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2026年8月29日(土)
スピリチュアルということ
My fundamental interest, I suppose, is signs and proofs of other powers that lie hidden in us all; the extension, in other words, of human faculty.・・・
I believe it possible for our consciouness to change and grow, and that with this change we may become aware of a new unverse.A "change" in consciousness, in its type, I mean, is something more than a mere extensioon of what we already possess and know.
 ――Algernon Blackwood
(思うに私のおもな興味は、われわれ皆の中にひそんでいる、別の能力のしるしや証拠です。つまり、人間の能力の拡張といってよい。・・・私は意識というものは変化し、成長するものだと信じています。この変化によって、われわれは、新しい宇宙の存在に気づくことが出来るのです。意識において、このタイプに変化が起こるということは、たんにこれまで所有していたことや知っていたことが拡張されるということには、とどまらないのです。――アルジャノン・ブラックウッド

 *   *   *

 人間の生活の基本は五感にもとづいており、たいていの欲求は味覚、食感、満腹感、性感、接触の快、音声の快感、香り、内部感覚である情感、身体の全身的運動の快、などといった五感のさまざまな快によって支配されている。それらを総括して〈肉欲carnal desire〉もしくは肉体bodyの快といってよいだろう。この人間の動物的本性にもとづく生命活動のほかに、さらになにかを付け加えるならば、通常は〈精神mental〉生活と呼ばれる、知性の活動である。この〈知性欲〉は、脳の高度な部分の働きであって、基幹部の動物的・生命的脳の上に位置している。このメンタルな部分は、感性すなわち五感を素材としており、五感の働きと切りはなすことはできない。経験すなわち五感の中にないものは、精神の中にもないのである。もちろん単なる精神の形式的なものは別であるが。
 さて、この五感と精神とが、日常的な人間の心の働きを占めているのであるが、この働きは必ずしも<意識>に達するものではない。いわば脳の中で自動的に果たされている部分が圧倒的に多いのである。意識していないということが、そのまま五感や精神の働きと異なったものであるということにはならない。むしろ意識するということ自体が、例外的であるとしたほうがよいであろう。超常的とか、心霊的とかいう言いまわしが、もし無意識と関係してくるならば、むしろ意識のほうが超常的、霊的であるといえるかも知れない。たいていの生命体、下等動物は、意識などは持たないからであり、それが生命界の常態であるからだ。
 五感や精神以外に、なにかそれらとは別のspiritやghostや
astral bodyなどというものの存在を仮定するのは、なにか無意識界に意識とは異なった曖昧な存在を求めることである。無意識界は、それ自体として感じとるならば、曖昧模糊とした世界であるが、それを客観的にとらえるならば、単なる身体内の、特に脳の機能にほかならないものである。五感や精神が脳の働きであるように、もし心霊や霊魂が、通常の心身活動以外に存在するならば、その存在の場は脳以外にないのである。そもそも脳のない、すなわち五感や精神の働きのない、霊魂や、幽霊などは考えられるであろうか。これを主張するのがspiritualistである。精神や意識は、脳とは別であるとするのである。五感や精神の働きばかりでなく、無意識界そのものも、どこか脳の外にまで拡大されるのである。しかし、心霊や霊魂が、なぜ脳の能力のコピーのようなものなのであろうか。脳にはまだまだ、知られていない能力や機能が隠されているようであるが、そうしたものも脳とは別のspiritの働きとされるのである。オッカムの剃刀が必要であろう。

 筆者はかつて、人間の交渉可能な世界の一つとして、第四の世界について論じた。そこでの超能力や超常現象は、体験に基づいたもので、spiritualismの立場ではなかった。そうした現象や能力は、単に科学的に解明される余地があるばかりでなく、形而上学的な体系においてとり込むことが出来るものである。それは世界の解明の一端として扱われうるのである。単なる一方的な心霊論である必要はないのである。もし五感や精神と異なったspiritというものが考えうるならば、それはこの世界・宇宙の根本原理の立場から探求されるべきものである。それは当然、ドグマ的宗教でないかぎり、形而上学においてなされるほかはない。その一つの試みが〈自我の探求〉であった。
 〈自我〉はもちろんspiritではない。それは意識において探求される、世界の根本原理の一つとしての純粋自我である。spiritualismが単なる五感や精神を超越しようとする、いわば超次元の感覚や精神を要請するのに対して、この人間精神をまるごと超越しようとするのが、自我の形而上学である。spiritualismにはこの点で、この生命界、この感覚・精神界に対する、隠された執着を手放すことが出来ないおもむきがある。すなわちキリスト教的なドグマ(というよりもたいていの宗教のドグマ)から離れることが出来ないのである。それゆえに、真に超越的ではありえないのである。

 生命体としての人間の心身が、単に個体のそれの範囲にとどまらないことは、第四の世界の探求において明らかにされる。いわゆる超常能力が、個体間の五感を超えた交渉の可能性を開くのである。これをスピリチャリズムの用語では、植物霊魂と呼ぶようである。植物は物理・化学的に、単独の存在であるよりも、個体間や同種の間ばかりでなく、異種や昆虫との間においても、特別の共感関係をきずいているようである。この共感の根底は、動物界にも受け継がれており、もちろん動物である人間においても、その社会性に明瞭に見てとれるように、顕著にあらわれている。この働きは、動物・人間において、圧倒的に無意識である。すなわち脳の深い部分において成立しているのである。
 脳は一種の電気的化学反応の場であり、これが現代の科学用語でいえば、個体間に量子的反応をひき起こすといってよいだろう。それがテレパシーなどの超常現象の正体である可能性がある。この超常現象は特殊であるよりも、むしろ動物の個体間では無意識的な常態であるといってよいのかもしれない。ただ、用もなく意識にのぼらないだけである。現代では、脳の量子的理解が進んでいるが、ここにはspiritの介在する余地はない。脳の未知の能力や機能が解明されていくことであろう。
 植物霊魂に関しては、植物はこれまで考えられていたようには、単純な化学反応の存在ではないことが知られだしている。光合成などは、量子的反応なのであり、生命はその根幹において、以前考えられたよりは、はるかに複雑な、高度な構造と機能を有しているようである。超常現象は、生命体そのものの本質に属しているともいえそうである。ここには、もはやアリストテレス以来の、植物の霊魂や動物の霊魂(その特殊なケースである人間の霊魂)の区別はないのである。すなわち、生命体における脳の特別の位置も、再考が必要になろう。生命体の根幹である細胞にまでさかのぼる、生命の驚異的な機能が、心身のあらゆる現象の源であると考えられうるであろう。
 
 スピリチャリストやオカルティズムが主張する、人間のいまだ隠されている能力、Faculty X、霊的能力などと称されるものは、じつはいまだ解明されていない生命現象の一端なのであるといえよう。そうした能力や機能は、実は新しいものでも、新しい意識でもなく、すでに未知の生命現象として、生命の端緒以来存在しているのであろう。人間はその予感を、霊能力や超自然界などとして、無意識界からくみとっているに過ぎないのであるかもしれない。こうした知識の拡大こそが、むしろ意識の拡張といえるものである。意識自体は拡張するものでも、変わるものでもないのである。それはいわば、生命進化の頂点において、完成された生命現象であるからだ。どのような超自然的現象であれ、奇蹟であれ、それらは人間の意識がとらえるのである。意識自体は、超えられない条件なのである。
2026年8月25日(火)
人生の最果て 
人生に目的が持てないのは

 快楽に頼りすぎる

 快感や快楽に頼りすぎると、そのほかに人生の目標が失われる。快楽以外に、何ひとつ求めるものがなくなるのである。あげくは、人生の営みとしては、一番強力な、肉体の快(五感の快)以外に、一切の興味、関心、意欲が失われるのである。もしなんらかの危機や、不安や、緊急の必要がないかぎりは、一日肉体の快を求めて過ごすことになる。それでは、まともな未来の目標も立たなくなる。
 それでは快や緊急の必要以外に、なにが意欲をかきたて、目標や希望を生みだすことが出来るのか。ただ一日を雑然と過ごすだけでは、人生の意義を感じることができない。義務や社会活動などは、たしかに予定を立てさせることが出来る。しかし予定は人生の目的ではなく、たんに果たすべきスケジュールにすぎない。スケジュールを果たしたからといって、人生が目的によって充実したわけではない。目的や目標があって、はじめてスケジュールに意味が伴う。
 快楽主義を脱することの、根本の困難がここにある。宗教者でないかぎり、一日を快楽以外の、ある目標に従って過ごさねばならない、そのような没快楽的な目的や目標が、おいそれと見つかるであろうか。もはや快楽の目的によってなされる行為は、すべて排除してみなければならない。快楽によって引かれる意欲そのものが問題である。しかし意欲のない目的というものがあるだろうか。あるならば、それが没快楽的目標となりうるだろう。それはなにか。
 道徳は道徳意志によって引かれ、芸術は感性的な美の欲求によって引かれる。哲学や学問は、知識欲や虚栄心や名声欲によって引かれる。そうしたあらゆる種類の欲心ではなく、いわば無欲の状態での、なんらかの人生の目的や目標でなければならないだろう。この無欲を実現するためには、欲求を消し去る行為である〈反復〉にたよるのが、手っ取り早いであろう。反復は基本的には退屈、すなわち意欲の減退をもたらす。それゆえに、無欲から生じる人生の目的や目標は、もっとも退屈な営みの反復であるということになろう。生活の目的や目標は、退屈であればあるほどよい、ということになる。快楽や欲求から離れるには、ごく退屈なことがらを、無限に反復することであるといえよう。
 しかしそうなると、そのような人生にどのような意義があるのかと、反省されよう。すくなくとも、その場合は快楽には一切の意義がない。道徳その他の、意欲によってなされる行為も、基本的には快もしくは意欲の範囲に属するので、一切の意義が認められない。言ってみれば、退屈なことがらの無限の反復には、意義すらも排除されるのである。人生の目的や目標に意義を求めようとすることが、すでに発端から間違いなのである。それならば無欲、無意義の状態で、どのような目的や目標が立てられうるか。ここに、人生において目的や目標を持つことが、はたして必要であるかどうかが問われてくる。目的や目標は、人間社会でのなんらかの特殊な事情にもとづいているのではないか。 
 もしそうならば、人生に目的がもてないというのは、動物としてごく自然な態度であるといえなくもない。人間以外の動物が、はたして目的や目標を持つであろうか。彼らは自然的な快楽原理に従って、日々を生きるだけである。人間社会の特殊事情が、人生や生活に目的や目標を強要しているのであれば、人間社会を離れれば、そうした必要はなくなるのである。おおいに無目的、無目標で生きてよいのである
 しかし動物的に生きれば、快楽に支配されることになる。社会的に生きれば、あらゆる意味で目的や目標に支配される。無欲、無意義な人生はそのどちらでもないのであるから、むしろ目的が持てないということは、脱社会の第一歩であるということになろう。目的や目標は、社会的に条件づけられた執着なのである。この執着を脱すれば、無欲・無意義な生活で十分なのである。ごく退屈なことがらを、日々際限なくくりかえす、目的も目標も意義もない生活が、生活のdefault状態なのである。
 
 高齢で人生に先がない

 高齢者が人生の目的も目標ももてなくなるのは、当然ながら、さきに希望が持てないからである。なにかを果たそう、なしとげようと思っても、さきにそれらを実現するだけの時間がない。したがって、むだにおわると分かっている目的も目標も、意欲がそがれてしまう。おまけに生理的・心理的に、活力が衰えていくのであるから、なおさらである。
 高齢者もまた、日々快楽の欲求によって支配されており、目標や目的も、もしそれらが立てられるならば、安易な肉体の快楽にはしることになる。将来にわたっての目標などは、立てようがなく、日々が快楽の反復に過ぎなくなる。そのような状態では、あたら目的などは持たないほうがよいであろう。
 目的や目標がなくても、ひび無欲、無意義に生きることが出来るのであるから、嘆くことはないであろう。問題は目的や目標がもてないことよりも、ひび安易な快楽に支配されてしまうことである。このことを防ぐには、目的や目標を持とうなどとするよりも、ごく退屈なことでも、ひたすら反復する習慣を身につけることであろう。習慣は動物的本性であるが、それが人間の特性である無欲と結びつくことで、快楽の欲求を克服させるのである。
 曹洞宗の禅の修業は、只管打座(しかんだざ)と称して、ひたすら座ることを日常としているようだが、その禅から解脱だとか悟りとかを引き去って、日常茶飯ただ退屈なことの反復を心がけるならば、無目的・無意義な人生の奥義に至るであろうか。

 *    *    *

人生の最果て

、人間の存在は虚無から生じ、虚無に消え去る。あらゆる個としての生命体は、皆そうであるかもしれない。すくなくとも人間の意識は虚無から現われ、虚無に没する。動物の感覚も、また同様であるかもしれない。存在している間だけ、意識があり、感覚がある。存在が終われば、あるいは意識や感覚が消え去れば、なにも残らない。虚無から発し、虚無に終わるのである。
、このことは、高齢になって、あらためておのれの<居どころ>というものが、どこにもなくなってみて、しみじみと分かってくる。人生の虚無を覆い隠していたものが、すべて剥落していくと、あとには虚無感しか残らないからである。おのれの居どころと思っていたものは、すべて他者との関係において、あるいは社会的関係において、与えられていたものに過ぎなかったのである。
、おのれの居どころであったものは、家庭、家族、配偶者、友人、職場、同僚などといった、直接的人間関係において、なんらかの安住の場を見いだすことにかぎらない。他者との交渉や、社交における、評判や、業績や、名声や、名誉といった、社会意識の中での、おのれの居どころを求めることも、直接的関係以上に、強く意識されるのである。要するに、おのれの居どころとは、自己自身の社会生活のなりたつ場なのである。
、高齢になって、しだいにこの直接的・間接的社会生活のなりたつ場が失われていくと、人間存在の根本的虚無が露わにされていく。もちろん若年期においても、こうした情況は生じうる。しかし希望が虚無を覆い隠すのである。まだ〈未来〉に生きることが出来るからである。しかし高齢者にはあとがない。虚無に正面から向き合うしかないのである。
、人間存在が、根本において虚無でしかないことを感じるようになると、あらゆることに関心や興味が失われていくことになる。残された人生に、なにをなさなくても、なにをなしても、たいした違いはないのである。いや、まったくどうでもよいことであるかもしれない。しかし、この根本の虚無の発現が、居どころを失うことであってみれば、そもそも居どころを求めること自体が、根本の過ちなのではないかと、反省することができよう。
、もはや居どころを求めさえしなければ、まだなにかおのれの存在のなかに、虚無に抵抗してくすぶるものがあるのではないか。ひたすらおのれに依存することはできないであろうか。まだおのれの中に、虚無に抵抗する快楽の欲求が残されているのではないか。たとえ虚無から虚無への存在であっても、存在している限りにおいて、存在は私のものではないか。
、ここで<自由>の本質について考えてみる。虚無から虚無への存在である私は、存在として現われているかぎりにおいて、その存在を快楽で満たす自由を与えられている。存在が快楽であるかぎりにおいて、そこに虚無はなく、私は虚無ではない。自由とは、虚無に対抗して、私の存在を快楽で満たすことなのだ。しかも、快楽には居どころが必ずしも必要ではないのである。すなわち、快楽は必ずしも社会性には依存しないのである。
、自由であるものは、居どころを失ったからといって、自由であることをやめないであろう。あくまでも快楽を自己自身に求めるであろう。高齢になれば、ひたすらおのれを相手にし、おのれの快楽、おのれの人生だけを考えればよいのである。虚無感に襲われるときは、もやは自由人ではないのである。自由を他者に譲りわたし、社会に隷属し、自由を虚無にゆだねるのである。私が生きて自由であるかぎりは、私は虚無ではない。私の居どころは、私の中にある。
、人間存在が根本において虚無であることは、いずれ人間のあらゆるいとなみがAIによってとって代わられると、予測されていることからも、明らかである。AIは単なる物理的機械なのであるが、人間もまた、同様にして自然が作りあげた物質的機械なのである。AIはニーチェが予測した、人類の究極のニヒリズムの発現なのである。AIはいみじくも快楽を持たない。すなわちその点でも、虚無そのものであり、当然自由に生きることはない。AIとちがって、人間は自由であることによって、存在する限り、虚無を脱することが出来る。
10は突然に、断崖のようにしてして起こる。おのれの心身ばかりでなく、周囲のあらゆる所有物をまきこんで、虚無の淵になだれこむのである。そこではなんの抵抗もなしえない。すべてが消失する、文字どおりの虚無なのである。
11、もとから何もなければ、死の虚無は恐れるに足りないわけであるが、人生という時間の猶予において、あまりにも多くのものをため込んでしまうので、死の準備などはとても間に合わないのである。これが動物のように自然に死におもむけない、人間の悲惨である。
12、死そのものは苦痛であるか。死に至るまでのプロセスはいまだ生であり、そこに苦痛が起こりうる。死に対する最後の抵抗が、心身における苦痛であるということが、死そのものをさらに悲惨にする。そこで、せめて安楽死を求めるわけである。眠るように死ぬということが、理想の死なのである。
13、たとえ肉体の苦痛がなくても、心理的に、存在の消滅そのものに対する、果てしない落胆と不安がある。生命欲の最後の抵抗が、苦悶として死に抗うのである。生が死におもむくかぎりは、すなわち存在が虚無におちいるかぎりは、この苦悶の解決法はない。生死を超えるという、超絶技法でもないかぎりは・・・。
14、この生死を超えるという超絶技法は、たいていの場合幻想にすぎない。死後の世界という幻想になぐさめられて、死の苦痛・苦悶をのりこえようとするのである。これは生命体の、特に人間の、死に対する取っておきの策略であるといえよう。虚無を幻想とすりかえるのである。
15、いずれにせよ、幻想によって死の苦痛・苦悶は、いくばくか楽になる。癌の苦痛を麻薬で鎮めるようなものである。言ってみれば、死の心理的医術である。だれもがなんらかの幻想によって、死の苦悶に対処しようとする。死んでも人々の記憶にとどまるということが、生の幻想を死後にまで持ち込むことによって、満足感をもたらしうる。死にのぞんでも、生命的幻想を失うことがないのである。
16、死は虚無であるということすら、一種の幻想でありうる。死後に何もないということが、地獄や死後の応報を恐れる人には、慰みとなりうるのである。死によってこの世からも、あの世からも消し去られることを願うのである。死において、生のあいだにためこんだ多くのものを失うことを恐れるものだけが、虚無としての死を恐れるのである。
17、たいていの人の場合は、死んでも幻想のこの世にもどる。天国、極楽、すでに死んだ人たちの待つ世界、などなど。身体的・心理的苦痛は、ある種のイニシエーションなのであり、極端な場合は、殉教や自爆が、天国への鍵となる。生の幻想の恐るべきたくらみであると言えよう。
18、生そのものが苦しみである時に、はじめて虚無としての死は願わしいものとなる。死は苦痛のない状態として、価値転換をこうむるのである。子に虐待されつづける親は、早く死にたいと思うであろう。拷問にかけられたものは、殺せと叫ぶであろう。地獄のような生命界においては、死はむしろ慈悲でさえあるのだ。あまりに苦痛が高まると、生命体は意識や感覚を失う。死に臨んでは脳内麻薬物質が分泌される。まさになんの意識も感覚もない状態で、動物も人も生を手離すのである。
19、生は虚無から虚無のあいだの猶予期間(モラトリアム)に過ぎない。その期間が過ぎれば、負債を返して、もとの虚無にもどるのである。この赤裸な事実は、どのような幻想によってもくつがえすことはできない。虚無こそが生命現象の本質であり、この宇宙の本質なのである。
20、そもそも虚無とはなんなのであろうか。それほど恐るべきものなのであろうか。あるいは願うべきものなのであろうか。虚無とは、認識の見地からいえば、単に不可知であるということの言いかえに過ぎないであろう。しかも生命体の見地からは、絶対的に不可知である。生命体は、不可知な本質から発生し、不可知な本質へと消滅するというに過ぎないのである。
21、不可知なものを、様々な幻想でいろどってみたところで、不可知であることが本質的に変わるわけではない。不可知そのものに向き合わねばならない。そもそも、どのように不可知なものに向き合えるのであろうか。そのような能力を、一介の生命体である人間が持つであろうか。どのような理知も、不可知を不可知とするほかはないのである。虚無の深淵の前に、理知はおののくほかはないのである。
22、人間が知りうるのは、生とは虚無から虚無へとかけられた、危うい橋に過ぎないということだけである。この虚無について知るには、まさに死んでみるほかはないのであるが、しかし死によって新たな認識能力が生まれるとは考えがたいので、その可能性は薄いであろう。
23、死によって虚無に還るとは、もし人間の本質自体が虚無そのものであるならば、虚無が虚無に還る、すなわち本質が本質に還ることにほかならないであろう。このことに気がついたのは宗教者であり、とりわけ釈迦であろう。死とは人間がその本質に還ることなのである。生の立場からは虚無であるものが、本質の立場からはニルヴァーナ(涅槃)なのである。虚無の深淵は、神の深淵なのである。ニルヴァーナも神も、ともに不可知であって、死とはその不可知のふところにおもむくことなのである。ここにおいて、死は生死を超えた、真の超越への関門となりうるのである。
2026年8月11日(火)
構成体としての自我
構成体としての自我

 自我には四つの層がある。最下層には無意識界をも含めた意欲の層、つぎに五感の働きである感性の層、その上に理知の働きである観念・概念の層、さらにそれら三層を統合する働きである自己意識の層である。これら四層は、地層と同じように、自我の成層Formationと呼ぶべきものであり、社会学用語の<構成体>を用いることにする。
 自我の構成体は進化的な見地から見ることもできるが、ここではその相互関係から考察する。日常的に、知情意と呼ばれる心理的働きが、その大まかな概念である。この知情意を統括する自己意識が、通常自我として理解されるものである。この自我は人格概念と結びつくので、狭い意味での自我としてよいであろう。自我は必ずしも人格的ではないのである。このことを、最底辺の意欲の層から見ていく。
 自我を突き動かすものは、客観的にいって生命体、すなわち肉体・身体としての生命的働きである。これを心理的には意欲とか意志と呼んでいる。この生命原理は、物質的エネルギーに還元でき、宇宙の根本的エネルギーと一致する。形而上学的にいえば、世界意志の低次における発現である。この自我の低次の階層における働きは、圧倒的に無意識であるといってよく、自我はいわば完全に肉体と一致している(生理学的に細胞から自律神経系まで)。これを仏教の唯識ではアーラヤ識と呼んでいるが、これは識とはいえ無意識なのであり、これを意識にもたらすのがマナ識であると解してよかろう。唯識では物質や肉体を認めないが、次の層の、五感の働きにおいては、五感の起源を考えるには、肉体・物質を無視するわけにはいかないであろう。
 五感は誰もが知るように、それぞれの感覚受容器によってもたらされる。感覚は刺激そのものではなく、それらが脳において処理され、それぞれの受容器に応じた質の違いにおいて意識にのぼるものである。このプロセスは、もし五感が意識のみでできていたならば、よけいな迂回路であろう。物質界すなわち肉体が発現しなければ、感覚も生じないのである。
 感覚はまず、肉体・身体を発現させる機能であるといってよいだろう。物質界の一個体である肉体が、物質界において反応するプロセスが、感覚にほかならない。この層における自我は、まさに感覚的もしくは感性的自我である。感性的自我において、はじめて意識が生じる。肉体もしくは身体が、周囲の物質的環境と対峙するその関係こそが、意識の根底である主客の関係を生みだすからである。感性的段階での自我は、その成立の条件から明らかなように、つねに客体との関係において意識される自我であり、その自己意識はつねに他との関係における意識に限られる。それゆえに、容易に自己意識を失いがちであり、無意識の関係、主客同一の状態におちいる。動物の自我の基本的あり方が、それであると見てよいであろう。
 この感性の層に属するものとして、情念の働きがある。情念そのものが自我の特別の層を成すものかどうかは、情念の定義次第であろう。情念は感性ばかりでなく、意欲の層にも属しているのである。いわば感性的に把握された意欲が情念である。情念は基本的に肉体に属し、いわゆる臓器感覚と密接にむすびついている。無意識と意識との架け橋のようなものが、感性界に現われる情念であるといってよかろう。これのよい例が、予感とか不安とかいう情念である。無意識界にうごめくものが、不確かな感性として浮かび上がるのである。この二層を横断するものが情念であるから、情念を特別の層とする必要はないであろう。なお快苦も、感覚と肉体の反応の合わさったものであるから、基本的に情念に属する。
 感性界から概念が抽出されることによって、自我の第三の層が成立する。第一・第二の動物的自我に対して、観念的・知的自我としてよいであろう。自我が観念的・知的であるという理解は、一般的ではない。<我>というものを動物的、意欲的、肉体的情念の表われと考えるのが普通だからである。純粋認識における自我が発現するのが、この自我の観念的・知的層である。この自我の働きは、感性的対象よりも、おもに観念界における思考をこととする。想起や想像や論理によって、思索をめぐらせるのが、この自我の特徴であり、それによって自我の〈反省〉機能が発達する。この反省とは、客体よりも、より多く主体に注意が向けられることである。言葉の真の意味において、<自意識>が発生するのである。この段階での自我は、それ以前の段階での自我を俯瞰する視点を与えられる。いわば自我の自我となるのである。ここに自我の第四の層が成立する。
 自我の第四の層を自己意識の層とする。自己意識の層が非常に不安定であるのは、自我は下層へいくほどエネルギーに満ちており、強力であるからだ。しかし自我が統一的自我として存在するためには、この第四の層は不可欠である。第二の層までは、自我の働きは圧倒的に無意識であるといってよい。第三の層における自意識も、もっぱら思索の範囲における自意識であり、やはり感性や意欲の支配を受けている。この知情意の段階では確かに、基本的に理性的であるという意味において、世にいう人格は成立しうるであろう。しかし理性は本来単なる思索の能力であり、それが反省に向かったとしても、圧倒的に優位な情意に対抗するには非力である。人格なるものが偽善におちいりやすいのもその故である。
 自我の第四の層は、むしろ非人格的であるといってよい。この層の自我がよく機能するためには、どの層に対しても同等の注意を払い、同等の自己意識を持たねばならないからである。あらゆる意欲は私の意欲であり、あらゆる感覚・情念は私のものであり、あらゆる思索は私の思索であるという、統合的意識において、はじめて自我は一個の統一体となる。そこにどのような矛盾が生じようと、どのような矛盾に苦しもうと、この矛盾の統一体こそが、私という自我の、私の存在の本質なのであるという認識において、私という自我の唯一無二性が生じるのである。ここにおいて自我の四層は、自己意識における強固な構成体としての統一をなすのである。

 本当の私について

 世界の思想または宗教においては、自我はむしろ解体的に考えられているといえよう。未開社会においても、その霊魂観は自我の構成体から遊離しており、ギリシャ哲学やキリスト教においては、自我の構成体は完全な分解をとげているといえよう。それらの霊魂観では、自我の特殊な要素のみがとりだされ、強調されることによって、自我の複合体からの〈救済〉の観念が生まれる。救済されるべき自我の要素は、基本的に自我の上部構造に限られており、すなわち自己意識や理性が超越的存在とされ、それに倫理化された〈心情〉すなわち愛や敬虔や良心やが加わり、霊魂や心霊といったものが発明される。
 たしかに、もし自我の救済ということが可能であるならば、第四の層すなわち自己意識においてのほかにはないであろう。しかし、宗教的な救済観はここでの問題ではないので、代わりに、本当の私とは、といういわば〈良心〉の声について考察する。統合的な自己意識の中で、いわゆるGewissenswurmなるものが、なんらかの虫くいを起こすのであるが、その根源を考察する。

 ひとが<まじめ>になるとき、自我の下位の層よりも、上位の層に引かれるのは、なぜであろうか。そのsoberな状態において、心に堕落感を覚えたり、恥じたりするのは、なぜであろうか。人間が生命体として四層の自我を持つことは、人間の基本的な条件であり、本質であるといってよいのだが、それらに優劣をつけたり、善悪判断を行なうのは、自我自体とは別の領域から来るのであると考えてよいであろう。
 この別の領域とは、動物としての人間の社会性である。とりわけ文明社会においては、社会生活において心理的抑圧が強く働く。なにが本当の私であるか、<自分探し>などということが問われるのは、社会のながでどのような自我が要求されているかを、<まじめ>に考えようとするからである。すなわち〈他者〉の意識によって、その本来あるべき、まじめな私が要求されているのである。これが道徳や倫理の本質である。
 それにしてもこの社会的圧力は強力であって、どのような自我も〈良心〉の前には涙もろく、従順になるのである。罪深いおのれの<ゆるし>を求めるのである。たしかに、私は罪深く、両親もまた罪深く、祖先も民族も罪深く、人類も罪深く、そもそも生命体そのものが罪深い。アナクシマンドロスが言うように、存在するものはすべて贖罪しなければならない。イエスがアダム以来の人類の罪を贖ったのも、単にその一例にすぎない。自我自体も、その贖罪を宿命的に、そのうちに宿しているのである。それが社会性において、露骨に発現するのであるとしてよいであろう。まさに個と個の関係、社会性こそが、生命体の〈罪〉の意識の根源であるからだ。個が個を食らい、個が個を滅ぼしあう。本質における同一性にもかかわらず、生命界におけるこの必然的な地獄図こそが、罪悪の根源なのであり、贖罪の意味なのである。
 本当の私を求める私は、確かに罪深き私である。それにふれた時には、自我はもはや、なんらかの救済を願うほかはなくなるであろう。それが神によるものか、究極のニルヴァーナによるものかは、問わないとしても・・・。本当の私とは、その罪深さを意識する私であり、あるいは少なくとも、生命の欲望に対して反省的になり、理知的になろうとする私である。それが生への意志によって覆い隠されるとき、私はひたすら盲目な存在にかえり、欲のままに生き、ふとその私に目覚めるsoberな瞬間には、ひたすら許しを求める罪びとなのである。Gewissenの声とは、生命体としてのおのれが、本質的に罪深い存在であることに気づき、それによって生命の上にきずかれた、強固な自我の構成体をむしばむことなのである。それが、生への意志の肯定か、否定かの分岐点となる。
2026年8月6日(木)
盗みについて・虚勢、見栄、気取りについて・他
盗みについて

 盗みの衝動は本能的なものであり、動物に具わった先天的な欲動である。生まれたばかりの動物は、まず何よりも自己自身の生命を保証する対象を、おのれのものとして獲得しなければならない。最初の争いは、兄弟姉妹の間での、親の注意の獲得競争である。ここにはなんら他に対する容赦も、配慮もない。托卵する鳥の場合は、雛はまず他の雛を巣から押し出すことをもって始める。巣をおのれ一人のものとすることによって、自己の生命を確保するのである。
 人間の場合も、盗みの衝動は、この個体保存(self-preservation)の本能から発している。まず母親の乳房を、自己自身に独占しなければならない。ついで兄弟姉妹から、母親の注意を奪わねばならない。この自己の生命のために、何かを独占する本能的衝動が、盗みの根源である。ここには他に対する配慮は一切ない。
 盗みは何らかの習性によって生まれた<癖>ではもうとうなく、また教育によって完全に失わせることのできる衝動ではない。自己保存が必要な時には、常に発現する、先天的衝動なのである。
 あるものを自己自身の満足のために独占しようとする衝動もしくは情動は、人生のあらゆる時期に生じる。これの社会的承認が私有財産制であり、プルードンはいみじくも、これを盗みであると言っている(La propriete est le vol.)。いわば公的に承認された盗みである。ボルテールはまた、あらゆる戦争は盗みであると言っている(Dan toutes les guerres il ne s'agit que de voler)。いわば戦争は国家による盗みである。
 こうした公の盗み以前に、私有財産(ひとのもの)や公有財産(みんなのもの)を、衝動的におのれのものにしようという欲動は、少青年期には頻繁に起こるものである。子供の頃に、ささいであっても、盗みを働いたことのないものはいなかろう。盗みの意識すら生じないことが多い。じつは盗みには、悪の意識以前に、動物本能に属する何らかの優越意識が伴うのである。個体間における自己保存の争いにおいても、やはり優勝劣敗の生命界の法則がはたらいている。盗みは、言ってみれば、勝者の行為なのである。
 このことの最も顕著な社会的現われは、株やギャンブルのような、ゼロサム・ゲームである。勝者は敗者から金を奪うのであるが、そこには敗者への同情はない。盗みがまさに優越感の源なのである。
 動物的本能を反省する年頃になって、はじめて盗みのような行為に対して、自己自身を抑制する意識が生じる。もちろんこの反省にはさまざまな種類があって、プライドから生じるもの、何らかの愛他主義や倫理観によるもの、周囲からの視線や社会的不利益によるもの、など、いわば盗みに対して慎重になるのである。理性的・倫理的人間であるならば、自己自身を動物的本能によって貶めることに対する、羞恥感が生まれてくるのである。
 本能を抑えるということは、生命そのものと闘うことに等しいのであるから、盗みの本性は人間の本質から消えてなくなることはないが、社会的に公認された盗みの範囲で、それの鬱積したエネルギーを解放するほかはない。ギャンブルや戦争が、人類に必須であるゆえんである。

虚勢・見栄・気取りについて

虚勢=実際のおのれの力や能力よりも大きく見せようとすること
見栄=見かけや体裁にこだわること
気取り=もったいぶった尊大な態度

 これらのどの態度も、実際のおのれ自身をいつわり、見かけのおのれによって、人に対して優位に立とうとすることである。
 虚勢は、単なる空威張りの場合もあるが、自信のなさを、そぶりに出さずに乗り切ろうとする心理的作戦でもある。これを張ったりというが、必ずしも悪いことではない。ただし、見抜かれないように(いわゆるぼろを出さないように)する手管が必要である。動物界では、自己防御のための普通の本能的行動であり、羽や毛を逆立てることで、実際よりも大きく見せるのである。しかし虚勢を張ることは、心身ともに疲れることであり、本当のおのれ自身がやがて優位になると、神経症に陥り、全てを投げ出すことになるであろう。
 見栄は、気の弱さの表われでもあるが、なによりも人から侮られないようにする身づくろいや、エチケットは、最低の見栄として必要である。それが高じると、飾りや外見だけで人を圧倒しようとする、本物の見栄、すなわち虚栄心になる。反対に、見栄を無視して、人の侮りをも逆手に取ろうとする蛮勇(バンカラ)または傲慢は、不必要な虚勢におちいって、神経をすり減らすことになる。ほどほどの見栄を心得るのがよい。
 気取りは、おのれ自身を正しく把握できていないことからくる、過剰な自信にもとづく態度である。本人は気取りとは思わなくても、周りからは尊大にみられるのであり、実のところ周りの目のほうが客観的な場合が多いであろう。早くそれに気づいて、人を無用に刺激しない態度を心掛けるべきである。

 西洋語でいう Affektation, affectation は、これら三者を含んでいよう。ふりをする、いつわる、ということであるから、対人関係におけるごく広い態度が含まれる。そもそも、社会行動そのものが、すべてaffectationであると言ってもよいくらいである。だれもが、だれもの本心を見抜くことなど不可能なのであるから、だれもが見かけによって、だれをも判断しているのである。いかに見かけによって騙されないかということが、人間関係の要諦であろう。本音を表わすなどということが、人間社会でうかうかできるであろうか。かならず見かけによって調整しているのである。
 人間社会でうまく生き抜くことは、いかにうまくaffectationを学ぶかにかかっているのである。その学習ができないと、社会生活で苦労し、結局は挫折し、人生をうまく生きられないのである。

謙遜・謙譲・謙虚について

 Affektationの反対の態度が、これらの心がけからくるふるまいであるとされる。しかしこれらもまた、必ずしも本心からのものである必要はないのである。謙遜も謙譲も、そもそも優越感が背後にあり、いわゆる和光同塵といったわざとらしさがある。賢者も世に交わるには、馬鹿のふりをしなければならないというわけであるから。おのれの無能をさとった場合にだけ、ひとは<謙虚>になれるのである。しかし謙虚はたちまち謙遜になり、謙譲になり、はては尊大になる。これが、万物の霊長たる、人間の業である。

依存心と甘えについて

 子供と動物は、もっともエゴイスティックである。このエゴイズムは、徹底して他者に依存する、甘えるという行動となる。その行動の本源は、自己保存の本能であるから、生物学的に必然の行動であると言える。甘えの対象は通常は親であるが、それに代わる対象であってもよい。要は自立が可能になるまでの、全面的信頼のおける養い手であればよいのである。
 この依存心は、通常幼年期の一定期間に限られる。ある期間ののちには、子供も動物も、この楽園のような保護関係からきりはなされ、自立の苦難の道を歩まねばならない。この依存心からの脱却がうまくいかない場合、対人関係や社会関係において、さまざまな障害が生じる。いわゆる発達障害である。依存意識が強すぎるために、人との交渉がうまくいかなくなる。あるときは自己を主張しすぎ、あるときは人に求めすぎ、人に甘えることになりがちである。自己と他との関係を、互いに自立した関係として、客観的に見ることができないのである。
2026年8月5日(水)
Aphorismen19
1、記憶の恐怖:人間どうしの能力の間にはある平均性、平等性があるはずだという先入見は、特に感覚的能力においてその思いこみが強いようであるが、精神的能力においても、記憶能力に関しては、だれもが同等であるという思いこみ、あるいは同等であるはずだという、ほぼ無意識の思いこみがあるようだ。このことは、記憶のおとろえ、特に高齢期において認知症などがからむと、深刻な人間関係の破綻を招くようである。あることについての記憶が、対話者と一致しない時に、おのれの記憶を疑うよりも、他者のそれを疑ってしまうものである。おのれがなしたこと、話したことは、たいてい日時がたてば忘れるが、相手が覚えていると、そのことがなんらかの要求や非難を伴っている場合には、おのれの記憶がないだけに、容易には認められず、むしろ相手の記憶を疑ってしまうのである。おのれの記憶がないことの気持ち悪さと、相手に対する不信が、重大な人間関係の破綻を招くのである。この時謙虚に、おのれ自身の記憶能力の欠如を認め、相手の記憶力の優位を認められれば、相手の怒りをなんとか静めることもできよう。しかし、記憶がないということの気持ち悪さと、おのれの頑迷さとが、いつまでも尾を引いて、結局破綻を回避できないことが多いであろう。つね日頃から、記憶というものは不安定で、擬似記憶や、にせ記憶、すりかえの記憶が生まれやすいものであるということを、肝に銘じておくべきであろう。
依存心:あらゆる行為は、おのれのためか、他者のためかをつねに考慮せよ。他者への親切心や助力によって、おのれのための行動、利得、自立心を忘れてはならない。親切や助力は、依存心の裏返しであり、本当に必要かどうかを、つねに考えるべし。
3、暴力:はまったくの非論理である。論理のつきたところに、暴力が始まる。それ故に暴力による以外は、なんの応答も不可能である。それ故に、たいていの場合は、完全な無力におちいる。暴力からは、ひたすら逃れるほかはない。社会がもし暴力から成り立っているならば、その社会を捨てて、自らの理想の世界に閉じこもるほかはない。
4、戦争:は究極の暴力であって、あらゆる論理や言葉の通じない、非理性の世界であるから、もはや人間であることをあきらめるほかはない。あらゆる<人間の条件>は、そこでは通用しない。
5、イスラムの天国では、この世では禁じられていた美酒が、ふんだんにふるまわれる。あの世での快楽のために、この世では禁欲するのである。阿弥陀如来の極楽浄土は、絢爛豪華な宝玉類や金銀で飾られている。単なる詩人の空想ではなく、寺院や王侯の仏閣に、金銀の荘厳として模倣されている。想像力は、こうした強固な信仰を生みだすのである。
6、死とギャンブル:死は生命と切りはなせないが、死を生命の必然と考えるならば、死を生命の目的と見なすことも可能であろう。あらゆる生命体は、死をめざして生きるのである。人間も例外ではない。死の後になにかがあるからではない。時々刻々、日々が死との闘争であり、死の克服である。ニーチェは敵を持てといったが、死こそ最大の敵であり、ライヴァルである。生は獲得しようとし、死は奪おうとする。しかも究極の勝負は、たった一度なのである。この一度の勝負に賭けるのが、生命体の運命であり、人生である。そしてこの大いなるギャンブルにおいて、負けは決まっているのだが、その賭けが大きければ大きいほど、ギャンブラーの人生は充実していたといえよう。少なくとも、それがギャンブラーの誇りである。
2026年7月28日(火)
情緒の本質
 情緒のなかには、ある胸苦しさがともない、その状態にとどまっていられないという、移動への欲求をかもし出す、特別な種類がある。それ自体によっては満たされることがない、あるいたたまれない思いである。通常、情念はなんらかの対象や刺激によって、かき立てられるものであるが、この特殊な情緒においては、なんらの具体的な対象があるわけではない。ちょっとしたメロディーや、イメージや、思い出などによって、心が惹きつけられ、はっきりした対象や目的がないままに、どこかへ当てもなく旅立ちたいといったような、いたたまれない気分が生まれるのである。それを一般に、憧憬(しょうけい)と呼んでいる。
 憧憬は非日常的な情念であり、あるいは少なくとも、単調で退屈な日常から脱出したいという欲求が、背景にわだかまっている。しかし単にそれだけではなさそうである。ある生物学的必然が、その根底にひそんでいるようである。旅へのロマンは、もともと生命体の配偶者を求める希求なのである。生命体は遺伝子の交雑によって、よりよい子孫を残そうとする。人間社会においても、成人に達した者は、近親交配を避けるために、他の集団に配偶者を求めて群れを離れる。渡りをする鳥や昆虫も、基本はよりよい繁殖地を求めて、はるばる旅立つのである。それならば、配偶者を見いだせば、この憧憬は終わるのであろうか。
 すくなくとも男子の場合は、せっかく見つけた配偶者を捨ててでも、遠くまた旅立とうという本能が残っている。配偶者がそばにいても、このいたたまれない憧憬はやまないのである。たぶん人類は本質的に一夫多妻が原則なのであろうか。英雄たちが他民族を征服するのも、結果的におのれのより多くの子孫を残すためである(ジンギスカンの子孫は何千万人もいるという)。しかしそれだけであろうか。憧憬は、たんに性本能に支配された、飽くことのない欲求の反映なのであろうか。
 胸苦しさ、息苦しさが、性欲の満足によって満たされることもあろう。その場合、ドン・ファンのように、そのプロセスを果てしなくくりかえさねばならないことになろう。そうした欲求は、たんに一夫一婦の<道徳>や宗教によって抑えることが出来るのであろうか。宗教自体がそれを否定している。人間の究極の憧憬は、<神>によってしか満たされえないとするからである。
 神によってしか満たされえない憧憬とは、つまるところ憧憬そのものが絶対の情緒であるということである。単なる性愛や、超自然的なものへの依存によってではない、絶対の不満足が、心の本質をなしているということであろう。もし人間の本質が宇宙の本質に通うならば、この宇宙の本質自体が永遠に満たされることのない渇望であるといえよう。宇宙はその渇望によって、生成と消滅を永遠にくりかえすのである。

 旅にでると人は奔放になり、知らない土地や国では、性愛において自由になる。このような動機で旅にでる人は多い。性愛が旅への憧憬をかきたてるのである。また単なる好奇心や興味といった、<気晴らし>が動機の場合も多かろう。また科学的・学術的探究心にかられて、遠く目的を定めて旅する人もあろう。旅を仕事とする人は、その職業選択の動機は様々であろう。他方で、旅の情緒そのものの根本を求めて、探求の旅をする人は少なかろう。その情緒そのものは、いつでもかきたてることが可能であり、実際に行動に出ることがなくても、その情緒そのものを、美的に享受することすら可能である。
 憧憬はある種の欠乏の美を生むのである。必ずしも現実に満たされることを求めなくてもよい。そのよい例が音楽である。音楽はそのかなでる情緒の悲痛さそのものが、美的鑑賞の対象となるのである。絵画においても、風景画などで、同様なことがいえるであろう。それらが<絵空事>であるゆえに、満たされることのない憧憬を生むのである。また詩歌は、感情としての憧憬の直接の流露であり、日常では口にすることのはばかられる、心の深奥の吐露である。
 憧憬にかられることは、必ずなんらかの欠乏が、おのれの心の奥にひそんでいるのである。それは心の弱さなのであり、嘆き(lamentation)なのである。それを美的に昇華(sublimation=高尚sublimeにすること)すれば、むしろ欠乏そのものを、すすんで求めるということになろう。それが本来ネガティヴな心情である憧憬を、ポジティヴな行動原理に変える秘訣である。音楽家や芸術家や詩人のいとなみは言うまでもなく、夫が妻を残して旅立つのも、まさに欠乏をふたたび求めて、それを美的に昇華するためである。
 宗教者がおのれに満足すること、自ら足りることを強調するのも、根本において、人間がなんらかの欠乏を本質とする存在だからである。それを憧憬という情緒が、たえまなく、如実に表わしだしているのである。それは<いたるところにあって、どこにもない>ものを求めさせる、あてどのない欠乏感であるから、永遠に満たされない心で、この世界をさすらうことになる。<いずこなりとも、この世の外へ>脱出しようという希求に悩まされるのである。
2026年7月21日(火)
場の形而上学
 物理学においては、物質は<場field>における力の働きであるとされる。電磁力、強い力、弱い力、重力のそれぞれに、電子(光子)、中間子、重力子といった、素粒子が、相互に力を及ぼしあう場が考えられている。この場とは、単なる空間的な位置関係のことではなく、素粒子相互の関係が、力として発現することそのものであると考えられる。電場や磁場は、それが発現することによって、電気力や磁力として、他の粒子に影響を及ぼすのである。強い力は、原子核をつなぎとめる、中間子の交換がおこなわれる場としての、核力の発現そのものである。弱い力は、原子の崩壊を起こさせる相互作用の場であり、核力の反対の力の働きとしての場である。重力場は、空間との関係では、質料による空間のゆがみそのものであり、質料とは、ヒッグス場における素粒子の動きにくさと考えられている。重力子はいまだ発見されていない、
 物理学での<場>は、なにかがそこに置かれていると言った意味での空間や時間ではなく、ある意味で時空以上の概念である。場もまた時空において発現するが、必ずしも時空によって制約されていない。むしろ物質が、すなわち素粒子が、時空において発現するための、根底となる条件をなしているといえよう。その意味では、まず空間があって場が発現するのではなく、物質と空間が同時に発現する条件として、まずなんらかの透明な、あるいは無限定の場が、前提されているのであるといえよう。すなわち、場は形而上学的原理でもありうるのである。
 宇宙は<無>から生じたのではなく、<場>から生じたのであると考えられよう。このことを古代人は<渾沌Chaos>と呼んだり、無限定者と呼んだり、<空>とか<アルケー>」と称したのであろう。まずなにとは言えない根源的<場>があって、そこに空間や時間、物質の相互関係が生じたのである。真空には<ゆらぎ>があり、粒子と反粒子とが、対発生と対消滅をくりかえす。物質が瞬間的にわきたっては、消滅しているのである。このようなエネルギーの場は、ゼロポイント・エナジーと呼ばれているが、まさに物質の発生の温床としての、根源的場であろう。真空もしくは空間のエネルギーとされているが、空間よりもさらに以前の、なんらかの創造の場であると考えてよいだろう。
 たとえれば、この物質界、全宇宙は、場という釈迦の手の平に発現するといってよかろう。この場は、この全宇宙のすべての現象に共通しているといえよう。すなわち、無限、多元な、無慮無数の宇宙から、微小な粒子、量子の世界にいたるまで、そこでの力の現象は、すべて共通な根源的場において演じられるのである。もちろん人間的現象も、場において踊らされる、ささいなeventsにすぎない。

 以上は物理的な見地からの、客観的な場の理論であるが、これを主観的、観念的領域にまで及ぼすことができるであろう。意識とは、じつは場の一つのあり方に過ぎないのである。主体(主観)と客体(客観)とが、同時に場において発現することが、意識の基本条件である。この<意識の場>では、主体と客体とは、かならず<対発生>する。主体が消えれば、同時に客体も消え、客体が消えれば、同時に主体も消える(すなわち対消滅する)。なんらの客体のないところにも、主体があると考えるのは、単なる錯誤である。
 主体も客体も同時に消えたところに、根源の場がある。これを主客合一などと称したりするが、じつのところ、主体と客体が、それらの発生の根源へと消滅することであり、物理学で真空に当たるものを、意識の場においても考えることができよう。仏教の唯識では、それを<アーラヤ識>と称している。意識の側からすると、ある種の無であり、空である。その空無である場において、主体と客体が対発生し、対消滅するわけである。それを意識と称しているのである。
 この空としての意識発現の場は、ある種のエネルギーの場であり、真空のエネルギーとの類比でいえば、空のエネルギーといってよいであろう。表象としての世界が生まれる、根源の場であると同時に、主客のあいだ、観念のあいだの、相互的力の関係の発現する場でもある。このことは意識において働く、知情意すべてにおいて言えるであろう。
 感覚的知覚は、感覚の刺激と、それに応じる知覚とのあいだの、相互的反応であるといえる。ある感覚が意識において発生すると、そこには同時に知覚する主体が、感覚の内容をなんらかの対象として受けとり、反応する。いわば感覚から投げられたボールを、主体が受けとるやいなや、すぐさま投げ返すのである。この主客間のキャッチボールが、感覚より始めて、あらゆる知覚の、意識の場における働きである。
 思考もまた場において発現するかぎり、同様の関係にある。ものごとを考えるとは、まさに思考の主体とものごととが同時に現われることである。この際ものごとは基本的に観念であり、観念は場において、自動的に連合して現われる。この観念連合もまた、場において働く力の関係であると言えよう。意識の場は、思考や、観念連合や、想起の生まれる、相互的力の場なのである。この力そのものは、場の属性であるから、思考作用においては直接意識されることはない。場において直接力が発現するのは、情念や意志においてである。
 意識において、場が力であることが分かるのは、情念や意欲において、主体が対象に対して働きかけるときである。対象に対して怒りや愛情が生じるとき、対象に対する積極的行為へのエネルギーがそこに発生する。また、恐れや敬意が生じるときは、回避や抑制へのエネルギーが生じる。基本的に、意識と称されるものは、感覚であれ、思考であれ、想像であれ、記憶であれ、情念であれ、意志であれ、根源的場における、相互的力の発現の場なのである。これは物理現象における場の概念と、基本的に変わらないであろう。
 物理学においては、四つの力の場を統一する理論が模索されている。意識の場においても、同様な統一の見地が可能になろう。それは意識の中核をなしている自己意識、すなわち自我のはたらきによる。自我は知情意すべてにわたって、強力な自己同一性を形成する。これを場の自我への<収縮>もしくは<収斂>と考えてよいであろう。自我を中心とした意識の場を、エゴ・フィールドと名づけておく。主体と客体としての、意識の対発生が、意識の根底をなしている。その相互的力の関係を、自我中心の関係へと再構成するものが、エゴ・フィールドとしての自我のエネルギーである。すなわち客体は単なる相互的客体ではなくなり、<私の客体>となる。意識に発現した世界は、<私の表象>なのである。意識がエゴ・フィールドへと再構成されることから、意識の特殊問題も発生するのである。意識の場は、もはや中立的、相互的場ではなくなるからである。

 以上の立場から、物質と意識の問題、その相互関係も解明しやすくなるであろう。両者の発現する場は共通しているのである。意識を量子力学によって解き明かすことは、現代の自然科学の潮流となっているが、その一番の難問とされているのが<観測問題>である。量子は自然界においては基本的に波動現象であるが、それが<観測>によって一気に収縮もしくは崩壊して、<粒子>となる。その観測と意識とが大いに関係しているとされる。
 量子の場は四つの力の場であり、それらは時空において発現する。観測者のいない世界では、量子は波動現象として、シュレーディンガーの波動方程式に従うふるまいをする。何万光年とはなれた一個の光子も、地球に届くころには、広大な宇宙空間に波動として広がっている。それが人間の目にとどいたとたんに、一個の素粒子と化するのである。この奇蹟のような現象を説明するには、<場>の性質における段階を考えねばならない。意識の場は、主体と客体が同時に発現する場である。波動現象には、主体も客体もないのである。波動がこの主客の場において相互作用したとたんに、そこに客体としての量子の姿が発現すると考えてよかろう。量子崩壊とはすなわち、量子の客体化なのである。この客体化の場がありさえすれば、量子は収縮して、粒子としてとらえられるのである。
 このことはショーペンハウアーの形而上学でいう、世界意志の個別化Individuationとくらべられるかもしれない。認識対象とはなりえない、世界の根底である世界意志は、絶大なる、存在への盲目のエネルギーとしてしか定義できないであろう。それがこの表象世界に個別化して発現するとき、個々の個体の意志として、いわば<収縮>するのである。
 ここで意識においてはなぜ、主体と客体の分化が行なわれなければならないかを考えてみる。意識においても、波動どうしの干渉であってはなぜいけないのか。なぜ量子崩壊が起こるのか。これは上に述べたように、自我の発生の必要からであるといえよう。自我は単なる波動ではなく、知情意の強力に結合した、なんらかの個としての<実体>もしくは<構成体>でなければならないからである。これが生命の発生や、進化や、意識の発生には、必要条件だったのである。あるいはこれを逆に考えて、そのような自我であるからこそ、意識における量子崩壊が起こるのである、としてもよいかもしれない。
 意識もしくは感覚の質(クオリア)についても、なんらの質を伴っていない量子が、意識の場において質的現象として現われることの原理が、場の性質における段階で説明できるであろう。電磁波そのものには、なんら色彩の区別はない。物質的場においては、波のあいだの区別は、波長・振幅などの、まったく波の物理的性質に従うからである。波動が客体化された段階では、粒子の単位は最小から、徐々に積分されて、その性質を変えていくであろう。これは波動ではなしえないことであり、これが意識の場における色彩の誕生であり、その他、味覚や嗅覚や触覚の質的違いの発生原理であろう。

 ここで述べたことは、すでに科学の領域を超えており、それゆえに<場の形而上学>とした。科学的方法が、宇宙や人間の探究方法のすべてではないとする筆者の立場から、自然科学がもたらした大いなる成果を、形而上学に応用してみたのである。形而上学は単なる思弁ではなく、人生における実践に結びつきうるとする筆者の立場から、<場>の理論は、この宇宙の統一的理解において、人間の生になんらかの意味をもたらしうるであろうと考える。伝統的形而上学や仏教などの宗教思想とも、接点を持ちうるであろう。とりあえず、探究の手がかりのようなことを述べてみた。
2026年7月20日(月)
霊魂について・考察2
 (1)人間が死んでもなお、おのれの存在の存続を求めようとするのは、どのような心理的事情があるのであろうか。生命体は生命があるかぎりにおいて、おのれの存在を維持し、成長させようとする、遺伝的性質を、生命の本質として与えられている。そのかぎりにおいて、生命の存続を欲求するのは、生命体の生まれつきの素質であるといえるが、個体としての生命が衰退に向かい、次の世代のために場所を空けることもまた、生命体の遺伝的素質の中にプログラムされている。生命体一般において、個体の死の先には、もはや個としての生命の存続の余地はないのである。
 ところが人間だけは、死の先にさらに生命の存続を求めようとする、理不尽な欲求が見られるのはなぜであろうか。生きているかぎり、その生を守ろうとするのは、個としてのあらゆる生命体に共通であるが、いったん死んでしまえば、そこには生はない。その死後の生まで、種として他の個体に継続させるのでないかぎり、生命体は求めることがないのである。死後の存続は、種もしくは類として生命を持続させようとする、生命の類的本質に属するなのである。
 (2)人間の生命体としての特質は何であろうか。脳の肥大の結果として生じた、高度な認識能力であり、思考力であり、自己意識である。この認識力によって、古来人間は単なる生命体であるものに、そのいわば上部構造に、<霊魂>なるものを発見もしくは発明したのである。この霊魂は、もともとは生命体全般にわたって、生命原理として考えられたものであるが(未開人からアリストテレスまで、霊魂は人間だけのものではない)、理性的要素が強調されると、人間特有の、生命的肉体に対する付加物と考えられるようになる。同じ霊魂でも、その中でも特別な要素が区別されるようになる。植物的霊や動物的霊と、人間の理性的霊とは別物とされ、物質や肉体と異なった、特別な存在であると見なされるのである。ここまでは、人間の思考から生じる、哲学的な霊魂観といえる。そこからさらに形而上学的な精神界が発想され、理性的霊魂の死後の住まいとされるのである。しかしこの形而上学的発想の根源にも、人類共通の素朴な霊魂観が影響していよう。そこでとりあえず生命界にもどって、日常的な立場から霊魂について考察する。
 (3)この思考力、およびそこから生じる自己意識は、生命から独立したものではなく、むしろ生命欲に支えられており、かつ生命活動に根本的に必要な役割を演じている。自己自身の生命体としての欲求を反省することにより、欲求や本能と結びついた<自我>が形成されるのである。この自我は、知情意の結集した強固な構成体(Formation)であり、これが人間独自の<霊魂>のあり方であるといえる。この意味では、人間は単なる生命体ではなく、独自の霊魂(自我)を構成しながら、生命体を支え、さらには超えようとする存在であるといえよう。死に臨んでも、<死ぬような気のしない>のは、この強固な自我の、生命体としての死に対する抵抗なのである。
 人間は自ら魂を構成する存在であることから、その構成の努力が死によってふさがれたり、解体されることには、耐えられないのである。強固な自我としての魂は、死を超えて存続しなければならない。ここに魂の永遠不滅の願いの根源があろう。その根源の欲求は、永遠への<あこがれ>や、不滅への希求となって、心の奥底からわきでるのである。しかし、それらの憧憬や希求には、そこはかとない悲哀が、つねにともなうものである。魂は有限な生命体にとどまっているかぎり、その願いはかなわないのである。魂は有限な生命体を超えて、得体の知れない<死>に向かわねばならないからである。
 (4)この永遠不滅への願いは、生命体であるかぎり、個として果たされることはない。そこで、たいていの場合、類的生命に向けられていく。生命は類として不滅であり、永遠である。個体は種として、子孫として、民族として、国家として、人類として、その不滅の生を、集団的生命に、代理的に委託するのである。これが人間に限らず、あらゆる生命体にとっての、永遠不滅の意味である。知性体としての人間も、結局不滅永遠を求めるかぎり、生命の類的本質に帰っていくほかはない。個体は滅びても、生への意志、世界意志は不滅である。
 (5)このような類的生命の不滅は、個体が単なる物質に還元されても、本質的には変わらないであろう。死後になにも残らず、ただ原子や分子、素粒子やクオーク、量子に分解されたとしても、宇宙の物質が永遠不滅であるならば、そこになんらかの<永劫回帰>が期待されるからである。この宇宙が確率的に奇蹟の存在であるならば、同じ奇蹟は類や種ばかりでなく、個体の存在においても、永劫ののちには起こりうるであろう。万物は流転の果てに、回帰するのである。

 (6)生命体そのものは、本質において、類的な不滅を保障されているとした。個は滅びても、類は存続する。私が今生命体として存在していることは、40億年以上昔に、最初の生命体が発生した時より、連綿として継承された類の生命の末端にあるということである。個体の生命は、孤立しては存在しえないのである。このことは、<霊魂>なるものについても言えることである。かりに霊魂の存在を認めるとしても、単独の霊魂の存在などは、ありえないのである。どのような霊魂も、その本質において類的である。不死の生命を霊魂において願うことは、同時に霊魂の集合体である、なんらかの<霊界>の存在を欲することである。みずからの霊魂のおもむく世界は、同時に他のもろもろの霊魂のおもむく世界でもあるのだ。
 (7)このことから、死後の世界への希求は、おのれの死以上に、むしろ他者の死が契機となって、生じてくる。この世で親しんだ者たちが、死んで無に帰すると考えることに耐えられないのは、生命体の本質において、とりわけ群居的・社会的動物においては、個体の生が、類を離れては存在の意味を失うからである。死はいわば類の本質に帰ることであり、他者の死は消滅ではなく、あらゆる生命体が本来属すべき世界にもどることである。死はむしろ慕わしいものに思われさえする。そのもっとも原初的な形が、祖霊崇拝であり、死して祖霊の世界に迎えられることである。死者たちもすべてその世界にいるので、死によって何ひとつ失われるものはないのである。
 (8)祖霊崇拝から神の観念が発展し、神々もしくは唯一神の支配する霊界の観念が発展する。天国や極楽、さらにそれらの裏返しとしての、地獄の観念が生じる。神観念そのものが類的観念であることは、言うまでもない。個人の神などというものは、基本的には存在しないのである。個人の向かう神は、どのような個人的な要件であろうと、つねに類的な神である。その類的神が支配する天国や極楽は、当然ながら誰もがおもむく可能性を与えられた死後の世界である。曖昧で雑然とした祖霊の世界にかわって、神の支配する天国や極楽は、よき心がけの者には安心感を与えるであろう。もし死後での再会を期待するなら、天国ほどよいところはなかろう。地獄での再会などは避けたいところである。
 (9)死後の世界や、そこにおもむく霊魂を考えることは、人類の生命体としての社会本能にもとづく、集合的想像力のいとなみであるといえよう。人間はきわだって観念的な存在(観念人)であることを、しばしば論じた。基本的にこの表象界を構成するに当たっても、想像力の無意識的働き(先験哲学でいう構想力)は、もっとも強力な原動力であろう。その有り余るエネルギーを意識界に発散させることによって、人類はさまざまな文化や文明を作りあげてきた。それを死後という見えない世界にまで及ぼしたのが、霊魂や霊界の、多彩多様な想像の世界であった。この想像力の本質については、さらに深い考察も必要であるが、とりあえず、人間の営みの多くの部分が、この想像力の働きと、その結果としての想像の世界に、注ぎこまれていると言ってよかろう。そもそも人間の生きる意味の探求も、この想像力の働きによるものなのであり、その点で、霊魂や死後の世界の想像は、人生において深い影響力をもつのである。けっして、単なる空想の遊びではないのであり、それが人類において根強い、度し難い、霊魂の存在や死後の世界への願いを生むのである。
2026年7月11日(土)
霊魂について・考察1
 (1)死後の世界がどのようであるかは、宗教や思想、民族や文化の違いに応じてさまざまでありうるが、すべてに共通していえることは、死後におもむくなんらかの主体として、<霊魂>なるものが前提されていることである。この霊魂がなければ、死後には何もないということになるので、死後の世界などというものは、はじめから考えに浮かばないであろう。そこで死後の世界を考えるには、そも霊魂とはなにか、それはどのようなもので、どのように存在しているのかを、まずもって考察するべきであろう。
 霊魂の根底をなすものは、動物や人間のような生命体に見られる、身体内部におけるなんらかの<閉鎖的な>働きである。これを一般に<心>と呼んでいるが、この語はあまりにも意味範囲が広すぎて、使うには便利であるが、厳密さを欠いている。そこでさらに限定して、心が心であるための条件として、<意識>を用いることができよう。意識consciousness,Bewusstseinは、おのれの心の働きを、おのれのものとして知覚していることである。ここで<おのれ>を二度使ったように、意識とは基本的に自己意識なのである。自己が知覚できていなければ、心の存在に気づくことはない。心とはおのれのものなのであり、さらにいえば、おのれの知覚そのものである。おのれがおのれであることに気づくことが、心の本質的ありようなのである。
 このことを端的に言うならば、心であれ、心としての霊魂であれ、その主体は自己意識としての<自我>にほかならない。自我Egoについては様々な定義や考えがあるであろうが、ここでいう自我はもっとも本質的な、私が私であるという意識において現われてくる<わたし>そのもののことである。そこで心とか霊魂とかの本質は、<わたし>の意識もしくは直観そのものであるといってよかろう。
 (2)さて、心と霊魂が同一であるか、または別物であるかは、私自身の同一性が、そこにどこまで知覚されるかによるであろう。霊魂や心霊や霊体が、わたしのものでなければ、そのようなものの存在や永続性などは、わたしにとってまったく無意味である。<わたし>はまずなによりも、感性的、感覚的、情動的、意欲的存在として知覚される。この知覚が可能であるのは、私という存在が身体の内部にあり、五感を具えた身体と密接に結びついた存在であるからだ。私はなによりも、この感覚的世界における身体を私のものとする、感性的存在なのである。感性界は物質の世界であり、物質として見られた身体の中で、五感によってこの感性界を構成しているものが<脳>にほかならない。感性界における身体としてのわたしは、この脳の機能に全面的に依存していることになる。
 <わたし>が感性界において、脳の生み出した感性的肉体において、わたしの<心>を見いだしているかぎりにおいて、わたしの存在は<感性体>そのものであるといえよう。感性体としてのわたしは、感性とともに生まれ、感性が滅びるとともに滅びることになる。とはいえ、この感性体としてのわたしは、眼耳鼻舌身意にわたって、優れた感覚能力を持つばかりか、脳の高等な思考力にあずかることが出来る。この物質界においては、申し分のない知覚力と認識力を備えているのである。そこから科学が生まれ、物質文明が生まれる。ただし、わたしの感性体としての存在の期間は、肉体の存続期間に限られ、肉体が滅びれば、わたしの存在も、単なる物質として解体されるのである。死後には、ただ物質だけが残る。わたしの意識はもはや時空のなかにはなく、なんらの感性的ななごりも残らない。清潔でさわやかな、無としての死後である。
 (3)しかし、これでは物足りないとするのが、たいていの人類であり、とりわけ宗教者である。そこで、死後も残る<霊魂>なるものが探求されることになる。この霊魂は、基本的に感性体としての心と、さして違わない能力を持つものとされる。死において突然発生するのでないかぎりは、生前も感性体と共存している、いわば二重の心であり、<霊体>と称せられる。生きているときは感性体がおもにはたらき、死んだ時から霊体だけが働きだすとするのである。こうした二重の心を想定しないと、死後には何も残らないことになるので、あらゆる宗教の基本的なドグマとなっている。
 霊体が存在するということの証明法は、ひとつには、感性能力を超えた超常能力が霊体にあるということによる。しかし超常能力なるものが、感性体と霊体のどちらに属するのかという問題が、この証明を曖昧にしている。ただ単に脳の特殊な(量子的な)機能であるかもしれないものを、特別に霊的なものとしてみても、物質現象であることは否定しがたいのである。いま一つは、死者からの通信であるが、降霊や幽霊の現象は、無意識界の現象として説明できるので、説得力に欠けよう。

)物理学者によると、視覚に関して、一個の光子が網膜に到達すると、ロドプシンというタンパク質と、熱の影響をうける間もなく、瞬時に量子反応(重ねあわせ)を起こし、瞬時に脳の神経細胞全体に伝わり、量子崩壊(波動が粒子に変わる)を起こして、視覚の表象(意識)が生まれるという。

 (4)こうした証明なしに、宗教では霊魂の存在は、信仰によって確定したものとされる。感性体と霊体とは、ほぼ同様なものとして、この世とあの世とに、併行して存在するのである。生前においても、心は感性体と霊体とが二重に存在する。そもそも霊魂は、その独立性を保つために、この物質界・感性界と直接タッチしないものとされるのである。このことを近世の機会因(causa occasionalis)の説では、二つの同等な時計にたとえている。物質的な時計があり、もうひとつ、まったくそっくりな霊的な時計がある。物質の時計に合わせて、神のような存在が、正確に霊の時計を調整していく。両時計のあいだには、なんの因果関係もないのだが、見事に予定調和しているのである。これが霊魂と物質的肉体との関係である。
 この関係を一方のみから見るならば、唯物論と唯心論(観念論)との対立となる。なんとしても心のあり方を二重に考えるのは煩瑣であり、両者がほぼ同じ働きであるならば、どちらか一方が余計であって、なくてもよいものである。科学的に考えるならば、霊魂の側はいらない。宗教者なら、物質が気に入らないであろう。霊魂だけがあって、この世界を観念として構成するのである。この両者を統一する考えもあって(モニズム)、物質と霊魂を神(自然)の二つの属性とする、スピノザの説に代表される。モニズムはしかし、じつのところ温和な唯物論なのであり、ヘッケルをはじめ、自然科学者はたいていこの立場を取る。

 (5)生命体として、心を考えるならば、感性的存在で充分であるのに、そもそも何故にそれ以上のものが要請されるのであろうか。中国のある皇帝の言葉として、「人生はなんと楽しいのだろう、死さえなければ」と伝えられている。究極のエゴイストである皇帝や王にとって、人生の快楽の妨げは、死と死の思いだけである。そのような生の快楽の全面的享受は、果てしない欲望を生み、それのない存在などは考えられなくなる。それを永遠に引き延ばしたいという欲望が生じるのである。この欲望は<生への意志>そのものの中にあると言えよう。生への意志は、存在への無限の渇望であり、個物や個体の中においても、その盲目的本質は変わっていない。それの表象世界における反映が、見かけの消滅である肉体の死に対する、反撥や恐れとなって発現するのである。永遠の生への渇望こそが、肉体の死を超えた存在としての、魂なるものの表象を求めさせるのである。
 よく知られた例では、秦の始皇帝は。この世で不老不死を求め、あの世でも肉体的な永世を求めた。この世での永世がかなわなければ、せめて死後の世界に、魂の永遠を求めようとするのである。釈迦のように、苦集滅道を説いて、この苦の世界からの解脱をめざしして成道した人物であっても、臨終の際には、この世の美しさに打たれ、名残り惜しんだとされる。この世界は単なる苦の世界ではなく、それなりに美と快楽をあたえてくれるのである。死後に楽の継続を求めるにせよ、苦からの解放を求めるにせよ、その媒体となる何かがなければならないだろう。
 (6)死後に存続する霊魂を求めることは、生命体の快楽への渇望から来ているとしたが、仏教のように、より反省的な段階では、生命体の感性的な世界を快よりも苦の世界と観ずることから、感性界を超越した、純粋な快の世界(至福)、あるいは苦楽そのものを超えた世界を求める欲求が生じてこよう。一般に生への意志の否定に向かうペシミズムからの、霊魂の存在の要請である。もし霊魂がなければ、単なる生の否定、苦からの逃避の場所は、無でしかない。通常の自殺者が望むのは無であるが、すなわち苦からの解放としてのネガティヴな無であるが、もし単なる感性的な心以外に、霊魂のような別の心があり、そこに逃げ込むことが出来るならば、それほど便利で、心休まる避難所はなかろう。そのようななんらかの恩恵によって、心が二重に与えられているのならば、それは無駄であるとは言えないであろう。たとえその二重の心が、確固とした証明ができないとしてもである。
 そのような避難所としての霊魂を、実はたいていの宗教者は求めているのであろう。この粗野な、荒々しい、感性と物質の世界に四苦八苦する存在であることから、いわば心だけの存在となる可能性を秘めている霊魂なるものに、救済の希望をかけるのである。この霊魂がどのようなものと考えるかは、各宗教や思想によって異なるであろう。生存している間には、この霊魂を浄化し、高めてゆき、死後には、感性界のあらゆる欲望から解き放たれるものとするのが、一般的であろう。基本的には、あらゆる宗教の目標は、この苦の世界からの魂の救済にあると言えよう。そのためには、この世界で生きるための機能である感性的心以外に、どうしても超感性的な霊魂に存在してもらわねばならないのである。
 (7)霊魂の死後の運命としては、至福を約束された天国や極楽ばかりでなく、地獄や六道輪廻のような、むしろこの世界以上に苦の世界が予定されている。この感性的世界が十分に苦に満ちているのであるから、それ以下の世界を構想することは、この感性界を離脱することとは、まったく別の動機から来ていよう。この世で十分に苦しみ、なおあの世でも同様な、もしくはそれ以上の苦に会うという考えは、人間の卑劣な残酷本能または復讐心に由来していよう。親鸞の悪人正機は、この矛盾を突いたのであろう。いずれにしても霊魂がなければ、あの世で復讐心を満たすことはできまい。このような霊魂は、単なる倫理的要請であって、死後の世界のまともな考察に値しないであろう。もし六道輪廻や地獄がありえたとしても、それらの界におもむくのは自らの心のゆえであり、餓鬼や地獄の心はおのずと餓鬼界や地獄界を、好んで選ぶであろう。それらの心は二重の霊魂である必要はなく、この現世で十分に餓鬼道や地獄道にふけることができよう。この世界ほどの悲惨な地獄はないわけであるから、それを死後の世界にまで延長する必要もないのである。
 (8)死後に霊魂が必要であるのは、そこによりよい存在が期待されるからである。どのように恵まれたエゴイストであっても、生老病死はまぬがれない。楽のさ中にあっても、死は突然おとずれる。快楽主義者も、禁欲的ペシミストも、苦から逃れるためには、なんらかの超感覚的原理を必要とするのである。さらに、心の働きの中でも、つねに向上や進歩を願う意欲は、この人生だけでその努力が終わるとは思いたくないのである。現世での努力を、あの世で引き継ぐなんらかの魂を願うのである。人間の心はそれだけ貴重に思われるのであり、そのすべてが死によって終わってはならないのである。次の段階において、少なくともいまの心のよきものを失うことなく、引き継ぐ存在がなくてはならない。それが悪しき感性から浄化された自我として考えられた、霊魂もしくは霊体である。
 (9)感性的心の中で、唯一感性と区別されうる働きは、おのれがおのれであるという主体の知覚であるとした。もし感性界から離脱しうるなんらかの心の存在があるならば、それは自我の意識もしくは直観にもとづくもののほかにはないであろう。魂を純化することは、自我を純化することにほかならないのである。感性界から離脱し、その本来の純粋な世界に帰ることが出来るのは、純粋自我だけである。その意味で、霊魂の本質は、自我が自我自身であるところの純粋自我に他ならないといえよう。霊魂にまつわりつく、さまざまな宗教的ドグマは、宗教が民衆の形而上学であることからくる、さまざまな<方便>に過ぎないのである。
 (10)霊魂の存在は証明できないが、自我の存在は、きわめて明証的であり、あるいは自明であり、だれであってもおのれの存在を、存在として証明する必要を覚えないであろう。それは感性的意識とは一線を画しており、あるいは感性界にある意識とは一段高い位置において、直観される意識である。それは感性よりも思惟に近いのであるが、思惟そのものではない。なぜなら思惟する対象とはなりえないからである。対象のない不可解な思惟もしくは直観といってよいかもしれない。これが唯一、形而上学的な原理となりうる、霊魂の正体なのであろう。通常の感性的自我を超えた自我であり、自我の自我である。
 自我の自我としての自我は、すでに感性界になく、悟性の時空の概念をも超えているので、その存在が生前であるか死後であるかの区別は、もはやないであろう。生死を超えているのである。悟性によっても、理性によっても、対象化できないのであるから、それが同一であるとか、そもそも意識であるとも言いえないであろう。意識として現われれば、すでに感性界に入っている。少なくとも感性的に思惟しなければ、わたしはわたしとしてとらえられないのである。しかし思惟によってとらえられたわたしは、わたしが二重であることによって、ある種の不可解な思いにとらわれるのである。わたしはわたしが存在することを<理解>できないからである。
 この不可解と同時に起こるのは、わたしの存在に対する、このうえない感性的喜びである。わたしは感性界に顕現したことを、喜びをもって応えるのである。ここに生への意志と自我との共扼関係がある。あるいは共犯関係がある。感性界からの離脱の困難の理由も、ここにあるのである。この自我の感性界への顕現の過程を、リヴァースすることが、解脱への道である。自我をそのあるべき本来の本質にもどすことである。生への意志と自我との抱合を解き放ち、自我を純粋な姿へと帰還させることである。生と死を超え、苦と楽とを超え、おのれ自身であるところの静謐な自己観照へと還るのである。釈迦の到達したニルヴァーナも、このようなものであるかもしれない。
2026年7月8日(水)
死後の世界
 原始仏教では、釈迦は死後の状態や世界については、語らなかった(無記)とされている。釈迦が語らなかったことに関しては、いろいろな解釈があるようだが、一つにはニルヴァーナに達した状態が、そもそも語られることが不可能であるように、人がどのような死後におもむくかは、一概に語られるべきものではないからであろう。平等主義とは反するようだが、各人がおもむく死後の世界は、各人の瞑想修行の段階に応じているのである。
 仏教では、修行によって到達した意識の段階ごとに、それぞれの世界があり、そこには諸天(神々)が住まわっているとされる。同様にして、人が死ぬ時には、意識がどの段階にあるかによって、死後の状態が決まるといってよいだろう。六道輪廻を超えることが出来るのは、梵行(聖なる修行)によって、上位の意識段階に達しえたものだけである。これに関して、人間の身体に関する仏教の考えが参考になる。
 通常の人間は、感性によって認識される、感覚的な、文字どおりの<肉>の身である。修行者が、感性界を超えて、上位の意識にはいるごとに、あたかも蛇が脱皮するように、いち枚ずつ肉体の皮をぬけだしてゆき、<霊的>身体を作り上げていくのであるとされる。最終的には、純粋な霊体となるのである。その霊体すら、瞑想の完成(滅尽定)において消滅する。死後に残されるものは、この霊体であり、上位にいくほど霊妙な存在であり、また通常の感性的意識以下の段階では、マーラ(魔・感性界の主)に支配される身体であり、六道輪廻の世界におちいるのである。

 この霊体がなんであるかは、もちろん瞑想修行に無縁の凡愚の身には計り知れないのであるが、感性的身体の、ほぼ写しであるとされる。この点で連想されるのは、スウエーデンボルグのいう死後の身体であり、それはほとんど、この生身のままで、天国や地獄にはいるものとされている。霊魂なるものは、この感覚的・物質的心身の、まるごとのコピーなのであり、場合によっては死んだことに気づかないこともあるという。
 じつはこの生ける心身の、まるごとのコピーとしての死後の霊魂は、古来たいていの宗教に共通している。古代エジプトでは、ミイラ化された肉体の付き添いさえ必要とされ、始皇帝は無数の兵馬傭をつれとした。キリスト教の最後の審判では、生前の心身が、そっくりそのまま霊体(spiritual body)としてよみがえることになっている。
 だれも知るように、通常の生命的身体は物質からなり、心身は有機的に構成されており、それを統合・支配するのは脳を中心とした神経系である。もし生命体が物質的心身とは別の霊体を持つならば、二重の心身を持つことになろう。そうした無駄なものが、生命進化において生じるであろうか。生命の終末である<死>という事態がなければ、誰もそのようなものが必要であることに、思い及ばないであろう。感覚的心身を、死を超えて存続させるには、どうしてもそのコピーを可能にする、なんらかの非物質的受容体が必要なのである。それを人類は古来、霊魂とか精神とかに求めてきた。しかし、それらの非物質的心身の、死後の存在を証明することは、ほとんど出来ていないのである。
 仏教の霊魂観の特徴は、霊魂が形成されるものであるとする点にあろう。今現在、感性的存在である身には、霊魂はなくてもまにあうであろう。物理的・化学的・生理的反応のプロセスが、すべて心身の面倒を見てくれる。しかしこの物質的・感覚的な心身にあきたらないならば、生命体として終わったあとに、それを高級なものにも、低級なものにも、霊体として形成していくことが可能であるとされる。このことに関連して、インド宗教一般に共通した、輪廻(サンサーラ・流転の意)が重要な意味を持ってくる。生死界を超えるとは、この輪廻を超えることでもあるからだ。
 そもそも死後の状態というものは、輪廻転生ほど重要ではない。意識が人間以下の段階にある通常の人間は、死後に人間から地獄までの、いずれかの界に生まれ変わるほかはないとされるからである。どの界に生まれ変わるかは、死に臨んで、どの意識段階にあるかによって決まる。地獄の心でいれば、地獄に生まれ、欲望や快楽にまみれていれば、修羅・畜生・餓鬼の世界に生まれる。この考えは、死後の魂の<天界と地獄>へのゆきさきが、各人の心のあり方次第で決まるという、スウエーデンボルグの主張と同じである。死後の状態は、すでに生前に決まっているのである。
 仏教では高次の意識段階を目指す修行者だけが、六道輪廻をまぬがれ、それぞれの意識段階に応じた天界に達することが出来るのであり、その努力(精進)を怠らなければ、死後にもその意識段階をキープして、高次の世界にとどまることが出来るとされる。マーラはたえず感性界に心身をとどめさせようと邪魔してくるので、修行は絶え間なくつづけられねばならないのである。

 輪廻転生に関しても、その決定的な証拠はない。ただ単に、過去に別の人生を生きたという<記憶>があるだけであり、その記憶がどこから来たのか、確かなことはいえない。脳内にはテレパシーのような超常能力がひそんでおり、脳どうしでの記憶の交換が行なわれても、不思議ではない。仮に輪廻転生が可能であるとしても、輪廻の主体がなんであるかに問題点があろう。
 輪廻するのはどのような<自我>なのか。仏教では、自我は究極的には否定されるが、三種の自我が考えられている。第一は粗雑で物質的な肉体の自我であり、第二は高度の精神的自我であり、瞑想における霊体に伴い、第三はさらに高度な、<形相なく想念よりなりたつ自我>である。第二、第三はすでに感性界を超えているので、輪廻するのは第一の肉体的自我であるとしてよいであろう。肉体的・感性的に粗な自我が、死後まで存続して、おまけに輪廻すると言うのは、考えにくいことであるが、やはり霊体との二重存在が考えられているのであろう。
 仏教では自我(アートマン)は存在しないというのが一般原則であるが、それは修行の高次の段階における話であろう。自我の同一性がなければ、過去生を思い出すことなどは不可能であり、記憶があっても、まったくの他人事としての記憶であろう。六道輪廻においては、なんらかの非感性的アートマンを前提としなければ、筋が通らないことになる。このある種の霊的に粗雑なアートマンに執着するからこそ、人間・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄道に転生するわけである。
 ここで仏教の縁起説によるならば、あらゆる出来事は因縁によって生じ、起こるものとされる。輪廻転生において、生まれ変わりの縁となるものは、前世におけるカルマ(業、行い)であるとされる。すでにこの世に生まれて、四苦八苦しているのは、先の世にそうなる縁を、行いによって積みあげてきたからであるとされる。同様に来世でどのような存在として生まれかわるかは、今どのような行いをするかにかかっているわけである。輪廻そのものを超越するには、何よりも四諦・八正道に従って修行することにより、あらゆる因縁の根源である<無明>を克服することである。無明の無意識的核をなすものが、輪廻転生する自我であるから、この盲目的自我の克服が、まず仏教修行の出発点となるわけである。
 唯識では、この肉体的・盲目的自我の根本として、無意識界の根源的力であるアーラヤ識を、おのれの自我として執着するマナ識をもってする。瞑想においては、このマナ識の根絶が、輪廻の克服のかなめとなる。いずれにせよ輪廻するのはただ単なる霊魂ではなく、自我への執着から離れられない霊魂なのである。
 時空をつらぬいて流転するものの根源が<自我>であるとする考えは、この感覚的・物質的世界において、もっとも根源的な力のひとつが、個体保存の本能であるということの反映であろう。世界意志は生命体として発現するに際して、無数の個物に自己を分割させた。それによって有利に類の存続をはかるためである。類もしくは種の存続とは、個体が有利に種を継続していくことである。それが動物や人間における自我の発生の根源である。個体は本質的に利己的であることによって、種を発展させるのである。輪廻転生とは、個体のこの利己的働きを、類の連綿たる継続にかさね合わせた思想にほかならないであろう。

 仏教で具体的に死後の霊魂の状態を描写しているのは、チベットのラマ教である。魂は死後肉体を抜け出し、中有の状態で49日さまよい、次に生まれ変わる新たな生命体をさがす。その間の有様が具体的に描写されている。おそらく臨死体験が、ここにはかかわっていよう。霊魂が、ほぼ物質的、感覚的心身のままで、肉体を脱け出すとするのは、たいていの宗教と共通である。これが可能なのは、通常は臨死体験の場合だけであろう。脳の一部は、おそらく脳幹部の意識領域は、まだ死んでいないのである。
 超感覚的霊魂であっても、脳の具えている感覚的知覚能力や、理知的思索能力を欠いたものを、高級な霊魂とすることはためらわれるであろう。脳のない霊魂などは、霊魂と呼ばれえないのである。ゾンビがそれであって、単に動く死体に過ぎない。それでは霊魂にはどのような<脳>が与えられているのか。仏教ではいわば、それは<霊的>脳であるとされる。肉体である脳から、修行によって脱皮して、霊的脳となるのである。この霊的脳には、肉体的それにはない、天眼や天音のような、霊的超常能力(神通力)が可能であるとされる。しかしそれらの能力は修行の目的ではないのであって、心身を霊化することによって、この感性界から、あるいはそれのあらゆるコピーであるものから、完全なる離脱をめざすのである。この点で霊体も、単なる方便(方法)であることになろう。
 結局、釈迦が死後の世界についてほとんど語らなかったのは、霊魂であれ輪廻であれ、それらが本質的問題ではないからであろう。真理を覚れば、それらの瑣末な問題をあとにするからである。窮極的涅槃だけが重要なのである。その涅槃がどのような状態であるか、そこに到達したものだけが知るのであり、そこに一たび到達すれば、この世界・人生のすべての問題は、おのずと解消されるのである。そのような生死をこえた究極の知者・修行者にとっては、死後のことなどは取るに足らないであろう。

)釈迦の基本的教えは、この感性界の事物は独立した実体というものがなく、万物が相互性(相依・因縁)のなかにあり、一瞬たりともとどまることなく変化・流転するということ(無常)、および、自我(アートマン・霊魂)と称されるものも、同様にこの相互性の流転の中にあり、なんら固定した実体として存在するのではないこと(無我)、この二点をめぐるとしてよかろう。この諸物の実相を見抜く<叡智>が悟りであり、この悟りにおいて相互性の世界を超えた境地に達することが出来るとする。悟りにおいては、すでに感性的事物と感性的自我を超えているのであるから、そのように洞察された世界は<空>であり、その洞察と同時に、相互性の世界である空そのものも、幻として消滅する。空の空へと至るわけである。残されたのは、それらの洞察にいたる叡智だけであり、それが釈迦のいう唯一の真理としての<ダルマ(法)>である。そこには死後の世界など、入る余地はないのである。ここで論題としている死後の世界も輪廻も、一般大衆のための<方便>なのである。
2026年6月28日(日)
仏教の瞑想について
「第一段階では、あらゆるいやしい欲望から離脱することに成功しているが、なお様々な対象物を表象することは存在していて、その利欲に起因する喜ばしい愉楽の感情が全身にみなぎっている。この感情は、理髪師が巧みにこすりつけて作り出す泡にたとえられる。第二段階では、瞑想者は対象物をもはや表象せず、その精神はまったく落ちつき、統一体として集中されている。この場合、精神統一から生ずる至福という愉楽が身体にみなぎり、この愉楽は冷たい大河にたとえられ、しかも、その大河の源泉は外から水が流れ込むのではない池の内部にあるというのである。第三段階では、喜ばしい愉楽の感情も消え去り、瞑想者は冷静と正念正知とにとどまり、歓喜を超越した至福が身体にみなぎる。この状態は、水の表面に達することなく、しかも冷たい水をかぶっている蓮華に比せられる。最後の第四段階では、瞑想者は苦楽等のあらゆる感性を捨て去り、純粋な冷静と正念正知とにとどまり、全身に霊的光明と清純とがみなぎる。この状態は、修行者が頭からつま先まですっかりおおいつくす白衣をまとい、全身純白でおおわれていないところなしという工合にたとえられ表現されている。」――ヘルマン・ベック「仏教」下巻 p.55-56(渡辺照宏・渡辺重朗訳、岩波文庫)

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 仏教は実践的思想であるから、その究極の実践が瞑想による、この感覚的世界からの離脱であることは、その四諦・八正道の教えからも明白である。四諦・八正道は修行のおおまかなカリキュラムであって、とくに八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)のうち、正念・正定が仏教の<道>の要であるといってよかろう。正見から正精進までは、日常的な倫理的行いであり、これが正しくできていることによって、正念・正定の瞑想の段階にいたる<資格>が出来るものとされている。この点が、単なる超常的意識の探求ではない、仏教の倫理的宗教たる所以であろう。
 瞑想(禅ないし定、あわせて禅定)にはいる資格があるのは出家者だけである。出家者は瞑想以前に、あらゆる煩悩をコントロールできていなければならない。内面的準備もなく、正しい道も知らずに瞑想を求めるものを、釈迦は「未熟な山地の牛」にたとえている(上掲書p.48-49)。「未熟な牛は、場所の案内も知らずに、けわしい山の道を歩いた経験もないままに、新しい未知の所をたずねてみよう、新しい珍しい草を食おう、見知らぬ池で楽しもうという欲望にかりたてられ、しっかり一歩一歩あゆむことさえ心得ていない。このような牛は、夢想していた草や水のあるところに行きつくことができないし、そうかといって、好奇心にかられて遠く離れてしまったので、元の牧場に戻ることもできない。」
 超常的世界を探求するには、内面的準備が必要であることは、宗教に限らず、呪術や魔術のようなoccultismにおいても同様であるが、呪術や魔術が、超常的意識現象によって、この世界においての欲望の充足をめざすのに対して、同じ瞑想法でも、仏教のめざす瞑想の究極の到達点は、あらゆる欲望、感覚的世界からの離脱であり、その点に関しては、ひたすらネガティヴな段階を経ることになる。以前に、「四世界の理論」において、第四の世界として意識のトランス状態について述べたことは、瞑想のごく初歩の段階であるといえる。この段階においては、現われてくる現象は、倫理的にまったくニュートラルであり、その現象をどのように利用しようと、探求者の心がけしだいである。それ以上に進むには、どのような目的であろうと、堅固な意志と瞑想の深化もしくは純化が必要であり、不用意に行なえば、精神の危機を招くのである。
 苦は快楽を求める心と密接に結びついている。苦が外から、あるいは病のような内的原因から起こるのでないかぎり、楽を求めようとする心の根底には、なんらかの欠乏の苦がある。楽は基本的に、苦を除こうとする欲求なのであり、楽そのものが積極的に存在しているわけではない。苦楽の関係がそのようなものであるならば、苦のあるところには楽を求め、楽のあるところには苦の原因が除かれることになり、苦がなければ楽を求めることもなく、楽を求めなければ苦も存在しなくなる。ここで問題は、楽は求めなくてもよいが、苦は意のままにならないということである。この世界では苦が積極的な主人なのであり、楽はそれに伴う従者的存在である。苦はこの世界が感性の世界であるかぎり、なくなることはない。苦を克服する道は、唯一この感性界を離脱するほかはないのである。感性界を離脱し、苦がなくなれば、もはや楽を求める欲求もなくなる。苦も快もない世界へ到達するのである。この過程を瞑想の段階において実現していくのが、仏教の瞑想法であるようだ。
 第一段階ではまだ、快の欲望が残されており、細かな泡のようにこころにまつわりついている。対象への渇望が、苦として残っているのである。第二段階では、精神は自己自身に集中して、もはや対象を必要としない。内面から生じる静謐な落ちつきが、ある種の心地よさを生みだす。この<至福>なるものはある種の自己充足なのであろう。そのかぎりにおいてもっとも精妙な感性であるといえよう。第三段階では、この自己充足の愉悦も消え去り、さらに冷静で精妙な<至福>に移っていく。水中に咲く蓮華とたとえられている。水はこの場合、意識のもっとも内奥を象徴するであろう。第四段階で、ついに苦楽とともに、感性界のすべてから離脱する。<霊的光明>は比喩とみなすべきであろう。感覚的な光ではないのである。それがなんであるかは、全身白衣でおおわれた、まったくの<清浄>な心になってみるほかはない。

 仏教の瞑想では、瞑想の各段階で、それに対応する神的存在(諸天)の世界がもうけられている。黄泉のように寥々とした、孤独な瞑想者の世界ではないのである。各段階で、それらの神々が待ち受けてくれるので、修行段階がおのずと知られるのである。
 ふつうの神々と違って、仏教の神々は、瞑想者によって、瞑想の各段階でのみ出会われる存在である。原則として、九序列に区分される。第一・四大天王、第二・帝釈天(インドラ)以下三十三天、第三・ヤーマ神(夜摩天)群、第四・トゥシタ神(兜率天)群、第五・ニンマーナラティ(化楽天)、第六・パラニンミタヴァサヴァッティ(他化自在天)、第七・ブラフマンの天の神群(梵身天)、第八・アーバッサラ(光音天)、第九・スッダーヴァーサカーイカ(浄居天)。神々はそれぞれの霊的領域にあるものとされ、瞑想者は単に瞑想するだけではなく、それらの神々の階梯をのぼっていくのである。いわば道の安全を保障する、守護神でもあるわけだ。
 上述の瞑想の四段階に、さらに加えて、釈迦が入滅にさきだって経たという、高次の意識状態がある。第四瞑想段階の上にあるものが、<虚空の無限性の界>(空無辺処)であり、その上に<意識の無限性の界>(識無辺処)があり、つぎに<虚無の界>(無所有処)に達し、つづいて<意識と無意識とを超越した界>(非想非非想処)にのぼり、最終的に<知覚意識と感覚とを絶滅すること>(想受滅>にいたる。最終的ニルヴァーナ(涅槃)である。

 ごく初歩的であっても、瞑想状態にある意識は、日常的な意識とは明らかな違いがある。なによりも心身が驚くほど静まり返るのである。これは大人になってよりも、少年期に顕著な体験である。まわりのものたち、特に大人とは、まったく違った心理状態にあることに気づくのである。大人からは不気味がられる。しいて接すれば、まわりの人間のあらあらしさに傷つけられる。瞑想ということが、この世界とはまったく異なった心理状態であることに、まわりの反感から気づかされるのである。
 呼吸法によって心身が静まり返るだけの瞑想法であるならば、さして意識の変容と言うほどのこともないのであるが、自己催眠によってトランス状態を生じさせるまでになると、一段違った意識の状態にはいることが出来る。これについてはすでに別の文で書いておいたが、ここで起こる顕著な現象は、意識の分裂が生じることである。具体的にいうと、他者の声ないし存在が、意識のかたわらに飛び込んでくることである。これは単なる想像や観念ではなく、なにものかが何か意味のあること、あるいはまったくわけの分からない言葉をしゃべりだすのである。そしてふと消え去る。意識にはそれに応じたなんらかの界があるという、仏教の考えに従うならば、通常の意識にはこの感覚界があり、トランス状態の意識には、それに応じた界があるということになろう。本来無意識界にあるべき存在が、そこに現われてくるのであろう。
 瞑想状態にある意識は、無意識界と密接に関係しているようである。そこにあらわれてくる存在は、場合によっては明瞭に人格的なのである。それらの意識の段階ごとに現われてくる存在を、瞑想のヘルパーとしてとらえるならば、仏教でいう<諸天>の意味も、たんに寓意的ではないであろう。もちろん無意識界はそう単純ではないから、マーラ(魔)としてあらわれてくる存在もあり、むしろ妨げの勢力が優勢な場合も多いであろう。こうした事情をよく知らずに、単なる好奇心からスピリチュアルに走ってはならないであろう。その意味では、仏教の瞑想法は実に親切であるといえよう。
 とはいえ、仏教本来の瞑想法は出家者のものであり、それにはいる前には、十分な煩悩の制御が必要なのであり、とりわけ性感のコントロール(梵行)ができていなければ、瞑想において<魔>の干渉を受けることになる。瞑想自体が無意味になる。形だけの瞑想や坐禅は、一時的な休息に過ぎないのである。梵行ができないかぎり、仏教には縁がないと思うべきである。
  人間の心(意識・無意識)の諸相が、それぞれ固有の界に対応しているという仏教の教えに従うならば、天台でいう十法界は、逆に人間の心のあり方そのものであることになる。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁学・菩薩・仏の十界は、心の善悪もしくは優劣の階梯であり、グラデーションであるといえよう。うかうかとへたな瞑想にふけるならば、六道輪廻の界に心そのものが落ちていくことになりかねないであろう。悪くすると、畜生以下の餓鬼や地獄の心ともなりかねないのである。呪術や魔術への応用は、つねにこの危険をともなうであろう。心が乱れている時や、欲望や快楽にかられている時は、むしろ瞑想は禁物であるというべきであろう。
2026年6月26日(金)
快楽と超感覚的世界
 感覚がもっとも強烈に支配するのは、内感における快と苦である。外感と称される眼耳鼻舌身(触)の五感においても、それらが快または苦を伴うときに、もっとも強烈な感覚となる。快または苦は、身すなわち肉体そのものの内部感覚の、特殊な変容であって、それがブースターとなって、五感そのものを増幅させるのである。それの温和な感覚が感情や情念といわれるものである。感情や情念は、かならず快か苦かのどちらかを伴うのである。
 宗教者が<超感覚的>な世界にいたらんとして、修行に励むとき、じつのところ、もっともてごわいのは感覚そのものではなく、身体内部の快と苦の感覚である。苦は求めるものではなく、他から起こり、時として避けがたいものであるから、修行のおもなターゲットは<快楽>に向けられる。五感そのものにおいても、快を求め苦を避けるという、生命体の根本原則が働いており、快のあるところには五感も強化される。美味を求め、美観を求め、美醜を区別し、心地よい音楽にふけり、暖や涼を求める。快を求めるかぎり、感覚的世界に全身全霊とらわれていく。
 禁欲的宗教者がもっとも恐れるのは、快のなかの快である、性的いとなみである。性の快楽は、まさに生への意志の<焦点Brennpunkt>であるから、人を含めたあらゆる動物を、感覚的世界につなぎとめる決定的くびきと言ってよい。性欲の抑制が、超越や解脱の窮極的鍵となるのである。性の快楽がなければ、有性生殖をするすべての動物は、たちまちに滅びるであろう。感覚の最終的目的は、性の快感によって種の存続をはかることである。それゆえに、個体保存に過ぎない食の快よりも、はるかに強力な感覚のあり方が、性感なのである。
 個人が性感そのものに全面的にふけることが難しいのは、そこに社会関係もしくは社会的顧慮が関与してくるからである。快楽において忘我状態となることは、動物における自然環境ばかりでなく、社会環境においても不利をこうむりやすい。性行為は警戒心の欠如をもたらし、生存競争において弱点となりうるからである。性行為をあからさまにしてはならないのは、個体保存の必要にもとづくのである。それは男女の間においても同様であり、互いに弱点をさらすことによって、生存の危機を招きかねない。それゆえに、特に人間社会においては、純粋な性の快感は、個体のオートエロティシズムにおいてしか得られないのである。生の快楽は、じつはこのオートエロティシズムを根底としている。このことから、種の存続を第一とする社会においては、男女ともに、マスターベーションの禁忌が生じてくる。性の快楽の自己充足性が、反社会的行為として断罪され、いとわれ、また恐れられるのである。いわゆる性倒錯や、また性犯罪の根源には、この抑圧された性の快楽の自己充足性がある。自己充足性こそが、まさに快楽の頂点だからである。
 性の快そのものは、たしかに種の存続という類の本能にあやつられている。しかし個体は性の行為において、そのことを通常、意識しているわけではない。ひたすら快を求め、快に惑溺するだけである。個体にとっては、それが存在の最高の瞬間なのであり、この地獄のような世界で四苦八苦することの、見かえりでもある。この世界の本質が<生への意志>であるならば、性の快楽は生への意志の肯定の絶対の瞬間なのである。個体は生への意志そのものとなり、もはや意識すら必要とされない。生への意志自体は無意識であり、認識を持たないのであるから。
 このように強力な快を、世界の本質そのものでもある快を、克服することは、いかなる宗教者であろうとも、限りなく困難であろう(仏教やヨーガでいう梵行、この行が出家の条件となり、この段階をクリアーしない限り、いかなる瞑想も無意味である)。それに対抗するには、<超感覚的>世界なるものは、あまりにも非力であろう。そもそも感覚によって捉えられない世界とは、どのような世界でありうるか。そもそも、そのような感覚以外の能力が、人間や生命体に具わっているのであるか。理性や概念は確かに感覚とは区別されうるが、感覚的内容を起源とするかぎり、感覚を決定的に超越することはないであろう。しかも宗教者の超越的世界は、概念的思考によって到達するのではなく、なんらかの特別な意識状態である<瞑想>によるものである。
 人間の認識や意識、さらになんらかの超常能力も、その出処は脳であるといってよい。脳はみずからの脳を直接に見ることができなくても、客観的に、すなわち鏡に映したり、他者の脳において、感覚によってとらえることが出来る。すなわち脳はまぎれもない物質であり、物質界に属し、その反応や機能は、すべて物質的におこなわれる。物質界すなわち感覚界にあるものは、物質や感覚の過程を生みだすことは当然できても、物質や感覚を超えたものを生み出したり、とらえたりすることが可能であろうか。すなわち、物質であって、同時に物質的反応ではない過程が、脳の中に起こりうるであろうか。
 超感覚的世界をとらえ、その世界にいたるためには、もはやこの感覚世界を生みだす脳であることをやめねばならないだろう。人間が脳以外の存在であることは可能なのであるか。いわば<脳のない霊魂>でありうるのか。もしそのような霊魂がありうるならば、たしかにそれは超感覚的存在でなければならず、超感覚的世界に赴くことも可能であろう。そのような霊魂は、快にも苦にも支配されず、思考することも、意識を持つこともないだろう。人間の認識能力では、有るとも無いともいえない存在である。宗教者は感覚的快楽を代償に、そのような実体のない幽霊と化そうとするわけである。
 とはいえ、何ゆえそのような実体のない幽霊をめざして、修行がおこなわれるのであろうか。その根本の理由は、この世界そのものが、快よりも、はるかに苦に満ちた、地獄のような世界だからである。この感覚的世界こそが、その強烈な快の報酬にもかかわらず、幻であり、実体のない幽霊であって、むしろこの世界の解消によって、真の実在があらわれてくると信じるからである。それが釈迦の苦集滅道の教えである。釈迦はそれを信じさせるだけの、偉大な人物であったのだろう。
 それにしても、この地獄の世界が、やはり単なる感覚と物質の世界に過ぎないとするならば、輪廻転生も、来世も、極楽も、天国も、なんとも人間的、あまりに人間的な空想に思われてきて、ひたすら気のめいることではある。その空想をも<空>として教える仏教は、なんとも気の利いた手品師のわざであろう。修行の果てには、やはり<なにもない>のであるから。あるいは、せいぜい<有るとも無いともいえない>、境地にいたるのであるから。