2025年3月16日(日) |
Aphorismen 13 |
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1.人間の頭脳の頑迷さは、ほとんど絶望的な度しがたさに達する。通常の論理がまるで通じないのであるから、そのような人と議論をすると、狂人を相手にするのと等しい、胸の悪さを覚えさせる。どこまで行っても議論が平行するのである。そのような人は論理すなわち理知ではなく、ショーペンハウアーが言うように〈意志〉によって支配されているのである。
2.なにかを頑迷に信じこむということは、たとえそれが真理に近いことであったり、科学の教えることであったにしたところで、いかなる批判も許容しないという点で、ある種の偏執狂に近いのである。たとえばある事柄が事実かどうかという問題が先決である場合にも、その事柄が科学に反するということだけで、すでに事実ではなくフェイクであると断じるような場合である。すでに出来事自体がいかさまであると断じているわけであるから、事実判断などはどうでもよいのである。その場合事実が先にあって、その出来事の真偽を問題にすべきであるのに、論理が倒錯してしまうわけである。
3.おのれの信念に反することは、それを批判されると、えてして感情的になりがちである。論理ではなく、感情がものを言うわけである。人間の頭脳には誰にも頑迷さがあって、それに気づくまでには長い年月がかかることもある。思想的な信念ばかりでなく、単なる思いこみも、いちど固定されると、それに気づいて矯正されるまでには、長年月がかかるものである。ある日ふと気づいて、こんな単純な間違いに、今までいちども気づかずにいたことに、あきれてしまう。長生きをするということには、こうしたちょっとした認識の進歩という、歳の功があるものだ。
4.もし死ということがなかったならば、人間はこの世とあの世の区別などは立てず、肉体と魂の二元論におちいることはなかったであろう。肉体が滅び、単なる物質に帰することを見て、認識する存在または生き物である人間は、認識そのものが共に滅びることを、肯んずることができなかったのである。肉体を離れた霊魂の存在を考えることは、認識者にとってはごく自然である。人間は他の動物と違って、極めてあるいは優れて観念的存在であるゆえに、肥大化した観念が、それ独自の存在を持つと考えるのは不思議ではない。このことの端的な命題が、例のバークレイの<存在とは知覚されることである>に言い表わされている。つまり存在とは観念の存在なのだ(*)。
(*)厳密に言って、知覚するactと、その対象である観念とは同一ではない。しかし観念がなければ、なにかが存在するということも知覚できないわけである。
5.観念を持つ人間の存在が、肉体や物質と同じであるわけがない。この信念は、原始人や古代人を始め、古今東西、あらゆる人類社会に共通した固定観念である。古代人はこの信念を平等に生命界全般に及ぼしさえした。動植物もまた霊魂を持ち、人間の魂は単にその頂点にある、とくべつな〈精神〉であるとされるのである。人間は自然界の霊を代表する〈霊長類〉なのである。
6.たしかに、この物質宇宙で精神を持つのは人間だけである。その点では、人間は特異な存在者である。しかしその特異性が、物質と異なった存在の根拠となりうるかどうかは、また別の問題である。単なる思いこみが、そのまま真理であるとは限らないのである。人間は途方もなく〈妄想〉する存在であるかも知れないのである。その妄念からいつか覚めれば、空や虚無が残されているだけかもしれないのである。
7.あの世や来世についての人類の素朴な想像は、この霊魂観の自然な帰結である。面白いことに、肉体とは異なった存在であるとされる霊魂にしても、あの世ではほぼこの世と変わらない生活をつづけるものと、みなされていることである。古代エジプト人の来世は、単にこの世のduplicationにすぎない。そこでは耕作も行われ、この世の苦労、禍福のすべてが繰り返されるのである。天国と地獄がはっきり分かれたキリスト教や仏教の来世観では、さすがに天国や極楽の生活は洗練されているが、地獄の責め苦は、肉体がなければほとんど不可能であろう。地獄へは肉体ごと落ちるのである。
8.あの世でもやはり肉体がなければ不便だと感じられたのであろう、霊的肉体というものが考案された。この世の肉体とまったくそっくりであるから、スウエーデンボルグによると、肉体そのままであの世にはいるので、最初は死者も、自分が死んだことに気づかずにいるほどである。キリスト教の最後の審判では、ゾンビではなく霊の肉体でもってよみがえり、基督の審判を受けるのである。
9.死後の霊魂の行き先については、人類は三通りの想像をした。一つは古代エジプト人に典型的な、この世の写し絵としての来世であり、life after lifeである。すなわちこの世の生とほぼ類似した、第二の人生である。いま一つは、アメリカ・インディアンなどに見られる、すべての霊が帰ってゆく〈祖霊〉の世界である。そこでは血族や類のつながりが、いわば共通の墓地としての霊界をなしている。この祖霊の世界はかなり抽象的な世界であり、天や地といった自然界と結びついた、漠としたアニミズムの様相をおびている。いわばどこにあるともなく、どこに想像してもよいわけである。第三に、インドやチベットに典型的な魂の転生の観念がある。魂と肉体との深い因縁が、輪廻転生の根底にある。魂は肉体とは別としながらも、霊魂はあくまでも肉体の復活にこだわるのである。この世の生命に満たされない思いを抱いた霊魂が、次の生まれ変わりにその欲念をこめて、復活を願うのである。しかしこの転生は、ブッダによって苦の無限の繰り返しであると喝破されて、それを超えた解脱や浄土への願いへと転化されてゆく。
10.魂と肉体とは別物である、という信念はごく自然であるだけに、文明人であれ野蛮人であれ、ほとんどぬき難い思い込みとなっている。その結果として死後の世界、あの世、来世、天国、地獄、幽冥界、生まれ変わり、輪廻転生、霊界、アストラルボディ、アカシック・ワールド、などなどという、<スピリチュアル>な想像もしくは妄想が、人類文化史を彩っている。これらの出処は、すべて脳の肥大した人類の観念の過剰に帰することができよう。明晰判明に思惟できることは、すべて真理であるとしたデカルトは、この明晰判明こそが、人類の観念的頑迷さの原因であることに思い及ばなかったであろう。考えることそのものは疑いえない。しかし<疑いえない>ということは、まさに観念的存在である人間の先天的宿命なのであるといえよう。疑いえないということを疑わねばならないのである。
11.宗教が大衆の形而上学であるとすれば、プラトンに始まる本来の形而上学は、魂と肉体との区別を、魂(プシュケ)の上層部である精神(ヌース)と物質との区別とする。この精神は肉体に宿っていながら、すでに生前において、その本来の住処である精神界と関係を持っている。そこは単に死後に行く世界であるばかりでなく、この世界の本質として存在しているのであり、この世界は、あるいはこの世界の認識は、精神界(イデア界)の影に過ぎない。精神は不滅であり、真の存在界であり、人間精神はその不滅性と真理に与っている。この形而上学が、キリスト教の神や天界の観念に取り入れられて、その天国観を純粋なものにしている。
12.現代の思想家は、この形而上学そのものを疑うようになっている。この<二世界論>は、その発生の根底において、人類の素朴な来世の観念と共通の基盤によるのである。精神もしくは魂が、生前にその肉体という牢獄にとらわれているという、人類共通の嘆きが、あらゆる形而上学の根底に見られるのである。もし人間が死なずにすむ存在であったならば、はたして天国はいざ知らず、精神界などというものが必要であったろうか。この世界があるがままに、探究もし、生きもしたであろう。精神界は、人類の苦悩から生まれた思い込みなのである。たしかに人間は精神的存在でありうる。しかし精神そのものが、それによって存在しなければならない謂われはないのである。
13.人間が確実であると思い込むことには、そこに何か人間の頭脳の頑迷さが隠されている可能性があることを、つねに警戒していなければならないであろう。その点自然科学は、つねに検証によって、あるいは検証不可能性によって、事実や真理を確かめる態度を持しているが、その検証にも人間的限度があることが、えてして忘れられると、ある種のscientismの頑迷さが生まれることになる。人間の認識力や経験能力には生命体としての限界があって、絶対の真理や絶対の存在などというものには適応できないのである。かといって空想や想像がそれらの欠陥を補うわけでもなく、たとえ理知であっても、その及ぶ力には限界がある。理知もまた妄想や思い込みにとらわれるのである。まして理知や経験を超えたことには、人間の頭脳は対処できない。それに対処するには、ひょっとして人間以外の生命体がそうしているように、頭脳以外で対処するほかはないのであるかもしれない。
14.魂もしくは精神、あるいは人格的な意味においての〈自我〉は、二元論以前の段階として、肉体もしくは身体との結びつきが、相互に浸透しあった、のっぴきならない関係にある。肉体には五感と言う感覚器が具わっており、その五感から生じる感覚が、そもそも肉体に属するのか、霊魂(自我)に属するのか、明確に区別することは、未開人はもとより、感覚の生理を心得ている現代人にも、ほとんど不可能に近いであろう。感覚器のない感覚などは考えられないのであり、目の利かない蝙蝠が、音響反射によってとらえる世界像は、なんらかのイメージの世界であっても、少なくとも光明に満ちた世界ではないであろう。魂は感覚によって浸透された存在である。このことが霊肉二元論の大きなネックとなっている。肉体から離れた魂が、なおもなんらかの感覚を有しているならば、感覚器(厳密に言えば脳)のないところに感覚があることになり、感覚自体がなんらかの実体的存在であることになる。そうならば盲人は、その魂が肉体をぬけ出たとたんに、光明の世界に浸されることになろう。肉体は感覚的に不具であっても、魂は本来完璧なのである。
15.このような難点を避けるために、二元論者は二重の肉体を考えねばならなくなる。物質的・生命的肉体と、霊的・超越的肉体である。後者は前者とそっくりにできているが、地上の生命は失われて、あの世の環境に適合するために新しい生命を付与されている。魂はいわば、この世の肉体の分身をたずさえて、あの世に赴くのである。感覚ばかりではない、記憶や習慣までも、あの世に伴なっていく。この世の生活の継続が、あの世なのである。この素朴な来世観は、たいていの宗教の根底に見られる。それに応報や審判といった、現世での〈正義〉の観念もまた伴なっていく。
16.あの世へは、たいていの宗教では、記憶が伴なっていく。誕生ごとに魂が創造されると考えるならば、魂にはこの世とあの世のふたつの環境しかないので、記憶が途切れると不便なのである。しかし魂には前世があるとする宗教も多い。前世に関してはどうか。転生を説く宗教であっても、記憶までも今生に伴うケースはまれである。誰しも生まれる前のことは何も覚えていないのがふつうである。生まれる前は闇であって、もしさらに生まれ変わることがあっても、今生のことは忘れる。このような輪廻転生の説では、魂はそれ自体では、まっさらな白紙であってもよいわけである。少なくとも魂は生まれるたびに新鮮である。因果応報がそこに結びつくとしても、それの記憶がないかぎりは、直接その責任がない。単なる運命でしかないのである。最後の審判も起こりえない。生まれ変わりごとに、すでに運命として審判が成り立っているからである。
17.霊肉二元論は、この世界の上に、さらに死後の世界という一つ余計な世界を付け加えるか、霊魂(自我)の繰りかえしの転生という、運命観をもたらしたことになる。霊魂は今ここ一回かぎりであるという、明々白々な事実を、複雑に多重化することは、やはり人類の過剰な観念性から来る錯誤なのであろう。霊魂の唯一の正体は、近代的な用語では〈自我〉にほかならないのであるが、自我の本質はその無時間性、唯一無二性にあるのであり、それを多重化する必要などは毛頭ないのである。自我は自我であることによって、すでに絶対であり永遠である。自我は自我以外のものを必要としないのである。自我は説明以前であり、それを説明しようとするならば、不可解とするほかはない。すなわち不可解であること、無根拠(Ungrund)であることを本質とするのが自我であるからだ(*)。その点で釈迦が言うように、アートマン(個霊)としての自我は相対的であり、現象的であり、存在しないのである。
(*)無根拠であるということは、原因にさかのぼることも、結果を生むこともないということである。それゆえに、理知によってとらえることは不可能であり、またほかに根拠がないのであるから、その存在は唯一無二であり、絶対であることになる。 |
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2025年2月1日(土) |
Aphorismen12 |
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1.人間原理:この宇宙もしくは世界が人間にとって都合よくできているという考えは、すでに古代人が抱いていた考えでもある。古代エジプトでは、人間は創造者である神と協力関係にあり、世界の秩序を維持するためには、人間もまた神に助力する立場にあると考えられていたそうである。神もまた不完全であり、悪魔や敵と戦わねばならず、そのために神のパートナーである人間を必要とし、人間の棲家としてこの世界を創造したのである。
2.古代エジプト人にとって、神殿とは人間の欲望をかなえるための祈願の場所ではなく、神々の必要に応えて、世界の秩序の維持者である彼らに、力と応援とをもたらす場所であった。神殿は神の創造物の似像であったといってよかろう。あるいは神そのものの発現なのである。ピラミッドもそのように見るならば、墓ではなく具象化された創造神であることになろう。
3、この世界ばかりでなく、死後の世界もまた人間に都合よくできている。この現世のコピーなのである。現世であれ冥界であれ、人間のために創られているのであるから、人間に無縁な世界はどこにもないのである。
4.人間は創造神と共に、その創造した世界・宇宙の秩序の維持に努めねばならないのであるから、その点で神と人とは同等である。神もまた人の姿をしているのである。スフィンクスがその象徴であろう。宇宙が神の体からなるならば、それは同時に人間の体に似たものでもある。人間のために創られた世界が、人間そっくりであるというのは、単に想像力の素朴さの故ではなく、世界が人間にとって都合のよくできているからでもある。
5.あらゆる呪術、宗教的イマジネーションは、基本的に人間原理であるといってよかろう。未開人の呪術、インカやアステカやマヤの祭祀、現代も続く神道のアニミズム、などばかりでなく、一神教の人格神や仏教の諸仏にいたるまで、神と人間の共扼関係に基づかない宗教はなかろう。神は創造者あるいは秩序の維持者であるから、この世界の出来事が神にとっても、人間にとっても、都合よく運ぶよう、人間自身が神々に協力し、宇宙の秩序の維持に努めることが必要なのである。それが人間原理に基づく〈人間の使命〉である。そのことが忘れられると、宗教もあからさまな現世利益に堕することとなる。
6.現代の宇宙観に基づく人間原理は、もっとドライである。この世界は無慮無数ある宇宙の、偶然に生まれた一つに過ぎない。それが人間にとって都合よくできた宇宙に思われるのは、まさにそのような物理法則の宇宙だからこそ、人間が生まれえたに過ぎないのである。どのような奇蹟も、数限りない宇宙の中で、起こるべくして起こるのである。この奇蹟をなしとげたのはもはや神ではない。神は<サイコロを振らない>のであるから。
7.この宇宙をより客観的に見るならば、人間や生命体にとって都合のよい宇宙ではあっても、はたしてそれは最善の宇宙なのであるかということが問われよう。この観点からは、人間や生命体にとって、この宇宙は必ずしも都合がよくないのである。一つの生命体は、他の生命体に食われるためだけに、存在しなければならないのか。一つの文明は、他の文明に滅ぼされるために、存在しなければならないのか。知性は創造と同時に破壊の道具であるのはなぜか。そもそも生命体であることは、宇宙にとってどれだけの意味と価値を持ちえるのか。人間原理そのものも、生命体の産物にすぎないのではないか。
8.人間がこの宇宙を、あるいはこの宇宙の創造者である神を、人間類似のものと考えることができた時代には、このような懐疑は生じなかったであろう。いわばこの世界のあらゆる出来事を、人間を中心としたゲームと考えることができたからである。それは過去や未来やあの世にまで及んだゲームである。今そのようなゲームから覚めてみれば、空々漠々とした無限永遠の物質宇宙があるばかりである。永遠無限の見地からすれば、生命は生じなかったに等しいであろう。実はこの宇宙の根本は反人間原理なのである。たまたま生まれた生命体が、この宇宙をおのれのものと勘違いしたに過ぎないであろう。人間原理もまた、人間の勘違いなのである。
9.無からの創造:という奇妙なことが現代の宇宙論で言われる。ビッグバン・インフレーション以前の特異点において、宇宙は極限にまで最小化され、物質・空間・時間のない無の状態におかれる。この無からどのようにして宇宙は生じたのであるか。無とはいえ、量子力学的に、そこにはゆらぎがあり、その不確定性の故に、トンネル効果によって、無から突然にインフレーションが生じたものとされる。無と称しながら、そこにいくつかの原理が含まれていることが分かる。
10.無をどのようなものとして定義するか。これの根本は、古代ギリシャのパルメニデスにさかのぼる。<有るものはあり、無いということはない>。この簡潔な定義が意味するところは深い。アリストテレスも難儀したようである。ここで言われているのは、有るものそのものである。有るものが何としてあるのではなく、有ることそのものが問題とされている。有ることそのものの本質が問われているのであるから、そこにはもとより無いということはない。ソクラテスは確かに石ではないが、ソクラテスはソクラテスとして有る。有るかぎりにおいて有るのである。
11.無は相対的であって、有は絶対的である。もし絶対的な無というものがあるとすれば、それはもはや認識を超えた、絶対の否定というべきものであろう。そのような無に対しては、もはや有もないのである。認識において現われてくるのは、有のほかにはない。無は認識の否定であり、存在が認識と切り離せないかぎりにおいては、無そのものはどこにもないのである。認識者にとっては、無とは認識の絶対の否定であり、絶対の暗黒なのである。
12.無からはなにものも生じないというのは、古代人が到達した有と無とに関する、論理的的な洞察である。もし無からなにかが生じるならば、それはもはや無ではなく、なんらかの有の要素をもっていなければならない。神は無からこの宇宙や人間を創造したというならば、そもそも神が根源の有であるからだ。古代人は神といわず、渾沌(カオス)と呼んだ。人間の認識が分明にできない、なんらかの根源の原理や力が渦巻くなかから、この世界や人間が生まれでるのである。宇宙は渾沌から生まれる。この点では、現代物理学の説く宇宙論も同様に思われる。
13.現代宇宙論で無と称するものは、じつは渾沌にすぎないのである。そこでは時間も空間も物質もないが、すなわち日常的な認識力がとらえる有の姿はないが、なにやらゆらぐものがあり、量子力学の原理が働きつつある。そこから奇妙なトンネル効果によって、まるで手品のように最小の点が、最小の時間で急激な膨張をとげるのである(砂粒が一瞬にして観測可能な宇宙にまで広がるような膨大さである)。通常の時間や空間の認識では、想像を絶したスケールである。このことはまた、時空の観念の相対性を反省させる。
14.知性(understanding,Intelekt)とはどのような働きであろうか。その一つの特徴は、その無限の投影能力である。環境のスケールにおいてばかりでなく、限りなく大きな、また限りなく小さなレヴェルにまで、思考を拡大、または縮小できるのである。時間空間に関するかぎり、知性にとっては果てというものがない。たとえ物理的にプランク長やプランク時間が定められても、思考する限り、さらに小さな時空を考えることができるし、観測可能な宇宙を超えて、思考はどこまでも宇宙を拡張することができる。それらは単なる想像ではないかと言われよう。たしかに科学の範囲を超えていよう。
15.知性の無限投影の能力は、しかし宇宙の永遠無限に適応した能力であると言えないこともない。さもなければ、宇宙の探究は不可能であり、数学ですら生まれないであろう。目に見えない世界を探究するには、見えない世界にまで及ぶ思考の能力が必要なのである。知性は感覚を超えて、思考を投影することができるのである。デモクリトスが単なる思考によって原子論を唱えたのも、プラトンが感覚を超えてイデアを探究できたのも、ブルーノーが宇宙の無限を洞察したのも、量子論が宇宙の根源にせまれるのも、知性が永遠無限に適応した能力だからである。
16.永遠や無限は知性を当惑させるが、そもそもそのような当惑そのものが、あらゆる探究にはつきものなのである。知性は最初、人間原理に奉仕しながらも、ついには人間原理を超えてゆく。その意味で、知性は生命体の中でもっとも宇宙的な原理であり、能力であると言えよう。そのような能力として用いるならばである。たいていは、単なる生命体にとっての道具的地位でしかないが。 |
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2025年1月30日(木) |
冬の星座 |
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M町は低山が近いだけあって、空気が澄んでおり、冬は寒いが、都市部に較べて星の光が鮮やかである。夜中にゴミ出しにゆくと、西南の空に明るい星ぼしが、まばゆいばかりに輝いている。中心はオリオン座で、大犬座のシリウスや、牡牛座のヒヤデスに囲まれ、おまけに今年は木星まで参加して、圧巻である。
なによりもオリオン座は、いつ見ても、雄大という形容がふさわしい。これほど広範囲に整った形は、ほかにない。一、二等星が作る胴体に、腕や頭を想像するのは容易である。二等星に減光したベテルギュースも、めでたく一等星に復帰している。ちなみに宮沢賢治は骸骨に見立てているが、なるほど東からのぼってくるときに、そう見えないこともない。少々不気味ではあるが。
星座でほかに勇者と言えば、ヘルクレスやペルセウスがあるが、どちらも二、三等星以下でなっており、勇者のイメージがわきにくい。ペルセウスはその弓形が印象的であるが、ヘルクレスには無理がある。オリオンに匹敵する空の雄大な見ものは、北東からのぼりかけている北斗七星であろう。これは熊の尻尾や乗り物と見るよりも、柄杓そのものであって、英語でもDipperという。北斗がなければ、北の空は、龍や王妃などにかかわらず、じつに閑散としたものであろう。
オリオンの大星雲は、6センチほどの口径でも、十分にその散光星雲と暗黒星雲の入り乱れるさま、トラペジウム(四重星)をめぐる綺羅星の連なりを堪能することができる。あれこれとかすかな星雲星団を探訪したのちに、ここへ戻ってくると、やはりその盛大さには圧倒されるのである。
東天には、春を代表する獅子座が、すでに高くのぼっている。レグルスを中心とした、その獅子の形は容易に見てとれるのだが、西に傾いていく星ぼしの賑わいに較べると、はやくも春愁を覚えさせる。 |
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2024年12月11日(水) |
Aphorismen 11 |
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Part1 哲学者
1.哲学者は人生を生きることはない。いわば人生を俯瞰し、人生の上空に架空の存在をいとなむに過ぎない。哲学者は実際に生きてはいないのである。それゆえに、生命を場合によっては憎み、忌避することによって、かえって生命から報復される。生命から遊離している故に、哲学者の内面にはつねに不満がたまっており、それが極端な自己主張や、自己顕示となって表われ、いわば長大な論文が生命の代用をつとめるわけである。
2.哲学者が狷介で、怒りっぽいのは、生命と直接触れることができないため、たえず生命体としての欲求不満を内にためこむからである。この段階を克服すれば、生命の上空に飛翔する、静謐な思索に身をゆだねて、いわば身体離脱を遂げることができよう。しかし飛翔は必ず落下をともない、生命のふところにふたたび囚われれるほかはない。これが哲学者の栄光と悲惨である。
3.哲学者は実際に生きていないのであるから、その人生はいわば幽霊のようなものである。学生時代、夕暮れ時の哲学の授業をかいま見たとき、教師も学生も、みな黄泉の国の存在のように思われたものである。また老哲学者の、思い出を語るような哲学談話には、まったく生命の温かみがなかった。ラテン語の授業で、活用の中にfacが出てきたときの、教授の狼狽が思い出される。
4.哲学は、人生の総合的な生き方としては、すでに古典古代で終了している。それ以後、古典的な意味での哲学者は死に絶えていると言えるだろう。それを復活しようとしたニーチェですら、ラッセルによってprofesser呼ばわりされている。
5.詩人が必ずしも詩を書く人ではないように、哲学者も、論文を書く人でなくてもよいであろう。哲学者は必ずしも研究者である必要はなかろう。エピクロスは自然研究を人生に従属させている。古典古代において、哲学者とは人生を哲学的に生きる人である。
6.哲学的に生きるとは、生命を俯瞰する視点を持ちながら、生命そのものから離れることがなく、よりよい人生を切り開くことである。これは単なる動物的生活にとどまらず、知的生命体としての有利な立場を、生活に生かすことである。実際、哲学者のモデルであるプラトンは、そのように生きて、活動している。アリストテレスとなると、ややprofesserに傾いていよう。トマス・アクィナスともなれば、まさに神学のしもべ(下僕)である。
7.神学であれ、学問であれ、下僕として生きるか、自由な独立人として生きるかが、問われていよう。哲学そのものは、自由人として生きることの、一つの選択肢に過ぎない。自由になるために哲学するのではない。自由であるから、その自由をますために哲学が必要なのである。すなわち現実飛翔の観点から、生命のなかのさまざまなしこりや障害を見抜き、生命そのものに本来の自由をとりもどすのである。それが哲学の効用utilityである。
8.抽象的思索にはある種の知的快感、心情の快がともなうことは確かである。生々しい身体の感覚的快を離れ、思索する静謐な思いのなかで、心静まり、ほのかな心地よさにつつまれる、この心的状態を知的快感としてよいであろう。論争や、現実に対する攻撃のないかぎりは、ひとつの心の別天地である。哲学がこの状態を求めるなら、ある種の救済ともなりうるが、生命に対抗するにはあまりにも弱々しい、くしゃみ一つで壊れかねない境地である。
9.哲学が煩悩の救済となりえないのは、上のような理由からである。むしろ煩悩を増すこととなりかねない。煩悩を絶つためには、哲学はエクスタシー、すなわち秘儀的な実践へと至らねばならない。それはすでに、理性のいとなみである哲学の及ばない領域である。
10.学問として、あるいは職業(つまり生活の手段)として、哲学を研究するのでないかぎりは、哲学は実際の生活においては、ほとんど無用のいとなみである。哲学が実際の行為において役立ったことがあるだろうか。行為の中にはすでに生命体の本能的な叡智がひそんでおり、たいていの場合それに従って判断し、行動しているのである。それ故に、哲学を語りだしたとたんに、だれもがいやな顔をするのである。哲学は<人生において多くの無駄を省いた>と、ショーペンハウアーが言っているのは、哲学は、なにをしない方がよいかを教えてくれるからである。それ故に、哲学は人に語ることではないのである。古典古代においても、哲学は少数のエリートの間でのいとなみであった。
11.哲学が世界を変革すると考えるのは、ある種の妄想である。ルソーの思想がフランス革命を、マルクス主義が、ロシア革命をもたらしたのではない。革命を志向し、権力欲に燃えた者たちが、それらの思想を、人民の怨念や怒りをつのらせるための道具として用いたに過ぎない。革命は哲学からではなく、暴力的な情念から生じるのである。もし哲学が暴力的な情念をつのらせるならば、そのような哲学はもはや思索を超えて、たんなるプロパガンダとなるであろう。サドの閨房哲学が倒錯的性欲をかきたてるための手段であったように、共産党宣言は怒りと怨念をかきたてる、革命暴力のすすめであった。しもべならず道具としての哲学を極端まですすめるならば、哲学の効用、ここに極まれりである。
12.思索が行為に対する抑制や、刺激につながることは、そもそも考えること自体が生命体の自己保存の道具であってみれば、当然のことではある。そうした道具的知性を離れて、知性そのものの反省、さらに生命そのものへの反省として生じたのが、本来の古典古代の哲学であったろう。この反省を離れては、哲学は哲学の名に値しないであろう。性欲や暴力をつのらせるのではなく、それらに対する反省が、哲学のあり方なのである。世界を変革したいのならば、哲学などは無用である。知性を道具として用いるだけでよい。そのことを、惑わしでないかぎりは、哲学フィロソフィアと呼ぶ必要はないのである。
Part2 幸福
13、幸福とは個の存在においては得られないものであるようだ。老境において、もはやなんらなす用もなく、目的も意欲も失われるとき、深い空虚といらだちに襲われるであろう。個の存在は、それだけではなんの充実感も存在の意義も具わっていないのである。おのれ以外のものへの、何らかの欲望、交際と所有の欲望が、無力化した生命の意志の最後の残り火をかき立てるだけである。そのような時、死の観念が個の存在を圧倒する。死はあらゆる無意味の完成である。これまでどのようなことを成し遂げたにせよ、成し遂げなかったにせよ、何を所有しようが、所有しまいが、すべては空しいのである。
14、そのような時、ふと死を恐れなくなる、あるいは死などということを考えなくなる、ある情念がわき起こることがある。それは特に青年期の記憶にもとづいている。たとえばそれは恋愛感情が成就したとき、あるいはそう想像したときの、完全な自己放棄である。愛する異性と共に感情をかわしあうならば、そこには死など存在しないのである。あるいは子であれ、甥、姪であれ、血縁の子供たちに対して、自己犠牲をいとわない気持の中に、死の恐れは解消されてしまう。このような気持は、基本的に類的感情である。すなわち、類的感情に浸るときは、個人は死の恐れを忘れていられるのである。
15、死は類的意志にとっては存在せず、個体の存在にとってのみ存在する。それ故に死は、孤絶と虚無との闘いとなる。類的意志という大海の波浪の一粒の泡に過ぎない個体は、一瞬きらめいて、もとの海水へと消滅するほかはない。死とあらがうことは、おのれの本質とあらがうことである。もともと生命体であり、人間であることを、否定できないのであるならば、死は個体にのみ固有の運命として、おのれが存在しているのと同じほど、確実で必然なのである。
16、個体としての人間は、必然的に虚無をかかえている。それを類的意志によって克服しようとすれば、個体的存在は個体ではなくなる。すなわち問題は初めから存在しなくなる。死はただ単に、存在しないものとして回避されるのである。個として生きる限りは、つねにおのれが虚無であることに耐えていなければならない。つねに虚無を見つめ、意味のないものの意味を問うていなければならない。
17、なにか類的なもの、共通の集合意識に包まれたいという、誘惑に絶えず抵抗していなければならない。人類、国家、精神、神、仏といったものが、類的安らぎで、個の存在を誘惑するであろう。むしろ人類に対して全く無関心で、非情な物質である<宇宙>に、虚無の共感が得られるであろう。
18、大海の一粟にすぎない個体の存在が、一個の表象宇宙(モナド)として、あたかも全宇宙を包含しているかのように錯覚されるのは、驚くべきことである。じつは表象宇宙は個に属しているのではなく、類そのものであるとするべきであろう。だれも宇宙を私のものであるとは思わない。宇宙は類的であって、私のものでもだれのものでもないのである。そこには法則があって、私がない。モナドロジーは、じつは類的宇宙が無限の合わせ鏡となったものに過ぎないのである。そこにはもとから予定調和などは必要ない。
19、個の意識であると思っているものは、じつは共通の集合意識に過ぎないのであるかもしれない。なにかを考え、なにかを思うたびに、どこかに空気のように遍満している共通意識の中で呼吸しているのである。そもそも言語的に思考するかぎり、共通の思考基盤から脱け出すことはできないのであり、私はたえず思考の受け手を前提として(それが人間でなく神であるとしても)、ものを考えたり、想像したりするからである。そのような集合意識における私が〈モナド〉なのである。
20、モナドは類的であるゆえに滅びないが、個としての私は滅びる。私は滅びても、モナドは滅びない。滅びる私は、死によってこの宇宙から区別され、あらゆる類的存在から区別される。死こそ個体としての私の本質だからである。私が私であるのは、まさに死を前にすることができるからだ。死と虚無と、無限の落胆と無意味とが、私の本質なのだ。それならば、その死の中にこそ、私は非存在としての私の本来の場所を持つのではないか。滅びる私こそ、この宇宙とは別の、非存在としての本質を持つのである。非存在としての本質を持つものは、<わたし>以外にないのである。 |
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2024年9月16日(月) |
城ヶ島ウォーク |
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城ヶ島は三浦半島の突端にある、周囲4キロほどの小さな岩礁の島である。先日、一泊のささやかなウォーキングの旅をした。かなり以前に一度訪れているが、その時は雨で、歌にもあるとおり島の雨の風情であった。
今回は晴天を期待し、ベランダから星を見ることを予定し、小型望遠鏡をたずさえての、やや荷やっかいなウォークとなった。目標はさそり座と射手座であったが、海風が強すぎて、華奢なカメラ用三脚がぐらつき、まるで観望にならなかった。しかし、久しぶりにこの両星座の全貌を、雲にわざわいされず、確かめることができた。射手座には銀河系の中心があり、散光星雲や星団や微星が入り乱れるさまを期待したのであるが、海辺はあまり観望によくないことが分かった。
翌日は、残暑の暑い日差しのもと、重いバッグを背に、島の一周ウォークにでる。岩礁と海との島である。早朝から海釣りをする人の姿が、岩場のあちこちに見かけられる。

島には燈台が、東と西に一つづつあるが、昔見た宿の西にあるのは省略し、東の燈台へ向う。岩礁と砂原の、あるともなき道をいく。途中、馬の背洞門という奇岩が見えてくる。

そこから崖上にのぼると、後は整備された平坦な道である。展望台で休んでから、東の果ての燈台まで行く。燈台は今はすべて自動であるから、大昔のロマンをかき立てる灯台守などはいない。さっぱりした、メルヘン的な趣きである。

最後に、バス停のそばの北原白秋記念館による。白秋は三崎に9ヶ月間、この島を見ながら暮らし、ロマン的・写実的・印象派的短歌をものしている。城ヶ島の雨の歌の、<利休鼠の雨が降る>の意味が分かった。(緑色がかった灰色。江戸期にはやった色で、利休や茶の湯とは直接関係がない。地味な色からの連想である。) |
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2024年8月28日(水) |
孤独者のマニュアル |
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1.人生を知的・美的に生きるためのマニュアル:(1)自己自身の素質を正しく認識すること。(2)他者に多くを期待し、依存することをしないこと。また逆に、他者からの期待や要求によって動かされないこと。(3)名声や名誉のために生きないこと。(3)生活のためのワザを身につけておくこと。
2.自己自身において美的・知的素質がないならば、人生を二重に生きることは不可能であり、単なる動物的生活者であることにとどまるほかはない。単なる生活者であることにも、多様な能力と可能性があるのであるから、わざわざ困難な人生を生きる必要はないのである。そうした生活者が人類の大多数を占める所以である。
3、自己自身において美的・知的素質に恵まれたものは、人類の中で例外的存在であり、したがって他の人間とは区別され、別の人生を生きるほかはない。すなわち<孤独者>の人生である。通常、理解されることも共感されることもない。いわば人類の中での宇宙人である。かつ人間社会に対してなんの貢献もすることがなく、その意志もない。その点で、同時にエゴイストである。
4.自己自身に素質があるものは、他者とはその素質において一線を画すのであるから、他者から学ぶ以上に、おのれから学ぶのがよい。たとえ優れた他者であれ、他者への過度の依存心は禁物であり、他者からの評価や期待に動かされてはならない。他者は過小にも過大にも、期待したり要求するものであるから。自己は自己自身が一番よく知る。
5.知的・美的能力は、それらだけで自己充足をあたえるものであるから、競争したり、評価されたりする必要はない。他者から与えられる名誉や名声などは、自尊心を傷つけられない限りは、不要である。知的・美的探究は、それ自身において充足を与えられ、完結するのである。
6、知的・美的生活は極めて個人的ないとなみであるから、それでもって生活の糧を得ることは例外的であり、また本来のあり方ではない。もしそれで生活するならば、評判や名声が必要条件としてつきまとい、他者の要求に応えることで堕落する。
7.したがって知的・美的素質にひいでたものは、二重の生活者となるほかはないのである。必要最低限の社会的生活を営みながら、その本性においては孤独な人生を生きる。知的・美的生活者のマニュアルは、孤独者のマニュアルでもある。
8.孤独者のマニュアル:(1)孤独者は原則的におのれ自身の素質に絶対の価値をおく。(2)したがって他者からの評価も、期待も、自身の行為や考えを動かすことはない。極力依存心をおさえるのである。(3)他者からの理解も同情も求めないのであるから、名誉や名声のような社会的価値には無関心である。(4)生活のためには、あらゆる手段を工夫し、必要最低限の労働で、必要最低限の金銭を得る。
9.孤独者であるかどうかは、先天的素質によって決まるのであるから、孤独者は早くから、自己自身の運命を環境の中で認めることになる。自己自身のための人生を生きることを決意するのである。
10.孤独者にとっても他者は必要であるから、必要に応じて他者を<利用>することになる。彼は暗に陽にエゴイストなのである。その際他者への過度の依存心や執着は禁物であり、極力抑える。最後に頼るものはおのれ以外にないことを知っているので、他者と争うことをしない、平和なエゴイストなのである。
11.社会的出世や立身やは論外であり、社会のニッチで名声や名誉や、一般に評判などとは無関係に生きる。孤独者とて、社会の中で金銭をかせぎ、生活しなければならないので、そのワザを早くから考え、取得してゆかねばならない。
12.孤独者は最低限の社会的生活と、自己自身において充足する孤独の生活との二重の人生を生きるのである。それ故に、自己自身においてなんらかのひいでた素質をもっていなければならない。それは一般の人類には欠けている、知的・美的素質のほかにはないのである。単に肉体の能力にひいでた人間は、肉体そのものが類的存在であるゆえに、また単なる金銭欲や物欲にかられた者も、欲望そのものが類的であるゆえに、孤独者としては不適なのである。
13、とはいえ、身体は孤独者にとって知的・美的生活を維持するための生命的条件なのであるから、衛生と健康には必要な注意を払わねばならない。肉体そのものを鍛える必要はないが、精神衛生のうえで、肉体が十分に機能することが基本になる。そのさい、おのれの身体・肉体の世話は、極力他者に依存しないように、自己管理またはセルフメディケーションを心がける。そのための知識をおこたってはならない。
14、食に関しては必要十分な栄養管理、住に関しては簡素と衛生を、衣に関しては奇抜や無頓着におちいらないように、これだけは他者の注意を惹かないように普通を心がける。
15.他者に何を求めるか:人は動物であるかぎり、動物的欲求の多くのものは、他者において、あるいは他者の助力によって満たさねばならない。とりわけ幼少年期においては、両親という他者に全面的に頼らざるを得ない。動物的心情や本能がそのようにしむけるのであり、他者への全面的依存心によって、人生を始めるのである。しかし青年期において、両親をはじめすべての他者は、その本質においてエゴイストであることに気づくようになると、自らもまたエゴイストであることに目覚める。彼は動物的心情と闘いながらも、自己保存と人間社会でのサヴァイヴァルをかけて、他者との相互的利用の関係にはいる。
16.動物的心情もしくは本能の中で、もっとも強力なものは異性を求める欲求、すなわち種の存続の本能における快楽の欲求である。いわば人生において唯一克服の困難な、動物的依存心である。性欲は自己自身にとどまることがまれなのであり、たとえイメージなりとも異性によって刺激され、触発される。とりわけ、種の存続をになっているのは女性であり、その本能から男性の性欲を操り、従属させ、繁殖へと至るのである。その点、男女では他者に求めるものが異なっている。女性は本能的に<子>という他者を生みだす存在であり、男はたくまずしてその手助けをする。男女間では、この生命的関係の調整が、エゴイストにとっての最大の課題であるといえよう。
17、幼少年期から青年期にかけて、さらには自活・自立するまでの<モラトリアム>の時期においては、社会の中で自己保存し、生活を自立させるための知識や技術に欠けているために、依存心から脱け出すことはこの上なくむずかしい。すなわち社会に関しては、他人から多くを学び、アドヴァイスを請わねばならないのである。そこで友人関係が必須となる。あるいはルソーの「エミール」ではないが、すぐれたメンターを必要とするのである。この時期に必要最低限の社会適応が出来ないと、エゴイストの人生もまた、不安定な依存心によって困難なものとなる。
18、交友関係は、それによって自立心をそこなってはならない。とくに<あそび>にふけりすぎることは、相互的な快楽によって、この自立心・自律心をだめにしてしまう。他者に頼る快楽は、孤独者を破滅させる。彼は絶えず、他人なしには<退屈>にさいなまれるようになるからである。
19、知的・美的素質にすぐれたものは、もちろん悪友とつきあってはならない。動物界と同じく、人間社会には、猛獣・猛禽、ハイエナのたぐいに満ちており、孤独者はあやうきに近寄ってはならないのである。孤独者は例外的人間であるから、<同じ心の友>を見出すことはまず不可能であるが、比較的無害な友を選ぶのがよい。
20、社会適応と野心、名誉心、名声欲、成功欲などとは別物である。そうした社会的な要請や類的欲求は、本来の知的・美的生活あるいは自律的生活とは無関係であり、有害であり、人生を不安定にする。基本的にそれらの<社会本能>なるものは、(ショーペンハウアーの言うように)他者の<意見>によって動かされるものであり、そこから面目や恥や誇りといった、他者の意見や評判に左右される社会的心情が生まれる。最低限の社会適応、すなわち社会で生存していくための基礎知識や技術が得られたならば、エゴイストであるかぎりは、そうした社会的心情を離れて、すなわち名誉や名声や成功などにとらわれることなく、おのれの思うままに<自由>に生きえるような自立・自律心を確立せねばならない。
21、人類史の中でもっとも度しがたい社会的心情は、名誉心であり、集団のために誉れと名声を死後にまで残そうとすることである。英霊だとか悠久の大義とかに騙されて、あたら唯一の価値である個人の生命を無駄にするのである。<類がすべてであり、個は無である>(ショーペンハウアー)、という原則が生命体の類的本質なのであり、これに対抗するには、困難な道ではあるが、個の絶対性を信じるエゴイストとしての自律的人生を生きるほかはないのである。 |
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2024年8月24日(土) |
自由と金銭 |
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「金がないと生きてる気がしない」と言ったのは、ドストエフスキーであるそうだ。彼は印税が入ると、すぐさま賭場へおもむいて、一文無しになるような、ギャンブル依存症であった。小説を書いて稼いだ金で、金を稼ごうとしたのである。いったい金銭とはなんであろうか。
貨幣は物品とは違って、ものそのものの価値ではなく、ものの価値にかわるものであり、その点であらゆる物品の価値の代わりとして流通することができる、とショーペンハウアーはその人生論で述べている。かつては金や銀のような貴重なものをためこむことが富の誇示であったが、今日ではそのような必要はないのである。貨幣は、物品であるかぎり、あらゆる富の価値と交換ができるからである。
金銭は、特別な生まれの者でないかぎり、もとから個人に備わったものではない。金銭はいわば後天的に、どのようにして個人の手に入るのであるか。今日の資本主義社会、商品経済の社会では、その大本は<労働>であるとされる。何ひとつ持たずに生まれてくる個人は、その唯一の経済的所有物である<労働力>あるいは労働の能を、マルクスが言うように、それを必要とする者に売らねばならない。労働そのものは<商品>なのである。労働は商品としての需要があるのである。労働を買う側はどうかというと、彼はすでに商品としての労働を購買できるだけの金銭もしくは資本の持主である。もともとは労働を売る側であったかもしれないが、金銭を蓄えることによって買う側にまわれるのである。労働を買うのは、それによって別の商品を作るためである。世の中には労働だけでなく、無数の商品が溢れており、みずからその商品を作るのでないかぎりは、労働力を買って、組織的に経営することによって、<もうけ>を出すのである。これが商品経済のプロセスであり、資本主義の経営である。
商品は需要がなければ売れないし、供給がなければ買うこともできない。労働力は需要に応じて売らねばならない。また買う側は、それによって別の商品を作るのであるから、もうけが出るように労働を買わねばならない。これがマルクスの言う<剰余価値>のからくりである。労働はその一部を、買う側に貢がなければ、買い手がいないのである。これを支配するのも、やはり需給関係であり、労働市場、買い手市場などといわれる。前者ならば会社は不利、後者ならば労働者は不利ということになる。資本主義社会では、一般に労働者が不利になるような社会関係、社会組織が整備されている。かといって、社会主義や共産主義の国家的経済では、弱肉強食の競争が排除されるために、社会の経済活動そのものが停滞する。むりな国家主義的、民族主義的要求だけでは、労働を鼓舞出来ないのである。一般にユートピア的平等社会では、人間の本性として、労働や競争よりも怠惰が主流となり、余暇が尊ばれるのである。
この商品経済、資本主義経済の世界で、たいていの個人は労働を売って、それを金銭にかえるほかはない。ほかに売る商品を持たないし、商品を作ろうにも<もとで>すなわち資本を持たないからである。労働は商品であるかぎり、なんらかのワザ、すなわち技術や知識があれば有利になる。ここに商品の売買そのものではなく、商品の流通の媒体もしくは価値の代用品に過ぎないもの、すなわち架空の価値であるに過ぎない<貨幣>そのものを対象とする、商品経済における特別の営みがある。ひとつは土地や金貸しなどの<地代>や<金利>によるもうけであり、またひとつは、商品先物や株売買などの<投資>と、カジノや競輪・競馬のような純粋な<ギャンブル>である。これらは、金銭そのものを経済活動の対象とすることによって、社会の基本的<生産>には属さないために、まっとうな<労働>もしくは経済活動とは見なされない風潮がある。しかし、労働との比較において、おおいに有利な点がある。
資本主義社会においては、一般に労働者は労働の<奴隷>であり、一生その隷属から脱け出すことはむずかしい。労働を買う側も、商品経済に翻弄され、商品に隷属しているかぎりでは、たいていの資本家はいわば商品経済の奴隷であり、成功者でなければ、一生その主人となることはないかもしれない。はやく<引退>することを願うであろう。労働と資本の立場を離れて、高みにたって、この資本主義経済のちまたを乗り切るには、その流通の要である、架空の価値である金銭そのものを相手にしたほうが、そのことそのものとしてはずっと安全なのである。銀行業や不動産投資が、賢い経営として、資本主義にはつきものなのである。一般の個人はどうであるか。売れるような労働能力を持たない者はもとより、労働奴隷から逃れるためには、同じく金銭そのものに目が向かうことであろう。犯罪や不法行為でないかぎりは、投資やギャンブルが唯一の逃げ道なのである。しかし、これほど困難な、狭き門はないのであるが。社会はそんなに楽な逃げ道を用意してはくれない。
しかし、労働奴隷から逃れ、商品経済への隷属から逃れるためには、すなわち資本主義社会で内在的に個人の<自由>を獲得するためには、ドストエフスキーではないが、自由に生きているという実感を得るためには、金銭そのものを対象とする営み以外にはないのである。それは労働でも<仕事>でもない、単に生活のための営み(Beschaeftigung)に過ぎないが、自由を賭けた挑戦である。投資で成功する者は10人に一人、ギャンブルでの成功者は100人に数人であろうか。失敗すれば悲惨な末路が待っていることを、覚悟しての挑戦である。そのことを、よく心しておかねばならない。
社会的には、金銭そのものを対象とする営みは、銀行業などをのぞけば、あまり芳しいものではない。金貸しを業とするユダヤ人が差別と偏見にさらされたり、ギャンブルが東西を通じて悪とされ、<遊び人joueur>の所業とされるなど、また投資であれギャンブルであれ、儲けた金は<あぶく銭>とされるなど、社会倫理の攻撃を受けやすい。宮沢賢治の実家は質屋すなわち金貸しであったが、そのことの引け目が彼の<良心>にそうとうなプレッシャーとなって、「雨にも負けず」のような詩を書かせたのであろう。日照りや不作ていどでオロオロしていては、とても資本主義経済を乗り越えることはできまい。自由人であるためには、何よりも<エゴイスト>でなければならない。 |
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