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2024年8月20日(火)
運命について
 運命には自己自身における要素と、環境における要素とがある。一般には環境との関係において、運命というものが語られることが多い。自己自身の遺伝的素質や能力はさておき、それらが環境の転変の中でうけるさまざまな影響や障害を、通常は運命的としているのである。運命的出会い、一期一会などは、みなこれである。
 ドイツ語ではSchicksalというが、環境的な事象が偶然的に個人の人生に及ぼすさまざまな作用を、そう呼ぶようである。つまり外部の出来事が、個人の行為や生活に、何らかの形でschicken(按配)されるわけである。英語やフランス語のfortuneもまたそのような意味であるようで、幸運とか、財産の意味になるのである。もっと一般的な運命の語は、fate(fatum)であろう。これはどちらかというと、悪い意味で使われるようで、よい意味ではfatalといわず、fortunateと使うようだ。femme fataleは悪女である。ギリシャ・ローマの古典では、オイディプスの場合のように、fateはたいてい破滅への道を準備する。luckはgood luck とbad luckがあるが、luckyは幸運の意味である。fateとは逆に、幸運のニュアンスが強いのである。
 西洋語では、運命は環境的な事象に重点が置かれているようである。そこで、運命は偶然と近いものになる。おのれの力ではどうにもならないものを、人は偶然(Zufall)と感じるのである。まさに外部から<落ちてくるもの>である。客観的に言って、外部であれ内部であれ、あらゆる事象は必然的である。それを外部的事象を偶然と感じるのは、外部の出来事は、自己自身の内面ほど直接的には知られえないからである。外部の必然と内面の必然とが接触するのが、ここで言う運命なのである。

)偶然を定義すれば、外部の因果の系列と内部の因果の系列とが、直接関係することなく、時間・空間において<たまたま>でくわすこと(coincidence)であるといえよう。素粒子の世界における確率的事象は、また別であるが。

 東洋では<因縁>もしくは<因果>と言う語を使う。原因と結果であるから、事象の因果律、必然性を言いあらわしたものとしてよいだろう。これの巡りあわせを<運>と呼んでおり、文字どおり物事のはこびである。ここから運命や命運の語が生まれ、fateと同じ意味になる。しかし前世信仰のある東洋では、どちらかというと外部環境の巡りあわせよりも、個人の先天的あるいは遺伝的素質の要素に重点が置かれるようである。親や祖先の影響が強いのである。ある家柄に生まれることは、環境的ばかりか、個人的資質の運命となってくる。親の因果が子にめぐるのである。あるいは前世での<宿縁>が、大きくものをいう。運命の語とは、かなりニュアンスのちがう<宿命>の語が使われる。これには運命の語とは違って、善悪の観念がからんでくるのである。幸運の源には善の行い、すなわち善果があり、悪運の源には悪果がある。
 さて外部の必然と内面の必然とが接触するのが、運命であるとしたが、個人の行動や決断において、運命的であると感じる場合、その運命感とはどのようなものであるか。その重心が外部環境に向かうならば、幸運や悪運に応じて、この世界のありようを嘉したり、呪ったりすることであろう。またその重心が自己の内面に向かうならば、自己の素質や能力のあり方に応じて、それがうまく発揮できるか否かによって、高揚感を覚えたり、または自己自身を反省的にせめたりするであろう。自己自身の遺伝的要素が充分であっても、環境的に恵まれなければ不運な人生に終わり、環境的に恵まれても、素質に恵まれなければ、やはり不幸が待っている。この両要素のめぐり合わせが、人生の運命を決定するのである。
 この運命感(運命観ではない)は、だれもが感じるものであろうが、内的であれ、外的であれ、人生には変えることのできない、岩のように強固なものが立ちふさがっているという、ある種の無力感に行きつくであろう。この無力感は、さらに諦観へと達するならば、そこに運命もまたよしという、達観が生まれることであろう。この達観に達したとき、人生とは運命もしくは宿命をやりくりすることにつきる、ということが読めてくるであろう。これがいわば運命の超越である。同時に人生そのものの超越である。
 唯一運命からまぬがれているものがある。そもそも運命の本質とは何であるか。それは生命の本質でもある。生命、生への意志、この世界の本質は、世界意志Welt-Willeである。運命とはショーペンハウアーが言うように、世界意志にあやつられた、この表象世界そのもののあり方なのである。仏教ではそれを<相依そうえ>という。この相依の世界から逃れることは、生命体であるかぎり不可能である。個人の運命であれ、集団の運命であれ、すべての事象は相互依存の関係にあり、一つとして独立した事象はないのである。このことを個人の視点から捉えたものが、運命や宿命にほかならない。この世界全体は、すでに完成された無時間的、無限の構造体であり、個人は一個のはめこまれたピースにすぎないのである。これが運命感の正体である。

)超越的運命性(Der transscendente Fatalismus)と称されている。(cf.Arthur Schopenhauer:Transscendente Spekulation ueber die anscheinende Absichtlichkeit im Schicksale des Einzelnen 個人の運命における意図的な現われについての超越的考察)

 唯一運命からまぬがれているものがあるならば、それは世界意志とは別のものでなければならない。それは三一体の理論によるならば、純粋自我のほかにはない。運命の超越、人生の超越は、もしそれが可能であるならば、純粋自我の目醒めのほかにはないのである。この超越的立場において、はじめて運命もまた善しといえるであろう。
2024年7月26日(金)
人生のユートピア
 青年期において、おのれ自身の人生の先において、どのような生活の理想郷を描くか、それが一生の生き方を導くことになる。ユートピアは、集団や社会の未来像を描くのが普通であるが、また個人がおのれの人生の理想の未来像を描くことも、意味のある人生を生きるための、必要な未来設計なのである。
 社会的ユートピアは、これまで描かれてきたように、集団生活のさまざまな政治的、宗教的イデオロギーの表明であったが、個人が夢想するユートピアは、個人の資質と能力と、それらの環境や境遇との関連において、さまざまなタイプがありうる。一方では知的、芸術的な楽園の夢想であり、他方の端は肉欲的、快楽的、秘密の園である。その階梯、趣味の違いは極端であり、各個人が、自己自身のために夢想するユートピアは、夢想する人の数だけあるといってよい。
 世に文芸や思想として知られるものばかりでなく、無数の知られない、個人個人の理想とする、ユートピアがあるであろう。それらは各個人の独自の生き方なのであり、夢想の生活なのである。ユートピアを実現できるかどうかは、また別の問題であって、その人の資質、能力、境遇、社会環境とのあつれきによって決まるであろう。たいていは、よほど恵まれた境遇や、資産のない限りは、夢想のままに終わるか、ささやかな実現で満足するほかはない。
 いくつか文芸によって知られた例で見てみる。ウィリアム・ベックフォードは、植民地経営によって、大きな資産を得て、みずからのフォントヒルの所領にたくさんの塔を建て、隠遁の生活を送った。小説「ヴァテック」に夢想された生活、さながらの人生であったようだ。極貧生活を送ったエドガー・アラン・ポーは、それにヒントを得て「アルンハイムの地所」という美的夢想のユートピアを描いて、慰めとした。このポーの「ゴードン・ピム」を、館の中でシミュレートして楽しむための、美的デカダンの生活を描いたのは、ユイスマンスの「さかしま」である。知的・美的資質の持主は、これらの例に大いなるインスピレーションを得るであろう。
 個人のユートピアは一歩間違えば、肉欲の乱舞となる。マルキ・ド・サドの「ソドム」はその例であり、江戸川乱歩の「パノラマ島」も、この系譜である。文明国では、それでなくても、性愛は夫婦間でのささやかなユートピアである。
 阿片や飲酒などに耽溺する「人工楽園」は、本来の人生のユートピアとはいえないであろう。酒飲みになることを、人生の理想とする人はいないわけであるから、飲酒家や阿片耽溺者は、むしろ失敗したユートピアンと言えるだろう。ボドレールやド・クィンシーを人生の師とする人は少なかろう。東洋の隠者に酒飲みが多いのも、困りものである。陶淵明も竹林の七賢も、ユートピアにいながら、酒に憂いの発散を求めたのでは、凡俗と違いがない。さらに肉欲とからんで、グルメを人生の目的とする人もあろう。たとえ美味を求めるとはいえ、動物と同じ食だけの一生である。
 ユートピアを自然界に求めたのは、ルソーであり、リチャード・ジェフリーズである。「孤独な散歩者の夢想」「わが心の物語」、さらにギッシングの「ヘンリー・ライクロフト」、ソローの「ウォルデン」などがあげられる。
 科学や思想の探究に、人生のユートピアを求めた例にはことかかないが、これはショーペンハウアーが言うように、エリートにのみ(すなわち知的にすぐれた人間にのみ)許された人生の理想である。科学者の伝記や、哲学者の人生にまねぶとよい。
 変わったところでは、バルザックの「絶対の探究」に描かれた、錬金術に取りつかれた人生、あるいは賭博依存症のドストエフスキーの「ギャンブラー」がある。また一生怪談を書きつづけたレ・ファニュや、ラヴクラフトなどは、あえて心霊的恐怖の世界に暮らすことによって、逆説的なユートピア人生であったといえよう。
 旅することに、移動するユートピアを求める人々もいる。人生のユートピアにも、<定着>型と、<ノーマド(放浪)>型とがあるようである。スティーヴンソンは南洋サモアに、おのれにとって理想のユートピアを見いだしたようである。おなじくゴーギャンは南海の島タヒチに。老年期に、世界旅行をする人の多いのは、見果てぬユートピアを、どこか世界の果てに求めているのであろう。
 自然愛がスポーツと結びつくと、狩猟や魚釣りや冒険が、人生の生きがいとなる。心身の刺激と興奮が、彼らのユートピアの条件である。海や陸や空の秘境への想像や、実際の探険が、日常生活に飽き足らない、ユートピアへの思いをかきたてるのである。へミングウェイの「老人と海」を挙げておく。

 人生のユートピアは、実現することは限りなく難しい。社会生活という障害が、つねに未来をふさいでいるからである。ショーペンハウアーが言うように、家族や生計のための人生と、知的・美的営みのための人生との、二重の人生を生きるのである。社会がおよぼす<生活>の圧力に負けて、たいていの夢想家は条件降伏する。あるいは全面的に<俗物philister,snob>となる。老年期になっても、社会は夢想家を<労働>や<勤労奉仕>へと追い立てるのである。夢想家の唯一のとりえは、心の自由と自由な時間(die freie Musse)との、二重の自由以外にないのである。夢想家はせめて老年期には、断固としておのれのユートピアの片鱗なりとも、実現することをめざすであろう。それが最終的な人生の価値となるのであるから。

 ()いくつかの例を補足する。南仏に画家の楽園を夢みたゴッホは、挫折し、耳を切り自殺した。ヴェルレーヌはランボーを撃ちそこなって監獄に入り、オスカー・ワイルドはホモセクシャルのかどで、同じく監獄に入った。サドの「ソドム」もバスティーユの監獄で書かれたものである。世界を旅してまわったマックス・ダウテンダイは、第一次大戦中に捕虜となり死亡。ほかにも幾多の詩人が、大戦中に戦死し、収容所で殺された。エゴイストのユートピアを夢想したマックス・シュティルナーは、老いて門番の仕事にありつき、シュティルネリアンであった辻潤は、戦時中に餓死した。マルクス主義思想家のアルチュセールは妻を殺したが、精神異常とされた。<生活などは召使にまかせればよい>と豪語したヴィリエ・ド・リラダンは救貧院で一生を終えた。等々々・・・
2024年7月8日(月)
Aphorismen I
1、肉情知意から離れるということは、単に表象世界を消滅させることではない。表象は失われても、本能的、無意識の衝動や欲動はうごめいており、機械的な知のはたらきも続くであろう。意欲は無意識に発動しているであろう。完全な人間離れ(dehumanization)をなしとげるためには、表象や意識の背後にある、あらゆる肉情知意のうごめきを、静止にもたらさねばならない。これをニルヴァーナ(寂滅Verloeschen)と称しているのであろう。物質、宇宙、生命の完全なる静止である。
2、この人間離れの状態は、眠りと似たところがあるが、単なる眠りは一時的休息であり、肉情知意は待機状態にある。さらに深い眠りでは、ほぼ生命の基礎代謝だけの状態におちいるであろうが、やはり完全なる静止からはほど遠い。死のまねびが必要なのである。肉体の死が、ほぼ生命としての活動の完全停止をもたらすが、やはり物質は残るであろう。物質が残れば、生命はまた復活する。たんなる肉体の死は、この世界からの救済をもたらさないのである。肉体の死は、生命あっての死だからである。
3、物質、宇宙、生命を完全に静止させるには、それらのメカニズムの範囲内では不可能なのである。いわばアートマンはブラフマンを超えなければならない。ブラフマンと一致している限りは、いかなる解脱もありえない。アートマンの死は、どのようにして可能であるか。アートマンに死をもたらせば、ブラフマンも滅びるであろう。しかし、アートマンはブラフマンとともに滅びることを願ってはいない。あるいは、願いということが生命的であるならば、アートマンはそれ自体としての存在に、おのずと帰還するであろう。どのようにしてか。
4、意識としてのアートマン(Ego)は、意識としての存在でしかない。意識は肉情知意と密接に結びついており、それらの活動と共に発現する。その限りでの存在でしかない。しかし肉情知意そのものではない。肉情知意は分析可能であり、場合によっては数量化できる。すなわち測定が可能なのである。しかし自我の意識は、単なる意識や感覚の質とは異なり、どのようにしても数量化することは出来ないし、分割も増量もできない。私は私の意識を増やすことも減らすことも出来ないのである。純粋自我とは、このような状態の自我の意識である。
5、純粋自我の存在は、やはり意識としての存在であるが、すなわち自己意識における存在であるが、もし人間離れということがそも可能であるならば、その唯一の可能性の根底であるだろう。もし純粋自我が、その意識としての存在を離れることが可能ならば、それは新たな存在への道を開くであろう。肉体の死は、肉体そのものの消滅であるが、純粋自我の死は、意識としての自我の存在の死であって、自我の本質そのものの死ではないであろう。自我の本質がどのような存在たりうるか、これは神の本質を問うのと同じ困難におちいる。自我としての私は、意識としての私の存在以外には知ることができないからである。
6、私が生まれる前には不可知の闇があった。私が死ぬのちにも、同じ不可知の闇がある。それは私が意識としての存在以外を知らないからである。時間的な表象によって想像された、輪廻転生や、天国や地獄などの死後の世界は、人間的な願望や恐れにすぎない。もっとも恐るべきことは、生まれる前にも、死んだあとにも、何ひとつ知ることのできない絶対の暗黒が広がっているということである。その世界とは交渉どころか、いかなる関係も断たれてしまい、絶対に不可知であるというほかはないのである。
7、究極の人間離れは、たとえ自我の存在が永遠不滅であるとしても、私はその絶対の自我の存在のありようを、絶対に知ることができないということである。それははたして私であり、私の存続なのであるか。そのようなことを問うことも無意味である。私はそこに到達するためには、肉情知意ばかりでなく、意識としての私自身をも離れねばならないからである。私自身不可知者とならねばならないからである。そもそも生命的欲望である、知るということそのものが、棄て去られるからである。

8、人生の究極の価値は、死を目前にしたおのれの状態によって量られる。人生のあらゆる理想、希望、欲望の達成が、どこまでそこに実現されているか、それが人生の真実の価値をあからさまに表わしだす。肉体的、精神的に衰え、欲望や意欲が後退し、日々無為無能に暮しているならば、それが彼の人生のたどりついた最終の価値の姿なのである。
9、財物であれ、富であれ、書物であれ、知識であれ、おのれの周囲に蓄積したあらゆる愛着のある所有物も、死を目前にした人間にとって、なんの価値も与えない。それらは肉体・精神の衰えた老年期においては、たんなる死物である。それらはもはや少しも、私の肉体・精神の役にたたないからである。価値は物にではなく、物を享受する私に属するのである。
10、それならば、名誉や名声や尊敬や他者からの愛情といったものは、どうであるか。それらが私の価値となるであろうか。それらは私自身の価値ではなく、他者が私に対していだく価値なのである。そのような価値は、他者の気まぐれによって、いつでも失われるであろう。人から愛されることや、尊敬されることを願うことは、むしろ私が私自身に価値をおくことができないことを意味する。他者によって与えられた価値が、私の真の価値なのではない。それゆえにVanityと呼ばれるのである。自身に真の価値が見いだせなければ、ひとはせめて他者からの価値付与を求めるのである。
11、とはいえ、私の真の価値は、死を目前にして表われたところの私の価値でしかない。あらゆる理想、希望は、それらの実現と成果は、老年期においてあらわになるのである。そして正直な人間ならば、たいていは絶望におちいる。私とは、結局単なる生き物、動物でしかなかったことを、思い知らされるからである。老いたるトルストイにせよ、陋巷に斃死したポオやネルヴァルにせよ、あるいは痴呆化したニーチェやモーパッサンにせよ、彼らにとっての存在の価値は、人生の過程ではなく、終末において明瞭にあらわれているのである(自殺した芥川の遺稿は「ある阿呆の一生」と題されている)。その意味では、罪人と共に十字架にかけられて、悲惨な最期を遂げたイエスの存在価値も、それだけのものであったのである。周りの者や、後世が、どれだけの付加価値をそこに加えようと、人生そのものの価値は、その人の人生にとどまるのである。

9、義務・責任・権利および自由:義務や責任や権利といった概念は、すべて社会関係もしくは人間関係において成立する相対的概念である。そもそも本来個としての人間には、自由はあっても、義務・責任・権利などというものは具わっていない。義務の反対概念は権利である。責任は義務に伴う概念である。親子の例で考える。親は生殖の行為において、子の存在に直接の関係を持つ。子は存在を願ったわけではなく、親が子の存在そのものを、ある意味強制的に生みだすのである。その点で親は子の存在に、絶対の責任を持つ。その責任を果たすことが義務である。子の立場から言うと、子は親に対して自己の存在の責任を追及できる。すなわち、子は自己を扶養する義務を、親に対して絶対的に要求する自然的権利を有するのである。
10、この義務・責任・権利の関係は、自然界では本能的関係としていとなまれる。動物の親はホルモンによって支配され、せっせと子の扶養に努める。扶養の必要がなくなれば、ホルモンが途絶え、子との扶養関係は自然に解消される。どうじに、親の保護を求める子の自然的権利(本能)も、自立的な自己保存に変わっていく。
11、動物界では、子が自立すれば、親と子の社会関係は失われる。人間界ではどうか。子は老いたる親の面倒を見る義務があるのであろうか。子は親の存在を生み出したわけではない。すなわち親の存在に対する責任は一切ないのである。責任のないところには義務はない。また親は、子に対して扶養を求めるいかなる権利をも有していないのである。子を育てるということは、親の義務であり、責任を果たすことであり、その段階で清算されており、その見返りを求めることは出来ない。もし子が親の面倒を見るならば、それは子の義務ではなく、ましてや親の権利でもなく、たんなる愛情もしくは愛着の関係である。
12、世の中の妄想の中で際だったものの一つである、労働もしくは勤労の義務についてはどうであろうか。この根拠は、個の存在が社会の恩恵によって成り立っているとする、集団もしくは国家の優位の観念である。個の存在は、はたして集団ないし国家に対して、その存在もしくは存続に、何らかの影響を及ぼしているのであろうか。すなわち個の及ぼす影響に対して、責任を果たさねばならないのであるか。責任のないところには義務はない。もし社会が個の存在に恩恵を与えるとしても、それはむしろ社会の側の義務に属することであり、個は社会に対して個の存在を保障する権利を要求できるであろう。個は好きこのんで、親のもとに、社会のもとに生まれたのではないからである。親と同様、社会もまた、個に対して義務と責任を持つのである。
13、労働は義務ではなく、個の生存のための、やむを得ざるいとなみである。すなわち労働は、自然界での食糧確保と同様の、生命体としての人間の必然なのである。必然であるからには、必要な範囲で働けばよい。あえて勤労する必要はないのである。個体としての人は、親を扶養する義務がないのと同様、集団や国家を養うための勤労の義務などはないのである。
14、結局、個としての人間にとってもっとも大事なのは、個に自然的に具わった権利であるということになる。生まれてきてしまった以上、おのれを存続させる努力がすべてなのである。自己自身の存在に対しては、なんの責任も義務もない。あえて義務を問うならば、自然が与えた自己保存の本能に対する義務である。それは親のためでも国家のためでもない。そうした集団的義務ではなく、もっぱら個の存続に対する義務であり、責任である。それは同時に生命体としての個の必然でもあるからだ。この必然の名において、個体は社会や国家から自由でありうる。必然の名において、個は権利を主張できるのである。

14、実際の人間の行為において、義務や責任や権利の概念によって動かされることはまれであるといってよかろう。たいていの人間関係における行為は、愛情や好悪といった感情が基準となっているのである。個としての存在には、もとより義務や責任が具わっているわけではなく、動物界に普遍的に見られるように、個と個の関係は、個体の利害にもとづく依存心または愛着が、本能として(すなわちホルモンや神経物質の働きとして)機能している。人間の個体間の関係においても例外ではない。人間関係の基本は、愛されるか愛されないかに尽きるといってもよいのである。
15、愛されない子供は、育児放棄される。感情の前には、義務も責任もないのである。愛されない親は、いずれ年老いて、子らから虐待される。親は子によって、死なされるのである。かといって、子は親から愛される権利を持つわけではなく、子は親を愛する義務を持つわけではない。愛憎は、権利とも義務とも無関係である。そこには利害以外はからんでいないのである。
16、人を愛すれば、あるいは人に愛着を持てば、なんらかの権利を有しているかの錯覚に陥りがちである。いかに人を愛そうと、それによって他者に対する権利も義務も責任も生じるわけではない。親が悲しむことは、子にとっては単に感情の問題であって、親に対する義務や責任が生じるわけではない。場合によっては、子にとっての大いなる迷惑なのである。それに応えるのは、愛情という不条理な衝動以外にないのである。
17、同じことはすべての人間関係についていえる。友情は、基本的に相互の感情的な利害関係であって、そのきずなが愛着ないし依存心であるにすぎない。なんらかの負い目、すなわち権利と義務の関係にない限り、friendshipがもっともあとくされのない人間関係である。男女の関係は性的な相互利用を別として、長くつづくには、単なる愛欲ではなく、このfriendshipが必要なのである。
18、感情は、単なる義務や責任や権利といった概念と違って、共感を引き起こしやすい心的状態であるから、人間関係で苦しまないためには、感情の整理が必要である。場合によっては自己放棄に近い、他者に対する配慮が必要なのである。それを一般に愛情と呼んでいる。愛情は相互的であって、その確信がもてないときは、友情関係はいずれ破綻する。個としての人間は奴隷でも、主人でもない。その認識を共有できてこその友情である。そして互いの存在をいつくしむ心によって(一方的な愛着ではない)、おのずと相互扶助も生まれる。
2024年6月26日(水)
陸奥alone
 (上、左、藤原の郷、右、高舘北上川)

 六月の中旬、思いたって陸奥(みちのく)の旅に出た。岩手県までいくことにした。
 東北本線の水沢駅でおり、昔から気になっていた緯度観測所を訪ねてみた。今は観測所のほかに電波天文台となっており、木村栄(ひさし)記念館がある。国際的な緯度変化の観測において、Z項を発見し、日本の近代天文学の嚆矢となった人物である。そもそもZ項が何であるかをよく知らなかったが、詳しい解説で、実に微妙な観測をして、発見に至ったものであることが分かる。科学者は、日夜地道な観測や観察に明け暮れて、生涯悔いることがないのであり、その努力の結果、幸運な発見者となるのである。

  

 翌日は、駅前から出るバスに乗って、奥州藤原の郷を目指す。バスセンターまでしか行かないので、そこからは一キロほどを川沿いの遊歩道を歩いていく。バスでいく人も、まして歩いていく人も、まずないので、天気も、気持も晴れやかな一人旅である。藤原の郷は、もともとNHKの大河ドラマのセットとして造られたもので、それをそのまま保存して観光地としたものである。今放映中の、紫式部を主人公にしたドラマでも使われている。平安時代の寝殿造りが、実際どんなものか、興味を引かれ、わざわざ奥州市まで来たのである。

  

  

 えさし郷土文化館がとなりにあって、奥州の面白い風習を知ることができた。農村のまつりでは、性風俗もおおらかであったようで、ワラ人形にそれがあらわれている。

  

 さらに翌日は、平泉の観光にあてた。平日なので、観光地らしい瀟洒な通りも、ほぼ独占状態である。平泉は遺跡の町であるから、跡地や池やをめぐることになる。高舘(たかだち)では、北上川の眺めと義経堂とが、平泉に来たという思いにさせる。
   堂前に 黒蝶のまう 今ここ
   鴉さわぐ 崖うえ 夢の跡
 北上川は、関東で言えば荒川ほどの大河であろう。荒川にはしかし、このような雄大な眺めはない。義経堂の隣の資料館には奇妙な仁王像がある。

   

   
 (上、左は無量光院跡、その他は高舘)
 高舘の義経堂には、ほとんど参る人がいなかったが、中尊寺の参道は、平日でもたくさんの観光客であふれている。巨大な杉並木に圧倒される。寺や金色堂は山を登ったところにある。上野の博物館で、仏像は見ているが、あらためて堂の中で、いあわせた修学旅行の中学生と、解説つきで観覧する。平泉の都振りである薪能の舞台がある。

  

 中尊寺から下って、途中の文化遺産センターにたちより、金鶏山にのぼる。ふもとの登り口には、義経と運命を共にした、妻子のささやかな墓がある。標高200メートルほどの山頂には、祠以外何もなく、見晴らしもない。

  

 毛越寺(もうつうじ)へゆく。途中、観自在王院跡という広い池による。毛越寺という寺の名の由来は、開基の慈覚大師が、白鹿の毛に導かれ堂宇を建てたという伝説に基づいている。かつての伽藍の名残りはほとんど失せて、池をめぐる庭園のみが残されている。

  

  

 
 (上、左は観自在王院跡、その他は毛越寺)
 平泉は、めぼしいところを全部めぐると、5,6キロ歩くことになる。ふだんのウォーキングが3,4キロであるから、かなりハードな一日であった。
2024年6月25日(火)
自己保存と死
 生命体の自己保存は死でもって終わり、個体の遺伝子geneを残すことによって、種の保存・存続にバトンタッチされるというのが、普通の考えである。自我の自己保存は、はたして死でもって終わるのかどうか、あらためて検討する。
 1.モナドロジーの見地から――モナドは無慮無数存在し、各モナドは一つの統一的、全体的な表象世界を形成する。モナドの中核をなすのはEgoであり、それは身体的個体として、表象世界の中心をなす。一個のモナドは全宇宙の表象もしくは表象可能性であるから、もしモナドが滅びるならば、全宇宙も滅びる。しかしモナド自体は永遠不滅であり、表象世界で生命体としての身体が滅びたとしても、宇宙全体は存続しつづける。単なる生命体においては、自己保存は同時に個体保存であるが、モナドにおける自己保存とは、個体保存ではなく、モナド自体の存続なのである。したがって、私という身体が死によって消滅しても、身体の属していた表象世界は永遠不滅なのである。
 この表象世界を作りあげている中核はなんなのであるか。それが私のEgoであることは言うまでもない。モナドが不滅である限り、表象世界を発現させる原動力conatusであるEgoもまた不滅なのである。モナドとモナドの間には、なんらかの理由によって<予定調和>がはたらく。私の身体がモナドの表象世界において滅びても、他のモナドにおいて、私の身体およびその行状の<記憶>としてとどまるであろう。その記憶は私のモナドにおいても予定調和によって反映されるであろう。すなわち身体はなくても、記憶は残るのである。身体を欠いた私のモナドにおいても、私の記憶は存在しつづける。どのようにしてか。
 モナドの中核はEgoであるから、私の身体を欠いた表象世界においても、他のすべてのモナドのEgoが予定調和によって反映されることにより、私の記憶を維持しつづけるのである。それがいわゆるアカシック・レコードである。記憶は全宇宙に普遍的なのである。それは一個のモナドにおいても、すべてのモナドにおいても同様である。じつはすべてのモナドに共通した、唯一の普遍的なEgoというものを考えてもよいだろう。古代人はそれを一者ト・ヘンと呼んだ。このDas Eineが、あらゆるモナドの根底にあり、 モナドの不滅性と予定調和の根拠となっている。そしてそれは私のEgoの不滅性でもある。
 2.純粋な自我論の見地から――全宇宙は私の表象世界である。私は奇妙なことに、私の表象世界に、一個の身体として発現する。ものの中の一個のものでしかないのである。ものとしての私は、物の原理に従って生成消滅する。しかし私の自我の意識は、物としての身体に付着し、身体と共に喜び苦しみながらも、身体そのものではない。わたしがわたしであることは、私が何らかの<もの>であるということではないのである。ものならば私は私を理解できるであろう。しかし私は私の存在を知るだけで、それがなんであるかを知らない。私は私であるほかはないのであり、それを理解しようとすれば、困惑と不可解な思いに包まれるだけである。ものでない私は、それが理解できないばかりでなく、ものと共に生成消滅することもないであろう。私はものによって私を知るのではないからである。
 ものは保存しなければ滅びるであろう。しかし私は私を保存する必要はない。私は意識するかぎり、つねにそこにあるからであり、必要ならばつねに私を知ることができるからである。不変不滅の私がそこにある。私がもし身体を失ったとしても、同時に私自身を失うのであろうか。手を失い、脚を失い、心臓を失い、脳を失った時に、ものでない私自身も失われるのであろうか。たしかに、脳を失えば、例えば気絶するような時に、私はどこに存在しているのであるか。私の意識はものに付帯して起こることはたしかである。付帯して起こることは、必ずしもそれに付属することではないであろう。確かに電子が流れると磁気現象が起こる。磁気は電子の流れと同じものであるだろう。電子が空間に影響することによって磁気が生じる。私の意識も同じような現象なのだろうか。
 私の意識がものによって触発されることはたしかである。ものと私は共扼関係にある。しかし私はものと共にあらわれても。ものを現わしだすのは、あるいはものと私の関係を現わしだすのは、私である。それは私のものに対するPrimatであるといえる。私がなければ、ものはないのである。あるいはものと私の関係はないのである。Kein Objekt ohne Subjekt. 現わしだされたものよりも、現わしだすものが根源的であると考えてよいであろう。根源的なものは、派生的なものが滅びても、同時に滅びることはないであろう。少なくとも可能態として存続しつづけるであろう。ものから分離した純粋自我が、なんらかの仕方で根源的に自己保存することは、十分にありうることである。このことから、俗信において輪廻転生の考えが生じてくるのであろう。しかし純粋自我は、再生ではなく<解脱>にむかうのである。もはやものと共に現われない私に還るのである。

 モナドロジーにおいても純粋自我論においても、帰結するところは、自我の永遠不滅性である。私の身体は死によって滅びても、私の根源である自我の中核は、永遠に保存されるのである。モナドロジーにおいては、それは予定調和による記憶の永遠でもある。純粋自我論においては、全宇宙の消滅と自我の解脱に帰着する。一者に帰還するならば、モナドロジーであれ、自我論であれ、根源における<無差別Indifferenz>へとリセットされるはずである。それが宇宙の究極の死としての<解脱>であり<自己救済>なのである。
2024年6月21日(金)
自己保存について(その2)
 ここで言う自己保存(selfpreservation, Selbsterhaltung)は、集団や類のそれに及ぶものではなく、もっぱら自我(Ego)すなわち個体の自己保存を言うものとする。たしかに種の存続・保存ということは、個体の自己保存すなわち個体の遺伝子(gene)の確保があっての上でのことであるが、個体が自己のgeneを存続させるということは、個体のなかの<類的意志>に関与することであって、個体プロパーの問題ではないであろう。個体そのものは類的意志の産物であって、その限りでは個体の保存は類の保存でもあるが、人間において発達した自我においては、個体保存はまた特別の意味と意義を持つのである。
 このことは子供を作るか作らないか、子孫を残すかどうかの選択が、個人の意志に委ねられていることでも明らかである。その場合でも、子供を作る選択が、人類の存続や人口問題などとは無関係におこなわれる場合が多いことからも、自己保存が必ずしも類の存続に向かわないことがわかる。子供を作るかどうかの選択は、たいていの場合、個人の生活上の利害なのである。あるいはペットを飼う場合と同様に、単に子供を育てることに伴う<喜び>に惹かれるのである。もちろんそこにはオキシトシンという飼育・養育本能をつかさどる物質が働いており、その限りでは類的意志に左右されているのであるが、それを代理的にペットで満たすことも可能なのである。

)動物の巣立ちに当たって、親の側にこのオキシトシンが途絶えることがきっかけになっていよう。巣に残った子にたいして、親は極端に残酷になりうるからである。

 純粋な個体保存は、すべてエゴの利害に結びつく行動原理である。基本は欲求の充足に伴う快を求め、おのれに害すなわち苦をもたらすものや状況を回避することである。前者にはドーパミン、後者にはアドレナリンといったような神経物質あるいはホルモンが関係している。個体の生理的システムが、個体の自己保存のありかたを決めている。その際、これらの物質は類的行動の誘発にもかかわるので、個体のための行動が、結果的に種のために貢献しているということも起こりうる。生命体である限り、この二元性をまぬがれることは出来ないが、類的意志に対抗するためには、自己自身に向かう傾向を強化することが、個体の自由と独立性、自律性につながるのである。
 個体としての人間とは、肉情知意につきるのであるから、自我の自己保存もまた、それらにもとづいた自己中心の行動のあり方である。肉体は、その欲求は過度に陥りがちであるから、快の結果として害や苦をもたらすことが多い。肉体を苦しめたり、損ったりするような快の追及は避けるべきである。肉体は決してさげすむものではなく、その生命体としてのすぐれた物理・化学的、生理的働きをよく知り、大事に扱い、清潔と健康を保つべきである。これが個体のあらゆる自己保存の基本となる。
 心情もしくは情念は、その快苦がドーパミンという報酬をもたらす物質によって左右されている。心臓や肺腑のような臓器が、感覚的に心情の場となっていることによって、<魂>もしくは<こころ>と呼ばれる独特の快苦の感覚をもたらす。喜びや苦しみは、単なる肉体の直接的快苦とは異なり、ある種の実体的な存在感を与える。魂を物質と並ぶ実体と考えるのは、この心情の独特の質感、自己充実感によるものであろう。もしもこの実体感、自己充実感がなければ、Egoというものは存在しない、あるいは少なくとも感じられないのかもしれない。自我の中心は、確かに情念なのである。自己を保存するということは、もっともおのれらしい情念を保存するということなのである。それゆえに、おのれを変えることがむずかしいのは、この情念への執着が強烈であり、おのれを失うことを恐れるからである。自己保存においては、おのれが心情において変化しうるということを、忘れてはならない。情念への余りの執着は、かえって苦をもたらすからである。
 情念はその積極的な楽の追求よりも、ネガティヴな苦の状態のほうが普通である。このことが、実存の根源的あり方を、不安としたり、配慮としたりすることの根拠となっている。ひとつには生命体の生存競争が、捕食されることからの回避を基本としており、またひとつには、肉体の欲求はつねに欠乏からなり、苦そのものを原動力としているからである。しかしこの事は動物界一般に見られる傾向であり、人間特有のものではない。巣づくりする鳥は、つねに警戒心をおこたらない。ヒナ鳥は侵入者に対して、本能的に反撃の様子をする。人間の赤子も親以外には同じような反応をするであろう。人間特有のネガティヴな情念は、人間社会によって作られる。人間社会では、不安、怒り、嫉妬、高慢、卑屈、悲しみ、恨み、落胆、幻滅、恐怖、絶望などといった、さまざまな形容の苦の情念が満ち満ちている。実は、人間にとっての苦の大半は、人間自身が作りあげている心情の苦なのである。この心情の苦のストレスは、肉体の苦以上に人間を苦しめることになる。肉体の快の過度の追求、飲酒や喫煙への惑溺などは、実はこの心情の苦がもたらす悪癖なのである。それらによっても耐えられなくなれば、心情の苦は人間社会内での個体のアポトーシスをもたらすであろう。
 幸福とは基本的に苦の量よりも快の量が増すことであるが、快の量を増やそうとすれば、てきめん苦に転じてしまうことが起こる。快をくりかえせば、退屈や疲労にとってかわられる。快苦とは、基本的に苦の上に成立しているのである。苦労して得た快楽や喜びも、結局は苦の量に比例してはいないのである。それゆえに、古代の賢者は快も苦もない状態アタラクシアを幸福の状態とした。幸福とは求めるものではなく、快と苦のバランスが自然と取れた状態、それは苦が圧倒する生命体のあり方においては、そう頻繁に起こることではないが、それを待つほかはない。
 知は上のような事情にある肉と情に対して、ある種の優位感をいだく。肉の快苦や情の快苦は、ほぼ盲目的であるが、それを皮肉な目で知は眺めるのである。しかし、知はそれが何らかの快を伴うならば、それはドーパミンによって心情にもたらされるのであって、知独自の快というものはないといってよかろう。笑いは知の働きであるが、笑いに伴う快は、心情そのものである。肉体や情念に皮肉の目を向けながら、その快の報酬を情念において得ているのである。知はおごってはならない。知はむしろ、肉体と情念に、よりよいアドヴァイスを与え、盲目的なものに見通しをあたえるべき働きである。それによって、個体の全体的利益、個の生命体としての保存を促進するのである。自己保存のプログラムを立てる役割は、知に委ねられているのであり、その報酬として、知は情念からの快感と信頼を得るのである。
 肉と情と知との全体的統合の上に、個体の意志決定すなわち行為の決断がなされる。その際、個体の利害が最優先されるように、肉情知の調和がなされねばならない。行為の範囲は、自己の身体の内部から、身体をとりまく環境、社会、国家、人類、宇宙まで、あらゆる自己の交渉可能な領域に及ぶ。自己保存とは、この全宇宙における自我の保存なのである。もちろんパスカルの言うように、一個の人間はこの宇宙において取るに足らない存在である。しかし、自我の存在において、この宇宙において唯一無二の存在であり、それの自己保存こそが、自我にとっての唯一の価値なのである。そして最終的に、自我の自己保存の究極の課題である、<死>に直面することになる。死において何が滅び、なにが滅びないか、滅ぼすべきものは滅ぼし、真に価値あるものを、残せるなら残す、究極の自己保存がそこで問われるであろう。それまでは、肉情知意とつきあうほかはないのである。
2024年6月11日(火)
快苦の彼岸――人間離れについて
 アナクサゴラスによれば、感覚は対立する、異質なものの結びつきによって生じる。どのような感覚も、本来は異質なもののせめぎ合いなのである。それ故に、強い光は眼に苦痛を与え、温かさや、音も、度を越すと苦痛にかわる。感覚は極まると反対物に転ずるのである。
 このことをさらに根本的に考えるならば、本来感覚というものは、たとえ快感であっても、苦の状態なのではないか。苦の刺激があるから感覚が生じ、意識が生じ、考えが生じ、意志が生じる。苦の状態を快と感じるのは、ある種の錯覚であって、苦がつぎつぎと連続することによって、相対的にある状態が、比較的苦が少なく感じられ、それが快と感じられ、意識されるのであろう。
 そうであるならば、人が快楽を求めようと、禁欲すなわち苦を甘んじてうけようと、根本は苦に翻弄されていることであって、特に異なった生き方ではないことになろう。快があれば苦があり、苦があれば、それはいつしか快に転じてしまうであろう。生命体である人間は、快苦すなわち感覚のレベルにとどまっている限りは、そのサイクルから決して逃れることができない。
 身体的存在としての人間の可能性は、肉と情と知と意につきるのであるが、それらの働きの根本は、感覚の快苦のうえに成立している。肉情知意が、人間のすべてであるならば、その存在の本質は〈苦〉以外のなにものでもないわけである。もし快苦を超えようと思うならば、当然ながら感覚を超えなければならない。しかし、感覚の快苦にもとづかない、どのような可能性が、人間の中にあるだろうか。
 霊魂とか精神とかいったものを、だれもが口にするであろう。しかし感覚のない霊魂や精神とは、いったい空言以外のなにものであろうか。心情とか<こころ>といったものを唱える人もあろう。しかし<感じる>ことのない心とは何であるのか。一切の感情や情念を排し、感覚的な何ものをも排除するならば、人の中にはなにが残るであろう。もし残るものがあれば、それが快苦を超越する足がかりとなるであろう。
 理性や思惟は、一見感覚とは無縁に思われるが、感覚のない思惟や理性は、単なるからっぽの箱なのである。そもそも意欲そのものがなければ、思惟も理性も働かない。意欲とは、感情の大本であり、感覚そのものにほかならない。知情意はすべて感覚の手のひらに踊らされている。
 感覚の根本的否定は、人間というものを根本から否定することである。いわば<人間離れ>しなければ、快苦の超越などは、とてもおぼつかない。この人間離れとは何であるか。人間の中には、人間でないものになる可能性がひそんでいるのであるか。宗教でいう霊性や法悦や神聖などというものは、きわめて人間的現象に思われる。そもそも神や仏という他在に依存することが、すでに人間の、あるいは生命体の、特質であるから。そのような〈感じられる〉神や仏は、少しも感覚を超越してはいない。
 たぶん、人間離れのもっとも端的な例は、死に面した時の無感動であろう。人間でないものになる、もっとも物質的な現象が死であるからだ。死を悲しみ、恐れることも、また宗教者のように喜ぶこともない。ただ生命体としてのおのれの否定であるものを、あるがままに受け入れる。この覚悟ができれば、もっとも人間離れした生き方ができるであろう。宗教者とは別の意味で〈死にながら生きる〉ということが、感覚の快苦を超越する、一つのメソッドであろう。
 死はさまざまな感情や記憶や想念が錯綜する事態であるから、そう簡単には人間離れした態度で臨むことはできないであろう。日常において感覚は、快と苦という比較的明瞭な領域に分かれている。この分離が、感覚への執着と忌避という、絶えざるサイクルへと落としこむのである。感覚そのものに無感動になるには、まずこの区別を排除することである。感覚は苦でも快でもない。いわば単なる身体の<状態>にすぎない。惹かれることもなく、忌避することもない。いわば生命体として、まったくの<無能>になることである。この感覚の<純粋直観>が可能であるならば、色即是空、空即是色の状態が実現できるであろう。これもまた一種の人間離れであるが、言ってみれば精神分裂(統合失調)の状態に身をおくことである。
 感じることも、考えることも、意欲することもない。この状態は生命の全否定であって、なおも存在が持続するとするならば、それはもはや生命体ではないであろう。死とどのような点で異なるのであろうか。単なる物質としての存在であろうか。しかし、物質は生命の源であって、有機体のような感覚を生みだす存在ではないとしても、力動的な反応の世界である。みずからを物質化することは、その点で生命にとって有利ですらあるだろう。単なる物質であるAIが、生命をシミュレートできるのも、物質と生命の密接なつながりがあるからである。
 たぶん生命を全否定するという発想、企てそのものが、実は生命から発しているのかもしれない。生命の中には自己否定、あるいは自己救済のモメントがあるのである。有機的生命という不安定な物質状態を余儀なくされている生命体は、つねに物質的に安定した状態に帰ろうとする、内的衝動を孕んでいるのであろう。それが人間の意識において、ひそかな死の願望となって発現するのであるかもしれない。生命体にとってもっとも不安定な要素は感覚であるから、感覚の否定が、生命体の自己救済へのきっかけとなるのである。その象徴的なあり方が、〈眠り〉なのであろう。眠りは少なくとも外界からの感覚をすべて遮断することであるから。
 眠りの中の現象である夢は、感覚を内面の心情の世界に閉じこめる。いわば感覚の心情化である。この点、音楽や歌なども、感覚を内面化する。内面化された感覚は、やはり快苦の原則を離れないばかりか、むしろ強化しさえする。夢や音楽は、快苦を誇張し、増幅させるのである。感覚は内面化されたために、いっそう快苦に浸ることになるのである。夢はそれを無意識になすが、音楽はそれを意図的になすことによって、生命の躍動に貢献するのである。夢のない眠りは、死に近いのである。
 死は願うものでも欲するものでもない。願いや欲求は、心情のなせる業であり、生きることにつながるのである。願わず、欲せず、生の営みを停止させることで、おのずと死をもたらすのが、生命すなわち感覚の快苦を自然と超越することになる。いわば成仏を願わない〈生き仏〉である。ひょっとして、動物たちは捕食されるのでない限り、このような死に方をしているのであるかもしれない。死に逆らうことがないのである。人間だけが、最後まであくせくと感覚の快苦の中にのたうち、悩み苦しみ、死んでいくのかもしれない。 
2024年6月8日(土)
Anaxagorasの宇宙観
 アナクサゴラス(BC500頃-BC428/427)は、アテネにイオニア哲学、あるいは哲学そのものを伝えた最初の哲学者であるとされる。太陽は燃える岩からなっており、月は土の塊であると説いたことなどから、トク神の罪で告発され、罰金を課せられて、アテネから追放された。イオニアの自然哲学者の面目躍如たる、受難である。自然研究に没頭し、財産や祖国に無関心なのを人にとがめられて、天を指さし「わが祖国ほど心にかかるものはない」と答えたという。
 アナクサゴラスの物質観は、ターレス以来の四元素と、パルメニデスの存在論を統合したものとされる。Urstoff(根源物質)としての存在がある。それは物質的存在者であるかぎり、無限に分割可能である。どのように小さなものでも、さらに分割していくことができる。有るものはあり、無いということはないのである。最小から最大に至るまで、宇宙は無限に広がっている。
 このUrstoffは無数の一様均等(gleichmaessig)な部分の混交からなり、それ自体は静止している。この均衡状態にある<カオス>に、最初の運動を与えるものが、唯一他のものとの混合不可能な、独立した存在者としてのnous(VernunftもしくはGeist)である。このfirst moverである理性もしくは精神の働きによって、一様な部分からなるUrstoffの中に渦巻や回転運動が起こり、分離、分化(differentiation、Aussonderung)が生じてくる。それらの分離した部分が、さまざまに混合(Mischung)されることによって、この世界の事物が生じるとされる。その際、各部分は、他のすべての部分を含むものとされる。いわばライプニッツのモナドと同様に、一つの部分には、宇宙のすべての部分が含まれるのである。雪は白いと同時に黒いのであり、精液の中には、すでに骨も髪も含まれているのである。
 物にさまざまな違いがあることは、どの部分が優勢であるかという、混合の割合によって生じる。それは全体においても、部分においてもいえることであり、ある部分は、他のあらゆる部分を含むのであるから、優勢な部分が、その部分の特徴となるわけである。
 生じるということは、部分が混合されることであり、消滅は部分が分離することである。有るものは、決して無になる事はないのである。物質もしくはエネルギーの保存則がそこにある。宇宙は無から生じることはない。始源において、有るものが分離し、混合することが、この宇宙、物質界のあり方なのである。ただ物質そのものだけでは、永遠の静止状態から動くことが出来ない。もう一つの原理が必要であるとされる。それがアリストテレスの称賛する、理性もしくは精神である。人間精神が身体を動かすように、宇宙にも理性が必要であると考えられたのである。
 今日の自然科学による宇宙観からみても、アナクサゴラスの宇宙観、物質観は、ある種新鮮な興味を覚えさせる。ビッグバン宇宙論は、ある均質な物質あるいはエネルギー状態から、インフレーションやビッグバンをへて、あらゆる素粒子が創造されたとする。それ以前の、宇宙の初発点は、物理的に解明不可能な特異点であるとされる。無からの創造などということが主張されたりする。サイクリック宇宙論では、それを回避しているので、古代の自然哲学の原理にもどったといえる。無数の宇宙の存在の可能性を考える、マルチユニヴァースは、無限の観念の適用であるといえる。アナクサゴラスも、宇宙は、最大から最小にいたるまで、無限に分割できると説いているのである。たしかに、アナクサゴラスの時代には、地球は平坦な円盤であり、地上の物質は四元素からなり、天はエーテルからなっていたが、彼の科学的想像力の産物は、哲学的思弁の力を借りて、今日でも興味深い説となっていよう。

 ()<部分>がなにを意味するかは、解釈が難しい。原子論が同等の粒子を仮定するのに対して、質的に異なった粒子と考えるならば、始原においては、質的に異なった無慮無数の個物が、質的・量的に大小無限の領域において、一様に混交していたと考えられる。いわば未分化な宇宙の根源状態である。等しいものからは、なにものも生じない。異なったものが結合することによって、万物が生じ、分離することによって消滅する。この過程を、未分化な根源状態において発現させるには、根源物質がまず、異なったもの同士の、ある種の均衡を保った混交状態であると考えるほかはないであろう。ヌースはこの過程に刺激を与えるきっかけに過ぎないのである。このようにみなした、質的に異なった粒子を、万物の生成消滅の〈種子〉としてよいであろう。しかも各部分(種子)は、他のすべての部分をうちに含むのである。Windelbandは、この種子を現代化学でいうエレメント(元素)にたとえているが、古代の思想家の妙味は、現代科学とは異なった発想にあるであろう。

 *   *   *

参照

21、アナクサゴラスは、一つの混合物から、等しい部分からなる無限の数の構成物が分離され、どの物にもすべてが含まれており、個物の性質は優勢なものによって定まる、という見解であることは、彼の〈自然学〉の冒頭に述べられている。
 <すべての事物は、数においても、小ささにおいても限りないものとして、一様に、ともに存在していた。と言うのは、小さいものも限りなく小さくあり、それらがすべて一様に、ともにある間は、その中では、この小ささによって、何ものもはっきりとは認識されないのである。そして空気とエーテルが、どちらも限りなく大きいものであるが、万物を覆っていた。事物全体の中で、これらは数においても、広がりにおいても、最大のものである。
 さらに空気とエーテルは、それらのまわりをとり囲んでいる、多様なものから分離される。このまわりを取り囲むものも、数において限りない。>
 ――シムプリキオス

18、ほかの者たちは、対立物を一者の中に含まれるものとし、アナクシマンドロスが定式化したように、<切り離すことによって、分離させる>。また根源的実体である一者が、一であると同時に多であると主張する者たち、エムペドクレスとアナクサゴラスも同様である。この二者もまた、混合物からの分離によって、ほかのものを発生させる。彼らが異なる点は、エムペドクレスが、これらの発生物の周期を定めるのに対して、アナクサゴラスは、このことがただ一度起こるとし、無限数の構成要素、すなわち同じ部分からなる構成物とか、対立物について語っていることである。エムペドクレスは、単にふつうの四元素について語っているに過ぎない。
 アナクサゴラスが、この無限の構成要素の仮定にたどり着いたのは、次のことによるものと思われる。彼は前提として、すべての自然哲学者が確信していた、存在しないものからは、なにものも生じない、ということが、正しいはずであるとした。(この見解からは、さまざまな命題の共通の根拠が生じる。たとえば<すべてが一様に、ともにあった>とか<かくかくの生成は、自己変化である>とか、異なったものの集合と分離の概念に対して、根拠となるのである。)
 今ひとつの理由は、対立物は相互に発生する、という仮定によるものである。従って、対立物はすでに始めから存在していたことになる。生成するものは、必然的に存在するものからか、または存在しないものからか、発生しなければならず、このふたつの可能性において、存在しないものからの発生が排除されるならば(すべての自然哲学者は、こぞってこの確信をいだく)、彼らは当然ながら、残った可能性に従わざるをえず、生成は存在するものから、およびその中に含まれるものから、それらが小さな容積しかもたないために、知覚することができないとしても、起こるのであるとする結論にいたったのである。
 もちろん事物は異なったものとして現象し、それ故に互いに異なった名称で呼ばれるのであるが、それは無限数の構成要素の混合において、量的にもっとも勝るものが、考慮されるからである。全体として完全に白いものも、黒いものも存在しない。あるいは完全に甘いものも、完全に肉や骨であるものも、存在しない。事物の本来的規定として現われるものは、真実においては、各個物がもっとも多く持つものに過ぎないのである。
 ――アリストテレス

23.「自然学」の第一部で、アナクサゴラスは生成消滅について、明瞭かつ判然と、<別個のものが混じりあい離散するAus-Gesondertem-Zusammentreten und Sichtrenen>ことであるとしている。彼は次のように書いている。「ギリシャ人は生成消滅について、正しい見解を持っていない。なぜなら、なにものも生じたり、消滅したりしないからであり、そうではなく、存在するものから、何かが混じりあって共に現われ、ふたたび離れるのである。それ故に、生成は共に混じりあうこと、消滅は互いに離れることとすべきである。」こうしたことすべては、・・・なにものも、無いものからは生じず、生じるものは、有るものから生じる、ということの根拠とされる。
――シムプリキオス

24.アナクサゴラスは言う。「万物は、均等一様に存在し、数においても、小ささにおいても無限であった。」・・・この全体の集合は、おそらくパルメニデスの唯一の存在者であろう。・・・
 「もしそのようであるならば、次のことを認めねばならない。別個のものが混じりあったものから、できたもののすべての中には、多様なもの、あらゆる種類のものが含まれており、すなわち万物の種子σπερματαがあって、そのものはあらゆる形態、あらゆる色や味または香りをもつのである。また次のことを認めねばならない。人間は、ほかの霊魂をもつ動物と同様に、部分が密接に結合されて出来ているのである。また、人間には共に集って暮す都市があり、我々の場合、よく耕された畑もあり、太陽も月も星ぼしもあり、大地は多種多様なものを生育させ、われわれは、役立つものを住まいに運んで利用するのである。
 したがって、私が分離について述べたことは、我々の場合にのみ分離が起こったのではなく、ほかの場所でも起こったのである。しかし、これらの物事が分離される前には、万物は一様均等に共にあったのであるから、たった一つの色でさえ、明瞭には認識されえなかった。このことは、万物が、湿潤と乾燥、暖と寒、明と暗が、混じりあうことをたえず妨げた。そしてまた、そのなかには多種多様な大地と、数において無限の種子があり、それらはたがいにどのような(質的な)点においても似ていなかった。一つは他のものと、どのような点においても似ていない。」
――シムプリキオス

48.大地は平らで広がった形をしており、その広がりのおかげで、また空虚というものはなく、空気が特別な力でもって、その上にのせた大地を支えているので、浮かんだままにとどまっている。地上の湿潤から、海や、地中の水や、海に流れこむ河川が生じる。・・・太陽と月とすべての星ぼしは、燃える岩の塊であり、エーテルの回転によって、ともに回転運動をする。恒星天の下の領域には、われわれの目には見えない物体が存在し、太陽と月と共に回転する。星の熱は、大地がずっと下にあるので、感じられない。おまけに、星ぼしはより寒い場所にあるので、太陽ほどは熱くないのである。月は太陽より下にあり、われわれにより近い。太陽は大きさにおいて、ペロポネソス半島をしのぐ。月はみずから光を発せず、太陽から照明を受けている。天体は大地の下をくぐって回転する。月食は、大地が月と太陽の間にくるときに起こり、また月の下にある物体が同様な場合に起こる。日食は、月が間にある、新月の時に起こる。太陽や月が[南北に]回帰することは、これらの天体が空気によって突き動かされることによって起こる。月は、寒を支配できないことによって、しばしばこの回帰を起こす。この人は、最初に日月食や照明についての説を、正確に定めたのである。月は土からなり、谷間や山や峡谷をもつと、彼は述べた。天の川は、太陽から照らされていない星ぼしの、光の屈曲であるとした。流れ星は、天球の回転のために、火花のようにして起こるのであるとした。風は、空気が太陽の影響を受け希薄化し、熱せられた部分が、天の方向に流れ、遠ざかることによって起こる。雷鳴と電光は、雲の中に熱が入りこむことによって生じる。地震は、大地の上部の空気が、下部の空気と衝突する時に生じる。なぜならば、下部の空気が動く時には、その上に支えられている大地もまた、ゆらぐことになるからである。
 ――ヒッポリュトス

51.アナクサゴラスは言う。[世界の]周囲にあるエーテルは、その実体において火である。その渦巻の張力によって、それは大地から岩の塊を取り去り、強力に天空へと引き寄せ、それらを発火させ、天体にしたのであると。
 ――アエチオス

  (以上の引用は、Die Vorsokratiker : Reclamより)
2024年5月29日(水)
自由ということ
 自由は人間の存在の唯一の本質的価値である。自由にはいかなる形容も、属性もともなわない。それらが自由という言葉に付着するならば、すでに自由ではなくなっている。まっとうな生き方、人間らしい生き方、よい生き方、賢い生き方、善人、悪人、まじめな人、遊び人、義務、法律、道徳、などなど。そうした形容や、きめつけは、自己自身のものであれ、他者からのものであれ、自由とは相いれない。
 自由は、それが人間にとって現実にあるものならば、その本質はさまざまな行為へと向かう、個人の〈意欲〉そのもののなかにある。その意欲が発現するにあたっての唯一の条件は、個としての存在者のEgoのあり方である。Egoの意欲の自然な発露、抑圧や強制のない純粋な快の追求、それが生命体としての人間の自由の理想である。自由は基本的に個の問題であり、普遍的な自由とか、自由一般とかいった、単なる類概念としての抽象物ではない。自由は本質的に社会と対立するのである。社会のあるところには、必ず自由の障害があるといえる。
 自由であるとは、したがって、単に物理的、環境的に、社会的抑圧から免れているというばかりではなく、自己自身の中に刷りこまれた、さまざまな社会的抑制、価値観からも自由になることである。なにか定まった生き方、考え方、行為の仕方があると思いこむならば、すでに自由を失っているのである。おのれのうちにわき起こってくる意欲が、純粋におのれに属するものであるかどうかを、つねに自由の意識において判断し、不純物を取り除かねばならない。他者や社会を、意識のどこかで〈忖度〉していないかどうかを、つねに警戒していなければならない。自由とは、外部からであれ、内面においてであれ、何ひとつとらわれのない状態で行為することであるから。
 強制されたり、妥協したり、意のままにならずに行為するとき、たとえそこに善意や犠牲心や寛大さが働いたとしても、自由とはほど遠い。たったひとり他者が存在するだけでも、人間はすでに自由ではないのである。究極の自由は、自己自身においてのみ得られるのである。それ故に、古来自由人は孤独を愛する。他者や社会からは、最小のものを求めるにとどめ、おのれにおいて最大のものを求めるのである。孤独でない自由人は、言葉の矛盾であるといってよい。
 自由人は自己自身を形容する言葉を持たない。持たないことにおいて自由なのであるから。彼は、あれこれの人間ではないのである。したがって、社会の中では不可解な存在であり、アウトサイダーであり、異端者である。しかし基本的に無害であり、中立的であり、傍観者である。あるいは、その生活においては功利的であり、場合によっては利己的であることによって、無慈悲ではある。とはいえ、彼は最小限の関係をしか、社会とは結ぼうとしないので、やはり基本的には無害である。社会の役にたつ人間には決してなろうとはしないが、社会に積極的に害を及ぼしたり、むやみに攻撃的になることはない。どちらの場合にも、自由の原則に反するのであるから。
 彼は大声に自由を叫ぶことはない。他人が自由であることは、必ずしもおのれの自由に資することではないからである。彼は、基本的には、すべての賢者や隠者がそうしたように、〈隠れて生きる〉のである。それはもちろん〈陰徳〉を誇るためなどではなく、神や仏に仕えるためでもなく(これほどの精神の不自由はない)、社会ではなく、おのれの自由に最大の価値をおくからである。もしあらゆる生物の中で、人間に特有の存在価値があるとすれば、それは個人の自由以外にないと信じるからである。そして、たいていの賢者がそうであるように、おのれ自身において最大の快楽の自由を楽しむのである。 

 )ルネッサンスの思想家ピコ・デラ・ミランドラ(1304−1374)は、人間には、他の生物と異なるような、これといった特徴はないが、ただ自由におのれを形成することが許されているとしている。「なんじはなんじの本性を、われ(神)がなんじに委ねた自由な考量によって、なんの制約もなく、なんじ自身によって定めるようにせよ。われはなんじを世界の中央におき、まわりの世界にあるすべてを、よりよく認識できるようにした。われはなんじを、天上においてでも、地上においてでもなく、死すものとしても、不死のものとしても、造らなかった。それはなんじが、自らの力によって、自由にみずからを形づくり、ととのえつつ、なんじの欲する形態へと仕上げることができるためにである。なんじは、下位のもの、動物的なものへと、退化することもでき、またなんじは、欲するならば、上位のもの、神的なものとして、生まれかわることもできるであろう」(「人間の尊厳について」)。人間の特性は、いかなる特性をも持たないことなのである。彼は自由にみずからを形成することができる。
2024年5月25日(土)
快楽の本質
 快楽の原動力はなんであるか。快を求めるということは、人間をはじめとした生き物のあらゆる行動の基本原則である。この衝動もしくはエネルギーの発現は、意識においては〈意欲〉として現われる。何らかの意欲が働くところには、必ず何らかの快を求める傾向、または消極的には苦を避けて、生命のdefault状態(ある種の安定状態)を回復しようとする傾向が、行動となって現われる。
 この傾向あるいは意欲は、生き物においては、いくつかの層を成している。一番下部には、当然ながら生命を個において、または種において、維持存続させようとする、本能的肉体の働きがある。すなわち、食欲、性欲が、生命の最下層の快の欲求である。その際、過酷な生存競争において、それらの本能的欲求は、ストレートに満たされるわけではない。快の追及は、他の生き物との闘争の関係において、制限を受けることになる。食欲と性欲だけに生きる生き物は、つねに他の生き物からの脅威にさらされるのである。飢えが欠乏の苦であるならば、他の生命体との闘争は、充足をさまたげられ、餌食となる危険において、さらに苦となりうるのである。生き物は二重の苦を避けねばならない。
 最下層の生命体の快苦は、以上につきるのであるが、肉体の快の可能性は、臓器の発達とともに広がったことであろう。快の中心は食と消化の器官、および生殖器に限られていたのが、心臓や肺腑の機能が発達すると、直接は個体保存・種の維持に関係のない〈心情〉の快が生まれてくる。高等な鳥類・哺乳類は、たいていこの心情の快にふけっているのが見られる。ウグイスは、人が近づくと警戒するどころか、必要以上にさえずっているように思われる。雄鶏は鳴きすぎて、息をつまらせて気絶することがあるそうである。ペットの動物では、この心情の快はきわだっている。もちろん皮膚感覚のような身体の快と、心情の快は密接に結びついているが、この心情の快が、人間ともなると、比較的独立して、五感の快とは別の快の領域をつくっている。これが快の第二の層である。
 心情の快は、食欲や性欲の快のように、つねに濃厚で激しいものではない。そもそも生命体のdefaultの状態は、ある種の安定状態であり、すなわちこれといった快でも苦でもない状態、意欲が比較的静まり、身心が安らぎの状態にあるときである。これが心情の基本であり、それに対してさまざまなポジティヴ、ネガティヴな波動が生じることによって、無数の<情念>が発生する。その中でもっともよい情念の状態を求めることが、心情における快の追求である。情念が激しければ、それは快よりも苦に傾くであろう。それは欲望の状態であり、むしろ第一の層の欲求に近くなる。すなわち欠乏の苦なのである。あるいは危険や事故などが、恐れやパニックなどを惹き起こせば、心情の苦は、その源が心臓などの臓器に関係することから、肉体の苦に劣らない強烈さに達するであろう。
 第一の層の快すなわち肉欲と、第二の層の比較的穏やかな心情の快は、人間以外のたいていの動物にも備わっているが、人間にだけ、さらに上の層の快がある。すなわち発達した脳の機能と結びついた、<知性の快>である。知性の働きが快であるかどうかは、人間のなかでも違いがあろう。それが苦である人間も少なくないからである。いずれにせよ、第三の層である知性の快は、肉欲や心情の快と較べ、格段に希薄なものである。そもそも思考そのものに快があるかどうかも疑われる。思考が快であると思われるのは、思考が順調にはかどることによって、心情が喜びを覚えるからであると思われる。科学や哲学が、Wonderから起こるとされるのもその故である。その心情の喜びは、アルキメデスのヘウレカによく表われていよう。
 さて一個の人間の快の可能性は、三種の層をなすことを述べた。それらは基本的に自己自身において可能な、快の種類である。生活の条件さえそろえば、すべて自らの心身において充足が可能である。食欲と性欲の充足は、みずからの肉体におけるプロセスであり、心情の快にいたっては、すべてが心がけ(Gesinnung)しだいなのである。知性の快は、かりに他人に考えてもらうとしても、考えること自体は自身のいとなみである。問題は、これらの三種の快が、互いに対立物となって、一個の人間の中でいがみあうことである。
 これら三種の快は、人間においては、その社会生活によって大きなゆがみを受けている。それぞれの快は、社会的規範なるものによって、純粋な充足をさまたげられている。その第大のものは、第一の層の快、とりわけ性欲の快を、最も下位に置くということからも明らかなように、動物的本能に対する嫌悪であり、軽視である。宗教者ならずとも、〈肉欲〉すなわち肉体の快楽を嫌うのである。そして理性はさておき、心情しかも動物界に見られるような、社会的心情を尊ぶのである。社会におけるこの快のヒエラルヒーが、個人の快の充足においても深甚な影響を与え、肉欲と心情と理知の本来的な快の質的違いにくわえて、さらに極端な乖離を惹き起こすのである。肉欲は心情と理知をあざけり、心情は肉欲を悲しみ、恐れ、理知は両者を傍観する。それぞれの快は、対立物としていがみあうようになるのである。
 生物である人間において、この三種の快が、本質的に対立物であるかどうかは問われうるとしても、かりに対立物であるとしても、ヘラクレイトスが言うように、この宇宙、万物は反対物からなっており、対立しない何ごとも、なにものも存在しないのである。一個のものはつねにその反対物であるものに変化し、さらに変化したものはその反対物に変わる。そのように万物は反対物において流転し、とどまることがない。それが〈一者 Das Eine〉としてのこの宇宙の<ロゴス(法則)>である。三種の快においてもEinheitが存在しなければならないはずである。肉体の持主であり、心情と知性の持主である存在者としての人間のEgoが、その統一の要となるであろう。それは静止的な統一ではなく、反対物から反対物へと流転する統一である。それは一つのサイクルなのである。このサイクルを生きることが、人間のBestimmung(定め)なのである。
 愚と賢、失敗と成功、怒りと喜び、悲しみと驕り、卑屈と誇り、低劣と高尚、悔いと希望、下降と上昇、破壊と建設、誕生と死、光と闇、善と悪、天国と地獄、神と悪魔、聖と汚猥、勝利と敗北、それらに伴うあらゆる種類の快と苦、あらゆる反対物、対立物の交替、循環が、この世界、この宇宙の流転の本質である。すべての対立物は永劫に回帰する。この宇宙のロゴスにおいては、単純なAufhebenや進歩や発展などは、どこにもないのである。ただ流転するものすべてのEinheit(Das Eine)が、唯一のSeinとして、有るものとしてあるだけである。宇宙におけるEinheitと、EgoにおけるEinheitの一致において、この宇宙は、Egoは、かろうじて自己分裂の狂気をまぬがれている。唯一者としての人間は、その流転する心の、快苦の分裂的存在様式によって、この宇宙の本質を象徴する存在なのである。 
2024年5月14日(火)
人間の理念
 人間は動物Tier-Menschであると同時に、理性的存在Vernunft-Menschでもある。理性とは、カントによると、直接対象にはかかわらず、経験を統合する理念Idealを生みだす働きであるとされる。悟性Verstandおよび感性Sinnlichkeitは対象を生み出し、現象界を構成するが、理性は単に、対象の総体である現象界にたいして、統制的regulativに関与するだけである。その際、理性の生み出すものが、カントの言う<理念>である。
 いま霊魂や全体性や神やの理念はさておき、カントの倫理学において、〈人間〉またはPersonといった、理念的観念に触れてみたい。カントの倫理学が理念的であるというのは、その出どころが、もっぱらVernunftであるからである。人間が動物であることは、だれもが幼少年期には少しも疑わずにいるものである。青年期になって、生命的衝動と社会環境における抑圧とが衝突する時、はじめて単なる動物であることを恥じる気持が生じてくる。この外圧が自己自身に内在化されると、みずから動物的存在であることに対抗する原理を、自己のうちに求めるようになる。その時、自己の内面において頼れるものはなんであろうか。
 まず心理学において〈超自我〉と呼ばれるものがある。親や周囲の社会環境における、ある種の倫理的圧力が、幼少年期には無反省であった動物的行為を、他者の観念からみずから抑圧するようになる。青少年期における〈倫理〉は、基本的に他律的Heteronomieである。超自我がさらに精神化されると、普遍的な道徳的存在、天帝や神や仏といった観念にまで抽象化される。それらは、他者の目が、超自我をへて、超自然的存在にまで投影されたものである。いずれにせよ、自己の動物的本性の抑制において、もっぱら受動的、依存的心性であって、これらがたいていの人間の、〈社会倫理〉のありかたである。
 実は社会倫理は、人間の動物性に基づいた、人間間の相互の行動原理であるといえる。社会倫理の存在は、動物社会でも顕著に見られる現象であるからだ。動物的本性を抑えるということは、動物界では本能的原理、すなわち自己保存と、力関係、弱肉強食によって、自然と成立している。集団的動物は、繁殖のような行動では、互いに争うとしても、天敵に襲われれば、協働して防御する。それらの行動は、自己自身の衝動や欲望の、状況による抑制が、動物界では普通であることをしめしている。人間の社会倫理は、そうした動物の社会本能が、さらに複雑化し、抽象化していったものと言ってよかろう。
 動物にはない、特別な自己抑制の原理は、古代の哲学者が見いだした〈理性〉である(*)。理性の観念は、人間の思考の能力とむすびついている。本能が命じることを、理知が<理解>できるということが、理性の特別な地位の始まりであろう。理解できることは、さらにすすんで、物事のコントロールが可能であるという、能動性にまでゆきついたであろう。理知は先ず、自然界の理解とコントロールに向かった。この道具的方向が、文明を築きあげ、社会を形成していった。つぎに理解は、おのれ自身へと向かうことになる。理解の本体としての理性が、そこに要請されてくる。理性はその働きによって知られるほかはないのだが、働きの本体としての原理もしくは存在者が、内面において要請され、さらに外界においても、要請されてくるのである。ここに普遍的なロゴス(世界理性)の観念が生まれる。

 (*注)古代ギリシャにおいて、理性nousを発見(発明)したのはアナクサゴラスであるとされる。「理性(精神)はそれ自体として存在し、混じりあうことがない。<ほかの事物は、どの物とも分け持ち合う。理性はしかし無限にして、それ自体で偉大であり、いかなる物とも混じりあうことがない。> 理性はそれ自体で存在する故に、最大の力を持ち、万物をもっともよく支配できるのである。それは万物の中でもっとも精妙にして、純粋なるものであり、あらゆる事物に関して、その認識を持つのである。<万物がどのようになりゆくか、万物がどのようであったか(すでに存在していないのであるが)、今どのようであるか、それらすべてを理性が秩序づけるのであり、また星や太陽や月がなす渦巻運動も、空気と天空とを分離させたのも、理性がそうしたのである。>」(Volker Spierling:Kleine Geschichte der Philosophie; Anaxagoras より)

 内なる理性は、外なる理性と合一し、みずからを律するとともに、また世界の根本の原理となる。外に見いだされた理性は、もはや単なる現象界ではなく、現象の奥にある原理とみなされ、それに従う内なる理性も、また単なる動物的本性ではない、特別の能力とされる。内であれ、外であれ、理性の存在する場は、動物界でも、人間社会でも、本能的衝動でも、欲望でもない、ある超越的世界なのである。
 このようにして、人間精神に巣くうようになった理性の観念は、実のところ、人類に普遍の観念ではなく、ごく少数の、選ばれた人間にとってのみ理解の可能な観念である。そもそも単なる理知の働きである理解が、同時に理念であれ、イデアであれの、超越的存在を保証するいとなみであるとは、通常の知性では考えがたいことである。動物であれ人間であれ、通常の知性の対象は、カントが言うところの<現象界>に限られており、理性の場であるとされる<叡智界intelligible Welt>などとは無縁なのである。しかも<純粋理性>が叡智界においてあつかうのは、もっぱら理念Idealである。人間精神が直接交渉しうるのは、単なる現象に限られており、理性があつかう理念と称されるものは、この世界の現象とは異なり、場合によっては、霊魂の不死や神といった仮象Scheinに過ぎないのである。それらが意味を持つのは、単に道徳的な<要請>に基づくのである。
 思考能力一般である、悟性・知性Verstand,Intellektといったものとは別に、そも理性Vernunftとして区別されるものが必要なのであろうか。人間の知性Intelligenz全般の働きのなかには、カントが経験に先だつ純粋理性の機能として詳細に分析した、すべてのものが含まれると同時に、想像力と結びついた理念的働きもまた、欠かすことができないであろう。理念的働きは、自然科学の普遍妥当性を保証すると同時に、人類の倫理的希望をも表明するであろう。それらは単なる<理性>の領域として抽象化される必要はないはずである。
 理性はなぜひとり立ちするのであるか。これはすでに述べた青年期の苦悩を考えれば理解できる。自己の内面から突き上げてくる生命的・動物的衝動や欲動と対抗し、抑制するためには、単なる他者の目による、外的、社会的倫理の圧力によっては充分ではないのである。むしろそうした社会倫理による強制は、欺瞞や偽善と感じられるであろう。みずからを、みずからによって律するためには、内なる原理が必要なのである。あるいは外なる原理であっても、同時に内なる原理でなければならないのである。そうしたAutonomieを可能にする、内的原理が、おのれの中に見いだせるであろうか。ただひとつ、〈理性〉と称されるもののほかにはないのである。
 理知の力によっておのれをコントロールし、苦悩の中から人生の道を見いだしていく、そこに立ちあらわれてくるのが、〈理性〉の内的神殿なのである。青年期において、カントの「純粋理性批判」は、まさにその理性の殿堂であった。まだ遠くからのぞむほかはない、難解この上ない神殿の入口をくぐることはためらわれたが、人生の究極の理想がそこに描かれていたのである。
 それは青年期のある種の迷夢であったかもしれない。あるいは生命の妄念から逃れるための、一つの手段であったであろう。理性は、そもそもそれが人間精神において機能するとしても、つねに生命の下位に立たねばならないからである。理性は道具的であることによって、人間知性において特に異なった独自性を持つものではない。ただ、理性そのものが一つの理念として、人生を導く原理とはなりうるのであり、カントの人生そのものがその典型である。しかしそれは少数者の選ばれた人生である。
 少数者の選ばれた人生における理念としての理性が、人類もしくは人間一般の原理とはなりえないことは明白である。人間とは理性の権化でも、その象徴としての、理性的・理念的・道徳的Personでもない。それゆえに、理性の命ずるところのKategorischer Imperativ(定言[絶対])命令)なるものは、人類一般の倫理とはなりえないのである。二十世紀以来の歴史が実証するように、人類はあくまでも、人間を目的としてではなく、目的のための道具として扱ってきたし、今でもたいていの国家ではそうしている。個人的倫理である行為のMaxime(原則)が、もし普遍的道徳律となるならば、すべての人間が嘘つきでなければならないのが、現今の人類社会である。
 理念としての人間は、現実的には存在していないのである。少数者の住む理性界においては、たしかに定言命令としての道徳律が、各個人の中に普遍的原理として存在していよう。理性界はある種の理念の神殿であって、その拝殿には<人間>の理念が燦然として輝いていよう。 
2024年4月24日(水)
Aphorismen \
1.個と類――類もしくは種の本能のめざすものは、種の存続・維持であり、個体の本能の基本は、自己保存であることは、生物学の常識である。しかし両者の本能がどこまで調和するものであるか、あるいは対立するものであるかについては、科学的研究は少ないようである。利己的遺伝子に関しては、遺伝子が利己的に、すなわち自己の遺伝子の存続のためにふるまうことが、同時に優良な種の存続にとっても有利に働くのである。しかしそのような関係ばかりではないであろう。
 鼠を使った実験では、理想の生存状態におかれた集団は、最終的には個体の維持に向かい、類的本能すなわち繁殖能力がおとろえるそうである。その結果、理想社会は崩壊し、集団自体が絶滅する。個体は、その生存のために、もはや集団に依存する必要のないときは、自己自身の存続のためにだけ生きる。繁殖というやっかいな類的行為は忌避され、ただ自己快楽にのみふけるようになる。類の存続などは、そもそも個体の意欲の中には存在しないのである。
 どうやら個体の自己保存は、類の存続の本能とはまったく別物のようである。集団を作り、存続させる類の本能は、つねに個体保存の本能を押さえつけていなければならないのである。最大多数の最大幸福などというのは、まったくの社会学的妄想である。類の本能は個体の幸福すなわち満足を抑圧することにあり、個体の本能は類があたえる保護と快楽だけを求めているのである。これは国家の歴史や現状を観察するだけで、すぐに引き出せる結論である。個体はその本質において、類の存続も国家の存続も必要としないのであり、人類が滅びようが、国が滅びようが、個体の一生がすべてであり、個体の安楽がすべてなのである。それ故に、国家はつねに個体の自由を抑え、専制的であらざるを得ない。その最もグロテスクな例が、現今では北朝鮮にみられる。

2.美の観照interesselosな判断においてなされるというのが、カントの美学である。利害をともなう関心を離れるということが、美を観照するに当たっての、基本的態度でなければならない。どのような対象であれ、それに対する効用や、個人的関心をはなれるならば、そこにある種の客観的な眼が生まれる。そこにいわば物そのものに対する純粋な興味がおこり、おのずと美の観念あるいは何とない美感が生じてくる。それと同時に、心をとらえていたもろもろの思いや、感情が静まってゆき、美そのものへと意識が集中していく。美という特別な世界がそこに現われるのである。

3.類的意志としての神――神を否定したり、呪詛することが困難であり、不可能であるのは、神が類的意志そのものであるからだ。あらゆる生命体は、類的意志によって存在へといたる。神を否定することは、自己の存在そのものを否定することである。生命体としての存在者は、類的意志によって生かされ、類的意志によって滅ぼされる。神を呪うことは、自己の存在を呪うことであり、逆に自己の存在を呪うならば、同時に神を呪うことになろう。神と生命体とは一体なのである。無神論者のニールス・リューネが、病の子が死に瀕した時、ふと祈りたくなった心境は、子に対する愛着が、まさに類的意志そのものであるからだ。無神論者は、すべて堕天使であり、神への反逆者である。

4.超越的意志としての神――自己の存在を呪うことは、神を呪うことと同じとした。自己の存在を呪うことは、そのような生命体である自己を生みだした、神の世界を呪うことである。類的意志である神を、古代人はデミウルゴス(創造神)となづけ、場合によっては不完全な神、悪の神と考えた。そのような把握の根底には、創造された生命界を超えようとするなんらかの意志が、類的意志であるデミウルゴスの創造した世界においても与えられていることを意味する。その超越への意志が向かう先に、超越的意志の源である超越神が現われてくる。いわば神の神である、根源的神である。そこに究極の救済者としての神がある。その神へと帰還する存在は、もはや単なる類的生命体ではないであろう。生命そのものを超越した、自己の内部のなんらかの本質もしくは本体である。

5、生きることの意味は、業績や仕事といった単なる結果にあるのではなく、いかに自由に、生命を楽しめたかということにつきるであろう。なしとげたことは、それを楽しめなければ、なんの価値もない。老境にいたって、すべてを忘却してしまえば、なにごともなさなかったのと同様である。ただ人生を楽しめるかぎりにおいて、なにかをなすことにも意味があるのである。

6.空観の実践――世界の本質は意志=意欲であるから、それから解放され、空に至るには、まずなによりも、意欲のコントロールが必要である。欲求にまかせて、一事に熱中することは、極力避けねばならない。生の終末は空に至ることであるから、たえず空の状態を、生の合い間にはさんでおくことが、の準備につながるであろう。意欲は分散すべきものであり、一事にとらわれすぎてはならない。意欲にとらわれることは、やはりある種の依存症なのであり、それは音楽であれ、読書であれ、思索であれ、仕事であれ、スポーツであれ、よかれあしかれ、あらゆる生の営みについて言えることである。空に至るには、enthusiasm を避けねばならない。もとより、陶酔や酩酊などは論外である。
2024年3月28日(木)
花巡り
 

 春先になると、町なかでどこからともなく、真っ先に匂いだすのはロウバイ(蝋梅)である。2月のはじめ頃、長瀞の自然史博物館へ、貝の展示を見にいったついでに、宝登(ほど)山の頂にあるロウバイ園へよった。降雪のあとであるからケーブルが混み合い、一時間も待たされたが、頂上では雪山の眺望がひらけ、ロウバイも満開であった。ロウバイは梅ではないが、実か種のようなものがついている。下山は、雪のぬかるむ道を、転ばないように慎重に歩く。山歩きに慣れた人には、スイスイおい越されていく。

 

 梅の方は少し遅れて、2月下旬から咲き出す。越生の梅園が名所であるが、それよりも越生の町のいたるところにある梅畑が、静かな観梅に適している。梅園から川越しに見える寺のほうに回れば、その一帯は梅畑が広がっている。梅園からの帰りに、越辺(おっぺ)川沿いにつくられた遊歩道を、駅まで歩けば、よい梅林がある。

   

 梅のあとには桜が気になる。坂戸市の北浅羽には、3月の半ば頃、越辺川の堤ぞいに、早咲きの桜(安行桜)が延々とつらなって咲く。今年は東上線の北坂戸から循環バスにのり、最寄の停留所で降りた。ほとんどが花見客で、ぞろぞろと堤まで歩く。ちょうど真昼であったが、少し日が斜めになると、下向きの薄ももの花弁が、青空を背景にきらきらと輝きだす。そのようにして見あげる桜が、最高の美感である。

   

 今年はなぜか、10度を少し越えたくらいの、気温の低い日がつづくようである。染井吉野はようやく花芽がふくらみかけている。開花は4月をまたぎそうである。
2024年3月8日(金)
人格とは何か
 人格(personarity)とは、そもどのような構成物であるか。人格という言葉は、安易に使われがちであり、その際どのような意味がこめられているか、厳密に考察することは、あまり行われない。まず人格が成立する条件を考えてみる。
 人格はまず個体もしくは個人でなければならない。全体もしくは集団の人格ということは、違和感があるであろう。全体や集団には、それぞれの〈性質〉はあっても、それが人格的存在であるとは、考えられない。単なる性質ではなく、人格が思惟されるためには、なんらかの統一的な<意識>がなければならないのである。意識は基本的に単一であり、統一的である。この意識を持った個体が、通常は<個人(individual)>と呼ばれるわけである。
 単なる個人はしかし、そのまま人格ではない。単に意識する個体であることが、人格的存在ではない。そこに何が加わることによって、個人は人格の持ち主であるとされるのであるか。意識は単に自己の統一と同一性を個人に与えるに過ぎない。すなわち自己意識の同一性と単一性が、意識の構成の基本である。それは人格が生じるための、基本条件にすぎない。人格があらわになるのは、個人が〈行為〉する過程においてである。この行為の過程において、意識以外の個人のあらゆる潜在的、顕在的要素が表わしだされる。それらを統一的・同一的意識のもとに統合する能力が、一般に人格と呼ばれる個人の性質であるといえよう。
 この人格のいわば素材である、潜在的・顕在的な個人の性質は、心理学においては、感情、情動、情念、意志、知性、理性などと呼ばれるものから、身心の遺伝的素質にいたるまで、個人の人間としてのあらゆる可能的要素を含むものとしてよいであろう。それはむしろ性格、気質と呼ばれることが多いであろう。しかし人格は性格・気質と、さほど異なったものではないであろう。どちらも英語ではcharacterであり、人となりの意味における人格である。心理学でのpersonalityもこの意味で使われる。
 人格が単なるcharacter以上の意味で使われる場合は、さらに別の要素がそこにつけ加わってくる。それは<人格者>という言葉に代表される、特殊なニュアンスである。それは、だれもがなんらかの人格の持ち主であるという意味とは、まったく違っている。そこには個人の性格や素質以上に、なんらかの社会的な価値判断が付加されているのである。哲学でいうpersonalismもこの意味での人格を問題にしている。何が人を〈人格者〉にするのか。それは個人そのものではなく、個人を見る〈他者の眼〉である。みずからを人格者と思う人は少ないであろう。必ず他者が自己以外の人物をそう呼ぶのである。何ゆえに特定の個人が、他者の目から人格者と見なされるのであるか。すなわち他者の目から、人格に何が加わると〈人格者〉が成立するのであるか。一般に、なんらかの道徳や倫理に従って、おのれを律する個人を、まわりの者は、すなわち社会的に、人格の持主とするのである。道徳や倫理は、すなわち社会的に認められた行為の規範を説くものであるから、人格者とは、社会にとって有益な、模範的人物の謂いにほかならない。人格者は社会的に作られるのである。
 人格という言葉には、このように個人の素質や資質のほかに、社会的価値観がミックスされているのである。これはじつは、人格というものが、普通考えられるように、個人的であれ、社会的であれ、確固とした基盤を持ったものではないことを示唆する。そもそも、個人の人格形成において、他者の人格が圧倒的な影響力を持つことからも、自己自身の人格という確固としたものが、生まれながらにあるなどとは、言いえないであろう。じつはおのれの人格は、他者の人格の焼きうつしであることは、多々あるのである。人から学ぶのは知識だけではなく、人格や生き方そのものをも学んでいるのである。人格とは非常に流動的なのであり、これがおのれの人格であると、確信をもって言えるものはない。喜びや怒り、その他の激情にかられるとき、そうした時ふだんにない行為にはしり、はたしてこれがおのれであるかと、いぶかしがることは、多々あるであろう。人格は多重的・多元的であり、また複合的でもあり、感情や情動によって、転変極まりない変化を見せるものであり、どれが真のおのれであるかなど、決めることのできないものである。それを社会的に人格者などと決めつけるのもナンセンスである。
 個人にとって人格主義(personalism)というものが可能であるならば、それは個人の心身における資質と能力における最善のものを、みずからの人格として選択することにおいてである。最善の人生を生きるために、最善のおのれの力を発揮できる、統一的自我を形成することにおいて、理想の人格というものは可能になるであろう。そうした人格は、必ずしも他者の目から善いものとは見なされないであろう。すなわち〈人格者〉ではありえないのだ。人格は、それぞれの異なった素質を持った個人の、個人的生き方となるからである。
 ふだんの生活においても、多重的・複合的である人格が、無意識の領域において抑圧され、あるいは忘れられた人格のかたまりであるものにまで及ぼされると、事態はさらに複雑になる。心理学における二重人格のケースは、意識的人格とはややおもむきをことにする。意識的人格においては、その多重性・複合性にもかかわらず、曲がりなりにも意識の同一性・統一性は保たれている。その保証をなしているのは、記憶の持続性・一貫性である。日常的に、私は私であるという意識を失うことはない。それに対して無意識の人格では、人格の〈交替〉が起こる。他の人格に代わる時は、通常の人格の記憶は失われており、自己意識の同一性が失われている。最も卑近な例では、飲酒での泥酔状態においては、その間の記憶はほとんど、あるいはまったく失われている。人の話から、さまざまな行為を行ったことは分かるが、その時の意識が私の意識であったかどうかは、記憶が甦らないかぎり確認できないのである。人格が行為において現われるとするならば、その時の私は何者であったのか。すくなくとも、自己意識のない私というものが存在するのである。
 たぶん無意識界にひそんでいる人格、shadow personalities というものも、同じようなものであろう。ここでは自己意識による統合、私の意識の同一性・持続性は失われている。かりにそれが私の意識に現われても、それを私の意識において統合することはできない。他の人格alter egoとして意識もしくは知覚されるのである。その意味で、彼らは私のなかの他者なのである。無意識界における人格の多重性・多元性とは、いわば私の身心の中にも、身心の外と同じように、人格のGesellschaftが存在するということである。私は人間社会と同じように、彼らの社会とも付き合わねばならないのである。
 人格はふだん思うほどに単純なものではなく、個人の資質・素質の基盤の上に、外と内との二重の影響によって形成され、つねに複合的に流動している不安定なものであり、それの発現である個人の行為は、時として思いもよらないものとなる。だれもが二重人格であり、多重人格であるのだ。そのことに驚いたり、苦しんだりするのは、人格は一定であり、確固としたものでなければならないという社会的規制が、人格に枷をかけているからである。社会は、個人が非人格的、すなわちお仕着せの、既成の人格であるかぎり、安定し、統制しやすいからである。すなわち〈人格者〉が養成されるのである。その反動は、人格の反乱によって、小は犯罪から、闘争や残虐や戦争にいたる人類史の悪夢となって噴出するのである。
 人格は基本的に社会的構成物である限りは、その形成は完全に自由ではありえないが、その核である自己意識の統一、同一性、持続のもとに、自我の完成を目指すことによって、みずからを律する理想の統一的人格を形成することは可能であろう。その働きの中心を成すものはEgoであって、強力なEgoがなければ、強力な人格は形成されないといってもよかろう。理想の人格の形成は、エゴイズムの最初にして最大の課題なのである。 
2024年2月27日(火)
多摩川散策
      
 多摩川は関東では広い河川敷を持つ大河であり、東は川崎あたりで東京湾に注ぎ、西は奥多摩に源流を発する。青梅線は多摩川の左岸に沿った路線であるが、拝島や青梅あたりでも、多摩川の景観は広々としてすばらしい。少し奥へ行くと、鳩ノ巣渓谷あたりでは、もう渓流なのであるが、ちょっとした散策をするには、そこまで行く必要はない。
 拝島で乗り換え、五日市線で一駅、熊川で降り、高架線に沿って15分も歩くと、多摩川の堤に行きあたる。河川敷は広々とした運動公園になっている。林の散策路もあるが、今の季節は枯木である。枯草を踏み分けて河原に下りる。澄んだ水が、青空を映して、センセンと流れている。

 

 2月の強風の日であるから、運動する人も、散歩する人も、ちらほらである。枯木の道を歩いてみる。春夏はよい緑陰であろう。とはいえ、青空を背景に枯木を見あげていると、心惹かれるものがある。なんとない追憶の疼きである。

 

 堤の上の遊歩道もしくはサイクリングロードを、北風に背を押されながら、南に歩いていく。堤の左手にそって桜の木が一キロほどつづいている。春には見事な桜堤であろう。西の方面には、どの辺の山であるか、はるかに連山が眺望される。

 

 

 橋の先には公園があり、そこで休んでから、拝島駅を目指して帰路につく。東方面で16号に行きあたれば、道に迷うことはない。16号沿いを北に行けばよい。
2024年2月22日(木)
自己保存について(その1)
 一見、個人的趣味や利益の問題に思われることでも、その本質においては類的本能もしくは種の存続のための、生命の策略ににすぎない行為や営みが多々ある。個体保存の本能は、本来的には種の存続とは直接関連しないのであるが、逆に種の存続が個体保存に深甚な影響を及ぼすことは、普段はほとんど意識にのぼらないことであるが、結果的に気づかれることになる。もっぱら自己のため、自己の利益のためと思ってなしていたことが、じつは種の存続の本能によってあやつられていたことに気づくのである。
 たとえば美の意識がある。自然界であれ、人間界であれ、美しいものに惹かれる心情は、きわめて個人的に思われる。美に打たれる感動はまったく個人のものであり、個人の享楽、個人の趣味以上に出でないと思われもする。はたして、そうであるか。美が、もし特定の個人にとってだけの美であるならば、それは正しいであろう。しかし美は、美学が成立するように、ある種の普遍的感性なのだ。すなわち同一の種にとっては、誰にとっても美しいものは美しい。美は類的感性の発現なのである。そうであるからには、美は種の存続にとって、なんらかの有利な条件でなければならない。たとえば、これを鳥や昆虫の渡りの本能に見ることができよう。
 青空や季節の移ろいは、鳥や昆虫の感性に特別な影響を与える。それは種にとって普遍的であり、彼らは一斉にそうした感性の刺激のもとに、渡りを開始する。美的感性とは、種の存続のためにたくらまれた、類的本能なのである。人間の場合でも、放浪の願望やロマンは、単に個人の資質の問題ではなく、種の存続が根底にあるのである。環境が変われば、人類は新たな環境を求めて放浪する。個人の場合も、たいていの放浪の物語が、理想の配偶者を見いだすことで終わるように、生殖の本能が根底にあるのである(例えば、アイヒェンドルフの<のらくらTaugenichts>や、スティーヴンソンの<砂丘の冒険>の主人公など)。
 美は個体保存ではなく、種の存続のためにあるのであり、美を独占することなどは、生命体にとって許されないのである。芸術家は、すなわち美の探究者は、決して自立的・自律的ではありえない。美においては、決して個体は保存されないからである。ここに芸術至上主義の、ある意味での逆説がある。美のための美、芸術のための芸術とは、種の存続のために、個を犠牲にすることでもあるからだ。美は類的本能としての範囲で、永遠でありうるが、個人の生命はそのために犠牲にされる(ars longa vita brevis)。
 美に限らず、善はどうであるか。善の行いは、美的営みよりもはるかに明瞭に、類的本能にもとづく、すなわち種の存続のための行為である。カントはそれを定言命令として言い表わした。<なんじの行為の基準が、人類にとって普遍的な行為の基準であるように行なえ>というのが、種の存続の基本的要請だからである。そこには個人的な感情は含まれていない。だれにとっても普遍的な感情のみが許されるのである。じつはこのような道徳律によっていとなまれる行為は、個人にとって少しも自立的・自律的(Autonomie)ではありえないだろう。自立的・自律的とは、個体保存にとってのみ言いうることである。
 個体保存とはなんであるか。純粋に種の存続の本能から切りはなされた、個体保存の本能とは、もっぱら個体の利益と優位にもとづくものでなければならない。生命体としての個体は、自己自身の心身の機能と能力によって、環境の中で自己自身の存在を確保して行かねばならない。この環境(Umwelt,circumstances)には広く自然環境と社会環境(境遇)が含まれる。与えられた環境を、いかにおのれの生存にとって有利に、有効に利用するか、それが個体保存の全課題である。その基本原理は美でも善でもなく、芸術でも道徳でもなく、ただ単に個人の持つ生存の能力と、それを発揮する力である。自立・自律とは、その原理を環境において確立することにほかならない。動物界では、これができた後に、種の存続の本能が個体保存の基礎の上に、その成果をつみとるのである。
 この点からみれば、個体保存は種の存続に従属している。じつは個体保存も、その環境において類的本能の保護を受けており、その恩恵にあずかっている。個体は親の準備した環境においてのみ育つことができ、また個体は集団化することによって、自己の保存を有利にする。種の存続もまた、個体の保存がなければ、成立しない。種の存続とは、何よりも個体が残ることなのであるから。それゆえに、より能力のすぐれた個体が自己保存をすることは、種の存続にとっても有利なのである。個体が一見、自立・自律的になしていると思っていることも、じつは種の存続の本能にあやつられていることが多いのである。
 このことを自覚するならば、真の自立・自律、真の個体保存とはなんであるかを、あらためて考えねばなるまい。美も善も、種の存続の本能の手のひらにあるならば、真はどうであるか。真理の探求は、もとより真というものは、なんらかの普遍妥当性を要請されるかぎりにおいて、類的本能に基づくものである。個人的真理などというものは、基本的にはない。真理の探究心も、種の存続の本能から出でるのである。科学を考えれば、それがどれほど種の存続の役にたっているか、疑う余地もない。もし科学が人類を滅ぼすならば、それはよりよい種の存続を求めての、生命の狡知であるといえるかもしれない。滅びは時として必要なのだ。
 真の個体保存は、真善美を離れたところにある。真善美はすべて類的本能の産物なのである。類的本能に支配されない個体保存とは、真理にも美にも道徳にも縁のない、個体の利益そのものの中に求められねばならない。それは根本的なエゴイズムである。種の利益よりも、個体の利を優位におくことである。そのためには類的本能を大いに利用することもあろう。要はそれに従属しないことである。エゴイズムの根本原理は、おのれの身心の能力とそれを発揮する力である。おのれの利のために、それを拡大し発展させることが、個体保存のすべてである。この〈力への意志〉によって、おのれの人生をおのれのために築きあげることが、エゴイストの人生の課題、すなわち真の自立・自律であり、真の自己保存である。
2024年2月2日(金)
飯能河原散策
    

 先日、八高線の東飯能駅で降り、西武線の飯能駅をへて、入間川にかかる飯能大橋に向かった。入間川はこの辺では名栗川とも呼ばれる。橋をこえた川の向いには、岡の上に広大な団地があり、公園もあるのだが、浄心寺という寺に少しよって、橋をもどり、橋のたもとに降りて行くと、川沿いに遊歩道があった。
 最初は舗装されていたが、すぐにごろごろした石と落葉の道なき道になる。平日の午後であるから、人と行き逢うこともまれで、静かな散策を楽しめる。

   

  

 そのまま飯能河原まで歩いていく。小・中学生のころ何度か遊泳にきたが、今では印象がまったく違う。

  

 ちょっと見覚えのある堰などもあったが、大人の目ではとるにたらない。自然のプールのような場所であった。ちょうど工事中で、その先まで行く気持をそがれた。