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2026年3月23日(月)
類的意志について
<人間の魂とはなにか。無慮無数の魂の複合である。我々は、だれもがみな、先だった生命体の、数限りない断片の、複合体なのである。そして個人を絶えまなく解体し、絶えまなく作りあげていく普遍的な過程は、これまでずっとつづいており、今この時にも、我々だれもの中に、起こっているのである。どのような生ける者であろうと、まったく新しい感情、絶対に新しい考えなどを、抱いたことがあったろうか。我々のあらゆる感情や思想や願いは、生命の様々な時期によって、どれだけ変化し、成長しようと、ほかの者たち、たいていは死せる者たち、無慮無数の死者たちの、感情や観念や欲望の組み合わせであり、再構成に過ぎないのである。無慮無数の死者たちの、感情や観念や欲望の組み合わせであり、再構成に過ぎないのである。細胞も魂も、それらは過去において織りなされた諸力の、再結合であり、今における集積なのである。>――ラフカディオ・ハーン

 個物とか個体とかいうもの(individual)は、それらの属する類的概念のひとつのサンプル、見本でしかない。分類という見地からは、一個の個体はその類的性質によって、類の概念のもとに包摂される。どんなに特殊な性質があっても、それは変種varietyの名のもとに、もしくは固有種として分類される。ところが、人間の心理的、あるいは精神的性質に関しては、えてしてこの類のもとでの分類が忘れられる。個性とか、特異性とかいった、個体の唯一性が強調されるのである。
 この理由は自我の存在にある。人間においては、各個体がひとつの自我の持主であり、自我と自我とが混同されることは、まずありえない。私はどんなあなたでもなく、どんなあなたも私ではない。この自我の唯一性は、類のもとでの分類が不可能なのである。しかし、本当にそうであろうか。
 まず自我自体が、一つの一般的な概念でありうる。私の自我とあなたの自我は別物であるが、自我(わたし)という一般的名辞を当てはめることができる。そうでなければ、哲学的にも先験的統覚das transzendentale Ichなどというものも、考ええないであろう。だれもがおのれの自我を表わすために、<わたし>という主語を使うことができるのである。しかし、そのわたしの内容は、各自我において異なるであろう。異なった内容を包摂しうる一般概念なのである。
 では、その異なった内容を持つ各自我は、いかなる分類にも属さないのであろうか。もしそうならば、自我の探究は科学としては不可能であり、各自の主観的な自我が存在するだけであろう。この困難を克服しようとしたのが行動主義behaviarismであり、自我の内容を外見におけるその発現の様態から、分類可能であるとした。いわば自我の客観化である。これによって自我の科学も可能になろう。
 さらに生物学や進化学や遺伝学という、すでに科学として成立している学問からのアプローチとして、自我のいわば<生態>が明らかにされうる。自我の存在を、生物学的類の見地から考察することが可能になる。
 このように客観的、科学的にとらえられた自我とは、どのような本質を持つのであろうか。すでに私の自我とか、あなたの自我とかの区別は無意味である。自我がどのようにして、行動・行為や、生命体としてのメカニズムにおいて、機能しているかの問題がすべてである。これを主観的な自我の用語で言えば、意志とか、情念とか、情動とか、感覚とか、快苦とか、思考とかの、心身的活動に当たるであろう。これらの主観的な、心身的活動の根底にあるのが、それらを総括するものとしての生命欲であり、これを哲学的に<意志>、もしくは<生への意志>と名づけている。
 意志すなわち生への意志は、基本的に類的である。あらゆる個物・個体の根底には、それが横たわっている。そもそも個物化・個体化(Individuation)そのものが、意志の働きにいずるのである。類のもとに個体化が行なわれるのが、この世界の多様性の根本である。そもそも、類的でない個体などは存在しないのである。このことは、元来自我についても言えることであり、わたしもあなたも生命体である限り、類的存在であるほかはない。私がなにかを感じ、なにかを考え、なんらかの情念や快苦にとらわれるとき、私はあらゆる生命体と同じ反応をしているに過ぎない。そこにはなんら私の独自性、唯一性などはないのである。いわば私は個体でありながら、私の全存在において、類的意志そのものである。
 私の全存在において? そもそも、類的意志でないわたしというものがないのだろうか? これは自我論の究極の問題であるが、これについてはすでに三一体の理論で十分に論じたつもりであり、ここにくり返さない。日常的に、生命体として存在している以上は、自我というものは圧倒的に類的にしか発現しえないのであり、もしその特異性、固有性が現われたとしても、それは単なる変種もしくは固有種に過ぎないのである。いわば突然変異によって種が変化するように、何らかの進化圧によって、個体が種としての変異を遂げることがあろう。それがいわゆる天才であったり、超人であったりするのである。しかし、あくまでも種の範囲における変化であり、特異性である。生命体である限り、類的意志の手のひらから逃れることはできない。

  *    *    *

 生命の本質は、個体の固有の存続ではなく、類もしくは種の持続にある。個体は類的意志の連綿とした持続のための、単なる媒体であり、手段に過ぎない。その点では、個体の自我の感じるあらゆる苦痛も快楽も、その抱くあらゆる考えや意志も、すべてが類のものなのであり、自我はたえず類的に感じ、考え、行動するほかはないのである。自我がそのことに気がつかずにいるのは、身体や魂(自我)といった、時空における個体性individualityを与えられているからであり、この個体性において類的意志をいわば縮図として、全体的に体現しているからである。自我とは類的意志のモナドなのであり、モナドは窓を持たないゆえに、おのれが類的存在であること、ある種の全体者であることに気がつかないのである。
 <わたし>とは、生命体としてふるまうかぎりにおいて、類的存在である。私はひとり何事をなそうとも、どんな感情や情念や思考をいだこうとも、決してひとりではない。自我は決して孤独ではありえないのである。たとえ孤独感に襲われようと、それは類の孤独であり、私ひとりの孤独ではない。生命そのものの孤独であり、悲惨なのである。類的であるとは、世界そのものであることである。私の悲惨は世界の悲惨であり、私の快苦、私の思想は世界そのものの本質の発現である。私のあらゆる行為、ふるまい、活動は世界がそうあるべくして、私という個において発現する姿である。その意味で、そこにはいかなる道徳的なkategorischer Imperativ(絶対命令)などは必要とされないのであり、善悪を超えた世界の必然があるだけである。私がなすことはすべて、道徳や宗教が言う善悪を超越した、世界意志のまさにあるがままの命令なのである。
 私の存在が類的であり、複合的な全体者であるという実感は、政治的・社会的には〈全体への意志〉において表われ、ファシズムや国家主義や民族主義などの集団心理において、明瞭に感じとられることである。私は他者の叫びや感情のうねりと一体化してしまうのである。権力者やカリスマや預言者や神への盲目の崇拝において、私は全体的な絶対の存在に依拠し、それと一体化している自身を感じるであろう。こうした全体への意志から、個人が逃れたとしても、その反撥する思想・感情そのものもまた、ある種の類的な反応であり、ヘラクレイトスの言う、世界の本質である<反対物の闘争>にすぎないのである。個体自身の内面における類的意志は、あからさまな全体への意志に対抗するとしても、それ自体が世界意志によって仕組まれた必然の闘争なのである。個体において発現する類的意志どうしが、互いに闘争することによって、生命体の種としての存続が有利になるのである。客観的に言えば、それが<自然選択>の正体である。
 たとえ闘争ではなくても、個体の意志において、すなわち内面の類的意志において、自我は多様な姿において発現する。その自己分裂、自己矛盾において、なおかつ統合的、全体的でありうるのは、つねに<忘我>の瞬間が起こりうるからである。このいわゆるエクスタシーにおいて、全面的に類的自我が発現し、心身をある種の恍惚で満たすからである。その瞬間にはいかなる反省も躊躇もないのである。善悪すら超えている。この世界意志、生への意志そのものとなった自我は、ある種の神体験といってもよいだろう。この生への意志の全面的昂揚においては、もはや人間の個体としてのひよわな心身は耐ええないかもしれない。神か悪魔になるほかはないのであるから。
2026年3月16日(月)
早咲きの安行桜

 安行桜は、川口市の安行(あんぎょう)で造られた、もっさりした薄いピンクの花びらを開かせる、早咲きの桜である。この時期、坂戸市のオッペ川沿いの土手にそって、例年のごとく薄い桃色が、数キロにわたって、延々と延び広がっている。日曜には、近隣から花見客がおしよせ、ペットの犬や子供を連れた家族、妙なファッションの写真のモデル、遠くから来るらしいロードバイクの中年のグループ、老夫婦、若いカップルなどで、この辺鄙な田園が、華やかなプロムナードとなる。頭上では、ヒヨドリの群れがさえずりながら、さかんに花の蜜を吸っている。

   

 畑のホトケノザやナズナも、一面にきそって咲いているのが、色彩のよい調和を見せている。さいわい、青空と、白い雲と、遠くの低山のラインとが、春の始まりを告げている。見あげる桜は、日光を受けると、まばゆいほどに輝く。染井吉野の純白とは、また別の感覚のプレジャーが味わえる。

   

 

 行きは東武東上線北坂戸駅からのバスに乗り、帰りは北坂戸駅まで歩いてもどる。歩行総距離7キロほどで、高齢者には少々きついであろう。
2026年3月8日(日)
有るということ
 <わたし>が有るということは、単に有るということではなく、有るという意識がともなう、あるいは意識という曖昧な言葉をさけるならば、私が有るということを知っていることでもある。単にあるのではなく、有るという認識Erkennenが伴うのである。この認識が伴うことによって、私の存在は単なる抽象的な観念や概念ではなく、すなわち単なる対象ではなく、実在real beeingとして、あるいは存在そのもの、有ることそのものとして発現するのである。この認識は観念や概念ではなく、すなわち表象ではなく、ある種の直知である。知ることそのものが私の存在なのであるから、直知の働きが、私の存在を表わしだすといってよいだろう。
 それが通常の対象認識ではないことは、私を対象化したとたんに、ある不可解感が生じることからも言えよう。私の存在は、それ自体を対象としてとらえることは出来ないのである。<わたし>は有ることそのものであり、有るとしか言いえない存在であるからだ。もし有るということそのものを考えるならば、それを認識の対象とするならば、あらゆる存在は〈不可解〉となるであろう。私の存在に始まり、宇宙の存在、生命の存在、他者の存在、すべてが不可解である。存在そのものは認識の対象とはなり得ないのである。存在は、認識において発現するだけなのである。
 もっとも確実な存在の直知は、<わたし>の存在以外にはない。その直知にとどまるかぎりは、そこにはなんの疑いも、曖昧さもない。私は誰にだまされて存在するわけでも、だれに保証されて存在するわけでもない。私は私の直知において、端的に有る。それ以上でも以下でもない。存在について、それ以外のことが言いえるであろうか。ひとつ言いえるとすれば、存在はなぜ直知でなければならないか、あるいは存在にはなぜ認識が伴うのか、その必然性を疑いうることである。
 認識によって発現する存在は、私の存在に限らない。世界は、間接的な、対象化された存在として現われてくる。この表象界は、私の存在を発現させる認識と同じ認識作用によって、浮かび上がる存在の世界である。この間接的な存在の世界においては、存在は相対化され、有に対して、その否定であるがたてられる。ある対象が変化すれば、変化以前の対象の状態は無に帰したとされるのである。すなわち、対象認識においては、もはや存在の直知は問題とされず、対象間の関係が、そのまま存在と無との関係とされるのである。この相関関係において、有とともに無がネガティヴな状態として発現する。認識は表象界において、有とともに無を生みだすと言ってよいだろう。
 しかしながら、すでに述べたように、直知としての認識においては、現われてくるのは端的にだけである。そこには無はない。無に対して絶対の有を表わしだすのが、直知としての認識である。<有るものはあり、無いということはない>のである。このことは、認識のないところでも言えるであろうか。そもそも認識とはなんなのであろうか。それを明らかにすれば、存在と認識との関係も明らかになるであろう。知るということは、なんらかの働きであり、有るということと同一である必然性は、必ずしもないであろう。働きがあるということは、確かに有ることではあるが、それが有ることのすべてではない。認識以前に、なんらかのがあってもよいわけである。それは認識によってとらえることのできない有である。いわば無条件の、無限定の有を考えることができるであろう。アナクシマンドロスの用語を借りれば、無限定者としての有である。
 この究極の有である無限定者から発して、条件づけられた有が認識として現われ、すなわち<わたし>の存在が現われ、さらに世界が出現する。古代の哲学では、この認識として現われる有の働きを理性(Nous,Vernunft)と名づけている。アリストテレスによれば、神は理性によって自己自身のみを直知する(theoria)存在である。理性界はまた、プラトンにとっては永遠の範型であるイデアの世界であり、この世界はその絶対の有の影、不完全な似姿にすぎない。無限定者からの段階的な流出によって、有の階梯が定められていく。無もまた表象界において出現するのである。有の最下の段階にあるものが無なのであり、古代ではそれを物質ととらえている。
 究極の有である無限定者については、もはや何事も語ることはできないが、それが流出において、限定へと、すなわち有限へと劣化していく過程において、この世界のいわばポテンシャルエネルギー(位置エネルギー)をなしている点において、世界の根源の本質を定めているといえよう。すなわち世界意志として発現しているのである。世界意志と理性(イデア界)とは、無限定者に最も近いところにあるので、絶対の有とみなしてよいであろう。両者と結びついた自我もまた、その絶対性にあずかっているだけでなく、認識においてその絶対的有の直知を持つかぎりにおいて、やはりある種の絶対者なのである。
2026年3月6日(金)
Aphorismen18(人間のスペック)
思考に遊ぶ:思考はもっとも手間のかからない気晴らしである。身体や肉体を使う行動には、相当な気力や体力を要するので、億劫になり、何も手につかないということがしばしば起こる。しかたなしに、もっとも手間のかからない思考の遊戯にはしることになる。思考は簡単にできるオートエロティシズムの一種なのであろう。そうたいしたエネルギーも使わず、脳の神経細胞を動かしていれば、それなりのストレス解消や気分の平静が得られるのである。おまけに、性的な快楽とは違って、羞恥感や罪悪感のような負の意識がが伴わないのである。思考はいわば脳の自己快楽であるが、その清潔な自己満足において、一種の理想的な自己慰撫なのであろう。
交互性について:時間がいわばコマ送りの連続であるとする、最新の時間論にもとづくならば、時間の最小単位である、一つ一つのコマは、その状態において、それぞれ一つの絵画であり、そこに描かれたさまざまな事象の間には、なんら時間的な関係は存在しないであろう。すなわち、そこには交互作用(Wechselwirkung)なるものは存在しない。作用が可能であるためには、時間的な継起、もしくは前後関係が必要であり、コマとコマとの間には、確かに因果的な何らかの関係を考えることができよう。しかしその関係は交互性ではなく、継起的な変化、もしくは前後関係である。このことから、弁証法でいう矛盾なるものが、対立する正反対なものが同時的に存在するということであるならば、そのような矛盾は時間のコマにおいては存在しえないことになろう。対立とは作用であり、時間の流れを前提とするからである。矛盾なる関係は時間的に、あるいは因果的に解決されるほかはないのである。すなわち矛盾とは単なる力関係であり、力の勝った側が圧倒し、吸収や併合はあっても、綜合にいたることはない。弁証法とは、単なる論理的な机上の空論なのである。

)そもそも時間は観察者の立場において相対的であり、時間が継起であるかぎりにおいて、絶対の同時性はありえない。AがBを見、BがAを見るという、観察者の立場においては作用は交互的であるが、作用そのものにおける、同時的交互性はありえないのである。

人間のスペック:人間と言う生命的存在を、一つの機械と考えるならば、そのスペックspecificasion(仕様)についてよく承知していないと、うまく運用することができないであろう。ハードとソフトに分けて考えることができよう。身体の生理的、物理・化学的仕組みから始めて、頭脳の心理的、精神的働きに至るまで、こまかなスペックを知っておくことが、個人個人の生活や人生をうまくこなしていくために、必要・不可欠な知識であろう。人間一般のスペックはもとより、各個人において、その性能ははなはだしく異なる場合が多いので、人間機械としてのおのれのレベルを知ることが、まずもって、この人間世界でうまくおのれの心身を運用して行くための大前提である。教育とは、このおのれのスペックを知るための、知識の前段階であるといってよかろう。実際に世に出て、人間機械を運用しながら、おのれのレベルを知ることになろう。このスペックは、場合によってはレベルアップすることが可能なのであり、最終的な限界はあるとしても、知識やスキルは進歩が望めるのである。
意識というものに何らかの実用的意義があるならば、おのれの身体という人間機械を、いかにうまく使いこなすかに当たって、操縦者としてのおのれを、心身から独立させる機能にあるであろう。<わたし>という意識は、おのれの心身のあらゆる機能を見渡すことができる、特別な位置を与えられている。私の心身のあらゆる働き、機能を、たとえそれらが自動的に、無意識におこなわれる場合であっても、私の心身として統括し、生命維持のための燃料を補給し、不調や故障に対処し、つねにメンテナンスを心がけていなければならない立場にあるのが、私という自我意識なのである。意識以前の段階にある動物は、おのれの心身の機能を、すべて自動的に働かせるautomatonにすぎないが、意識の発達した段階では、心身のあらゆる機能が、何らかの形で意識を刺激することによって、行為の総合的な判断が可能になる。心身からのさまざまな信号を、いわばモニター上に見ながら、私という意識は、心身という機械装置の働き具合を知ることができるのである。
5、Self-relianceについて:Self-relianceは独立独歩などと訳されるが、字義通りには、自己への依存・信頼である。他者への依存・信頼は、動物はもとより、人間においても、もっともふつうな、他者との協力関係の源である。それは幼少年期における、単なる心情的なもたれかかりや、心情的快感や共感ばかりでなく、動物も人間も、他の個体から援けられたり、協力をえられなければ、生存において大いなる不利をこうむるのであるから、相互に依存することが群居動物の必然なのである。後者の利害関係においては、依存心は、むしろ個体間の積極的な信頼関係として、生存にとって必要な相互扶助をもたらす。依存心が問題になるのは、それが心情的な弱さにもとづく場合である。他者に依存しなければ、なにごともできないという、幼児期での親や周囲の他者への全面的依存の後遺症とも言うべきものが、心情的独立心をそこなうからである。自己自身を信頼し、自己の能力や意志を頼りにすることがなければ、自己の人生を自ら形成することなどはおぼつかないのである。この自己信頼・自己依存によって、おのれ自身の能力と限界を知ることにより、はじめてまともな他者との協力関係も成り立ちうる。Self-relianceがなければ、他者との関係は、単なる心情的依存に過ぎなくなるのである。それは個人間においては、甘えの心情となり、社会的にはファシズムや全体主義やカルト宗教の温床となる。
2026年3月3日(火)
第三次世界大戦に対処して
 大海のうえを風が吹き荒れて 波をかきたてるとき
 大地から他人の大きな難儀を眺めるのは 心地よい
 ひとの苦しむのが 快く楽しいからではなく
 わが身がどんな禍を免れているかを 知るのが心地よいからだ
 また平原で展開される大きな激戦を
 我が身の危険なしに 見るのも心地よい
 しかし なににもまして甘美なのは 知者の教えによって
 いや高く築き固められた 清澄な場に座して
 そこから他の人々を見おろし 彼らが人生の道を
 求めてはさまよい あちらこちらと踏み迷っているのを眺め
 あるいは 才知を競い 出生の高貴を争い
 夜も昼も なみはずれた労苦を重ねては
 権力の高みにのぼり 世界を手に入れようと努めるのを 眺められることだ
  ――ルクレティウス物の自然について 第2章」(岩崎允胤「ヘレニズムの思想家」より)


 識者のあいだでは、第三次世界大戦はすでに始まっているというのが、ほぼ一致した意見のようだ。しかし今次大戦は、前二回の大戦とは違って、宣戦布告もなく、大国間や紛争中の諸勢力のあいだでの、世界各地での軍事的・外交的駆け引きが中心で、すぐさま全世界的衝突や、核戦争にまでは至らないという見込みではある。その直接的原因は、全面的核戦争になった場合の、人類そのものの消滅という危惧が、今のところ背景の抑止力となっているようである。
 ロシアのウクライナ侵攻を端緒にして、今回の米国とイスラエルのイラン攻撃・指導者の殺戮が、すでにユダヤ・米国対イスラム諸国の全面的対立へと進み、これらのあからさまな侵略戦争によって、もはや世界のどの国がどの国を攻めても不思議ではない状況が生まれている。日本周辺では、中国が台湾奪還に乗り出すであろう。米国の台湾支援には、日本の軍隊も出動し、日本本国が何らかの攻撃を受けても不思議ではない。朝鮮半島でも何らかの動きがあるであろう。好戦的な首相のいるこの国が、無傷でいられるわけはない。
 ローマ帝国やナチスもどきの、米国やロシアによる他国への侵略や政権転覆という、前近代的戦争への先祖がえりは、今回の第三次世界大戦を解りにくくしているが、全体への意志に支配された、国家間・民族間・宗教間の集団的エゴの盲目的な発現であるという本質においては、どのような戦争も同じである。先祖がえり的な戦争とはいえ、現代のテクノロジー、IT技術による兵器や戦術の違いは、現代の戦争に恐るべき様相をもたらしている。ピンポイントによる、敵対勢力の要人や指導者の暗殺、ウイルスによる情報機能の撹乱や破壊、宇宙での戦争など、科学技術によるあらゆる戦争手段が駆使され、最終的には核兵器という、奥の手が控えている。人類文明の末期症状といえよう。
 全体への意志、集団のエゴ類的エゴ)に、個人がささやかながらも対抗するには、さしあたって個人のエゴによるほかはない。ひたすら消極的に回避の手段を探るほかはない。幸いにも、今のところ、この国では徴兵制がしかれていないが、いつ憲法や法が改められて、若者たちは戦場へ強制的にかりだされ、戦死するハメになるとも知れない。そのような政府を選んだ民衆が自ら招く運命である。徴兵を良心的に拒否することは、難しい決断であろう。とりわけ集団本能の強固な日本人には、困難であろう。
 さいわい、この時代すでに老境にある者たちには、国自体が戦場にならない限りは、戦死の恐れは少ない。まずおのれのエゴを大事にして、国や民族といった類的意志に対抗し、さらに進んで、あらゆる政治的事態や人類の悲惨に、徹底して無関心(アパテイア)になることを心がけるべきであろう。いわば動物人としての人類を超越し、人間離れdehumanizeすることである。高齢者は、すでになにがしか死に親しんでいるのであるから、いかなる戦争の悲惨にも、もはや動じることはないであろう。しかし、それが自らの身に及ばないようにする用心は、必要である。
2026年2月17日(火)
大宮第二公園の梅

 温暖化の影響で、梅の咲く時期も早まっているようである。とくに埼玉県南部は、県西北に較べて気温も高いので、大宮第二公園の梅も早々咲いている。6・7分咲きではあっても、十分見ばえがする。越生の梅林はまだこれからで、規模も大きいが、こちらの梅林も、広い公園を散策がてら楽しめる。

  

 第二公園へは、東武線大宮公園駅でおりて、東南へ15分も歩けば、公園の端につく。帰りは西に向かって、昔ながらの大宮公園に出て、氷川神社の参道を南に下れば、大宮駅へたどりつく。大宮駅はターミナル駅であるので、ふだんでも目まいがするほどの雑踏振りである。
2026年2月14日(土)
非合理なるが故に
 「観念の秩序と結合は、物体の秩序と結合と同一である(ordo et connexio idearum est ac ordo et connexio rerum)」というのはスピノザの説であるが、理知に対する絶対の信頼は、汎神論者にかぎらず、自然科学者や唯物論者にも通有のようである。少なくとも、物体の秩序と結合は、観念もしくは理論の進歩によって、究極にまで追究できるとする科学者は多いであろう。ニュートンの力学理論に代わって、アインシュタインの相対論が出現し、時間・空間の観念は変わりはしたものの、それによって物体の秩序がよりよく理解できることになり、また量子力学や素粒子論によって、物質の概念そのものも変化した。それらが物質の世界の秩序に、より近づくことができているわけである。
 ニュートン力学に心酔したカントは、自然科学の方法を擁護するために、理知の能力の限界を探るという逆説的な方法をとった。理知はそれ自体に法則的な原理を含んでおり、それらの適用可能な〈現象〉を対象とするかぎりにおいて、自然科学は正当性を保証される。本来<自然>と呼ばれるものは、理知の原理がおよぶ範囲に限られており、その限りで、自然科学においてスピノザが理想とする、精神の秩序と物質の秩序の合一が成立する。しかし、現象を越えた、ものの本体である〈物自体(Das Ding an sich)〉までには、理知の原則はおよばないのである。物自体は自然科学の探究の限界であるばかりでなく、理知の能力の限界でもある。
 このカント哲学の二面性は、新カント派においては徹底して無視された。先験的演繹や、原則における、純論理的な面が強調され、感嘆するほかはない精緻な論理に仕上げられていった。この形式主義、論理主義においては、理知は絶対の君主に等しいものへと格上げされてゆく。もはや理知は個人のものですらなく、ヘーゲルの絶対精神に近づいていくのである。理知すなわち形式に対して、その内容をなす感覚的所与は、ほんらい非合理なものであるが、その所与すら理性の産物とされるのである。カントにとっては、自然とは理知の形式と、感覚的所与との、すなわち合理性と、非合理との複合物であるが、その非合理の極限にあるものの概念が〈物自体〉であった。物自体を無視することによって、<現象>は宙に浮いてしまう。N・ハルトマンも物自体を無視する新カント派は、カントの曲解であるという。
 人間理性や知性が、有限な能力であるということは、宗教者ならずとも、だれもが謙虚に認めるところであろう。有限な能力が認識する世界は、当然ながら有限である。まず感覚にしてからが、動物との比較において、すでに優劣があり、感覚的知覚には限界があることを、誰もが知っている。それはものの秩序と必ずしも一致しない。経験的に錯覚がそれを明らかにする。それでは、あらゆる感覚的知覚を排除した<純客観的>とされる対象についてはどうであろうか。それらは、はたしてものの真の姿であろうか。科学はこの純客観的な世界を対象としている。先験的認識論でいうカテゴリーがそれにあたる。悟性のカテゴリーが、同時に自然認識の形式であるならば、そこに現われた自然の姿は、たしかに悟性がもくろんだとおりの姿であろう。しかし悟性のもくろみが、そのまま自然の従う法則そのものであろうか。自然ははたして人間悟性に従わねばならない、隷属的必然性を有しているのであろうか。ここには、自然という用語の使い方しだいであるが、ある危うさがあるであろう(*)。

)古代のヘラクレイトスも「自然physisは隠れるのを常とする」と言っている。自然におけるロゴスもまた、全面的にあらわになるとは限らないであろう。

 自然は合理的であるよりも、はるかに非合理であるといえるであろう。このことは物自体を認めざるをえなかったカントもよく承知していたであろう。物自体はNumenonなのであり、すなわち理性が限界として捉えることができるだけの不可知のXなのである。理知がとらえうるのは物自体が〈現象〉する姿だけであり、その把握の方法がカテゴリーすなわち純粋悟性概念であり、そのカテゴリーの範囲内で自然科学も成立するのである。しかしこのカテゴリーは固定的ではなく、N・ハルトマンの言うように進化するのであり、それによって不可知とされるXの正体に少しずつせまっていくわけである。それが自然科学の発展である。

 非合理なものに合理的にせまろうとするのが、自然科学の認識方法であるとするならば、非合理なものに非合理そのものでせまろうという探究もありうるであろう。感覚自体にしても、それらを合理性にもたらそうとするのではなく、まさに感覚自体にとどまって、その本質に迫ることも可能であろう。以前に感覚の直知としてそれを論じた。同様に、理知もまたたんなる形式として、感覚との結合にかぎるのではなく、理知の直知というものもありうるであろう。さらに人間存在にとって、非合理の核とも言える情念・情動・感情・意志に関して、その本質を直知することが可能であろう。それらの直知から、人間の行為そのものの非合理性の根本にせまれるであろう。
 この非合理の探求においては、もはや理知の理論的活躍の場である、合理的認識論は通用しないであろう。理論のための理論という純粋理知のユートピアは、認識全般の一部を占める領域に過ぎないであろう。理知的認識の最先端である、自然科学が、この領域にとどまるかぎりは、人間理性の能力の限界内での認識にとどまるであろう。非合理なものは、その意味で自然学Physikを超えており、文字どおりのMeta-Physikの対象となるであろう。
 非合理なものにあたうかぎり合理的にせまろうとするのが、人文科学であるが、心理学であれ、社会学であれ、歴史学であれ、文学であれ、つねに非合理的剰余を残すであろう。無意識心理学、集団もしくは群集心理、歴史における一回性、文化の多様性、文学における個性など、法則的合理性と、個々の事象の固有性とが対立して、理知の体系化を拒むのである。文化的な事象においては、非合理なものを、非合理性そのものによって<了解Verstehen>するということが求められるのである。その場合、もはや普遍妥当性などというものは、考えられない。知識はすべて一回かぎりで、そのつどの了解あるいは直知に過ぎないであろう。それが非合理なるものの非合理なる所以である。人間性一般などという法則性、普遍性は、合理論からくる誤解に過ぎないであろう。すくなくとも、文化的事象においては、そうした一般論は、個々の事象の固有性をとらえきれないのである。たとえば文学史というものが、個々の作品を読むことよりも、はるかにつまらないのはそのためである。
 非合理なものは、そのつど、そのつどの知識あるいは了解にとどまるとした。合理精神からすれば、これほど不安定な事態はないわけであるが、不合理の見地からは、そこに大いなる満足も、感動も生じるのである。一回かぎりであることが、人生に絶大なる影響を及ぼしていることが、だれにもあるであろう。それを法則化することも、説明することも、ことのほか難しい。しかし、それを求めようとする習性が生じはする。すなわち、反復と習慣のもととなるのであるが、最初の印象は希薄化してゆき、たんなる習性にとどまり、たいてい二度とはくりかえされないのである。
2026年2月11日(水)
死に遊ぶ
 1.生と死の認識論的構造

 過去が意識に現われてくるのは、記憶と記録によるほかはない。あることを直接記憶から想起するか、あるいは記録を契機にして、記憶から想起するかのいずれかである。回想は前者であり、書物や文献や遺跡などは、後者である。記憶は現に存在している本人の意識の中に起こるので、その内容があたかも現在性を持つかに思われる。しかし、その内容そのものにはすでにないという意識が伴い、現実の生からは切りはなされており、それが現在の意識に刺激や影響を与えることによって、現在的であると思われても、じつのところすでに時間的・生命的には存在せず、過去であり、死んでいるのである。これは単なる蓄積である、知識としての記憶についても言えるであろう。いわば脳の中で記録となった記憶であるが、それはしばしば蝕まれることによって、やはり現在性として確実なものではないのである。回想にいたっては、ほぼ死の世界に等しいといってよいだろう。
 われわれが書物を読むとき、とくに古いものは、じつは現実としてはすでにない、死者の世界とつき合っていることになる。数百年前、数千年前の書を読むとき、あたかも著者と直接接しているかのように思われるが、じつは死人の声に耳を傾けているのである。それが死の世界であることに気づかずにいるのは、われわれ自身が、現在的に生きているからである。たんなる記録からよみがえる記憶にすぎないものを、あたかも生命をおびた現在性であるかのように錯覚するのである。現在的であるのは、ただ現在の意識だけであり、記憶や記録された内容は、記憶にもとづくかぎりにおいて、非現在的なのであり、今ここにないのである。
 確かに文書や手紙をやり取りするとき、それらは現在的であり、相手はともに現在しており、それが過去や死人の世界であると思うことはない。しかし少なくとも、それらに記録された内容は、未来にかかわることでないかぎり、すでに現在にはない。すなわちすでに保管という、ある種の墓の中にあるのである。それが死者の文書類であるならば、なおさらである。個人にせよ、人類全体にせよ、歴史と称される記憶と記録の厖大な蓄積は、いわば死の記念碑Mausoleumなのである。
 生の世界が感覚的現在性の世界であるとするならば、記憶と記録の世界は、生の現在性にあずかった、なかば生の世界virtual life、半ば死の世界virtual deathといえるだろう。生命はじつは生と死が半ば交錯し、いわば死(すなわち消滅したもの)を自らの中に組みいれたメカニズムなのである。このことが生命の認識論的構造において、明瞭に解るであろう。生きることは、記憶と記録という半ば死の世界に踏み入ることである。生命体の初期の段階においては、それは細胞内のDNAという記録装置に、生命の過去のあらゆる記憶が保存され、いわばそれの想起copyによって、次の個体が生成されることである。
 おなじことは高次の生命体についてもいえよう。文明がもし記録と記憶にもとづくならば、それは生命のきずきあげた死の金字塔といえるだろう。歴史とは死と廃墟の記録であり、死の世界の探究と復元にほかならない。生の現在性は、死の蓄積によって支えられているのである。生命にとっては、生成Werdenとは消滅Vergehenをうちに含むものであり、消滅したものを保持することによって、生命を維持し、新たな生成を生みだすのである。

 たしかに、生と死の世界のほかに、vertual life でもvertual deathでもない、真の死の世界があるかもしれない。死そのものの世界である。しかし、それはもはや死ではなく、むしろ単なる現在性を超えた、真のrealityといえる世界であろう。それは外界においては<物自体>の世界であり、内界においては〈意志〉の世界である。両者の本質が同一であるならば、ひとことで<世界意志>の世界である。
 死が存在するのは、世界意志の現象としての生命の世界だけであり、しかも生命はみずから死を内に取りこむのである。死は生命体にとって、物質的メカニズムの変容にしか過ぎない。しかも生への意欲は、その変容を恐れるのであるが、生命が有機体の宿命として、物質的メカニズムとして現われざるをえない以上、むしろ死を手なずける道を選んだのである。それが記憶と記録であり、半ば生、半ば死の世界の創造である。それは同時に、生の未来志向にもかなったメカニズムでもある。未来はanticipation(先どり)として、過去から生まれるものである。いまだない現在性としての未来は、いわば死の世界から汲みとられる生成の可能性である。生命は死をはらみつつ、そこから未来をも生むのである。記憶と記録のパンドラの箱から飛びたつのが、<希望>である。

 2.死に遊ぶ

 生命体は単なる感覚的現在性にとどまりえず、自己を過去・未来へと拡張して行く過程において、まず記憶において感覚的非在の世界を生みだし、ついで単なる解体と消滅のメカニズムである死そのものを、非在として把握するようになる。死は感覚的非在の世界の、特別な出来事と見なされるようになるのである。そもそも記憶そのものの世界が非在であることによって、半ば死の世界といえるのであるから、死そのものがその世界におかれるのは、ごく自然である。天国や地獄の表象が、死後の世界となるのはその故である。いわば回想や書物でも読むような意識において、死後の世界が想像されるのである。じつのところ、日常、回想や書物の世界にふけるとき、意識は死の世界に遊んでいるのであり、その非現在性において、死後の世界の想像とほとんど違いがないのである。
 死は生命体と共にあるのであって、生命体が死ぬと同時に、死もまた存在しなくなる。もし真に死後の世界があるとするならば、もはや生命の現象を離れた、なんらかの本質の世界であろう。生命体の存在において、真に不滅の本質といえるものは何であろうか。これは古来からの探求において、三種にしぼられるであろう。一つは宇宙の本体、物自体であり、現象的なもの(感性界)の背後もしくは根底におかれる、なんらかの世界の根源であり、不可知の本質である。二つは、記憶の世界において形成される〈概念〉の実在的本質をなすものとされる〈イデア(形相)〉である。三つ目は霊魂、あるいはその本体である〈自我〉の存在である。
 生命そのものは、世界の根源から発するものである限りにおいて、その死滅において、根源である物自体およびイデアに還元されるであろう。それに対して個体生命の意識が、死後になんらかの本質として残りうるならば、それは普遍的な世界意志でも、普遍者としてのイデアでもないだろう。個としての意識自体は、その本質において物自体でもイデアでもないからである。生命体に発現する自我が、おのれ自身の本質を直観するときに、超越的な<純粋自我>が見いだされる。この生命以前、意識以前の純粋自我は、もちろん感覚的、心理的、経験的、現象的自我とは別物であるが、それらの不滅の本質をなしている。神が人格紳としてとらえられる時に、意志や叡智以外に、その本質をなすものが、純粋自我である。この絶対的唯一性もしくはIchheitにおいて、生命体の自我の死後の不滅の存在が可能になろう。もし神秘主義者とともに、「私が神である」と言いえるならばだが・・・。
 生命体はこの世界のあらゆる現象と等しく、世界意志とイデアと自我の三一体の発現もしくは現象である。通常、死において、生命現象としての三者の結合は解消されるであろう。しかし、この結合への強い執着がとどまると、再度発現する可能性が残される。その場合に、世界の宗教に説かれるような、転生Palingeneseの現象が起こりうるであろう。しかしこの世界は、時空において無限であるから、それの実証は困難である。自我の存在が、たった一度だけではないように思われるのは、この三者の結合が時空を超えて連なりうるからであろう。しかしこの世界が苦の世界であるからには、どこに転生しても苦が待っている。この三者を解消する道が、むしろ求められるのである。純粋自我(ニルヴァーナ)への回帰、あるいは自我アートマンを契機にしての世界意志ブラフマンへの没入、三一体を三位一体の人格紳へと帰属させる信仰、全体への意志に自我を没入させる国家主義、などなど、この転生をさけることが、永劫の苦の克服となるのである。
 死に親しむこと、これはなにも自己や他の生命体の死を思うことだけではなく、感覚的現実界ばかりではなく、半ば死、半ば生の、記憶にもとづく観念界に、より多く親しむようにすればよいのである。その場合、間接的に死者と交流しているのであることを、忘れないようにする。そこには生命の現在性はないのであるから、いわば黄泉の世界にあそぶに等しい。できれば、おのれ自身の現在性をも忘れるようにすれば、いっそう理想的に、死の世界に遊べるのである。最も現在的なのは意志であり、意欲であるから、それらを沈静させた平静な心で、過去の死者と向き合うべきである。もちろん死者とはいえ、意欲や欲望をかき立てる刺激となりうるのであるから、どのような死者とつき合うかの選択も重要ではある。現在的刺激となりうることのもっとも少ない死者を選ぶべきであることは、死に遊ぶための必要条件であろう。
2026年2月10日(火)
理念的世界について
1、歴史における理念

 歴史にはふたつの層がある。ひとつは物質的、経済的、政治的層であり、もうひとつは精神的、文化的、理念的層である。通常前者を下部構造、後者を上部構造などと、その構造を下から上への、単純化した連関において考えられているが、両者の関係はともかくも、両者を独立の領域あるいは世界としてとらえることができよう。
 歴史の物質的・経済的・政治的層は、そのままに通常過去・現在において見聞きする、生産や商業や政争や国家間の戦争やの、生命体すなわち動物としての人間の、生命的・物質的欲求の直接の発露である営みの世界である。すなわち〈動物人〉としての人類の歴史の、第一の基本的な層を成すものがこれである。それに対して、第二の層である、精神的、文化的、理念的な層は、必ずしも第一の層の上部にあったり、それに依存したりするわけではなく、基本的に第一の層とパラレルに存在しており、相対的な独立性を持している。このことは、歴史の第二の層が<観念人>としての人類の歴史であることからもいえるであろう。観念人としての人間は、動物人としての人間とは、別個の営みを持ちうるのである。
 このことを認識の面から考察して見ると、動物人の基本的認識態度は、感覚的、生命的、物質的であり、感覚の刺激や、さまざまな情念や、物欲が、その行為・行動の基本動機となっている。具体的には、経済活動、支配・被支配の政治的行動、肉体・身体・繁殖の重視、闘争と戦争の讃美、といった動物本能の直接的発現が、歴史の原動力となっている。比喩的に言えば、<愛と憎しみ>が、彼らの行動の基本原理なのである。あるいは、広い意味での〈快苦〉の原理が、歴史の第一の層の原動力である。
 それに対して、観念人の基本的認識態度は、概念的、精神的、理念的であり、感覚や情念や物欲からはなれ、概念的思惟や理念を根本の行為の動機とする。この認識態度は、たとえ歴史の第一の層の人間の行為に向かうとしても、そこから理念を抽出することにおいて、第一の層そのものと交わることはないのである。すなわち、第一の層の物質的・生命的原理もしくは法則とは別に、第二の層には独自の理念系が存在するのである。その普遍のシステムにおいて、理念の独立性が保証されている。それは概念的・精神的であることによって、物質界とは別に存在する世界を可能にするのである。
 具体例をあげるならば、イスラム国家と唐との戦争において、捕虜となった唐人の中に紙すき職人がいた。その技術が西洋に伝わって、羊皮紙に代わる紙の文化が、西洋の学術を興隆させたのである()。この文化的な第二の層は、戦争という悲惨な第一の層とは、直接には無関係である。上部、下部の関係すらないのである。

)「西暦751年、中国・唐の軍勢とアラブのアッバース朝の勢力とが、現在のキルギスとカザフスタンとの国境に当たるタラス河畔で激突し、アッバース朝が歴史的勝利を収めた。世に言う『タラス河畔の戦い』である。この時、唐軍には多くの紙すき職人が従事しており、アラブの捕虜となった彼らが西方世界へ製紙法の技術を伝えた。これにより中東、ひいてはヨーロッパにおいて情報伝達手段として紙が用いられるようになったという。タラス河畔の戦いは、まさに情報革命の契機でもあったのだ。ヨーロッパ等ではそれまで、文字を記録する媒体として羊皮が使われていた。保存性はある程度高かったかもしれないが、製造にかかる時間やコストに関しては、明らかに紙のほうが優れていたに違いない。製紙法は瞬く間にヨーロッパ中に普及した。こうして後の中世ヨーロッパでは、スコラ哲学をはじめとした様々な学問が花開くことになる。」(指月紀美子「草原の旅人」[未刊]より)

 歴史の第二の層は理念的であるゆえに、普遍的であり、しかも独自の伝播や発展のシステムである。物質的第一の層は、単なる契機にすぎない。ヘーゲルが言う〈理性の狡知〉としてもよいであろう。理念そのものは、そのまま歴史に押し付けるわけにはいかないが、歴史と併行しつつ、むしろ場合によっては歴史の道標となりうるであろう。ユダヤ人の歴史観が、その典型である。しかし純粋な理念の層としての歴史は、あくまでも理念であり、決して第一の層の歴史と直接交わることはないであろう。理念が理念たる所以である。人は単なる概念でもって、存在するわけではないからである。たいていの思想家も、動物人として第一の層の歴史にアンガージュするわけである。歴史の魔力といってよいであろう。〈文化史〉だけでは満足できないわけである。

2、自然における理念

 通常、自然界とは、感覚的現象の世界とされる。自然がその範囲のものである限りにおいては、自然には純粋な理念は存在しない。感覚という非合理なものが、どのような概念にも必ずつきまとうからである。現象的変化とは、たんなる位置の変化でない限り、性質すなわち感覚の質における変化であり、この微妙なグラデーションに富んだ変化そのものは、通常の概念によってはとらえることができない。アリストテレスは性質をカテゴリーに加えているが、カントの純粋悟性概念には質のカテゴリーはない。性質は、まさに性質としか言いようのないカテゴリーである。しかしそれの現れてくる感覚は、概念でも理念でもない()。カントは悟性が自然に法則を与えるとしたが、古代のアナクサゴラスが、理性を自然すなわち感覚界に秩序を与える力としたように、カテゴリーなるものを自然的理性の産物と考えるならば、カントのカテゴリーを客観的理念そのものと考えてもよいわけである。すなわち、自然における理念とは、感覚に秩序を与える基本的概念(カテゴリー)である。古代の哲学者も、理性(ヌース)を自然および精神の双方のものとしたのである。

)感覚の質には<度>がある。よく知られているのは、「感覚の強さは刺激の強さの対数に比例する」という、ウェーバー=フェヒナーの法則である。例えば星の光度では、一等星と六等星の間には百倍の明るさの差があり、各等級のあいだは2.5倍の比率になっている。この概念的法則は、感覚そのものの質の中に、グラデーションとして存在していなければ、単なる悟性においては成立しない。先験的悟性概念とするには無理があるであろう。この難点の解決がSchematismus(図式論)なのであろう。図式の根本は、感覚(感性直観)と悟性に共通した原理なのである。たとえば変光星の観測においては、光度の知られた二つの異なった星のあいだの明るさを10等分し、その光度間にある当該の変光星の明るさの印象の比を求めることによって、光度を決定する。すなわち明るさという感覚の質を、微分的な量(数値)に変換もしくは還元するわけである。この意味で、悟性が感覚に規則を与えると言ってよいわけである。ピタゴラス派ふうにいえば、感覚が数理に従うわけである。

 自然界においては、通常壮麗な感覚の現象に目を奪われて、自然科学者でない限りは、その根底にある概念をとらえることはめったにないであろう。自然界においても、感覚と概念の二重の層があるのである。古代の哲学者は、物質を空間における<充満Fuelle)>と考え、特にアトミストは、それらを隔てるものとして<空虚Leere>を想定した。空間を満たすものは、じつは感覚的性質であり、性質を表わしだすものは、根源物質(アルケー)そのものであるか、あるいはそれらの集合や、混合と考えた。それらの性質の中で、唯一感覚に属さないものは形、もしくは<形相Form>とした。
 感覚の性質は、基本的に二次元の平面における充満において表わしだされる。これは例えば視覚においても、その直知は二次元平面であることからも確かである。それに対して、空間の間隙として現われる空虚は、形によって区画され、とりわけ三次元空間における透明な空間、もしくは〈合い間〉として現われる。感覚の中でも、もっとも概念的な性質が形もしくは形相なのである。そこからピタゴラス派は、世界の根源の原理を幾何学的関係、または数の関係(比例)と考えたのであろう。もっとも数そのものが世界を形成しているというのではなく、「事物は数からなるのではなく、数にしたがって形成されるのであり、すべての事物は、数の似像であり、模倣である」と主張した(Windelband:Lehrbuch der Geschichite der Philosophie)。プラトニズムの起源であろう。
 感覚における幾何学的な関係、すなわち形においてとらえられた数理的関係は、あらゆる感覚において存在するであろう。視覚はもとより、聴覚においても、音のあいだの感覚的比例が、音楽を構成するのである。音楽が概念的とされるのも、その故である。触覚においては、何もない空間(Leere)というものが、じかに感じられ、距離の感覚または概念を生みだす。バークレイも触覚的運動が、遠近感を生み出すといっている。嗅覚や味覚においても、それらが生じたり消えたりすることから、時間の〈合い間〉の概念が生まれる。時間自体も、感覚的性質の充満と空虚の区切り、もしくは継起によって生じる、感覚ないし概念、すなわち形相であるといえる。
 このように感覚自体の中に、すでに概念的要素、すなわち形相が含まれており、それらだけを特に取り出すことによって、感覚界とはべつに、純粋な概念の世界、すなわち形相=理念の世界が成立していくであろう。古代におけるプラトニズムがそれである。感覚・物質の世界の探究の果てに、自然界の根源において、あたかも自然を超越しているかのように、自然界の背後に成立した理念界である。アナクサゴラスにおいては、理性(ヌース)はいまだ自然の力であったが、理性が感覚・肉体・物質と対立する原理とされることによって、両世界が峻別されるようになるのである。
 しかしまた自然界には、歴史における層においてはない〈自然美〉というものがある。美はAesthetikと言われるように、感性界において成立するものとされる。すなわち感覚的性質と別ではない。その点で、自然界の感覚的・物質的層に属している。美が通常〈感動〉を与えるのも、まさにその故である。美は感覚を契機とする、生命的、情動的現象なのである。もっとも露骨なのは官能美である。また自然美の中でもとくに際だった、<崇高>の美であっても、恐れや畏怖といった情念を惹き起こすかぎりにおいて、基本は動物的、生命的反応である。美が真に理念的であるためには、感覚や想像力のたぶらかしを離れ、情感的反応を離れ、理念そのものに触れるのでなければならないであろう。プラトンやプロティノスが、理念そのものの観照を美であるとするのは、感覚美とは別のものと考えるべきであろう。自然界の幾何学的・数理的美が、本来の自然における理念的美であろう。数学者や物理学者が、単なる数式を、宇宙における最も美しい数式と称したりするのも、あながち比喩ではないであろう。一般に自然法則が、自然における理念の美である。
 自然における理念は、概念であれ美であれ、感覚的経験から出発しながら、感覚の中の理念的要素を取り出し、自然界における概念的・形相的本質に迫ることによって、はじめて得られる。幾何学や数学や物理学や化学が、もっともそれに近づくであろう。他方、哲学や論理学においては、人間の認識や思惟の形式性から出発し、感性直観から概念を抽出することによって、理念の体系を構築する。いわゆる観念論である。あるいは形而上学と称されるものである。これらの観念論や形而上学においては、自然は極めて恣意的にあつかわれるであろう。自然自体が、理念に還元されたり、二元論や、同一論(汎神論・唯物論)などとして、対立的または単純にとらえられることが多い。理念そのものが、自然の見せるふたつの顔の、ひとつの層に過ぎないことを忘れるのである。

3、非政治的であること

 人類の歴史においても、自然界においても、感性的・物質的層と理念の層とが、分離的・独立的に存在していることを、ここまで述べた。両者は相互的に関連し、影響しあうことはあっても、それぞれに独立した構造を持ち、別個の歩みを遂げることも確かである。世界の理念的認識につづいて、ここでの主要テーマである、理念的に行為することを、次に考察しなければならない。
 理念的であることは、単に思考や認識においての問題ではなく、すでに美についても触れたように、美が美的探究の態度であるように、歴史的理念においても、現在における行為の基準とならねばならない。単に歴史を理念的に探究するばかりでなく、今現在における理念的行為において、理念が実現されるのでなければならない。さもなければ、理念は非現実でしかないであろう。過去・現在における理念的行為において、もっとも基本的なのは、物質的・経済的・政治的層からの離脱、もしくは超越である。まず物欲を極力おさえること、最低限の経済生活にとどめること、このふたつは、主として個人的な心構えによって、生活条件を考慮の上に、なすべきことである。政治的関心からの離脱、これはたぶんzoon politikon(政治的動物)である人間にとって、いちばん難しいであろう。しかし、もっとも必要な理念的態度であり、行為である。これほど人間の動物的集団本能をかきたて、理念的生活をかき乱すものはないからである。
 高齢になることによって、これらの物欲、情欲、経済活動、政治的関心や行為からの離脱は容易になるであろう。生活欲が減少し、心身において安定し、社会との交渉がまれになる高齢期には、世の中で起こることには関心が薄くなり、理念的生活への意欲が増すであろう。物欲離れした理念ほど気持ちよく、清潔なものはないからである。たとえ世の中の政治が軍国主義に向かい、国際情勢がいつ大戦を勃発させるともしれない、愚かな人類の歴史の層を眼のあたりにしても、直接の影響を蒙ることはないであろう。別の世代や若者たちは戦死し、思いがけない核攻撃によって大気は汚染されても、理念に生きる限りは、ルクレティウスのように、高みから臨むものの心境でいるであろう()。

)大海のうえを風が吹き荒れて 波をかきたてるとき
 大地から他人の大きな難儀を眺めるのは 心地よい
 ひとの苦しむのが 快く楽しいからではなく
 わが身がどんな禍を免れているかを 知るのが心地よいからだ
 また平原で展開される大きな激戦を
 我が身の危険なしに 見るのも心地よい
 しかし なににもまして甘美なのは 知者の教えによって
 いや高く築き固められた 清澄な場に座して
 そこから他の人々を見おろし 彼らが人生の道を
 求めてはさまよい あちらこちらと踏み迷っているのを眺め
 あるいは 才知を競い 出生の高貴を争い
 夜も昼も なみはずれた労苦を重ねては
 権力の高みにのぼり 世界を手に入れようと努めるのを 眺められることだ
  ――ルクレティウス物の自然について 第2章」(岩崎允胤「ヘレニズムの思想家」より)


 古来、非政治的であることが、賢者の理想とされた。彼らはみな物質的・生命的・動物的層を離れて、永遠で普遍的な、理念の層に生きたのである。古来、聖賢皆寂寞であり、政治的であることを、もっとも恐れたのである。少なくとも高齢であることは、理念的世界に参与する、絶好の機会である。