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2024年9月16日(月)
城ヶ島ウォーク
 城ヶ島は三浦半島の突端にある、周囲4キロほどの小さな岩礁の島である。先日、一泊のささやかなウォーキングの旅をした。かなり以前に一度訪れているが、その時は雨で、歌にもあるとおり島の雨の風情であった。
 今回は晴天を期待し、ベランダから星を見ることを予定し、小型望遠鏡をたずさえての、やや荷やっかいなウォークとなった。目標はさそり座と射手座であったが、海風が強すぎて、華奢なカメラ用三脚がぐらつき、まるで観望にならなかった。しかし、久しぶりにこの両星座の全貌を、雲にわざわいされず、確かめることができた。射手座には銀河系の中心があり、散光星雲や星団や微星が入り乱れるさまを期待したのであるが、海辺はあまり観望によくないことが分かった。
 翌日は、残暑の暑い日差しのもと、重いバッグを背に、島の一周ウォークにでる。岩礁と海との島である。早朝から海釣りをする人の姿が、岩場のあちこちに見かけられる。

  

 島には燈台が、東と西に一つづつあるが、昔見た宿の西にあるのは省略し、東の燈台へ向う。岩礁と砂原の、あるともなき道をいく。途中、馬の背洞門という奇岩が見えてくる。

  

 そこから崖上にのぼると、後は整備された平坦な道である。展望台で休んでから、東の果ての燈台まで行く。燈台は今はすべて自動であるから、大昔のロマンをかき立てる灯台守などはいない。さっぱりした、メルヘン的な趣きである。

  

 最後に、バス停のそばの北原白秋記念館による。白秋は三崎に9ヶ月間、この島を見ながら暮らし、ロマン的・写実的・印象派的短歌をものしている。城ヶ島の雨の歌の、<利休鼠の雨が降る>の意味が分かった。(緑色がかった灰色。江戸期にはやった色で、利休や茶の湯とは直接関係がない。地味な色からの連想である。)
2024年8月28日(水)
孤独者のマニュアル
1.人生を知的・美的に生きるためのマニュアル:(1)自己自身の素質を正しく認識すること。(2)他者に多くを期待し、依存することをしないこと。また逆に、他者からの期待や要求によって動かされないこと。(3)名声や名誉のために生きないこと。(3)生活のためのワザを身につけておくこと。
2.自己自身において美的・知的素質がないならば、人生を二重に生きることは不可能であり、単なる動物的生活者であることにとどまるほかはない。単なる生活者であることにも、多様な能力と可能性があるのであるから、わざわざ困難な人生を生きる必要はないのである。そうした生活者が人類の大多数を占める所以である。
3、自己自身において美的・知的素質に恵まれたものは、人類の中で例外的存在であり、したがって他の人間とは区別され、別の人生を生きるほかはない。すなわち<孤独者>の人生である。通常、理解されることも共感されることもない。いわば人類の中での宇宙人である。かつ人間社会に対してなんの貢献もすることがなく、その意志もない。その点で、同時にエゴイストである。
4.自己自身に素質があるものは、他者とはその素質において一線を画すのであるから、他者から学ぶ以上に、おのれから学ぶのがよい。たとえ優れた他者であれ、他者への過度の依存心は禁物であり、他者からの評価や期待に動かされてはならない。他者は過小にも過大にも、期待したり要求するものであるから。自己は自己自身が一番よく知る。
5.知的・美的能力は、それらだけで自己充足をあたえるものであるから、競争したり、評価されたりする必要はない。他者から与えられる名誉や名声などは、自尊心を傷つけられない限りは、不要である。知的・美的探究は、それ自身において充足を与えられ、完結するのである。
6、知的・美的生活は極めて個人的ないとなみであるから、それでもって生活の糧を得ることは例外的であり、また本来のあり方ではない。もしそれで生活するならば、評判や名声が必要条件としてつきまとい、他者の要求に応えることで堕落する。
7.したがって知的・美的素質にひいでたものは、二重の生活者となるほかはないのである。必要最低限の社会的生活を営みながら、その本性においては孤独な人生を生きる。知的・美的生活者のマニュアルは、孤独者のマニュアルでもある。

8.孤独者のマニュアル:(1)孤独者は原則的におのれ自身の素質に絶対の価値をおく。(2)したがって他者からの評価も、期待も、自身の行為や考えを動かすことはない。極力依存心をおさえるのである。(3)他者からの理解も同情も求めないのであるから、名誉や名声のような社会的価値には無関心である。(4)生活のためには、あらゆる手段を工夫し、必要最低限の労働で、必要最低限の金銭を得る。
9.孤独者であるかどうかは、先天的素質によって決まるのであるから、孤独者は早くから、自己自身の運命を環境の中で認めることになる。自己自身のための人生を生きることを決意するのである。
10.孤独者にとっても他者は必要であるから、必要に応じて他者を<利用>することになる。彼は暗に陽にエゴイストなのである。その際他者への過度の依存心や執着は禁物であり、極力抑える。最後に頼るものはおのれ以外にないことを知っているので、他者と争うことをしない、平和なエゴイストなのである。
11.社会的出世や立身やは論外であり、社会のニッチで名声や名誉や、一般に評判などとは無関係に生きる。孤独者とて、社会の中で金銭をかせぎ、生活しなければならないので、そのワザを早くから考え、取得してゆかねばならない。
12.孤独者は最低限の社会的生活と、自己自身において充足する孤独の生活との二重の人生を生きるのである。それ故に、自己自身においてなんらかのひいでた素質をもっていなければならない。それは一般の人類には欠けている、知的・美的素質のほかにはないのである。単に肉体の能力にひいでた人間は、肉体そのものが類的存在であるゆえに、また単なる金銭欲や物欲にかられた者も、欲望そのものが類的であるゆえに、孤独者としては不適なのである。
13、とはいえ、身体は孤独者にとって知的・美的生活を維持するための生命的条件なのであるから、衛生と健康には必要な注意を払わねばならない。肉体そのものを鍛える必要はないが、精神衛生のうえで、肉体が十分に機能することが基本になる。そのさい、おのれの身体・肉体の世話は、極力他者に依存しないように、自己管理またはセルフメディケーションを心がける。そのための知識をおこたってはならない。
14、に関しては必要十分な栄養管理、に関しては簡素と衛生を、に関しては奇抜や無頓着におちいらないように、これだけは他者の注意を惹かないように普通を心がける。

15.他者に何を求めるか:人は動物であるかぎり、動物的欲求の多くのものは、他者において、あるいは他者の助力によって満たさねばならない。とりわけ幼少年期においては、両親という他者に全面的に頼らざるを得ない。動物的心情や本能がそのようにしむけるのであり、他者への全面的依存心によって、人生を始めるのである。しかし青年期において、両親をはじめすべての他者は、その本質においてエゴイストであることに気づくようになると、自らもまたエゴイストであることに目覚める。彼は動物的心情と闘いながらも、自己保存と人間社会でのサヴァイヴァルをかけて、他者との相互的利用の関係にはいる。
16.動物的心情もしくは本能の中で、もっとも強力なものは異性を求める欲求、すなわち種の存続の本能における快楽の欲求である。いわば人生において唯一克服の困難な、動物的依存心である。性欲は自己自身にとどまることがまれなのであり、たとえイメージなりとも異性によって刺激され、触発される。とりわけ、種の存続をになっているのは女性であり、その本能から男性の性欲を操り、従属させ、繁殖へと至るのである。その点、男女では他者に求めるものが異なっている。女性は本能的に<>という他者を生みだす存在であり、男はたくまずしてその手助けをする。男女間では、この生命的関係の調整が、エゴイストにとっての最大の課題であるといえよう。
17、幼少年期から青年期にかけて、さらには自活・自立するまでの<モラトリアム>の時期においては、社会の中で自己保存し、生活を自立させるための知識や技術に欠けているために、依存心から脱け出すことはこの上なくむずかしい。すなわち社会に関しては、他人から多くを学び、アドヴァイスを請わねばならないのである。そこで友人関係が必須となる。あるいはルソーの「エミール」ではないが、すぐれたメンターを必要とするのである。この時期に必要最低限の社会適応が出来ないと、エゴイストの人生もまた、不安定な依存心によって困難なものとなる。
18、交友関係は、それによって自立心をそこなってはならない。とくに<あそび>にふけりすぎることは、相互的な快楽によって、この自立心・自律心をだめにしてしまう。他者に頼る快楽は、孤独者を破滅させる。彼は絶えず、他人なしには<退屈>にさいなまれるようになるからである。
19、知的・美的素質にすぐれたものは、もちろん悪友とつきあってはならない。動物界と同じく、人間社会には、猛獣・猛禽、ハイエナのたぐいに満ちており、孤独者はあやうきに近寄ってはならないのである。孤独者は例外的人間であるから、<同じ心の友>を見出すことはまず不可能であるが、比較的無害な友を選ぶのがよい。
20、社会適応と野心、名誉心、名声欲、成功欲などとは別物である。そうした社会的な要請や類的欲求は、本来の知的・美的生活あるいは自律的生活とは無関係であり、有害であり、人生を不安定にする。基本的にそれらの<社会本能>なるものは、(ショーペンハウアーの言うように)他者の<意見>によって動かされるものであり、そこから面目や恥や誇りといった、他者の意見や評判に左右される社会的心情が生まれる。最低限の社会適応、すなわち社会で生存していくための基礎知識や技術が得られたならば、エゴイストであるかぎりは、そうした社会的心情を離れて、すなわち名誉や名声や成功などにとらわれることなく、おのれの思うままに<自由>に生きえるような自立・自律心を確立せねばならない。
21、人類史の中でもっとも度しがたい社会的心情は、名誉心であり、集団のために誉れと名声を死後にまで残そうとすることである。英霊だとか悠久の大義とかに騙されて、あたら唯一の価値である個人の生命を無駄にするのである。<類がすべてであり、個は無である>(ショーペンハウアー)、という原則が生命体の類的本質なのであり、これに対抗するには、困難な道ではあるが、個の絶対性を信じるエゴイストとしての自律的人生を生きるほかはないのである。
2024年8月24日(土)
自由と金銭
 「金がないと生きてる気がしない」と言ったのは、ドストエフスキーであるそうだ。彼は印税が入ると、すぐさま賭場へおもむいて、一文無しになるような、ギャンブル依存症であった。小説を書いて稼いだ金で、金を稼ごうとしたのである。いったい金銭とはなんであろうか。
 貨幣は物品とは違って、ものそのものの価値ではなく、ものの価値にかわるものであり、その点であらゆる物品の価値の代わりとして流通することができる、とショーペンハウアーはその人生論で述べている。かつては金や銀のような貴重なものをためこむことが富の誇示であったが、今日ではそのような必要はないのである。貨幣は、物品であるかぎり、あらゆる富の価値と交換ができるからである。
 金銭は、特別な生まれの者でないかぎり、もとから個人に備わったものではない。金銭はいわば後天的に、どのようにして個人の手に入るのであるか。今日の資本主義社会、商品経済の社会では、その大本は<労働>であるとされる。何ひとつ持たずに生まれてくる個人は、その唯一の経済的所有物である<労働力>あるいは労働の能を、マルクスが言うように、それを必要とする者に売らねばならない。労働そのものは<商品>なのである。労働は商品としての需要があるのである。労働を買う側はどうかというと、彼はすでに商品としての労働を購買できるだけの金銭もしくは資本の持主である。もともとは労働を売る側であったかもしれないが、金銭を蓄えることによって買う側にまわれるのである。労働を買うのは、それによって別の商品を作るためである。世の中には労働だけでなく、無数の商品が溢れており、みずからその商品を作るのでないかぎりは、労働力を買って、組織的に経営することによって、<もうけ>を出すのである。これが商品経済のプロセスであり、資本主義の経営である。
 商品は需要がなければ売れないし、供給がなければ買うこともできない。労働力は需要に応じて売らねばならない。また買う側は、それによって別の商品を作るのであるから、もうけが出るように労働を買わねばならない。これがマルクスの言う<剰余価値>のからくりである。労働はその一部を、買う側に貢がなければ、買い手がいないのである。これを支配するのも、やはり需給関係であり、労働市場、買い手市場などといわれる。前者ならば会社は不利、後者ならば労働者は不利ということになる。資本主義社会では、一般に労働者が不利になるような社会関係、社会組織が整備されている。かといって、社会主義や共産主義の国家的経済では、弱肉強食の競争が排除されるために、社会の経済活動そのものが停滞する。むりな国家主義的、民族主義的要求だけでは、労働を鼓舞出来ないのである。一般にユートピア的平等社会では、人間の本性として、労働や競争よりも怠惰が主流となり、余暇が尊ばれるのである。
 この商品経済、資本主義経済の世界で、たいていの個人は労働を売って、それを金銭にかえるほかはない。ほかに売る商品を持たないし、商品を作ろうにも<もとで>すなわち資本を持たないからである。労働は商品であるかぎり、なんらかのワザ、すなわち技術や知識があれば有利になる。ここに商品の売買そのものではなく、商品の流通の媒体もしくは価値の代用品に過ぎないもの、すなわち架空の価値であるに過ぎない<貨幣>そのものを対象とする、商品経済における特別の営みがある。ひとつは土地や金貸しなどの<地代>や<金利>によるもうけであり、またひとつは、商品先物や株売買などの<投資>と、カジノや競輪・競馬のような純粋な<ギャンブル>である。これらは、金銭そのものを経済活動の対象とすることによって、社会の基本的<生産>には属さないために、まっとうな<労働>もしくは経済活動とは見なされない風潮がある。しかし、労働との比較において、おおいに有利な点がある。
 資本主義社会においては、一般に労働者は労働の<奴隷>であり、一生その隷属から脱け出すことはむずかしい。労働を買う側も、商品経済に翻弄され、商品に隷属しているかぎりでは、たいていの資本家はいわば商品経済の奴隷であり、成功者でなければ、一生その主人となることはないかもしれない。はやく<引退>することを願うであろう。労働と資本の立場を離れて、高みにたって、この資本主義経済のちまたを乗り切るには、その流通の要である、架空の価値である金銭そのものを相手にしたほうが、そのことそのものとしてはずっと安全なのである。銀行業や不動産投資が、賢い経営として、資本主義にはつきものなのである。一般の個人はどうであるか。売れるような労働能力を持たない者はもとより、労働奴隷から逃れるためには、同じく金銭そのものに目が向かうことであろう。犯罪や不法行為でないかぎりは、投資やギャンブルが唯一の逃げ道なのである。しかし、これほど困難な、狭き門はないのであるが。社会はそんなに楽な逃げ道を用意してはくれない。
 しかし、労働奴隷から逃れ、商品経済への隷属から逃れるためには、すなわち資本主義社会で内在的に個人の<自由>を獲得するためには、ドストエフスキーではないが、自由に生きているという実感を得るためには、金銭そのものを対象とする営み以外にはないのである。それは労働でも<仕事>でもない、単に生活のための営み(Beschaeftigung)に過ぎないが、自由を賭けた挑戦である。投資で成功する者は10人に一人、ギャンブルでの成功者は100人に数人であろうか。失敗すれば悲惨な末路が待っていることを、覚悟しての挑戦である。そのことを、よく心しておかねばならない。
 社会的には、金銭そのものを対象とする営みは、銀行業などをのぞけば、あまり芳しいものではない。金貸しを業とするユダヤ人が差別と偏見にさらされたり、ギャンブルが東西を通じて悪とされ、<遊び人joueur>の所業とされるなど、また投資であれギャンブルであれ、儲けた金は<あぶく銭>とされるなど、社会倫理の攻撃を受けやすい。宮沢賢治の実家は質屋すなわち金貸しであったが、そのことの引け目が彼の<良心>にそうとうなプレッシャーとなって、「雨にも負けず」のような詩を書かせたのであろう。日照りや不作ていどでオロオロしていては、とても資本主義経済を乗り越えることはできまい。自由人であるためには、何よりも<エゴイスト>でなければならない。