はじめに/ ネット理想 真理(哲学)を読むに当たっての注意点/ 哲学の問題 / 神魂論/ 自然科学と数学化の問題 / ベルクソンの時間論

はじめに(ネット理想を読むに当たっての注意点)

ネット理想のコンテンツへようこそ。まずコンテンツを読む前にネット理想を読むに当たっての注意点をお読みください。

 ネット理想 真理(哲学)を読むに当たっての注意点

ここに書いている内容は、哲学について全く(あるいはよく)わからないが、哲学に興味があり知りたいという方向けに書いたものです。つまり哲学の初心者 に向けて書いたものです。わかりやすく書いたつもりですが、これを読んでいただいて、更に哲学を学びたいと思うかどうかは読者次第ということになります。 ところで私(ネット理想の編著人)も自分では正しい内容を書いているつもりであり、またそれを信念として注意してコンテンツを公開しているつもりですが、不勉強な部分もあり、 中にはそうでないものがあるかもしれません。したがって読者自身も気をつけて読んでください。

 哲学の問題

 神魂論

デカルトは人間の身体には精神(=神 しんのこと)があって意志(デカルトのいう意志とは(能動の)感情である。)の力によって人体を動かしているが、精神がなければ時計のように自動の機械と人体は同じだと言っているのである(『省察 情念論』デカルト(著)、井上庄七、森啓、野田又夫(訳)中央公論新社 2002年 P153)。 デカルトは人間以外の動物に対して、人間以外の動物には、魂はあるが、精神はない、理性もないと書いているのである。(『方法序説』デカルト(著)谷川多佳子(訳)岩波書店 1997年 P78〜79を引用)。デカルトは我思うゆえに我ありと言う、この思うには感じるも考えるも含まれていて機械には魂(意識)がないので感じることも考えることもできない。しかし人間は感じること(感じることは受動的なこと)も考えること(考えることは能動的なこと)もできるが感じることは時に間違える、したがってその感じたことも疑って間違えないために、真理を導くためには理性が必要だ、重要だと説いている。デカルトは感性よりも理性を重視した哲学者である。ところでデカルトは生きている身体と死んだ身体との間にどういう相違があるか、そこでこの誤りを避けるために、死はけっして精神の欠如によって起こるのではなく、ただ身体のおもな部分のどれかがこわれることによって起こるのだ、ということに注意しよう。そして、生きている人間と死んだ人間の身体の相違は、一つの時計またはほかの自動機械(すなわち自己自身を動かす機械)がゼンマイを巻かれており、かつその機械のつくられた目的である、もろもろの運動を起すところの物体的原理を、それの活動に必要なすべてのものとともにうちにもっている場合と、同じ時計または他の機械がこわれていて、その運動の原理がはたらきをやめた場合、との相違に等しい、と判断しよう。(『省察 情念論』デカルト(著)、井上庄七、森啓、野田又夫(訳)中央公論新社 2002年 P140〜141を引用)と書かれている。つまり人間の死は身体の一部(例えば臓器)が壊れて人体の運動の原理が働きを止めた状態が死であるといっているのである。今や自然科学(つまり物理学、だから西洋医学等でも)では人間には魂の存在はなく、人間の身体は電気によって動いている物体にすぎないとされている。しかし死んだAという人の死の原因である壊れた臓器を、死んだBというAとは異なる死因の人でBにおいてAの死因である壊れた臓器が正常に残っていて、Bの正常な臓器をAに移植した後に電気を流したのならば、自然科学の思想に従えば死人は生き返るはずだが、生き返らない。このことから言えることは人体には人体を動かしている気(それは電気ではない)と人体に神魂が宿ってはじめて人間が生きていると言えるのであるということである。
*死んだ肉体に触れて行う臓器移植は死穢、脳死等による生体移植は血穢であり、どちらも悪である。

 自然科学と数学化の問題

(自然)科学とは自然法則を数学によって記すことだという。だから数学で書けないものは自然科学ではないと自然科学者の多くは考えるが、そもそも自然が数学の言葉によって書かれていると認識したのは理性のみからではない。経験による認識という土台が先にあったからこそその考えが生まれたのである。したがって自然科学こそ数学という理性のみから生まれた科学とは言えないものつまり非(自然)科学的なものである。したがって数学化できないものは自然科学ではないという考えは過ちである。感性を無視した理性万能の自然科学こそ間違っていることが多くあるのである。

 ベルクソンの時間論

ベルクソンは、アインシュタイン(物理学者(自然科学者))が論じる時間の相対性や、そこでの時間の多様性とは、やはり時間の空間化を前提としており、瞬間における同時性の帰結であると主張する。それに対してベルクソンの考える時間は、空間的でなく(空間はなく)また他(者)との同時性もないというのである。つまりベルクソンは魂(意識)的に時間を捉えるので持続という言葉を使い、それぞれの個体は異なった持続のリズムを生きるので、個体が生きる時間は多様だと考える。しかし他人が共に生きる上ではそれを支える時間がなければならない。それがなければ、時間の交換可能性そのものが生じえないはずである。それをベルクソンは、〈流れの同時性〉として描いていく。〈流れの同時性〉は〈瞬間における同時性〉によって、両者の系にまったき交換可能性が成立することから取り出される仮想的な時間にすぎない。という。(『哲学の歴史 第12巻 実存・構造・他者【20世紀III】』鷲田清一(責任編集)中央公論新社 2008年P110〜113をほぼ引用した。)