ねころぐ renewal 7

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2024年4月24日(水)
Aphorismen \
1.個と類――類もしくは種の本能のめざすものは、種の存続・維持であり、個体の本能の基本は、自己保存であることは、生物学の常識である。しかし両者の本能がどこまで調和するものであるか、あるいは対立するものであるかについては、科学的研究は少ないようである。利己的遺伝子に関しては、遺伝子が利己的に、すなわち自己の遺伝子の存続のためにふるまうことが、同時に優良な種の存続にとっても有利に働くのである。しかしそのような関係ばかりではないであろう。
 鼠を使った実験では、理想の生存状態におかれた集団は、最終的には個体の維持に向かい、類的本能すなわち繁殖能力がおとろえるそうである。その結果、理想社会は崩壊し、集団自体が絶滅する。個体は、その生存のために、もはや集団に依存する必要のないときは、自己自身の存続のためにだけ生きる。繁殖というやっかいな類的行為は忌避され、ただ自己快楽にのみふけるようになる。類の存続などは、そもそも個体の意欲の中には存在しないのである。
 どうやら個体の自己保存は、類の存続の本能とはまったく別物のようである。集団を作り、存続させる類の本能は、つねに個体保存の本能を押さえつけていなければならないのである。最大多数の最大幸福などというのは、まったくの社会学的妄想である。類の本能は個体の幸福すなわち満足を抑圧することにあり、個体の本能は類があたえる保護と快楽だけを求めているのである。これは国家の歴史や現状を観察するだけで、すぐに引き出せる結論である。個体はその本質において、類の存続も国家の存続も必要としないのであり、人類が滅びようが、国が滅びようが、個体の一生がすべてであり、個体の安楽がすべてなのである。それ故に、国家はつねに個体の自由を抑え、専制的であらざるを得ない。その最もグロテスクな例が、現今では北朝鮮にみられる。

2.美の観照interesselosな判断においてなされるというのが、カントの美学である。利害をともなう関心を離れるということが、美を観照するに当たっての、基本的態度でなければならない。どのような対象であれ、それに対する効用や、個人的関心をはなれるならば、そこにある種の客観的な眼が生まれる。そこにいわば物そのものに対する純粋な興味がおこり、おのずと美の観念あるいは何とない美感が生じてくる。それと同時に、心をとらえていたもろもろの思いや、感情が静まってゆき、美そのものへと意識が集中していく。美という特別な世界がそこに現われるのである。

3.類的意志としての神――神を否定したり、呪詛することが困難であり、不可能であるのは、神が類的意志そのものであるからだ。あらゆる生命体は、類的意志によって存在へといたる。神を否定することは、自己の存在そのものを否定することである。生命体としての存在者は、類的意志によって生かされ、類的意志によって滅ぼされる。神を呪うことは、自己の存在を呪うことであり、逆に自己の存在を呪うならば、同時に神を呪うことになろう。神と生命体とは一体なのである。無神論者のニールス・リューネが、病の子が死に瀕した時、ふと祈りたくなった心境は、子に対する愛着が、まさに類的意志そのものであるからだ。無神論者は、すべて堕天使であり、神への反逆者である。

4.超越的意志としての神――自己の存在を呪うことは、神を呪うことと同じとした。自己の存在を呪うことは、そのような生命体である自己を生みだした、神の世界を呪うことである。類的意志である神を、古代人はデミウルゴス(創造神)となづけ、場合によっては不完全な神、悪の神と考えた。そのような把握の根底には、創造された生命界を超えようとするなんらかの意志が、類的意志であるデミウルゴスの創造した世界においても与えられていることを意味する。その超越への意志が向かう先に、超越的意志の源である超越神が現われてくる。いわば神の神である、根源的神である。そこに究極の救済者としての神がある。その神へと帰還する存在は、もはや単なる類的生命体ではないであろう。生命そのものを超越した、自己の内部のなんらかの本質もしくは本体である。

5、生きることの意味は、業績や仕事といった単なる結果にあるのではなく、いかに自由に、生命を楽しめたかということにつきるであろう。なしとげたことは、それを楽しめなければ、なんの価値もない。老境にいたって、すべてを忘却してしまえば、なにごともなさなかったのと同様である。ただ人生を楽しめるかぎりにおいて、なにかをなすことにも意味があるのである。

6.空観の実践――世界の本質は意志=意欲であるから、それから解放され、空に至るには、まずなによりも、意欲のコントロールが必要である。欲求にまかせて、一事に熱中することは、極力避けねばならない。生の終末は空に至ることであるから、たえず空の状態を、生の合い間にはさんでおくことが、の準備につながるであろう。意欲は分散すべきものであり、一事にとらわれすぎてはならない。意欲にとらわれることは、やはりある種の依存症なのであり、それは音楽であれ、読書であれ、思索であれ、仕事であれ、スポーツであれ、よかれあしかれ、あらゆる生の営みについて言えることである。空に至るには、enthusiasm を避けねばならない。もとより、陶酔や酩酊などは論外である。
2024年3月28日(木)
花巡り
 

 春先になると、町なかでどこからともなく、真っ先に匂いだすのはロウバイ(蝋梅)である。2月のはじめ頃、長瀞の自然史博物館へ、貝の展示を見にいったついでに、宝登(ほど)山の頂にあるロウバイ園へよった。降雪のあとであるからケーブルが混み合い、一時間も待たされたが、頂上では雪山の眺望がひらけ、ロウバイも満開であった。ロウバイは梅ではないが、実か種のようなものがついている。下山は、雪のぬかるむ道を、転ばないように慎重に歩く。山歩きに慣れた人には、スイスイおい越されていく。

 

 梅の方は少し遅れて、2月下旬から咲き出す。越生の梅園が名所であるが、それよりも越生の町のいたるところにある梅畑が、静かな観梅に適している。梅園から川越しに見える寺のほうに回れば、その一帯は梅畑が広がっている。梅園からの帰りに、越辺(おっぺ)川沿いにつくられた遊歩道を、駅まで歩けば、よい梅林がある。

   

 梅のあとには桜が気になる。坂戸市の北浅羽には、3月の半ば頃、越辺川の堤ぞいに、早咲きの桜(安行桜)が延々とつらなって咲く。今年は東上線の北坂戸から循環バスにのり、最寄の停留所で降りた。ほとんどが花見客で、ぞろぞろと堤まで歩く。ちょうど真昼であったが、少し日が斜めになると、下向きの薄ももの花弁が、青空を背景にきらきらと輝きだす。そのようにして見あげる桜が、最高の美感である。

   

 今年はなぜか、10度を少し越えたくらいの、気温の低い日がつづくようである。染井吉野はようやく花芽がふくらみかけている。開花は4月をまたぎそうである。
2024年3月8日(金)
人格とは何か
 人格(personarity)とは、そもどのような構成物であるか。人格という言葉は、安易に使われがちであり、その際どのような意味がこめられているか、厳密に考察することは、あまり行われない。まず人格が成立する条件を考えてみる。
 人格はまず個体もしくは個人でなければならない。全体もしくは集団の人格ということは、違和感があるであろう。全体や集団には、それぞれの〈性質〉はあっても、それが人格的存在であるとは、考えられない。単なる性質ではなく、人格が思惟されるためには、なんらかの統一的な<意識>がなければならないのである。意識は基本的に単一であり、統一的である。この意識を持った個体が、通常は<個人(individual)>と呼ばれるわけである。
 単なる個人はしかし、そのまま人格ではない。単に意識する個体であることが、人格的存在ではない。そこに何が加わることによって、個人は人格の持ち主であるとされるのであるか。意識は単に自己の統一と同一性を個人に与えるに過ぎない。すなわち自己意識の同一性と単一性が、意識の構成の基本である。それは人格が生じるための、基本条件にすぎない。人格があらわになるのは、個人が〈行為〉する過程においてである。この行為の過程において、意識以外の個人のあらゆる潜在的、顕在的要素が表わしだされる。それらを統一的・同一的意識のもとに統合する能力が、一般に人格と呼ばれる個人の性質であるといえよう。
 この人格のいわば素材である、潜在的・顕在的な個人の性質は、心理学においては、感情、情動、情念、意志、知性、理性などと呼ばれるものから、身心の遺伝的素質にいたるまで、個人の人間としてのあらゆる可能的要素を含むものとしてよいであろう。それはむしろ性格、気質と呼ばれることが多いであろう。しかし人格は性格・気質と、さほど異なったものではないであろう。どちらも英語ではcharacterであり、人となりの意味における人格である。心理学でのpersonalityもこの意味で使われる。
 人格が単なるcharacter以上の意味で使われる場合は、さらに別の要素がそこにつけ加わってくる。それは<人格者>という言葉に代表される、特殊なニュアンスである。それは、だれもがなんらかの人格の持ち主であるという意味とは、まったく違っている。そこには個人の性格や素質以上に、なんらかの社会的な価値判断が付加されているのである。哲学でいうpersonalismもこの意味での人格を問題にしている。何が人を〈人格者〉にするのか。それは個人そのものではなく、個人を見る〈他者の眼〉である。みずからを人格者と思う人は少ないであろう。必ず他者が自己以外の人物をそう呼ぶのである。何ゆえに特定の個人が、他者の目から人格者と見なされるのであるか。すなわち他者の目から、人格に何が加わると〈人格者〉が成立するのであるか。一般に、なんらかの道徳や倫理に従って、おのれを律する個人を、まわりの者は、すなわち社会的に、人格の持主とするのである。道徳や倫理は、すなわち社会的に認められた行為の規範を説くものであるから、人格者とは、社会にとって有益な、模範的人物の謂いにほかならない。人格者は社会的に作られるのである。
 人格という言葉には、このように個人の素質や資質のほかに、社会的価値観がミックスされているのである。これはじつは、人格というものが、普通考えられるように、個人的であれ、社会的であれ、確固とした基盤を持ったものではないことを示唆する。そもそも、個人の人格形成において、他者の人格が圧倒的な影響力を持つことからも、自己自身の人格という確固としたものが、生まれながらにあるなどとは、言いえないであろう。じつはおのれの人格は、他者の人格の焼きうつしであることは、多々あるのである。人から学ぶのは知識だけではなく、人格や生き方そのものをも学んでいるのである。人格とは非常に流動的なのであり、これがおのれの人格であると、確信をもって言えるものはない。喜びや怒り、その他の激情にかられるとき、そうした時ふだんにない行為にはしり、はたしてこれがおのれであるかと、いぶかしがることは、多々あるであろう。人格は多重的・多元的であり、また複合的でもあり、感情や情動によって、転変極まりない変化を見せるものであり、どれが真のおのれであるかなど、決めることのできないものである。それを社会的に人格者などと決めつけるのもナンセンスである。
 個人にとって人格主義(personalism)というものが可能であるならば、それは個人の心身における資質と能力における最善のものを、みずからの人格として選択することにおいてである。最善の人生を生きるために、最善のおのれの力を発揮できる、統一的自我を形成することにおいて、理想の人格というものは可能になるであろう。そうした人格は、必ずしも他者の目から善いものとは見なされないであろう。すなわち〈人格者〉ではありえないのだ。人格は、それぞれの異なった素質を持った個人の、個人的生き方となるからである。
 ふだんの生活においても、多重的・複合的である人格が、無意識の領域において抑圧され、あるいは忘れられた人格のかたまりであるものにまで及ぼされると、事態はさらに複雑になる。心理学における二重人格のケースは、意識的人格とはややおもむきをことにする。意識的人格においては、その多重性・複合性にもかかわらず、曲がりなりにも意識の同一性・統一性は保たれている。その保証をなしているのは、記憶の持続性・一貫性である。日常的に、私は私であるという意識を失うことはない。それに対して無意識の人格では、人格の〈交替〉が起こる。他の人格に代わる時は、通常の人格の記憶は失われており、自己意識の同一性が失われている。最も卑近な例では、飲酒での泥酔状態においては、その間の記憶はほとんど、あるいはまったく失われている。人の話から、さまざまな行為を行ったことは分かるが、その時の意識が私の意識であったかどうかは、記憶が甦らないかぎり確認できないのである。人格が行為において現われるとするならば、その時の私は何者であったのか。すくなくとも、自己意識のない私というものが存在するのである。
 たぶん無意識界にひそんでいる人格、shadow personalities というものも、同じようなものであろう。ここでは自己意識による統合、私の意識の同一性・持続性は失われている。かりにそれが私の意識に現われても、それを私の意識において統合することはできない。他の人格alter egoとして意識もしくは知覚されるのである。その意味で、彼らは私のなかの他者なのである。無意識界における人格の多重性・多元性とは、いわば私の身心の中にも、身心の外と同じように、人格のGesellschaftが存在するということである。私は人間社会と同じように、彼らの社会とも付き合わねばならないのである。
 人格はふだん思うほどに単純なものではなく、個人の資質・素質の基盤の上に、外と内との二重の影響によって形成され、つねに複合的に流動している不安定なものであり、それの発現である個人の行為は、時として思いもよらないものとなる。だれもが二重人格であり、多重人格であるのだ。そのことに驚いたり、苦しんだりするのは、人格は一定であり、確固としたものでなければならないという社会的規制が、人格に枷をかけているからである。社会は、個人が非人格的、すなわちお仕着せの、既成の人格であるかぎり、安定し、統制しやすいからである。すなわち〈人格者〉が養成されるのである。その反動は、人格の反乱によって、小は犯罪から、闘争や残虐や戦争にいたる人類史の悪夢となって噴出するのである。
 人格は基本的に社会的構成物である限りは、その形成は完全に自由ではありえないが、その核である自己意識の統一、同一性、持続のもとに、自我の完成を目指すことによって、みずからを律する理想の統一的人格を形成することは可能であろう。その働きの中心を成すものはEgoであって、強力なEgoがなければ、強力な人格は形成されないといってもよかろう。理想の人格の形成は、エゴイズムの最初にして最大の課題なのである。 
2024年2月27日(火)
多摩川散策
      
 多摩川は関東では広い河川敷を持つ大河であり、東は川崎あたりで東京湾に注ぎ、西は奥多摩に源流を発する。青梅線は多摩川の左岸に沿った路線であるが、拝島や青梅あたりでも、多摩川の景観は広々としてすばらしい。少し奥へ行くと、鳩ノ巣渓谷あたりでは、もう渓流なのであるが、ちょっとした散策をするには、そこまで行く必要はない。
 拝島で乗り換え、五日市線で一駅、熊川で降り、高架線に沿って15分も歩くと、多摩川の堤に行きあたる。河川敷は広々とした運動公園になっている。林の散策路もあるが、今の季節は枯木である。枯草を踏み分けて河原に下りる。澄んだ水が、青空を映して、センセンと流れている。

 

 2月の強風の日であるから、運動する人も、散歩する人も、ちらほらである。枯木の道を歩いてみる。春夏はよい緑陰であろう。とはいえ、青空を背景に枯木を見あげていると、心惹かれるものがある。なんとない追憶の疼きである。

 

 堤の上の遊歩道もしくはサイクリングロードを、北風に背を押されながら、南に歩いていく。堤の左手にそって桜の木が一キロほどつづいている。春には見事な桜堤であろう。西の方面には、どの辺の山であるか、はるかに連山が眺望される。

 

 

 橋の先には公園があり、そこで休んでから、拝島駅を目指して帰路につく。東方面で16号に行きあたれば、道に迷うことはない。16号沿いを北に行けばよい。
2024年2月22日(木)
自己保存について
 一見、個人的趣味や利益の問題に思われることでも、その本質においては類的本能もしくは種の存続のための、生命の策略ににすぎない行為や営みが多々ある。個体保存の本能は、本来的には種の存続とは直接関連しないのであるが、逆に種の存続が個体保存に深甚な影響を及ぼすことは、普段はほとんど意識にのぼらないことであるが、結果的に気づかれることになる。もっぱら自己のため、自己の利益のためと思ってなしていたことが、じつは種の存続の本能によってあやつられていたことに気づくのである。
 たとえば美の意識がある。自然界であれ、人間界であれ、美しいものに惹かれる心情は、きわめて個人的に思われる。美に打たれる感動はまったく個人のものであり、個人の享楽、個人の趣味以上に出でないと思われもする。はたして、そうであるか。美が、もし特定の個人にとってだけの美であるならば、それは正しいであろう。しかし美は、美学が成立するように、ある種の普遍的感性なのだ。すなわち同一の種にとっては、誰にとっても美しいものは美しい。美は類的感性の発現なのである。そうであるからには、美は種の存続にとって、なんらかの有利な条件でなければならない。たとえば、これを鳥や昆虫の渡りの本能に見ることができよう。
 青空や季節の移ろいは、鳥や昆虫の感性に特別な影響を与える。それは種にとって普遍的であり、彼らは一斉にそうした感性の刺激のもとに、渡りを開始する。美的感性とは、種の存続のためにたくらまれた、類的本能なのである。人間の場合でも、放浪の願望やロマンは、単に個人の資質の問題ではなく、種の存続が根底にあるのである。環境が変われば、人類は新たな環境を求めて放浪する。個人の場合も、たいていの放浪の物語が、理想の配偶者を見いだすことで終わるように、生殖の本能が根底にあるのである(例えば、アイヒェンドルフの<のらくらTaugenichts>や、スティーヴンソンの<砂丘の冒険>の主人公など)。
 美は個体保存ではなく、種の存続のためにあるのであり、美を独占することなどは、生命体にとって許されないのである。芸術家は、すなわち美の探究者は、決して自立的・自律的ではありえない。美においては、決して個体は保存されないからである。ここに芸術至上主義の、ある意味での逆説がある。美のための美、芸術のための芸術とは、種の存続のために、個を犠牲にすることでもあるからだ。美は類的本能としての範囲で、永遠でありうるが、個人の生命はそのために犠牲にされる(ars longa vita brevis)。
 美に限らず、善はどうであるか。善の行いは、美的営みよりもはるかに明瞭に、類的本能にもとづく、すなわち種の存続のための行為である。カントはそれを定言命令として言い表わした。<なんじの行為の基準が、人類にとって普遍的な行為の基準であるように行なえ>というのが、種の存続の基本的要請だからである。そこには個人的な感情は含まれていない。だれにとっても普遍的な感情のみが許されるのである。じつはこのような道徳律によっていとなまれる行為は、個人にとって少しも自立的・自律的(Autonomie)ではありえないだろう。自立的・自律的とは、個体保存にとってのみ言いうることである。
 個体保存とはなんであるか。純粋に種の存続の本能から切りはなされた、個体保存の本能とは、もっぱら個体の利益と優位にもとづくものでなければならない。生命体としての個体は、自己自身の心身の機能と能力によって、環境の中で自己自身の存在を確保して行かねばならない。この環境(Umwelt,circumstances)には広く自然環境と社会環境(境遇)が含まれる。与えられた環境を、いかにおのれの生存にとって有利に、有効に利用するか、それが個体保存の全課題である。その基本原理は美でも善でもなく、芸術でも道徳でもなく、ただ単に個人の持つ生存の能力と、それを発揮する力である。自立・自律とは、その原理を環境において確立することにほかならない。動物界では、これができた後に、種の存続の本能が個体保存の基礎の上に、その成果をつみとるのである。
 この点からみれば、個体保存は種の存続に従属している。じつは個体保存も、その環境において類的本能の保護を受けており、その恩恵にあずかっている。個体は親の準備した環境においてのみ育つことができ、また個体は集団化することによって、自己の保存を有利にする。種の存続もまた、個体の保存がなければ、成立しない。種の存続とは、何よりも個体が残ることなのであるから。それゆえに、より能力のすぐれた個体が自己保存をすることは、種の存続にとっても有利なのである。個体が一見、自立・自律的になしていると思っていることも、じつは種の存続の本能にあやつられていることが多いのである。
 このことを自覚するならば、真の自立・自律、真の個体保存とはなんであるかを、あらためて考えねばなるまい。美も善も、種の存続の本能の手のひらにあるならば、真はどうであるか。真理の探求は、もとより真というものは、なんらかの普遍妥当性を要請されるかぎりにおいて、類的本能に基づくものである。個人的真理などというものは、基本的にはない。真理の探究心も、種の存続の本能から出でるのである。科学を考えれば、それがどれほど種の存続の役にたっているか、疑う余地もない。もし科学が人類を滅ぼすならば、それはよりよい種の存続を求めての、生命の狡知であるといえるかもしれない。滅びは時として必要なのだ。
 真の個体保存は、真善美を離れたところにある。真善美はすべて類的本能の産物なのである。類的本能に支配されない個体保存とは、真理にも美にも道徳にも縁のない、個体の利益そのものの中に求められねばならない。それは根本的なエゴイズムである。種の利益よりも、個体の利を優位におくことである。そのためには類的本能を大いに利用することもあろう。要はそれに従属しないことである。エゴイズムの根本原理は、おのれの身心の能力とそれを発揮する力である。おのれの利のために、それを拡大し発展させることが、個体保存のすべてである。この〈力への意志〉によって、おのれの人生をおのれのために築きあげることが、エゴイストの人生の課題、すなわち真の自立・自律であり、真の自己保存である。
2024年2月2日(金)
飯能河原散策
    

 先日、八高線の東飯能駅で降り、西武線の飯能駅をへて、入間川にかかる飯能大橋に向かった。入間川はこの辺では名栗川とも呼ばれる。橋をこえた川の向いには、岡の上に広大な団地があり、公園もあるのだが、浄心寺という寺に少しよって、橋をもどり、橋のたもとに降りて行くと、川沿いに遊歩道があった。
 最初は舗装されていたが、すぐにごろごろした石と落葉の道なき道になる。平日の午後であるから、人と行き逢うこともまれで、静かな散策を楽しめる。

   

  

 そのまま飯能河原まで歩いていく。小・中学生のころ何度か遊泳にきたが、今では印象がまったく違う。

  

 ちょっと見覚えのある堰などもあったが、大人の目ではとるにたらない。自然のプールのような場所であった。ちょうど工事中で、その先まで行く気持をそがれた。