ねころぐ renewal 12

マリネンコ文学の城・エッセイと雑録

マリネンコ文学の城Home

最新記事仏教の瞑想について/快楽と超感覚的世界


ねころぐrenewal(11)のContens:唯識の世界観/実在と現実/この世界は仮想現実ではないこと/理知(利)か情動(衝動)か/花巡りウォーク/三一体と自我/快楽の園/超自然について/秩父路の桜/類的意志について/早咲きの安行桜/有るということ/Aphorismen18(人間のスペック)/第三次世界大戦に対処して/大宮第二公園の梅/非合理なるが故に/死に遊ぶ/理念的世界について


テーマ別ねころぐ(工事中、は完成したもの)
自我の探究(1)
―世界意志・イデア・自我 / 自我の探究(2)―動物人・観念人・自我 / 自我の探究(3)―自我と宇宙 / *自我の探究(4)―人間のアレテー / 自我の探究(5)―身体の彼方 / *自我の探究(6)―全体への意志と自我(文明・社会論) / 自我の探究(7)―自我と今 /  自我の探究(8)―実践形而上学 / 自我の探究(9)―神観念と自我 / 自我の探究(10)―超越的人生 / 自我の探究(11)―純粋相互性と自我 / 自我の探究(12)―知的生命体の宇宙的使命 / *自我の探究(13)―光の誕生 / 文学・音楽論 / 人生論 / 紀行文 / 花と散策(1) / 花と散策(2) / 雑文


年月日順ねころぐ(過去ログ)
ねころぐrenewal(10)/ねころぐrenewal(9)/ねころぐrenewal(8)/ねころぐrenewal(7)/ねころぐrenewal(6)/ねころぐrenewal(5)/ねころぐrenewal(4)/ねころぐrenewal(3)/ねころぐrenewal(2)/ねころぐrenewal(1) / newねころぐ(11) / newねころぐ(10) /newネコログ(9)/newねころぐ(8) /ewねころぐ(7)/newねころぐ(6) /newねころぐ(5) /newねころぐ(4) /newねころぐ(3) /newねころぐ(2) / newねころぐ(1) / ねころぐ (過去ログ) / 雑録より(2) / 雑録より(1)


2026年6月28日(日)
仏教の瞑想について
「第一段階では、あらゆるいやしい欲望から離脱することに成功しているが、なお様々な対象物を表象することは存在していて、その利欲に起因する喜ばしい愉楽の感情が全身にみなぎっている。この感情は、理髪師が巧みにこすりつけて作り出す泡にたとえられる。第二段階では、瞑想者は対象物をもはや表象せず、その精神はまったく落ちつき、統一体として集中されている。この場合、精神統一から生ずる至福という愉楽が身体にみなぎり、この愉楽は冷たい大河にたとえられ、しかも、その大河の源泉は外から水が流れ込むのではない池の内部にあるというのである。第三段階では、喜ばしい愉楽の感情も消え去り、瞑想者は冷静と正念正知とにとどまり、歓喜を超越した至福が身体にみなぎる。この状態は、水の表面に達することなく、しかも冷たい水をかぶっている蓮華に比せられる。最後の第四段階では、瞑想者は苦楽等のあらゆる感性を捨て去り、純粋な冷静と正念正知とにとどまり、全身に霊的光明と清純とがみなぎる。この状態は、修行者が頭からつま先まですっかりおおいつくす白衣をまとい、全身純白でおおわれていないところなしという工合にたとえられ表現されている。」――ヘルマン・ベック「仏教」下巻 p.55-56(渡辺照宏・渡辺重朗訳、岩波文庫)

 *   *   *

 仏教は実践的思想であるから、その究極の実践が瞑想による、この感覚的世界からの離脱であることは、その四諦・八正道の教えからも明白である。四諦・八正道は修行のおおまかなカリキュラムであって、とくに八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)のうち、正念・正定が仏教の<道>の要であるといってよかろう。正見から正精進までは、日常的な倫理的行いであり、これが正しくできていることによって、正念・正定の瞑想の段階にいたる<資格>が出来るものとされている。この点が、単なる超常的意識の探求ではない、仏教の倫理的宗教たる所以であろう。
 瞑想(禅ないし定、あわせて禅定)にはいる資格があるのは出家者だけである。出家者は瞑想以前に、あらゆる煩悩をコントロールできていなければならない。内面的準備もなく、正しい道も知らずに瞑想を求めるものを、釈迦は「未熟な山地の牛」にたとえている(上掲書p.48-49)。「未熟な牛は、場所の案内も知らずに、けわしい山の道を歩いた経験もないままに、新しい未知の所をたずねてみよう、新しい珍しい草を食おう、見知らぬ池で楽しもうという欲望にかりたてられ、しっかり一歩一歩あゆむことさえ心得ていない。このような牛は、夢想していた草や水のあるところに行きつくことができないし、そうかといって、好奇心にかられて遠く離れてしまったので、元の牧場に戻ることもできない。」
 超常的世界を探求するには、内面的準備が必要であることは、宗教に限らず、呪術や魔術のようなoccultismにおいても同様であるが、呪術や魔術が、超常的意識現象によって、この世界においての欲望の充足をめざすのに対して、同じ瞑想法でも、仏教のめざす瞑想の究極の到達点は、あらゆる欲望、感覚的世界からの離脱であり、その点に関しては、ひたすらネガティヴな段階を経ることになる。以前に、「四世界の理論」において、第四の世界として意識のトランス状態について述べたことは、瞑想のごく初歩の段階であるといえる。この段階においては、現われてくる現象は、倫理的にまったくニュートラルであり、その現象をどのように利用しようと、探求者の心がけしだいである。それ以上に進むには、どのような目的であろうと、堅固な意志と瞑想の深化もしくは純化が必要であり、不用意に行なえば、精神の危機を招くのである。
 苦は快楽を求める心と密接に結びついている。苦が外から、あるいは病のような内的原因から起こるのでないかぎり、楽を求めようとする心の根底には、なんらかの欠乏の苦がある。楽は基本的に、苦を除こうとする欲求なのであり、楽そのものが積極的に存在しているわけではない。苦楽の関係がそのようなものであるならば、苦のあるところには楽を求め、楽のあるところには苦の原因が除かれることになり、苦がなければ楽を求めることもなく、楽を求めなければ苦も存在しなくなる。ここで問題は、楽は求めなくてもよいが、苦は意のままにならないということである。この世界では苦が積極的な主人なのであり、楽はそれに伴う従者的存在である。苦はこの世界が感性の世界であるかぎり、なくなることはない。苦を克服する道は、唯一この感性界を離脱するほかはないのである。感性界を離脱し、苦がなくなれば、もはや楽を求める欲求もなくなる。苦も快もない世界へ到達するのである。この過程を瞑想の段階において実現していくのが、仏教の瞑想法であるようだ。
 第一段階ではまだ、快の欲望が残されており、細かな泡のようにこころにまつわりついている。対象への渇望が、苦として残っているのである。第二段階では、精神は自己自身に集中して、もはや対象を必要としない。内面から生じる静謐な落ちつきが、ある種の心地よさを生みだす。この<至福>なるものはある種の自己充足なのであろう。そのかぎりにおいてもっとも精妙な感性であるといえよう。第三段階では、この自己充足の愉悦も消え去り、さらに冷静で精妙な<至福>に移っていく。水中に咲く蓮華とたとえられている。水はこの場合、意識のもっとも内奥を象徴するであろう。第四段階で、ついに苦楽とともに、感性界のすべてから離脱する。<霊的光明>は比喩とみなすべきであろう。感覚的な光ではないのである。それがなんであるかは、全身白衣でおおわれた、まったくの<清浄>な心になってみるほかはない。

 仏教の瞑想では、瞑想の各段階で、それに対応する神的存在(諸天)の世界がもうけられている。黄泉のように寥々とした、孤独な瞑想者の世界ではないのである。各段階で、それらの神々が待ち受けてくれるので、修行段階がおのずと知られるのである。
 ふつうの神々と違って、仏教の神々は、瞑想者によって、瞑想の各段階でのみ出会われる存在である。原則として、九序列に区分される。第一・四大天王、第二・帝釈天(インドラ)以下三十三天、第三・ヤーマ神(夜摩天)群、第四・トゥシタ神(兜率天)群、第五・ニンマーナラティ(化楽天)、第六・パラニンミタヴァサヴァッティ(他化自在天)、第七・ブラフマンの天の神群(梵身天)、第八・アーバッサラ(光音天)、第九・スッダーヴァーサカーイカ(浄居天)。神々はそれぞれの霊的領域にあるものとされ、瞑想者は単に瞑想するだけではなく、それらの神々の階梯をのぼっていくのである。いわば道の安全を保障する、守護神でもあるわけだ。
 上述の瞑想の四段階に、さらに加えて、釈迦が入滅にさきだって経たという、高次の意識状態がある。第四瞑想段階の上にあるものが、<虚空の無限性の界>(空無辺処)であり、その上に<意識の無限性の界>(識無辺処)があり、つぎに<虚無の界>(無所有処)に達し、つづいて<意識と無意識とを超越した界>(非想非非想処)にのぼり、最終的に<知覚意識と感覚とを絶滅すること>(想受滅>にいたる。最終的ニルヴァーナ(涅槃)である。

 ごく初歩的であっても、瞑想状態にある意識は、日常的な意識とは明らかな違いがある。なによりも心身が驚くほど静まり返るのである。これは大人になってよりも、少年期に顕著な体験である。まわりのものたち、特に大人とは、まったく違った心理状態にあることに気づくのである。大人からは不気味がられる。しいて接すれば、まわりの人間のあらあらしさに傷つけられる。瞑想ということが、この世界とはまったく異なった心理状態であることに、まわりの反感から気づかされるのである。
 呼吸法によって心身が静まり返るだけの瞑想法であるならば、さして意識の変容と言うほどのこともないのであるが、自己催眠によってトランス状態を生じさせるまでになると、一段違った意識の状態にはいることが出来る。これについてはすでに別の文で書いておいたが、ここで起こる顕著な現象は、意識の分裂が生じることである。具体的にいうと、他者の声ないし存在が、意識のかたわらに飛び込んでくることである。これは単なる想像や観念ではなく、なにものかが何か意味のあること、あるいはまったくわけの分からない言葉をしゃべりだすのである。そしてふと消え去る。意識にはそれに応じたなんらかの界があるという、仏教の考えに従うならば、通常の意識にはこの感覚界があり、トランス状態の意識には、それに応じた界があるということになろう。本来無意識界にあるべき存在が、そこに現われてくるのであろう。
 瞑想状態にある意識は、無意識界と密接に関係しているようである。そこにあらわれてくる存在は、場合によっては明瞭に人格的なのである。それらの意識の段階ごとに現われてくる存在を、瞑想のヘルパーとしてとらえるならば、仏教でいう<諸天>の意味も、たんに寓意的ではないであろう。もちろん無意識界はそう単純ではないから、マーラ(魔)としてあらわれてくる存在もあり、むしろ妨げの勢力が優勢な場合も多いであろう。こうした事情をよく知らずに、単なる好奇心からスピリチュアルに走ってはならないであろう。その意味では、仏教の瞑想法は実に親切であるといえよう。
 とはいえ、仏教本来の瞑想法は出家者のものであり、それにはいる前には、十分な煩悩の制御が必要なのであり、とりわけ性感のコントロール(梵行)ができていなければ、瞑想において<魔>の干渉を受けることになる。瞑想自体が無意味になる。形だけの瞑想や坐禅は、一時的な休息に過ぎないのである。梵行ができないかぎり、仏教には縁がないと思うべきである。
  人間の心(意識・無意識)の諸相が、それぞれ固有の界に対応しているという仏教の教えに従うならば、天台でいう十法界は、逆に人間の心のあり方そのものであることになる。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁学・菩薩・仏の十界は、心の善悪もしくは優劣の階梯であり、グラデーションであるといえよう。うかうかとへたな瞑想にふけるならば、六道輪廻の界に心そのものが落ちていくことになりかねないであろう。悪くすると、畜生以下の餓鬼や地獄の心ともなりかねないのである。呪術や魔術への応用は、つねにこの危険をともなうであろう。心が乱れている時や、欲望や快楽にかられている時は、むしろ瞑想は禁物であるというべきであろう。
2026年6月26日(金)
快楽と超感覚的世界
 感覚がもっとも強烈に支配するのは、内感における快と苦である。外感と称される眼耳鼻舌身(触)の五感においても、それらが快または苦を伴うときに、もっとも強烈な感覚となる。快または苦は、身すなわち肉体そのものの内部感覚の、特殊な変容であって、それがブースターとなって、五感そのものを増幅させるのである。それの温和な感覚が感情や情念といわれるものである。感情や情念は、かならず快か苦かのどちらかを伴うのである。
 宗教者が<超感覚的>な世界にいたらんとして、修行に励むとき、じつのところ、もっともてごわいのは感覚そのものではなく、身体内部の快と苦の感覚である。苦は求めるものではなく、他から起こり、時として避けがたいものであるから、修行のおもなターゲットは<快楽>に向けられる。五感そのものにおいても、快を求め苦を避けるという、生命体の根本原則が働いており、快のあるところには五感も強化される。美味を求め、美観を求め、美醜を区別し、心地よい音楽にふけり、暖や涼を求める。快を求めるかぎり、感覚的世界に全身全霊とらわれていく。
 禁欲的宗教者がもっとも恐れるのは、快のなかの快である、性的いとなみである。性の快楽は、まさに生への意志の<焦点Brennpunkt>であるから、人を含めたあらゆる動物を、感覚的世界につなぎとめる決定的くびきと言ってよい。性欲の抑制が、超越や解脱の窮極的鍵となるのである。性の快楽がなければ、有性生殖をするすべての動物は、たちまちに滅びるであろう。感覚の最終的目的は、性の快感によって種の存続をはかることである。それゆえに、個体保存に過ぎない食の快よりも、はるかに強力な感覚のあり方が、性感なのである。
 個人が性感そのものに全面的にふけることが難しいのは、そこに社会関係もしくは社会的顧慮が関与してくるからである。快楽において忘我状態となることは、動物における自然環境ばかりでなく、社会環境においても不利をこうむりやすい。性行為は警戒心の欠如をもたらし、生存競争において弱点となりうるからである。性行為をあからさまにしてはならないのは、個体保存の必要にもとづくのである。それは男女の間においても同様であり、互いに弱点をさらすことによって、生存の危機を招きかねない。それゆえに、特に人間社会においては、純粋な性の快感は、個体のオートエロティシズムにおいてしか得られないのである。生の快楽は、じつはこのオートエロティシズムを根底としている。このことから、種の存続を第一とする社会においては、男女ともに、マスターベーションの禁忌が生じてくる。性の快楽の自己充足性が、反社会的行為として断罪され、いとわれ、また恐れられるのである。いわゆる性倒錯や、また性犯罪の根源には、この抑圧された性の快楽の自己充足性がある。自己充足性こそが、まさに快楽の頂点だからである。
 性の快そのものは、たしかに種の存続という類の本能にあやつられている。しかし個体は性の行為において、そのことを通常、意識しているわけではない。ひたすら快を求め、快に惑溺するだけである。個体にとっては、それが存在の最高の瞬間なのであり、この地獄のような世界で四苦八苦することの、見かえりでもある。この世界の本質が<生への意志>であるならば、性の快楽は生への意志の肯定の絶対の瞬間なのである。個体は生への意志そのものとなり、もはや意識すら必要とされない。生への意志自体は無意識であり、認識を持たないのであるから。
 このように強力な快を、世界の本質そのものでもある快を、克服することは、いかなる宗教者であろうとも、限りなく困難であろう(仏教やヨーガでいう梵行、この行が出家の条件となり、この段階をクリアーしない限り、いかなる瞑想も無意味である)。それに対抗するには、<超感覚的>世界なるものは、あまりにも非力であろう。そもそも感覚によって捉えられない世界とは、どのような世界でありうるか。そもそも、そのような感覚以外の能力が、人間や生命体に具わっているのであるか。理性や概念は確かに感覚とは区別されうるが、感覚的内容を起源とするかぎり、感覚を決定的に超越することはないであろう。しかも宗教者の超越的世界は、概念的思考によって到達するのではなく、なんらかの特別な意識状態である<瞑想>によるものである。
 人間の認識や意識、さらになんらかの超常能力も、その出処は脳であるといってよい。脳はみずからの脳を直接に見ることができなくても、客観的に、すなわち鏡に映したり、他者の脳において、感覚によってとらえることが出来る。すなわち脳はまぎれもない物質であり、物質界に属し、その反応や機能は、すべて物質的におこなわれる。物質界すなわち感覚界にあるものは、物質や感覚の過程を生みだすことは当然できても、物質や感覚を超えたものを生み出したり、とらえたりすることが可能であろうか。すなわち、物質であって、同時に物質的反応ではない過程が、脳の中に起こりうるであろうか。
 超感覚的世界をとらえ、その世界にいたるためには、もはやこの感覚世界を生みだす脳であることをやめねばならないだろう。人間が脳以外の存在であることは可能なのであるか。いわば<脳のない霊魂>でありうるのか。もしそのような霊魂がありうるならば、たしかにそれは超感覚的存在でなければならず、超感覚的世界に赴くことも可能であろう。そのような霊魂は、快にも苦にも支配されず、思考することも、意識を持つこともないだろう。人間の認識能力では、有るとも無いともいえない存在である。宗教者は感覚的快楽を代償に、そのような実体のない幽霊と化そうとするわけである。
 とはいえ、何ゆえそのような実体のない幽霊をめざして、修行がおこなわれるのであろうか。その根本の理由は、この世界そのものが、快よりも、はるかに苦に満ちた、地獄のような世界だからである。この感覚的世界こそが、その強烈な快の報酬にもかかわらず、幻であり、実体のない幽霊であって、むしろこの世界の解消によって、真の実在があらわれてくると信じるからである。それが釈迦の苦集滅道の教えである。釈迦はそれを信じさせるだけの、偉大な人物であったのだろう。
 それにしても、この地獄の世界が、やはり単なる感覚と物質の世界に過ぎないとするならば、輪廻転生も、来世も、極楽も、天国も、なんとも人間的、あまりに人間的な空想に思われてきて、ひたすら気のめいることではある。その空想をも<空>として教える仏教は、なんとも気の利いた手品師のわざであろう。修行の果てには、やはり<なにもない>のであるから。あるいは、せいぜい<有るとも無いともいえない>、境地にいたるのであるから。