哲学者等の名言集(迷言集?)/ 分別の力をかりて自分の魂を完璧にする / 年齢と哲学は関係ない。/ 昔は、哲学者は医学も学んでいた。/ 徳を修めようとせず、訴訟ごとが好きだ。(天子に)用いることはできない。

 哲学者等の名言集(迷言集?)

 「分別の力をかりて自分の魂を完璧にする」すべを心得ていることは「すべての人にひとしく必要な」決まりである。

哲学者たちが人々に自己への配慮を勧告しているからといって、そのことは、この熱心さが、彼ら哲学者の生活と同じような生活を選んだ人々に取っておかれたものであるという意味ではない。またこうした態度たるや、人々が彼ら哲学者のかたわらで時を過ごすあいだに限って不可欠なものであるという意味ではない。万人にとって、終始、生涯効力をもつ、それは原則なのである。アプレイウスがその点に注意をうながしている。すなわち、絵をかいたり弦楽器を演奏したりをできるようにする決まりを知らなくても恥ずかしくも不名誉でもないが、しかし、「分別の力をかりて自分の魂を完璧にする」すべを心得ていることは「すべての人にひとしく必要な」決まりである。(『性の歴史V 自己への配慮』ミシェル・フーコー(著)、田村俶(訳) 新潮社 1987年 P66を引用した。)

 年齢と哲学は関係ない

自己への没頭には年齢は存在しない。「自分の心のことに没頭するのに遅すぎるとか早過ぎるとはない」とエピクロスはすでに述べていた。「哲学をする時はまだ来ていないとか、もう過ぎたとか言う者、幸福の時がまだ来ていないとか、もう存在しないとか言う者と同然である。したがって、若者も老人も哲学しなければならない、老人は老いているが、過去存在したものへの感謝の念によって善行の面で若々しくあるために、若者は若くはあるが、将来にたいする心配がないために同時に年老いた者であるために」。生きることを生涯にわたって学ぶことは、生活の一種の永遠の鍛錬へと変えるべしとする、セネカの挙げる格言である。しかも早期に始めるのが適切ではあるものの、けっして休止しないことが重要なのである。セネカやプルタルコスが助言している相手というのは、実際もはや、プラトンの述べたソクラテスやクセノフォンの述べたソクラテスから自分自身に専念せよと励まされていた、熱望にもえるかの気の弱い若者たちではない。その相手は大人なのである。(『性の歴史V 自己への配慮』ミシェル・フーコー(著)、田村俶(訳) 新潮社 1987年 P67を引用した。)

 昔は、哲学者は医学も学んでいた。中国の道教のように。古代ギリシャ、古代中国でも最も位の高い医者は予防医(未病医)であった。

昔は、哲学者は医学も学んでいた。中国の道教のように。古代ギリシャ、古代中国でも最も位の高い医者は予防医(未病医)であった。
  ストア派の人々はまた、可能な治療の諸段階もしくは諸形式をしめす図式を提示した。たとえばセネカは、全体としてであれ、部分としてであれ、疾患の治った病人と、病気は治ってもまだ変調ののこっている病人とを区別しているし、また健康を回復したものの、改められない素質のゆえに依然として虚弱の者がいるのである。これらの概念と図式は、身体の医学と心の治療とに共通な指針として用いられなければならない。それらのおかげで、身体の障害にも心の混乱にも、同じ型の理論上の分析を適用することができるだけでなく、前者にも後者にも対処し、それらを取扱い、それらの世話をし、場合によってはそれらを治すために、同じ種類の措置をとることができる。(『性の歴史V 自己への配慮』ミシェル・フーコー(著)、田村俶(訳) 新潮社 1987年 P74を引用した。)

 徳を修めようとせず、訴訟ごとが好きだ。(天子に)用いることはできない

堯は天下を譲ることを考えていった、「この天子の仕事を誰がうまくやれるだろうか」と。堯の臣の放斉が答えていった、「ご嫡男の丹朱どのは、才知があって物事に明らかなお方です」と。堯はまたいった、「え、あれか、あれは徳を修めようとせず、訴訟ごとが好きだ。用いることはできない」と。(『史記 一 (本紀)』吉田賢抗 明治書院 昭和48年 P41を引用した。)