、ルドルフの身に重大な事件が起こった。ルドルフにはジャン・サルヴァドル大公という仲良しの従兄弟がおり、よく一緒に自由主義的な理想を熱く語って楽しい時間を過ごしていた。しかしジャン大公はルドルフと違ってただ理想を語るだけではなく実行力を持っていたため、皇帝は彼を警戒し、ルドルフにジャン大公とつきあう事を禁じていた。
 ルドルフは気にせず、こっそりと会っていたが、ジャン大公は本当に自由主義者による謀反を企て、ルドルフを首領に担ぎ上げて実行に移そうとしていた。それに気がついた時には謀反軍となるべき血気盛んな将校たちに囲まれてしまっており、真っ蒼になったルドルフは激怒した後、へなへなと椅子にくずおれ、「できない…」と力なく呟いた。
 ジャン大公はルドルフに失望し、二人の仲はこれで終わってしまった。ルドルフも自分自身に失望した。…自分は傾きつつあるこの帝国を何とかする才覚も勇気もない。こんな意気地なしの自分がこのまま生きていて、一体何になるのだろうか…。
 落ち込み、死が身近に感じられて来たルドルフは、また女性との情事に逃げ込んだ。遊び仲間のホヨス伯爵が紹介してくれたマリンカというロシアの歌姫に慰めを見出し、しばし彼女に夢中になった。
 マリーはこのところ皇太子と顔を合わす事もなく、ラリッシュ夫人と二人きりになる機会もなく、皇太子との仲が進まない事に焦燥感を感じていた。そんな時、マリーはプラテルを姉と散歩している時に、マリンカと話している皇太子に出くわした。

 ルドルフはそろそろマリンカにも飽きてきており、次なる麻薬としてマリーに接近する事にした。そして「ぜひお会いしたい。」と書いた手紙をマリーに届けさせた。マリーは天にも昇る心地だったが、まだ娘であるマリーは一人で皇太子に会いに行くわけにはいかなかった。
 母親たちは結婚前の娘に傷がつかないように厳しく監視しており、マリーの母ヴェツェラ夫人もマリーを一人で外出させる事はなかったのである。たとえ相手が皇太子であっても、日陰の存在になる事をヴェツェラ夫人が許す訳はなかった。しかも頼りになるラリッシュ伯爵夫人はウィーンを離れた自宅に帰っていた。
 マリーはじりじりしながら、少し待ってください、と皇太子に返事を書き、ラリッシュ伯爵夫人には、早くウィーンに来てくれるようにと手紙を書いた。
 やがてウィーンに戻って来たラリッシュ伯爵夫人はルドルフと連絡をとった後、しばらく買い物や散歩の相手としてマリーを貸して欲しい、とヴェツェラ夫人に頼んでマリーを連れ出した。そしてグランド・ホテルに入り、裏口からこっそり出て行くと、そこにはルドルフが差し向けた名物御者ブラトフィッシュの馬車が待っていた。そして二人はホッフブルグ宮の裏口で降ろされ、ルドルフの従者ロシェックの案内で皇太子の居間へ通された。 
 初めて憧れの皇太子と対面したマリーはうれしかったが、何とも言えない不安もまた同時に感じた。皇太子はマリーの全身を熱く吸い付くような視線で眺め回したのである。
 やがてルドルフはラリッシュ伯爵夫人と共に席をはずし、ひとりぼっちになったマリーはルドルフの机の上にどくろとピストルが置いてあるのを見つけた。…まるでハムレットだわ、きっといつも死が身近にあるのね、あの方には…マリーの心はルドルフの苦悩を思って痛んだ。そして何とかして慰めて差し上げたい、と心から願った。
 戻って来たのはルドルフ一人だけで、マリーはルドルフと二人きりになった。そしてルドルフはいつも通りの手順でマリーを情事に誘い込もうとした。しかしルドルフはマリーの純粋さとあまりに真っ直ぐな自分に対する愛情に打たれ、軽率に手を出す事ができなくなってしまった。彼を通り過ぎて行った数多くの女たちと違い、マリーはルドルフの心をつかんでしまったのである。
 ルドルフはマリーといると、何とも言えない幸福感に包まれた。そして別れ際にはマリーと離れてしまう事が悲しくて、子供のように泣き出してしまった。

 

 再びラリッシュ夫人に連れられてホッフブルグに行った時、ルドルフはすぐに打ち解けていろいろな事を楽しそうに話し、二人の幸せな時間はアッという間に過ぎて行った。
 しかし次に劇場で顔を合わせた時はルドルフは皇妃や皇女たちと一緒だった。ルドルフに妻がいる事は知っていたにもかかわらず、ルドルフに寄り添う皇妃の姿を見たマリーは大変なショックを受けた。二人がどんなに愛し合っていても、二人の間には越えられない大きな溝が横たわっているのだ、と思い知ったマリーは、家に帰って泣き明かした。
 それからもルドルフは忙しく、なかなかマリーに会えなかった。やっと会えたのは、ホッフブルグではなく、プラテルでだった。ルドルフの顔色は悪く、頭痛に悩まされている事、いつもスパイにつけられ監視されている事を語った。マリーは何とかルドルフの苦痛を和らげてやりたいと思い、あらん限りの愛情で慰めた。別れ際に二人は初めて接吻した。

 ルドルフの健康状態はどんどんと悪くなっていき、心配したエリーザベト皇后は侍医のヴィーデルホッファー博士にルドルフの診察を依頼した。そして診断の結果、もともと同族結婚を繰り返したせいで虚弱な神経を持っているルドルフには多忙な公務から離れて休息が必要だ、という事になり、皇妃や娘と共に静養に行く事が決定された。
 マリーはまたしてもルドルフと遠く離れてしまう事、静養には皇妃が一緒である事を嘆き、ルドルフの前でも涙が押さえられなかった。そんなマリーをルドルフは慰め、マリーはいよいよルドルフにとって愛しい存在となっていった。二人はシェーンブルンを散歩したが、変装した警察官につけられているのに気がついた。二人の仲はもはや宮廷の知るところとなっていたのだった。 

 翌1889年1月13日、戻って来たルドルフとマリーは再会した。ルドルフの不在に耐え続けたマリーは涙を見せまいとしたが耐えられず、泣きながらルドルフの胸に倒れ込んだ。そんなマリーに愛しさがこみ上げ、ルドルフは理性を失くした。そして二人は初めて結ばれた。
 もうマリーと共に生きるしか道はないと悟ったルドルフは、許可される可能性はほとんどないと知りながら、最後の望みの綱として、ローマ法王に宛てて、ステファニー皇妃との離婚の許可を願い出た。未だ跡継ぎを作っていないステファニーに代えて、健康な血を入れる事ができる新しい妃を帝国に未来のために迎えたい、と法王に訴えたのだ。
 再びマリーをホッフブルグに招いた時、ルドルフはマリーに「死より後も愛によりて結ばれん」と彫り込んだ指輪を贈った。マリーもどこまでもルドルフについて行く決心をしていた。たとえ行き先が「あの世」であろうとも…。
 ルドルフが用事で席をはずした時、ルドルフの健康を心配したエリーザベト皇后がマリーの前に現れた。偶然出会った事には驚いていたが、皇后はマリーの事を知っていた。そしてマリーに好意を持ったようではあったが、あなた自身のためにはここへは二度と来てはいけない、ここは人を圧殺する場所なのです、とマリーに忠告を与えて去って行った。
 二人の仲を知っているのは宮廷や皇后だけではなかった。二人の事はウィーンの社交界で噂になっていた。皇妃の耳にも届いていた。プラテルで散策をした際には警察につけられていた。しかしそう言った事も、もはやルドルフにとってはどうでもいい事だった。もう彼にはマリーしかいなかった。




 1月26日は二人にとって、たくさん一緒にいられる楽しい日になるはずだった。ホッフブルグでの逢引の後、ドイツ大使主催のパーティーでも顔を合わせる事になっていたからだ。
 ローマ法王から返事が来ていないのは気がかりであったが、もし離婚が認められないようならば、皇太子としての地位を捨てて一市民としてマリーと幸せになる、とルドルフは努めて楽しげに語った。
 そこへロシェックがドアをノックする音が聞こえた。皇帝の副官から、話があるから部屋へ来るように、という皇帝の伝言が伝えられた。マリーには何でもない風を装いながらも、ルドルフは悪い予感を拭い去る事ができなかった。

 法王からの不許可の返事はルドルフにではなく、父である皇帝に届いていた。皇帝は、法王からの不許可の返事を伝え、まるで事務的な官僚のように、帝国の地位を脅かすようなスキャンダルは許さない、すぐにヴェツェラ嬢と別れるように、とルドルフに申し渡した。
 ルドルフは、それならば皇位継承者としての地位を捨てて一市民としてマリーと暮らしたい、と申し入れた。しかし皇帝はそのような事は絶対に許されない、どんな手段を使っても阻止する、と厳格に申し渡した。
 そして怒りに燃えるルドルフをなだめるため、民族主義の高揚によって帝国が分裂の危機に瀕している事、もし帝国が分裂すれば、弱く小さな国々は周りの強国から容易に攻められて取り返しのつかない事になるだろう、という事を、皇帝はルドルフに話した。そしてその重く尊い使命を再認識させ、自覚を促そうとした。
 しかしもはやそのような使命など、疲れ切ったルドルフには何の意味ももたなくなっていた。窒息寸前のルドルフには、自分が解放される事しか考えられなくなっていたのである。そして皇帝にとって大切なのは帝国の存続であり、息子の幸せなど皇帝の頭にはない、という事実に絶望した。その絶望の中で、ルドルフの腹は決まった。
 ルドルフはマリーと別れる話し合いをするから、もう一度マリーと会う機会を与えてくれ、と皇帝を欺き、皇帝の部屋を出た。
 そしてその夜のドイツ大使主催の舞踏会で、集まった人々の好奇の視線の中、ルドルフはマリーに、「マイヤーリングで狩猟をしましょう。」と言葉をかけ、二人はほんの少しだけ話をした。そしてそれぞれ別々にとても幸せそうに笑い、踊って最後の舞踏会を楽しんだ。もはや二人にはこの世で過ごす残された時間がわかっていたのである。 
 皇妃がドイツ大使の腕を借りてマリーの側を通り、マリーを見つめたが、マリーは他の女性のように礼儀正しく身をかがめて皇妃に敬意を表することもせず、真っ直ぐに立ち尽くしたまま、ルドルフを幸せにする事ができなかった皇妃をじっと見据えた。

 二日後、二人は途中でブラトフィッシュの馬車を降り、雪道を歩いてマイヤーリングの館に入った。その晩はホヨス伯爵やコーブルク公爵と晩餐をし、芸達者なブラトフィッシュの滑稽な笛を楽しんだ。
 次の日、ホヨス伯爵とコーブルク公爵は狩猟に行ったが、ルドルフは行かなかった。そしてマリーと二人で愛に満ちた時間を過ごした後、家族や友人に宛てて遺書を書いた。
 ルドルフは母である皇后に宛てて、亡骸はマリーと共にアラントの市民墓地に葬ってくれ、と遺言した。
 そしてその夜(1889年1月30日)、ルドルフはまず寝ているマリーを撃った。物音に驚いたロシェックが部屋の前に来た時、2発めの銃声が響いた。まだ館にいたホヨス伯爵も驚いて駆けつけ、二人で扉をこじ開けてみると、マリーが薔薇の花に覆われて寝台に横たわっていた。そして寝台の向こうには、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子であったルドルフが、右のこめかみを無残に打ち砕かれて横たわっていた。



 ルドルフの死はホヨス伯爵によってまず皇后にもたらされ、皇后から皇帝に伝えられた。皇帝は打ちのめされ、がっくりと長いすにくずおれた。しかしこんな時にあっても皇帝はやはり皇帝であり、案じたのは帝国の将来であった。まもなく皇帝はターフェ伯爵に事件の後始末を命じた。
 宮廷はまずルドルフの遺体をホッフブルクに運んだ。そして何とか事件の真相を隠蔽しようと、皇太子は心臓病で死亡したと発表した。しかし遺体の状態が噂となり、隠し通す事はできなくなった。そしてついには精神錯乱による自殺と発表した。単なる自殺ではカトリック教徒としての埋葬は許されないからである。そして苦心の末、やっとローマ法王から埋葬の許可を得た。
 葬儀は壮麗に行われ、遺骸はハプスブルグ家の先祖が眠るカプツィーナ寺院に葬られた。マリーと共にアラントの市民墓地に葬られたいというルドルフの最後の願いは叶えられなかった。

 一方、マリーの亡骸はそのまま30数時間もマイヤーリングの館に放置された。そして宮廷は母のヴェツェラ夫人がマリーの亡骸を引き取る事も拒否し、そればかりか、ヴェツェラ夫人は国外退去を命じられた。
 マリーの亡骸を引き取りに行ったのはヴェツェラ夫人の義兄シュトッカウ伯爵と弟のアレクサンダー・バルダッツィだった。マリーの亡骸は生きているように装わされ、マイヤリングにやって来た時と同じ帽子や外套を着せられた。そして両側から二人の伯父に支えられて、険しい雪の山道を馬車でハイリゲンクロイツの修道院まで運ばれた。
 その後、現地の大工があわてて作った棺に入れられて、荒れた天候の中、慌しく埋葬された。母のヴェツェラ夫人も兄弟たちも埋葬に参列する事はできなかった。
 すべては心中の事実が発覚するのを恐れた宮廷の指図であった。
 ずい分後になって、ヴェツェラ夫人はマリーの亡骸をウィーンに運ぶ許可を得たが、結局は棺と墓を新しくするにとどめた。そして娘のために礼拝堂を建てその霊を慰めた。
(終わり)






<マクミランのバレエ>

プロローグ (ハイリゲンクロイツの墓地


 マイヤリングにほど近いハイリゲンクロイツの修道院の墓地では、暴風雨の中、急ごしらえの墓穴に粗末な棺が慌しく下ろされていた。参列者はウィーンの名物御者ブラトフィッシュと故人の二人の伯父のみであった。あまりに無慈悲な埋葬に、ブラトフィッシュは涙をこらえる事ができなかった。




第一幕・第一場 (ホッフブルグ宮の大広間)


 ・・・・・オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子ルドルフとベルギー王女ステファニーの結婚式の列が通って行く・・・・・
 結婚を祝う舞踏会が開かれている。この政略結婚が気に入らないルドルフは仕方なく新婦と踊るものの、母である皇后エリーザベトに救いを求める眼差しを送るが、無視されてしまった。新婦ステファニーが気に入らないだけではなく、窮屈な宮廷の儀礼に飽き飽きしたルドルフは、以前の恋人で今は悪友となったラリッシュ伯爵夫人に悪戯の計画を打ち明け、そしてそれを実行に移す事にした。
 ステファニーの姉ルイーズは親友のコーブルク公爵の妻であるが、以前ルドルフと恋愛関係にあった事がある。ルドルフはステファニーをほったらかし、ルイーズを踊りに誘ったのだ。ルイーズは当惑するが、すべてを承知している悪友のコーブルク公爵は、笑って妻をルドルフの方へ押し出した。
 ラリッシュ伯爵夫人やコーブルク公爵はいかにもルドルフらしいこの悪戯に笑いをもらしていたが、帝国の宰相である保守政治家ターフェ伯爵は早速これを見とがめ、皇帝に注進した。ステファニーも傷つき、抗議の姿勢を示した。皇帝は非常識な振る舞いをしたルドルフを叱責し、皇后も息子に厳しい視線を投げかけた。まずい事になったと思ったコーブルク公爵は妻を引き取ってそっと去り、皇帝や皇后も冷ややかな態度でルドルフを残して去って行った。
 大事な公式行事の場で皇帝や皇后の不興を買ってしまったルドルフは立場がなくなってしまった。そして一人でひっそりしているところへラリッシュ伯爵夫人がやって来て、ヴェツェラ夫人とその二人の娘、ハンナとマリーを紹介した。姉のハンナは平凡だが、妹のマリーはルドルフ好みの美少女であった。
 ヴェツェラ夫人は男爵夫人と名乗ってはいるが、爵位をお金で買ったという噂もある人物である。気前よくお金をばらまき、ラリッシュ伯爵夫人のような宮廷に顔がきく人物にくっついているのだが、皇太子にも近づき、彼を利用して何とか上流階級に食い込もうと盛んに活動を展開しているのであった。
 彼女らに続いて、ハンガリーの4人の将校がルドルフを取り囲んだ。彼らは、自由主義者でハンガリーびいきのルドルフをうまく操って、ハンガリーの完全独立を達成しようとしているのだ。政治的な理想を語るのは好きでも謀反を起こす気など全くないルドルフは、自分を陰謀に引き込もうとする彼らから逃れるのに必死であった。
 やっと彼らが去ると、再びラリッシュ伯爵夫人がやって来た。ラリッシュ伯爵夫人は未だルドルフに未練があり、何とかよりを戻そうとするのだが、ルドルフにはそんな気はなかった。しかし気の弱いルドルフは手練手管で迫って来る夫人をきっぱりと断る事ができないで苦闘していた。
 そこへまたしてもルドルフを監視するターフェ伯爵がやって来た。程なく皇帝や皇后もやって来て、ラリッシュ伯爵夫人との事で、ルドルフはまた皇帝から叱責された。そして無理やりにステファニーの手を取らされてしまった。ラリッシュ伯爵夫人も仕方なく夫と腕を組まされ、ルドルフから引き離された。
・・・・・ホッフブルク宮の廊下。ルドルフを取り囲むハンガリーの将校たち。ルドルフを思い通りに操ろうと迫って来る。皇帝やターフェ伯爵が来ると服従の意を示しながらおとなしくしているが、通り過ぎてしまうと、またルドルフと取り囲む。必死で逃げるルドルフ。・・・・・


第一幕・第二場 (エリーザベト皇后の部屋)


 やっと舞踏会が終わり、部屋に帰った皇后はお気に入りの侍女たちとくつろいでいた。部屋には今なお美しい皇后をより美しく見せるドレスがあふれるように飾ってあった。
 そこへ暗い面持ちのルドルフがやって来た。侍女たちは遠慮してみんな下がってしまい、皇后はルドルフと二人きりで取り残されてしまった。ルドルフは母である皇后に政略結婚の不満を訴え、同情を買おうとするが、皇后は本を読んでいるふりなどして、取り合わなかった。 
 ルドルフの結婚は個人的なものでも、一家族のものでもなく、帝国のためのものなのだ。皇帝が決めた結婚相手について、ルドルフ本人のみならず、皇后であるエリーザベトであっても皇帝に意見することはできない。また、そんな面倒には関わりたくない。エリーザベトは自分自身がどうやってこのハプスブルグ家の宮廷から逃げようかと思い悩んでいるくらいなのだ。
 なおもルドルフはもだえ苦しむ様子を見せるが、皇后はそんな息子を突き飛ばした。ショックを受けるルドルフの姿に、息子への愛情がないわけではない皇后は気がとがめたが、しかしやはりこの問題に口をはさむ事はできない、という思いは変わらなかった。ルドルフはあきらめ、部屋を出て行った。
・・・・・またしても廊下で将校たちがルドルフを虎視眈々と待ちうけている・・・・・


第一幕・第三場 (ステファニーの寝室)


 新郎ルドルフを待ちくたびれているステファニーの気を引き立たせようと、召使たちが美しい夜具をステファニーに見せているが、焦れてしまったステファニーの機嫌は悪かった。召使たちはそんなステファニーの事やルドルフが来ようとしない事をひそひそと噂していた。やがてステファニーは初夜のための服装に着替え、女官たちが召使を下がらせたところに、ルドルフがやって来た。
 ルドルフは持って来たどくろをステファニーに押し付け、怖がらせた。更にピストルを出して天井に向かって空砲をぶっ放した。
思いもしなかったルドルフの振る舞いにステファニーは嫌がり、恐れをなした。更にステファニーの受難は続いた。ベルギー王女であり、今やオーストリア・ハンガリー帝国の皇妃となったステファニーに対し、ルドルフはまるで娼婦に対するような手荒く奔放な性を求めたのだ。恐怖さえ感じ、抵抗し、逃げ出そうとするステファニー。(性病から来る)激しい頭痛に襲われながらも暴力的な振る舞いをやめないルドルフ。皇太子夫妻の政略結婚による初夜は、こうして過ぎて行った。




第二幕・第一場 (いかがわしい酒場)


 ルドルフは一番気に入っている愛人ミッツィー・カスパールがいる馴染みの酒場にステファニーを連れて現れた。退廃的な服装をした娼婦たちとその客たちの入り乱れる様子にステファニーは目を丸くした。
 ルドルフとステファニーを連れて来た御者のブラトフィッシュは芸達者な男で、娼婦や客たちと共に踊りだした。こういう雰囲気が性に合っているルドルフはミッツィーと共に大いに楽しむが、ブラトフィッシュやミッツィーの歓待にもかかわらず、ステファニーは嫌悪感をあらわにするばかりだった。ステファニーに腹を立てたルドルフは、帰れと命じ、ステファニーはブラトフィッシュに送られて店を出た。
 酒場は陽気に盛り上がった。ミッツィーが踊る。己が世界をここに見出したルドルフはご満悦だ。やがてハンガリーの独立主義者たちも踊りだし、そこに酒場の男たち、ついにはルドルフも加わって雰囲気はますます盛り上がって行った。
 そんな興奮の中、独立主義者たちは政治ビラを配り始めた。そこには帝国に自由主義的な改革を求め、政府を批判するルドルフの政治的意見が掲載されていた。そして更に将校、ミッツィー、酒場の男たち、ルドルフの踊りは続いて行った。
 そこへ警察がなだれ込んで来た。この手入れで売春婦たちは捕まって連行されたが、将校たちはさっさと隠れてしまった。ルドルフもミッツィーと店の奥に隠れた。警官たちはルドルフたちが隠れているのは知っていたが、知らぬふりをして上司に報告すべく立ち去った。
 やがて警官たちが行ってしまったのを確認してルドルフとミッツィーが戻って来た。二人きりであるのを見定めたルドルフはピストルを取り出し、一緒に死んでくれとミッツィーに迫った。もともと神経過敏な上に政治的にも圧迫され、家族関係にも絶望し、それをまぎらすための放蕩からは性病に感染し、公的な立場にも窒息しそうになっているルドルフは、死によるすべてからの解放に憧れながらも、一人で死ぬ勇気はなかったのである。
 ミッツィーは本気にせず、なおもしつこいルドルフをいやがって振り払っていたが、そこへルドルフを監視するターフェ伯爵が警察から報告を受けてやって来た。ルドルフは慌てて隠れた。
 ミッツィーは愛想よくターフェ伯爵を迎え、伯爵に、政治ビラを渡した。ルドルフの危険思想の証拠をつかんだ伯爵は満足し、協力さえしてくれたミッツィーに腕を貸し、共に店を去った。


第二幕・第二場 (店の外)


 ルドルフが店の外へ出ると、ラリッシュ伯爵夫人の馬車と出くわした。ルドルフは夫人の馬車へ近づいた。偶然を装ってはいたが、何とかルドルフの気を引きたいラリッシュ伯爵夫人は、美少女マリー・ヴェツェラをルドルフに会わせるべく、待ち伏せしていたのだ。ルドルフはマリーとの再会に大満足し、上機嫌で帰って行く二人の女性を見送った。

第二幕・第三場 (ヴェツェラ邸)


 マリーが母のヘレーネ・ヴェツェラ夫人と過ごしているところへ、ラリッシュ伯爵夫人がやって来た。マリーが皇太子の肖像画を熱愛を込めて眺めていると、ラリッシュ伯爵夫人が肖像画を取り上げてからかった。そして運命を占ってあげる、といかさまカード占いを始めた。そして次に皇太子に愛されるのはあなただとカードに出ているわ、と言い、マリーを有頂天にさせた。
 ラリッシュ伯爵夫人はうっとりしているマリーにルドルフに宛てた手紙を書かせ、預かって帰って行った。
 ヴェツェラ夫人は、娘が皇太子に夢中になっているのはわかってはいたが、皇太子はウィーン中の女性の憧れであり、どうせ子供らしい憧れだろうと思っていた。自分の娘に何が起ころうとしているか、ヴェツェラ夫人はまだ何も気づいていなかった。


第二幕・第四場 (ホッフブルグ宮の大広間)


・・・・・大広間へと続く廊下で将校たちと楽しそうに談笑するハンガリー贔屓のエリーザベト皇后。そこへベイ・ミドルトン大佐が登場し、皇后はうっとりと大佐の腕を借りて広間へ入場する。・・・・・
 皇帝の誕生日の祝賀会が開かれている。ターフェ伯爵がミッツィーから渡された政治ビラをルドルフに突きつけた。ルドルフは真っ蒼になるが、ベイ・ミドルトン大佐がふざけてその場の緊張を解き、笑いをもたらした。
 そして集まった人々が姿を現した。ゾフィー大公妃、ステファニー皇妃、ルドルフの姉ギーゼラ大公女、妹のマリー・ヴァレリー大公女、ラリッシュ夫妻等々…。皇帝はお気に入りの女優カタリーナ・シュラットに腕を貸して現れた。
※ 実際はこの頃にはフランツ・ヨーゼフ皇帝の母であるゾフィー大公妃はとうに亡くなっています。また、ステファニー皇妃は妊娠中という設定になっていますが、1889年にはルドルフとステファニーの娘エリーザベトは5才になっているはずです。
 エリーザベト皇后は誕生祝いにカタリーナ・シュラットの肖像画を皇帝に贈り、皇帝は満足げにシュラットと寄り添っていた。皇后もベイ・ミドルトン大佐と腕を取り合っていた。こうした皇帝と皇后の有様がルドルフには耐えられなかった。
 やがて花火があがり、皆は見物しようとバルコニーへ出て行った。その間に皇后はベイ・ミドルトン大佐と仲むつまじく踊り、親しげに抱き合った。それをルドルフが見とがめ、当惑した皇后とベイ・ミドルトン大佐はその場を立ち去った。悩み苦しみ、その場に倒れ伏したルドルフを抱き起こしたのはラリッシュ伯爵夫人だった。
 やがて花火も終わり、人々が戻って来た。そしてシュラット夫人の独唱が始まった。("Ich Scheide"〜I am Leaving〜)
来たりて去るは世の習い。再会より別れもまた多し。喜びて希望を抱き、そして苦しみ悩む。ついに別れに至るなり。
さらば、いざ、別れん… (DVD「マイヤリング」の字幕より)
 ルドルフはエリーザベト皇后にベイ・ミドルトン大佐との事を抗議しようとしたが、冷たくあしらわれてしまった。がっくりしているルドルフに、ラリッシュ伯爵夫人が陽気に寄って来て、マリーからの手紙を見せびらかした。伯爵夫人が渡してやると、ルドルフはとてもうれしそうだった。
・・・・・ハンガリーの将校たちと皇后、そしてベイ・ミドルトン大佐・・・・・


第二幕・第五場 (ルドルフの居室)

 ラリッシュ伯爵夫人の仲立ちにより、もうすぐマリーがこっそりと裏口からルドルフを訪ねて来る事になっていた。しかしその日も直前まで公務に忙しかったルドルフは疲れ切っていた。ピストルを手にとり、どくろを頭にあてがい、いつしかまた心は死へと傾いていた。
 そこへブラトフィッシュに連れられてマリーがやって来た。ルドルフがマリーの輝くばかりの若さと美しさに見とれていると、マリーはどくろを見つけて怖がりもせずにもてあそび始めた。同じような嗜好性を持つマリーに燃え始めたルドルフはマリーを抱きしめて夢中で愛撫したが、マリーは突然ルドルフを押しのけてピストルの方へ近づいて行った。そしてピストルをルドルフに突きつけ、脅えるルドルフに押し当てた後、天井に向かって空砲を撃った。
 情欲に暴力が加わってますます倒錯した性にのめり込んだルドルフはマリーと共に燃えた。マリーは性的にも奔放で、それでいてルドルフの思いのままにはならず、ルドルフは、激しい頭痛に襲われながらも、マリーとの性に溺れた。



第三幕・第一場 (狩猟地)


 宮廷の人々が連れ立って真冬の狩を楽しみに森へやって来た。しかし人間関係は相変わらずで、皇帝はシュラット夫人と、皇后はベイ・ミドルトン大佐とペアになっていた。ルドルフとステファニーの仲も相変わらずうまく行っておらず、そこへラリッシュ伯爵夫人が割り込んだ。晴れやかな人々の中で、ルドルフは顔色も悪く、所在なげであった。
 そこへハンガリーの独立主義者である4人の将校たちがやって来た。彼らの登場と共に元気を取り戻したルドルフは、将校たちとふざけて、皇帝とシュラット夫人を取り囲んで動けないようにしてしまった。皇帝は怒ってルドルフを叱責しようとしたが、狩が始まった事を告げられ、皇帝が振り向いたその時、ルドルフが猟銃を暴発させてしまった。弾は危うく皇帝をそれ、すぐ側にいた従者を直撃して死亡させてしまった。
 人々の疑いの視線の中、ルドルフは蒼白になった。
・・・・・先祖の肖像画を見上げながら歩くフランツ・ヨーゼフ皇帝。帝国の将来を案じ、苦悩している・・・・・


第三幕・第二場 (ルドルフの居室)


 皇帝暗殺未遂の噂をたてられたルドルフは、正気を保つ事ができず、モルヒネを打ってぐったりとしていた。そこへラリッシュ伯爵夫人がやって来て、注射器をとり上げ、ルドルフを抱き起こし、慰めようとした。しかしルドルフは生きる屍のようになっており、夫人の力ではどうする事もできなかった。ラリッシュ伯爵夫人はルドルフを抱きしめて泣き、ルドルフも夫人にしがみついたまま、立ち上がる事もできなかった。
 そこへ皇后がやって来た。皇后はルドルフとステファニー皇妃との間に割り込もうとするラリッシュ伯爵夫人を許さなかった。ラリッシュ伯爵夫人はルドルフが心配で仕方がない、何とか支えてあげたい、と皇后に訴えたが、皇后は毅然としてラリッシュ伯爵夫人に出て行くように命じて去って行った。
 ラリッシュ伯爵夫人はマリーを連れて来た。そしてマリーにルドルフを託して去って行った。マリーは抜け殻のようなルドルフを何とか慰めようと優しく愛撫した。マリーによって何とか我に返ったルドルフだが、もはや生きて行く力は残っていなかった。ルドルフはマリーにピストルを持たせた。そして苦悩に悶え、恐れおののきながらマリーに共に死んでくれるように頼んでみた。
 マリーは何物をも恐れぬ若さを持っていた。そしてルドルフを熱愛していた。ルドルフが望むのであれば、死の伴走者になる事も厭わなかった。
 こうしてルドルフとマリーは共に死ぬ決心をした。



第三幕・第三場 (マイヤリングの狩猟館)


 ルドルフは親友のコーブルク公爵とホヨス伯爵と狩をするという名目でマイヤリングにやって来た。夜、二人の親友とテーブルを囲むが、あおるように酒を飲み続け、ついには心配した二人から酒を取り上げられてしまった。やがて気分が悪いから、とルドルフは二人を退室させた。 
 そこへマリーがブラトフィッシュに連れられてやって来た。ルドルフはブラトフィッシュに芸を命じ、ブラトフィッシュはいつものように軽快で滑稽な踊りを踊り始めた。しかし、死を前にした二人には、もはや慣れ親しんだ楽しい芸も目に入らなくなっていた。ルドルフはブラトフィッシュに芸を中断させ、その労をねぎらって抱きしめ、退室させた。何か様子がおかしい事に気がつきながら、ブラトフィッシュは退室した。
 二人きりになったルドルフとマリーは生の最後のエネルギーを使い切ってしまうかのように、濃密な愛の時間を過ごした。そして奔放に愛を交し合った後、マリーはルドルフをピストルの方へと誘った。恐れを知らぬマリーに支え導かれ、死の恐怖を振り払いながら、ルドルフはじりじりとピストルへと近づいた。そして衝立の向こう側のベッドへと二人は消えた。その直後、一発の銃声が響き渡った。 
 衝立から放心したルドルフが現れた。そして自分のこめかみにぴったりとピストルをあて、引き金を引こうとしたが、そこへ銃声に驚いた従者のロシェックとコーブルク公爵、ホヨス伯爵がかけつけて来た。ルドルフは何でもない、と彼らを追い払い、再び衝立の向こう側へと走り去った。そして2発目の銃声が響き、衝立と共にオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子であったルドルフが血に染まって倒れて来た。
 驚いたロシェックや二人の親友が駆けつけた時にはもうルドルフの息は絶えていた。ふと見ると、ベッドの上にはマリー・ヴェツェラが至近距離から頭を撃ち抜かれて死んでおり、その亡骸には薔薇の花が手向けられていた。

 


エピローグ (ハイリゲンクロイツの墓地) 


 暴風雨の中馬車が着き、外套や帽子を着せられて、生きているかのように座らせられていたマリー・ヴェツェラの亡骸が二人の伯父に両側から支えられて降ろされた。心中の事実を隠すため、皇太子の側にあってはならなかったマリーの亡骸は、宮廷の命令によって心中発覚の直後に皇太子の亡骸から引き離され、30数時間放置された後、雪の険しい山道を通って墓地まで運び込まれて来たのであった。
 ブラトフィッシュはマリーの棺にくちなしの花を手向けた。棺は地面が凍てつく中、急いで掘った不完全な穴に下ろされた。
 マリーの母ヴェツェラ夫人はマリーの亡骸を引き取る事を許されず、ウィーンからの退去を命じられていた。参列したのは宮廷の許可を得てマリーの亡骸を引き取った二人の伯父、ヴェツェラ夫人の義兄シュトッカウ伯爵と夫人の弟のアレクサンダー・バルダッツィ、そして御者のブラトフィッシュのみであった。
 埋葬が終わり、修道院長と墓堀人夫たちが去って行った。あまりに無残な事の顛末。そして最後までルドルフを愛し、つき従ったマリーの亡骸に対する宮廷のあまりに無慈悲な仕打ち。宮廷の論理からはほど遠いところにおり、ルドルフとマリーを近くから見守っていたブラトフィッシュは、慟哭した。
(終わり)





◇ マイヤリング事件
◇ ハプスブルグ家とは?
◇ ルドルフを追い詰めたもの
◇ ルドルフをめぐる女性たち
◇ クロード・アネの小説と映画について
◇ マクミランのバレエについて
◇ 最後に一言


マイヤリング事件


 「うたかたの恋」(原題マイヤリング)はもともとクロード・アネが1930年に発表した小説ですが、訳者の岡田真吉氏によれば、実話小説とも言うべきもので、1889年に実際に起こったオーストリア・ハンガリー帝国皇太子ルドルフの変死事件に基づいています。 
 クロード・アネの小説は(それを基にした映画、マクミランのバレエも同様)、皇太子ルドルフと少女マリーの心中事件として扱っていますが、実際は心中であったのか、それとも暗殺であったのかさえわかっていないそうです。事件の発覚直後から宮廷の徹底的な隠蔽工作が行われ、証拠が散逸してしまったのです。そして関係者がそれぞれ好き勝手な事を証言するものですから、憶測が憶測を呼び、今も事件について正確なところはわかっていない、という事です。
 確実なのは1889年1月30日の朝、ウィーンの森の一角にあるマイヤリングの狩猟館で、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子ルドルフが17才の少女マリーと共に遺体で発見された事のみです。仲晃氏は「うたかたの恋の真実」で、いろんな資料を基に事件の真相らしきものを追っています。興味のある方はぜひ読んでみてください。
 



ハプスブルグ家とは?


 ハプスブルグ家は欧州の王室の中でも名門中の名門であり、六百数十年にも渡って欧州で主要な役割を果たしてきました。歴史上に現れて来るのは11世紀末頃からで、中でもルドルフ四世が1273年に神聖ローマ皇帝に選出された頃から力を持つようになってきました。そしてこの頃からオーストリアを主要な領土とするようになります。(もともとの領土はスイス付近にあったらしいです。)
※ 神聖ローマ帝国・・・・・(962年〜1806年)キリスト教を国教としたローマ帝国、西ローマ帝国の流れをくむドイツを中心とするキリスト教世界における正統性を備えた国家。しかし実際は諸侯割拠の分封状態で、国家としての実態はなかった。むしろ、古い権威にしがみつき、ローマ教皇を手中にするために、神聖ローマ皇帝はイタリア経営に腐心せねばならず、それがドイツとイタリアの中央集権化を遅らせ、フランスやイギリスのような統一国家の形成を妨げたとも言える。マリア・テレジアの時代、ヴォルテールがこの帝国を評して、神聖でもなければ、ローマ的でもなく、帝国ですらない。」と皮肉った(「黄昏のウィーン」須永朝彦/著 参照)
 以後も神聖ローマ皇帝の地位は諸侯たちの思惑を受けて転々としますが、1438年にフリードリヒ3世が再び神聖ローマ皇帝の地位に就きます。そして以後、神聖ローマ皇帝の帝位はハプスブルグ家が世襲する事となります。
 そしてその息子のマクシミリアン一世の時代に政略結婚により、ハプスブルグ家は飛躍的に領土を広げていきます。ハプスブルグ家は戦争に強いとは言いかねる王家なのですが、「ほかの国は戦争をするがよい。だが、幸多きわがオーストリアよ。汝は結婚するがよい。」というスローガンの下に、その後も政略結婚を通じて領土を広げていきます。
 
 須永朝彦氏の「黄昏のウィーン」によると、マクシミリアン一世の孫カルロス一世の時代には、「東はベーメン(今のチェコあたり)・オーストリアから、西は低地地方(今のオランダなど)そしてスペイン及び東インド・新大陸の植民地・両シチリア王国まで、『太陽の没することなき』と形容された未曾有の領地を一手に収め…」た、という事です。
 ハプスブルグ家の政略結婚と言えば、有名なのは18世紀のマリア・テレジア女帝です。戦争もしながら、16人の子供(娘11人、息子5人)を産み、あちらこちらの王家と縁組してオーストリアの安泰を図りました。一番有名なのは、フランス王家へ嫁し、革命の最中に非業の死をとげたマリー・アントワネットですね 
 女帝本人は恋愛結婚で、夫婦は終生仲睦まじかった、という事です。

 神聖ローマ帝国は1806年ナポレオンによって解体されますが、ナポレオン失脚後のウィーン会議の結果、ドイツ連邦が結成され、オーストリアはその議長国として主導的な役割を獲得します。メッテルニヒの活躍により、依然としてドイツの盟主としての地位を保全する事に成功したのです。
 しかし1848年、フランスで再び革命が起こって第二共和制が成立し、その影響がオーストリアにも及んで革命がおこります。その中で国民の信頼を失った皇帝フェルディナンド一世は退位し、甥のフランツ・ヨーゼフ(ルドルフの父)が即位します。
 革命はまもなく鎮圧されますが、この後のオーストリア帝国は時代の流れを無視して、ひたすら保守反動の道をひた走ります。19世紀は産業革命が進行した時代であり、自由主義的な革命を経て、民族運動も盛んになって来た時代でした。しかしオーストリア帝国は、
 「19世紀的官僚に支えられた18世紀的絶対主義国家という奇妙な概観を呈するに至った。その上に、この国は十数種もの異なる民族を抱える類のない多民族国家なのであり、いかように中央集権化を謀ろうとも、成果が得られぬことは目に見えていた、と申すものである。21才のフランツ・ヨーゼフが双肩に担ったのは、双頭どころか、八つか十ほどは頭がありそうな半身不随の幻獣のような帝国だったのである。」(「黄昏のウィーン」須永朝彦/著 新書館より引用)
という有様でした。
 やがてオーストリア帝国は1859年のイタリア独立戦争に敗れ、そして1866年にはビスマルク率いるプロイセンとの普墺戦争に敗れ、イタリアにおける領土を失い、ドイツ連邦も解体されて、ドイツの盟主としての地位も失います。そしてプロイセンを中心としてドイツは統一国家となり、オーストリア帝国はドイツから疎外されてしまいました。
 後に残ったのはドナウ川流域の多民族国家でした。
 しかしこれとて平穏無事というわけにはいきませんでした。戦争に負け続けたオーストリアにはもはや独立を求める諸民族を完全に押さえ込む力は残っていませんでした。そこでマジャール人のハンガリーと手を結ぶか、小国に分かれてはいるが、足せば数が多いスラブ人と手を結ぶかして、一定程度民族主義に理解のあるふりをして帝国の延命を謀るしか道はなくなってしまいました。
 そして結局はハンガリーを選んだオーストリア帝国はハンガリーに完全な自治権を認め、ハンガリーは憲法・議会・政府を持つ王国となりました。そしてフランツ・ヨーゼフ帝がハンガリー王に即位する事で、オーストリア・ハンガリーの二重帝国が成立しました(1867年)。
 しかしこれによってハンガリーを味方につける事はできましたが、各地に枝分かれしたスラブ民族が犠牲を強いられる事となり、汎スラブ主義が高揚し、そこへスラヴの盟主ロシアが絡んで解体へと追い込まれていく事になります。

 ルドルフの死後、フランツ・ヨーゼフ帝の甥フランツ・フェルディナンド(弟カール・ルードヴィヒの息子)が皇太子となります。しかしこのフランツ・フェルディナンドも超保守主義者の皇帝とうまくいきませんでした。 
 ルドルフと違って気力も実行力もあるフランツ・フェルディナンドは政治的にも正面きって皇帝と対立したようですし、ハプスブルグ家のタブーを破る貴賎結婚も反対を押し切って敢行しました。(とはいえ、妻のゾフィー・ホテックはスラヴ系で身分は高くないとはいえ、貴族です。ルドルフのように高級娼婦やタイトルに疑問のある男爵令嬢を愛したわけではありません。)
 
※ 貴賎結婚の禁止・・・・・ハプスブルグ家は王権神授説を採り続けた王家です。それは実質的に最後の皇帝とも言えるフランツ・ヨーゼフ帝に至るまで続きました。従って「聖別された高貴な王統」を維持しようとして、自分たちが劣っていると考える民族や身分の者との結婚を禁止したのです。しかしそのせいで同族結婚が繰り返され、血が混濁して血統が絶えたり、精神異常が現れやすくなりました。
 結局、皇帝と決定的に対立したまま、1914年、妻を伴ってサラエヴォ(ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都)を訪れた際、オーストリアに反感を持つセルヴィア(スラブ民族です。)の民族主義者によって夫婦共に暗殺されてしまいます。
 オーストリアはセルヴィアに宣戦布告しますが、そこへドイツ、ロシアが絡んできて、セルヴィアをこらしめるための小さな局地戦争のはずだったものが、あれよあれよと言う間にヨーロッパ全土を、そして更に世界中を巻き込んだ第一次世界大戦へと発展してしまいます。
 そしてその最中1916年フランツ・ヨーゼフ帝は86才でこの世を去り、フランツ・フェルディナンドの甥にあたるカール一世が即位しますが、この人が最後の皇帝となってしまいました。
 1918年、オーストリアは敗戦国となり、帝国内の諸民族は次々と独立、11月11日、オーストリアは共和国となり、ここにハプスブルグ王朝は終わりを告げました。

 もしルドルフ皇太子がマイヤリングで心中せず生きていたとしても、即位するのは58才まで待たされた事になりますし、フランツ・フェルディナンド同様に暗殺されていたかもしれません。母であるエリーザベト皇后も1898年にレマン湖畔でイタリア人の無政府主義者に暗殺されています。
 無事即位したとしても、おそらくは最後の皇帝としての気苦労がのしかかるだけでした。歴史の流れの激しさは、恐ろしい渦巻きとなって個人のみならず、古い統治スタイルそのものを押し流して行ったのです。
 さて、オーストリア帝国の領土であったところは、現在は数多くの小国に分かれています。ナポレオンの外相タレーランは、「オーストリア帝国を解体するのはご自由ですが、一度解体したら、この地域を二度と統合する事はできません。」とナポレオンに進言したと言います。これらの国々の運命は、心配されていた通り、強国同士の対立や介入によって、未だに不安定な状況です。




ルドルフを追い詰めたもの
 
  ・ 家族関係
  ・ 政治的境遇
  ・ ハプスブルグ家の血の混濁
  ・ 古い統治スタイルを押し流す時代の流れ


 アネの小説やマクミランのバレエにも描かれているように、ルドルフ皇太子は家庭的に恵まれていませんでした。そしてそれを紛らそうと政治にのめり込み、それがまた父である皇帝との対立に発展し、更にルドルフを圧迫する要因となりました。その憂さ晴らしに、次から次へと女性たちと関係を持ちましたが、いかがわしい女性とも関係を持ったために性病に感染し、頭痛や欝状態に悩まされるようになったのだ、と言います。そしてモルヒネなどの薬を常用するようになり、麻薬中毒であったという説もあります。

 まず家族関係ですが、ハプスブルグ家のしきたりによって、生まれたばかりのルドルフは母親のエリーザベト皇后から引き離され、皇帝の母親であるゾフィー大公妃によって育てられました。(ハプスブルグ家の慣例であったそうです。)
 そしてゴンドルクールという軍人が教育係としてつけられましたが、この教育がスパルタなど通り越して有害無益とも言えるひどいもので、幼いルドルフのベッドの側で空砲を撃って、泣いて怖がるルドルフに、「殿下、軍人たるもの、これくらいで驚いてはなりませぬぞ!」と叱咤激励した、という話も残っています。その結果、ただでさえ神経過敏なルドルフは、情緒不安定な青年に成長したと言われています。 
 成長したルドルフは、一時は自由主義的な物の考え方やハンガリーへの愛情などの共有によって母のエリーザベト皇后と良い関係を持った時期もありました。また、威厳を持って勤勉に帝国を支える父親を尊敬していた時期もありました。  
 しかし母である皇后は、姑であるゾフィー大公妃と折り合いが悪く、大公妃が代表する宮廷の堅苦しい儀礼から逃げ出すように、旅行ばかりする生活を送っていました。それはゾフィー大公妃の死後も続いたため、次第に母との関係は希薄になっていき、最後はほどんど心が通わなくなっていました。
 また、旧態依然たる方法で帝国に君臨し、何一つ変えようとしない父親の無策に異議を唱えた事から、父親とは抜き差しならない対立関係へと突き進みました。 
 そして妻はハプスブルグ家伝統の政略結婚で押し付けられたベルギー王女のステファニーです。この皇妃は、クロード・アネの小説では嫉妬深くてルドルフを苦しめる女性のように描かれていますが、「うたかたの恋の真実」を読む限り、そんなに悪い人でもなく、ただルドルフとは合わなかっただけのようです。むしろルドルフから性病を移されたせいで妊娠が不可能となり、跡継ぎができなくなったために宮廷で肩身の狭い思いをして、彼女もまた政略結婚の犠牲者だったのではないでしょうか。

 政治的には、前述のように、父親との対立がありました。ルドルフは自由主義者たちとも親しく、自由主義的新聞に匿名で政府を批判する記事を書いた事もあります。(マクミランのバレエに出て来る政治ビラは、このあたりの事を表現しようとしているものと思われます。)
 しかも、民族の独立を画策する自由主義者たちがルドルフを担いで革命やクーデターを起こそうとする動きもあり、親しい人物でも気を許せない状況でありました。(ルドルフ自身も陰謀に加わっていた、という説もありますが。)
 クロード・アネの小説にも登場するジャン・サルヴァドル大公がそういった人物の一人で、ルドルフの死の直後ジャン・オルトと名を変えて皇籍を離脱し、船で旅に出ますが、アフリカで船が座礁して命を落としたと言います。偶然の事故であったかは疑問の残るところです。この線から考えると、ルドルフも暗殺された可能性が確かにありますね。
 ルドルフ自身は「共通の外交政策、共通の通貨、統合された軍隊を持ち、一人の元首のもと、ヨーロッパ諸国の代表者による議会を通じて統治する」というヨーロッパの地域統合を夢見ていました。現在のEUのようなものですね。そんな風に時代を先取りする政治的な感覚はあったようですが、それを実現する具体的な方策は持たず、ましてや現実を何とかするために行動を起こすというような行動力はなかったのです。
 結局、自分を利用しようとする人からは逃げ、保守的な父・皇帝やその取り巻きの保守政治家からはマークされて実際の政治からは締め出されて理想を叶える事もできず、政治的には全く閉塞状態にあったわけです。

ハプスブルグ家の血の混濁もルドルフを破滅へと導いた原因でありました。
 前述の如く、ハプスブルグ家は政略結婚によって領土拡大・保持してきました。そのためには特定の王家と何度も縁組しており、従兄弟同士、伯父と姪、などという組み合わせの結婚も数多く見られました。(また、同族結婚には、血統の神聖さを保つという理由もあったようです。)
 こうして同族結婚を繰り返した結果、悪い遺伝が出やすくなり、精神病も現れやすくなりました。スペインのハプスブルグ家は、同族結婚のはてに血統が絶えてしまっています。
 ルドルフの両親も従兄弟同士です。フランツ・ヨーゼフ帝の母であるゾフィー大公妃とエリーザベト皇后の母であるルドヴィカ公爵夫人は姉妹なのです。しかもエリーザベト皇后の方は父親のみならず母親もバイエルンのヴィッテルスバッハ家の人間ですから、その血は濃厚です。
 なお悪い事に、ヴィッテルスバッハ家の血筋は変わり者が出やすい家系であったようで、狂王として有名なルードヴィヒ二世はエリーザベトの従兄弟です。
 ルドルフも生まれつき神経過敏であったようで、いつか自分も気が狂うのではないか、と心配していたとも言われています。特にエリーザベト皇后と親しく、ルドルフ自身も好意を持っていたルードヴィヒ二世の怪死後は悩みも深かったようです。

 ルドルフを追い詰めたものはこのようにいろいろとあるわけですが、要は時代遅れの帝国を何とか延命させようとして必死で保守を徹底して繕った結果、すべての面で無理が出て、それが若き皇位継承者を追い詰めたのであろうと思います。
 19世紀後半に王権神授説をとっていたなんて、フランツ・ヨーゼフ帝くらいのもの。そしてハプスブルグ家の伝統を死守して息子ルドルフに政略結婚を押し付けますが、もはや王家と王家の結びつきで政治を動かすような時代ではありませんでした。とにかく何でもかんでもすでに意味がなくなっている事を形式だけ徹頭徹尾守り通したのです。
 もちろんフランツ・ヨーゼフ帝も、帝国が消滅に向かっている事はよく承知していたようです。若い頃はそれを何とかしようとして戦争をした事もありました。しかしオーストリアはことごとく敗北し、その度に大事な領土を失って来たのです。そしてついにフランツ・ヨーゼフ帝は、何にもしない、何も変えないという徹底的な無策に落ち着いたのです。
 箱を幾つも積み重ねるとグラグラして今にも崩れそうになります。そんな時、下手にさわったならばすぐに崩れてしまうので、とりあえずさわらずにそのまま放置しておくと、少しはそのままの状態を保っている(そのうち崩れるのですが。)、そんな感じだったわけです。
 試行錯誤の末その結論にたどり着いたフランツ・ヨーゼフ帝はそれでもよかったのでしょうが、わけもわからずただ皇帝に従うだけであった若いルドルフが窒息状態になるのも当然と言えば当然です。そしてルドルフはそれを何とか紛らわそうとしてあがき続け、その末にマイヤリングにたどり着いたのでしょう。




ルドルフをめぐる女性たち

  ・ エリーザベト皇后(母)
  ・ ステファニー皇妃(妻)
  ・ ミッツィー・カスパール(高級娼婦)
  ・ ラリッシュ伯爵夫人(従姉妹、悪友)
  ・ マリー・ヴェツェラ(最後の愛人)


 まずトップバッターは母親であるエリーザベト皇后です。マイヤリング事件の頃にはすっかり疎遠になっており、ルドルフを支える事はできなかった皇后ですが、実際は息子を愛していたようです。しかしながら皇后は自分自身が宮廷に居場所を見出せず、世界のあちらこちらをさまよい続けていたという事ですから、息子の事どころではなかったのでしょう。 
 シシという愛称で親しまれるエリーザベト皇后は、当時のヨーロッパ王室の中でも抜きん出た美貌の持ち主で、夫のフランツ・ヨーゼフ帝は一目惚れでした。しかしながら、シシが育ったバイエルン公爵家は型破りの自由な家風であったので、シシはゾフィー大公妃が取り仕切る古いしきたりの塊のようなホッフブルグ宮の雰囲気になじむ事ができませんでした。そして自らの美しさを保つ事と宮廷から逃げ出す事しかほとんど頭にはありませんでした。マクミランのバレエでは浮気をしている様が描かれていますが、そういう事があったにしても、すごい大恋愛をしたとか、浮気性であったとか、そういう事ではないと思います。少なくとも浮気が主たる原因でルドルフや皇帝と疎遠になったというわけではないでしょう。
 流浪の旅は、折り合いの悪かったゾフィー大公妃の死後も変わらず、自分の身代わりにと女優のカタリーナ・シュラットを皇帝にあてがって、自らは当て所のない流浪の旅を続けたのです。(皇后は嫉妬するどころか、シュラット夫人を信頼して皇帝を預けていたのだと言います。ちょっと変わったやり方ではありますが、皇后は自分なりのやり方で皇帝を愛していたのでしょうね。)
 ルドルフには母方の血が色濃くでており、またゴンドルクールト将軍の後にシシが選んだルドルフの教育係りはシシ好みの自由主義的な思想の持ち主であったため、ルドルフは自由主義的な思想を持つようになりました。またハンガリーへの愛という点でも二人は一致していました。
 たくさんのものを共有するこの親子は大変気が合い、ルドルフは美貌の母を大変愛していたようです。この二人の愛情と交流が続いていれば、あのような事件は起こらなかったのではないかと思うと、非常に残念です。
 皇后はルドルフの死後は黒い服しか着なくなり、ますますあちらこちらをさまよった挙句、レマン湖畔で無政府主義者の手にかかって命を落としました。ハプスブルグ家と時代の流れに押しつぶされたという点でもエリーザベト皇后はルドルフとよく似ていたのですね。

 次に妻であるステファニー皇妃です。ステファニー皇妃は政略結婚によりベルギー王室から嫁いで来ましたが、ルドルフとはうまくいきませんでした。どうもかなり大柄で、美貌には恵まれておらず、結婚式の写真でもエリーザベト皇后の方がはるかに美しかった、と渡辺淳一氏は書いておられます。しかもステファニー皇妃はかなり無神経な性質であったようで、性格的にも神経過敏なルドルフとはうまくいかなかったのでしょう。
 しかし仲晃氏も「本質的には優しいところがあった」と書いておられますし、ルドルフもステファニー皇妃宛に遺書を残しており、自分が無頼な夫であった事を詫びているようです。(ちなみに皇帝宛の遺書はありませんでした。)やはりこの方は政略結婚の、そして時代の犠牲者であったと言うべきでしょう。

 さて、たくさんの女性と関係を持ったルドルフですが、一番心を許し、愛したのは高級娼婦のミッツィー・カスパールだったようです。心中の件もマリーより先にミッツィーに持ちかけており、マイヤリングに行く前日にもミッツィーと会って、彼女のところで一晩過ごしているようです。
 マクミランのバレエでは、帝国宰相であるターフェ伯爵に媚びて、ルドルフにとって不利な証拠である政治ビラを渡す単なる商売女として表現されていますが、人柄が良かった、と仲氏は書いておられます。
 遺書も彼女に宛てて書いており、自分の財産はすべて彼女に残す、と遺言したようです。父母共に心を許せない、そして妻とはそりが合わない中で、信頼し愛せる女性が問題にもならない身分の人であったという事は、ルドルフにとって本当に不幸な事でした。

 マクミランのバレエでルドルフの前の愛人となっているマリー・ラリッシュ・ワレルゼー伯爵夫人は、実際はルドルフの従姉妹です。エリーザベト皇后の兄であるバイエルン公爵が愛人である女優に生ませた娘で、後に公爵がこの女優と結婚したため、男爵令嬢の身分を与えられました。 
 後にエリーザベトに気に入られて皇后付きの侍女としてウィーンに呼ばれ、若くして皇帝夫妻の決めた相手、ラリッシュ伯爵と結婚しました。非常に社交的で浪費家であったようで、ルドルフとの関係も男女関係というよりは、悪友というか、ルドルフが他の人には頼みにくいような用事をラリッシュ夫人に頼み、その見返りに伯爵夫人に相当の金額を用意する、という関係だったようです。(仲氏は”高等女衒のような”と表現しておられます。)
 もちろん、心中相手のマリー・ヴェツェラとの橋渡しをしたのもこのラリッシュ伯爵夫人で、その件でもかなりの報酬を受け取っていたらしいです。マイヤリング事件の後、宮廷を追放同然になったそうです。

 マリー・ヴェツェラは外交官だった父と裕福な銀行家の娘であった母ヘレーネとの間に4人兄弟の第三子として生まれました。父方からドイツ系とスラブ系の血を、母方からは中東の血の混じった南欧の血を受け継いだ、ふくよかで情熱的な男好きのするウィーン娘であった、と言います。
 恋に恋する年頃で、「皇太子はこれほど不幸な方なのだから、ありったけの愛情で慰めてあげるのが私の義務」というような事を言っていたそうです。 
 一応男爵令嬢という事になっていますが、どうもその爵位というものが怪しいらしいのです。マイヤリング事件の1年ちょっと前に亡くなったマリーの父親は外交官であり、長年の功績を認められて爵位を与えられたという説もありますが、爵位をお金で買ったという説もあります。
 どちらにしろ成り上り者である事には変わりなく、とても宮廷に出入りするような身分ではありませんでした。(宮廷に出入りするには、十六代続けて貴族である事が証明できなければなりませんでした。)
 マクミランのバレエではルドルフ皇太子の結婚式の祝賀舞踏会にヴェツェラ夫人が二人の娘と共に出席していますが、これは全くの創作の世界ですね。
  1888年11月5日に初めてホッフブルグ宮の皇太子の居室で二人きりの時間を過ごし、翌89年1月13日に皇太子と結ばれ(処女だったようです。)、どうやらこの時に心中の約束がなされたのではないか、と推測されています。そして1月30日、その約束は実行され、マリーはマイヤリングでその短い生命を終えました。「86日の間にその全生命を燃焼させたのだろう。」と仲氏は言います。
 マクミランのバレエでは、最初からずい分と妖艶で、出会ったその日に男女の仲になったように描かれていますが、実際はドン・ファンのルドルフもマリーの清純さと自分に寄せる一途な想いに気圧されたのか、容易には手を出せなかったようです。ルドルフが一番愛したのはミッツィーだと言われていますが、ルドルフを一番愛したのはマリーなのかもしれませんね。

 その他、情事の相手は驚くほどの数にのぼったと言います。そしていかがわしい方面から性病をうつされたらしいのですが、資料によっては梅毒となっていたり、淋病となっていたりで、正確な病名はわかりません。いずれにしろ、性病からくる頭痛やうつに悩まされたらしいです。そういった心身の健康状態の悪化がルドルフをより一層死の近くへと押しやったのですね。ちなみに当時のウィーンでは非常に自殺が多く、まるで流行り病のようであった、とも言われています。
 


クロード・アネの小説と映画について



クロード・アネの小説について、「うたかたの恋の真実」で仲晃氏は、「小説自体はごくありふれたメロドラマだが、問題は小説の出来具体ではなく、ヨーロッパ現代史きっての王朝のラブストーリーをまとめて世に出した、という点にある。」と書いておられます。
 仲氏によると、アネの小説はこれまで6度も映画化されている、という事です。仲氏、渡辺淳一氏がそろって推奨しておられるのは、アナトール・リトバック監督による1936年の映画です。ルドルフ皇太子をシャルル・ボワイエ、マリー・ヴェツェラをダニエル・ダリューが演じた白黒版です。
 一番身近なのは1968年に制作されたテレンス・ヤング監督によるコロンビア映画でしょうか。この映画ではルドルフ皇太子をオマー・シャリフが、マリー・ヴェツェラをカトリーヌ・ドヌーヴが演じました。
 しかし、2009年現在、映画のDVDは販売されていません。クロード・アネの小説も絶版になっており、私は地元の図書館の書庫にただ1冊あったものを出して来てもらって読みましたが、昭和32年(1957年)に印刷されたその本はボロボロで、ページをめくろうとすると表紙がぼろぼろと崩れてきて、このままでは読み終わる前に崩壊してしまうと思い、あちらこちらをセロテープで補強いたしました。
 やはり仲氏の言う通り本物の名作とは言えない故に、話題性がなくなったら消えてしまう運命なのでしょうか…。

 仲氏は、「ロマンチックな悲劇として描こうとするあまり、虚実ないまぜの物語になった。いまよんでみると、「虚」が圧倒的に多く、「実」は数えるほどしかない。折角の歴史ロマンが、一歩足を踏み外せば目もくらむ高さから地上に落下しかねない壮大な空中楼閣になっている。」と評しておられます。また、仲氏は「映画の場合は小説よりさらに罪が深い。」とも言っておられます。
 
 私は映画を観た事がないのでなんとも言えないのですが、渡辺淳一氏が「恋愛学校」で「うたかたの恋」について解説をしておられます。渡辺氏が書いておられるあらすじによれば、
 「街中を歩いていて偶然マリーを見かけ、惹かれたルドルフ皇太子は、劇場で再会した後、マリーを宮殿の舞踏会に招いた。ルドルフ皇太子は皇妃をさしおいて皆が見守る中でマリーと踊り、彼女への愛を示した。
 そしてマリーと共に生き直す事に最後の望みをつないだルドルフ皇太子は、皇妃との離婚願いをローマ法王に出したが、却下された。それに怒った皇帝は二人を引き離そうとした。
 皇帝側によってマリーが幽閉されそうになるなど、マリーの身も危なくなったため、二人はマイヤリングの狩猟館に身を隠した。そこでルドルフは「何でも僕の言う事をきいてくれる?」と訊ねたところ、マリーは素直にうなずいた。
 そして二人は、結ばれる可能性のないこの世に別れを告げ、あの世で結ばれる事を願って、2発の銃弾にって生命を断った。」
というような事になっています。確かに宮殿の舞踏会で、皇妃を差し置き、若く美しいマリー(美人女優として名高いカトリーヌ・ドヌーヴ)が皇太子に手をとられて皆の見守る中、華麗に踊る…というのは、想像するだにため息が出るような美しいシーンで、ロマンチックがグレードアップされていますね。
 また宮廷がマリーを幽閉しようとした、というのもかなりの荒技ですね。宮廷はマリーの亡骸に対しては心中隠しのために無慈悲な扱いをしましたが、生きている間は圧迫を加えるような事はありませんでした。そもそもルドルフ皇太子が少女マリーとつきあっている事すら、皇帝も皇后も知らなかったらしいです。知っていたとしても、ドン・ファンとして有名なルドルフの情事の相手をいちいち幽閉する意味などなかったでしょうし…。

渡辺氏は「…ルドルフはマリーと来世で結ばれることのみ願って死んだのであろうか。」と疑問を呈し、いろんな事に行き詰って孤立したルドルフが錯乱に果てに死を覚悟したが、やはり死は怖く、迷いながらマリーに道連れを頼んだら、マリーが意外に簡単に承知した、そのあたりが真相だろう、としておられます。そして、
 「たとえ男は淋しさのあまり、道連れを願ったとしても、ともに死んだことは大きい。死を決意するまでに多少の気持ちの違いはあったかもしれないが、二人の死が心中という形であった事はまぎれもない事実である。そしてマリー・ヴェツェラの名は、百年経ったいまも全世界の人々の中に、甘く悲しい恋のヒロインとして残っている。」
と記しておられます。渡辺氏はこの本の中で、心中ものをいつか書きたいと思いながらも未だ果たせていない、と書いておられますが、その後、「失楽園」を書かれ、大きな話題となりました。




マクミランのバレエについて

<基本情報>

振付      ケネス・マクミラン
台本      ジリアン・フリーマン
音楽      フランツ・リスト
選・編曲    ジョン・ランチベリー
装置・衣装  ニコラス・ジョージアディス
初演      1978年2月14日 於 コヴェントガーデン王立劇場
         英国ロイヤルバレエ団
初演時配役  ルドルフ皇太子・・・・・・・デヴィット・ウォール
         マリー・ヴェツェラ・・・・・・・リン・シーモア
         ステファニー皇妃・・・・・・・ウェンディー・エリス
         エリーザベト皇后・・・・・・・ジョージナ・パーキンソン
         ラリッシュ伯爵夫人・・・・・・メール・パーク


 さて、クロード・アネの小説から映画が幾つも作られ、更にその映画に刺激されて作品を創り出した芸術家がいました。英国ロイヤル・バレエの振付家として有名なケネス・マクミラン氏です。どうもマクミラン氏はロマンチックにすぎる映画にむずむずしたようです。そして1974年に出版されたジョージ・マレック氏の「鷲の死」("The Eagles Die”)に刺激されて、帝国皇太子が、社会的・政治的・個人的な要因に押しつぶされ、心中へと行き着く様を描こうとした、という事です。
 このマクミランのバレエ作品についてもいろいろな意見があるようです。英国での初演時は拍手が鳴り止まず、大胆で独創性のある作品として好意的に受け入れられたようです。バレエを19世紀的なおとぎ話の世界から解放し、人間の苦悩を舞台上で表現して感動を与えた、とも評価されました。
 しかしUSAではあまり歓迎されなかったようです。メトロポリタン歌劇場は当初上演を拒否しました。マクミランは怒って、メトの言いなりになるならば、自分のバレエは以後何も上演させてやらないぞ、とバレエ団を脅し、何とか上演にこぎつけたようです。USAではハッピーエンドや善悪のはっきりしたものが好まれる傾向があるので、確かにUSA向きとは言えないでしょうね。

 マクミランは「ロミオとジュリエット」や「マノン」でも苦悩を鮮やかに描いてきました。しかしながら、「ロミオとジュリエット」や「マノン」では、苦悩と絶望だけを描いたのではなく、ドラマの流れの中で、恋の歓喜や若さ・生のエネルギーと共に苦悩もまた描いたのです。
 しかし「うたかたの恋〜マイヤリング〜」は暗い埋葬の場面で始まり、最初から最後までルドルフの苦悩が描かれ、最後はまた何とも無慈悲な埋葬場面で終わるのです。
 私はそんなにマクミランについてよく知っているわけではないのですが、「ロミオとジュリエット」「マノン」を通過して、どんどんとマクミランの表現したいものは結晶化して行き、ついに「うたかたの恋〜マイヤリング〜」で凝縮された形で表現されたのではないでしょうか。
 この作品は、フランツ・ヨゼフの母親であるゾフィー大公妃がまだ存命でルドルフの結婚式に出席しているなど、かなり史実から離れてオリジナルな設定をしています。ルドルフ皇太子や少女マリーの人物像も資料を基に仲氏が真実を追った「うたかたの恋の真実」とはかなり違った描かれ方をしています。
 このバレエにおけるルドルフとは、ひょっとしてマクミランその人ではないだろうか…という気もするのです。それだけにこの作品を拒絶されるという事は、自分自身が拒絶されるような気がしたのではないでしょうか。
 マクミランは1992年、この作品の再演中に、楽屋で心臓発作のため亡くなりました。

 確かに暗いと言えば暗いし、性や暴力、麻薬など好ましからざるものが次々に登場します。そういう意味ではまったくバレエ的ではありません。しかし19世紀末のウィーンの宮廷を舞台にしていますから、舞台装置も衣装もとても美しく豪華です。ダンスも美しく、リフトを多用したルドルフと5人の女性(皇妃、皇后、伯爵夫人、ミッツィー、マリー)のパ・ド・ドゥは迫力があり、素晴らしいです。
 つまり見た目はこの上なく美しいのです。その中に冷たい、または暴力的な人間関係そして絶望的な苦悩が描かれていきます。この美しさあってこそルドルフの苦悩は凄みを増すのです。きれいなだけや暗いだけでは決して得られない、しびれるような強烈さで観客の心をえぐって掴み取り、揺さぶるのです。
 マクミランは「醜く見える事を恐れるな。」とダンサーに言ったそうですが、きっと美しいも醜いも、そして善も悪も突き抜けたところにある、強烈な感覚の世界に観客を連れて行きたいのだ、と思います。時々サッカーの名選手が緊迫した場面で奇跡のようなシュートを放ち、それがゴールネットを揺らした時、「性交渉よりもぞくぞくする。」と言ったりしていますが、それと似たような感覚ではないでしょうか。心の麻薬、と言っていいかもしれません。
 そんな風ですから、主役のルドルフを踊る男性ダンサーにはテクニックはもちろんの事、かなりの表現力、演技力が求められます。好みが分かれる上に、ルドルフを踊りきれる人材を探すのはかなり大変でしょうから、そういう意味でも上演するのは難しい演目でもあるのでしょう。しかし、テクニックと演技力を兼ね備えたダンサーが素晴らしい舞台を見せてくれたならば、無難な演目では決して得られない、深く強烈な感動に心を揺さぶられる得難い舞台となる事でしょう。



 最後に一言


 今まで述べて来たように、小説も映画もバレエも話題にはなるも、万人受けするとは言えないようで、「ロミオとジュリエット」や「マノン・レスコー」のような厳然たる世界の名作とは言えないかもしれません。
 しかしクロード・アネから始まってずっと作品が作り続けられて来たという事は、マイヤリング事件自体が「名作ドラマ」なのだと思います。
栄光に彩られた王室の落日、世紀末のウィーンの街の退廃美、華麗な宮廷における冷たい人間関係、情事の数々。そしてその中で次第に追い詰められて行く若き美貌の皇位継承者…。そういった理想的なドラマ的装置に我々が惹かれる限り、「マイヤリング事件」はきっと何らかの形で語り継がれ、演じられて行く事でしょう。





うたかたの恋       クロード・アネ/著   岡田真吉/訳   創元社
うたかたの恋の真実  仲晃/著   青灯社  
黄昏のウィーン     須永朝彦/著   新書館
恋愛学校         渡辺淳一/著  集英社
DVD「うたかたの恋〜マイヤリング〜」
               ケネス・マクミラン振付
               英国ロイヤルバレエ団
               配役  ルドルフ皇太子・・・・・・・・・・イレク・ムハメドフ
                    マリー・ヴェツェラ・・・・・・・・・ヴィヴィアナ・デュランテ
                    ラリッシュ伯爵夫人・・・・・・・・レスリー・コリア
                    ミッツィー・カスパール・・・・・・ダーシー・バッセル
                    エリーザベト皇后・・・・・・・・・ニコラ・トゥラナ
                    ステファニ皇妃・・・・・・・・・・・ジェーン・バーン
               於 1994年2月1日 コヴェント・ガーデン王立劇場
               発売元   ジェネオンエンターティンメント株式会社
ROYAL OPERA HOUSE (HP)  
Kenneth MacMillan Choreographer (HP)




HOME

ストーリ辞典に戻る


このページの壁紙・イラストはSTAR DUSTさんからいただきました。

Copyright (C) 2009.MIYU