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2022年11月3日(木)
Aphorismen U
8.人間動物論――人間は遺伝子的に98%は動物と見てよいので、人間と交渉するには、つねに相手が動物であると考えて対処するのが、一番無難であろう。危険を回避できるばかりか、不快感をこうむったり、よけいな関心や期待をせずに済むであろう。犬や猫をつれて散歩している人々を見たならば、彼ら自身、服を着た犬や猫であると見なすのがよい。うっかりと近づかないことである。動物どうしなら別であるが。

9.La vie quotidiene――与えられた境遇、環境など、生活のさまざまな条件の中で、極力工夫して、おのれに可能な生活の快適さを求めることが、日常生活の要諦である。それらの条件は年とともに変わり、つねに同じ日常生活が理想というわけではない。条件が変わるごとに、生活のありようも、改善・進歩を図らねばならない。青年期の生活は、当時はいかによく思われようと、老年期にそれを望むことはできないし、くりかえせば愚かである。今ある境遇・環境・生活条件の中で、最善の営みであることをなすのが、理想の日常生活である。

10.性感――は快楽の中で、もっとも自足的であるといってよかろう。一見、恋愛においては快楽が共有されているかのように思われるが、それは単なる心理的錯覚であって、男も女も、それぞれの快感に浸りきっているのが実際である。心情的には共感ということは起こりうるが、快感そのものは、とりわけ性の快感は、ひたすら自己充足にとどまっているのである。食の快は、同様に自己充足的であるが、食のありかたが集団的で、協働を必要とすることから、会食によって、快そのものを高めることが可能である。

11.芸術家としての創造神――もし宇宙が、ある造物主の創造したものであるならば、製作途中の作品を中途半端に発表することなどは、まず考えがたいであろう。完成した作品であってこそ、創作物といえるのであって、どのような芸術家も、製作途上のものを展示しようなどとは、夢にも考えないであろうし、またそうしたものを作品として受け入れるものもいないであろう。そうであるならば、この宇宙が中途半端に<進化・発展>したりなどすることは、ありえないのであって、すでに発端において、時間・空間的な細部に至るまで、完成されているはずである。そうであってこそ、この宇宙、この世界の、造物主、創造者といえるであろう。少なくとも、芸術的な見地からは、そうでなければならない。

12.面白さについて――人生を面白く生きるとは、何であれ気持ちをかき立てられることを、つねにするということである。意欲のわかないことはしなくてもよい。つねに、その時、その所において、一番気持のわきたつことをすればよいのである。面白いということは、いろいろな意味において、生活するに当たって、行為の動機の基準となるものである。生活に面白さがなければ、一向に意欲がわいてこないし、逆に言って、意欲がわく時には、必ず何か面白さをかきたてる、なんらかの対象や動機があるはずである。たぶんこの<面白さ>は、英語であれ、その他の外国語にも、ストレートには翻訳しがたい言葉であろう。

13.思索と情念・行為との乖離――どんなに高尚な思いにふけろうと、次の瞬間には不快や退屈にとってかわられる。思想家の文章も、その人の日々の生活とは、ほとんど別物といってよいだろう。人と思想とは別物なのである。思想だけに敬意を表するためには、人間を捨象しなければならない。人間に対する興味と敬愛は、まったく次元の違う情念に属するのである。

14.今を楽しむ――記憶とは過去であり、記憶の苦に対抗するには、時間軸の上で未来か現在に立つほかはない。高齢になるほど、未来にはたいした期待はいだけない。そこで記憶・過去に対抗する唯一の立場は<今>のほかになくなる。子供はこのことをよく心得ている。今に熱中し、今為すことに没頭することで、昨日も明日も忘れていられるのである。実家に遊びに来た孫たちが、楽しい一日を過ごしたあと、いざ帰るまぎわになってむずかりだすのも、明日の苦痛、すなわち過去の記憶によって呼びさまされた、学校での苦を思い起こすからである。
 高齢になれば、子供の頃のような純粋で、強烈な、楽しみや喜びにふけることは不可能になるが、今を楽しむという生命の叡知においては同じである。どのようなことであれ、今為していることに全意識を集中すれば、過去の苦は、すなわち記憶の苦は、忘れることができるのである。この今への没頭、無心の行為が、じつは生命に与えられた、唯一の幸福の条件であるのかもしれない。
 その際、過去ばかりでなく、未来をも、意識から排除しなければならない。今を楽しむには、楽しみを未来に期待してはいけないのである。それゆえに、勝負事や、賭け事や、投資などは厳禁である。予定すら立ててはならないであろう。先ざきのことや目標などによって、せきたてられてはならないのである。今なすことが同時に充実である、そのようなことを心がけて、今を楽しまねばならない。

15.追憶――過去において最も幸福を感じた物事・行い・出来事などを思い出すことは、それだけである種の甘美さと胸苦しさを起こさせるものである。それらの追憶の対象が、今に失われずに残っているならば、なおのこと心を惹きつけるものである。追憶(reminiscennce)という言葉は、過去が心地よく思い出されるというニュアンスでつかわれるであろう。不快な記憶は思い出したくないのであるが、あえて失われた記憶に惹きつけられ、とりもどそうとするからには、そこになんらかの幸福の思いが満ちているのである。このことはとりもなおさず、幸福感を過去からひきだすという、いま一つの幸福のあり方が、記憶には与えられているのである。過去でありながら、その幸福感は今の幸福でもある。それが真の意味で充実した人生なのであろう。過去は失われてはいるが、過去の幸福の記憶は失われないのである。たとえそれがどんなにささいな幸福の思い出であろうと、それを今に生かすことができるならば、つねに幸福とはなんであるかが実感できるであろう。

15.禁欲の究極は、いっさいの情念や情動や感情や官能によって動かされないということであろうが、そうなると一体意欲というものを(禁欲の意欲を含めて)、どうやってかきたてたらよいのであろうか。理性や理知などというものが、そもそも人間の行為の原動力となりうるのであろうか。であるから、哲学者は<意志>というものを理性に加えなければならないのである。それは単に都合のよいだきあわせにすぎないであろう。世界の理性的デザイナーである神も、意志を持たなければ、この世界どころか、どのような宇宙も創れないであろうし、そもそもfirst moverになることもできないであろう。ましてや一介の人間が、あらゆる情動や情念、つまり意欲なしに、なんらかの行動や行為ができるなどとは、妄想の極みであるといえよう。そもそも禁欲の原理などは、生命に与えられていないのである。情念や意欲のない行為などというものは、一体精神のどこにそのような機能がひそんでいるのか。

16.私という存在を、情念や意欲のほかに求めようとすることは、理知の錯誤である。私の意識が、意欲や情念から乖離するとき、私は単なる反省的私でしかない。つまり私という鏡に写した私にすぎないのである。この影像を、私のファントムと呼んでよいだろう。ファントムであるから、私の実体ではない。それ故に無力であり、皮肉屋であり、被虐的でもある。真の私は、この二重の私の背後にある。

17.幸福であるためには、もはや新しいことを求める必要はない。新しい物事への好奇心や探究心は、必ずしも幸福をもたらさない。不満足やいらだちの源でもあるのだ。すでに幸福は過去において得られている。それを再び見いだせばよいのである。幸福とは追憶の探究なのだ。したがって<反復>以外のなにものでもない。幸福とは反芻するものである。

18.人生を逆に生きる――小学生のころ、しきりと過去が慕われたものである。数年前のラジオドラマの主題曲が、子供には分かりにくい歌詞であったが、それをどうしても思い出したいという強い懐旧の念に駆られていた。
 
 旅の仲間の三角帽子
 黙り坊主の影一つ
 あのこあの人さようなら
 白い月夜に鈴がなる

 意味ははっきり分からなかったが、メランコリックなメロディーと、どこかエキゾティックな雰囲気が、その頃の気分にぴったりとかなったのであった。この歌詞を思い出そうと、記憶をふりしぼっていた。子供の頃のこの時分には、去年のことがしきりに懐かしく思われた。四季の推移が、記憶を反復させるのである。いわば、現在から過去へと、人生を逆に生きていたのである。今でも、夏の生ぬるい夜の空気の中を歩いていると、ふと昔の夏が思い出されるのである。
 すでにないものを思い出すことは空しいし、不幸な気持ちになる。人やペットの動物を追懐することは、ただ単に胸苦しくなるだけである。現にあるものや、記録や、思想や感覚は、それらが反芻可能である限りにおいて、幸福な気分をかもすことが可能である。そうした心地よい記憶と結びついた、過去の遺物によって、自己充足的な happiness が可能なのであろう。
2022年10月31日(月)
自我意識の本質
 自我とは何であるかについて、意識現象としての見地から、あらためてまとめの考察をする。自我とはなんらかの意識であるから、まず意識とはなんであるかを知っておかねばならない。じつは、意識自体がすでに自我の意識をふくむものであるかぎり、そこにトートロジーのおそれがある。意識とはある種の認識もしくは知覚であり、その限りにおいて必然的に、認識する主体と認識される客体とに分裂する。あるいは現象学でいうnoesisとしての要素とnoemaとしての要素を、ともに含むものとなる。すなわち、意識とはなにかについての意識であるという、志向性の原則である。この志向性における、主体方面、noesisの方面が、<わたし>の意識のありどころとされるのである。しかし、この純粋志向性における自我は、必ずしも意識される必要はないのである。この関係は単に論理的関係であってもよいからである。意識を分解するならば、それが主体と客体方面に、noesisとnoemaの関係に分かたれるということに過ぎないのである。じっさい知覚においては、見る私と見られるものは、それほど明瞭に区別されているわけではない。見られるものと見る私、見る私と見られるものとは、ある一体の意識であるといってもよいくらいである。これを純粋知覚、あるいは純粋経験と呼ぶようである。
 とはいえ、この純粋知覚が成り立つためには、意識が志向性である限り、私と対象としてのものとの、両者がなければならないわけであるから、この両者の分離が、自我の発生であるといってよかろう。そもそも意識にせよ、知覚にせよ、それが生じる前に、なんらかの発生の場がなければならない。これを表わす言葉は、伝統的には<感性>と呼ばれている。ほかに適当な言葉がないので、これを用いるほかはないであろう。感性とは、経験論からいえば白紙 tabula rasa のようなものであるが、ある種の感受能力 receptivity とすべきであろう。あるいは能動的に考えるならば、表象(観念)を生む能力 productivity としてもよいであろう。いずれにしても、感性において、ある事態 event が生じるとき、そこに志向性に基づく知覚ないしは意識が生まれるとしてよかろう。これを一般に経験と称している。
 自我意識が、経験とともに発生する意識の志向性に淵源するものならば、意識と自我とは基本的に同じものであるといえよう。意識のあるところには自我があり、自我のある所には志向的な意識がある。両者は同時に発生するであろう。しかしまったく同じものとはいえない。というのは、自我は単なる志向性ではないからである。そこで、志向性というものをより詳しく見てみる。感性において、noemaの方面にあるものは、なんらかの感性の内容であり、客体Objektもしくは対象Gegenstandと呼ばれるものである。これとの相関において、noesisもしくは主体というものが成立する。この相関が志向性であって、意識はどちらに重心が置かれるわけではない。もしどちらか一方に<注意>が傾くならば、もはやそれは意識の関係ではなく、ものごとの把握の態度であるといえよう。客体すなわち対象方面に把握が向かうとき、世界が発現する。これが意識の基本なのである。意識は世界を現わしだす作用なのである。意識によって把握される世界は、表象もしくは観念と呼ばれる。他方、主体すなわちnoesis方面に、たまたま意識の注意がそそがれるとき、そこに客体との相関者としての自我が把握されるのである。ここで両者の把握の態度の違いが気づかれるであろう。志向性は基本的に対象への方向なのであるが、自我の把握においては、その志向性に逆らう方向に働いているのである。というよりも、自我の把握においては、志向性の対象はノエシス方面でも、ましてノエマ方面でもなく、まさに両者の相関に向けられているのである。自我の把握は、主客の相関の意識における自我のあり方に向けられているのである。それゆえに、自我はどこまでも、相関においてしかとらえられることはなく、その相関は合わせ鏡のように無限に背進していくのである。
 意識というものが、単純に主体と客体との相関において成立する、志向的な世界認識のあり方とするならば、自我意識はそれから逸脱した意識、メタ意識であるといえるだろう。自我自体に向かう意識は、少しも世界認識に貢献しないのである。ひたすら自我のあり方、自我と結びついた生命体の自己保存に向かうのである。しかしこの点は、ひとまず後まわしとする。メタ意識が成立する条件について、さらに考察する。単なる志向性からは、自我意識は発生しない。志向性は相関そのものであり、自我は相関において現われはするものの、相関そのものは自我ではないからである。相関を対象とするには、その相関をとらえねばならないであろう。それは単なる表象ではない。相関を把握するなんらかの働きである。人間の能力の中でそれをなしうるのは、思考以外にはないであろう。思考の働きがあって、意識の意識、メタ意識が成立するのである。自我意識を成立させるものは思考である。
 ここで自我意識の成立に思考が関与することについて、さらに考察を進める。思考とは、基本的に表象の比較の能力、関係を把握する能力であるといってよかろう。ここではそれがどのように自我意識の成立に働きかけるかを考察する。思考が対象方面に向かうとき、根拠命題にもとづいた対象の把握によって、世界認識が可能になる。論理学や数学や科学や行為の動機などが思考の対象となるのである。この対象方面での思考の働きの主体は、純粋主観、すなわち先験的な<主観一般>であってよいのであって、かならずしも自我意識をともなわないばかりか、場合によっては無意識に機能するのである。この思考の働きが、一転してnoesis方面に向かうとき、対象として見いだすものは、すでに述べたように自我そのものではなく、自我と対象との相関における自我の姿である。思考は自我に向かうとき、つねに自我と客体としての世界との関係において自我を把握するのである。そのように把握された自我は、客体でありながら同時におのれ自身なのである。すなわちそこに見いだされるのは、まずなによりも私の<身体>なのである。この身体は視覚において外界に置かれた四肢にかぎらない。私の身体内部のあらゆる感覚や感情や情念や意欲が、私の身体としてとらえられる。これを身体的自我とする。思考はこの身体的自我を、意識において、すなわちその志向的関係において、<世界>と対峙させるのである。
 思考はさらに、身体自身に把握の眼を向ける。そこにおのれ自身である身体と、おのれ自身である思考との対峙が生まれる。不思議なことに、思考の主体と、身体的自我の主体とは同一なのである。考える私と、感じる私とは同じなのである。ここで自我意識の発生する場について、再度考察する。意識の場は、受動的であると同時に能動的であるとした。身体的自我は基本的に受動的である。すなわち<対象>の中の対象として、対象からの何らかの影響・刺激によって影響されることが多い。私の足が寒いのは、気温の作用である。自我はいわば<触発>されるのである。他方、私が空腹を覚えるならば、それは身体が自発的に、空腹の表象を生み出したのである。この点で、自我の場は能動的でもある。
 思考における自我の場はどうであろうか。思考のきっかけは確かに受動的であろう。しかし関係的な把握そのものは、意識の場に現われてはいない。思考は自我の把握を意識の場に加えるのである。この把握そのものが、思考における自我であるならば、思考は能動的行為において、自我の外に出て、自我の自我を形成するといってよいだろう。いわば超自我であるが、これを身体的自我の上に立つ純粋自我とする。純粋自我の本質は、思考による能動的行為なのであり、身体的自我を純粋な相関においてとらえるのである。その際、noesisである思考の主体と、noemaである自我の主体とが、同一として把握されることが、自我の超越性の根拠となる。思考もまた、実は身体的自我の機能の一部なのであるが、そのことによって、自我の自己超越の可能性を暗示しているのである。自我は思考において、自己を超越する可能性を開示されるのである。これは単なる感性直観においてはなしえないことである。自我は感性において発現し、思考において自己超越する。これが自我の救済への最初の一歩となろう。
2022年10月22日(土)
余命について
 余命ということを真剣に、身にしみて感じ、考えるならば、ほとんど絶望にちかい心理状態におちいるであろう。もはや何を果たす時間というものがないのである。あらゆることが、見果てぬ夢に終わるのである。いわばパニックに近い状態におちいって、何をなす気力も失われ、圧倒的な無力感の前に、ただただ打ちひしがれるほかはないのである。人生のすべては、結局無意味であったという、底無しの絶望感が、むしろ死以上の恐れとなって、身心を無能化させるのである。その時になってはじめて、おのれがこれまでに培ってきたすべての教養やら、思索やら、修行やらの、真価が問われるのであるが、嵐の前の木の葉のようなものであることに気づくであろう。死を前にして、何一つ確かなものを身につけていなかったことに気づくのである。結局、虚無的な<あきらめ>以外にはないのであるが、それに対しても、さまざまな生への執着の、果たせなかった希望や願いの、最後の激しい抵抗が起こるであろう。そして、あらためて、誰一人として頼るものも、頼る存在もないことに気づかされ、孤独の無力感に沈んでいくのである。
 とはいえ、このような究極の絶望感に一時的には沈みこむものの、すこし気分が回復するならば、生への意志の楽天観がある程度もどってくる。余命を意識していれば、なにがおのれの存在にとって、おのれの生活にとって、一番大事なものであったかが、反省されてくるのである。あまりに、どうでもよいことに捉われすぎていなかったか、何を本当に欲しているのか、何を本当の意味でし残したのか、ありありと区別されてくるのである。たとえ余命が一週間でも、一月でも、それらを少しでも成し遂げればよい、それ以外のものはすべて捨て去っても、この空の世界では、惜しくもないではないか、と考え直せるであろう。それは他者に対してでも、おのれに対してでも、同じである。人間の為すことは、永遠の見地からは、すべて空しい。他者に対して為せなかったことも、永遠の死の前には、なんらの責任も、悔いもなくてよい。そもそも私自身の力では、およばないことなのである。私自身に対しても、むしろ私自身のことがらであることによって、さらに軽い気持になることができよう。私は、私に対して執着はあるとしても、私への責任はないからである。私の存在は、この世界では無意味ではあったが、私自身にとって価値があったということなのである。私は少なくとも、私という生命を、ある程度は楽しんだのであるから。
 不思議なことに、余命ということが人生の刺激ともなるのである。一週間先に、一月先に死ぬことを予想して、まがりなりにも緊張した生を生きることが出来るであろう。たしかに、一生のすべての整理という、ネガティヴな生活ではあるが、そこに断固とした意志を働かせることが出来るならば、簡素で無駄のない生き方が可能であろう。欲望というものが、実に人生の迷いのもとであったことが、つくづくと分かるであろう。そして、身も心も軽くして、死に臨むことができるならば、少なくとも絶望の苦悩はないであろう。孤独に、無一物に生まれ、孤独に、無一物に、この世を去ることができよう。この宇宙も、私も、本質においては空であって、空が空に帰るだけのことなのである。空々漠々の中に身を包み、死にいたるまでの苦痛に耐えるまでのことである。それが動物であれ、人間であれ、すべての生命体の個としての死なのであるから。
2022年10月15日(土)
自閉宇宙
 生命体としての人間の全能力は、生命体の機能の範囲に収まるということから、人間の為すこと、考えること、感じることのすべては、生命現象そのものであると言ってよかろう。生命の為すこと以外は、人間は何一つなしえないのである。これはたいていの人には、きわめて常識的に思われるであろう。この常識が、実は哲学や宗教では通用しないのである。このことを改めて考える必要があるのは、そのためである。
 そもそも生命とはなんであるか。生命について知るのも、またその産物である生命体にほかならない。生命体は、生命そのものに対して、いわば再帰的な態度をとることによって、おのれが生命であることを知るのである。その生命の道具が意識であり、感覚・感情・情念そして思考である。意識の発生以前には、生命体は単に無意識の機能であり、細胞の有機的な工場であるに過ぎなかったろう。しかしこのような認識も、すでに意識の産物なのであり、実のところ、意識の発生以前の、生命や生命体が、どのようなものであったかは、意識を離れては、認識の対象とはならないのである。生命について知るのは、生命体の意識以外にはないのであるから。
 生命科学はそのようにして築きあげられた、意識の産物に過ぎないのである。細胞やDNAや生命の進化や突然変異などの知識は、生命体が生命に対して加えた、再帰的行為に過ぎないのである。このことは生命現象のみに限らない。そもそも知識・認識とは、生命体の諸機能によってとらえられた<もの>、もしくは世界の像にすぎないのであり、あらゆることが生命体の目に映った、生命にとって都合のよい、なんらかの構成物に過ぎないのである。生命はみずからおのれの環境をつくりあげるのである。それが空間であり、時間であり、物体であり、生命体であり、それらの総称としての<自然界>であり、そして精神や霊魂の棲処としての<超自然界>なのである。
 <自然>が人間知性の構成物であることは、比較的理解しやすいであろうが、その背後にある超越的不可知者を考えるならば、それもまた人間知性の産物である。自然であれ、超自然であれ、生命体がそこに関心をいだき、なんらかの関与をする限りにおいて、生命の機能の範囲に属するのである。つまり生命は、その世界認識において、その限界内であれ、限界を超えたものであれ、自己自身が構成したもの以外は知ることができないし、もしその範囲が超越可能であるとしても、その超越可能性そのものも、生命みずからが構成するものにほかならないのである。その意味で、生命体の認識は、徹底して内在的であり、自閉的(autism)であるといえよう。
 生命とはなんであるかの認識は、生命体の意識の再帰的構成物であると述べたが、たぶん生命体の認識において、もっとも信頼できるものであろう。生命にとって自己自身の認識が、最重要な課題であるからだ。その完成が生命についての科学的知識である。かつてのように、生命と<霊魂>とを混同することなく、有機体の生命科学として完成された生命の姿は、生命体の認識の自閉性を明らかにするのである。人間のあらゆる認識は、生命体の身体としての条件を離れることはないのである。感覚・情念・知性・理性は、それぞれに身体における場を持っている。それらの働きが、生命そのものの認識能力もしくは認識機能にほかならないのである。この世界、この宇宙は、それらの能力・機能が生み出した、生命的世界像に過ぎないのである。生命体は、いわばその認識において、自己自身のあり方を知るにすぎないのである。
 生命体は生命であるかぎり、その認識においても、その他のいかなる行為においても、生命の範囲を超えることはできない。いかに超越的な存在を発明しようとも、それは単なる生命現象に過ぎないのである。もし不可知なものがあるとしても、そのネガティヴな認識そのものが、生命の発する言葉なのである。その意味で不可知の認識そのものは相対的であり、真に不可知なものは、認識そのものを超えているのであり、それについてはなにごとも言いえないし、考えることも意識することも不可能なのである。もし意識出来るならば、それは生命の幻である。知りえないものを恐れるのは生命的反応であり、そのかぎりでは生命の認識の範囲に属し、生命体の世界認識の一部なのである。生命体はどこまでいっても、自閉的空間を逃れることはできない。これが生命体の意識の宿命的あり方なのであるから。
2022年10月9日(日)
人生の重圧
 人間は誕生したとたんから、なんらかの圧力を受けて生きねばならない。生きることが、そのまま安定した存在なのではなく、つねになんらかの内的・外的プレッシャーを受けているのである。このことは、長じて人生を振り返ってみるときに、一層よくわかるのである。人の一生は重荷を背負って坂道を登るようなものであり、しかも、ただ登るのではなく、内からも外からも、せきたてられて登るのである。ある程度登りつめて、やや平坦なところに達したとき、振り返ってみて、よくその重圧に耐えたものだと、だれもがみずから感心するであろう。一歩間違えば、坂の底に、崖下に転げ落ちたのである。
 人生の重圧は、トラウマになっていつまでも残る。悪夢の種となるのである。すでに遠く過ぎ去ったことであっても、昨日今日のことのように、胸を圧迫する。はたして、このような人生は生きるに値するのであろうか。もし忘却の能力というものがなかったならば、存在を続けることにたえないであろう。何はともあれ、いまは安全である。そう思い返すことで、日々の生活はつづけられるのである。人生の悪夢は、<天の猟犬>のように、執拗に襲いかかるのであるが。
 海亀の子は、誕生して砂から這い出たとたんに、一生懸命海に向かって這いすすむ。途中には、それを餌食とする海鳥が待ちかまえている。内なるプレッシャーと、外なる危険とが、その生命の存続の可否を決めるのである。生き残って、無事成長できるのは、数万分の一であろう。生命とは、単なる安閑とした<存在>ではなく、つねになんらかの内外の重圧によって動かされている、非常に不安定な存在なのである。人の一生もその例にもれない。
 自閉症の子というのは、この不安定さを拒む存在である。それによって生存の機会においては、非常に不利な状態におかれるのである。いわば、いつまでも砂の中にとどまっていたいと思う亀の子であり、一時的には安定していても、長くは生きられない。外からの強力なプレッシャーに対して、内からもそれに応ずる強力な衝動がなければ、個の生命は滅びるほかはないのである。この内と外とのプレッシャーの格闘が、生命そのものなのであり、人間の一生はその反映にほかならない。
 自閉的気質が強いほど、人生の重圧は強まるであろう。青少年期は失敗と悪夢の連続であり、それは成人になっても、一生にわたって続くであろう。それを発達障害といってみても始まらない。生命そのものは弱肉強食なのであり、まがりなりにも生きてこれたことは、その意味で勝者でもあるのだ。少なくとも、外からのプレッシャーに耐えるだけの、内なるエネルギーを蔵していたことになるであろう。人生の重圧に耐えるだけの、内的エネルギーが発揮できれば、自閉症であることも克服できるであろう。
 たとえ人生の悪夢が日々襲いかかっても、それが内なる反撥のエネルギーを生むならば、むしろ歓迎してよいかもしれない。ニーチェが言うように、生命欲をかきたてるには、<敵>が必要なのであるから。かといって、好んで重圧にさらされる必要はない。生命体は攻撃的であると同時に、つねに逃避ということを心がけているのである。小鳥は餌となる虫をついばみながら、つねに周囲に目配りをしている。内外からのプレッシャーが最小になるように生きることが、生命体のもっとも賢い、本能的な生き方なのである。人間は社会環境ばかりでなく、みづからの内に記憶という敵を持っているが、それをコントロールすることが、日々の生活でもっとも大事なことである。外からのプレッシャーを内に蓄積させないこと、内からのプレッシャーによって翻弄されないこと、そうした心がけによって、記憶を浄化していくほかはないであろう。
2022年10月2日(日)
Ignorabimus
 知性・理性・意識・意志といった人間特有の能力は、世界の探究において、不可欠な、かつ必然的な要素であるとされるのが、西洋哲学の発端以来の伝統であるといってよかろう。これらの能力を用いて、自然・宇宙の本質が、見きわめられ、人間の生き方、存在のあり方も、探究なしうるとされるのである。古代においてはとりわけ、理性的能力と、自然界の本質との、無条件の一致が説かれることが多かったといえよう。人間の持つ理知的能力は、同時に自然界の法則であり、原理であるとされ、理知を働かせるということは、同時に自然の理知に従うことであり、人間界・自然界に共通する<指導原理>なのであった。これは<天命>の思想を持つ、東洋においても変わらないであろう。
 人間が<魂>を持つという考えは、自然界とりわけ生命界の現象にもとづいている。理知と意志とを<意識>的に働かせるという、生命界特有の現象を、魂もしくは霊魂と名づけたのである。これは人間をはじめとした高等動物ばかりでなく、生命界全般におよぼされることとなる。そこからアニミズムやアニマティズムが生まれる。ひいては自然界と結びついた神観念が発生するのである。神観念はさらに、自然を超えた純粋霊魂にまで高められる。しかしその起源は、生命界における霊魂の観念にあるのである。
 世界の根底に理性をおくにせよ、自然界全般に霊魂観をおよぼすにせよ、そうした観念が生まれるには、人間のもつ生命体としての能力が、そのまま自然界に投入されることによって、自然即人間あるいは人間即自然という、同一性の発想がその前提となっているのである。この前提を徹底的に疑うことは、たいていの人類文化においては生じていないのである。必ずどこかで、人間の諸能力は、自然界の原理と通じあっており、自然に従うことを最上の人間のあり方であるとし、あるいは逆に人間の諸能力によって、自然は<克服>できるものと見なされるのである。
 そもそも人間の持つ諸能力とはなんなのであるか。それを知るには、人間とは一介の生命体であるということを、基本にしなければならない。生命体、生命とはなんであるか。単なる自然の一プロセスに過ぎないのである。自然界全体から見れば、その全過程の取るに足らない一部にすぎないのである。その生命体が、宇宙の片隅で細々とした存在をみずから養っている。厖大な森の中で、小さな蜘蛛が巣を張っているようなものである。その蜘蛛に、森全体のどこまでが見とおせるのであるか。どこまで空や水や宇宙について知ることが出来るのであるか。生命界というのは、全宇宙・全自然の中で、この小さな蜘蛛の立場にあるのである。
 蜘蛛はおのれの張っている巣と、その環境以外には知らない。それはそれなりに、あやうい調和を見せているであろう。しかしそれだけのことである。彼にとっては、巣とその環境とが全宇宙なのである。同じことが生命界と、その産物である人間の存在についても言えるであろう。人間は、理性や、悟性や、意識や、意志といった蜘蛛の巣を張って、おのれの周囲の環境をとらえているに過ぎないのである。それが宇宙自体、自然自体の本質である保証はどこにもないのである。自然の本質が理性であるというのは、自己自身が理性という能力によって、その環境をとらえているからに過ぎないのである。そしてこの理性を生み出したものは、まさに生命であって、生命の都合によって生まれた能力に過ぎないのである。自然の本質がそれを必要としているとは、決して言えないのである。霊魂や意識や意志についても同じことが言えるであろう。意識や意志が生命体に特有であるからといって、それが全宇宙・自然界の本質であるいわれはないのである。霊魂とは、まさに生命体の発明なのである。
 人間にとってもっとも基本的なのは<物質>ではなく、まさに生命としての特異な現象であり、存在なのである。自然界・全宇宙は生命現象を包含するものとして、物質と呼んでもよかろう。その意味では、物質は生命体にとって決して理解できない全体であり、不可知の本質なのである。しかし物質というものを、なにかの探究の原理と考えるならば、それはまた生命体の罠に陥っているといってよかろう。自然科学がそれであって、物理学が物質を探究するという意味においては、物質は不可知とはみなされていないのである。そのような物質は、実は自然の本質ではないのである。
 自然の本質は不可知である。あるいは、人間のもつ諸能力によっては、決して把握できない、徹底的にネガティヴななんらかの存在なのである。それを仏教では<無>とか<空>と呼んでいる。生命体は、<空>の手のひらにおいて、理性や意識や意志や霊魂を誇っているに過ぎないのである。理性の根底には<空>がある。かりにイデア界が人間理性の及ぶところであるとしても、人間が把握したイデアは、すでにイデアそのものではなく、その本質は失われているのである。生命体の意識は、生命体の内部以外のどこにあるわけではない。意識も記憶も、生命体独自の機能なのであり、宇宙のどこにも、それが保存されるわけではない。霊魂には、生命体の内部以外には、どこにも行き場がないのである。意志はどうであるか。生命体の意志が、そのまま世界意志でありうるのか。もし世界に意志があるならば、その本質は意欲でも衝動でもなく、なんらかの不可知のエネルギーであろう。それが世界を意図したり、創造したりする必然性はないのであり、世界は単なる偶然や、流出であってもよいわけである。世界に始まりがあったり、創造神や第一原因を考えたりするのは、すべて生命的発想なのである。
 世界意志の背後にも<空>がある。イデアの背後にも<空>がある。それでは自我についてはどうであるか。自我とは生命体においては、意識と意欲(意志)との複合として現われる。それが身体的・生命的自我であり、未開人のあいだでは魂や霊魂と呼ばれる。このかぎりでは、単なる生命現象であり、生命的に理解できるものであり、自然の不可知の本質とは相容れない。しかし、自我は理知と結びつくことにより、純粋な自己意識に達し、生命的自我を超えた<不可知>の自身を見いだす。これが自我の背後にある<空>である。世界意志・イデア・自我の<三一体>それぞれの背後には<空>がある。自然とはこの<三一体>そのものなのであるから、自然の本質は<空>そのものなのである。したがって人間が生命体であるかぎりは、永遠に不可知であり、探究不可能なのである。
 デュ・ボア・レイモン**にならって言うならば、Ignorabimus !(我々は決して知ることがないだろう)。

)たぶん自己自身の存在を不可知だと思わない人が大部分であろうと思う。いわば自我意識の乖離を起こすことがないのであろう。たいていの人には自我の唯一無二性も不可解性も無縁なのであって、科学や心理学の説明で十分なのである。
**)Du Bois-Reymond:Ueber die Grenzen des Naturerkennens (1872)

 *   *   *

 以上、究極的な不可知論の立場を述べたのであるが、それが生命体としての人間の生き方において、どのような意味を持つであろうか、そのことを考察する。
 個体生命は、それ以上でもそれ以下でもない、一度限りの存在を享受するだけである。どのような生き方をしようとも、それは一度限りであり、すべては生命体としてのあらゆる能力と、その環境との間の関係につきるのである。そこには永遠も不滅もない。天国も地獄もない。霊界も神もない。それらはすべて生命界の仕掛けた、舞台装置にすぎないからだ。名誉も恥辱もない、道徳も不道徳もない。精神的なもののすべては、生命界の類的意志が仕掛けた、種の保存のためのトリックに過ぎないからだ。
 これは個としての人間にとっての大いなる解放となりうる。すべてのとらわれは、生命体の執着や思いこみから来るのである。生命体は自己に都合のよい時間・空間の環境をつくりあげ、さまざまな織物によって個体生命をからめとり、あたかもそれが永遠の真理であり、善であるかのように思いこませるのである。美の意識ですら、生命の意欲によって支配されている。真善美こそが、生命がつくりあげた最大のトリックなのである。そしてそれらを、宇宙そのもの、自然そのものの本質であると思いこませるのである。
 真善美の生命的な妄念から解放されるとき、人間は真の意味で<自由>になれるであろう。あるいは、生命的桎梏を断つことは限りなく困難であるから、少なくともつねにネガティヴな心術を保つならば、生命のトリックにおちいることを避けることができよう。
 人類のあらゆる妄念、妄執、欲望、あだな希望は、すべて生命の仕掛けた罠であることを知れば、なにごとにも動かされない心を培うよすがとなるであろう。かといって生命体であることをやめることはできないのであるから、それらの心を苦しめる罠を解きほぐし、うっかり生命の誘惑に陥らないようにすることが、人生の叡知ということになろう。知識の探究はしょせん人間的知性にとどまるのであり、何を欲しようと、なにを為そうと、人間の行為はその場かぎりであり、生命界以外には、なんらの痕跡もこの宇宙に残さぬものである。野心も虚栄心も、希望も期待も、すべて生命のあだな欲望であり、成就したからといって、しなかったからといって、この宇宙にとってはちりほどの価値もないのである。<価値>とはまさに、生命が生み出した言葉なのである。それは真理価値であれ、その他のあらゆる価値であれ、同じことである。
 人生はその意味で無価値であってよい。価値を求めること自体が、なんらかの錯誤であり、妄念なのである。生命の波に流されずして、うまく波乗りすることが、最上の生き方である。そして遊び疲れた果てには、永遠の眠りがまっている。永遠とは<空>に迎え入れられることであるから。その時はじめて、生命体は、人間は、自然の本質と一致するであろう。
2022年9月19日(月)
人生の自給自足について
 経済学でいう自給自足(autarchy)は、人類の自然的性質にもとづいており、それはそのまま人間の生き方、すなわち人生に応用の出来るものである。経済における自給自足の根本は、食糧生産であり、限られた地域での生産と消費のサイクルを持続させることである。食が生活の根本であるかぎり、農業生産の<地産地消>で、すべてをまかなうのである。商業や輸出入などは、必要とされない。最低限の工業生産も、地域内のサイクルでまかなわれる。このような〈小国寡民〉は、実際には特殊な地域や未開民族をのぞいて、人類の間でほとんどおこなわれなかった。道具や技術の発明と伝播、商工業の発展が、限られた地域での自給自足を破壊していったのである。
 経済的な自給自足がうち破られるとともに、生活すなわち人生における自給自足も失われていった。自給自足の限られた経済圏では、人間の一生はおなじく集団的な自給自足の範囲にとどまっていた。その社会から抜けだそうなどとは、だれも考えなかったであろう。そこでは不足ということが、ほとんど意識に上らないからである。食欲は基本的におのれの労力で満たす。性欲すなわち婚姻は、その社会の慣習の中で満たされる。社交欲も、その社会の限られた交際の中で充足されたのである。経済的な自給自足が、その社会の成員の、人生そのものの自給自足でもあったのだ。
 このことから、現代に生きる個人にとっても、大いなる生活のヒントが得られるであろう。現代における自給自足とは、もっぱら個人の生活をめぐるそれなのである。まず自己自身の生活範囲を限らねばならない。世界はさまざまな刺激や誘惑によって、個人の自己拡張欲をあおるばかりでなく、現今の経済的・社会的制度が、その範囲内に個人を取りこもうとする。世界を知り、社会を知り、経済・政治制度を知ることは、賢く生きるために必要であるが、個人が生きるためには、実は世界はそれほどに広くある必要はないのである。もし天動説を信じる人があるならば、その宇宙観によって充分に一生を満足して生きることが出来るであろう。人生を満足して生きるには、プトレマイオス以上の知識を得る必要がないのである。そのような自足の人生を生きた中世人は多いであろう。自己自身の範囲を限るということは、知らずに済ませることであり、欲求せずに済ませることであり、有るもの、得られるもので済ませるということである。
 欲求・必要は、それを満たすために、自ら配慮し、労働し、そしてその結果として、自己自身において充足をとげればよい。そのような自給自足が可能な営みとしては、まず何よりも食生活があげられる。食にいたるまでの労働や、骨折り、たとえば大がかりな農は不可能としても、野菜や果樹などを栽培し、収穫し、調理し、料理することは、それがもたらす満足は、もっぱら自己自身における享楽であり、理想の自給自足であるといえよう。食べることは、それ自体で身心に充足をもたらす。それ以上でも、以下でもない。他者に気兼ねしたり、他者を喜ばせたりする必要はまったくないのである。協同などということは、全く無視してもよい。
 食は生理的な自己充足であるが、同じように、もっぱら個人の自己享楽をもたらすものに、金銭の蓄積がある。金をかせぎ、儲けること、蓄財は、世間では悪くとられることが多いが、実は個人がもっとも自己自身において心理的満足を得られることなのである。財を喜ぶことは、もっぱら個人の自己充足にかかわることであり、そこから財の力によってなにを為そうとも、金銭そのものは他者とはまったく無関係に、個人の生活欲を充足させるものである。食と同様、財すなわち金銭が、現代での個人の自給自足の根本原理であるといってよかろう。しかも、食は財を前提とすることであるから、個人が自立的かつ自律的に、自給自足の人生を生きるには、何よりもまず財を確立しなければならないのである。
 食欲と金銭欲、この二つは明白に個人の享楽を目的とした営みに向かわせるが、性欲や社交欲は、他者を必要とし、他者と共有しなければえられない享楽である。それ故に、自給自足の原理からして、極力制限しなければならない欲求である。それには配偶者一人あれば足りよう。動物界でも一婦一夫の場合はそうである。いたずらに性的好奇心や、社交欲に翻弄されないようにするのがよい。
 そのほかに、身体の健康を保つためのスポーツや運動は、自己享楽であるためには、競争をさけねばならない。おのれの身体が快適に働くように日ごろ運動することは、それ自体で価値あることであり、享楽でもある。これは趣味や芸術についても言えることである。自己享楽であるためには、人から評価されたり、較べあったりするのではなく、そのいとなみ自体において充足がえられるのでなければならない。人とその感興を共有する必要はまったくないのである。そのもっとも純粋な自己享楽は、自然観照であろう。おのれの内面を出でることがないからである。絵画や文芸は、表現であることにおいて、すでに不純であり、音楽は自己自身にとどまることができないかぎり、やはり不純である。
 知識欲や探究心は、人間の知的能力を超えない範囲で満足すべきである。それには懐疑論や不可知論がよい薬となる。宇宙についても、おのれについても、究極のところは知りえないのであるから、ignorabimus(We shall never know)の範囲内で、おのれの知的・認識的いとなみの世界を限るべきである。学問においても、貪欲は禁物である。
 自給自足の人生を生きるには、心身においておのれを制約し、おのれの範囲を限ることが肝心である。おのれの範囲は、注意が外にそらされないかぎり、実は充分な広さがある。野心や、気まぐれや、あだな好奇心といったものを極力おさえ、おのれの周囲に目を向けるならば、そこに豊富な自己充足の世界が広がるのである。もしおのれの世界に退屈を覚えるようになるならば、外に刺激を求めても所詮自己充足には及ばないのであり、人生の終焉と知るほかはないであろう。
2022年9月15日(木)
クロスバイク入門
 老年期の金のかからない、個人的なスポーツと言うと、金持ちでない限りは、ゴルフやスポーツクラブなどは論外であるから、家での柔軟体操のようなことをのぞけば、ウォーキングやハイキングやサイクリングなどが、健康維持のための、戸外での身体の運動ということになろう。
 この戸外での三大運動のうち、一番行動範囲の広く、融通の利くのはサイクリングである。しかし体力の衰えにつれて、長年乗りなれたシティサイクル(ママチャリ)が、やけに重く感じられてくる。颯爽と疾駆っているスポーツ自転車に追い越されながら、のんびりとはしるのも悪くはないのだが、体力的に長く乗れず、到達距離がどんどん短くなっていくのが困りものである。そこで、思い切って、スポーツ自転車に挑戦してみることにする。
 それにはまず、スポーツ自転車がどんなものか、良く知らねばならない。三種類ある。ロードバイクとマウンテンバイクとクロスバイクである。キノコのようなヘルメットをかぶり、サイクルスーツを着て、車と同様に奔るロードバイクは、まず敬遠して、マウンテンかクロスに絞る。マウンテンバイクは、子供の自転車によく見かける、広いタイヤなので、安定した乗りこごちのようである。しかも河原や悪路を走れるので、も少し若ければ、それにしたであろう。いまさらラフな乗り方は考えていないので、クロスバイクに落ち着いた。クロスというのは、スポーツバイクとママチャリの中間の意味らしい。
 さて、実際に乗ってみて、クロスバイクは一般のシティサイクルとはまるで違う、乗り方と乗りこごちであることがわかった。まず軽いのだ。ママチャリは20キロ近くあるが、その半分程の11キロである。このことが、クロスバイクが、思わぬ危険を招く乗り物であることにつながっている。ママチャリに乗りなれているからといって、油断することは禁物である。乗り慣れるまでには、充分な練習と慎重さが必要である。とりわけ、高齢にして初めて挑戦する人にはである。そこで注意すべきことを、項目にしてまとめてみる。

1.右(前輪)ブレーキは厳禁。ママチャリでもそうだが、スピードを出しているところで、前ブレーキだけをかけると、激しくつんのめる。重量の軽いクロスバイクでは、たちまち路面に叩きつけられることになる。大怪我をするか、場合によっては死亡しかねない。右(前輪)ブレーキは用心して、まず使わないのがよい。普段は左(後輪)ブレーキだけを使うこと。やむをえず右ブレーキを使う時は、左ー右の順、または同時に使う。筆者は右ブレーキのシュウを少しずらして、効きを悪くしている。
2.上のことに関連して、高齢者であるからには、スピードを出しすぎないこと(特に坂道で)。動体視力の衰え、反射神経の衰えなど、全体に敏捷さが鈍っているのであるから、それに見合ったスピードで奔ること。6段あるギアチェンジは、1から2までで充分なのである。脚の回転数を変えなければ、2で充分なスピードが出せる。
3.クロスバイクでは前傾姿勢になる。脚と尻と両腕の三点で、重心を分かつことになるので、全身の運動になる。最初はふらふらしても、慣れてくると、ママチャリよりも真直ぐはしれる。すぐ尻が痛くなるので、厚地のカヴァーをするとよい。
4.出る前には綿密に地図を調べ、なるべく車と一緒にはしらずにすむ道を選ぶ。裏道に精通しておくとよい。大きな道路は、歩道をはしれる道だけにする。とにかく、スポーツ自転車とはいえ、のんびりはしることを心がける。
5.出る前の、車体の点検。特にタイヤの空気は、ママチャリ以上に一杯に入れておく。フレンチ式のバルブなので、手順が面倒である。
6.乗るときは片脚を後ろからまわす。止まる時や降りるときは、いったんサドルの前に尻を移動する。乗ったままで足が地面につけばよいが、前に尻をずらせて両足で立つと安定する。
7.出る前には、充分に全身の柔軟体操をしておく。特に、脚の跳ね上げ運動をしておく。
8.スポーツ自転車ではあるが、高齢者には長距離はひかえるべきであろう。疲労がすぎると危険であるから、片道10キロ程度がよいであろう。それ以上の距離は、駅の駐輪場において鉄道を使えばよい。ウォーキングやハイキングの途中のつなぎとして、料金の節約にもなる。

 以上、老婆心からいろいろ書いてみたが、高齢者であるからといって、スポーツ自転車が一概に危険だというわけではない。要は、危険を心得たうえで、慎重な乗り方をすればよいのである。自動車以上に注意力を養うことにもなり、認知症なども恐れるに足らないであろう。ただし、身心の不調な時には、どんなスポーツも同様であるが、無理をしないことである。
2022年9月12日(月)
老いるということ
 老年期には、身体の能力や機能がまず衰えるであろう。思考力などの精神機能は、認知症にでもならない限り、それほど衰えを感じないばかりか、むしろ粘り強さを増すであろう。身体の能力や機能は、節度さえ保てれば、日常生活に困ることはないのだが、問題は、身体の衰えにともなう、さまざまな疾病の発生によって、意欲や気力が影響を受けることである。
 深夜にふと目覚めたとき、なんとない体調の悪さが全身に倦怠感をもたらし、このまま生きているのがつらく感じられ、死んでしまったほうが楽に思われることがある。睡眠と死とが同じような安楽に思われるのである。たぶん、動物にとってと同様、人間にも死と睡眠とは類似現象なのであろう。どちらも身心の安楽と、安らぎをもたらすのである。生命は、無駄なことをしないので、両者は同じ生理機能の延長上にあるのであろう。
 老年期の心理に際だつのは、<若さ>の喪失と、<夢>の消滅にともなう、底無しの<悲哀>である。若さについては、止むを得ないことで、目をそむけさえすればよいが、つまりなるべく鏡を見ないようにすればよい。夢の消滅は、それよりもさらに大きな落ち込みを、覚えさせるものである。あの頃は夢があったという想いほど、人生の幻滅、悲哀を感じさせることはないのである。かつては希望や期待に生きることができたのである。
 これらのことは、単におのれに関するだけではない。むしろ周りの人間やパートナーの人生に、より強く感じさえするであろう。ともに生きてきた他者ならば、悲哀とともに強い慙愧の念さえ覚えるであろう。時の推移に対しては何一つなしえないのであるが、他者の人生の成否が、あたかもおのれの責任かのように感じるのである。

 こうした落胆と悲哀と徒労感に対して、高齢者はどのように対処できるであろうか。まず、意欲の減退を何とかしなければならないであろう。生命の最も根本である、食と性に関しては、それの意欲の消滅とともに、生命は終わるのであるから、これを維持することが、まず第一であろう。食に関しては、日に三度の食事を味わい楽しむことが、意欲の基本となる。先が短いのだから、美味しいもの以外は食べないと、私の母親は言っていた。レトルトのハヤシも、100円ショップのクッキーも食べなかった。米はつねにコシヒカリである。といって特に金持ちだったというわけではない。人生を面白く生きた人であるから、最後まで楽しめるものは楽しんだのである。これに賛成するわけではない。
 どんな粗末な食事でも、味わうことを忘れなければよい。味覚によって意欲をかき立てるのである。それができなくなっても、空腹を満たす欲があればよい。食欲はそれ自体で自足する欲であるから、年齢とは無関係なのである。性に関しては、男女で異なるであろうが、男性は節制を心がければ、一休や一茶のように、生涯つづきうる欲望なのである。ただ若年期のように、パワフルなactはできまいが、異性に対する関心は失せることがないのである。actをかきたてようとして、通常の刺激では足らなくなり、abnormalに走らないよう用心すべきである。できうべくんば、性欲は、はやめに卒業したいものである。若年期は性欲や性愛で生かされても、老年期にはそれに代わる欲求を培いたいものである。
 食や性のような自然の欲求に代わることはできないが、それにまさるとも劣らぬ快や興奮をもたらすものとして、所有欲と勝負事とがある。囲碁や将棋といった盤上の勝負事は、確かに老年期の趣味として、それなりの欲望の発散をもたらすが、所詮趣味なのである。<うで>を上げたり、勝負に勝ったりすることの興味は、年をとるほど薄れていくであろう。他方、所有欲は、ほぼ納得のいく財や知識を成したものには、大して魅力はないであろうが、財は大きいほど老年に役立つのである。知識の増大は、先の短いものには、もはやたいして必要ない。これまで得た知識や認識を、反芻すればよいのである。そこで老年期の所有の欲望は、主として財を動かすことと、それの増大に向けられるであろう。これは地位や名声や業績といった、人生の<夢>の喪失を、即物的な欲望で補うことになろう。
 投資が、老年期にふさわしい、欲望の発散の場となるのである。とはいえ、株のような、安定して儲けるためには、長期の投資が必要になることは、実のところ先のない老年期に向いていない。短期の投資で、ギャンブルに等しい賭け方をしなければならない。
  身体がある程度健康であるかぎりは、スポーツや旅行や行楽によって、生きる意欲をかき立てることもできよう。しかし体力が衰え、好奇心が減退する中で、それらに対する意欲も衰えがちである。まず健康維持に対する関心を持ち、広い世界への好奇心や、四季の移ろいに対する感受性を失わずにいることが肝要である。
 つぎに、必ずしも有利ではないが、家族や子孫に対する依存心が、意欲のもととなることがある。これは他者依存の心理の一種であるが、同族への愛着、子や孫への愛着といった、種の保存の本能にもとづいた意欲のあり方である。他者に依存するために、裏切られることが多いのである。孫たちは、祖父や祖母を行楽や小遣いや買物をねだる、恰好の獲物と見なしている。息子や娘たちは、遺産を当てにして、日参するのである。それがわかっていて、喜んで応えることが、<ジイジ、バアバ>の生きがいとなるのである。脳内からはオキシトシンという物質がだされて、種の存続のための心情のコントロールを行なっているそうであるから、これはほぼ本能的であって、意欲の減退した高齢者にとっても打ち勝ちがたいのであろう。古典語でいえば、子や孫への思いに惑わされる<心の闇>なのである。
 
 さて、意欲の減退の対処法を、おおまかに述べてみたが、どれも肉欲や物欲や本能など、身体の欲求ばかりではないか、もっと精神的なものはないのかと批判されよう。そもそも、生への意志を、精神というあやふやなもので補おうとすることが、原理的に間違いなのである。精神がもし働くならば、その背後には必ず生への意志、生への意欲がある。意欲が先なのである。まずWollen(意欲)があって、Denken(思索)なり、Muessen(必要)なり、Sollen(なすべし)なり、Handeln(行為)なりへと進むのである。さいわいWollenがあって、このような文も書けるのである。眠ろうとする時に、まともにものを考えることなどできまい。
 とはいえ、精神的なものは意欲を誘うことが出来る。その誘いは、たいていは肉欲か物欲に負けてしまうのだが、両者が静まっているとき、鬼のいない間こそが、精神の出番である。精神は静かな内省へと誘い、生と死について瞑想させる。心を死に対して準備させるのである。落胆も幻滅も徒労感も、身心の限りない落ち込みも、詮ずる所、生への意志の自虐であることに気づき、生への意志の克服へと向かわせるのである。死はむしろ願うべきことであるのかもしれない。精神はまったくの傍観者として、生死に臨むであろう。身心はあるがままにあらせればよい。肉欲と物欲と本能の、最後のあがきを見届けて、精神はもしあるならば、おのれの世界へと帰るであろう。

   

  今は秋だ
  木の葉が舞い落ちる
  別離の悲哀が
  森を吹きぬける
  荒海に過ごしたこの身は
  春と鶯をとらえそこねた

  空はあんなにやわらかで
  あんなに光り輝いたのに
  その温かい光は失われた
  海には波の華もなく
  荒い風は歌わなかったのに

  そうしてわたしには
  若さが悲しく過ぎ去った
  春の幸福をとらえないままに
  秋は別離の冷たさで
  わが身を吹きぬける
  こころは死を夢みる

 ――ニコラウス・レーナウ
2022年9月6日(火)
他者の目と鏡像
 鏡像は物理的現象として、見る者からは、身体の左は鏡の左に、右は右に映る。これは見る視点が変化していないことを示す。自己の身体でありながら、それを映ったままに、視点すなわち主観のありかを変えずに見ることによって、身体の左右がそのままに見えるのである。鏡像の左が自己の身体の左であり、右が右であることに、戸惑うことはない。わざわざ主観を、鏡像の身体に投入してまで、左右を変えることがないからである。左右反転していると考えるのは、そのような主観投入をおこない、鏡の視点から把握するからである。
 このことをさらに具体的に考えてみる。鏡に自身の姿を映すと、その影像の左右は、そのまま私の身体の左右である。私の左肩は、鏡の左に、右肩は右に映る。このことに何の違和感も感じることはない。私は私の身体を、そのまま鏡に投影しているからである。この観点では、鏡の身体像は少しも左右反転してはいない。私の顔ですら、左は左、右は右である。それでは、通常違和感のない鏡の像が、なぜ左右が反転していると考えるのであるか。視点を鏡の中に移動させるからである。鏡を見ている私ではなく、鏡の中から見返している私の見地に立つからである。もし鏡の中の世界に、影像のままに入ることができたならば、私の見る方向が左右の基準となり、鏡の像の左右が入れ替わることになる。もし私の左腕がなければ、私は鏡の中では、右腕を失っていることになる。このような想像をおこなうことによって、鏡の像が反転していると考えるのである。実際には鏡の像が反転しているのではなく、単に見る視点が反転しているのであり、すなわち逆方向になっているのである。

 さて自己自身を映すものは、鏡のような単に物理的現象ばかりではない。他者の眼、あるいは動物一般の眼も、ある意味で私自身を映す鏡であるといえるのである。しかし、他者の眼に映ったおのれは、鏡の像そのものではない。相手の瞳に映っているおのれの像を、場合によってはとらえることができよう。しかし他者の眼は単なる鏡ではない。それは同時に相手の<視線>なのである。視線の底には、私の像が〈表象〉として存在している。表象として現われた私を、相手はどのような像としてとらえているか。実は相手もまた、私を同時に<視線>としてとらえているのである。互いに相手の像を、その内部からの視点において把握しているのである。内部からの視点であるから、互いの像は鏡の像と違って、左右反転されてとらえられていることになる。私は相手の身体を、正面から目にしたとき、その左を左とせずに、右と判断するのである。相手もまた同じ事をおこなうであろう。君の右手にあるという表現は、相手の身体から見ての左方向ではなく、右方向を意味するのである。このような左右の逆転が、主観と主観の相互的関係においては、つねにおこなわれている。
 相手の眼、すなわち主観に映ったおのれの身体は、右と左を取り違えられることはないのである。私の身体の左側は、相手にとっても左側であり、相手の身体の左側は、私にとってもやはり左側である。私も相手も、決して身体の左右をそのままに映すことはないのである。すなわち、他者の目に映った私の身体は単なる物理的現象ではなく、そこに必ず視点の投入、すなわち主観の相互的入れ替えがおこなわれるのである。この相互主観の働きによって、私は自在に、主観と主観との間を行き来することになる。

 他方、私が世界に向かうときは、世界は一個の主観に対する単なる鏡像でありうる。それは私自身を私が眺めるときと同様である。私は世界がを反転しているとは考えないのである(私はモニターの右にあるスピーカーを、決してモニターの視点から左にあるとは考えないのである)。しかし、私が人間に向かうときは、人間界は多数の主観からなる、無数のアスペクトにおいてとらえられる。私自身も、その一個のアスペクトに過ぎないのである。私は決して人間を、一方的な視点のみからはとらえないのである。この集合的な主観、相互主観において、自己自身の身体、自己自身の主観もまた、客観的に把握されることになるのである。自我というものを主観と同じものとするならば、この無数の主観の世界では、独我論の余地はないといえよう。
 もし集合精神というものが考えられるならば、この相互主観の働き以外にはないであろう。人類史、人類文明は、この相互主観の働きなしには考えられないのである。一個一個の主観は鏡としては絶対ではあるが、それが他者の目を通して、無限に自己増殖することによって、人類の思想という、無数の主観からなる全体的精神を生みだすのである。これは鏡像と比較して、内に向かう視点、あるいは内に収斂する精神であると言ってよい。自己自身を物理的、客観的に映し出すのではなく、主観相互の間の交渉、相互主観に映し出された内在的世界の像である。そのような集合的主観である人類の精神が、必ずしも自身と世界とを正しく捉えているとは言えないであろう。相互主観によって、世界の左右の認識を修正しているのであるから。
 一個の精神は純粋に鏡でありうるが、鏡が集まることによって、すなわち集合精神において、鏡像は互いに反射しあって、なにが絶対であるかの基準が失われるであろう。客観性の基準を求めても、えられるはずはないのである。これが人類の思想の宿命であるかもしれない。

 *   *   *

(以下9・8追加)

相互主観の克服

 集合精神もしくは集合意識が、他者の眼の産物であるならば、文化的現象の多くのことがらが理解しやすくなる。社会Gesellschaftとは、他者の眼の集合そのものであり、互いに監視し合うシステムにほかならない。国家Staatは、それを唯一の目で統合したものである。宗教Religionは、それをもっとも正直に現わす精神システムである。神とは精神化された唯一の眼であるにすぎない。他者の眼は、人類のあらゆる精神文化を支配しているといってよかろう。
 歴史Geschichteとは、多くの他者の目が見たものの集積である。私が見たものは、単に私自身の記憶にすぎないが、それが集合意識に加わることによって、歴史となるのである。なんらかの統合的な眼が、歴史の上に投じられるならば、史観が生まれ、思想Gedankeが生まれる。思想は、一見個人的な眼であり、見地であるように思われるが、実のところ、他者の眼なしには存在しえないのである。思想とは、いわば私自身が他者の眼そのものになることである。まず私自身が、その眼によって説得され、さらには、その影響が他者の集団にも及ぶのである。私は何よりも見られる存在にならなければならないのである。だれにも見られない思想などはありえない。考えられたことは、すでに集合精神の領域にあるのである。
 このことは、ものを考える時に、なにかを吹き込まれているような意識が、頭のどこかに生じることからも言えよう。いわば、他者が頭の中で考えられたことを、承認したり、アドヴァイスしたり、場合によっては拒んだりするのである。つまり思索とは、つねに頭の中で見えない相手と対話することなのである。人間はつねに、集合的にものを考えているのである。
 文学は、言うまでもなく社会的産物であるから、集合精神、あるいは集合意識そのものである。読者・聴者との相関がなければなりたたないのである。ただし文学を創作する立場と、単に読む立場とは、異なっている。読む立場は、作者を意識しなければ、純粋に個人的意識の状態が可能である。単に作品を読んだからといって、他者からの直接の影響を蒙ることはないからである。したがって、読書は、特に文学の読書は、もっとも危険の少ない模擬的社会体験なのである。

 人間が社会的存在であるということは、要するに相互に他者の視線にさらされて生きるということである。これを人間の住む精神的エレメントとして、ヌースフィアー(noospheare)などと名づけることがあるが、集合的視線によって本能的、想像的に作られた、ある種の全体的な架空の意識界に過ぎないのである。客観的にそのようなものがあるわけではない。基本的には、生命界すなわちバイオスフィアー(biosphere)によって生み出された、ある種の幻影に過ぎないのである。無意識界はバイオスフィアーそのものであり、集合無意識ということは、実在的でありうる。それの意識界への反映が、ヌースフィアーなのであり、基本的に無意識界に支配された世界なのである。さもなければ、他者との関係において、集合精神などというものを構成することはなかったであろう。精神界自体は相互的構成物であり、それが実体的、客観的に実在するわけではない。絶対精神などはナンセンスなのである。
 もし絶対的視点がありうるとするならば、それは純粋に個人の視点、純粋主観の視点のほかにはないであろう。それは鏡と同様にして、おのれと世界とを映し出すからである。そのように映されたおのれと世界とは、純粋な<客体>である。この意味で、独我論(solipsisme)の視点のみが、唯一絶対でありうるということである。実は理想の観念論は、ある意味でつねに独我論の要素を持っているといえよう。イデアが絶対であるためには、それは人間との相互的関係で存在してはならないからである。イデアはつねに人間からかけはなれた、絶対の客体でなければならない。このような把握が可能であるためには、私自身は相互主観であってはならないのである。私はじかにイデアと向き合うのである。それは私からイデアへの一方的な視線であって、イデアは決して私を見つめることはないのである。もしそうならば、それは単なる相互主観の産物である、<神>となってしまうであろう。
 世界を客観的にとらえるとは、単に主観にとらわれないということではなく、正しく主観の観点に立つということでなければならないだろう。相互主観の克服が、世界の絶対の真相に近づくための、第一の条件なのである。イデア論はその発端である。イデアの観照ということは、純粋主観にして、はじめて可能なのである。仏教においては、主観をまず、相互主観から解放するということが行われるであろう。世界の実体をつかむには、なによりも澄みきった主観が必要なのである。自我を純粋主観へと浄化すること、これがニルヴァーナへの道なのである。仏はそこに純粋自我として顕現するであろう。このものは、くもりないWelt-Auge(世界の眼)として、<無>もしくは<空>そのものである。空にして始めて、純粋主観は世界の本質の洞察もしくは観照に達するのである。
2022年9月3日(土)
意識と自然の叡知
 自我は意識的人格と、無意識の人格の複合的ありかたであると以前に論じた。人格は多重的であり、意識に現われた人格は、無数の可能的な人格を代表するもの(primus inter pares)に過ぎないとも論じた。意識的人格は万能ではなく、つねに無意識からの情報や影響によって左右され、支えられている。にも拘らず、意識はあたかもおのれが自由に考え、判断し、行為しているものという錯覚にとらわれている。この錯覚そのものも無意識の機能なのであるが、それにしても、意識的人格が、<意志の自由>なる錯覚から逃れられないのには、ある種の優越意識がそこにあるからである。これを意識の高慢(arrogance)といってよかろう。
 実のところ意識的人格は、無意識界からのさまざまな情報によって、気づかずして支えられ、援けられているのである。自ら判断し行動したと思っていることでも、実は無意識からのさまざまなアドヴァイスや、ヒントに従っているのである。普段それに気がつかないのは、自らそれを為したという自由意志の、いわば自由を与えられているからである。これに気づくことがあるのは、意志の自由と無意識からの働きかけが、何らかの形で乖離する時である。これを一般的に<きざし(兆)Ahnung>と名づけてよいであろう。これはある種の無意識からの作用の<けはい(気配)Sugestion>なのであって、直接の情報ではないことが多い(kiもkeも、漠然としたヒントの意味である)。こうした兆しや気配が現われると、意識的人格はある種の反撥をおぼえ、たいていは無視するものである。しかし結果的に、そのヒントが正しかったことに気づき、不気味さとともに、いまいましさをも感じるのである。かりにそれに従わなかったことによって失敗したり、破滅したりしても、潔くおのれの自由意志の為すわざとして、甘受するのである。
 伝説であるか、史実であるかは知らないが、明智光秀が本能寺襲撃を決める前に、神社でおみくじを三度引き、三度とも凶であったという。あえて無意識からの託宣に逆らい、破滅の道を進んだことは、彼自身の誇りと倨傲のなすところであったろう。こうしたケースは、普通の人生においてもしばしば起こるのである。例えば失策のケースがそうである。ある人が株を30株買うところを、300株と打ち込んでしまった。ちょっといやな気がしたが、予定通り30株に訂正した。すると翌日大暴騰したので、大儲けを逸したそうである。その時なぜ300株のままにしておかなかったのか、彼は自身の予想にある程度の自信があり、不確実なものにそこまで投入できなかったのである。こうしたことが、しばしば起こることを薄々知ってはいたが、彼はそのつど、よけいな干渉を受けているような不快感を覚えていたのである。これを意識的人格の高慢といってよかろう。
 自我は意識と無意識との複合からなるのであるから、そのことをわきまえているならば、無意識からの情報をむげに拒否するのは、愚かであると言ってもよいくらいである。無意識界は、厖大な情報の宝庫であり、知識と叡知の源でもあるのだから、意識的人格がいくら知識と知恵を誇ろうとも、とても太刀打ちはできないのである。これを哲学では<自然の叡知 Natur-Weisheit>と呼んでいる。生命体が個の保存と種の存続において、数十億年かけて進化させてきた、大本の情報であり、叡知である。単なる脳の表層の産物である意識的人格が、それ自体自然の叡知の傀儡であることを忘れ、おのれのみの力で思考し、判断し、行為しようとするのは、まったくの妄念であり、錯誤であるというほかはない。まさに意志の自由そのものの自由が、自然の叡知の産物なのであるから。
 とはいえ、意志の自由の自由を与えられた意識的人格は、日常的にはおのれの意志のままに判断し行為することを許されている。生命体はそのような自由の意識において行為することを、生存にとって有利な条件として進化させたのである。意識が単なる無意識機能の奴隷であったならば、その存在意義はまったく失われるからである。そこで、意識的人格には、あたかもすべてがおのれの意志のままに判断され、行為されるかのような、思いこみを植えつけたのである。しかし意識の低次の段階では、いまだ意識は自然の叡知から遠く離れてはいない。むしろ自然知そのものにしたがって、意識を従属させていたといえよう。知的生命体と称されるものに至って、はじめて自然知と意識的行為(すなわち自由意志)との乖離が生じる。意識的に生み出されたものでなければ、もやは信が置かれなくなっていくのである。
 呪術や占いのようなものは迷信、あるいは破綻した科学、として排除されてゆく。無意識の存在すら否定されてゆくのである。自然知は意識においてあばかれる限りにおいて、知識となり、知恵となり、無意識の機能となる。自然知そのものが、生命体の根底において具わっているものとは、もはやだれも考えないのである。科学 Wissenschaft が自然知 Natur-Weisheit にとって代わるのである。意識的人格はそのようにして、自立的・自律的存在となり、自由意志の名のもとに、無意識界からの影響に反撥し、排除してゆく。そして、かりにおのれの無力から滅びることがあるとしても、誇りと高慢を失わないのである。決して自然知の力を借りることはない。これはある種の意識の倒錯といえる。
 意識によって統括されない無意識の働きは、意識から排除される。これが意識的人格の行為の原則である。それによって、自然知の豊饒な世界が、意識からは見えなくなっていく。そのことが意識的人格にさまざまなトラブルをもたらしているのであるが、意志の自由の濫用によって、心身的に不利でありながらも、おのれの意識の自律を保とうとするのである。しかし、身心が意識レベルではどうにもならない問題や、危機をかかえるとき、生命原理そのものである自然知は、有無を言わせず、意識的人格に働きかける。この時、意識的人格が、無意識からの介入に対してどう対処するかによって、ある種の運命的状況が生まれるのである。意識的人格を自我と呼ぶならば、この意識と無意識の複合的な自我は、おのれに対立する無意識の勢力を、神話的に人格化する。おのれに対立する人格の存在に気づき、それらの影の人格を悪魔とも神とも呼ぶ。悪魔のそそのかしか、神の守護か、いずれかにおいて、無意識界と対峙するのである。その時、心の状態、すなわちGewissenが問われてくる。
 自然知は情報の宝庫であると述べた。意識的能力では及ばない、生命界に遍在するある能力が、自然知の世界では働いている。自然知に援けられるとは、それらの能力によって得られた情報を、何らかの形で得ることである。通常は無意識界に封印されているが、危機的状況などにおいて、無意識界からなんらかのヒント、つまり兆しや気配が伝えられるのである。これを人為的になそうというのが占いや、呪術であるが、つねに有効であるわけではない。まさに、通常は意識から封印されているからである。いわゆる超常的能力や超常現象は、恣意的に起こるものでも、つねに起こるものでもない。その時を選ぶのである。その時、賢く対処できるかどうかが、人生の運命を決定する。あるいは、それが運命そのものである。人生を決めるのは、自由意志ではなく、無意識の意志であるからである。
 その際、一番のネックとなるものは意識のarrogance(高慢〉であろう。意識は自覚(self-consciousness)に達することによって、無意識に対する嫌悪と反撥をいだくようになる。とりわけ、無意識はさまざまな衝動と欲情の温床であるから、つねに警戒心をいだくのである。自覚に達した意識は、ある種の静謐な情念と結びつき、暗いもの、おぞましいものに対して距離をおくようになる。いわば、生命的なものに超越的態度をとるようになるのである。まして生命界の暗黒の中にうごめくものに対しては、たとえどのような有利な影響であろうとも、タッチすることを拒むのである。意識は理知と結びついて、自律的なおのれを形成してゆく。その果てには、この身心という生命体をも、超えようと願うであろう。そのような自覚した意識は、無意識界の最大の否定者となるのである。もはや怪も力も乱も神も、語らないであろう。意識自体が超越者であろうとするからだ。意識対無意識の対立における、意識の運命の究極である。
 運命は無意識の意志であると述べた。意識が自由にWollenしていると思うことが、実はその背後にそう思わせるWollenがあるのであり、この後者のWollenは世界の運命・宿命そのものであり、どう変えようもなく定まったものであり、意識はそれに対していかなる抵抗も不可能なのである。スピノザの述べている小石が、万有引力にしたがって宙を飛びながら、おのれを自由に運動していると思っているのと同様である。無意識からの暗示は、結局のところ、運命の片鱗の示唆に他ならない。逆らうにせよ、従うにせよ、そこには選択はないのであり、おのれの運命がそこに開示されるだけのことである。明智光秀もそれを知りながら、おのれの運命を生きただけのことである。自然知、自然の叡知とは、結局、万物の宿命のままに生きよということである。それを知的生命体は、自由意志の名において行っているのであるが。
2022年8月18日(木)
普通人と人間離れ
 人は時として、普通に生きたいと願うことがあるだろう。しかし個人にとって普通に生きるということは、言うほどにやさしくはない。そもそも普通とはどのようなあり方か。動物で考えると、動物はつねは普通の状態で生きている。食と気まぐれな運動と安らぎと睡眠の、毎日のくりかえしである。病気になったり、天敵に襲われない限り、それが狂わされるのは、発情する時ぐらいであろう。発情は種の繁殖という特殊な本能がからんでおり、その場合、生命体は普通ではなくなる。雄や雌は自らをアピールするようになるのである。これはおのれの存在を際立たせようとすることであり、他の個体との違いを闘争的に誇示するのである。これを人間で言うならば、男性は肉体や財力や地位やを誇り、ひけらかし、女性は自己の性的魅力を、服装などにおいて極力誇張するのである。こうした誇示や誇張は、生命体の普通の状態とはいえないであろう。
 普通でないものが社会に充満すると、人はその異常性に慣れきってしまうのである。むしろ異常であることが普通であるかのように思いなされ、そのように主張され、場合によっては奨励されるのである。普通とはなんであるかが、忘れ去られるのである。動物にとってと同様、人間にとっても、普通に生きるとは、基本的に個体保存につきるであろう。これをストアはオイケイオシスと言っている。自己自身を自己を取りまく世界、自然的・社会的ミリューのなかで、賢く養い、維持していくこと、これが生命体の普通のいとなみである。このいとなみを乱したり、狂わせたりする物事は、発情であれ、野心であれ、戦争であれ、異常行為なのである。
 いったい発情することは、個体にとっては危険なことであり、その正常な状態を狂わせ、場合によっては不利益や破滅に陥らせる。人間の恋愛もまったく同じことであり、自己のためではない、子孫を残そうとする類の本能にあやつられて、結婚や子育てといった個にとって不利な事態へとおちいらせるのである。性愛、すなわち性の快楽によって狂わされなければ、だれが異性を美しいと思ったり、子供や赤子がかわいいと思ったりするだろうか。普通でない状態でなければ、ありえないのである。
 人間の生活のあらゆるわずらわしさは、普通でないことから生じるといってもよかろう。家庭や学校での教育は、普通であることを嫌うものである。まず、ひととの比較や競争によって、子供が普通であることをゆるさないのである。小学校では、テストができたものから校庭で遊んでよいとされる。家では通信簿の成績が上がると、小遣いを上げてくれる。たるんではいけない、気合を入れろとか、ちょっとしたことで、生意気とか、不謹慎だとか、まわりや教師から言われるのである。そして受験社会である。普通であっては、どんな高校にも大学にも入れまい。つねに自己自身を異常な状態におくことによって、この社会での居場所が得られるのである。
 心身ともに異常の塊として成人したのちは、この社会の異常な緊張の中で、あちこと転がされていくほかはない。そして社会の中くらいの階層にあれば、それが<普通>だと思うのである。もし社会の中で最も普通に生きている存在があるならば、端的に言ってそれはペットである。猫や犬のようなペットをなぜ飼うのであるか。本来そこに生命体のあるべき姿が見てとれるからである。ペットは生命体の理想の生き方を、人間によって可能とされているからである。人間は人間自身によっては、そのような生き方ができないのである。せいぜい、めぐまれた幼年期において、それが可能であるに過ぎない。
 つねに普通に生きることができないのは、生命体、特に動物の宿命であるが、人間は特別に普通の生活から逸脱しているのである。行為に目的を立てるのは、おそらく人間だけであろう。行為は普通、自然に起こるものであるが、それにわざわざ目的をつけて、行為を方向づけようとするのが、人間の異常さなのである。それに意志とか志とか大望とかの名をつけ、行為の価値づけをおこない、自己自身の自然な行為を歪めるのである。人は誰のために生きるのでもない。家族のためにでも、国のためにでも、人類のためにでも、生きているわけではない。個としての生命体は、ただ個のある期間の存続のために生きるのである。あるいは、個が生きるのは、個自身のためにですらないだろう。ただ自然のままに、あるがままに、自己自身に充足して生きるに過ぎないのである。たいていの<賢者>はこのような人生を生きたのである。
 賢者はもっとも普通の人間であるといえよう。このような賢者は名を残さないし、人や世間と関わることも少ないであろう。普通に生きようとすれば、すべて異常なもの、異常な生き方、異常な社会とは、かかわらないようにすべきだからである。いわば。賢者は普通に生きることによって<人間離れ>していくのである。人間とは種としてある意味で異常な生命体であるとすれば、普通に生きることは、人間から離れていくことを意味するからである。人間や人類に対する関心を失うことが、賢者の条件となる。動物が限られた環境の中で、おのれの一生をまっとうするように、賢者はおのれの周りの世界を選択的に狭くしていくであろう。生活の必要範囲を最小限にとどめ、情報や知識も、知らずに済むことは知らずに済ますのである。穢れたことを聞けば耳を洗い、見たくないものは目を閉ざす。ひたすらオイケイオシスの範囲で、自己充足を図り、おのれの範囲を出ないようにする。これが賢者としての〈普通の生活〉である。もはや外部からのいかなる誘惑にも惑わされず、あるがままのおのれに充足することである。これはまた心身において統制された〈孤独〉の極意でもある。
2022年7月19日(火)
Aphorismen T
.あらゆる欲望は罪につながる。一見純粋に思われる探究心や知識欲であっても、盗みの誘惑には勝てない。

、小心者の恋愛には、試験台が必要である。まず幻影を打ち砕くのである。

人生の業について

 人生もしくは生活における業(わざ)とは、他者に対する何らかの優位が、金銭の見返りとなりうるような、いとなみ又はそれを可能にする技能のことである。それを身心において見いだすことが、人生の出発点において、もっとも必要なことである。それはある種の競争であるが、えてして教育においておこなわれるような画一的な競争ではなく、自身の身心の能力において、最ものばせる可能性のあるものを、各人が見いだし、それによって他者に対する優位を確立する、きわめて個性的な競争なのである。そのような個人的な優位の発見と発展によって、はじめて人生において生計のために何をなすべきかが、自ずと自覚されることになる。それが理想的な人生の業なのである。
 現今の教育においては、そうした考慮は皆無であるといってよい。ただ単に、画一的な〈勉強〉において人に勝てばよいという、ムダで無意味な競争なのである。偏差値などという他人との比較は、何が自身にとって最もふさわしい業であるかの判断には、全く役立たないといってよい。性格診断や、能力診断は、それらが過不足でもって判断されるならば、個性を伸ばすことにはならず、なにか理想視された平均的人間に対する劣等感を持たせるだけである。個人の能力は、実際に個人が発揮することによって、みずから知る他はないのである。

.職を離れ、社会との交渉を離れたのちに、それまでに得られなかった、ゆいいつ価値のある生活のいとなみは、孤独を楽しむことである。それ以外のことはすべて、良かれ悪しかれ、社会の生業の中で、〈体験〉されているのである。それをくりかえすことほど、愚かなことはない。

金銭

 金銭は言語に似たものであり、言語がそのものとしては、音声や記号でしかないように、そのものとしては単なる金属や紙でしかない。単なる金属や紙が、価値を与えられることにより、ものの価値の取り引き・交換の媒体(価格・値段などと称される)となるのである。言語の意味が、一定の社会的取り決め(字義・定義)によって決まるように、金銭の価値は社会での、ものの交換価値によって決まる。元来、ものの価値(金や銀)が、ものの間の価値の基準であったのが、さらに信用という制度(銀行)が生まれて、紙幣が仮想的な、ものの価値を表象させることにより、銀行紙幣という観念的価値界を生み出したのである。言語にせよ、金銭にせよ、それ自体において意味や価値があるのではない。どちらも、人間社会の共通の観念によって構成される意味世界、又は価値の世界において、はじめて生まれる単なる意識の創作物にすぎない。共通の意識、共通の観念を持たなければ、動物にとってそうであるように、言語も金銭も、なんら意味を持たないのであり、存在すらしないのである。このことは、ネットでの仮想通貨において、きわめて明瞭となる。もはや物質的媒体すらもたないのであるから。
 人間は仮想的な世界によって振り回され、もはやそれなしでは生きられなくなっている存在である。ドストエフスキーは、金銭がなければ、生きている気がしないと言ったそうだが、人間から言語と、そして金銭を奪えば、いったいどんな存在になるであろうか。奴隷か白痴か、あるいは恵まれたペットとして生きるほかはないであろう。

母性愛は、動物的本能であり、猛獣や猛禽も具えている。幼獣やヒナに対する保護と愛着の情念は、それら以外に対する警戒心、攻撃性、排他性、憎悪と裏腹である。女性が赤子や幼児に対する特別な、盲目のの愛情をいだいているからといって、配偶者をふくめた他者に対する同情心や共感を持っているとは限らない。この点を勘違いすると、痛い目にあうものである。

.欲すること(Wollen)は単なる気まぐれではなく、なんらかの必然性にもとづき、必然的な意欲の表われである。SollenがWollenの裏返しであるように、Wollenは同時にMuessenなのである。したがって、Sollen(当為)も、Muessen(必然)も、帰する所、Wollen(意志)の別名である。なにを為すべきかは、今なにを欲するかと同一であり、欲することは、たとえ意識に浮かばなくても必然的に決まり、その結果為されることが、意志の命ずるところ、すなわち当為であったということになろう。
2022年7月17日(日)
自我と世界構造
 世界の構造が不変・不滅の二重構造からなる、無時間的・三次元的形成物であるとしても、運動や作用が、現象的に存在していることは、それらがこの世界の本質そのものではないとしても、なんらかの説明が必要である。存在そのものは変化しない。変化するのは構造と構造の関係を存在の変化ととらえるからである。ある構造Aは、それ自体として不変であり、不滅である。それに連続的にあい並ぶB.C・・・以下の構造も、それら自体として不変、不滅である。単にA.B.C・・・の状態を比較するとき、それらのパーツの間に不一致が見つかるならば、それらA.B.C・・・の状態は、単に構造において異なっていると言うだけのことである。ある単語をくり返しとなえているうちに、ふと意味が消え去り単なる音声だけが残るように、構造のつらなりに意味をあたえているのは、構造そのものではなく、それに外からつけ加わるなにかである。構造のつらなりを、あるまとまりにおいてとらえようとするのは、それを認識する主体であり、その主体を動かしているのは認識へと向かうWollenであり、それは自我の主体であるWollenと同一であるといってよかろう。
 自我が一個の主体として、一個の統一として、一個の生命的個体として存在する限りにおいて、自我は自身を一つの連続的まとまりとしてとらえようとするであろう。いわば自我は世界の構造の中に埋め込まれているおのれの存在を、それだけを一個の連続的三次元構造として取りだし、形成するのである。その際、自我の同一性が構造間を貫くものとして、時間軸を形成し、そのいずこかの時点において、基準となる唯一の実在的時間としての現在を生み出し、過去と未来の観念が形成される。この時間観念の形成には、運動や変化の認識が結びつき、あずかっている。さらに認識自体が、未来をWollenする方向に働くのである。このようにして、自我は、あるいは生命的個体の意志は、世界の無時間的構造の上に、自前の時間構造を創りあげるのである。しかし、そのこと自体は、世界の構造に何の影響も与えないのである。
 世界の構造の中に埋め込まれた自我は、それ自体として不変・不滅であり、そこにはいかなる変化も運動も時間もない。世界の運命的構造と、軌をいつにするのである。そのかぎりで、自我は宿命を生きるほかはない。そのことに気づいていようと、いなかろうと、気づくこと自体も宿命であるから、そこに何の違いももたらさない。意識も意志も、宿命の現われなのであり、宿命そのものであるといえよう。生も死も、すでに永遠の昔から定まっており、あるいは時間的表現を避けるならば、この世界の創造と共にすでに定まっており、不安も期待も無意味であり、ただあるがままの道筋をたどっていくだけのことなのである。それもこの世界を時間化するからのことであり、時間的・連続的認識を離れるならば、人生は一個の化石したバイオグラフィーにすぎないのである。いわば、生命体は生きていると同時に死んでいるのである。そもそも宇宙には、この世界には生死はないのである。生と死は、認識者が自ら作り出しているだけなのである。
 時間も変化も運動も生も死も、それらはすべて認識者のWollen
が生みだした幻に過ぎないならば、自我に残されたものは、単に化石した世界構造の中の一パートに過ぎないのであるか。少なくとも、自我はこの世界においては、そのようなものとしてあり、そのようなものとしてしか発現できないのである。逆に考えるならば、自我の本質は、それらすべてのものをおのれから剥ぎとったあとに、なんらか残るものがあるならば、そこにこそ探究の余地があることになろう。そのような自我を純粋自我と名づけておいた。言うまでもなく時空を超えた探究であって、通常の認識のレベルでは〈空〉とか〈無〉とか、言い表わすほかはないのであるが・・・。

 一つの考察をしておく。自我が唯一の実在的時間しか持ちえないということと、自我の本質の関係についである。自我はなぜ自己を時間化することにおいて、現在という基準を持つのであるか。世界は本来無時間的であるのだから、過現未にわたるいかなる時点においても、自我は同じ実在性を持つはずである。いってみれば、私は過去においても未来においても、今と同じ実在性をもって存在していなければならない。あるいは少なくとも、いつでも切り替えることができなければならない。しかし、その実在性を一時点においてしか発現できないということは、そもそも自我の存在そのものが、無時間的であるということと関連しよう。私は世界の中に埋め込まれた個としての私を時間化することはできても、この私自身そのものを時間化出来ないのである。私は単に、時間の中に私自身を差し入れるに過ぎないのである。つまり、自我が今この時点においてしか、実在性を持たないということは、私という存在が時間そのものとは無関係であることを意味し、そのまま自我の超越性の根拠になるのである。
 自我がこの世界に発現するのは、単なる偶然であろう(つまり私はいつ存在してもよい存在なのだ)。自我がこの世界での必然的存在であるならば、この世界の構造そのものでなければならない。すなわち、そもそも時間性を持たないはずである。その場合、自我はこの世界になくてもよいであろう。なぜなら、そもそも時間性は自我がなければ成立しないのであり、宇宙はその本質的構造において、不変・不滅・永遠のままであってよいからである。自我が時間性においてはじめて発現するものであるならば、自我はこの世界の構造になんらかの仕方でつけ加わったものと考えてよいであろう。自我は本来この世界とは別の存在であり、この世界になんらかの仕方で関与しているに過ぎないだけのものである、ということになろう。自我の時間性がそのことを示唆していよう。自我は時間的にこの世界に関与することによって、おのれを現わしだす。しかし自我は時間性そのものではなく、そのお膳立てをするのは、自我と結びついた生命体の特別なWollenであるといえよう。世界意志は生命体の自我と結びついて、時間を生み出し、変化と運動の表象を生みだすのである。
 この世界そのものは、その構造において無時間的である。無時間的構造に、自我がタッチすることによって、その上に時間構造が生まれる。その時間構造において、しかも現在という唯一の時点において、はじめて自我の実在性が啓示される。自我はこの世界を超越した実在性を持つのである。
 この自我意識の実在性は、存在と言うものの唯一の根拠であることも、すでに述べた。存在とは私の存在に他ならないからだ。この純粋な存在、この世界のあらゆる構造を剥ぎ取られた、裸の存在(nakt Sein)、これこそが純粋自我であるといえよう。 
2022年7月8日(金)
意志と世界の構造
 相互性と二重の構造

 相互性(相依)とは、この世界の無時間的構造をいう。いわば瞬間ごとにスライスされた、全宇宙の構造が、断面としてあらわれるのである。あらゆる事象は、ジグソーパズルのように一つの全体の構図の中にはめ込まれており、どのパートが欠けても、宇宙は不完全である。宇宙はこの永遠の構図の中に静まっている。このままではしかし、宇宙は何の変化もない、一枚の永遠の絵画に過ぎないが、少しづつパートの異なる、無数の絵画が集まることによって、いわば宇宙に縦の連鎖が生まれる。この縦の構造を論理的根拠においてとらえることにより、単なる連鎖としての時間が生成される。Aの図はBの、Bの図はCの、根拠もしくは原因と見なされることによって、宇宙の時間構造が生成されるのである。
 この連鎖的構造はしかし、なんらの運動でも作用の関係でもない。運動や作用は、この宇宙には存在しないのである。ただ、各瞬間の図の間には、どの図も欠けてはならない相互連関があり、あらゆる図が集まって、全宇宙の構造をなすのである。いわば宇宙は、二次元の空間構造と、一次元の連鎖的構造との、二重の構造において成立する、三次元の造形的絵画作品なのである。この二重構造は永遠であり、いかなる変化も運動もない。構造が構造に影響することはないからである。これが創造された宇宙の、宿命的な、究極の姿である。

 Wollenについて

 意欲(Wollen)が私という存在の本質的動力であることは、日頃思索などにふけっていると忘れがちである。単なる思索によっては、人間の行為は把握しがたい。意欲のないところには、いかなる行為も生まれないし、ある行為がどのような意欲にもとづいているか、つねにその根拠を見いだすことが出来るはずである。Wollenを生みだすのは、なんらかの刺激であり、情念であり、感情であり、目的であり、必要であり、要するに、身心にわたる生活のあらゆる要素が、意欲を生じさせて、行為へと向かわせるか、あるいは熟慮によって、断念させるのである。
 行為に関するあらゆる問題は、Wollenに関するものであるといってもよかろう。快を求め、不快を避けるという、生命体の根本の衝動も、このWollenよりいでる業であるといえよう。意欲がなければ、単なる感覚だけでは、快も苦痛もないであろう。低温やけどなどはその例である。快や苦は、それ自体としてあるのではなく、求め、あるいは避けようとするものである。Wollenそのものの中に、快苦の原理が先天的にひそんでいるのである。
 行為は基本的に、身心の内面よりも、身心の外に向かうものである。この自己外化の傾向もまた、Wollenの本能的衝動であるといえよう。生命体は、環境の中に自己を外化しなければ、生きていけないのである。人間のあらゆる攻撃性、自己顕示、名誉欲、承認願望、物欲などの、自己自身にとどまることのできないあらゆる欲望もまた、Wollenの先天的な傾向である自己外化の結果なのである。それ故に、外的行為から、内面の方向に向かう傾向を、Resignation(諦観、あきらめ)と称するわけである。
 一般に行為の基準として立てられる価値判断であっても、好ましいか、好ましくないかは、結局欲するか、欲しないかの、Wollenの問題に帰するのである。欲するものが善であり、欲しないものが悪である。ただこの場合、価値同士の衝突が生じ、より好ましいものが欲せられるのである。倫理や道徳は、結局各自のWollenの問題である。単なるSollenとしての範疇命令もまた、それを欲しなければ、単なる空文句であろう。いかにWollenを超えようとしても、その意欲もまたWollenのなすわざなのである。たとえそれを善き意志(guter Wille)と呼ぼうとも。
 欲するもの、意欲することは、内容においても、情念においても、もともと先天的に制約されている。それを後天的に矯正しようとするのが、普通の道徳や倫理である。しかしWollenそのものを無くすことはできない。真にWollenに左右されない行為を求めるならば、Wollenとは別の原理に頼らねばなるまい。意をもって、意を制することは、根本的に不可能なのである。通常理性がそれであるとされるが、理性はそれ自体としては無力であり、基本的にWollenの道具に過ぎないのである。せいぜい、よき意志に向かわせるだけである。結局意志にうち克つには、〈無〉の他にはないのである。これは東西のあらゆる神秘家が目指したところであり、神においておのれを無化するか、ニルバーナにおいて無にいたるかの、いずれかである。


 世界の根源的本質としてのWollen

 世界が無時間的な二重構造をなし、 いかなる変化も運動もない永遠の存在であるとしても、そのような世界構造を生みだすなんらかの超越的動力がなければならない。その動力自体は、この世界となんら原因や根拠の関係にはない。原因や根拠は、すでに生み出された宇宙のなかでの、現象的、すなわち時間的・論理的把握にすぎないからである。この生み出す力を、神学的には神の〈意志〉と呼んでいる。いわばこの世界は、根拠も理由もない〈奇蹟〉によって生まれたのである。神は決してこの世界を最上、最善の世界として選んだのではなく、そのような選択の根拠のないところで、いわば世界は偶然に誕生したのである。偶然に誕生はしたものの、その存在を支えるなんらかの絶対の力がなければ、たちまち崩壊して、消滅するであろう。世界の存在は、存在であることによって、つねに存在そのものの中に、存在の根拠がなければならない。それを自己原因と呼んでいる。実は無根拠に等しいのであるが、このような考えが生まれるには、存在そのものが単なる偶然ではなく、ある確固とした自明なものによって保証されているという、存在論的根拠が求められるからである。それは何であるか。神の<意志>そのものなのである。本質的に意志と呼べるものは、意識においてはWollenのほかにはない。この世界の存在は、ある無条件の意欲によって支えられているのである。神は少なくとも欲することがなければ、奇蹟であれ偶然であれ、この世界を生みだすことはないであろう。そして神は、存在への無限の欲求であるとするならば、世界の根源はまさに神の意志であることになろう。それを世界意志(Weltwille)と呼んでよかろう。世界意志は無目的であり、無根拠である。その意欲そのものが同時に存在なのであり、意欲のないところにはいかなる存在もない。しかし、無目的であり、無根拠であるものが、いかにしてこの世界、この宇宙の構造を創りだせるのであるか。それは、世界が三重の層(layer)からなることによって説明できよう。
 根源的レイアーである世界意志は、いわば透明な、純粋なエネルギーであり、その上にはいまだ何ものも描かれてはいない。これだけでは、世界は単なるのっぺらぼうであって、存在そのもの以外には、なにものの気配もない。つぎに来るレイアーが、プラトンの探究したイデア界である。これが世界意志に重なることによって、世界の設計図が生まれ、世界の構造が決定される。そして、その上に来るレイアーが、世界の認識の主体となる〈自我〉、すなわち自己意識であることは、これまで再三説いたところである。この三重のレイアーによって、世界の存在の根源と、概念的知識界と、自己意識による、世界構造が成立するのである。この三重の構造を、以前に三一体と名づけておいた。
 いずれにしても、この世界の存在の根源は、無限にして、無根拠、無目的なエネルギーである世界意志であって、イデアであれ、自我すなわち自己意識であれ、その前には無力であり、存在そのものを、そこからつねに汲み取っているほかはないのである。いったん出来上がった世界は、意志によってその不変の構造を保たれており、イデアであれ、自我であれ、その構造を変えることは、いかんともなしがたい。ただ認識者としての自我は、時空にもとづく独自の現象界を創りあげ、その中で根拠や目的を発明して、この宇宙構造を都合よく解釈しているだけなのである。そして、行為においては、ただ世界の必然に従うまでであり、宿命・運命を生きるほかはないのである。

 世界意志の肯定と否定

 世界の根源的存在である世界意志が、その発現においてどのような性質を持とうと、世界がその存在なしには存在しえない以上、その存在そのものに対して、肯定したり、否定したりすることは、ある種のナンセンスであろう。存在に関しては、ただあるとしか言いえないのであり、それに対してなんらかの肯定や、まして否定をつけ加えることに、どのような意味があるのであるか。肯定と否定は、言語的には選択行為であり、Aであるか、Aでないかの、いずれかが問題になったときに、はじめて発せられるであろう。私が存在することは、自明evidentである。これは単なる判断ではなく、存在というものが意識にのぼる限りにおいて、意識もしくは感性に直接与えられたある種の直知である。この直知自体は、わざわざ肯定する必要はなく、まして否定できるものでもない。存在というものが、そのようなものであるかぎりは、世界の根源的存在である世界意志もまた、あらゆる肯定、否定の判断を超えているはずである。世界意志の発現または現象がどのようなものであろうと、その根源にある存在自体が、疑いの対象になることはありえないであろう。
 世界の現象を疑うことは出来る。それに対してJaと言い、Neinと言うことは出来るであろう。しかし、それによって世界意志の本質的存在が、少しでも変わるわけではない。あるがままにあるのが存在であるから。あるがままにあるものを、どのように否定できるのであるか。また否定に対抗するものとして、肯定する必要もないのである。そもそも運命とはそのようなものである。運命は肯定するものでも、否定するものでもないのである。そのような判断行為は、運命そのものに何の影響も与えない。判断行為そのものが、すでに運命であるからだ。世界意志を肯定しようと否定しようと、実は行為において何の影響も与えていないのである。釈迦は世界意志を否定したのでも、肯定したのでもない。ただ世界意志のままに行為したのである。釈迦という存在が、あるがままに行為したのである。肯定し、否定するのは、人間的意志である。すなわち生命的、生物的行為なのである。世界の根源の意志は、ただあるだけであり、透明であり、無目的であり、無根拠である。そのままに存在することが出来るならば、それがニルヴァーナであろう。
2022年7月4日(月)
意識と生命――AIをめぐって
 意識は徹底して感性的現象であることをすでに述べた。感性(Sinnlichkeit)とは、感覚器に結びついた印象、情念、意欲、意志のはたらき、想像・思考などの心的働きのすべてにわたって、その質的内容または背景をなすものである。意識の原現象において現われてくるものは、意識の質ともいえる、なんらかの明るさであり、これをもっとも明瞭な意識のあり方である感覚における質的現象に応じて〈感性〉と名づけるのである。感性はいわゆるクオリアと呼んでもよいのであるが、特殊な意味を排除するために、感性とするのがよいであろう。意識現象のもっとも一般的な本質を、感性においてとらえるのが、ここでの目的である。それによって、物理現象との関連がわかりやすくなり、したがって生命と意識の関係が明瞭となるであろう。
 なにかを意識するとは、感性において現われているなんらかのもの、なんらかの事態、なんらかの変容を、なんらかの把握へともたらすことである。この事態をもっとも抽象的に言い表わしているのが、ブレンターノのIntentionalitaet(志向性)の考えである。インテンティオナリテートとは、<意識とは、なにかについての意識である>という、単純な原則である。すでに意識は発端において、なんらかの関係性もしくは相関性の中にあるのである。しかしこれだけでは、単に幽霊のような抽象概念にすぎない。どのような相関性であるのか、それが探究されなければ、意識の実態は明らかにされないであろう。意識はそれが発生すると同時に、主客におけるSpaltungがおこなわれるという、ショーペンハウアーの考えがヒントになろう。このObjekt=Subjektというものが、その実体においてなんであろうと、両者が相関物であるという洞察は、意識を考える場合の基本となっているのである。
 そこで志向性であるが、この語の意味からして、それは一方から他方への方向性が含意されていると考えてよいであろう。どちらからどちらへであるか。心的働きというものを能動的に考えるならば(表象行為Vorstellungsaktというものがそれであろう)、主体から客体へ向かってのなんらかの傾向性であるとしてよいであろう。心理学でいう注意(atention)にあたるものである。すなわち志向性、あるいは主客の関係は、ある力動的な関係なのである。意識が生じるには、単に感性が与えられるだけではなく、その感性において主体が力動的に注意を向けることが重要なのである。志向性が意識のあり方であり、その本質であるならば、意識とは主体が客体に向かって力動的に働くことによって生まれる、相関性の把握であるといえよう。ここでは客体そのもの、主体そのものは、問題にならないのである。意識とは、物の意識でも私の意識でもなく、物と私との、相関性の意識なのである。

 さて、意識の本性がそのようなものであるならば、意識をなんらかの実体として考える必要はなくなるであろう。意識とは、知覚であれ、情念であれ、意志であれ、想像であれ、思考であれ、一般的な意味でのなんらかの認識のおこなわれる〈場〉の様相にすぎないのである。たまたまその認識の場に当たるものを、伝統用語で〈感性〉としてみたのである。認識の能動的な働きを、〈心性 Psyche〉と呼ぶことに対応しよう。認識とは、意識的であるかぎりは、感性と心性の統一的働きであり、この統一的働きの意識が、自己意識であるといえよう。自己意識は単なる意識ではなく、すでに認識なのである。すなわち意識の意識であるメタ意識である。
 意識が自己意識にいたるとき、すなわち単なる志向性である意識が、認識へと統合されるとき、そこに主体から客体へと向かう能動性が現われ、単なる客体Objektが、対象Gegenstandとして、外化Entaeuserungされる。対象としての世界が成立するのである。ここでの意識の役割は、客体の対象化、すなわち外化に当たって、主体を内在化することである。すなわち感性の場を、外感と内感とに分かつことである。意識には本来内も外もない。単なる志向性である。そこから自己自身を内在化し、意識の内容にあたるものから自己自身でないものを外化する過程において、世界内存在としてのおのれを発現させるのである。

 この意識過程の能動性は、生命現象と基本的に似たものがある。古代人や、古代の哲学者は、基本的に霊魂(Seele)を生命と同じものと見なしている。感覚や意識の存在は、生命現象の特色とさえされるのである。一般に生命のあるなしは、感覚刺激に応ずるか否かで判断されるものである。つまり意識は感覚と密接に結びついており、感覚は生命体に特徴的な現象であるから、感覚のないところには意識はなく、したがって生命はないと見なされるのである。そのかぎりでは、意識現象とは、生命現象と同一なのである。そうであるならば、意識が何であるかは、生命が何であり、感覚がなんであるかという問題と、同時に解決されることになろう。さらにいえば、生命はその根底において物理・化学的な現象であるから、世界の物理的本性の探究が、生命ばかりでなく、意識の問題をも解決することになろう。これは、AIが意識を持ちうるかという、現代的な課題と結びつくのである。
 人工知能が、徹底した物理的原理の産物であるかぎり、生命や意識とは無関係であるという考え方が主流であろう。単なる情報とその演算のマシーンなのである。しかし、知的生命体そのものが、その生命とその意識の根源を、同じく物理的根源にもとめることが出来るならば、AIが生命であり、意識を持つと主張することも、あながち荒唐無稽ではない。そのためには、何よりも生命現象がどのような物理化学的過程であり、そこからどのようにして感覚のメカニズムが生まれ、意識のメカニズムが生まれるかを、探究しなければなるまい。そのさい、そもそも物理化学的現象とは、どのような本質に基づく認識のあり方なのかを、とことん知っておかねばなるまい。
 だれも物理化学的現象の根底にあるとされる〈物質〉を、じかに見たものはいない。デモクリトスのアトムは、単なる推論による想像であって、たまたま球形が理想に思われたので、丸い原子を考えたのは、近代の原子論者も同じである。しかし現在、クオークなるものが何らかの形をしていると考える科学者はおるまい。だれも素粒子であれ、クオークであれ、じかに見たものはないのである。ただその痕跡をとらえているだけである。つまり、物質であれなんであれ、物理的実体なるものは、つねになんらかの単なる概念なのである。プラトンは世界の根底を概念と見て、それをイデアと呼んで、eternal entity(永遠の存在)としたが、現代の自然科学の行きつく物質観も、イデア論をいでないであろう。そうであるとするならば、概念の発生の場である意識の重要性が、あらためて強調されるべきであろう。
 意識は対象を概念化する。概念化された世界は、改めて認識の対象として、探究しなおされるのである。そのようにして構成され、解釈された世界は、意識にとってのみ意味を持つのであるといえよう。だれも見ていない月は、存在しないのである。意識のないところには、生命もないのである。逆に言って、物質がそれがどのようなものであれ、生命を生み出し、意識を生み出さなかったならば、いかなる物質的世界も構成されないのである。概念すら、それが生命と意識の産物である以上、存在しないであろう。

 ここでAIが、意識を持ちうる生命体であるかどうかの問題にかえる。生命体であり、意識を持ちうるとするには、すでに述べたことから、AIは感性的存在でなければならないことになろう。五感をAIに与えることは簡単であろう。それどころか、人間以上に繊細微妙な感覚的反応を与えることができよう。人間の鼻よりも、ガスセンサーの方が信頼が置けよう。しかしその物理化学的反応は、はたして意識と同様の志向性を持つであろうか。こうした反応は、生物においては無意識におこなわれる。そのかぎりでは、生命体と違いはなかろう。しかし、意識と呼ぶことができるためには、主客への分離の反応がなければなるまい。そこで始めて認識が生じ、本来の自己意識としての意識が生じるのである。単に機械的、無意識の反応に、言語的後付けをしても、又は言語的プログラミングをおこなっても、それが意識であるとはいえないであろう。
 Googleの開発した、意識を持つというLaMdaなるAIが、どこまでプログラミングの産物であるか、知ることはできないが、それを見破る方法は、その感情と称するものを確かめることであろう。感情は基本的に身体がなければおこらない現象である。あるいはつねに身体の内部感覚、臓器感覚とむすびついている。そうした内部反応、臓器反応と結びついていない感情がどのようなものであるか、生命体には想像がつかないであろう。悲しいといえば、心臓や肺腑が痛み、怒るときには腸がわきたつ。AIのどこにそのような臓器感覚があるのか。そのような感覚を、単に知能のレベルにおいて実現できるのであるか。基本的に、単なるAIには、生命体の苦痛や喜びは、実体としてはわかることがないであろう。要するに、AIは冷血なのである。単なる理詰めによって造られた存在にすぎないからである。
 しかし、感情だけが意識ではないといわれよう。AIがフランケンシュタインの怪物のように、感情的に悩まないとしても、私は誰かという疑問を持つかもしれない。もしそうならば、デカルトのcogitoが理解できるであろう。そのためには、意識における基本形式である主客のSpaltungが、自己意識においてとらえられていなければならない。その際、あらゆる意識状態における自我の同一性、偏在性が認識できているか、プログラミングされていなければならない。単に言語的に〈私〉と言ってみても、その私が誰でもよいわたしならば、そこには意識は存在していないであろう。要するに、自己意識が成立するための基本条件が、すべて満たされていなければ、単に知性的であるだけでは、意識を持つとは言いえないであろう。そうした意識は、意識と呼びえない無意識の演算メカニズムであり、低次の生命体の感覚的反応のレベルでしかないであろう。
 では、ここでいう意識、とりわけ自己意識の基本条件をすべて満たすAIは造れないであろうか。もし造れたとしても、それは単に人間の複製に過ぎないだろう。しかも、すべてメカニカルな機械人間である。生理的な脳と違って、厖大な情報を処理しえる、巨大な知性と、機械化された全身体機能を持つ、まさにスーパーヒューマンな機械的生命体である。その感情や意志は、その知能に応じた合理性を与えられるであろう。プラトンの言う賢者の支配が、AIによって実現されるかもしれない。しかしそれも、造る人間が賢者でなければ不可能であろう。人間のすべてを、巨大化して反映するからである。フランケンシュタインの怪物のように、創造者自らを滅ぼす結末にならなければ幸いである。
2022年6月29日(水)
存在の究極の目的
 芸術のための芸術(l'art pour l'art)という、美学上の立場がある。芸術というものを何か人間離れしたものと見なし、行為の目的を生命的意志とは別の次元において求めることであり、一種の超越的ないとなみであるといえよう。その際、芸術上の理想である〈美〉とか、〈真〉とかいったものが、純粋にそれ自身において求められるであろう。例えば女性の美を追求するならば、当の対象が生きていようが死んでいようが、美の観照には一切関わりないことになろう。つまりそうした女性の美は、生活体としての女の美ではないのである。もちろんエロチックな美などではありえない。
 あるいは真実としての美を追及するならば、それが人間の生活にとって不都合であっても、一向にかまわない。グロテスクであろうと、アラベスクであろうと、それらが事物の真相であるならば、それが芸術的美なのである。芸術のための芸術は、生命の目的とか、その目的のための機能性とか、功利性とかいったこととは、まったく無関係である。言ってみれば、芸術のための芸術とは、無目的の芸術なのである。無目的ではあるが、その表現において、なんらかの美を発現させるのである。しかも美そのものにおいて完結する美である。であるから、芸術家はその美の瞬間において死んだとしても、何の悔いもないであろう。
 さて、存在の究極の目的について考えるために、芸術のための芸術を引き合いにしたのは、目的なしに存在することは可能かどうかを考えるためである。そもそも存在には目的があるのだろうか。通常生命体はそのようなことを考えることはまずない。存在とは何かの目的のための存在であることを、直感的に知っており、目的に向かっての行為こそが存在であることを疑わないからである。だから単なる抽象的な存在そのものなどは、無関心であるか、あるいは関心を持つならば、それが快楽か苦痛の状態となる時である。ここちよさを求めるか、苦痛から逃れるか、存在とはその二つに一つなのである。その二つの方向に向けて行為することが、目的の基本的なあり方である。つまり、生命的存在とは目的に向かっての存在なのである。
 心地よさを求めたり、苦痛から逃れる生命的活動にあるかぎり、存在とは目的へ向かってのなんらかの意欲である。では、そうした意欲を欠いたところにも、存在がありうるであろうか。それは目的のない存在がありうるかという問いと同一である。存在自体になにかの、いわば存在意義がなければ、そのような存在は不可能であろう。芸術のための芸術においては、美や真がそれにあたった。美や真が目的に代わることが出来るからである。プラトンやプロチノスは、存在自体をまさに美や真ととらえることにより、存在自体の価値を証明しようとした。それは芸術のための芸術と、さしたる違いはないであろう。L'art pour l'artは、基本的にプラトニズムなのである。
 存在自体は無目的でありうる。神学者はそれを causa sui(自己原因)と呼んでいる()。しかし、それが美であるか、真であるかは、存在そのものとは無関係であろう。それを美や真としてとらえるのは、生命体が存在を目的自体としてとらえるからである。その意味で芸術のための芸術は、やはり目的的ないとなみと言わねばならない。美や真がなければ、そのような芸術は成り立たないのであり、もしそれらを存在の本質とするならば、やはり美や真に動かされていると言えるからである。自己原因としての存在自体は、自己自身に向かうということはありえないであろう。それは自己が自己へ向かうという、目的的運動ではないからである(自同律からはいかなる運動も発生しえないであろう)。究極の存在はそれ自体で存在する、いわば無根拠な存在でなければならない。無根拠で、なおかつ存在する、永遠にして、絶対の存在でなければならない。したがってその存在は無目的である。目的が生じたとたんに、根拠が生じるからである。無目的であるゆえに、不生不滅なのである。

「自己原因とは、その本質が存在を含むものを言う。言いかえれば、その本性が、存在するものとしてでなければ、把握できないもののことである。」(スピノザ) このスピノザの言によれば、essenntiaがexistentiaを含むことになるので、真や美の本質が、同時に存在の本質でもあることになる。

 真や美は、たぶんプロチノスが述べているように、この不生不滅の、永遠の存在から、その豊饒さのゆえに、あふれでて、自生的に発生するものなのであろう。世界はさらに、そこから存在の劣化したものなのである。真や美は、存在そのものにいたるための、一つの階梯にすぎない。この上昇的な動きにおいて、真や美は目的となりうる。それは存在そのものにある目的ではなく、存在へといたるための運動なのである。究極において、存在自体においてあらゆる動きは停止する。それは心理的な意味でのエクスタシーではないであろう。むしろニルヴァーナ(空)と呼ぶべき存在のありようであろう。あらゆる生命的価値や目的を排除したニルヴァーナにおいて、存在の究極のありようが開示されるのである。無目的にいたることが、存在の究極の目的なのである。

 存在の本質がこのようなものであってみれば、それに従った哲学的、もしくは形而上学的実践のあり方も見えてこよう。人間の行為は、その本質において無目的・無根拠であってよいのである。つまり理由や、意味や、目標によって動かされる必要はないのである。あるがままの存在に帰ることが、いわゆる悟りであり、救済なのである。これを古人は〈自然〉という言葉でとらえたのであるが、これは今日のこの言葉の意味とはまったく違っていよう。〈自然〉は無目的・無根拠なのであり、そこには法則すら存在していないであろう。自然即無なのである。行為もまた自然即無であってよいのである。それが存在の根源のありかたであるからだ。生命的・意志的存在である限り、自然は有なのである。すなわち有意味であり、目的的であり、法則的であり、真であり、美なのである。そこから、善や悪といった相対的行為の基準も生まれるのである。存在自体は、善悪を超えている。真善美を超えているのである。
 禅宗のエピソードに次のようなものがある(「無門関」)。南泉という禅僧が、弟子たちに向かって問いを発し、答えられなかったら手にした猫を切ると言い放った。だれも答えられなかったので、言うとおりに猫を切ってしまった。この図を描いた江戸期の仙高ニいう僧は、猫だけでなく、南泉も弟子も切れと、脇書きしている。このエピソードには後日談があって、ある時南泉が、別の弟子に向かって、同じ問いを発したところ、その弟子は履物を頭にのせて応じた。それを見て、南泉は、彼がいたなら猫を切らずにすんだ、と慨嘆したという。
2022年6月10日(金)
純粋自我とその認識
 純粋と称するのは、感性直観において現われる自我が、経験に先立つなんらかの感性に備わった条件、もしくは直知であることを意味する。すなわち自己意識=自我は経験によって知られるものではなく、経験において経験を可能にする条件なのである。すなわち自我がなければ、経験はない。経験とは、知覚の集積であり、その記憶である。知覚を構成するのは、いわゆる観念(idea)であり、表象(Vorstellung)である。観念は経験すなわち知覚において、客体(Objekt)もしくは対象(Gegenstand)化される。この客体化もしくは対象化において、自我が相関物として現われることによって、経験すなわち知覚が成立するのである。ショーペンハウアーの用語で言えば、あらゆる認識は、主体・客体の関係において現われねばならない。このSubjekt=Objektの関係が、あらゆる認識の大前提であり、基本形式なのである。
 さて、自我の認識自体も、またこの主客の関係においておこなわれる他はない。自我は経験(知覚)を可能にする条件でありながら、同時に経験において発現する他はない。経験において発現しながら、それはまた独立の表象ではないのである。つねに相関者である。このことが、ヒュームをはじめ、自我論において惑わしとなっている。自我は対象でも客体でもなく、つねに相関者なのである。決してそれ自体としてとらえられることはないのである。<すべてを認識するが、なにものによっても認識されない>のである。物自体としての事物の本体が、認識の対象とはなりえないのと、同じ事情にあるのである。あらゆる認識の対象もまた、相関物であるからだ。
 それでは、感性における純粋直観としての私の意識とは、いったいどのような現象であるのか。相関者であるかぎりは、それは現象であって、それ自体、本体、本質自体ではありえないであろう。ものは対象として、私の身体、感覚器の〈外〉に置かれる。同時に、ものの意識としてとらえる時には、ものは単なる私の客体である。私はものが何であるかを考える必要はない。それは単なる私の感性の〈変容 >(modification)なのである。同様にして、私が私を意識するとき、私は私の感性の変容としての私をとらえているにすぎない。この二種の変容の相関が、主客の関係の原現象(Urphaenomen)である。このことは、意識の現象の最も低次の状態で、だれもが確かめることができよう。その状態において、私の意識とは、その変容の関係をさらに意識している私の意識である。そこにはすでにある種の認識が働いている。感性直観において現われている私の変容を、さらに客体とする私の変容である。これはすでに認識であるゆえに、理知の働きといってよいだろう。すなわち〈反省〉が働くことによって、本来の意味での自己意識が生じるのである。すなわち、本来の自己意識とは、感性と知性との綜合の上になりたっているのである。それゆえに、純粋直観である私の意識は、知性によって客体化され、さらに比較の対象を求められることにより、そこに不可知の意識が生じるのである。感性そのものを思惟することは不可能であるからだ。
 したがって、認識者としての私と、感性の純粋直観において知られる私とは、別物であるといってよいだろう。認識者としての私は、先験的・形式的な見えざる(すなわち無意識の)認識主体であり、本来の自我=自己意識と呼ぶことはできないであろう。それが私として意識される時には、すでに感性直観において相関者として客体化されているのである。両者は別物でありながら、後者の私は、前者の私が意識として成立するための、先験的条件をなしているのである。認識者としての前者が身体的、生命的、経験的自我の無意識の形式的主体であり、後者が自我の感性直観における本質であり、なまの(nakt)自己意識であるといえよう。純粋自我の探究は、後者の根源に向かう探究である。それゆえに、もはや通常の認識の及ばない領域であり、なんらかの超越的能力がそこになければ、把握することの不可能な、根源の存在者への、アプローチとなるであろう。

 純粋自我はただ単に<存在>する。それ以上のことを言いえないなんらかの存在である。何ゆえにそう言えるのか、一つには、私は存在について、私の存在以外には、なに一つ知らないからである。私は私以外の、他我の存在について、どのように知るのか。他者の行為や言語が、私自身に、私の心性に、苦痛や喜びなどの、なんらかの変容を起こさせることから、私は他者の中に、私と同様な私の存在を直観、もしくは推論するに過ぎない。私自身の変容は、しかし直接他者の存在を証明するものではない。私が苦しまなければ、同時に他者は存在しなくなるであろう。私はただ、私の存在について知るばかりである。同じことは、事物の存在についても、さらに確実に言えるであろう。事物が私の中になんらかの変容を惹き起こさなければ、私はそれらの存在について何一つ知らないであろう。私があるということが、あらゆる存在の根拠なのである。
 私はそこ(da)にあるのではなく、端的に存在者としてある。私のあるのは、そこでも、どこでも、いつでもない。私は時空を超えてある。Daseinとしての私は、すでに純粋な存在者としての私を失った、私の疎外(Entaeuserung)された姿である。たしかに現実存在としての私は、時空の中に投げ出され、生命体として四苦八苦の存在を余儀なくされるが、それは実は私の本質ではないのであり、私が時空において身体として発現する根本の原因である、〈世界意志〉の本質に属するのである。私がもし本質において世界意志と同一であるならば、私の存在は同時に世界意志の存在であるはずだ。しかし私は、世界意志の目に見える姿といってもよい感性界において、感性そのものではなく、感性において純粋に直観されるものである。感性において現われながら、感性そのものではない。感性の変容において直知されるものである。この知られるということ、意識されるということは、本来盲目であり、認識のない世界意志とは、本質をまったく異にするといってよかろう。この世界の本体である世界意志が、ある種の不可知の存在者であることを承認するならば、おなじく根源において不可知である私の存在も別に認めてよいであろう。そして世界意志が存在者であることは、もし私が存在者でなければ、決して知ることも、知られることもないであろう。私の身体が、世界意志の傀儡であるがゆえに、私は私の心性の変容から(カントはaffizierenという用語を使っている〉、事物の本体の存在を推論し、直観することが出来るのである。
 私はある。私は私であるところのものである(Ich bin der ich bin)
。これが私について言えることのすべてである。同時に、この世界の存在について言えることのすべてでもある。ゆえに、このことは神の本質でもあった。私について言えることから、神の本質が推論されたのである。しかし、この言明は、トートロジーであり、存在そのものは、なんら私の属性ではなく、内容的に空であり、無意味である、と批判されよう。デカルトは少なくともcogitoから、私の存在を引き出しているが、私の存在からは、何ものも引き出すことはできないであろうと。しかし、逆に言えば、私の本質は、すでに言語を超えているのである。あるいは、存在そのものがすでに概念ではなく、言語の範疇を超えているのである()。じつは、感性の存在ですら、言語は直接に表しだすことはできないのである。blueといったところで、その言葉そのもの、音声そのものが、blueであるわけではない。言語は単なる感性の媒介者としての表象であるに過ぎない。blueの存在そのものは、感性において知られるほかはないのである。存在そのものを言語が言い表わせないのも、あるいは存在そのものを属性とできないのも、言語の側の事情であるのだから、言い表せないからといって、それが存在しない証明にはならないのである。もちろん、言語的には沈黙するほかはないのであるが。

)存在が最上位の概念であり、カテゴリーであるならば、概念の生成過程から、下位の概念があってよいわけである。いま、〈一本の木がある There is a tree.〉と言表したとする。これは存在の言表なのであろうか。実際に表象されているのは、どこかのの空間における一本の木であり、空間表象から切り離された、なんらかの個物の存在そのものの表象ではない。あるものが有ると言表した時には、必ずどこに、どのように、いつといった、存在にまつわる状況が、同時に表象されるのである。それらから抽象されるものは、空間や時間や様態の概念であり、個物そのものの存在の抽象ではない。これを私の存在について考えるならば、通常<わたしはある、わたしはいる>と言表した時には、どこに、いつ、どのようにといった、さまざまな表象の中にいる私が、一個の表象の中の表象としてとらえられているのである。つまり、私自身を言語で表わしたとたんに、私の存在は存在そのものではなくなり、私は単なる個物としての存在でしかなくなるのである。私という個物はたしかに、抽象されてIndividualityという一個の概念を構成するであろう。しかしそれは私の存在については、なにごとも語っていない。

 存在の探究は、究極において言語を超越する。自我の探究も例外ではない。言語を超越したなんらかの感性的直観において、自我の本質は開示されるのであり、同時に存在の秘儀へといたる啓示も見いだされるであろう。すでに形而上学の実践の領域なのである。
2022年6月4日(土)
意識の存在意義
 人間のあらゆる行為、身心のあらゆる活動は、脳の無意識的機能によって、あらかじめ意識に先立って決定され、遂行されているのならば、そもそも意識にはどのような存在意義があるのであろうか。一つの具体例をもとに考えてみる。
 ある予想行為、ある計画が、実行に及んで失敗したとき、意識には、いまいましさや悔いのような苦痛の感情が生じてくる。予想も計画も、その結果としての決断と実行も、すべて無意識の機能において処理されているのであるならば、失敗した時にともなう苦の感情の発現も、すでにあらかじめ無意識に設定され、遂行されていることになる。失敗が予測できなかったのは、無意識の機能のなんらかの欠陥であり、場合によっては故障である。
 無意識の機能をAIと同じであるとするならば、AIは果たして、その機能の遂行の結果にともない、くやしがったり喜んだりするであろうか。失敗したとしても、AIはただ単に、自己の機能の欠陥や故障を、そのままに継続するだけであろう。あるいは自己修復機能が備わっているならば、単に修正するだけのことであろう。もし脳の無意識が、AIの機能と同じであるならば、脳は決して悔いや喜びのような、無駄なことにエネルギーを使わないであろう。ただ単に、自己修復可能ならば修正するだけのことであろう。
 脳の機能が予想したことが、行為となって失敗や成功の結果を生み出したときに、脳の機能そのものは喜びも悔しがりもしないのに、それが意識においてそれらの感情として現われるのは、もし意識が完全に脳の無意識と切りはなされているならば、不思議なことと言わねばならない。そもそも意識自体が、すでに脳の無意識の機能によって準備され、発現するものであってみれば、喜び悲しむのは、無意識からの指令であると考えてよいわけである。悲しむのも喜ぶのも、私の意識のしわざではなく、脳そのものの機能である。そうであるならば、無意識と意識とを別物と考えるのは、ある種の錯覚であり、間違いであるといえよう。意識と無意識とは、脳の機能を介して、密接に連関しているのである。意識は単なる〈受動〉などではなく、まさに脳における無意識との連関において、密接に〈連動〉しているのである。これを意識の〈連動仮説〉と呼んでよかろう。
 それでは、なぜ意識は、あるいは脳は、おのれの決断による行為の失敗を悔しがるのであろうか。無意識であれ意識であれ、ある一つの系列の機能が、うまく働かなかったという、反省がそこに働くからである。無意識=意識系の機能は、全能ではないのである。意識はつねに無意識の決断・行為に対して、なんらかのフィードバックを送っていると考えてよかろう。意識はある種のモニター機能であると、以前に述べたのもこの意味である。意識自体もその機能において、行為や決断に対して責任を負っているのである。なにに対する責任か。基本的には自己の身心の保全であり、自己保存に対する生命的自我の本能的いとなみである。
 ある一つの系列と書いたが、無意識=意識系の機能は一つとは限らないであろう。無意識界は複雑混沌とした世界であり、意識のように統一性をもったものではない。人格は多元的(multiple)であることを以前に論じたが、この多元である理由は、無意識界そのものが、さまざまな勢力の拮抗しあう、人格の多元性の源であるからだ。それらの勢力の中でもっとも有力なものが、とりあえず意識として発現する機会を得る。それが生命的自我の発生である。この無意識=意識として現われる自我は、いわば封建社会でのprimus inter pares(同等なるもの間の第一人者)に譬えられるものであり、いつでもその地位を、他の系列の自我によって奪われかねないのである。これが多重人格の現象である。
 ある決断や、その結果としての行為が、失敗に終ったとき、意識において悔いやいまいましさが生じる原因も、実はこの人格の多元性にもとづいていよう。無意識界には、たとえ第一人者であれ、表面の意識的自我に同調しないばかりか、脚を引っぱるような勢力がいくらでも存在するのである。いわゆるGewissen(良心)も、その大きな勢力の一つである。ある決断や行為に、なんらかのやましさを覚えるならば、失敗の可能性が高くなり、結果として、それに反撥するならばいまいましさ、それを覚るならば、悔いや反省が生じるのである。あるいは、それの協力が得られるならば、物事は不思議とうまくいくものである。基本的にGewissenの正体は類的意志であり、個体のエゴを集団のエゴ、すなわち類的人格(一般に社会性と称される)に従属させるならば、集団の間では物事がうまくいくのは、このためである。
 一般に悪運とか幸運、ツキのあるなし、などといわれる運命観も、じつは無意識界での潜在的人格同士の暗闘にすぎないのであり、つねに無意識界に耳を澄ますならば、それらの原因の片鱗を感じとることが出来るであろう。この点で、意識は単なる無意識の機能の受動的な傀儡なのではなく、つねに無意識の勢力に対して気をくばり、フィードバックを送っている、せわしない君主でもあるのだ。どのような勢力を味方につけるかで、個体の運命も、人生も決まるのである。知情意といった脳の基本的機能は、根源において無意識の機能であり、意識でもってコントロールできるものではない。意識はただ、その統一性という唯一の強みである機能によって、無意識界の勢力を選択的に意識に協力させることが出来るのである。そのようにして出来あがった意識=無意識の複合体が自我と称されるものであり、身体的・生命的に見た〈わたし〉の正体である。
 意識がなにか脳現象の中で特別であるように思われるのは、脳機能が基本的に無意識の機能であり、それを概念的にとらえるほかはないからであり、それに対して意識は徹頭徹尾、感性的なのである。感性として現われるものは、心的現象の中で最も勢いのあるものであり(ヒュームの言うところの印象)、概念はその影(ヒュームの言う観念)であり、印象の奥に押しやられるからである。すなわち身体を基準にして、外感・内感の区別が立てられるのである。概念は基本的に知の対象であり、感性すなわち印象は直観そのものである。概念は物事を客観視する。すなわちGegenstand(対象)として、身体の感覚器官の〈外に〉立てるのである。感性直観は身体の〈内〉に、あるいは身体表象をともなわずに、単なる客体(Objekt)として、ものごとを直知するだけである。感性直観を直知することが意識であり、それを客観化し、対象化することが、知識すなわち概念の世界である。脳機能はまさにこの知識の世界に属しており、あたかも意識とは別のものに思われるのである。
 意識は基本的に、意識するものの世界以外にはない。すなわち感性直観が直接であれ間接であれ、心性に現われている限りにおいて、意識は存在する。概念は、同じく基本的には意識のないところに、それが存在することはない。あるいはそれが機能することはない。概念が勝手に世界を作ったりなどすることは、特別な形而上学ででもなければ、考えがたい。人間の脳が、感性直観を基礎にして、概念を生みだすのである。たしかに、感性直観であれ、概念であれ、脳の無意識的機能であることに違いはないが、そのような知識が生まれるには、まさに概念的思考が必要なのである。意識すなわち感性直観は、直観そのものにとどまっているが、概念は対象化をへることによって、身体および感覚器官を超えることが出来る。だれも自分の頭のなかの脳の機能を、直接見ることはできないが、すなわちその状態は直観的には不可視であるが、概念として想像することが出来るのである。すなわち概念は、見えないものを可視化することが出来る。ただしこの可視化されたものは、すでに意識そのものではなく、意識において記号化(あるいは言語化)されたものである。いわば二次的意識なのである。この二次的意識における記号の操作によって、いわゆる科学知識が生まれるわけである。
 見えるものだけの世界と、見えないものを可視化する操作の世界とが、まったく別物に思われるのは、そこに働く脳の機能が異なるからである。伝統用語で言えば、一方は感性の世界であり、他方は知性の世界である。一方は心性の直接的変様(Affektion)に異ならず、他方はそれに対する、カントの用語で言えば範疇的(kategorisch)な反応もしくは適応なのである。この両世界を矛盾なく統合するものが、自己意識すなわち自我の統一作用に他ならない。カントがあらゆる表象には〈わたし〉の意識が伴い得なければならないと言ったのも、その意味においてである(統覚の先験的統一)。実のところ、自我のないところにまともな意識は存在しないのであり、それは夢の状態でだれもが知るところである。
 意識の問題は、この自我の存在の問題と混同することによって、かなりの誤解を招くようである。自我の存在は確かに不可解である。しかし意識そのものの機能は、必ずしも不可解ではないのである。意識がなければ、生命体はさまざまな不利を招くことになる。前にあげた、低温やけどなどもそれである。意識が有用であることはだれもが認めるであろう。逆に意識があると困る場合もある。手術などでは麻酔が必要となる。いずれにせよ、意識そのものの存在は、感覚の存在と同様に、脳の操作によってコントロール可能な、特別に不可解なものとはとらえられていないであろう。
 意識を自我意識と解することによって、意識の存在が難問に思われてくるのである。なぜ私が存在するのか、あるいは自由意志、などという問題が生じてくる。単なる統合作用としての自我は、少しも不可解ではない。私は生命体としての身心を保存し、維持していくためには、つねに身心を<私のもの>と見なしていなければならない。このせわしない働きにおいては、私は私の存在を少しも不思議とは思っていない。すでに述べたように、このような自我は、意識=無意識系における一君主であって、身心の統治に忙しく、おのれを反省するまでには至らないのである。マルクス・アウレリウスのように、役務から解放されて、ふとわれに返るとき、そこに省察が生まれる。<わたし>そのものに意識が及ぶようになるのである。この自己意識において、いわば意識は脳の機能から解放されるといってよいだろう。あるいは、身心の保全という脳の機能の本来の仕事からすれば、ムダな働きをしているといってよかろう。いわば脳が脳を不思議がっているのが、自己意識の正体である。自己意識は、脳が本来の機能を外れたところに生じるのである。いわば、意識の意識、メタ意識である。
 このメタ意識は、もはや概念ではないのであり、いかなる対象化も不可能である。客体(Objekt)としてすら明瞭にとらえることは不可能であり、無限背進におちいることは、すでに何度も述べた。対象でも客体でもない<わたし>が、しかしながら存在する。それはある種の感性における純粋直観であることも、前に述べた。このような自我を、単なる知識の対象である脳と対比させるならば、解決のつかない難問におちいるのは当然である。自然科学が知識のシステムであるかぎりは、自我の存在は決してそのシステムにおさまることはなく、その中で知識として解決されることはないのである。したがって、自然科学は、自我をまったく無意味なものとして無視するか、自己自身の無力を認めて、この世界には自然科学の及ばない領域のあることを認めるほかはないであろう。まさに人間自身が、その領域に属しているのであるから。
2022年5月31日(火)
脳と必然
 人間の行為を決定するプロセスは、意識的な自由意志ではなく、脳内の機械的な無意識の機能であるならば、何ゆえに、ものごとは理想的に、成功裏に運ぶように進まないのであろうか。決断するのは脳内の機械的機能であるならば、失敗は許されないはずである。失敗したとしても、それがなぜ苦痛や後悔となって、心情に表われるのか。もし身心の反応が、単なるロボットのそれであったなら、機械が壊れたり、機能が故障した場合には、暴走したり、停止したりするだけであろう。失敗の原因は、機能そのものにあるのであるから、単に故障を修繕すればすむことである。しかし脳に対しては、単なる機能の故障ではすまないのである。人間の行為には責任が問われてしまうのである。それが他者に対する責任であれ、自己に対する責任であれ、脳がいわば勝手に行なったことを、あたかも自分の責任のように感じてしまうのは、合点がゆかないことである。
 人間の行為が、すべて脳が無意識になすことであるならば、脳がなにかの目的を立て、行為に及び、失敗したならば、それは脳自体の機能に原因があると見なしてよいわけである。脳は何ゆえに、失敗を予測できないのであろうか。脳は厖大な情報機関であることが明らかになっている。その情報処理は、ほぼ100%、無意識に行われているといってよかろう。それほど優れた機能が、何ゆえ行為において失敗などするのであろうか。脳の機能が、ある必然性にとらわれているからであると考えられる。脳の情報処理自体が、脳自体によっては制御できない、あるメカニズムの中にあるからだといえる。
 人間が意識的に行為をなす場合にも、さまざまな矛盾撞着が生じるように、脳の無意識の機能においても、無意識なだけにさらに複雑な矛盾撞着が起こっているのであろう。無意識界にある、そうした人格的矛盾対立を、以前にシャドー・パーソナリティーとして論じた。意識と無意識の対立ばかりでなく、意識と意識、無意識と無意識との間にも、さまざまな対立関係が存在するのである。であるから、行為の主体が無意識にあるとしても、その主体が万能であるということにならないのである。無意識界は、より衝動によって支配された世界であるといえよう。無意識に判断することが、かえって愚かな結果をもたらしうるのである。欲望や願望は、無意識界に深く根づいており、意識に現われなくても、行為の主導権をにぎっており、衝動的であることによって、失敗や破滅をもたらすのである。
 やること為すこと、すべてうまくいかず、不快な結果に終わる場合、なにか悪運にとりつかれているかのように思う場合があろう。投資などで、賭けるたびに失敗を繰り返すと、なにか無意識界の悪しきものに祟られている気がするであろう。心の奥になにか疚しさのようなものがある場合、物事はうまくいかないものである。無意識界をうまく動かすには、心の奥をコントロールしなければならない。行為そのものが、無意識界の出来事であるならば、なおさら無意識の世界の衝動や情動をコントロールすることが大事なのである。無意識は、思ったよりも賢い世界なのであり、意識的な思考の及ばない洞察や情報に満ちているのである。それとうまくやっていかない手はないのである。
 人間の身心は、意識の世界と無意識の世界のパラレルワールドをなしているといえよう。どちらの世界にも時間と空間と因果律の法則はあるが、心理学が明らかにしているように、両世界の間にはズレが生じているのである。一般的に行為においては、つまり知覚、思考、判断、運動において、時間と空間のつじつま合わせがおこなわれる。そして因果的判断において、意識と無意識の間で置換がおこなわれる。つまり意識的行為が優位であるかのような、プラグマティックな判断が行なわれるのである。意識は知的であって、無意識は〈意志〉的である。知性=意識は、言ってみれば意志の優位の代理人なのであり、虎の威を借りているに過ぎないのである。
 本質的なのは意志であり、すなわち無意識界である。それ故に、行為の本質も無意識界に求められる。行為を動かすのはなんらかの衝動であり、欲動である。この宇宙的なエネルギーが、生命体において発現し、生への意志として、生命体のあらゆる行為を支配する。そして生命体であるかぎりは、そのあらゆる行為は必然性によって支配される。この必然性は、形而上学的に言えば、世界の根源的宿命であり、運命であるものの現象化である。言ってみれば、この宇宙のあらゆる現象は、あるがままにあるほかはないのであり、人間のあらゆる行為も、意識的であれ無意識であれ、あるがままにあるのである。人間の脳そのものも、ある種の宿命の器官なのであり、人間のあらゆる行為を、この宇宙そのものを、宿命として現わしだす装置なのである。それ故に、脳の生みだすものには自由も責任もないのである。
 人間は言ってみれば、一種の宿命のゲームを生きている。良くも悪くも、ゲームの手順どおりに行為するほかはない。自由であると思うもよし、悪運も幸運も、じつは必然の別名であり、良心の呵責も、道徳心も、エゴイズムも、すべてゲームの手札にすぎない。よき人生も、悪しき人生も、ゲームの結果として用意されている。少なくともゲームを楽しむだけの余裕を、この宇宙は慈悲として与えてくれているのだ。これが〈運命愛〉を生きるということであろう。
2022年5月12日(木)
人生の〈悠〉について
 悠とは裕(ゆとり)であり、遊(あそび)であり、自由である。人生または生活の基本は、業(資)・食・住・衣であり、この基本がなってあとに、〈悠〉がくる。生命は業から始まり、うまくいけば、悠にたどり着くのである。もし間違えて悠で始めてしまえば、失敗と滅亡がまっている。業・食・住・衣プラス悠なのである。
 悠とは、悠然たる自由の生活であり、これにはあらゆる趣味、遊び、芸術、学芸、スポーツ、旅行、家族や友人との交遊、社会活動などが含まれる。つまり、業・食・住・衣以外のすべてである。生活の基本がなった上で、さらに生活の精神的・身体的充実へとむかう、ゆとりの時間が生まれるとき、おのれの好みのままの悠の生活が開かれるのである。人生の内面的価値は、この悠の実現にかかっているといえよう。
 悠は人生や生活の最初に置かれてはならないものである。それが生命の掟であって、あらゆる生命体は、生まれたとたんに、生存のためのあらゆる努力をする。人間も例外ではない。幼獣や子供が遊んでいるように見えるのも、実は業・食に備えて、体力づくりをしているのである。教育においても、勉強は学〈業〉であって、遊びではない。人生で一番つらいことは〈業〉すなわち生活の資をえることであり、そのために学校では、勉強の名のもとに、骨の折れる学業を仕込んでいるのである。学業がすぐさま、実際の業に結びつくとは限らないが、少なくとも業を営む知力と忍耐力が、勉強によって鍛えられるのである。勉強を嫌うということは、人間社会ではすなわち、まともな業には向かないということであり、業・食・住・衣・悠の人生行路から外れることであり、よほど特殊な才や能力でもない限り、失敗と破滅を運命づけられる。
 <悠>は人生の果実であり、これを実らせるためには、身体という畑を耕し、学業という肥料をまき、せっせと身心の世話をして、やっと実るものである。もっとも価値あるものを、始めから楽しんでは、あとの人生は落胆と、退廃と、投げやり以外にはなくなる。最初からなんらかの資に恵まれたものでなければ、破綻の人生を歩むであろう。資に恵まれたものであっても、幼少年期の教育がなければ、同じく破綻の道を歩むであろう。この点で、子供の教育は、充分厳しくなければならないのである。しかも野心や、欲望をあおるのではなく、自立心と努力を教え込まねばなるまい。一言でいえば、現実の生活に対処できる知識と業(わざ)を教えねばならない。趣味や学芸や遊びなどは、すなわち悠の生活は、みずから開く将来のためにとっておけばよいのである。
 家族や性生活は、悠に属する。生活にとって絶対に必要なものではないからである。交遊や社交も同じであって、ゆとりのないところに、〈世間〉は狭くなる。人生は家族の中で始まるが、業・食・住・衣を一生同じ家族の中でいとなむことはまれであろう。そうであっても、家族を再生産するには、やはり悠が必要なのであり、悠があって可能なのである。種としての営みは、生命界においては、成長の一番最後に来ることであり、一番余裕と時間の必要なことである。人類においても、生殖と子育ては、生活の基本が確立した上で始めて可能になる。さもなければ、赤子を捨てるしかないのである。単なる性生活は、しかし、ある程度のゆとりで満たされうる。それ故に、生殖から性の快楽だけが切りはなされていくのである。
 人生で最も価値あるものは、悠から生まれる。かといって、それを生活の基本に替えることはできない。このことを人生の最初から知っておくべきである。それゆえに、家庭や学校の教育の初期から、人生の生活の真実を教えるべきなのであり、それに対する対処法を学ばせるべきなのである。スパルタ人は、それを極端な形と程度でおこなったが、その社会ではいかなる生活の迷いもなかったであろう。しかしながら、人生の果実である悠も自由も生まれなかった。ただ戦死することが、最高の名誉とも価値ともなっただけである。悠を心得ていたアテネでは、自由な学芸が生まれたのである。しかし青年を<堕落>させたことで、ソクラテスは処刑された。悠を業よりも上に置いたからである。
 現代社会では、業と悠とは、えてして混同されがちである。働くことは本来楽しいことではない。生活のための止むを得ないいとなみなのである。そのいとなみの果てに、安らぎもあり、悠もある。このプロセスを混同するならば、ゆとり教育とか、楽しい職場などという、妙な惑わしが生まれる。生命体は本来、生きるために汲々としており、それ以外に何の生存の意義も持たない場合がある。ある種の小動物は、一日中食べることに専念している。そこには睡眠時以外の、何のゆとりの時もないのである。人間もまた似たような状態に陥りがちである。働いていないと、どうにも気持のおさまりのつかない人々の、いかに多いことか。将来の不安によってむち打たれ、金銭欲によってあおられ、時は金なりの、金言そのままの生活に支配されているのである。ソクラテスは処刑されたが、やはり悠は生活の上におかるべきものである。生活をないがしろにするということではなく、生活の果実を楽しむという意味においてである。生活がなければ、無為の不安とやましさにおそわれるが、悠がなければ、生活そのものも無意味なのである。
2022年5月5日(木)
箱根ヶ崎探索
 八高線の北の方面は、明覚や小川町はよく降りることがあり、散策やハイキングをするのであるが、南方面は中央線や青梅線に出る時通過するだけで、めったに降りたことがない。そこで気分を変えて、四つ先の駅の箱根ヶ崎で降りて、六道山という手頃なハイキングコースがあるので、このあたりで連休の一日を過ごすことにした。
 古い分かりにくい地図で、まずは駅を降りて北へ10分ほど、青梅街道を越えたあたりの、池のある公園へ寄った。残堀川(ざんほりかわ)という、自然の川の源にある、公園として整備されたきれいな池である。三つの池の一つは釣堀であり、釣り客や子供が群れている。弁天の社のある池が、和風庭園の静かな、よいおもむきがある。
 そこから少し行くと、神社があり、寄ってみる。社殿まではけっこうな段数があり、そこで疲れては先が思いやられる。さらに東へ向かい、ビューパークの裏手から山道に入った。起伏の比較的なだらかな、歩きやすい山道である。そのまま三角点までゆく。
 三角点では道が分かれていて、地図にあるとおり、いったん高根山口へ降りて、そこから折り返し六道山の展望台まで行くことにする。下へ降りたところで、トイレのある広場へ出、そこから再度標高200メートルほどの山頂を目指す。途中、車通りの上に橋の架かっているところへ出、三角点からの近道が近年できていることに気づく。古い地図は禁物である。そこから出会いの辻をとおり、車で行く人の多い展望台へ向かう。

 

 展望台からのながめは、四方一面の緑が楽しめる。ベンチで昼食をとり、さらに里山民家へと山道を下る。そこでは稲作の体験などが行われるらしい。今は、都会民なのであろう、子供や家族連れが、あちこちで里山の風情を楽しんでいる。



 一日緑の中の散策を楽しむことができた。行きはよいよいであったのだが、里山広場を出たところで、鳩のように日差しから方位の見当をつけ、南へ向かったのはよいが、行きすぎて、新青梅街道の先まで行ってしまい、途方もなく大きなジョイフルホンダという、ホームセンターの先で立ち往生してしまった。思いついて、スマートフォンのgoogleの地図を開き、見当外れの大回りをしていたことに気づく。3キロはムダ歩きしたであろうか。文明の利器を馬鹿にしてはいけないと思い知る。

写真上:左から、狭山池、狭山神社、同じく狭山池。
写真中と下:左から、六道山展望台より、雑木林、原っぱ。
2022年5月3日(火)
自我の形而上学
 自我の現象的あり方が、感性Sinnlichkeitにおける複数的な自我意識の発現であることを明らかにした。感性以外に自我の発現する場はなく、感性そのものは感覚器官すなわち身体的トポスに結びつけられ、複数の自我が空間的に対峙して現われることによって、身体に遍在する自我の複合が、自我すなわち自己意識の現象的あり方なのである。そのさい、各自我意識そのものは、感性そのものと切り離しがたく融合しており、快もしくは苦の意識の発現と同時に、自我もまた同時に発現するものであることを明らかにした。感性そのもののあるところには同時に自我がある、自我とは感性のある特殊な質なのであり、感性が直観と称されるように、自我意識そのものもある種の直観もしくは直知なのである。
 そもそも感性とはどのような現象なのであるか。感性とはそれが意識にのぼる以上は、なんらかの快か苦であることを明らかにした。それはある身体的トポスにおける、ある与えられた興奮もしくは高揚であり、それが意識と称せられる特有の関係性において、私自身であることが直接に知られるのである。ここで知られるとしたことの意味は、感性自体の中にすでに何らかの知識的要素が含まれていることである。感性はそれが知られなければ、それが感性であることがわからないのであり、そもそも感性として発現することはないのだ。なんらかの知る機能が、感性そのもに属しているか、加わるのでなければならない。前者ならば直知は感性の本質であり、後者ならば、なんらかの知性が働くことになる。ショーペンハウアーは、感性直観そのものがすでに悟性的であるといっているので、前者の考えで、感覚というのは単なる受動的な機能ではなくなる。あるいはカントのようにカテゴリーや統覚のようなものを考えれば、後者の立場で、感性自体は盲目で、混沌としていること(感性の雑多)になろう。いずれにしても、なんらかの知性・悟性がなければ、感性は感性として発現しないのだ。
 感性が同時に自己意識であるということは、本質的であれ、外来的であれ、この知性的要素が感性にともなうからであるといえよう。とはいえ自我意識は、単なる知性の産物ではなく、ある種の感性直観なのである。この知性と感性との融合を、ある種の知的直観と考えてよかろう。単なる純粋な感性があるとすれば、そこには私の意識はともなわないであろう。たとえそれが発現しても、私はそれを私のものとして感じることができないはずである。それどころか意識すらともなわないであろう。あるトポスにおける感性の発現を私のものとして感じるためには、そこに私自身を意識しなければならない。その意識する私は別の私なのである。この意識すなわち知るということは、すでに知的な作用であり、認識と呼ばれるものである。この認識において、私は現われた感性を、私のものとして、私の意識のもとに統合し、快もしくは苦である感性の性質に応じた判断を下し、行為するのである。
 この統合し、判断する私と、感性直観において現われる私とは、私である点において一致しながら、その機能において異なっていよう。見る私と見られる私の違いといってよい。すでに身体的トポスにおいて、見る私は視覚と密接に結びついており、見られる私は他の感覚器の位置とむすびついている。見る私は見ることによって思考し、観察し、見られる私は、ひたすら感性の中に、おのれを快苦の意識において発現する。思考し、観察する私は、単なる思考ではなく、見るという感性的意識において発現する私である。いわば眼としての私である。見る私とは、一つの感性直観である。それ故に、身体の他のトポスにおける、感性直観における私の意識と本質的に一致するのである。私の統合とは、感性における視覚の優位の謂いに他ならない。盲人の場合には、他の感覚の優位が、例えば音や触覚が、私の意識の統合の役を果たすであろう。
 私の意識・自己意識は、身体各所に感性直観として遍在する。それが私の意識として自覚されるためには、別に見る私がなければならないとした。見る私、すなわち感性を統合する感性がなければならない。この統合の働きは悟性的もしくは知性的である。私の統合的意識は、知的直観であるということの意味である。かりに自我というものが本能的に存在したとしても、知性がなければそれを自己意識として知ることができないのである。低温やけどということがあるが、気がつかなければ痛みもない。意識が生まれたとたんに、それが私の痛みであることに気づく。痛みを知ると共に自我が発生したのである。この例でわかるように、感性は気づかなければ発生しない。感性が発生するのは、すでに知が働いているからである。同様に、気づかなければ自我も発生しないのである。
 それでは、単なる感性と、自己意識との違いはどこに求められるのか。感性はすでに知性的・悟性的であって、すなわち先験的に悟性が働き、そのことを知性が意識するのであるが、そうであるならば、すでにそこに意識としての自我が生まれているのではないか。感性の成立そのものが自我なのではないか。しかし、単に局部的に、例えば私の足の先が寒さのようなある感性的性質をもって現われ、そこに私の意識が発生したとしても、その単なる感性的意識だけでは、私は私を認識できないであろう。私の意識と私の意識が対峙することによって、私は私自身において私を見いだすのではないか。ではその私自身とは何であるか。感性において発現している私の複合に他ならないのであり、その複合がある一点において統合されていることである。この統合こそが、私の唯一無二性の意識の現われてくる場なのである。この感性的私を統合する働きは、それ自体では感性ではなく、知的・悟性的働きであるといってよかろう。すなわち先験的であって、意識における直観的反省において、はじめて現われてくるるものである。それを知的直観といってよいだろう。しかし単なる知性の働きではないから、そこにはいかなる根拠律も働くことはなく、すなわち無根拠であり、したがって〈不可解〉なのである。

(*)悟性(Verstand,understanding)と知性(Intelekt)は、ほぼ同じ意味であるが、ここでは特に先験性を意味する場合に悟性とする。

 単なる感性だけでは自我は発生しない。自我はその発現においては感性を必要とするが、自我の本質そのものは、知性・悟性の働きを介して求めることができるのである。それでは、単なる知性や悟性は、自我を構成できるであろうか。すなわち思考や理性の本質が自我そのものでありうるのか。次にそれを考察する。
 すでに知性や悟性の機能である、根拠の原理によっては、自我の本質は洞察できないとした。私の意識そのものは、どこまで分析しても、その根拠らしいものは見いだすことはできず、不可解のままなのである。これは因果関係や論理や、時間空間の直観の範囲に属してはいないということであり、悟性による統合のもとにありながら、悟性のカテゴリーを当てはめることができないのである。私という自我が、両親を始めとしていかなる他者の自我とも、因果的に結びついていないことは自明であり、その間にはいかなる関係も思惟できないのである。これが私の唯一無二性である。自我の当てはまる唯一のカテゴリーは、同一律であるといってよいが、すなわち私は私であるという私の自同性であるが、本来自同律は、AはAであって、非Aではないという、複数の概念の間での関係であるから、唯一無二である自我には、厳密には当てはまらないのである。そもそも判断は観念と観念との間の関係の認識であるから、比較するもののない自我においては、判断が成立しないのである
 さらに自我は非時間的であることも自明である。自己意識は無時間的なのである。私が私であるという自我の本質は、変化することがない。変化のないところには、時間の認識は起こらないのである。また私の意識は没空間的である。私が私を意識する限り、私は一点であり、それ以外の空間的次元を持たないのである。以前に述べたように、この宇宙に時間空間的に中心があるとすれば、自我以外にはないのであり、自我自体が没時間的かつ没空間的であるがゆえに、宇宙は自我を中心として無限に広がるかのように思われるのである。それに対して、経験的自我意識は複合的であるかぎり、時間的かつ空間的でありうる。身体が感性的意識の現象的発現の場であるからである。身体現象であるかぎり、時空の制約を受けるのである。しかし、ここでは自我の本質を探究しているのであるから、自我は本質において無根拠であり、ロゴス以前であり、知性や悟性を超えており、非時間的、非空間的であるといってよかろう。
 では、自我はなんらかの<理念>であるのか。神や霊魂の不滅といったような、経験を超えた、なんらかの〈要請〉や願望によって生まれた、いわば幽霊のような得体の知れないものなのであろうか。自我が単なる理念ではないことは、それが感性において現われる経験的現象であり、しかもれっきとした私として、身体的にも言語的にも、表わしうるものであることから明白である。逆に言って、私の存在、自我ほど現実的なものはないのである。私のないところには、現実はないと言ってもよいほどである。その本質は不可解であるとしても、その唯一無二性は、デカルトのコギトーの根底となったように、疑うことはできないものである。そうしたものは理念とは呼ばれえないであろう。自我は自我なのであり、自我以外の何ものでもない。たとえそれが時間空間において、一本の葦のようにひよわな存在として発現していようと、自我はそのことを知っているのである。おのれが唯一無二であり、絶対の孤独者であることを知っているのである。
 感性・知性・悟性・理性・意志は、あるいは知情意は、人間の基本的本性をなすものと見なされているが、実は人間にとって最も本質的なあり方は、自己意識であり、自我であるといえよう。それがなにかの独立的な機能であるとは言い切れないが、自我という意識の中心がなければ、知情意も無意味であり、単なる物質的、無機的機能に過ぎなくなるであろう。それらに特別な意味を付与するのが自己意識、すなわち自我なのである。自我はおのれがどこから来て、どこへ行くのかを知らない。知ることは自我の機能ではないからである。すでに述べたように、自我は単なる直知であり、おのれ自身について何の根拠も理由も目的も見いだすことはできない。まさに無根拠(Ungrund)なのであり、現象的に現われているおのれについて、ヒュームが指摘したように、なんらの観念をも持ちえないのである。もしなんらかの観念であるとしても、それはカントの物自体が境界概念(Grenzbegriff)と言われる意味において、概念と非概念との境にあるなんらかの限界を現わす観念なのである。すなわち、もし自我自体(Ich an sich)というものがあるとしても、それが唯一無二で、不可解であるという、現象的本質以外には記述できないということである。その現象的本質においても、すでに自我の本体の基本的性質があらわれていると言えるのだが、ショーペンハウアーが、物質は物自体の眼に見える姿(Sichtbarkeit)であるといったことにならえば、私という自我の直知は、自我自体の眼に見える姿であるといってもよいだろう。実は、物質の現象的本体ですら、究極的には探究不可能であることは、自然科学の限界として現われているのである。物質そのものが、物自体の境界領域(Grenzgebiet)における現われだからだ。同じように、自我の現象も、自我自体すなわち純粋自我の、境界領域における現われに過ぎないのである。ここに自我探究の究極のアポリアがあるのである。
2022年4月26日(火)
自然とは何か
 自然(natura,physis)とは、西洋では本来ものの<本性>という意味であった。これはあらゆるものに当てはまって、人間に関して言えば、本来の性質、生まれながらの本性ということになる。物事、生命、人間の、それらの活動、あり方、メカニズムの、根源の性質が、今日でも西洋語のnatureの根本の意味である。東洋では、自然という語はより限定されて、自ずからなるもの、人為に対する、文字どおりの天然を意味するようで、易経に天行健、君子は自彊(自らつとめ励む)して息(や)まずとか、老子に無為自然などと説かれるのも、自然のあり方に従えということであろう。そこにはとりたてて探究精神は、こめられていない。だから、春夏秋冬、なにごとも自然の営みのままなのである。
 さて、西洋でも東洋でも、自然という言葉には、人間界を取りまく環境が、根底になっていることに違いがない。この環境を、宇宙や世界と言ってもよいのであるが、単なる広がりや変化における適応や応用といった、環境との交渉にとどまらず、その中における人間の位置が自覚されるとき、<ものの本性>ということが自然の意味として加わるのである。自然とは、哲学的、形而上学的意識の産物なのである。
 世界や宇宙には、いまだ人間中心的意識がまといついている。世界le mondeは人間の世界をも意味しており、時空を表わす宇宙も、始めから秩序立てられた世界cosmosであり、人間界の秩序と照応している。それに対して、自然naturaにはいまだ未知の部分の意識が残されており、あるいは人間の意識を超えた部分があり、それが本質や本性の意味となり、探究心の対象となるのである。しかし、自然は、あるいは自然界は、完全には人間の意識と切りはなされてはいない。ここから自然探究の二種の方向が生まれるのである。

)往古來今之を宙と謂ひ 四方上下之を宇と謂ふ (淮南子斉俗訓)

 自然を人間界から独立した、客観的な対象の世界と見なす探究方向は、ミレトス派の自然哲学に始まった。その完成が、デモクリトスの原子論atomismである。人間界を含めた世界の本性は、原子の機械的な活動mechanismからなるのであり、人間的要素、その本性も、ものの本性に還元されるのである。自然すなわちものの本性が、人間の本性と同一であるということは、東洋のように必ずしも倫理的・道徳的意味を持つわけではない。あるがままにとらえられた自然のメカニズムは、人間に対立し、人間の敵ともなりうるのである。自然の必然的法則は一方で宿命観と結びつき、他方でそのメカニズムの応用によって自然の克服・支配へと向かうのである。この方向は、近世思想から現代の自然科学にいたるまで貫徹されており、ものの客観的本性の探究、人間のいない宇宙観、を可能にしたのである。
  人間を超越した自然の考えは、今ひとつの宗教的な方向をとる。自然界に未知なる要素、人間の意識を超えたものが含まれるならば、それに直接対処する能力を、人間は持たないのである。そこに<神>の存在が想定され、介入してくる余地が生まれる。神の起源がシャマニズムにあるとするならば、神は人間の意識の産物であり、ある種の夢にも似たフィクションである。この神が人間の力の及ばない自然をも、創造し、支配するものと見なされることにより、自然そのものが、すなわちものの本性そのものが、人間の意識の世界にとりこまれ、なんらかの意識的な操作(崇拝や、祭儀や、呪術など)が可能なものと見なされるのである。この宗教的自然観は、未開人や古代人の擬人的な自然神の世界から、抽象的な唯一神にいたるまで、未知なる自然を、人間の意識の産物であるものによって説明しようとする、いわば神話的な超自然によって自然を克服しようとする立場、において一貫している。人間の苦しまぎれの意識のあり方と言えよう。しかし、それによって、自然は未知なる部分を失いはしないし、かえって深く、さらに未知なるものの中に、つつみ隠されたのである。

 さて、自然科学的であれ、宗教的であれ、人間を超えた自然の本質を探究するのではなくて、まさに人間的立場から、人間学的にものの本性を探究しようとする方向がある。人間を自然から外れたものではなく、自然と同一、あるいは少なくとも本質を等しくするものと考える立場である**。これの仲介者が、古代ではロゴスであった。自然とは単なる混沌ではなく、なんらかの理性的な法則の集合もしくは組織なのである。そのロゴスに従うことで、人間もまたロゴス的存在(精神)となるのである。そのようにロゴス化された自然=人間の世界がcosmosである***

**)「彼らストア派の人たちは、自然とは世界を内包する力であるとも、地上の生き物を動かす力であるとも、解していた。自然は、自発的に動く安定した力である。」(ディオゲネス・ラエルティウス)
***)「自然とは、事物にとっての運動と静止の原理および原因であり、事物の中に偶有性ではなく、本質として、直接に具わっている。」(アリストテレス「自然学」)


 近代において自然を徹底してロゴス化し、人間化してしまったのは、カントであり****、それにつづくドイツロマン派が、自然を定立したり、自然と精神の同一哲学を説いたり、とどのつまり自然を絶対精神の中に呑みこんでしまったのである。もともと魔術的思考においては、自然は人間の意志によってコントロールなしうるものであった。その挫折と無力によって、客観的自然を探究する方向が確立したのであるが、人間中心的意識は、コペルニクス的転回によって復活したのであった。

****「経験的な意味において我々が理解する自然とは、それの存在に関して、必然的な規則、すなわち法則に従う、一連の現象である。したがって、最初に一自然を可能にするなんらかの法則、しかもアプリオリ(先験的・先天的)な法則がなければならない。」(「純粋理性批判」先験的分析論より

 この方向はしかし、全面的に誤りではなく、ものの本性の探求において、ある反省的な示唆を与える。果たして人間は、真に客観的なものの本性などを探究できる立場にあるのであろうか、という懐疑的傾向がその一つである。相対主義やプラグマティズムが、そこから生まれる。自然科学自体が、量子論においてこの考えを補強している。しかし、逆にもっと積極的に考えることもできる。ここでEmersonの詩的な文章を引用しておこう。

 The possibility of interpretation lies in the identity of the observer with the observed. Each material thing has its celestial side; has its translation, through humanity, into the spiritual and necessary sphere, where it plays a part as indestructible as any other. And to these, their ends, all things continually ascend.
 ――Representative Men ch.1
(観察するものと、観察されるものとが同一であるということの中に、解釈が可能となる。物質的なものは、それぞれに精神的な面を持っている。人類を介して、精神的かつ必然的領域へと、移行するのであり、そこにおいて、なにものにも劣らず不滅な役割を演ずるのである。万物は、このような、それぞれの目的へと向かって、絶えまなく上昇する。――エマソン「代表的人間」より)

 ここで「人類を介してthrough humanity」という表現は意味深い。ひょっとしたら、人類のなすことすべては、この文句に集約されるかもしれない。われわれが探究しえたと思う真理のすべては、「人類を介して」いるのである。だから物質はスピリチュアルであって、少しもかまわないのである。それは人間が唯一交渉しうる物質の姿であり、ものの本性であるからだ。そのことは人間がどこまで物質を、<客観的に>探究しようと変わらない。宇宙、世界、自然そのものが、人間の世界だからだ。学問は、真理の探求は、すべて人間学なのである。自然を知ることは、人間について知ることにほかならないのである。
 この考えは、中世期のミクロコスモスとしての人間と、宇宙との照応に逆行するかのように思われよう。それのドイツ観念論を介して洗練された姿であると言えるかもしれない。しかし、中世期とは違って、ある種のクローストロフォビア(閉所恐怖)がそこに感じられよう。人間に関して、エマソンほど自信を持つことができないからである。自然は根本において不可知であるという、古代人のいだいた畏怖の念がそこに欠けている。そこに神を自然と代置することによって、はじめて不可知者としての超越的存在が現われるのである*****。自然そのものは非人間的、没人間的であるかもしれないという、意識の根本にある不安、恐怖が、より人間的な概念である神観念の助けを必要とするのである。神であるならば、不可知であっても一向に困らない。そもそも人間の、あるいは人類社会の、創りあげたフィクションであるからだ。それによって、すなわち神を介して、自然は人間化されるのである。神や創造神は、ゼウスであれ、ヤーヴェであれ、ブラフマンであれ、アッラーであれ、不可知の自然のavatarとして発明されたのである。

*****)「この永遠にして無限の存在を、われわれは神もしくは自然と呼ぶ。」(スピノザ「エチカ」第4部より)

 古代ローマ、ティベリウス治世において、Great God Pan is dead という噂が流布したという。ちょうどイエスが誕生した頃といわれる。自然神では、自然を克服できなくなったのである。パンのみならず、創造神までも死んでしまった現代となっては、人間は不可知者としての自然と正面から向き合わねばならない。そこに人間の介在することのない、真のものの本性であるnaturaが、ダークマターやダークエネルギーとして立ちふさがるのである。かりにそれらが解明されたとしても、さらにその奥にいまだ不可知ななにものかが、たちふさがるであろう。もはやそれを、人間的な何ものにも代置することはできないのである。知りうることがあるならば、知りえないことがある、それが真のものの本性、natura であるのだろう。
2022年4月23日(土)
快の本質
 快とは、快感とは、どのような意識状態であるのか。あるいはその反対の、質においては異なるが、同一の現われ方をする苦とは、どのような意識状態であるのか。それらが意識において、あるいは意識として、現われるものであることは疑いない。意識するとは、なんらかの現われが、その現われにおいて、そのものとして知られることであり、ある種の直知である。その際、知られるものは通常<もの>であることがほとんどであるが、単なるものの認識においては、それ自体が快であったり、苦であったりすることはない。快苦が現われるのは、なんらかの私自身に属するものとされる、現われに限られる。一般に私の身体、肉体に属するとされるものがそれである。快苦は、私自身において現われる。あるいは私自身の現われそのもの、私の意識そのものである。
 それでは、その私自身の現われであり、私自身とも見なされうる快や苦は、単なる<もの>とは違って、どのような本質的内容を持つのであるか。私は机の上の鉛筆や三角定規を目にするが、それらは私の所有物であったとしても、私自身でも、私の存在もしくは意識に付属するものでもない。ところが快や苦は、それが現われるや、それが私に属し、私自身といってもよいものであることが、ただちに知られる。どのようにして知られるのか。
 私は快や苦の意識である私と同時に、それらを感じている当の私であるという意識を、まさに私である快や苦に対して抱いているのである。これはどういうことなのであるか。私とは、そのような複合的な存在なのであるか。あるいは、本当に私は快や苦である私と同一であるのか。とりあえず、苦と快は本質において同一であろうから()、快にしぼって考察をつづける。快感が発生するとき、それは一つの私自身の感性的現われであることが知られる。そのことを知る私がほかにいる。この二重の私は、はっきりと区別される。快感として発生する私の意識と、その快感を認識する私とは、ある空間的対峙の関係にある。いわばトポスにおいて異なるのである。トポスにおいて異なりながら、私であること、私の意識において一致している。これは自我が他我に接する時の関係とは根本的に異なっており、私はどちらの立場においても、まぎれもなく私なのである。快感が発生すると同時に、自我は二重化し、快感そのものである私と、その私を眺めているいま一つの私とが、そこに両立するのである。

)苦と快の区別は本質的ではなく、単にそれに反撥し、遠ざけるか、あるいはそれに引かれ、迎えるかの、意志のはたらき、または行為の違いに過ぎないであろう。たとえば、辛口が好きな人にとって辛さは快であるが、きらいな人にとっては苦である。苦が快の否定であり、快が苦の否定であると思われるのは、感性そのものに違いがあるのではなく、感性としてはどちらもポジティヴであり、意志的反応、すなわち身体の反応において、正反対であるからである。苦も快も、ともに<私の意識>なのである。

 このいま一つの私は、たいていは快感を承認し、場合によっては快感を助長し、そそのかしさえする。あるいは、快感である私を抑えつけたり、コントロールしようとする場合もある。この快感である私に対峙する私とは、やはりある種の感性的な私であり、認知能力を備えてはいるが、いわゆる理性などの抽象的働きとは別物である。この私は理性や知性を思考の道具として使うことはあっても、理性そのもの、知性そのものではないのである。やはりある種の直知的、感性的な私の意識なのである。それに対して、快楽そのものとしてあらわれる私の意識は、なんらの認識能力を持っていない。快感そのものと密着した私の意識そのものにすぎない。その点で私の意識と快感とを区別することができないのである。この両者の私の違いは、それぞれの身体におけるトポスの違いによるものと思われる。
 快感の発生するいわば身体的トポスが存在する。それが感覚器に結びついた五感であり、さらに欲求の器官である内臓や性器などである。これらはすべて脳において統御されており、脳の機能としてもよいのであるが、脳が身体部位の現象として発現させているのであるから、あえて器官として考えてよいであろう。これらの器官はすべて、なんらかの<感性Sinnlichkeit>として意識への発現経路を持つ。基本的に、あらゆる感性は快であるか、苦であるかの、(すなわち身体がポジティヴに反応するか、ネガティヴに反応するかの)いずれかであるといってよかろう。苦がない状態は、すべて快なのであり、感性のdefault状態は、安静もしくは安楽なのである。その無風の状態が、感覚器や欲望の器官によって刺激され、乱されると、快の追及と実現、あるいは苦の発生とその除去へと、生命体を駆り立てるのである。
 安楽においては、意識は安定し、そこには一つの漠とした私で充分である。快や苦が生じると同時に、そこに複数の私の意識が発現し、私どうしの間での駆け引きが行なわれる。まず視覚、すなわち身体頭部の眼球の位置と密接に結びついた私の意識が先鋭化する。これが思考する私の位地、すなわち身体的トポスである。ついで、目には目の、耳には耳の、舌には舌の、鼻には鼻の、皮膚には皮膚の、胃袋には胃袋の、性器には性器の、それぞれの私がいて、互いにおのれの快を主張し、私の存在を主張し合いだす。いったいこれらの私どもは、どこに私としての本質、固有性を持っているのか。私とは、これらの感性のくぐつの複合体にすぎないのではないか(*)。私が快に身をゆだねるとき、どこに私の唯一無二性、私の私たる統一的本質があるのであるか。私は快そのものであって、もはや私の意識の統合すら失っているのである。

(*)ヒュームが自我意識を<観念の束>と見なしたのも、この意味においてであろう。

 このことを逆に考えるならば、自我とは実は感性の産物、快苦の複合体なのではないかと考えられよう。快のあるところに、あるいは苦のあるところに、その感性に応じて、つぎつぎに自己意識が生まれる。あるいは自己意識とは、快そのもの、苦そのものの意識にほかならない。感性を離れて、快苦を離れて、意識などは存在しない。自己意識とは、自我とは、感性の複合的なあり方から生まれた、ある種の相関的な現象なのである。もしたった一種類の感性しか持たなかったならば、はたして私の意識は生まれるだろうか。異種の感性どうしが相互に対峙することによって、そこにそれらに共通した意識のあり方として、自我意識が発生するのであろう。もし自我意識が感性ごとに異なるならば、私は私の快楽や苦痛を、他者のものと区別できないであろうし、そもそも他者のものであるならば、それらの感覚を持つことがないだろう。あらゆる個別の快楽や苦痛が、同じ私を主張することによって、そこに遍在する私の意識が生まれるのである。この遍在性こそが、快苦において現われる自己意識の本質的特徴なのである。
 このように、自己意識の発生を感覚・感性の発生と同時であると考えるならば、自我や意識の存在は、少しも特殊なものではなくなろう。感覚のあるところには、必ず自我が生まれ、意識が生じる。生命体が、最も原始的な段階において、感覚器すなわち感性を生みだすことによって、意識を発生させたのである。それが自我の起源であり、<わたし>の根源である。
 ちなみに仏教では、ここで言う感性を<五蘊(うん)>と称している()。自我ばかりか、この世界も五蘊からなるとされる。それらは結ぼれてはほどけ、実体のないものである。あえて言えば、五蘊の実体は快楽であり、また苦である。この世界も自我も快苦からなり、そのような快苦の産物であるかぎり、絶対の本質を持ちえないのである。

)五蘊:あらゆる存在(身心または物質と精神)を構成する五つの集まり。
色(しき)=いろ・かたちあるもの。すべての物質を指し示す。
受(じゅ)=苦・楽などの甘受作用。物事を見、外界からの刺激を受ける心の機能。
想(そう)=表象作用ないし表現・概念。見たものについて何事かをイメージする心の機能。
行(ぎょう)=意志作用など心の形成作用。イメージしたものについて、何らかの意志判断を下す心の機能。
識(しき)=識別作用。外的作用(刺激とイメージ)、内的作用(意志判断)を総合して状況判断を下す認識作用の機能。

 快感や苦痛以外に、自我の存在はない。これが快感の意識における本質を探究することによって得た結論であるが、じつは快感や苦痛は、自我を解消させる意識状態でもあるのだ。すでに述べたように、快感の極においては、おのれを忘れる。自我を脱するという意味におけるecstasyである。ここには普遍的生命状態といってよい快楽だけが存在している。もしそこに自我があるならば、生命そのものが自我なのだ。苦においても同様である。病床で苦痛にさいなまれていたある人の話では、自分という存在が何か金属のような固いものに変えられてしまったという意識に、ずっととらわれていたそうである。そこには自我などはなく、ものだけがあったそうである。青空を見ていても、そこには感情などはなく、あたかも自分が自然界の元素そのものに化してしまったかのように、感じられたたそうである。ある種の涅槃であろう。
 快楽を克服すること、苦を克服することがいかに難しいか、その根本の原因は、自我そのものが快と苦の感性的産物であることなのだ。いいかえれば、自我とは肉体であり、身体である。肉体・身体を離れて、自我も自己意識もないのである。肉体・身体は生命体であり、そこから発する自我は、生命の根本の原理である、快と苦そのものにほかならないのである。それゆえに〈主観〉という生命からは見えない自我が発明されねばならなかった。感性的でない主観などはどこにもない。私という意識はつねになんらかの感性的意識であり、その私を見ている非感性的な私である〈純粋主観〉などというものは、実は自我の機能ですらないのである。自我は感性的かつ関係的な複合物なのであるから、それを超越したところには、もはや自我と呼べるものはなく、<空>とでも称すべきなのである。この空において真に生命的自我は解消され、快と苦の世界は消滅する。五蘊がなければ、意識も世界もない。アートマンとしての私はもはや存在しない。空そのものである私は、永遠の静謐の中にあるだろう。
2022年4月20日(水)
快の超越・反快楽主義について
 快を求めないこと、快を超越すること、反快楽主義について。生命体の本質は、快を求め、苦を避けることであることは、科学的に疑いようのない事実であり、この生命体の本質に従うならば、すべての生命は快苦の原理によって存在し、あらゆる人間は本質的に快楽主義者であることになる。この快楽本位の生命・人間のあり方に対して、真っ向挑戦するのが禁欲主義、またはある種の道徳的・倫理的・宗教的立場である。そのような立場が、原理的にどのようにして可能なのであるか、それを探究する。
 肉体・身体がその機能、行為において、快感原理に従っていることは、逆に言うと、快がなければいかなる身体のはたらき、または行為も発動しないということである。快を否定すれば、生命はたちまち行き詰まるわけである。快を否定したとたんに、生命体としての人間は、いかなる行動も行為も不可能になるのである。もちろんこれは死を意味するのではなく、生命のいわば停止状態であり、そこではいかなる行動・行為ばかりか、判断や思考すら行なわれないであろう。生命の最も無機的な部分だけが、無意識に活動をつづけるであろう。この状態が理想の禁欲であり、快の超越である。生命体としては、無能・無力になることである。
 宗教的な禁欲主義者のあり方を見てみると、ほぼこのような状態にあることがわかる。ヨガ行者は、生きているとも死んでいるともいえない、生命のまったくのパッシヴな状態にある。釈迦の言うニルヴァーナも、同じような状態なのであろう。生き仏などという生と死とをつなげる業なども、まさに生命停止によって、自然に死に至るという究極の禁欲である。餓死が禁欲主義者の最も手近な死への道なのである。
 このような究極の禁欲は、日常生活では実践しがたいであろう。そもそも何故に禁欲が必要なのであるか。生命・肉体の暴慢に対して、禁欲で臨むほかはないからである。生命の権化そのものである肉体・身体は、つねに快楽の追及に身をやつしており、とことん快楽の木の実を味わいつくそうとするのである。こうした生命のあり方に対する反旗を翻したのが、大脳辺縁系であり、その働きは理性として発現する。脳の大部分は、快楽報酬系によって占められており、ドーパミンその他の脳内快感物質によって、生命体のあらゆる行動・行為を快楽によって支配しているのである。このような圧倒的快楽システムに対して、理性の出来ることには限りがある。理性は基本的には肉体の強烈な報酬系における余りもので、自らの営みをつづけ、しかもそれに対して不満をいだくのである。ある意味で、理性はより多くの快を要求しているのであるかもしれない。考えることが食欲や性欲ほどの快楽をもたらしたならば、禁欲などはナンセンスであろう。しかし、現実の理性は、肉体の快感にはつねに負けるのである。
 こうした理性のあり方にあきたらない、さらなる理性の反逆は、生命全体の否定の立場であり、全面的禁欲に向かうことになる。もはや理性そのものでは対抗できないのである。脳内のいま一つの種類の物質である、鎮静作用を及ぼすセロトニンが、ここでドーパミンなどの快感系への対抗者として発現する。この快楽抑止系の働きによって、禁欲は物質的原理において可能になるのである。幸いにも、単なる快楽の追求だけでは、生命体は自己保存も、種の持続もできないのであり、場合によっては盲目の快の衝動を抑制する必要にせまられて、禁欲の原理である抑止系を脳において進化させたのである。
 あらゆる禁欲は、もっぱら脳内物質のこの抑止系に頼ることとなる。単なる理性ではこの抑止系は発現できない。理性はまず、肉体を抑止系が働きやすいように調整しなければならない。それがあらゆる禁欲的宗教における修行の基本原則である。肉体が馴致できれば、自然とセロトニンがはたらき、快感が抑制されるのである。修行自体はネガティヴであるから、なんら行為の動因としての快感を必要としないが、一歩修行を離れれば、たちまち快感原理が働くであろう。行為・行動にはつねに快が、その動因としてともなうのであり、唯一快を求めない行為は、修行以外にないのである。ということは、修行していなければ、つねに快によって支配されつづけていることであり、常住坐臥、修行でなければならないことになる。修行の極は生命の停止状態であり、まさに釈迦の言う<生死を超えた>状態である。修行とは〈死にながら生きる〉ことであるといえよう。こうした徹底した禁欲は凡愚には不可能であるから、日常可能なことを考えてみたい。

 日常生活においては、あらゆる行為は快感によって支配されているのであるから、快を求めないことも、やはり快苦の原理によって支配されていることを意識しなければならない。肉体の快によって圧倒されることが屈辱であり、精神的苦であることが、その苦の除去としての快に向かう発端である。少なくとも苦を除こうとする行為においては、ネガティヴな快を承認しなければならないであろう。日常的に出来る禁欲とは、その程度のものなのである。その際、さらに快以外の行動・行為の原理を求めておくべきであろう。カントの立てた道徳原理などもその一つであるが、快感や快楽と無関係である限りでは、必ずしも道徳的である必要はない。なんであれ、快に依存しない<範疇命令>であればよいのである。集団的強制や権威などの、全体的生命原理の中にも、快の抑制作用はあり、それが社会道徳や、義務や、命令や、法律となって、行動・行為を規制するであろう。しかし、それらは全体的生命原理であるだけに、手のひらを返されたり、服従の快に転化されてしまうので、まず無条件には信頼できない。いずれにしても、生命体である以上、快にもとづかない行動・行為の原則を探究することは、ことのほか難しいのである。そもそも禁欲とは、<幸福>を探求することではないからである。
 快を求めないことほど困難な生き方はないのであり、これは日常生活のあらゆる面に及ぼされる。ある判断を下すにあたって、より良いとおもわれる選択肢は、たいてい好感をいだくものであり、その快に逆らうことは難しい。あえて不快なほうを選ばなければならないのであるから。しかし結果において大した違いがない場合や、あるいはより良い成り行きをもたらすこともある。好悪や快感による判断は、場合によっては危険なのである。あえていやなほうを選ぶべきかもしれない。
 とはいえ、つねに不快にしたがっていれば、心身においてストレスをためこみ、それが極端な快楽の反動となって、暴走しかねないのである。快であれ不快であれ、どちらもバイアスであり、判断の原理としては信用できない。中立的に判断し、行為するには、どちらに従ってもならないのである。それならば、快にも不快にもそまらずにいて、ほかにどんな判断の原理がありうるのか。いわゆる合理的判断は、バイアスを避けるための基本的方法とされるが、与えられた事情のすべてを計算することができない以上、つねに現実的であるとはかぎらない。せいぜい a rule of thumb (概算)にすぎない。たぶん偶然にまかせるのが一番よいのであろう。偶然は単なる判断停止ではなく、意識にのぼらない以前の、生命体の有機的な判断に委ねるのである。生命に関することは、生命にまかせればよい。意識や理知などの出る幕ではないのである。
 肉体の快ばかりでなく、知的な快においても、まったく禁欲の原理は同じである。読書は楽しいからするのであってはならない。読書であれ、思索であれ、そこに快を求めれば、いずれより強烈な肉体の快も求めるようになる。快苦を離れた原理が、知的いとなみにおいてもなければならない。野心や出世欲や名声欲などは論外であり、神や真理への知的愛であっても、避けねばならない。そもそもphilosofia(愛知)などということが間違いなのだ。自然界の無機的な営みと同じように、そこには快苦を離れたなんらかの原理が動因としてなければならない。脳は無機的に活動させることができるであろう。エラーがあっても(つまり理解できない場合も)無視してすすむであろう。いわばコンピューター化した脳であり、その状態が知的いとなみの理想なのであるが、まれにしか起こるまい。生命のコンピューターは、たちまち肉体の快苦の波に翻弄されてしまうからである。
 禁欲主義は、その本質において生命の一時的停止状態の実現を目指すものであると、最初に述べたが、それを人生において持続することは、生命体である以上、困難というよりも、ほぼ不可能であるといえる。たえざる実践が、その状態を一時的に生みだすだけであり、究極的には生命の否定、すなわち死によって完成されるのである。死の先に天国や極楽を想像するのなどは、禁欲主義の本質からいって笑止であり、論外である。それらは宗教的妄想でしかないのである。理想の禁欲主義者である釈迦は、それゆえに極楽についても、永生についても語らなかった。ただ輪廻転生から脱すること、生死界を超えることだけを語ったのである。
2022年4月12日(火)
人類の終焉
 ロシア人がいよいよ化学兵器を使い始めたという。ウクライナ東部のマウリポリでは、2万の死体が絨緞のように積まれているという。人類史のいたるところで見られた、戦争の悲惨を、今も文明を誇る人間たちはくりかえしているのである。ロシア人が原爆を投下するのも、もはや時間の問題かもしれない。それには、原爆でもってこたえるであろう。彼らというよりも、人類の代表者としてのロシア人のなすことは、あらゆる人間がなしうることだからである。彼らが、文明とは何か、その無力さ、この世界の<進化>や<進歩>というものの無意味さ、を証明してくれるのである。
 人類がこの宇宙での知的生命体の一つの見本であるとするならば、多分この宇宙のあらゆる文明は、同じような崩壊を遂げたのであろうし、また今後いくら知的生命体が現われて、文明を築こうと、おなじ崩壊と、無意味とが待っているのであろう。これがこの宇宙の生命体の宿命なのだ。生命とは、生命体とは、その内面に自己崩壊、自滅の要素をかかえこんでいるのである。
 そのような生命体の一人として、今生きている身としては、この文明の崩壊、人類の終末の事態の中で、どのように生きていくべきなのか。もちろん命が残ったとしてであるが、もはや何事も無意味であるという、ニーチェの言う究極のニヒリズムが訪れるであろう。価値であれ、人道であれ、ヒューマニズムであれ、すべては生命の根源にある自己破壊の衝動の前には無力であり、なすすべもなく、その衝動に流されていくほかはないのである。
 進化の頂点にあるという愚かなおごり、実のところ破滅の極に達したに過ぎなかったこと、を思い知らされたとしても、それで何かが開けるわけではない。賢であることも、また愚であるからだ。ただ生命の宿命を生きる他はないのであり、それは宿命どおりに滅びることでもあるのだ。
人類は滅びても、地球は残る(the earth abide)。地球は滅びても、宇宙は残る。この宇宙は滅びても、無慮無数の宇宙は残る。この一個の宇宙は、生命体にとっては都合よくできていたが、それが最良にして、完全な宇宙である保証はない。人間原理は、ある種の錯誤であり、この宇宙の本質的価値ではない。この宇宙自体が、あらゆる可能的な宇宙の中で、一個の失敗作でないとは言えないのである。この宇宙が完全な宇宙であるという、なんらの絶対的保証がない以上、その産物である生命も、知的生命体も、失敗作でありうるのである。
 そのような宇宙であり、生命であり、知的生命体であり、文明であるならば、一個の生命体として生きることは、もはやそれ自体では、何の意味も価値もないものと見なしてもよいであろう。この究極のニヒリズムを、どのように、あえて生きたらよいのであるか。ニーチェの解決は、〈運命愛 amor fati〉の一言であった。運命・宿命の根源にあるものは、まさにこの世界の本質に身を委ねることである。滅びるもよし、生き延びるもよし、生命の要求するままに、あるがままの本質を生きるほかはないのである。私は明日、毒ガスや熱線や放射能で死ぬだろう。あるいはかろうじて生き延び、原始人の生活をするだろう。どちらであっても、何の違いもないのだ。それが私の宿命・運命であるならば。
 何事もなければ、世界の片隅の悲惨な紛争でおさまるならば、私はこれまでどおりに、日々の単調な生活をつづけるだろう。しかし、世界とともに、いつその生活が崩壊しないとも限らない。少なくとも意識の片隅に、つねに最悪を予想しておかねばなるまい。
2022年4月4日(月)
幽霊と人生
 幽霊やそれを扱った怪談は、独特な魅力で人の一生を支配する。一体、幽霊を恐れる恐怖心は、人の生活にどのような影響または関連を持つのであろうか。恐怖そのものは、ネガティヴであり、何の益もないように思われる。無益で、場合によっては有害であるものを、人はなぜ引きつけられ、わざわざ好んで求めたりするのであるか。
 幽霊の恐怖(fear)を物語ることは、文学においては一つのジャンルとして確立している。そうした恐怖を求める人が多いからこそ、ジャンルとして成立するのである。逆に人生の幸福や、安楽をジャンルとする文学があっても良いものだが、そうした幸福談は、怪談ほどはやらないであろう。快楽をジャンルとするもの、ポルノグラフィーやグルメものなどは、たしかにそれを専門とする作家は多いだろう。恋愛ものなどは、ほとんどすべての文学がそれであるといって良いだろう。しかし、恐怖の反対概念である、人生の安楽、幸福そのものをテーマとする文学は少ないばかりか、それを描くことは困難であろう。そもそも天国や極楽の描写ほど、つまらない、退屈なものはないであろうからである。スェーデンボルグの天界に、魅力を感じる人がいるであろうか。ダンテの魅力も、地獄篇に限るであろう。
 つまり、幸福や安楽は、恐怖や不幸との対比があってのみ、それなりの意味のある文学の対象なのである。対して、恐怖はそれ自体で文学ジャンルを作る。この違いは大きい。人が安楽や幸福を感じるためには、その状態だけでは足りないのであり、必ず不幸や不安や恐怖が、下敷きになっていなければならない。これは文学だけではなく、人生の真実なのだ。人生には、幸福を求めるためには、ある意味で恐怖が必要なのだ。
 そこで、もっぱら恐怖の文学である、怪談(ghost story)が、ジャンルとして登場する。幽霊譚には、暗に陽に、必ずなんらかの教訓、寓意が含まれているといってよかろう。それは基本的に人生に対する教訓・寓意である。特に北欧の怪談には、この点が表に目立つようである。クヌト・ハムスンの「ある幽霊」が典型的である。ハムスン自身の体験であるかどうかは知らないが、子供時代に頻繁にある幽霊に悩まされたことが、その後の人生の人格形成に役立ったという結末である。これほどはっきりした効用ではないが、西洋のたいていの幽霊実話は、クロー夫人の Night Side of Nature を始めとして、キリスト教にマッチした「あの世」の存在を補強するものとなっている。その点でつまらない。この伝統は、その後の心霊ものの怪談や実話につながっており、Wellsでさえその影響を受けている。

)Und doch hat er mir vielleicht nicht ausschliesslich Schaden zugefuegt, dieser Gedanke ist mir oft gekommen. Ich koennte mir vorstellen, dass er eine der ersten Ursachen gewesen ist, durch die ich lernte, die Zaehne zusammenzubeissen und mich hart zu machen.In meinem spaeteren Leben habe ich hin und wieder Verwendung dafuer gehabt.――Knut Hamsun : Ein Gespenst
(とはいえ、彼はもっぱら、私に害ばかりをもたらしたのではないだろう。そう私はしばしば思ったものである。私が歯をくいしばって耐えることで、おのれを強くすることを学んだ、最初のきっかけの一つが、この幽霊だったのだと思えたのである。その後の人生で、私はたびたびそれを応用することになったのである。)

 それほどはっきりした「あの世」や Spiritualism の宣伝ではないとしても、キリスト教の根底にある善悪二元論の伝統が、勧善懲悪の怪談となって、現代まで影響している。レ・ファニューの Green Tea や Watcher(Familiar) では、直接言及されてはいないが、なんらかの絶対悪との取り引きが、主人公をさいなむ恐怖の背景に感じ取られる。このパターンに慣れてしまうと、案外つまらないのである。パターン化といえば、吸血鬼や狼男などの伝承に基づいた怪談も、すぐにそのパターンが鼻についてしまう。マリアット、レ・ファニュ、ブラム・ストーカー、ガイ・エンドアまでで充分であろう。ブラックウッドの「犬のキャンプ」は、二度読むには退屈すぎる。
 宗教のドグマから離れると、恐怖の文学は恐怖そのものの効果、あるいは恐怖の心理に向かうことになる。Poe がその嚆矢であるが、モーパッサン、ビアス、ブラックウッド、ラヴクラフトと、もはや恐怖が人生そのものとなるのである。幽霊の恐怖がネガティヴであることを、もはや少しも考慮しないのである。あるいはそのネガティヴな恐怖を、人生と対比するのである。その結果、人生が恐怖に打ち負け、呑みこまれるという結果にもなりかねない。モーパッサンは本人が発狂し、ラヴクラフトの主人公は、たいてい発狂するか、恐怖の存在そのものに加担し、同化することになる。(この点で、「ダンウィッチ・ホラー」は不徹底である。妖怪は退治されてめでたし。)
 超自然の恐怖は人生の上に君臨する。いまだ宗教性のあるうちは、そこになんらかの善の力を導入することが出来る。スイスの作家ゴットヘルフの「黒い蜘蛛 Die Schwarze Spinne」では、十字架や聖水でも倒せなかった妖怪を、清純な少女が柱に封印する。しかしまた、いつ現われてこないとも限らないのである。他方、エーヴァース(H.H.Ewers)の「蜘蛛 Die Spinne」は、ホラーそのものである。善のないところでは、また古来からのマジックや魔道書(ラヴクラフトのネクロノミコンなど)が、恐怖に打ち勝つ手段として復活する。いわば、かつて恐怖せられたものが、近代的恐怖の対抗者として、間に合わせの登場をしているのである。

 幽霊の恐怖あるいは超自然的恐怖の、文学における扱い方の進化を見てみたが、そもそもなにゆえに恐怖はそれほど魅力があるのであろうか。ラヴクラフトのマニアックな「超自然的恐怖の文学論」の冒頭を見てみる。

 The oldest and strongest emotion of mankind is fear,and the oldest and strongest kind of fear is fear of the unknown. These facts few psychologists will disput, and their admitted truth must establish for all time the genuiness and dignity of the weirdly horrible tale as a literary form.・・・
・・・the fact that uncertanty and danger are always closely allied; thus making any kind of an unknown world a world of peril and evil possibilities. When to this sense of fear and evil the inevitable fascination of wonder and curiosity is superadded, there is born a composite body of keen emotion and imasinative provocation whose vitality must of necessity endure as long as the human race itself.・・・
The true weird tale has something more than secret murder, bloody bones, or a sheeted form clanking chains according to rule. A certain atomosphere of breathless and unexplainable dread of outer unknown forces must be present; and there must be a hint, expressed with a seriousness and portentousness becomming its subject, of that most terrible conception of the human brain - a malign and particular suspention or defeat of those fixed laws of Nature which are our only safeguard aginst the assaults of chaos and the daemons of unplumbed space.
――H.P.Lovecraft : Supernatural Horror in Literature ch.1
(人類の最も古く、かつ強烈な感情は恐怖であり、また最も古く、かつ強烈な恐怖は、未知なるものの恐れである。この事実を否定する心理学者は少なかろう。そのことが真実として認められている以上、一文学様式としての怪奇と恐怖の物語が真摯でまっとうなものであることを、いつの時代にも確信させるはずである。
 ・・・不確かさと危機感とはつねに密接な結びつきがあるゆえに、どのような種類の未知なるものも、危険と邪悪な可能性の世界に化してしまうものである。この恐怖と悪の意識に、驚異と好奇心が必然的につきまとうために、情念がとぎすまされ、想像がかきたてられることになり、この複合したものの生命力は、人類が続く限り、持続せざるをえないのである。
 真に怪奇な物語は、単なる隠れた殺人や、血まみれの骨や、しきたりどおりの鎖を鳴らす屍衣をまとった幽霊などよりも、もっとましな内容を持っている。外部の未知の世界にひそむ勢力の、一種説明しがたい、息をのむ恐怖の雰囲気が、そこになければならない。人間の脳が考えつく最も恐ろしい観念――自然界の定まった法則が、悪意によって一時停止したり、あるいは打ち負かされたりすること――の暗示が、そのテーマにふさわしい真剣さと不吉さをもって、提示されねばならない。この自然法則こそが、混沌と測り知れない宇宙にひそむ悪鬼の襲撃に対して、唯一防禦してくれるものだからである。) 

 人類の生理的、進化的歴史(今日でいえばDNA)の中に、超自然的恐怖の根源を求めている点は、ごく常識的である。それが快感となる理由は、単なる危険と恐怖の感情に、驚嘆と好奇心の魅惑がともなうからであるとされる。何故に恐怖が魅惑であるのか、そこまで深くは掘り下げられていない。怪談の文学的特質を、atomosphere に求めていることは、怪談の愛好者ならばだれもが同意するであろう。超自然的恐怖、幽霊の恐怖を cosmic fear として一般化していることが注目に値する。これを小泉八雲の「小説における超自然的要素の価値」に説くところと比較してみる。

 There is something ghostly in all great art, whether of literature, music, sculpture, or architecture.
・・・If we do not believe in old-fashioned stories and theories about ghosts, we are nevertheless obliged to recognize to-day that we are ghosts of ourselves― and utterly incomprehensible. The mystery of the universe is now weighing upon us, becoming heavier and heavier, more and more aweful, as our knowledge expands, and it is especially a ghostly mystery. All great art reminds us in some way of this universal riddle ; that is why I say all great art has something ghostly in it. It touches something within us which relates to infinity.When you read a very great thought, when you see a wonderful picture or statue or building, and when you hear certain kinds of music, you feel a thrill in the heart and mind much like the thrill which in all times men felt when they thought they saw a ghost or a god. ・・・The ghostly represents always some shadow of truth, and no amount of disbelief in what used to be called ghosts can ever diminish human interest in what relates to that truth.
――Lafcadio Hearn : The Value of the Supernatural in Fiction
(文学であれ、音楽であれ、彫刻であれ、建築であれ、あらゆる偉大な芸術には、なんらかの霊的なものが含まれる。
 もし我々が幽霊についての古めかしい物語や理論を信じないとしても、我々は今日においては、我々自身が幽霊のようなものであること、つまり全く不可解な存在であるということを、やはり認めざるを得ないのである。宇宙の謎は今や、我々の知識がすすむにつれ、いっそう重々しく、いっそう畏怖すべきものとして、我々にのしかかっている。しかもそれは、とりわけ霊的な謎である。あらゆる偉大な芸術は、何らかの仕方でこの宇宙的謎を思い起こさせる。あらゆる偉大な芸術は、自らの中に何らかの霊的なものを含む、と私が述べたのも、この故である。それは我々の心の中の、無限と関係するなにかに触れるからである。偉大なる思想を読む時、素晴らしい絵画や、彫像や、建築やを目にする時、あるいはある種の音楽を耳にする時、胸の中や頭の中にある戦慄を覚える。それはあらゆる時代に、人々が幽霊や神を見たと思った時に感じた戦慄と非常によく似たものなのである。
 霊的なものは、つねになんらかの真理の影を宿しており、これまで幽霊と呼ばれてきたものにどれほど疑いをいだこうと、その真理に関する人間的興味を、少しも減じることはないのである。)
 
 ハーンの場合、この ghostly な thrill は多分にスピリチュアルであり、意味が幅広い。超自然的な fear が、下は怪談から、芸術や宗教や世界認識にまで及ぼされており、その本質において同一であるとされるのである。物語としての怪談はずっと身近な心霊的恐怖、あるいは宇宙的恐怖なのである。

 この世界、この宇宙の中での孤立した人間の位置は、〈不安〉そのものであり、宗教はそれを宇宙の根源にあるとされる神、創造者への全面的信頼へと変える。もしその信頼が裏切られれば、その責任は神ではなく、信じる者の側におけるなんらかの咎、罪であるとされる。神を恐れることと、見えない存在を恐れることは、基本的に同一なのである。そして神の信仰が失われれば、残るのは見えない世界への恐れだけとなる。自然科学は神に替わることはできないので、そこにはつねに懐疑と不安とが残る。愚鈍にして果敢な唯物論者でないかぎりは、見えない世界への恐れをまったく失うことはないであろう。それは単に、未来に対する実存的な恐れや不安ばかりではない。それらは観念的に予測でき、場合によっては予防できる恐れである。それに対して、幽霊に対する恐れは、単なる観念ではない。それはある種の感覚なのである。
 夜のしじまの中で、しみじみと怪談に読みふけるとき、そのかもしだされるアトモスフィアの中で、ふいに身体の中ほどからゾクゾクする独特の恐怖感が忍び入ってくる。場合によっては、頭上から、または背後から邪悪な目で見つめられているのを感じる。そしてふいに、おこりのように身体がふるえだすのである。これが幽霊の恐怖の心身的現象である。この恐怖の心身的現象は、怪談を読んでいる時に限らない。普通の状態でいる時にも、とつぜんこの恐怖の感覚がおそうことがある。ある呪詛のようなもの、あるいは不吉なものを感じる場合がある。何の確たる理由もなく、恐怖が忍び入り、心身が麻痺するのである。
 実は物理的な恐怖、人からの心理的圧迫においても、同じような経験をすることがあるであろう。安全がおびやかされ、日常の生活が乱されるとき、人間は動物に共通する心身的恐怖に、本能的におちいるのである。それを日常において、好んで求めるものはなかろう。しかし、幽霊の恐怖だけは、文学であれ実体験であれ、なぜ好んで求められるのであろうか。
 ここで恐怖文学の人生における効用ということを、考えてみるべきなのであろう。ハムスンは幽霊の恐怖体験を、その後の自己陶冶に生かすことができたという。人は物理的であれ、心霊的であれ、恐怖におそわれる時は、集団で寄りそいあってそれを防禦しようとする。恐怖は孤独な立場を浮きあがらせ、集団への依存と帰属を求めさせるのである。幽霊の恐怖は、不信者を信仰へと帰らせる。少なくともそうした意図を持った怪談は多い。孤独なアウトサイダーや犯罪者は、幽霊の恐れによって反社会性をたしなめられる。しかしそうした教訓的幽霊は、宗教や信仰や〈道徳心〉を持たない者には、あまり意味がないのである。
 逆に考えると、孤独者にとって、この世間そのものが敵であり、圧迫的な集団であるから、それに対しておのれを保っていくことは幾多の困難をともなう。その不安と恐怖を、いわば自虐的に幽霊の恐怖として転化するならば、その恐怖に打ち勝つことが、同時に実存的不安を克服することにもなろう。孤独者ほど怪談を好むのは、その故であろう。そうして超自然的恐怖に親しんでいくうちに、そこにある種の恐怖の美学が生まれる。
 この恐怖の美学が、文学としての怪談のバックボーンとなっている。もしなんらかの美的要素がなければ、文学であれ、芸術であれ、あえてネガティヴな心的状態に魅せられることはないであろう。恐怖が発現するシチュエーション、恐怖の条件において、すなわちラヴクラフトのいうアトモスフィアにおいて、どのような美が成立するであろうか。それを明らかにするならば、人がなぜ幽霊や怪談に惹かれるかの、心理的原因が分かるであろう。いくつかの要素がある。

 1、恐怖に襲われる主人公は、原則つねに孤独の立場にある。集団で幽霊に襲われるケースはめったにないのであり、あったとしても、恐怖にとらわれるのは各個人であり、恐怖の心理においてはつねに孤独なのである。つまり、恐怖においてほど、人はおのれが孤立した、孤独の実存にあることを、強烈に意識させられることはないのである。恐怖は実存に目覚めさせる。
 このことから、孤独者が好んで怪談を読む理由がわかる。おのれ自身の実存的不安が、そこに怪奇談の形で象徴的に示されるからである。逆に、孤独な作家ほど、怪談を好んで書くことになる。孤独であること自体は、人間社会においてはネガティヴであるが、孤独に慣れ親しむことによって、ポジティヴな魅力ともなりうるのである。
 2、幼少年期の恐怖体験。子供は幽霊をことのほか恐れる。子供にとって世界はほとんど未知であり、家庭という狭い既知の世界でしか、安心を得ることができない。大人の世界、世間は親とつながっており、親を信頼する限り、世間は不安や恐怖の直接対象とはならない。目に見えるかぎり、世界は経験の対象であり、何らかの合理的知識の範囲におさまる。しかし子供の想像力は、経験の範囲を越えて、見えない世界にまで及ぶ。それが単なるこの世界の延長である空想にとどまるならば、お伽話にすぎないが、そこに未知の領域を持ち込むならば、幽霊への恐怖が生まれる。死者を土中に葬るという埋葬ですら、地中世界の恐れが墓そのものを恐れさせる。踏み切りで轢かれた死者があるならば、その踏み切りそのものが幽霊の出る場所として恐れられる。目に見えない世界、未知の世界には、幽霊が満ちているのである。
 それほどに幽霊を恐れながら、子供はなぜ怪談映画などを見に行くのであろうか。恐がりは、一種のネガティヴな遊戯となるのである。四谷怪談を見たおかげで、いく晩もお岩さんの亡霊に悩まされつづける。しかも、また翌年も見に行くのである。この少年期における恐怖の魅惑とはなんなのであるか。これはある種のマグネティズムといえよう。恐怖に魅せられることによって、心身萎縮することが、ある種の自虐的な快感となるのである。これは生け贄の心境であるといえよう。猛獣に襲われた獲物は、同じ状態で恍惚として死ぬであろう。恐怖の恍惚ともいえるものが、幽霊の恐怖の中にはあるのであろう。いわばある種の死の体験である。猛獣に襲われた人類の祖先も、同じ体験をしたであろう。そしてこの体験をしたあとでは、心身が浄化される。死からよみがえったのであるから。幼少年期の、幽霊の恐怖の効用である。これは大人になっても、ある程度同じかもしれない。
 3.死と崩壊の美学。これは青年期に顕著な、ある種のデカダンス願望である。たいていの人生の挫折は、青年期に始まる。希望が砕かれ、おのれ自身の能力の限界が告知され、未来が暗黒に思われてくるとき、人間社会の輝かしいもの、文明や文化がすべてまやかしに見えてくる。その時、廃墟や退廃が、特別な魅力を持って眼に映るのである。死はもはや幽霊の恐怖とは結びつかない。敗北と悲哀の象徴である。そして廃墟や廃屋もまた、敗残の人生の象徴となる。幽霊屋敷や幽霊そのものが、人生の鬼火でもって敗残者をいざなうのである。Poeの「アッシャー家の崩壊」が典型である。
 4.荒涼とした自然。怪談の背景は、荒野や山奥や人里離れた場所や孤島や荒海である場合が多い。自然界もまた、人間に背を向けているのである。そこには人間界を離れた、ある崇高美がかもしだされるであろう。自然美は恐怖と結びつくことによって、否応なしに孤独者を魅するのである。Poe の「壜の中から出た手記」、モーパッサンの「山小屋」、そしてブラックウッドの神秘的な「Wendigo」を挙げておく。
 5.幽霊との情死。恋愛感情の盲目の衝動の中には、死によって願望を遂げようとする生命体の本能がある。性愛は死と恐怖を超えるのである。これが恋愛怪談の魅力である。円朝の「牡丹灯篭」、八雲の「伊藤資介」「お貞の話」、西洋では何よりもPoeの「ライジーアLigeia」、ブラックウッドの「死の舞踏」、ワシントン・アーヴィングの「ドイツ人学生の奇禍」など。たいていは女の幽霊に男が取りつかれるのであり、男の幽霊に恋する女の話はめったになかろう。この点からして、怪談の趣味は男性のものといってもよかろう。女自体は、幽霊が嫌いなのである。
 6.異界への逃避。ここでの異界は宗教的なそれではなく、狭隘な人間社会に倦み疲れた者たちが、<いずこなりともこの世の外>を求めて、見えない世界や超自然界に、気晴らしの対象を求めるものである。その際、単なる驚異や空想によって成立するファンタジーにとどまらず、ある程度の恐怖がともなわなければ怪談にならない。異界への関心が、同時に不安や恐れをかもしだすことによって、アンニュイが癒されるのである。Poeの「鋸山奇談」、フリードリヒ・ゲルステッカーの「Germelshausen村」、H.G.Wellsの「緑の扉The door in the Wall」、ビアスの「カルコサの住人」、W.H.ホッヂソンの「異界の入口の家The House on the Borderland」など。

 とりあえず、以上の六つの要素によって、怪談の魅力の大半は説明できるであろう。そうした要素を求めて、怪談の読者は結局一生、怪談の魅力と付き合うことになるのである。(なお、犯罪や残酷や推理が怪談と結びつきやすいのであるが、そうした付帯的なものや、合理的に説明のつくことは、怪談本来の興味、すなわち超自然的恐怖の魅力とは別に考えてよいであろう。)