2024年12月11日(水) |
Aphorismen 11 |
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Part1 哲学者
1.哲学者は人生を生きることはない。いわば人生を俯瞰し、人生の上空に架空の存在をいとなむに過ぎない。哲学者は実際に生きてはいないのである。それゆえに、生命を場合によっては憎み、忌避することによって、かえって生命から報復される。生命から遊離している故に、哲学者の内面にはつねに不満がたまっており、それが極端な自己主張や、自己顕示となって表われ、いわば長大な論文が生命の代用をつとめるわけである。
2.哲学者が狷介で、怒りっぽいのは、生命と直接触れることができないため、たえず生命体としての欲求不満を内にためこむからである。この段階を克服すれば、生命の上空に飛翔する、静謐な思索に身をゆだねて、いわば身体離脱を遂げることができよう。しかし飛翔は必ず落下をともない、生命のふところにふたたび囚われれるほかはない。これが哲学者の栄光と悲惨である。
3.哲学者は実際に生きていないのであるから、その人生はいわば幽霊のようなものである。学生時代、夕暮れ時の哲学の授業をかいま見たとき、教師も学生も、みな黄泉の国の存在のように思われたものである。また老哲学者の、思い出を語るような哲学談話には、まったく生命の温かみがなかった。ラテン語の授業で、活用の中にfacが出てきたときの、教授の狼狽が思い出される。
4.哲学は、人生の総合的な生き方としては、すでに古典古代で終了している。それ以後、古典的な意味での哲学者は死に絶えていると言えるだろう。それを復活しようとしたニーチェですら、ラッセルによってprofesser呼ばわりされている。
5.詩人が必ずしも詩を書く人ではないように、哲学者も、論文を書く人でなくてもよいであろう。哲学者は必ずしも研究者である必要はなかろう。エピクロスは自然研究を人生に従属させている。古典古代において、哲学者とは人生を哲学的に生きる人である。
6.哲学的に生きるとは、生命を俯瞰する視点を持ちながら、生命そのものから離れることがなく、よりよい人生を切り開くことである。これは単なる動物的生活にとどまらず、知的生命体としての有利な立場を、生活に生かすことである。実際、哲学者のモデルであるプラトンは、そのように生きて、活動している。アリストテレスとなると、ややprofesserに傾いていよう。トマス・アクィナスともなれば、まさに神学のしもべ(下僕)である。
7.神学であれ、学問であれ、下僕として生きるか、自由な独立人として生きるかが、問われていよう。哲学そのものは、自由人として生きることの、一つの選択肢に過ぎない。自由になるために哲学するのではない。自由であるから、その自由をますために哲学が必要なのである。すなわち現実飛翔の観点から、生命のなかのさまざまなしこりや障害を見抜き、生命そのものに本来の自由をとりもどすのである。それが哲学の効用utilityである。
8.抽象的思索にはある種の知的快感、心情の快がともなうことは確かである。生々しい身体の感覚的快を離れ、思索する静謐な思いのなかで、心静まり、ほのかな心地よさにつつまれる、この心的状態を知的快感としてよいであろう。論争や、現実に対する攻撃のないかぎりは、ひとつの心の別天地である。哲学がこの状態を求めるなら、ある種の救済ともなりうるが、生命に対抗するにはあまりにも弱々しい、くしゃみ一つで壊れかねない境地である。
9.哲学が煩悩の救済となりえないのは、上のような理由からである。むしろ煩悩を増すこととなりかねない。煩悩を絶つためには、哲学はエクスタシー、すなわち秘儀的な実践へと至らねばならない。それはすでに、理性のいとなみである哲学の及ばない領域である。
10.学問として、あるいは職業(つまり生活の手段)として、哲学を研究するのでないかぎりは、哲学は実際の生活においては、ほとんど無用のいとなみである。哲学が実際の行為において役立ったことがあるだろうか。行為の中にはすでに生命体の本能的な叡智がひそんでおり、たいていの場合それに従って判断し、行動しているのである。それ故に、哲学を語りだしたとたんに、だれもがいやな顔をするのである。哲学は<人生において多くの無駄を省いた>と、ショーペンハウアーが言っているのは、哲学は、なにをしない方がよいかを教えてくれるからである。それ故に、哲学は人に語ることではないのである。古典古代においても、哲学は少数のエリートの間でのいとなみであった。
11.哲学が世界を変革すると考えるのは、ある種の妄想である。ルソーの思想がフランス革命を、マルクス主義が、ロシア革命をもたらしたのではない。革命を志向し、権力欲に燃えた者たちが、それらの思想を、人民の怨念や怒りをつのらせるための道具として用いたに過ぎない。革命は哲学からではなく、暴力的な情念から生じるのである。もし哲学が暴力的な情念をつのらせるならば、そのような哲学はもはや思索を超えて、たんなるプロパガンダとなるであろう。サドの閨房哲学が倒錯的性欲をかきたてるための手段であったように、共産党宣言は怒りと怨念をかきたてる、革命暴力のすすめであった。しもべならず道具としての哲学を極端まですすめるならば、哲学の効用、ここに極まれりである。
12.思索が行為に対する抑制や、刺激につながることは、そもそも考えること自体が生命体の自己保存の道具であってみれば、当然のことではある。そうした道具的知性を離れて、知性そのものの反省、さらに生命そのものへの反省として生じたのが、本来の古典古代の哲学であったろう。この反省を離れては、哲学は哲学の名に値しないであろう。性欲や暴力をつのらせるのではなく、それらに対する反省が、哲学のあり方なのである。世界を変革したいのならば、哲学などは無用である。知性を道具として用いるだけでよい。そのことを、惑わしでないかぎりは、哲学フィロソフィアと呼ぶ必要はないのである。
Part2 幸福
13、幸福とは個の存在においては得られないものであるようだ。老境において、もはやなんらなす用もなく、目的も意欲も失われるとき、深い空虚といらだちに襲われるであろう。個の存在は、それだけではなんの充実感も存在の意義も具わっていないのである。おのれ以外のものへの、何らかの欲望、交際と所有の欲望が、無力化した生命の意志の最後の残り火をかき立てるだけである。そのような時、死の観念が個の存在を圧倒する。死はあらゆる無意味の完成である。これまでどのようなことを成し遂げたにせよ、成し遂げなかったにせよ、何を所有しようが、所有しまいが、すべては空しいのである。
14、そのような時、ふと死を恐れなくなる、あるいは死などということを考えなくなる、ある情念がわき起こることがある。それは特に青年期の記憶にもとづいている。たとえばそれは恋愛感情が成就したとき、あるいはそう想像したときの、完全な自己放棄である。愛する異性と共に感情をかわしあうならば、そこには死など存在しないのである。あるいは子であれ、甥、姪であれ、血縁の子供たちに対して、自己犠牲をいとわない気持の中に、死の恐れは解消されてしまう。このような気持は、基本的に類的感情である。すなわち、類的感情に浸るときは、個人は死の恐れを忘れていられるのである。
15、死は類的意志にとっては存在せず、個体の存在にとってのみ存在する。それ故に死は、孤絶と虚無との闘いとなる。類的意志という大海の波浪の一粒の泡に過ぎない個体は、一瞬きらめいて、もとの海水へと消滅するほかはない。死とあらがうことは、おのれの本質とあらがうことである。もともと生命体であり、人間であることを、否定できないのであるならば、死は個体にのみ固有の運命として、おのれが存在しているのと同じほど、確実で必然なのである。
16、個体としての人間は、必然的に虚無をかかえている。それを類的意志によって克服しようとすれば、個体的存在は個体ではなくなる。すなわち問題は初めから存在しなくなる。死はただ単に、存在しないものとして回避されるのである。個として生きる限りは、つねにおのれが虚無であることに耐えていなければならない。つねに虚無を見つめ、意味のないものの意味を問うていなければならない。
17、なにか類的なもの、共通の集合意識に包まれたいという、誘惑に絶えず抵抗していなければならない。人類、国家、精神、神、仏といったものが、類的安らぎで、個の存在を誘惑するであろう。むしろ人類に対して全く無関心で、非情な物質である<宇宙>に、虚無の共感が得られるであろう。
18、大海の一粟にすぎない個体の存在が、一個の表象宇宙(モナド)として、あたかも全宇宙を包含しているかのように錯覚されるのは、驚くべきことである。じつは表象宇宙は個に属しているのではなく、類そのものであるとするべきであろう。だれも宇宙を私のものであるとは思わない。宇宙は類的であって、私のものでもだれのものでもないのである。そこには法則があって、私がない。モナドロジーは、じつは類的宇宙が無限の合わせ鏡となったものに過ぎないのである。そこにはもとから予定調和などは必要ない。
19、個の意識であると思っているものは、じつは共通の集合意識に過ぎないのであるかもしれない。なにかを考え、なにかを思うたびに、どこかに空気のように遍満している共通意識の中で呼吸しているのである。そもそも言語的に思考するかぎり、共通の思考基盤から脱け出すことはできないのであり、私はたえず思考の受け手を前提として(それが人間でなく神であるとしても)、ものを考えたり、想像したりするからである。そのような集合意識における私が〈モナド〉なのである。
20、モナドは類的であるゆえに滅びないが、個としての私は滅びる。私は滅びても、モナドは滅びない。滅びる私は、死によってこの宇宙から区別され、あらゆる類的存在から区別される。死こそ個体としての私の本質だからである。私が私であるのは、まさに死を前にすることができるからだ。死と虚無と、無限の落胆と無意味とが、私の本質なのだ。それならば、その死の中にこそ、私は非存在としての私の本来の場所を持つのではないか。滅びる私こそ、この宇宙とは別の、非存在としての本質を持つのである。非存在としての本質を持つものは、<わたし>以外にないのである。 |
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2024年9月16日(月) |
城ヶ島ウォーク |
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城ヶ島は三浦半島の突端にある、周囲4キロほどの小さな岩礁の島である。先日、一泊のささやかなウォーキングの旅をした。かなり以前に一度訪れているが、その時は雨で、歌にもあるとおり島の雨の風情であった。
今回は晴天を期待し、ベランダから星を見ることを予定し、小型望遠鏡をたずさえての、やや荷やっかいなウォークとなった。目標はさそり座と射手座であったが、海風が強すぎて、華奢なカメラ用三脚がぐらつき、まるで観望にならなかった。しかし、久しぶりにこの両星座の全貌を、雲にわざわいされず、確かめることができた。射手座には銀河系の中心があり、散光星雲や星団や微星が入り乱れるさまを期待したのであるが、海辺はあまり観望によくないことが分かった。
翌日は、残暑の暑い日差しのもと、重いバッグを背に、島の一周ウォークにでる。岩礁と海との島である。早朝から海釣りをする人の姿が、岩場のあちこちに見かけられる。
島には燈台が、東と西に一つづつあるが、昔見た宿の西にあるのは省略し、東の燈台へ向う。岩礁と砂原の、あるともなき道をいく。途中、馬の背洞門という奇岩が見えてくる。
そこから崖上にのぼると、後は整備された平坦な道である。展望台で休んでから、東の果ての燈台まで行く。燈台は今はすべて自動であるから、大昔のロマンをかき立てる灯台守などはいない。さっぱりした、メルヘン的な趣きである。
最後に、バス停のそばの北原白秋記念館による。白秋は三崎に9ヶ月間、この島を見ながら暮らし、ロマン的・写実的・印象派的短歌をものしている。城ヶ島の雨の歌の、<利休鼠の雨が降る>の意味が分かった。(緑色がかった灰色。江戸期にはやった色で、利休や茶の湯とは直接関係がない。地味な色からの連想である。) |
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2024年8月28日(水) |
孤独者のマニュアル |
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1.人生を知的・美的に生きるためのマニュアル:(1)自己自身の素質を正しく認識すること。(2)他者に多くを期待し、依存することをしないこと。また逆に、他者からの期待や要求によって動かされないこと。(3)名声や名誉のために生きないこと。(3)生活のためのワザを身につけておくこと。
2.自己自身において美的・知的素質がないならば、人生を二重に生きることは不可能であり、単なる動物的生活者であることにとどまるほかはない。単なる生活者であることにも、多様な能力と可能性があるのであるから、わざわざ困難な人生を生きる必要はないのである。そうした生活者が人類の大多数を占める所以である。
3、自己自身において美的・知的素質に恵まれたものは、人類の中で例外的存在であり、したがって他の人間とは区別され、別の人生を生きるほかはない。すなわち<孤独者>の人生である。通常、理解されることも共感されることもない。いわば人類の中での宇宙人である。かつ人間社会に対してなんの貢献もすることがなく、その意志もない。その点で、同時にエゴイストである。
4.自己自身に素質があるものは、他者とはその素質において一線を画すのであるから、他者から学ぶ以上に、おのれから学ぶのがよい。たとえ優れた他者であれ、他者への過度の依存心は禁物であり、他者からの評価や期待に動かされてはならない。他者は過小にも過大にも、期待したり要求するものであるから。自己は自己自身が一番よく知る。
5.知的・美的能力は、それらだけで自己充足をあたえるものであるから、競争したり、評価されたりする必要はない。他者から与えられる名誉や名声などは、自尊心を傷つけられない限りは、不要である。知的・美的探究は、それ自身において充足を与えられ、完結するのである。
6、知的・美的生活は極めて個人的ないとなみであるから、それでもって生活の糧を得ることは例外的であり、また本来のあり方ではない。もしそれで生活するならば、評判や名声が必要条件としてつきまとい、他者の要求に応えることで堕落する。
7.したがって知的・美的素質にひいでたものは、二重の生活者となるほかはないのである。必要最低限の社会的生活を営みながら、その本性においては孤独な人生を生きる。知的・美的生活者のマニュアルは、孤独者のマニュアルでもある。
8.孤独者のマニュアル:(1)孤独者は原則的におのれ自身の素質に絶対の価値をおく。(2)したがって他者からの評価も、期待も、自身の行為や考えを動かすことはない。極力依存心をおさえるのである。(3)他者からの理解も同情も求めないのであるから、名誉や名声のような社会的価値には無関心である。(4)生活のためには、あらゆる手段を工夫し、必要最低限の労働で、必要最低限の金銭を得る。
9.孤独者であるかどうかは、先天的素質によって決まるのであるから、孤独者は早くから、自己自身の運命を環境の中で認めることになる。自己自身のための人生を生きることを決意するのである。
10.孤独者にとっても他者は必要であるから、必要に応じて他者を<利用>することになる。彼は暗に陽にエゴイストなのである。その際他者への過度の依存心や執着は禁物であり、極力抑える。最後に頼るものはおのれ以外にないことを知っているので、他者と争うことをしない、平和なエゴイストなのである。
11.社会的出世や立身やは論外であり、社会のニッチで名声や名誉や、一般に評判などとは無関係に生きる。孤独者とて、社会の中で金銭をかせぎ、生活しなければならないので、そのワザを早くから考え、取得してゆかねばならない。
12.孤独者は最低限の社会的生活と、自己自身において充足する孤独の生活との二重の人生を生きるのである。それ故に、自己自身においてなんらかのひいでた素質をもっていなければならない。それは一般の人類には欠けている、知的・美的素質のほかにはないのである。単に肉体の能力にひいでた人間は、肉体そのものが類的存在であるゆえに、また単なる金銭欲や物欲にかられた者も、欲望そのものが類的であるゆえに、孤独者としては不適なのである。
13、とはいえ、身体は孤独者にとって知的・美的生活を維持するための生命的条件なのであるから、衛生と健康には必要な注意を払わねばならない。肉体そのものを鍛える必要はないが、精神衛生のうえで、肉体が十分に機能することが基本になる。そのさい、おのれの身体・肉体の世話は、極力他者に依存しないように、自己管理またはセルフメディケーションを心がける。そのための知識をおこたってはならない。
14、食に関しては必要十分な栄養管理、住に関しては簡素と衛生を、衣に関しては奇抜や無頓着におちいらないように、これだけは他者の注意を惹かないように普通を心がける。
15.他者に何を求めるか:人は動物であるかぎり、動物的欲求の多くのものは、他者において、あるいは他者の助力によって満たさねばならない。とりわけ幼少年期においては、両親という他者に全面的に頼らざるを得ない。動物的心情や本能がそのようにしむけるのであり、他者への全面的依存心によって、人生を始めるのである。しかし青年期において、両親をはじめすべての他者は、その本質においてエゴイストであることに気づくようになると、自らもまたエゴイストであることに目覚める。彼は動物的心情と闘いながらも、自己保存と人間社会でのサヴァイヴァルをかけて、他者との相互的利用の関係にはいる。
16.動物的心情もしくは本能の中で、もっとも強力なものは異性を求める欲求、すなわち種の存続の本能における快楽の欲求である。いわば人生において唯一克服の困難な、動物的依存心である。性欲は自己自身にとどまることがまれなのであり、たとえイメージなりとも異性によって刺激され、触発される。とりわけ、種の存続をになっているのは女性であり、その本能から男性の性欲を操り、従属させ、繁殖へと至るのである。その点、男女では他者に求めるものが異なっている。女性は本能的に<子>という他者を生みだす存在であり、男はたくまずしてその手助けをする。男女間では、この生命的関係の調整が、エゴイストにとっての最大の課題であるといえよう。
17、幼少年期から青年期にかけて、さらには自活・自立するまでの<モラトリアム>の時期においては、社会の中で自己保存し、生活を自立させるための知識や技術に欠けているために、依存心から脱け出すことはこの上なくむずかしい。すなわち社会に関しては、他人から多くを学び、アドヴァイスを請わねばならないのである。そこで友人関係が必須となる。あるいはルソーの「エミール」ではないが、すぐれたメンターを必要とするのである。この時期に必要最低限の社会適応が出来ないと、エゴイストの人生もまた、不安定な依存心によって困難なものとなる。
18、交友関係は、それによって自立心をそこなってはならない。とくに<あそび>にふけりすぎることは、相互的な快楽によって、この自立心・自律心をだめにしてしまう。他者に頼る快楽は、孤独者を破滅させる。彼は絶えず、他人なしには<退屈>にさいなまれるようになるからである。
19、知的・美的素質にすぐれたものは、もちろん悪友とつきあってはならない。動物界と同じく、人間社会には、猛獣・猛禽、ハイエナのたぐいに満ちており、孤独者はあやうきに近寄ってはならないのである。孤独者は例外的人間であるから、<同じ心の友>を見出すことはまず不可能であるが、比較的無害な友を選ぶのがよい。
20、社会適応と野心、名誉心、名声欲、成功欲などとは別物である。そうした社会的な要請や類的欲求は、本来の知的・美的生活あるいは自律的生活とは無関係であり、有害であり、人生を不安定にする。基本的にそれらの<社会本能>なるものは、(ショーペンハウアーの言うように)他者の<意見>によって動かされるものであり、そこから面目や恥や誇りといった、他者の意見や評判に左右される社会的心情が生まれる。最低限の社会適応、すなわち社会で生存していくための基礎知識や技術が得られたならば、エゴイストであるかぎりは、そうした社会的心情を離れて、すなわち名誉や名声や成功などにとらわれることなく、おのれの思うままに<自由>に生きえるような自立・自律心を確立せねばならない。
21、人類史の中でもっとも度しがたい社会的心情は、名誉心であり、集団のために誉れと名声を死後にまで残そうとすることである。英霊だとか悠久の大義とかに騙されて、あたら唯一の価値である個人の生命を無駄にするのである。<類がすべてであり、個は無である>(ショーペンハウアー)、という原則が生命体の類的本質なのであり、これに対抗するには、困難な道ではあるが、個の絶対性を信じるエゴイストとしての自律的人生を生きるほかはないのである。 |
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2024年8月24日(土) |
自由と金銭 |
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「金がないと生きてる気がしない」と言ったのは、ドストエフスキーであるそうだ。彼は印税が入ると、すぐさま賭場へおもむいて、一文無しになるような、ギャンブル依存症であった。小説を書いて稼いだ金で、金を稼ごうとしたのである。いったい金銭とはなんであろうか。
貨幣は物品とは違って、ものそのものの価値ではなく、ものの価値にかわるものであり、その点であらゆる物品の価値の代わりとして流通することができる、とショーペンハウアーはその人生論で述べている。かつては金や銀のような貴重なものをためこむことが富の誇示であったが、今日ではそのような必要はないのである。貨幣は、物品であるかぎり、あらゆる富の価値と交換ができるからである。
金銭は、特別な生まれの者でないかぎり、もとから個人に備わったものではない。金銭はいわば後天的に、どのようにして個人の手に入るのであるか。今日の資本主義社会、商品経済の社会では、その大本は<労働>であるとされる。何ひとつ持たずに生まれてくる個人は、その唯一の経済的所有物である<労働力>あるいは労働の能を、マルクスが言うように、それを必要とする者に売らねばならない。労働そのものは<商品>なのである。労働は商品としての需要があるのである。労働を買う側はどうかというと、彼はすでに商品としての労働を購買できるだけの金銭もしくは資本の持主である。もともとは労働を売る側であったかもしれないが、金銭を蓄えることによって買う側にまわれるのである。労働を買うのは、それによって別の商品を作るためである。世の中には労働だけでなく、無数の商品が溢れており、みずからその商品を作るのでないかぎりは、労働力を買って、組織的に経営することによって、<もうけ>を出すのである。これが商品経済のプロセスであり、資本主義の経営である。
商品は需要がなければ売れないし、供給がなければ買うこともできない。労働力は需要に応じて売らねばならない。また買う側は、それによって別の商品を作るのであるから、もうけが出るように労働を買わねばならない。これがマルクスの言う<剰余価値>のからくりである。労働はその一部を、買う側に貢がなければ、買い手がいないのである。これを支配するのも、やはり需給関係であり、労働市場、買い手市場などといわれる。前者ならば会社は不利、後者ならば労働者は不利ということになる。資本主義社会では、一般に労働者が不利になるような社会関係、社会組織が整備されている。かといって、社会主義や共産主義の国家的経済では、弱肉強食の競争が排除されるために、社会の経済活動そのものが停滞する。むりな国家主義的、民族主義的要求だけでは、労働を鼓舞出来ないのである。一般にユートピア的平等社会では、人間の本性として、労働や競争よりも怠惰が主流となり、余暇が尊ばれるのである。
この商品経済、資本主義経済の世界で、たいていの個人は労働を売って、それを金銭にかえるほかはない。ほかに売る商品を持たないし、商品を作ろうにも<もとで>すなわち資本を持たないからである。労働は商品であるかぎり、なんらかのワザ、すなわち技術や知識があれば有利になる。ここに商品の売買そのものではなく、商品の流通の媒体もしくは価値の代用品に過ぎないもの、すなわち架空の価値であるに過ぎない<貨幣>そのものを対象とする、商品経済における特別の営みがある。ひとつは土地や金貸しなどの<地代>や<金利>によるもうけであり、またひとつは、商品先物や株売買などの<投資>と、カジノや競輪・競馬のような純粋な<ギャンブル>である。これらは、金銭そのものを経済活動の対象とすることによって、社会の基本的<生産>には属さないために、まっとうな<労働>もしくは経済活動とは見なされない風潮がある。しかし、労働との比較において、おおいに有利な点がある。
資本主義社会においては、一般に労働者は労働の<奴隷>であり、一生その隷属から脱け出すことはむずかしい。労働を買う側も、商品経済に翻弄され、商品に隷属しているかぎりでは、たいていの資本家はいわば商品経済の奴隷であり、成功者でなければ、一生その主人となることはないかもしれない。はやく<引退>することを願うであろう。労働と資本の立場を離れて、高みにたって、この資本主義経済のちまたを乗り切るには、その流通の要である、架空の価値である金銭そのものを相手にしたほうが、そのことそのものとしてはずっと安全なのである。銀行業や不動産投資が、賢い経営として、資本主義にはつきものなのである。一般の個人はどうであるか。売れるような労働能力を持たない者はもとより、労働奴隷から逃れるためには、同じく金銭そのものに目が向かうことであろう。犯罪や不法行為でないかぎりは、投資やギャンブルが唯一の逃げ道なのである。しかし、これほど困難な、狭き門はないのであるが。社会はそんなに楽な逃げ道を用意してはくれない。
しかし、労働奴隷から逃れ、商品経済への隷属から逃れるためには、すなわち資本主義社会で内在的に個人の<自由>を獲得するためには、ドストエフスキーではないが、自由に生きているという実感を得るためには、金銭そのものを対象とする営み以外にはないのである。それは労働でも<仕事>でもない、単に生活のための営み(Beschaeftigung)に過ぎないが、自由を賭けた挑戦である。投資で成功する者は10人に一人、ギャンブルでの成功者は100人に数人であろうか。失敗すれば悲惨な末路が待っていることを、覚悟しての挑戦である。そのことを、よく心しておかねばならない。
社会的には、金銭そのものを対象とする営みは、銀行業などをのぞけば、あまり芳しいものではない。金貸しを業とするユダヤ人が差別と偏見にさらされたり、ギャンブルが東西を通じて悪とされ、<遊び人joueur>の所業とされるなど、また投資であれギャンブルであれ、儲けた金は<あぶく銭>とされるなど、社会倫理の攻撃を受けやすい。宮沢賢治の実家は質屋すなわち金貸しであったが、そのことの引け目が彼の<良心>にそうとうなプレッシャーとなって、「雨にも負けず」のような詩を書かせたのであろう。日照りや不作ていどでオロオロしていては、とても資本主義経済を乗り越えることはできまい。自由人であるためには、何よりも<エゴイスト>でなければならない。 |
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