2025年10月3日(金) |
死と不滅 |
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死は突然の生の終了である。数日前、あるいは数時間前まで、見たところは普通の状態であった病者が、あたかも機械が突然故障して動かなくなるように、こときれてしまう。死においては、生命体は機械と同一の原理で動き止む。有機体がその機能を失うのと、機械装置が故障するのと、基本的メカニズムにおいて違いはないのである。
生命体の死が、とりわけ人間の死が、特別に思われるのは、そこに記憶がからむからである。機械どうしは、通常記憶によってつながりあうことはない(コンピューターは例外であるが)。人間の死においては、死にゆくものの記憶は、残された者らの記憶の中に保存される。死によって有機体のメカニズムは失われても、あたかも記憶だけが取り出されて、存続し続けるかのような、錯覚がそこに生まれる。死者の記憶は死とともに失われるのであるが、残されたものが記憶を受け継ぐことによって、あたかも死者の一部が失われずに存続しているかのような、実体化がおこなわれるのである。
記憶も感覚も意識も思考も、死によって完全に失われる。それはあたかも、精緻な機械が内部に故障を来たし、完全にその働きを停止するのと同様である。機械は修理が可能であり、もとの働きが回復するが、有機体は死によっていったんその機能が停止すると、絶対にもとの機能にもどることがない。それは部品に交換が利かないからである。記憶・感覚・意識・思考といった脳の機能は、いまのところAIによっても修復困難である。もし交換が可能になったとしても、その時はそれらの機能は器械と同様なものとなり、生命体とは別のものとなるであろう。すなわち、有機体に固有の死が存在しなくなるのである。
有機的生命体に固有の死は、有機体どうしの間で記憶もしくは記録を受け継ぐことによって、ある種の不死の観念を生みだす。個体の生は、死後も類の中にその記憶が保存され、持続するのである。この無意識のレベルでのメカニズムが、遺伝子であり、DNAによる個体の複製である(*)。この個体の複製による類の存続が、意識に反映されると、個体間の記憶の相互的保存による、死後も存続する実体化された記憶、すなわち霊魂の観念が生じることになる。残るのは、実際には類的記憶に過ぎないのであるが、あたかも個人の霊魂が記憶を保持しているかのような錯覚におちいるのである。
(*)親の遺伝子は子の中に半分ずつ伝えられる。孫の中には、さらにその半分が伝わり、遺伝情報は代を重ねるにつれ、薄れはするが、少なくとも連綿として個人の遺伝子は存続するのである。
この錯覚はある必然性を持っている。類的存続の意志、すなわち世界意志としての生への意志は、絶大にして不滅であり、個体の霊魂の観念もその不滅性にあずかった錯覚なのである。世界霊としての世界意志は不滅であるが、個の魂は生成消滅する一個の現象にすぎない。現象の根底にあるものとの混同が、個の魂の不滅への願望となる。人は生まれる前にそうであった状態が、死んだ後の状態でもある。生以前のことを何一つ思い出せないのなら、死んだ後にも、なんの記憶もない状態と同じ状態なのである。すなわち、生以前が無であるならば、死後も無である(**)。このごく常識的な考えが、たいていの人間には、なかなか飲み込めないのであるが。
(**)cf:A.Schopenhauer Ueber den Tod und sein Verhaeltniss zur Unzerstoerbarkeit unsers Wesens
an sich ショーペンハウアー「死と我々の本質自体の不滅性との関連について」
それならば、現象的に無である個々の人間には、それ以外の可能性が一切ないのであるか。類的意志、世界意志が不滅であるのはよし。しかし個としての私は、その不滅性に直接あずかれるわけではない。一つ一つの波浪は、海そのものに飲み込まれれば、消滅して海として存在するであろう。しかし個である時は、海そのものではない。個の原理は、類の原理とは異なるのである。それゆえに、ふたたび個として、現われてくる。海の波として、果てしなく生成消滅を繰り返すのである。それはなぜであろうか。
三一体の理論によれば、個体の根源には純粋自我、もしくは超越的自我が世界の根本的本質として存在する。世界意志がIndividuation(個別化)を遂げるためには、純粋自我が世界創造に参与するほかはない。個別の存在が生成消滅することによって、時間空間における世界が発現し、階層的に構成されうるのである。その頂点において、個体における認識が発生し、世界は盲目の意志から、意識をともなった知的存在者によって、光の世界として切り開かれるのである。
個としての存在は、類として不滅であるのではない。個の本質である、純粋自我において不滅なのである。個の本質において不滅である故に、限りなく生成消滅をくり返しながらも、現象は止むことがないのである。いわば世界意志が発現するためには、個が無限に生成消滅をくり返すことが必要なのである(***)。このようにして、個の現象は一にして全である純粋自我に発して、無機的段階、有機的段階をへて、最終的に認識を生み出し、世界意志の目となって、盲目の力を抑制し、究極的には根源の自我に還ることによって、意志もろともに寂滅の可能性を開くのである。
(***)現代物理学において、空間は単なる空虚ではなく、仮想粒子の対が生まれ、たちまち消滅する、果てしない生成と消滅の場なのである。この無限のエネルギーの発生の場である空間は、最も低次の段階における、世界意志の発現(客体化)であるとしてよかろう。そこでは、すでに三一体としての個々の粒子が、生成消滅をくり返すのである。
個体の死は、一にして全である純粋自我の死ではない。むしろ死は、一にして全である純粋自我に還りそこなうことである。この帰還は、世界意志とイデアと純粋自我の三一体の産物である、個体の存在にとって、限りなく困難な道である。釈迦も無数の前世、すなわち無数の個体としての存在をへなければ、ニルヴァーナすなわち純粋自我への帰還を果たせなかったのである。このことを、むしろポジティヴに考えるべきかもしれない。
記憶・感覚・意識・思考としての個体は、死において間違いなく滅びるであろう。しかし、純粋自我としての本質そのものは滅びない。再びいずこかの宇宙、どことしれない時間と空間のはざまに、私は個の生命体として生じてくるであろう。このことを生死において、いくたびもくり返すであろう。なにゆえに、今現在の苦の生命に執着するのであるか。次の生命に、今よりは多少ましな存在を期待して良くないわけはない。
それは単純な因縁や因果による、輪廻転生などではなかろう。死は個体にとっては、すでに時空を超えた世界である。個体は、いわば死によってすでにリセットされ、再フォーマット(初期化)された、内容的には無に等しい状態にある。三一体としての自我が、この狭苦しい地球の上で、生死をくり返すなどは、不合理でナンセンスである。この限りない宇宙のなかでの、どのような生命環境であろうと、転生の可能性はあるのである。生命の本質は苦であるから、苦から苦への転生ではあるが、三一体の解消、すなわち純粋自我への帰還が、そうおいそれとは叶わない以上、この人生にこだわり、執着するよりは、ましであるかもしれない。 |
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2025年10月1日(水) |
巾着田の彼岸花 |
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西武秩父線高麗駅で下車して、指示標識どおりに十五分もたどっていくと、高麗川がU字形に曲がった巾着田につく。毎年この時期、数万本もの曼珠沙華を咲かせている名所である。今年は運よく最盛期におとづれた。いたるところ緋色の絨緞である。



この時期、どこを歩いても彼岸花を見かけないことはないのだが、ここまで貪婪に美にひたってしまうと、かえって一本、二本咲いているのを見かけると、いじらしさを覚えてしまう。
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2025年9月28日(日) |
苦の本質 |
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苦痛とは何か:身体的であれ、心理的であれ、苦痛の感覚はある特別の質を持っている。苦痛そのものの感覚を純粋にとらえることは、はなはだ困難であり、不可能であるといってもよい。苦痛が、心身的に、強い拒否反応を起こすからである。拒否する対象を、冷静に、純粋に、その本質を直観することなどは、不可能なのである。むしろこの拒否的な反応、自己自身からその感覚を排除しようとする、対象に対する違和感こそが、苦痛の本質をなすといえるのである。
苦痛はおのれの感覚でありながら、同時にそれをおのれとは異質なものと感じる、特殊な感覚のあり方である。それはおのれの心身に対して、おのれの外からのなんらかの〈攻撃〉として感じられる感覚である。その点で、快楽がおのれ自身のものとして、同化的に迎えられる感覚であるのとは、正反対である。苦痛は直ちに心身に対する、すなわち生体にたいする、生体以外からの敵対的刺激として対象化される。すなわち攻撃的異物としての感覚に等しいのである。苦痛が生じるときには、必ずなんらかの同化できない刺激や、対象が存在しているのである。
苦痛は身体的であれ、心理的であれ、確かに私自身の苦痛の感覚である。しかし私はその感覚そのものに、とどまっていることができない。それを私自身から排除しようとする意識において、そこに因果連関を適用し、私以外の存在へと、私の認識を向かわせる。すなわち、対象化、客観化への、強い動機となっている。私は苦痛によって、世界を認識するといってよいかもしれない。動物は誕生と同時に、まず飢えという欠乏の苦痛を覚える。これを排除するには、おのれの唇、さらに母親の乳房という、対象化を行なわねばならない。その過程がオートマティクであるとしても、まず苦痛が排除すべき対象として触発しなければ、この対象の連鎖は生じないであろう。生まれることが苦であるという、ブッダの直観は正しいであろう。
苦痛がつねにおのれから排除すべき感覚であるという、生命体の感覚の必然的あり方から、悪の観念も生まれるであろう。〈悪〉とは。起源的に心身から排除すべき苦痛にほかならない。苦のあるところには、必ずなんらかの悪の観念がともなう。できるかぎり苦のない状態にあることが、基本的に<善>と称されるのである。これに対して、快楽は善悪の見地からは相対的である。過度の快楽が結果的に苦痛をもたらすならば、悪であり、極端にはしらない快楽が善なのである。
苦痛がおのれの心身の見地からは、徹底してネガティヴであるにもかかわらず、禁欲主義が、むしろ好んで苦を受けようとするのは、この意味である種の倒錯であるといえよう。敵対的刺激である苦痛を、好んでおのれの心身に加えようとすることは、ほかに苦痛以外のなんらかの快楽の原理がなければなるまい。一つは苦痛が、それ自体快楽に転換されることであり、それは性的なMasochismusにおいて、典型的に見られる。これは主として心理的な快への転換である。みずからに、苦痛によって懲罰を加え、それが心理的満足をもたらし、さらに性的快感を高めるのである。宗教者の受苦も、これに近いケースがあるであろうが、純粋な殉教などは、苦が天国における報酬をもたらすという信念にもとづくであろう。いわば、本来心身の敵、悪である苦痛を、天国の代償として受け入れるわけである。絶対的至福というものが、どのような心理状態であるかは、凡愚には知りようもないが、そのためにはもはや人間であること、生命体であることをやめねばなるまい。
ショーペンハウアーが苦痛はポジティヴであり、快楽はネガティヴであるというのは、苦痛の根源が欠乏にあることから、反復的な欠乏が先であり、その充足の快楽は一時的で、相対的なものであるという意味であろう。苦痛はしかし、おのれの心身の外からの攻撃でもあるから、その意味ではネガティヴであり、それを排除しようとする快の追求は、ポジティヴであるといえるだろう。ただし、いずれにしても苦痛は快に先だつのである。苦痛が生命体の自己保存の、本来的な原理であり、ポジティヴな本質であり、それの排除の結果である快楽は、あくまでもネガティヴで従属的な本質なのである。
それでなくても、個体は自己保存の本質からいって、つねに快楽にとどまっているわけにはいかない。苦はいわば個体の危機に対する警戒装置でもあり、苦をもたらす対象の排除によって、個体の安全を確保しようとする行為のきっかけとなるのである。生命体が賢くなるのも、苦のおかげである。その意味で、禁欲主義は個体保存の原則にかなっている。どのような快楽主義者も、生存の基本においては、禁欲的であらざるをえないのである。 |
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2025年9月16日(火) |
自然とは何か |
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自然:古代ギリシャの自然学では、自然 physis (von phyein,生じる、生まれる、から)とは感覚でとらえられる事物の世界であった。同時にそれは現象の世界であり、真の存在は、思考によってとらえられる概念もしくは形相の世界であり、現象とは区別され、したがって感覚の対象である自然界とは別の、超越的世界であるとされた。
この自然=現象という考えは、カントの批判哲学においても受け継がれており、自然を感性直観において成立する世界、すなわち現象と同じ意味で用いている。したがって、人間悟性は自然すなわち現象に法則を与えるという言い方がなされるのである。
自然界の認識が、感覚もしくはそれにもとづく経験によって成立するとする立場は、ある点で感覚に過剰な期待を寄せていることになり、また別の点では、自然認識を狭い範囲に限ることになる。一方では、自然あるいはこの世界・宇宙が、感覚の範囲内だけに限られ、他方では、もっぱら思考によって把握された概念的・理念的世界が,自然とはべつのものとされることから、二世界論の発想の起源となる。
感覚がとらえる、あるいは感覚に現われる世界は、物質、もの、質料(Materie,Ding,Stoff)の世界とされる。これらの<もの>は悟性(Verstand,understanding)によって概念化conceptualizeされ、すでに感覚そのもの(一時表象・印象)ではないが(二次表象・観念)、感覚と悟性の協働によって、この物質界を作り上げている(*)。この範囲が、古代ギリシャ哲学や、カントにおける〈自然〉であるといってよいだろう。
(*)素粒子の世界では、カントの言うa prioriな<純粋悟性概念>は因果律であれ実体であれ、すでに破綻しているが、日常経験の領域では、自然科学者も自然認識の歴史的発展において、正しさを認めている。(cf:Werner
Heisenberg Quantenmechanik und Kantsche Philosophie Reclam)
ところが現代科学が明らかにしたように、通常感覚がとらえているこの世界の<もの>なるものは、実のところこの世界の物質のほんの数パーセントを占めているに過ぎないのである。物質の圧倒的な部分はダークなのである。ダークマターやダークエネルギーが物質であるということは、それらがこの宇宙に作用Wirkungを及ぼしていることから、観測的に明らかである(物質の最も抽象的な定義は、Das
Wirkende である[*])。ただその作用が、人間の感覚にはとらえられず、単に概念としてその存在が推測されるのである。感覚にさかのぼれない物質が存在するということは、〈現象〉のみを自然とする考えを破綻させる。
(*)Die Materie, blos nach ihrer Beziehung zu den Formen des Intelekts, nicht
aber zum Dinge an sich betrachtet, ist die objektive, jedoch ohne naehere
Bestimmung aufgefasste Wirksamkeit ueberhaupt. Denn das Materielle ist
das Wirkende(Wirkliche) ueberhaupt und abgesehen von der specifischen Art
seines Wirkens.(A.Schopenhauer:Schopenhauer Lexikon Materie)
そもそも人間の感覚がとらええない物理現象は、いくらでもあるのであるが、例えば紫外線や赤外線は目にとらえられない。しかし皮膚に反応して、病変を起こすことで、感覚の範囲に属している。五感のいずれかに反応を起こすのであれば、感覚すなわち現象の世界に属するとしてよいであろう。素粒子もまた、単なる概念ではなく、加速器において、その存在を可視化できる。重力は見ることができないが、体が感じ、空間のゆがみとして可視化できる。たいていの物質的概念は、感覚に還元され、あるいは類推的に感覚でとらえられる。しかしダークマターやダークエネルギーは、その作用の結果から、その存在が推測されるにすぎない、なんらかの物質である。概念として把握できても、現象としては直接とらえられないのである。しかし因果律が適用できるということは、まぎれもなく物質であり、因果律が現象にのみ適用が可能であるかぎりにおいて、現象の範囲に属している。したがって、〈自然〉の範囲に入る。しかし概念だけの存在を、〈自然〉に含めなければならなくなるであろう。
実のところ、この宇宙は数式からなるとする、数学者の自然観は、すでに純粋な概念が自然の中に含まれることを主張している。古代の哲学者がイデアと称したものは、自然と対立するものでは、すこしもないのである。その点で、形相と質料を自然界の根底においたアリストテレスが(その目的論を別にすれば)、現代科学に近いであろう。自然とは、まさにこの世界、宇宙の可能的、現実的なすべてなのであり、人類のような知的生命体も、その存在と認識(先験的であろうとなかろうと)のすべてのあり方において、自然の範囲を出でないのである。
* * *
(以下9・28追加)
Natur、nature という語はラテン語の natura (de nasci 生む) から来ており、physis=Physik
よりも広い意味に使われていく。生成変化をうみだす原理として、本質や本性(Wesen,
essence)の意味を持つようになる。これは古代ギリシャのミレトス学派における
arche(根源の原理)に近い考えであろう。水や空気のような根源物質が、生成変化をとげて、この世界が成り立つとするのである。当然そこに、ある種の法則性が根底に考えられている。ストア派においては、自然の根底をロゴスであるとして、その法則性にしたがって生きることが理想とされる。自然は、感覚に現われた単なる現象ではないのである。
後世では、スピノザは自然を神と同義に用いている。すなわち自然は、神がこの世界を創造した際の法則性そのものなのである。英語で human nature という場合も、人間の自然的本性を意味する。当然ながらそれは、自然界の一般法則、とりわけ生命界の法則と一致することになる。ショーペンハウアーのお気に入りの文句、〈自然は嘘をつかない Die Natur luegt nicht.〉も、この自然法則の客観性にもとづいていよう。現象は欺くことがあっても、その本質である自然の理念 Idee は、つねに正しいのである。
ブルーノーの用語を用いれば、自然は Narura naturans(能産的自然)として、この全宇宙、全世界の創造原理であり、その存在論的本体としては、形相としてのイデアであり、全能
toute puissance としての世界意志である。すなわち自然は physical であると同時に
meta-phyisical でもある。Natura naturata (所産的自然)が、通常自然と称される、感覚的・経験的世界、すなわち現象界である。現象界を構成するあらゆる要素、感覚・知覚・概念・数理・先験的原理などは、すべて所産的自然であり、生命体としての知的存在である人間の、あらゆる現世的活動の場が、自然と称されるこの可能的・現実的な全宇宙なのである。 |
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2025年9月11日(木) |
触覚としての脳 |
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Even the human brain itself, by the modern testimony of histology and
embriology, "is, at its first beginning, merely an infolding of the
epidermic layer"; and thought, physiologically and evolutionnaly,
is thus a modification of touch.――L.Hearn Nirvana
生命体における脳の発生は、表皮細胞が湾曲してU字をなしたものであるという。すなわち脳の起源は触覚touchである。しかも表皮と表皮との、接触の感覚である。このことは発達した脳における、表象や思考や意識の働きに、あるヒントを与えよう。それらの働きは、すべて関係的なのである。しかも自己内部における関係である。表皮が、生体内部に、内在的な世界を作りだす、それが脳の基本的な機能の、いわば働きの〈場〉である。
表象が主観・客観の関係からなり、思考が表象間の関係の把握からなり、意識がもっぱら内在的であるのは、この脳の発生の起源から言って、不思議ではないのである。自己の身体を中心として、世界を内在的に把握する機能が、脳本来の働きだからである。手が物に触れる時、目が物を対象としてとらえるとき、耳が音を<外界>からの刺激としてとらえるとき、それらあらゆる感覚的事象を、脳は自己内部の<現象>として処理するのである。現象として処理しきれないものは、脳は把握することができない。人の脳は、蝙蝠のように超音波をとらえることはできないし、蝶のように紫外線をとらえることはできない。
感覚では処理できない超音波や紫外線は、思考の対象として、脳は外界に推論することができる。しかしそれによって外界そのものをとらえているのではなく、まさに脳が内在的であることの長所である<概念>の創出によって、いわば内界としての外界、内界における外界を、概念的に構成するのである。概念は、脳が触覚としての表皮の発達したものであることによって、触覚あるいは感覚そのものが持つ原理と、軌を一にするであろう。概念の関係は、感覚そのものから取り出されたといってもよいであろう。それゆえに、最も抽象的な、内在的な概念である数理が、同時に、感覚的な外界ばかりか、概念的に構成された外界、すなわちこの宇宙の構成と一致しうるのである。
あらゆる知識、学問の根底を、感覚に求めようとした感覚論者の主張は、結局は正しいのであるかもしれない。脳がそのようにできているからである。どんなに深遠な思想、神秘な思想も、所詮脳の内在的世界をぬけ出すことができないからである。そこからぬけ出すには、脳のない生命体でも考えるほかはないであろう。
* * *
(以下9・12追加)
脳のあらゆる機能が、表皮細胞の触覚に発しているということは、意識と称されるものの実質が、すなわちその<クオリア>が、感覚そのものの質にほかならないことになろう。しかも、感覚器とは異なって、感覚と感覚の接触であることから、感覚そのものの感覚であるといってよかろう。感覚器から伝わる刺激は、いまだ感覚ではなく、単なる神経細胞間の連絡であり、その刺激を感覚としてとらえるためには、脳内に生まれる感覚の感覚がなければならない。おのれの指がおのれの身体に触れる時、どちらが指で、どちらが触れられた身体であるか、不分明の状態が生まれよう。それが意識と称される脳内部の状態であろう。触覚という感覚器どうしが触発しあうことによって、感覚そのものも、意識も、思考も生まれるのである。
こうして成立した脳内の、内在的世界は、完全に窓のない自閉性をもつことになろう。感覚器の先に何があろうと、それは直接には、脳の内的世界には届かないのである。それは脳内の、さらに一段奥の概念の世界において、解釈されるに過ぎない。たとえれば、通常夢のなかでは、覚醒時の世界は、一切意識にあらわれないのと同様である。意識にあらわれても、それは夢の中で歪められて解釈されるのであり、それ自体夢である。このような思考が可能になるのは、いわゆる超越論的な立場に立つからであるが、この超越(transzendental)なるものも、実のところ、脳内世界をすこしも出でてはいない。現象とその本体(Ding an sich)の区別も、所詮脳内での、脳内を俯瞰した思考にすぎないからである。
それにしても、夢の例で言えば、夢の中で夢に気づいている場合があり、覚めようとして、なかなか覚められない苦悶を覚えることがある。もし脳内の完璧に閉鎖的な世界が、夢のごときものであるならば、なにゆえにこの感覚と意識と思考の自閉状態が、日々なんの苦悶もなく過ごせるのであろうか。そればかりか、夢の状態から、夢の一段上の夢のごとき、覚醒の世界に戻れば、安堵さえ覚えるのである。ここには超越論的な立場とは別の、より本質的な理由があるであろう。脳はそれ自体として、脳の生み出した内的世界に属するわけではない。脳として認識されるものは、たしかに脳内の感覚または概念にすぎないが、超越論的に言って、物自体としての脳自体は脳の世界には属さないのである。この物自体(生への意志)としての超越において、脳は脳の背後の、真の意味での外界の存在(それ自体が物自体であるが)に、絶対の信頼をおいているのである。認識ではなく、<意志>が脳を脳内から脳外に、無意識に超越させるのである。その無意識の信頼があるゆえに、誰もが行動においては、素朴実在論者なのである。
プラトン風に言えば、感覚・意識・思考の脳内世界は、ある種の洞窟である。たいていの人間はそのことに気がつかず、洞窟の夢から一生覚めることはない。しかし、ある種の人間は、夢から覚めようとする、胸苦しさを覚えるであろう。この自覚的超越への意志は、脳そのものを超えようとする意志であるから、その超越の境地は、もはや感覚・意識・思考ではとらえられない。不可知の世界へと、旅立つほかはないのである。いわば脳のない存在と化するのであるから・・・。 |
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2025年9月9日(火) |
多摩川渓流ウォーク |
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青梅線の軍畑(いくさばた)から御岳(みたけ)までの間の、多摩川沿いに、ウォーカーのための遊歩道ができているので、残暑のさ中ではあるが、健康ウォーキングにでる。
軍畑は無人駅であって、平日の真昼に、ほかに降りる人はいない。トイレだけはきれいであるから、まずよっていく。ほとんど家のない道を、青梅街道まで南にすこし下る。街道を渡ったところの橋から、川を見下ろす。川幅はかなりあるが、両岸はどちらも山がせまっている。

青梅街道ぞいに、西へ5分も行くと、遊歩道の入口がある。塵界とはしばしのお別れである。適度な木蔭のなかを行くので、日差しもそうきつくはない。

みぎわへ下りて行くことはできないが、センセン(潺潺)とした流れは見ていても心地よい。

途中には大岩や奇岩が見られる。モミジの大木もあるので、秋には見ものであろう。

橋の架かっているところでは、上流、下流の見晴らしがよい。寒山寺という無人の寺がある。ちょっとよってみる。ベンチでもあればよいのだが。

寒山寺の橋から先は、御岳まで、右手は人家に沿っている。左手の川のながめはよい。大学生なのであろうか、ゴムボートに幾人も乗って、ラフティングをしている。

御岳渓谷には、ちょっと面白い崖が見られる。橋から西への眺めもよい。

ここまで三キロほどのウォークであるが、二時間ほどは、ゆったり楽しめる。この時期、暑さをものともしなければだが・・・。ここへ来るまでに、往復三時間も、電車の中に座っていなければならないほうが、こたえる。 |
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2025年8月26日(火) |
Aphorismen16――存在ともの |
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1、存在(Sein)とは、根本において何であるか。有るということが有るとは、どのようなことか。このトートロジーは、なにを意味するのであるか。
存在がなにかである(Washeit)ということは、すでになにかが要請されており、存在そのものが、なにかから推論されることになってしまうであろう。有るということが有るとは、有るということについて、なにかを言いあらわしているのであろうか。もし言語がなければ、すなわち言語の立場を離れるならば、このことは理解できないことではない。しかしどのような理解か。あるいはどのような直知か。
2、この宇宙(もしくは世界)の存在を考えるならば、存在は圧倒的に暗黒であるといってよかろう。暗黒とは認識がないerkenntnislosことと同一であり、世界の存在は圧倒的に認識の範囲に属していないのである。有るとは認識の光に照らされることである。あるいは世界の存在そのものが暗黒であるならば、その一部が、あたかも暗黒の森の中の空地のように、存在者によって切り開かれることである。
3、存在Seinは認識者としての存在者der Seiendeによって知られる。この共扼関係によって知られる存在は、相対的であって、それゆえに存在は存在者にとって、圧倒的に暗黒なのである。存在者にとって存在は、存在のほんの一部がLichtung(スポットライト)として開示されるだけである。
4、存在が存在者の存在によって知られ、存在者の存在が存在のなかに開示されるならば、存在者が同時に認識者であることによって、存在者の存在に対する優位がそこに認められよう。存在が存在として問題になるには、認識者としての存在者がなければならない。認識者としての存在者とはなんであるか。
5、自己自身の存在を問題とする、存在者であるといってよかろう。存在自体はerkenntnislosであり、存在が存在自身を問題とすることはない。ここでのErkenntnisとは、もっとも一般的な意味での自己意識といってよかろう。この自己とは、自己の存在のことであり、自己の存在を問題とする意識である。この意識において、存在そのものが始めて問題となるのである。
6、存在者が存在の中にあるということ、このことの探究が、この世界の探究の源である。暗黒であるものを、存在者の認識の光の中におくこと、それが原初における存在の探究であった。ひるがえって、存在の無限の闇の中で、唯一開かれた、わずかな光の場所がある。それが存在者の存在である。
7、認識者の立場からは、認識のないもの、あるいは認識によって照らされないものは、暗黒である。しかし、認識がなければ、何ものも存在しないのであるか。あるいは、存在とは認識と切りはなせないものなのか。たまたま存在者が認識者であることが、存在にとって決定的なことであるのか。はたして、無機的な宇宙、一人でも認識者のいない宇宙は、暗黒としてすら存在しないのであるか。
8、存在ということが、まったく認識者と無関係に存在しうるならば、その絶対の存在は、ただ単に有るということが言えるのみであろう。あるいはすでに、有る、無しということが、認識の範囲に属するならば、不可知とするほかはないであろう。有るということは、有るとも、無いとも言えないのである。
9、存在者が存在について、ゆいいつ直接に知りうるのは、おのれの存在だけである。世界の存在は、おのれの状態としてしか、現われてこないのである。世界の存在とおのれの存在とは、その意味で同一である。その直知の根源にあるのは、自我の存在である。認識されるかぎりにおけるあらゆる存在は、自我をめぐって把握される。自我の根源は、存在の不可解であることは、すでに言いつくした。
10、存在者が自己の存在を不可解に思うことは、必ずしも存在は認識の範囲にないことを暗示していよう。存在者はその存在の根源においては、認識者以前の存在でありうるのである。それをかりに純粋自我と名づけておいた。本来はUnnamableであって、いわば存在そのものを超越した存在である。存在へと踏みだす以前の〈非存在〉である。
11、ものDingとはなんであるか。認識者の立場からは、<もの>とは<わたし>でないものの意識である。私でないものが、私と独立して、あるいは対峙して、存在する、あるいは私の意識にあらわれている。そのかぎりにおいて、ものはそこに存在している。ものはそれ自体として存在しているのであろうか。現象的に(形而上学的にではなく)、もの自体chose
en soiというものがあるのであろうか。もしあるならば、それは意識を超越していなければならないし、同時に意識の中にあらわれていることになる。
12、意識がものを不可解なものとして、無意味なものとして意識することは、もの自体にその根拠があるわけではなく、単に意識の側において、意味化作用が失われているだけのことであろう。感覚の直知において、そのことが起こりうることを、すでに述べておいた。最も意味的なものである言語ですら、Poe
が記述しているように、frequent repetitionによって、まったく意味のない音のつらなりと化してしまうのである。
13、この意味化の失われたものとはなんであるか。対象自体あるいは純粋客体と名づけてよいであろう。それはある種の妖怪である。不安や恐怖あるいは、サルトルの言う嘔吐がもようされることもあろう。生命体は、おのれの生存にとって必要な限りでの、世界の、すなわちものの、意味化をおこなう。意味化以前のものの存在は、たとえ意識にとらえられたとしても、ほんらい無関心であってよいものである。しかし、優れて観念的存在である人間の意識は、ふだん気がつかずにいる世界の意味化作用が、一時的に剥落して、ものそのものの赤裸な姿が現われると、ある種の衝撃を覚えるのである。
14、この衝撃によって、世界はじつは意識にとらえられているものとは、異なっているかもしれないという反省が生まれる。人間の意識そのものが相対化されてしまうのである。ものen
soi対意識pour soiの対立がうまれる。この対立そのものが、意識そのものにおいて意識されるにもかかわらずである。ものの意識においてとらえられた存在が、意識そのものに反抗する。意識の不安定性、不確実性が、ものそのものによって開示される。このことはしかし、生命体のこの世界における、不安定性、不確実性の、意識における反映に過ぎないのである。感覚、知覚、思考、それらを綜合する身体的自我の意識の、この世界の圧倒的な暴力にたいする、恐れの反映なのである。
15、ものは、ものそのものではなく、知覚における因果律によってとらえられることによって、間接的に意識にとって把握できるものとなる。原子や素粒子が、いかに奇妙なものであろうと、それをじかに目にすることなく、意味の連鎖の中に取り込むことができるのである。いわば、ものそのものを、概念的に無害なものとするのである。意識におけるen
soiとしてのものは、その妖怪性を失って、自然科学の概念によって馴致される。
16、ものが対象であるということは、対象を対象として認識する主体を前提とする。認識主体は認識者であるかぎりは、対象を必要とする。それは自己認識においても同様である。認識主体は、おのれ自身を、身体、すなわちものとして、対象化する。すなわち、主体であるおのれを、対象として客体化するのである。この自己客体化によって、主体の対象は、認識者にとっての、共通の客体の世界となる。主体はいわば、自己自身を含んだ対象の世界を、普遍的な客体の世界として独立させるのである。さらに、主体が自己を客体化しうるならば、あらゆる客体もまた主体でありうる。主体がものを見つめる時、ものもまた主体を見つめ返すのである。
17、この共通の客体の世界において、時間・空間もまた共通となり、いわば主体が登場する舞台が成立する。ものが存在することによって、世界もまた成立するのである。ものの世界においては、空間や時間は、私の空間や私の時間ではなくなり、認識者であるかぎり、誰もに共通する舞台となるのである。世界は私の表象でありながら、私の表象ではなくなる。表象の世界は、ものの世界となるのである。
18、ものの世界においては、もはや主体と客体の関係は不必要である。ものどうしは、相互作用の関係でしかないからである。客体化された認識者どうしの関係も、同様である。そこに相互主観や間主観などを、考える必要もないであろう。すでに主体がもの化されているからである。因果律がすべてを説明するのである。
19、表象界が主体と客体の関係からなるかぎりにおいて、主体のこのもの化(Verdinglichung)の過程は、必然的であるといえよう。認識者は、生命体として行動するかぎり、単なる表象の世界にとどまってはいられないからである。主体は行動する身体として、ものの世界に<受肉Fleisch
werden>しなければならないのである。
20、主体が自身を客体化し、もの化するならば、客体すなわち、ものもまた自身を主体化しうるとした。他者の存在が可能になるのである。ものすなわち身体としての主体は、ものすなわち身体としての、他の主体と向き合う。どちらの主体も、ものとして、客体として、同等なのである。私がものを見るならば、ものもまた私を見返すのである。見返すものもまた、ものにおいて客体化された主体にほかならない。私自身もまた、身体において客体化され、もの化された私の主体として、他の主体から見返されるのである。
21、しかしなぜ、この私だけが特別であり、他の主体がすべて他者であるのか。私自身がなぜ、私にとっても他者でないのか。それであってこそ、真の同等といえるであろう。私はこの客体化、もの化の世界においても、やはり特別の主体の位置を占めている。いわば私はこの世界全体を客体とみなす、認識者としての主体の位置にとどまっているのである。この理由は、私が認識者としての<意識>の主体であるからだ。意識の主体であるからには、意識においておこなわれたもの化、客体化においても、私の主体としての位置は失われることがないのである。
22、私は意識の主体であるが、他者は意識においておこなわれた客体化における主体にすぎない。これが私と他者との決定的な違いなのである。それゆえに、私は他者のまなこを消し去ることができるのである。dunkelな、opaqueな、もののなかに、彼ら他者のまなこを封じこめることができるのである。彼らは亡者であり、幽霊であり、妖怪でありうるのである。彼らの主体は意識という光の世界に、現われてはこれないのである。この点で、私は意識において、他者に対しては圧倒的な優位にある。
23、しかしながら、意識の必然的なメカニズムによって、主体が自己をもの化し、客体化せざるを得ない点では、私の意識的主体も、一個のものとしてふるまうほかはないのであり、もの化した主体として、他者の群れの中の一個の主体にすぎない。私は他者の眼差しを、身体的暴力として、排除し、抵抗するほかはないのである。
24、主体の意識における客体化、もの化には必然性があるとした。その根底には、意識以前の原理があるであろう。いったい客体化Objektivationとはなんであるか。ある種の世界原理なのである。世界が存在し、それが認識にとらえられるためには、世界はある種の客体として存在していなければならない。世界がそれ自身にとどまるならば、それは現象として現われることはないであろう。認識者は、世界自体をとらえることは不可能であろうから。認識者が世界を客体とするか、世界そのものが客体化しなければならないであろう。いずれにしても、認識者が意識において認識を獲得するためには、あるいはすでに獲得しているならば、このプロセスは必然的である。
25、認識者は、世界認識において、すでに世界の中に、あるいは世界とともに、自己を見いだすことになる。この点において、世界は認識者に先立っている。認識者はいわば、意識において、世界をあぶりだすに過ぎない。客体化された世界は、世界の像であると同時に、認識者の像でもある。客体化とは、この認識者の相対性の結果でもある。ものの世界とは、世界と認識者の共扼関係からなっているのである。
26、物自体(Ding an sich)というものが有るならば、それは認識者とは無関係に存在するであろう。直観であれ、理性であれ、それを対象化したとたんに、それは物自体ではなくなるからである。直観はあらゆる対象をもの化する。古代人は、夜の空を天球というものとみなした。実際、暗い夜空は、鋼のような硬いものとして見えることがある。カントの言うNoumenonとしての物自体は、直観あるいは経験の対象でない限りは、ネガティヴであり(Grenzbegriff)、なんらかの知的または道徳的直観である限りにおいて、ポジティヴな対象(Ideal)である。しかし、人間が知的または道徳的直観の持ち主であるかどうかは問題である。すべての人間が、カントの知性や道徳心の持ち主ではないからである。理性によってとらえられる物自体なるものは、極めて抽象的な、希薄な概念(Verstandeswesen)に過ぎないであろう。すなわち、理念と名づけられる、あいまいなものである。
27、現象が物自体の存在を示唆するということは、ありうるであろう。カントによれば、そもそも現象という言葉自体が、それの本体を要求するからである。それが単なる想像力のまやかしや、因果律の誤用である場合もあろう。ショーペンハウアーがものの本体として、生命体の〈意志〉にたどりついた論理は、論理というよりも、やはりある種の直観であるようだ。腕を動かそうとする意志自体を、直接純粋にとらえようとするならば、そこにある種のWunderの思いがわいてくると書いている。すなわち人間の意志そのものが、ある種の不可解な働きなのである。物自体の存在の不可解と同じ、不可解であろう。
28、すでに感覚そのものの直知が、意味を喪失した、ある種の不可解な思いを生みだすと述べておいた。対象化は同時に意味化なのであり、そこに直観であれ、概念であれ、なんらかの把握あるいは理解が生じるのである。人間がrealityとして把握しているものは、じつはPara-reality(擬似現実)であることを、筆者は往年の論考「四世界の理論」で説いた。realityが本当はなんであるか、人間の意識は、通常気にかけてはいないのである。realityの根底は、じつは不可解なのである。この不可解性をあらわすのが、物自体=xである。
29、不可解なものは、不可解どうし等しいとすることは、ある種の飛躍であるが、すくなくとも同じ領域においてもよいであろう。この世界には三種の不可解があるとした。物自体とイデアと自我である。物自体と身体的自我の不可解とを結びつければ、世界の本質自体は、意志という形而上学的本体であるとしてよいであろう。世界がある設計図を必要としているように見えることから、そのような設計図が、ものの世界に存在していること自体は不可解であるが、人間の思考にならって、そのようなものの本体が、宇宙の背後にイデア界として存在することを、類推してもよいであろう。自我の不可解については、語りつくした。これらの不可解の果てに、なんらかのEinheitが存在するのかどうか、たぶんプラトニズムが、大いなるヒントを与えるであろう。 |
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2025年8月20日(水) |
人生の忘却について |
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(1)
生命体にとって現在がすべてであり、現在における快苦が存在の価値を決めるとすれば、記憶というものには、一切の現在的意味はないといえるだろう。すなわち、生命体の幸福にとって、記憶はなくてもよいのである。
生命の乱費、生まれたばかりの無数の幼ない生命体が、あっという間に捕食者によってその存在を奪われる、この生命界の実相において、記憶の持続などということに、どれほどの意味があろうか。瞬間、瞬間の存在をかちえていること、それ以外に存在の価値、意味はないのである。
瞬間において存在の喜びが得られているならば、それは永遠であり、それが持続するいわれはない。次の瞬間には、存在の快は消え去り、、あるいは苦に変わるであろう。生命体の存在にとって、瞬間の存在がすべてなのである。それを記憶によって持続させることには、本質的な意味がない。成体になったり、発展・進化することには、個体の存在にとっては、直接関係のないことである。幼生であれ、成体であれ、瞬間瞬間の存在が、すべてなのであるから。
生命体の存在の本質がこのようなものであるならば、なにゆえ人間は記憶や歴史に執着するのであろうか。個体としての存在にとって、記憶またその結果としての時間は、なにひとつその存在につけ加わるものがないにもかかわらずである。類的本能、類的衝動が、その根底にあるであろう。類が個体を存続させようとするのである。類がすべてであり、個は無であるという、生命の類的本質が、個体を記憶と時間の迷妄に陥らせるのである。
類であるということは、個の本質にとって、なんらかかわりがないことである。私は人類の一員であるから、存在の幸福を覚えるのではない。個として、瞬間瞬間に存在していることの充実が、私の幸福感なのであり、人類一般の、類的幸福などというものはありえないのである。個が類の前に無であるならば、個の前に、また類も無であってよいわけである。幸福感の中で、だれが人類一般のことや、社会や他者のことを考えるであろうか。食欲や性欲が満たされるとき、おのれの快感以外のなにがそこにあるであろうか。むしろ類や社会を思うことは、(釈迦ではなくとも)苦の原因となるのである。そこに個を無化しようとする、類的本能の策略があるのである。
個の幸福を妨げるものは、類的本能であることが分かった。人間において類的本能を意識化させるメカニズムが、記憶であり、それにもとづく時間意識、歴史意識である。瞬間瞬間は、個としての生命体にとって、そのつど快であるか、苦であるかのいずれかである。その快苦の条件は、身体的、環境的要素によって左右される。それらの条件に、さらに記憶の過剰から来る、観念的条件を付け加える必要があろうか。理想的な身体的、、環境的状況において、心身の安定が得られ、心の平静と称される、生命体本来の安定した生存状態が実現されるならば、それがたぶん、あらゆる生命体の、個としての〈幸福〉のありようであろう。人間の意識においては、それは何ものにもとらわれることのない(Unbefangenheit)、平静な〈気分Stimmung〉の状態である。これが人間に可能な、あるいは動物にとってもそうであるかもしれないが、最大に持続する幸福感である。一瞬一瞬が波立たない海の状態にある。賢い快楽主義者や幸福の探求者が、最後に行きつく境地である。しかし、その境地も長くはつづかず、たいていはなんらかの刺激、欲求の波立ちによって、すぐさま乱されてしまう。
(2)
たぶん心を乱す観念の中で、もっともわずらわしいものは、おのれの人生の記憶であろう。なにゆえおのれの人生の歩みが、心の中に強く残るのであるか。おのれの社会生活が、人生の大部分を占めるからである。他者や社会とのかかわりが、生存の必要にせまられて、よきにつけあしきにつけ、人生を無理やりに形成させることになる。ひと頃はやった、人生ゲームは、まさに個人の人生をはめ込んでいくパターンの集成であった。ゲームならずとも、たいていの人生は、失敗や不満に終わることが多い。それを回顧すれば、快よりも不快がまさるであろう。かりに快や幸福の記憶があっても、それは回顧的な気分においてに過ぎず、すでに過ぎ去ったという、現在の苦がともなうのである。
忘れるテクニックが、幸福の一つの条件である。あしき人生体験は、トラウマとなって残る。すなわち情念との強い結合をともなうのである。昼間忘れていても、就寝時や夢の中で、悪夢となってよみがえる。どれだけ長く生きようと、そう簡単には記憶から消し去れないのである。悪夢の根本は、人間社会の中での、おのれの失敗や悪行などの行為、あるいはおのれが受けた屈辱などが、どのように〈彼ら〉に記憶されているかの、他者の想念の中でのおのれに関わるものである。当人の記憶だけでなく、周囲や社会での記憶が、問題の根本をなしている。つまり、当人は忘れても、社会は忘れないのである。この問題の困難さがそこにある。
殺人犯などが、とくに悔悟しているわけではないのに、早く死刑にしてくれなどとうそぶくのも、他者の記憶は消し去れなくとも、せめておのれの記憶だけ消し去りたいと思うからである。他者の記憶を消し去るには、端的に言って、長生きするほかはない。それだけ長く、自ら苦しむにしても、他者の記憶よりも長くサバイバルすることによって、苦しみは和らぐであろう。
感覚=意識=思考の現在性において、過去は圧倒的にわずかであり、未来はまだ存在しないことによって、ほとんど無に等しい。過去はおのれおよび他者の記憶の中にあり、他者の記憶量は、年月とともに減少する。百年前の人類の全記憶量は、今現在ゼロに等しいであろう。百年前にある人がしでかしたことは、それが記録になければ、もはやだれ一人覚えているものはいないのであり、彼の罪もしくは汚名は、それで永遠に消滅したのである。
それでなくても、一人の人の交際範囲はごく限られており(かりに老若一千人としても)、百年もたてば、彼の存在や所業をだれも覚えていないし、もし若き頃の過ちであるならば、それを知る人は、50年で半減するであろう。同じ世代でのサヴァイヴァル競争となれば、当人よりも他者の記憶量がまさるであろうが、長生きするほどその量は減るであろう。おまけに高齢ほど記憶がおとろえるので、その減少は加速されよう。当人が死ぬころには、彼の存在を覚えているものは、ほとんどいないであろう。彼はやすんじて死につくことができよう。
人生を悔いるということは、多くは他者の記憶に苦しめられることである。悔いは、他者の記憶量が減るにつれて、減少すべきものであり、老年期においては、もはや悔いの必要は薄れるのである。ところが、老年期の記憶力が、若年期のそれに偏ることによって、かえって老年期における悔いの意識が不必要に烈しくなる。これのバランスを取るためには、感覚=意識=思考の現在性に頼るほかはない。五感をとぎすまし、現在なしていることに意識を集中し、思考を純粋に(というのは、回想のような時間的記憶に耽ることなく)、論理的に働かせるようにする。いまだ無い未来は、それを現在性にもたらすよう努めるようにする。あるいは、それが不都合な未来であるなら、それが現在性にいたることを回避すべく、努力する。すべて現在の営みが、生活の全般を構成するようにする。それが過去を忘れ、それまでの人生を忘れる基本テクニックであり、コツである。 |
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2025年8月15日(金) |
飯能多峯主山ハイク |
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飯能市の西にある多峯主(とうのす)山は、以前から一度登ってみようと思っていたので、暑い夏日ではあるが、思い立ってでかけた。八高線東飯能からのルートで、天覧山経由で、途中までバスを利用することにしたのだが、バスは天覧山下へは寄らず、ずっと先の方の坂の上までいってしまった。ネットで調べたのを勘違いして、途中市民会館・博物館でおりて、公園を北に、通り抜けていかねばならなかったのである。ちなみに西武線飯能からのバスは、天覧山下を通る。

そこで坂の上から戻り、ルートを逆コースにして、多峯主山を先にアタックすることにした。徒歩2キロ近いスタミナと時間のロスであった。やたらと車が通る道を、30分も戻って、登山口にやっとつく。標高270メートルほどであるから、日和田山よりは楽であろうとふんだ。

少しのぼると鳥居があり、その先に石段になった道が続いている。整備された登りやすい道であるが、石段は降りるときは楽なのだが、登るときはかえって疲れるので、できるだけわきを通るようにする。八幡神社でひと休み、ちょっとした展望が開ける。ここまでで三分の二ほどである。頑張って頂上をめざす。

頂上は樹木がないので、日差しが暑い。よい眺望ではあるが、長居はできない。すこし石影で休んでから、天覧山方面への山道をくだる。なだらかな尾根道へ出て、のんびりと歩く。麓あたりで、天覧山への登り口と、飯能河原へ真直ぐくだる分岐点がある。天覧山(197m)は以前に二度ほど登って、小さな山のわりに奇岩が面白い。今日のところは、2キロ近いロスをしたので、おとなしく帰路につくこととする。公園で休んで、残り駅までの2キロ弱を歩く。
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2025年8月4日(月) |
直覚知とは何か |
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(1)
直覚知あるいは直接知とはどのような意識状態であるか、引きつづき考察する。意識のないところには、いかなる感覚も思いもないのであるから、まず大前提として、意識が成立していなければならない。意識とは、なんらかの意識状態を、私が意識していることである。このトートロジーをほぐしていくならば、根底に主客の関係が現われてくる。私がなんらかの私の状態を、なんらかの仕方で、直知していることが、意識現象の基本なのである。すでにそこに、私の私自身に対する直知がある。この私自身とは、私がなんらかのものに、すなわち私のなんらかの状態に、気づいているということである。これを一般的に自己意識と呼んでよいであろう。すなわち自己意識はある種の直知、あるいは直観であり、それ以上にさかのぼることのできない、意識の根源状態である。それをさらにさかのぼって、私自身を見つめようとするならば、そこに不可解な思い、不可知が現われてくることは、何度も述べたことである。
この根源的直知である自己意識において、まず対象としてあらわれてくるのが、感覚のさまざまな現象である。意識はそれが何であるかは、最初の内は知ることができないであろう。知覚が(あるいは脳が)それらの感覚意識を綿密に構成していくことによって、対象の世界、表象界が生まれるのである。いったん表象界が生まれてしまうならば、それらは記憶の働きによって、経験と称される、因果律その他の〈根拠の原理〉による個人的世界を形成してゆく。それは同時に、生命界の掟の世界でもあり、その掟にしたがって、人間も動物も、弱肉強食、適者生存の、修羅の世界を生き抜くわけである。人間は知性が発達したことによって、観念人として観念界の世界を広げていった。単なる思索の対象としての、観念界さらには理性の世界を発明していったのである。この理知的意識の対象が、感覚・感性界を超えて、イデアや絶対精神・神などといった、超越的世界の可能性を、思惟において切り拓いていく。しかしそれらもまた、構成知(すなわち脳の産物)であることを忘れてはならない。
こうした構成された世界、表象世界に対して、知覚や思惟は、もっぱら〈根拠の原理〉によって対処する。もし対処できなければ、それらは理念あるいは〈叡知的存在〉となる。すなわち、妄想や妄念に近いのである。したがって盲目の〈信仰〉や道徳的要請などが、そこにまつわりつくのである。構成された表象世界には、一切の直知による知識の確実性は、与えられていないのである。これは、この物質的世界、目先の環境に対して、もっともよく適合するような認識手段を、生命体が発達させた以上、当然の結果であり、不確実性なのである。
(2)
直覚知の根底は、自己意識の直知であるとした。その直知においてあらわれてくるものは、それら自体直知において得られるなんらかの意識である、あるいはそれに近いものであるといってよかろう。最初にあらわれてくるものは、なんらかの触覚であろう。これは感覚の発達段階からいって、当然感覚の原始状態は触覚であろうと予測がつく。触覚とは何か。実は何か物に触れて感じるものは、すでに対象化されており(ものの堅さ、柔らかさ、なめらかさ、形などとして)、触覚そのものではない。ある種の体感において、触覚の原始状態あるいは直覚知が得られるであろう。それは私の意識の中に現われてくる、あるぼんやりとした感覚の広がりのようなものであり、私はそれを身体と認めることはできない。しかしそれはまぎれようもなく、私の感覚である。その際、私は私の感覚と、私の意識とに分裂しているが、その同一性を疑うことはない。感覚においては、私は二にして一なのである。この最初の主客の分離における意識のありようが、私の知る最初の感覚の直知である。感覚における直知は、いわゆる〈内感〉に属するといえよう。
同じことは、その他の感覚についてもいえよう。もっとも対象化機能の発達した視覚において、例えば闇夜の中で、遠近感が一瞬失われることがあるが、その時、遠くの光はまなこに、いわばパリパリと張り付いてくる。視覚はそもそも触覚から始まっているのであり、視覚の対象化が失われれば、それは触覚に還元されるのである。触覚としての視覚に与えられているのは、色彩のいくつものかたまりと、渾沌とした形だけであろう。それが元来の、視覚の直覚知である。視覚から形態と意味とを取り去ってしまえば、視覚本来の直知が現われるであろう。それは幻覚において、しばしば起こることである。
聴覚においては、どうであろうか。聴覚が視覚よりも触覚に関係しやすいことは、音によって耳を傷めることが多いことからも分かる。音の外化・対象化は視覚ほどに徹底していない。幻聴が起こりやすいのもそのためである。しかし音は因果律との結びつきが強い。何かの音を聞けば、必ずその発生源に注意が向かうのである。目では見えないものを、音によって感知するという機能が、動物・人間では発達している。対象化された音を聞き分けるという機能が、まず聴覚に要請されるのである。音が元来どのような感覚であるかを知るには、この機能を排除するほかはないであろう。しかし音はたいていの場合外から来るのであって、その時点ですでに異物として対象化されている。音は触覚との結びつきが強いため、たいていの場合、侵入者として把握されるのである。これは耳鳴りの場合でもそうであって、それは雑音として、わずらわしさの感覚をともなっている。音そのものを純粋にとらえることは、痛みや快感との結びつきによって、ほとんど不可能といってもよい。
このことは味覚や嗅覚に対しても同様であり、それらが純粋になんであるかをとらえることは、さらに極端に困難になる。それらは外から来る強烈な刺激であって、その刺激を取り去って、それらが元来なんであるかを知るこことは、まず不可能である。苦か快かのいずれかである。それらが触覚の特殊なあり方であることは想定できても、単なる触覚とどのように違うのか、それを純粋に知ることはできない。そこで注目されるのは、これらの触覚と密接に結びついた感覚において、必ず付随する、快と苦の感覚について、その純粋なあり方を究明することである。
快と苦は〈内感〉に属する、触覚の特別なあり方であるといえよう。それが触覚の一種であるのは、臓器感覚と密接に結びつくからである。食の快について言うと、美味を味わう味覚の快は、それ自体味覚そのものと切りはなせないが、すなわち味蕾という特別の感覚器に与えられる刺激そのものが、脳内に快のホルモン(もしくは神経伝達物質)を分泌させるのであり、それが舌そのものへとフィードバックされるのである。満腹の快も同様にして、胃袋からの信号が脳内に快の物質を分泌させ、胃袋へとフィードバックされる。性の快についても、同様であり、この動物・人間において、もっとも強烈な快感は、性ホルモンによって支配された、脳内の報酬系の働きである。これらの快の意識が、元来、純粋にどのようなものであるか、感覚器や、臓器や、生殖器をはなれて、すなわち触覚そのものをはなれて、どのようなものであるか、これを知ることは非常に困難であるが、より刺激の薄い、いわゆる情念や気分において、その根源のあり方を推測することは可能である。
快は直接感覚器に現われる快感以外に、心地よさ、気持ちよさとして、情緒的意識につらなっている。生体の生理的働きが、快へとおもむくとき、それは感覚器がなにかによって充足され、どうじに情緒的満足感が現われる。ここで充足や満足という言葉を使ったように、快の根底にはなんらかの<欠乏>があることが予測される。この欠乏のありようを、ポジティヴェに〈欲求〉といってよいだろう。食欲、性欲、所有欲など、欲と名のつくものは、すべてなんらかの欠乏、もしくは機能の停滞がそこにある。生体が欠乏を満たし、あるいは機能の順調な作動を果たすならば、そこに緊張もしくは苦の発散が行なわれ、充足感とともに快が生まれる。欠乏や停滞から、作動のプロセスをへて、充足へといたる生体のあり方の、意識への反映が、苦と快の感覚であるといえよう。すなわち、快と苦は、生体の安定化へと向かう、全身的反応であるといってよかろう。いわば、快と苦は生命体の意識そのものなのである。それを古代人は魂と呼んだが、魂の本質は快と苦の意識なのである。
ここで生体は快と苦のプロセスによって安定化に向かうとしたが、この安定した状態の意識が、快苦のdefault状態とも言える〈気分〉である。気分は、全般的な内的触覚であるといえよう。触覚が元来どのようなものであるか、それを純粋に意識に表わしだすのが、心の平静状態における気分であるといえよう。その気分が、さまざまな刺激によって、情緒や、情念や、快苦として波立ち、乱されるのが、動物や人間の心のあり方なのである。情緒や情念は、気分そのものの変容であって、それは内感としての触覚に、すなわち臓器と結びついた感覚に、苦や快をもたらす。基本的に、あらゆる情緒や情念には、根源に苦がある、すなわち欠乏や停滞があると言ってよかろう。青空を見て胸苦しくなるのはなぜか。心さらには生体そのものが停滞しているからである。未来を思って、心が浮き立つのは、今現在に欠乏があるからである。
(3)
気分における感覚の直知は、それが私の気分であることによって、私自身の直知でもある。逆に言うと、感覚が直知されるのは、それが私に直接関係するからである。最初に述べたように、直覚知が成立する根拠は、そこに私の意識があるからである。私は私の意識と感覚の直覚知とを、厳密に区別して意識することができない。私の意識のあるところにはすでに感覚の直知があり、感覚のある所にはすでに私の意識がある。この不可分のあり方を、感覚的、身体的自我と呼ぶことにする。この関係は感覚ばかりでなく、あらゆる表象に及ぶ。対象が何であるかを知覚し、考えるとき、必ずそこには私の意識がある。かりにその関係が直観的で、オートマチックであるにしても、すなわち無意識におこなわれるとしても、そこから主客の関係を取り出すことが出来る。すなわち、私と対象の直知へ、還元することができよう。
私が思索するとき、私は必ずしも思考の対象すなわち観念をはっきりとらえているとは限らない。言語的思考において、すでに直知が成立しているからである。私はその直知に従って、思索すればよいのである。思考がなんであるか、それは結果においてしか知られえないのである。
それに対して、思考が回想や追憶や、想像や空想に流れるとき、そこにはもはや直覚知としての思考は存在しない。観念連合や情緒、情念の作用によって、純粋な思索が不可能になるからである。知そのものではなく、〈意志〉の働きが圧倒するのである。実のところ、感覚的・身体的自我、意欲し、情念や回想や想像にふける私は、純粋に考える私そのものではない。それは感覚との複合体としての私であり、I
feel, therefore I am. としてよいであろう。私が純粋に考えるとき、すなわち思考の直接知において私を意識するならば、私は確かに思考そのものに伴う、私の直接知であろう。それは思考する私を思考する私であり、ある種の冷厳さ、超越の意識がそこに生じる。しかしその私はどこまでも後退する私であり、もしそれをとどまって思考するならば、ある種のアポリアである不可解感、不可知の意識が生じるのである。すなわち私はアポリア(ゆきづまり)としての思考者なのである。I
don't know what I am, therefore I am.(*)
(*)厳密に言えば、I don't know what it is that I am, therefore I am.であろう。ignoranceが存在の根拠となりうるのは、ソクラテスやニコラウス・クザーヌスがignoranceを知識の根底に置いたように、認識の限界が存在を浮かび上がらせてもよいであろうから。 |
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2025年7月27日(日) |
加治丘陵縦走ウォーク |
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若いころは、真夏の炎天下を、あえてウォーキングすることによって、夏のエネルギーを身体に蓄え、一年間を健康に過ごすということを、毎年行なったものである。ある年齢からはそれができなくなる。日焼けすることは何でもなかったのが、皮膚が過敏になり、紫外線に耐えられなくなってきたからである。全身に発疹が起こったりするので、医者にかからねばならない。数年はおとなしくしていたが、やはり夏になると、暑さに負けないように、あえて炎天下を歩きたくなる。しかし無理はできない。
そこで外出するコースとして、なるべく駅からすみやかに木蔭に入れる、公園や緑道を選ぶことになる。紫外線に対しては、万全の準備をおこたらない。とにかく膚をさらさないことであるから、腕はもちろん、首まわり、顔も、アラビア人のように、バンダナをたらして保護する。こんないでたちであっても、夏日の炎天下に、高齢者があちこちほっつき歩くなどは、身内からは異常者扱いされる。
とはいえ、近年の異常気象で、すでに7月半ばで本格夏日である。いずれ日本列島あたりも、北海道が最高気温を記録するくらいであるから、亜熱帯に属するようになるかもしれない。高齢者も、熱中症などでまいっているわけにはいかないから、暑さに対する耐性をつけておくべきであろう。
そういうわけで、先日、手頃なウォーキングコースを探って、加治丘陵に決めた。西武池袋線の仏子駅から元加治駅にかけて、南側に広がる、低い丘の連なりである。ちょうど縦走するような道筋で、ハイキングコースが設けられている。最高点でも、標高200メートルはないであろう。

仏子駅でおりて、武蔵野音大方面の車道を、ゆっくりとのぼっていく。音大のかたわらを一キロほどのぼったところに、南ハイキングコースの入口が、右手にある。そこからはハイカーの天下である。舗装された山道がさしたる高低もなく、目的の桜山展望台までつづいている。両側はほとんどが杉林で、ところどころに雑木林と称される広葉樹が混ざる。日傘を差したお婆さんが、ゆっくり歩いているくらいであるから、散歩コースといってもよい。途中の、木の幹をベンチ代わりにしたところでひと休み、昼食を取る。こんな都会近郊にも、熊が目撃されたという注意書きがあるのは、いったいどこから来たのであろう。

桜山展望台は、思ったより階段数があり、やっと登りきると、疲労が吹き飛ぶような、広い眺望が、東西に開けている。

帰りは、展望台から坂道をくだって、すぐ右手に入り、北のハイキングコースを、仏子駅まで折り返す。途中、元加治方面へくだる細い山道は、誰も通らないようで、蜘蛛の巣が張っている。北のハイキングコースは、かなりの高低差があり、丘の麓までくだっていく。平日なので通る人もなく、誰にも会わない。途中広場もあり、野の花(写真はオオバギボウシ)も咲いている。孤独なウォーカーの天国である。全コース、6キロほどであろうか。
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2025年7月25日(金) |
直覚知について |
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(1)
唯一実在の時は、流れ行く現在である。過去はすでになく、未来はいまだ不在であり、あるいは永遠に来ないかもしれない。過去の記憶の先には誕生前の無が、未来の先には死の無がある。現在を形成しているのは、ある種の直覚(direct
perception)あるいは直知(direct knouledge)である。私が何かものを見るとき、私はそのものを直接知っている。それ以上でも、以下でもない、私の認識の状態を、直覚知としてよいであろう。そこに加わる、私の回想的記憶や想像などは、あるいは情念の反応などは、すべて付加物である。すなわち、純粋の現在を形成するものは、いまある私の意識そのもの、もしくは直覚そのものの存在であるといえる。その現在が流れて行くことによって、あるいはその現在に想像や記憶などの働きが加わることによって、わたしは直知の状態から抜けだし、あるいは抜けださざるを得ないのである。
人生の不幸は、この流れる時の中にある。みずから現在の時を流れの中におくことによって、私は過去に苦しみ、あるいは過去にとらわれ、また未来を思い煩うのである。実在的であるのは、かりに流れるとしても、現在のほかにはないことを思えば、この現在を最大限に活用することが、幸福感の要諦であることは、古来あらゆる賢者が見抜いたことである。過去にとらわれず、未来を思い煩わない、この単純な原則(Maxime)が、人間にはじつに難しいことなのである。
では現在の直覚知とは、どのようなものなのであるか。感覚的、感性的なものは、誰にもわかりやすい。視覚を例にとれば、目に写るものは、本来雑然とした色彩のかたまりにすぎない。それは対象と呼ばれる以前の状態であって、いわば見ることそれ自体である。その雑然とした渾沌が、知覚の働き、あるいは脳の認識処理の機能によって、空間的に形と色のまとまった対象として、仕上げられるわけである。その最終段階では、もはや直覚知とすることはできない。すでに対象であることによって、記憶の秩序の中に取り込まれ、想起や、情念や、観念連合といった、知識の背景にとりまかれるからである。それらはすでに、構成された知識なのであり、そこから過去へのとらわれや、未来への配慮、そして人生の苦悩が発生するのである。
構成知をすべて排除した感覚そのものは、視覚においては色彩の雑然としたかたまりにすぎないと述べた。じつは、この状態を絵画において実現しようとしたのが、印象派である。対象から感覚そのものへさかのぼるならば、そこに現われてくるのが、感覚における直覚知である。何ひとつ思うことも考えることもなく、事物を見つめつづければ、そのものの意味というものが失われてゆき、純粋な感覚そのものが発現するのである。それをショーペンハウアーは、美の純粋観照と呼んでいる。それが美であるのは、もはや物が対象として意識や記憶を刺激することがないからであり、純粋に受動的な、あるいはショーペンハウアーの用語では、純粋に客観的なまなこでは、そこに心の平静がおとずれるのである。
五感のすべてに、なんらかの直覚知が存在するであろう。聴覚においてはどうか。整然とした音階やリズムは、音を構成し、ある時間的にまとまった対象化を行わせる。それによって意識や意欲を刺激し、想像や記憶をかきたてる。構成以前の音とは、あるランダム性をもって現われる、音そのものであろう。日本音楽や現代音楽に、それに近いものがある。それは意識や意欲を沈静させ、音そのものを時間から超越させる。それが聴覚における、音の直覚知である。
触覚においてはどうか。なにかに触れているという感覚は、すでに対象化された触覚である。触覚そのものを知るには、じつは外界ではなく、身体内部の感覚に注意を向けるべきである。痛み、痒み、快感といった、もはや単純な触覚ではなく、身体そのものと密着した、あるいは場合によっては情感をともなう、なんらかの内的状況である。それを一般に気分(Stimmung)といってよいだろう。気分はある種の直覚知であり、それを対象としてとらえることは難しい。それが臓器感覚とむすびつくことがあっても、気分そのものは直接臓器の感覚ではない。気分が最も良い状態において、触覚というものの直覚知が現われているであろう。そこにはなんの刺激も、含まれないからである。むしろ気分が刺激されることで、そこに触覚の対象化が行われるのであり、気分は触覚のdefault状態なのであろう。
嗅覚や味覚は、あまりにも過敏に過ぎて、それが元来そのものとして、どういうものであるかを知ることは、ほとんど不可能である。嗅覚や味覚は、発生したとたんに、刺激として対象化されるからである。そしてただちに、その原因である対象へと知覚が向かう。しかしその刺激が強烈で、もっぱら現在的であるために、現在性の意識や意欲と強く結びつく。したがって、現在に生きる快楽主義者にとっては、なくてはならない感覚である。
想像においては、想像がすでに構成知の産物である記憶における観念を対象としている以上、そこには直覚知はない。現実における感覚の影といってよいのであるから、そこにかりに直覚知が可能であるとしても、感覚においてすでに確かめられたそれと違いはない。そのことは夢においても同様であるが、夢は想像以上に強烈な意識をもたらすので、その直覚知は現実の感覚を超える場合がある。むしろ、夢においては、頻繁に直覚知が起こりやすいのである。それは現実の知覚の場合のような、几帳面な対象化が、夢のなかではゆるむからである。色彩だけ、触覚だけといった、特別な意識状態が夢のなかでは生じる。それは直覚知であることによって、意識を沈静させる、心地よい夢である。
(2)
五感と結びついて、それに強烈な現在性を与えるものとして、欲望の充足にともなう快感あるいは快楽がある。快感ないし快楽は、非常に特殊な感覚であるといえよう。感覚そのものでありながら、同時にそこに強弱さまざまな<心地よさ>がともなうのである。いわばそれが欲望の充足の<報酬>である。生理的には特殊なホルモンが分泌されるのである。ホルモン感覚あるいは報酬系感覚といってよかろう。
欲望には、基本的に生理的なものと、社会的なものとがある。もっとも強力なのは食欲と性欲であり、これなくては生命体は存立しえない。さらに付随的な生理的欲求としては、運動と睡眠の欲求がある。社会的な欲望は、これら生理的欲望の上に、さらに心理的競争から来る欲望が加わったものである。これら欲望の充足には、強弱さまざまな快感ないし快楽(すなわち満足感)がともなうのであるが、生理的なものはより肉感的であり、社会的なものはより心理的・観念的である。
いずれにしても快感や快楽は、それ自体として直覚されるものであることにおいて共通している。もっとも強烈な性感や食の満足において、そのことがもっともよく覚知されるであろう。性や食の快感は徹底した現在性の中にあるのであり、過去未来の意識ばかりか、周囲の環境の意識すら失われる。その快楽の感覚への集中性において、絶対の直覚であるといってもよい。この境地がエクスタシーと言われるものである。
食と性の快感は、人間に限らず、激越な生存競争の中にある、あらゆる生命体の、唯一の自己救済の手段であるといえよう。生命体が、緊張と苦悩から解放されるには、食と性の快感のほかにはないのである。たいていの人間も、社会的競争のストレスからの解放を、そこに求めているのであるから。
(3)
五感とそれを基とする精神機能においては、直覚知は、それを努めて起こすことは比較的容易であるが、思考においてはどうであろうか。思考においても、対象を思索しない、直接の知識のようなものがあるのであろうか。もしあるならば、それは知識というもののあり方を、根本から変えるであろう。ものを考えるということは、すでに構成された観念、もしくは概念を対象とすることである。その根底には記憶があり、記憶に蓄えられた観念もしくは概念を操作することによって、思考が可能になる。この前提からして、思考には直接知もしくは直覚知などは存在しないことになる。しかし実際的に、思考の過程は必ずしも意識されるわけではない。自然とわきでてくる場合が多いのである。ある種のautomatismがそこにあるのである。このオートマティズムを支えているのが、言語であると言える。
ある言語を習得してしまえば、思考は言語に従って、自動的になされる傾向があるといえよう。言語は音声もしくは文字であり、それらを耳にしたり目にすれば、そこから自然とその意味であるものがわきおこる。それは言語というものを媒体とした、ある種の直接知ではなかろうか。もちろんその背後には、記憶のメカニズムが働いていなければならない。しかし言語化したことによって、それはある種の超越性を持ち、あるいは第二の天性として本能化されているとも言えよう。この本能化された言語による思考を、言語の知覚とともに生じる、思考の直覚知としてよいであろう。その特徴は、もはや記憶に全面的に依存しないということである。思考そのものは現在における知であり、それ以上でも、それ以下である必要もない。かりにそれが、過去を思索し、未来を思索するとしても、その思索そのものは現在にとどまる。思索は現在にとどまればよいのであって、過去にも、未来にもおよぼす必要はない。今思索していることがすべてであって、それは過去に残すことも、明日に引き継ぐこともないのである。イデアの観照が、瞬間における永遠であるように、思索における直覚知も、今において永遠なのである。
思索が単なる道具でなく、あるいはなにかの対象のための従属物ではなく、それ自体として価値を持つためには、思索することそのものが、直接の意味をもたねばならないのである。それを可能にするのが、思索の直覚知である。しかし記憶への執着が、それを非常に困難にしている。思索が回想や想像に引きずられるからである。そもそも記憶にもとづく言語による思索が、その元凶なのである。ピタゴラス派は、したがって言語に換えて数理を永遠の直覚知とした。数理もしくは単なる記号による思索が、もっとも直覚知に近いのであろう。数理や記号には過去も未来もなく、なんらの人間的体験も結びつかないからである。しかし単なる数理が、心の平静をもたらすであろうか。数学者はイデア界に最も近いところにいるのだろうか。難問を解き明かしても、精神を狂わせる数学者もいるのである。
具体的に、思索の直覚知はどのようになされるか。言語の基礎がなっているならば、ただ単に言語の読解とともに、思考の働くままに、論理を追っていけばよいであろう。そこに一切の情緒的、意志的要素を介入させないようにする。すなわち、言語的、機械的記憶以外は、記憶の回想をシャットアウトすることである。いわばコンピューターのような、メカニカルな思索を行なうことである(*)。思索が現在の直覚知にとどまるならば、思索は非歴史的になり、知識や思想の発展ということはなくなり、思索それ自体、知識それ自体が、思索と知識の意味もしくは価値となるであろう。アルマゲストとニュートンは、同等の価値を持つのであり、哲学はプラトンもしくはアリストテレスで十分なのである。これが直覚知の本質的あり方であり、知性の現在的働きである。
(*)人工知能研究者によると、AIの思考の根本は言語的〈予測〉であるという。途方もない分量の言語の使われ方の予測を行なうことによって、ほぼ人間と同じ思考が可能になる。人間の思考が言語的・記号的に構成されるかぎりにおいて、それをAIが予測することが可能なのである。逆に言えば、言語操作の範囲で思索を行なえば、もっとも現在的な思考が可能になるということであろう。
このような直覚知は、もちろん社会的にはなんの役にもたたないが、時空において限られた存在を強いられている個体の知性にとっては、現在的存在がすべてであるから、感性の直接的覚知ばかりでなく、知性もまた現在的働きにとどめることによって、時間の迷妄から解放されることになろう。美味を味わい、よい音楽を聴き、さらによき論理や知識に頭をめぐらせることは、人間の可能な能力の、最善の使い方である。感覚と知性の楽しみは、それ以上でも、それ以下でもない。真美善は、今この時、この瞬間においてのほかには、存在しないのである。
結局、直覚知の見地からは、多くの本を読むことも、多くの知識を蓄えることも、無用で無意味である。新しいことを知ることが、とくに価値あるわけではなく、一つ確かなことを知っておけば、とくに困ることはない。余分な知識や思索で、知性を煩わせる必要はないのである。人類が知るべき基本知識はすでに出来上がっているのであるから、細かな知識の進歩は日進月歩の目まぐるしさであるとしても、もはやそれに知性が煩わされる必要があろうか。人間が人間であり、人類が人類であるかぎりは、人間の知情意には、これ以上なんの進歩も見込めないのであるから。
(4)
直覚知が、社会生活において、また実生活においても、さしたる用をなさないことは、直覚知の非時間性、観念連合の無視、非因果性といった本質からして、当然のことである。いわば現実存在(Dasein)、実存(Existenz)を無視する、超越的認識の立場であるからだ。この純粋なKontemplationの状態において、時間の現在的流れに身を任せるのである。時間はこの状態においては、一種のコマ送りとなるであろう。Werdenの意味が失われて、純粋な真美善がそこに発現する。いわば存在のカレイドスコープである。プラトニズムで言うイデアも、このようなものであるかもしれない。しかし人間の感性や知性に現われるかぎりにおいての、影もしくは写し絵にすぎないが。直覚知は、人間の能力において可能なかぎりでの、純粋な幸福への道である。 |
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