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ーエポス文学館雑録ー

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CONTENTS:民主主義の終焉/自我論問答/新月と宵の明星/読書一代、作品一代/心の世界への逃避/岐阜・大垣/クーデター民主主義(1)(2)/自己欺瞞としての民主主義/KDPマニュアル本/現実存在の不幸/KDP自己出版事情(1)(2)(3)/人生とは何か―調和の幻想/自我と他我/形而上学の根拠/希望について/人はなぜ苦しむのか(1)(2)

         

2013年12月7日(土)
民主主義の終焉

 民主主義(民主制)とは古代のアリストテレスにとっては衆愚政治のことであった。愚かな民衆が数を頼んで政権を握り、好き放題のことをし、ついには僭主制(個人的利益を追求する)におちいる。実はこういう制度は歴史上そうはないし、長続きもしなかった。人類の政治制度は、王政であれ、帝政であれ、独裁制であれ、圧倒的に専政制度(強権でもって支配する)なのである。
 近・現代の民主主義は、もちろん単なる衆愚制ではない。専制への反乱として生じた近代の民主制は、少なくとも圧制への抵抗という所期の意義を持っていた。だから議会制であれ、労働者の独裁、あるいは党の独裁であれ、何らかの圧制への抵抗に民衆の力を借りるという点においては、民主主義を名乗ることが出来たのである。その意味では、ヒトラーもレーニンも、その権力掌握の手段においては、リンカーンに劣らず民主主義者であった。エジプトのクーデターも、この国の一党独裁も、すべて民主主義なのである。少なくとも民主主義の末裔である。
 こうした<民主主義>は、それならば本来の民主主義の変貌したものなのであるか、あるいは成熟度の足りない民主主義なのであるか。そうした問いは、世界の民主主義なるものを見わたせば、すぐに無意味であることがわかる。民衆もしくは国民から離れた権力または権力機構のない政府はどこにも見られないし、民主主義が永遠平和を実現した例は、ユートピアを除けば皆無なのである。文明の発生から一万年近く変化のない人類の性質を考えると、人類がこの先政治的に進化することなどは不可能に近いのである。
 それでは近・現代人をたぶらかし続けている<民主主義>とは一体なんであったのか。一言で言うと、人類に生得的にそなわっている、専制権力への意志を、都合よくカムフラージュする仕組みであった。歴史上、権力を握る方法は主として軍事力であった。これが人類政治史のほとんどを占めている。ついで、経済力が、軍事力から独立して、背後から権力を操るようになった。軍事力を持たない経済力は、軍事力の下位に立たずに独立するためには、別の力が必要であった。それが数の力、すなわち民衆の支持であった。ブルジョワ革命は、民衆の支持なしには成り立たない。そこに復活したのが古代の民主制の概念であった。しかしそれは、民衆からの自発的な権力への意志ではない。それを煽ることによって権力を掌握しようとする勢力の権力意志なのである。
 こうした事情から、近代民主主義は、初めから欺瞞を含んだ制度であった。基本的には、あらゆる政治制度の変遷は、権力闘争なのである。権力闘争の果てに生まれた民主制が、権力への意志に奉仕しないわけはないのである。このことに気づくのに、人類は数世紀をかけている。21世紀がまさに民主主義神話の終焉の世紀である。人類は潔く、おのれの権力意志の本性を認め、元の専政制度に還るか、全く新たな道を模索する他はないであろう。その合い言葉は、もはや<人民の、人民による、人民のための政治>というごまかしではなく、そうした欺瞞を排した、人類の本質に根ざした探求でなければならないだろう。専制に対抗するのは、絶対的<自由>の他にはないのである。
 人間が最も幸福であると感じるのは、自己自身が内的にも、外的にも、なんらの拘束を感じることなく、思うままに生活できていると感じられる時である。あらゆる苦難や、悩みの中で、ふとおのれは自由に生きられる存在なのだと感じることによって、解放感と希望がわいてくる体験を誰もが持つであろう。この誰もが願う自由を実現する社会こそが、人類の窮極の目的であるはずだ。それは幸福の実現でもあるのだから。
 国家は、あらゆる政権は、この自由を侵害する限りは、ブラックな専制国家であり、専制権力である。民主主義も、国民の盗聴をしたり、秘密情報を独占したり、クーデターを許したり、などをするかぎり、ブラックな国家の擁護者である。あるいはブラックな国家の都合の良い道具であり、その意味で悪しき制度である。
 

2013年12月2日(月)
自我論問答

自我がこの世界で最も確実な存在であることは疑いえないとしても、そのことから直ちに自我が絶対であり、永遠であるという命題は出てこないのではないか。自我の現実存在のどこに、自我が絶対永遠であるという保証があるのか。おのれが神であり、宇宙で唯一の絶対存在であるという確信は、デカルト的自我の明証性とは別のものではないのか。

 「あなたの妄想に過ぎないでしょう、あなた以外に自我はないと考えるのなどは。あなたがどんなにエゴイストであるにしても、そこからあなたがこの宇宙の創造者であり、唯一の存在であるという結論は出てこないでしょう」
 「なるほどデカルトの言う考える自我は、感じたり、想像したり、意志したりする自我であるから、それがいかに私の感覚や、想像や、意志であっても、考える私はそうしたものから、何かの所有者のように切り離すことはできない。考えている私は、何かを考えているのだから、その考えによって現われている私に過ぎない。いかにその私の存在が疑いえないとしても、それはそれだけのことで、それがそのまま永遠や絶対に結びつくことはないだろう。ただその存在が確実であると言えるだけだ」
 「あなたの存在が確実であるとしても、あなたの肉体が滅びれば、あなたも確実に存在しなくなるでしょう」
 「肉体が滅びるかどうかは、肉体の存在が確実でない以上、どちらとも言えない。私は何かを考えているのだが、その何かの確実性までは、私は保証できないのだよ。だからその何かが滅びようと滅びまいと、我関せず焉というわけだ。デカルトが肉体を確実な実体としたのは、神という絶対的な存在の媒介によってであって、私という確実性の立場からは、あくまでも不確実なのである。神の善意を信じるなどということは、全くの仮定でしかないからね」
 「そんな確実なあなたが、なぜ世の中を恐れたり、貧乏な暮らしをしたりしているのですか」
 「実を言うと、肉体は、実に強力に自我と結びついていて、肉体でない私を思惟するということは、まれな瞬間でしかない。デカルトはあっさりと肉体でない自我と、肉体とを切り離してしまったが、そんな実体論は観念の遊びに過ぎない。肉体的自我は、常に他我を欲しているのだ。この狭隘な肉体に閉じこめられている自我は、この殻を破って、常に自我を拡張しようと願っている。その欲望・願望と自我は一体化しているのだ。それが確かに、この世界での自我の現実存在だ。自我の確実性が、この世界を保証している。肉体、すなわち生命の運命に、自我は無反省に取りこまれているのだ。そのやんちゃな子供のような自我を、この世界から引き剥がすことができるならば、この世界は確実性を失い、消滅するだろう。後には純粋な自我だけが残るのだ。」
 「消滅するのはあなたの方で、世界はあなたがいなくても永遠に残ります」
 「肉体と結びついた私は滅びる。それは物質界の運命です。しかし、この世界を超越した自我としての私は、確実に存在しつづけるでしょう。なぜなら、私以上に確実な存在は他にないからです。私の肉体が滅びた次の瞬間に、すでに私は存在しているでしょう。この世界を超越した私には、もちろん時間も空間も、因果律もないので、その意味では永遠です。目覚めた私は、どこか別の宇宙で、再び個我として、何らかの生命体に宿っているかもしれません。人間はもうごめんです」
 「空想するのは自由ですが」
 「形而上学のつもりですがね。インド哲学や、仏教が空想とはいえないでしょう」
 「あなたの考えが空想だというのです」
 「ただの宗教ならメルヘンだが、形而上学は空想ではなく、理性の学問です。それなりに論証してますがね。理性の学問の中で、科学がすべてとは言えないでしょう」
 「科学が最も確実に、この世界について教えてくれます。科学は最も信頼のできる知識体系なのです。迷信やトンデモに陥らないためには、正しい権威が必要です。私は学問上の権威主義者ですから」
 「学問的権威にも正統と異端、主流と傍流があるけれど、それはいつでもひっくり返りうるのだ。今は科学が正統だが、百年後のことは分からない。もっともその頃まで人類が滅びずにいればだが。面白い話で終わりにしよう。
人類程度の文明では、今現在この銀河系に存在する知的生命体は一つか二つだそうだ。滅びるのが早いので、同時的に存在しえないのだ。だから知的生命体が他にあるとすれば、人類よりもずっと優れた存在になる。今度はそっちの方に生まれ変わりたいものだね」

2013年11月6日(水)
新月と宵の明星

 夕空に細い新月が照っていた。その直ぐ横には、金星が、まだうす明るい空に、鮮烈な光を放っている。細い新月は、一見金星の引き立て役かのようである。はるかに明るいはずなのに、小さな弓のように広がっているために、茫洋とした感じがある。そして、その弓に囲まれるように、さらに茫洋とした薄い影が、月の姿をあらわしだしていた。地球照である。それが地球によって反射された、太陽の光によって、かすかに照らされた、月の影の部分であることを考えているうちに、ふと、弓形に照っている明るい部分は、実は、今地平下にある太陽の光であることに思いいたった。この意識上の転換が、これまで一度も起こったことがないような、めざましい感じであった。
 半世紀を越えて生きてきて、これまで一度もそのような観点から、月を見たことがないのであろうか。そのことが実に意外に思われた。明るく照るものは、月であれ、金星であれ、それ自体が光を発しているかのような、直感的な美感の中でしか意識されないのである。それらを照らしているものが、この地球に隠れて、宇宙のはるか遠くに存在しているのだということを忘れている。その広大な空間の意識は、物事を相関させてみることによって、初めて生まれるのである。
 宵の明星もまた、この鮮烈な光は、実は太陽の光そのものなのである。望遠鏡でとらえることによって、月と同じ、欠けた姿が浮かび上がってくる。その時生じる不思議な感覚は、目というものに対する疑いでもある。ガリレオの望遠鏡を覗くことを拒んだ僧侶達は、あまりにもおのれの目の習性を信じすぎたのである。いかに感覚の習性が頑固であるか。知識として分かっていても、目はやはりおのれの習性に従うのである。しかし、それをある時、ふと転換させることによって、新しい宇宙観が生まれてくる。

 自我の哲学の困難さ(アポリア)も、同じように意識の頑迷さによるものだろう。月や惑星の光が、太陽の光の借り物であるように、自我意識もまた、対象や他者からの光に照らされてはいないだろうか。俗な言葉だが、
 おのが目で見ると思うなよ、月の光で月を見るなり
という禅語も、その点をついている。
 こうした客観主義によっては、自我哲学は崩壊してしまうが、自我から他我への視点の転換として考える時、対象や他者からの光は、実は私には見えないものであるが、地平下の太陽のように、どこかにあってよいものなのであろう。自我意識はあまりに明るく世界を照らしているので、それ以外に光はないかのように思われてしまう。この世界のすべてが私の意識によって照らされている。それが同時に他者や対象の世界でもあると考えるためには、何かの媒介が必要なのである。それをバークレイやライプニッツのように、神から発した光と考えればことは簡単だが、ショーペンハウアーが言うように、不可解なものをさらに不可解なもので説明することになりかねない。
 地平下の太陽のように、どこかにある何かは、この宇宙の根源であると考えてよいであろう。この根源から自我は発し、対象としての世界は生まれる。この根源の媒介によって、対象や他我は私と交渉可能となるのである。光は物理的にも、この宇宙に遍満し、この物質宇宙の窮極のエネルギーであるように、意識の光も、その強弱にかかわらず、この世界の個物に遍満しているのであるかもしれない。そうであるならば、意識とはこの世界の普遍的意識に参与することであるかもしれないのである。
 月や金星は光を発しない天体である。自我は自ら光を発する太陽にたとえられる。それは他者や対象を照らす。同時に他者や対象も、自我を照らし返すのである。それはおのれの光の反映のように見えながら、また他者や対象の独自の光でもあるだろう。この世界で意識だけが孤立しているわけではない。それは無数のモナドに分かれてはいても、互いにたがいを映し出すのである。物質粒子が磁場や重力場の中に置かれているように、意識原子であるモナドもまた、いわば普遍的意識の場におかれていよう。そこが自我の存在する場である。

2013年11月4日(月)
読書一代、作品一代

 一生の間、本当に必要な知識は、体系だった適度な量で良い。無駄にたくさんの本を集めてみても、混乱と、無力感に打たれるだけである。最も処分し難いものが書物であるから、書物に圧倒されないためには、最少の体系だった知識にとどめることである。十冊の内九冊は無駄な本である。千冊の本を、百冊に整理することができよう。人生に真に必要な本は、百冊持てばよい。後は、必要に応じて、図書館や、インターネットで補えばよい。
 知識は、人生一代で消えてゆく。子供の頃からの知識の継続こそが、もっとも有効な知識体系の基となる。その骨格に肉付けし、不要なものは忘れ、新たな知識や洞察を加えてゆく。こうして老年期に達し、人生や世界を見わたす知識体系が築けていれば、理想の教養となるだろう。むやみに書物を買い集めて、老後にそれを読む時間をあてにしていると、最悪の結果になる。読書の習慣自体が忘れ去られてしまい、厖大な蔵書を前にして、途方にくれることになる。
 実用的な知識は、その場かぎりでよい。用が済めば、それが仕事でないかぎりは、忘れてもよい。本はとっておかないこと。できれば、借り出すか、ネットで済ませる。買っても、電子本が良い。
 真に価値のある知識は、この世界と人間に関する知識である。そのすべてにわたることは不可能であるから、おのれの得意とする方面から、及ぶ限り領域を広げてゆく。専門の学者でないかぎりは、一つの方面に深入りすることはない。中心を決めて、興味と関心の範囲を広げてゆく。決して雑学をめざしてはならない。かりに雑学であっても、一本の探究のすじを貫かねばならない。
 こうして築きあげた知識も、最後は失われる。その時なお残るものが、人の人生の価値であったといえよう。晩年のカントは、自らの著作以外は理解できなくなったという。自ら学び、思索したことだけが、人生最後の価値である。
 作品もまた、本当に自らにとって意味のあるものだけを書けば良い。金や名声のために書くことはない。子供時代のたわいのない書き物は、ノスタルジーにとらわれないかぎりは、滅ぼしてもよい。青年期に書いたものは、見所があれば、書き直して、まっとうなものに完成させるのがよい。それ以後の時期の作品は、年齢ごとに感性や考え方や、また筆力そのものが違ってきているので、ほとんど書き直すことは不可能である。訂正程度にとどめるほかはない。
 こうしておのれの一生を、日記であれ、作品であれ、論文であれ、書き残したものを通して、俯瞰することができるようになる。書物を通してえたものと、同等の価値をおくことができよう。それが発表されなかったからといって、その人生にとっての価値が減じるわけではない。その書き物によって、おのれと世界を理解したのであるから。
 もしそれが発表されたとしても、またそれが注目されたとしても、所詮一時的である。特にアマチュア作品は、発表と同時に忘れ去られていく運命である。アマチュアである限り、作品はおのれ一代であり、生前読まれなかったように、死後も読まれることはない。そうした無数の作品と同じ運命であることを肝に銘じて、おのれの作品はおのれの人生一代に価値を置くべきである。
 読書し、ものを書くということは、それ自体で完結した行為であり、それが後々まで、おのれに影響を及ぼすことは同じである。そうした影響の蓄積が、人生を充実させ、自信につながるならば、それだけで充分な価値を持つのである。
 書物も、書き物も、人生の終焉において、自ら滅ぼすことはかなりの決断がいるであろう。しかしその役目は果たしたのであるから、安んじて滅びに委ねてよいであろう。もし上田秋成に倣って、一生の作物を古井戸に棄て難ければ、インターネットに預けておくのがよい。預貯金のように凍結されることなく、自然消滅するであろうから。

2013年10月23日(水)
心の世界への逃避

 この世界がある種の地獄であることは、すでに何度か述べた。そのことは生命界に最もよく見てとれる。生命が生命の犠牲の上に、互いに弱肉強食の争いをつづけながら進化、存続したことは、言い古された真実である。何万という稚魚の中で、生まれた途端に次々と捕食され、成魚となるものは数匹に過ぎないという。その種や類の間、または個体間の闘争は、人類においても、あるいは人類においてこそ、最も激越であり、地獄の相を呈している。人類においては、その激化は、農耕と共に始まる<文明>によって決定的なものとなった。
 NHKの番組「病の起源」によると、魚も特殊な環境を与えると<鬱病>になることが確かめられている。人類の鬱病の始まりは、文明による富の分配の不平等、階級制の成立によるものであるとされる。平等社会である狩猟採集民には、鬱病は存在しない。弱肉強食の原理を種の内部に持ち込んだ、農耕文明こそが、恐怖や不安といった過剰なストレスを、人類内部にもたらしたのである。自然界という外部のストレスと、富の分配の不平等による内部のストレスが、人類社会を一層の地獄の世界としているのである。
 この世界は唯一の現実であって、人はそこからあらゆる他の世界を類推するほかはない。この世界が地獄であって、どこにも天国などは探し求められないのであってみれば、ましてや現実でない死後の世界や、あの世に、天国なぞあるはずはないであろう。仮に死後の世界や、生前の世界があるとするならば、そこもまたこの世界と似たような、地獄である可能性は高い。世界意志が最も確固として現われているのが、この現実の生命界であるならば、やはり世界意志に属する死後の世界や生前の世界も、この現実界とさして違ったものではないであろう。言ってみれば、人は世界意志という地獄より発し、生まれるも地獄、生きるも地獄、死して後も地獄の存在でしかない。そこには地獄からの救済はないのである。
 それなのに、なぜ人は一見明るく、楽天的に生きられるのであろうか。そこに生への意志のトリックがある。
宗教がそのトリックを最もよく表わしている。文明と共に生じた類の宗教は、基本的にペシミスティクである。すなわちほとんどが現世否定的である。それにもかかわらず、現世からの救済を説く点において、あきれるほど楽天的である。仏教の極楽、キリスト教・イスラムの天国、いずれにしても、この世界でそうあってほしいという願望の投影された世界である。もし死後の世界やあの世が可能であるならば、なぜそれがこの世の理想の投影でなければならないのか。古代ギリシャ人は、あの世に関してもっと現実的であった。オデッセウスは黄泉の国で、憂鬱そうな顔をしているアキレスに出会う。黄泉の国は特に良いところでも、特に悪いところでもない。この世の影のような場所である。「古事記」に描かれている黄泉もそのような場所のようである。
 ここに人間が際立って観念的存在であることを考慮すべきである。人間は感覚的現実界と、観念的思念もしくは想像力の世界との、二重の世界に生きているのである。イエスは「野の花、空の鳥を見よ」と言ったが、そうした明日へのわずらいのない生き方は、想像する存在である人間には不可能なのである。「今日もご先祖様のおかげで、獲物にありつけた」と歌う狩猟民とは違って、農耕文明によって、人類は常に明日をわずらわなければ生きてゆけなくなったのである。そしてこのわずらいが、想像力をさらに肥大させていった。ついには現実と想像との区別さえつかなくなってゆくのである。想像力が現実と折り合いをつけていくかぎりは、人類の進歩の原動力であったといってよいだろう。しかし、想像は同時に創造なのである。
 この世が地獄であるならば、人はどこに天国を求めたらよいだろう。いうまでもなく、想像力の世界である。唯一現実から離れることができるのは、この現実界から取り入れた観念を自在に構成できる、想念の世界の他にはないのである。これは世界意志の作り出す客観的現象界である現実世界の上にかかる、虹のようなはかない世界ではある。人類と共に生まれ、人類と共に滅びる世界である。しかし人類にとって唯一の救済の希望なのである。人類はこの想念界において神を創り、天国を創り、祖霊の世界や死後の世界を創りあげた。悪しきものはすべてこの現実界に残しておけば良い。そして、想念において、心において、この創作された世界と実際に感応しあうのである。その意味では、宗教は心の真実である。そこではライオンと羊とが、共に平和に暮らすのである。
 想像力が唯一の救済への希望であるならば、世界意志からの救済もまた想像力の働きに委ねる他はない。宗教は窮極の想像力であるといってよい。しかし単なる天国や極楽の想像では、世界意志の手のひらから抜け出すことはできない。キリストを取り囲んで毎日尊顔を眺めているだけの天国や、この世以上のグルメや快楽にありつける天国や、釈迦とひねもす蓮の上に坐っている極楽やらで、暴戻なる世界意志の煩悩に打ち勝てるだろうか。基本的にこれらは、現実の不満からの逃避願望に過ぎないのである。
 想像力は、世界意志の目的のための一つの道具でもある。その道具を専ら救済のための手段に使うためには、それなりの配慮、工夫が必要である。カトリックの修道僧は、若い女性の姿を見ると逃げ出すという。女性の性的アピールは、男性にとって、世界意志の<産めよ、殖やせよ>という定言命令である。世界意志の根を絶つためには、それの刺激を避けねばならない。世界意志の本能と対峙する心の世界が先ず必要なのだ。それをメルヘンといってよいだろう。メルヘンは救済のための最高の芸術たりうるであろう。傍らに悪魔のいることを常に意識しながら、想念界に理想の世界を作り上げること、その断固とした逃避の営み以外に、救済の望みはないのである。

2013年8月29日(木)
岐阜・大垣

 岐阜県という土地を長く避けてきたのは、母方の出身地であるからだ。自らの出自を忘れていたいという、ぬき難い感情のしこりが今もある。近親への反感が、それに関するすべてとの関わりを拒否してきたのである。それを少しずつ氷解させてきたことで、やっと岐阜という地に足を踏み入れることが出来た。それも専ら観光という目的で。
 名古屋から岐阜までの東海道線の車窓は、林立する馬鹿げたほどのビル街から、すぐに郊外住宅の光景に変わる。名古屋が思ったほど大きな都会ではないという印象だ。どこにでもある郊外風景ではあるが、昔は一面の田園であったことを思わせて、それが歴史的旅情のよすがとなる。
 岐阜では直ちにバスで公園に赴く。金華山を背景にした林間のほどよい広がりは、ここが昔は城の範囲であったことを思えば、人工とも自然ともつかない光景である。山の頂にぽつねんと立つ、下からは小さく見える天守閣も、山の飾り物のようである。全体がハイキングコースになっていて、茂った森をのぼる山道が誘惑的である。朝早く出た睡眠不足の疲労から、それは諦め、博物館に入る。畳何枚分もありそうな美濃の古地図が展示されている。江戸時代の役人の製作であろうか、地理的好奇心はこの時代に実に旺盛であったことがうかがわれる。一里の路程ばかりか、北緯までも書かれているのを見ると、早くも国際的な知識を身につけていたようだ。細かな地名の迷路には地理的イマジネーションが籠められている。
 長良川へと歩き、対岸から金華山を眺めつつ、鵜飼の時を待つ。鵜の飼われている喫茶へ寄り、いつもは海岸から遠く見るだけの鵜を、間近に見る。その独特な体形は遠くからもわかるのであるが、間近で見ても同じである。ただ泣き声が甲高く、犬のそれのようであった。鵜飼の屋形船の乗り場に戻り、いかにも絵図から取り出したような老鵜師の解説を聞き、実演を見てから、乗船する。雨もよいで雷も鳴ったが、食事をしながら一時間も我慢するうちに、暗くなった川の上を鵜飼舟が、篝火を巨大な目玉のように揺らめかせながら、意外と速いスピードでやってきた。鵜師の持つ十本ほどのロープが、舟の前にぴんと張っている。そのロープの先には先導するように鵜が走っている。<走っている>というのは文字どおりの印象であって、時々鵜の姿が水面下にもぐりこむ。それがいかにも生き生きと愉快そうで、喫茶店で見た鵜と違って、水というエレメントに帰ったという溌剌さを感じさせる。闇の中に、篝火の灯りで、遠くから見てもそれが分かるのである。人間に操られていることなどはすっかり忘れている。やがて悲しいのは人ばかりか。
 最初、流動感から流鏑馬を思い出し、ついで競走馬の運命を思い、この完全に観光のショー化された鵜飼の中でのスターである鵜の運命を思った。人もまた何かに操られながら、おのれの運命を懸命に生きる他はないのであれば、鵜飼は人生の縮図であろう。
 翌日はバスで伊吹山の山頂近くまで登った。不順な天候で、登るほど霧が深まり、最初ちらと見えていた琵琶湖も隠れてしまった。山頂では眺望は諦め、高山植物を丹念に見てまわった。さすがに低山では見られない、色とりどりの花々に興をそそられた。わがbotanyのとぼしさが嘆かわしかった。それでも、われもこうなどの知っている植物に出会うと、親しかった旧知にであったような気がする。それを山で最初に見た場所までも思い出される。
 予定より早めのバスで下山し、その日の宿泊地である大垣へ行き、明るい間の散策をする。岐阜ではのぼらなかった、城の天守を見学してから、芭蕉と曽良の像のあるところまで歩く。奥の細道の終焉の地であることから、芭蕉を町興しのシンボルとしている。そうした歴史や文学に関しては連れに任せ、今の街並の緑の豊かな風致を楽しむ。途中で休んだ公園では、赤トンボが群れ飛んでいた。その無邪気な飛翔を見ていると、昨夜の鵜と同じように、与えられた生命を何思うことなく、溌剌と生きる昆虫や動物が、少しも人間に劣らないと思われてくる。  

2013年8月19日(月)
クーデター民主主義(その2)

本来文学サイトであるこのホームページで、もともと政治などには無関心の、ノンポリの筆者が、今回のエジプト政変に、やけに興味を示していることを、身内から不審がられていますので、少々弁解を。
 たまたまニワトリ新聞(毎日)で、事態のニュースを追っているうちに、これまで私の中であいまいのままでいた人類史の真実が、ふいに啓示されたような気がした。6千年の歴史を持つ、人類最古の文明国の、今日の有様を見て、古くから言われている洞察、人類は道徳的にも政治的にも、いかなる進歩も遂げていないということが明らかになったのです。人類が道徳的に少しも進歩していないことは誰もが認める真実です。しかし政治的には、18世紀以来やたらと進歩主義が幅を利かせました。それもまた幻想であることが、20,21世紀にかけて、誰の眼にも明らかになったのです。
 今回、エジプトのクーデター政権は、相手の宗教政党を<非合法化>するといっています。もともと非合法なクーデター政権が(<超法規的>と都合よく称しますが)、居直り強盗よろしく、本来正当な政権を非合法化するというのです。どこかで聞いた光景です。ナチスの場合は少なくとも合法的に政権を握って、共産党を非合法化したのですから、ナチス以上にあくどいということです。といってイスラム政権を特に応援するわけではありません。権力争いの醜さをここにみるのです。
 クーデター政権を応援する若者たちが、<民主化>を標榜するのも笑止です。今回もっとも筆者にとって啓発的だったのは、明々白々たるクーデター政権に対して、黒を白と言いくるめているアメリカ<民主主義>の態度です。民主主義をなんとなく聖域として、それに対する疑義を解決できずにいたのが、目からうつばりがとれたように、その正体が明らかになったのです。民主主義は決して完成するものではない、もともと不完全であり、中途半端であり、それゆえに権力にとっては都合の良い制度なのである。民主化や、民主主義の成熟などということは、人類が道徳的に進歩するのを期待するのと同じほど馬鹿げたことです。現今の人類の、知的、道徳的程度に相応しい、あいまいな、原始的な、度し難い制度なのです。
 道徳的、政治的に進歩のない人類を待ち受けているのは、<没落>以外にはないでしょう。シュペングラーではありませんが、植物の生と死にたとえたくもなります。ローマ帝国の盛衰は、今現在であるかもしれません。土木技術の発達は、ローマ帝国を救えませんでしたが、道徳的、政治的に進歩のない人類が科学技術を振り回しても、文明の没落を防ぐことは出来ないでしょう。 

2013年7月29日(月)
クーデター民主主義(1)

 民主主義のモットーを一言で言えば、<民意>につきるであろう。民衆(デモス)の多数の感情・意思を制したものが、政権につく、これがデモクラシーである。その方法は、必ずしも選挙や議会制である必要はない。その社会の特殊な事情に応じて、民主主義の方法はさまざまでありうる。要は<民意>をいかに味方につけるかである。
 そもそもいかなる政体であっても、ある程度の民意を考慮しない政権は存立しえない。あらゆる専政制度も、<民意>の上に立ってその支配体制なり、官僚制を構築するのである。古代エジプトのピラミッド建設も、奴隷労働ではなく、失業対策であったことが明らかにされている。中華帝国の支配者達も、治水などの公共事業なしには民の支持を得られなかった。パンを食べれない貧乏人は、ケーキを食えと言ったとされるマリー・アントワネットは、首を切られて当然であった。
 あらゆる政体は<民意>をないがしろにしては存立しえないのであるから、民主主義ほど普遍的な政体はないということになる。特に<民主主義>などというものはないのである。いかに民意を取り込み、味方につけるかの違いが、政体のヴァラエティーを生むのである。そういうわけであるから、エジプトにおいて、軍事クーデターによって政権交代が起こったことは、少しも意表を突いたことではない。軍事政権が拠り所にしたのが<民意>であることが、ことの本質を暴露している。
 クーデターであろうが、革命であろうが、成功し、存続するためには<民意=民主主義>が必要なのである。それをポピュリズム(大衆迎合)と呼ぼうと、なんと呼ぼうと、基本的に民主主義とポピュリズムとは区別つけがたいものである。民意を呼びこむ政権が、民主政体なのである。軍はもともと権力を持った集団であるから、政権に最も近い位置にいる。この立場を利用しない手はない。歴史上ほとんどの政権が軍事政権であったと言ってよいであろう。その伝統は今に続いている。まだるっこい選挙や、議会などに頼らず、民意を操作してあっさりクーデターを起こせばよいではないか。これはごく自然な、<民主的>発想である。民衆もまた熱狂的に歓迎する。
 いったん政権につけば、自分らの強権や暴力は、これまた民意に基づいて発動できる。“テロや暴力”を相手の側に押しつければよい。自らが最大のテロであり暴力であることを熱狂した民衆に忘れさせる。これはロシア革命やナチスの取った方法でもあり、今さらエジプトの専売特許ではない。
  *  *  *
 穏やかな選挙によりマイルドな専制を成立させた日本では、民意の操作は、この国の国民らしく<金儲け>によって行われた。金融操作によって、株価を吊り上げ、円安によって輸出企業の利益を押しあげることによって、何となくリッチな気分に日本全土を巻き込んだのである。が、政権確保という目標が達成された今、国民が何一つ変わっていないおのれ自身に気づくのも、そう先ではないであろう。実質のともなわない、掛け声と期待だけのギャンブル経済、はったり政治は、いずれ化けの皮が剥がれるであろう。
 (PS:もと総理の副首相は、実に正直に、ワイマール憲法をなしくずしにした<ナチスにならえ>と発言している。(8/2))

2013年7月11日(木)
自己欺瞞としての民主主義

 民主主義ははたして人類にとって必要な制度であるか、あるいはそもそも人類にとって適した制度であるか。アリストテレスは民主制を衆愚政治としてしりぞけたが、アリストテレスやプラトンが理想とする貴族制や賢人の支配といったマイルドな専政体制から見れば、専政制度としては愚劣な、不完全な体制と映ったのであろう。
 人類社会はその大小を異にしても、その本質において全体への意志に支配された集団であることは、既に何度も述べた。未開社会のいわゆるゲマインシャフト(共同体)から始めて、農業国家、都市国家、遊牧王朝、全てにわたって、国家とは集団の意志の発現に過ぎなかった。家長や王や専制君主や皇帝や、天皇は、全体への意志のシンボルに過ぎなかった。全ての人間が、それらのシンボルにおのれの意志を仮託したのである。全体が全てであり、個人は無であった。無である個人は、全体への意志の中で、初めておのれの存在を獲得することが出来た。

 人類にとってもっとも相応しい政体は、実に専政制度なのである。それこそが最もよく、人類が全体への意志を発現できる道なのである。人類史を観察してみれば、このことは誰しもすぐに気づくことである。ごく一部の観念的錯誤を除いて、誰もが専政体制を望んできた。あるいは望むと望まぬとに関わらず、結果的につねに専政体制が生まれた。唯一例外と見なされているのが、フランス革命とともに生まれた、ヨーロッパに特有の政治観念である民主主義である。
 ジャコバンの民主主義が、たちまち権力争いからナポレオンの専制に終わったことは誰もが知っている。幾人もの王の首を切ったイギリスの民主主義が、いまだに王政を後生大事に維持していることも、人民の、人民のための、人民による政府が、人民の盗聴を行ったり、他の国(エジプト)のクーデターを支持していることなども、今さら民主主義の不完全などと言う人はあるまい。民主主義の本質があらわになっただけである。いみじくもオバマはエジプトのクーデターを非難することは国益に反すると言う。民主主義国家の国益とはなんであるか。それこそまさに全体への意志を体現した、国家の利益であり、あらゆる専制国家がおのれの利益とするものである。グローバリゼーションの名で、民主主義を世界に売り込んで来たアメリカの馬脚が現われたといってよい。アメリカにとって民主主義とは、自国の利益を拡大するための都合の良い手段、口実に過ぎないのである。その根本に民主主義の欺瞞がある。
 民主主義は少なくとも、これまでの制度の中では欠点が少なく、ましな制度であると、擁護者は言う。しかしあらゆる政体は全体への意志の発現であり、民主主義もその例にもれないとすれば、専政体制としてはもっとも不完全な体制であり、その不完全さをよしとするならば、徹底して不完全でなければならないであろう。その窮極は全体への意志の廃棄である。国家の対極にあるものを追求するのが真の専制の否定であろう。権力の監視や、代議政体や、選挙などは、欺瞞であり、偽善であり、もしそれに気づいていないのなら全体への意志に操られた無意識の自己欺瞞である。
 そもそも多数決などという民主主義の<原理>が、このモノの本質を暴露している。多数の意志を実現する、そのもっとも良い方法が専制であるが(専制国家の本質を調べれば、それが決して専制君主の気まぐれを満たすものでないことがすぐに分かる)、人類の意思が一致しなくなった時代に、民主主義は良い方便として現われた。利害と利害とがぶつかる時に、もはや伝統的専制は機能不全となった。その時、利害を交代させる制度として、民主主義が発明されたのである。しかしこれが比較的うまく行ったのは、西欧諸国に限られた。西欧の資本主義とうまくマッチしたのである。資本家と労働階級、この二項対立が多数決の原理を生み、議会制民主主義を可能にしたのである。
 しかしそれは人類の普遍的制度とはなり得なかった。西欧以外では専制主義を必要としたのである。それは露骨なロシアのボルシェビキのみならず、アジア全般、中近東、南米において、西欧資本主義が輸出しようとした民主主義の無残な挫折によって知られる。共産主義が<真の民主主義>を名乗ったのなどは、民主主義の本質からして正しい茶番であった。現今において、アメリカが世界に輸出しようとしている民主主義なるものも、単にアメリカの<国益>であることが知れてしまった以上、誰も本気にはしないであろう。
 日本において、民主主義が専制の婉曲語であったことは、もはや誰の目にも明らかである。二大政党制などという、西欧でのみ可能なたわけた妄想がこの国で通用するなどと考えたジャーナリズムも愚かだが、この国ではいまだかつて政権が仲良く交代したなどというためしはないのだ。つねに権力は一つであったし、一つであることを志向した。それがこの国での<多数決>である。まかりまちがって、権力すなわち利害が乱立した時は、象徴天皇という切り札がとってある。この<玉>の名のもとに、権力が一極に集中されてきたのである。戦後は民主主義が実に都合の良い隠れ蓑となった。しかし邪魔になれば、その背後にある全体への意志、専制権力への意志が露骨に顔をのぞかせる。国益が全てであり、それに反するならばもはや隠れ蓑はいらない。憲法であろうとなんであろうと、かせとなるものはすべてとり除く。それをエジプトのように軍のクーデターではなく、民主的選挙で出来るのだから、これほどありがたいことはない。民主主義万歳! 

2013年6月28日(金)
KDPマニュアル本

 近頃KDP(キンドル・ダイレクト・パブリッシング)で電子書籍を出す機会がありましたので、その際、結局キンドル本で5冊も買うハメになった、KDPのマニュアル本についてコメントしてみます。

1、「アマゾンで売る!一番簡単な電子書籍の作り方」(川村康宏)
 一番簡単といっても、AozoraEpub3という青空文庫用のソフトで、縦書きファイルを作るということですので、ひとまず横書きで簡単にという人には、後回し。Sigilについても解説されていますので、こちらが私としてはメイン。大まかに知ったところで、次の電子本へ。著者は地方のジャーナリストで、信頼できる本です。

2、「電子書籍を個人出版しよう sigilで作ってkindleストアにアップする方法」(伊藤純)
 Sigilに特化したkindle本作成のマニュアルです。そもそもsigil自体の使用法は英文で書かれていて読むのに疲れるので、その点助かります。英語表示を日本語表示にするのでさえ、そのやり方をやっとインターネットで探り当てました。以下の手順です。
 メニューEdit→Preferences(環境設定)→(左側)Languageクリック→User Interface Language とDefault Language for Metaeditor の両方を「Japanese」に設定→sigil再起動
 どのマニュアルも細かな点では疑問が生じますので、インターネットや他の電子本で調べるほかはありません。epubファイルの閲覧は、Firefox の epubreaderになっていますが、google readium で十分でした。

3.「Kindle 電子出版マニュアル 0円で電子出版できる本」(朝倉鉄也)
 次にマニュアルの名に引かれて買いました。いちいち断らなくても、ここで紹介するkdpでの出版は、すべてパソコンさえあれば0円でできます。この本では、wordやgoogle driveなども紹介されていますが、sigilと決めたら浮気は禁物。それでなくても頭が混乱してきます。表紙の作り方がサンプルで説明されていますが、paintではろくなものが作れませんでした(スキルの違いか)。この本では、KDPで出版する場合のノウハウが詳しくて役立ちます。特に税務篇は必読です(商売気のある方向き)。

4、「最新2013年調査 Kindle自己出版」(蓮見あつき)
 この本は先ず出版ノウハウから入っていますので、上の本の補い、比較として役立ちます。編集はsigilが中心です。最新とあるとどうしても買ってみたくなります。著者の意気込みが伝わってきます。自己出版という言葉、流行るでしょうか。

5、「KDPの全て」(佐藤貴明)
 筆者が買った最新の本はこれです。全てと言われると、やはり買いたくなります。著者にとっての全てが、事柄のすべてとは限りませんが、これまで挙げた電子本の総まとめとして、充実した内容を持っています。後は自分で出すだけ、というところへまでこぎつけました。

以上の電子本は、それなりの知識と文章力を持った方々が書かれているので、kdpの文章の質を見るにもよいでしょう。

2013年6月8日(土)
現実存在の不幸

 心は閉ざされた世界である。それ自体として絶対でありうるはずなのに、そこに自足することができないでいるのはなぜか。心は同時に現実存在でもあるからだ。あるいは、現実存在に根を張り、現実存在を志向するものでもあるからだ。真に実在するもの、真の Wirklichkeit は、生への意志である。この現実存在に目覚めた自我は、あるいは現実存在の中に投げ出された自我は、ひたすら現実存在に向かうほかはないのだ。
 生への意志、世界意志は時間・空間において現実界として発現する。この表象形式において、自我は自己自身を見い出す。自我は徹頭徹尾、外へ向かう志向性 Intentionalitaet としてこの世界に身をおくのである。自我は先ず、外的身体としてのおのれを見い出す。その身体の内部での、欲求であり、情念であり、意志であるおのれを見い出すのである。すでに、おのれの生への意志が、身体として客観視されている。この自己を対象化することこそが、自我の現実存在なのであり、同時に表象界における世界意志のあり方なのである。
 世界意志の Objektitaet (対象態)と化した自我は、世界意志のあらゆる欲望、衝動を、自己の身体において引き受ける。そこから、時間・空間において個別化した意志どうしの、生存のための争いや協働やを、すなわち類の宿命をも引き受けねばならない。身体は個であると同時に類である。食欲も性欲も、個の欲求であると同時に、類の絶対命令である。食欲のために他の類を犠牲にし、類の存続のために性欲の命じるところに従う。この意味で、対象態としての自我は、世界意志そのものであり、その苦悩と快楽、悲惨と栄光とを、この現実界において身をもって味わうのである。それが自己意識における現実存在 Dasein, Existenz の正体である。
 知的生命体としての人間は、時空の表象形式をもっとも有効に活用する存在である。あるいは、時空の認識に、もっともよく適応できた生命体であると言ってよい。とりわけ、時間表象への適応において、他の動物とは比較にならない発展を遂げた。それによって初めて文化・文明が可能になったのである。空間表象においては、人間に勝る動物はいくらもいるであろう。しかし歴史を持つ動物は人間だけである。
 動物は現実存在の不幸を、この現在において解決する他はない。今空腹を満たさなければ、明日は死ぬのである。時間はすべて自然がめんどうを見てくれる。その自然がくるう時は、動物が滅びる時である。人間は過去と未来の表象を広げることによって、自然を乗り越えることができるようになった。過去から前例を学び、未来を想定することにより、時間における生存可能性をはるかに高めたのである。しかしそれによって肥大した欲望により、人間どうしの間の生存競争は、激しさを増すことになる。
 時間的空間的に拡大された人間の欲望は、新たな不幸を生み出す。生への意志は無限の欲求であり、存在への際限のない衝動であるから、それの広がるところには、新たな喜びと、新たな苦悩が生まれるのである。喜びは一時的であり、苦悩は必然である。時間における無限の連鎖が、永遠の喜びを許さないからである。勝者も敗者も、究極においてともに苦しむのが、この世界の現象的本質である。この不幸をどのように克服できるであろうか。
 
内面へ向かう意志 (次回)

2013年5月31日(金)
kdp自己出版事情(3)

 あまり期待せずに、kdpで出版してみましたが、思ったよりも電子書籍での自己出版は意味のないものであることが分かりました。売れているのは、kdp関連のマニュアル本だけという現状のようです。その原因について。
1、今現在の電子書籍の市場が、あまりに小さいこと。Amazonのkindle本の市場も、大型書店の数店舗と言われています。
これは将来の市場拡大に期待する他はないことです。閑散とした大型書店の非効率性に較べると、はるかに将来のある市場です。
2、電子本を主に読むのは、若者層と思われますが、電子本の決済手段が限られていること。Amazonでは、クレジットカードと、ギフト券などですが、若者はたいていクレジットなどは持っていないし、コンビニで買うギフト券もそう安くはない。その結果、無料本ならどっとダウンロードされるが、有料になったとたんに売れなくなるということのようです。単にケチなのではなく、決済手段の問題でもあるでしょう。
3.個人での宣伝、販促には限りがあること。人気のないブログやホームページでは、まるで宣伝効果はないこと。kdpセレクトは試していないので、何ともいえないが、少しは違うかもしれません。結局、内輪のサークルが頼りということになり、それを超えるのは難しいでしょう。この点では、自費出版の本とそう違わないようです。金がかからないのだけが取り柄です。
4.出版界全体に閑古鳥が鳴いていること。これはマンガやアニメに力を入れすぎた業界の、自業自得ということでしょうか。活字本が売れないから、安易にマンガやアニメにはしる。その結果、若者の識字力が落ちて、まともな本が読めない。その影響をもろに受けたのが純文学などの、教養を必要とする書物です。そもそも教養という言葉自体が、業界の死語となっています。反撥と侮蔑の対象となっているのです。NHKの百分で名著でなければ、古典が読めないのです。
5.電子書籍の業界も、基本的には紙の書籍の業界と同じであること。実用書以外のまじめな本は売れない、このことを基本にkdpを利用すべきなのです。
 それではkdpでまじめな本を出すことの意義について。過度な商売っ気がある限り無意味です。
1、デスクトップなどのパソコンではなく、Kindleやandroidの端末で、目に負担をかけず、楽に読めること。
2、自分が書いたり訳したりしたものは、おのれが一番の読者であるから、私家本としてkindleに置いておける。
3、紙に書いたものは、パソコンに保存したものでさえも(パソコンが故障したときは蒼ざめました)、いつかは滅びる。比較的安全に保存できる場所の一つとして、kdpを使う。だから、紙のままの小説などは、本にする当てがなくても、とりあえずkindleへと、保管しておいてもよいでしょう。ブログやホームページよりは骨が折れますが、安定度をかって。
4、とは言っても、まったく読まれない、売れないのは気を滅入らせる。ホームペジでさえそうなのですから。あまり気が滅入るようなら、撤退した方が精神健康に良い。
 とにかくあれこれと欲を張りめぐらせないで、足るを知ることが肝心。文学などというものに遊べるだけで、よしとすべし。

2013年5月18日(土)
KDP自己出版事情(2)

 電子書籍というものを生まれて初めて出してみました(最近可能になった出版方法ですから、たいていの人にとっては、初めてがあたりまえですが)。作り方、出し方が分からないなりに、準備・実行に数ヶ月をかけて、四苦八苦の末になんとか一冊がKindle本の末尾に加わるようになりました。タイトルは「見えない王国・フォルクマン=レアンダー童話集」です。失敗や、勘違いをまじえて、これから出そうという人のために、その過程をまとめてみます。
1、何を出すか。無名の作者が、曲がりなりにも有料の本を出して、少しでも売ろうとするのですから、条件は二つです。(1):実用的な本。(2):著名な人にあやかる。このホームページの性質上、著名な外国作家の翻訳、と決めました。これではつまらないということになれば、(3):利益に関わりなく、とにかく自分の本を出す、ことになります。
2、テキストは、Sigil を使って、epub に変換。Sigilの使い方が、ネット上で調べたり、当の電子本を買って調べたりで、これを使いこなすのにかなり骨折りました。特に改行が一行開くので、つめるのに手間がかかる。ライト・ノヴェルならそのままでしょうが。
3、epubテキストを、Google クロームのreadiumに取り込んで、出来ばえをみる。これは何度でも別ファイルとして取り込めるので、校正の参考には便利である。
4、表紙の作成。epub作成までは、玄人でも素人でも、さしてちがいなかろうが、表紙などというものは、たいていの人は絵さえ書いたことがないであろうから、ここで素人の限界につきあたる。Paintなどという粗末なもので、四苦八苦してお粗末な表紙をでっち上げる。これは最初に小さく作ったものを送ったら、小さいままにKindle本に掲げられてしまったので、慌てて1000×1600ピクセルの、大きなカンヴァスのままに作り直して、再送したらうまくゆきました。
5、epubテキストと表紙をKDPに送る。ここで大事なのは、プレヴューをしっかりやるということでしょう。出版しないで、いったん保存すればよかったのですが、とにかく出版してからと気がせいて、後からkindle previewerを インストールしたものの、これがうんともすんとも起動しないのです。出版前に全体をプレヴューで読んでおくべきでした。
6、KDPからの検討の返信が2通来ました。最初は、うかつにも著者の欄に、翻訳者名だけを記入したので、著者名が書かれていないということでした。それを訂正してから、次に来たのは、その著者及び訳者の権利関係に関する報告の要請でした。まず原作がpublic domainの作品であることを述べ、その初版の年と、それを裏づけるサイトのURLを記述しました。さらに、各作品ごとの作者及び翻訳者の名前と死亡年月日,
およびそれを裏づけるURLを記入しました(当然のこと訳者は死亡していませんが)。こうした事は、電子書籍の自己出版では、出版者が自ら配慮すべきことなのでしょう。
7,出版後。とにかく要請どおりの報告をした後、無事に出版されました(表紙の件は上に書いた通りでしたが)。著者セントラルやアフィリエイトは検討中です。宣伝力のない素人では、何をやっても、販売にはあまり影響なさそうですので。古典の翻訳は、長く置いておくことができるので、それだけが強みです。

2013年5月10日(金)
KDP自己出版事情(1)

 インターネットの世界の出版事情の移り変わりは早い。インターネット以前には、大金を投じての自費出版以外なかったものが、ホームページやブログで自由に発表できるようになり、すこし手間をかければオンディマンドでの出版も可能であった。この段階までは、もちろん利益とは無関係であり、オンディマンドでもアマチュアの場合はその点同じである。アマチュアをも対象にした、電子ブックの市場が生まれてから、事情は少しずつ変わっている。もちろん、それでもってすぐさま商売になると言うわけではない。なにしろ、これまで商品市場があまりにもマイナーであったし、そこでさらにマイナーなアマチュアがどうできると言うわけでもない。
 この社会で縛られずに、自由に生きたいと思う人間は、たいてい若い頃もの書きや翻訳者を目指したりする。99%は挫折するであろう。万馬券を当てようとするようなものである。ギャンブルや投資で生きようとする人も、十中八九はどん底に落ちる。つまり小説家や文芸翻訳家で食おうとするのは、きわめて成功率の低いギャンブルなのである。あくまでも文芸にこだわる人は、フリーターの道を選ぶほかはないのだ。
 Amazonというインターネットの世界での巨大市場が、KDP(Kindle Direct Publishing)というアマチュアでも無料で出版できる電子ブックの市場を開放したことは、これまでの事情を大きく変えるかもしれない。その前にAmazonの戦略について考えておきたい。まるで売れないかもしれないアマチュアの作品を、手間暇をかけて無料で出版してくれるには、それなりのメリットがなければならない。その第一は、もちろん端末のkindleおよびアプリの販売普及の促進である。第二に、自分の作品をKDPで出せば、Amazonの他の電子書籍をも頻繁に買うようになる。この相乗効果だけでも、十分に見合うであろう。これが解れば、Amazonという巨人からタダで出してもらうことに引け目を感じることはない。いわば、Amazonという企業に購買者としても協力しているわけである。そしてもし、出版した電子書籍がいくらかでも売れるならば、30〜65%はAmazonに差し引かれる。
 このように、電子ブックの巨大市場がアマチュアにも解放されたことで、どのような見通しが開けるであろうか。一つには、電子ブックそのものの、出版市場に占める割合に関わってくる。今後は電子ブックの時代であり、紙の本はすたれると言うのが筆者の見通しである。紙の本は、オンディマンドなどで、特別に執着をもつ人だけに買われるようになるであろう。読書好きの人の嘆きは、集めた厖大な書籍を見わたして、一体どう処分したらよいかを考える憂鬱さである。その救済手段が、電子化であることは言うまでもない。
 第一の点は、将来の趨勢として間違いないであろう。そして第二の点は、電子ブックの市場開放によって、これまでのプロとアマチュアの区別が曖昧になってくること、あるいはまったく存在しなくなることである。現在でも、プロとアマチュアの差は、単に実力や文章力の差ではない。作家または翻訳者の、出版企業との関係が大きくものを言うのである。時勢との関係における幸運や宣伝力が、プロ作家を育てるのである。電子書籍では、アマチュアも同人誌やブログなどの仲間内のサークルではなく、少なくともプロと同じ土俵に立てるのである。もちろん、電子書籍企業も売らなくては商売にならないので、宣伝ではプロ作家を優遇するであろう。しかし幕下の取り組みに興味を持つ人もいるのである。
 電子書籍の世界では、基本的にプロとはそれでもって食っていける人、アマチュアは食えない人という区別になるであろう。これはまったくギャンブルや投資の世界と同じである。しかしギャンブルや投資と違って、偶然や確率に頼るのではなく、おのれの能力や才覚がすべてである。それをこれまでの作家や著述家のように、出版企業だのみにしないところが、電子書籍の世界のライターの生き残り戦略である。
 もちろんプロであることを目指さない、アマチュアを楽しむことも電子書籍の世界では可能である。KDPなどでは、ブログやホームページなどとは比較にならないほどアクセスがあるかもしれない。それならば無料で良いということにもなるが、基本的にKDPでは初めから無料にできない。とにかく気楽に出版できるのも、電子書籍の強みである。生涯アマチュア作家であった、カフカやH・P・ラヴクラフトの例を出すのはおこがましいが、アマチュアであることを楽しめる時代が来たのである。
  *    *    *
 筆者はこれまでに何回か出版社にもちこみをやって失敗していますが、その結果嫌気がさして、ホームページを作り、自由気ままな作品を載せてきました。そのうちいくらかでも市場価値のありそうなものを選んで、KDPに参加してみようと思います。主に翻訳ですが、そのために自由に読めなくなる作品が出ることを、これまで読まれてきた方に感謝しつつ謝りたいと思います。KDPの規約には、以下のような条項があります。

競合他社との価格整合性
申請者の書籍は無料プロモーションの一環として他の販売チャネルを通して入手可能となることがあります。本プログラムを通じて提供される電子書籍について、別の販売チャネルでの同じ書籍の無料販売促進と同等の販売促進をすることが重要です。それゆえ、申請者の電子書籍が他の販売チャネルにおいて無料で提供されるとしたら、当社も、無料で提供することができます。当社が他所での電子書籍の無料プロモーションとマッチさせた場合、その販売促進期間中の申請者のロイヤリティはゼロになります。(70%ロイヤリティオプションと異なり、当社がゼロ以上の価格の電子書籍とマッチさせた場合、申請者のロイヤリティの計算方法は上記Cに記載されたものから変更されません。)>(ロイヤリティ35%のケース)

 要するに、ホームページで無料で公開している限り、KDPでの販売価格も無料となるということなのでしょうか。あるいは、KDPセレクト(ロイヤリティ70%)で出すのでなければ、販売チャネルではない当ホームページでは、掲載が自由なのか、その辺は今のところ不明です。 

2013年5月6日(月)
人生とは何か―調和の幻想

 人生について、切実に考える存在は、人間以外にはないであろう。あらゆる不協和音に満ちた人間世界において、日々が衝突と、争いの連続である。その中でやはり幸福を求めることをやまない生命の楽天性が、自己自身に逆流することによって、悲哀や、絶望や、諦めや、さらには暴力的な行為へと、人を駆り立てるのである。幸福とは、単に自己と他との、あるいは自己と自然との調和を求めているにすぎないのであるのに、それすらがこの世界では実現不可能な、<調和の幻想>なのである。
 美しい協奏曲が心の中で鳴り響いていながら、これをこの世のどこに求めることのできない、絶望感と疲労が、せめて思索の世界に慰めをもとめるのが、人間に与えられた唯一の逃げ道である。不調和の原因は、私の中にあるのであろうか、他者の中にあるのであろうか。私の中にあるのだとすれば、私は気がつかずに他者を傷つけていたり、世間や世界に対して無知であったりするからなのであろう。
 今、人間関係にしぼって、このことを考えてみよう。私は頑固者である。たぶん、人は多かれ少なかれ頑固なのであろう。それは、個体保存の本能に基づいた、生命にとっての必要な防禦なのである。しかし、度を越すとそれは破滅につながる。ことあるごとに他者と衝突し、世間や社会に不満を抱くことになる。自己自身の性向や要求を、一方的に他者との関係において実現しようとする、いわゆる利己主義である。他者において自己を実現することだけを考える、そうした意識無意識の利己主義は、初めから破綻を運命づけられている。なぜなら、すべての人間が、多かれ少なかれ、頑固者であり、利己主義者であるからだ。
 このことに、私は青年期の挫折以来、よく気づいていながら、今に到るまで改めることができない。たぶん、たいていの人間もそうであろう。意識無意識に、私は私の立場からしかものを考えていないのだ。その結果、人生は人間関係や、社会関係においては、挫折の連続でしかなくなる。そして、その人生において私の得たものは、孤独における私自身の充足と、調和の幻想への願いだけなのである。私が私を棄てない限りは、調和は不可能であることが分かっている以上、私は幻想の世界にのがれるほかはない。
 では、他者に原因があるとしたらどうだろうか。最初の他者である両親が、自我の他者にたいする基本的関係を決定するといってよいだろう。人生における挫折の根本を考えるとき、たいていの人が両親にたどりつくのはそのためである。その両親の影響から抜け出すことが、青年期の社会関係のほぼすべてであるといってよい。一方ではネガティヴな態度をとりながら、他方ではポジティヴな対人関係に向かおうとする、この矛盾が人生を決定するのである。人はこの関係から、一生抜け出すことはできないであろう。そこに、どんなに<和解>が生じたとしてもである。
 何故に両親が、個人の人生にそれほど決定的な影響力を持つのだろうか。一つには、動物界の類比で考えれば解りやすい。ヒナや幼獣にとって、親の存在は自己自身の存在にとって生死を決定する。人間の子も、基本的には同じである。全面的に親に依存することによってのみ、おのれの生命を確保できるのである。そして、この関係が、一生を通じて、あらゆる人間関係の、意識的無意識的な理想なのである。二つには、この理想の関係は、幼児が成長するとともに、次第に、もしくはにわかに崩れてゆく。親もまた、基本的にはエゴイストなのであり、子ばかりでなく、自己自身を保たなければならないのである。そこに、全面的依存と、全面的充足を求める子と、子から距離を置き始める親との間に、心理的ギャップが生じ、特に子供の側に、楽園喪失の思いを抱かせるのである。
 人間関係の理想が、すでに幼児期に形成されたものであるならば、それは非常に特殊な関係であり、決して人間社会全般において求めることのできないものである。ここに、フロイト的に言えば、人間社会のノイローゼ的な様相の原因があるのである。しかし、ここでは個人の人生のノイローゼ的様相に話をしぼる。すでにうしなわれた楽園である、全面的依存と、全面的付与による、自己自身の生存の充足が、絶えず欲求不満として、個人間の人間関係につきまとっている。だれもが同じものを求めているのに、それを自分だけが独占することを、人生の窮極の目的とする以上、そこには幸福ではなく、争いと、挫折が待つばかりである。そして、そこに和解や公平が生じたとしても、それは理想ですらなく、単なる妥協であり、譲歩であるに過ぎない。そこには窮極の調和は存在していないのである。
 窮極の調和とは、与えるものと与えられるものとが、全面的究極的に一致することである。その実現はこの世界では、幼児の一時期をのぞいては絶対に不可能なのであり、宗教的、神話的に言い表わされるほかはない。<神の無限の愛>のほかにはそれを実現する道はないのである。しかし、それもまた一つの<調和の幻想>である。誰も神になれるものはいないし、人は与えるよりも、与えられることを、はるかに強く望むのであるから。
 親もまた結局、子に与えるよりも、子から与えられることを強く望むのである。この関係ほど、子にとって鬱陶しいものはないのである。与え、与えられる関係がうまくいくならば、たしかにこの世界ではまずまずの人間関係の基本が作れるであろう。しかし、たいていはどちらかに偏るために、親子関係は、基本的に不幸の源なのである。その不幸を背負いながら、たいていの人間は、自己自身の人間関係、社会関係を築いていくのである。あるいはそれを築くことに失敗するのである。そして、むしろ失敗する人間が多いからこそ、調和を探求する宗教や、理想や、道徳や、倫理が、あらゆる社会にはびこるのである。
 確かに何らかの形での調和の理想、調和の幻想を抱くことなしには、この人生を生きていくことは困難であろう。私もまた、孤独の中にそれを探求している。いかに親しい間柄でも、窮極の理解は不可能であることを知れば、誰もが兼好法師の心境になるであろう。思いもよらない、考えや感じ方のすれ違いが、争いや憎しみやをうむ、人間関係の根本であることを知れば、だれもがそれを修復する努力に疲れるであろう。そして、その徒労のはてに、兼好の言葉をしみじみと味わうであろう。

 「つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるるかたなく、ただ独りあるのみこそよけれ。世にしたがへば、心外(ほか)の塵に奪はれて惑ひ易く、人に交はれば、言葉よその聞きに随ひて、さながら心にあらず。」 <徒然草75段>
 

2013年2月22日(金)
自我と他我

 自我が無根拠の存在であり、自己意識以外にはなんら具体的な内容を持っていないことはたびたび述べた。そればかりか、自我にとっての他我は単なる観念であり、なんら直接的実在性を持っていないことについても述べた。「そのような自我に一体どんな価値があるのか」とだれもが反論するであろう。
   *     *      *
 「自我とは身体であり、あなたの自我はあなたの身体の中にあり、あなたの身体と同一であり、私の自我は私の身体の中にあり、私の身体と同一である。あなたの自我が特別である理由はどこにもありません。さらに言えば、自我とは脳の働き以外の何ものでもなく、身体=脳が滅びれば跡形もなく消えてしまうものです。脳を離れた自我などは空論であり、そんな空虚な自我などに何の意味や価値があるのですか」
 「物理的、生理的に自我を探究すれば、そのとおりだよ。個々の自我に区別などはない。また深い眠りや、麻酔状態では、君の言うとおり自我どころか意識も存在していない。少なくともその生理的記憶がない。しかしこんなふうに自然科学的にとらえたら、形而上学は成立しない。自然科学とは全く方法が違うのだ」
 「最も信頼できる知識である自然科学の教えることを、あなたは否定するのですか」
 「科学を否定するのではなく、科学以外の方法もあるということだよ」
 「それは昔からの迷信とどこが違うのですか。肉体を離れて、霊魂や魂が存在するとでもいうのですか。それは人間の虚しい願望です。この世界や肉体を離れて自我が存在しうるなどと考えるのは、同じ虚しいあなたの願望に過ぎないではないですか」
 「願望が哲学の動機であるというのは大いにありうるね。ad hoc な議論になってしまうのは大いに注意しなければならない。しかし願望や希望がなければ、哲学どころかあらゆるいとなみも虚しくはないか。その意味で真理の探求もまたエロスのなせるしわざか」
 「あなたの自我がそんなに大事なのですか。私は人類全体のいとなみに価値をおきます」
 「世界意志とその世界の展開も大いに興味のある対象だが、私にとっての最大の謎は自我なのだよ。君も子供の頃に、家族がるすの時に、ふと自分以外にこの世に存在しないのではないかと不安になったそうではないか」
 「その不安は科学的知識によって克服しました。宇宙人が地球にやってきてなどはいないことと同様に」
 「自我意識は科学知識とは別物なのだ。宇宙人が地球上にいないことは科学的に証明できても、私の自我の存在根拠を、科学によって説明することはできないのだ。私の身体が親から生まれたことは確かだが、私が私として存在している理由を親から説明することはできないし、身体そのものから説明することもできない。私は私の情念そのものでもないし、私の考えですらない。その意味では私は私である以外には無内容な存在である」
 「だから、そんな存在に何の価値があるのですか」
 「価値というのは相対的なもので、関係的なものです。あるものと別のものを比較して、こちらのほうが良いとか悪いとか、そうした比較が価値を決めているのです。あらゆる比較や関係を超えて存在している自我は、その意味で没価値です」
 「価値がないことに違いはないでしょう。だから無意味ではないですか」
 「私は絶対的超越的自我に、この世界からの救済をかけているのです」
 「だったらさっさとあの世へ行ったらいいではないですか」
 「自我には死はないんです。絶対者ですから。あなたが死んでも私は死にません」
 「全く同情のない人間ですね」
 「私が世界意志としてふるまう時には、あなたも私も同等の自我として、共感の中に生きています。しかし絶対者としての私は唯一者ですから、その時あなたは私にとっての現象に過ぎないのです。ある夢の中で、亡霊たちがテーブルを囲んでいました。私は彼ら、彼女らに向かって宣告しました。あなたたちは私の夢の中にいるのだと。彼らの愕然とした表情は見ものでした」
 「まるで神様ですね」
 「古代のインド人はアートマンと名づけて、創造神ブラフマーと同一としました。私はアートマンを探究しているのです」
 「アートマンは万人に宿っているはずですが」
 「そうなると自我一般のような概念になってしまうので、そうは考えません。その点では独我論です」
 「それならこの世に何一つ恐れるものはないなずなのに、なぜ車が来たらよけるのですか」
 「身体としての役目をはたしているのです。それが自我の定めですから」
 「ご愁傷様。なるべく早くあの世へいらしてください」

2012年12月1日(土)
形而上学の根拠

 20世紀哲学の中で最も影の薄いのは、アリストテレスに始まる伝統的哲学部門である形而上学(meta ta physika)であろう。21世紀に入ってポストモダンなどというものが風靡すると、その不人気はなおさらである。ニーチェもまたあらゆるシステム(哲学体系)に対する不信によってその師を裏切っている。現代哲学の形而上学に対する宣告は、ウィットゲンシュタインの<言い表わせないものについては沈黙する他はない>という言葉に代表されるであろう。哲学はひたすら分析し、諸科学の方法を考えていればよいのである。ポストモダンもまたひたすら日常的テーマの分析に向かう。それによって哲学は通俗化し、大衆化したものの。
 あらゆる学が学問であるためには、それのよって立つ根拠がなければならない。かつて形而上学は理性の学問であったから、基本的には論理学と等しいものであった。実在の根拠を思考の法則である論理学によって探究しようとしたのである。それはアリストテレスの伝統的論理学であろうと、ヘーゲルの弁証法であろうと変わりはない。一言で言うと概念の操作である。その限りにおいて、例えばこの世界が存在しなくても、概念体系としては成立してしまう。その点ではこの世界の次元を超えて思索する数学と似ているかもしれない。また概念そのものを実在化することによって、この世界の実在性を奪ってしまうことになる。プラトンやアリストテレスにとって概念が唯一の真実在なのである。思考の法則のトリックによって、世界のあり方が逆転してしまうのである。
 このような形而上学が19世紀の実証主義の発展いらい不信にさらされてきたことは当然の成り行きである。誰もヘーゲルにならって太陽系の惑星は7個でなければならないと論証する気にはならないであろう。形而上学のよって立つ根拠が思惟であるかぎりは、それを正当に用いるかぎりはこの世界の実在の上に立った慎ましやかな世界観にとどまるか、それを不当に用いるならば空論に陥るほかはない。形而上学がその名のとおりPhysik(自然科学)のあとに来るものであるならば、単なる論理がその根拠であってはならないだろう。形而上学の方法は論理学でも数学でもないはずである。相対性原理や量子力学は形而上学ではなく、人間の思考が自然に対して窮極に推し進めていった探究である。その思考の及ばない先に形而上学は始まらねばならない。
 アリストテレス以来の形而上学は主として世界の本質(essentia)を探究してきた。何であるか(Washeit)と言うことが主たる関心であった。場合によっては、それが実在するかどうかの問題は二の次であった。キマエラの本質については、それが何であるかについていくらでも論じることはできる。唯一実在の概念だけは当てはまらないのである。単に実在(existentia)の概念を付け加えただけではその実在を証明したことにはならない。神の存在論的証明もカントが論破したようにこれと同類である。世界の本質について論じる前に、まずもって真に実在するものは何かを確定しておかねばならない。真に実在するものとは、それが概念でない以上は現実に存在するもの、その現実存在(exiistentia)が疑いえないものである。それは唯一cogitoであることはデカルトが発見したところである。しかし私が考えるということから帰結されるのは、単なる思惟ではなく、考える<私>である。私=魂=(属性)思惟といった実体化によって私は存在しているのではない。私の実在根拠は思惟ですらないのである。私が私であるという意識、自己意識が私の現実存在の根拠である。この自己意識によって初めてexistentiaが与えられるのである。思惟は私の属性(attribute)ですらなく、事情によっていくらでも失われうる偶有性(accidentia)である
。動物は自己意識を持たずに思惟する。人もまた時として無意識の思惟を行う。そのかぎりでは動物も人も個としての現実存在を持っていないのである。世界の中での自己自身の位置を確認すること、それが現実存在であり、実在の意味である。その唯一の根拠が自己意識(Selbstbewusstsein)である。
 我々は通常実在を外界の意味に取る。外界及びその最も身近なあり方である身体の存在について、デカルトが思考実験したようにいくらでも疑うことができる。しかし身体の中でも最も深く自我と結びついている意志や意欲を否定することは困難であり、思惟すらそれなしにはなしえないのである。私は私自身の内部にうごめくものによって私以外の何ものかの存在を認めるほかはない。そのものの本質をショペンハウアーにならって世界意志 Weltwille と名づけよう。私の意志や意欲や情念が世界意志の発現であるように、身体も外界も同じく世界意志の発現であるとしよう。それらは世界意志そのものではなく、世界意志の現象であり、私にとっての表象である。世界意志そのものが何であるか、その本質そのもの(Wesen an sich)については、それはカントの言う物自体にあたり知ることはできない。しかし私の身体における意志や意欲と本質を等しくする何らかの存在への衝動であろうことは推測される。宇宙における唯一絶対の力なのである。私はこの絶大な力のつくりだした世界の中で私自身に目覚めた現実存在である。私が現実であるのと同等の現実性をこの表象界に与えてよいであろう。しかし私が世界意志に対して付与した現実性と私の現実存在とは別のものである。私は世界意志に関与する限りにおいて、私の現実性を世界意志に与えるのであり、さもなければ私は永遠に囚われた存在として救済の望みを失わねばならない。釈迦の教えは虚偽であったのだろうか。
 イデア界に関してはどうか。プラトンのイデアについては二通りの解釈がなされている。一つは実体的な解釈であり、イデアは単なる抽象観念ではなく、具体的にこの世界に(影として)反映されている(洞窟の比喩)。イデア界にはこの世界のモデルがあり、あらゆる個物は不完全ながらモデルであるイデアを<分有>している。今ひとつは単に概念の関係における、一般観念と個の観念の包摂関係である。個の観念を離れた一般観念は存在しないという観点からは、実体的存在としてのイデアは否定される。後者は認識論的観点であり、ここでは前者の形而上学的観点にしぼる。人間や高等動物が思惟する存在であることは疑いない。具体的観念によって反応する低次の思惟から、抽象観念(一般観念)による高次の思惟まで、思惟は観念によって行われることもまた疑いない。観念とはなんであるか。低次の本能的思惟においては、それは信号(シグナル)と同一である。神経細胞における何らかの刺激が、次の刺激を生みだす連鎖において、反応が生じる。この反応過程は大抵は無意識である。この信号が記号(サイン)となり観念(idea, Vorstellung)となる時、本来の思惟が生まれる。思惟は観念間の比較、結合、分離によってなされる。観念はその起源において、ヒュームによれば単純もしくは単一の観念にさかのぼれる。さらにその単純観念は起源において単純な印象(impression)にさかのぼることができる。ロックやヒュームによれば、これらの印象や観念はもとより認識者の心に生まれつきそなわっているわけではない。tabula rasa としての心に<経験>を通じて刻みこまれるのである。単一な印象や観念は基本的には具体的な個物である。もしイデア界がこの世界に反映しているならば、まずもって個物に現われていなければならないであろう。一個の消しゴムは、その白い色彩と、四角い形体との単純印象に分解できる。それ自体は思惟ではないが、となりにある黄色い色彩の四角い消しゴムと比較した時、類似のものであるという判断が生じるには、既に四角い形という概念があたえられていなければならない。もしその判断が先天的に生じるならば、その概念は経験を契機にものから与えられたか、または認識者の中に生まれつきそなわっていたかのどちらかである。前者はプラトンの考え(想起説)であり、後者はカントの先験的認識論につながる。単純なものの中にも既に概念が反映されており、思惟とは単にそれを読み取ることだけであるという考えは、基本的に自然科学の考えに近い。ただ自然科学では帰納法という手続きを取るのであるが、プラトンではそれを直観的になしうるとするのである。かりに単純なものの中に既に概念が反映されているものとして、その概念を認識者がとらえうるためには何らかの条件が必要である。概念的に思惟しうるということがなければ、いかにイデアが反映されていようともそれを把握することはできないであろう。すなわちイデアは認識者の能力においても同時に反映されていなければならない。人間の思惟自体もまたイデアを<分有>しているのである。
 イデア界の影はものと人とを問わず、この世界のあらゆるものに浸透し、包みこんでいるといえよう。イデア界の本質は概念であるが、その認識における機能を哲学の伝統に従って理性と呼んでよいであろう。世界意志は理性を伴侶とし、その認識のまなことし、創造のモデルとし、そして世界の具体化のために超越的自我を個体の原理としてこの世界に呼びこんだのである。超越的自我は、先験的自我としてイデア界と結びつき、自己意識に到達することによってこの世界を照らし出す鏡となる。先験的自我はイデアを分有する限りにおいて、世界意志のつくりだした世界を、理性のまなこによって解き明かすことができる。基本的に先験的自我の認識は、プラトンの言うように、<想起>なのである。世界の中にあって、既におのれの中にあるものが相互に一致することによって、認識者は世界を認識しうるのである。思惟とは観念間に区別を立てることであるが、その働き自体はイデア界ではなく、意志の領域に属している。認識への意欲、思惟のエネルギーもまた、この世界の唯一の力である世界意志から流れてくるのである。理性はそれ自体では無力であり、世界を動かす力も、ましてや生み出す力も備わっていない。いわばそれに向かって軌道のしかれた理念であるに過ぎない。太陽系を動かしているのがニュートンの法則ではなく、万有引力という一種の力であるのと同様である。思惟もまたそれ自体では力を持っていないばかりか、端的にいって意志の道具であるに過ぎない。

 ここでデカルトの著名な命題について再度考察しておく。cogito ergo sum (I think, therefore I am.) について、皮肉屋のアンブローズ・ビアースはI think that I think,therefore I think that I am.とつけ加えている(Devil's Dictionary,Cogito cogito ergo cogito sum.)。thinkが二重に使われているが、これは単なる皮肉以上に意味深い批判でもある。思惟の存在と私の存在とがデカルトにおいては曖昧である。I thinkとは何がどうするの主語・述語関係であり、I amとは何がある・ないの主語・述語関係である。前者には何ら存在の意味は含まれていないのである。存在の意味を含ませるためにはさらに I think が必要である(I think that I am a thinking being.)。I think から私が考える存在であると言う属性を引き出すことはできる。逆はどうであろうか。I am から存在以外の属性を引き出すことができるであろうか。そもそも存在は私の属性なのであるか。存在とは私そのものではないのか。そうであるならばそこからは私は私であるというtautology以外は引き出せない(Ich bin der ich bin.)。そこには私が私であると言う自己意識以外に何ものも言表されてはいない。その自己意識こそが思惟であるとしないかぎりは、デカルトの命題は成立しない。はたして自己意識は思惟であるか。もし思惟であるならば私の存在そのものも思惟でなければならない。しかし私の意識の特異性は、それについての思惟が不可能であるということにある。私が存在していることは不可解であり、いかなる思惟によっても解決できない。まさに私の存在は思惟を超えた絶対の事実なのである。私の存在こそが私のあらゆる思惟の活動を支えているのである。sum ergo cogito とデカルトの命題を逆転しても良いであろう。私の意識、私の現実存在 existence こそがあらゆる思惟、あらゆる存在の唯一絶対の根拠なのである。そして私自身はなんら根拠を持っていない。なぜなら私が窮極の根拠なのであるから。私自身は無根拠 Ungrund そのものである。それゆえに自由である。そこに救済の原理がある。

2012年11月14日(水)
希望について

 希望ー希望ー希望とはなんであろうか。私は時にこの言葉を口ずさまねば、生への意欲をかき立てることができなくなる。それは本望なのであろうか。救済は悲哀でも苦痛でもないはずなのだが。単に気持ちが落ちこむだけでは、この世界からの解脱はおぼつかない。救済は希望なのである。それ以外に真の意味の希望はないのである。
 Hoffnung, hope, espoir いずれの言葉もある胸の広がりを覚えさせる。ある空間的・時間的広がりの感覚をこれらの言葉は与える。本来世界意志は時間と空間をおのれのものとした時、絶大なる希望にとらわれたことであろう。ポオの表現によれば、宇宙の創造者は可能な限り広大な空間と、可能な限り無限の時間とのなかで、自己自身であるところの世界を生み出したのであった。この創造の行為自体は盲目の衝動によって担われているのであるが、それにはそれにふさわしい空間と時間が必要だったのである。この盲目の希望が認識者の中で観念化される時、時間的空間的な自己の拡張への欲求として意識されるのである。いわば希望とは観念化され、理想化された生への意志である。その意味では希望は生への意志そのものの克服ではないとはいえ、その理想化を進めることによるある種の昇華であるとはいえる。
 私が悪にかられている時には、それは単なる欲望である。単なる欲望はもちろん本来悪でも善でもない。それは世界意志の本質であるかぎりは善悪を超越している。しかしあえて希望以外の欲望を悪と呼ぼう。希望は自己の解放への願いであり、より高い自己への欲求である。それは生活のささやかな精神的向上であってもよい。それを考えるだけで、胸の広がる思いがすれば、それが希望である。希望は観念化され、理想化された欲求であるから、必ずしもそれが未来において実現するとはかぎらない。むしろ実現しないままに、いわば天上の星のように人生を導く理念にとどまることが多いであろう。単なる企てや計画であるなら、それは努力と実践によって実現を遂げる可能性は高い。それは矢が的に向かうように、既に立てられた目標に到達することである。目標や目的はたしかにそれら自身観念であるが、それらに向かう意欲自体は必ずしも観念化されているわけではない。むしろ生への意志は観念を道具として、目的的にその欲するところを果たすのである。
 生への意志を観念化し、理想化するためには、その欲望の実現が極めて困難であるか、不可能に近い目的が与えられねばならない。むしろ理不尽なくらいの願いへと生への意志を導かねばならない。<あの月を取ってくれろとなく子かな>―一茶の真意とは離れるが、希望とはまさにそのようなものであるかもしれない。

2012年10月6日(土)
人はなぜ苦しむのか(その2)

 自我は意志と強力に結びついている。これは疑いない事実である。私の憤り、悲しみ、苦痛、よろこび、こういった情念や情動は私を嵐のように巻き込み、あたかも一体の存在であるかのように私を手放さない。果たして私は意志そのものではないのか。それ以外の私などは存在すると言えるのか。そこには意志に手なずけられ、意志のままに喜怒哀楽をほしいままにする私がいる。しかしかつては私はそうした私を恥じていた。どんなに感動的な情念であっても、それに押し流されていく私に、私は強烈な羞恥を覚えた。まして怒りや劣悪な感情にとらわれる私をさげすんでいた。私は少なくとも私の感動をおのれ自身の中に封じこめることを覚えた。そうすることによって感情や情念によって征服されている私を他人の目から隠すことができた。
 私は何ゆえに私自身の意志の働きに、それほどの羞恥を覚えたのであるか。それは私の弱さであることを自覚していたからである。感動であれ情念であれ、何らかの圧倒的な力に<全身全霊>とりこまれてしまうことを、私は弱さと感じたのである。しかしそれは私の<生命>の中心であったことに間違いはない。そうした感動や強烈な情念なしには、人生というものを想像することができなかった。すべての生命は多かれ少なかれ、そうしたエネルギーによって導かれており、人もまた例外ではなく、観念や理想以前に、情念によって突き動かされている。それにも拘らず、私の中にはそれに抵抗するある力が働いていた。それは意志によって突き動かされる私を、他者の前にさらすまいとする抑制の力である。羞恥とは他者の目でおのれを見ることによって、おのれの弱さを自覚することである。他者の目を意識しない時には、私は時に抑え難いほどの情念の湧出に身を任せることもあろう。世界意志の波打つまにまに、私の自我は文字どおりに<われを忘れて>激情に身を任せるであろう。
 この他者の目でおのれを見るということ、同時におのれ自身に対しておのれを恥じるということ、これが反省的自我の始まりである。その発端は単に他人の評判や評価を気にするということ、または道徳や倫理やフロイトのいう超自我であってよい。審判者の目で意志に向かうということが肝要なのである。苦しんでいるおのれ、激情にかられているおのれ、快楽にふけっている私、そうした私自身をもう一人の私が冷静に眺めている。この第二の私を哲学は理性と呼んでいる。この第二の私は理性そのものではないが、理性によって目覚めた私自身である。ここでは意志から切り離された知性を理性と呼ぶことにする。その意味では理性は第二の自我によって可能になる。自我が知性を杖にして自ら立つ時、理性が生じるのである。しかし理性はそれ自体では無力である。理性によって情念を導こうというデカルトのもくろみは、机上の空論である。意志の発現の形式でもある自我が意志を内面へと導くことができなければ、理性は力とはなり得ない。意志こそがこの世界での唯一の力なのであるから。
 この世界が意志・イデア(理性)・自我の三一体であるように、この世界からの救済もまた三一体において行われねばならない。世界は三者ともに発現し、三者ともに超越界に帰還する。第二の自我の発見によって、世界は内側へといわば裏返しの収縮を遂げていく。あたかもリヴァースされた映像のように、世界はビッグバンの起源へと収縮してゆき、消滅する。苦集滅道のニルヴァーナである。これへの唯一の契機が反省的自我なのである。私が私であることが、この世界の唯一の救済への希望である。
 私が私であるということは、私が純粋に私と向き合うことによってしか意識されえない。それはもはや他者によって見られた私ではなく、身体としての私でもなく、情念としての私でもなく、知性としての私でもなく、言ってみればもはや<考える私>ではないのである。ロダンでもパスカルでもデカルトでもない。cogitoとしての私を超越した私がそこにある。私であるほかはない私がそこにある。ヤーヴェと同じくIch bin der ich bin としか言いようのない私がそこにある。それはもはや苦でも快でもないであろう。単に存在することですべてが充足された絶対者としての私がそこにある。私の還るべき世界がそこにある。そこまでの道のりがいかに遠かろうと。それは単に時間的遠さではなく(明日私は死ぬかもしれない)、私の戦う相手がこの世界そのものだからである。

2012年9月17日(月)
人はなぜ苦しむのか(その1)

 今日からnewねころぐとなりましたが、内容は相変わらずの管理人の独白です。単にホームページの整理の都合です。というわけで、今日もプライベートな日記風の思索になります。<秋風や、まく人のなき種集め>
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 この世界の本質が、存在=生命への盲目の衝動である世界意志であることは、ショ-ペンハウアーの形而上学に依拠して、何度も説いたところである。この世界意志はIndividuation(個別化)によって、個の存在の中に内在し、個体的生命として発現していることも述べた。しかし個としての存在=生命もまた世界意志そのものであり、その全体性・超越性を失ってはいない。我々自身が暴戻なる宇宙意志そのものである。宇宙意志の本体は、仏教で言う渇望=愛=貪そのものであり、ドイツ語のBegehren、Begierdeが響きにおいて最もよくこの存在への渇望を表わしている。世界意志の存在への衝動(Drang)が盲目(blind)であるということは、ショ-ペンハウアーの意味するところでは、erkenntnislosと同義であるから、認識を持たないと考えればよい。これは仏教の無明=癡愚にあたる。意志そのものは存在への闇雲な衝動である。これがこの世界のあらゆる苦の根源である。世界意志は認識を獲得することによって、初めておのれが創りだした世界を見渡すことが可能になるのである。ペルセウスが訪ねた三姉妹のように、認識という目玉を交換し合うことによって、世界意志は世界を知るのである。
 現実的存在への闇雲な衝動は、また個としての人間の本質である。世界意志はおのれの全体性、無限性、絶対性によって突き動かされた力であるから、その個における表れにおいても、その欲望は無際限であり、絶対的である。しかしそれが個という制約を与えられることによって、その本来無際限であるはずの欲望はせきとめられ、抵抗に会い、敵を持つことになる。この個における世界意志の欲望のゆがみが、個体のあらゆる苦痛・苦悩を生み出すのである。世界意志そのものの生成・発現は、本来苦である必要はない。苦であるとも快であるとも言うことはできないであろう。ニーチェの言う無垢なる生成がそこに行われるのであるかもしれない。
 しかし世界意志がその発現においてIndividuationという形式を取ったことが、この世界を地獄の相にしているのである。個と化した世界意志どうしが争い合い、食らい合い、征服し合い、宇宙意志が自らを寂滅に到らせるまでは、果てしない闘争と苦の世界を展開するのである。このような現実世界の有様を見て、認識者である限り絶望にかられないものは少ないであろう。それにも拘らず、生命の無限の力はそうした精神的絶望をも押し流してしまう。ドストエフスキーが言うように、人間はどのような絶望的、悲惨な状況にあっても、やはり生きようとする意欲を失っていないのである。これは基本的に動物においても同じであるかもしれない。だからこそ、最後の瞬間において生への意志(少なくともその意識を)を麻痺させる脳内麻薬物質が分泌されるのである。
 生への意志の基本的な楽天主義はどこから生まれるのであるか。生自体は絶対的な存在の肯定であって、それ以外に本質はないのである。それを否定することは自己矛盾である。生自体においてはそれはなし得ない。苦は逆に生への意志を高める契機とさえなる。闘争と苦こそがまさに生への意志にふさわしいあり方なのである。生命界いたるところに見られる、生存競争、残虐への嗜好、征服欲、一言で言って、<力への意志>がまさに個体的世界意志の本質なのである。
 この<力への意志>は、個体の生存能力を高めるばかりではない、<全体への意志>と結び付くことによって、種の持続能力をも高めるのである。力のヒエラルヒーによって、征服された個は、より上位の個に服従する。下位の個は上位の個と自己を一体化することによって、より大きな力にあずかろうとする。一見平和の原理のようであるが、<全体への意志>は無限の欲望であるから、次々に他の個を攻撃し、征服することをやめない。個人は集団に、国家に、おのれの存在を託し、それらの力にあずかろうとし、個の意志を集めた国家は他の国家を攻撃し、征服しようとする。かりに人類が一つの国家にまとまったとしても、次には征服者として宇宙に乗り出すであろう。宇宙において同じ争いを繰り返すことであろう。
 <全体への意志>への服従は一見個の意志の滅却であり、苦の克服であるかのように錯覚されるが、実は拡大された生への意志であり、個体が個体自身のコントロールを失うことによって、さらに暴戻な力となりかねないのである。中国・日本・韓国の針小棒大な領土争いに、このことが明瞭に見てとれるであろう。個は全体への意志に呑みこまれることによって、個としての自覚も、個としての自律性も失い、無責任な残虐暴戻な本能そのものとなる。まさに<愛国無罪>なのである。この言葉が当てはまるのは中国ばかりではないであろう。
 世界苦の真の克服は、生への意志そのものによってはなしえない。この現実世界は世界意志とイデア界と超越的自我との三一体(Dreieinigkeit, trinity)の発現であるとはすでに述べた。イデア界についてはひとまずおき、自我と世界苦からの救済についてここで再度考察する。力への意志、全体への意志は身体的、動物的自我の拡大として意識される。もし全体主義や、国家主義に何らかの精神性が見られるとしても、それは後からの付け加えであって、本能的恐怖や、貪欲や、怒りや妬みや劣等感がその根本であることは疑いない。ここでの自我は、全く力への意志の傀儡であり、奴隷であるに過ぎない。単に認識の道具としての、盲目的自我である。自我自身の超越性への拡大ではなく、他の集団的自我への帰属、服従によって、自己の権力欲を膨張させようとするものである。その結果として、力への集団的陶酔は生まれても、自我の本来の姿である独立独行(self-reliance)は影も形もなくなる。意識的認識(自覚)が救済へのきっかけであるとするならば、集団的陶酔はそれを押し流して、もとの盲目的本能に人間を退化させる。しかしこの自覚がいかに難しいものであるかは、仏教の通俗化などを例に出すまでもなく、誰でも知っている。前にも述べたように、人間は90%動物なのであるから。
  自我が自己認識によっておのれの超越的本質に目覚めるためには、おのれ自身に向かう孤独な思索が要求される。これの外的、内的契機として、孤立や疎外や、心身的苦痛や苦悩が、挫折した意志のエネルギーを内面へと注ぎこみ、それによって私が私であるという絶対の意識に立ち返らせる。これ以外に意志と立ち向かう私のよりどころは存在しないのである。青少年期に初めてこの意識に目覚めるとき、不可思議なもどかしさと同時に、おのれが存在することの純粋な喜びがおのずとわいてくる。この体験は人生のあらゆる艱難の中でも決して失われることはないであろう。これは単なる自我の探究の発端に過ぎないのであるとしても。私はただ私にのみ帰属する、これが独立的自我の出発点である。