| 2026年6月28日(日) |
| 仏教の瞑想について |
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「第一段階では、あらゆるいやしい欲望から離脱することに成功しているが、なお様々な対象物を表象することは存在していて、その利欲に起因する喜ばしい愉楽の感情が全身にみなぎっている。この感情は、理髪師が巧みにこすりつけて作り出す泡にたとえられる。第二段階では、瞑想者は対象物をもはや表象せず、その精神はまったく落ちつき、統一体として集中されている。この場合、精神統一から生ずる至福という愉楽が身体にみなぎり、この愉楽は冷たい大河にたとえられ、しかも、その大河の源泉は外から水が流れ込むのではない池の内部にあるというのである。第三段階では、喜ばしい愉楽の感情も消え去り、瞑想者は冷静と正念正知とにとどまり、歓喜を超越した至福が身体にみなぎる。この状態は、水の表面に達することなく、しかも冷たい水をかぶっている蓮華に比せられる。最後の第四段階では、瞑想者は苦楽等のあらゆる感性を捨て去り、純粋な冷静と正念正知とにとどまり、全身に霊的光明と清純とがみなぎる。この状態は、修行者が頭からつま先まですっかりおおいつくす白衣をまとい、全身純白でおおわれていないところなしという工合にたとえられ表現されている。」――ヘルマン・ベック「仏教」下巻 p.55-56(渡辺照宏・渡辺重朗訳、岩波文庫)
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仏教は実践的思想であるから、その究極の実践が瞑想による、この感覚的世界からの離脱であることは、その四諦・八正道の教えからも明白である。四諦・八正道は修行のおおまかなカリキュラムであって、とくに八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)のうち、正念・正定が仏教の<道>の要であるといってよかろう。正見から正精進までは、日常的な倫理的行いであり、これが正しくできていることによって、正念・正定の瞑想の段階にいたる<資格>が出来るものとされている。この点が、単なる超常的意識の探求ではない、仏教の倫理的宗教たる所以であろう。
瞑想(禅ないし定、あわせて禅定)にはいる資格があるのは出家者だけである。出家者は瞑想以前に、あらゆる煩悩をコントロールできていなければならない。内面的準備もなく、正しい道も知らずに瞑想を求めるものを、釈迦は「未熟な山地の牛」にたとえている(上掲書p.48-49)。「未熟な牛は、場所の案内も知らずに、けわしい山の道を歩いた経験もないままに、新しい未知の所をたずねてみよう、新しい珍しい草を食おう、見知らぬ池で楽しもうという欲望にかりたてられ、しっかり一歩一歩あゆむことさえ心得ていない。このような牛は、夢想していた草や水のあるところに行きつくことができないし、そうかといって、好奇心にかられて遠く離れてしまったので、元の牧場に戻ることもできない。」
超常的世界を探求するには、内面的準備が必要であることは、宗教に限らず、呪術や魔術のようなoccultismにおいても同様であるが、呪術や魔術が、超常的意識現象によって、この世界においての欲望の充足をめざすのに対して、同じ瞑想法でも、仏教のめざす瞑想の究極の到達点は、あらゆる欲望、感覚的世界からの離脱であり、その点に関しては、ひたすらネガティヴな段階を経ることになる。以前に、「四世界の理論」において、第四の世界として意識のトランス状態について述べたことは、瞑想のごく初歩の段階であるといえる。この段階においては、現われてくる現象は、倫理的にまったくニュートラルであり、その現象をどのように利用しようと、探求者の心がけしだいである。それ以上に進むには、どのような目的であろうと、堅固な意志と瞑想の深化もしくは純化が必要であり、不用意に行なえば、精神の危機を招くのである。
苦は快楽を求める心と密接に結びついている。苦が外から、あるいは病のような内的原因から起こるのでないかぎり、楽を求めようとする心の根底には、なんらかの欠乏の苦がある。楽は基本的に、苦を除こうとする欲求なのであり、楽そのものが積極的に存在しているわけではない。苦楽の関係がそのようなものであるならば、苦のあるところには楽を求め、楽のあるところには苦の原因が除かれることになり、苦がなければ楽を求めることもなく、楽を求めなければ苦も存在しなくなる。ここで問題は、楽は求めなくてもよいが、苦は意のままにならないということである。この世界では苦が積極的な主人なのであり、楽はそれに伴う従者的存在である。苦はこの世界が感性の世界であるかぎり、なくなることはない。苦を克服する道は、唯一この感性界を離脱するほかはないのである。感性界を離脱し、苦がなくなれば、もはや楽を求める欲求もなくなる。苦も快もない世界へ到達するのである。この過程を瞑想の段階において実現していくのが、仏教の瞑想法であるようだ。
第一段階ではまだ、快の欲望が残されており、細かな泡のようにこころにまつわりついている。対象への渇望が、苦として残っているのである。第二段階では、精神は自己自身に集中して、もはや対象を必要としない。内面から生じる静謐な落ちつきが、ある種の心地よさを生みだす。この<至福>なるものはある種の自己充足なのであろう。そのかぎりにおいてもっとも精妙な感性であるといえよう。第三段階では、この自己充足の愉悦も消え去り、さらに冷静で精妙な<至福>に移っていく。水中に咲く蓮華とたとえられている。水はこの場合、意識のもっとも内奥を象徴するであろう。第四段階で、ついに苦楽とともに、感性界のすべてから離脱する。<霊的光明>は比喩とみなすべきであろう。感覚的な光ではないのである。それがなんであるかは、全身白衣でおおわれた、まったくの<清浄>な心になってみるほかはない。
仏教の瞑想では、瞑想の各段階で、それに対応する神的存在(諸天)の世界がもうけられている。黄泉のように寥々とした、孤独な瞑想者の世界ではないのである。各段階で、それらの神々が待ち受けてくれるので、修行段階がおのずと知られるのである。
ふつうの神々と違って、仏教の神々は、瞑想者によって、瞑想の各段階でのみ出会われる存在である。原則として、九序列に区分される。第一・四大天王、第二・帝釈天(インドラ)以下三十三天、第三・ヤーマ神(夜摩天)群、第四・トゥシタ神(兜率天)群、第五・ニンマーナラティ(化楽天)、第六・パラニンミタヴァサヴァッティ(他化自在天)、第七・ブラフマンの天の神群(梵身天)、第八・アーバッサラ(光音天)、第九・スッダーヴァーサカーイカ(浄居天)。神々はそれぞれの霊的領域にあるものとされ、瞑想者は単に瞑想するだけではなく、それらの神々の階梯をのぼっていくのである。いわば道の安全を保障する、守護神でもあるわけだ。
上述の瞑想の四段階に、さらに加えて、釈迦が入滅にさきだって経たという、高次の意識状態がある。第四瞑想段階の上にあるものが、<虚空の無限性の界>(空無辺処)であり、その上に<意識の無限性の界>(識無辺処)があり、つぎに<虚無の界>(無所有処)に達し、つづいて<意識と無意識とを超越した界>(非想非非想処)にのぼり、最終的に<知覚意識と感覚とを絶滅すること>(想受滅>にいたる。最終的ニルヴァーナ(涅槃)である。
ごく初歩的であっても、瞑想状態にある意識は、日常的な意識とは明らかな違いがある。なによりも心身が驚くほど静まり返るのである。これは大人になってよりも、少年期に顕著な体験である。まわりのものたち、特に大人とは、まったく違った心理状態にあることに気づくのである。大人からは不気味がられる。しいて接すれば、まわりの人間のあらあらしさに傷つけられる。瞑想ということが、この世界とはまったく異なった心理状態であることに、まわりの反感から気づかされるのである。
呼吸法によって心身が静まり返るだけの瞑想法であるならば、さして意識の変容と言うほどのこともないのであるが、自己催眠によってトランス状態を生じさせるまでになると、一段違った意識の状態にはいることが出来る。これについてはすでに別の文で書いておいたが、ここで起こる顕著な現象は、意識の分裂が生じることである。具体的にいうと、他者の声ないし存在が、意識のかたわらに飛び込んでくることである。これは単なる想像や観念ではなく、なにものかが何か意味のあること、あるいはまったくわけの分からない言葉をしゃべりだすのである。そしてふと消え去る。意識にはそれに応じたなんらかの界があるという、仏教の考えに従うならば、通常の意識にはこの感覚界があり、トランス状態の意識には、それに応じた界があるということになろう。本来無意識界にあるべき存在が、そこに現われてくるのであろう。
瞑想状態にある意識は、無意識界と密接に関係しているようである。そこにあらわれてくる存在は、場合によっては明瞭に人格的なのである。それらの意識の段階ごとに現われてくる存在を、瞑想のヘルパーとしてとらえるならば、仏教でいう<諸天>の意味も、たんに寓意的ではないであろう。もちろん無意識界はそう単純ではないから、マーラ(魔)としてあらわれてくる存在もあり、むしろ妨げの勢力が優勢な場合も多いであろう。こうした事情をよく知らずに、単なる好奇心からスピリチュアルに走ってはならないであろう。その意味では、仏教の瞑想法は実に親切であるといえよう。
とはいえ、仏教本来の瞑想法は出家者のものであり、それにはいる前には、十分な煩悩の制御が必要なのであり、とりわけ性感のコントロール(梵行)ができていなければ、瞑想において<魔>の干渉を受けることになる。瞑想自体が無意味になる。形だけの瞑想や坐禅は、一時的な休息に過ぎないのである。梵行ができないかぎり、仏教には縁がないと思うべきである。
人間の心(意識・無意識)の諸相が、それぞれ固有の界に対応しているという仏教の教えに従うならば、天台でいう十法界は、逆に人間の心のあり方そのものであることになる。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁学・菩薩・仏の十界は、心の善悪もしくは優劣の階梯であり、グラデーションであるといえよう。うかうかとへたな瞑想にふけるならば、六道輪廻の界に心そのものが落ちていくことになりかねないであろう。悪くすると、畜生以下の餓鬼や地獄の心ともなりかねないのである。呪術や魔術への応用は、つねにこの危険をともなうであろう。心が乱れている時や、欲望や快楽にかられている時は、むしろ瞑想は禁物であるというべきであろう。 |
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