2022年3月14日(月) |
狂える人類 |
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人類は類全体として見れば、一個の有機的個体である。その生理においては、基本的に個々の人間と同様な機能と反応と作用とを持っているといってよかろう。人類が全体として、人類以外のものに向かうときには、たぶん最も正常に機能するであろう。これは個人が、他の個人や、社会や、自然界に向かうときに、最もよい活動状態にあるのと同様である。しかし個人が、おのれ自身の内部に問題をかかえるとき、そこに心身における〈病〉が生じる。人類全体においても同じことが言え、人類内部において問題をかかえ、互いに争う時には、人類は<戦争>という病に犯され、狂気と破滅に向かうのである。
現今の人類の狂気の原因は、〈文明〉そのものにあるといえよう。農耕文明において、まず人間集団の間に土地争いという集団的<ストレス>が生じた。さらに遊牧民と農耕民の征服・非征服の関係において、ストレスは高まり、社会内部においては、階級と身分への分裂によって、個人間のストレスが発生する。こうした社会の安定は、つねに武力と権力という、内外のストレスに対抗し、抑圧する装置によって、保たれる他はないのである。圧力に対しては、圧力で応える他はないからである。類においても、個においても、人間は相互間の力関係、あるいは権力関係において、文明とともに高まったストレスに対処してきたのである。
ついで、さまざまな宗教が、このストレスに対処する精神的方法として、あるいはこのストレスを精神的に変質させるシステムとして登場する。いわば社会的圧力に対する安全弁としての、宗教の役割がそこにある。しかし、つねに内面におけるストレスの解決をはかる宗教においては、そのストレスが内に蓄積され、時として外へ向かって暴発する時には、さまざまな倒錯性、残虐性を見せるのである。自然科学は、この宗教の欠陥の克服として現われる。そのモットーは進歩Progressであり、人類社会の過剰なストレスを、未来に向かって発散させようとするものである。しかしその成果である〈産業革命〉は、新たなストレスを生みだすもととなる。科学技術は資本主義と結びつき、新たな社会的分断をもたらす。そのストレスから<社会主義革命>がもたらされ、社会主義諸国は自由の抑圧という更なるストレスを生み出し、世界全体に分断と〈冷戦〉をもたらしたのである。
その間に無数の戦争が、ストレスの発散として起こり、とりわけ20世紀の二つの大戦において、過去のすべてのストレスは、人類の自己破壊となって爆発したのである。しかし、それが終わりではないことは、その後の70年間において、歴史が繰り返されたことによって、だれもが知っている。人類内部の自己破壊の圧力、マグマのように蓄積されたストレスは、今も噴出しつづけているのである。科学と科学技術の生み出した、人類社会に対する最大のストレスは、核爆弾である。人類は自らのうちに、自爆の装置を埋め込んだのである。そしていま現在その最大の危機にあるといえよう。
ロシアのウクライナに対する戦争は、近代の戦争とは異なっており、宣戦布告もない、いわばジンギスカンの蒙古帝国と同じ、〈征服〉の戦争なのである。であるから、停戦交渉などは始めから論外であり、人道などはそもそも征服者の辞書にはないのである。ロシアはもともとモンゴルの影響を受けた専制国家であり、ソ連邦までその伝統は続いてきており、今のロシアは先祖がえりをしているのである。専制君主は何をやってもとがめられることはない。唯一絶対の権力者なのである。この専制君主に対して、いかに全世界が<経済制裁>によって対抗しようとも、その武力行使をさらにエスカレートさせるだけかもしれない。専制君主は賢者ではなく、徹底した〈エゴイスト〉である。この容赦ないエゴイストが、全世界からの制裁圧力をうけて、核のボタンをいつ押さないとも限らないのである。
ストレスは双方に及ぶのであるから、核には核をもって応えるであろう。核による人類自爆の恐れが、これまで人類の狂気をわずかながら抑えてきたのであるが、ストレスのマグマが頂点にたっするならば、人類の命運はもはやないといえよう。明日にでも核戦争による人類社会の壊滅は起こるのである。あらゆる文明の成果は、幻のごとく消えてしまう。人類の進歩とか進化とかは何であったのか。知性はまったく無意味・無力であり、生命そのものも、ただに自然からの脅威ばかりでなく、自らのうちに滅びを宿しているのであるならば、この宇宙の存在価値そのものもないといえよう。その証明を一個の専制君主がなすのであろうか。 |
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2022年3月6日(日) |
生命体としての人間の類的世界 |
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前回は個としての人間の生命的世界について論じたが、人間の世界は主として集団的・類的であり、個としての世界も基本的にはその中に包摂されている。この生命としての類的世界を、いくつかの観点から考察する。
まず個体保存と、種の存続の関係であるが、生命界では基本的に種がすべてであり、個は無に等しい。個は種の存続のための道具にすぎないのである。それゆえに個は大量に生産され、大量に滅ぼされる。これは植物界・動物界・人間界に共通する原理である。無数の個のうち、一つ二つが生き残ったとして、それに特別の意味があるわけではなく、単に確率的な存在価値があるだけである。無数の精子の中の一つと一個の卵の合体において、特別意味があるわけではなく、単なる偶然と、チャンスとの結果が、一個体の誕生の意味である。生まれた個体が特に貴重であるわけではなく、特別な配剤によって存在するのでも、唯一無二であるわけでもない。単に機械的、必然的な因果的メカニズムによって起こった結果であるに過ぎない。
個体の保存は、単に確率にもとづく偶然に委ねられており、それが生命界における種の存続の戦略である。個と個、個と種、個と類、種と種、種と類の間の競争、あるいは闘争において、必ずしもよりすぐれた個体が残るとは限らない。要は、偶然に加えて、環境にうまく適応できる個体が種を存続させ、いくら強くとも適応できない個体は滅びるのである。この適応の可能性自体も、〈突然変異〉という偶然に委ねられているのである。
精虫と卵のレベルでは、まだ生存競争ほどのこともなかろう。いくらでも欠陥的な個体は生まれてくるのである。個体が発生すると同時に、本来の生存競争が始まる。生まれたとたんに滅びる個体が、生命界では圧倒的に多いであろう。通常は、生き残って成長するのは数千、数万、数十万に一つであろう。生命界はとてつもない個体の浪費の世界なのである。個体の浪費が少ないほど、たしかに生命界では成功する種といえよう。しかし個体数が多ければ、それだけ他の捕食する種や類によって滅ぼされやすいのである。ここに種と種の間、類と類の間の個体数のバランスが保たれるわけである。
この生命界の原理を人類社会に当てはめてもよいであろう。人類史は民族と民族、国家と国家の間のあい食み、滅ぼしあう関係とみてよい。この場合個に当たるのは、各民族・国家であり、一個の種である人類は、部族・民族・人種・国家などの個的単位に分かれ、それぞれ生存競争をくりかえすのである。これは生命体としての類的本能であり、個の保存と類の存続という生命原理の、人類史における端的な現われである。
類全体が危機にさらされるとき、はじめて一個の種としての統一的意識が生まれ、その危機において類の保存が個の保存にまさるものとして、個と個の間の生存競争の、ある種の〈止揚〉がなされるのである。しかしそれは一時的なものでしかないだろう。生命体であるかぎりは、個と個、種と種、類と類とは、つねに存続をかけて争うものであるからだ。
今現在行われている、ロシアによる隣国ウクライナの軍事的侵略が、この良い例に当たるであろう。ロシアは国家として、欧米の防衛体制に対する圧迫感から、その境界が隣国にせまったのを見て、生存本能を刺激され、それを防ぐために遮二無二他国に侵略したのである。その刺激の原因は欧米にあったのだが、個の原理にこだわりすぎて、侵略の生命的正当性を見抜けなかったのである。侵略は理屈ではなく本能なのである。しかしロシアが原発を攻撃するにいたっては、全人類的恐怖感が類的統一を促すことになり、欧米・ロシア双方の頭を冷やすであろう。類の存続の優位が、個の間の生存競争の抑制に働くであろう。第三次世界大戦は、当面おそらく回避されることを期待したい。
つぎに、本来の個である個人と社会・国家との関係について。一個の生命体としての個人は、実のところ、個の意志ばかりでなく、類的意志によって圧倒的に浸透された存在である。この圧倒的な類的意志を、社会との関係において〈全体への意志〉と名づけておいた。これの心理的表われを〈依存心〉として、すでに論じた。あらゆる社会制度は、この全体への意志もしくは全面的依存心の発現であり、あるいはその支えとして考案されたものである。法律とは、個と個の間の争いや権利関係を、〈全体〉の視点から調停し、規定するものである。この法律の背後にあって、その執行の権力を有する組織が<国家>である。国家を形成する仕方はいくつもあるが、国家は権力装置であることによって、〈権力〉をいかに形成するかが国家の要となる。アリストテレスはそれを分析したのだが、いずれにしても権力にすべてを委ねようとする、全体への意志、全面的依存心が、その根底にあるのである。
権力は、一個の生命体としての個人によって、必ずしも恐れられているわけではない。むしろ大いに歓迎されているのである。親に全面依存していた子供時代に典型的であるように、まずは親が万能であって、おのれのあらゆる欲求を満たしてくれることを願うのである。これがかなわないと、この権力者願望は、他の大人や集団に移っていく。また自らが権力者として振舞うようになるのも、親または他の権力者の模倣から始まるのである。
全体への意志はまず服従から始まり、ついで他を服従させるシステムを形成する。家族が、この服従関係からなる権力システムの起源である。家族はさらに氏族・部族・豪族・王・国家・帝国といった上位システムに取り込まれていく。このシステムの内部において、個人の地位を表わすものが〈身分〉であり、〈階級〉であり、〈カースト〉である。自由とか公平とか権利とかの概念は、すべてこの服従関係からなる権力システムにおいて考察されねばならない。実際あらゆる社会思想は、この枠組みにおいて主張されているのである。
生命体としての個人の自由については、二通り考えられる。まず生理的に、個としての人間には〈意志の自由〉は存在していない。個人のあらゆる行為、思考、感情、そもそも〈意志〉なるものも、すべて必然的事象であり、いわば〈運命〉である。これは科学的に解明された事実であって、単なる主張や意見ではない。個人にとって〈自由〉が問題となるならば、それは上述のように、服従関係としての権力システムにおいて、どれだけおのれに有利になるように行動できるかの問題に限られてくる。おのれの肉体・思想・感情、それらをいかに他者や集団や法や国家やの強制と無関係に、おのれのために活動させ、発現できるかという、いわば社会の権力システムに対して、いかに抵抗できるかという可能性が、実践的な自由の問題なのである。
この〈政治的自由〉に対しては、まず自由を望む心がなければ無意味である。全面的依存心にとらわれているかぎりは、自由はかえって苦痛でしかないだろう。生命体としての人間は、人から何かをしてもらいたいという、依存的な気持ちが圧倒的に強いのである。わずか一票の投票で、国政に対して他人に何かをしてもらいたいという依存心を、みみっちいとも恥ずかしいとも思わないのが、<議会制民主主義>なのであるから。
ある程度の自尊心(self-reliance)がなければ自由は無意味である。自由を求めるとは、おのれ自身にすべてを求める、少なくともおのれ自身を楽しめる心を持たねばならない。すなわち〈孤独〉を愛する人間でなければならない。ツィメルマン(Zimmermann)の言うように、極端な孤独者である必要はないが、自由とは孤独と同義なのである(*)。社会や国家という権力システムから極力遠ざかり、おのれ自身の行為と思索の世界に、喜びを見いだすことが、自由の真髄なのである。
(*)The love of solitude, when cultivated in the morn of life, elevates the
mind to a noble independence; but to acquire the advantage which solitude
is capable of affording, the mind must not be impelled to it by melancholy
and discontent, but by a real distaste to the idle pleasures of the world,
a rational contempt for the deceitful joys of life, and just apprehensions
of being corrupted and seduced by its insinuating and destructive gayeties.――Johann
Georg Zimmermann: Of Solitude ch.2
(孤独を愛することは、人生の朝のうちに培われるならば、心を気高い独立心に高めるものである。しかし孤独が与えてくれる利点を身につけるには、心は憂鬱とか不満とかによって、余儀なく孤独に向かうべきではない。世間のつまらない娯楽に対する心からの嫌悪や、人生の見かけだけの喜びに対する理知的な軽侮や、人生の道において、甘く取り入ってくる、破滅的な悦楽によって誘惑され、堕落させられることを、正しく懼れることによって、それに向かうべきである。――ツィメルマン「孤独論」)
公平(justice)とは、もっぱら社会関係における概念であり、そこにおいてのみ行使されうるものである。生命体としての人間は、まず誕生において生理的に不平等であり、また社会的に境遇や環境において不平等である。生存の発端においては、justiceは存在していないのである。与えられた社会・国家において、個体が自己保存するに当たって、ある種の平等を保障するのが、公平の観念である。公平の基本は、生命体としての本能の中にひそんでいる。依存心は必ずしも依存する者の中にだけあるのではない。依存される者は、実は依存する者に対する〈保護〉の本能を具えているのである。親は依存しようとする子に対して、本能的に保護の行動を取る。しかも、親は子を保護することにおのれ自身の幸福を感じることによって、子に対して相互依存の関係にあるのである。種の存続をはかる生命の狡知であるといえよう。
この依存・保護の相互依存の関係は、あらゆる社会システムの中にも浸透しており、いかに強力な権力システムであっても、この点に関してはjusticeを保っているのである。権力は、権力に依存するものを保護する。これが公平の基本原則である。この原則を破れば社会は混乱し、場合によっては反乱によって国家は転覆するであろう。古典古代の奴隷制においては、奴隷は国家や奴隷主によってある程度の保護を受けていた。それによって反乱や逃亡を防いだのである。資本主義社会では、労働階級は初期の搾取制度から、資本家との対等な交渉関係にまで改善された。福祉国家では、誕生の不平等は、さまざまな福祉政策によって公平が図られている。現代社会では、全面的依存心を是としない個人主義者であっても、おおいに社会的公平をを利用することが可能である。あるいは、社会的に不平等であることを、憤りもするであろう。いかなる個人も、生まれながらに社会的権力システムに取り込まれているのであり、そこから脱け出す手段がないかぎり、この権力システムの良い面である公平の分け前にあずかるのは、特に恥ずべきことではないであろう。
権利(right)とは、社会的権力システムの中での、個人の権力の分け前である。社会のないところには権利はなく、ただ力(force)があるだけである。自然人としての人間は、すべてをおのれの力に頼るほかはない。その力において劣れば、何事においてもうまくいかないか、敗北する。その力をバックアップするものが、あるいは力のないところに力に代るものが、社会的権力システムにおける〈権利〉なのである。何人も法的な理由なく、自己の身体を拘束されたり、傷つけられたり、利用されたりされない権利を持つ、という人間の基本権利(人権)なるものも、それを保障する、すなわち個人の身体を保護する権力機構がなければ、空の条文である。さらにその権利を都合によって奪うのも、同じ社会的権力システムである。兵役によって、身体どころか、命までも、このシステムは要求しうるのである。
以上、自由・公平・権利について述べたことは、他のあらゆる社会概念についても当てはまろう。個人が類的世界においてのみ存在できる生命体である限りは、社会的〈規範〉から逃れることはできないのである。その規範の根底をなすものが生命原理である以上、人類社会もまた生命の創造した世界なのである。その生命の創造した世界以外に、生命体としての人間は住む世界を持たないのは自明である。魚が水に、鳥が空に、その生存の領域(エレメント〉を持つように、人間の住むエレメントは〈権力的社会〉以外にないのである。そこでは博愛ではなく〈依存心〉がすべてである。その依存心から博愛も出、利他心も利己心も出、権利も公正も要求され、自由の願いが生まれる。生命体であることの、これが宿命である。 |
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2022年3月1日(火) |
生命体としての人間の世界 |
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生命体としての人間の世界は、生命の基本機能によって支配されている。一方では生殖器が、他方では大脳新皮質に座を持つ理知の働きが、互いに牽制しあいながら、生命体の世界を構成し、その生き方、存在のあり方を決定する。このことを本能的、生理的に理解していたのが、古典古代のギリシャ人やローマ人である。肉体の讃美と理想化、同じく理想化された知性的容貌、この両者を彫像において矛盾なく表現したのが、彼らの造形美術であった。実生活においても、彼らは性欲と知性とが相反するものとは考えなかったであろう。理知が性器を恥じたり、おとしめたり、性器が理知を冒とくすることもなかったであろう。それが彼らの芸術ばかりか、生活そのものにおける調和であったろう。現代人には不可能な、性欲と理知とのSyntheseが、性感に喘ぐこともなく、理知によって興醒めることもない、聖なる交合(ヒエロ・ガモス)が、可能であったかもしれない。いずれにせよ、彼らはその理想を求めたのであろう。
性器的人間は、性の快感においてなんらかの放出、あるいは表出をおこなう。ある種の物質代謝であるが、性の快感は物に向かい、物において充足を遂げようとする。徹底した実在性と、実在への自己放出とが、性の快感の本質である。これは男性の射精に限らず、女性の肉体自身における自己快楽においても同様である。女性はいわば肉体の快感そのものに自己を放出するのである。男性は女性と共通した自己快楽とともに、文字どおりの放出に、快感のクライマックスを得る。その点、自己以外のものに対する攻撃性が強いのである。フェチシズムやサディズムが男性の特徴である。女性は自己快楽に特化しているので、少なくとも性の快楽においては、自己自身をさいなむ、あるいは自己を貶める、マゾヒズムにおちいるのである。
対して理知的人間は、あるいは人間の理知的部分は、物ではなく物の観念に向かう。観念によって実在からの距離をおくことによって、肉体の生々しい快感から身を守るのである。その快感のありかは、基本的に心情の働きの中にあり、しかも心情に対してある種のコントロールを及ぼすことにより、物そのものに対する客観的把握を得ようとする。激情や攻撃的感情を遠ざけ、観念化された物の世界で、静謐な観察と思索とにひたることが、理知的人間の理想である。一般に学術、文学の世界が、理知的人間に開かれている観念界である。とはいえ、理知は決して実在から完全に離れることはない。観念を経由して、つねに実在に戻るのである。そのようにしてしか、理知は実在に関心を覚えないのであり、実在そのものに生きる、性器的人間とは対蹠点に立つのである。
性器的人間と理知的人間の中間部分に、通常の生命体としての人間の生活がある。そのいわばバランスをなす中心点が、食事である。食事は快楽であり、それ自身快感であるとともに、それの配慮において理知を要求する。食事は性欲にとっても理知の働きにとっても、必要不可欠な条件である。食事によって、人間の性欲も理知も、そのあり方が決まるのである。フォイエルバッハが、人間とは彼が食べるところのものと、いみじくも言うとおりである。空腹では何事もなしえないし、心情もいらだつばかりである。不快な心情も、食事によっていやすことができる。食後には、ある種の幸福感さえ覚えるであろう。
性欲と理知と食欲以外の、生命体の付随的要素としては、その他の感覚的快楽があり、それらにともなう心情、すなわち情念や感情がある。性欲と食欲は、直接感覚的快楽と結びついており、理知はすでに述べたように、感覚とは観念によって間接的にへだてられている。五感の与える快感は、それ自体で美感や心地よさとなって心情に反映される。もちろん五感は快感ばかりでなく、苦痛も与えるのであるが、それらの快苦は、生命体にとって<実在>そのものであり、単なる観念でも、色即是空でもないのである。生命体が物に対して直接反応しているのが、それらの五感における快苦なのである。実際、苦痛というもの、快感そのものを、観念化すること、すなわちそれらを客観物として表象することが出来るであろうか。快感を考えるには、快感そのものを感じる他はないのである。
感情・情念についても同様である。それらはものの影としての、単なる観念ではない。生命体の意欲の発現のあり方そのものなのである。生命体は、生きているということをどのようにして知ることが出来るのか。なんらかの意欲が、なんらかの仕方で、そこに直接現われるからである。もし私が、情念のグルントトーンである、身体内部のなんらかの気分を自覚しなかったならば、単なる感覚によっては私の存在を確信できないであろう。
生命体としての人間は、おおよそにおいて、以上のような機能を備えた存在であり、生命そのものが準備したさまざまな条件のもとに、この人間の世界を作りあげ、その世界像を決定しているのである。われわれの見ている世界は、生命の創りだした世界なのである。生命体が有機的統一をもつかぎりは、その生命活動も、そのおかれた世界も、なんらかの調和の中にあるはずである。その調和を壊す要素があるならば、生命そのものにとって有害なのであり、当然ながら生命進化の過程において淘汰される。もし理知と性器とが争うならば、種としての生命はとうに滅びているはずである。性器は基本的に理知に仕えることはないが、理知は実のところ性器にとっては道具にすぎないのである。理知がそのことを公然と認めることはないが、理知が覚える知的満足も、実は性感の希薄化された延長に過ぎないのである。とはいえ、性器の濃密な直接的快感と、静謐な思索にともなう心の平静との間には、とてつもない段差があるように思われる。しかし他方から一方に移ることは、ごく簡単なのである。トッカータとフーガと、フーガの技法とは、同一の生命体から生まれたのである。
性の快楽と理知的快との間の極端な落差は、しかし古典古代の人間にとってもそう簡単には克服できなかったであろう。いかに理想化しても、エロスはエロスである。ひとたびエロスにとらわれれば、人間の行為は圧倒的に性感によって支配されてしまう。調和はもはや彼らにとっても困難である。理知だけの存在という観念が、彼らの間で生まれるのである。エロスもまた、精神的エロスという名で、理知に仕えねばならないものとされる。古代世界の調和の崩壊の始まりであった。つづいて、キリスト教や仏教といった、ペシミズムの宗教が世界に蔓延したのである。生命そのものに対して、敵対的な思想が生まれたのである。
たしかに生命体は、性感を始めとする快楽のもとであるばかりでなく、さまざまな〈苦〉によってさいなまれている。そもそも〈涙の谷に〉生命体として存在することの価値が、問われだすことになるのである。もはや生命体には、なんらの調和も見いだされなくなってくる。性器や性欲は、徹底して理知の座から遠ざけられていくのである。替わって、心情をかなめとする霊魂なるものが、生命の源として想像にのぼるようになる。喜怒哀楽を具えた〈魂〉が、生命体の生命そのものと見なされ、さらにはそれが生命体を抜け出し、第二の生命をもつものとさえ、みなされるのである。こうして、生命体としての調和を失った人類が、生命進化の頂点に立ったことによって、すでにさまざまな困難や問題をかかえ、進化的に淘汰されつつあるといえよう。
最後に、生命体が生命を超えることの可能性について。生命はまた自然界の産物である。人間もまた、その生命の根源において自然界につながっており、有機物であると同時に、無機物でもある。生命を超えて、自然の根源にさかのぼるならば、人間の自然における真の位置がわかるであろう。しかし生命体としての条件のもとでは、生命界を超えることはできないであろう。生命体として以外の要素が、人間の中になければならない。ひとまず無機界にさかのぼってみれば、それが見つかるかもしれない、あるいは見つからないかもしれない。さらに別の要素を人間の中に、探すほかはないのであるか。自然科学と、形而上学と、二つの探究の道があるであろう。いずれにせよ、生命現象を超えた視点が、要求されるのである。
(画像:左=ポリュクレイトス「槍を持つ人」、中=「バックス(ディオニュソス)」、右=「サテュロス」)ポンペイ展より |
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2022年2月15日(火) |
脳内劇場について |
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明るい昼間の電車内で、向かいの席に座っている乗客の合い間から、窓外に野原や林の光景が、青空のもとに広がっている。この色彩や空間の光景は、すべて私の脳の中で演じられている、影像のようなものである。それがどのようにして解るのであるか。私が私の脳を考えることによってである。私は私の脳をどのようにして知ることができるのであるか。ちょうど私の前の席が空いていて、窓ガラスに私自身のぼんやりした姿が映っている。その私の頭は、左右に座る乗客の頭との間に並んで、たくさんある頭の中の一つに過ぎないことがわかる。私は自身の頭を鏡に写し、他の無数の頭の中の一つとしてとらえることによって、私の見ている世界が私の頭の中、すなわち脳の中にあることを知るのである。これが自己自身の<客観化>ということである。
通常は私は鏡などは見ていない。鏡に替わる物が世の中にあるからである。すなわち<他人の眼>である。たいていの人間は他者の眼に自身を映して、自己客観化を行なうのである。これは動物にも通ずる本能的認識のプロセスであるといえよう。たいていの人間は、まず他人の目で世の中や世界を見るのである。主観は<眼>として客観化されているから、この普遍的な眼が、いわば<主観一般>として、この世界がだれにとっても同様に、客観的に存在するものとして現われるのである。しかも、そうした客観化の意識すらないであろう。動物であれ人間であれ、だれもが素朴実在論者なのである(*)。
(*)常識の立場からは、世界はだれにとっても同一なものと考えられている。ある人がある言葉を発すれば、それが相手によって、まったく別の言葉としてとらえられることはない。相手がNoと返事したことが、私の頭の中でYesとなることはない。もしそれが起こるならば、世の中の人間関係は対立と矛盾だらけになるであろう。各人の脳内劇場同士の間には、いわば常識的な〈予定調和〉が存在しているのである。もしこの調和が崩されるならば、たいていはどちらかの脳の機能が、なんらかの狂いを見せているのであって、この基準もまた、常識にゆだねるほかはない。この判断は本能的で、おおむね正しいであろう。しかし、各人の脳内劇場は、各人の置かれた時空の断面における、一つのアスペクトに過ぎないのであるから、それぞれにおいて微妙な違いを見せているはずである。共通の客観性などは、厳密に言ってありえないのである。もし絶対的な客観性があるとすれば、それは理想的な全能の知性においてであって、すべてを見通すいわゆるラプラスの魔神(der
Laplace'sche Geist)であって、はじめて可能であろう。彼は全宇宙の構造を永劫にわたって、一望のもとに見てとるからである。
私自身を鏡に写して、世の中の無数の頭と並べて見るとき、各自の頭の中で、それぞれの世界が演出されていることが想像される。私が見たり聞いたり考えたりすることも、私の脳の中で演じられている一つの演劇にすぎないが、私の眼の前に並んでいる人たちの脳の中でも同じようなことが行なわれているはずである。これを脳内劇場と呼びたい。各自が各自の脳内劇場の世界に生きているのである。これを仏教では、一挙に色即是空などと喝破してしまっているが、この普遍化は、やはり眼としての主観一般に出でた、道破なのである。この脳内劇場は、実は入口も出口もないのである。どこから私はこの劇場に入ったのか、どこにこの劇場の出口があるのか、この解決を見出した人は一人としていないのである。これが独我論のアポリアである。
確かに私は脳として、私自身を客観視できる。それは本能的であるから、誰にも苦もなくできるのである。そしてあらゆる苦悩もまた、この客観視された私から生じるのである。私は無数の個の中の一個でしかなく、自然界や人間社会の荒波の中で、どう抗いようもなく蹂躙されるほかはないのである。あらゆる脳内劇場はそのような世界を映し出すのである。私の脳が、無数の脳の中の一個であるかぎりは、この宿命を逃れることはできない。いわば脳に映し出された世界は、すべて宿命劇なのである。私を客観視すれば、私は宿命の虜となり、一個のみすぼらしいい役者として、この出口のない劇場で、つまり続きのない演劇のくぐつとなるほかはないのである。
自然界であれ、人間界であれ、この脳内劇場の法則を変えることはできない。脳は生命体の産物であり、その一機能であることは、主観一般としての<眼>の権化である自然科学によって詳細が明らかにされている。生命はいわば、脳内劇場の筋書を書き、道具立てを用意し、書割を描き、舞台監督として辣腕を振るう。役者はむち打たれるままに、場合によっては理由もわからない演技を強いられるに過ぎない。カントは人間精神が、すなわち脳が自然界に法則を与えるとして、その発想を<コペルニクス的転回>と称したが、実のところ、脳に法則を与えているのは生命であり、すなわち自然界そのものであり、自然が脳に法則を与えているのである[補説]。少なくともこれが客観的に言いうる、脳内劇場の真相である。人間の脳がとらえる自然界もまた、生命体としての脳の法則の限界の範囲内にとどまるのである。その法則は、生命体にとってのみ普遍的なのである。
脳内劇場には入口も出口もないと述べたが、それはなぜであろうか。それは私がどのようにしても客観視できない<わたし>をもつからである。入口や出口は、少なくともなんらかの建物あるいは物品に属するものである。脳は一個の容器であるから、それを頭蓋から取り出すことは出来るであろう。しかし脳そのものの中にあるものを、どうやって取り出すか。<灰色の脳細胞>を取り除いて、中にあるものを取り出すことが出来るのか。いわば劇場のないところで、どうやって劇を演じるのか。その劇そのものに注目してみるならば、道具立ても書割もなくなれば、台本だけが残るであろう。その台本とは何か。やはり脳内であみだされた、なんらかの思考や想像や空想や情念やの産物である。その台本すらなければ、何が残るであろう。<空>である。すなわち脳の中身は空っぽなのである。脳内劇が終了した時には、何も残らないのである。はたして何も残らないのか?
脳が機能するということは、一つの客観的事実である。脳内劇場が脳の機能そのものであるならば、脳から機能だけを取りだすことは不可能である。機能は始まって終わるだけのことであり、そこに入口も出口もない。ただひと仕切りの働きがあるだけである。つまり脳内劇場は建物でも容器でもないのである。この働きの中心にあるのが<わたし>なのである。
脳の働き自体は、外から脳を見ただけでは客観視できない。ただ単に結果としての行為や行動や、一口になんらかの反応が身体において現われるだけであり、それは電気的信号であってもよいのだが、それらはすでに脳内の機能そのものではないのである。私がもし鏡を見て、さまざまな顔の表情を作るとしても、そこには私の脳内の思考や情念は、直接表象として現われてはこない。私はただ<眼>に映るものとしての私の顔を、やはり私の脳の中にある表象として、さらに客観化することにより、それが<私の表象>であることを知るのである。つまり私を見る私も、脳内劇場によって演出されているのである。認識論的に言えば、主客の関係そのものが、脳内劇場の筋書に収まっているのである。
この主客の関係における<わたし>というものが、自己意識すなわち自我の根底にある。自我はすなわち自己の客観化の過程でしか発現することがないのである。自己の客観化とは、ここで言う脳内劇場のことであり、自我はつねに脳内劇場において発現し、つねにその中に閉じ込められているわけである。これが脳内劇場には入口も出口もないことの理由である。脳内劇場の開演とともに私はこの世界にenter(登場)し、終演とともにexit(退場)するわけである。しかしどこから登場し、どこへと退場するのか、その舞台裏は闇につつまれている。
世界が脳内劇場だけの存在であるならば、この世は幻であり、夢や泡沫以外の何ものでもない。人間はこの結論に満足せず、さまざまな形而上的思想もしくは宗教的想像や空想を作りあげてきた。なにかが残ってほしいのである。理性、魂、霊魂、物質、神々、創造神、宇宙意志、生命、自我、などなど。筆者の自我論も、この願望の延長にあるが、いまだ確信にまではほど遠いのである。
* * *
補説:先験的ということ
カントの主張を理解するには、先験的(transzendental)あるいはアプリオリ(a
priori)ということを、根本的に考えてみる必要がある。経験とは人間にとっての全世界、または全宇宙を表わす言葉だが、これを内容と形式とに区分できよう。経験に先立つ、または先天的という場合、この区分が基本になっているのである。内容として現われるものは、基本的に経験より以前にあったのではなく、経験によって、経験とともに、与えられるのである。それに対して経験の現われ方、経験を規則づけるものは、経験より先に〈先天的〉に人間の心性に具わっていると考えることが出来る。この原理を探究するのが、先験哲学であるとされる。すでにプラトンは、イデアの認識が生まれながらの魂に具わっていると考え、真理の認識とはそれを想起することであると考えた。バークレーやマールブランシュは、経験そのものが、形式であれ内容であれ、神の観念としてすでに心性に与えられていると考えた。ライプニッツは、そもそも心性そのもの(モナド)が、すべての経験を自発的に生みだしうるものと考えた。カントはこの点、先験論における形式と内容との区別を、厳密に守ったのである。その際、経験の内容にあたるものを〈自然〉としてとらえることにより、形式である法則が、経験の内容を規定するばかりでなく、自然そのものに形式的法則を与えるものとしたのである。このような考えからは、自然に法則を与える先験的原理に対して、さらにその根拠であるアプリオリな原理を問うことが可能になろう。人間の経験全体は、内容と形式との全体であるから、その全体の先験的原理を、さらに求めることができるであろう。つまり循環論証におちいりかねないのである。たぶんカントの考えの中には、西洋哲学をつらぬいている絶対の視点、すなわち<神の視点>が、意識的であれ無意識であれ、ひそんでいるのであろう。それがNoumenon(叡知的不可知者
Chose en soi,realite intelligible,dont nous n'avons aucune connaissance)であって、それ以上にさかのぼることができないものであって、それが神や絶対者としてとらえられるとき、同時に人間の経験全体(そのなかには自然界も含まれるのであるが)も保証されるのである。先験的がまた超越論的と称されるのも、この神の見地からする立場でもあるからだ。経験全体を超越しなければ、そこにいかなる絶対の保証もないのである。ちなみに現代の自然科学は、この超越論的絶対を否定する方向にあり、この宇宙すなわち人間の全経験をfictionに化してしまう傾向を持つといえる。その極端な結果がsimulation理論である。 |
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2022年1月23日(日) |
色彩の誕生 |
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冬空はことのほか青色が鮮やかである。とりわけ夕暮れ時に、西の空が群青から水色に移り、山際がほのかな夕焼けに染められるとき、心の中のしこりがほぐれ、青空にむかって穏やかな憧憬が広がっていく。このような色彩の魔術を生みだす生命のメカニズムには驚嘆のほかはない。生命はどのようにして、このような調和した色彩の世界を生みだすのであるか。
色彩のような感覚の性質が、外界の事物に属しているのでないことは、すでに古代のデモクリトスが気づいていた。ロックはそれを第二性質と呼び、形や固さなど物体そのものに属する性質を第一性質とした。実際は、第一性質と第二性質を厳密に切りはなすことは不可能であり、形であれ固さであれ、なんらかの質を伴わずに表象されたり、想像されたりすることはないのである。数理のような純粋に抽象的な概念でない限り、感覚や想像に現われる対象は、必ずなんらかの質をともなっているのである。まして外界に現われる<物体>は、すべて感覚の質(クオリア)をともなっているのである。
色彩の起源について考えることは、従ってクオリアの起源を考えることと同じである。それには五感の発生までさかのぼる必要がある。感覚の起源は触覚である。それは人体で言えば、漠とした体感が最もその起源に近いであろう。おのれの身体のあり方を感じるとき、それはほとんど透明に近い、あるいはこれといって形容のしがたい、どんよりした感覚的存在感である。これが感覚の質のUr-Phaenomen(原現象)であるといってよかろう。触覚が特定の部位に集中すると、感覚の対象化がすすむ。感覚そのものよりも、感覚が対象を指示する働きが優勢となるのである。この対象化は、味覚、嗅覚、聴覚と発展してゆき、視覚において完成する。その際、感覚の質すなわちクオリアは、感覚そのものから感覚の対象へと投影されてゆく。いわば、クオリアとは対象を色付けすることなのであり、対象そのものが持たない、質的区別を感覚そのものが行なうのである。
対象の質的区別がクオリアの本質である。このことから、世界が生命にとって意味深い現われ方をすることが、理解できるであろう。甘いものは生命体にとって心地よい質を持つことのよって益するし、苦いものは不快な質を持つことによって、毒を回避させる。フェロモンの香りはオスをひきつけ、心地よいメロディーはメスをひきつける。紅い色彩は食欲をかき立てたり、危険を警告したりする。世界は生命がクオリアによって描きあげた、ある種の立体絵画なのであり、劇場の装飾なのである。
このような感覚の質的現象が、どのような物質的メカニズムを持つのであるか、つぎにそれを考察したい。以前に<知覚の微積分>というエッセイで示唆したように、意識もしくは感覚の質は、モニター画面の画素と類似したものではないかと考えられる。意識の質の最小単位というものがあるならば、それは最も希薄なクオリア(ライプニッツの言う微小知覚)であろう。それらの単位の微妙な質の違いが無限に積分されることによって、なめらかな質的知覚が完成されるのであろうと。このような感覚もしくは意識の質の最小単位というものが存在するならば、それはもはや脳の神経細胞のレベルではないであろう。分子、原子、さらには素粒子のレベルでの現象であろう。記憶は水分子のレベルでの現象であるという研究があるが、意識そのものは、さらに素粒子レベルでのメカニズムであると考えても良かろう。素粒子を支配する法則は、量子論であるから、意識や感覚のクオリアは、量子の振る舞いとして考えるべきであろう。量子は一定の値をとるエネルギーの塊であるから、意識の最小単位は量子であるといってよいだろう。クオリアはいわば、最小単位の意識の質が積分され、空間の次元に量子的現象として発現したものである。
意識が量子的現象であるならば、波動と粒子としての両面の性質を持つはずである。意識は波動として伝播するが、同時に個々の意識として閉鎖空間にとどまっている。意識そのものが、自己自身に向かう意識であるから、そこに観測が行なわれているのは、単なる比喩ではなかろう。意識は意識されることによって、個としての性質を持つのである。意識は意識されなければ、波動として拡散しているであろう。われわれがテレパシーを発動させようとするとき、極力無意識の状態になろうとするのも、ここに根拠があろう。
さて、意識の質が物質的見地から、量子的現象であることは、いずれ科学によって明らかにされるであろうが、ここでの課題である色彩の誕生を、実際の意識現象に基づいて解明してみよう。色彩の根源は、意識の質の最小単位である、量子的微小知覚であるとしたが、それは意識においてはどのような現われ方をするか。最初の色彩は、透明もしくは白色であろう。視覚における光の発現は、ある種のトランス状態において確かめることが出来る。眠りと覚醒との中間状態において、暗い頭蓋の中に一点、暗点が認められ、それに注意がいくとともに、ふいとその暗点が光点に変わり、たちまち拡大し、頭蓋の空間に広がるようにして近づいてくる。その圧倒的な光輝はまばゆいばかりであり、頭蓋を満たしたかと思うと上方に消え去っていく。この暗点は盲点のある位置にあり、そこからは光輝ばかりでなく、さまざまな幻覚が生じてくるので、筆者は<幻覚ポイント>と名づけている(心理学では、閃輝性暗点と称するようである)。
さて、このまばゆいばかりの光輝の色彩は透明な白色であり、これが色もしくは光の根源の質なのであろうと思われる。空海が山野で修行していたとき、金星が岩屋の中に飛び込んできたそうである。金星は太白星とも称され、その光輝は白銀である。空海の見た金星は、たぶんこの根源の光輝なのであろう。眠りと覚醒の中間状態においては、さらに特別な意識状態が生じる。暗い頭蓋の中に、ふいにかわいたぽんという音がして、卵の黄身のような淡い色彩がともるのである。これは意識の原質といっても良いのかもしれない。この淡い黄色が、色彩としてとらえた、意識の色なのであろう。これは赤・青・緑の光の三原色とは異なっている。網膜の神経細胞がとらえる色彩とは別のようである。赤や青は、夢の中で対象の色として現われてくるが、意識そのものの色ではなさそうだ。いずれにせよ、白色や黄色が意識の原質の色であることは、太陽光線の影響から、太陽の色が黄色であることから説明できるであろう。もし赤色矮星の惑星に生命体が存在すれば、彼らの意識の原質の色は赤であるかもしれない。
白色や黄色が、さらに量子的画素の積分によって分化してゆき、赤や青、さらに無数のグラデーションにおける色彩を生み出していくのであろうと思われる。このようにして生命体は、表象世界を色彩豊かな画像に塗り上げていくのである。 |
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2022年1月20日(木) |
資(業)・食・住・衣 |
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人間の生活の基本は、端的に資・食・住・衣につきるであろう。資とは生活のもとで、資本、資金、資産であり、具体的には、なんらかの収入、蓄え、財産のことである。なんらかの収入があるか、蓄えがあるか、資産があるか、すくなくともどれか一つに該当しなければ、人間の生活は成立しない。これがいわば、人間社会の掟であり、人間社会に生まれ落ちたからには、宿命といってもよいものである。恵まれた境遇に生まれないかぎりは、大多数の場合、蓄えも資産も収入もないままに、社会にほうり出される。生きるためには、まず何よりも収入の道を作らねばならないのである。
そこでたいていの人間の生活の基本は、業・食・住・衣の、四つの条件を満たさねばならない。業とは収入を得るためのなんらかの<仕事>であり、生活の<わざ>である。この業によって、はじめて生活の資が保障されるのである。それは広く言って、通常は金銭を得るためのあらゆる種類の行いであり、最も一般的ではあるが、必ずしも職業や職務や業務である必要はないのである。要は、金銭に結びつくなんらかの営み、仕事、なりわいが、収入をもたらし、生活の基本となるかぎりにおいて、それを業と呼んでよいであろう。
大多数の人間の生活は、まずなんらかの業によって、金銭による収入を得、それによって食を満たし、住を保障され、それなりに衣服にも気を使うことが出来るようになる。これが自らの才覚による、人間としての基本的最低生活の保障である。もちろん社会の経済的条件が不利に働くことも多々あるのであるが、その上で自らの生活を切り拓いて行かねばならないのである。これは資本主義であれ、社会主義であれ、金銭がその社会の資の中心であるかぎりは、変わりのない人間社会の現実である。
生活は社会や共同体や、まして憲法などによって保障されるものではなく、自らの才知と努力によってかちとるものである。これは動物界でも共通したサヴァイヴァルの原則であり、このことに早く気づけば気づくほど、人生を少なくとも悔いの少ないものに出来るであろう。
もちろん、人はパンのみで生きるわけではないのだから、人生において<生活の探求>がすべてではない。とはいえ、生活の基本がなりたっての上で、さまざまな趣味や学問の余裕も生まれるのであって、そうしたものは人生の後半にとっておけばよいのである。なんといっても、まっとうな人生の出発点は、資・食・住・衣の生活の四条件の確立なのである。 |
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2022年1月16日(日) |
孤独者の最善の生き方 |
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NHKの海外ドラマで赤毛のアンを見ているが、少女たちの感情豊かな溌剌とした生活の基本にあるものは、小さなコミュニティーの中での相互の親密な依存関係である。集団を構成する者たちの心理の基本にあるのは、信頼であり、たとえそれが裏切られたり、敵対関係におちいったとしても、決して集団から逸脱すること、すなわち根本的に孤立することや、孤独におちいることはないのである。そこには守り、守られる家族がおり、<心の友>がおり、社会そのものの保護機能があるからである。こうした集団的保護、交際、保障、さらには集団的抑制は、孤独者からは一切失われる。アンが孤独におちいっても、必ず援助する者が現われる。これが社会的・集団的に生きることの大いなるメリットであり、生物としての人間の基本の生き方でもある。
ということは、<孤独者>は生物としても、人間としても、非常に不利な条件の中で、おのれの生存を貫いていくほかはないことになる。孤独者は本来の社会的動物(ゾーオン・ポリティコン)としての生存のあり方を、他からあるいは自らにおいて拒まれた異常な存在、<アウトサイダー>なのである。孤独者として生きることは、その人の必然であり、宿命であるから、与えられた不利な環境ないし境遇の中で、人並み以上の苦労と辛酸をなめねばならないであろう。そのことを早く覚悟すればするほど、彼は孤独者なりに、この世界のニッチで、それなりの生存の場を見つけることができるであろう。それには人並み以上に努力し、かつだれよりも用心深く、狡猾でなければならないだろう。賢者は社会と折り合いをつけ、社会の中でうまく泳いでいくことが出来るが、孤独者は社会性を欠くゆえに、集団の中では不器用であり、他者との交渉が苦手である。それゆえおのれを極力、集団から隠して生きることが必要なのである。
孤独者を社会の中で見つけることは難しいであろう。彼らは隠れて生きているからである。この隠れて生きるということが、孤独者の基本の存在様式なのであるが、しかし人間にとってこれほど難しく、困難な生き方はないであろう。彼は宗教者でもない限り、だれの助けをもえることができないからである。宗教はまた一つの社会集団を構成しており、孤独者はそこにもなじむことはできない。孤独におちいったアンが神に語りかけるようには、孤独者は神にも親しむことができないのである。もし神を発見できるならば、孤独者は孤独者ではなくなるであろうが。
孤独者はまず、自己自身の心身と格闘しなければならない。境遇や環境によって、周囲や集団から拒まれた孤独者は、自己自身というひどく惨めな存在に行き当たるほかはない。孤独者の自己との闘いは、まず自己憐憫から始まるであろう。しかし、さらに境遇か過酷になれば、ある種の凝固的な拒絶反応におちいるであろう。それが本格的な<孤独>の始まりである。孤独においては自己自身の身体と自己自身の心以外には、何ものもなくなる。それが彼にとっての全宇宙なのである。孤独に対する身体の最初の反応は、自己快楽である。幼児期におけるオナニーがそれであって、それが孤独者にとっての一生の性的快楽のみなもととなる。心理的反応における自己快楽としては、物に対する異常な執着が起こる。単なる石やガラス片であっても、異常な愛着を覚えるのである。また孤独者の凝固的な拒絶反応は、他者に対する感情表現の拒否となって現われる。孤独者は恐れ以外の自己の感情を、まともにとらえることができなくなるのである。すなわち緘黙におちいる。これらの幼少年期における孤独に対する心身の反応から、孤独者にとっての将来の生活や趣味のあり方が示唆される。
孤独者はまず、一生に渡って性欲と格闘するという宿命を背負わなければならない。性的欲求の抑制は、社会集団の中では相互抑制が働くので、比較的容易にコントロールしやすい。最終的には婚姻という解決がまっているのである。孤独者はもっぱら自己自身の意志の力によって、この生命最大の欲望にうち勝たねばならない。もし理解のある配偶者が見つけられるならば、それが一番よい解決なのであるが、たいていの孤独者は異性からも気味悪がられるものである。
孤独者の仕事は、人間相手の仕事はまず避けねばならない。物への執着が趣味となるように、もの作りやものを対象とした商いや単純作業などが、孤独者のニッチの仕事となろう。その才があれば、金銭そのものを対象とした投資やギャンブルも可能であろう。人との交渉が極力少ない仕事を求めることになろう。孤独者は決して<うだつのあがる>ことはないのであるから、どのような仕事も忍耐と自己抑制が必要となる。感情表現が苦手で、職場でも人と親しめないのが孤独者であるから、すべて生活のため、金のためと割り切るほかはないのである。
孤独者は幼少年期においてそうであったように、すべての快楽をおのれ自身に求めるのであるから、おのれ自身を豊かにするスポーツや教養を心がけるようになるであろう。他者によって与えられるものよりも、自ら工夫考案して、おのれの趣味的生活を築きあげていくであろう。孤独者がこの段階にまで達したならば、孤独者はむしろ与えられた社会環境をうまく利用して、孤独そのものを楽しむことさえ出来るようになるであろう。孤独者は生活態度においては賢者に近づいていくであろうが、孤独者としての生存そのものが彼を賢く狡猾にしたのであって、それがなんら道徳的な意味を持っているわけではない。いわばキツネや狼が賢いのと同様なのである。動物は孤立して生きていても、賢く生活していくように、孤独者も生命の本能の力で賢く窮境をのりきるであろう。もし孤独者が<社会復帰>できるならば、それもめでたいことであろう。しかし、たいていの孤独者は幼少年期のトラウマに苦しめられており、完全な社会復帰は不可能なのである。
むしろ孤独者は孤独者なりに、この世界、世の中をうまく活用して、おのれ独自の生き方、幸福を求めるにしかないであろう。
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孤独者として積極的に生きるためには、厭世家(misanthrope)でなければならない。人間嫌いでなければ、社会との交渉を断ち、人々と最小限の接触で済ませようとは思わないであろう。厭世家になる原因はさまざまであろうが、孤独者の生き方は一つである。出来るかぎり、生身の人間との交渉を避けることである。心の通じる友がいれば、配偶者として暮すのがよい。最小の社交が、じつは最大の人間関係となりうるのである。それ以外の人間は、孤独者にとっては、極力直接の接触を避けるべきであり、表面的かつ平和な交わりにとどめるべきである。他者との人間関係に深入りすれば、かならず人間の動物的みにくさが表われ、心が乱されるだけである。
かりに心の友を見つけたとしても、いずれは真の孤独にもどる時が来る。その時のために、たとえ配偶者であっても、全面的依存関係におちいってはならない。真の孤独において、人間の真の強さが試される。その時に、おのれがいかに弱い存在であるかが痛感されるであろう。それでも、その弱さと向き合って生きてゆかねばならない。少なくとも孤独者は、真の孤独に対しても、ある程度の耐性ができていよう。孤独の愛好者であったエドガー・アラン・ポーも最愛の妻を失った時には、孤独者としては瓦解してしまったようである。だれかまわずプロポーズしているのである。
人間とのあらゆる直接的交渉が失われたとき、絶対の無力感と絶望が襲いかかるであろう。書物のような間接的な交渉は、もはやほとんど魅力を失ってしまい、無関心・無感動におちいってしまうであろう。ただひとつ音楽だけは、心に忍び入ってくるが、寂寥感をさらに強めることになろう。心をかき立てるような音楽は、ぎゃくに嫌悪感を引き起こすであろう。絶対の孤独においては、絶対の沈黙以外にないのである。ひたすら黙りこくって、虚無の重圧に耐えるほかはないのである。再び、なんらかのきっかけで、生への意志が芽生えるまでは。
神や仏を友とする人は幸いである。究極の孤独において、じつは孤独者は孤独ではないことに気づくならば、そこに神か仏が現われるであろう。たぶん生命は、個としての生命体の孤独そのものに対する、なんらかの救済のメカニズムを用意しているのであろう。孤独者の意識は二つに分裂する。Einsiedler(孤独者)がZweisiedler(二人同行)となるのである。この時、少なくとも生命体としての人間は、究極の孤独から救済されるのである。生あるかぎりは、神または仏との対話が可能となるのである。これが窮極的孤独の秘儀であり、たぶん神秘主義者の宗教体験と共通するものであろう。 |
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2022年1月7日(金) |
思想・感情・自己意識・自我の肥大 |
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思想とは何か
思想、広く言って思考は、人間に特有の知的いとなみであるとされる。ホモ・サピエンスなる名称もそこに由来する。そもそも一般の動物と違って、人間が思想を持つということは、どのような生物学的意味を持つのであろうか。動物はこの世界や宇宙について、特別の考えをもったり、探究したりすることはない。そうしたことが彼らの生命活動にとって無意味であるばかりか、場合によっては有害ですらあるであろう。考える犬や考える鳥や考える蟻などがいたら、それらはたちまち生命活動における適切な行動への支障を来たし、滅びるであろう。思想を持つということは、それらの動物にとってまったくの異物なのである。同じ動物でありながら、人間はなぜその異物を異物と思わないのであろうか。いや、じつのところ人間もいざ生命的に活動し、行動するときには、思想などはすべてなげうって、顧みさえしないことが多いであろう。もし思想が行為に関与するならば、たいていの場合、それは障害や抑制となるであろう。つまり、人間にとっても思想は生命活動にはたいして寄与しない、むしろその妨げとなりかねない、なんらかの余剰物なのである。「哲学者は世界をさまざまに解釈したが、世界を変革することが肝要である」とマルクスは述べたが、これをもじって、あれこれと思想に惑わされて、まともに生きることができなくなったのが<思想家>であると言えるかもしれない
思想の生物学的条件として、大きな脳を持つということが意味することを考えるならば、大きな脳には通常の動物に必要とされる以上のゆとりがあるということであり、そこに脳が思想に遊びうる余剰のエネルギーが働くことになる。この脳の余剰の働きは、生命体の本来の活動にとってはムダな部分であり、それゆえに脳はムダなことにエネルギーを消費することになる。このムダなエネルギーは、まず想像や空想として発現するであろう。<神話>や<伝説>の発生である。純粋な人類というものがあるならば、この生命の楽園に住む原初のアダムとイヴは、神話も伝説も持たなかったであろう。それが想像し、空想し、思索する脳の余剰を持つことによって、神話や伝説や歴史や思想に遊ぶようになったのである。生命体は本来、世界や宇宙について、何事も知らずにいても、生命体として自然界と一体となっている限りにおいて、その運命に従って生きてゆけるのである。人間が自然のメカニズムについて探究し、知識を得ることは、自然の叡知に従う限りにおいては、生命体としての本道を行くものであった。そのかぎりでは、脳の余剰は、生命体としての人間にとって、有利な立場をもたらしはした。しかし、脳の余剰なエネルギーは、そうした生命的制約にとどまらなかったのである。
そもそも宇宙の根本や根源を知ることに、どのような意味があるのであろうか。それには好奇心というものの正体を知らねばならない。探究心の根底には好奇心がある。知らないでいること、未知のことに、人間の脳は何ゆえに引かれるのであろうか。場合によっては、それを知ろうと知るまいと、実人生には何の影響も与えないことに、人間の好奇心は惹かれるのである。生命体は通常、自己のおかれている立場を、誕生とともに、本能的に、無意識に把握する。そして環境にうまく適応さえすれば、それ以上の本能的把握はやむのである。この周囲の環境の本能的把握は、もし意識があるならば、好奇心の働きと似たものであろう。必要な範囲での世界を捉えようとする生命体の脳の働きを、好奇心の発生としてよいであろう。この本能的世界把握の、過剰な脳における無限なまでの拡大が、人間が自然界に対していだく探究心であるといってよかろう。つまり、好奇心や探究心とは、生命体の世界適応の本能に出でた、世界把握のあり方にすぎないのであり、それが人間においてはすでに適応範囲を超えて、単なる世界像としての神話性をおびてくるのである。
科学者が物語るビッグバンやインフレーションは、好奇心をかきたて、驚異の思いを抱かせるとしても、次の瞬間にはそれは自己の存在とは限りなく無縁な、どこか遠い世界の出来事でしかないことに、ある種の非現実感さえ覚えるのである。かつて神話はもっと人間的、生命的な想像力の世界であったろう。とはいえ、どちらも生命体としての人間の<思想>の産物なのである。人間の好奇心・探究心が脳の余剰エネルギーをフルに働かせて、脳内に構築した宇宙像なのである。それは脳の外にも、そのまま存在しているかどうかは、すでに脳自身の判別能力を超えている。脳はただその宇宙像を自ら楽しみ、脳の有り余るエネルギーを、いわば謎解きゲームに興ずることで、発散させているのである。これが人間の思想なるもののあり方であり、宿命なのであろう。
感情とは何か
生命体は基本的に感覚を具えた存在であるが、それは客観的に感覚器に現われている。この感覚が内在的に発展したものが感情であるといってよかろうが、感情には特に客観的にわかる感覚器があるわけではない。ただ単に<胸が痛む>とか、<心苦しい>とか、<腹が立つ>とか、漠然と臓器と結びつけることが多い。しかしこれら臓器が感覚器というわけではない。ウイリアム・ジェームズは「泣くから悲しいのである」と述べたが、涙の出るところが感覚器なのではなかろう。言うところは、感情というのは身体内部の現象とべつではないということである。感情を覚えるのは脳であるが、脳はまた感情を発生させるホルモンをつかさどっている。悲しいのは目でも足でもなく、心臓でなければならないわけである。
感情はこのように身体、特にその内部と密接に結びついた何らかの総合的感覚である。それが私の身体内部の出来事であるという意識をつねにともなうことが、通常の五感とは異なるのである。つまり徹底した<内感>なのである。この点は快苦の感覚と同様であるが、単なる快苦と異なるのは、単に身体の部位の反応や興奮ではなく、なんらかの心理的原因が臓器感覚とむすびついて、苦なり楽なりの<気分>をもたらしているという、観念との複合性を有している点である。したがって、感情について述べる時は、必ずなんらかの観念・想念・記憶などが、その原因としてあげられる。つまり、感情とは心身の総合的・複合的感覚であると定義できよう。そして心身を統括しているのは自我であるから、感情とはつねに<わたし>の感情なのである。
ここで用いている感情という用語は、情念、情緒、気持、気分、情趣、機嫌などといった、思考や意志以外の心の内面の動きを表す、あらゆる言葉を包括したものとしている。思考や意志も、たいていなんらかの感情・情動によって動かされているのであるが、一応機能としては区別できるであろう。通常身体を内的にとらえるとき、五感を別とすれば、なによりも<気分Stimmung>が個人の内面を支配しているであろう。気がのるとか、のらないとか表現されるように、 気分がいわば感情のdefault状態であるといってよかろう。この気分をかきたてたり、乱したりすることによって、さまざまな感情・情念が発生するのである。ドイツ語ではStimmungというが、ここから感情の具体的な姿が定まっていく(bestimmen)のである。何かをなそうとするとき、その気になるには、なんらかの目標や予定といった観念をかかげるか、あるいはさし迫った用のような強制が、特定の感情を惹き起こして、行為へと鼓舞するのである。あるいは不快感や幸福感が生じるときは、記憶が一方ではネガティヴな、他方ではポジティヴな感情を呼び起こすのである。感情はいわばあらゆる体験や、あらゆる行為の反省的モニターなのである。この感覚や記憶や認識と結びついたフィードバックの機能が、生命体における感情発生の起源なのである。
感情はつねに<わたし>の感情であると述べたが、生命体が行為や体験にあたって、つねに感情とのタイアップを行なっていることから、その主体である<わたし>が同時に私の感情そのものであることは、生命体として当然のことであるといえよう。感情は私の身体が私であると同様に、いやそれらが身体内面の現象であることによって、身体以上に私自身であるといってよい。じつは自我の意識は、基本的に感情から生じるのであるといってもよいくらいである。<われ感じる、ゆえにわれあり>なのである。古代人が魂とか霊魂とか呼ぶものは、この感情と一体化したわれ(自我)にほかならないのである。怨霊などという観念が生まれるのもそこから来ている。実際に感情は生命現象の中でも、特別に生の意欲と結びつくエネルギーであり、形而上学的には<生への意志>そのものの発現であるといってもよいのである。それが行為や体験の反省と結びつくのも、生命活動そのものであるからには当然なのである。
感情はこのようにして身体的自我の主体であるといってよい。それはデカルトの言うcogitoとしての自我とは、どのような違いをもつのであるか。つぎにそれを考察する。
自己意識とは何か
あらゆる行為の起源には、身体内面の心的defaultの状態である<気分>が存在すると述べた。この感情の<初期状態>があらゆる行為・体験・意識の発端であるならば、自我の意識、自己意識もまた気分から生まれるといってよかろう。私が私を見いだすとは、発端において、私の内面の状態に気づくということである。私が私にはじめて気づいたとき、それは這っていた私が初めて障子につかまって立ち上がったときの奇妙な内面の感じであった。それが最初に見つけた<わたし>なのである。しかしその状態においてすでに、私はその状態を私として把握している<わたし>でもある。この私の二重性は、単なる気分に還元することはできない。<わたし>は同時に気分としての私から離れた私でもあるのだ。この自我のDikotomieが自己意識の根源にはあるのである。私は感じる私であると同時に、考える私、あるいは知覚する私、あるいは認識者としての私でもあるのだ。
しかし認識者としての私がとらえる私は、あくまでも感じる私としての私であり、私のとらえる私はつねに私の身体内部を出でないのである。かりに考える私を私が考えたとしても、私の脳内のなんらかの状態を気分としてとらえているに過ぎないのであり(*)、どこかにまったく認識できない私があるわけではない。どこまでもその私を追いかければ、ある不快感、嘔吐さえもよおすであろう。私が認識できるのは、私の気分だけなのである。
(*)古代人は思考の座を脳ではなく心臓においたようである。思考もまた気分の一種だったのである。
私はやむをえず、その見えない私である認識する私を<主観>と呼んだりするが、それは単なる方便である。その主観が私であるなどとは思えないからである。そこで私はあくまでも、感じられる私にとどまるほかはなくなる。私が私を感じるということは、無条件の直観であり、それが身体内現象であり、身体の気分であり、感情であるということだが、それとはまったく別のなんらかの把握があるのだろうか。あるならば、どのような根拠であるのだろうか。デカルトはその根拠を、存在として<疑いえない>ことであるとした。私がある感情にとらわれたり、ある気分の状態にあるとき、疑いえないのはそれらの感情や気分の状態なのか、あるいはそれらと密接にむすびついている私の意識なのか。一方がなければ、他方もないのである。それならば私の感情や気分も、私の存在同様に<疑いえない>のである。デカルトの言う<疑っている私の存在>はどうであろうか。それはいかなる気分でもないと言いうるだろうか。<疑っている私の存在>は確かに私の脳内にある。私はそれをなんらかの気分として感じうる。その気分を排除することが出来るであろうか。<疑っている私>の存在を単なる空虚な主観として、把握することが出来るであろうか。それは単なる思考する私ではないのか。単なる思考ならば、私はどのような空虚な主体にでもまかせることができる。実際、私は意識せずに考えることもできるからである。結局<わたし>は単なるcogitoによってはとらえることができないことになろう。
もし私が<わたし>を直接とらえることが出来るとするならば、そこにはなんらかの感性的な純粋直観がなければならないであろう。それは感じる私のままの<わたし>であり、私が<わたし>として存在することの絶対的根拠となりうるものである。それによって私は初めて身体的自我とは別の、純粋な自我を意識することが出来ることになろう。それは気分としての自我でありながら、同時にその自我に疑いを持ち、あるいはその自我に不可思議の思いをいだく自我である。私がもし私そのものであったならば、私は何故に私を疑ったり、私に不可思議の思いをいだくことがあろうか。このことが自我意識の特異性であるならば、まさにそれによって本質的な自我の存在が保証されているといえよう。私は私の存在に驚くがゆえに、私の存在を見いだすのである。<不可思議であるゆえに、私は存在する。(I wonder, therfore I am)>
自我の肥大
最後に、自我すなわち自己意識の基本が気分にあることから、身体的自我が肥大しやすいものであることに触れて、実践面を考察したい。自我とは気分すなわち感情と結びついた自己意識なのである。そのことから、自我が基本的に自己拡張の欲求を持つことが説明できる。感情は身体としての生命体が、環境との交渉において、自己の保存と種の継続を図るための、あらゆる活動にともなうモニター機能なのであるから、つねに環境に対して敏感に反応していなければならない。特に動物においては、この機能が充分に働かなければ、生存を全うすることができないのである。感覚がアンテナであるとすれば、感覚がとらえたものに対して、すばやく本能的に反応するために、感情が行為の促進作用をつとめるのである。そのことはだれもが怒りの感情において、よく知っているであろう。
自我は感情とともに、世界に進出していくといってよい。自我の範囲は同時に感情の範囲なのである。この感情が率直に発揮されれば、自我はどこまでも拡張していくであろう。反対にこの感情が抑圧されたり、ゆがんだりすれば、自我はそれにつれて萎縮し、満足に発達しなくなる。自我が苦しむのは、自我が感情との折り合いをうまくつけられないからである。自我は拡張しすぎても、この世界という環境において、逆に不利に働くし、あまりに萎縮しすぎては、まともに生きることもおぼつかない。これのコントロールは、自我がいかにしておのれの感情をコントロールできるかにかかっている。おのれの範囲を拡張しすぎないこと、これの実践的方法を、釈迦の八正道にならって述べてみる。
まず自我が感情によって左右されるものであることを知り、おのれの感情を正しく見すえること(正見)。つぎに悪しき感情の原因となるさまざまな観念を遠ざけること(正思惟)。人間社会では自我は言語によって自己拡張を図ろうとする。その言葉によって、さまざまにおのれや相手を傷つけあうのであるから、くれぐれも<口は災いの元>であることを肝に銘じること。言葉によって感情は刺激され、自我はさまざまに苦しむのである(正語)。これらの観念や言葉による感情の刺激を極力抑えるよう、日頃自己を戒め、自己を不用意に主張しないように努めるべきである(正業)。生命体として生きることは、自我にとっての試練であり、環境の中でおのれを養いつつ、他者と極力不和にならないように、調和した人生を設計すべきである(正命)。おのれの過去・現在は悪夢に満ちているとしても、日々わずかずつでもおのれ自身の陶冶に努めて、理想の生活を実現すべく前進し、未来への希望を失わないようにすべきである(正精進)。そのためには、日々、自己を顧み、反省することを怠ってはならない(正念)。これらの行いの最終目的は、感情や欲動によって動かされる心の波立ちを静め、つねに静謐な情念を保てるようにすることである。細かく波立つ海の面も、遠く見はらかせば、なめらかななぎの状態(Meeresstille)にある。感情の波立ちを、はるかに超越した心の平静の境地である(正定)。
凡愚の身として出来ることは、このぐらいのことであろう。極端な自己拡張に走らないこと。とはいえ自己をあまりにも萎縮させてはならないのであるから、自己の範囲を適度な領域におさめておくように努めることである。そのためには自己自身を楽しむということが、大いに必要になる。おのれを豊かにすることは、必ずしも他者や世界に向かって、おのれを主張することではない。他者や世界に向かって不用意におのれを拡張すれば、必ず自我どうしの争いが生じるのである。おのれの範囲を、おのれのコントロールの及ばないところまで、不必要に拡げないことである。これを賢者は<自足>と呼んでいる。おのれ自身において足りることが、幸福の必要条件なのであるが、これを破ろうとするのが、自我の拡張意欲であるから、確かに簡単にできることではない。とりあえず、中庸を心がけるべきであろう。
人生を長く生きるほど、おのれの範囲が無際限に広がっていく。幸福とは結局のところ、自己拡張ではなく、自己縮小のなかにある。欲望が広がるほど、人は不幸になるからである。自己を過度に広げないこと、また自己を不確実なものに向けて広げないこと、最も確実な自己の範囲内で、自己充足を求めることが、幸福の要件であり、また心の平静の生まれてくる必要条件でもある。 |
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2021年12月22日(水) |
見ることよりも作ることを |
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ホモ・ファーベル(*)という言葉がある。人間あるいは生命体は、単に受動的に感覚を働かせることで生命を維持しているのではなく、物もしくは環境に積極的に働きかけることによって、自己保存および種の持続を果たしているのである。これは生命体特に動物のあらゆる行為に関していえることであり、とりわけ人間においては、それが意識において顕著な現われ方をする。単に見たり聞いたりするだけでは、人間は根本的な満足を覚えないのである。単なる経験は、それがなんらかの行為の形成へといたらなければ、単なる受動的知識でしかないのである。経験的知識が、なにかを形成するもととなって、はじめて生命体にとっての活動のよすがとしての意味と価値を持つのである。
卑近な例では、退屈ということの心理を考えてみるのがよかろう。単なる受動的感性では、知識も音楽も絵画も、結局は見飽きたり、聞き飽きたり、知ることに倦んだりするであろう。このアンニュイの原因は、それらの受動的経験が、生命体の内部にとどまって、なんらかの積極的行為へと導くことがないからである。生命体の行為とは、つねになんらかのものに作用したり、環境に働きかけたりする、いいかえれば生命体に関係する物事を変化させようとする意欲なのである。これを<作ることの意志>といってよかろう。生命はつねに、変化のない退屈を嫌うのである。それは生命自体が、つねに変化する存在だからである。その変化には変化をもって応えるほかはないのである。それが生命体ひいては人間の行為の本質である。それを<作る人>というわけであるが、<見る人>に対峙する、生命体である人間にとっては、より本質的な存在のあり方であるといえよう。
人間の行為は、たとえそれがどんなにささいな日常的行為であっても、つねになんらかの創造行為であるといえよう。生命活動を行うかぎりは、ひとはなにかをつねに作り出しているのである。作り出しているかぎり、ひとは退屈することがない。たとえそれが習慣であっても、日々くり返すということは、日々行為を生みだすということであり、行為しているかぎり、退屈に打ち勝っているのである。日々同じものを食べていても、食事に飽きることがないのは、食事が心身のエネルギーを生みだす行為であるからだ。それが生命体の必然であるからだ。心身の必然に従うとき、ひとは<作る人>となるといえよう。
生命体の行為の本質が<作ること>であるならば、単に人間の社会的<生産>ばかりでなく、あらゆる生命活動が、作ることによって支えられていることになる。生命は創造者なのである。このことの、人間の思索や意識に及ぼす影響は圧倒的であろう。なによりも、人間はこの世界や宇宙を<創造>されたものと見なすのである。生命や人間が作るように、なにものかがこの宇宙を造ったものと見なすのである。この造物主を人間は<神>と名づけている。ものはあるがままに、つねにあるのではなく、人間がものをつくるように、なんらかの仕方で作られたと見なすのである。もしそうならば、神は退屈する存在であることになろう。ただ存在し、見るものであることに満足できないのである。
人間はまた、まったくの受動性に身をおく、<見る人>になりうることもたしかである。あるいはそうした可能性を備えていよう。そうした純粋な見る立場においては、この宇宙は永遠不変であってもよいであろう。そのためには、ひとであれ神であれ、もはや作る存在であることをやめなければならない。すなわち、生命界を超越していなければならないであろう。そうした存在であるならば、もはやアンニュイにおそわれることもないであろう。そうした神は、この宇宙を造る必要すらないのである。宇宙があるならば、宇宙はあるがままに、永劫の過去から永劫の未来まで、不変不滅のままにあるであろう。ビッグバンもインフレーションも、進化も創造もないのである。生命もまた、そうした見る存在においては、単なる静止したモザイクに過ぎないであろう。
このような超越界に身をおくことができないかぎりは、ひとは作る人として、生命界に甘んじるほかはないようだ。ただ、生命体である人間は、生命であることによるさまざまな<認知バイアス>にとらわれていることを、つねに心しているべきであろう。
*homo faber:「作る人」の意のラテン語で「工作人」と訳される。フランスの哲学者
H.ベルグソンの言葉。 B.フランクリンがすでに,人間は道具をつくる動物と規定していたが,ベルグソンは人間の本質は物をつくりおのれを形成する創造活動であるとして,ホモ・ファーベルと規定。(ブリタニカ国際百科より)
M.シェーラーのラテン語の造語で,〈工作人〉と訳す。ホモ・サピエンス(新人)との対比で,人間を他の動物から区別する本質的規定を,道具を作り,使用する点に求める人間観を要約している。(マイぺディアより) |
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2021年12月8日(水) |
ニルヴァーナと神の国 |
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宗教者の中で、ゴータマ・ブッダとイエス・キリストの二人は、特別な存在であるようだ。彼らの人生を、歴史的・人間的に理解することは、凡愚の身であっても比較的容易であろう。釈迦の人生は、優れた人物の苦悩と成長と博愛の道筋であることは、だれにも共感を持って理解できるであろう。しかし彼の人生の一点において、大抵の人間には理解不可能ななんらかの宗教体験が、彼を特殊な人物としているのである。苦行の果ての中道の悟りにおいて、彼は菩提樹下で、ある特別な心的境地に達したとされる。それについては、大抵の釈迦伝は、成道したとか、仏になったとか、生死を超えた境地に達したとか、思わせぶりな表現におちいるのがつねである。ゴータマ・ブッダを唯一通常の人類からへだてるものは、このいわゆるニルヴァーナの境地一点なのである。ここで大抵の人間は、釈迦という人物に対して<つまずく>であろう。すなわち不審にとらわれるであろう。
このニルヴァーナについては、釈迦は同時にこの世界の真理を悟ったとされる。しかし悟りの結果生まれた<法>である、苦集滅道や八正道は、それ自体は実践の指針として、なんら理解の困難なものではないとしても、この悟りそのものがいかにして<生死を超えた>境地となりうるのか、その合理的理解が少しも伝わらないのである。ニルヴァーナとは何であるか、これは釈迦一人知るものであって、決して余人に伝えることのできないものであるのだろう。法を頼りに<犀の角のように一人歩んで>、みずから体得する他はないものなのであろう。それは本来合理的に思考できるものではないのである。そのもどかしさが、つねに仏教の悟りにはともなうのである。それをただ単に、ストアなどのギリシャ哲学の<心の平静アタラクシア>などと解したのでは、ブッダはただの賢者でしかないであろうし、生の苦悩の根本的超越とはほど遠いであろう。
はたしてこの生死を超えるということは、物理的に可能なのであろうか。人間が生命体であり、生命体は物質の産物であり、さらには生命体独自の世界構成を行うものであってみれば、生死とはきわめて人間的、あるいは生命体の見地からする、世界の見方であるといえよう。人間は、すなわち生命は、いわばこの世界の根本原理をシミュレートした<仮想現実>を創りあげているともいえるのである。すなわち生命体である人間にとって、この世界はある種のフィクションなのである。生死もまたこのフィクションに属するとすれば、このフィクションそのものを見破りさえすれば、もはや生も死もないことになろう。このことを見抜くなんらかの能力が人間に具わっているならば、ニルヴァーナは現実的な根拠を持つことになろう。それはしかし単なる理性ではなく、この世界の根源を洞察し、その虚妄を見とおすなんらかの心的能力なのである。もちろん凡愚の身にそれが具わっているわけではなく、たとえ具わっていても、生の迷妄にとらわれているかぎり、その能力を発揮することはおぼつかないのである。
イエス・キリストの生涯は、大工という職人の家に生まれ、一般庶民と近い生活をしていたのであるから、民衆の苦悩に対して深い同情心を持っていたことは、だれにも共感できることである。当時のユダヤ人のおかれていた政治的状況と相まって、メシア(救世主)思想が彼をとらえたことも、ごく普通のことであろう。彼がまた、権力や暴力を嫌い、穏やかな生き方を信条としたことも、それが彼の性格であるかぎり、特に際だったことではなかろうし、そうした生き方をした人間は他にも多くいたであろう。彼の生き方が単に生活の信条にとどまったならば、彼はごく普通の人間であったはずである。彼が<神の国>について語りだすまではである。彼が神の国について語りだすとき、大抵の人間は不審にとらわれだすであろう。たとえ神の国に入るには、駱駝が針の目を通るよりもむずかしいとしても、そもそも神の国とはなんなのであり、どこにどのようにしてあるのか、大抵の者はいぶかるであろう。しかもこの神の国のために、彼は進んで自らを苦痛と屈辱の磔刑へと歩ませたのである。
イエス・キリストは奇蹟を行なったとされる。ある種のシャーマン的素質の持主であったことは確かであり、いわゆる超能力の持主であったようだ。シャーマンはこの世界と<あの世界>との二重の世界を生きており、その両世界を交通することによって、常人には見いだせない情報を獲得する。神の国が単なるシャーマン的異世界であるならば、理解できないこともないであろう。普通人であっても、時には特殊な精神状態で、異世界に紛れこむことがあるからである。しかしシャーマン的異世界は、生命界と密接に結びついており、いわゆる無意識の領域でのなんらかの現象なのである。生命体としての人間の根源的構成に基づく、現実的な効果を持つなんらかの機能の現象なのである。しかし<神の国>はそれらの無意識界や生命界の心的現象をも超えた、なんらかの超越的世界である。そのような世界は、そもそも存在するのであろうか。
この世界・宇宙の根源は、実は生命体としての人間が意識し、考えるようなものではない可能性が、きわめて高いであろう。なんとしても、生命体が生みだす世界像は脳の産物なのであり、脳は生命が数十億年かけて作り出した極めて精緻な<表象装置>なのである。この表象装置を外れて、思考することも想像することも、感じることも意志することも、生命体としての人間には不可能なのである。そのような装置の生み出した世界が、このいわゆる<現実界>なのであり、その実はある種の仮想現実なのである。人間の脳は、この世界をある原理に基づいてシミュレートしているに過ぎないのである。その仮想世界が、大抵の人間にとっては、必然的に全宇宙であり、全世界である。そこには神の国はない。神の国はより根本的な世界にあるのである。それをイエスは洞察できたのであろう。
ニルヴァーナにしても、神の国にしても、その世界を洞察するためには、人間自身の中になんらかの認識の能力がなければならない。釈迦とイエスにはそれが具わっていたのであろう。すべての人間にそれが具わっているであろうか。たぶん動物レベルの大多数の人間には、具わっていなかろう。たとえ具わっていても、生の迷妄にとらわれていては、永遠に発揮できないであろう。なんといっても、生は苦痛と苦悩に満ちてはいても、同時に生命体にとってはこの上なく魅力的であり、その表象世界もそれなりに心地よいのであるから。生命体にとって、生命がすべてなのである。その生命体が、おのれ自身を超越する能力を、心的機能のどこかに潜めていることは、不思議な矛盾であるが、それが神の国、すなわち本質の世界からの呼びかけであるならば、この仮想現実の世界にも自己救済の可能性があるということになろう。 |
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2021年12月3日(金) |
コレスポンデンスについて |
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La natur est un temple ou de vivants piliers
Laissent parfois sortir de confuses paroles;
L'homme y passe a travers des forets de symboles
Qui l'observent avec des regards familiers.
Comme de longs echos qui de loin se confondent
Dans une tenebreuse et profonde unite,
Vast comme la nuit et comme la clarte,
Les parfums, les couleurs et les sons se repondent.
Il est des parfums frais comme des chairs d'enfants,
Doux comme les hautbois, verts comme les prairies,
-Et d'autres,corrompus,riches et triomphants,
Ayant l'expansion des choses infinies,
Comme l'ambre, le musc,le benjoin et l'encens,
Qui chantent les transports de l'esprit et des sens.
(Charles Baudelaire : Corrrespondances)
[自然は神の宮にして、生ある柱
時おりに 捉えがたなき言葉を洩らす。
人、象徴の森を経て 此処を過ぎ行き、
森、なつかしき眼相(まなざし)に 人を眺む。
長き反響(こだま)の 遠方(おちかた)に混らうに似て、
奥深き 暗き ひとつの統一の
夜のごと光明のごと 広大無辺の中に
馨(かおり)と 色と 物の音と かたみに答う。
幼童(おさなご)の肉のごと鮮やかに、木笛(オオボア)のごと
なごやかに、草原のごと緑なる、薫りあり。
――あるは、腐れし、豊かなる、また ほこりかの、
無限(はてなし)のものの姿にひろがりて、
龍涎(りゅうぜん)、麝香、安息香、焼香のごと、
精神(こころ)と官覚(にく)の法悦を歌える、薫り。
シャルル・ボオドレール「交感」(鈴木信太郎訳)]
人類の思想は、古来から人間自身とのなんらかの照応において、この世界をとらえてきたといえる。その典型は、人間の身体を宇宙の構造と照応させることであり、いわば宇宙を人体化してとらえるのである。最新の科学においても、人間の脳の神経細胞の組織と、宇宙の大規模構造との、網目模様の類似から、宇宙はある種の脳なのではないかという想像さえされている。単に見かけのことに過ぎないのであるが、人間が世界を理解するに当たって、自己自身に類似したものに注目しやすいのは、昔の人類ばかりでなく、今の科学者も変わらないようである。そもそも宇宙にはダークマターやダークエネルギーといった、いまだ不可知の存在があるのであり、脳内の機能にもそのような物質やエネルギーを仮定しなければ、厳密な照応は成り立たないのである。
それにしても、人間の認識能力は、生命体としての機能によって制約されており、言ってみれば生命としての身体の都合に合わせた世界像をしか、生みだすことが出来ないのである。理知とか直観とかいったものも、すべて身体の機能であり、科学の対象である<物質>とは、まさに人間理性(すなわち脳髄)がとらえた宇宙像そのものにほかならないのである。そうであるならば、宇宙が人間の身体に似ているように思われるのも、まさに自己自身という鏡に、世界を映し出しているに過ぎないからである。
宇宙がある種の生命体であると考えたり、あるいはヘーゲルのように人間理性がそのまま宇宙の絶対原理であると考えたりするのも、すべて生命体の都合のよいように宇宙を理解し解釈しようとする、人間あるいは生命中心主義なのである。人間はそのように世界を考え、表現することしかできないのである。であるならば、あらゆる認識・思考・直観は、絶対ではありえない。いわば人間が生命体として唯一知る自己自身に鑑みて、宇宙を理性とかイデアとか意志とか物質とか生命とか名づけて、比喩的に、象徴的に解釈しているだけなのである。その意味で、人類は古来よりコレスポンデンスの思想を脱け出すことができていないのである。
それでは、人間は人間自身を離れてこの世界、宇宙を理解できるであろうか。これは原理的に、人間の持たない認識能力を前提とすることであるから、全く不可能であるといってよい。人間の探究する宇宙は、どこまで行っても人間の認識能力の範囲内に限られるのである。孫悟空が釈迦の手のひらを、宇宙のすべてと思ったようなものである。生命体である人類は、認識能力においては、どこまでいっても<物質>以外は見いだせないのであり、生命体・人類にとって物質がすべてであり、世界は物質以外の何ものでもないのである。その物質について、理性とか生命とか霊魂とか、さまざまな名称を与えても、所詮<物質>の原理を窮めているに過ぎないのである。
以上のようなことから、世界の本質は<不可知>であるとするのが、不可知論者や懐疑論者の説くところである。この不可知については、実のところ人間の理知が知ることができないものについて、はたしてそれを不可知であると断定することができるのであるかどうかが問題となろう。もし不可知であるとわかっているならば、それは人間理性の範囲内にある。それは相対的な不可知だからである。認識能力しだいで、それを克服することすら可能であると考えられるからである。そもそも認識者であること、認識そのものを前提とすることが、不可知または不可知者を相対化してしまうのである。もし宇宙に認識というものが存在しなければ、宇宙は不可知でも可知でもないことになろう。そのような宇宙は、そもそも認識者にとっては、絶対の<無>という他はないのである。禅では<空をさらに空とする>という発想があるようだが、不可知そのものを不可知とすれば、宇宙にはもはや何ものも残らないであろう。
宇宙は神の自己認識であるというロマン派哲学の思想は、宇宙の本質(神)を認識に求め、可知化することによって、典型的な人間・生命中心主義の形而上学であった。このように相対化された世界(神)は、人間にとって心地よい世界像をもたらしはしても、世界の本質からはほど遠いものであろう。人間が生命体にとって都合のよい認識にのっとって世界を探究する限りは、世界は可知すなわち自己認識でなければならないのである。世界の本質は、実のところもっと不気味な存在である可能性が高いのである。それが不気味であるのは、あらゆる認識から切りはなされているからである。認識とは生命体のいとなみであり、認識なしには生命は存続しえない。認識こそは生命の本質なのである。この認識は科学では相互作用と称される。仏教では<相依(そうえ)>と称している。この存在者の相互依存の関係こそが、あらゆる認識の源であり、コレスポンデンスそのものなのである。世界は生命体にとって、そのように創られているのである。生命体そのものも、その世界の<産物creature>として認識されるのである。
このような<相依>の世界は、仏教では<空>とされる。相対的な認識からなる世界は、世界の絶対的本質ではないのである。では絶対的本質は、どのようにして認識の対象となりうるのか。すでに述べたように、認識の範囲に属さないものは、認識の対象とはなりえない。認識の範囲にないものが、どのようにして有るとか無いとか言いうるのか。実のところ、空であれ、絶対の無であれ、有るとか無いとかの判断のレベルを超えているのである。認識に対して超越的なのである。しかしそうした超越論的判断ですら、もはや下すことはできないであろう。なぜならば、認識の立場を超えることは、いかに超越論的であろうとも、認識を超えた立場には適用できないからである。結局、空や絶対無に対しては、絶対的な判断停止(Epoche)以外にはないのである。判断停止することによって、究極の無に達するほかはないのである。これが釈迦の説く空の実践なのであろう。 |
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2021年10月27日(水) |
不可知者について |
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意識にとって知るということはどのような意味であろうか。例えば光について、それが波動であり、粒子であり、光量子であることをもって、光についての知識をもつというであろう。しかし、意識が知る光とは、明暗と色彩と広がりとをもった、直接の存在である。波動であれ、粒子であれ、そのようなものを直接に意識においてとらえることはできないのである。この違いをはっきりさせるには、知るということと、所有することとを、関連させてみるのがよいであろう。光が波動であれ、粒子であれ、それについて知っているということは、私が光量子を所有しているということではない。それに対して、私の眼前にあらわれているこの光の世界は、私の意識に固有のものであり、それを私のものといってもよいのである。私が意識において直接光を知るとは、それを私に所属した、私のものとしているからである。単なる波動や粒子のような概念は、私の意識から独立しているのである。同じことは、意識においても、明暗や色彩の違いや、空間的広がりについても言えるであろう。私が純粋にに所有する光の知識は、そのつど現われる、なんらかの明るさとしての光そのものである。私は意識においてそれと一体化することによって、それが私の所有物であるといえるのである。
私が純粋に知るのは、ただそのようなものとしての私の意識の内容だけである。そのほかのものについては、はたして私は何を知っているだろうか。光が波動であり、粒子であるということは、ただ科学論理的にそれを信じるほかはないのである。もし信じなければ、そのような光はたちまち<不可知者>としての不気味な相貌をおびるであろう。そのような概念としての光が、どのようなものであっても、決して不思議ではないからである。意識としての光が明暗や色彩の違いや空間的広がりを持つということも、それらの知覚は光の質や形態の知識であり、すでに物体に現われたものとしての概念を前提としているのである。しかし物体とはすでに一つの概念であり、それが何であるかについては、その本質について、私は直接的には何一つ知らないのである。明暗や色彩や空間的広がりは、不可知の物体において現われた、なんらかの<現象>にすぎないのである。私は明るさや、色彩や、空間そのものについては、それらが何であるかについては、一切知らないのである。その知らないことが、私が意識において直接知るということなのであるから。
感覚における光一つをとっても、意識の立場からは、たちまち不可知者に行き当たってしまうのであるから、その他のもろもろの現象、そもそも物質やエネルギーについても、一体私は何を知っているのだろうと、自問することができよう。感覚以外に、私が意識において直接知っているのは、この私の身体現象において、さまざまな情念や意志やら思考やらがうごめくことである。思考はまだしも、この私に密着しているようではあるが、情念や意志とは、一体何ものなのであろうか。この私の身体は、すでに物体化しており、それが異様な存在であることは、それについて直接知ることはできないことは、あらゆる概念的、客観的知識と同様である。私の足や手といっても、私はその動きのメカニズムや機能については、何一つ直接知るところはないし、かりに知ったとしても、それが究極的真理である保証はない。究極的には、手も足も、そもそも身体は、客観物として不可知者なのである。
かりに身体というものを無視するならば、そもそも直接的知識であると思われている私の情念や<意志>とは何ものなのであろうか。ある情念が生じるならば、それについて私が知るのは、それが<私>の情念であるということだけではないか。私の意識、私の思考を、私は疑うことはできないが(この点はデカルトを信じてよかろう)、私は私の<情念>や<意志>なるものを疑うことはできるであろう。はたしてこの情念、この意欲すなわち意志の動きは、私から生まれるものなのであろうか。つまりこの情念、この意志は、私そのものといえるのであろうか。こうした疑問が生じるのは、すでに客観的に、脳科学の知識として、意志というものが、すなわち意識的判断が、脳内で意識以前に決定されているという事実があるからでもある。私がこれほどよく知っていると思っている、私の情念や意志が、実は私の知らない暗黒の中で生まれ、私自身の行為をあやつっている、ある不可知の力なのだという疑念が強く生じるのである。その時、意識は途方もない無力感と苦悩にさいなまれることになる。
私がもはや私の情念や意志を信じられなくなるとき、強烈な無力感と絶望感におそわれる。私が対峙しているのは完全なる<不可知者>なのだ。私の意識は私自身から乖離して、そこに私ではない不気味なものを見つめることになる。私の精神はその強烈な圧迫感に耐えられなくなり、それに応えるようにして、嘔吐をもよおす不気味な暗黒の情念がのたうちだす。それが胸の悪くなる狂気の発端であることがわかる。私は急ぎ想念をそれから逸らさねばならない。私は狂気というものの正体を見届けたのであるから、それの犠牲となることを避けねばならない。人間が不可知なものを可知としなければならない理由がここにあるのである。私の意識とはいかにもろいものであるか、それを狂気が証明するのである。
意識は理性を唯一の頼りとしているが、その理性の光の及ばない暗黒をまのあたりにする時、もはや何の支えもなく、暗黒の情動の中に飲みこまれるほかはない。これが人間の狂気の正体である。この宇宙の根源にある<不可知者>が、万物を動かし、人類を動かし、個人の運命をつかさどっているのである。人間は正気でいるためには、そのことを強く意識してはならないのである。私の意志は私のものではないのであるから。私の意識は目を理性に向けることにより、あたかも理性が私の意志を導くかのように行為するほかはないのである。そもそも知ることが不可能であるものを、知ろうとすることが理性の惑わしであり、あえて知ろうとしないことが、理性のまっとうな使い方、いわば精神健康でもあるのだ。 |
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2021年10月20日(水) |
文学とは何か |
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小説・詩歌・戯曲といった、<文学>と称するものについては、その形式や技巧や構成や表現法やの問題が、いわゆる文学論や文芸批評の中心課題とされることがほとんどであろう。そもそも文学が何故にこの世に存在し、人間がそのようなことを営む本質とは何であるか、を問うことはまれであろう。そのことは文学を創る側にも、享受する側にも、ともに言えることであり、何故に創作者がおり、その作品を求める受容者がいるのであろうか。文学の本質を探究するには、そもそもの文学の人間世界におけるありようを、究明しなければならないであろう。
需要があって供給があるのは、文学の世界も同じである。では文学を営むとは、どのような需要に基づくのであろうか。ここで文学と、単なる<情報>とを区別する必要があろう。情報の根源は、言語の使用にあり、言語は根本において、情報交換の一つの人間的手段にすぎない。伝えあう知識やニュースがあるから、そこに情報交換の必要が生じる。情報は正確であること、緊急性のあるものを優先することなど、情報独特のありかたが要求される。さらには情報がコントロールされることによって、欺瞞やデマなどということも生じてくる。情報の中心を成すものは<事実>であり、それをめぐってのかけひきが、情報の明暗をなしているのである。情報自体は、事実を中心とする以上、ノンフィクションであれ、デマであれ、操作された報道であれ、文学とは別次元の、人間社会のいとなみであるといえよう。情報を判断する基準は、ただ一つ<事実>であるからだ。その点で、情報は、一般の学術と通じるところがあり、学術的な批判が可能なのである。
文学は、情報と同様に、言語に基づくものではあるが、情報のように必ずしも事実に基づく必要はないのである。事実を伝えようとするならば、それは単なる情報であって、事実以上でも以下でもない。それでは、人間は事実以外の何を伝えようとするのであるか、あるいは何を伝える必要があるのであろうか。それを知るには、個々の文学ジャンルを見ていくのがよかろう。詩歌は、特に伝えねばならない客観的事実を伝えるものではなく、そこに言葉にされるものは、心情的共感にすぎない。単なる共感は、事実的世界を超えている。たとえ事実について語っても、それが引き起こす心情的反応が、詩歌の本領なのである。場合によっては事実を歪め、主観的偏見へと導いてゆく。そこにはある種の現実否定が働いているのである。叙事詩のような物語詩においても、物語が事実である必要はないのであって、創作者や聞き手の主観に彩られた、事実の脚色や、改変がおこなわれるのである。その意図する効果は、やはり心情的共感であり、さらには興奮である。戯曲も、基本的には叙事詩と同じであり、それが舞台で演じられることによって、事実の見せかけを持つとしても、その効果は、アリストテレス言うところの<カタルシス>であり、やはり心情的満足なのである。小説は叙事詩から生まれ、その発展であるから、叙事詩について言われうることが、すべて当てはまるであろう。
以上を要するに、文学とは事実を超えた、非現実における感動を求めるものであると言うことができよう。この非現実、もしくは反事実における感動、または心情的満足を求める要求は、人類に本質的なものであると言えよう。これを言い換えれば、文学とは<逃避>の願望を本質とするものである。これに対する反論として、リアリズム文学や自然主義の文学は、この定義には当てはまるまいとされるであろう。リアリズム文学がある種の<理想>であることはだれもが知っている。客観的事実などはどこにもないからである(*)。各人がおのれの知っている事実を伝えるだけである。もしそれに徹底すれば、それは文学ではなく、情報となることはすでに述べた。もし事実の集積を文学として提示するならば、それはすでに文学であることによって、ある非現実性を帯びてくるであろう。それは自然主義文学の実験したところである。日本の自然主義のように、個人の内面や、外面の生活を忠実に報告したとしても、そのような切り取られた現実は、現実そのものではない。現実は作家と作品との関係の中にあるからである。作家は文学の中に逃避しているといってもよいのである。
(*)アルノー・ホルツの作品は、徹底したリアリズムが、個人の主観的アスペクトにすぎないことを明らかにしている。ゾラの小説にしても、物語性や構成が事実性にまさっている。自然主義ではないが、ビアスの「月光の道」や芥川の「藪の中」やカフカの小説は、客観的事実(真実)というものがいかにとらえ難いものであるかを、文学的に表現したものである。
文学者は自らの作品の中におのれの逃避願望を充足させ、読者は文学作品の中におのれの現実逃避の願望を充たす世界をみいだし、享受する。供給、需要、いずれの側も反現実、逃避願望において共感し、そこに文学の存在理由があるのである。その根底には、人間は本質的に現実逃避傾向を持つということがある。人間は人間であることに満足できない存在である、と以前に定義したことがあるが、このことの根本の理由は、人間は想像する存在であるということがあろう。人間は想像や空想によって、現在を超え、事実を超え、希望や願望に生きることが出来るからである。事実とは単なる現在の出来事であり、それの過去における記録にすぎないが、それに彩りを与え、改変し、さらに理想化することにより、人間は現実を超越するのである(**)。この超越願望が文学の根底にあるのである。あらゆる文学は、現実からの<逃避>の願望なのである。
(**)この典型的な例を、芭蕉の「奥の細道」で、明瞭に見てとることができる。曾良の「旅日記」は事実の記載であり、<情報>に属する。それは芭蕉が実際の旅をどのように脚色していったかを知る、貴重な文献である。芭蕉の<文学>は、事実の多くの部分を切り捨て、理想とする文学世界を創作したのである。芭蕉の<逃避>する先は、過去の文学的幻影であり、これはまた日本の古典文学の基本的態度でもある。いわば幻影の幻影、倍化された幻影の世界への逃避である。
文学は必ずしも、逃避にふさわしい快適なものとは限らないではないか、と反論されよう。どんなに不快や恐怖の文学であっても、現実のそれらを超えることは決してないのである。アウシュビッツや震災の悲惨を、どのような文学も表現できないであろう。もし表現したとしても、はるかにマイルドであり、それらを読むものがかえって<いやし>を覚えるならば、その人の現実そのものがそれなりに悲惨だからであろう。ファンタジー漫画を描く小学生が、好んで主人公をいじめにあわせるのも、現実はさらにひどいいじめにあっているからであろう。所詮文学は逃避なのであり、窮極的救済はそこには求められないのである。
事実は知識の世界に属するが、文学は知識とは無縁であり、基本的に心情的満足といやしを与えるに過ぎない。文学からは、この世界の事実に関しては、たいしたことは学べないのである。アナトール・フランスは人生のすべてを書物から学んだ、と述べているが、人生のすべてを文学から学ぶとしたら、その人の一生は不幸の連続であろう。同じ書物でも、事実に忠実な書物と、文学書とでは、まったく別の世界と考えてよいであろう。若いころは文学によって逃避した人も、年をとれば、事実により惹かれるようになるであろう。しかし逃避の傾向は変わらないであろうから、なるべく世の中の世知辛い事実よりも、広大な宇宙や歴史に目を向けることであろう。逃避願望が生じるのは、所詮人間社会での宿命であるから、出来るかぎり人間社会から離れた、物質界の事実に、想像と空想をおもむかせることであろう。文学のような作り事ではない、<真理>への逃避願望がそこに生まれるであろう。逃避文学の権化といってよいエドガー・アラン・ポーが、その生涯を<ユリーカ>でしめくくったのも、その典型であろう。
* * *
(以下10・21)
上の文章をある人に読んでもらったところ、次のような批判を受けた。文学は<逃避>ではない。逃避とは臆病な人間のすることであり、文学者はすべて臆病者でも、逃避者でもなく、そうしたネガティヴな言葉を使うべきではないと。逃避(escapism)を筆者は、たしかにネガティヴな意味で用いているが、ネガティヴであることはなにも悪いこととは思わないのである。勇敢であるよりも、むしろ臆病であることが、エゴイストにふさわしいと思っている。臆病はむしろ、褒むべき態度なのである。それはそれとして、ここで逃避といっているのは、この世界の現実に満足できない態度のことであり、それが積極的であれ、ネガティヴであれ、現実を超えようとする願いもしくは意志において、それを逃避と呼んで悪いことはなかろうと思うのである。理想主義者は現実を変えることを夢想し、未来に希望をかけ、すなわち未来の想像に逃れるであろうし、ペシミストは「いずこなりともこの世の外」への脱出を夢想するであろう。
動物は徹底した現実の中に生きており、もし知性があれば、現実主義を標榜するであろうが、主義以前に、現実的生活は、あらゆる生命体の基本的実存(Existenz)のあり方なのである。この基本的実存を、想像力によって拡張し、過去と未来を意識の場とするのが、人間的実存なのである。それだけであるならば、人間は文学もいらないし、逃避の必要もないだろう。事実を、過現未にわたって拡張しただけのことであるから。人間はしかし、過去・未来への意識の拡張を、現実存在の不安定によって行っているのである。動物のように安定した現実存在に生きているわけではない。セネカの言うように、過去は現在よりも確定しているだけに確かなのだ。現在は不確かであり、未来はさらに不確かである。それは<事実>を確定的にしようとするかぎり、決して実現できない存在の不安定なのである。
なまじ想像力に恵まれたことによって、人間は現実に充足することが出来なくなったのである。現実存在の不安定は、単なる事実によっては克服できない。事実そのものが、究極的に確定できないものであるからだ。自然科学やその他のもろもろの客観性を標榜する科学は、事実の窮極的探究の可能性を目指してはいるものの、いずれその限界に気づくであろう。宇宙の全情報量は、人知の可能なあらゆる手段による全情報量を凌駕することが、科学者自身によって明らかにされている。宇宙は根本において<不可知>なのである。科学によっては、すなわち単なる情報によっては、人間的実存を超越することは不可能なのである。もし超越が可能であるならば、それはなんらかの想像力による抜け道のほかにはないのである。それを人類は、<文学>において追求してきたのであるといってよかろう。それは<逃避>以外のなにものでもないのである。
今ひとつ批判されたことは、文学が追求するものは、逃避などというネガティヴなものではなく、精神的<価値>と呼ぶべきものではないかということである。事実には確かにそれなりの<価値>があり、それを否定することはできないが、それと並行して、事実とは違った精神的<価値>もしくは<真実>というものがあるのであり、それが文学の本質ではないかということである。たしかにそうしたものがあることは認めねばならないが、その場合精神的価値なるものは文学に限らず、あらゆる精神的営みに伴うものであり、すなわち哲学や宗教や、もろもろの学問にも当然精神的価値があり、文学独自の本質とは言いえないであろう。そのうえ精神という言葉は非常にあいまいであり、文学では中心的な心的状態である情念や心情や共感といったものが、どこまで<精神>に属するのか、また残酷や恐怖や肉欲の描写が精神的価値といいうるのかどうかという、疑問も起こるであろう。たしかに文学があつかうのはある種の<価値>ではあるが、その価値の性質と本質をここでは問題にしているのである。
筆者は文学の本質に逃避という、いわば挑発的な言葉を使ってみたのであるが、何事も楽天的、積極的であることがよいとされる社会的風潮に、人間の本来の存在のあり方をもって応えただけである。生への意志は本来衝動的、暴力的であるが、それへの反省はつねにネガティヴで、抑制的になるのは、知的生命体の必然であるといってよい。その知的生命体のあみだしたものが文学であるから、一方では文学は生への意志をかきたて、他方では生への意志を沈静させる。怒りで始まるイリアスが、哀感でもって終わるのである。ヒューマニズムの存在しない世界で、ヒューマニズムの可能性を開くのである。この現実を超える機能が、文学の本質といってよいのである。それを理想といってもよいが、その本質はあくまでも現実逃避なのである。あるいは逃避がいやならば、現実の超越といってもよい。文学は現実超越の世界である(***)。
(***)この現実超越の態度は、通常は作品と作家の人生との乖離となってあらわれる。一例として、Landorの"Finis"に関して、福原麟太郎は次のように書いている。
「ラムの時代の文人Landorに"Finis"と称する小詩がある。
I strove with none, for none was worth my strife,
Natur I loved and, next to Nature, Art:
I warm'd both hands before the fire of life:
It sinks, and I am ready to depart.
われ人と争いしことなし、争うに足る人なかりしなり。
自然をこそわれは愛しき、自然につぎては芸術を。
われ、人生のいろり火の前に両手をかざし、温めき。
火はおとろえぬ。さらばわれも立ち去らんかな、やがて。
この四行はまことになだらかに平和な心境を示していて、実に愛すべき小詩である。私はこれを、まとまった一つの生活組織をもった作品として、傑作に数えることを躊躇しない。しかるに、詩人Landorその人は、一生涯がみがみ人と争った人で、決して、「われ、争いしことなし」などと言えたわけのものではなかった。それを考えると、この詩はまた別の光において解釈しなければならないかも知れない。」
(「英文学研究法」p.42) |
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2021年10月14日(木) |
感覚的世界との交渉 |
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少年の頃、天文知識にひかれたのは、本で読んだことが実際に天体として、目や望遠鏡によって確認できる楽しみが大きかったであろう。単なる頭の中の観念的知識ではなく、外界における感覚的対象において、直接経験できるということが、大抵の自然科学の魅力であろう。長じて、自然科学から離れたときも、この直接体験の要求は、あらゆる方面に強く影響したようである。小説や詩などは、確かにそれ自体で心の満足やなぐさみを与えたが、そこに欠けているものが、つねに漠然とした不満としてともなった。つまり、文学を味わうにしても研究するにしても、文学以外の外にでることができないのである。すなわち単なる内的経験にとどまって、感覚的体験を満たされることがないのである。観念や想像力がいかに強力に働いても、そこに感覚的体験の喜びはないのである。これは、とりわけ社会的関係において、きわだった体験の欲求となって現われてくるのである。子供のころ、周囲の社会環境から疎外されたり、仲間はずれにされたり、いじめにあったりすると、感覚的な社会体験がうしなわれ、単なる観念や空想で代償するには、あまりにも大きなプレッシャーとなって、心身をむしばむのである。これは親や教師などには想像もできない苦悩である。最初の絶望感はこのようにして生まれ、精神を病むことになる。あるいは自殺におもむくこともあろう。
物質界であれ、社会環境であれ、単なる知識はそれらの感覚的体験にとってかわるものではなく、知識はむしろ感覚的体験によって充足されるべきものである。感覚的体験の不足を、単なる知識や観念や想像や空想によって代用することは、結局感覚界からの報復を受けることになるのである。待っているのは空虚感であり、アンニュイであり、人生の虚無感である。かといって実際の人間社会やこの物質宇宙が、究極において価値あるものであるかどうかは、また別の問題であり、世間に精通した人間が、幸福であるとは限らない。定年後において、人生の無意味さを感じないとは限らないのである。しかし感覚的経験は、多くするほど欲求不満からまぬがれるであろうし、経験は人間を賢くする機縁である。感覚的経験と想像力、この両輪の上に、世界や人間に関するまっとうな思索が可能となるであろう。単なる思索のための思索は、えてして感覚的経験を欠いており、やはり経験の代用としての思索にほかならなくなるであろう。
生命体としての人間は、感覚的充足なしには存在しえないのであり、これが基本的に<経験>なるものの本質なのであり、人間のあらゆる営みは、つねに感覚的充足を求めて行なわれるのである。今日はやりのヴァーチュアル・リアリティが、読書のような単なる観念や想像ではなく、感覚のシミュレーションの世界であることも、このことを反映しており、将来実際の体験に代りうる可能性を持つのである。それが日常化するまでは、自前の感覚器官によって、行動し経験する以外には、人生に持続的意味をあたえる方法はないのである。 |
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2021年10月2日(土) |
死と明日 |
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Denn im spaetern Alter erregt jeder verlebte Tag eine Empfindung, welche
der verwandt ist, die bei jedem Schritt ein zum Hochgericht gefuehrter
Delinquent hat.――A. Schopenhauer: Aphorismen zur Lebensweisheit 6.Kap.
(なんとなれば、老年期においては、一日過ごすごとに感じられる思いは、犯罪人が処刑台に向かう一歩ごとの思いと、似かようものがあるからである。――ショーペンハウアー「生きる智慧」より)
死は存在の無化(anihilation)であり、魂の消滅である。それを強烈に意識にのぼらせるとき、暗黒を前にした究極の絶望に胸はふたがれる。死とは私の全人生と、私の全存在の完全な無化である。やり残したことや、見果てぬ夢が、強烈な重荷となって意識を圧迫する。すべては無意味、無価値であったのだ。永遠の生命があるかのように錯覚して、今日までのうのうとして生きてしまったのである。死が存在の完全な無化であることが、なかなか信じられなかったのであり、かりにそうであるとしても、まだ猶予の時間があると思いこんでいたのである。それが意識の目の前にありありと実感されたとき、底知れぬ圧迫に心身が打ちひしがれるのである。そのような死の恐怖を、世の人々はどのように克服できているのであろうか。
世の中の大抵の人々は、実は死というものの本質を本当には知っていないのであろう。ほとんど動物と変わらない死の意識しか持たないのである。動物は死と眠りの区別ができないであろう。それと同じように、たいていの人は死とは目覚めることのない、永い眠りであると考えているのである。眠りであるからには、人間の想像の及ぶ範囲である。通常の眠りには目醒めがあり、浅い眠りには夢がともなう。たまたま同じ世界に目覚めれば、それはこの生命の世界であり、もしこの世界に帰ってこなければ、別の世界を想像することも容易である。生命界の現象の延長としての死なのである。異国へ旅に出る人のように、家族や周囲のものが見送ることができる。死ぬ者もまた、そのように見なされることによって、死そのものから意識をそらせることが出来る。いわば死は、生命界での特別のイベントと見なされるのである。生命界と絶縁した世界であるとは、だれも思わないのである。これはまさに、生への意志の狡知と言ってよいかもしれない。死そのものを生の連続の中に置いてしまうのである。
このような幻影としての死は、もはや死の本質を見抜いた意識には、慰めとはならなくなる。死は勝利者なのであり、生命は死の圧倒的無化の前に、敗北し、消滅するほかはないのである。どのような意志も、生命の現象の消滅を救うことはできないのである。死は<永遠>の眠りですらないのである。いかなる形容も不可能な、完全なる無化であるからだ。この完全なる無化を前にして、生への意志はいかなる最後の抵抗をなしうるであろうか。生への意志の存在形式である<今>は、死によって毒されて、その現象である心身は、圧倒的な暗黒の重圧によって押しつぶされる。これが究極の絶望であり、究極のニヒリズムがもたらすところである。死はどのような場合でも、生の敗北であり、悲惨である。そこには希望はないのである。いかなる希望もないのであるか。
But see, amid the mimic rout.
A crowring shape intrude!
A blood-red thing that writhes from out
The scenic solitude!
It rihtes!-it rihthes!-with mortal pangs
The mimes become its food,
And the seraphs sob at vermin fangs
In human gore imbued.
Out-out are the lights-out all
And over each quivering form,
The curtain, a funeral pall,
Comes down with the rush of a storm,
And the angels, all pallid and wan,
Uprising, unveiling, affirm
That the play is the tragedy, " Man,"
And its hero the Conqueror Worm.
――E.A.Poe : Conqueror Worm
(だが見よ、無言劇のさわぎのただ中に
這うものの姿が侵入する!
書割の中から、血のごとく赤いものが
のたうちでる
のたうち、うごめき、死の苦痛で
道化者どもを餌食にする
人の血に染まった紅の牙を見て
天使たちはすすり泣く
照明は消え、劇は終わりだ
一人一人のひきつる姿の上に
幕が、とむらいの覆いが下りる
まるで嵐のようなすばやさで
そして蒼ざめ血の気の失せた天使たちは
みな立ち上がり、ヴェールをぬぎ、言うことには
この悲劇は「人間」と称し
その主人公は勝利者「蛆虫」である
――E・A・ポー「勝利者<蛆虫>」より)
生への意志は時間において現象化することにより、今の中に存在しながら、絶えず未来の目的もしくは希望によって、現象をつむぎだしてゆくのである。その時間を遮断し、無化するものが死である。死に対抗するには時間をつくりだすほかはないのである。今ではなく<明日>を作ることが、生への意志の死に対する唯一の抵抗なのである。わずかでも明日があるという希望によって、死の暗黒は多少でも薄れるであろう。明日何事かをなしうるということが、死を少しでも先へと押しやるであろう。そのようにして日々死と戦うほかはないのである。死は生の連続ではなく、戦うことによってつねに防いでいるべき敵なのである。そして遂には敗北することがわかっていても、戦士として滅びるならば、そこにはなにがしかの人間の<尊厳>なるものを保ちつつ、無に帰することであろう。
* * *
死が生への意志にとってこれほどにも恐るべきものであるのは、何ゆえであるか。生への意志の本質は、絶大なる不滅のエネルギーである<世界意志>であるから、その絶対的有にあずかるはずの生への意志が、何ゆえに無として滅びなければならないのか。確かに、ショーペンハウアーが言うように、本質としての意志は滅びない。本質としての意志そのものは滅びないが、生への意志は個としての現象において発現するほかはない。この現象においては、意志は意志自身と対立・矛盾する存在(Zwiespalt)となる。この意志の自己分裂において、はじめて死が生まれ、個としての意志の無化が生じるのである。
個としての意志が、はじめておのれ自身を自覚するとき、そこには大いなる喜びが伴っている。それがまだ苦を知る以前における、生への意志の本来的あり方であるといってよかろう。意志が個別化することは、同時に意志の自己認識の喜びでもあるのだ。だれもが自己を発見して、深い喜びに打たれるであろう。その喜びは同時に驚異でもあり、自己自身の存在の不可解さでもある。意志は自己自身を対象化することによって、同時に自己自身を不可解なものとして外化(entfremden)するのである。これが意志の自己分裂(Zwiespalt)の認識的本質である。この個として認識された意志は、しかしながら生への意志の発現であることによって、他の生命体との闘争の中におかれる。いわば個の生命体としての意志は、他の無慮無数の個物の間に存在することによって、単なるvertualな存在である、現象的実在性しか持たないのである。発生するつど、消滅することを運命づけられた存在なのである。ヴァーチャルなものは、そも仮想的にしか存在しないのであるから、絶対的存在そのものを保証されていないのである。絶対的存在でないものは、そもそも無を内に含んでいるのであるから、その無が自ずと仮の存在を消滅させても、無が無に還ったことと同様なのである。この無を必然的にはらんでいるという意識が、個としての生への意志の根本的あり方であるから、死を何よりも恐れるのは、自己自身の抱えた病を恐れるのと同じである。自己意識は、まさに死の恐れの上に咲く花なのである。自己意識は自己意識である以上、死と心中することはできない。意志は絶対の自己肯定であり、そのかぎり絶対に無化することはない。無化は自己認識の否定であり、消滅である。自己認識の根底に、意志の肯定がある限り、無も無化も意識に対立するものとして現われる。生への意志はそのようなものであり、発端において自己認識が喜びであったように、その消滅は生への意志と真っ向から衝突する、恐怖以外のなにものでもないのである。しかし、自己認識が死との抱き合わせでえられるものである以上、生への意志はその恐怖に耐えねばならない。
死を最も恐れるのは幼少年期であり、また老年期である。一方では、plaisir de vivre のさ中に突如さす暗黒の影におびえ、他方では見果てぬ夢や未練やが、圧倒的な死の重圧に打ちひしがれる。一方は迷信的恐怖であり、他方は実存的恐怖である。意志はその本質においては不滅であるとしても、自己意識を欠いた存在には生への意志の喜びはないのである。存在の喜びそのものを克服できなければ、死の窮極的克服は不可能なのである。それを釈迦はニルヴァーナにおいて教えている。寂滅為楽とは、死の不安を克服した究極の心の平静なのであろう。もちろん単なる喜びや快の境地ではなく、死ばかりでなく、この生への意志の現象的存在すら、幻であって、無であって、あらゆる意識はまやかしであるという洞察が、その根底にあるであろう。死の無化を無化するには、生への意志そのものを無化するほかはないのである。しかしそれができるのは、ごく少数の聖人・聖者だけであろうが・・・。
死の恐れの大部分は、身体的苦痛を除けば、想像力の中にある。社会的存在である人間は、死において失われる、自己の社会的環境における位置や評価を、なによりも気がかりとするのである。その意味では、長生きすること自体が、社会での競争になるのである。先に死んだものが負け、損失をこうむり、長く生き延びたものが勝利者となり、社会的恩恵ばかりか、自己自身における利益ともなるのである。それは物質的でもあり、心理的でもある。生きているかぎりは、死にゆくものから物質的利益ばかりか、心理的優位をもえられる。またおのれの死は、他者に利益をもたらし、優越感をもたらすであろう。死もまたある種の競争の対象なのである。この意識が、死の観念に大きな影響を及ぼしている。死の恐怖の圧倒的に大きな心理的部分は、社会心理的葛藤なのである。それゆえに、宗教者は死に備えて、社会からの
withdrawal (遁世)と所有の放棄とを説く。死にゆくとき、無一物であるにこしたことはないのである。所有物が、物質的、心理的、人間関係的に多いほど、死の恐怖は大きいのである。そして残してゆく世界に、期待するところが少なければ少ないほど、死の境地は安らかであろう。生死界を超えるとは、その境地のことであろう。死とともに、過現未にわたる万物への執着も絶えるからである。もはや輪廻転生もないのである。この世界の根源である世界意志そのものをも、超越してゆくであろう。アートマンもブラフマンもない世界がどのようなものであるか、もはや人間の探究能力を超えているが、世界の根源の根を絶つには、その境地、すなわちニルヴァーナを目指すほかはないのであろう。 |
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2021年9月19日(日) |
行為の価値について |
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行為(Aktion)とは目的に向かうなんらかの心身の活動である。単なる心の働き、精神の活動などは、本来の意味での行為ではない。行為は身体的自我が、身体において活動することによって、現実の行為となるのであり、なんらかの動機、すなわち原因、または目的が伴うものである。そのようなものとしての行為において、行為の価値や意義が生まれる。
単なる生理的原因にもとづく行為は、もっぱら身体の必要を満たすものであり、それらは価値以前の、生存のための必然的いとなみにすぎない。空腹が起これば、それが原因となって食べ物を求めようとする目的的行為にいたる。このプロセスは自然である限りにおいての、一過的快楽の価値を持つ。そうした行為の価値は、生命体につねに起こる不変的な存在のありようであり、生存の意義や価値といった、行為の精神的あり方には達していない。普通に行為の意義や価値というとき、そこには必ず精神的欲求が関係してくるのである。
しかし、単に精神を働かせたり、心情の快にふけることは、なんらの行為ではないと、すでに述べた。すなわち思索や詩的情緒にふけることなどは、ある種の身体内部の働きではあるが、行為そのものではないのである。思索や心情は、たしかに行為の発端(または目的)とはなりうるが、それらにとどまるかぎり、単なる自己充足に過ぎないのである。思索や心情が、現実化に向けて行為を起こすときに、はじめて行為の意義や価値が問われるのである。同時にそこに確固とした目的意識が生まれていなければならない。単なる自然的行為であれば、そこには通常、意義や価値が問われることはない。一連の行為のプロセスが、いわば本能によって導かれているからである。思索や心情は目的意識と結びつき、その実現の過程において、はじめて意義と価値とが問われることとなるのである。
行為には意義もしくは価値がなければならない。この要求が、人間の心をつねに駆って、心を休ませなくする。誠実で、倫理的な人間であるほどそうであろう。この要求が老いたるトルストイを家族と不和にさせ、放浪の果てに野垂れ死にさせたのであろう。これほど倫理的でなくても、自己の人生をつねに意識するものには、何事にも、行為にいたる前には、その価値が反省されるのである。これは悪しき習慣となると、人生への嫌厭をうむことになる。行為の精神的価値などは、そうそう見いだされるものではないし、生命自体が精神的探究に疲れてくるのである。そもそもこの世界そのものが、たいして精神的には出来ていないからである。
行為の価値の規準となるものは、基本的に目的意識の精神性にあるといえよう。自然的欲求の基本は快楽であり、目的とはそれの充足された状態にすぎない。欲求が快として満たされれば、そこに目的は達成され、現実化されるのである。精神的価値もまた、ある種の快であるが、そこに快に対する反省の伴う快である。それを快としては認めず、義務と称する人もいるであろう。クリスチャンは神への愛のために殉教するが、それはこの世界で充たされる愛ではないために、精神的なのである。この世界での現実化が困難である目的ほど、それへといたる行為は、精神的価値があるといえるであろう。
人間はつねに、自己の行為の意味を問うていないと生きられない存在なのである。東洋ではそれに対する対処として、無為自然や空観などが説かれる。つまり何も考えるなということである。論理癖のある西洋では、そもそもの哲学の発端からして、思想や心情の行為的意味を問うているのである。おのれ自身を知るということは、価値的行為へと向かう道なのである。それ故にソクラテスやセネカは、永遠の価値を求めて、従容として自らの命を絶てたのである。そこまでの情況にない身としても、この有限な世界と、その中の有限な身体的存在との意義を、つねに考えざるをえないのが通常の人間である。この有限界において、自己の行為に(ひいては自己の人生に)最大の価値を与えるには、どのような目的が必要なのか、またはありうるのか、この難問が日々新たに意識に生じては、無能の身を責めたてるのである。
家の経済において、収入に応じた生活が基本であるように、たぶん人生においても、自己の心身の能力や状態に応じた生き方が最善なのであろう。しかし意欲だけは、つまり生への意志だけは、それらの条件を超えて、あふれでようとするのである。時には盲目的な衝動となって、自己の限界を超えた行為へとはしり、みずからの心身を破壊さえしかねないのである。そうなると、それらの行為はもはや価値以前の問題となる。すなわち単なる愚行である。そうした自然的欲求においては、むしろ動物の方が賢いくらいであろう。
価値ある行為をするには、価値ある目的を持つことである。そこに希望が生まれる。宗教者は最終的希望を他界においているが、この有限の世界とその条件の中で達成しうる、自己にとっての最大限可能な目的が見いだされうるならば、この現世にも希望があるということになろう。 |
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2021年9月16日(木) |
個の価値を高めること |
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知的生命体を構成する三要素を、肉体、心情、精神に分類して、個にとっての最上の生き方を考究する。これら三要素を統合し、行為へともたらすのは<意志>であって、これについては最後に考察する。
肉体
肉体は馴致すべきものである。その原理は<健康>と<衛生>である。肉体は他の二要素を支え、個の価値の充実へともたらす基本であるから、決してないがしろにしたり、蔑視すべきではない。肉体のすべての機能は、衣食住、性欲・排泄にいたるまで、簡素・清潔を旨として、その欲求・欲望を導くべきである。単なる抑圧ではなく、心情・精神を支える基本機能として、肉体の欲求の自然的充足をはかるべきである。動物の肉体の基本的意欲は〈運動〉であるから、この運動をないがしろにすると、あらゆる欲求・欲望がゆがむのである。個の価値を高めるためには、なんらかの肉体の運動、すなわちスポーツが欠かせない条件である。このスポーツは集団的である必要はまったくない。普段の体操やウォーキングを初めとして、とにかく体を動かすことである。特に戸外での運動が肉体のエネルギーを解放する。ハイキング、サイクリング、ランニング等、もっぱら肉体を楽しませ、その機能を高め、ゆがんだ欲望を直くすることを目的に、スポーツを行なうべきである。そこに競争や、集団的競技はいらないし、自身の身体能力や適性を超えたスポーツに挑戦する必要もない。
心情
心情は肉体から発し、肉体の欲求を意識に伝え、なんらかの行為へとおもむかせるシグナルである。これが対人関係へと向かうときには、さまざまな<情念>として表われる。最も基本的な個の心情は、なんらかの欠乏感と、それの充足における心の安らぎである。心情における欠乏感は、欲求や欲望が大きければ大きいほど激しいのであるから、必要以上に欲望をあおらないようにすることが、心情の健康の第一条件である。自然的欲望は、肉体の条件によって限られているが、御しがたいのは社会的欲望である。衣食住は、基本、雨露がしのげて、その日の食に困らず、清潔で簡素な衣服にくるまれていればよいのであるが、社会的競争心が、それだけでは満足しなくなるのである。心情の平和を損ってまでも、見えや虚栄心によって欲望をあおられるのである。そこから嫉妬や羨望や、屈辱感・敗北感・憤懣のような、毒々しい情念が生まれるのである。社会もまた、そうした貧富の差別や従属感情を助長するのであるが。個の範囲においても、なんらかの執着において、所有欲や愛着や好奇心やが、心情的自足を損うであろう。社会的競争心であれ、個の趣味であれ、不必要に欲望を増せば、心情の平安は乱されるのである。
心情における個の価値の基本は、いかに心の平安を保つかにある。肉体の欲望は時として心情を無視しがちであるが、例えば飢餓や性欲においては、ある種の残忍さや無関心や被虐が生じるが、結果として欲望の静まった心情の平安が訪れるのである。それは同時に肉体の欲求の充足でもあるから、心情が肉体のシグナルであるかぎりは、心情が肉体の前に沈黙するのである。社会的欲望は、それらが自己自身ではなく、他者や集団において満たされるものである以上、はななだしく心情の安定を妨げる。野心や虚栄心の克服ほど難しいものはないのであるが、個の価値を高めるためには、他者や社会の評価にそれを求めてはならないのである。人から認められなければ無のように感じてしまうのは、社会的人間の典型的な病態である。それでなくても、社会から疎外されたり、孤立したりすれば、つよい寂寥感におそわれるのが、人間の社会的本性である。この病からいやされるには、よい薬はないのであるが。
心情が肉体に抵抗し、社会的欲望に背を向けるならば、それは精神の助力によるものである。
精神
精神すなわち理知は、二面性を持った機能である。本来肉体の道具として、その欲求・欲望を効率的に果たすための役割を持つに過ぎなかった。ハンターとしての動物が、賢い狩をする例に、その典型的な理知の役割を見ることができよう。人間の理知も、大抵はこのような使われ方をしている。他の動物とは異なった衣食住の発明、社会・経済機能、それらすべては<道具的知性>の産物なのである。すなわちこのような理知は、肉体のあらゆる欲求、それらの肥大化した、社会のあらゆる要求に従属する機能なのである。その限りにおいて精神は、肉体の欲求をあおりたて、肥大化する、魔法のランプのジンのような役割だった。今日の自然科学がその権化である。
精神すなわち理知は、肉体の道具として使われるときには、もっぱら外界の事物に向かう。肉体は基本的に外界、すなわち事物の世界に属しており、事物に従属し、事物の一部である。そのような肉体が必要とする理知は、もっぱら道具的であるほかはない。この道具的理知が、ふとわれに返り、自己自身を見つめる時、そこに<反省的知性>が生まれる。この反省的知性は、肉体に対する機能としては、その意欲や行為に対して抑制的に働きうるのである。肉体は知性の抑制に対して、本能との葛藤を生じ、場合によってはそのアドヴァイスに従うのである。ある種の知性の優位がそこに生じるのである。そうでなければ、単なる道具的知性であるならば、すなわち知性がフィードバックの機能をもたなければ、決して肉体はその指示に従うことはないであろう。肉体にかけている<反省>は、この意味で知性には元来そなわっているのである。理知がこの反省的要素をさらに強めるならば、理知の優位の立場から、肉体を馴致し、支配する可能性さえ生まれてくるであろう。
同じことは、社会的欲望に対する理知の抑制についても言えるであろう。地位や名誉や富といった、あらゆる虚栄の空しさ、この世の生命の空しさ、それらを理知の眼によって洞察するならば、人間のあらゆる社会的営みが茶番のように思えてくるであろう。子供のころからの教育や慣習や周囲の人間のそそのかしなどの、あらゆる悪しき影響を払いのけてみれば、この人間世界は空々漠々として、価値あるものは何一つ残らないであろう。そうした認識に達することが、個の存在にとっての最上の価値なのである。理知が社会的迷妄を克服させてくれるであろう。
意志
とはいえ、理知を動かし、理知を利用する究極の実体は、理知そのものではなく、肉体の根源にある<意志>なのである。理知がいかに孫悟空のようにおごろうと、意志の手のひらを逃れることはできないのである。ここに意志の窮極的優位がある。もし意志が理知の道具によって、おのれ自身をコントロールし、自己意識において世界認識へといたろうとしなかったならば、理知はあくまでも肉体の道具に過ぎなかったろう。ここに理知を道具として、意志の自己超越がなされ、意志自体の自己認識が可能となったのである。この<世界の眼(Weltauge)>としての意志において、肉体も心情も、理知によるコントロールが可能になるのである。肉体も心情も意志そのものの発現であり、意志の名においてコントロールが可能になるのである。たとえ反省的知性であっても、単なる理知によってはなしえないことも、意志の力によってなしうるのである。この意志はもはや盲目的な衝動ではなく、反省によって自己意識に達した<覚醒者>であるからだ。この覚醒者であることによって、意志は肉体・心情・理性の三者を経由して、個の究極的救済を可能にするのである。
個の窮極的価値は、肉体・心情・理性の三者を統括した、自覚的意志と、個の自覚とが一致することにおいて実現する。個の意志は同時に世界意志なのであり、もしこの世界が価値ある創造物であるならば、それは同時に個の存在の価値でもある。私がこの世界を善しと見るならば、それは同時に私の存在の価値ともなりうるのである。もし悪しと見るならば、私もまた悪しき存在である。逆に私が私の存在を嘉するならば、この世界も善きものとされるのである。私が私の価値を認めるということは、その限りにおいて、世界には価値があるということである。私が無価値であるならば、世界も無価値である。私自身が世界意志と一体化している限りにおいて、私は価値の究極の判定者なのである。
意志的行為
このような自覚的意志は、単なる欲求や欲望とは別のものである。欲求や欲望は基本的に盲目的で衝動的であるが、自覚した意志は理性すなわち反省的自我との合体した意欲なのであるから、本能や衝動とは時に矛盾や葛藤を起こすであろう。意のままに振る舞うというのとは、まったく別な意欲のあり方なのである。ある行為をなすにあたっての基準は、本能のレベルでは、単に気持の動く方向にすぎないが、すなわち<楽な>方向に向かうのが普通であるが、自覚的意志においては、行為へといたる意欲は必ずしも快をもたらすのではなく、場合によっては面倒でいやなことなのである。理性によって自覚的に行なうことは、実のところ大抵の場合、ある怠惰な嫌気を伴うものである。自覚的に行為するには、つねにある種の強制が自然の意欲に対して加えられねばならない。つまり本能的な意を、ある程度コントロールしなければ、自覚的意志の行為は不可能なのである。それが、肉体と心情の馴致にほかならない。自覚的意志によって行為するには、肉体や心情が嫌がることを、あえて先に行なわねばならない。なさねばならないことには、必ずある程度の嫌気が伴うのであるが、まさにその嫌気のさすことを一番になすべきなのである。それが意志的行為の基本原則である。安易さに流れようとするのは本能であるが、あえて困難を選択するのが自覚的意志のあり方である。この意志的強制力によって個の価値を高める方向に行為することが、個にとっての唯一の<倫理>である。単なる快楽主義では、このことはなしえないのであるから。あえて<努力>という苦を選ぶのである。 |
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2021年9月13日(月) |
自己愛の実践 |
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自己愛は社会性の否定として発現することがほとんどであるから、さまざまな方面からの反撥や批判や迫害を受けることは、あらゆるタイプのエゴイストや個人主義者のよく知るところである。道徳的・倫理的には、利己主義とか、自己中とか呼ばれるのである。そのようにレッテルを貼られることは、自己愛の持主にとっては、肩身の狭い思いをさせられるばかりか、自己自身の本来的な権利を踏みにじられるような憤りをも覚えさせられるのである。おまけに、どんな自己愛の持主であっても、社会本能を完全に否定することはできないのであり、この人間世界で生き延びていくためには最低限の社会性を発揮しなければならないのである。そればかりか、自己愛を実現するためにも、やはり社会に対する依存心が必要なのであり、自己愛の基礎となる衣食住を確立するためには、どこまでも他者に依存しなければならないのである。そのことが、自己愛の持主にとって自己分裂のもととなり、みずからGewissenなるものに苦しめられることにもなるのである。
人間社会に多くを求めないほど、自己愛は純粋化するであろう。他者に依存することが多いほど、自己愛はゆらぐのである。自己愛の根本は、自己自身の本質に目を向けることであり、そこから翻って、他者や世界や万物に観察の目を向けることである。観察者としての眼は、それら他者や世界や万物にとらわれてはならない。とらわれるなら、それらによって自己が圧倒され、自己愛は失われるのである。それらのうわべではなく、本質を見ることによって、それらが自己と同一の本質を持つものであることが洞察され、自己愛は全宇宙にまで拡大されるのである。自己と他者、万物は、依存の関係にあるのではなく、本質同一性の関係にあるのである。このことが直観できるならば、自己愛の対象は全宇宙の全事象におよぶであろう。宇宙は私の問いかけに答えてくれるものではないが、宇宙はまた私自身でもあるのだ。星がまたたくのは、私の意識がまたたくのと同じである。私が愛するものは、宇宙のどのような物質であってもよいのである。せせらぎの音や、透明な水の流れ、空にわく雲、小さな昆虫、すべてが私の自己愛に応えるのである。それは言葉である必要はないのだ。とらわれさえしなければ、私は万物の声を聞くことができるのだ。
社会や人間関係はとらわれそのものであり、心を曇らせ、怒りや悲しみや嫉妬や寂しさで満たし、真の自己愛を失わせる。自己愛とはこの宇宙そのものであり、私はそれに参与しさえすれば、心の平静を得ることが出来るのである。おそれも希望ももはやいらないであろう。宇宙が宇宙であり、私が私であることがすべてであり、そして宇宙と私とは自己愛において合一するのである。現象的に私が苦しみ滅びようとも、それは生命の業であり、<原罪>であり、私の自己愛には一切触れないだろう。自己愛は生命をも超えるからである。それがプラトンの言う真のエロスであり、宇宙的なエロスである。
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2021年8月20日(金) |
全体への意志と恐怖政治および個の未来 |
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前々回、他律原理の多様化が人類社会の進歩の出発点であると述べたが、21世紀の現状ではどうであろうか。むしろ逆方向の政治的傾向が見られる。民主主義の敗退と衰微、独裁的強権国家の対外的覇権主義と内政における自由の抑圧、イスラム政権やクーデター政権の恐怖政治、旧共産圏国家の先祖がえり、等々、今日の人類の政治的状況は、これまでの人類史とさしたる違いのない全体主義と専制のくり返しである。実はこれが人類社会の<常態>であると言ってよかろう。人類は類としては、社会的・政治的に、一切の進歩を見せていないのである。これはむしろ当然であると言ってもよいのである。
人類の類的本質は、すでに何度も述べたように、全体への意志によって徹頭徹尾つらぬかれており、類がすべてであり、個は取るに足らない、全体に奉仕するための無に等しい存在なのである。個体そのものが、類的意志によって徹頭徹尾支配されており、類的に行為するほかには、行為の可能性すら持たないのである(*)。これを心理的見地から<他律原理>と名づけておいた。他律原理を徹底すれば、政治的・社会的に発現するものは、まさに専制国家であり、全体主義国家である。これらの国家の支配原理は、権力の一極集中であり、少数の指導者の強権的・抑圧的体制によって、すなわち恐怖と刑罰によって、大多数の国民を意のままに動かすことである。人類史において、あらゆる国家、あらゆる体制は、多かれ少なかれ、このことを行なってきたのである。(**)
(*)ショーペンハウアーの用語を用いれば、生への意志の類的本質としての叡知的性格(der
intelligible Charakter)と、個人の意志的本質である叡知的性格とは一致することになる。どちらも不変・不滅であり、現象としては必然的である。
(**)たとえば、プラトンの描いたユートピアは、指導者を単に理性的存在(哲学者)に置きかえただけであり、支配される軍人や生産者らは、やはりなんらかの強権によって抑えなければ、国家そのものが成り立たないであろう。実は社会の頂点である支配者の位置にあるものは<理性>ではなく<意志>なのである。この点であらゆる理知的ユートピアは空想の産物であり、現実化は不可能なのであり、仮に実現したとしてもすぐさま崩壊するであろう。
ウィットフォーゲルは、専制主義や全体主義を<東洋的専制>として一くくりにし、おもに東洋での(あるいは<水力社会>での)現象としたが、実は人類全体の歴史に応用してもよかったのである。ただ単に、西洋人の目からは(とりわけ民主主義の洗礼を受けた者からは)中国やアジアや南米において、それが極端に見えただけであろう(*)。人類のあらゆる社会や国家は、本質において全体主義や専制主義を目ざすのである。それを本能において完璧に実現しているのが、蟻や蜂の社会であり、そこでは全体に奉仕することが、個の意志の自由と一致するのである。自由は同時に必然でもあるからだ。その必然に身を任せる時、個の生命もまたその本来の意義に生きることとなり、従順な国民や臣民が生まれるのである。単なる恐怖は体制を長く維持できないことを、権力者もよく知っており、そこに全体への意志の高揚と陶酔を生みだす必要があるのである。恐怖は服従する者にとって、権力に加担することにより、取るに足らない無としての個を、全体的高揚感において、全能意識にまで高めるのである。これが生への意志が、個体に仕掛けた類的意志のわなである。
(*)K・A・ウィットフォーゲル「オリエンタル・デスポティズム(東洋的専制主義)」(井上照丸訳と、湯浅赳夫訳の二種の翻訳がある)。ウィットフォーゲルの思想全般については、G・L・ウルメン「評伝ウィットフォーゲル」に詳しい。
類を否定し、克服するには、まずもって社会や国家を否定しなければならない。社会や国家のあるところには、個としての本来の自由はない。社会や国家を離れたところに、どのような個としての存在があるかを、まずもって探究しなければならない。社会や国家への依存は、究極において権力意志と、専制と、全体主義を生み出すほかはないことを洞察して、個としての人類の未来を、無社会・無国家に求めねばならないだろう。そこにどのような自由が現われてくるか、それは実際に実践してみるほかはない。いかなる個も、他律原理からのがれえないことは、すでに論じた。個と個の間の関係を否定することは出来ない。むしろ個と個との間の関係こそが、類としての人類の唯一の社会関係となるであろう。基本的にfriendshipとしての関係以外の人間関係は、必要ないのである。これが進歩した未来の人類社会であろう。科学と情報技術の発展が、この未来社会の基礎となるであろう。
インターネットは類的意志の集中におもむく場合もあるが、基本的に社会に対しては離散的に働く。個の相対的独立性・自律性を高めるのである。そこでは情報の探索によって、多様なフューラー(もしくはmentor)を求めることが可能になる。自己の判断力を高めることが、まずもって脱社会・脱国家の基本なのである。個の利便性を高める技術は、他の多くの科学方面にも及ぶであろう。人類社会が進歩するとは、個としての人類の価値を高めることである。もし宇宙人が地球を訪れているならば、彼らは社会的にも進歩しているはずであるから、集団で訪れるようなことはしないであろう。まして人類集団と交渉しようなどとは思わないであろう。人間が蟻や蜜蜂と会話しようとするようなものであるから。文明の次のステージへの進歩とは、社会や国家の崩壊のあとにはじめて起こるであろうから。
* * *
(以下8・22)
生命体や人類が集団として社会を形成する諸原因のなかで、その最も基本的な要素は食糧獲得と生殖であることは明らかである。集団間の闘争すなわち戦争や、雄どうしの繁殖のための争いや、交易や商業や生産における競争などは、すべて派生的な現象である。この食糧と生殖という二大要素が、人類社会の歩みを決定していると言ってよかろう。人類の集団化が大規模化していくのは、家畜の飼育と農業生産にあることは、歴史の常識である。この自然界をコントロールする経済の統制が、人類史の発展の原動力であることは唯物史観をまたないであろう。歴史の秘密は経済史にあるのである。一口に経済史と言っても、経済は自然環境すなわち自然的<風土ambiance>の中でのいとなみであるから、自然界と人間との交渉における、自然の技術的コントロールと密接に結びついている。経済は同時に自然科学の応用なのである。この経済の基本すなわち人類史の原動力が洞察できるならば、人類の未来における進歩の方向も明らかになるであろう。
食糧生産は現今においては、もっばら家畜の飼育と、植物栽培に依存している。この他種の生命体への全面的依存の基本は、人類の発生以来変わっていない。この点では人類には、生産の大規模化以外には何の進歩もないのである。人類社会が生き抜くためには、生命体どうしがあい食む、弱肉強食、食物連鎖の原理に基づくほかはなかったのである。この原理は同時に、人類の社会や国家の形成においても浸透しており、人類社会の発展を以前に家畜飼育の展開にたとえたように、国家や社会はいわば人間を対象にしたある種の家畜経営なのである。これが他律原理、さらには全体への意志の人類史における、社会・経済的発現の根本なのである。資本主義であろうと社会主義であろうと、イスラムのような宗教国家であろうと、すべて家畜経営のある種の形態なのである。これは人類社会が純粋な<自然経済>にもとづくかぎりは、避けられない歴史的必然なのである。
この人類史の行き詰まりの段階を打破する、なんらかのbreakthroughが起こるとすれば、それはどのようなものであろうか。単なる人工頭脳AIの支配するシンギュラリティーなどは、人類史の根本を変えることはないであろう。AIは石油や原子力のようなエネルギー資源で動くかもしれないが、人類は相変らず家畜の肉や穀物に頼るほかはないであろう。家畜生産や穀物生産は、社会集団ををつねに前提している。それらの労働力がロボットによって代用されても、管理するのは常になんらかの社会集団であり、国家である。AIが支配するのも、やはりなんらかの社会集団であり、国家であるだろう(たとえそれが全世界に及ぶとしてもである)。集団的生産がある限り、社会や国家の根本は変わらないのであり、そこには常に他律原理があり、全体への意志がある。つまりこれまでの人類社会・国家とえらぶところはないのである。
生命が生命を食らうという、この根本の生命原理を打破しない限りは、人類社会は少しも進歩しないであろう。植物は光合成によって、自ら栄養を生産する。科学技術を発展させた人類も、同じ原理を自らの栄養摂取に応用することは不可能ではなかろう。食糧を無機物から化学的に生産すること、およびなんらかの遺伝子操作によって、植物のような自己栄養機能を体細胞にあたえること、こうしたことは未来の科学技術において可能であろう。無機物からの食糧生産は、必ずしも大規模な装置や工場を必要とはしないであろう。いわば個人的な生産が可能になるであろう。ここに食糧生産が集団的である必要がなくなるであろう。集団の根本的必要性が、食糧生産の個人化によって失われるであろう。集団がなければ、社会はなく、もちろん国家もいらない。科学技術は、個人を社会から解放するのである。これは文明の段階論で説かれるような、惑星や太陽系を支配するようなエネルギー段階などといったものよりも、さらに根本的な人類の進歩である。
人類が集団的食糧生産から解放されるならば、同時に生殖からの解放も行われるであろう。種の存続という、類的意志の絶対命令に対して、個体の生命は反旗を翻し、生殖の意図的コントロールにおもむくであろう。まず快楽と生殖との分離が行なわれ、単なる衝動や発情によって性行為をなすことがなくなるであろう。今現在<ヴァーチャル・リアリティ>が、実際の性行為に代わろうとしている。もはや生殖の相手を現実に求める必要がなくなったのである。快楽と生殖とは別問題となるであろう。さらに快楽自体のコントロールがすすめば、性の快楽自体がより精神的な方面に向けられることになろう。その結果、人類の繁殖ということ自体が、たしかに類的現象であるゆえに、どこまでも集団性をまぬがれないが、単なる義務的行為に落ちつくであろう。人口は自然と減少し、人類は遺伝子コントロールにより質的に進化するであろう。
子供の養育ということも、未来には劇的に変化するであろう。人類にとってハンディキャップとなっているのは、成体になるまでに20年近くを要することである。これも遺伝子操作により2年で成体になることが可能となろう。同時に、脳はすでに幼児期にあらかた出来上がっているのであるから、自律的生存のために必要な知識はすべてその期間に学ぶことが可能であろう。むだな生育期がなくなるのである。このようにして、未来の進歩した人類においては、相対的自律性を具えた新たな人類が、真の意味で知性的な宇宙人にふさわしい存在となることであろう。この段階ではじめて、人類は個々の独立した存在として、宇宙に新しい可能性を求めて旅立っていくことであろう。 |
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2021年8月8日(日) |
孤独愛と社交愛 |
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愛の現われは他種多様であり、素質と後天的事情とによって、矛盾と分裂を含むものである。その中でも最も一般的な愛の発現は、人間関係におけるそれである。いま男女間の愛は特別なものとして脇に置き、一般的に他者や人間社会に対する個人の対応にしぼるならば、社交愛か孤独愛かの選択もしくは対峙において、最も顕著な愛の分裂が見られるであろう。この愛の分裂において厄介な問題は、それが単に好き嫌いのはっきりした事柄ではないからである。基本的に人間は、社交と孤独のどちらにも引かれるのである。根本において、人間は社交的動物であり、本来孤独を嫌い、忌むものである。孤独者は基本的に異端者なのである。とはいえ、社会的動物であるかぎり、社会の不条理や、不自由や、そうしたことに対する不平不満によって、個人はつねに社会から孤立したり、排除される恐れがあるのである。その時初めて<孤独>に目覚めるのである。
孤独は基本的に社会的動物が、社会的諸事情の中において、なんらかの疎外を受けるときに、初めて発生する社会心理的状態なのである。もともと孤独に、すなわち単独に、生存できる生命体は、決して孤独感などをいだくことはなかろう。孤独が問題となるのは、社会的にしか生存の条件を見いだせない生命体においてのみである。蟻や蜜蜂は単独では生存できない。そうした社会では孤独に生きるという問題は生じないのである。たいていの群居性動物でも、子供の段階では単独では死を運命づけられているし、成体であっても獲物としてねらわれやすいため、長生きは困難である。こうした事情は人間社会でも受けつがれており、社会から排除された人間は、厳しい生存環境にさらされる。
ところが、人間社会のある発展段階において、社会そのものに対して批判的な眼差しが生じ、隠者や孤独者の発生が見られるようになる。いわゆる<アウトサイダー*>である。広く言ってこのアウトサイダーの発生が、社会的動物である人間の間での孤独な人生の可能性を推し進めたのである。ここでの孤独者はすでに社会的に成熟しており、社会の矛盾や不合理に対しての批判者であり、それゆえに積極的に社会からの逃避をはかり、孤独の中に独自の快楽や救済を求めようとする者たちである。古代中国、古代インド、古典古代、中世日本における自覚した孤独者たちである。これらの伝統の上に、今日での孤独愛が成立していると言えよう。
*本来<のけ者>の意味であるが、これを積極的に評価したのが、ひと頃流行ったコーリン・ウイルソンである。
人は生まれながらにして社交的動物であるから、そこからはすぐに孤独愛は生じない。むしろ社交愛が満たされないことに苦しむことから、人生の苦悩は始まるのである。幼年期におけるなんらかの虐待、周囲の人間からの疎外、<いじめ>などによって孤立の苦悩は始まるのである。この孤立の苦悩は、まっとうな人間関係を求めて得られない苦悩なのであり、孤独自体が原因なのではない。幼児にとって孤独であることは、生存の条件を奪われることであり、孤独そのものは恐怖に等しいのである。まがりなりにもこの恐怖の状態を生き延びることができたならば、最低限の社会的条件の中で、幼児は社交よりも自己快楽を求めるようになるであろう。その端的なあらわれが、類人猿に共通する幼児期のオナニーである。これがその後の人生における孤独愛の発端である。
孤独愛が社交愛の挫折から生まれたものである以上、この両種の愛はつねに矛盾感情として並存しており、孤独者はつねに社交愛に悩まされていると言ってもよいのである。それは孤独者の行動の矛盾となって表われる。自己自身に沈潜した静謐な心の状態に引かれながらも、にぎやかな歓談につい心とらわれてしまい、おのれを失ったことに動揺したりするのである。人とつき合えば、いろいろなことに心をつかい、おのれ自身を失った気持になる。ひとり静かにおのれの世界に浸るのが最上であると、兼好法師も書いている。今の時代、心身において、おのれ一人を楽しむ条件はさまざまにそろっている。社交愛がすべてではない。孤独愛を深めることこそが、人生を価値あるものとする最高の条件であると達観して、対人関係を淡く処理すべきであろう。 |
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2021年7月31日(土) |
他律原理について |
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人間は群れ社会に生きている群居性動物(gregarious animal)である。このことは、あらゆる群居性動物に見られる特徴を、人間社会も有しているということである。動物の群居性にはもちろん段階はある。草食動物のレベルから、猿社会、高度に組織された蟻や蜂の社会、人間社会まで、一見質において違うかのように思われる。しかし文明や文化などというものを捨象してしまえば、見えてくるのは共通した本質である。それを他律原理と名づけたい。
草食動物や猿の社会では必ず一頭の<ボス>がいて、群の他のメンバーはほぼ無条件にボスに依存し、ボスの行動に支配される。群れ社会では、一頭もしくは少数の<指導者>と、それに依存し、それの指示に従う群れとに分化するのである。この分化の動機としては、まず集団的防禦ということがあり、次いで生殖をめぐるオス同士の力の争い、更に食料調達のチームワークといったことが挙げられよう。いずれにしても、そこには少数の指導者と、それに従う、あるいは屈服する多数の群れという構図が見られるのである。この他律原理は、昆虫社会のように完全に無意識化されている場合もあろう。草食動物や猿社会では、本能的である場合と、かなりの意識化がなされている場合があろう。人間社会では、基本的には意識され、自覚されており、それが逆に本能にフィードバックされ、全体への意志として無意識化されるのである。それはどのような政治体制においても同じである。民主制もまた同じ原理に立っており、戦争、権力闘争、経済という群れ社会の基本構図のもとに、多数者の推す指導者のもとで群れ社会の秩序を保っているのである。
そこで、人間社会でのこの他律原理の心理的過程を考察してみたい。人間が行為するにあたって、それが本能的である場合には完全なる<依存心>によって発するものであることは、以前に論じた。この依存心が、生命界の他律原理の心理的あらわれであるからである。幼児が母親の乳首を吸うのは、本能的無意識の行為であるが、大人が同じ行為をするならば、意識的に快楽を求めてそうするのである。快楽は基本的に自律的、自足的であるように見えながら、本質において他律的なのである。食欲であれ、性欲であれ、快楽を充足する対象が与えられなければ、快楽は不発に終わる。オナニーでさえ、じつは生殖器に依存しているのである。生殖器が触発されるのは性欲のなんらかの対象であり、フェロモンでありして、それらを想像やフェティシュによって補っているのがオナニーの本質である。食欲に関しては、言うまでもなく、これほど他に依存する欲求はないのである。人間は本能的には、完全に他律原理の奴隷なのである。
それでは、その他の人間のさまざまな行為に関してはどうであろうか。人間がその行為を、社会集団からのなんらかの<教育>によって学ぶことからも、すでに他律原理が人間社会の基本であることが解ろう。まなぶとはまねぶことであり、人間のあらゆる行為は、すべて社会的<模倣>なのである。かりに反逆や反抗であっても、すでに社会的に知られたことの反復にすぎない(猿社会では、若いオス猿がボスに挑戦する)。だれかがなにか新たな行為をしたとしても、その創意自体がすでに社会的行為であり、たちまち模倣されるのである。その行為が内的、質的に新たなものであっても、すなわち新たな情報や知識であったとしても、人間の行為が本質的に他律的であることを変えるものではない。
これらのことは人間社会において、真に自律的に行為することの根本的困難さを浮き彫りにする。はたして自己自身の中に自律的原理などというものが存在するのであろうか。ここで指導者(フューラー、リーダー、ボス)というものについて考えてみる。そもそも指導者は、集団を率いるという意識もしくは本能において成り立つのであり、一見指導者の行為が独立的で、自発的に見えはするものの、決して集団の規範を外れるものではないのである。その意味では指導者もまた集団に依存しているのであり、その行為もまた常に他律的なのである。ヒトラーも天皇も、じつは自己の意志などは持たないのである。彼らの意志は他律意志なのである。
仏教においては、自力本願、他力本願ということが言われる。禅では、釈迦の自燈明という言葉に従うのであろう、おのれ自身の修行によって悟りが開けるという。あるいは少なくとも究極の悟りはおのれの修行しだいということであろう。しかし禅でも師につかなければ、野狐禅ということになるのである。そして究極の師が釈迦であることになろう。その仏を<殺して>までも自力にこだわるならば、確かにそこに究極の自律原理が見いだされるであろう。しかし、そもそも本尊の釈迦が、真の意味で自律的に行為したであろうか。悟りとは、必ずしも他律的原理を抜け出し、否定することではないであろう。人間が他律的原理にあまりにもとらわれすぎていることを、自覚させることが、釈迦の教えではなかったか。愛欲こそが、他律原理の最たるものであるから。ここでの自律原理は相対的なのであり、法燈明がなければ、成り立たない自律なのである。法とはすなわち釈迦の教えであり、それに従った行為としての修行である。より高いレベルでの他律原理である。仏教においては、本質的に自力と他力の区別はないといってよかろう。それ故に、阿弥陀如来にすべてを委ねようと、結果における救済においては同じなのである。
自律的行為の困難さ、何か自己自身を超越したフューラーに依存しようとする心、理想の人物や場合によってはカリスマに心を通わせようとする、いわば心の怠惰を克服することは、以上のことから限りなく不可能であることが解ろう。不可能であっても、やはりそれを求めようとするのが人間の、あるいは生命の尊大な性とも言えよう。たぶん個体の意志は、本来宇宙の本質と通い合う絶対性を有しており、それが唯我独尊の意識となって、おのれの自律性を貫こうとするのであろう。しかしその結果はつねに、他律的必然なのである。このことを以前に<相互性>に関して述べたことから考えると、個体のあらゆる行為は、全宇宙の個体のあらゆる行為と相互に結びつけられており、じつは個体の独立的行為などは存在しないのだ、という洞察によって説明できよう。このいわゆる<バタフライ効果>によって、人間の行為はどこまでも他律的なのである。
そうであるならば、個人が行為するにあたって、つねに理想の人物やフューラーや、場合によっては神仏を心の頼りとするのも、あながち否定すべきではないであろう。全体主義や、宗教的狂気を警戒しながらも、理想の他者に依存することは、自己自身を理想に近づけるための、必要な心理的装置なのである。いかなる個人主義者やエゴイストであっても、なんらかのフューラーを求めるであろう。究極において自律を求めるとしても、そこにいたるまでには他律原理に従うほかはないのでである。少なくとも自由な社会では、相互に教えあうこと、相互にフューラーとなることが可能なのである。情報社会とは、じつはそれを可能にする条件でもあるのだ。もし民主制に価値があるならば、そのもとで政治的・社会的・精神的に多様なフューラーを選択しうることであろう。すなわち、他律原理を少なくとも意識的・批判的に受け入れることを可能にするのである。この他律原理の多様化が、まずもって人類社会の<進歩>の出発段階となるであろう。 |
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