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2025年7月27日(日)
加治丘陵縦走ウォーク
 若いころは、真夏の炎天下を、あえてウォーキングすることによって、夏のエネルギーを身体に蓄え、一年間を健康に過ごすということを、毎年行なったものである。ある年齢からはそれができなくなる。日焼けすることは何でもなかったのが、皮膚が過敏になり、紫外線に耐えられなくなってきたからである。全身に発疹が起こったりするので、医者にかからねばならない。数年はおとなしくしていたが、やはり夏になると、暑さに負けないように、あえて炎天下を歩きたくなる。しかし無理はできない。
 そこで外出するコースとして、なるべく駅からすみやかに木蔭に入れる、公園や緑道を選ぶことになる。紫外線に対しては、万全の準備をおこたらない。とにかく膚をさらさないことであるから、腕はもちろん、首まわり、顔も、アラビア人のように、バンダナをたらして保護する。こんないでたちであっても、夏日の炎天下に、高齢者があちこちほっつき歩くなどは、身内からは異常者扱いされる。
 とはいえ、近年の異常気象で、すでに7月半ばで本格夏日である。いずれ日本列島あたりも、北海道が最高気温を記録するくらいであるから、亜熱帯に属するようになるかもしれない。高齢者も、熱中症などでまいっているわけにはいかないから、暑さに対する耐性をつけておくべきであろう。
 そういうわけで、先日、手頃なウォーキングコースを探って、加治丘陵に決めた。西武池袋線の仏子駅から元加治駅にかけて、南側に広がる、低い丘の連なりである。ちょうど縦走するような道筋で、ハイキングコースが設けられている。最高点でも、標高200メートルはないであろう。

  

 仏子駅でおりて、武蔵野音大方面の車道を、ゆっくりとのぼっていく。音大のかたわらを一キロほどのぼったところに、南ハイキングコースの入口が、右手にある。そこからはハイカーの天下である。舗装された山道がさしたる高低もなく、目的の桜山展望台までつづいている。両側はほとんどが杉林で、ところどころに雑木林と称される広葉樹が混ざる。日傘を差したお婆さんが、ゆっくり歩いているくらいであるから、散歩コースといってもよい。途中の、木の幹をベンチ代わりにしたところでひと休み、昼食を取る。こんな都会近郊にも、熊が目撃されたという注意書きがあるのは、いったいどこから来たのであろう。

  

 桜山展望台は、思ったより階段数があり、やっと登りきると、疲労が吹き飛ぶような、広い眺望が、東西に開けている。

  

 帰りは、展望台から坂道をくだって、すぐ右手に入り、北のハイキングコースを、仏子駅まで折り返す。途中、元加治方面へくだる細い山道は、誰も通らないようで、蜘蛛の巣が張っている。北のハイキングコースは、かなりの高低差があり、丘の麓までくだっていく。平日なので通る人もなく、誰にも会わない。途中広場もあり、野の花(写真はオオバギボウシ)も咲いている。孤独なウォーカーの天国である。全コース、6キロほどであろうか。 

  
2025年7月25日(金)
直覚知について
 (1)

 唯一実在の時は、流れ行く現在である。過去はすでになく、未来はいまだ不在であり、あるいは永遠に来ないかもしれない。過去の記憶の先には誕生前の無が、未来の先には死の無がある。現在を形成しているのは、ある種の直覚(direct perception)あるいは直知(direct knouledge)である。私が何かものを見るとき、私はそのものを直接知っている。それ以上でも、以下でもない、私の認識の状態を、直覚知としてよいであろう。そこに加わる、私の回想的記憶や想像などは、あるいは情念の反応などは、すべて付加物である。すなわち、純粋の現在を形成するものは、いまある私の意識そのもの、もしくは直覚そのものの存在であるといえる。その現在が流れて行くことによって、あるいはその現在に想像や記憶などの働きが加わることによって、わたしは直知の状態から抜けだし、あるいは抜けださざるを得ないのである。
 人生の不幸は、この流れる時の中にある。みずから現在の時を流れの中におくことによって、私は過去に苦しみ、あるいは過去にとらわれ、また未来を思い煩うのである。実在的であるのは、かりに流れるとしても、現在のほかにはないことを思えば、この現在を最大限に活用することが、幸福感の要諦であることは、古来あらゆる賢者が見抜いたことである。過去にとらわれず、未来を思い煩わない、この単純な原則(Maxime)が、人間にはじつに難しいことなのである。 
 では現在の直覚知とは、どのようなものなのであるか。感覚的、感性的なものは、誰にもわかりやすい。視覚を例にとれば、目に写るものは、本来雑然とした色彩のかたまりにすぎない。それは対象と呼ばれる以前の状態であって、いわば見ることそれ自体である。その雑然とした渾沌が、知覚の働き、あるいは脳の認識処理の機能によって、空間的に形と色のまとまった対象として、仕上げられるわけである。その最終段階では、もはや直覚知とすることはできない。すでに対象であることによって、記憶の秩序の中に取り込まれ、想起や、情念や、観念連合といった、知識の背景にとりまかれるからである。それらはすでに、構成された知識なのであり、そこから過去へのとらわれや、未来への配慮、そして人生の苦悩が発生するのである。
 構成知をすべて排除した感覚そのものは、視覚においては色彩の雑然としたかたまりにすぎないと述べた。じつは、この状態を絵画において実現しようとしたのが、印象派である。対象から感覚そのものへさかのぼるならば、そこに現われてくるのが、感覚における直覚知である。何ひとつ思うことも考えることもなく、事物を見つめつづければ、そのものの意味というものが失われてゆき、純粋な感覚そのものが発現するのである。それをショーペンハウアーは、美の純粋観照と呼んでいる。それが美であるのは、もはや物が対象として意識や記憶を刺激することがないからであり、純粋に受動的な、あるいはショーペンハウアーの用語では、純粋に客観的なまなこでは、そこに心の平静がおとずれるのである。
 五感のすべてに、なんらかの直覚知が存在するであろう。聴覚においてはどうか。整然とした音階やリズムは、音を構成し、ある時間的にまとまった対象化を行わせる。それによって意識や意欲を刺激し、想像や記憶をかきたてる。構成以前の音とは、あるランダム性をもって現われる、音そのものであろう。日本音楽や現代音楽に、それに近いものがある。それは意識や意欲を沈静させ、音そのものを時間から超越させる。それが聴覚における、音の直覚知である。
 触覚においてはどうか。なにかに触れているという感覚は、すでに対象化された触覚である。触覚そのものを知るには、じつは外界ではなく、身体内部の感覚に注意を向けるべきである。痛み、痒み、快感といった、もはや単純な触覚ではなく、身体そのものと密着した、あるいは場合によっては情感をともなう、なんらかの内的状況である。それを一般に気分(Stimmung)といってよいだろう。気分はある種の直覚知であり、それを対象としてとらえることは難しい。それが臓器感覚とむすびつくことがあっても、気分そのものは直接臓器の感覚ではない。気分が最も良い状態において、触覚というものの直覚知が現われているであろう。そこにはなんの刺激も、含まれないからである。むしろ気分が刺激されることで、そこに触覚の対象化が行われるのであり、気分は触覚のdefault状態なのであろう。
 嗅覚や味覚は、あまりにも過敏に過ぎて、それが元来そのものとして、どういうものであるかを知ることは、ほとんど不可能である。嗅覚や味覚は、発生したとたんに、刺激として対象化されるからである。そしてただちに、その原因である対象へと知覚が向かう。しかしその刺激が強烈で、もっぱら現在的であるために、現在性の意識や意欲と強く結びつく。したがって、現在に生きる快楽主義者にとっては、なくてはならない感覚である。
 想像においては、想像がすでに構成知の産物である記憶における観念を対象としている以上、そこには直覚知はない。現実における感覚の影といってよいのであるから、そこにかりに直覚知が可能であるとしても、感覚においてすでに確かめられたそれと違いはない。そのことは夢においても同様であるが、夢は想像以上に強烈な意識をもたらすので、その直覚知は現実の感覚を超える場合がある。むしろ、夢においては、頻繁に直覚知が起こりやすいのである。それは現実の知覚の場合のような、几帳面な対象化が、夢のなかではゆるむからである。色彩だけ、触覚だけといった、特別な意識状態が夢のなかでは生じる。それは直覚知であることによって、意識を沈静させる、心地よい夢である。

 (2)

 五感と結びついて、それに強烈な現在性を与えるものとして、欲望の充足にともなう快感あるいは快楽がある。快感ないし快楽は、非常に特殊な感覚であるといえよう。感覚そのものでありながら、同時にそこに強弱さまざまな<心地よさ>がともなうのである。いわばそれが欲望の充足の<報酬>である。生理的には特殊なホルモンが分泌されるのである。ホルモン感覚あるいは報酬系感覚といってよかろう。
 欲望には、基本的に生理的なものと、社会的なものとがある。もっとも強力なのは食欲と性欲であり、これなくては生命体は存立しえない。さらに付随的な生理的欲求としては、運動と睡眠の欲求がある。社会的な欲望は、これら生理的欲望の上に、さらに心理的競争から来る欲望が加わったものである。これら欲望の充足には、強弱さまざまな快感ないし快楽(すなわち満足感)がともなうのであるが、生理的なものはより肉感的であり、社会的なものはより心理的・観念的である。
 いずれにしても快感や快楽は、それ自体として直覚されるものであることにおいて共通している。もっとも強烈な性感や食の満足において、そのことがもっともよく覚知されるであろう。性や食の快感は徹底した現在性の中にあるのであり、過去未来の意識ばかりか、周囲の環境の意識すら失われる。その快楽の感覚への集中性において、絶対の直覚であるといってもよい。この境地がエクスタシーと言われるものである。
 食と性の快感は、人間に限らず、激越な生存競争の中にある、あらゆる生命体の、唯一の自己救済の手段であるといえよう。生命体が、緊張と苦悩から解放されるには、食と性の快感のほかにはないのである。たいていの人間も、社会的競争のストレスからの解放を、そこに求めているのであるから。

 (3)

 五感とそれを基とする精神機能においては、直覚知は、それを努めて起こすことは比較的容易であるが、思考においてはどうであろうか。思考においても、対象を思索しない、直接の知識のようなものがあるのであろうか。もしあるならば、それは知識というもののあり方を、根本から変えるであろう。ものを考えるということは、すでに構成された観念、もしくは概念を対象とすることである。その根底には記憶があり、記憶に蓄えられた観念もしくは概念を操作することによって、思考が可能になる。この前提からして、思考には直接知もしくは直覚知などは存在しないことになる。しかし実際的に、思考の過程は必ずしも意識されるわけではない。自然とわきでてくる場合が多いのである。ある種のautomatismがそこにあるのである。このオートマティズムを支えているのが、言語であると言える。
 ある言語を習得してしまえば、思考は言語に従って、自動的になされる傾向があるといえよう。言語は音声もしくは文字であり、それらを耳にしたり目にすれば、そこから自然とその意味であるものがわきおこる。それは言語というものを媒体とした、ある種の直接知ではなかろうか。もちろんその背後には、記憶のメカニズムが働いていなければならない。しかし言語化したことによって、それはある種の超越性を持ち、あるいは第二の天性として本能化されているとも言えよう。この本能化された言語による思考を、言語の知覚とともに生じる、思考の直覚知としてよいであろう。その特徴は、もはや記憶に全面的に依存しないということである。思考そのものは現在における知であり、それ以上でも、それ以下である必要もない。かりにそれが、過去を思索し、未来を思索するとしても、その思索そのものは現在にとどまる。思索は現在にとどまればよいのであって、過去にも、未来にもおよぼす必要はない。今思索していることがすべてであって、それは過去に残すことも、明日に引き継ぐこともないのである。イデアの観照が、瞬間における永遠であるように、思索における直覚知も、今において永遠なのである。
 思索が単なる道具でなく、あるいはなにかの対象のための従属物ではなく、それ自体として価値を持つためには、思索することそのものが、直接の意味をもたねばならないのである。それを可能にするのが、思索の直覚知である。しかし記憶への執着が、それを非常に困難にしている。思索が回想や想像に引きずられるからである。そもそも記憶にもとづく言語による思索が、その元凶なのである。ピタゴラス派は、したがって言語に換えて数理を永遠の直覚知とした。数理もしくは単なる記号による思索が、もっとも直覚知に近いのであろう。数理や記号には過去も未来もなく、なんらの人間的体験も結びつかないからである。しかし単なる数理が、心の平静をもたらすであろうか。数学者はイデア界に最も近いところにいるのだろうか。難問を解き明かしても、精神を狂わせる数学者もいるのである。
 具体的に、思索の直覚知はどのようになされるか。言語の基礎がなっているならば、ただ単に言語の読解とともに、思考の働くままに、論理を追っていけばよいであろう。そこに一切の情緒的、意志的要素を介入させないようにする。すなわち、言語的、機械的記憶以外は、記憶の回想をシャットアウトすることである。いわばコンピューターのような、メカニカルな思索を行なうことである(*)。思索が現在の直覚知にとどまるならば、思索は非歴史的になり、知識や思想の発展ということはなくなり、思索それ自体、知識それ自体が、思索と知識の意味もしくは価値となるであろう。アルマゲストとニュートンは、同等の価値を持つのであり、哲学はプラトンもしくはアリストテレスで十分なのである。これが直覚知の本質的あり方であり、知性の現在的働きである。

(*)人工知能研究者によると、AIの思考の根本は言語的〈予測〉であるという。途方もない分量の言語の使われ方の予測を行なうことによって、ほぼ人間と同じ思考が可能になる。人間の思考が言語的・記号的に構成されるかぎりにおいて、それをAIが予測することが可能なのである。逆に言えば、言語操作の範囲で思索を行なえば、もっとも現在的な思考が可能になるということであろう。

 このような直覚知は、もちろん社会的にはなんの役にもたたないが、時空において限られた存在を強いられている個体の知性にとっては、現在的存在がすべてであるから、感性の直接的覚知ばかりでなく、知性もまた現在的働きにとどめることによって、時間の迷妄から解放されることになろう。美味を味わい、よい音楽を聴き、さらによき論理や知識に頭をめぐらせることは、人間の可能な能力の、最善の使い方である。感覚と知性の楽しみは、それ以上でも、それ以下でもない。真美善は、今この時、この瞬間においてのほかには、存在しないのである。
 結局、直覚知の見地からは、多くの本を読むことも、多くの知識を蓄えることも、無用で無意味である。新しいことを知ることが、とくに価値あるわけではなく、一つ確かなことを知っておけば、とくに困ることはない。余分な知識や思索で、知性を煩わせる必要はないのである。人類が知るべき基本知識はすでに出来上がっているのであるから、細かな知識の進歩は日進月歩の目まぐるしさであるとしても、もはやそれに知性が煩わされる必要があろうか。人間が人間であり、人類が人類であるかぎりは、人間の知情意には、これ以上なんの進歩も見込めないのであるから。
 
(4)

 直覚知が、社会生活において、また実生活においても、さしたる用をなさないことは、直覚知の非時間性、観念連合の無視、非因果性といった本質からして、当然のことである。いわば現実存在(Dasein)、実存(Existenz)を無視する、超越的認識の立場であるからだ。この純粋なKontemplationの状態において、時間の現在的流れに身を任せるのである。時間はこの状態においては、一種のコマ送りとなるであろう。Werdenの意味が失われて、純粋な真美善がそこに発現する。いわば存在のカレイドスコープである。プラトニズムで言うイデアも、このようなものであるかもしれない。しかし人間の感性や知性に現われるかぎりにおいての、影もしくは写し絵にすぎないが。直覚知は、人間の能力において可能なかぎりでの、純粋な幸福への道である。