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2026年7月21日(火)
場の形而上学
 物理学においては、物質は<場field>における力の働きであるとされる。電磁力、強い力、弱い力、重力のそれぞれに、電子(光子)、中間子、重力子といった、素粒子が、相互に力を及ぼしあう場が考えられている。この場とは、単なる空間的な位置関係のことではなく、素粒子相互の関係が、力として発現することそのものであると考えられる。電場や磁場は、それが発現することによって、電気力や磁力として、他の粒子に影響を及ぼすのである。強い力は、原子核をつなぎとめる、中間子の交換がおこなわれる場としての、核力の発現そのものである。弱い力は、原子の崩壊を起こさせる相互作用の場であり、核力の反対の力の働きとしての場である。重力場は、空間との関係では、質料による空間のゆがみそのものであり、質料とは、ヒッグス場における素粒子の動きにくさと考えられている。重力子はいまだ発見されていない、
 物理学での<場>は、なにかがそこに置かれていると言った意味での空間や時間ではなく、ある意味で時空以上の概念である。場もまた時空において発現するが、必ずしも時空によって制約されていない。むしろ物質が、すなわち素粒子が、時空において発現するための、根底となる条件をなしているといえよう。その意味では、まず空間があって場が発現するのではなく、物質と空間が同時に発現する条件として、まずなんらかの透明な、あるいは無限定の場が、前提されているのであるといえよう。すなわち、場は形而上学的原理でもありうるのである。
 宇宙は<無>から生じたのではなく、<場>から生じたのであると考えられよう。このことを古代人は<渾沌Chaos>と呼んだり、無限定者と呼んだり、<空>とか<アルケー>」と称したのであろう。まずなにとは言えない根源的<場>があって、そこに空間や時間、物質の相互関係が生じたのである。真空には<ゆらぎ>があり、粒子と反粒子とが、対発生と対消滅をくりかえす。物質が瞬間的にわきたっては、消滅しているのである。このようなエネルギーの場は、ゼロポイント・エナジーと呼ばれているが、まさに物質の発生の温床としての、根源的場であろう。真空もしくは空間のエネルギーとされているが、空間よりもさらに以前の、なんらかの創造の場であると考えてよいだろう。
 たとえれば、この物質界、全宇宙は、場という釈迦の手の平に発現するといってよかろう。この場は、この全宇宙のすべての現象に共通しているといえよう。すなわち、無限、多元な、無慮無数の宇宙から、微小な粒子、量子の世界にいたるまで、そこでの力の現象は、すべて共通な根源的場において演じられるのである。もちろん人間的現象も、場において踊らされる、ささいなeventsにすぎない。

 以上は物理的な見地からの、客観的な場の理論であるが、これを主観的、観念的領域にまで及ぼすことができるであろう。意識とは、じつは場の一つのあり方に過ぎないのである。主体(主観)と客体(客観)とが、同時に場において発現することが、意識の基本条件である。この<意識の場>では、主体と客体とは、かならず<対発生>する。主体が消えれば、同時に客体も消え、客体が消えれば、同時に主体も消える(すなわち対消滅する)。なんらの客体のないところにも、主体があると考えるのは、単なる錯誤である。
 主体も客体も同時に消えたところに、根源の場がある。これを主客合一などと称したりするが、じつのところ、主体と客体が、それらの発生の根源へと消滅することであり、物理学で真空に当たるものを、意識の場においても考えることができよう。仏教の唯識では、それを<アーラヤ識>と称している。意識の側からすると、ある種の無であり、空である。その空無である場において、主体と客体が対発生し、対消滅するわけである。それを意識と称しているのである。
 この空としての意識発現の場は、ある種のエネルギーの場であり、真空のエネルギーとの類比でいえば、空のエネルギーといってよいであろう。表象としての世界が生まれる、根源の場であると同時に、主客のあいだ、観念のあいだの、相互的力の関係の発現する場でもある。このことは意識において働く、知情意すべてにおいて言えるであろう。
 感覚的知覚は、感覚の刺激と、それに応じる知覚とのあいだの、相互的反応であるといえる。ある感覚が意識において発生すると、そこには同時に知覚する主体が、感覚の内容をなんらかの対象として受けとり、反応する。いわば感覚から投げられたボールを、主体が受けとるやいなや、すぐさま投げ返すのである。この主客間のキャッチボールが、感覚より始めて、あらゆる知覚の、意識の場における働きである。
 思考もまた場において発現するかぎり、同様の関係にある。ものごとを考えるとは、まさに思考の主体とものごととが同時に現われることである。この際ものごとは基本的に観念であり、観念は場において、自動的に連合して現われる。この観念連合もまた、場において働く力の関係であると言えよう。意識の場は、思考や、観念連合や、想起の生まれる、相互的力の場なのである。この力そのものは、場の属性であるから、思考作用においては直接意識されることはない。場において直接力が発現するのは、情念や意志においてである。
 意識において、場が力であることが分かるのは、情念や意欲において、主体が対象に対して働きかけるときである。対象に対して怒りや愛情が生じるとき、対象に対する積極的行為へのエネルギーがそこに発生する。また、恐れや敬意が生じるときは、回避や抑制へのエネルギーが生じる。基本的に、意識と称されるものは、感覚であれ、思考であれ、想像であれ、記憶であれ、情念であれ、意志であれ、根源的場における、相互的力の発現の場なのである。これは物理現象における場の概念と、基本的に変わらないであろう。
 物理学においては、四つの力の場を統一する理論が模索されている。意識の場においても、同様な統一の見地が可能になろう。それは意識の中核をなしている自己意識、すなわち自我のはたらきによる。自我は知情意すべてにわたって、強力な自己同一性を形成する。これを場の自我への<収縮>もしくは<収斂>と考えてよいであろう。自我を中心とした意識の場を、エゴ・フィールドと名づけておく。主体と客体としての、意識の対発生が、意識の根底をなしている。その相互的力の関係を、自我中心の関係へと再構成するものが、エゴ・フィールドとしての自我のエネルギーである。すなわち客体は単なる相互的客体ではなくなり、<私の客体>となる。意識に発現した世界は、<私の表象>なのである。意識がエゴ・フィールドへと再構成されることから、意識の特殊問題も発生するのである。意識の場は、もはや中立的、相互的場ではなくなるからである。

 以上の立場から、物質と意識の問題、その相互関係も解明しやすくなるであろう。両者の発現する場は共通しているのである。意識を量子力学によって解き明かすことは、現代の自然科学の潮流となっているが、その一番の難問とされているのが<観測問題>である。量子は自然界においては基本的に波動現象であるが、それが<観測>によって一気に収縮もしくは崩壊して、<粒子>となる。その観測と意識とが大いに関係しているとされる。
 量子の場は四つの力の場であり、それらは時空において発現する。観測者のいない世界では、量子は波動現象として、シュレーディンガーの波動方程式に従うふるまいをする。何万光年とはなれた一個の光子も、地球に届くころには、広大な宇宙空間に波動として広がっている。それが人間の目にとどいたとたんに、一個の素粒子と化するのである。この奇蹟のような現象を説明するには、<場>の性質における段階を考えねばならない。意識の場は、主体と客体が同時に発現する場である。波動現象には、主体も客体もないのである。波動がこの主客の場において相互作用したとたんに、そこに客体としての量子の姿が発現すると考えてよかろう。量子崩壊とはすなわち、量子の客体化なのである。この客体化の場がありさえすれば、量子は収縮して、粒子としてとらえられるのである。
 このことはショーペンハウアーの形而上学でいう、世界意志の個別化Individuationとくらべられるかもしれない。認識対象とはなりえない、世界の根底である世界意志は、絶大なる、存在への盲目のエネルギーとしてしか定義できないであろう。それがこの表象世界に個別化して発現するとき、個々の個体の意志として、いわば<収縮>するのである。
 ここで意識においてはなぜ、主体と客体の分化が行なわれなければならないかを考えてみる。意識においても、波動どうしの干渉であってはなぜいけないのか。なぜ量子崩壊が起こるのか。これは上に述べたように、自我の発生の必要からであるといえよう。自我は単なる波動ではなく、知情意の強力に結合した、なんらかの個としての<実体>もしくは<構成体>でなければならないからである。これが生命の発生や、進化や、意識の発生には、必要条件だったのである。あるいはこれを逆に考えて、そのような自我であるからこそ、意識における量子崩壊が起こるのである、としてもよいかもしれない。
 意識もしくは感覚の質(クオリア)についても、なんらの質を伴っていない量子が、意識の場において質的現象として現われることの原理が、場の性質における段階で説明できるであろう。電磁波そのものには、なんら色彩の区別はない。物質的場においては、波のあいだの区別は、波長・振幅などの、まったく波の物理的性質に従うからである。波動が客体化された段階では、粒子の単位は最小から、徐々に積分されて、その性質を変えていくであろう。これは波動ではなしえないことであり、これが意識の場における色彩の誕生であり、その他、味覚や嗅覚や触覚の質的違いの発生原理であろう。

 ここで述べたことは、すでに科学の領域を超えており、それゆえに<場の形而上学>とした。科学的方法が、宇宙や人間の探究方法のすべてではないとする筆者の立場から、自然科学がもたらした大いなる成果を、形而上学に応用してみたのである。形而上学は単なる思弁ではなく、人生における実践に結びつきうるとする筆者の立場から、<場>の理論は、この宇宙の統一的理解において、人間の生になんらかの意味をもたらしうるであろうと考える。伝統的形而上学や仏教などの宗教思想とも、接点を持ちうるであろう。とりあえず、探究の手がかりのようなことを述べてみた。
2026年7月20日(月)
霊魂について・考察2
 (1)人間が死んでもなお、おのれの存在の存続を求めようとするのは、どのような心理的事情があるのであろうか。生命体は生命があるかぎりにおいて、おのれの存在を維持し、成長させようとする、遺伝的性質を、生命の本質として与えられている。そのかぎりにおいて、生命の存続を欲求するのは、生命体の生まれつきの素質であるといえるが、個体としての生命が衰退に向かい、次の世代のために場所を空けることもまた、生命体の遺伝的素質の中にプログラムされている。生命体一般において、個体の死の先には、もはや個としての生命の存続の余地はないのである。
 ところが人間だけは、死の先にさらに生命の存続を求めようとする、理不尽な欲求が見られるのはなぜであろうか。生きているかぎり、その生を守ろうとするのは、個としてのあらゆる生命体に共通であるが、いったん死んでしまえば、そこには生はない。その死後の生まで、種として他の個体に継続させるのでないかぎり、生命体は求めることがないのである。死後の存続は、種もしくは類として生命を持続させようとする、生命の類的本質に属するなのである。
 (2)人間の生命体としての特質は何であろうか。脳の肥大の結果として生じた、高度な認識能力であり、思考力であり、自己意識である。この認識力によって、古来人間は単なる生命体であるものに、そのいわば上部構造に、<霊魂>なるものを発見もしくは発明したのである。この霊魂は、もともとは生命体全般にわたって、生命原理として考えられたものであるが(未開人からアリストテレスまで、霊魂は人間だけのものではない)、理性的要素が強調されると、人間特有の、生命的肉体に対する付加物と考えられるようになる。同じ霊魂でも、その中でも特別な要素が区別されるようになる。植物的霊や動物的霊と、人間の理性的霊とは別物とされ、物質や肉体と異なった、特別な存在であると見なされるのである。ここまでは、人間の思考から生じる、哲学的な霊魂観といえる。そこからさらに形而上学的な精神界が発想され、理性的霊魂の死後の住まいとされるのである。しかしこの形而上学的発想の根源にも、人類共通の素朴な霊魂観が影響していよう。そこでとりあえず生命界にもどって、日常的な立場から霊魂について考察する。
 (3)この思考力、およびそこから生じる自己意識は、生命から独立したものではなく、むしろ生命欲に支えられており、かつ生命活動に根本的に必要な役割を演じている。自己自身の生命体としての欲求を反省することにより、欲求や本能と結びついた<自我>が形成されるのである。この自我は、知情意の結集した強固な構成体(Formation)であり、これが人間独自の<霊魂>のあり方であるといえる。この意味では、人間は単なる生命体ではなく、独自の霊魂(自我)を構成しながら、生命体を支え、さらには超えようとする存在であるといえよう。死に臨んでも、<死ぬような気のしない>のは、この強固な自我の、生命体としての死に対する抵抗なのである。
 人間は自ら魂を構成する存在であることから、その構成の努力が死によってふさがれたり、解体されることには、耐えられないのである。強固な自我としての魂は、死を超えて存続しなければならない。ここに魂の永遠不滅の願いの根源があろう。その根源の欲求は、永遠への<あこがれ>や、不滅への希求となって、心の奥底からわきでるのである。しかし、それらの憧憬や希求には、そこはかとない悲哀が、つねにともなうものである。魂は有限な生命体にとどまっているかぎり、その願いはかなわないのである。魂は有限な生命体を超えて、得体の知れない<死>に向かわねばならないからである。
 (4)この永遠不滅への願いは、生命体であるかぎり、個として果たされることはない。そこで、たいていの場合、類的生命に向けられていく。生命は類として不滅であり、永遠である。個体は種として、子孫として、民族として、国家として、人類として、その不滅の生を、集団的生命に、代理的に委託するのである。これが人間に限らず、あらゆる生命体にとっての、永遠不滅の意味である。知性体としての人間も、結局不滅永遠を求めるかぎり、生命の類的本質に帰っていくほかはない。個体は滅びても、生への意志、世界意志は不滅である。
 (5)このような類的生命の不滅は、個体が単なる物質に還元されても、本質的には変わらないであろう。死後になにも残らず、ただ原子や分子、素粒子やクオーク、量子に分解されたとしても、宇宙の物質が永遠不滅であるならば、そこになんらかの<永劫回帰>が期待されるからである。この宇宙が確率的に奇蹟の存在であるならば、同じ奇蹟は類や種ばかりでなく、個体の存在においても、永劫ののちには起こりうるであろう。万物は流転の果てに、回帰するのである。

 (6)生命体そのものは、本質において、類的な不滅を保障されているとした。個は滅びても、類は存続する。私が今生命体として存在していることは、40億年以上昔に、最初の生命体が発生した時より、連綿として継承された類の生命の末端にあるということである。個体の生命は、孤立しては存在しえないのである。このことは、<霊魂>なるものについても言えることである。かりに霊魂の存在を認めるとしても、単独の霊魂の存在などは、ありえないのである。どのような霊魂も、その本質において類的である。不死の生命を霊魂において願うことは、同時に霊魂の集合体である、なんらかの<霊界>の存在を欲することである。みずからの霊魂のおもむく世界は、同時に他のもろもろの霊魂のおもむく世界でもあるのだ。
 (7)このことから、死後の世界への希求は、おのれの死以上に、むしろ他者の死が契機となって、生じてくる。この世で親しんだ者たちが、死んで無に帰すると考えることに耐えられないのは、生命体の本質において、とりわけ群居的・社会的動物においては、個体の生が、類を離れては存在の意味を失うからである。死はいわば類の本質に帰ることであり、他者の死は消滅ではなく、あらゆる生命体が本来属すべき世界にもどることである。死はむしろ慕わしいものに思われさえする。そのもっとも原初的な形が、祖霊崇拝であり、死して祖霊の世界に迎えられることである。死者たちもすべてその世界にいるので、死によって何ひとつ失われるものはないのである。
 (8)祖霊崇拝から神の観念が発展し、神々もしくは唯一神の支配する霊界の観念が発展する。天国や極楽、さらにそれらの裏返しとしての、地獄の観念が生じる。神観念そのものが類的観念であることは、言うまでもない。個人の神などというものは、基本的には存在しないのである。個人の向かう神は、どのような個人的な要件であろうと、つねに類的な神である。その類的神が支配する天国や極楽は、当然ながら誰もがおもむく可能性を与えられた死後の世界である。曖昧で雑然とした祖霊の世界にかわって、神の支配する天国や極楽は、よき心がけの者には安心感を与えるであろう。もし死後での再会を期待するなら、天国ほどよいところはなかろう。地獄での再会などは避けたいところである。
 (9)死後の世界や、そこにおもむく霊魂を考えることは、人類の生命体としての社会本能にもとづく、集合的想像力のいとなみであるといえよう。人間はきわだって観念的な存在(観念人)であることを、しばしば論じた。基本的にこの表象界を構成するに当たっても、想像力の無意識的働き(先験哲学でいう構想力)は、もっとも強力な原動力であろう。その有り余るエネルギーを意識界に発散させることによって、人類はさまざまな文化や文明を作りあげてきた。それを死後という見えない世界にまで及ぼしたのが、霊魂や霊界の、多彩多様な想像の世界であった。この想像力の本質については、さらに深い考察も必要であるが、とりあえず、人間の営みの多くの部分が、この想像力の働きと、その結果としての想像の世界に、注ぎこまれていると言ってよかろう。そもそも人間の生きる意味の探求も、この想像力の働きによるものなのであり、その点で、霊魂や死後の世界の想像は、人生において深い影響力をもつのである。けっして、単なる空想の遊びではないのであり、それが人類において根強い、度し難い、霊魂の存在や死後の世界への願いを生むのである。
2026年7月11日(土)
霊魂について・考察1
 (1)死後の世界がどのようであるかは、宗教や思想、民族や文化の違いに応じてさまざまでありうるが、すべてに共通していえることは、死後におもむくなんらかの主体として、<霊魂>なるものが前提されていることである。この霊魂がなければ、死後には何もないということになるので、死後の世界などというものは、はじめから考えに浮かばないであろう。そこで死後の世界を考えるには、そも霊魂とはなにか、それはどのようなもので、どのように存在しているのかを、まずもって考察するべきであろう。
 霊魂の根底をなすものは、動物や人間のような生命体に見られる、身体内部におけるなんらかの<閉鎖的な>働きである。これを一般に<心>と呼んでいるが、この語はあまりにも意味範囲が広すぎて、使うには便利であるが、厳密さを欠いている。そこでさらに限定して、心が心であるための条件として、<意識>を用いることができよう。意識consciousness,Bewusstseinは、おのれの心の働きを、おのれのものとして知覚していることである。ここで<おのれ>を二度使ったように、意識とは基本的に自己意識なのである。自己が知覚できていなければ、心の存在に気づくことはない。心とはおのれのものなのであり、さらにいえば、おのれの知覚そのものである。おのれがおのれであることに気づくことが、心の本質的ありようなのである。
 このことを端的に言うならば、心であれ、心としての霊魂であれ、その主体は自己意識としての<自我>にほかならない。自我Egoについては様々な定義や考えがあるであろうが、ここでいう自我はもっとも本質的な、私が私であるという意識において現われてくる<わたし>そのもののことである。そこで心とか霊魂とかの本質は、<わたし>の意識もしくは直観そのものであるといってよかろう。
 (2)さて、心と霊魂が同一であるか、または別物であるかは、私自身の同一性が、そこにどこまで知覚されるかによるであろう。霊魂や心霊や霊体が、わたしのものでなければ、そのようなものの存在や永続性などは、わたしにとってまったく無意味である。<わたし>はまずなによりも、感性的、感覚的、情動的、意欲的存在として知覚される。この知覚が可能であるのは、私という存在が身体の内部にあり、五感を具えた身体と密接に結びついた存在であるからだ。私はなによりも、この感覚的世界における身体を私のものとする、感性的存在なのである。感性界は物質の世界であり、物質として見られた身体の中で、五感によってこの感性界を構成しているものが<脳>にほかならない。感性界における身体としてのわたしは、この脳の機能に全面的に依存していることになる。
 <わたし>が感性界において、脳の生み出した感性的肉体において、わたしの<心>を見いだしているかぎりにおいて、わたしの存在は<感性体>そのものであるといえよう。感性体としてのわたしは、感性とともに生まれ、感性が滅びるとともに滅びることになる。とはいえ、この感性体としてのわたしは、眼耳鼻舌身意にわたって、優れた感覚能力を持つばかりか、脳の高等な思考力にあずかることが出来る。この物質界においては、申し分のない知覚力と認識力を備えているのである。そこから科学が生まれ、物質文明が生まれる。ただし、わたしの感性体としての存在の期間は、肉体の存続期間に限られ、肉体が滅びれば、わたしの存在も、単なる物質として解体されるのである。死後には、ただ物質だけが残る。わたしの意識はもはや時空のなかにはなく、なんらの感性的ななごりも残らない。清潔でさわやかな、無としての死後である。
 (3)しかし、これでは物足りないとするのが、たいていの人類であり、とりわけ宗教者である。そこで、死後も残る<霊魂>なるものが探求されることになる。この霊魂は、基本的に感性体としての心と、さして違わない能力を持つものとされる。死において突然発生するのでないかぎりは、生前も感性体と共存している、いわば二重の心であり、<霊体>と称せられる。生きているときは感性体がおもにはたらき、死んだ時から霊体だけが働きだすとするのである。こうした二重の心を想定しないと、死後には何も残らないことになるので、あらゆる宗教の基本的なドグマとなっている。
 霊体が存在するということの証明法は、ひとつには、感性能力を超えた超常能力が霊体にあるということによる。しかし超常能力なるものが、感性体と霊体のどちらに属するのかという問題が、この証明を曖昧にしている。ただ単に脳の特殊な(量子的な)機能であるかもしれないものを、特別に霊的なものとしてみても、物質現象であることは否定しがたいのである。いま一つは、死者からの通信であるが、降霊や幽霊の現象は、無意識界の現象として説明できるので、説得力に欠けよう。

)物理学者によると、視覚に関して、一個の光子が網膜に到達すると、ロドプシンというタンパク質と、熱の影響をうける間もなく、瞬時に量子反応(重ねあわせ)を起こし、瞬時に脳の神経細胞全体に伝わり、量子崩壊(波動が粒子に変わる)を起こして、視覚の表象(意識)が生まれるという。

 (4)こうした証明なしに、宗教では霊魂の存在は、信仰によって確定したものとされる。感性体と霊体とは、ほぼ同様なものとして、この世とあの世とに、併行して存在するのである。生前においても、心は感性体と霊体とが二重に存在する。そもそも霊魂は、その独立性を保つために、この物質界・感性界と直接タッチしないものとされるのである。このことを近世の機会因(causa occasionalis)の説では、二つの同等な時計にたとえている。物質的な時計があり、もうひとつ、まったくそっくりな霊的な時計がある。物質の時計に合わせて、神のような存在が、正確に霊の時計を調整していく。両時計のあいだには、なんの因果関係もないのだが、見事に予定調和しているのである。これが霊魂と物質的肉体との関係である。
 この関係を一方のみから見るならば、唯物論と唯心論(観念論)との対立となる。なんとしても心のあり方を二重に考えるのは煩瑣であり、両者がほぼ同じ働きであるならば、どちらか一方が余計であって、なくてもよいものである。科学的に考えるならば、霊魂の側はいらない。宗教者なら、物質が気に入らないであろう。霊魂だけがあって、この世界を観念として構成するのである。この両者を統一する考えもあって(モニズム)、物質と霊魂を神(自然)の二つの属性とする、スピノザの説に代表される。モニズムはしかし、じつのところ温和な唯物論なのであり、ヘッケルをはじめ、自然科学者はたいていこの立場を取る。

 (5)生命体として、心を考えるならば、感性的存在で充分であるのに、そもそも何故にそれ以上のものが要請されるのであろうか。中国のある皇帝の言葉として、「人生はなんと楽しいのだろう、死さえなければ」と伝えられている。究極のエゴイストである皇帝や王にとって、人生の快楽の妨げは、死と死の思いだけである。そのような生の快楽の全面的享受は、果てしない欲望を生み、それのない存在などは考えられなくなる。それを永遠に引き延ばしたいという欲望が生じるのである。この欲望は<生への意志>そのものの中にあると言えよう。生への意志は、存在への無限の渇望であり、個物や個体の中においても、その盲目的本質は変わっていない。それの表象世界における反映が、見かけの消滅である肉体の死に対する、反撥や恐れとなって発現するのである。永遠の生への渇望こそが、肉体の死を超えた存在としての、魂なるものの表象を求めさせるのである。
 よく知られた例では、秦の始皇帝は。この世で不老不死を求め、あの世でも肉体的な永世を求めた。この世での永世がかなわなければ、せめて死後の世界に、魂の永遠を求めようとするのである。釈迦のように、苦集滅道を説いて、この苦の世界からの解脱をめざしして成道した人物であっても、臨終の際には、この世の美しさに打たれ、名残り惜しんだとされる。この世界は単なる苦の世界ではなく、それなりに美と快楽をあたえてくれるのである。死後に楽の継続を求めるにせよ、苦からの解放を求めるにせよ、その媒体となる何かがなければならないだろう。
 (6)死後に存続する霊魂を求めることは、生命体の快楽への渇望から来ているとしたが、仏教のように、より反省的な段階では、生命体の感性的な世界を快よりも苦の世界と観ずることから、感性界を超越した、純粋な快の世界(至福)、あるいは苦楽そのものを超えた世界を求める欲求が生じてこよう。一般に生への意志の否定に向かうペシミズムからの、霊魂の存在の要請である。もし霊魂がなければ、単なる生の否定、苦からの逃避の場所は、無でしかない。通常の自殺者が望むのは無であるが、すなわち苦からの解放としてのネガティヴな無であるが、もし単なる感性的な心以外に、霊魂のような別の心があり、そこに逃げ込むことが出来るならば、それほど便利で、心休まる避難所はなかろう。そのようななんらかの恩恵によって、心が二重に与えられているのならば、それは無駄であるとは言えないであろう。たとえその二重の心が、確固とした証明ができないとしてもである。
 そのような避難所としての霊魂を、実はたいていの宗教者は求めているのであろう。この粗野な、荒々しい、感性と物質の世界に四苦八苦する存在であることから、いわば心だけの存在となる可能性を秘めている霊魂なるものに、救済の希望をかけるのである。この霊魂がどのようなものと考えるかは、各宗教や思想によって異なるであろう。生存している間には、この霊魂を浄化し、高めてゆき、死後には、感性界のあらゆる欲望から解き放たれるものとするのが、一般的であろう。基本的には、あらゆる宗教の目標は、この苦の世界からの魂の救済にあると言えよう。そのためには、この世界で生きるための機能である感性的心以外に、どうしても超感性的な霊魂に存在してもらわねばならないのである。
 (7)霊魂の死後の運命としては、至福を約束された天国や極楽ばかりでなく、地獄や六道輪廻のような、むしろこの世界以上に苦の世界が予定されている。この感性的世界が十分に苦に満ちているのであるから、それ以下の世界を構想することは、この感性界を離脱することとは、まったく別の動機から来ていよう。この世で十分に苦しみ、なおあの世でも同様な、もしくはそれ以上の苦に会うという考えは、人間の卑劣な残酷本能または復讐心に由来していよう。親鸞の悪人正機は、この矛盾を突いたのであろう。いずれにしても霊魂がなければ、あの世で復讐心を満たすことはできまい。このような霊魂は、単なる倫理的要請であって、死後の世界のまともな考察に値しないであろう。もし六道輪廻や地獄がありえたとしても、それらの界におもむくのは自らの心のゆえであり、餓鬼や地獄の心はおのずと餓鬼界や地獄界を、好んで選ぶであろう。それらの心は二重の霊魂である必要はなく、この現世で十分に餓鬼道や地獄道にふけることができよう。この世界ほどの悲惨な地獄はないわけであるから、それを死後の世界にまで延長する必要もないのである。
 (8)死後に霊魂が必要であるのは、そこによりよい存在が期待されるからである。どのように恵まれたエゴイストであっても、生老病死はまぬがれない。楽のさ中にあっても、死は突然おとずれる。快楽主義者も、禁欲的ペシミストも、苦から逃れるためには、なんらかの超感覚的原理を必要とするのである。さらに、心の働きの中でも、つねに向上や進歩を願う意欲は、この人生だけでその努力が終わるとは思いたくないのである。現世での努力を、あの世で引き継ぐなんらかの魂を願うのである。人間の心はそれだけ貴重に思われるのであり、そのすべてが死によって終わってはならないのである。次の段階において、少なくともいまの心のよきものを失うことなく、引き継ぐ存在がなくてはならない。それが悪しき感性から浄化された自我として考えられた、霊魂もしくは霊体である。
 (9)感性的心の中で、唯一感性と区別されうる働きは、おのれがおのれであるという主体の知覚であるとした。もし感性界から離脱しうるなんらかの心の存在があるならば、それは自我の意識もしくは直観にもとづくもののほかにはないであろう。魂を純化することは、自我を純化することにほかならないのである。感性界から離脱し、その本来の純粋な世界に帰ることが出来るのは、純粋自我だけである。その意味で、霊魂の本質は、自我が自我自身であるところの純粋自我に他ならないといえよう。霊魂にまつわりつく、さまざまな宗教的ドグマは、宗教が民衆の形而上学であることからくる、さまざまな<方便>に過ぎないのである。
 (10)霊魂の存在は証明できないが、自我の存在は、きわめて明証的であり、あるいは自明であり、だれであってもおのれの存在を、存在として証明する必要を覚えないであろう。それは感性的意識とは一線を画しており、あるいは感性界にある意識とは一段高い位置において、直観される意識である。それは感性よりも思惟に近いのであるが、思惟そのものではない。なぜなら思惟する対象とはなりえないからである。対象のない不可解な思惟もしくは直観といってよいかもしれない。これが唯一、形而上学的な原理となりうる、霊魂の正体なのであろう。通常の感性的自我を超えた自我であり、自我の自我である。
 自我の自我としての自我は、すでに感性界になく、悟性の時空の概念をも超えているので、その存在が生前であるか死後であるかの区別は、もはやないであろう。生死を超えているのである。悟性によっても、理性によっても、対象化できないのであるから、それが同一であるとか、そもそも意識であるとも言いえないであろう。意識として現われれば、すでに感性界に入っている。少なくとも感性的に思惟しなければ、わたしはわたしとしてとらえられないのである。しかし思惟によってとらえられたわたしは、わたしが二重であることによって、ある種の不可解な思いにとらわれるのである。わたしはわたしが存在することを<理解>できないからである。
 この不可解と同時に起こるのは、わたしの存在に対する、このうえない感性的喜びである。わたしは感性界に顕現したことを、喜びをもって応えるのである。ここに生への意志と自我との共扼関係がある。あるいは共犯関係がある。感性界からの離脱の困難の理由も、ここにあるのである。この自我の感性界への顕現の過程を、リヴァースすることが、解脱への道である。自我をそのあるべき本来の本質にもどすことである。生への意志と自我との抱合を解き放ち、自我を純粋な姿へと帰還させることである。生と死を超え、苦と楽とを超え、おのれ自身であるところの静謐な自己観照へと還るのである。釈迦の到達したニルヴァーナも、このようなものであるかもしれない。
2026年7月8日(水)
死後の世界
 原始仏教では、釈迦は死後の状態や世界については、語らなかった(無記)とされている。釈迦が語らなかったことに関しては、いろいろな解釈があるようだが、一つにはニルヴァーナに達した状態が、そもそも語られることが不可能であるように、人がどのような死後におもむくかは、一概に語られるべきものではないからであろう。平等主義とは反するようだが、各人がおもむく死後の世界は、各人の瞑想修行の段階に応じているのである。
 仏教では、修行によって到達した意識の段階ごとに、それぞれの世界があり、そこには諸天(神々)が住まわっているとされる。同様にして、人が死ぬ時には、意識がどの段階にあるかによって、死後の状態が決まるといってよいだろう。六道輪廻を超えることが出来るのは、梵行(聖なる修行)によって、上位の意識段階に達しえたものだけである。これに関して、人間の身体に関する仏教の考えが参考になる。
 通常の人間は、感性によって認識される、感覚的な、文字どおりの<肉>の身である。修行者が、感性界を超えて、上位の意識にはいるごとに、あたかも蛇が脱皮するように、いち枚ずつ肉体の皮をぬけだしてゆき、<霊的>身体を作り上げていくのであるとされる。最終的には、純粋な霊体となるのである。その霊体すら、瞑想の完成(滅尽定)において消滅する。死後に残されるものは、この霊体であり、上位にいくほど霊妙な存在であり、また通常の感性的意識以下の段階では、マーラ(魔・感性界の主)に支配される身体であり、六道輪廻の世界におちいるのである。

 この霊体がなんであるかは、もちろん瞑想修行に無縁の凡愚の身には計り知れないのであるが、感性的身体の、ほぼ写しであるとされる。この点で連想されるのは、スウエーデンボルグのいう死後の身体であり、それはほとんど、この生身のままで、天国や地獄にはいるものとされている。霊魂なるものは、この感覚的・物質的心身の、まるごとのコピーなのであり、場合によっては死んだことに気づかないこともあるという。
 じつはこの生ける心身の、まるごとのコピーとしての死後の霊魂は、古来たいていの宗教に共通している。古代エジプトでは、ミイラ化された肉体の付き添いさえ必要とされ、始皇帝は無数の兵馬傭をつれとした。キリスト教の最後の審判では、生前の心身が、そっくりそのまま霊体(spiritual body)としてよみがえることになっている。
 だれも知るように、通常の生命的身体は物質からなり、心身は有機的に構成されており、それを統合・支配するのは脳を中心とした神経系である。もし生命体が物質的心身とは別の霊体を持つならば、二重の心身を持つことになろう。そうした無駄なものが、生命進化において生じるであろうか。生命の終末である<死>という事態がなければ、誰もそのようなものが必要であることに、思い及ばないであろう。感覚的心身を、死を超えて存続させるには、どうしてもそのコピーを可能にする、なんらかの非物質的受容体が必要なのである。それを人類は古来、霊魂とか精神とかに求めてきた。しかし、それらの非物質的心身の、死後の存在を証明することは、ほとんど出来ていないのである。
 仏教の霊魂観の特徴は、霊魂が形成されるものであるとする点にあろう。今現在、感性的存在である身には、霊魂はなくてもまにあうであろう。物理的・化学的・生理的反応のプロセスが、すべて心身の面倒を見てくれる。しかしこの物質的・感覚的な心身にあきたらないならば、生命体として終わったあとに、それを高級なものにも、低級なものにも、霊体として形成していくことが可能であるとされる。このことに関連して、インド宗教一般に共通した、輪廻(サンサーラ・流転の意)が重要な意味を持ってくる。生死界を超えるとは、この輪廻を超えることでもあるからだ。
 そもそも死後の状態というものは、輪廻転生ほど重要ではない。意識が人間以下の段階にある通常の人間は、死後に人間から地獄までの、いずれかの界に生まれ変わるほかはないとされるからである。どの界に生まれ変わるかは、死に臨んで、どの意識段階にあるかによって決まる。地獄の心でいれば、地獄に生まれ、欲望や快楽にまみれていれば、修羅・畜生・餓鬼の世界に生まれる。この考えは、死後の魂の<天界と地獄>へのゆきさきが、各人の心のあり方次第で決まるという、スウエーデンボルグの主張と同じである。死後の状態は、すでに生前に決まっているのである。
 仏教では高次の意識段階を目指す修行者だけが、六道輪廻をまぬがれ、それぞれの意識段階に応じた天界に達することが出来るのであり、その努力(精進)を怠らなければ、死後にもその意識段階をキープして、高次の世界にとどまることが出来るとされる。マーラはたえず感性界に心身をとどめさせようと邪魔してくるので、修行は絶え間なくつづけられねばならないのである。

 輪廻転生に関しても、その決定的な証拠はない。ただ単に、過去に別の人生を生きたという<記憶>があるだけであり、その記憶がどこから来たのか、確かなことはいえない。脳内にはテレパシーのような超常能力がひそんでおり、脳どうしでの記憶の交換が行なわれても、不思議ではない。仮に輪廻転生が可能であるとしても、輪廻の主体がなんであるかに問題点があろう。
 輪廻するのはどのような<自我>なのか。仏教では、自我は究極的には否定されるが、三種の自我が考えられている。第一は粗雑で物質的な肉体の自我であり、第二は高度の精神的自我であり、瞑想における霊体に伴い、第三はさらに高度な、<形相なく想念よりなりたつ自我>である。第二、第三はすでに感性界を超えているので、輪廻するのは第一の肉体的自我であるとしてよいであろう。肉体的・感性的に粗な自我が、死後まで存続して、おまけに輪廻すると言うのは、考えにくいことであるが、やはり霊体との二重存在が考えられているのであろう。
 仏教では自我(アートマン)は存在しないというのが一般原則であるが、それは修行の高次の段階における話であろう。自我の同一性がなければ、過去生を思い出すことなどは不可能であり、記憶があっても、まったくの他人事としての記憶であろう。六道輪廻においては、なんらかの非感性的アートマンを前提としなければ、筋が通らないことになる。このある種の霊的に粗雑なアートマンに執着するからこそ、人間・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄道に転生するわけである。
 ここで仏教の縁起説によるならば、あらゆる出来事は因縁によって生じ、起こるものとされる。輪廻転生において、生まれ変わりの縁となるものは、前世におけるカルマ(業、行い)であるとされる。すでにこの世に生まれて、四苦八苦しているのは、先の世にそうなる縁を、行いによって積みあげてきたからであるとされる。同様に来世でどのような存在として生まれかわるかは、今どのような行いをするかにかかっているわけである。輪廻そのものを超越するには、何よりも四諦・八正道に従って修行することにより、あらゆる因縁の根源である<無明>を克服することである。無明の無意識的核をなすものが、輪廻転生する自我であるから、この盲目的自我の克服が、まず仏教修行の出発点となるわけである。
 唯識では、この肉体的・盲目的自我の根本として、無意識界の根源的力であるアーラヤ識を、おのれの自我として執着するマナ識をもってする。瞑想においては、このマナ識の根絶が、輪廻の克服のかなめとなる。いずれにせよ輪廻するのはただ単なる霊魂ではなく、自我への執着から離れられない霊魂なのである。
 時空をつらぬいて流転するものの根源が<自我>であるとする考えは、この感覚的・物質的世界において、もっとも根源的な力のひとつが、個体保存の本能であるということの反映であろう。世界意志は生命体として発現するに際して、無数の個物に自己を分割させた。それによって有利に類の存続をはかるためである。類もしくは種の存続とは、個体が有利に種を継続していくことである。それが動物や人間における自我の発生の根源である。個体は本質的に利己的であることによって、種を発展させるのである。輪廻転生とは、個体のこの利己的働きを、類の連綿たる継続にかさね合わせた思想にほかならないであろう。

 仏教で具体的に死後の霊魂の状態を描写しているのは、チベットのラマ教である。魂は死後肉体を抜け出し、中有の状態で49日さまよい、次に生まれ変わる新たな生命体をさがす。その間の有様が具体的に描写されている。おそらく臨死体験が、ここにはかかわっていよう。霊魂が、ほぼ物質的、感覚的心身のままで、肉体を脱け出すとするのは、たいていの宗教と共通である。これが可能なのは、通常は臨死体験の場合だけであろう。脳の一部は、おそらく脳幹部の意識領域は、まだ死んでいないのである。
 超感覚的霊魂であっても、脳の具えている感覚的知覚能力や、理知的思索能力を欠いたものを、高級な霊魂とすることはためらわれるであろう。脳のない霊魂などは、霊魂と呼ばれえないのである。ゾンビがそれであって、単に動く死体に過ぎない。それでは霊魂にはどのような<脳>が与えられているのか。仏教ではいわば、それは<霊的>脳であるとされる。肉体である脳から、修行によって脱皮して、霊的脳となるのである。この霊的脳には、肉体的それにはない、天眼や天音のような、霊的超常能力(神通力)が可能であるとされる。しかしそれらの能力は修行の目的ではないのであって、心身を霊化することによって、この感性界から、あるいはそれのあらゆるコピーであるものから、完全なる離脱をめざすのである。この点で霊体も、単なる方便(方法)であることになろう。
 結局、釈迦が死後の世界についてほとんど語らなかったのは、霊魂であれ輪廻であれ、それらが本質的問題ではないからであろう。真理を覚れば、それらの瑣末な問題をあとにするからである。窮極的涅槃だけが重要なのである。その涅槃がどのような状態であるか、そこに到達したものだけが知るのであり、そこに一たび到達すれば、この世界・人生のすべての問題は、おのずと解消されるのである。そのような生死をこえた究極の知者・修行者にとっては、死後のことなどは取るに足らないであろう。

)釈迦の基本的教えは、この感性界の事物は独立した実体というものがなく、万物が相互性(相依・因縁)のなかにあり、一瞬たりともとどまることなく変化・流転するということ(無常)、および、自我(アートマン・霊魂)と称されるものも、同様にこの相互性の流転の中にあり、なんら固定した実体として存在するのではないこと(無我)、この二点をめぐるとしてよかろう。この諸物の実相を見抜く<叡智>が悟りであり、この悟りにおいて相互性の世界を超えた境地に達することが出来るとする。悟りにおいては、すでに感性的事物と感性的自我を超えているのであるから、そのように洞察された世界は<空>であり、その洞察と同時に、相互性の世界である空そのものも、幻として消滅する。空の空へと至るわけである。残されたのは、それらの洞察にいたる叡智だけであり、それが釈迦のいう唯一の真理としての<ダルマ(法)>である。そこには死後の世界など、入る余地はないのである。ここで論題としている死後の世界も輪廻も、一般大衆のための<方便>なのである。
2026年6月28日(日)
仏教の瞑想について
「第一段階では、あらゆるいやしい欲望から離脱することに成功しているが、なお様々な対象物を表象することは存在していて、その利欲に起因する喜ばしい愉楽の感情が全身にみなぎっている。この感情は、理髪師が巧みにこすりつけて作り出す泡にたとえられる。第二段階では、瞑想者は対象物をもはや表象せず、その精神はまったく落ちつき、統一体として集中されている。この場合、精神統一から生ずる至福という愉楽が身体にみなぎり、この愉楽は冷たい大河にたとえられ、しかも、その大河の源泉は外から水が流れ込むのではない池の内部にあるというのである。第三段階では、喜ばしい愉楽の感情も消え去り、瞑想者は冷静と正念正知とにとどまり、歓喜を超越した至福が身体にみなぎる。この状態は、水の表面に達することなく、しかも冷たい水をかぶっている蓮華に比せられる。最後の第四段階では、瞑想者は苦楽等のあらゆる感性を捨て去り、純粋な冷静と正念正知とにとどまり、全身に霊的光明と清純とがみなぎる。この状態は、修行者が頭からつま先まですっかりおおいつくす白衣をまとい、全身純白でおおわれていないところなしという工合にたとえられ表現されている。」――ヘルマン・ベック「仏教」下巻 p.55-56(渡辺照宏・渡辺重朗訳、岩波文庫)

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 仏教は実践的思想であるから、その究極の実践が瞑想による、この感覚的世界からの離脱であることは、その四諦・八正道の教えからも明白である。四諦・八正道は修行のおおまかなカリキュラムであって、とくに八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)のうち、正念・正定が仏教の<道>の要であるといってよかろう。正見から正精進までは、日常的な倫理的行いであり、これが正しくできていることによって、正念・正定の瞑想の段階にいたる<資格>が出来るものとされている。この点が、単なる超常的意識の探求ではない、仏教の倫理的宗教たる所以であろう。
 瞑想(禅ないし定、あわせて禅定)にはいる資格があるのは出家者だけである。出家者は瞑想以前に、あらゆる煩悩をコントロールできていなければならない。内面的準備もなく、正しい道も知らずに瞑想を求めるものを、釈迦は「未熟な山地の牛」にたとえている(上掲書p.48-49)。「未熟な牛は、場所の案内も知らずに、けわしい山の道を歩いた経験もないままに、新しい未知の所をたずねてみよう、新しい珍しい草を食おう、見知らぬ池で楽しもうという欲望にかりたてられ、しっかり一歩一歩あゆむことさえ心得ていない。このような牛は、夢想していた草や水のあるところに行きつくことができないし、そうかといって、好奇心にかられて遠く離れてしまったので、元の牧場に戻ることもできない。」
 超常的世界を探求するには、内面的準備が必要であることは、宗教に限らず、呪術や魔術のようなoccultismにおいても同様であるが、呪術や魔術が、超常的意識現象によって、この世界においての欲望の充足をめざすのに対して、同じ瞑想法でも、仏教のめざす瞑想の究極の到達点は、あらゆる欲望、感覚的世界からの離脱であり、その点に関しては、ひたすらネガティヴな段階を経ることになる。以前に、「四世界の理論」において、第四の世界として意識のトランス状態について述べたことは、瞑想のごく初歩の段階であるといえる。この段階においては、現われてくる現象は、倫理的にまったくニュートラルであり、その現象をどのように利用しようと、探求者の心がけしだいである。それ以上に進むには、どのような目的であろうと、堅固な意志と瞑想の深化もしくは純化が必要であり、不用意に行なえば、精神の危機を招くのである。
 苦は快楽を求める心と密接に結びついている。苦が外から、あるいは病のような内的原因から起こるのでないかぎり、楽を求めようとする心の根底には、なんらかの欠乏の苦がある。楽は基本的に、苦を除こうとする欲求なのであり、楽そのものが積極的に存在しているわけではない。苦楽の関係がそのようなものであるならば、苦のあるところには楽を求め、楽のあるところには苦の原因が除かれることになり、苦がなければ楽を求めることもなく、楽を求めなければ苦も存在しなくなる。ここで問題は、楽は求めなくてもよいが、苦は意のままにならないということである。この世界では苦が積極的な主人なのであり、楽はそれに伴う従者的存在である。苦はこの世界が感性の世界であるかぎり、なくなることはない。苦を克服する道は、唯一この感性界を離脱するほかはないのである。感性界を離脱し、苦がなくなれば、もはや楽を求める欲求もなくなる。苦も快もない世界へ到達するのである。この過程を瞑想の段階において実現していくのが、仏教の瞑想法であるようだ。
 第一段階ではまだ、快の欲望が残されており、細かな泡のようにこころにまつわりついている。対象への渇望が、苦として残っているのである。第二段階では、精神は自己自身に集中して、もはや対象を必要としない。内面から生じる静謐な落ちつきが、ある種の心地よさを生みだす。この<至福>なるものはある種の自己充足なのであろう。そのかぎりにおいてもっとも精妙な感性であるといえよう。第三段階では、この自己充足の愉悦も消え去り、さらに冷静で精妙な<至福>に移っていく。水中に咲く蓮華とたとえられている。水はこの場合、意識のもっとも内奥を象徴するであろう。第四段階で、ついに苦楽とともに、感性界のすべてから離脱する。<霊的光明>は比喩とみなすべきであろう。感覚的な光ではないのである。それがなんであるかは、全身白衣でおおわれた、まったくの<清浄>な心になってみるほかはない。

 仏教の瞑想では、瞑想の各段階で、それに対応する神的存在(諸天)の世界がもうけられている。黄泉のように寥々とした、孤独な瞑想者の世界ではないのである。各段階で、それらの神々が待ち受けてくれるので、修行段階がおのずと知られるのである。
 ふつうの神々と違って、仏教の神々は、瞑想者によって、瞑想の各段階でのみ出会われる存在である。原則として、九序列に区分される。第一・四大天王、第二・帝釈天(インドラ)以下三十三天、第三・ヤーマ神(夜摩天)群、第四・トゥシタ神(兜率天)群、第五・ニンマーナラティ(化楽天)、第六・パラニンミタヴァサヴァッティ(他化自在天)、第七・ブラフマンの天の神群(梵身天)、第八・アーバッサラ(光音天)、第九・スッダーヴァーサカーイカ(浄居天)。神々はそれぞれの霊的領域にあるものとされ、瞑想者は単に瞑想するだけではなく、それらの神々の階梯をのぼっていくのである。いわば道の安全を保障する、守護神でもあるわけだ。
 上述の瞑想の四段階に、さらに加えて、釈迦が入滅にさきだって経たという、高次の意識状態がある。第四瞑想段階の上にあるものが、<虚空の無限性の界>(空無辺処)であり、その上に<意識の無限性の界>(識無辺処)があり、つぎに<虚無の界>(無所有処)に達し、つづいて<意識と無意識とを超越した界>(非想非非想処)にのぼり、最終的に<知覚意識と感覚とを絶滅すること>(想受滅>にいたる。最終的ニルヴァーナ(涅槃)である。

 ごく初歩的であっても、瞑想状態にある意識は、日常的な意識とは明らかな違いがある。なによりも心身が驚くほど静まり返るのである。これは大人になってよりも、少年期に顕著な体験である。まわりのものたち、特に大人とは、まったく違った心理状態にあることに気づくのである。大人からは不気味がられる。しいて接すれば、まわりの人間のあらあらしさに傷つけられる。瞑想ということが、この世界とはまったく異なった心理状態であることに、まわりの反感から気づかされるのである。
 呼吸法によって心身が静まり返るだけの瞑想法であるならば、さして意識の変容と言うほどのこともないのであるが、自己催眠によってトランス状態を生じさせるまでになると、一段違った意識の状態にはいることが出来る。これについてはすでに別の文で書いておいたが、ここで起こる顕著な現象は、意識の分裂が生じることである。具体的にいうと、他者の声ないし存在が、意識のかたわらに飛び込んでくることである。これは単なる想像や観念ではなく、なにものかが何か意味のあること、あるいはまったくわけの分からない言葉をしゃべりだすのである。そしてふと消え去る。意識にはそれに応じたなんらかの界があるという、仏教の考えに従うならば、通常の意識にはこの感覚界があり、トランス状態の意識には、それに応じた界があるということになろう。本来無意識界にあるべき存在が、そこに現われてくるのであろう。
 瞑想状態にある意識は、無意識界と密接に関係しているようである。そこにあらわれてくる存在は、場合によっては明瞭に人格的なのである。それらの意識の段階ごとに現われてくる存在を、瞑想のヘルパーとしてとらえるならば、仏教でいう<諸天>の意味も、たんに寓意的ではないであろう。もちろん無意識界はそう単純ではないから、マーラ(魔)としてあらわれてくる存在もあり、むしろ妨げの勢力が優勢な場合も多いであろう。こうした事情をよく知らずに、単なる好奇心からスピリチュアルに走ってはならないであろう。その意味では、仏教の瞑想法は実に親切であるといえよう。
 とはいえ、仏教本来の瞑想法は出家者のものであり、それにはいる前には、十分な煩悩の制御が必要なのであり、とりわけ性感のコントロール(梵行)ができていなければ、瞑想において<魔>の干渉を受けることになる。瞑想自体が無意味になる。形だけの瞑想や坐禅は、一時的な休息に過ぎないのである。梵行ができないかぎり、仏教には縁がないと思うべきである。
  人間の心(意識・無意識)の諸相が、それぞれ固有の界に対応しているという仏教の教えに従うならば、天台でいう十法界は、逆に人間の心のあり方そのものであることになる。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁学・菩薩・仏の十界は、心の善悪もしくは優劣の階梯であり、グラデーションであるといえよう。うかうかとへたな瞑想にふけるならば、六道輪廻の界に心そのものが落ちていくことになりかねないであろう。悪くすると、畜生以下の餓鬼や地獄の心ともなりかねないのである。呪術や魔術への応用は、つねにこの危険をともなうであろう。心が乱れている時や、欲望や快楽にかられている時は、むしろ瞑想は禁物であるというべきであろう。
2026年6月26日(金)
快楽と超感覚的世界
 感覚がもっとも強烈に支配するのは、内感における快と苦である。外感と称される眼耳鼻舌身(触)の五感においても、それらが快または苦を伴うときに、もっとも強烈な感覚となる。快または苦は、身すなわち肉体そのものの内部感覚の、特殊な変容であって、それがブースターとなって、五感そのものを増幅させるのである。それの温和な感覚が感情や情念といわれるものである。感情や情念は、かならず快か苦かのどちらかを伴うのである。
 宗教者が<超感覚的>な世界にいたらんとして、修行に励むとき、じつのところ、もっともてごわいのは感覚そのものではなく、身体内部の快と苦の感覚である。苦は求めるものではなく、他から起こり、時として避けがたいものであるから、修行のおもなターゲットは<快楽>に向けられる。五感そのものにおいても、快を求め苦を避けるという、生命体の根本原則が働いており、快のあるところには五感も強化される。美味を求め、美観を求め、美醜を区別し、心地よい音楽にふけり、暖や涼を求める。快を求めるかぎり、感覚的世界に全身全霊とらわれていく。
 禁欲的宗教者がもっとも恐れるのは、快のなかの快である、性的いとなみである。性の快楽は、まさに生への意志の<焦点Brennpunkt>であるから、人を含めたあらゆる動物を、感覚的世界につなぎとめる決定的くびきと言ってよい。性欲の抑制が、超越や解脱の窮極的鍵となるのである。性の快楽がなければ、有性生殖をするすべての動物は、たちまちに滅びるであろう。感覚の最終的目的は、性の快感によって種の存続をはかることである。それゆえに、個体保存に過ぎない食の快よりも、はるかに強力な感覚のあり方が、性感なのである。
 個人が性感そのものに全面的にふけることが難しいのは、そこに社会関係もしくは社会的顧慮が関与してくるからである。快楽において忘我状態となることは、動物における自然環境ばかりでなく、社会環境においても不利をこうむりやすい。性行為は警戒心の欠如をもたらし、生存競争において弱点となりうるからである。性行為をあからさまにしてはならないのは、個体保存の必要にもとづくのである。それは男女の間においても同様であり、互いに弱点をさらすことによって、生存の危機を招きかねない。それゆえに、特に人間社会においては、純粋な性の快感は、個体のオートエロティシズムにおいてしか得られないのである。生の快楽は、じつはこのオートエロティシズムを根底としている。このことから、種の存続を第一とする社会においては、男女ともに、マスターベーションの禁忌が生じてくる。性の快楽の自己充足性が、反社会的行為として断罪され、いとわれ、また恐れられるのである。いわゆる性倒錯や、また性犯罪の根源には、この抑圧された性の快楽の自己充足性がある。自己充足性こそが、まさに快楽の頂点だからである。
 性の快そのものは、たしかに種の存続という類の本能にあやつられている。しかし個体は性の行為において、そのことを通常、意識しているわけではない。ひたすら快を求め、快に惑溺するだけである。個体にとっては、それが存在の最高の瞬間なのであり、この地獄のような世界で四苦八苦することの、見かえりでもある。この世界の本質が<生への意志>であるならば、性の快楽は生への意志の肯定の絶対の瞬間なのである。個体は生への意志そのものとなり、もはや意識すら必要とされない。生への意志自体は無意識であり、認識を持たないのであるから。
 このように強力な快を、世界の本質そのものでもある快を、克服することは、いかなる宗教者であろうとも、限りなく困難であろう(仏教やヨーガでいう梵行、この行が出家の条件となり、この段階をクリアーしない限り、いかなる瞑想も無意味である)。それに対抗するには、<超感覚的>世界なるものは、あまりにも非力であろう。そもそも感覚によって捉えられない世界とは、どのような世界でありうるか。そもそも、そのような感覚以外の能力が、人間や生命体に具わっているのであるか。理性や概念は確かに感覚とは区別されうるが、感覚的内容を起源とするかぎり、感覚を決定的に超越することはないであろう。しかも宗教者の超越的世界は、概念的思考によって到達するのではなく、なんらかの特別な意識状態である<瞑想>によるものである。
 人間の認識や意識、さらになんらかの超常能力も、その出処は脳であるといってよい。脳はみずからの脳を直接に見ることができなくても、客観的に、すなわち鏡に映したり、他者の脳において、感覚によってとらえることが出来る。すなわち脳はまぎれもない物質であり、物質界に属し、その反応や機能は、すべて物質的におこなわれる。物質界すなわち感覚界にあるものは、物質や感覚の過程を生みだすことは当然できても、物質や感覚を超えたものを生み出したり、とらえたりすることが可能であろうか。すなわち、物質であって、同時に物質的反応ではない過程が、脳の中に起こりうるであろうか。
 超感覚的世界をとらえ、その世界にいたるためには、もはやこの感覚世界を生みだす脳であることをやめねばならないだろう。人間が脳以外の存在であることは可能なのであるか。いわば<脳のない霊魂>でありうるのか。もしそのような霊魂がありうるならば、たしかにそれは超感覚的存在でなければならず、超感覚的世界に赴くことも可能であろう。そのような霊魂は、快にも苦にも支配されず、思考することも、意識を持つこともないだろう。人間の認識能力では、有るとも無いともいえない存在である。宗教者は感覚的快楽を代償に、そのような実体のない幽霊と化そうとするわけである。
 とはいえ、何ゆえそのような実体のない幽霊をめざして、修行がおこなわれるのであろうか。その根本の理由は、この世界そのものが、快よりも、はるかに苦に満ちた、地獄のような世界だからである。この感覚的世界こそが、その強烈な快の報酬にもかかわらず、幻であり、実体のない幽霊であって、むしろこの世界の解消によって、真の実在があらわれてくると信じるからである。それが釈迦の苦集滅道の教えである。釈迦はそれを信じさせるだけの、偉大な人物であったのだろう。
 それにしても、この地獄の世界が、やはり単なる感覚と物質の世界に過ぎないとするならば、輪廻転生も、来世も、極楽も、天国も、なんとも人間的、あまりに人間的な空想に思われてきて、ひたすら気のめいることではある。その空想をも<空>として教える仏教は、なんとも気の利いた手品師のわざであろう。修行の果てには、やはり<なにもない>のであるから。あるいは、せいぜい<有るとも無いともいえない>、境地にいたるのであるから。