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私たちの信仰

これが私たちの信じていることです

根幹にある信条

私たちの教会は、その信仰の根幹をニケヤ・カルケドン信条および使徒信条においています。

信条とは、教会がどんなことを信じているかを、短い言葉に要約し、どんな信仰の内容を信じているかもまとめて言い表したものをさします。その中でも、ニケヤ・カルケドン信条および使徒信条は、もっとも古くからある信条の一つで、これら諸信条を受け入れ、教会の信仰の告白とするか否かで、完全な意味ではないにしても、大雑把に言ってキリスト教であるかないか(異端なのか)が決まるといっても良いようなものです。

そして、このニケヤ・カルケドン信条および使徒信条を、自分たちの教会の信仰として言い表す教会は、イエス・キリスト以後の2000年の教会の歴史につながり、その2000年のときの流れに横たわっているキリストの体なる教会につながっているといっても過言ではありません。ですから、私たち三鷹キリスト教会の信仰の根幹にこのニケヤ・カルケドン信条や使徒信条があるということは、私たちの教会もまた歴史の教会につながり、キリストの体なる教会のひとつであるということを意味しています。

このニケヤ・カルケドン信条の内容は、大体において使徒信条に網羅されていますが、その使徒信条は、次のようなものです。

使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえリ。かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。
アーメン。

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前提としての聖書信仰

私たちの教会は、日本ホーリネス教団に属している教会です。ですから、私たちが信ずる信仰の内容は、基本的に日本ホーリネス教団が言い表している信仰の表明である信仰告白の中に表現されています。しかし、ここでは、もう少し噛み砕いて私たちの教会が、どんなことを信じているかについて述べさせていただきたいと考えています。

私たちは、神の存在を信じています。そして、その信じる神は、聖書によって示されている神でもあります。ですから、私たちが神を信じるというとき、それは取りも直さず、聖書を信じるということでもあるのです。聖書を信じるというとき、信じる信じ方はいろいろありますが、もし、聖書にかかれてあることが誤っていたとしたならば、私たちが神を信ずるといっても、正しく神を知り、そして信じているとはいえません。ですから、私たちが聖書が示す「聖書の神」を信じるというとき、それは、聖書が神について誤りなく語っているものだということに立脚しているのです。

しかし、人間が聖書を通して神を知るとするならば、少なからず、聖書は人間が神について語るものではなく、神自らがご自身のことを語ることによらなければなりません。ここにおいて、「聖書は誤りない神の言葉である」ということが、信仰の一つの表明となります。こうして私たちは、私たちの大前提としての「聖書は誤りのない神の言葉である」ということを、私たちの信仰の表明として信じているのです。この「聖書は誤りない神の言葉である」という大前提を信じる姿勢を、一般には「聖書信仰」と呼びます。

もちろん、「聖書は誤りない神の言葉である。」という時、闇雲にそういうのでもなく、妄信的になんでもかんでも、聖書の字句通りであるというわけではありません。というのも、聖書は確かに「誤りない神の言葉」なのですが、しかし、実際に聖書を記したのは人間です。この聖書が「誤りにない神の言葉」というの時、神が人間を導き、聖書を書き記す際に、そのための資料の用い方や用語の選択、個人の経験に至るまで、伝えるべきメッセージが正しく記されるよう守り導いたがゆえに「誤りのない神の言葉」なのだということです。ですから、聖書の言葉は、書かれた時代の歴史的背景や、聖書を記した人の用語や知識といったものの制約を受けているのです。

たとえば、新約聖書の大部分を書いたパウロが、「私は第三の天にあげられた」と書き記していますが、聖書にそう書いてあるからといって、宇宙が3段階の層に別れているというのではありません。パウロの時代の宇宙観は、第1の天に月・星・太陽があり、その外側に、天使やサタンといった霊的存在がいる第2の天があると考えられていました。そして更にその外側に神が居られる第3の天があると信じられていたのです。このような宇宙観の中にあるパウロだからこそ、復活のイエス・キリストであったとき、自分は第3の天にあげられたのだと本当にそう思ったのです。そして、復活のイエス・キリストに出会った場所が第3の天であったというパウロの認識は、イエスが神であるという認識を表しているのです。

このように、時代の思想や、科学的知識などの制約のなかで語られた言葉が記されているのが聖書なのです。たとえば太陽が昇るといっても、実際は地球が回っているのわけですが、その当時の人にとっては見たままに太陽が昇ると信じられていましたし、それがその当時の人にとってはあたりまえのことでした。ですから、彼らは、まじめにそれには太陽のとおる道があり、そこを太陽が昇ってくると考えていたのです。

このように、時代的背景や、用語法。あるいは聖書を記した人の言わんとした意図を浮き彫りにしようとする学問が聖書神学です。私たちの教会が、「聖書を誤りない神の言葉である。」という時、それは聖書神学の成果や科学の研究の成果を無視して、ただ闇雲に、聖書が書かれた時代の宇宙観や世界観を現代に持ち込み、字句のままのことを誤りない真理というのではないのです。もちろん、科学の成果に於いても、必ずしも聖書の語るところと一致しないで、対立しているように思われることや、聖書の矛盾と思わるような事象があるのを私たちは認めます。しかし、そのようなことに対して、私たちはだから聖書は誤っていると結論づけないで、その科学の定説や常識と対立し、聖書における矛盾と思われる様相を示す事象の前に頭をたれて、それでもそこに、私たち理性による理解を超えた、神の誤りない真実があると信じて、神を信じまた聖書を信じるのです。

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三位一体の神

さて、私たちは聖書が語る「聖書の神」を信じますが、それでは一体、聖書の語る神とはどんな神なのでしょうか。聖書は、神は唯一であるといいます。ですから、私たちは唯一の神を信じます。しかし同時に、神は父なる神であるといい、御子であるイエス・キリストもまた独り子なる神であるといい、同時に聖霊もまた神であるといいます。そして、聖書は、この父なる神、独り子の神イエス・キリスト、聖霊なる神は全く別々の独立したご人格として扱っているのです。神は唯一といい、しかし独立した別々のご人格をもった三つの存在もまた神である。三つのものが一つであり、一つのものは三つである。このような現象は、単純に数理的・数学的思考で考えればありえないことですし、まったく矛盾した出来事です。ですから、それは本来の人間の頭では理解できない出来事だといえます。理性を第一に考えるならば、聖書は間違っているといって否定するか、聖書において独り子なるイエス・キリストを神だとする箇所や聖霊を神だとする箇所に、何らかの人間の理性に合致する無理な解釈をほどこさなければなりません。

しかし、それは人間の理性に合うように聖書の内容を読み替えることですから、そこでなされた解釈が、聖書そのものが言っていることであると言うことはできないのです。ですから、聖書が、神は唯一であるけれども、父なる神がおられ、神の独り子であるイエス・キリストは神であるといい、聖霊は神であることを示しておられ、しかもそれが別々の人格であり、存在であると語る以上は、この聖書の神に関する事象は、人間の理性の理解を越えた出来事だと言わざるえません。

しかし、私たちは、先の聖書信仰のところで記しましたように、聖書が科学的定説や常識に対立するような事象があったとしても、私たちは、その事象の前に頭を下げて聖書の示すことをを信じ受け入れていく信仰の姿勢に立っています。ですから、私たちは、聖書の示す、この唯一なるお方ではあるけれども父なる神、神の独り子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神という、私たちの理性を超えた存在としての神を信じるのです。そしてこの、三つにして一つ。一つにして三つの不可解な神の存在を、三位一体と定義して、私たちは三位一体の神を信じると言うのです。

確かに三位一体ということは、なかなか完全に理解しがたいような一面があります。しかし、私たちが見聞きし体験するものの中にも、神の三位一体に似たような事象や現象があるのです。もちろん、三位一体というのがそのような事象なのだと言い切るわけではありませんが、しかし、感覚としては三位一体ということが、あながち理解を超えてまったく分からないものではないと言うことを実感させてくれるのではないかと思います。

 例えばこのようなことです。聖書の中によく出てくる果物にブドウがあります。ご存知のように、ブドウはいくつものブドウの粒々からなる房があります。そしてその一房一房は、紛れもない完全なブドウの実であり、その一房のブドウ実には、ブドウ実の持つ甘さや栄養は完全に保たれています。しかし同時に、その一房のブドウの実を一房ならしめているのは、その一房のブドウに連なる数多くのブドウの粒なのです。そしてその一粒のブドウの粒は、それ一個でも、その中には完全なブドウの甘さと栄養が含まれており、一粒のブドウの粒でも紛れもないブドウの実であり、しかも、その一個一個のブドウの粒があってこそ一房のブドウがあるのであり、また一房のブドウのゆえに一個一個のブドウの粒もブドウの実たりえたのです。

神が三位一体の存在であるということを、単に数理的理解の世界だけで見るならば、それは理解しがたい出来事です。しかし現実の世界に目をやるならば、まさに三位一体ということを思わせるような存在や事象にあふれています。聖書の中で、イエス・キリストが神と言うお方を語るときに、よくこの世界にある事象や存在を題材にした譬え話をお用いになりました。それは、神がこの世界を創造なさったがゆえに、この世界のなかの様々な事象や存在の中に、創造者の痕跡を見いだすことができるからかもしれません。

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創造主なる神

聖書が語る神の姿に、創造主なる神があります。これは読んで字のごとく、神がこの天地宇宙をお造りになったということであり、その意味では、宇宙はビッグバンによって始まり、地球の成り立ちや、生物の発生と進化という、私たちが学校の理科の時間で学ばされる内容とは、かなりかけ離れています。そういった意味では、創造主なる神を信じると言ったことは、先に述べた三位一体の神の存在ということよりも、よりいっそう私たちの理性を超えた出来事であるかもしれません。

聖書のもっとも始めの書である創世記の冒頭には、確かに「初に、神は天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった」と記されています。この聖書の「何もなかった」と言う言葉は、ヘブル語では「トーフ・バ・ボーフー」といい、「無」を意味する場合と、「混沌」を意味する場合があり、どちらのニュアンスに重きをおくかによって、若干の違いがありますが、しかし、私たちの世界の根源が神から発し、神に依存していると言うことを主張していることには違いがありません。また、聖書は神の天地創造の業が7日間でなされたと、書かれています。しかし、この一週間を区切るそれぞれの1日を表すヘブル語「ヨーム」は、一定の期間を示す言葉でもあり、その意味で、この聖書の言う1日が、いわゆる24時間なのか、それともある一定の期間をかけたものなのかについても意見が分かれるところではあります。けれども、実際に天地創造を見た人がいるわけでなく、その意味では、意見が分かれるのも当然なことのかもしれません。しかし、例え1日(「ヨーム」)と言う言葉の解釈が分かれたとしても、神が天地創造に業をなさったという聖書の主張が変わるものではありません。ですから私たちは、神が「誤りのない神の言葉」である聖書を通してそのように語るからこそ、創造主なる神を信じるのです。

様々な化石が発見され、その化石の年代を測定し、そしてそれぞれの化石の形態の変化から類推することによって、進化論は成り立っていると、基本的にはいうことができるだろうと思います。もちろん、それは思いつきで様々な形態の変化を一列に並べて進化の過程を類推したとは思いません。研究者たちが、精一杯の研究の成果の中で、進化論という一つの体系だてられた類推がなされているのでしょう。私たちは、科学者がおこなうような類推によって打ち立てられたところの、一つの体系だてられた推論を述べることはできません。しかし、現実の世界を眺めていく時に、人間の体の精密さや、自然体系の中で、それぞれの生物や無生物の存在が、それぞれに「存在すること」の役割が与えられ、それにふさわしい構造をそれ自身が持っていることや、宇宙の様々な法則等を思い見るときに、この天地世界が、偶然によってでき、偶然によって運行され、変化しているとのではなく、誰かきちんとした設計者の意図によって世界は存在し、運行しているように思えるのであり、つまりは創造者の存在を類推するのです。そして、聖書はまさに、「初に、神は天と地を創られた。」というのです。昔、ガリレオ・ガリレオは「宇宙(の秩序と法則)は神を指し示している」と言うようなことを言ったということですが、まさにそういうことなのでしょう

また、昔ある天文学者と無神論の友人の間に、大略すると以下のようなやりとりがあったそうです。その天文学者は、彼がつくった精巧な天球儀をほめる無神論の友人に、「これは、材料になるものを放っておいたら、偶然に偶然が重なって、だんだんとここまでにできあがったんだ」というようなことを言ったそうです。当然その友人は、「そんな馬鹿なことはあるはずがない。ちゃんとして設計者と製作者なしに、このような精巧な模型ができるはずがない」と怒り出したそうですが、その天文学者は「君は、この天球儀すら、偶然に出来上がるはずがなく、ちゃんとした設計者と製作者なしにはできえないという。ましてやその模型の実体である宇宙が偶然の産物ではなくて創造主がいると考えるべきではないか」と言ったそうですが、まさにそういうことなのかもしれません。そして、私が今ここで生きているということ自体、創造主なる神のみ業なのです。

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イエス・キリストの十字架による救いと復活

そもそもクリスチャンとは、イエス・キリストを信じあがめる者たちをさして使われた呼び名であって、いわばキリストに属する者といった意味合いの言葉です。イエス・キリストを信じあがめるということは、イエス・キリストを三位一体における、独り子なる神(子なる神)として信じあがめると同時に、私たちの罪と、その罪の結果として私たちが受けなくてはならない神の裁きから、私たちを救ってくださった救い主であると信じあがめるのです。

しかし、今ここで、イエス・キリストが私たちの罪とその罪の結果である神の裁きから、私たち救ってくださる救い主であるといっても、ほとんどの人は、実感としてはピンとこないかもしれません。むしろ、私には神の裁きを受けなくてはならないような罪など思い当たらない、と言う方のほうが多いのかも知れません。聖書がいう人間の罪は、人間が神を認めないで自分勝手に生きていることを指しています。この場合、「いわしの頭も信心から」式で、何でもいいから神と認めて生きていけばよいというのでなく、天地を創られまた私を作られた神を認めて、神にしたがって生きていくということを意味しています。そういうわけですから、新約聖書では、罪に対して「的外れ」(新約聖書が書かれた言語であるギリシャ語ハマルティアの持つ意味)という言葉を使っています。つまり人間が神を認め、神に従って生きいかなくてはならないのに、自分勝手に検討違いな生き方をしていること自体が罪なのだ、ということなのです。

自分勝手に生きていくということは、言い換えれば自己中心に生きていくと言うことです。この自己中心的な生き方や考え方が、人の人の間にあって様々な摩擦や、問題、あるいは汚れた思いや、恐ろしい考えを生み出し、場合によってはいわゆる法律上の罪や、法律では裁けないにしても道徳上の罪を犯させてしまうことすらあるのです。つまり、法律上の罪も道徳上の罪も、実はその根は人が神を認めないで自己中心的に考え生きていくという、人間誰しもの性質に巣くっている宗教上の罪に根ざしていると言うことができるでしょう。ですから、人間は罪を犯すことによって罪びとになるのではなく、人間は罪びとだから罪を犯すのです。そういった意味で、聖書は「全ての人が罪を犯した。」とか「義人(神の前に正しい人)は一人もいない。」などというのです。

たとえば、それは底に泥のしずんだ湖のようなものです。おだやかな天候が続く限り、湖面は透き通り澄んだ湖水にあふれていますが、ひとたび嵐がきて湖がかき回されてしまうと、その湖水はどろどろににごってしまうのと同じです。どんなに普段は優しい良い人であったとしても、人間関係でトラブルにまきこまれたり、激しく名誉を傷つけられたり、自分の立場を脅かされたり、あるいは金銭関係でこじれてしまったりすると言った具合いに、それこそ人生に嵐が訪れてしまうと、それまで優しく善良な人であっても、心かき乱されて、汚れた思いや悪い恐ろしい考えが起こってきてしまい、最悪の場合は、行為における罪を犯してしまうことがある。それが人間なのだと聖書は言うのです。

当然のことながら、罪は裁きという結果を招きます。人間が神を認めないで自己中心に生きるということは、行為において、また思いにおいて、人に対して罪を犯すことであると同時に、神を認め従わないということにおいては、神に対しても罪を犯しているのであって、神からの裁きを受けなければなりません。聖書は「罪の裁きは死である。」と言います。これは肉体の死のみを指すのでなく、神と人との間の関係の断絶を意味しています。肉体の死はこの地上での命と様々な関係(家族、仕事、財産、名声等)との断絶でもあります。そして神の裁きによる死とは、天国での命(永遠の命)や様々な関係(神との関係や神の与えたもう祝福等)からの断絶であり、いわばこの地上での死は、その死の、この世的な現れのようなものなのです。この私たちの受けなければならない罪の裁きを、イエス・キリストが私たちの身代わりになって死んで下さったというのが、あのイエス・キリストの十字架の死であると聖書は言います。そして、イエス・キリストは、自ら人の罪の裁きの身代わりとなられたがゆえに、私たちの罪は赦され、その罪の裁きから救われるのです。それゆえに、イエス・キリストは、そのことを信じ受け入れる者の救い主であられる。私たちはこのことを信じるのです。

そして、聖書はイエス・キリストは死から復活したとも言います。確かに死人がよみがえるなど考えがたい出来事です。科学とは再現可能性の追求です。そういった意味では、死人がよみがえるということなどは、歴史の中でイエス・キリストの上に、ただ1回起こった出来事で、再現不能な出来事であり、その意味では非科学的です。しかし、人の人生・生き様といったものもまた、決して再現できない1回限りのものです。けれども、再現不可能であっても、その人の存在と生き様は、確かにそこに存在した事実なのです。イエス・キリストの生き様は、人を罪とその罪の裁きから救う「救い主(キリスト)」としての生き様です。だからこそ、罪に裁きとしての死から私たちを解放するお方として復活なさった。そして、その復活があるからこそ、私たちのイエス・キリストを信じる信仰には希望があるのです。だからこそ聖書は、「復活のない信仰は空しい」と言うのでしょう。このように、私たちの教会は、救い主イエス・キリストを信じ、イエス・キリストの復活の出来事を信じてそこに希望をおくのです。

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四重の福音

私たちの教会が属している日本ホーリネス教団を、キリスト教の世界の中にあって、日本ホーリネス教団という一教派足らしめる特徴は、伝道と言うことを大切に考える教団であるということ、聖書信仰に立つ教団であるということ、そしてイエス・キリストによってもたらされた罪の赦し・救いということを、四重の福音という表現で言わされる内容で理解している教団であるということです。私たちの教会も、日本ホーリネス教団に属する教団であるということは、当然のことながら、私たちの教会もまた、イエス・キリストのもたらした罪の赦し・救いを、この四重の福音という表現で言い表しています。

聖書信仰については、すでにこの項目の前の部分で説明しましたが、それでは、いったい四重の福音とはどんなものなのでしょうか。従来のキリスト教に、何か新しい教理を付け足したものなのでしょうか?そもそも、福音という言葉は、イエス・キリストによってもたらされたところの良き知らせ(GOOD NEWS)ということであり、その実体は、イエス・キリストが十字架で私たちの罪の身代わりになって死んでくださったがゆえに、そのことを信じるものは、みな罪が赦されて神の民とされるいう、つまりは罪からの救いということです。四重の福音とは、このイエス・キリストによる罪の赦しが、恵みとして、私たちに四層に重なるかのようにして変化をもたらすということなのです。

この四層に重なっていく罪の赦しを、「新生・聖化・神癒・再臨」という四つの言葉で言い表して、日本ホーリネス教団も、また私たちの教会も四重の福音と呼んでいるのです。それでは、以下において、四重の福音の四つの言葉 「新生・聖化・神癒・再臨」について簡単に述べさせていただきたいと思います。

新生

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。
古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
 −新約聖書コリント人への第二の手紙5章17節
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなた方に告げます。
人は新しく生まれなければ、神の国をみることはできません。」 
 −新約聖書ヨハネによる福音書3章3節

イエス・キリストの罪の赦しは、罪ある者が、イエス・キリストが身代わりとなってくださったがゆえに、罪なき者として無罪の宣告を受ける義認(神に前に正しい者とみなされる・認められる)という側面があります。それは、福音というものを法律的間隔からとらえたものです。同時に、聖書はイエス・キリストの罪に許しを受けた者は、神によって新しく生まれ変わったのだとも教えています。もちろん、新しく生まれ変わったといっても、目に見えて何かが変わったということではありませんが、神からの赦しを受けたからには、神の永遠の命が与えられるという生命的変化が与られるというのです。もちろん、永遠の命が与えられたといっても、人間がまったく死ななくなるということではありません。神を信じたクリスチャンもまた、1度は必ず死ぬのです。しかし、クリスチャンは、一度死んだとしてもイエス・キリストのように再び復活し、天国で生きることができる命の息吹が与えられ、クリスチャンとして神を信じ生きる「生命的な力」がその内側に与えられるのです。その意味では、この死ぬべき体の中に、やがての復活の命と今をクリスチャンとして生きていく命が与えられのです。そして、このような神を信じて生きるような新しい命が与えられることを、新しく生まれる「新生」と言います。

聖化

しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
 −新約聖書ガラテア人への手紙2章19節20節

また、イエス・キリストによって新しく生まれた者は、イエス・キリストによって罪が赦されるというだけでなく、私たちが罪を犯す原因となる自我性までも清い者としてくださるというのが、聖化ということです。この聖化ということを、「罪を犯さなくなることである」といったりもしますが、しかし、クリスチャンといえどもまったく罪を犯さなくなるとはかぎりません。でも、神を意識して生きる時に、意識的に罪を犯さなくなるといった意味で罪を犯さなくなることや、自分中心に考え行動するというのではなく(古い自我に死に)、神のみ旨を喜んで生きようとする生き方に変えられていくことなどが、聖化と呼ばれることの実体なのです。

神癒

そして(神は)、仰せられた。もしあなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。
わたしは主、あなたをいやす者である。
 −旧約聖書出エジプト記15章26節

神癒と言うことは、神によって病気が癒されるということです。しかし、誤解されては困ることは、神を信じるものが信仰をもって祈れば全て癒されるということを言っているのではありません。また信仰の目的が病気などの苦しみを解放するということでもないのです。神癒ということは、神には、私たちの祈りに答えて病気を癒す力や憐れみがあるということを信じることであり、同時に、神の癒しは、神のご計画の内にあるのであって、現象として病が癒され様と癒されまいと、神の内には私たちに対する憐れみと、導きとご計画があるということであり、それゆえに私たちは、この地上で、神のご計画を憐れ愛を感じながら生きていけるということを信じ生きていくのです。

再臨

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
キリストは万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身のからだと同じ姿に変えてくださるのです。
 −新約聖書ピリピ人への手紙3章20節から21節

最後に再臨ということですが、聖書は、やがて然るべきときに、死から復活され神のみもとに昇天なさったイエス・キリストが再び来られるといっています。そしてそのときに、クリスチャンたちは生きている者も、すでに死んだものたちも、みんな天国に導き入れられ、死ぬべき私たちの体が、永遠の命を宿す器としてふさわしい栄光の体に変えられると聖書は言うのです。そういうことで、この再臨ということは、「栄化」と言うような言葉に置きかえて言われたりもします。

このように、罪の赦しを「義認」という神の裁きの視点から語ったことに対し、人間のうちに起こる変化の側面から語ったのが四重の福音であり、イエス・キリストの救いを、この私たちの内におこる変化の側面から語り伝道しているのが、日本ホーリネス教団であり私たちの教会なのです。