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よくある疑問・相談

Q.1へのお返事

ご質問の通りに、キリスト教には、非常にたくさんの教派があります。そのような教派を生み出す一つの原因に、面白いことなのですが、キリスト教の正典が聖書一つしかないと言うことがあげられます。

普通は、正典が一つなら、かえってまとまりやすいように思われますが、必ずしもそうではないのです。正典というのは宗教的権威の基です。ですからどんなものも聖書に勝るものはありません。しかし、この聖書は、時代や文化や地域性という制約のもとにある人間を介して記されています。ですから、聖書の言葉もまた、同じように制約の中で語られた言葉なのです。ですから、そのような制約の中で書かれた聖書ですから、それを理解しようとすると、少なからず解釈しなければなません。

それに加えて、それを理解しようとする人間もまた、彼が生きている時代の思想や、彼自身の経験といった種種の背景を背負って聖書に向き合います。こうして、聖書をどう理解するかという事により神学という、理解と経験を論理的言葉に置き換える学問的作業が生まれます。その神学の違いが、それぞれの教派間の違いを生み出し伝統の違いを生み出すのです。

けれども、このように教派間の違いがあったとしても、キリスト教はその教派の考え方の違いで争っていると言うわけではありません。意外に仲良く、いっしょに伝道会を行ったり、協力して何かの行事を行ったりしているのです。つまり、エホバの証人や、モルモン教、統一教会といった異端ではない限り教派の違いはあっても、キリスト教と言う川幅の中を流れている同じ流れなのです。

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Q.2へのお返事

人間の罪には、いわゆる盗みをしたとか、人に危害を加えたとかという、法律上罪と定められるものがあります。また、このような「法律上の罪」以外にも、嘘をついてしまうとか、人の心を傷つけるようなことをいってしまうとか、誰かを裏切ってしまうとか、憎しみの心をもってしまうといった、法律ではさばかれないけれども、道徳上は問題があるという「道徳上の罪」があります。

更に突き詰めていくと、人間の罪の根源には、神という絶対者を認めず(あるいは認めていたとしても)神からはなれて、自分自身の生きたいような生き方をする、やりたいことをやろうとするような人間の本性のようなものがあります。これがじつはキリスト教では「宗教上の罪」であるとして、それゆえにキリスト教会は、「法律上の罪」「道徳上の罪」「宗教上の罪」の全ての人は罪人であるというのです。

神を認めないで、あるいは神の存在を認めていたとしても、自分の行きたいように生き、自分のやりたいようにやろうとするとすれば、それは自分自身が、自分自身の神になってしまっていることです。それはいわば自己中心ということであり、この自己を中心に据えた生き方、考え方がどこかにあると、人間関係に様々な問題を引き起こします。

たしかに良い人はいっぱいいます。尊敬に値する人もたくさん世の中にいるのも事実です。しかし、心の中にこの自己中心的な思いが少しでもあれば、それは自己中心罪という「シミ」をもった、白い布なのです。どんなに美しい白い布であっても、一点の「シミ」があれば、それは汚れた布といわざる得ません。闇夜のからすは、周りが暗いので目立ちません。ですから、不法や不正がまかり通りこの世では、良い人は決して罪びとだとは思えないのも真実でしょう。しかし、一点の汚れもない存在の前では、雪原のからすのごとくに、その罪の存在が明らかになるのです。

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Q.3へのお返事

先日、ある女性の方から、お電話をいただきました。電話の内容は、「どこの教会に行けば十字架が買えますか?」ということでした。今では、露天の店先でも十字架のネックレスは買えるようですが、どうやらその女性は、店先にあるものではなく、本物の十字架が欲しかったようです。あいにくとプロテスタント教会では十字架を身につけるという習慣はありません。したがって、個人的にファッション的にネックレスなどつけておられ方がおられるかもしれませんが、教会で十字架を販売してみんなで持つということはありませんでしたので、電話の主の女性のご期待には添えませんでした。

もともと、十字架というのはローマ時代の処刑の道具でした。この十字架にはりつけられる事によってイエス・キリストは死なれたのです。それは、私たちの罪が、神の前に赦される為にと死なれた身代わりの死でした。キリスト教では、このイエス・キリストの身代わりの死が、自分の罪のための身代わりの死であったと信じるものは、神から罪が許されて天国にいけるのだと教えます。このことがキリスト教の核心であり、よってかかる教えの中心です。ですから、教会では、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったということを心に刻み、思い出し記念するように、十字架をイエス・キリストの死とその意味を象徴するものとして掲げるのです。

古いところでは1873年、それ以後1900半ばにも、いくつかの考古学的な発見がなされ、紀元70年ごろからクリスチャンの棺に十字架が使われていたらしいことがわかってきました。紀元70年ごろといえば、イエス・キリストが死んで以降、50年も立っていない時期です。そういう早い時期から、キリスト教徒たちは十字架を自分達のシンボルとして用いていたのです。

もちろん、昔も今もそうなのですが、十字架はあくまでもイエス・キリストの死とその意味を表すシンボル(象徴)ですから、ご神体のようなものでない事は言うまでもありません。ですから、そんなことが起こっては困るのですが、たとえ教会が火事になったとしても、教会の屋根に駆け上り、十字架をもって逃げ出したり、教会の講壇の十字架をもって逃げ出すなんてことはありません。