| 2025年11月30日(日) |
| 意志VS意志(つづき) |
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前回、意志と意志との葛藤において、より価値の高い意欲によって、より低い意欲を抑えることは、はなはだ困難であるとした。この困難の原因は、まず生命体の欲求・欲望が多岐に渡るものであり、そのどれもが生存条件において同等の価値を持つからである。生命体であるかぎり、自我は多種多様な意欲に突き動かされている。それらの意欲のヒエラルヒーをいかにして確立するか。どのような意欲に、最も価値を置くことができるか。そもそも価値Wertとはなんであるか。生命は無駄なことを欲することはないであろうから、生命体にとって何らかの意欲が働くということは、それ自体において何らかの必要や要求といった生命活動の発現であり、たとえどんなに低次の欲求であっても、必ず生命体にとって何らかの意味、すなわち価値があるはずである。
ここですでに低次という言葉を使ったが、価値が問題とされる場合、基本的に動物的・肉体的なものを、あるいは一般的にいって<物欲>的なものを、生命欲の階梯において下位の層と見ているのである。人はパンのみにて生くるにあらず、という言い方がそれである。しかし飢えにせまられたとき、そのような価値観はすぐにくつがえされる。神が生めよ殖やせよと命じるとき、性欲は最上位の価値を付与されるであろう。勤勉が徳とされるならば、おのずと物財が蓄積されるであろう。そうした意欲がなぜ低次とされるのであろうか。
生命体が存続するための基本の要求・欲求が満たされることは、いわば価値の下部構造を形成するといえよう。それだけで生命体の存在の営みが終わるならば、価値のヒエラルヒーは必要ないといえる。人間も動物的レヴェルにおいては、それだけの存在なのである。それらに上乗せする、付加的な価値の上部構造がなければ、価値のあいだの葛藤は生じないのである。つまり上部の価値が、下部の価値に抑制を強いるのである。
もちろん食欲や性欲を上位の意欲とすることもできようが、その場合には、衛生や健康の考慮以外には、なんら抑制の必要などは起こらないであろう。すなわち意志と意志とが、エートスのレベルで格闘することはないのである。この格闘が起こるのは、動物的・肉体的レベルとは別の層との対立においてである。生命体としての人間は、動物的・肉体的意欲以外に、あるいは物欲以外に、どのような上部の意欲をもちうるのか。
一つには、社会関係における意欲である。これはすでに動物においても見られる、社会的協働や、共棲や、家族形成の本能や、なわ張りに伴う支配欲や、移動の欲求などである。これらは人類の文明社会においては洗練された形をとるが、基本的には<社会本能>として、ひとくくりにすることができよう。この社会本能は、意欲の価値のヒエラルヒーにおいては、食欲や性欲のような、単なる肉欲や生活本能からくる物欲の上位におかれよう。生活の社会的基盤を形成するからであり、個人の肉欲や物欲の充足もそのうえで成り立っている。
社会本能のレベルでの意志の格闘は、基本的に生活の必要との格闘である。さまざまな欲望を満たすためには、社会的活動において、その充足の基盤を作らねばならない。その条件を満たすために、一方の意志(個人意志)は他方の意志(社会意志)に服従しなければならない。背は腹に替えられないのである。このレベルでのエートスが、ふつうに社会常識と言われるものであり、そこからさまざまな処世訓や、倫理や、道徳が生まれる。この社会常識によって意欲をコントロールし、意志を形成することは、いわば動物本能の延長線上にあるので、だれにとっても比較的容易である。社会本能さえ守ればよいのであるから。したがって意志と意志との格闘は、さして深刻化することはないであろう。そこではなんら独立したGewissen(信条)が形成されることがないからである。
社会本能と個人意志の対立が深刻になる場合としては、過剰な個人意志の主張があるだろう。社会本能は、個体の存続のための基本的な要求であり、欲求であるから、個人意志が社会関係にうまく適応できない場合に、自己自身のなかに分裂と葛藤が生じてくる。社交に向かう本能と、自己自身にひきこもる意志とが、格闘するのである。また逆に、社会の側から、社会本能が過剰に強制される場合があろう。個人意志は服従するのでない限り、社会に対する反抗意志として現われる。いずれにせよ、社会対個人というこの葛藤は、このレヴェルで止揚されるほかはなく、その解決は歴史的に見てもはなはだ困難である。次の上位の価値が必要なのである。
社会本能をこえて、生命体としての人間の意欲に価値を与えるものがあるだろうか。それは人間が動物の中でも、優れた美的感性の持主であり、さらに知的能力に秀でていることから生じる、〈精神的〉すなわち肉欲や物欲や社会をこえた価値の意識である。美への憧憬、美の探求は、極めて個人的な性向であり、美感や崇高感に打たれることによって、肉体の快楽や、社交の快を超えた、厳かな意識へと到達することを可能にする。この美へ向かう意欲は、他の肉体的もしくは心情的意欲を圧倒して、ある種の静謐なエクスタシーをもたらすのである。ただしこの美は肉体美や、感情の美や、単なる感性美ではなく、肉欲や心情の乱れを沈静させる、無機的で、静止的で、超越的な美である。
他方、流動するものや、躍動するものは、心を躍らせることによって、ある種の快感もしくは生命欲をもたらすのであり、むしろ生命欲に応える美感といえるだろう。純粋な精神美ではないのである。これらの美のあいだに階梯は存在しても、何らかの美の意識が、行為への意欲を形成することになる。しかし、ここにもヒエラルヒーが形成されるので、意志と意志との葛藤は生じてくる。
いま一つの人間に固有の能力である、知性の働きは、それがもっぱら道具として、生活欲に奉仕するのでない限り、独自の知的探究の意欲を形成しうる。知的探究心は、思考の働きが純粋な好奇心と結びつくことによって、肉欲や物欲や社会本能を離れた価値の意識をもたらすのである。生命体は本来、本能による環境への適応能力を備えているが、そこに知性が加わることによって、その環境への適応力を認識によって深めていく。これが知識欲や探究心の起源であるが、もはや環境への適応という本来の役目をこえて、知性が自律的に働きだすとき、認識への意欲が真理への意欲となって、独立した価値の意識を形成するようになるのである。この知的営みが、肉欲や心情や愛情などの動物的能力を超えて、人間の能力の中で最上の価値あるものとされる。この知性の座から、意志の全般的行為を見おろす時に、判断における<思慮プロネーシス>が、最上の審級Instanzとされるのである。
以上のような価値のヒエラルヒーがあるにしても、どの意欲に最上の価値をおくかは、人それぞれであってよいのであるから、肉欲はさておき、ふつうは社会本能(仕事・家族・社交・隣人愛・国家・宗教、等々)、美的感性、理知的いとなみ、のいずれかが、意欲を制して、意志の行為を導くことになろう。この三者の意欲は独立的でありうるが、通常は相互に影響しあうのである。とりわけ思慮は、それ自体がエートスであるよりも、どのような意欲に価値をおこうとも、必ずともなっているべきものである。生命体の意欲はその本質において、本来自由であるから(*)、自由な意欲を状況に応じて、賢くコントロールするためには、知性の働きが不可欠なのである。その知性の独自のいとなみである真理の探究への意欲が、最高のエートスとされるのも、知性そのものはなんら意欲を伴わないとしても、生命体が生み出した最も精緻な機能である思考に、意志が服従したとしても、それは個体保存・種の存続という生命の目的にかなったことであるといえよう。
(*)意欲が本質において自由であるとは、衝動的・盲目的でありうるということである。その発現を状況判断において抑止するには、瞬間的な思慮が必要なのである。逆に言って、思慮を欠いた意欲は、えてして衝動的であり、その行為はたいてい失敗に終わる。 |
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| 2025年11月29日(土) |
| 嵐山渓谷もみじ狩 |
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東武東上線武蔵嵐山駅から、嵐山渓谷まで歩く道は、ふた通りある。駅から南方面に田舎らしい閑散としたメイン通りを、道なりにどこまでも行くと、菅谷館跡を過ぎて、車どおりにつき当たる。左方面の、槻川にかかる橋を越えると、橋下の川原にバーベキュー広場が見える。広場をとおり抜けて、槻川沿いにゆき、とび石の渡し場で川を越せば、モミジの遊歩道に出る。
あるいは、つき当たった車どおりの、すぐ左の先の分岐点で、右方向に少し行き、左手にはいる小道をゆけば、大平山下の山道をたどって、槻川沿いのモミジの遊歩道に出ることができる。少し迷ったが、今回はこちらの山道を行った。槻川は少し先で、都幾川に合流する、渓流である。

このモミジの遊歩道は、比較的新しくできたようで、昔の案内図には出ていない。嵐山渓谷として知られていた川のくねった奥は、かえって昔のようなモミジの美感は薄れている。展望台やトイレのある崖上が、今では観光の中心なのである。いずれにしても、この遊歩道によって、たっぷりと紅葉・黄葉を楽しむことができる。


展望台で昼食をとったあとで、崖上の遊歩道を行く。与謝野晶子の歌碑あたりまでつづいており、一番奥に山がふさいだ景観がよい。

帰路はバーべキュー広場方面の道をゆき、川向こうから、川面に映ったモミジの艶(あで)やかな景を、最後に楽しむ。

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| 2025年11月28日(金) |
| 意志VS意志 |
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意志すなわち、なんらかの行為の決断をなすものは、意志そのものの働きである。意志Willeの根底には意欲Wollenがあり、生命体としての多種多様な意欲が、相互に干渉し、対立し合うことで、判断Urteilの必要が起こる。最終的に行為Tatに至るには、判断の結果を承認することで、意志自体の働きAktである決断Entscheidungがなされる。この意志過程は、なんらかの意欲としての意志に始まり、決断としての意志の行使に終わる。この発端から最終行為にいたる意志のあり方は、同一の意志の働きでありながら、その内容において別のものに変化することが多い。間に判断が加わることによって、多かれ少なかれ修正をうけるのである。
このように意志がその発現過程において、両端に分かれ、場合によっては対立しうるということから、さまざまな意志の問題が生じてくる。発端において強力なままに、意志がおのれを遂行しうるならば、それが衝動的、本能的である場合には、ほぼ無反省な、あるいは習慣的で機械的な行為となり、またそれがなんらかの信念にもとづくならば、やはり迷いのない行為となる。これらの場合、状況判断以外に、判断によるブレーキが間に入ることがほとんどないので、意志と意志とがぶつかり合うことはない。それに対して、発端における意欲に対し、対立する意欲が生じてくる時には、その対立する意志が強ければ強いほど、最初の意志の遂行は困難になる。そこにはさまざまな種類の、初動意志の遂行を妨げる思慮が働き、対抗意志Gegen-Willeを形成するのである。
この対抗意志は、それ自体が意志であるから、なんらかの意欲からなっている。意欲をもって意欲を制するのである。最も優勢な意欲が、意志の過程を制して、行為へといたるか、あるいは所期の行為を制止する。自己克服とは、このような意志と意志との格闘にほかならない。おのれのなかで最も価値のある意欲を、強固に養ってゆき、つねにその意欲が行為の基準となるようにするならば、それが個人のEthos(行為の信念)となるのである。この主要な意欲であるエートスが働くかぎりは、その他のいわば下位にある意欲が生じた場合に、容易にそれを抑圧し、あるいはより高次の意欲へと〈昇華sublimation〉させることができよう。
このエートスを確立できないことから、意志の優柔不断、自己撞着、ambivalence(反対感情併存)、堕落感、自責などということが起こる。意志の強さとは、一つには、いかにおのれの意欲をコントロールできるかにかかっている。それには意欲のヒエラルヒーにおいて、つねに低いものを高いものにおいて制御することが、悔いのない行為をもたらすことになろう。しかし、これほど難しいことはないのであるが。
(つづく) |
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| 2025年11月15日(土) |
| 明覚リヴァー・ウォーク |
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この地方の近隣の里山にも、熊が出現するようになったので、しばらく山のハイキングは控えることにした。代わりに、昔からの趣味である、川沿いや河川敷のウォークを楽しむことにする。近くに、荒川や多摩川といった大河はないので、ちょっとした川沿いの、遊歩道などを歩くことになる。

八高線の明覚駅(無人駅で北口のみ)でおりて、北に少しゆくと車どおりがあり、渡って右に少し行くと、左にはいる細い道があるので、そこから都幾川にかかる小さな橋へ出るのがよい。橋を渡ると左右に遊歩道があるので、どちらを行っても川沿いの散策が楽しめる。これまで行ったことのない、左の道をゆく。
都幾川の水は、このあたりでは透明で、澄んでいる。魚の姿は見かけない。

少しゆくと、右には、田野が広がる。まだ刈りいれ前の稲が黄色く残っている。左の対岸方面には、雑木が紅く黄色く、目を楽しませる。

このままどこまでも歩いて行きたいのだが、体力と相談である。この先に慈光寺という、巨大な板碑のある寺があるが、そこまではとても無理で、バスに乗らねばならない。ひとまず往復4キロほどでもどることにする。八高線は一時間に一本しか出ないので、時間を計っておかねばならない。 |
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| 2025年11月9日(日) |
| 意志とは何か |
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And the will therein lieth, which dieth not. Who knoweth the mysteries
of the will, with its vigour? For god is but a great will pervading all
things by nature of its intentness. Man doth not yield himself to the angels,
nor unto death utterly, save only through the weakness of his feeble will.――Joseph Granvill
(そしてその中に不滅の意志がある。その活力を伴った意志の秘儀を、だれが知ろうか。なんとなれば、神とはその熱烈な本質によって、万物に浸透している、偉大なる意志にほかならないからである。人はただ彼のひよわな意志によるのでなければ、天使にも、また死にも、完全に屈服することはないのである。――ジョゼフ・グランヴィル)
All bodies with which we are acquainted, when raised into the air and
quietly abandanned, descend to the earth's surface in lines perpendicular
to it. They are therefore urged thereto by a force or effort, the direct
or indirect result of a consciousness and a will existing somewhere, though
beyond our power to trace, which force we term gravity. ?――Sir John Herschel
(我々のなじんでいるすべての物体は、空中に持ち上げられ、静かにはなたれると、地面に垂直に落ちていく。それらの物体はすなわち、ある力ないし努力によって、地面へとせきたてられるのである。我々の能力ではとらえられないが、どこかにひそんでいる、ある意識およびある意志の結果である。この力を重力と名づけている。――サー・ジョン・ハーシェル)
Where there's a will, there's a way.――a proverb
(意志のあるところには道が開ける[精神一到なに事かならざらん]――ことわざ)
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通常、意志(Wille,will,volonte)と称されるものは、日常においても、心理学的にも、意識を伴うなんらかの決断の働きであり、その結果、身体の内面または外部において、なんらかの動きまたは行為・行動が生じることになる。この心身的過程において、とくに意志の部分をなすものは、心理的要素であり、それはなんらかの心の動きとその意識とからなる。さらにこの両者を区別することで、心の動きの部分を本来の意志とし、意識をその付加物とすることができよう。しかしこの区別は、意志についてさらに深い洞察を必要とする。
この意志過程を、時間的に分かつならば、意識はさておき、まずなんんらかの決断への心の動きを触発する、刺激stimulusもしくは動機motifがあり(それらは感覚的でもあり、観念的でもある)、それに応じる、一般的に言って、なんらかの意欲Wollenが生じる。この意欲自体は、さまざまな内容を持ったものであり、刺激や動機に応じて異なるであろう。それは快苦であったり、衝動的・情動的な動きであったり、不安や恐れや気がかりといった情念や単なる気分であったりするであろう。それらがわきおこり、たかまり、なんらかの行為の決断を迫るとき(ここには知性による判断Urteilが加わるが、判断はまた意志とは別の機能である思考に属する)、意志が発動するといってよかろう。すなわち意志のプロセスには、その前提となる情動的な前段階と、その結果としての行為・行動の発動段階がある。
その中間に働く知性的な判断すなわち思考は、むしろ意志に対するブレーキとして機能するであろう。それは意志の決断の一つの要素ではあるが、最終的に行為を決めるのは意欲Wollenであると言ってよかろう。知性そのものは認識機能であって、それ自体で力を及ぼすものではないからである。むしろ知性は意志から力を汲むといってよいだろう。意志はいわば情動的な記憶によって、知性を発動させ、その判断に応えるのである。
このプロセスにおいて、純粋に意志と呼べるものは何であろうか。それを漠然と意欲Wollenと呼ぶほかはないであろう。あるいは何らかのネガティヴ、またはポジティヴな欲求・欲望Begeheren,wantがそこに働いている。この<欲>の根源は何であろうか。それを探究すれば、意志の本質もおのずと明らかになるはずである。これを現象学的に、内省的に探究する道もあろうが、とりあえず、客観的・経験的に、人間が一介の生命体であることから、生命現象としてそれを探究するのが、てっとり早いであろう。欲とは客観的に生命欲にほかならない。生命はどのように自己維持をはかり、種の存続をはかるか。そこに欲の答えもある。この生命体の欲全体を、生への意欲Wollen zum Lebenと名づけてよかろう。この欲を充足する過程が、そもそも意志の過程の根本なのである。生命欲は、生命体であるかぎり、誰もがよく知っているので、その分析はここでは不用であろう。
意志の本質は、生命体のあらゆる欲望であることは明らかである。すなわち客観的に言って、生命のないところには〈意志〉はないのである。投げられた石は、自らの意志で地上に戻るのではない。素粒子は自らの意志で結合したり、反撥したりするのではない。しかしながら、内省的に意志を探究する場合はどうであろうか。私は身体という、この私の物質的存在を自在に動かすことができる。そのとき私の意欲が、物体そのものを動かす起因となっているのである。ここに現われてくる私の意欲もしくは情動は、なんらかの<力>の発現ではないのか。私の意欲が物体である私の身体に対して、力として働きうるならば、それは物体間の力と、必ずしも異なったものではないであろう。たとえ意欲そのものが、生命体における物理化学的な物質現象であるとしても、それを私の意識が私の意志としてとらえることにより、私は意志において物体である私の身体を支配できると言ってよいであろう。
この内省的な類推によって、自然現象におけるあらゆる力の発現が、意志にたとえられることになる。さらにこの内省的な意志過程は、意識において、あるいは現象界全般において、最も実在性かつ現在性のある出来事であることを強調しておく。意志的決断ほど、この世界で実在的・現実的なeventはないのである。外界の存在の実在を疑いえても、おのれの決断する意志の働きは、意識のあるかぎり絶対に疑いえないのである。この意志の絶対の実在性(schlechthinnige Realitaet)が、世界に投影されて、この世界・宇宙そのものが意志的であると感じられるのである。さらにそれを認識論的、形而上学的に論証するならば、ショーペンハウアーの世界意志の形而上学となる。
意志が<世界意志>として形而上学化されることによって、意志は必ずしも意識を伴うものではなくなる。むしろ世界は圧倒的に盲目的で無意識なのである。それは人間の意志にまでおよんでくる。最近の心理学の研究においても、意志の意識的決断がなされる前に(0・5秒前に)、脳はすでに無意識に決断しているのであることが確かめられている。意識はモニターの位置に格下げされている。脳という客観的物質の世界に属するものが、むしろ世界意志の本質をなしているのである。ここで意識というもの、あるいは現象というものの本質が問われてくる。
意識に現われるものは、その内容において(客観的にいえば生命体の)感覚を起源としており、その範囲において現象と称されている。通常、あらゆる学術は、形而上学でないかぎりは、この現象の範囲においておこなわれる。しかし、そもそも現象(phenomena,apperance)という言葉にもはっきり示されているように、その本体が(たとえ不可知であるとしても)、ネガティヴに示唆されているのである。もし宇宙の本体が、圧倒的に無意識であるならば、宇宙において〈現象〉の占める範囲は、限りなく小さいといえるであろう。その限りなく小さな世界で、いかなる学術が行われようと、その認識範囲は取るに足りないものといえよう。かといって、現象を超えた形而上学が、どのような付加的認識を与えてくれるかは、また別の問題であるが。
ショーペンハウアーの意志の形而上学は、現象を唯一のrealityの場とする学術においては、生命現象を無機界にまで及ぼす、カテゴリーの越境(
kategoriale Grenz-Ueberschreitung)とみなされもしよう。しかしここでのカテゴリーは、現象と実在であって、現象から実在への架橋は、必ずしもまちがった越境ではなかろう。たしかに不可知unerkennbarなものを、可知erkennbarとする論法は、ハルトマンの言うAporetik(解決不能問題)に属するが、その一つの解決の試みといえるであろう(*)。
(*)cf:A.Schopenhauer Von der Erkennbarkeit des Dinges an sich (物自体の認識可能性について〉 |
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| 2025年11月8日(土) |
| 飯能美杉台公園ウォーク |
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八高線の東飯能または西武線の飯能駅から、南に15分、または5分も歩くと、入間川に架かる大橋に出る。橋からの川の眺めは、いつ見てもよい。

橋の先が美杉台地区で、ウォーキングに適した公園がある。橋を渡って、すぐ右の川沿いの道路を5分もゆくと、キリスト教会と向きあって、美杉台公園の入口がある。森閑とした森の公園である。

ちょうど雑木が黄葉(紅葉)し始めている。低い丘の道を登っていくと、上に広場がある。そこをぬけると団地が広がっている。街路樹は楓(蛙の手)に似た葉の、フウという樹であるらしい。鮮やかに色づいている。

団地のへりをまわって少し行くと、あさひ山展望公園につく。ちょっとした芝生の丘である。長い階段の先に広場があって、東西南北が見渡せる。

元気があれば龍崖山までのぼって、吾妻峡に下れるのだが、健康ウォークとしては無理をしないのがよい。 |
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