翻訳城便り


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17.精読と多読(「英語再入門)/16.翻訳の進化/15.怪談と推理小説/14:恐怖の文学について/13:文学の夜の側/12.「見えない王国」について/11.<群集の人>について/10.にせ<佐々木直次郎訳>について再び / 9:エドガー・ポオの両親 (1) / 8:英文学畸人伝(ハーン) / 7:翻訳城の今後の構想 / 6:翻訳文学とタイトル / 5:E.A.ポオと<妖精の島>;佐々木直次郎訳について / 4:ヴァン・ホディスと表現主義 / 3:著作権についての続き / 2:洋書翻訳に際しての著作権について/1:古典文学の翻訳について 
                       ―――――
雑録より:リチャード・ジェフリーズのロストパラダイス/特異なナチュラリスト、ジェフリーズの復活? 

            

2022年3月10日(木)
精読と多読(「英語再入門」)
 「英語再入門」(柴田徹士・藤井治彦、1985年、南雲堂)という本をネットの古書店で見つけた。著者の一人柴田徹士氏は、英文学者にして、英和辞典の編者であり、筆者が大学受験時代に用いた「英文解釈の技術」の著者でもある。この英文読解のテクニックをとことん教えてくれた書のおかげで、受験ばかりか、大学に入っても英文を読むことに、ほとんど困ることがなかったのである。
 いまさら再入門とは思ったが、この著者にゆかしさを覚えて読んでみた。対話の形になっており、再入門どころか、かなり高いレベルでの英語の学び方を伝授してくれる。受験の時に学んだ、著者独特の英文の基本的読み方は健在であり、あらためてほとんど習性となったものをおさらいさせてくれた。
 特に参考になったのは、精読と多読との読み方の違いである。「技術」ではもっぱら精読を学んだのであるが、ここでは柴田氏は大いに多読を勧めている。その方法というのも、英語を学ぶと思うな、単語を覚えるな、辞書を引くな、である。どれも精読とは正反対であり、余程いいかげんに読もうという場合でなければ、またはやさしい英文でなければ、したことがない。しかし、考えてみると、いったん読み出してほうりだした英語の本がどれほど多いことか。結局、精読することが面倒くさくなって、先が続かないのである。

「精読では、ありとあらゆる努力をする。辞書はもう猛烈に引くし、英語の単語も覚えるし、考えもする。しかし、多読では全然何もやらない。それでも、力はつく。ただ、その力は精読でつく力とはまた違った力です。精読ではつかない力――目に見えない力です。・・・
 多読では、こういう風に気楽に読む。楽しんで読む。期待せずに読む。だから、かなりの分量が消化できる。少し慣れれば、数冊くらいはすぐ読める。そうすると、目に見えない実力がものすごくつく。」(同書p.154-155)

 子供のころ、大人向きの難しい小説を半分も解らずに、ただがむしゃらに読んだことを思うと、英語もそういう読み方があって良いということであろう。蘆花の「自然と人生」の冒頭の小説(「灰燼」)を、小学六年の日本語力ではほとんど歯がたたなかったものの、最後まで読んで、それが怪談であることを知り、覚えた強烈な恐怖だけは、その後も長く、今でも残っているのである。
 たしかに英文を読んでいて、気になった単語や構文やを、あるいは気に入った文句を、そのまま素通りすることはむずかしい。柴田氏ほどの英語の鬼ではなくても、英文を味わうことにおいて、語学の醍醐味を覚えるのであるから、ひとかどの英文であるなら、英語として読むなというのも無理である。しかし英文を読んでいるという頭をなくすというのは、語学が究極に目ざすところであるので、それにはやはり多読が必要なのであろう。あえて精読に目をつむり、多読することが必要なのである。
 この点に関し、やはり英文学者の福原麟太郎が、シェイクスピアの読み方について、参考になることを言っている。

 「Shakespeareはなかなか読めないというが、そんなことはない。五時間あればゆっくり読める。元来二時間ないし二時間半でやったものであるから、英国人なら二時間以内で読めるはずである。ただ意味をとるだけにして、大切な字でわからないのはその書についている glossary を見るくらいにして、あるいは Onions の Shakespeare Glossary をちょっとのぞく程度にして読み始めると、第一幕が一時間半くらいかかる。それから話の筋がわかってくるに従って早くなり、第五幕あたりは三十分くらいで読んでしまうものである。・・・
 たとえば、ある日、夜の七時から読みだして十二時まで読むと一冊終る。これを毎日つづけると草疲れるから一週に一冊とする。例えば土曜に Lear を読む。すると日曜には Lamb の Tales from Shakespeare を出してそのLear の章を読む。そうすると Lamb は Shakespeare の text の文句をそのままいくつも使っているから、どの句がどのような響きを持っているかという事が解って、おのずから Shakespeare を話の具体的内容とともにその文学的内容をも epitomize することができて一挙両得である。
 そのようにして Lear の全貌をうかがった後に悠々 text の研究にかかる。Text の研究は詳しくすれば限りがないが、意味の詮索だけなら、残りの五日、月から金までで大概すむであろう。」(「英文学研究法」p.140-141)

 学者の悠々自適の研究ばかりでなく、趣味の読書においても、精読と多読の関係は、くり返し読むという、昔から言われている読書の奥義につながるものである。まずおおまかに読んでおいて、後に精読をくり返すというのは、実はそれだけの内容のある本を読むようにせよという勧めでもあるのだ。トマス・アキナスはアリストテレスの「形而上学」を五十遍は読んだという。数多く読むということだけが多読ではなく、くり返し読むことが実は大事なのである。好奇心や気まぐれに駆られてしまって、どうしても数にこだわりがちである。一個の文章であっても、とことん究めれば、思いがけない意味も生まれてくるのである。このことを、柴田氏の精読の例文が教えてくれる。
 解りきったと思っている単純な単語が、さすがに辞書の編纂者であるから、意味の微妙な違いにまで気をくばる。but と yet などは同じ意味と思いがちであるが、前者は単に論理的で、後者は主観的ニュアンスをともなうと、あらためて言われてみると、英文が生き生きと味わわれてくるのである。原文で読むことの愉しみとは、そうしたものでなければならないのである。

  「いろいろと手間をかける。苦心して考える。辞書をひっくり返す。それは魅力を感じとれない人には難行苦行のように見えるかも知れませんが、そこには未知の領域に踏み込む楽しみがあります。そして、最後に、ある一節が隅から隅までわかったと感じられれば、その一節全体が透明の結晶――光り輝く玉のごとくみえる。誇張して言えば、一種のエクスタシーを感じます。これが[精読の]最大の魅力です。」(「英語再入門」p.150)
2021年9月21日(火)
翻訳の進化
 古い翻訳でも、最近の翻訳でも、読んでいて意味のすぐに通じないところや、どうも誤訳臭いところにでくわすものである。そうした場合、すぐに原文が想像できればよいが、まったく見当のつかない場合が多い。ふにおちないまま通過することになるのだが、たまたま別の人の翻訳がある場合は比較できる。するとかなり違った翻訳になっていたり、やはり何か変ということもある。古い例ではあるが、ポオの「ウイリアム・ウイルソン」を読んでいて、典型的なケースを見つけた。
 日本で最初の本格的なポオの翻訳者は、たぶん谷崎精二であろう。この人のポオ小説全集の昭和23年に出たものを読んでいると、何とない硬い訳であるが、ほぼ正確であろうと思われた。ウイリアム・ウイルソンをぱらぱらと読んでいると、妙な一文にでくわした。

 「彼はどんな馬鹿にでもわかる様な字体などを眼中に置かず、ただ私一人の黙慮と懊悩との有様を写すのに、彼の独創的な全精神を注いだのであった。」(谷崎精二訳、「ウイリアム・ウイルスン」)

 この<字体>というのが何のことかふにおちず、とりあえず佐々木直次郎訳に当たってみた。

 「彼は、文字(それは絵などではどんな愚鈍なものでも皆わかるのである)などは軽蔑して、私一人によくわからせ口惜しがらせるために彼の独創的な全精神を傾倒したのだった。」(佐々木直次郎訳、「ウイリアム・ウイルスン」)

 ずっとくだけた訳であるが、やはり<文字>の意味が皆目分からない。そこで仕方なく原文に当たり、さらに辞書を引いてみる。その結果、薄々どちらも誤訳であることが分かってきた。それを明らかにする前に、戦後の訳者の訳文を見てみる。
 まず中野好夫訳。

 「すなわち、表面の字義(たとえば一枚の絵にしても、馬鹿の見るのはこれだけだ)などを軽蔑する彼はいわばただちに原図の全精神をとらえきたって、ただひとり見よ、ひとり苦しめとばかりに僕にさしつけたのであろうか。」

 自在な訳であって、原文よりも軽い感じがする。<文字>がただの文字(letter)でないことが、はっきりさせられている。
 つぎに、松村達雄訳。

 「[あるいはむしろ、こうしてだれからも無事に気づかれずにすんだのは、わたしを模写する彼のやり方には巨匠の風格があって]、原作の形骸(鈍感な鑑賞者は絵画の中でこれだけしか目に入らぬものだが)などは無視して、ただわたし一人が目にとめてくやしがるようにと、原作の真髄ばかりを写したからかも知れない。」(松村達雄訳、「ウイリアム・ウイルソン」)
 この両者の訳で、やっと意味がまともに通るようになる。
 さて、原文であるが、

 [I owed my security to the masterly air of the copyist, ] who, disdaining the letter (which in a painting is all the obtuse can see), gave but the full spirit of his original for my individual contemplation and chagrin. (Edgar Allan Poe : William Willson )

 几帳面に英文を読む人は、まずここで letter が何を意味するか、頭をひねることであろう。ただ単に文字などと解しては、まったく意味が通じないからである。そこで辞書をひいてみる。幸いにも次のような言いまわしが載っている

 in letter and in spirit 形式においても内容においても (College Crown

 これだけでも、ポオがletter とspiritとを、対比的に用いていることがわかり、意味が自ずと通じてくるのである。単なる形の模倣ではなく、本人だけが知っている微妙な癖のようなものを真似たのである。この対比をとらえそこなったために、谷崎、佐々木の両訳は、さらにspirit についても勘違いしてしまったのである。

 とにもかくにも、最初の翻訳者たちの受難であると言えよう。 
2017年5月24日(水)
怪談と推理小説
 怪談は基本的に結論のない話である。あるいは少なくともその解決ないし謎解きを、超自然の世界やあの世に委ねてしまう。その点で中途半端であり、消極的であり、たとえ文学的構成において完結していても、情緒的には不安定であり、その不安定感が後々まで恐怖の記憶として尾をひく。特に読後においては、何らかの脅威の状態におとしいれる。それは実存的不安とは違った、存在の不安・生命の不安といってよい。実存的不安は基本的に未来の不安であるが、存在の不安は、存在そのものへの直接的脅威を意味する。それが物理的脅威の場合は、通常の人間関係における暴力への恐れや、戦争や処罰などの社会的強制による生命の危険である。
 ここで、怪談における存在の不安というのは、もっぱら想像力に関した、特殊な<おそれ>であり、その脅威は超自然界や、異界や、異次元や、魔界や、地獄や、冥界といった、想像の世界もしくは未知の世界から発している。その脅威は、直接に読者個人に襲いかかる。そのターゲットは読者の内面だからである。その目に見えない脅威を、他者と共有することはできないのである。たとえ恐怖が同時に複数の人間に起こったとしても、各自がその恐怖と闘うほかはなく、他者の存在は気休めとはなっても、それによって恐怖を克服するまでは行かない。
 かつても今も、脅威にさらされた人間は、他の群居動物と同じように、互いに身を寄せ合うことによって、一時的に団結して危険に対応してきた。そうした社会的対応は、怪談においても、孤独のいましめとなり、ある種の効果を発揮するが、想像の産物である恐怖は、必ずしも他者において共鳴を見い出すとは限らないのである。孤独な人間ほど怪談を好むのは、そうした逆説である。
 あるいは、孤独者は、想像的恐怖に対して、過敏であると言えるかもしれない。孤独者は、同時に、人間社会においての実存的不安にさいなまれてもいよう。後者の不安が、自己をさいなむ想像的不安へと転化されて、恐怖小説や怪談に強くひかれるようになるのであろう。彼の存在は不安そのものなのであるから、不安の文学がまさに彼の求めるものとなる。怪談作者に、ある共通した特徴が見られるのは(生活破綻者や、放浪者や、孤独者や、奇人やの)、そうしたことからきているのかもしれない。怪談読者もまた、そうした怪談作家を求めるのである。
 *   *   *
 怪談作家であったポオが、同時に推理小説の鼻祖でもあったことから、怪談と推理・探偵小説とは、同類のように思われがちである。一つの人格の中に、ネガティヴなものとポジティヴなものとが同居していたために、ポオにおいては両者の創作が可能であった。怪談はその効果において、基本的にネガティヴであり、推理小説は徹底してポジティヴである。推理小説に怪奇的要素がないというわけではなく、かりにそれがあったとしても、推理小説はつねに論理的であり、謎の理知的解明に向かって活動的である。論理的、活動的であることによって、その最終的にもたらす解決は、怪談と違って安定しており、あとに尾をひくことがない。それゆえに、これは推理小説の宿命であるかもしれないが、読み終われば、計算を解いた時のように、すぐに忘れてしまう。よほどの名作でなければ、re-readableではないのである。推理小説を読み終えたときには、ある種の非文学的満足感を与える。長いパズルを解いた、あるいは解いてもらったという、ゲームのあと味である。いかに文学的趣向を凝らしても、推理小説の規範に従っている以上、それは付随物である。面白く文学を読ませるのではなく、文学的修飾でパズルを楽しませるのである。少なくとも、純粋に推理をこととする小説ならば、そう言ってよいだろう。
 怪談は解決がないのであるから、もっぱら文学的修辞や技巧がすべてであり、何度でも読みかえすことが可能である。読みかえすたびに深い意味を持つものもあれば、魅力が失せるものもある。それが通常の読書である。ただし通常の読書が与えるような、人生の希望や夢をもたらすものではなく、人間存在の根底にある不安を呼び覚まし、宇宙や社会における孤独の意味を問わせるのである。
2017年2月19日(日)
恐怖の文学について

 恐怖は生物学的、遺伝的に、生存競争の中での防禦のメカニズムの心理的反映と考えることができる。緊張とそれにつづく避難との、行動の本能的パターンが、文明化した存在においても、大脳辺縁系の中に深く刻み込まれている。すぐれて観念的存在である人間は、もはやその本能が行動へとつながらなくても、心理的に恐怖そのものとして、想像的に反応するのである。
 こうした恐怖の心理的メカニズムを論じるのが目的ではない。それが文学においてどのように扱われるかを、ここでは考えてみたい。恐怖の直接の対象は本来自然界である。自然界は、その産物である人間にとって、とても住みやすいところとはいえない。つねに捕食者や敵に満ちている。さもなければエデンの園などを考えることはなかったであろう。とりわけ夜は危険に満ちていた。目に見えない敵が突然に襲ってくる不安の中で、人類の祖先、さらに言えば哺乳類は怯えていたのである。それが昼の世界へも投影されると、自然界の背後になにか眼に見えない存在、脅威となる力のようなものを、観念界に生み出すことになる。それをアニミズムやアニマティズムと考えてよいであろう。すなわち人間は、自然界の現実ばかりでなく、観念界においても恐怖の存在を創りあげたのである。
 自然界と観念界は、想像力においてつながっている。アニミズムの世界では、動物も植物も、自然界と観念界の両方の世界に生きているのである。その実、観念界は人間の創った世界にすぎないのであるが。観念界に移された自然界は、畏怖と恐怖の対象でもあった。動物や植物は現実の脅威と同時に、想像的な危険をもたらしうる存在であった。それを魔と呼ぶことにする。自然界の現実の脅威は、不条理であり、予測不能であり、不可解であった。それを理解しうるものとするためには、人間の理解の及ぶ観念界の存在としてとらえるほかはない。それをひたすら恐怖の次元でとらえたものが魔の存在である。
 文学においてあつかわれる恐怖は、この観念界の根源的恐怖である魔の存在である。それは基本的に不可解であり、不条理であり、非情であり、残酷である。自然界は理知的探究が進むにつれて、その魔を観念界から追放していった。それと同時に、魔は外界から内界へと移り住んでいった。恐怖におののくものは、何らかの<罪>をおのれの中に探すようになるのである。いわばおのれの中の自然が、新たな魔を生み出すのである。近代の恐怖の文学は、もっぱらこの後者の魔にスポットを当てていることは、ポオやモーパッサンの怪談に典型的にみられる。しかし純粋に自然界の恐怖をあつかう怪談も、連綿としてつづいている。
 ヨナス・リーの「海魔」が、その一つの例である。一体人間が生物として他の生き物を食糧にすることは、いわば<生命のおきて>であって、そこになんの不自然も、罪もない。もしそれが罪ならば、人類は滅びる方が良いであろう。一匹のアザラシや、「老水夫行」のようにアホウドリを殺したからといって、それが存在を呪われることになるのであろうか。こうしたアニミズム的発想は、その根本において、自然界の無慈悲ということの反映であるように思われる。人間が理不尽な自然界の前でなすすべもなく滅びる、その理由を少なくとも観念の世界でどこかに求めなければ、人間はやりきれないのである。文学はただ単に自然界の無慈悲を描くことはできない。関東大震災や、先年の東北の大津波にしても、そこからすぐれた文学が生まれることは先ずないであろう。非情なもの、理不尽なもの、大自然の圧倒的な力に対しては、文学はまったく無力なのである。
 怪談だけがアニミズムの世界において、ある程度それをなしうるであろう。  

2016年9月27日(火)
便り13:文学の夜の側
 翻訳城の更新を再開して、昔訳したものなどに手を加えて、いく篇か載せましたが、学生の頃は暗い文学が好きだったようです。特に怪談類を翻訳の練習台としていました。ほとんど使い物にならないものが多くても、まあ文章の練習にはなっていたようです。その頃は語学力の足りないところは、思いきった訳をして、もっともらしい日本語にしていますが、詳しく見ると誤訳であったり、いわゆる<超訳>であったりします。昔の言葉遣いには愛着がありますが、思い切って訳しなおすしかありません。語学力が足りないと、どうしても飛躍して、ごまかすつもりはないのでしょうが、何とかつじつまを合わせようとします。いまでも英文法などは難しいのですが、常識が広がったおかげで、自他の変な誤訳には何とか気づくようになっています。活字になったもので、今でも悔やまれるのは、Rhodes scholarを`ロードスの学者'とあったのを、大辞典や百科でも調べきれず、そのままにしてしまったことです。活字になった後に気づきましたが、もう手遅れでした。これはもちろん、インターネットですぐ調べがつくように、ローズ奨学生のことでした。
 翻訳は代用品だと割り切ればいいのですが、これはなんのために翻訳するのかという訳者の心がけに関することです。単なる知識の伝達ならば、数字や単位を間違えるのは致命的でしょう。下手な訳でも、正しく伝わればよいうわけですが、日本語として変な訳が果たして正しいかという問題もあります。直訳では原文を損なう場合もあり、そもそも日本語として通じないということも起こります。結局専門的な研究は、原文に当たる他はないということになります。文学の場合は、そこまで厳密さは求められないので、代用品であることを承知の上で、訳者の技量を信頼する他はないようです。
 代用品としての翻訳文学は、日本語ですから、その訳文に対する好悪が、原作者に関係なく、その作品に影響を与えるということが起こります。日本語として凝った訳をやれば、まったく違った印象を与えてしまうかもしれません(鴎外訳の「即興詩人」が原作以上だと評されたように)。原作以上でも以下でもないのが、理想の翻訳といえるでしょう。アンデルセンは古典語で書いたわけではないのですから。ユイスマンスの「さかしま」の渋沢龍彦訳は、それ以上のものを原文に求めさせる気力を失わせる、標準訳といえるでしょう。ベルヌのVoyage au centre de la tere は、原文で読んだ時、生まじめな日本語訳とは違う、踊るようなスタイルであることを感じました。どちらが冒険小説として良いかは、また別でした。ホーソーンは先に英文で親しんでいたので、その翻訳がどうも物足りなく感じました。格調高い緻密な文体を、何とか日本語に移せないものでしょうか。
  *   *   *
 さて、文学の夜の側というタイトルにしましたが、自然界や人間界にNightsideがあるように、その文学への反映が、文学を昼と夜とに分かっても良いわけです。昼の文学は、光が醜いものや恐るべきものをすべて隠してしまいます。たとえそれらが姿をかいまみせても、征服され克服されるべきものとして扱われます。その文学的方法はユーモアであったり、楽天的性格であったり、ハッピーな恋愛であったりします。そうした光や虚飾や、無際限な希望が日没とともに消え去ると、文学のナイトサイドが現われます。
 フォルクマン=レアンダーの「沼に落ちたハイノ」は、童話における夜の文学といえるでしょう。ある種の残酷さや、おさえたエロティシズムが、童話的素朴さで語られます。鬼火の沼は、ハイノのおちいった性欲の泥沼であるといえるでしょう。ちょうどタンホイザーが、清純な恋人がありながら、ビーナスの丘で愛欲に耽るように。彼はいったんは去勢されねばなりません。愛欲の沼から抜け出すには、性欲の根を根源から絶つほかはないのです。そして家庭生活において馴致されることによって、つつましく復活します。
 アムブローズ・ビアスは、昼の世界においても、夜の使者として、すなわち諷刺家としてふるまいます。ユーモアが昼の世界の主役であるとするならば、風刺はまさに闇の使者である悪魔です。ビアスが定義したように、諷刺家は徹底したリアリストであり、ものをあるがままに、特にその醜く、残忍な姿をとらえます。怪談はその恰好な素材となるわけです。人が恐れ、憚るものは、すべて夜に属しています。人が幽霊を恐れるのも、そもそも見たくない現実をおのれの中に閉じこめるからです。その牢獄の扉を、ビアスの怪談は暴力的にこじ開けます。
 ナサニエル・ホーソーンは、そのことをもっと穏やかに語りましたが、彼の関心はやはり夜の側に向いていました。「だれの心の奥底にも、一つの墓があり、一つの牢獄がある。ところが、上辺での照明とか、音楽とか、浮かれ騒ぎとかが、それらの存在と、それらが隠している死人や囚人を、忘れさせがちである。」これはフロイトの言葉ではありません。ホーソーンは、もしピューリタンでないとしたら、正真正銘のペシミストといえるでしょう。クリスチャンとしての抑制と希望が、崖ふちを歩みつづけるような、ペシミストの絶望にはおちいらせませんでした。彼の文章は、昼と夜との不思議なモザイクといえるでしょう。 
2013年5月19日(日)
便り12:「見えない王国」について

 童話の書き出しで、私の知る限りもっとも魅力的なのは、グリムのAschenputtel(灰かぶり=シンデレラ)のそれであろう。
 Einem reichen Manne, dem wurde seine Frau krank, und als sie fuehlte, dass ihr Ende herankam, rief sie ihr einziges Toechterlein zu sich ans Bett und sprach: ”Liebes Kind, bleib fromm und gut, so wird dir der liebe Gott immer beistehen, und ich will vom Himmel auf dich herabblicken und will um dich sein“ Darauf tat sie die Augen zu und verschied. Das Maedchen ging jedentag hinaus zu dem Grabe der Mutter und weinte und blieb fromm und gut. Als der Winter kam, deckte der Schnee ein weisses Tuechlein auf das Grab, und als die Sonne im Fruejahl es wieder herabgezogen hatte, nahm sich der Mann eine andere Frau.
(あるお金持ちの男性の妻が、病気になりました。最期のときが来たのを感じた彼女は、小さな一人娘をベッドのそばに呼びよせて、こう言いました。「いとしい子よ、信心深く、よい子でいなさい。そうすれば、神さまがいつもおまえを守ってくれるでしょう。わたしも天国からおまえを見おろして、おまえのそばにいてあげよう。」そう言って、彼女は目を閉じ、亡くなりました。少女は毎日、母親の墓に出かけてゆき、泣きました。そして、信心深く、よい子でいました。冬が来ると、雪が墓のうえを、白い布でおおいました。そして春の太陽が、その布を取りのけた頃、夫は別の妻をむかえました。)
 拙訳では、原文のメルヘンのドイツ語の、流れるような、やわらかな風格を、とても移しきれないが、ここでは、童話の語り口の特徴について、話をしぼりたい。
 昔々、ある所にとか、Es war einmal・・・といった、定番の語りだしの効果は、童話にかぎらず、あらゆる物語において、もっとも聞き手及び読み手の、関心を引きやすいテクニックである。(ちなみに、Aschenputtelの書き出しが、三格のEinem reichen Manne・・・となっているのも、これを意識しているのであろう。)遠い時代や遠い国、といった設定は、時空という次元における観念的存在である人間にとって、きわめて魔術的な魅力を持っている。今という時と空間の制約から、一瞬にして、イマジネーションを解放してくれる、魔法の言葉なのである。人は大人になるほど、動物的に現在に生きるようになる。しかし子供や、それに類した人間は、つねに現在の退屈さや、不幸から逃れたく思っている。想像力は時空という広大な世界に、遊ぶことができるのである。
 そして主人公は、基本的に孤児であるか、あるいは片親であるか、あるいは少なくとも家族や社会から疎外されていることが、童話においてはベストである。それは、上のイマジネーションによる解放の条件と、よくマッチするからである。今、ここ、という現実存在の不幸が、童話の中に投影されていることが、聞き手、読み手の関心を強く引きつける。そして、それをはねのけて、幸福の探求へと向かうことが、代償的な充足で聞き手の心を癒すのである。
 さて、「灰かぶり」が、このすべての条件を満たしている事は、言うまでもない。この意味では、童話文学の<祖形(Archetyp)>といって良いであろう。童話ばかりでなく、あらゆる魅力的な物語は、この祖形のヴァリエーションである。リヒャルト・フォン・フォルクマン=レアンダーのいくつかの童話も、この祖形に基づいている。ここでは「見えない王国」にしぼりたい。
 いつの時代、どことも知れない山村で、主人公のイェルクは村人から離れた山の中腹に、父親の亡くなったあとは一人で暮らしている。村人は<普通の人間>であり、彼だけが<夢見るイェルゲ>とあだ名されるように、夢すなわちイマジネーションの世界に生きている。ある晩、夢の中で、天からぶら下がったブランコに乗ったお姫さまから、バラの花を投げよこされたことから、彼は現実にも彼女を探し出そうと旅に出る。実は、この理想の女性探求の旅も、童話では夢そのものなのである。ちなみに、童話や物語での幸福の探求のほとんどが、理想の配偶者を見つけ出すことであることも、ここで述べておく。
 <夢見るイェルゲ>は、その名の通り、夢王を危難から救ったことによって、夢王の国に案内され、夢の国のさまざまな驚異を見てまわった後、探し求めた姫と再会するのである。そして夢王から、<もっとも美しい夢>である姫を授けられて、地下の夢の国から地上へもどるのであるが、そのさい夢であった姫は現実の血肉をそなえた女性と変わる。そして同時に、天から夢王によって<見えない王国>が授けられる。
 <夢見るイェルゲ>にとって、彼が連れ帰った姫=王妃はあくまでも、彼の目に映ったままの変わりない姿であるが、村人達の目にはごく<ありきたりの>女性なのである。<ありきたりの人たち>である彼らには、そうとしか見えないのである。イマジネーションの目と現実の目との対比である。この対比は、夢王(Der Koenig der Traeume)と、うつつ王(Der Koenig der Wirklichkeit)との対立においても表現されている。<夢見るイェルゲ>と王妃とは、この<見えない王国>において、たくさんの王子や王女をもうけて、幸福に暮らすのである。
 観念的存在である人間は、実はだれでも<見えない王国>に生きていると言ってよい。それに気がつかない<普通の人>にとっては、それが牢獄であったり、檻であったりするのである。人間の心には、ライプニッツの言葉を借りれば、目や感覚はあっても<窓がない>のである。誰もが心という閉ざされた世界に生きている。その心は他人には見えないのである。幸福は、究極においておのれの心の中に求めるほかはない。そして、その幸福のあり方は、他人には、少なくとも<普通の人>には、見えないのである。それをお互いに見ることができるようになれば、それは人類の窮極の夢であるが、<見えない王国>はもはや必要とされないであろう。だれもがともに、夢見る人となるからである。
 心は他人には見えないのであるが、それを見えるようにしようとする努力が、言葉であるといって良い。観念を感覚(音声や文字)を素材にしてやり取りすることにより、いわば心の代用品ができるのである。見えない心を見えるようにしようとする努力とは裏腹に、人には見えない心を大事にして、幸福をそこに探求しようとするのが、この童話のテーマなのであろう。それを表現するのに、やはり言葉が必要であるところに、童話にかぎらず文学のジレンマがあるのであるが、童話はまたそれを素朴に乗り越えていく。 

2012年7月20日(火)
<群集の人>について

 PoeのThe Man of the Crowd は、今日群集について論じられる視点とは大いに趣を異にした物語である。この短編は人間の群居本能について語ったものではない。この小説のテーマは、表面は群衆の中の孤独とでもいうべきものであるが、さらに深い内容が込められている。
 まず第一に、語り手である<私>は、近代小説にしばしば現われる人間や社会の傍観者的<観察者>であるが、観察するものは観察されるという、人間社会の大原則が捨象されている。つまり、<私>は窓の外を横切るあらゆる階層の人物を観察しながら、見返される眼によって妨げられることがない。いわば<私>は透明なのである。これが不可能であることは、誰でもこの小説の通りに実践してみればすぐに分かる。そしてこの透明なのは<私>ばかりではない。私が見い出した不思議な<老人>もまた、群集とは何ら積極的な接点を持っていないのである。つまり<老人>もまた透明である。ここにこの小説の独特な象徴的意味と魅力が生まれる。
 一見リアリズム風に描かれる、群衆の中のあらゆる階層の人々。Poeのいつもの陽気から陰気へのスケールにしたがっているものの、やはり圧倒的に社会の暗い方面に傾斜していることが見てとれる。これがいわば、私と老人との関係の心理的背景をなしているのである。詐欺師、賭博者、街娼婦、乞食などの社会の暗黒面は、単にありのままを描いたというのではないであろう。老人が最後に行きつくのも、悪魔ジン酒の巣窟である。犯罪と悪徳との巷を<老人>と、そして彼を追跡する<私>は徘徊するのである。
 <私>はホメロスやライプニッツといった教養の権化によって示唆されているように、<知性>を代表している。病から回復した<私>は、知性を覆うていたかすみが取れ、最高度の知的好奇心にみちている。知性もしくは理知は、Poeにとってあらゆる困難、あらゆる謎、あらゆる混沌を解きあかしてくれる最後の切り札である。これの見事な作品例が、「メールシュトロームの渦」や「陥し穴と振り子」、そしてデュパンものであることはいうまでもない。
 この最高の知性によっても読み取れない人物として<老人>は登場するのである。<老人>はof vast mental power, of caution, of penuriousness, of avarice, of coolness, of malice, of bloodthirstiness,
of triumph, of merriment, of excessive terror, of intense--of extream despair という渾沌とした観念を<私>の中に生じさせた。知性によって整理のつかないこの老人の中の闇は私を強烈に惹きつけ、かくしてそれと知らない<老人>と魅せられた<私>との、両者ともに夢遊病者のようなロンドンの街中の徘徊が始まる。
 老人は絶えず人込みを、群集を求めて、その中に紛れ込もうとするのであるが、彼は何かを積極的にそこに求めるのではない。「顎は胸のところへ落ち、眼はその顰めた眉の下から、彼を取巻いた人々に向って、あらゆる方向に、激しくぐるぐる回った。」群衆の中に慰安を求めながら、彼は群集に安住できないのである。あたかも群集を恐れるかのように、顎を胸に落とし、周囲を用心深く窺っているのである。群衆の一人と接触した時には、「強い戦慄が彼の体中を走る」。そして、その彼の存在を全く気づかないかのように、群衆が取巻いている。さらにもう一人、群集も老人も気づかない存在が、語り手である<私>である。
 ここまで書いてくると、<群集=老人>VS<私> の構図がはっきりするであろう。<私>が知性もしくは理性を代表するとすれば、群集=老人は私の理性の光の及ばない闇であり、暗い力Die dunkle Machtである。つまりこの構図は、<無意識>VS<理性>の対立に置きかえることができる。ここで群集を無意識と等置したことで起る誤解を予め除いておくならば、群集の行動が無意識の力によって支配されているといったような群集心理学をここで援用しているわけではない。群集はあくまでも、無意識界に抑圧され、追放された暗い衝動や体験のうごめくさまを象徴しているに過ぎない。そのような群集=無意識界を彷徨う老人もまた無意識界の何らかの暗い衝動である。しかし老人はその無意識界に引かれながらも、おののきつつ永遠に放浪しなければならないのはなぜか。
 ここで物語の冒頭の部分に返り、「重い恐怖の荷を負わされた良心」の意味を考えねばならない。「その荷はただ墓穴の中に投げ下ろすより他にどうにもできない」のである。つまり<老人>は単なる無意識界の亡霊ではなく、無意識界に追放された<良心>すなわち罪の意識、罪悪感の象徴なのである。こう見ることによって、この小説が裏返しにされたWilliam Wilson であることが分かる。
 「ウイリアム・ウイルソン」では、暗い力のくぐつであるウイルソンが、その分身である<良心>を表わすウィルソンを刺し殺すことで、「この世に対して、天国に対して、また希望に対して死ぬ」ことになる。しかし「群集の人」では、私の分身である<老人>は、<私>と面と向かっても、<私>を見ようとも気づこうともしない。最高の知性である<私>は、もはや<老人>にとって何の力でも、救いでもないのだ。理性の光の及ばない無意識界の権化が、<私>の前に立つ<老人>なのである。理性よりもはるかに年とっており、老獪で、不可解で、醜怪で、底なしの暗い力の象徴なのである。こうして永遠のWandererである苦悩する<良心>は、無意識界というブラックホールのまわりを果てしなく回りつづけるほかはない。
 「この老人は、凶悪な犯罪の象徴であり、権化であるのだ。彼は独りでいることが出来ない。彼は群集の人なのだ。・・・この世の最悪の心は、<魂の小園>よりももっと気味の悪い書物だ。そして“それはそれ自身を読ましめぬ”というのは、恐らく神の大きなお慈悲の一つなのであろう」と作者も締めくくるほかはなかった。

2011年5月15日(日)
にせ<佐々木直次郎訳>について再び

 佐々木直次郎訳のいかさまが出回っていることに、以前このコーナーで注意を喚起したことがありましたが、あるサイトで佐々木訳の批判をしているのを目にした時、その引用がいかさま訳であるのを見て、その批判の当否は別として、何とも憤りをおさえられませんでした。そこで少々、「モルグ街の殺人事件」を例にして、いかさま訳のいかさまぶりを見てみたいと思います。

 Our first meeting was at an obscure libraly in the Rue Montmartre, where the accident of our both being in search of the same very rare and very remarkable volume, brought us into closer communion. We saw each other agin and again. I was deeply interested in the little family history which he detailed to me with all that candor which a Frenchman indulges whenever mere self is the theme. I was astonished, too, at the vast extent of his reading; and, above all, I felt my soul enkindled within me by the wild fire, and and the vivid freshness of his imagination. Seeking in Paris the objects I then sought, I felt that the society of such a man would be to me a treasure beyond price; and this feeling I frankly confided to him. It was at length arranged that we should live together during my stay in the city; and as my worldly circumstances were somewhat less embarrased than his own, I was permitted to be at the expense of renting, and furnishing in a style which suited the rather fantastic gloom of our common temper, a time-eaten and grotesque mansion, long deserted through superstitions into which we did not inquire, and tottering to its fall in a retired dosolate portion of the Faubourg St, German. ―― E,A,Poe The Murder in the Rue Morgue


 「我々が初めて会ったのはモンマルトル街の名もない図書館で、そこで二人が偶然同じごく貴重な稀覯の書を捜していたことから、一層親しくなったのであった。二人は度々会った。フランス人が自分一箇のことを語る時にはいつも示すあの率直さで、彼が詳しく話してくれた彼の一家の小歴史は、私には非常に面白かった。私はまた彼の読書の範囲の頗る広汎なのに驚歎した。そしてとりわけ彼の想像力の奔放な烈しさと溌剌たる清新さとは、私の魂を燃え立てさせるように感じられたのであった当時私は自分の求める物をパリで捜していたので、こういう人と交わることは何ものにも代えられぬ宝であろうと思い、そしてこの気持を腹蔵なく彼に打明けた。とうとう私がその都会にいる間は二人が一緒に住もうということになった。そして私の暮し向の方が彼よりは幾分窮迫していなかったのでどんな迷信か別に我々は尋ねなかったが、とにかく迷信のために永い間住む人のなかった、廓外(フォーブール)サン・ジェルマンの辺鄙な淋しいところにあって今にも崩れそうになっている、或る古びた奇怪な邸の家賃を出し、また二人に共通な気質であるやや空想的な憂鬱にふさわしいような風に家具を備えつける費用を、私の方が受持つことになった。」――(「モルグ街の殺人事件」佐々木直次郎訳、角川文庫、昭和29年、新字新仮名遣いに直す)

 「我々が初めて会ったのはモンマルトル街の名もない図書館で、そこで二人が偶然にも同じたいへん貴重な稀覯書(きこうしょ)を捜していたことから、いっそう親しくなったのであった。二人はたびたび会った。フランス人が自分のことを語るときにはいつも示すあの率直さで、彼が、詳しく話してくれた彼一家の小歴史は、非常に面白かった。私はまた、彼の読書の範囲のたいそう広いのに驚いた。そしてことに彼の想像力の奔放なはげしさと溌剌(はつらつ)たる清新さとは、私の魂を燃え立たせるように感じたそのころ、私は求めるものがあってパリで捜していた。で、こういう人と交わることはなににもまさる宝であろうと思い、この気持をはっきり彼にうち明けた。で、とうとう私のパリ滞在中は、一緒に住もうということになった。そして、ちょうど、どんな迷信か問題にもしなかったが、とにかく迷信のために長いこと住み手のなかった、郭外(フォーブール)サン・ジェルマンの辺鄙(へんぴ)な淋しいところにある、崩れかけた古い、怪しげな邸を借りた。その家賃や、また、二人に共通した気質である、いささか空想的な憂鬱にふさわしいように家具を備えつける費用を、私のほうが彼よりはいくらか暮し向きが楽だったので私が受け持つことにした。」――(青空文庫「モルグ街の殺人事件」、佐々木直次郎訳、底本・新潮文庫「モルグ街の殺人事件」昭和52(1977)年改版)

 新字新仮名遣いになる前の角川文庫や新潮文庫は、佐々木直次郎の原訳に忠実であったと言ってよいでしょう。上の角川の原訳と、下の新潮の今でも行われている新字新仮名遣い版を比べてみると、新潮社は改版に当たって大幅な改訳を行ったことが分かる(と言うよりもそれ以前にこの改訳を世界文学全集で行っている)。読み比べて見ると誰でも気づくでしょうが、改訳者は佐々木直次郎本人に比べて大幅に、言語力において劣ると言うことです。多分大学生と中学生ほどの差があるでしょう。
 こんな稚拙な改訳を天下のS社が行った魂胆は何だったのでしょう。今のたとえで言えば、まさに中学生でも読めるものにするためです。そのためには原訳の品格を貶めることなどは、意にもかけなかったでしょう。一語一語や、語尾にまでも気を配って、当時としては彫心鏤骨の翻訳と言えるものを、現代の軽薄な風潮にこびて、あられもない訳文にしてしまった出版社の罪は大きいと言えます。
 佐々木直次郎の翻訳そのものについては、また様々な批判があることでしょうが、問題は別です。せめて批判者がまがい物をつかまされていることに気づいてほしいものです。
    *     *     *
 この引用部分から読み取れる限りでの、佐々木直次郎訳の特徴に、少々触れておきます。鴎外のドイツ語訳からの重訳と比較するのなどは、初めから論外です。ドイツ語訳そのものがかなりの自由訳なのですから。ポオの柔軟な、英語的に自在につながっている長いセンテンスをそのままドイツ語に移すのは、至難の業だと思います。その点フランス語は構文が英語と同じものが多いので、ボドレール訳などはかなり原文に忠実です。
 さて佐々木直次郎訳も、日本語として可能な限り原文の構文を日本語に移そうとした試みと見て良いでしょう。この引用文では、この特徴が特に後半部において表われています。「そして私の」から「受け持つことになった。」の長い一文にそれが見られます。原文では更に長く It was at length arranged から of the Faubourg St. German までが一文です。セミコロンの前までは一文と見ても良いでしょうから、そこで句点を打つのは自然です。その後に続く長いセンテンスは、たいていの翻訳家は面倒くさくなって、いくつかの文に分けてしまいたくなるでしょう。しかし原文を真に愛する翻訳家は、それでは原文の鬱屈した趣きが損なわれてしまうと感じるはずです。ドイツ語でそれがうまく行くのは、元々ドイツ語自体にそなわっている音韻的重量感のようなものが、それを補ってあまりあるからです。音韻的に貧弱な日本語では、文が短くなるほど、軽快さ、場合によっては軽薄さが勝ってしまいます。佐々木直次郎があえて長い一文としたのは、正解であったと言えるでしょう。
 翻訳家には、その翻訳家の日本語に対する感性から生じた独特の個性のようなものがあります。その個性が原作者の文学的個性と調和する場合に、いわゆる名訳が生れるのだと思います。「ガリヴァー旅行記」の翻訳にはいかに感嘆しようと、中野良夫には「モルグ街の殺人事件」は訳して欲しくなかったと思います。ましてやどこの誰とも知れない改訳者に、佐々木直次郎のスタイルに顕著な個性を愚弄してもらいたくはなかったと、心ある翻訳者なら誰しも思うことでしょう。

2008年10月3日(金)
便り9:エドガー・ポオの両親 (1)

 一生の間に読める本には限りがある。古典文学だけでも読みたい本は無数にあるが、読書だけで一生を終えるわけにはいかない。読みたいもの、読むべきものと、‘読まずにすます’(ショーペンハウアー)べきものとを絶えず選別していなければならない。読むべきもの(must) であっても、大冊はどうしてもあと回しになってしまう。死ぬまでには何とか読みたいと思いつつも、果たせずに終わる本はいかに多いことであろう。
 そんな本の一冊にならないように、衝動買いに近かったが、アーサー・ホブソン・クインの「エドガー・アラン・ポオ:批判的伝記」(Arthur Hobson Quinn : Edgar Allan Poe , A Critical Biography. 1941, paperback 1998) を買い入れた。買い入れた勢いにのって、いつもの積ん読にならないように、一気に50頁ほどある第一章を読みきってみた。
 これまでの私の頭の中では、エドガー・ポオの母親のエリザベス・ポオと、父親のデイヴィド・ポオは非常にobscure な、つかみ所のないイメージでしかなかった。単なる家系や経歴からは、人物の具体像をつかむことなぞおぼつかない。簡略な伝記から得られるものは想像の域を出でなかった。
 クインの批判的伝記の特色は、それまで知られていなかった新たな事実を掘り出したというだけではないであろう。むしろ二人の生活上の事実に関しては、実にわずかなことしか知られていない。デイヴィド・ポオの死もしくは失踪に関してもやはり不明のままである。それなのに、この二人のために割かれたちょっとした小伝ほどの章を読むと、二人の人物像が鮮やかな具体性をもって脳裏に刻印されてくるのである。どのようにしてか。
 残された事実だけに基づき、一切の‘ speculation ’を排するという方法にたつクインが、わずかな事実の中から最大の拠り所としたのが、舞台俳優であったエリザベスとデイヴィドの出演した演目およびそれらに関する若干の演劇評の徹底調査であった。エリザベスが9歳で初めてアメリカでの舞台に立ったときから、24歳で病死する前の最後の舞台に至るまで、ひたすらこの二人の俳優の演じた演目を列挙して行くという、実証に徹した行間から浮かび上がってくるのは、いまだピューリタンの影響の濃い当時の文化後進国における舞台芸術にかけた二人の男女の、希望と格闘、、喝采と誹謗、絶望と困窮の短い生涯である。いわば俳優というアヴァターが、背後の実像を雄弁に物語ってくれるのである。
 エリザベス・ポオは1787年、女優エリザベス・アーノルドの娘としてロンドンに生まれた。最初の父は早く亡くなったようで、1796年に、母親と後に義父となる男性とともに渡米し、マサチュセッツ州ボストンに下り立つ。渡米二年後の1798年には、母親が黄熱病で仆れると、その後は義父とともに東海岸の各地の劇場を旅して回る。1802年には、最初の夫、同業者のチャールズ・ホプキンスと結婚するが、1805年に寡婦となると、翌年にやはり同業者のデイヴィド・ポオと再婚する。1807年に第一子のウィリアムを、1809年に第二子のエドガーを、1810年に第三子のローザリーをもうける。1809年の末にデイヴィド・ポオが舞台を去ってからは、一家の家計はすべてエりザベスの細腕に委ねられた。1811年10月11日、リッチモンドで最後の舞台に立った後、12月8日に病死するまでは町の人々の慈善に頼らねばならなかった。
(以上は書きかけです。なかなか続ける暇がないのでとりあえず掲載―K)

2008年9月15日(月)
便り8:英文学畸人伝(ハーン)
 インターネットで気晴らしに古書検索などをしていると、思いがけない掘り出し物に出会うことがある。長年入手不可能と諦めていた古書が、魔法のように検索にかかってくるのである。それもとびっきり廉価に。
 Hearn の講義録 Some Strange English Literary Figures of the Eighheenth and Nineteenth Centuries は初版が1927年に田部隆次編で北星堂から出されたものである。そのアメリカでのリプリントが1965/1969年に出されている。もちろん廉価に手に入ったのは後者の第二版である。私としてはビブリオマニアではないので、とにかく読めるテキストが目の前にあればよい。
 早速暇を見て、就寝前などに寝転びながら、いく晩か楽しく読みふけった。旧東京帝大の院生向けの講義とはいえ、そうそう楽に聞き取れたとは思われない学生相手に、かんで含めるように講義したものの口述筆記ではあるが、文学的香りが匂い立ってくるのには感嘆される。しかもハーンは戦前の大抵の教授のように原稿を読み上げたのではなく、メモ帳を片手に即席で講義したのであった。
 扱われる人物も実に多彩である。一方で抜け目なく時流に乗ったホラー作家のモンク・ルーイス(`Monk Lewis') から、‘話の筋ではなく知的な楽しみのために読むべき小説’を書いたトマス・ラヴ・ピーコック(Peacock)に至るまで、文人と言うものを対象にしたcharacter 研究の趣がある。畸人(strange and curious figures)とは何をもって言うのか。単にmad であると言うことではなさそうである。
 日本人が畸人と言う語から感じ取るものに近いのは、ブレイク(Blake)や、ベックフォード(Beckford) や、バロー(Borrow )などであろう。幻視者であったり、狂的な隠遁者であったり、社交嫌いでジプシー好きの放浪者であったりする。しかし、エラスマス・ダーウィン(Darwin)やマンデヴィル(Mandeville)やピーコックはこの範疇に属さない。マンデヴィルの冒頭を引用してみる。

 One thing which you must expect in this world is that if you ever have a new idea, and venture to utte it in any public way, you will be almost universally abused.・・・To utter a fresh opinion, therefore, even in the most enlightened country of the world, requires not a little moral courage.

 精神的・道徳的勇気が社会と衝突することにより、時として世人の目には畸人・狂人として映るのである。狂気は原因である場合もあろうが、スイフトのように結果である場合もある。ハーンはスイフトの激しさを好まないようである。穏やかな satirist であるピーコックをよしとする。

 You are made to feel that the world is really somewhat like this -- full of contradictions, inconsequences, absurdities, and vanities of a thousand kinds. But, when all is said and done, you are still left with the impression that the world is a very pleasant place, and the best way to get rid of the troubles of life is look at them and laugh at them good-naturedly.

 mad であることはまた、美しい叙情をもたらす。ウィリアム・ブレイクは別格として、クリストファー・スマート(Smart)と、トマス・ラヴェル・ベドーズ(Beddoes)がそのケースである。スマートは‘狂気の最中だけよい詩を書くことができた。それはちょうど、酒に酔わないと詩が書けない人がいるのと同様である。’

 The world--the clustering spheres he made,
 The glorious light, the soothing shade,
    Dale, champaign, grove, and hill;
 The multitudinous abyss,
 Where secrecy remains in bliss,
    And wisdom hides her skill.

 You may ask what is the meaning of the extraordinary line `Where secrecy remains in bliss.' No man living can tell us. This happenns to be one of the very few lines which proves Smart to have been mad at the time when he wrote the poem.

 この後に続くハーン自身の解釈はひとまずおき、象徴詩や前衛詩の氾濫する今日では、mad というシンプルな言葉はもはやここでは、詩の革命は狂気なくして起こりえなかったという事実以外の、何事も語らなくなっている。いわば近代詩とは狂気のまねをすることであったのだ。
 たわむれに、このアレゴリーを次のようにひねってみると、そのまま現代詩に化けてしまおう。
 Where Mr. Secret lives in bliss,
  And his wise house wife hides her skill.
 ベドーズは今日では鬱病とみなされるかもしれない自殺をした医者である。次の恋愛詩が引用されている。

 How many times do I love thee, dear ?
  Tell me how many thoughts there be 
       In the atomosphere
       Of a new fallen year, --
  Where white and sable hours appear
  The latest flake of Eternity.
 So many times do I love thee ,dear.

 How many times do I love, again ?
  Tell me how many beads there are
       In a silver chain
       Of evening rain.
  Unravelled from the tumblinng main.
  And threading the eye of a silver star, --
 So many times do I love again !

Eternity is here represented as showering or snowing of days and years, as the ゙flake" beautifully suggests; ・・・The secound stanza is still more exquisite with its simile of silver beads for lines of falling rain ゛Unravelled from the tumbling main" refers, of course, to the fact the source of all rain is really the sea. Lines of rain passing across the light of a star or planet. might very well remind a poet of the effect of thread passing through a needle-eye.

 一体どんな女性がこのような詩を贈られるに値したのか、気になるところであるが、不明である。
 ブレイクに関しては、‘一見して子供のような素朴さの背後に、しばしば神のような叡智を隠しているこの並外れた人物’のニーチェを思わせる<地獄の格言(Proverbs of Hell)>が面白い。

 A fool sees not the same tree that a wise man sees.
 The bird a nest, the spider a web, man frendship.
 What is now proved was once only imagined.
 Expect poison from the standing water.
 The tigers of wrath are wiser than the horses of instruction.
 The eagle never lost so much time as when he submitted to learn of the crow.
 Everything possible to be believed is an image of truth.

 老婆心ながら拙訳を載せておく。

(愚か者が見る木と賢者の見る木とは違っている。
 鳥は巣を作り、蜘蛛はくもの巣を編み、ひとは友情を結ぶ。
 今日証明済みのことも、昔は想像されたにすぎなかった。
 よどんだ水からは、毒にあたらぬようにせよ。
 怒りに燃える虎は、調教される馬よりも賢い。
 鷲はへりくだって鴉から学んだ時ほど、時を浪費したことはなかった。
 何事であれ信じてよさそうな事柄は、真理の似姿である。)

 5,6番目の格言からは、例の‘ツァラトゥストラ’の精神の三変転が連想されるであろう。特に6番目は天才的人物の宿命的嘆きがこめられているようである。
 最後にコンパクトな人物評をまとめておく。

 Bernard De Mandeville: He said that lust, theft, ambition, treachery, and all the great vices-- the real vices--were usefull to society, and ought to be considered as public benefits. Instead of putting people into prison for the indulgence of what we call evil passions, such persons were to be thought of as public benefactors, and saviours of society. Then the world howled with indignation. Mandeville was not only a fool; --he was a brute, a beast, a creature unfit to live in the midst of civilization. Yet Dr. Johnson had the courage to say ‘that man has opened my eyes to a great truth.’
(このセンセイションを巻き起こした書の名は The Fables of Bees or Private Vices Publick Benefits <蜜蜂の寓話、個人の悪徳は公衆の利得であること>である)
 Erasmus Darwin: Darwin became a country doctor, and a very good doctor, in Lichfield; while Dr. Johnson was in London. The two men curiously resembled each other. Dr. Darwin , like Dr. Johnson, was a very large and clumsy-looking man, with a pocks-marked face. He was also dictatorial in his manner. Like Johnson also he was a good classic scholar, with a liking for letters. And, like Johnson, he gathered about him a coterie of literary persons--artists, poets, and philosophers--who looked up to him as their chief, and eventually called `Johnson of Lichfield.' The two men did not meet; but mutually disliked each other. Dr. Darwin thought himself just as good a scholar and a man as Dr. Johnson, and was naturally vexed that Dr. Johoson never took the least notice of him, nor so much as mentioned his name. Dr. Johnson , on the other hand, must have thought that Dr. Darwin was a kind of living caricature of himself, and could not have been otherwise than annoyed by hearing of the `Johonson of Lichfield.' ・・・Both were really great and good men; but in point of mere intellectual greatness, Darwin was a much superior man to Johnson. He had few prejudices, and he permitted no conventions of belief to regulate his interest in scientific studies. It was by the studies that he revealed himself larger-minded than his age.
(ちなみにチャールズ・ダーウィンは孫にあたる。エラスマス・ダーウィンは「自然選択という一つの例外を除けば、チャールズ・ダーウィンのなしたほとんどすべての発見を実際に先取りしていたのである」。)
 William Beckford: Beautiful architecture was a passion with him; and employing the most skilful architects of the time, he proceeded to build himself such a palace as had never before seen in England, to which he gave the name of Fonthill Abbey. In order to seclude himself from public curiosity, he surrounded his estate with a stone wall twelve feet high seven miles long.. Nineteen hundred acres of ground contained within this circuit, were laid out as a landscape garden of the most magnificent kind. But the palace itself was the great wonder. Desiring to have it quickly finished, hundreds of workmen was employed by him during the night as well as the day; and one feature of the structure, especially remarkable, was a gigantic tower, commanding a view of many miles over the surrounding countries. Beckford was a great lover of the towers; and he introduced them into all his buildings.
(ポオが<アルンハイムの地所>において空想の中でしか構築できなかった人工楽園を、あり余る財産で実現していた人物である。文学作品としては唯一Vatheck が残されている。ベックフォードの財力が西インド諸島の奴隷農園に基づいていたことは興味深い。これに関してのハーンの考察も面白い。)
 George Borrow:There is perhaps no other man so widely known as Borrow was, about whose private life so little is known. Living in the strangest fashion in different parts of of Europe, wandering from place to place with bands of gipsies, hiding himself under multitude of disguises, he actually remained during the greater part of his life invisible to society. ・・・When at last he married a rich English widow, and was introduced by his admirers into good society, he could not stay in it. He could not sit still in a room for half an hour, could not obey conventions, could not endure those little kindly hypocrisies by which alone society is made endurable. He fled from London into the country and there passed the last years of his life, ready to show kindness to any wandering unconvenntional persons--especially gipsies, but obstinately refusing to meet men of culture--authors, clergymen, gentlemen or ladies of any rank. The habits of his boyhood had shaped his whole life and changed his whole character. By blood only he remained an Englishman ; in thought, habit, and feeling he became altogether a gipsy.
(ハーン自身の人生を重ね合わせてみると、そのまま当てはまりそうである。)
`Monk Lewis': He may be said to have fallen a victim to his own humanity. One of the things nearest to his heart was the condition of his own slaves in the West Indies: he wished to assure himself by personal supervision that they were being kindly treated; and he made it his duty to go to the West Indies every two or three years only for this purpose. He would have freed them had that been possible at the time; but it could not have been judicially done. A terrible fever--one of the deadly fevers of the tropics, seized him upon his West Indian journey, in 1818; and he died shortly after embarking to retune home. He was regretted greatly by society and by men of letters as a gentleman and a generous friend; and his memory is one of the most amiable in the literaly history of his time. ・・・It was a curious fact that this man who probably never did an ignoble or a cruel thing in his life should have written the most abominable stories written in the 19th century.
(本名はMatthew Gregory Lewis 。The Monk (邦訳「破戒僧」)の大ヒットでモンク・ルーイスとあだ名された。この作は西洋文学に広い影響を及ぼしている。例えばホフマンの「悪魔の霊薬」など。)
Walter Savage Landor: Born in 1775 he was educated at Rugby and Oxford--at both of which places he distinguished himself by great capacity for scholarship, and by great incapacity to submit to discipline. He could not stay in Oxford University for any length of time without getting into trouble ; he was suspended and reprimanded continually, and at last left the uiversity without taking a degree.・・・On leaving the university, he soon got into trouble with his neighbors at home ; then he got into trouble with society ; finally he found it was impossible to live in England comfortably--so, being rich, he went to Italy, where he passed a great deal of his life,--always in trouble, but always able to win and to keep the adomiration of many friends. For with all his faults he had a most generous heart ; and his misfortunes were chiefly of a character which reflected upon nobody except himself.
Thomas Love Peacock: There is a remarkable fact to be stated in connection with Peacock's mastery of style. He was one of those great men who recognized that good work always means hard work ; and he apears to have acquired his style through an extraordinary exercise of self-discipline. For example, it is related of him that no human power could have induced him to answer a letter immediately upon receiving it. He would take three days, or a week, or even longer, according to circumstances, to answer a letter ; and it is probable that every letter written by him was copied many times before being trusted to the post.・・・He explained himself very frankly upon the subject ; `If I allow myself ', he said, `to be careless in writing even a single letter, I should certainly sooner or later be careless in writing some page of a book..' And as a matter of fact, there is not a single careless sentence in the whole of his work..
    *      *      *
 以上、学生のレポートのようなものになってしまいましたが、この幻の名著に関心を持つ人のために紹介してみました。
2007年10月31日(水)
便り7:翻訳城の今後の構想
 エポス文学館トップページの翻訳城の目次出しを見られた方は、翻訳城全体の構想がアンソロジー形式を取っていることに気づかれたと思います。あるテーマに沿って読むということが私の読書の一つの傾向であるために、翻訳においても自然とテーマ的にまとまってしまうことが多いのです。これまで載せた翻訳だけでも、翻訳城の目指しているテーマの範囲の一部が見て取れることと思いますが、関心のある人のために、今後に考えているテーマを含めた構想を、今思いつく限りメモ代わりに記しておこうと思います。

    ―――――

自然とのコミュニオン
 ナサニエル・ホーソン 「浜辺の足跡」
 リチャード・ジェフリーズ 「海と空と丘」

都会の孤独
 E・A・ポオ 「群集の人」
 ジョージ・ギッシング 「くもの巣の家」

夢と人生
 グリルパルツァー 「夢は人生」
 ゲオルク・トラークル 「夢と昏迷」

愛と死
 L・ハーン 「‘ファンタスティク’より」
 マックス・ダウテンダイ「比良の暮雪」

放浪伝説
 クヌト・ハムスン 「放浪時代」
 ジャック・ロンドン 「放浪記」

ドイツ・メルヘンの世界
 アウグスト・アーペル 「孔雀の王さま」
 ヴィルヘルム・ハウフ 「若いイギリス人」

西洋詩の世界
 ハインリヒ・ハイネ 「ロマンツェロ」
 E・A・ポオ 詩抄「夢幻郷」

ゴーストストーリーズ(西洋怪談の世界
 ウィルキー・コリンズ 「マッド・モンクトン」
 アンブローズ・ビアース 「月光の道」

ロム・アプスルド(人間・不条理なる者)
 E・A・ポオ 「アモンティラードの樽」
 フランツ・カフカ 「流刑地にて」

ラ・ベト・ユメンヌ(人という名の獣)
 レオニド・アンドレーエフ 「深淵」
 ハインリヒ・フォン・クライスト「O侯爵夫人」

夜の讃歌
 ギ・ド・モーパッサン 「夜」
 ノーヴァリス 「夜の讃歌」

ペシミズム入門
 アルツーア・ショーペンハウアー 「哲学エッセー」より

自由人の書
 マックス・シュティルナー 「唯一者とその所有」より
 フリードリヒ・ニーチェ 「アフォリズム」より

    ―――――

 とまあ、思いつくテーマにいくつか作品を挙げてみました。大多数はまだ翻訳手つかずのものですから、気の長い話になります。戦前多く翻訳され、広く読まれたアンドレーエフなどは、現在は全く忘れ去られていますが、「深淵」の使用できる旧訳はないものか、いずれ探索します。利用できるものは利用し、なるべく負担を減らしながら、翻訳城の書庫を充実できたらよいと思います。
2007年5月17日(水)
便り6:翻訳文学とタイトル

 西洋文学のタイトルの付け方と、日本文学のそれとでは、かなりコンセプトの違いがあるので、翻訳家は明治の頃からさまざま工夫を凝らしたようである。明治期の翻訳文献を題名だけ見ていると、一体どんな原作であったのか想像力をそそられる。「大叛魁」とか「鉄世界」とか「瞽(めくら)使者」とかが、ジュール・ヴェルヌのどの作品に当たるのか、Verneファンでもすぐには当てられないであろう。「瞽使者」がミシェル・ストロゴフであろうことは見当が付くが、あとは分からない。
 西洋文学には主人公の名前だけのようなそっけないタイトルが多いから、日本の読者の好みに合うようなタイトルの考案が必要だったのである。純文学、大衆文学に限らず、こうした試みの中から名タイトルが生まれ、今に至るまで踏襲されているものはいくつもある。さすがに名高くても、いまさら「岩窟王」や「ああ無情」は通用しないであろうが、ヴェルヌの「二年間の休暇(Deux ans de vacances)」 は「十五少年漂流記」ほど人口に膾炙していない。
 西洋文学では人名や地名のような漠としたタイトルが好まれるが、日本人は具体的でないと満足しないようである。「二年間のヴァカンス」では何かのロマンスを想像しそうである。これが少年達の漂流談であることが分かってみれば、それなりのニュアンスが読み取れて、題名の意図が知れるのであるが、なんの予備知識もない読者相手の翻訳文学では得策ではない。そこで、The Coral Island は「サンゴ島の三少年」となり、Le Petit Prince は「星の王子さま」となり、Heinrich von Ofterdingen は「青い花」としなければ通じないのである。
             *     *     *
 R・L.スティーヴンソンのThe Pavilion on the Links の翻訳を連載するに当たって、たぶん戦前から使われている「臨海楼綺譚」を踏襲してもよかったのであるが、この大正ロマン的な邦題に惹かれて初めて原文を読んだ時の違和感を思い出し、何ともそっけない題ではあるが「砂丘の冒険」としてみた 。放浪を生きがいとする主人公と荒寥とした砂丘の舞台とが、戦前の探偵小説を思わせる何やらつやっぽい雰囲気をかもすこの邦題と、そうかみ合っているとは思えないのである。
 原題も直訳すると「砂丘の上の別館」と言ったほどのそっけない名づけ方であるから、これを「臨海楼綺譚」と訳したのは、まさに離れ業である。タイトルだけで読まずにはいられない気分になる。とはいえ、上に述べたような違和感は残る。
 グリム兄弟の「こわがり修業(行)」に関しては、この定番のタイトルを崩すことはどうかと思われたが、小学生に読ませる場合、案外このタイトルは通じないのではないかと思う。こわがり修業というのは普通の言い回しではない。ひねった内容が込められている。原題は実にシンプルで、Maerchen von einem, der auszog ,das Fuerchten zu lernen (こわがりを学ぶ旅に出た若者の話)である。そこで、「こわがりを学ぶ」と言う分かりやすさを、最終的にとることにした。これも「こわがり修業」という親しんできたタイトルを手放すことの、大いなる躊躇との闘いであった。

2006年10月31日(水)
便り5:E.A.ポオと<妖精の島>;佐々木直次郎訳について

 文学的文章というものの風格に初めて接したのは、日本文学ではなく、西洋文学の翻訳であった。それは高校時代のことであり、一つはヘルマン・ヘッセの「ペーター・カーメンチント(青春彷徨)」であり、一つはポーの「妖精の島」であった。どちらもその息の長い装飾的な文章が、読みこなすのに相当な努力をしいたのであるが、これこそが文学であるという漠然とした陶酔の中に包みこんでくれた。しかしその陶酔の種類は違っていて、ヘッセの場合はその清新な自然描写と青春賛美がある胸苦しさを起こさせたに過ぎなかったが、ポオの「妖精の島」はその頃の心理状態と相まって、今日はやりの言葉で言えば、healing の効果を及ぼしたのであった。

 「実際、地上における神の傑作を正しくながめたい者は、孤独にあってそれをながめなければならない。少なくともわたしにとっては、人間ばかりでなく、大地にはえる声なき緑の草木以外ありとあらゆる生き物が居合わせても、
それは風景の汚点となり――景色の真精神とは調和しなくなる。」(松村達雄訳)

 孤独というものを何か忌むべき病のように見なすこの国の精神風土の中で、ましてやそれの露骨な教育環境の中で、心身ともに圧迫されていたその当時、このように積極的に<孤独>を擁護する文学の存在は驚異であった。孤独を楽しむものにとっては、他者の存在は<汚点>ですらあるのだ。この誇らかな<孤独宣言>は、孤独者の生きられる世界があることを知らしめたばかりでない。孤独であることの積極的意味を一つの美的世界観、宇宙観の中で示してくれているのである。
 ポオのこの作品における植物的自然の中では、植物以外に存在を許される生き物は、やはり植物的な妖精だけである(それは最初は楓の樹皮であった)。それは‘俗人の世界が風変わりな(fantastic)と称するにちがいない気味を与える’空想(fancies)の力から生まれたものである。こうした空想力が存分に発揮されるためには、人は孤独の中に身を置かねばならないのだ。それは自然であれ、芸術であれ、文学であれ、全ての領域において言えることである。
 この作品で作者が「そうしてのみ眺めるべき」姿勢において鑑賞するのは、自然界の植物的な生と死であるが、ここから無機的精神的宇宙(精神的なものは基本的に無機的である)の生と死を論じた<ユリーカ>まではただの一歩である。そこでは孤独な神が一人鎮座し、おのれの創造物を自ら鑑賞する。この宇宙そのものが孤独な神の自己鑑賞の営みなのである。
 孤独者が何らかの止むに止まれない衝動から、<読者>というものを相手にして文学をせざるを得ないという悲劇的な事態を、身をもって示したのがポオの文学であり、人生であったと言ってもよかろう。
    *       *       *
 翻訳者の佐々木直次郎について簡単に触れておく。昭和6年から8年にかけて出された「ポオ小説全集」の出版のいきさつについては、第一書房社主の長谷川巳乃吉の文に詳しい。一部を引用すると、

 「或日私は一人の青年から、情熱あふるるばかりの訳稿を提示せられ、それを繙読するに及び、驚歎に近い感激に胸を焼くと共に、永年求めて得られなかった至宝をゆくりなくも発見した嬉しさに雀躍せずにはいられなかったのである。その訳稿こそ、実にポオの著作中に於ける傑作のひとつと目せられる「メエルストロムの旋渦」であり、その流麗な行文は悉く我等の国語から出て洗煉の妙に達し、円転自在な会話の運びと相俟って一片翻訳臭味の漂うあるなく、殊にポオの崇拝者としてその広汎な文献に徹したと云う若き訳者の溌剌たる情熱は、香り高い春の花のように行文の上を流れているではないか。ポオ著作集刊行の多年の宿望は、突嗟に私の胸の中に具象化したのである。」(「理想の出版」昭和5年、日本ペンクラブ:電子文藝館、現代表記に直す)

 青年の名は佐々木直次郎であった。この人の詳しい経歴についてはいずれ調べることとして、ここでは翻訳そのものについて若干の感想を述べたい。
 青年期に佐々木直次郎訳で初めてポオの作品に接したことは、その厳とした訳文が原文の難しさと相俟って、翻訳という営みの遼遠さを心に銘じさせさたのであった。「モルグ街の殺人事件」の冒頭や、「壜の中から出た手記」の冒頭などは、将来それを越える翻訳が出来ようなどとは思いもよらないほど完璧に思われた。

 「自分の故郷と家族とについては、私はほとんど言うことがない。虐遇と長い星霜とは、私を故郷から追い立て、家族から遠ざけてしまった。親譲りの財産によって私は普通以上の教育を受け、また瞑想的な気質によって若い時から孜々として薀蓄した学識を組織立てることが出来た。何よりもドイツの倫理学者たちの著作は私に大なる喜びを与えた。それは決して彼等の雄弁な狂愚に対して浅はかに驚歎したからではなく、私の厳正な思索の習癖が容易に彼らの虚妄を見抜くことが出来たからだ。」(「壜の中から出た手記」佐々木直次郎訳、現代表記に直す)

 当時の私にはこの神業とも思われる翻訳の文体が、文章の模範でもあった。幸か不幸か、近現代の日本語ははなはだ流動的である。やがて私自身の文章修業の過程で、戦前の文章に大きな影響力を持ったこうした原文を髣髴とさせる翻訳のスタイルが、すでに過去のものとなっていることに気づいて行った。日本文学が西洋語の厳密な翻訳スタイルを受け入れる許容度にも、限度があったのである。今日では、例えば芥川の当時はモダンであったろう英語文脈をそのまま取り入れた表現にも、あるぎごちなさを覚えさせられる。日本文学は西洋語の翻訳スタイルをも一つの支流として呑み込み、とうとうとした流れとなって日本語の独自の洗練を遂げて行ったのであった。その結果、今日では翻訳文学が日本語に影響する以上に、翻訳文学が日本文学から多くを学ばねばならない段階に到っている。
 とはいえ、過去の優れた翻訳文学は古典としての歴史的価値を与えられねばならない。過去の翻訳者の苦労がそこから偲ばれるべきであって、むやみに改竄されてはならないであろう。
 佐々木直次郎訳「妖精の島」を翻訳城に載せるに当たって、某社の現代表記版を用いようとしたところ、単なる校正ミスと思われない改変がしばしば行なわれているのに気づいた。どうにも意味の通らないところを原訳と比べてみて気づいたのである。その改変はほとんど恣意的であって、原文を全く読みもしない無知不遜な編集者が、思いつき次第に杜撰な変更をしたとしか思えない。それは翻訳者の良心を踏みにじる行為であるばかりか、場合によっては原作者の精神を冒とくしているのである。一例を挙げると、

 「透明な水はまるで鏡のやうで、緑柱玉(エメラルド)色の芝生の斜面(スロオプ )の何処からその水晶の領分が始まつてゐるのか、殆んど言ひ難いくらゐであつた。」(原訳)

 「透明な水はまるで鏡のようで、緑柱玉(エメラルド)色の芝生の斜面(スロープ)の何処からその水面の領分が始まっているのか、殆ど言い難いくらいであった。」(「新版世界文学全集19:スティーブンソン、ポオ」より、斜字体筆者)

 so mirror-like was the glassy water, that it was scarcely possible to say at what point upon the slope of the emerald turf its cristal dominion began.(The Island of the Fay)

 売らんかな主義の編集者には<水晶の領分>が気に食わなかったのであろうか。its cristal dominion という原文の神韻を見事に消し去ったのである。
 もし鴎外や漱石を現代表記に直すのであるならば、いかに厚顔な編集者といえども敢えてこのような無礼を頻繁に犯すであろうか。翻訳文学というものが日本の文学界、出版界においていかに低く見られてきたかの例証をここに歴然と見るのである。

2006年10月18日(水)
便り4:ヴァン・ホディスと表現主義 (K)

 翻訳城で二篇、新たに翻訳作品を載せましたので、二回に分けて少々コメントしておきたいと思います。
     *    *    *
 もし世にある普通の小説しか読まない読者が、好奇心から<ハッケル博士の最期>を開いてみたならば、大いに面食らうことでしょう。漱石の<夢十夜>なら楽しめても、夢文学もここまで来ると、一般の読者は背を向けたくなるかもしれません。今日のように、純文学も大衆化が要求される時代にはなおさらでしょう。
 しかし、こうした妥協のない文学が一世を風靡した時代があったのです。前世紀の初頭、ドイツに起こった表現主義に始まる、前衛文学の運動です。表現主義を一口に説明することは、私には出来ませんが、大まかにはこんな風に考えています。帝政ドイツ末期の時代閉塞の状況と、第一次大戦をはさんだ前後の時期の終末意識が、若い世代の間に強烈な伝統と因習の破壊エネルギーをかもしだし、あらゆる方面の芸術において鬱積したマグマが噴火するように突出したのであると。それは特定のテーマや方法であるというよりも、時代のムードによって突き動かされた多方面の模索であるといってよいでしょう。
 表現主義の文学が実際にどのような方向に模索したかは、一つにはテーマの多様性によって見て取れるでしょう。今「表現主義のメルヘン」(Maerchen des Expressionismus ,Fischer Taschenbuch, 1976)というアンソロジーによって、それを見てみましょう。そのテーマ立ては、
 T神は死んだ・宇宙における人間、U呪術・医術、Vなぞなぞ―風刺・グロテスク、W星界、Xダブルベッドの悪魔、Y社会・政治的
、Z昔話・王様はつらい[ダダ・無頓着なるが故に
 となっています。この時期にはニーチェ思想が若者たちを鼓舞しました。あらゆる価値の価値転換が合言葉となりました。権威や絶対が崩壊しました。それは人間と宇宙のあらゆる方面に及びました。こうした若者のエネルギーを受け入れる文学は、当然それまでの時期のはやりの純粋観照的な印象主義(Impressionismus)ではありえなかったわけです。
 ヴァン・ホディスは第一次大戦前の初期表現主義を代表する詩人とされていますが、その再評価は非常に遅れてつい近年のことです。ドイツ文学では<世の終り>の詩一篇によって知られていたようです。この詩のテーマと手法がその後の前衛文学に多くの模倣と影響を与えました。
 互いに無関係なイメージや出来事を並列する手法(ReihungsstilまたはSimultanstil)は、彼がこの詩において創始したものとされています。

   町の人のとがった頭から帽子が飛ぶ
   大気の到る処に叫びのようなものが起こる
   瓦職人が墜落して真二つになる

 各ラインの間に直接的には何の脈絡もない、こうした並列もしくは同時の手法は、映画や絵画におけるモンタージュの手法と呼応しています。この全体にドライで風刺の効いた<黙示録>の現代風パロディーは、同世代の詩人たちに大きなインパクトを与えました。
 表現主義が全盛を極めたのは大戦後の1920年代ですが、ヴァン・ホディスは既に精神分裂と言う異世界に彷徨していました。時代が反動から全体主義に向かうと、表現主義を始めとした前衛芸術は、‘退化した芸術’として名誉の火刑に処せられました。ユダヤ人であり、精神病者であり、かつラディカルな詩人であると言う三重の運命のもとで、彼はナチスの絶滅収容所に送られ、生を絶たれました。
 今日、表現主義の文学を読むということは、現代文学のあらゆる可能性を萌芽の形において、そこに見出すということです。その意味で20世紀の初頭と、21世紀の初頭は重なります。再び同じ出発点に立っているのかもしれません。      

2006年1月30日(月)
翻訳城便り3:著作権(翻訳権)についての続き(K)
1)西洋文学の翻訳に際しての著作権について、前回はかなり知識が曖昧でしたので、間違いや誤解があったようです。図書館から次の二著を借り出してきましたので、それに従って再論してみたいと思います。
 A.宮田昇「翻訳出版の実務」(出版同人 1976)
 B.宮田昇「翻訳権の戦後史」 (みすず書房 1999)
 前著は最新版ではなかったので最近の事情が反映されていませんが、とりあえずアウトラインがつかめました。今現在翻訳をする我々としては、1971年(昭和46年)の新著作権法以後のことを考えればよいわけです。2006年の時点からは、次の三点だけを覚えて置けばよいでしょう。
 1.著作権の保護期間は著者の死後50年間。
 2.これに後述の旧連合国でベルヌ条約加盟国には戦時加算が加わること。
 3.翻訳権の十年留保の条項はなくなったが、1970.12.31日までに出版された著作には依然として当てはまること。ただし、これにも2.と同様に戦時加算が加わること。

2) 戦時加算について考える前に、先ずそうしたペナルティが一切つかない旧同盟国その他の国を見ておいたほうが分かりやすいでしょう。
宮田氏が大別して、旧連合国を除いたベルヌ加盟国としている国々です(A.p193-)。西洋文学関係としては、アルゼンチン、オーストリア、、デンマーク、メキシコ、フィンランド、旧東西ドイツ、アイルランド、イタリア、スェーデン、スペイン、東欧諸国などです。これらの国では戦時加算は一切つきませんから、死後50年経ていれば著作権・翻訳権は消滅します。また1970.12.31までに出版された著作には、翻訳権十年留保が当てはまり、10年間正式に契約され翻訳されていなければ、だれでも自由に翻訳出版できます。
 この基準に当てはめればドイツやイタリアなどは翻訳者にとってかなり有利な宝庫だといえましょう(今現在は英米文学におされていますが)。例えばトーマス・マン(1875−1955)は今年で著作権が切れるわけですし、それでなくても戦前昭和の初期に、その代表作の多くが十年留保で翻訳出版されていますから、翻訳権が消滅しているわけです。ヘルマン・ヘッセ(1877−1962)も<荒野の狼>や<デミアン>など代表作が、同じ頃やはり翻訳権十年留保で出されていますから、誰でも自由に翻訳してよいということになります。(B.p192-)

3)さて、戦時加算についてですが、これは旧連合国でベルヌ加盟国だけに適用されるとなっています(A.p176-)。面白いことに、翻訳に関しては、最近(1989年)まで未加入であったアメリカには適用されないのです。これに当たる国は、オーストラリア、カナダ、イギリス、フランス、ブラジル、オランダ、ノルウェー、ベルギー、ギリシャなどです(A.p198-)。戦時加算の計算はかなり面倒です。戦時期間とは、日本が太平洋戦争に入った昭和16(1941)年12月8日から平和条約の効力の生じた昭和27(1952)年4月28日までに、相手国が批准を済ませていた場合は、10年4ヵ月20日、翻訳は更にそれに6ヵ月を足し10年10ヵ月20日となる。批准が昭和27年4月28日以降になった場合は、その分だけ更に延びることになります。ただしこれは昭和16(1941)年12月8日以前に出版された著作について加算年数で、その日以降平和条約発効の日までの間に発刊されたものは別計算となる。この辺は宮田氏の本に当たられたい。
 戦時加算が問題となるのは、平和条約の発効の日までに出版された著作だけである(A.p178)。そこで、「1922年1月1日以降(但し書きあり)死亡、及び現存の著作者の著作で対日本との平和条約発効日までに公刊されたものは、著者の死後50年プラス戦時期間を加算」ということになります(翻訳の場合、これに更に6ヵ月加算されます)。そうなると、同じ著者の著作でも、例えば1937年に出版されたイギリスの本は、著者の死後60年4ヵ月20日(翻訳は60年10ヵ月20日)保護され、1953年に出されたものは死後50年間の保護となるわけでしょう。
 翻訳権に関してまとめてみますと(A.p200)、
 1.1930年12月31日までに刊行されているものは、翻訳権十年留保をそのまま適用できる。
 2.1931年1月1日より1941年12月7日までに刊行されているものは、十年に戦時期間プラス6ヵ月を加算する。
 そこでOlaf StapledonのStar maker (1937)は出版から20年10ヵ月20日間、つまり1958年ごろまでに正式に翻訳出版されていなければ、翻訳権が消滅したことになります。

4)アメリカは1989年までベルヌ条約に加入していなかった上に、戦前は日米間翻訳自由であったことや、占領時代の混乱から、特別に考えねばならない。宮田氏の記述をまとめると、翻訳に関しては(A.p260-)、
 1.1941年12月31日までにアメリカだけで[というのはカナダなどで同時出版された場合は事情が異なるから]刊行されたものは、翻訳自由。
 2.1942年1月1日から1956年4月27日までにアメリカだけで刊行されたものは、ペナルティなしの翻訳権十年留保が適用される。
 1956年4月27日に日本はユネスコ条約(万国著作権条約)に加入している。これ以後日米間はユネスコ条約で処理されることとなる。
 3.1956年4月28日以降、アメリカだけで刊行されたものは著者の死後50年保護される。
 アメリカに関してはその後流動的であるのでこれまでにしておきます。ここでは注意点だけを挙げておきますと、一般著作権に関しては、戦前フリーであった翻訳と違って国内法によって保護されていたので、戦時加算が付くということ。原文を載せるときには要注意です。もう一つ、カナダのようにベルヌ条約加盟国で同時出版されたものは、その国と同じ扱いで、当然翻訳にも戦時加算が付きます。

5)ユネスコ条約国については、ユネスコ加入時点をもって、それぞれ日本と著作権を保護する関係が生まれ、それまでは無条約の関係であった。代表的なソビエトの例をとると、1973年5月27日の加入日以前の著作は自由に使用翻訳できるとされています。(A.p206-)
  *   *   *
 著作権・翻訳権については複雑ですし、思わぬ誤解をしているかもしれません。よろしく専門家の本に当たってください。翻訳権10年留保は外国の著作家にとっては評判の悪いものです。それにしてもアーネスト・トンプソン・シートン(E.. Thompson Seton 1860-1958)の動物記がカナダで出版されていて、この規定により翻訳権が消滅しており、誰でも自由に訳せるというのは、翻訳をたしなむ者にとっては何とも魅力的な話です。ただし、シートン自筆の挿絵には著作権があります。
2006年1月23日(月)
翻訳城便り2:洋書翻訳に際しての著作権について(K)

 翻訳城を始めた当初は、著作権については殆んど無知に近い状態でした。それが問題になるような作品は頭にありませんでしたので、特に困ることはなかったからです。しかし、今後二十世紀の作家にまで手を広げるとなると、正確なところを知っておかねばなりません。若干調べてみたところ、かなりの勘違いをしていることが分かりました。第一に外国での著作権保護期間と、日本での翻訳の著作権の保護期間は別だということ。こんな基礎的なことも混同していました。つまり外国での著作の保護期間が死後70年だとしても、日本での翻訳の著作権の保護は、日本の著述家と同じく死後50年だということです。これだけなら単純な誤解ですが、更に厄介なことに、戦争が介在したために、連合国の著作の翻訳には‘戦時加算’なるものがくっついてきます。戦前に無償で連合国の著作を翻訳利用したことのツケがまわってきたわけです。これが10年ですが、その他面倒な計算があるようで、<プロジェクト杉田玄白>を覗いてみますと、死後60年6ヵ月という数字があげられています。
 ‘連合国’というのがどの範囲に及ぶのか詳しくは知りません。少なくとも同盟国であったドイツ、イタリアには及ばないはずですが、この両国に関しても、また別の事情があるかないかも今後調べねばなりません。ドイツ語の翻訳に関しては10年間得をするということでしょうか。
 これで話が終わればことは単純ですが、日本の翻訳文化には、更にわをかけて奇怪な亡霊が存在していました。‘翻訳権10年留保’というものです。これは一面日本人にとってもらい物のような得な感じでもありますが、他面後進国時代の遺産を未だに手放さずにいる後ろめたさがあります。どういうことかというと、明治の頃から1970年まで施行されていた著作権法には、ベルヌ条約に基づいて、原著者の作物がその発行された時から10年以内にわが国で翻訳発行されなかった時は、その翻訳権は消滅してしまうという、まことに貧乏な後進国にとってはありがたい規定がありました。このようにして日本は10年遅れで西洋思想や文化を移入してきたわけです。そしてこの亡霊が1971年に改正された現著作権法ののちにも、未だに生きているというのです。
 現著作権法ではこの条項自体はなくなりましたが、1970年12月31日までに発行された外国の著作には、この翻訳権十年留保が今でも当てはまるのです。
欧米のバリバリの現役作家であっても、この年月日以前に出され、10年間翻訳のないものは、誰でも自由に翻訳でき、原著者に著作権料を払うことなく出版できるということです。現今の翻訳出版が、どれほどこの恩恵にあずかっているか、寡聞にして知りませんが、原著者としては気持ちのよいものではないでしょう。
もっともインターネットで翻訳を発表する身としては、これほどありがたい規定はないわけですが・・・・・
 翻訳城でこの翻訳権十年留保を利用するかどうかは、留保の状態です。商業出版界で既に出されているものであれば、遠慮はいらないかもしれません。出版当時全く注目されなかった原作も、現代では名作となっている場合があります。著者が長生きをして著作権がいまだ切れていない場合、この10年留保に当てはまるなら利用できるわけです。出版社が著作権料を払っていてもいなくても、誰もが自由に翻訳できるわけです。こう考えてみると、これまで手の出なかったものも訳してよいことになります。一体どんな名作がこれに当たるでしょうか。
 例えば、アーサー・マッケン(Arthur Machen 1867−1947)の<パンの大神(The Great God Pan 1894)>などは明治30年から41年の間に翻訳されたとは思われませんが、現在平井呈一訳しか見当たらないのはどういうわけでしょうか。またオラフ・ステープルドン(Olaf Stapledon 1886-1950)の<スター・メイカー(Star Maker 1937)>などは戦中から戦後の混乱期にまず翻訳されたとは思われませんが、早川書房に版権があるのではなく、だれでも自由に翻訳出版できたというのでしょうか。このへんの蒙を啓いて下さる方がおられたら、幸いです。(ちなみに<スター・メイカー>は現在、国書刊行会から全訳が出ています)
  *   *   *
 著作権については不勉強で、まだ分からないことが多いので、翻訳城では当分無難な古典に限っています。次回の作品はR.L.スティーヴンソンの<砂丘の冒険(臨海楼綺譚)>を連載する予定です。

 
2005年11月17日(木)
翻訳城便り1(K):古典文学の翻訳について

 翻訳城もある程度様になってきましたので、今後は翻訳城便りとして、これまでに載せたものや、今後の予定について、関心のある人に報告して行きたいと思います。
 日本では欧米でのように、翻訳文学の無料で読めるサイトが少ないのは、多分翻訳の歴史が浅いことと、明治から今日にかけて、日本語が急激に変化したためでもありましょう。鴎外や二葉亭の名訳も、今日の読者には通じにくいかもしれません。Gutenbergなどに比べれば、日本の青空文庫の翻訳文学は数も少ないし、必ずしも満足のいく翻訳とは限りません。ほんの数十年前の翻訳ですら、読む人が読めばどこか古めかしさを感じさせるようです。ましてや明治、大正の翻訳においてをやです。おまけに戦前の翻訳は、うっかりすると重訳を読まされたり、誤訳が目立ったりします。かといって、新しいものが必ずしも良いわけではありません。正確で忠実な訳であっても、日本文として物足りない現代訳はいくらもあります。名訳には古き良き日本語が生かされています。現代訳も現代の最良の日本語を心がけるべきでしょう。
 翻訳は古びるものというのは、多分日本だけのことではないでしょうが、日本語の場合はそれが極端に感じられます。そうなると、名訳の前におじけづかなくとも、新しい翻訳を試してみる人が、どんどん現われてもよさそうです。ただし、古典文学の翻訳は、それで食うことは難しいのですが、名訳に挑戦するという楽しみがありそうです。
 翻訳城も、大風呂敷をしくわけではありませんが、このチャレンジ精神で行きたいと思います。過去の名訳に敬意を払い、学びつつ、今の日本語で自らの愛好する原文を語りなおしてみる、これが多分翻訳の無私の楽しみでしょう。
   *  *  *
 これまでに載せた翻訳について、若干のコメントをしておきます。リチャード・ジェフリーズのThe story of my heartは、私の調べた限り戦前から戦後にかけて三種の翻訳が出ています。

 「わが心の記」寿岳しづ訳 岩波文庫 昭和14年
 「わが心の記」川村泉訳
 養徳社 昭和23年
 「心の旅路」山崎進訳 京都関書院出版 昭和32年

 このうち岩波文庫以外のものは入手困難ですから、寿岳訳のものについていいますと、漢語の使い方や、こなれた言い回しはさすがに戦前の名訳です。この訳で一番気になったのは、soulやspiritの訳語である心霊という言葉です。ジェフリーズの思想にはキリスト教的宗教臭は感じられませんが、この訳語からはたぶん現代の語感かもしれませんが、なんとないいかがわしさ、神秘主義が感じられます。この心霊という訳語を使わずに、この熱情的な自伝を訳してみたいと思ったのが、実はこの翻訳を思い立ったきっかけです。もしかしたら強引かもしれませんが、それによってジェフリーズの思想の核心が鮮明になったのではないかと思います。

 マックス・ダウテンダイのDie acht Gesichter am Biwaseeは、全体として魅力的ではあっても、私としては全訳がためらわれる作品でした。そうこうするうちに、この作品が機縁でヴュルツブルクと姉妹都市となった大津市の関連で、昨年全訳が出版されていました。

 「近江八景の幻影」M .ダウテンダイ著、河瀬文太郎・高橋勉訳、文化書院、2004.10

 おかげで全訳の必要がなくなりましたので、気に入ったものだけをあと数篇訳すつもりです。ダウテンダイが日本に滞在したのはわずかひと月程ですから、この作品集には奇妙な日本像があふれています。おまけに山田風太郎もためらうような奇想天外さですから、いかにメルヘンという自在な観念に当てはめてみても、なかなかまともな評価が難しいことになります。とはいえ、物語作家としての豊かな天分をもった作者の奔放な空想力に引き回されながらも、ともかくある種の感銘をもって読まされてしまいます。「粟津の晴嵐」は中でもいちばん納得のいく作品です。集中最もよく知られた「唐崎の夜雨」は前半は見事な幻想的物語ですが、後半の荒唐無稽な戦争シーンが何とも不釣り合いです。「粟津の晴嵐」は蜃気楼のフィクションが何よりも印象的ですが、後半を象徴劇的にまとめたところが、この架空の物語に一種の厳粛さを与えて、完成度の高いものにしています。
 ダウテンダイは、本国でもその著作は古書でないと手に入らないのですが、幸いにもその代表作の殆んどをGutenberg-DEで読むことができます。

 ラフカディオ・ハーンの「東西文学評論」は、学生時代に古本屋で見つけて「文学論」と共に愛読したものです。これほど文学を味わう楽しみをじかに語ってくれる評論は、世に少ないでしょう。これらを読んで読書意欲をかきたてられた例は、枚挙にいとまありません。つまらない読書案内よりは、はるかに益するところがあります。その評論のスタイルも、いわば一家言タイプであって、独特の口調を持っています。この個性がまた魅力となっています。ジェラール・ド・ネルヴァルについて初めて知ったのも、<狂える浪漫主義者>によってです。さっそく「夢と人生(オーレリア)」を古本屋で探し回り、その夢と錯乱の世界に没入し、フランス語の勉強を志しました。この頃はハーンもネルヴァルも、今日のように翻訳があふれていませんから、全く没時代な読書に耽っていたものです。

 19世紀ドイツの著名な外科医リヒャルト・フォン・フォルクマンが、リヒャルト・レアンダーの筆名で出した童話集 Traeumereien an franzoesischen Kaminenは、当時のミリオンセラーであったようです。今日でも、ドイツではグリムと並んで、スタンダードな童話集です。世間では(というのは商業出版界のことですが) Le Petit Prince ばかりがドル箱としてもてはやされ、タイトル(星の王子様)の著作権までが話題になりますが、象徴的童話の元祖はロマン派を別とすれば、このレアンダーあたりではないでしょうか。特に「見えない王国」や「沼に落ちたハイノ」などは大人に読ませたい作品です。いずれ翻訳城で紹介します。 


雑録より

2005・3.26 リチャード・ジェフリーズのロストパラダイス

「わが心の物語」はautobiographyですが、作者の人生の具体的な事情や出来事についてはほとんど述べられていません。看板どおりの精神的自伝であって、しかもこの種の個人的精神史に見られる思想の発展や遍歴をたどるものではなく、ひとつの持続、ひとつの強烈な思念もしくは情熱について語ったものです。近頃のように‘自分史’と称する体験記がはやったり、あまつさえ思索や精神性よりも‘感性’や官能が求められる時代ですから、こうした取っ付きにくいものは敬遠されがちです。すぐれた古典がかえりみられなくなるのは、少しも時代の進歩の表われではなく、文化の低俗化以外の何ものでもないでしょう。
 こういう時代ですから、精神的読書にあまり親しみのない読者には、具体的記録であれば多少は親しみを持って読むことができ、そのことが、ひいては本来の精神的autobiographyを理解するための補助になるかもしれません。ジェフリーズもまたその補いの必要を感じたのでしょう、1948年に初めて出版された遺稿の中に、
幼少年期に過ごした小村の小農場での生活をかなり具体的に記述したものがあります。(The Old House at Coate, edited by S.J.Looker, 1948, paperback 1985 タイトルは編者のもの)
 それを見るとジェフリーズの思想に特に付け加わるものはありませんが、農村生活のpainter としてのジェフリーズが味わえると同時に、自伝の中でのある思想的ギャップが、どうやら失われた幼少年期の中に淵源しているらしいことが推測されます。
 遺稿の中で、夜の天空を描写した部分がありますが、まるで古代の牧人が夜空の星ぼしを丘にでも登れば手の届きそうな近くに感じていた、いわば天動説的想像力で天空をとらえていたことが分かります。
 "Gazing up from the footpath at the points of light overhead, and at the openings between where the mind looks into space itself, there was nothing between me and them, nor between me and the sun.They were as much a part of my existence as the elms across the road, the house, the blue doors, the cattle-shed, the meadow,and the brook.. They were no more separated than the furniture of the parlour; no more isolated than the table, the old, old chair where I used to sit, as it stood by the southern window, watching for the first star over the mulberry tree. ---the stars and the sun and the deep sky, the limitless ether, were only the continuation."
 訳文は又のこととして、ジェフリーズ少年は勿論近代的宇宙観の持ち主ですから天体や宇宙空間がどれ程広大な領域に及び、人間や地球が砂粒ほどの大きさもないことを百も承知しています。しかし単なる知識であり、観念であるものを、ここでは感覚的想像力が圧倒しています。そしてこれは誰もが幼少年期に体験したことです。驚異の自然界が同時に日常世界のcontinuation(連続)であった至福の幼少年期は、しかし大人になれば失われていきます。その時自然界は別の顔を見せてくるのです。
 「自然界には人間的なものは何一つない。愛しさこの上ない大地といえども、地に倒れた私を息絶えるにまかせ、食物も水も恵んではくれないであろう。空に燃える大いなる日輪も、私があれほど交わりを好んだのに、ただ燃えつづけるだけで、何ら援助の手を差し伸べようとはしないであろう。日よけのない小舟で、水もなく海に漂流した者たちは、太陽の情けと、一滴の雨をももたらさない神の情けを、花々の上にはあんなにも美しくほほ笑みかける同じ陽光のもとで、惨めに息絶えつつ、試験したことであった」(自伝第四章)
 幼少年期のニルバ−ナ体験は、いわば家庭という楽園の延長によって得られる没実存的至福の意識状態であり、それが失われたとき自然界と人間との間には断絶が生まれます。ジェフリーズの場合、それは、無限の宇宙の永遠の沈黙におののくパスカルの<深淵>ではありませんでしたが、それが単なるナチュラリストを超えた思索へと彼をいざなっていったのでしょう。
 「私は私の思想を思索するために、いかなる地球も、海も、太陽も、必要としない。もし私の考える部分―魂―が、身体と地球とから完全に切り離されたとしても、私はおのずと同じ渇望を抱くことであろう。私の心はそれ自体において渇望する。私の存在、私の心の存在そのものが、私の祈りである。そして、私の心が存在しつづける限りは、この上なく充実した心の生活が営めるようにしてほしいと、私の心は祈りつづけるだろう。」 (自伝第十二章)
 ここには神秘主義も、安っぽい心霊主義もありません。自然の中に生まれた人間が、同時に自然と永遠に対峙した存在であるという、根本の意識があるだけです。
 (訳者の怠慢で「わが心の物語」の入力が遅れていますが、読まれている方はいま少しお待ちください。)


2005.2.22 特異なナチュラリスト、ジェフリーズの復活?

 Amazonで見ていたらHerz und Barbarei ,Die Geschichte meines Herzens und der Rueckfall in die Barbarei というジェフリーズのドイツ語版が出ていました。どうやら近頃のエコロジー・ブームに乗って欧米ではこの特異なナチュラリストが復活しかけているようです。Der Rueckfall in die Barbarei というのは多分オールディスのSF史の中でも言及されている After London のことでしょう。「心」と「野蛮」という取り合わせがいかにも他国での関心の有りようを示していて、他人事には思えません。この取り合わせの珍妙さは別として、ジェフリーズがこのように普遍的な関心で捉えられることは歓迎すべきことです。日本での関心は戦前は別として、今現在無きに等しいと言ってよいでしょう。しかし外国でのブームに追随しやすい日本のことですから、いずれ注目する人も現われるでしょう。翻訳者としては誰も訳さないものを訳すのが楽しみですから、そうなるとかえって気抜けするかもしれませんが・・・