サロン・ウラノボルグ

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 サロン   3  番外 
  

3.カイメラ氏の英雄詩講座:その1.<ギルガメシュ叙事詩>


     


        (引用テキスト:「ギルガメシュ叙事詩」矢島文夫訳)

 記録に残る世界最古の‘文学’は、また最初の叙事詩でもありました。これは文学の享受形態の文明段階における諸制約ということを考えれば、特に異とすることではなさそうです。それは文芸というものがいまだ‘口承(オーラル)’の段階にある事情を反映しており、かりに文字の形で保存されていた所で、その創造の過程では口承的な文学空間で生みだされたものであります。叙事詩の本来の機能はそうした口頭での物語、コミュニケーションに発するものであり、まだ‘読書’ということの一般化しない時代では、叙事詩が書き記されるということは主に記憶の補助と保存のためと考えられ、今日で言う台本のようなものであったでしょう。口承的な文芸はもちろん叙事詩に限られません。祭儀の歌や神話、祈祷や呪文もまた口頭で誦されます。古代メソポタミアでは、こうしたものの代表に、バビロンの新年祭で歌われた天地創造の詩<エヌマ・エリシュ>があります。また人々が情感や政治感情や呪詛やをリズム的な言葉に表現したリリックも、古代メソポタミアでは発達したようですが、これらも本来は口承的な歌謡の世界を母体としているのに違いありません。
 メソポタミアの叙事詩は断片的なものはさておき、そのテーマにおいても登場人物においても、古代人の心性にとくにかなったものとみえる、従って古代の中東では最もポピュラーであった英雄叙事詩<ギルガメシュ>がまとまった形で残されています。<ギルガメシュ>の発見については、その劇的な過程は翻訳者の解説に詳しく、ここではありきたりの説明だけをしておきますと、この叙事詩の主人公ギルガメシュの物語はもともとはシュメール人の間で語られたものでありました(シュメール語の断片的エピソードが五編ばかり存在する)。学者によるとシュメール人はかなり高度な文明の持主であり、セム人の台頭によって衰退したあとも、丁度ラテン語がヨーロッパ中世において果たしたのと同じ役割を、シュメール語は中東の知識階級の間で果たしたのでありました。そしてギルガメシュをめぐる区々のエピソードが、紀元前2千年紀の初めに長編詩としてまとまると、バビロニアはもとより、ヒッタイト、アッシリアなどに広まって行き、語られだしてから数千年を経ても未だに失われることなく、現存する中心的なテキストであるアッシリア語版(前7世紀)がニネヴェのアッスルバニパル王の図書館におさまった次第です。
 こういう風に前置きすると、なんだかひどく古くさい、超時代的なものをわたくしが解説しだしたようにお考えでしょう。確かに古くはあります。この叙事詩の主人公ギルガメシュの活躍するウルクという都市国家を歴史の地図に求めるとすると、まず地図帳の第一ページを探さねばなりません。そこにはウルとかバビロンとかのおなじみの名が見つかります。だがセム人の都バビロンなどに較べてもウルクは更に一千年は古く、学者によるとギルガメシュが生きたのは前2700年頃とも、2800年頃とも言われています。ウルク(ユダヤ人の「本」ではエレク)は他の都市国家がすべてその守護神を持ったように、天の神アヌーと愛の女神イナンナ(イシュタル)の守護を受けています。伝説ではギルガメシュはこの都市の‘大洪水以後’の五代目の王でありました。
 ギルガメシュ叙事詩はただに古いばかりでなく、のちの英雄叙事詩の基本的なパターンを内容においても、形式においてもすでに備えているようです。「この叙事詩の文学的表現は、ときたまホメロス風の枕言葉があり、章句の繰返しがあり、説話文学的な表現も」(それらはシュメール文学のように過度ではないが)存在すると、訳者の矢島氏は述べています。枕言葉というのは「周壁持つウルク、天なるシャマシュ、輝かしきイシュタル、遙かなるウトナピシュテム」などで、これはホメロスの「足速きアキレス、白き腕のヘーレー、ワイン色の海」などふんだんに用いられているエピテタ(英語のepithet)にあたり、オーラル・ポエトリー(口承・口誦詩)の基本的な特徴の一つとされるものです。「かつては宮廷の詩人たちによって歌われたのかもしれない」と矢島氏は推定しています。その韻律の解明は難しいようですが、「ニネヴェ出土のアッシリア語版では一行に四つの拍子が、また古バビロニア版では一行に二つの拍子が含まれており、詩形としてはあまり厳格ではないようだ」と氏は述べています。
 ペンギン文庫のGilgamesh(これは「平易な物語」として編集されたもの)の英訳者サンダーズ(N.K.Sandars)は‘オーラル・エピック’であることを更に積極的に主張しています。<ギルガメシュ・サイクル(物語群)>はそれぞれ三百行ほどの十二の歌謡からなるとします。「シュメール語、セム語の版においてわれわれが読むのは、物語や会話のかなり長いくだりや、念入りな挨拶のきまり文句の、逐語的な繰り返しであり、これらはオーラル・ポエトリーのおなじみの特徴である。」このきまり文句(formula)や繰り返しは歌い手の労を軽くし、また聞く側にも‘さわり’として満足を与えるのであると言います。
 内容的に見ますと、まず神話的にギリシャ叙事詩との類縁性があります。バビロニア神話とギリシャ神話との比較はここでの問題ではありませんが、興味深いのは、ホメロスにおけると同様、ここでも‘神々の世界’と‘人間界’の二重構造をとっていることで、それが物語の展開と重要なからみ合いを持つことです。イリアスではあたかも桟敷席に居並んだ神々の前で、人間どもが観客の‘ちょっかい’に悩みながら、‘運命’というそれぞれの役回りを果たしていくのですが、同じ印象は<ギルガメシュ>においても、ホメロスほどではないが感じられるでしょう。これは宗教と分離していない叙事詩で、普通に見られる現象でもありましょうか。いずれにせよ、こういう天界と人間界とのドラマチックな対峙、交渉は、古代叙事詩の特徴の一つと言えます。
 また英雄が‘神の裔’であることを主張することも、神話的叙事詩の常であります。‘足速の’アキレスが女神の子であるように、ギルガメシュもご多分にもれず女神ニンスンの子で、三分の二だけ‘神’である。しかし、彼らは‘人間’の血のために不死ではないのであります。彼らは武勇においては超人的であるが、死という人間に共通の宿命の前では、さまざまに人間的な反応を示すのであります。オデュッセウスは地獄で浮かぬ顔をしているアキレスと出逢います。この‘不死ではないこと’は、ギルガメシュ叙事詩でもまた中心的なモチーフとなって、この一編の古代の物語に妙に身近な崇高の想いを抱かせるのです。

      *     *     *

 さて、物語の筋を追いながら話を進めていくとしましょう。ユーフラテスの河沿いにあるウルクの町の王であるギルガメシュは、あまり民草のことを考えない乱暴者でありました。町の広場で結婚式が行われるたびに花婿を出しぬいて味見をしてしまうので、町中には戦士の息女、貴人の奥方で被害にあわぬものはなかったほどです。アヌ神は町の人達の訴えを聞き届け、女神アルルに命じます。
 「アルルよ、人間の似姿をつくれ。その勇気ギルガメシュと競うものを。彼らを戦わせよ、ウルクに平和がやってくるように」
 そこで女神は、まず手を洗ってから泥をすくいあげ、野に投げるとエンキドゥが生まれました。泥から人間を造ったのは、メソポタミアでは木材や石が不足しているため、最も有用な資材だったからでしょう。エッダでは人間は木から造られ、日本の神々は‘たぐり’だとか‘くそ’とか‘ゆまり’とかいろいろなものから造っています。
 エンキドゥはロバを父とし、カモシカを母として、野獣の乳ですくすくと成長しました。ある時、水飲み場でエンキドゥが仲間の獣たちと一緒にいる所を、通りかかった狩人が見つけます。狩人はおどろいて父親に報告し、父はウルクへ息子を遣いにやり、息子はギルガメシュの前に出て宮仕えの`遊び女’を請い受けます。狩人と遊び女が水飲み場に潜んで待っていると、やがて動物たちにまじってターザンよろしくエンキドゥが現われます。この古代のターザンはしかし、遊び女のあられもない誘惑に手もなく籠絡されてしまい、動物たちも今は純潔を喪ったヒーローからうとましげに離れて行きます。このエピソードについては、セム系遊牧民がシュメールの都市的生活形態に同化していく様をなぞらえたものと見る解釈があります。また、遊び女というのは矢島氏によると、かのヘロドトスの記述によって悪名高い神聖娼婦のことであり、宗教儀礼的な意味がありそうです。
 さて、ウルクの町では、その頃、婚礼を告げる太鼓(別の解釈がある)がとどろいていました。数日来、ギルガメシュは奇妙な夢に悩まされていました。それは母の夢解きによれば、彼に匹敵する者が野に生まれ、山が育んだというのです。その夢の告知が気になりはしたものの、太鼓の轟を聞くと気もそぞろに、日の暮れるのももどかしく、いよいよ花嫁の臥所に闖入の段となり、門口に急ぐと、そこには屈強な用心棒が立ちふさがっております。すなわちエンキドゥです。二人の英雄は二頭の雄牛のようにつかみあい、壁は割れ、戸は壊れた・・・(この辺はタブレットが欠けています)・・・最後に二人は互いに力量を認め合い、無二の親友として和解します。以後、良き友を得て、ギルガメシュのご乱行は治まります。このエピソードは王の処女権に対する抵抗の寓話でもありましょうか。
 さて、ギルガメシュとエンキドゥーの間に森の怪物フンババ(フワワ)を退治する企てがもちあがります。しかしエンキドゥーは凶(まが)夢を見て気のりしません。

  「わが友よ、野原で私は学んだのだ
  獣たちとともにうろつき歩いていたときに
  一ベールの広さにわたって森は広がっている
  だれがそのなかへ行こうとするだろう
  フンババの叫び声は洪水だ
  その口は火だ (*火山を意味すると言います)
  その息は死だ」
 
 といさめるのですが、いまや少々退屈気味のギルガメシュ、

  「太陽のもとに永遠に生きるのは神々のみ
  人間というものは、その生きる日数に限りがある
  彼らのなすことは、すべて風にすぎない」

 ギルガメシュの色好みも、こう見ると‘ペシミズム’に由来するところがありそうです。

  「お前の英雄たる力強さはどうしてしまったのだ
  ・・・・・・・・
  私が倒れれば、私は名をあげるのだ
  『ギルガメシュは恐ろしきフンババとの戦いに倒れたのだ』と」

 そこでエンキドゥーも承知して、二人は旅支度にかかり、長老たちの祝福とアドヴァイスをうけ、杉の森へと旅立ちます。このフンババ退治のくだりは、残念ながら断片に留まっています。・・・ギルガメシュは杉の森に着くと、さっそく斧を手に取り、杉を伐り倒します。たちまちフンババがその音を聞きつけ、怒り狂って言うには、

  「だれがやって来たのだ
  そして私の山に生えた木を乱し
  杉を切り倒したのだ」

 すかさずギルガメシュが呪文を唱えます。

  「私は天なるシャマシュに従って来た
  そして私に命ぜられた道を進んできた」

 するとにわかに大いなる風、北風、南風、つむじ風、嵐の風、凍てつく風、怒の風、熱風の八つの風がまき起こり、フンババの目に打ち当たったので、フンババは身動きできなくなり、降参しました。こうしてユーフラテスの川岸へと杉の木々は運ばれたのでした。このエピソードはフンババという怪物退治の形で物語られていますが、杉の木を求めて遠征することはメソポタミアの支配者の常に行ったところでありましょうから、中世の‘竜退治’とはちょっと趣が違います。フンババとは何者でしょうか。思うに杉の森に住んでいた辺境民族のことかもしれません。見知らぬ地名や民族の名は、古代人の想像力の中では、怪獣や怪物と同じようにみなされていたことでしょうから。中華民族では、辺境民は‘犬戎’だとか‘夷貊(いばく)’だとかケモノあつかいされています・・・・・・おや、これはモーグルさん!
 ・・・・・・・・・・
 (マリネンコの横手の壁際に置かれた姿見の,黒光りする表面が波打ったと見ると、紫の長衣をまとった人物がするりと抜け出す。全体に軟体生物か猫族を思わせる身のこなしで進み出て、一同に挨拶。)

モーグル 「今晩は、皆様方。マリネンコ殿、ようやくお目覚めか。ちょうどよい折に目覚められた」
マリネンコ 「にゃんが古き友よ、久しく会わにゃんだにゃれど、いかがしておられた」
モーグル 「殿が長きお居眠りの間に、この世は驚くほどに変わり、もはや私の出番も減りました。昔お風呂場の鏡を怖がって裏返しにした子供たちも、今ではあっかんめーをして私をからかいます。幽霊や妖怪を怖がる子供は一人もいなくなりました」
バロン・ナイト 「ご同感ですな、モーグルさん。フランケン氏も、ルー・ガルー氏も、今では見世物小屋で切符売りをしています。夢も想像も失われて、刹那的な快楽の世の中に変わりもうした」
ダルシネア 「でモーグルさんは、ご失業なさったのですか」
モーグル 「これは奥様、お久しゅうございます。お嬢様、おきれいになられた」
ダルシネア 「お元気で何よりです」
ブルフローラ 「今晩は、モグラおじさま。あら、モーグルおじさま。小さい頃の癖が出てしまいましたわ」
モーグル 「私が失業したかというご質問でしたが、妖怪としては残念ながらその通りです。けれども近頃では女子大生からファンレターが参りまして、学園祭などというものに招かれます。私は口下手ですから、出された酒だけを飲んで帰ってきます。でも、それももはや・・・」
ダルシネア 「何かご心配事でもおありですか」
マリネンコ 「にゃんが城におれば失業の心配は無用にゃり」
ダルシネア 「にゃんさまは永遠の失業者です」
モーグル 「ありがたい事ですが、にゃん殿、いやマリネンコ殿、心配なのはそのことではありません。ここに参るのが遅れたのも、じつは少し気になることがありまして、あちこち様子を見てまいりましたので」
バロン 「それは例の噂のことでござるか」
モーグル 「そうです、バロン。例の鏡狩りのことです」
バロン 「噂ではなく真実であったとでも」
モーグル 「私の知っている限りの鏡がすでにふたつ壊されておりました」
バロン 「この世にブラックミラーを壊すだけの力が出現したとは!」
モーグル 「もはや学園祭に貸し出すこともならなくなりました」
ダルシネア 「何ですの、鏡狩りとか、ブラックミラーとか」
モーグル 「奥様、余計なことを申してしまいました。せっかくのお楽しみのところを、中断させたばかりか、興をそぐようなことを申しまして。のちほどお話しすることもありましょう。ところで、カイメラ先生。さっきまで鏡の中で拝聴しておりましたが、私の古くからの友フンババ氏の登場とあいなって、矢も盾もたまらず飛び出してきてしまいました。フンババ氏は決して地名や民族の名ではございません。私と同じようなれっきとした存在者です」
カイメラ 「それは大変失礼いたしました。モーグルさんの古くからのお知り合いとは存じ上げませんでした」
モーグル 「フンババ氏は森とともに育ち、森と運命をともにされた方です。ギルガメシュによって杉の森を追放されたのちは、あちこちを流浪されたはてに、今ではわずかに残されたレバノン杉の森の泉の精になっておられます」
カイメラ 「そうとは知りませんでした。私の不明を恥じます」
モーグル 「いえいえ、私こそ余計な差し出口をしてしまいました。どうぞお話をお続けください」
カイメラ 「それでは皆様、よろしければ続けさせていただきます」
 ・・・・・・・・・・・・
 さて、ギルガメシュとエンキドゥーの二人の英雄がウルクへ凱旋しますと、ほどもなく色男と見ると虫のさわぐ女神イナンナ(イシュタル)が、フンババ退治、失礼、フンババ氏追放の誉れ高い、男前のギルガメシュにすっかり惚れこんでしまいました。

  「来てください、ギルガメシュよ、私の夫になってください
  あなたの果実を私に贈ってください
  あなたが私の夫に、私があなたの妻になりますように」

 ちょうど身づくろいをしていたギルガメシュは‘語るために口を開き’、いじらしい女神に向かって言うには、

  「あなたは冷たくなったかまどでしかない
  風と嵐をふせぐことのできぬ背後の扉だ
  英雄を傷つける宮殿だ
  ・・・・・・
  お前が愛したどの愛人が永続きしているか
  お前のどの羊飼いが変りなくお前を喜ばせたか
  来るがよい、お前の恋人たちをお前に名指ししてみせよう」

 こう、ケンもホロロに女神の情けを退けて、彼女のこれまでの悪行の数々を並べたてるのでした。

  「お前の若いころの恋人タンムズには
  年ごとに泣くことをお前は命じた
  お前は斑のある羊飼鳥を愛したが
  それを打ちたたき、その翼を引き裂いた
  それは繁みの中に坐り、『カッピ』(私の翼よ)と鳴く」

 女神はまたライオンを愛したが、抗うめにし、牡馬を愛したが、鞭うって七ベール駆けさせ、牧人を愛したが、打ちたたいて狼に変え、日ごろ食卓にナツメヤシを運んでくる庭番イシュラヌは女神に奉仕することを拒んだので、‘もぐら’に変えられてしまいました。こんなふうに、ギルガメシュは都市国家ウルクの強力な守護神であるイナンナをしたたかになじります。そもそも豊穣の女神であるイナンナ=イシュタルは、多情であるほど好ましいわけですから、この辺は世俗権力の神権からの独立が進んだ時代の成立とみなす事もできましょう。
 それはともかく、女神は怒り狂って、天の父神アヌのところへ訴えに行きます。やがて侮辱の報復として‘天牛’が地上に下され、暴れ回ります。エンキドゥーが迎え撃ちます。エンキドゥーは天牛の突撃を受け流し、跳び上がってその角をとらえます。天牛はその面に泡を吹いてあらがいますが、そこをすかさずギルガメシュが頸と角の間に剣を突き立てます。天牛の心臓は取り出され、シャマシュの祭壇に捧げられました。その次第を見ていたイシュタルは、ウルクの城壁に登って、こう呪いをかけます。

  「呪われよ、ギルガメシュ、私を侮辱し、『天の牛』を殺したもの」

 怒ったエンキドゥーは天牛のももを引き裂き、女神の顔に投げつけて、罵声を浴びせます。・・・その夜、エンキドゥーは不吉な夢に悩まされました。夜が明けると、さっそくギルガメシュに語って言うには、

  「聴いてくれ、昨夜いったい私がどんな夢を見たかを
  アヌ、エンリル、エア、および天なるシャマシュが
  集まり、エンリルはアヌに語った
  『彼らは‘天の牛’を殺したために、またフンババを殺したために
  彼らの一人は死なねばならぬ』 アヌは言った
  『‘杉の山’を荒らしたものが死ぬべきだ』
  だがエンリルは語った。『エンキドゥーが死ぬべきだ
  ギルガメシュは死んではならぬ』」

 エンキドゥーはすっかり気落ちしてしまい、病の床につきます。ギルガメシュが見舞うと、またしても気の滅入る夢の話をします。エンキドゥーはどこか知らない場所に一人立っていました。すると‘彼’がやって来て、冥府の女王イルカルラ(エレシュキガルとも)の住まい‘暗黒の家’へと案内されます。

  「入るものは出ることのない家へ
  歩み行く者はもどることのない道へ
  住む者は光を奪われる家へ
  そこでは埃が彼らの御馳走、粘土が彼らの食物」

 エンキドゥーは動物たちと楽しく暮らした昔を想い、自分を‘人間’にした遊び女を呪うのでしたが、運命の封印はすでに捺されていました。ギルガメシュの前には、動かなくなった友の体が横たわっています。彼の心臓に手を触れてみても、もはや応えません。そこでギルガメシュは、

  「友に花嫁であるかのように薄布をかけた
  ライオンのように声を張りあげた
  子供を奪われた雌ライオンであるかのように
  彼は友のまえを行ったり来たりした
  毛髪を引き抜き、まきちらしながら
  体につけたよき品々を引き裂き投げつけながら」

 そして、いまだに友の死が信じられずにいるギルガメシュは、‘もしやわが友が私の嘆きにより立ち上りはせぬかと、七日と七晩の間、彼の顔から虫がこぼれ落ちるまで’墓へ運ばせることを拒んだのでありました。ギルガメシュは悲嘆に暮れて野原をさまよい歩きます。

  「私が死ぬのも、エンキドゥのごとくではあるまいか
  悲しみが私のうちに入りこんだ
  死を恐れ、私は野原をさまよう」

 かくして‘永遠の生命’を探ね求めるギルガメシュの放浪が始まりますが、ここで一息入れて、‘友の死’が古代の物語の一主要テーマであることにふれておきましょう。イリアスにおけるアキレスとパトロクロスの友情、アレクサンドロスとへパイスティオンの友情などは有名なところです。アキレスの場合ですと、友の死は鬼神のような復讐の情念となって燃えあがりますが、ギルガメシュの場合には、それは死の想念となって形而上的な広がりを見せていきます。両者の違いは、簡単には、それぞれの友の死に方の違いですが、またギリシャのディオニュソス的衝動(結局アポロ的精神の調停するところとなりますが)とメソポタミアの‘名高いペシミズム’の違いでもありましょうか。
  さて、ウバラ・トゥトゥの息子ウトナピシュティム(生命を見た者の意味、ジウスドラとも)は、神々に祝福されて永遠の生を授かった、例外的な人間でした。川と川とが流れそそぐ、広い河の口の‘遙かな’地ディルムンに、この伝説の賢者は住んでいます。ギルガメシュは今この‘不死の人’を探ねて、その頂は天に届き、その根は冥界にまで達し、日ごとに日の出と日の入りを見張っている双子山マーシュ山にに辿りつきます。山の関を守る‘サソリ人’(前の‘天牛’と共に星座と関係がありそうです)が、やってきたギルガメシュを見て尋問します。

  「なぜお前はこんな遠い道をやって来たのだ
  渡ることのむずかしい海を越えて」
  「わが父ウトナピシュティムのために私は来た
  死と生命のことを私はききたいのだ」

 そこで、許されて太陽の道沿いに進んでいきますと、一ベールごとに暗闇は深くなっていきます。二ベールすぎると闇、三ベールすぎても闇、四ベール、五ベール、六ベールすぎても闇、七ベール、八ベールすぎてもまだ光は見えない、九ベール行くと彼は北風を感じた、十ベール、十一ベールすぎると陽の光が差してきた、十二ベールすぎると光にあふれた場所へ出た、そこには宝石の果実がみのっていた。これはバビロニア版 Eastward in Eden ( 東の方エデン)の描写であるといいます。なお、メソポタミアの宇宙観では、世界は平らで周囲を高い山に取り巻かれています。東西に日の出入りする口があり、坑道が北半分の山脈をつらぬいています。ギルガメシュはそのトンネルを通って、東の口へ出たのでしょうか。
 ギルガメシュはなおもさまよいつづけます。心配した太陽神のシャマシュが問いかけます。

  「ギルガメシュよ、お前はどこまでさまよい行くのか
  お前の求める生命は見つかることがないだろう」

 ギルガメシュは答えます。

  「野原を進みさまよってのちに
  大地のまんなかにわが頭(こうべ)を横たえるべきか
  すべての年々をずっと眠りつづけるがために」

 またある時は、一夜の宿りをこうた酒亭の女将にさとされます。

  「ギルガメシュよ
  神々が人間を創られたとき
  人間には死を割りふられたのです
  生命は自分たちの手のうちに留めおいて
  ギルガメシュよ、あなたはあなたの腹を満たしなさい
  昼も夜もあなたは楽しむがよい」

 メソポタミアの‘名高いペシミズム’、これは多分に風土的なものでありましょうが、これにはその裏返しとしての、この酒亭の女将に見られるような、現世享楽主義が伴なっていたわけです。このように、‘人間のなすべきこと’を勧められても、ギルガメシュの永生を求める願いはやみません。そこで仕方なく、女将はウルシャナビという男を紹介します。聞けば‘遙かなるウトナピシュティム’に仕える者だといいます。ギルガメシュは狂喜して言います。

  「私の名はギルガメシュ
  ウルク、エアンナから来た者だ
  太陽の上るところからの遠い旅だった
  ウルシャナビよ、お前の顔を見たからには
  遙かなるウトナピシュティムを私に教えてくれ」

 こうして、ウルシャナビはギルガメシュを舟に乗せて、ウトナピシュティムの所へ渡すのですが、その辺のなりゆきはタブレットが欠けています。第十一の書板では、直ちにギルガメシュとウトナピシュティムとの対話で始まります。ウトナピシュティムはギルガメシュの請いをいれて、神々の`秘事’を明かしますが、これは有名な洪水伝説のエピソードです。創世記の‘ノアの方舟’(ここでは葦舟)の原型となった神話です。ここでは本筋から離れますので、内容は省略します。もっとも、本筋と関係のないエピソードを挿入するのは、叙事詩の常套ですが、神話のあらすじは創世記のものとほぼ同じと見てよいので、ノアを思い出してもらえばよいでしょう。なお、メソポタミアの洪水についてだけ一言しておきますと、チグリス、ユーフラテスの両河は、ナイルのように安定した水源(湖)を持たないので、毎年その水量は源となる山系の雨雪量に依存して、予測のつかないものとなります(ルー「古代イラク」参照)。そこでナイルとは別の意味で、支配者は洪水の監視をしなければなりませんでした。ギルガメシュも、冒頭にあるように、‘洪水の前に彼はその知らせをもたらした’のです。メソポタミアの各都市にあるジグラト(‘バベルの塔’)は洪水からの避難所でもありました。従ってこの‘洪水’のエピソードも、ユダヤ人の間でのように単なる伝説ではなく、メソポタミアでは毎年起こりうる危機なのでした。ひとたび大洪水がやってくれば、畑はおろか、町も人も‘泥に帰す’のであって、住民は‘神の怒り’の前になすすべを知りませんでした。
 さて、せっかく‘不死の人’のところへやって来たギルガメシュですが、お話だけを聞かされて帰るのでは納得がいきません。

  「なにをしよう、ウトナピシュティムよ、私はどこへ行こう
  私の体を死神がかたくつかんだ
  私の寝室には死が坐っている
  私が坐るところにはどこにも死がいる」

 そこで同情したウトナピシュティムの妻に勧められて、ウトナピシュティムは‘若返りの草’のありかをギルガメシュに教えます。その名をシープ・イッサヒル・アメル(老人を若くする)といい、この草を携えてギルガメシュはウルシャナビのこぐ舟に乗り、帰路につきます。三十ベール行った所で夜が来て、彼らは陸に上がります。ギルガメシュは冷たい泉を見つけて水浴します。すると草の香りにひかれて蛇が這いより、‘若返りの草’を食べてしまいました。あとには脱殻だけが残されていました。この壮大な叙事詩は、次のギルガメシュの嘆きで終わっています。

  「だれのために、ウルシャナビよ、わが手は骨折ったのだ
  だれのために、わが心の血は使われたのだ
  私自身には恵みが得られなかった
  大地のライオン(蛇の意)に恵みをやってしまった
  ・・・・・・」

       *    *    *

 ギルガメシュの永生を求めてのドラマチックな放浪は、同じペシミズムとは言うものの、日本の平家物語などの‘世の栄枯盛衰’から説き起こす、無常観の叙事文学とはだいぶ趣が異なります。ギルガメシュの放浪は、むしろ、有限の生を拒否することによって、人間の運命に挑戦するヒュブリス(倨傲)なのであり、従ってこの叙事詩を生み出した民族のバランスのとれた感覚は、物語をトラジ・コミックなアンチ・クライマックスで終わらせているわけです。<ギルガメシュ叙事詩>は、いわば一種のビルドゥングス・ロマーン(発展小説)として読むことができます。主人公の乱行に始まる各エピソードの中に、主人公の内面を探り、一人の人間の形成 (bilden) されていく過程を読み取ることができます。これは叙事詩というものが、発端においてすでに充分に内面的文学たりうることを証しているわけでもあります。

       *    *    *

               

マリネンコ 「人間たちはなぜこのように死を恐れるのにゃ、カイメラ君」
カイメラ 「限られた時間の中で、限られた人生を生きているからです」
マリネンコ 「限られた人生を精一杯生きることで満足できにゃんのか」
カイメラ 「人生の不確かさがそれを許しません。死は突然に人を襲います」
マリネンコ 「にゃらば、幸福な人生とはなんにゃ、カイメラ君」
カイメラ 「それを昔から人々は求めております。ある者はアパティー(無関心)に、ある者は刹那的快楽に、ある者は精神的快楽に、ある者は後世に伝わる名声に、ある者は家族や集団の中に、ある者は孤独な生活の中に、ある者はまた死後の世界にすらそれを求めております」
マリネンコ 「にゃんはそれを物語りに求めておるにゃれど、にゃんは幸福にゃらざるか」
ダルシネア 「にゃん様は起きていらしても、寝ていらしても、幸福そのものでございます。」
カイメラ 「にゃん様は、いいえ、マリネンコ様は特別の方でございますから」
マリネンコ 「特別とは?」
カイメラ 「普通の人間は世界の中に生まれてきますが、マリネンコ様は世界と共に生まれてきたからです。人間たちの運命は、賢者の言葉で言いますと、世界からエントオイセルン(疎外)されていることにあります。人間は死んでも世界は残りますし、世界は人間の死には無関心です。マリネンコ様が特別であるのは、もしマリネンコ様が滅びますれば世界も共に滅ぶからです」
バロン 「まさにその通りですぞ、マリネンコ殿。世界と運命を共にすることこそが、永生の秘密でござる。そのためには、マリネンコ殿のように世界と共に生まれてくるか、われわれ、と申すは余とモーグル氏のことでござるが、われわれのようにスフィアーと一体化した存在とならねばならぬ。余はオネイロスフィアーに生き、モーグル氏はスペキュラムスフィアーに生き、マリネンコ殿は・・・」
マリネンコ 「にゃんはウラノスフィアーに生きておるにゃり」
カイメラ 「マリネンコ様はウラノスフィアーそのものでございまして、おかげでご家族を初め城に住む者は、このスフィアーに包まれている限り長生きできるのでございます」
マリネンコ 「にゃんはこのウラノボルグに生まれ、このウラノボルグより一歩も出でしことにゃく育ちしも、いち度たりともにゃんが存在に不満をいだきたることにゃきにゃり。にゃんが唯一つの楽しみを除きては、何一つ欠けたるものにゃければにゃ。物語る客なきときも、ヒュプノス(睡神)の来たりて夢語りすにゃり。この世の中のことすべて、宇宙のこと、神々のことすべてを、にゃんは物語から学びたり。にゃんはこの世界に満足しておるにゃり」
バロン 「にゃん殿は、えへん、殿は無垢なる存在そのものでござる。ウラノボルグに客となる時ほど、心が安らぐことはござらん」
マリネンコ 「ギルガメシュとエンキドゥーをにゃんが城に招きたかったにゃん。その後ギルガメシュはいかがした、カイメラ君」
カイメラ 「それは私も存じません。モーグルさんにお聞きしたいです」
モーグル 「その後神々に愛でられたギルガメシュは、千年ほど寿命を延ばしてもらいましたが、六百年ほどするとさすがに地上界に退屈して、自ら願い出て冥界の王として下りました。そこでエンキドゥーと再会して、二人で冥界を公正に治めました。やがてハデスと交代して、いまでは冥王星で隠居生活を送っているとのことです」
マリネンコ 「さようか、冥王星は寒かろうにゃ」
モーグル 「冥王星は内部が空洞になっておりまして、セントラルヒーティングが利いておるそうです」
マリネンコ 「さようか。それを聞いて安心にゃり」

  (この時、料理女登場)

料理女 「奥様、旦那様方、お食事の用意ができましてございますだ」
ダルシネア 「ありがとう、婆やさん。それでは皆様、下の広間でお食事といたしましょう。さすがのにゃん様も、お話だけでは空腹でございましょうから」
バロン (婆やにそっと)「モーグル氏もおいでだ、カイメラさんを手伝ってワインひと樽お頼みもうす」
料理女 「旦那もわたすのロイマチをお忘れなく」

               (第三章完 2005・8.8)

 (サロン・ウラノボルグは管理人が翻訳城に集中するため当分お休みです。ご愛読の方(いるかなあ?)はいずれまたお会いしましょう――サロン一同)