| 2025年11月9日(日) |
| 意志とは何か |
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And the will therein lieth, which dieth not. Who knoweth the mysteries
of the will, with its vigour? For god is but a great will pervading all
things by nature of its intentness. Man doth not yield himself to the angels,
nor unto death utterly, save only through the weakness of his feeble will.――Joseph Granvill
(そしてその中に不滅の意志がある。その活力を伴った意志の秘儀を、だれが知ろうか。なんとなれば、神とはその熱烈な本質によって、万物に浸透している、偉大なる意志にほかならないからである。人はただ彼のひよわな意志によるのでなければ、天使にも、また死にも、完全に屈服することはないのである。――ジョゼフ・グランヴィル)
All bodies with which we are acquainted, when raised into the air and
quietly abandanned, descend to the earth's surface in lines perpendicular
to it. They are therefore urged thereto by a force or effort, the direct
or indirect result of a consciousness and a will existing somewhere, though
beyond our power to trace, which force we term gravity. ?――Sir John Herschel
(我々のなじんでいるすべての物体は、空中に持ち上げられ、静かにはなたれると、地面に垂直に落ちていく。それらの物体はすなわち、ある力ないし努力によって、地面へとせきたてられるのである。我々の能力ではとらえられないが、どこかにひそんでいる、ある意識およびある意志の結果である。この力を重力と名づけている。――サー・ジョン・ハーシェル)
Where there's a will, there's a way.――a proverb
(意志のあるところには道が開ける[精神一到なに事かならざらん]――ことわざ)
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通常、意志(Wille,will,volonte)と称されるものは、日常においても、心理学的にも、意識を伴うなんらかの決断の働きであり、その結果、身体の内面または外部において、なんらかの動きまたは行為・行動が生じることになる。この心身的過程において、とくに意志の部分をなすものは、心理的要素であり、それはなんらかの心の動きとその意識とからなる。さらにこの両者を区別することで、心の動きの部分を本来の意志とし、意識をその付加物とすることができよう。しかしこの区別は、意志についてさらに深い洞察を必要とする。
この意志過程を、時間的に分かつならば、意識はさておき、まずなんんらかの決断への心の動きを触発する、刺激stimulusもしくは動機motifがあり(それらは感覚的でもあり、観念的でもある)、それに応じる、一般的に言って、なんらかの意欲Wollenが生じる。この意欲自体は、さまざまな内容を持ったものであり、刺激や動機に応じて異なるであろう。それは快苦であったり、衝動的・情動的な動きであったり、不安や恐れや気がかりといった情念や単なる気分であったりするであろう。それらがわきおこり、たかまり、なんらかの行為の決断を迫るとき(ここには知性による判断Urteilが加わるが、判断はまた意志とは別の機能である思考に属する)、意志が発動するといってよかろう。すなわち意志のプロセスには、その前提となる情動的な前段階と、その結果としての行為・行動の発動段階がある。
その中間に働く知性的な判断すなわち思考は、むしろ意志に対するブレーキとして機能するであろう。それは意志の決断の一つの要素ではあるが、最終的に行為を決めるのは意欲Wollenであると言ってよかろう。知性そのものは認識機能であって、それ自体で力を及ぼすものではないからである。むしろ知性は意志から力を汲むといってよいだろう。意志はいわば情動的な記憶によって、知性を発動させ、その判断に応えるのである。
このプロセスにおいて、純粋に意志と呼べるものは何であろうか。それを漠然と意欲Wollenと呼ぶほかはないであろう。あるいは何らかのネガティヴ、またはポジティヴな欲求・欲望Begeheren,wantがそこに働いている。この<欲>の根源は何であろうか。それを探究すれば、意志の本質もおのずと明らかになるはずである。これを現象学的に、内省的に探究する道もあろうが、とりあえず、客観的・経験的に、人間が一介の生命体であることから、生命現象としてそれを探究するのが、てっとり早いであろう。欲とは客観的に生命欲にほかならない。生命はどのように自己維持をはかり、種の存続をはかるか。そこに欲の答えもある。この生命体の欲全体を、生への意欲Wollen zum Lebenと名づけてよかろう。この欲を充足する過程が、そもそも意志の過程の根本なのである。生命欲は、生命体であるかぎり、誰もがよく知っているので、その分析はここでは不用であろう。
意志の本質は、生命体のあらゆる欲望であることは明らかである。すなわち客観的に言って、生命のないところには〈意志〉はないのである。投げられた石は、自らの意志で地上に戻るのではない。素粒子は自らの意志で結合したり、反撥したりするのではない。しかしながら、内省的に意志を探究する場合はどうであろうか。私は身体という、この私の物質的存在を自在に動かすことができる。そのとき私の意欲が、物体そのものを動かす起因となっているのである。ここに現われてくる私の意欲もしくは情動は、なんらかの<力>の発現ではないのか。私の意欲が物体である私の身体に対して、力として働きうるならば、それは物体間の力と、必ずしも異なったものではないであろう。たとえ意欲そのものが、生命体における物理化学的な物質現象であるとしても、それを私の意識が私の意志としてとらえることにより、私は意志において物体である私の身体を支配できると言ってよいであろう。
この内省的な類推によって、自然現象におけるあらゆる力の発現が、意志にたとえられることになる。さらにこの内省的な意志過程は、意識において、あるいは現象界全般において、最も実在性かつ現在性のある出来事であることを強調しておく。意志的決断ほど、この世界で実在的・現実的なeventはないのである。外界の存在の実在を疑いえても、おのれの決断する意志の働きは、意識のあるかぎり絶対に疑いえないのである。この意志の絶対の実在性(schlechthinnige Realitaet)が、世界に投影されて、この世界・宇宙そのものが意志的であると感じられるのである。さらにそれを認識論的、形而上学的に論証するならば、ショーペンハウアーの世界意志の形而上学となる。
意志が<世界意志>として形而上学化されることによって、意志は必ずしも意識を伴うものではなくなる。むしろ世界は圧倒的に盲目的で無意識なのである。それは人間の意志にまでおよんでくる。最近の心理学の研究においても、意志の意識的決断がなされる前に(0・5秒前に)、脳はすでに無意識に決断しているのであることが確かめられている。意識はモニターの位置に格下げされている。脳という客観的物質の世界に属するものが、むしろ世界意志の本質をなしているのである。ここで意識というもの、あるいは現象というものの本質が問われてくる。
意識に現われるものは、その内容において(客観的にいえば生命体の)感覚を起源としており、その範囲において現象と称されている。通常、あらゆる学術は、形而上学でないかぎりは、この現象の範囲においておこなわれる。しかし、そもそも現象(phenomina,apperance)という言葉にもはっきり示されているように、その本体が(たとえ不可知であるとしても)、ネガティヴに示唆されているのである。もし宇宙の本体が、圧倒的に無意識であるならば、宇宙において〈現象〉の占める範囲は、限りなく小さいといえるであろう。その限りなく小さな世界で、いかなる学術が行われようと、その認識範囲は取るに足りないものといえよう。かといって、現象を超えた形而上学が、どのような付加的認識を与えてくれるかは、また別の問題であるが。
ショーペンハウアーの意志の形而上学は、現象を唯一のrealityの場とする学術においては、生命現象を無機界にまで及ぼす、カテゴリーの越境(
kategoriale Grenz-Ueberschreitung)とみなされもしよう。しかしここでのカテゴリーは、現象と実在であって、現象から実在への架橋は、必ずしもまちがった越境ではなかろう。たしかに不可知unerkennbarなものを、可知erkennbarとする論法は、ハルトマンの言うAporetik(解決不能問題)に属するが、その一つの解決の試みといえるであろう(*)。
(*)cf:A.Schopenhauer Von der Erkennbarkeit des Dinges an sich (物自体の認識可能性について〉
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