2023年3月29日(水) |
Aphorismen5 |
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人生の意義と社会化
1.人生の意義は、何かを求めることにはなく、何ごとかをなしつつ意義を感じていることが、意義そのものなのである。意義を求めているかぎりは、意義はない。人生の意義は、生活のさまざまな条件によって縛られており、生活の中でそのつど実感していくほかはないのである。生命とは進行(process)であり、停滞したところに意義はないのである。
2.青年期には、とりわけ学生時代には、生活の基本、食と性がほとんど、あるいは全くできていないので、生活そのものから離れたところに、生きる意義を求めるほかはない。それゆえに、人生の意義は抽象的、空想的にならざるをえない。具体的な生活においては、すなわち業・食・住・衣においては、ほとんど自立が不可能であり、経済的依存という制約の中で、かろうじて精神的自律を保つほかはないのである。そのようないわば収容所生活においては、人生の意義は生活から遊離した、不安定な、観念的なものとならざるを得ない。現実離れした理想や空想の中に、生きる意義を求めるようになるのである。求めてえられるならば、それも意義であるが、生活の条件が変われば、たやすく崩れもするであろう。
3.成人して社会人になれば、なんらかの業につき、食住衣をみずからまかなえるようになり、はじめて生活の自立・自律が可能になる。この自立・自律のもとに、人生の意義は大いに広がるであろう。身心の自由が、同時に得られるからであり、自己自身の心身において、何が可能であるか、はじめて全面的に、自由に知ることができるのである。そしてこの段階での一番の危険は、社会人の誘惑に屈することである。人生の自立・自律の最大の敵として社会が立ち現われてくるからである。社会は義務や勤労や奉仕といった、一般的な価値観で個人の生き方を取り込んでくるばかりか、社交や集団的娯楽によって、とりわけ飲酒によって、個人の生活を<社会化>するからである。人生の意義を、社会に譲り渡してしまうことになるのである。
4.社会化の誘惑は、実のところ幼少年期から、個人を取り巻く社会組織の中でつねに働きかけている。家庭や学校での教育は、単に知識を授けるばかりでなく、集団の中での価値観を植えつける<すりこみ>そのものである。社会化は同時に、社会から排除されることの恐怖をも植えつけるのである。このことが、個人の自立と自律を根底から揺さぶることになる。個人は孤立と孤独を恐れるようになるのである。社会という一つの枠の中での、与えられた意義にしたがって生きることは、たしかに人生の過程を楽にするであろう。考えずしてレールが敷かれているからである。
しかし、それだけでは満ち足りないのが、人間の宿業であるといってよかろう。おのれがなんであって、何故にこの宇宙に存在するのかという、究極の意義の探求が、絶えず頭を悩ませるからである。それは、単に社会化することによっては解かれない謎である。集団的陶酔や、誇りや、名誉といったものは、単なる自己回避に過ぎず、問題のすり替えなのである。おのれに価値を持たないものは、つねに他者にそれを求めようとする。単に英雄崇拝ばかりでなく、身内や、地域の有名人や、偉人やに、あたかも自己自身の代替物を見いだして、空虚なおのれの自己充足をはかろうとするのである。
5、生命体が集団への意志によって、種の保存をはかるる限りにおいて、社会化は、種として、類としての人間の生きる意義であり、社会はそのエレメントであるとはいえるだろう。それでは<個>としての人間の意義はどこへ向かうのであるか。類を離れた、個の意志は、<存在>そのものへと向かうのである。この自己意識、<エゴ>は、つねに自己自身において充足することを求めるのである。類的意志が他律的で、つねに他者の意識によって動揺しているのに対して、個の意志は、ひたすらおのれの存在の中心点にあろうとするのである。飢餓において、このことはもっとも明瞭に現われる。いろいろな意味で飢えることは、自己自身にすべてが収斂することであり、他者や他物はその餌食に過ぎないのである。これがもっとも純粋なエゴのあり方である。エゴが思想化するときも同様であり、自己以外のなにものも意識にのぼらなくなる。思惟とは<私>が考えることなのであるから。
6、いわゆる自意識過剰とは、実のところ他意識過剰のことである。他者をあまりにも意識しすぎることは自我を圧迫し、ひたすら防御的な自己を意識させることになるのである。このような自己は、なんらの自立性も自律精神ももっていない。むしろその根底には、度し難い依存心がわだかまっているのである。つまり自意識過剰とは、失敗した社会化にすぎないのである。
自意識過剰が真の自我に目醒めさせることもあるだろう。しかしたいていは、社会に対する過度な反感、無力感、被虐によって毒されている。いったんは通常の社会化を経て、類的意志を少なくとも安定化させた後に、はじめて自立・自律に基づく、自我の真価が自覚されるようになるであろう。
生命と私
7、生命とは process である。このことを最も良くあらわすのは、時間意識である。人間の意識できる最小の時間単位は0・1秒であるとされる。つまり0・1秒刻みで、人間のあらゆるいとなみは進行してゆくのである。この時間を止めることはできない。時間が止まっているように思われるのは、現在という時が、ある時間の幅を持つからである。あるいは流れてゆく時間を、ある時点でながめているからである。この現在、今は、意識においてある空間化をこうむっている。視覚が空間を表象させると共に、その空間の中に現在という時点がおかれるのである。この時点は空間と共に停止して意識される。空間が動きをもたないかぎり、時点も動かないのである。あるいは音楽のような音の意識においては、時間意識すなわち時点は、ある種の厚みを持った音の流れの中を移動してゆく。生命はそれと共に躍動するのである。
8、生命のprocessの中で、ただ一つ停止しているものがある。あるいはつねに同一性を保っているものがある。少なくとも時間と共に、刻々変化しないものがある。言うまでもなく、それが自己意識であり、自我である。もちろん自我の内部においては、さまざまな変化が起こる。自我の内容そのものは生成消滅する。移り変わらないものは、私が私であるという自我の同一性だけである。この自我の枠組み、この不変性がある故に、生命は時間のプロセスとしてとらえられ、そのようなものとして発現するのである。変わるものは生命であり、変わらないものは私である。過去は生命の抜け殻であり、未来は次なる皮膚である。あるいは過去は結晶化した生命であり、未来は形のない液体の流れである。抜け殻と皮膚と、結晶と流れの0・1秒のすき間が、この現在であり、流れることのない今である。
9.意義や意味を求めるのは、生命の欲望である。生命のプロセスが、うまく進行するか、滞り、挫折するかによって、生命は自己自身を肯定し、または否定する。意義や意味は、生命の泣き笑いに過ぎないのである。何の障害や抵抗もなく、生命のいとなみが進行するならば、そのこと自体がすでに生命の意義であり、価値である。意義や価値がそれ自体として、存在するのではない。それらは求めるまでもなく、生命のプロセスの中に実現されるのである。
10.私の存在の意味は、実のところ、それを求めようとするのは、私自身ではなく、何らかの意味で停滞している生命に他ならない。私には、本質的に、意味も意義もないのである。私は私であって、存在としてそれ以上でもそれ以下でもないのである。私の生命が、私を私以上のものと思わせているのである。私が生命と共に流れるならば、私は生命そのものとなって、意義や意味に悩まされることになる。私は私であって、私を肯定する必要も、ましてや否定する必要もないのである。私は、生命が、すなわちその内容である身心が、どのような状態にあろうと、私であることに変化はないのである。これを私の<恒常性>と名づけてよいのかもしれない。
11.今とは、私の恒常性の時間的現われであるといってよかろう。私は、今という、とどまる時間の中に発現するのである。生命は過程であり、時間的にとどまることのない進行である。今において現われる私は、生命とは次元をことにする存在であることが、そのことからも言えるであろう。もし存在の究極の意味が問われうるものならば、流れるものではなく、流れゆかないものにこそ、より価値がおかれるべきであろう。世界の存在の意義を問うのは、生命体の不遜であるといってもよいが、私の存在の意義をもし問うならば、生命体や世界とは別の次元でなければならないだろう。私の存在の意義は、もはや問う必要がないという一言につきるであろう。もはや意義や意味という言葉は、私にとって無意味だからである。私は意味を超越した存在なのだ。
12.生命の欲することは生命にまかせればよい。身心の9割がたは、生命に牛耳られているといってよい。<私>の関与する余地は、ほとんどないのである。むしろ私は生命の波にのせられ、一体化して、その意欲と共に高揚したり、沈潜したりをくり返しているのである。私の<意志>などはどこにもないのだ。私はただ生命の意志に相乗りしているだけなのである。そのような<私>が、生命に対して何を言うことができるだろう。私は生命を肯定する立場にないし、ましてや私のものでないものを、いかにして否定できるだろうか。もし私が生命を否定するならば、それは生命が生命自身に絶望しているに過ぎないのである。私はあくまでも<傍観者>なのだ。私は徹底した傍観者であることによって、生命を、私の身心を、超越者の見地から眺めることができるのである。
13.私は生命の<共犯者>となることによって、生命に奉仕し、生命と一体化した<行為者>となる。これが実存 (Existenz,Dasein ) なるものの正体である。本来単なる存在(Sein)である私は、肉体化することによってDaseinと化するのである。DaseinからSeinに還ることが、私の自己救済である。このSeinとしての私は、存在者der Seiendeとしての私であり、単なる概念や、イデアではない。端的に、私が私であることが、私の存在のすべてなのである。それ以上でも以下でもなく、またそれ以外でも、それの内でも、それの外でもない。世界内でも、世界の外でもない。私以外に存在と呼べるものはないからである。神でも、また絶対者でもないだろう。何をもって神と言い、何をもって絶対者と言うか。私は私である
Ich bin der ich bin と言うほかはないのであり、それで充分なのである。あえて言えば、私は唯一者 der Einzige である。
14.詩と死――自殺者の詩は、限りない悲哀によって、性欲を浄化する。
15.存在のdefault状態は、赤裸な気分以外のなにものでもない。知識も地位も名誉も名声も家族も、そこでは何の役にも立たない。何もないところで生まれ、何もないところで死ぬ。そのことの果てしない悲哀が、音楽のような気分となって流れている。何一つ所有と呼べるものがないのである。胸苦しい落胆と、悲哀以外には・・・。それが人生の果てである。
16.それ故に人は、他者からはげまされて死ぬほかはないのである。自己自身の存在には、何一つ所有するものがないのであるから。そして他者もまた他者で、同じ死にかたをするであろう。人は死の連鎖の中でしか死ねないのである。
17.もし具体的に頼れる他者がいなければ、死にゆく人は神や仏を発明するだろう。そのようにして無意味な死が、空想的な生の中に迎え入れられるのである。意味とは生そのものであり、死は意味フリーな何らかのあり方であり、生あるかぎり、それとの合一はありえないのである。死を超えるには、生をもともに越えねばならない。このことを宗教者は、「死にながら生きる」という、パラドキシカルな表現をする。肯定と否定とをともにして、両者を超越するほかはないのである。このような超越的境地は、しかし、もはや神でも仏でもないだろう。生の意味でも、死の無意味でもない、もはや意味の対立を超越した高次の世界であるからだ。それを人間的意味の世界からとらえようとすれば、空や虚としか映らないであろうが、その境地に至るならば、存在の悲哀、死の悲哀は、おのずと解消されることであろう。 |
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2023年3月23日(木) |
現象と仮象と実在 |
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ものが現われているということは、それ自体では真でも偽でもない。単なる現われは、それに対してなんらの判断も加えられないならば、現われそのものとして、単に<在る>だけである。それを現象
phenominon と呼ぶことにする。それは語源的に、目に見えるもの visible として、感覚的である必要はない。もっとも根源的な意味で、現われてくるものの最初の意識としてよいであろう。それをなんらかの言葉で定義しようとすれば、それはすでに純粋な現象ではなくなっているであろう。すでに現象がなんらかの仕方で<把握>されているからである。
把握された現象は、感覚や知覚において、いわゆる意識の所与として、判断の対象となる。その段階において構成されるものを、仮象 appearance とする。appear とはそのように見える、思われるということであり、普通に現象と呼んでいるものは、実はこのような見かけの現われのことである。古代人は、天球にさまざまな星の図形を描いたが、すべての星が同一の球面に、同一の距離で、不変の位置で存在すると、見たままに信じたのである。それが仮象 appearance であることに気づいたのは、単に目に見えるままではなく、さまざまな観測や推論によって、目に見えるものの背後にある実相、もしくは実際の有様を概念としてとらえることができたからである。星座を形づくる星ぼしは、距離においてまちまちであり、さまざまな運動をしていることが知られ、感覚的な天球に代わって、宇宙の概念が生まれたのである。
仮象の背後には<実在>がある。単に感覚において現われたもの、知覚の対象であるものは、そのままではものの実相ではないのである。色とりどりの色彩にあふれた世界は、じつはある波長閾の電磁波が飛びかっているに過ぎないのであり、それがこの世界の実相であり、実在である。しかし電磁波は、だれも見たことがないものであり、それの実在を保証するものは人間の思考であり、思考の内容である概念にほかならない。実在とは概念的構成物なのである。
実在が概念にすぎないとすれば、逆に単なる概念が実在となりうるであろうか。電磁波が実在であるのは、それが感覚的仮象を打破し、現象を整然と説明することが出来るからである。もし概念がなんらの現象と関係することがないならば、それが実在であるかないかは、概念自体にゆだねるほかはなくなるであろう。しかし実在の概念そのものは、概念として実在する必要はないのであるから、実在の根拠とはならないのである。たとえば Opiaという概念がどこかにあったとして、それについては誰も何も知らないし、それがこの世のどのような現象と結びついているのかもしれない。<Opia は実在する>という主張がなされるならば、それを肯定する根拠も、否定する根拠もないであろう。そもそも実在とはなんであるかという、定義そのものが異なりうるからである。
現象に関するかぎり、実在の概念の定義ははっきりしている。実在に対するものは、仮象だからである。現象をあるがままに誤まってとらえるならば仮象であり、観測と推論の結果である概念によって正しく判断するならば実在である。また概念は、現象に適応されることによって、現象を適切に説明しなければならない。
概念は現象とは無関係である、あるいは概念と現象との関係は、実体と影の関係である、といったような立場からは、概念以外のものはすべて仮象であり、概念が唯一の実在であるということになる。そもそも概念とはなんであるか。いわゆる二次表象とされる、印象の薄まった意識の内容に過ぎないのである。それ自体ある種の現われであり、現象そのものでもある。それらの現われ、もしくは現象を、ある仕方でもって把握し、判断することによって、特定の考えのまとまりが生まれる。その働きを言語によって固定したものが、概念である。概念とは構成された現象なのである。
その意味では、構成された現象である概念が、単なる見かけに支配される仮象の上に立つと見るのは当然である。しかしそのような概念が、究極の実在であるかどうかは、また現象である以上、問われうるであろう。概念自体が、なにかの影であることも、ありうるのである。
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純粋な現象とは現われそのものであるとした。そもそも現われとはなんなのであるか。コンディヤックは、赤の感覚が始めて心性に与えられるならば、それは赤の感覚そのものであると述べている。赤の感覚そのものとは何か。それが現われた時に、それをどのようにして知ることが出来るのか。たぶん赤であることすら知らないであろう。最初の現われは、じつは赤でも、その他のいかなる感覚でもなく、<私>の存在の意識にほかならないのである。私が現われることによって、ものもまた現われるのである。
最初の現われとは、自己意識にほかならない。もっとも純粋な現象とは、<私>の発現なのである。すべてのものは私とともに発現し、私によってとらえられて<対象>となるのである。私自身は、何か他のものによってとらえられるのではなく、私の存在そのものが、私自身として発現しているのである。私はとらえるものであり、とらえられるものではない。それゆえに、そこにはいかなる仮象もなく、いかなる錯誤もないのである。私が存在しているということは、デカルトが言うように、絶対の真理である。私はまた概念ではない故に、私についていかなる実在の有無を問うことができないのである。あえて言えば、概念の立場を離れて、私以外に真の実在と呼べるものはないのである。
<私>に関して、それが実在かどうかと問うこと自体が無意味なのは、実在に対立するものは、仮象か、もしくは概念であり、私は仮象でも概念でもないからである。ものとしての現象でも、仮象でも、概念でも、実在でもない私とは、そもどのような存在なのであるか。ただ<在る>としか言いようがない存在である。その限りにおいて、私は存在そのものであり、唯一の直接の存在者である。私以外のものはすべて、単なる現われであり、もしそれがなんらかの存在であるとしても、私とは異なった存在である。それらの現われに実在的な本体が在るとしても、それは私の本体ではないのである。私自身は端的な存在者として、なんらの本体も持たないからである。実在するものは、それがもの自体であれ概念であれ、私の存在とは無関係なのである。
無関係なものが、私とともに発現する。それを三一体と呼んだが、もし真に仮象というものがあるならば、この三一体そのものであろう。三一体は夢幻の世界を創りだす原理なのである。真に存在として現われているのは、私だけなのであるから。 |
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2023年3月13日(月) |
散開星団観望 |
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窓からの天体観望は、視界が限られているので、四季折々に見られる天体にも制約がある。名高い散開星団のうち、もっとも見やすく、見ものなのは、すばる、すなわちプレヤデスである。ちょうど真東あたりから昇ってくるので、屋根の上から顔をのぞかせる時刻をはからって、双眼鏡や、低倍率で観望する。この星団が、窓からのぞける星ぼしの基準ともなる。これ一つながめていても飽きないのである。
「プレヤデスの星々は、中央にあるアルショーネといふのが三等星、その他の五つが四等星といふのですから、みな光は弱いものばかりなのです。しかし、集って一団となってゐるために、全体として非常に良く目だち、更にその一つ一つの星の光の輝やきが、あたかも蛍籠でも見るやうで、実に愛らしく、美しいものです。・・・
目で見てゐてさへ、すべての人を魅する此のプレヤデスは、小さい望遠鏡で見ると、数百の星々が視野に溢れ、実に目がさめるやうに、きらびやかに感じます。近年の学者の研究によると、この星群は約五百光年の距離にあって、その中の星一つ一つは、みな温度も光も強く、また星群の全体は、水素ガスの大きい雲に包まれてゐます。」
少年の頃愛読した、山本一清の「星座とその伝説」からの引用である。星団全体が、こころなし潤んだように見えるのも、この星間ガスによるのであろう。
プレヤデスについで昇るのが、釣鐘型のヒヤデス星団である。こちらは広がりすぎて、おもに双眼鏡の対象である。やはりにぎかな星ぼしの列が、目を楽しませる。一等星のアルデバランは、実はこの星団とは無関係であるという。しかし無くては欠かせないであろう。
冬の南の窓からは、大犬座の散開星団 M41をとらえたかったが、家の陰になって、どうしても入らない。あの金砂銀砂を撒いたような、微星のきらめきを、再び見てみたかったが、シリウスの輝きで満足するほかはない。代わって、オリオン座の大星雲の上方、下方のあたりも、にぎやかな星の並びを楽しむことができる。上方の42、45番星の辺りが星団としてのまとまりがある。
窓からは、おおまかな星座の配列以外は、個々の天体の位置を探すのは難しい。星ぼしの間隔の見当がつけにくいのである。オリオンの左手、シリウスの上方には、一角獣座があり、散開星団も多いのだが、星ぼしをたどってたどりつくことが、明るい星が少ないだけに不可能に近い。ファインダーであてずっぽうに探っていって、面白そうなところをのぞく。ふと星図の番号にもなさそうな6,7等の二重星が入ってくる。微光ではあるが、色彩の対比がわかるのが面白い。そのあたりの星の並びを探っていると、ちょっとした散開星団にでくわす。星団の中にあるかなきかの、針の先ほどの二重星を見つけて、興をそそられる。あとで星図を調べて、NGC2232あたりであろうと思うが、確信はない。こういう微光天体を探すには、赤道儀がほしくなる。赤緯がわかれば、星図で確認しやすいからである。
赤道儀はさておき、天体望遠鏡の性能は、一にも二にも、レンズにあることを思い知らされる。50mm8倍のプリズム式双眼鏡よりも、Vixenの30mm6倍のファインダーの方が、視野が広く、微星が鮮やかに見えるのである。対物レンズが色消しであるのはもとより、接眼レンズが、色消しと、広視野のものであることが要求されるのである。単に口径だけでは、望遠鏡の性能は語れないのである。
目に見えないものの魅力は、人間の好奇心をとことんかきたてる。天文趣味に取り付かれると、見えないものを見ようとして、より大きな望遠鏡が欲しくなるのである。わずか4センチ、6センチの天体望遠鏡であっても、目に見て楽しめる対象は数限りなくある。見えるものをこそ楽しむべきなのである。まさに見えないものがあるからこそ、天体の神秘はいや増すのである。 |
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2023年2月14日(火) |
理解ということ |
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動物は動物どうし、理解しあうということはしない。<理解してほしい>などと要求するのは人間だけなのである。動物は、互いの間の直接のコミュニケートの手段としては、もっぱら身体的、あるいは心情的<共感>に頼っている。いわば感覚的心地よさが、直接的コミュニケーションのすべてなのである。そこにいたる前に、警戒やディスプレイなどの身体的・音声的コミュニケートがおこなわれるが、それらは単なる行為であり、それによってコミュニケーションが完成するわけではない。それらの身体的・音声的行為が、身体的接触において、感覚的共感に達したとき、はじめて動物どうしの個体間のコミュニケーションが成立するのである。この感覚的共感は絶対的であり、動物はそれ以上のものを一切要求しない。動物は互いに身体を寄せ合うことによって、完全なる共感と一体感に達するのである。これは生命体の、種の保存の原理に基づく、本能の一種であるといえよう。
人間はもちろん、動物であるかぎり、成長の一定の時期において、この本能的な身体的・感覚的共感に従う。親子や子供どうしは、身体的接触をもっとも心地よいコミュニケートの手段とするのである。しかしある時期から、この身体的接触は避けられるようになる。単なる身体的感覚によっては、もはや内面の共感が不可能になるような、心的メカニズムが働きだすのである。その一番の原因が脳の発達である。脳内の思考は、単なる身体的共感では伝わらない。言語というやっかいな媒介物によって、間接的な伝達が行なわれねばならない。ここで正しい伝達が行なわれなければ、個体間に<誤解>が生じ、たがいの行為に齟齬が生じてしまい、不和や争いの原因となるのである。伝達が相手の共感と賛同を求めるかぎり、誤解は避けるべき事態である。ここに<理解>の要求が生まれる。
しかし、誤解は単なる言語だけの問題ではないのである。人間の社会心理の複雑さ、多様性が、問題を困難にしている。単に言語的誤解ならば、それを是正することは、それほど難しくはないであろう。しかし言語的理解を拒むことも、人間世界では日常茶飯事なのである。あえて鉄面皮に、言葉を曲解したり、無視したり、すりかえたりするのは、そもそも理解そのものを拒んでいるのである。始めから、理解などは論外なのである。あるいは、狂人を相手にすれば、言葉の論理そのものが通じないばかりか、同じことを繰りかえして、問答にもならないのであり、ひたすら憎悪や反発をむき出しにするだけである。
人間社会そのものが、人間どうしの間の<理解>を困難にしている。人間社会は生存競争からなっており、自己顕示と、弱肉強食が、不文律となっている。だれもが名声や承認を求める。それが社会的優位の心理的徴表だからである。理解とは本来、動物的共感に基づく、個人間の知的・心理的一致の要求に過ぎないものであるが、社会的自己顕示によって、<承認願望>に変質し、単なる意思疎通を越えて、相手を屈服させ、恐れ入らせる手段と化しているのである。そしてだれもが社会的優位を求めて、そのような承認願望にとらわれているのであるから、理解とは、互いに理解を拒むことと変わりなくなるのである。
おのれが相手を理解するのではなく、相手がおのれの優位を理解することを求める、このような理解の要求が、理解そのものを困難にしているのである。そこから、嫉妬、ねたみ、怒り、憎悪などの感情が必然的に生まれてくる。人間であるかぎり、だれもその悪しきサイクルから逃れることはできない。結局、一般の動物は、生存競争の食物連鎖において、命を奪い合っていても、本能的共感においては、もっとも平和的な存在であり、人間は知性を発達させたことにより、<理解>をめぐって、度し難く種の内部で争いあう動物と化したのであるといえよう。
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2023年2月6日(月) |
二重星観望 |
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「そして天空においても、一、二の星を、(とりわけ琴座の輝星の近くに見つかる、6等級の変光する二重星を)望遠鏡で観察していると、その感情に気づかされたものであった。」
――E・A・ポー「ライジーア」
ポーが亡き恋人の眼の奥の、測りがたい表情について、さまざまな比喩を駆使して解き明かそうとしている中で、特に気になっていたのが、上に引用した二重星のくだりである。ポーは養父との仲が破綻する以前には、家のベランダから望遠鏡で、天体観望をしていたそうであるから、ここの記述も実際の記憶であるといってよかろう。そこで、どの二重星であるかを星図で調べて見ると、ヴェガに近いところではε(エプシロン
5.1等-4.5等、角距離3'5)かζ(ゼータ 4.3等-5.9等 , 0.7')であろう。εは見分けやすい重星であるが(ε1とε2は、それぞれが二重星であり、全体で四重星をなすが、ポーの望遠鏡でそれが見わけられたであろうか)、5等星であり、ζも4等星である。問題は、どちらの重星も変光星をふくまないことである。
そこでヴェガから少し離れたところで、二重星でかつ変光星をさがすと、 β(ベータ
変光--7.8等, 0.8')とδ(デルタ 5.5等--変光, 10'.3)がある。βの変光範囲は3・4等から4・3等であるから、光度が違いすぎる。δの方の変光星は4.5等前後で、ほんのわずかの変光であるから、ポーの頃には気づかれていたかどうか。一体ポーがどの星のことを言っているのか、決定するのは不可能である。
そこで考えられるのは、ポオ自身の記憶の混同である。εのような微光ではあるが、際だった二重星の観望の記憶と、βのような目立つ変光星の記憶とが、一つに混じり合って、美しい比喩を作り出したのであろう。
* * *
さて、ヤフー・オークションで、だれも入札者のいない口径60センチの、屈折式天体望遠鏡を、わずか千円で手に入れた。今の時代、小学生でも買わないような口径であるが、昔の中学生には高嶺の華であった。目利きの多いヤフオクで、入札相手がいないだけあって、ワケありを覚悟したが、光学系だけは保管がよく、文句無い優れものであった。ひと昔前の、部分微動のついた経緯台であったが、上下、水平ともに、固くて動かない。油をさして、ほどほどに動くようにした。少なくとも微動が使えるのはありがたい。ラックアンドピニオンがまた動かない。分解してみると取り付け位置を間違えているのである。ドローチューブにボール紙をひと巻きして、難なく修理したが、要するに本来なら返品ものの欠陥品なのである。たぶんもとの持主は、手に余って廃棄処分したのであろう。
二重星を観望するには、口径は当然であるが、焦点距離の長い、つまりF値の大きい対物レンズで、安定した星像が必要なのである。口径60mmでf910mmのアクロマート対物レンズ(F15)であるから、充分に口径なりの期待ができる。その上で、気流が安定している、つまりシーイングが良いことが条件である。気流が乱れている時には、冬の晴れた日でも北風のふく晩には、星像はやたら踊るのであり、F値の小さいものでは、たとえ口径が大きくても、どの星も、どの星も、二重星にみえてしまうということが起こる。
接眼レンズは、低倍率で高級なケルナー20mm、高倍率がハイゲン・ミッテンゼー12.5mm,8mmで、これらだけでも元が取れそうである。ファインダーも5倍×30ミリで、明るく微星がよく見える。これの焦点のあわせ方が、対物レンズのフードを回すことであるのも、はじめて知った。
さっそく窓からちょうどよい位置にある、双子座のκ(カッパ)を、視野にとらえてみた。角距離6秒で、黄色と青の二星がのどやかに分離できている。野尻抱影の「星座見学」には、<3・7等(オレンジ)と8・0等(うす青)、7センチに美しい見もの>とある。カストルをとらえてみたかったが、ちょうど窓からは無理で、たぶん分離は難しいであろう。
つぎに南の窓から、一角獣座のβ(ベータ)をとらえてみた。A4・3等、B5・7等、C6・1等の三重星とされるが、ABの角距離7秒、BCの角距離3秒であるので、6センチではどうしても<三兄弟>には分かれて見えない。同じ明るさの黄色い星が二つ並んでいるのを見て、満足するほかはない。
そしてオリオン大星雲に筒先を向け、θ(シータ)星すなわちトラベジウム(四重星)に挑戦することにした。7センチの短焦点では、どうしても三つしか見えなかったのであるが、はたしてどうか。角距離はぎりぎりよいとして、6・8等、5・4等、6・9等は三重星として楽なのだが、一番光の弱い7・9等星が見きわめられるかである。じっと目をこらすと、フッとかすかな四番目の星が浮きあがって、トラペジウム(台形星)が完成する。昔見たように、10センチもあれば、楽に見えるのであるが・・・。とにかく、トラペジウムとの再会である。
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2023年1月22日(日) |
Aphorismen W |
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W−1.生活の根本的基盤は食と性(food and sex)である。食欲と性欲は、何もせずに満たされるものではないので、それらを満たすための手段を得るために<労働>しなければならない。現代では労働は<金銭>を得るための手段であり、金銭は食と性のための、すなわち生活のための、諸条件を満たすための手段である。食と性の基盤が確保されたところで、生活がそれだけにとどまっていては、動物レベルでの生存にすぎない。その条件が満たされた上で、生活の意義が求められる。さまざまな探求や研究や、趣味や、読書や、学問や、冒険といった、生命の向上と飛躍が可能になるのである。この順序を、人生のはじめにおいて間違えてしまうと、すなわち意義だけを求めて、生活の基盤が確立できていないと、たいていは、人生行路において、失敗し、後悔するのである。
2.意義だけに生きれば、食と性に復讐され、食と性だけに生きれば、労働の奴隷となる。人生の前半は食と性、すなわち労働に当ててもよいが、後半にはその基盤の上に、なるべく早く意義ある生き方を求めるようにするのが、この人間というやっかいな存在の、無難な生存の仕方なのであろう。
3.性は広範囲にわたって人生を支配する。若年期には性の快楽だけが求められるが、その結果として結婚、子供の養育、家庭生活という拘束にとらわれる。気がつけば、食と性だけの人生であったということになりかねないのである。他方、人生の意義ばかりを気にかけて、食と性をないがしろにすれば、心身において不安定な状態を余儀なくされ、意義そのものも損われてしまうであろう。食と性という動物的基盤があってこその、人生の意義なのである。人生の意義とは、いわゆる<上部構造>にすぎないのであり、それだけが独立してあるわけではない。
4.幸福は必ずしも人生の意義ではない。幸福にふけりすぎれば、人生の意義を失ってしまうことも起こりうるからである。たしかに遊びや交友は楽しい。しかし心からの満足が得られれることはめったにない。心の奥にある空虚に、忍び入ってくるものがあって、すべてがばかばかしくなるのである。家族や子供に囲まれ、幸福を感じていても、何かどこかに忘れているものがあるような気がする。場合によっては、より強い喜びの期待のようなものが、心の空虚をついてくることがあるであろう。そうなると、すべてが愚かしく思われてくるのである。そうした究極の人生の意義を、心はどこかで求めているのである。青年期にはそれはエロスでありうるが、さらには単なるエロスを超えた、憧憬のようなものが、人生の見果てぬ夢として、心の空虚に漂うであろう。幸福であれなんであれ、人間は結局人間であることに満たされない存在なのである。
5、宗教者は、人間が人間であることに満足できないのは、倨傲であり、不幸の原因であるとする。被造物としての人間の能力や状態には限度があり、その範囲内で甘んじて生きるように定められているのである。もしその存在の条件に満足できないならば、それの是正は造物主にこそあれ、人間がみずから煩うことではないのであると。したがって、真の満足や絶対の幸福は、神や仏の御許にこそあるのであり、そこに完全なる人生の安心がえられるとするのである。思えば、そのような思想や宗教が生まれること自体が、人間が人間であることに満足できない存在であることの、証拠となるであろう。
6.人間はおのれの存在について、途方もない勘違いをしている可能性がある。実は未来などというものはないのであって、今在る状態よりも、良くなることも、悪くなることもないのであり、希望や期待や予定や計画や進歩などというものは、今以上のものをも、今以下のものをも、もたらすことはないのである。時間ばかりでなく、今ここにないもの、ない状況、ない人々が、今のありよう以上のものをもたらすかのような、他の存在の可能性への欲求もまた、単なる思い違いに過ぎないのである。人間はあるがままにある存在であるという根本の事実が、意識からぬけ落ちているのである。そのために、希望や落胆や依存心や野心やで、みずからを苦しめているのが、この人間という動物の、実存的錯誤なのである。
7.未来の表象が錯誤であるならば、過去の表象についても、同じことが言えるであろう。過去は人間的錯誤であり、時間としての過去は存在していない。人間が過去と思いこんでいるのは、単に過去に対する感情や情緒、すなわち空虚と充足に過ぎないのである。なにごとかを思い出すということは、それがなんらかの情緒的反応を、連想や因果的判断から生起させることにほかならない。単なる連想や因果判断は過去を生みだすことはないのであり、それらは本来無時間的関係でありうるのである。ここから、過去に対する基本的な対処法が考えられる。過去に対して、いかなる情緒的反応であれ、極力抑えることである。起こることは起こるがままに起こるのである。過去であれ、未来であれ、出来事に対して、時間的に反応していては、人間存在の本質が見えてこないのである。いまだない未来は幻影であり、すでにあって、もはやない過去は、なおさらに幻影である。幻影でないのは、今ある存在であり、存在そのものである。存在は無時間的であり、そこには明日も昨日もないのである。もしそれに絶望するならば、絶望が人生最大の錯誤なのである。望みさえしなければ、絶望はないからである。
8.記憶は、語学の学習などにおいて明らかなように、無時間的でありうる。語尾変化や、単語の意味などを、いつ覚えたかを想起しなくてもよいのである。しかし意味に対して情緒的に反応すれば、たとえばせっせと英単語を覚えた受験時代を思い出せば、そこに時間意識が生まれる。また文そのものに情緒的に反応すれば、そこに時間的世界が広がるのである。
総じて、成長期におけるほど時間意識は強烈であり、物事に対して情緒的に反応しがちである。記憶はそれに応じて、無機的・機械的であるよりも、情緒に彩られて、時・空間に広がってゆくのである。生命力が後退期に入ると、記憶の情緒的性質は失われてゆき、本来の無機的・機械的機能が主流になるであろう。それに応じて、老人たちの生活も無時間的になるのである。
たぶん、時間は生命体の創作物なのであろう。生命体が、単なる<存在>に還るとき、時間も消滅するのである。
9.物理的な世界は、もし時間なしに記述出来るならば、それが世界の本質を表わすことになろう。時間
t のない数式が、万物の法則となるであろう。ビッグバンやインフレーションがなければ、どうやって世界は発生したのかと、反論されよう。時間がないのだから、世界は発生しないのである。いわば、全宇宙、全世界は、一瞬にして<創造>されたのである。そしてあるがままに、永遠に存在するであろう。生命体はそれを、時間的に解釈しているだけなのである。
10.哲学は救済をもたらすことはない。むしろ、哲学的思索が可能であるのは、すでになんらかの意味で救済されているからである。救済(Erloesung)とは、さまざまな苦のとらわれからの解放の謂いである。苦しみながら思索することは不可能であり、たとえ瞬間であれ、心の平静が生まれていなければ、その余裕はないのである。これをもたらすのはある沈着さであり、頭脳の平明な状態である。そこに閃きが生まれ、思索が生まれる。まず苦を達観する平静さが生まれ、そこから思索が始まるのである。この心の平静がなければ、哲学研究などは、まず不可能なのである。アウグスチヌスであれ、トマスであれ、彼らが神学的思弁にふける前に、すでに救済はおとずれていたことであろう。
11.作家の人生――作家は直接社会と交渉することはない。彼らが向き合う社会は、もっぱら言語という観念的な障壁をとおしてであり、しかも言語的世界は実在界ではないのであるから、直接的交渉のような物理的危険はいっさい無くてすむのである。作家のあらゆる社会的欲求は言語をとおして得られ、あるいは得ることを欲し、もし得られなければ、現実社会におけると同じ挫折を味わうわけである。作家はいわば第二の社会に生きているのである。そこに作家の窮極的不満も生まれてこよう。なんといっても観念的・言語的社会での交渉にすぎないからである。政治家のように、スピーチそのものでやり取りするならば、まだしもであろう。言葉そのもののむなしさに、作家はやがて疲れるであろう。なに一つ具体的な人生を生きなかったという、欲求不満がつねに残るはずである。しかし、具体的人生とは、これまた小説に描かれるような生易しいものではなく、むしろそれの困難さが、作家を言語の世界に逃れさせるのである。作家のあやうさがそこにある。
12.作家は曲がりなりにも、その作品を商品化することで、社会との直接的交渉を持つことができる。作品以外の現実的世界で、現実的生を営むことが可能なのである。それに対して、作品の読者は、もっぱら作家の生み出した二次的、間接的な社会である、言語的・観念的な非世界と交渉するほかはないのである。いわば読者は、作家の作り出した<仮想世界>と交渉するに過ぎないのであり、作家にもまして、現実欲の満たされることのない不満足を覚えるであろう。読者(Publikum)とは一つの架空の社会空間なのである。そこでの現実的生とのかかわりは、夢と覚醒との関係に等しいものかもしれない。夢はたしかに現実化することもあるし、現実の生に何らかの心理的影響を及ぼしはする。しかし、夢だけ、仮想現実だけに生きるならば、全くの無能者の人生を送るほかはなくなるであろう。読者のあやうさがそこにある。
13.名声欲あるいは有名願望は、社会的人間に特有の妄念であるといえよう。動物はおのれの直接接触する、周辺の他の個体に関心と警戒心を持つに過ぎない。特に同種のあいだでの<なわばり>の範囲内での、他者の存在を意識するに過ぎないであろう。他者に対する関心の範囲は、同時におのれに対する関心の範囲でもある。その範囲外で何が起ころうとも、少なくとも直接的に意識に影響することはないのである。人間はしかし、直接関係することのない他者の群れに対して、漠然とした想像をめぐらせる。群れそのものが生活圏であるならば、そこでの生存は具体的な交渉を必要とするが、その直接的生活圏を越えてまで、想像における社会が広がっているのである。
直接的生活圏においては、相互に知り合うことは、生活の条件として必要であり、その必要の範囲内において、知名度ということは、生活上有利でありうる。有名ということは、生活圏においてなんらかの利益や便宜をもたらすのである。その限りにおいて、名声欲は、生活上の必要にもとづいた、本能的な欲求である。この欲求が、生活圏以上に拡張されるとき、単なる虚栄心としての有名願望が生まれる。具体的な生活圏以外に、社会や国家や民族や人類といった、漠然とした人間集団を思い浮かべ、その中での拡張された自己を想像するとき、全く何のつながりもなく、無であるおのれというものには耐えられなくなるのである。少なくとも、なんらかの<名>をそこにとどめたいと思うであろう。これはほとんど本能的な自己拡張の妄想であって、若年期にはほとんどそれを疑うことはないのである。そして現実的な生活の中での幻滅が待っているのであるが、その妄想にあくまでもこだわるならば、たとえ悪名であってもよいということになり、あえて犯罪に走ったりもするのである。
社会は、この功成り、名を遂げるという妄念を育む制度を持つ。実際の生活圏を越えて、国家や、民族や、さらには人類のために役立たせる人間を作ろうとして、野心や名声欲を吹き込むのである。そうした人間をヒーローとして、理想として、人間社会に奉仕させようとするのである。その心理的、精神的モチヴェーションの一つが、<名声>であって、それはなんらかの仕方で社会的に奉仕することによってのみ得られるのである。この心理的圧力は、青少年期にもっとも強く影響し、いつしか有名になること自体が、人生の意義であるかのような錯覚にとらわれさせるのである。名声自体は、もしなんらの社会性も欠いた個人の欲求として現われるならば、実に不毛な欲求であり、生活を歪め、人生を誤まらせる。自己自身を客観的に評価するにあたって、もっとも有害な妄念なのである。社会や国家によって意図的に操作された、心理的罠なのである。
そもそも、個人的存在が名をなすことによって、どのような得があるのであるか。心理的自己満足以外のなにものでもないばかりか、その満足は他者の存在によって左右されるものである。しかもその他者は漠然とした顔のないものであり、どのような性質のものか、知ることのできないものである。そのために具体的な他者を犠牲にしたり、無視したりするのは、愚かなことである。なにかをなすのは、おのれのためでないならば、具体的なあれこれの他者のためでなければならないだろう。それは漠然とした社会や民族や国家などのためではない。名を求めて具体的な人生を失うことほど、倒錯したことはないのである。
そもそも名を求めることは、個人の自律と自立の原則に反している。他者によって左右される欲求は、決して個人を高めないからである。結局、名声欲の根本には依存心があり、社会的従属があるのである。自我が他我を求めるのはよしとして、それを従属の関係としてはならないのである。まして、自我を抑圧する集団的、社会的組織の中において、なんらかの他律的充足を求めることには、自我の究極の満足は獲られないのである。名声欲あるいは有名願望は、自我の自由自足を損うのである。古来聖賢皆寂寞の境地が、自我の自由自足の行き着くところを指し示している。
14.人類は霊魂や精神といった、動物においては見られない世界観の持ち主であるが、それは人類そのものが考えだしたというよりも、生命そのものの進化の過程において、自然と生まれた観念であるといえよう。石器時代の人類が、天体を崇め、死者を葬った心理の根源には、生命現象の観察と類推から、万物に共通した、なんらかの生きた存在を感じとっていたのであろう。生命体としての人類は、今日の自然科学が知的に解明した、生命の全地球的・宇宙的連関を、本能的に感知することができたのであろう。そこから霊魂の想像が生まれたのである。
霊魂は万物に共通したなんらかの生命的原理であるが、生命のダイナミズム、流動性が、霊魂観念の基本をなしている。すなわち霊魂は生と死の循環の中にとらえられるのである。霊魂としての天体は季節をもたらし、豊饒と死と復活をもたらす。人間の霊魂もまた、天界の霊魂に準じて、死と復活をくり返すのである。このような生命的な霊魂観から、そのような霊魂について思索する、純粋な認識者としての精神の観念が派生する。万物自身が、その根底において、なんらかの思索する存在、あるいは思索によって世界を生みだす存在とみなされるようになるのである。創造や目的といった観念が、宇宙自体に加えられることになる。宇宙は精神の現象なのであると。
実のところ、霊魂も精神も、生命体の脳内での現象であり、脳細胞の生みだした世界像に過ぎないのである。生命の範囲を離れては、霊魂も精神も存在しないのである。この宇宙、この世界は、生命体の宇宙であり、世界である。生命体は霊魂を生み、精神を生むことによって、同時にこの世界、この宇宙を生み出したのである。かといって、生命体の世界・宇宙が、すべての世界・宇宙であるという保証はどこにもないのであり、単に生命体は生命以外のことは何一つ知ることができないという、根本のありようを知るに過ぎないのである。これが霊魂であれ、精神であれ、生命体の産物の究極の定めなのである。
認識者としての精神によって再帰的にとらえられた生命は、きわめて精緻な組織とメカニズムの過程であり、それがそのまま精神に反映されて、生命が生命自身に驚くということが起こるのである。生命は精神化することによって、自己自身を顧みるのである。顧みられた自己自身は、万物の中の一つのプロセスであって、万物の全プロセスと密接につらなるものである。精神化した生命は、さらに万物の中に、自己自身を映しだすことになる。万物が精神なのである。あるいは万物が生命なのである。言い換えれば、万物は生命の自己認識に過ぎないのである。
15.表情は、顔の随意筋によって自由に作ることができるので、意のままになるかのように思われもする。しかし実際には、もっとやっかいなものである。まず人間間では、表情とその解釈とが、遺伝的に決まっているようである。どんな表情でも、その背後にある感情は、一定なのである。このことは、表情にはつねに一定の感情がともなうことを意味している。怒りの表情を作れば、たちまち怒りの感情がわくのであり、滑稽な顔を作れば、たちまち気分が軽薄になるのである。表情が意のままになることとは別に、感情までは意のままにはならないのであり、このことは表情と感情との結びつきが、いかに強いかを示している。
逆に言えば、表情によって感情をコントロールできるのではないかとも考えられる。悲しい時に、ヒョットコのような表情をしてみる。するとたちまち、軽薄な、滑稽な気分が生まれるであろう。実際の感情と、本能的に作られた感情が、せめぎあうわけである。日常、つねにどのような感情でいたいかを、表情によってコントロールしようとするわけであるが、これをあまりにもやりすぎると、ふと狂いそうになるので、あまりよいことではなさそうだ。
表情にこだわり過ぎると、人から誤解を受けることにもなる。さり気ない返事をしたつもりでも、相手が変な顔をしたといって怒り出す。気持ち的にそのようなことは全くないのだが、習慣でかすかな表情を作ったことで、相手がそこに嘲笑を感じ取るのである。表情はいわば、人間の間で、社会的な共通言語なのであり、へたに操作すべきでなないのであろう。
子供の頃、遊び仲間と、奇妙な踊りを考え出した。出来るだけ面白い顔つきをして、輪になって踊りまくるのである。その際なんでもよい、クリでおわる掛け声を作り出して、たとえば、チャイナックリ、ケイヨックリ、ホイヨックリなど、ほえたくりながら、たがいを威すように踊るのである。これをやると、あらゆるストレスから解放された気分になれたようである。ここでは表情が大きな意味を持っていたのである。祭りで、獅子舞やヒョットコの踊りを見ていると、日常、表情に縛られている窮屈さからの解放が、そこにも見られるようである。
16.プライドは、社会的感情であるから、それだけですでに、エゴイストにとっては、自己の身心に危険を招く感情的行為のもとである。自己自身の態度や行為が、周囲からどのように見られるか、低く評価されていないか、あるいは高く評価されたいという、いわゆる世間の<評判>が、プライドにとってはもっとも気にかかるのである。もし低く評価されていると思えば、世間から身を遠ざけ、<孤高>の態度を取ることになり、また高く評価されれば、プライドが増長し、<高慢>におちいりかねない。いずれにしても、プライドはおのれ自身から出たものではなく、つねに世間の評価によって、高慢から孤高の間でスライドし、また場合によっては<卑屈>におちいりさえするのである。これにさらに<恥>の意識が加われば、りっぱな社会的人間が出来上がるわけである。
エゴイストは基本的にプライドを持たない。周囲の社会から、おのれに都合のよいものだけを取り入れ、利用し、極力自身に危険を招かないような行為や態度につとめるであろう。映画の主人公のように、<臆病者>といわれて相手の思う壺にはまるような愚行は、決してしないであろう。エゴイストの社会的行動の原則は、危険から<逃げる>ことである。臆病や卑怯は、エゴイストの辞書にはないのである。世間の評判を意に介さないことによって、逆に<悪名>をこうむることがあっても、エゴイストの心情および態度は、基本的に没社会的であるから、いわゆるGewissenなどというものはないのであるから、すこしも応えないであろう。ただそれが不都合を招くならば、そうした悪名は、巧妙に避けるであろう。要するに、エゴイストは、あらゆる社会的状況において、つねにおのれの安全と利益だけを考えて行為するのである。そこにプライドを取り入れてしまえば、たんなる<個人主義>に堕するのであり、それは社会感情と妥協した、居心地のよいエゴイズムであるといえる。 |
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2023年1月19日(木) |
浦賀の海・横浜 |
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今年の正月1日は、浦賀の観音崎へ、海を見に行くことにした。京急の浦賀駅から、山がちの起伏の中を、バスで十分ほどである。この辺になると、東京湾の海水も思いのほか透明で、正午の日差しの中で、文字どおり水色に透きとおっている。海を見ながら、遊歩道を海岸沿いに歩く。遠くに長大なタンカーが通過していく。
観音崎のいわれは、行基の観音像のエピソードから来ていて、その洞が祭られている。岬の端には明治の初めに西洋人が建てた、日本初という、小ぶりの西洋式燈台がある。中は狭く、高所恐怖には応えるが、見晴らしはよい。ほかにも、あちこちによい見晴らしがあり、面白いトンネルや、奇木があり、砲台跡などという、幕末の歴史の遺物もあるが、総じてハイキング混じりのよい散策コースである。

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当日は、横浜の格安ビジネスホテルに泊まった。朝食は、おせち料理つきで、たっぷり食べれたのはありがたい。正月二日の昼は、ホテルから近い、無料の野毛山動物園で過ごした。無料ではあるが、けっこういろいろな動物がいて、楽しめる。レッサーパンダやライオンの檻の傍には人が集まる。ライオンの底力のある吠え声には、驚かされた。というよりも不気味になった。サバンナや密林の中で、この獅子吼を耳にした人類の祖先たちは、さぞかしおびえたことであろう。



(上から、トキ、ライオン、公園の池) |
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2022年12月30日(金) |
夢想欲について |
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単なる想像は、生への意志に奉仕し、現在はもとより、過去及び未来にわたって表象世界を拡張する。想像力は、きわめてプラグマティック(実用的)な機能である。その点で、想像は記憶にもとづいて、ほぼ機械的に働く。行為において推理や推論を行なわせるのも想像力であり、未来の予定を立て、過去の連続的因果性の根拠となるものも、想像の働きである。単なる記憶は固定的であり、単独のイメージにすぎないが、想像力はそれらのイメージを結合させ、分離する。すなわち、想像力は、表象の世界を意味あるものとして再構成するのである。想像が働かなければ、眼の前にある一つのものも、単にものでしかなく、それがなんであるかを把握することができないのである。一つのものは、記憶において別のもののイメージを惹き起こし、さらにそれにつらなる別のイメージを惹き起こしと、連綿と全体としての意味を構成するのである。
さて、想像は意欲せずして、ほぼ自動的に働く。単に知覚やなんらかのきっかけがありさえすればよい。たちまち記憶が起動され、それらを全体として意味あるものとして把握する、想像力が動き出すのである。もちろん、精神機能が衰えるならば、記憶や想像を働かせるのにも、ある程度の努力が必要となる。機能そのものが崩壊するならば、精神活動の終焉である。
他方、この記憶や想像の自動的な機能を、意欲によって拡張することが出来る。想像力が豊かであるということは、この想像の機能を、単に実用的な方面ばかりでなく、精神活動のあらゆる方面に及ぼすことである。この活動の方向を導くものが、いろいろな意味における意欲である。プラグマティックな興味・関心によって導かれる想像の動力は、現実欲であるといえよう。今世の中で何が行なわれているか、つねに想像しながら、人は生きているのである。そこで朝起きれば、一番にテレビやラジオのスイッチをいれ、新聞を手に取るのである。たいていの人間の想像力は、もっぱら現実欲によって支配されている。この現実的想像力の範囲において、人生のたいていの用は足りるのである。
しかし、想像力の拡張は、現実欲に奉仕するだけにはとどまらない。子供の頃を考えてみると、想像力はそのように狭く制約されたものではなかった。現実欲よりは、はるかに<夢想欲>のほうが強かったのである。一日のうちで最も幸福な時間は、自由な夢想にふけれる時間、たとえば布団にもぐって眠りにつく前の夢想の時間などであろう。あるいは学校帰りの、家に着くまでの途上での、奔放な空想の時間である。夢想欲は現実欲をはるかに凌駕していたのであり、想像力は自由そのものであった。これを、たいていの人は大人になって、夢想欲と現実欲の地位の逆転によって、失ってしまうのである。もし夢想欲を現実欲によって克服できなければ、人生における適応能力を失ってしまうのである。この事情を、心理学ではピーターパン・シンドロームなどと称している。
夢想(reverie,fancy)は、単なる夢(reve)と違って、統制された夢であるといえる。そこにはあらゆる精神機能が投入されているので、現実の自我とさして違ったものではなく、<統覚の先験的統一>が見られるのである。とはいえ、夢との同質性、夢の機能との類似が、そこには見られるのであり、たとえば夢想の中での人物との人格の交替や、イメージのvividness、濃密な情念などは、夢と共通する。現実においては満たされない、願望の充足という点においては、全く夢と同一である(夢想には、この現実化されないという切なさが、つねにつきまとうのであるが〉。この夢想を自由に育てることができたならば、この世界に楽園を築くのも不可能ではなかろう。少なくとも、それが詩人と称せられる人々の夢見る世界である。幸福になるには、夢想家になればよいのである。
夢想欲は長じることによって、現実欲に打ち負かされる。生命体の自己保存と、種の存続の本能が、まさに現実欲の根底であって、現実欲が本来向かうべき方向である<現にあるもの>への意欲の転向を促すのである。そもそも夢想の原動力は、現実に満たされない願望の代償的充足であったのだから、現実そのものが、たとえ困難であっても、その充足の可能性を与えるならば、夢想は捨て去られるべきものなのである。青年期の恋の夢想は、現実に性愛が満たされることと、同日の談ではないのである。もちろん満たされなければ、夢想は現実以上のものとして、永遠にとどまるであろう。
この代償的精神行為としての夢想は、しかし青少年期の一過的状態にはとどまらないであろう。子供であれ、大人であれ、人間は人間であることに満足できない存在であるからだ。それが人類の進歩を生み、精神的発展を促した。その根底には、夢想があるのである。単に現実にあきたらず、夢想で代償するばかりでなく、現実を夢想によって改造しようとする意欲が働くのである。それを理想(ideal)と称している。現実と夢想とが、現実欲と夢想欲とが、協働することによって、<地上の楽園>を生みだすのである。これは、個人の場合でも、社会の場合でも、どちらもユートピアを目指すことになるだろう。社会的ユートピアはさておき、個人の人生において、いったんは現実欲に敗北した夢想家は、現実というもの、現実の社会や人類を知るにつけ、そこではいかなる究極の幸福もえられないことを実感するであろう。現実世界の愚かしさ、不条理、無常を知るにつけ、現実欲は後退していくであろう。そこで経験によって賢くなった夢想欲が復活し、夢想の再生復活を目指すであろう。それは自覚的な夢想である。
自覚的夢想は、もはや現実の代償である必要はない。現実欲は多かれ少なかれ、ほぼ満たされ、それに対する幻滅の段階に至ったところで、新たな夢想が現実の上に打ち立てられるであろう。それを超越的夢想といってよいだろう。それをショーペンハウアーは
das metaphysische Beduerfniss(形而上的欲求)と言っている。必ずしも宗教やドグマである必要はないが、現実を超えた想像力の働きと考えてよいだろう。そうした自覚的夢想は、現実を忘れさせたり、代償するものではなく、むしろそれ自体が人間的存在の意味をなしうるものである。人間は生きるにはパンが必要だが、夢想は生死を超えた意味の世界に参与するのである。そのような想像力の働きを、超越的夢想と呼ぶのである。宗教はある点でその働きを暗示するが、社会現象であることによって、その純粋性を曇らされている。超越的夢想はもはや生きる意味を問うことはないだろう。死後や輪廻を思い煩うこともないだろう。神や地獄を恐れることもないだろう。すでに生死を超越しているのであるから、夢想そのものが絶対の境地なのである。ある意味で、超越的夢想をするのは世界意志そのものなのであって、夢想において夢想家は世界の根源に還っているのである。いわば超越的夢想は、現実欲をリヴァースしたニルヴァーナそのものである。世界意志が<無垢>なる創造にふけるならば、夢想家は想像力によって創造の根源に還るのである。そこに超越的自己を見いだし、それが超越的夢想の源であることを知るのである。人間が何ゆえに人間であることに満足できないのか、その究極の理由を知るのである。 |
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2022年12月26日(月) |
現実欲について |
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人間は観念的存在者であるが、時として現実への荒々しい欲望におそわれるものである。現実とは、この今において存在している、あるいは起こっている物事のすべてであり、とりわけ人間社会における出来事のすべてである。自己自身の存在や行為は、この現実の中に取りこまれているが、必ずしも現実そのものではない。過去や未来や、想像や空想が、個人的な現実を取りまいており、必ずしも、<現実>に生きてはいないのである。
個人がつねには現実に生きていない理由は、さまざまであるが、つねに現実の求心力によって、現実を意識させられ、現実に引きもどされる。この現実の求心力は強大であって、人生のあらゆる悩みは、この強大な<現実欲>によると言っても過言ではなかろう。想像や空想や娯楽によって、一時的に現実を忘れていることはできても、ふいに強烈な現実への欲求がおそって、不安になったり、興ざめしたりするのである。未来の予定や期待に対して、今ある現実の欲求に気づかせるのも、現実欲の不意打ちである。過去は、どんなに意味深い歴史であっても、興味と郷愁をそそる記録や回想であっても、一たび現実欲が起これば、たちまち色あせてしまう。ましてや、小説や文芸のような虚構の世界は、現実欲の前には、ほとんど児戯に等しいものとなるのである。
生命体は、現在という時点を離れることができない。現実とは現在そのものであり、現在を離れた現実はない。しかも、今という時は、生命体に普遍の時であり、個体はその普遍の時である今という現実を、エレメント(生存領域)として生きているのである。知的生命体は、知性の発達によって、今という時の前後に時間を観念的に拡張し、一見現実から離れえたかのような見かけを持つ。しかし、過去も未来も、そもそも観念的機能そのものは、それ自体としてあるのではなく、ただ単に、現実を拡張し、補強するための、知的道具に過ぎないのである。いわば、知性とは、観念とは、獲物を感知するための、蜘蛛の巣のようなものである。現実とは蜘蛛そのものである。
観念の網を張ることによって、その中心に盤踞するおのれの存在を忘れては、生命体は生きてゆけない。いかに美麗な網を張ろうとも、所詮現実に奉仕しないかぎりは、無用な遊戯なのである。現実欲は、つねにその行き過ぎを、荒々しくチェックするのである。生命体がおのれ自身に帰るための、いわば警報装置である。現実欲は、観念を攻撃し、思想を攻撃し、あらゆる芸術を攻撃する。それらすべては生命体の現実の前には、<ばかばかしい>いとなみなのである。飢えたものには、モナリザよりも、相対性原理よりも、ひときれのパンが大事であろう。このことを理解しない芸術家や思想家は、たいてい餓死するか、自殺することを余儀なくされるであろう。しかし、彼らをもまた、生命体であるかぎり、現実欲が救うであろう。
あらゆる禁欲や<解脱>は、最大の敵として、この現実欲と格闘しなければならない。今という、この現実に生きてはならないのである。かといって、観念に生きるならば、観念自体が現実の拡張であるからには、敵のふところから盗むわけであるから、当然現実欲の襲撃をくらう。無念無想という言い方があるが、それが修行の理想とされるわけである。現実の生が今そのものであるならば、今を忘れることが、まずもって現実欲の克服の一歩であるが、それは単なる<無心>ではなく、過現未の時間そのものを忘れることである。今に没頭してはならず、また過去や未来に逃避してもならない。時間そのものを超越することで、はじめて現実欲、すなわち生への意志が克服できるのであろう。 |
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2022年12月21日(水) |
世界我について |
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無数の他我の根底にある唯一我と、自我の根底にある唯一我との、本質同一性における合同において、両者はともに唯一者であることを保ちつつ、二者一体をなす。自我は他我との合一において融合されるのではなく、他我の見地と、自我の見地を共に保ちうるのである。この二面的統合において、自我はネガティヴに、他我はポジティヴにはたらき、一見自我は他我に依存し、引きずられるかのようであるが、抑制が可能であるのは、自我がネガティヴに働きうるからである。
自我は現象的には、他我の根底にある世界我(世界意志)の産物であり、他我との無条件の合一へと向かう傾向、すなわち全体への意志(類的意志)に支配されている。世界我は、根底において他我として現われる無数の自我をコントロールしており、すべての自我を一体の自我としてあつかうのであり、いかなる例外も許さない。自我はこの世界我からの支配を逃れるためには、みずからのうちに唯一者としての純粋自我を見いださねばならない。唯一我としての自我を確立することによって、はじめて世界我(世界意志)と対等の位置において、合同が可能になる。自我の超越的本質において同一であることを見いだしつつ、そのネガティヴな傾向によって、世界我の現象である心身の働きを抑制しうるのである(*)。
(*)世界我はいわば<マトリックス>のようなものであり、自我は<脳>の中に閉じこめられ支配される。世界我の全面的支配を脱するには、純粋自我として脳から脱け出さねばならない。
世界我が現象としてこの世界に発現するためには、イデアの設計図がなければならない。すべての現象は、したがって、おのれであれ、他我であれ、現象としてのすべての自我のいとなみは、イデアの設計、すなわち宿命に従って、生起することになる。そのような絶対的宿命に、超越的自我はどのようにして干渉できるのであるか。おのれの行為を、自我・他我の合同的、超越的見地において変えることができるためには、イデアそのものを変えねばならない。イデアを変えることは基本的に不可能であろう。この世界の設計は、相依(相互依存)の関係からなっており、一部を変えれば、その影響は全体に及ぶからである。この難点は、パラレルワールドの考えによって解くことができるであろう。無数の世界の設計図があり、行為を変えるには、世界を選択しさえすればよいのである。選択によって、可能態が現実態となる。そのチェンジは、現象界の外に出た、超越的見地においてのみ可能となるのであろう。<三一体>が世界を生みだすとは、三者のそのような、融通の利く関係においてであろう。
さて、<世界我>という新たな用語を用いるにあたって、それと世界意志との関連が問題となるであろう。両者は必ずしも同一ではないからである。物自体としての世界意志は、絶大なる純粋エネルギーであり、この世界の現象の根源である。インフレーションやビッグバンのような世界創生のeventsの根源としての、超越的なエネルギーであり、空間や時間や物質を生みだす源であり、<実在>の根底をなすものである。世界意志がなければ、この世界にはなにものも存在しない。もっとも実在的にして、あらゆる<存在>の最高の根底をなすものが、唯一絶対の存在への意志である、形而上学的存在者としての、<世界意志>である。
世界意志はそれ自体では世界を生みだすことはない。三一体の原理で述べたように、世界が創造され、構成されるためにはイデアの設計図が必要であり、さらに個物の世界に意識が生じるためには、自我が世界構成に参与しなければならない。世界意志・イデア・自我の三者が融合することによって、この現象世界、物質・生命の世界が創造される。少なくとも、この 宇宙はそのように構成されているのである。ほかに無慮無数の宇宙があるとしても、それらの世界については、この世界からは知りえない。
世界我が発現するのは、世界意志・イデア・自我の三一体の構成する領域である。これを以前にブラフマン=アートマンの世界としておいた。超越的自我は、三一体として現われる限りは、この領域で構成される世界我に参与しているのであり、無慮無数の他我のなかの、ひとつの自我としてふるまう。他我と自我とは、ここでは同格であり、同質である。これが超越的見地において見られた他我の本質であり、同時に他我としての自我の本質である。この自我=他我の超越的本質を、世界我とするのである。世界我が三一体の領域に現われるものである限りにおいて、自我の見地からは、三一体そのものであるといってよいだろう。故に、世界我は複合的であり、三一体が解消されると共に、解消されるであろう。自我は、自我自体の超越性に還ればよいからである。しかしここでの課題は、純粋自我の自己救済ではなく、他我との関係における、世界我としての自我のあり方である。
自我は超越的であることによって、超越的見地から世界を眺めることができる。自己が世界我の世界では、身体的自我として、無慮無数の他我の中の、一個の自我、つねに他我となりうる自我であるにすぎないことを知る。そして自我とあらゆる他我とは、超越的な世界我として一つの全体であることを知り、自我のあらゆる行為は、世界我の行為そのものに他ならないことを知る。私が行為するのではなくして、世界我が超越的に行為するのである。この認識において、自と他との我の区別は消え去り、あらゆる行為は世界我の宿命的な成り行きであることを知るのである。世界我であるかぎり、私は宿命から逃れることはできない。しかし自我はこのような超越的な自覚において、自己自身の本質である、いま一つの超越性を回復しているのである。世界我が超越的であるならば、自我自身も超越的なのである。私は超越的であることによって、世界我と同等の位置に立つことができる。超越的であるとは三一体からはなれた見地を持つことであり、とりもなおさず世界我から距離をおくことでもある。私はネガティヴではあるが世界我に作用しうるのである。
この超越的行為の可能性が、純粋自我には与えられているのである。それをニルヴァーナといってもよいが、そのような窮極的解脱はさておき、ここではあくまでも日常的実践のレベルにおいての、超越的行為の可能性をいうのである。世界我としての私と、超越的自我としての私との、いわば和解の行為である。行為する私は、つねに世界我としての私であるということを忘れずにいること、世界我であるからには、私は同時に他我でもありうるということ、私以上に優れた他我に教えを受けることは、決して自我をおとしめることではなく、他我の集合であり、同時に世界我の一部でもある人類の文明や文化の良きものを、おのれ自身の糧としなければならない。そして世界我における他我の行為が優れたものであるならば、おのれ自身の行為を律する鑑とすることを、いとうべきではない。むしろ世界我としてのおのれの不完全さ、劣悪さを、そうした超越的見地において矯めていくべきなのである。これが、超越的であることの実践的意味である。
自我は同時に他我でもありうる。自我を導くものは、超越的他我であってよいのである。<われ>は<なんじ>として、<なんじ>は<われ>として、<われ>に臨むことができる。このわれとなんじの二重性こそが、世界我としての自我の超越的本質なのである。私は他者として私自身に向かい合う。この他者は顔や姿こそ異なれ、私のalteregoなのであり、理想としての私自身なのである。そして対する私は、私自身をコントロールし、高めるために、彼をmentorとして呼び出したのである。彼はいかようにも具体的人物でありうる。もし私が私を低めようと思えば、彼は悪魔的でありうるし、高めようと思えば、聖人君子でありうる。他者の中には、私でないものを見いだすことはできないからである。
このことは単に、自己自身の内部の出来事である必要はない。現実の他者との関係においても、同じような自と他との交換がおこなわれるのである。人は他によって支配されるのではなく、みずから他によって自身を支配するのである。みずからが他者でもあるのだ。これが無意識に行なわれるならば、生命界全体に見られる類的意志の現象であり、人類社会における全体への意志である。超越的意識のないところでは、自我は無意識の全体性の中に埋没してしまうのである。
そうならないためには、自と他との関係を、つねに超越的自我における自己完成の関係としてとらえていなければならない。つねに自我の唯一無二性の意識を失ってはならないのである。そして世界我であることは、自我と他我とが、それぞれの唯一無二性を認め合うことをさまたげはしない。他我が自我となりうるのは、他我もまた唯一無二でありうるからである。さもなければ、唯一無二の自我が、他我となることはありえないからである。こうして、世界我において、自と他とは、真の自律性において、たがいに協力し合えるといえよう。自我と他我との、究極の調和であり、和解である。 |
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2022年12月18日(日) |
超越的他我について |
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自我は超越的回路を通じて、他我と和解しうることを明らかにした。唯我論・独我論は、内在的には克服しがたいが、自我が超越的態度をとることにより、同時に他我もまた、超越的世界我として把握されることにより、共通の回路が開けるのである。
ここで用語について、不確かさをさけることにする。自我をあらわす言葉は、一般にはごく曖昧につかわれる。私の自我なのか、相手の自我なのか、誰でもよい一般の自我なのか、区別しがたいことが多い。私の自我にしても、それを直接あらわす言葉の<われ><おのれ><自分>などは、相手の自我をさす場合にも使われるのである。そこで、まぎれのないように、標準的な一人称である<わたし>を使うほかはないのであるが、これも<ぼく>となると、子供などの相手をさすことにもなるのである。相手の自我をさす直接の言葉もまた、標準的な二人称である<あなた>や<きみ>などのほかにはない。要するに、自我を表わす言葉は、すべて人称代名詞なのであり、独自の、唯一無二性をあらわす言葉はないのである。
固有名詞としての名前はどうか。たとえば、夏目漱石という名は、漱石そのひとの自我であると同時に、漱石という他者の自我でもある。漱石としては、それはおのれの存在を表わすものであるから、勝手に使うなとはいえないであろう。むしろ、おのれの自我を世間にアピールしているのである。漱石の自我は漱石でありながら、他者の世界では他者の自我として通用しているのである。いわば相互的自我なのである。だから、自分の名前を嫌う人が多いのであり、ペンネームが流行るのである。
西洋語では、やはり自我を表わす言葉は、人称代名詞が中心である。Ich,je,I,moi,me,egoなどが、自我を代理的にあらわすことになる。Das Ichとなれば、それが一般化、普遍化されることになる。だれのIchでもよいのである。Self,Selbstという再帰的言い方もあるが、代名詞の強調に過ぎないであろう。
結局日本語であれ、西洋語であれ、自我そのものを表わす言葉はないのであり、すべて人称代名詞で代用している。まして、自我と区別する、他我という言葉もないのである。そもそも日本語の自我は、自と我からなっており、<我>というものを前提としている。この我は、<われ>であり、人称代名詞そのものである。しかも、あまりよい意味では使われない<我>である。我を張る、我慢する、我欲などなど、漢字音では、なにか実体的な使われ方をしており、すでに客観化され、客体化された我なのである。つまり、我の段階で、すでに<他我>なのである。他人から見られたわれ、それがすなわち<我>である。<自我>とは、それを自らのものとして、とりもどしたに過ぎない。そこからさらに、自覚的に、みずからでないものとして、他我が再定義されるのである。
西洋語では、他我という言葉はないようだ。再帰的に、yourselfといった言い方はあっても、それが、自我と対立するという意味では使われないであろう。alteregoという言葉はあっても、むしろ親友の意味であって、対立の意味はない。西洋哲学では、自我と対立するのは他我ではなく、自然や物質なのである。すなわちNon-Ichである。そのような自我=Ichをあらわす言葉は、霊魂 soul とか、魂 spirit とか、精神 mind といった概念で代用されている。概念化された自我である。それら実体的な概念が、人称で指示されるIchやDuの共通の内容であるとされるのである。
要するに、日本語であれ、西洋語であれ、自我そのものを表わす言葉は、人称代名詞以外には存在していないし、しかも代名詞であることによって相対化され、自我の本質そのものを表現できていないのである。そもそも自我とは、みずからのわれでも、他者のわれでもない。言語では曰(いわ)く言いがたいものである。孟子が浩然の気を問われて、困ったのと同様であろう。言語に表わせないものを、どうやって探究できるのであるか。自我の探究は、基本的には実践そのものなのである。
言語に表わせないものを、言語的に超越的と称している。この意味では、言語はネガティヴな形で道標となりうる。言語的に沈黙することは、実践においてさしつかえることではない。実践とは、体験において実感もしくは直観することである。自我の本質はそのようにして得られるほかはなく、さらにそのようにして得られた本質から、概念へと帰ることが出来るであろう。さもなければ、超越的とは言いえないであろうから。このような超越的回路によって、純粋自我という言葉も意味をなすであろう。対して純粋他我、あるいは超越的他我を立てることができよう。
他我とは、その純粋な、超越的な意味においては、なにものなのであるか。自我と同様に、他我もそれ自体を純粋に言い表わす言葉はない。そもそも、他者の<われ>ということは、どのように言いうるのであるか。言語的に相対化された<われ>でも<なんじ>でもないことは、すでに言語を超えている以上、明白である。そのように把握されたわれもなんじも、すでに超越的思惟の結果なのである。他我は、その純粋な、超越的本質においては、不可知であるはずなのである。純粋自我が、もし他我の中に、おのれと同じ本質を見いだすことがあるならば、それはおのれと同一であるという認識もしくは直観においてのほかにはない。しかし、それが誤りでないという保証はないのである。ただ自己自身の直観を信じ、従うほかはないのである。そして自己自身の直観の唯一の間接的保証が、ここでいう超越的回路である。他我の根底に超越的本質が見いだされるならば、その超越的本質同一性によって、合同の可能性が生まれてくるのである。ウパニシャッドにならって、<なんじはそれなりtat
tvam asi(Das du bist)>と言うことができるであろう。あるいは、<われはなんじにして、なんじはわれなり>という超越的言明ができるであろう。
この原則は、単に<共感>の原理としてではなく、人生のあらゆる行為に適用することが出来るであろう。私のあらゆる行為は、超越的自我と超越的他我との、合一から生まれるものであり、行為の主体はいわば<世界我>にほかならないのである。私はつねに超越的に行為しているのであり、あるいは私の行為がつねに超越的であるように意識し、意欲していなければならない。個々の他者とは、私は調和することは不可能であろうが、他者を超越的本質において見ることによって、私自身がまた他者であることが、他我としてふるまうことが、しかも場合によっては他我の主導のもとに、この生を生きていることがわかるのである。 |
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2022年12月15日(木) |
超越的回路について |
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テーゼ:神とは、絶対の自我と絶対の他我との、自己同一性(self-sameness,Selbst-Identitaet)の認識における合一である。
生命的自我はそれ自体では不安定であり、つねに自我以外の対象をもとめ、それを支えとする。自我の世界認識の機能は相対的であり、その行為の基準は他律的である。<わたし>のあるところには世界があり、他者がおり、社会があり、その中での生活がある。わたしはわたしの発生と同時に、世界を発生させるのである。わたしは世界の構造と、世界のあり方にしたがって、わたしの生命を維持し、わたしの生き方を律しなければならない。そのかぎりでは、わたしはわたしであって、同時にわたしではないのである。つねに世界の中の他のもの、他者や他者の集合である社会や、さらには自然界の法則に従い、依存して生きねばならないのである。これが相対的自我の宿命である。
このような他律的な自我をもってしては、自己の身心、生命体としての諸機能、欲動、情動、情念、すなわち、身心のあらゆる働き、意欲、知情意を自律的にコントロールすることなどは、ほとんど不可能といってよい。行動原理としてのあらゆるモラルは、他律的であるかぎり、自我にとってなんら絶対的な規範とはなりえない。他から強いられたものは、他に返せばよいからである。
自我はまず<自己保存>のために環境に適応しなければならない。その条件はすでに心身において遺伝的に与えれれており、それをどう変えることもできない。さらに環境の側においても、そこには自然法則が厳として存在しており、生命体としての身心と、自然環境の間には、ぬきさしならない物質の物理化学的メカニズムが存在している。両者の一致を、適応と称しているのである。さらに、個体としての生命は、種の存続のために、おのれの身心を犠牲にしなければならない。食欲が個体保存の基本であるとすれば、性欲・性衝動が個体を盲目的に種の要求に従わせるのである。どちらも生命体の生理的メカニズムによって規定されており、単なる自我によっては、ほとんど抗うことが困難である。
身体の基本的欲求、欲動、情動、感覚、感情、情念、それらを総括している脳髄、すなわち一個の生命体としての人間の、身心のあらゆる働きは、自我を発動させ、自我を煽りたて、屈服させ、身心と自我とを一体化させる。そのかぎりでは、自我にはなんら抵抗の力はないのである。自我があたかも自己自身の意志のままであるかのように、いかように<自由>にふるまおうと、一個の生命体の範囲を、すなわち脳の支配の範囲を、決してぬけ出ることはないのである。
単なる自我は、おのれの力では、生命体としてのおのれを超えることはできない。では、そもそもそのような自己超越、生命の超越、脳の支配を超えることは可能であるのか。どのような超越原理が、そこに見いだされうるのであるか。二つの方向が在る。ひとつは自我自身の内面への回帰である。これに関しては純粋自我の名で、すでに何度も探究した。しかし純粋自我はそれだけでは無力である。単なる傍観者に過ぎないからである。純粋自我は、自己自身、すなわち身心としての自我を見捨てていくことは可能であろう。それは身心以前のおのれに帰ることであるから。しかし、実践的には、身心のコントロールには、全く力及ばないのである。そもそも、究極の自我はネガティヴであり、力そのものではないからである。自我は力を身心、即ち生命から借りているのである。
他の方向は、知的生命体が同種の他者において見いだす、<他我>へと向かう認識である。動物の脳には、基本的に同類のふるまいに対する<共感>の働きがある。ミラーニューロンがその顕著な例である。動物も人間も、生まれると同時に、自己保存の必要から、他者の保護を求める本能がある。他者認識は、生存のための基本条件なのであり、脳のメカニズムに本能として具わっている。その欲動的、情動的現われが、共感なのである。共感によって<模倣>し、従属し、帰属する。そして、人間の場合、自我意識の共通性が、その共感によって生まれるのである。同じ行為、同じ振る舞い、同じ表情は、情緒を同じくする。怒りの表情は、それを見るものに怒りを生じさせ、快感のさまは、快感を伝播させる。だれもが<他我>の存在を疑わないのは、この本能的、即ち脳の支配による共感の故である。
生命体は基本的に、自我以上に他我の存在を必要としている。他我の存在は、自我の存続のための基本条件なのである。自己が実在であると同時に、他者の自己もまた確実な存在として認識される。そればかりか、じつは自我の中には、他我に依存し、他我に従属することが、ある種の本能として働くのである。これが生命体の、とりわけ動物の心理における、基本的な情動である<依存心>である。これが群れや、社会や、国家の心理的な起源となる。この社会心理を、全体への意志、あるいは生命的に類的意志と名づけておいた。
他我の認識は社会全体に及ぼされる。さらに、未開社会において顕著に見られるように、種を離れて、他の動物に対しても、同様な他我の拡張が行われる。動物もまた、自我の持主なのである。個々の動物ばかりか、集団の象徴としての、類的役割をも持たせられるのである。動物からさらに、自然界全般に、他我の拡張が行われる。天や地は、ある種の自我的、生命的存在として表象され、自然現象は、それらの存在のふるまいと見なされる。人間が自然界に依存しなければならないほど、自然はいっそう他我的な存在となるのである(*)。生命体が、基本的に安心して依存できるのは、自己を除けば他我だけであるからだ。このように、類推的に他我の範囲を拡げていくことによって、人間は世界の認識を拡張していったのである。このような本性は、現代の自然認識にまで及んでいよう。
(*)太陽などの天体の運行や気象現象が、なんらかの生命的意志を持った存在の行為であると考えたインカやアステカのような民族は、生け贄によって、自我の生命を他我の生命に捧げたのである。
同種の他者ばかりか、自然界のあらゆるものが、なんらかの自我の持主であるという、本能的な共感は、自然界の本質そのものが、人間の自我の本質と、なんらかの同質性を持つという洞察にまでいたらせるであろう。しかし、この段階までは、この同質性の認識は、生命的な本能にもとづくものであって、なんらの絶対的真理性はない。他我の本質が、単なる生命性を超えて、純粋な本質に至るまでは、自然の本質が、自我と絶対的に同質であるという認識にいたることはないであろう。自我の探究が、究極において、純粋自我の発見にいたりつくように、自然界の探究は、自然の純粋な、絶対の本質に至りうるであろうか。いわば
Natur an sich としての他我が、見いだされうるであろうか。
生命的自我を脱した自我が、純粋自我として見いだされうるならば、自我と同等の実在性を持つとされる他我もまた、その純粋な本質において見いだされうるはずである。どのようにしてか。単なるドグマでないかぎり、その論拠、もしくは把握の可能性が示されねばならない。生命的自我が見いだす他我は、基本的に生命的<現象 phenominon, appererance>である。現象とは、その背後になんらかの原理、もしくは可知、不可知を問わず、なんらかの作用、もしくは根拠とみなす存在があって、はじめて言えることである。カントは物自体 Ding an sich という概念を導入した。自然現象には、なんらかの絶対の根拠がなければならない、という意味にとってよいであろう。さもなければ、この宇宙、自然界は、すべて人間悟性の、すなわち、脳髄の、すなわち生命体の、構成物になってしまうからである。この全宇宙が、人間の脳髄の産物であると考えることに(カントは人間悟性が自然に法則を与えると言明している)甘んじないならば、自然を超えた自然がなければならないであろう。それを Natur an sich としてよいであろう。
じつは、この Natur an sich は生命体の本質自体でもある。生命は自然界の現象であって、自然の本質そのものではない。しかし生命の背後にも、不可知の根拠があるであろう。そして生命的自我が、自己の本質自体として、絶対の純粋自我を見いだしたならば、それは同時に自然の本質自体でもありうるわけである。ショーペンハウアーはそのように洞察して、世界意志をまた、生への意志とも呼んでいる。世界意志=物自体は、究極の他我でもある。その究極の他我は、同時に純粋自我でもある。他我とは自我の拡張にすぎないからである。このように洞察するならば、他我・自然界・宇宙の本質は、その現象の根底にあるなんらかの実在として、自我の本質と同質、同等のものを考えてよいわけである。
この自我と宇宙との、窮極的本質における同一性を、絶対の自我と絶対の他我との自己同一性(self-sameness,Selbst-Identitaet)と名づけておいた。この認識において現われる絶対の存在を、ほかによい言葉がないので、とりあえず伝統用語として、<神>としておく。あるいは、プロチノスの一者(Das Eine)や、唯一者(Der Einzige)でもよいかもしれない。いずれにしても、自我と他我との本質的自己同一性の認識の、実践的意義においては、名称はどちらでもよい。単なる思弁ではないからである。
他我と自我、我と汝とが、宇宙と私とが、自我の本質において同一であるという洞察は、生命体としての自我の行為において、おおいなる根底となりうるであろう。生命体の身心における、あらゆる物理化学的、生理的条件にもかかわらず、欲動、情動、感覚、意欲、情念などのあらゆる圧力に対抗して、超越的な観点からの行為が可能になるであろう。単なる純粋自我ではなしえないことが、宇宙の根底にある純粋他我と、自我同一性において一致することにより、無力な純粋自我が、いわば純粋エネルギーの根底に触れることで力を得るであろう。現象としての世界は無でありえても、世界意志の根底は少なくとも無ではなかろう。世界意志の無限な純粋エネルギーに触れることによって、空であり、無力であるところの純粋自我が、現象の外にあって、現象をコントロールする可能性が生まれるであろう。行為の究極の原理がそこに可能になる。この世界、物質界を超える、生命界とその産物である身心を超える、究極の超越的原理が、可能になるのである。
我と汝、自我と他我、私と宇宙の根底とが、本質においてself-sameであるという認識において、私は超越者、絶対者の観点において、私自身のすべてをコントロールし、超越する可能性を与えられるであろう。その絶対命令
(der kategorische Imperativ )は、私の本質が世界の本質と、自我同一性において一致するという観点において、超越的に行為せよ、となるであろう。いわば<神>の視点において、私の行為を律することである。神とは我と汝との合一であるから。超越的なわたしと、超越的なあなたとは、神の名において同一なのである。わたしがわたしを救うことは、あなたがわたしを救うことであり、あなたがわたしを救うことは、わたしがわたしを救うことである。これが自我の救済のミステリー(秘儀)なのであろう。 |
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2022年12月10日(土) |
文芸の観察について |
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文芸を一定の現象と見なすならば、通常の自然現象と同じように、観測や観察ということが考えられよう。自然現象は、直接的には<もの>または個物を対象とする。一個一個のものの現われをとらえ、それを因果的に説明し、法則として一般化する。法則化されたときには、ものは単なる具体的個物から、<概念>へとAufhebenされる。概念のもとに包摂されることが、科学的<説明>と称されるのである。
文芸を現象としてみるならば、個々のものとして現われるのは、<作品>であり、それらは書かれたもの、活字となったものだけでなく、ネット上の電子的作物であってもよい。一冊の文芸書を手にとるならば、それが文芸の観察の対象である。<もの>の探求においても、ものを見る視点もしくはアスペクトにおいて、探究の層が区別されるように、<作品>においてもいくつかの層が区別できる。ものは、そのものにおいては、一個の対象であり、それ自体において分析と綜合がなされうる。それが対象の<性質>であり、特徴である。さらに他の対象との比較において、<分類>がおこなわれる。いわゆるクラス分け(類別)である。そして分類と対象の性質にもとづいて、因果判断がなされ、一般法則がうち立てられる。
文芸ではどうであろうか。作品自体は一個の特殊な性質を持っている。それが与えられた作品の<内容>である。それを一般にテキストと名づけている。すなわち文芸の直接対象はtextである。しかしそれだけでは、文芸作品を<観察>したことにはならない。それは物の性質だけでは、物の本質を<説明Erklaeren>したことにならないのと同様である。作品には<創作者>という次の層があるのである。さらには、ほかにも無数の作品が対象として存在しており、<分類>が必要となる。分類はいくらでも細かくなしうる(後述する)。そして、ものの観察と違って、とくべつに付け加わることがある。すなわち<読者>の存在である。自然科学の対象認識、すなわちものの観察においては、観察者もしくは観測者は、一般に直接対象に関与しないものとされる。どんなに対象が美しくても、それは観察者の側の主観的状態にすぎないのであり、物の本質には一切影響しないのである。ところが文芸の読者は、そうではないのである。なぜなら作品そのものが、読者に対して甚大な影響を及ぼすからである。
そもそも<もの>は観察者のために存在しているのではない。天界の星星は、人の目を楽しませるために存在しているのではない。ところが、文芸作品は、まさに創作者以外の人のために作られるのであり、つまり読者なくしては、文芸は作品として成立しえないのである。神の造った作品である自然界は、人間がいなくても何の違いもなく、作品そのものであろう。人間の作品は、すべて人間のために作られたのである。この創作者と読者との関係が、実は文芸の観察の究極の<意味>となっている。これは自然界の探究においては、ありえないことである。自然は人間に対して語りかけているのではないからである。
創作者が読者に語りかけるとは、人間が人間に語りかけるということである。文芸で得られる観察は、人間そのものの観察であるといってもよいのである。人間に関して、自然科学で得られる認識は、ものとしての人間の知識であるが、文芸の観察でえられる認識は、具体的な生命体としての人間の、様々なありようをめぐり、それらを創作者と読者との間の共感と反撥という、それ自体もまた具体的な生命現象において把握することなのである。これを哲学では<了解Verstehen>と呼んでいる。あるいは文芸用語では<鑑賞apreciation>と称する。これらはすでに文芸の観察の成果であり、文芸における観察が、結局生命体としての人間の、自己認識のいとなみにすぎないことを表わすであろう。
自然における人間の位置を考察することは、すでに自然科学ではなく、哲学的思想である。自然界における人間自身のいとなみを、科学の対象とするためには、観察者自身の存在が邪魔になるであろう。自然科学は対象の<意味>を問うものではないからである。それに対して、文芸は人間のいとなみそのものを対象とすることによって、すでに観察者自身が観察の対象の側に属しており、対象に対して単に認識するだけでなく、作用し、かつ反応するのである。その関係は、自然科学のような単なる一方的、知的作用ではなく、知情意すべてにわたる、全人的関係である。人間が人間に接する時の、あらゆる接触の手段をもって、作品という対象を把握するほかはないのである。その結果、了解に達し、作品の鑑賞もしくは評価が生じるのである。それは true でも falseでもなく、単に共感か、不快かの、いずれかでしかない。それが、人間と人間の関係のすべてであるからだ。
さて、文芸における観察の仕方を、具体的に見てみる。作品が生まれるには、作者が必要である。作者と作品との関係は、直接的に因果関係においてとらえることが出来る。作者の心性、性格などからはじめ、境遇、環境、風土、教育、社会制度、伝統などといった要素によって、作品の<動機>を探ることができよう。つまり、作者という人間を知ることが、作品の動機の解明につながるのである。これは科学的な作業に等しい。適切な資料とその批判、偏りのない判断が必要とされる。このようなことは専門の文芸学者でなければできないことであり、アマチュア文芸愛好家はその判断に従うほかはないであろう。
文芸の類別は、言語によるものと、テーマによるものとに分かれる。詩歌(韻文〉と散文との区別は、口承文芸の段階に由来する。文芸が歌われ、朗誦された段階では、日常言語とは異なった、音楽や舞踊と結びついた韻文が発達した。文字の発明と記録の発生によって、単なる事実を記す文章としての散文が発達した。このどちらによるにせよ、テキストとしての文芸現象が発生しうる。その性質の違いは、言語そのものの持つ性質の、分化であるといえよう。すなわち一方では音楽性と意味の象徴性が、他方では事実的意味性が強調される。
テーマによる分類は、対象としてのテキストの内容に関するものであり、創作者がテキストという手段によって、読者または聴者に伝えようとする、いろいろな意味におけるメッセージであり、情報である。それは知情意にわたるものであり、創作者の全人間性がそこに表われるものであり、そこにおいて読者の知情意が触発されるものである。この分類は、全般的なものから、具体的な個々のテーマに至るまで、多様であり、いくらでも立てられるであろう。たとえば、リアリズムや、ロマンティシズムや、古典主義、ヒューマニズムといった、漠然とした類別に始まり、家庭小説、恋愛小説、冒険小説、推理小説といった、具体的内容に及び、さらにはユーモア小説、海洋小説、怪談、SFなどといった、もっと細かなテーマわけもなされうる。テーマによる分類が必要なのは、文芸の観察において、対象選択のオリエンティールングを観察者に与えるからである。どのジャンルにおいても、基本は人間のいとなみの観察である。その観察が読者そのものの生命的いとなみに作用をおよぼすことによって、ジャンルの選択は、読者すなわち観察者にとって関心の中心となりうるのである。
文芸の観察は、まず作品という対象があり、創作者の社会・歴史的環境がその背景に作用し、創作の前提とされる読者がそれに呼応し、最終的には作品という対象を間にはさんだ、創作者と読者との時空を隔てたメッセージの授受であるという点において、単なる自然観察とは異なることを、以上に述べた。とはいえ、観察の態度においては、自然観察とそう異なるものではない。火星面の観測が、時々、日々異なるであろうように、文芸作品の観察も、日々、年々、変わりうるであろう。作品や作者における事実的認識に変わりはないとしても、それらに対応する読者の側の了解の能力が変わりうるからである。文芸という対象の観察は、人間と人間の間の認識の関係である以上、認識の能力が変われば、作品自体、作者自体の<評価>、すなわち読者にとっての意味も変わるのである。結局、文芸の対象においては、客観的観察や認識というものはありえないのである。ものの認識や観察においては、普遍的真理の探究が可能であるとしても、文芸作品においては、普遍的価値や評価などというものはありえないのである。作品からなにものも受け取ることができなくなったとき、作品は死ぬのであり、あるいは作品は死なないまでも、読者は死ぬのである。
最後に、観察の対象としての文芸と、実人生との関係を考察する。文芸現象が、人間と人間との間の関係のいとなみであり、その全人的把握のいとなみであるとしても、それは必ずしも文芸に限らず、文芸に特有のことでもなく、まさに実人生そのものがそうであるといえよう。人生は生命体の生のいとなみそのものであり、その人生のいとなみのある部分を、文芸として対象化することの意味が問われねばならないであろう。 文芸現象は人生の縮図であるといってもよいが、どのような点において縮図であるのか。じつは、文芸的いとなみは、一見実人生のような見かけをもっているが、人生そのものから遊離した、いわば派生的現象なのである。創作者は創作のいとなみにおいて、人生そのものを生きているのではなく、人生をテクストの形式で再生産しているのである。その再生産された人生を、読者は作家から受けとり、追体験するのである。このテクストを間にする両者の関係は、それ自体ではある種の生のいとなみではあるが、いわゆるナマの人生la vie vecueではなく、人生の影像、コピー、あるいはフィクションとしての虚構の世界に過ぎないのである。あるいはよく言って、言語が持つ<意味>の範囲において、純粋な意味の世界であるといえよう。文芸は文芸であるかぎり、その意味の世界をぬけ出ることはないのである。もしぬけ出るならば、それはもはや文芸ではなく、<生>そのものである。作家が創作以外の活動をするならば、それはもはや文芸ではなく、作家の実人生である。虚構ではなく、現実の生である。
現実の生と虚構とのバランスが、作家の生をあやういものとする。虚構から脱け出せば、もはや作家でも文芸家でもなくなる。一介の生命体である。そもそも現実の生の圧迫から、ある意味で<逃避>する傾向を持たなければ、文芸は成立しない。いわば文芸は過酷な現実の生の中での、オアシスのようなものなのである。これは創作者にとっても、その相手である読者にとっても言えることである。場合によっては、作品によって、作家ばかりでなく、読者の生もあやうくされる。自殺する作家も多いが、文芸の影響で自殺する読者も多いのである。ウェルテルやヘッセが危険視されたりするのである。そこまでではないとしても、虚構が現実をゆがめてしまうということが、大いに起こるのである。虚構はありえない現実を渇望させることにもなるからだ。恋愛小説を読みすぎれば、現実の性愛に失望するであろう。ポルノ小説にふけりすぎれば、現実の性愛を過度に歪めるであろう。理想主義の文芸は、現実社会に生きる能力を失わせる。かといって、リアリズムや自然主義やペシミズムは、現実への嫌悪をもよおさせ、やはり適応性を失わせる。
かつてアイヌには、ユーカラという優れた口承文芸が行なわれていた。本土の日本人に徹底した支配を受けるようになって、ユーカラはすたれたが、このような悠長な文芸に夜ごとふけっているようだから、アイヌはシャモ(和人)に対抗する気概を失ったのであると、アイヌ自身が思ったようである。一民族の存続にとっても、文芸はあやうい位置にあるのである。このことはユーカラに限らず、文芸一般について言えることである。文芸はその内部に自己否定の要素を含んでいるのである。所詮文芸ではないか、単なる小説ではないか、という言い方は、実存的立場からいって、文芸に対しては、もっともきつい現実的人間の態度である。現実に目覚めるほど、創作者は文芸に対して内在批判的になる。二葉亭が、文芸は男子一生の仕事にあらず、といって断筆したのはその例であり、トルストイもまた、晩年自己の作品を全否定している。与謝野晶子が、「やわはだ」を歌ったのは(*)、まさに文芸の自己矛盾であり、気づかずして自己否定をしているのである(もっとも晶子自身は、自作の色紙を売ることで、生計をまかなっていたが)。
(*)やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君
他方、虚構によって現実を歪めるという文芸の機能は、集団的虚構にもとづく行動においては、大いに利用されるのである。特に歌謡や詩歌が、その役目をはたせられる。武勲詩や軍歌、panegyric(権力者讃美)や国歌などというものが、集団の情動や情念をかきたて、現実の理性的判断を失わせるのである。文芸が戦意高揚のために使われた例は、枚挙にいとまない。それが集団的狂気へ向かわせ、生をあやうくするものである限りにおいて、やはり虚構であることに違いないのである。
観察の対象としての文芸を、ここでは論じているのであるが、文芸のあらゆる機能を明らかにするには、じつは文芸そのものにとどまっていては不可能である。文芸にふけることと、文芸そのものの本質を考察することとは、別の次元であるからだ。たしかに両者は不可分であり、文芸にふけらずして、文芸の本質を知ることはない。しかし単にふけるだけならば、文芸の効用に身を任せ、翻弄されるだけに終わってしまう。たいていの読者はそのようにしているのである。ここで観察という言葉を使ったのは、単に内在的に文芸にふけるだけではない、自然科学に匹敵するような、対象認識の方法を見いだすためであった。単に創作者と読者の関係だけではない、観察者の視点をそこに見いだすためである。そのような視点はあるであろうか。
それは単に文芸学としての学問ではない。あくまでもアマチュアとして文芸を楽しむ者の視点において、いわば文芸を超越する、メタ文芸、あるいは文芸が人間と人間の間の生の関係であるならば、メタ・ライフの観点を確立することである。そのようにして、文芸そのもののあやうさを、すなわち生のあやうさを、克服することである。文芸そのものが生のいとなみの一環であること、生の連関の中でのみ意味を持つ現象であることを明らかにし、生命現象そのものの中に包括すること、それによって文芸そのものばかりか、生の本質をも明らかにすることである。それをメタ文芸、メタ・ライフと呼ぶのである。
この観察の視点を、あらゆる文芸に適用すること、あらゆる読書に適用することによって、真の意味で賢い<了解>や<鑑賞>や<批判>が可能になるであろう。それによって真の<教養Bildung>が可能になるはずである。教養とはヘッセによれば無限の進歩であり、文芸や読書がその契機になるのである。単なる生Lebenではない超越的見地を、教養の土台としなければならないのである。生は単なる素材であり、それをテキスト化した文芸によって、<意味>を形成していくのが、真の教養なのである。 |
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2022年12月5日(月) |
Meeresstille |
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生命体としての一個の人間は、身心のあらゆる重層的な可能性において、いかなる行為をもなしうる存在である。一個の放埓な動物、野獣でもありうるし、種の存続に奉仕する従順な動物でもあり、教養や知性といったものを誇ったり、知識の探究に精を出したり、さらには理性や精神と称するものによって、肉体や肉欲の上に立とうとする。そうした多重的な存在である人間は、<人格>などという言葉では言い表わせない、多元性と多面性を持っているのである。そのどれか一面だけをもって、一元的に生きようとすることなどは、とうてい不可能である。
人間の欲動・情動は、肉体のあられもない快楽から、知性の穏やかな快楽に至るまで、極端な階梯 scale をなしている。しかも、どちらの端からも、一足飛びに他の端へ移ることが出来るばかりか、同時的にすら発動可能なのである。古代ギリシャでは、飲食にふけりながらの哲学談義を<饗宴>と称している。真面目な仕事をする前に、まず欲情の処理をする人も少なくないであろうし、精神修行のあとには、<精進落とし>が待っている。会議の後には、宴会というのが、社会通念にすらなっている。この人間の知・情・意の変わり身の速さには、若い頃にはついていけないものであるが、大人になって世間を知れば、だれもがそうなっていくのである。
人間の欲動・情動が、低音から高音まで、広い音域を持っていることは、知的生命体としての人間の宿命であるといってよい。肉体の上に立つ精神や理性などというものを脳が発達させたおかげで、動物ではごく自然に、本能的に果たせたことが、<不自然>で、<異常>に思われるようになるのである。そうした欲望の抑圧が、欲動・情動に優劣の差別をつける。いわば欲動・情動のあいだに、知・情・意のあいだに、不協和をもたらすのである。本来、一個の人間のあらゆる欲動・情動は、いわば協奏曲や交響曲のように、互いに共鳴しあってよいものであるが、この協和を失ったことによって、人間はある種の自己撞着におちいったといってよいのである。この矛盾撞着は、簡単にAufhebenなどできるものではない。少なくとも、弁証法は、人間に関しては当てはまらない。
ここで一個の人間のさまざまな行為へと向かう意欲の多面的なあり方を、矛盾や妥協ではなく、理想的には協奏曲もしくは交響曲にたとえてみたのであるが、一つ音楽と違うところは、<指揮者>のいない点である。行為するのは、なにか一個の<人格>であるかのような錯覚に陥りがちであるが、行為するのは、だれということのない、漠とした欲動であり、情動であり、それが行為への意欲の主体である。なにか意欲や行為を導き、コントロールなしうる、知性的もしくは理性的<人格>のようなものがあって、あらゆる欲動や情動に君臨しているかのような、錯覚にとらわれはする。しかしそのような人格は、だれもが知るように、社会的に作られたものであり、他からのなんらかの心理的・生理的圧力によって、強いられたものである。それを超自我などと呼ぶことがあるが、しかしその超自我には、これといった特定の<顔>がないのである。 いわば<顔>のない、得体の知れないものが、人間のあらゆる欲動や、情動の背後にひかえていることになるのである。
個体的生命としての個人には、たしかにそれぞれの顔がある。しかしその顔は、おのれの都合でいくらでも作ることが出来る。子供の頃と、青年期と、中年・老年期の顔は、驚くほど違っている。さらに、顔で大事なのは表情であり、表情はいくらでも工夫することが出来る。日常しかめ面を心がければ、それが世間向けの顔になるだろう。家ではその仮面をはずすことができる。そして顔を作り、表情を作るものは、欲動と情動以外のものではない(*)。ポーカーフェイスは、顔の利用法としては一番つまらないものであり、行為を一元化してしまうであろう。意欲や情動を隠すということは、時には役にたつが、自己自身に対する誤解のもとでもある。つまり、顔とその表情は、それぞれの欲動や情動に、そのつど見合うべきなのである。子供がそれをもっともよく表わしだしている。
(*)相手を意識せずとも、たんに顔の表情を変えるだけで、そのつど、異なった気分が生じていることに気づくであろう。表情と気分とは、ほぼ自動的に連動しているのである。怒りの表情を作りながら、冷静な気分でいることは難しいであろう。
欲動や情動をコントロールするものが、顔を持ってはならないのは、それ自体が欲動や情動であってはならないからだ。親のおこった顔を想像して、子供が萎縮するのは、動物と同じ反応である。宗教ではこの心理を用いて、神の<怒り>や、不動明王などの憤怒相でもって、人間の欲動や情動を抑えようとする。他者の顔であれ、おのれの顔であれ、それが情動や欲動と結びついている限りにおいて、心理的圧力となりうるのである。そのような欲動・情動のあいだの対立、拮抗、争闘によっては、いかなる調和も協和もありえないであろう。しかし、単に顔がないだけでは、それが情動や欲動の調和に、すぐさま結びつきはしないであろう。超自我なるものには、必ずある種の不安、恐れがつきまとうからである。それが目に見えないだけに、なおのこと、いわゆる<聖なるもの>への畏怖の念がかもされるのである。結局、情念でもって情念を制しているのである。欲動はそれに対して、<冒涜>で応えるのである。
人間の多面的、多重的な欲動・情動の音階に対して、調和と協和をもたらすものは、いまだそれと名づけるべき言葉がないのである。<自然>という言葉はそれに近いのであるが、すでに精神という対立が生まれることから、避けるほかはない。その原理は、一面的な、一元的なものではありえない。交響曲のように、多面、多元でありながら、そこに調和をもたらす総合がなければならない。<生命>はそれに近い原理であるが、生命概念が根本において拡張されない限り、やはり対立をうむであろう。あらゆる対立、矛盾、闘争を含みながら、すべてを包みこむ原理が必要なのである。詩人はそれを
Meeresstille(海のなぎ)と言い表わす。近くから見れば、うねり波立ち、わきたち、岸に寄せては返す波頭であるが、遠く望めば、一面の鏡のごとき海である。その海のような原理が、人間のあらゆる欲動、情動、行為を包みこむならば、真の心の平静が生まれるであろう。海のごとくある原理、それを言い表わす言葉はいまだない。 |
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2022年11月27日(日) |
AphorismenV(脳について) |
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Vの1――脳は一つの閉鎖系であり、頭蓋、髄膜、髄液によって厳重に保護され、免疫や血液関門によって、有害物を排除している。脳が外界とつながるのは、もっぱら神経系をとおしてであり、脳内の神経細胞と、脳外の神経細胞との間の、化学反応を通じて情報を得、ただちに処理して反応を返す、いわばモニター室に閉じこもった神経細胞の集団が、外の神経細胞に対して指示や指令を出しているわけである。外の神経細胞はまた、感覚受容器や、筋肉細胞を末端の組織とする細胞の集団であり、それらの細胞がとらえる情報や脳からの指示は、すべて細胞内の化学反応であり、それら自体もまた、細胞内での反応の集積に過ぎないのである。脳内の神経組織、脳外の神経組織は、すべて神経系における反応のやり取りにすぎないのであり、決してその範囲を出でることはない。これが脳髄が徹底した閉鎖系であることの、根本の理由である。
物理的であれ、科学的であれ、あるいはさらに数理的であれ、あらゆる自然認識は、脳がその神経細胞によって捕らえた世界像であり、世界の把握のあり方なのである。脳自体が化学反応であるという認識は、脳の化学反応の産物であり、いわば脳の再帰的認識活動にすぎない。物理化学的認識を、身体を始めとする、脳外の全自然認識に及ぼそうとするのも、単に脳の認識活動の都合に過ぎないのである。本質的に、現実に、いわゆる物質の世界が、どのような構造や組織や働きをもつものであるかは、脳自体の閉鎖的世界においては、なんらプラグマティックな意味を持たないし、またそれを探究するには、脳の外へ出なければならないので、原則的に不可能である。自然法則が世界のいずこにおいても同じであるという、自然科学の普遍妥当性の原理は、いわば脳の定めた法則であり、要請であり、脳にとってのみ意味があるのである。それ故に、人間知性や理性が、脳の産物である限り、宇宙の本質は根本的にダークであり、絶対的に不可知である。
2.脳が直接支配するのは、神経細胞の及ぶ範囲での、おのれの身体である。身体は、そのあらゆる機能において、脳との反応を行なう限りにおいて、脳そのものの機能と密接に結びついている。身体のものとされる、あらゆる情動、欲望、情念、意欲などは、すべて脳において処理され、脳の神経系の化学反応において、指示・指令を受けている。つまり、身体のあらゆる活動、行為は、すべて脳の<責任>のもとに行われるのである。それは単なる監視や監督などではなく、まさに脳そのものの活動なのであり、身体のあらゆる働きは、その活動のもとでの遂行に過ぎないのである。それ故に、人間のあらゆる行為・行動のみなもとは脳の化学反応であり、それらに矛盾や葛藤や不条理が起こったとしても、脳自体がそのように働いたのであるならば、なんらとがめられるべきものはなく、脳が機能的統一体であるかぎりは、脳の承認が得られていると見るべきであろう。もちろん、脳の機能的障害や疾病がからむ場合には、脳自体が崩壊したと見なすべきであるが。
3.人間機械論――ノルアドレナリン、アドレナリン、ドーパミン、セロトニンなどの脳内物質が、人間の欲動、情動を発現させ、コントロールしているものならば、それら欲動や情動として現われる身心の現象は、脳そのものにおける化学反応そのものであるとすることができよう。人が意欲したり、いかったり、愛したりするのは、たんなる脳内物質の反応に過ぎないのである。いまどのような脳内物質が作用しているか、心身のあらゆる状態において自覚しているならば、霊魂などというつまらない妄想にとりつかれなくてすむであろう。思考ですら、神経細胞間の、シナプスを通じての化学反応の広範な連鎖にすぎないことを思えば、脳は思想を<分泌>するのではなく、化学反応のメカニズムそのものが思想なのだということになろう。究極の<人間機械論>である。
4.情念の起源――シナプスがコンピューターと同じ二進法の原理にもとづく、思考の演算にすぎないとすれば、そこからは情念や情動や、欲動は生じていないであろう。いわゆる大脳辺縁系や脳幹において、思考以外の心の活動は由来しているようである。とりわけ、グリア細胞などの、神経細胞以外の脳内の細胞の役割が注目されているようである。脳内全体の環境が、情念や気分や意識といった、漠然とした心理状態をかもしているのであろう。神経細胞のシナプスを中心とした、脳内全体の化学物質のやり取りが、一つの総合的、統合的な反応を惹き起こすところに、意識も自我の統一も生まれるのであろう。中でも情念は、それ自体で独立した観念ではなく、つねに身体表象との相関において現われてくる。外界の一個のものは、単にそのものでしかないが、情念はいわば脳の全体的反応を引き起こすのである。心地よい気分ならば、世界自体も明るく、心地よくなり、不快な気分ならば、世界も暗く不快になる。情念は世界を彩るのである。まさに脳の化学反応そのものが世界であるからだ。一般に快苦について、同じことがいえる。身心の快苦が、情念の根底にあるのだから、当然である。
5.情念の(あるいは快苦の)質の違いをもたらすのは、脳内の化学物質の違いに基づくものであろう。アドレナリンやドーパミンの働きと、セロトニンの働きとでは、異なった気分や情緒をもたらすことになろう。オキシトシンが働けば、愛情のような情念が働くだろう。この質の違いをかもし出すのは、単に単独の化学物質ではなく、やはり脳内環境における、総合的、統一的な反応の結果として、違いが認識されるのであろう。そもそも違いとは、比較がなければ認識されないからである。綜合と統一が失われれば、単なる化学反応があるだけで、異なった情念は存在しないであろう。統合失調症においては、あらゆる情念、快苦は、同一に感じられているはずである。
したがって、情念もまた再帰的な認識の産物なのである。情念・意識・自我は、同一の原理に基づいて発生するといってよかろう。最新の脳研究が明らかにしたように、単なるシナプスでは、それらは生じないであろう。脳全体の、アナログ的な、広範囲な、総合的、統合的働きが必要なのである。このことから、ディジタルな神経細胞と同一の構造をもつ単なるAI(人工知能)には、、情念も意識も、ましてや自我などは不可能であるということになろう。マトリックスなどはありえないのである。同じくシンギュラリティーなども起こりえない。そもそも物理的コンピューターは、総合的、統一的な意欲も、情動も持ちえないからである。それをなしうるのは、唯一自然の生理的コンピューターである脳髄だけである。
(以下、12・12追加)
5.思考の循環――脳は徹底的な閉鎖系であるから、あらゆる思想、哲学、科学は、脳内でのみ行なわれるいとなみである。唯物論はもちろんのこと、観念論であれ、宗教思想であれ、科学研究であれ、すべて脳の考えることであり、脳内物質の、化学反応の過程そのものである。そもそも物質というものも、思考という脳内の化学反応を前提とするものであり、それがあって物質の<観念>が生まれるのである。はじめにどこかに観念(即ち思考)があって、物質があり、化学反応があるのではない。その物質の観念を、再帰的に脳そのものの働きに適応することによって、前提であるところの、化学反応としての物質である、脳の観念が生まれるのである。これが脳の閉鎖的な、思考の循環である。<観念>は、単にその思考の循環の一環に過ぎないのである。それが観念論の一面性の原因であり、唯心論の錯誤である。脳の思考そのものは、再帰的であることによって、循環的なのである。
人間の目は外界をとらえるが、外界は目の中の網膜に映っており、目の<中>にある。しかしそのように考えられた目は、一個の観念であり、さらにいえば、観念の中に目も外界もあるということになる。このようなパラドックスをヒュームは述べているが、これが観念論や唯心論の陥穽であり、そこから宗教的ドグマも生まれてくる。そもそも観念論であれ唯物論であれ、一つの閉鎖系の中での論争なのである。どちらもその中からぬけ出ることはできないのである。
6.脳の超越――人知をもってしては、脳の外へでることではできないであろう。それこそ、物理化学的に不可能なのである。かりに量子論の、トンネル効果のようなものがあるとしても、量子論自体が、脳の化学作用によって作り出された概念的構成物であるから、結局脳の範囲を馳せまわっているに過ぎないのである。脳の自閉的世界にとどまるかぎりは、いかなる思索も科学も、脳を超越することはできない。脳が脳として機能するかぎりは、脳のなすことは、脳の世界以外のなにものでもないのである。
それでは、脳でない脳、化学反応しない脳というものがあるであろうか。通常それは<脳死>と称されるのである。脳死したあとに、何か超越的なものが残されるのであろうか。脳死しても、心臓や他の臓器が動いている場合がある。いわば臓器的世界が残っているわけであるが、それは煎じ詰めると、個々の細胞の世界である。細胞の世界は、化学反応そのものの過程である。細胞の化学反応を<生命>と呼んでいるのであるから、脳死のあとに残りうるのは、やはり化学反応以外のなにものでもない。
化学反応としての神経細胞の働きの範囲内では、脳は超えられない。たとえマトリックスのような、電子回路による超脳が作られたとしても、単に脳の脳であるに過ぎない。そもそも物理化学的な原理によっては、当の物理化学的原理を越えることはできないのである。
7. ここで脳の再帰的循環について、あらためて考えてみる。脳が脳について考えるということは、化学反応が当の化学反応に対峙するということであるが、これを単なるフィードバックと考えるか、あるいはある種の超越性と考えるか、二通りあろう。前者ならば、単に機械的メカニズムであり、自己センサーにすぎない。後者ならば、反応が反応そのものについて考える、あるいはメカニズムがメカニズムそのものについて考えるという、非能率的な、言ってみれば無用な反応をしているということである。これが形而上学であるならば、存在者が存在そのものについて考えるという、何の効用もない、無駄な思索にあたるであろう。そして、この無駄な思索が起こるということは、ある種、化学反応の過誤でないならば、ここに化学反応における<余剰>が生まれているということになろう。いわば化学反応自身が化学反応を超えようとしているのである。このような考えは、ただちに非科学的として否定されるであろうが、そもそも化学反応の根底にある<物質>なるものは、根本的に不可知であることを考慮しなければなるまい。この不可知であるという思索も、化学反応の結果なのであるが、じつは化学反応自体が、化学反応そのものの根底を疑っているということであり、本来化学反応には、<懐疑>などという無駄なことはあってはならないであろう。こうした脳の無駄、無効用は、どのようにして生じるのであろうか。
脳を構成する細胞の物理化学的はたらきは、単なる電気的エネルギーの流れにとどまらず、あるいは量子力学的メカニズムにとどまらず、それらのもろもろの反応の背後に、それらの物理化学的メカニズムを可能にする、なんらかの根源物質を仮定することができよう。それは、何故にこの宇宙が、この物質界があるのかという、根源の問いと関係してくる。脳はその再帰的循環思考において、そのことを考えざるを得ないのである。それは脳に備わった、根源へと回帰しようとする<意志>といってもよいだろう。その意志の生まれてくる源は、まさにその問われているもの自体である。問いをなしうるということ自体が、すでにある種の解決となりうるのである。脳は、解決のないことは、決して問いえないであろうから。脳は、何故に自己が存在するかという問いにおいて、自己超越を解決として見いだしたのである。
化学反応としての脳が、化学反応ではないおのれを求め、探究するということ、これが脳の最大の自己矛盾であり、その矛盾の解決が、脳にとっての最大の課題なのである。ある意味で、それが脳が脳として存在することの宿命であるともいえよう。脳はみずから世界を創り、その創りあげた世界について<反省>しなければならない。それはみずから要請するばかりでなく、世界から要請されてもいるのである。それは脳の宇宙的使命でもあるからだ。脳は自己と宇宙の窮極的<価値>を問うのである。そのことは、自己超越において初めてなしうるのである。 |
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2022年11月13日(日) |
意欲の本質 |
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意欲は、意(Wille)と欲(Begehren)とに分けてよいであろう。意は意志であり、意志とはあらゆる意味での、選択の行為のみなもとであり、その原動力である。それに意識が伴い、判断がともなうならば、理知的行為ともなり、行動を決定する行為でもある。しかし、その根源においては、意識や理知とは別の、それらの根底にある、なんらかの不可知のエネルギーであるといってよかろう。それを科学的に<生命力>と言ってよかろう。そのエネルギーのみなもとを、さらに物理・化学的に探究するならば、電子や素粒子にまでさかのぼるであろう。一言でいえば、物質の根本の力である<四つの力>、すなわち電磁気力・強い核力(強い力)・弱い核力(弱い力)・重力にまでさかのぼるであろう。意志力とは、科学的に言えば、物質の力にほかならないのである。
欲は、基本的に生命に特有のエネルギーのあり方である。単なる物質には欲はない。単に、作用と被作用、相互的反応があるだけである。生命は物質代謝を行うが、その際、自己保存と種の存続との、必要性に応じた化学反応を行なう。有機体としての生命は一個の全体として、その組織を維持してゆかねばならない。その細胞工場において、何が必要であり、なにが不要であるか、いわば需給関係において、その組織を調整しているのである。この調整が、生命における欲として現われるといってよかろう。経済の需給関係が、需要という欲があり、それに応える供給の意志があって成立するように、生命体においても根本は同じなのである。
意欲はこのように、物質の、あるいはそのエネルギーの、根源的あり方にもとづいている。とりわけ生命体において、意と欲という総合的なあり方において成立する、世界の本質的ありようなのである。それゆえに、意志であれ、欲であれ、それを離れた<人間>の存在はない。少なくとも、生命の産物であるかぎり、人間にとって意欲がすべてであり、意欲の消滅は、存在の消滅、すなわち<死>である。意欲のないところには、少なくともこの世界では何もないのであるから、死後には何も残らないのである。しかし欲は消えても、意は残るであろう。それはすでに生命的意志ではないとしても、生命の後には、物質とその意志(すなわちエネルギー)が残るのである。
このように科学的見地からは、人間という存在には、生命によって与えられた存在の可能性以外には、何一つ見いだされないのであるが、それにもかかわらず、その可能性を超えて、意欲を死後の世界にまでおよぼそうとするのは、意欲自体に、なにか無限にして、永遠なものを感じるからであろう。これは世界そのものの、無限性、永遠性と関係しているのかもしれないが、それを科学は必ずしも保証しない。科学が保証しないものを、何故に人は意欲するのであるか。意欲というものの本質を、さらに深めねばならないだろう。
単なる意欲は、科学的に解明が可能である。しかし、意欲は生命体において、とりわけ知的生命体において、意識や自我と密接に結びついている。つぎにこの点を考察していく。動物や人間において、意欲はその発現の場を脳に求めることができ、脳内の神経細胞、脳内物質の分泌、それらの伝達といったメカニズムによって解明が可能である。脳が損傷を受ければ、意欲が減退するということが見られるのである。そのかぎりでは、単に機械的、もしくは有機的メカニズムであるが、たとえ意欲が脳の機能によってコントロールされているとはいえ、それが意識にのぼり、自我の一部として認識されるとき、ある実体的な把握がそこに生まれてくるといえよう。この実体的な把握は、単なる細胞や生命といった、概念の産物とは異なるものであり、生命体が認識者であるかぎり、そこに端的に<ある>ものとして自己自身の意欲が把握されるのである。これは単に、<存在とは知覚されることである>といった、認識の原則とは異なった、存在そのものの<体感>といったらよいであろうか、感性が知覚の場としての条件であるように、自我の感性的場とでもいえるものであろう。それが意欲としての自我の存在である。自我は少なくとも、その発生においては、意欲するがゆえに存在するのである。このような意欲のありかたは、決して科学的対象とはなりえない。ただ私が知るだけであって、体験(Erlebnis)は科学ではないのである。
このような実体的な意欲の意識は、すでに意識であることによって複合的であり、さらに理知による自己意識が加わることによって、より高次の複合を遂げる。魂が<実体>であるという直観は、少なくともこの辺に根拠があろう。しかし、それが物質と同じレベルでのsubstantiaである保証はどこにもない。物質は確かに、現象の根底に基体としての一般的質料、あるいは不可知の実体を想定することは理にかなっていようが、私という意欲的・意識的存在が、なんらかの根底もしくは基体を必要とするとは思えないからである。そこで、その意味では、ショーペンハウアーがいうように、唯一の実体は物質だけである。
とはいえ、実体としての物質は単なる概念であり、意欲的・意識的私は、れっきとした存在であり、感性直観においてその存在を保証されている。唯我論や独我論が成立するのは、その故である。実のところ、存在について、私は、私以外の存在を知らないのである。その他の存在は、すべて私の存在からの類推である。他者の存在や、世界の存在、神の存在の思考ですら、私の存在からの類推なのである。私以外の存在は、論理的に証明できないのである。もし世界の存在が永遠であり、不滅であるとするならば、その根拠は私自身の存在が、そのようなものと直観されるからである。死後の存在というものがあるならば、それは私自身の不滅が直観されるから、でなければならないだろう。それは、だれによって保証されるわけではないからである。そして、私自身の不滅の直観は、ただ意欲的・意識的存在である私の意識に求めるほかはない。そこに見いだせなければ、どこにも不滅や不死や永遠はないのである。
宇宙の永遠や無限について、科学は論じることができよう。知的生命体の自然認識の範囲内で、それらの問いに対する答えも見いだせよう。しかし概念によってとらえられた宇宙は、永遠や無限の概念をいだかせるに過ぎない。それらの概念は人間知性にとっては不可思議であり、驚異に満ちていよう。しかし自我の存在とは概念ではない。概念でとらえようとすれば、自我もまた不可思議である。しかし感性直観に現われた自我は、思惟から離れれば自足的に安定した<気分>の状態でありうる。そこには驚異はあっても疑いはない。有るものはあって、無いということはないからである。概念が介入すれば、有るものが無いものとなるのである。そこに生の不安が生まれるのである。意欲そのものは不滅である。不滅の意欲と結びつくことによって、自我は永遠と不滅にあずかりうるのである。その状態は無時間的であって、そこに永遠の今が現われる。それを時間的に投影すれば、死後の生命や、天国・極楽ともなるであろうが、実は永遠は今の中にしかないのである。少なくとも自我にとっての永遠・不滅とは、そのようなものである。 |
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