アーガイルの小妖精トリルビー

シャルル・ノディエ/作 (1822年)

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 昔々、スコットランドのアーガイル地方にトリルビーといういたずら小鬼の小妖精がおり、漁師ダガルの家の暖炉に住んでいた。タータンチェックを身にまとった若くて美男のトリルビーは、ボー湖で渡し守をしているダガルの美しい若妻ジャニーに惚れこんでいた。トリルビーはダガルの漁を助けてその網にたくさんの青い魚を入れて豊漁にし、家を隅々まで点検してその安全を守っていた。そしてトリルビーは夜毎ジャニーの夢に現れ、一途な愛情を示すのであった。
 トリルビーも他の小鬼と同様に居候している家に良いことをもたらす害のない妖精であったが、段々とトリルビーの愛はジャニーの心の奥深くに入り込み、ジャニーは昼間もトリルビーの愛の気配を感じるようになった。それを後ろめたく思ったジャニーは夫のダガルに、トリルビーの愛のささやきが恐ろしいと告白してしまった。
 ダガルは修道院から長老のロナルドを呼び、トリルビーを家から追い払ってもらう事にした。ロナルドは修道院を荒らして修行者を苦しめる小鬼たちをことの他敵視している人物で、さっそく祈祷によってトリルビーをダガルとジャニーの家から追い払ってしまった。トリルビーが戻って来ることをジャニーが許し、かつダガル自身がトリルビーを連れて来るという条件を満たさない限り、トリルビーは二度とダガルとジャニーの家に来ることはできなくなってしまったのである。
 祈祷がまた終わらないうちからジャニーは自分のした事を後悔し始めた。ロナルドの祈祷の内容からすると、トリルビーはそんなに性質の悪い妖精ではないらしい。それにいなくなるに際して、どんなに自分がトリルビーを愛していたかがジャニーにもはっきりとわかるようになったのだ。


 さて、トリルビーがいなくなってから一年がたった。ダガルの網にはあまり魚がかからなくなり、特にいつも網を満たしていた青い魚は一匹も見かけることはなくなった。ジャニーは後悔に苛まれ、気分が晴れることはなかった。トリルビーは夢に出てくることは出て来たが、昔のような無邪気な小鬼の姿ではなく、一人の悲しげな美しい青年の姿をしていた。
 この漁における不運と妻の悲しみを何とかしたいと思ったダガルは、パルヴァの僧院で開かれる聖コロンバンの徹夜祈祷祭に二人で出かけ、祈りを捧げることにした。
 徹夜祈祷祭を取り仕切るのはトリルビーを追放したあのロナルド長老であった。もともと小鬼を敵と考えるロナルドであったが、最近修行者たちに起こった数々の災難にますます寛容の心を失い、小鬼たちのいたずらを鎮めるだけでなく、積極的に彼らを呪って撲滅させる決心を固めてこの徹夜祈祷祭に臨んでいたのであった。特に彼の呪詛のねらいはトリルビーだったのである。
 参加者たちは老僧の恐ろしい決心に驚いたが、いつしか老僧の放つオーラにとらえられて、一斉に小鬼への呪詛を始めた。
 しかしジャニーはそれに耐えられなかった。もともと聖コロンバンは人の心の秘密をも許容する寛容な聖者であるはずだ。ジャニーは何かに突き動かされるように僧院の廊下を一人歩き始めた。そこには代々この修道院に年貢を納め、庇護してきたこの地の統治者マック=ファーレン一族の肖像画がかかっていた。その一番はずれの肖像画には幕がかかっており、なぜかそれがジャニーの心を惹きつけてやまなかったのである。
 どうやらその幕に隠された肖像画は、修道院に年貢を納めるのを拒否したために破門され、城を出て行った最後の当主のものであるらしかった。衝動的に肖像画をおおう幕を取り払ってしまったジャニーはアッと声を上げた。そこに現れたのはまさにジャニーの夢に出てくる美しく悲しげな青年トリルビーの姿であった。ジョン・トリルビー・マック=ファーレン。  狼狽したジャニーは思わず聖コロンバンの墓へと突っ走り、愛するトリルビーがこの恐ろしい呪詛を逃れるようにと祈った。その時ジャニーは聖コロンバンがジャニーの祈りに満足し、答えてくれたように感じた。


 それからほどないある日のことである。ジャニーがいつものように仕事をし終わって帰ろうとした時、ひどく小柄な老人が渡し舟に乗ろうと岸辺で待っているのに気がついた。気のいいジャニーは親切に老人を乗せてやったが、話しているうちに老人がどうやらトリルビーに会いに行く途中であるらしいことがわかった。
 ジャニーは愛していたのに心ならずもトリルビーを追い出してしまったことを告げたが、その瞬間老人は歓喜してその奇妙な衣装を脱ぎ捨て、懐かしいトリルビーが姿を現した。トリルビーはジャニーの家へ戻りたいと言う。この一年の間惨めな気持ちであちらこちら放浪していたトリルビーであったが、兄である聖コロンバンの導きでジャニーの愛が伝わり、再びジャニーの元へと引き寄せられてきたのだ。ジャニーがトリルビーに戻ることを許したならば、後はダガルが自分でトリルビーを連れて来るという条件が満たされればトリルビーは再びジャニーの側で暮らすことができる。
 その時、暗闇の中でダガルの船が近づいて来た。トリルビーは目にもとまらぬ速さで湖に飛び込んだ。ジャニーが呆然としていると、ダガルは青い魚が戻って来て豊漁になったとうれしそうに言った。しかも宝石箱が網に入っていたと言うのである。そしてダガルはその宝石箱を大切そうに家へ持って帰った。
 ジャニーは何が起こったのかよくわからなかったが、この一年間冷え冷えとした印象だった暖炉に暖かな火が戻っていた。そして宝石箱の中からトリルビーが話しかけてきたのである。ジャニーが「愛してる」と言いさえされば自分はこの箱の中から出て再びずっとジャニーの側で暮らせるのだ、と。
 ジャニーの心は混乱した。トリルビーを再び家に入れるのは夫ダガルを裏切るということ。罪のない小妖精にしてはトリルビーはあまりにジャニーの心をつかみ過ぎている。彼女にとってトリルビーは単なる小妖精ではなく、官能的に心を奪って行く愛の対象なのだ。特にあのジョン・トリルビー・マック=ファーレンの姿をとり始めてからは…。
 自分の心が恐ろしくなったジャニーは家から逃げ出そうとしたが、その時ダガルがあのロナルド長老と連れ立って歩いているのが見えた。そしてロナルドが悪霊たちはもはやすべて断罪された、と言っているのが聞こえた。ジャニーは湖の側まで行き、網の手入れをして心を落ち着けようとした。
 悪霊がすべて断罪されたとすれば、もはやトリルビーは無事なのだ。そう思うと何ともいえない幸せがこみあげてくる。やはりジャニーはトリルビーを愛しているのだ。しかし神の前で誓いをたてたダガルを裏切るわけにはいかない…。ジャニーの心はトリルビーへの愛とダガルへの貞節の間で揺れ続けた。
 そんなジャニーの足はひとりでに墓地の方へと向いていた。こんな遅い時間に一人で墓地へ行くなんてあり得ないことなのに。墓地には聖コロンバンにちなむ樺の樹があり、その近くに真新しい空っぽの墓穴が一つ掘られていた。その側には祈祷中の長老ロナルドと宝石箱を持ったダガルがいた。
 ロナルドの呪詛を浴びた宝石箱は壊れ、そこから一筋の光が出てきてジャニーの方へ向かったかと思うとジャニーの名を呼ぶ悲しげな叫びが聞こえた。そしてその声は樺の樹の中へ消えて行った。(トリルビーがロナルドの呪詛によって樺の樹に閉じ込められてしまったのである。)「トリルビー!」とジャニーは悲痛な声をあげ、そして真新しい墓穴の中に身を躍らせた。そしてそのままジャニーは息絶えてしまった。



 こんな事があってから何百年もたち、墓地はどこに墓石があったのかわからないぐらいに荒れ果ててしまった。そして樺の幹も枯れた。しかしジャニーの墓石は追悼の文句が彫り込まれたままきれいな形で残っていた。樺の枯れた幹からは生きのいい緑の小枝がいっぱい吹き出している。そこに風が吹き渡る時、ジャニーを想い続けるトリルビーのため息が聞こえるような気がするのだが、気のせいだろうか…。
(終わり)





 「アーガイルの小妖精トリルビー」はロマンティックバレエの幕をあけた名作「ラ・シルフィード」の元になったとされる作品です。全く別の話なので原作というわけではありませんが、人間が配偶者または婚約者と妖精の間で揺れ動いた結果破滅するというテーマは共通しています。ただラ・シルフィードが妖精という存在を使いながら現実と理想の間で引き裂かれる人の心を扱った感があるのに対し、トリルビーは妖精に実在感があります。
 今でこそ人は妖精に対して幻想的で美しいイメージを抱いていますが、それはシェイクスピア以後のことで、それ以前は妖精といえば気まぐれで、人の生活を脅かすこともある恐ろしい存在であったようです。「眠れる森の美女」や「ウンディーネ」においても妖精はそのように描かれています。
 妖精とは元々は先住民族が信奉していた神であったり、先住民族そのものでもあったようです。ですから後からきて支配者となった者にとっては駆逐すべき邪魔な存在であったのです。特に民衆の心を支配しようとした宗教家にとっては様々な迷信をもたらす妖精たちはさぞ疎ましい存在であったのでしょう。トリルビーは修道院のある土地を支配していた一族の最後の当主で、修道院への年貢を拒否したために追放の憂き目にあった人物が姿を変えたもの、ということになっています。それ故ロナルド長老はトリルビーを徹底的に敵視したのですね。すでに攻撃して滅ぼした者を霊的な存在になってまでもなおも撲滅しようというのですから、真に恐ろしいのは妖精ではなく、人間の方なのではないでしょうか。
 スコットランドを含むケルトの世界は民族の入れ替わりが激しかったせいか、妖精物語の宝庫です。このトリルビーもアーガイルという土地とその歴史と一体になった妖精らしい妖精です。他にも探してみれば人の心を動かすような妖精の物語はたくさんありそうです。作者のノディエは妖精が登場する幻想的な作品をたくさん書いていますから、ノディエの妖精・幻想ワールドを旅してみるのもおもしろそうですね。






シャルル・ノディエ選集第二巻 「アーガイルの小妖精トリルビー」  
                       シャルル・ノディエ/著  篠田知和基/訳  牧神社
流刑の神々・精霊物語   ハインリヒ・ハイネ/著  小沢俊夫/訳  岩波書店
妖精の系譜   井村君江/著   新書館




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