全一者は認識を持たない。全一者はそれ自体で存在し、分割されることがなく、またおのれ以外に他者を持たないのであるから、そこには一切の認識の必要が生じないのである。かりにイデア界を全一者とは別の存在とするならば、それは確かに他者ではあるが、そこでは認識そのものが問題とならない。イデア界は全一者の認識の条件なのであって、プラトンふうに言えば、全一者はイデアを用いて認識に到達する。その意味では、イデア界は全一者にとって認識の対象ではなく、単なる世界創造の道具である。世界の根源は、いわばソフトウエアーを備えたハードウエアーといってよかろう。ハードウエアーがより根源的であることは言うまでもない。
認識は必ずしも意識=自己意識を伴う必要はない。世界意志の個別化とともに、最初に働く個と個の間の作用と反作用は、既にある種の認識といってよいだろう。近代の認識論においては、人間の意識が中心であったために、暗黙の内に認識とは意識作用であると見なされてきた。既に認識(Erkennen,
cognition, perception)という言葉の中にそのことが見てとれる。個と個の間に働く作用は、個の内部に、あるいは個の状態にある相互的な変化をもたらす。この相互的な作用による変化が、認識の基本であるといってよい。これは個別化の世界でのみ可能な関係である。このような意識以前の認識を言い表わす適切な言葉は、今のところないようだ。情報という言葉がそれに近いのであるが、すなわち個物どうしが互いに情報を交換し合うのが認識であるということもできるが、意識の要素を完全に排除できないようである。ホワイトヘッドの
prehension がそれを表わすようだが、あまりにも抽象的である。
いずれにせよ、個と個の間の相互作用を認識と名づけるならば、個別化の最初の意味は認識作用にあると言える。認識のない全一者が、自己を個別化することによって認識を獲得するのである。最初の素粒子どうしの作用から、天体間の力学や、分子どうしの化学反応をへて、生命の発生から細胞間の働きにいたるまで、認識の展開、発展により、いわゆる宇宙の階層(Stufenbau)が形成されていく。その認識の発展の頂点において発現するのが、意識であり自我である。
ここで意識という言葉を厳密に定義しておく。意識とは基本的に自己意識もしくは自己認識のことである。自己すなわち自我(ego,
Ich) のないところには意識はない。逆に言って、自己=自我とは自己意識のことであり、すなわち意識そのものである。意識というも、自己=自我というも同じことである。意識とは、基本的に自己と他との関係の認識である。近代の認識論では、これを主観(Subjekt)と客観(Objekt)の関係ととらえる。しかし、ここで観と言う訳語に表わされているように、何か見るものと見られるものの関係のように考えられやすい。既に述べたように認識とは個物間の相互関係である。それが意識に到達するためには、認識の認識がなければならない。認識の一方の側が自己自身であるという意識が、常に意識には伴っていなければならない。意識は常にわたしの意識である。この意識はしかし、単なる主客の関係を超越しており、この超越こそが意識なのである。
今、認識の関係を P1―P2 で表わすこととする。個物(particular)と個物の関係を単純化して代表させたこの関係を、P-system (認識系
Prehensile system)と呼ぶことにする。この関係は基本的に無意識の認識作用であって、宇宙のほとんどの相互作用は、単純な個体であれ、複雑な個体であれ、この関係に帰するであろう。意識が生じるためにはこの関係を認識するだけでは不充分であって、この関係の一方の側が同時に認識者でなければならない。すなわち、(P―S1)―S2 の相互関係が成立しなければならない。これを C-system (意識系)と呼ぶことにする。ここでは主観(Subjekt)が認識の外に出ており、見られるものが同時に見るるものである同一性の関係にある(この関係はいくらでも合わせ鏡のように背進することが可能である。例えば、{(P―S1)―S2}―S3)。この自己認識もしくは自己超越が意識なのである。
ここにおいて、すなわち意識の発生において、世界意志は初めて自己に目覚めるといってよい。しかし、この自己は世界意志の本質とは何と遠いところにあることだろう。一介の個物において、しかも自己保存の働きにおいて、自我は本来発生する。いわば、自己の身体がうまく機能するかどうか、自己の身体に危険が迫っていないかどうか、自我はモニターとして常に監視していなければならない。そのようにして自己が、世界の中で、感じ、意欲し、行動し、考える存在であることを知るようになる。自我が生への意志の道具として機能している限りでは、自我はおのれ自身を考えることも、疑うこともないだろう。動物の自我を考えれば、それは明らかである。もしコンピューターやロボットに自我すなわち意識が与えられたならば、やはり同じように自身を疑うことはないだろうし、自己に有利なように働く、動物と同じく機能的な自我であるだろう。この認識のシステムの中にとらわれている自己を反省することによって、さらに高次の、真の意味での自己意識が生まれる。それは、個別化の究極の一端において、世界の本質から疎外されたおのれ自身の姿を見いだすのである。おのれの存在について知ること、意識すること、広い意味で考えることは、個の存在を不安定にし、実存的不安や恐怖におとしいれる。パスカルの有名な言葉を引いておこう。
「人間は自然のうちで最も弱い一茎の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である。これをおしつぶすのに、宇宙全体はなにも武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしずくも、これを殺すに十分である。しかし、宇宙がこれをおしつぶすときにも、人間は、人間を殺すものよりもいっそう高貴であるであろう。なぜなら、人間は、自分が死ぬことを知っており、宇宙が人間のうえに優越することを知っているからである。宇宙はそれについては何も知らない。」(パスカル「パンセ」347節。松浪信三郎訳)
個としての人間が、宇宙の中で最も弱い存在であることに気づくのも自己意識の働きであり、そのことに気づいたおのれの思考の偉大さに気づくのもまた自己意識の働きである。この悲惨と偉大の両極の間を動くのが自我である。パスカルは、意識的存在であることに、人間の最大の価値を置いているのである。「人間の偉大は、人間が自己の悲惨なことを知っている点において、偉大である。樹木は自己の悲惨なことを知らない。」(「パンセ」397節)しかしそのように偉大な意識は、常に不安定な動揺にさらされてもいるのである。無意識もしくは没意識であることが、むしろこの世界のメカニズムの基本であり、意識はそれに大した寄与をしないばかりか、むしろ妨げとさえなるのである。動物も人間も、意識がなければ苦痛はあっても、不安や、恐れということを知らないであろう。宇宙が自分を押しつぶすことを人間が知ることによって、その偉大さよりも悲惨さがよりますのである。世界と対峙した自己意識は基本的に苦悩であり、不安である。
自己意識=自我は個別化の究極に位置することによって、全体への意志と真っ向から対立する。しかも自我のよって立つ自己自身とは、わたしの意志であり、わたしの感情であり、わたしの情念であり、わたしの考えであるところのわたしという身体=物質にほかならないのである。私の身体は基本的に全体への意志に支配されており、無意識的な牽引力によって全体への回帰へ向かって働くのである。唯一自我だけがそこに傍観者としてとり残される。もし自我がともに全体への意志にはしるならば、自我は本質同一の原理によって無意識に還元される、つまり消滅するであろう。自我は世界と対峙する前に、自己自身と対峙するのである。
自己認識が個だけに発現する現象であることによって、意識的存在の悲惨と栄光が運命づけられていることはパスカルに見たとおりであるが、この苦悩する自我は、一方では自己放棄に向かい、他方では自我の拡張、絶対化、それによる全体者との悲壮な対決に向かう。自我は苦悩の源であることによって(苦悩とは単なる苦痛ではなく、自意識から生じる苦痛である)、大多数の人間には好ましからざるもの、放棄すべきものと見なされる(自我に苦しんだ果てに、則天去私を唱えた漱石を思うべきである)。おのれを捨て去り、全体に従うことが幸福への道であるとされ、自我は自己犠牲や、愛他主義にのがれることによって、実存的不安を解消しようとする。あるいはまた、おのれの存在を忘れさせる強烈な快楽に耽ろうとする。それは自我の自己からの逃亡である。それに対し、おのれの偉大さに目覚めた自我は、すべてを自己の拡張、増大に向けた目的に従わせるであろう。たしかに自我は全知ではない。しかしそのことを知っている。全能ではない。しかしそのことを知っている。不死不滅ではない。しかしそのことを知っている。自分が何ものであるかを知らない。しかしそのことを知っている。自意識において自我は偉大である。神にすら負けることはないであろう。
自我を究極にまで拡大し、とぎすませることによって、自我は世界と正反対のものとなる。世界の本質である全一者は無限であり、永遠であり、全体であり、substantia
であるが、自我は有限であり、現在の中にあり、個としてあり、existentia でしかない。しかし、唯一自我は全一者に対して優位の点を持つ。それはおのれが意識的存在である点である。たとえそれがいかほどのことのない優位であるとしても、それ以外に自我のよってたつ価値はないのである。かくして自我は全一者の発現であるこの物質宇宙を超えてゆく。
「けれども、大自然はわたしを満足させはしない。海や、太陽や、宇宙空間といった、これらの巨大な事象だけでは。私の思想はこれらよりも力強いものである、と私は感じている。」(りチャード・ジェフリーズ「わが心の物語」)
認識を持たない全一者が、個別化の究極において意識を持った存在を発現させたということは、最初に述べたように、個別化の理由が認識の獲得にあるとするならば、認識の最終段階への到達と考えても良いのである。しかし意識は全一者とはあまりにも正反対の存在である。このような比喩を考えると良いかもしれない。全くの暗黒である新月が、しだいに細い弓形から満ちていって、ついにその対極である満月に達するように、認識の明かりがしだいに増して、ついに没意識の対極である自意識に到達した時、コインのいまひとつの面が顔を現わしたのであると。それはこの世界が荒れ狂う阿修羅の様相を呈する半面において、イデアに抱かれた無垢なる赤子の笑みでもあるように、coincidentia
oppositorum (反対の一致)の奥義によって、同一の本質によって貫かれているのである。そして宇宙を超えた自我は、世界の裏側である本質の世界をかいま見ることであろう。その時自我は思いのほかの事態を見いだすかもしれない。そこに自己自身である全一者を見いだすのである。
あらゆる神秘主義者が、「神は私だ、私が神だ」と叫んだ時、究極の自我の奥義をそこに言い表わしているのである。
(次回は最後に、快楽と禁欲に密接な関係を持つ死について考察。これらの連続したエッセーは、ショーペンハウアーの形而上学のわたくし流の解説、もしくはそれにもとづく思索と考えて下さい。興味を持った方は「意志と表象としての世界(正・続)」に当たられると良いでしょう。―K)
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