newねころぐ(2)

  
 マリネンコ文学の城TOPへ
 雑録より
 雑録より2
 ねころぐ(過去ログ)
 newねころぐ(1)

Contents:人格の多重性について/意志の不自由について/意志と情緒/蔵書一代/<志さない>人生・その2/<志さない>人生/書物の魔力/本の自炊事情/エゴロギア/愛について/おのれを空しくすること/人間社会という環境/脳と自我/観念人について/動物人について(2)/動物人について(1)



2016年6月22日(水)
人格の多重性について

 意志の自由についての論議において、意識的判断および決断としての人間の意志には自由はなく、それらの過程はすべて脳内において無意識の活動として、意識活動に先行するということが、脳科学において明らかにされたことを述べた。そこから人格に関して重要な結論が引き出されてくる。人の人格は行為において初めて明らかにされるものであり、その点に関して人格的行為とは意識的でなければならないという前提がある。あらゆる人格論がそのように考えてきた。自己の行為を意識的にコントロールできることが、その人の人格を決定するのであると。しかしながら、行為の判断や決断が無意識のプロセスによってなされているのならば、その当事者としての人格そのものも無意識的でなければならない。意識的人格などというものは結果から見た後づけにすぎず、そのようにして発見された自己にすぎないのである。
 人格はその発生において無意識的であり、無意識界に根を張って意識界へと発現してくる自我のありかたである。言い換えれば、自我すなわち自己意識とは、意識という特権を与えられた人格なのである。しかし意識的人格ではあっても、その根源は無意識界にあり、何かを自由に、すなわち意識的に、自律的に判断したり、決断したりできるわけではない。そうした過程はすべて無意識に行われているのである。それならば、意識にはなんの存在意義があるのであるか。すべてが無意識であっても何も変わらないのではないか。その点を考えるには、意識的人格の構造を明らかにしなければならない。
 人格は根本的に無意識であってよい。その意味での人格は、個としての生命体の活動の、中枢神経系における何らかの統合の働きと定義してよいであろう。このように一般化するならば、大抵の動物にはpersonalityがあるといえる。さらに言えば、植物を含めた個としての生命体にはすべてpersonalityが備わっているといえよう。それらは本来は単一であるはずである。そうした生命体における人格の働きは、一つには感覚情報の統一的処理にある。これを感覚情報系と名づけておく。これは個体と環境、または個体と他の個体との間の感覚器官を通じた交渉であり、大抵の生命体においては無意識になされる過程である。いま一つは、いまだproblematicではあるが、生命体同士の無意識界における交渉である。これに関しては、人間の人格の多重性から考察するのが早道であろう。
 人間の人格は、生命体共通の感覚情報系を、無意識と意識との両面において処理していることが、きわだった特徴である。本来無意識であった感覚情報の処理を、意識のレベルにおいてモニターしていること、すなわちフィードバックの過程に意識を伴わせたことが、非常に効果的に生存に有利な条件を作ったのだといえよう。いわば意識はアラーム・システムである。蚯蚓は敵に襲われれば単に暴れまわるだけであろう。しかし人間は苦痛という心理的、肉体的意識によって、より効果的に危険を回避する。普通に言う人格は、この感覚=意識情報系を体現した個人である。感覚=意識情報系を備えた人格でなければ、生命界はもちろん、社会においても圧倒的に不利である。夢遊病者ではこの世界を生き延びていくことはできない。
 しかしこの意識の優位は、他方、生命界でのある種の不利をもたらしている。いわゆる本能と称される、生命界通有の無意識情報系からの離反である。感覚=意識情報系に基づく意識的人格も、その根は無意識界に発しているが、そのベクトルの方向はもっぱら外界に向かっている。あたかも意識そのものが人格であるかのような錯覚におちいるのも、この外界志向性による。ここで人格の今ひとつの要素、第三の要素を考察しておかねばならない。それは合理性、または思考についてである。
 思考が必ずしも意識を必要としないことは、類人猿の研究から明らかになっている。チンパンジーの子供は、同じ年齢の人間の子供と同程度か、それ以上の思考力を発揮する。その判断力はとても意識では追いつかないほどである。生命界での思考は基本的に無意識に行われるといってよかろう。かつて論理実証主義などは思考と言語とを同一視して、言語を持たない動物には思考がないかのような印象を与えたが、まったくの誤りであった(言語は思考にある種の影響を与えるに過ぎないというのが心理学の帰結である)。思考が人間の魂の属性であるとしたデカルトなどの哲学説も、意識至上主義に立つものである。生命界での無意識的思考は、それが必ずしも効率的であるとは言えないものの、基本的に合理的であるといえる。人間だけが意識によって合理的に思惟するわけではなかろう。人間が合理的に思惟し、推論するのは、もともと生命体に合理的機能が備わっているからである。
 これだけのことを前提にして、次のことが言えよう。無意識的人格も思考する。いやむしろ、意識的人格においても、その思考の大部分は無意識になされている。無意識界は思考するシステムなのである。このことによって、人間の意識的働きが単なる結果であって、少しも自由な判断や、決断に関与していないことの根拠が明らかになる。意識には自由はない。しかし無意識と意識との連合からなる、いわゆる意識的人格、すなわち自我の独自性はそれによって失われるわけではない。意識=自我は少なくとも人間において、世界と対峙する主要な窓であり、個体を代表しているのである。それが表の人格(front personality)である。この表の人格の強力な自己主張によって、人間社会は成立し、文明の発達が可能になったのである。
 他面、表の人格というペルソナの陰に、絶えず見え隠れしているのが無意識界にうずもれた影の人格(shadow personality)である。人格の発生期において、一つの強力な自我が形成されることによって、他の可能的人格は無意識界に後退をよぎなくされる。表の人格は唯我独尊であり、他の人格の意識界への昇格を許さない。この徹底した専制こそが、意識を安定させるのである。意識界への闘争に敗れ去った影の人格は、しかし冥界の王のように無意識界のある領域を支配する。そこから時に意識界の人格への干渉を試みもするのである。表の人格も、個体の主権者として、意識界と、無意識界の広範囲を支配している。というよりも、元来人格は無意識界から発生するのであり、無意識界で最も強力な部分が意識の領域を独占するのである。しかしその関心は主として、感覚情報系によって得られた外界の対象に向けられており、内界に対しては比較的無関心である。生命がもつもう一つの情報系である、無意識内でのネットワークシステムに関しては、ほとんど無力であるといってよい。このことを具体例で示そう。
 意識が頼りにする感覚情報系は生命の大多数の必要を満たすものの、不完全であり、場合によってはまったく役にたたない。その良い例が確率的事象である。単にコインの表と裏のような二分の一の確率ですら、意識的思考は途方にくれてしまう。気象学が降水確率50%と予報した場合、傘を持って出るかどうかはギャンブルにひとしい。空模様や、あらゆる感覚的徴候に照らして判断したところで、決して確信にいたることはない。結局降らないだろうと予測しても、<万一を考えて>傘を持っていくことになる。一日降らなければ、無駄なものを携えたことに腹が立ち、降ればやはりよかったと思う。あるいはその日にかぎって天気予報を見過ごし、傘を持たなかったので、雨に降られて難儀するような場合、自分のうかつさを責め、一日<悪運>につかれた気持になるだろう。かつて天気予報は占いの領域であった。占いが信用を失ったのは天気予報が当らないからであった。
 動物界では見られないのに、人間だけがギャンブルや占いにうつつを抜かすのはなぜであろうか。さらにそれらと関連して、運命や宿命といった観念が人間を支配しているのはなぜであろうか。それらが本来無意識界と関連している事象だからである。
無意識界は純粋に確率的な事象は、確率的に対処する。それが唯一合理的対処法だからである。蟹は数万匹の子を産むが、無事に育つのはわずか数匹であるという。この世界が反粒子の世界でないのは、宇宙創生に当って反粒子の数がほんの数粒少なかったからだという。神は確率的に宇宙を作ったが、ギャンブルはしなかったろう。ギャンブルや占いをするのは、人間が意識的に確率的事象を克服しようとするからである。意識では対処できないものを、意識に従わせようとする傲慢さが、意識の本質である。しかし敗北によって、卑屈になった意識は、思うままにならない事象の背後に、何らかの隠れた力や情報を求めようとする。それは意識が忘れ去った無意識界の外界への投影であるといってよい。占いは本来無意識界と向き合う一つの仕方であるが、それを運命や宿命といった観念もしくは神格化によって、間接的に表現したのである。そして、ある場合には有効であった。
 これらのことを前提として、無意識的人格の本質と機能とを推論することができよう。無意識的人格が存在することは、多重人格者の存在によって明らかである。人格が本来無意識的であり、そこから意識的人格も発生するのであってみれば、無意識的人格はより本質的である。感覚情報系はすべて無意識に処理され、意識に達することはない。たいていの生命体はその状態にある。無意識的人格の特徴は、しかしその点にはない。あらゆる人格は、感覚情報系の処理機能を多かれ少なかれ持っていると見てよかろう。無意識的人格の強みは、意識的人格がほとんど失っている、無意識の情報系、あえて言えば、集合無意識ネットワークによる情報系を支配していることである。意識ではとらえられない情報を、無意識的人格は無意識界のネットワークによって得ているのである。俗に言うテレパシーとはこの無意識界のネットワークにほかならない。
 この仮説は、生命界の多くのことを理解しやすくする。生命進化は無意識的におこなわれているのであるかぎり、環境とはこの無意識界のネットワークとみなすことができる。種や個体生命間の絶妙な適応が無理なく理解できるであろう。人間社会においては、事情はより複雑である。唯我独尊的な意識的人格が支配することによって、無意識的人格はいわば冥土に押しやられている。しかしその力を常に恐れているのである。無意識界は二つに分裂する。崇めるべきものと、恐れるべきものと。神と悪魔と。善と悪と。意識は個であり、無意識は全体であり、集合である。その全体であるもの、集合であるものに、個としての意識的人格が対峙する時に、全体としての無意識界は神として、また悪魔としての人格を現わすのである。しかし無意識界は神でも悪魔でもない。それは猿や犬の中に悪魔も神も宿っていないのと同様である。無意識界は自然そのものなのだ。それは意識がとらえる自然ではないけれども。生命としての全体性、集合性を具現した自然である。そこから現われる無意識の人格は、個ではなく、種や類のために機能しているであろう。それ故に個にとっては、その作用は宿命とも運命ともなりうるのである。エディプスを導いた無意識の人格は、宿命となって彼を滅ぼしたが、その教訓は人類の糧となったのである。
 一個の人間は多元的な人格からなっている。その根源は無意識界にあり、生命界、自然界にある。人間のあらゆる困難は、意識的人格の発生によって生じた。自然の上に立とうとする意識的人格は、無意識界を足下に踏みしめて、この世界を独占的に支配しようと試みている。しかし大地を支配するのは無意識的人格である。それと闘うためには、ヘラクレスのように敵を大地にふれさせないようにするほかはない。しかし人間自身大地の子なのだ。その力を大地自体から借りている。そこに人間存在の解決し難い矛盾がある。

2016年3月3日(木)
意志の不自由について
意志という用語は誤解を招きやすいので、最初に定義しておく。普通の意味で、意識的に判断する能力としてよいであろう。判断とは、何らかの選択の働きであって、思考であれ、行動であれ、意識を伴って決定ないし決断することであるとしてよいであろう。つまり意志とは判断する能力のことであり、判断力と同一であるとしてよかろう。この意味での意志に関して、その行使が個人の行為において根本的に自由であるのか、あるいは何らかの原因ないし根拠によって決定されたものであるのか、それが哲学的な意味での意志の自由をめぐる議論である。
 西洋において、科学的思考が主流を占めるにつれて、この議論は決定論が優位に立つ。科学者はもちろんのこと、デカルトから発する唯物論や汎神論においても、人間には自由意志はないものとされる。スピノザの比喩を借りれば、投げられた小石は、もし意識があるならば自身が自由に空中を飛んでいると思っているだろうが、その飛跡は厳密に重力の法則によって縛られているのである。、
 現代では相対性理論や量子力学によって、因果律が厳密には成立しないことが分かっている。時間・空間は相対的であって、観察者それぞれの運動する立場によって異なってくる。また原子や量子の世界では、その空間と時間を一義的に決定することが不可能であり、いわゆる<ゆらぎ>が生じている。こうした因果律の概念の訂正にもかかわらず、やはりマクロの世界においては古典的決定論は成立していると見てよい。特に脳科学が、その補強をしているようである。
 最新の脳科学が明らかにしたところでは、人間が意識的に決断する前に、既に脳内でその準備がなされているという。そして実際の行為がなされる前に、すでに脳内でその指令が発せられているのである。つまり、意識は脳の無意識的作用よりも、つねにタイムラッグがあるということである。意識は判断もしくは決断のあとづけなのである。意志をあくまでも意識の伴う働きと考えるかぎり、そこにはなんら自由はない。すでに脳内でそう判断すべく決定されているのであるから。無意識の作用まで意志に加えるならば、なおさらのこと自由意志などはないのである。
 有名なブリダンのロバという決定論の譬えがある。渇きと飢えと同等な量だけ与えられたロバがいるとする。そのロバの前に水の入った桶と飼葉の入った桶とを、並べて置いてみる。するとこの哀れなロバは、自身の行動を決定する同じだけの原動力を与えられているので、水を呑むことも飼葉を食べることもできず、凝固したまま死んでしまうというのである。これはいわゆる意志のジレンマであり、人間も頻繁に経験することである。我々が決断する時、常におのれの内部に耳傾けている自身を見い出すであろう。何らかの情動、意欲、感情などの声に耳を傾けつつ、われわれは判断し、行動しているのである。純粋な思考ですら、それが正しいか、正しくないか、内面の声に耳を傾けていることがある。真理は美しくなければ不快だという、アインシュタインのケースもそうであろう。
 そうした意識・無意識の情動、意欲、感情が、意志の決断や判断においては、つねに動機(Motiv)となって存在している。さらに環境の影響がそれらの動機を修正したり、支配したりする。そうした原因を形成する複雑な要素を、脳が意識・無意識に処理して判断や行動が決定されるのである。かりに単純化された哀れなロバであっても、そこには脳の化学反応におけるゆらぎが生じて、決して飢え死にや、渇き死にすることはないのである。
 人間の意志的判断や行動に自由はないのに、なぜそこに自由の意識が生じるのであるか。それは意志の問題ではなく、意識の問題である。意識が脳の前頭葉の産物であることから、脳の機能のなかで特別の位置を占めていることに原因があるかもしれない。意識は基本的にモニターの役を果たしており、監視者としての優越感を持っているのである。それだけなら他の動物にも言えるであろうが、人間の意識はさらにフィードバックの機能が発達して、本来の意識である高度な自意識に到達しているのである。自己自身を意識する意識を持つことによって、意識は特別の世界を獲得する。自意識はそれ自体として無原因であり、無根拠である。おのれがどこから来たのか、どこへ行くのか、そして何ものであるのか、意識自体によっては知ることができない。それは不可解であると同時に、絶対的に自足した状態でもある。この純粋自我の絶対性が、意志の決断や行為に反映されることによって、あたかも意志そのものが自由であるかのような錯覚を生むのである。純粋自我は無根拠である点において、決定論から免れているが、判断でも行為でもない点において、もはや議論そのものとも無関係である。言ってみれば超越者である。
 意志に対して意識ははせいぜいそのフィードバックの機能において、判断や行為を修正したり、撤回したりする、上位判断の立場において、下位に対して<自由>であるといえるに過ぎない。それは相対的な自由であり、上述のように様々な原因やモチーフによって根拠づけられており、やはり事物の因果的連鎖を免れることは出来ない。そればかりか、結局そうした身体に関わる意識は意志の道具に過ぎないのであり、意志に奉仕する点において動物のレベルを出でないのである。
 *    *     *

 個人の意志的行為や判断に関する哲学的な自由の議論においては、ほぼ決定論が確かであると思われるが、社会的・政治的レベルにおける自由論は、全く次元の異なった議論である。この次元での議論を混同して、哲学的問題とすることが、また意志の本質的不自由に関する誤認を招くのである。社会的・政治的自由とは、おのれの意志の傾向を他からの強制や拘束なしに、思うままに発揮する権利のことである。この権利は人間界でのみ通用するのであり、すなわち人間社会や政治機構と切り離せない。人間社会はこの意味での自由を制限することによって初めて成り立っている。法律、規則、習慣などは、こうした自由を制限する社会規範として現われる。さらにそれらの規範を道徳や倫理として精神化し、物心両面から人間的自由を圧迫するのである。
 それでは社会的に現われる人間的自由の本質とは何であるか。環境や条件の許すかぎり、おのれの意欲や意志を思うままに発揮し、充足させること、それが人間及び動物に与えられた最大限の<意志の自由>である。ここでは意志と意識、肉体と精神とは一体化している。社会においておのれが欲するままに行為すること、その実現の可能性を最大限にもたらすこと、場合によっては意志及び意欲に対してあらゆる抑制を取り払うこと、それが社会的・政治的な自由の要求である。
 あらゆる人間がエゴイストとしておのれの意志の自由を要求するならば、ホッブスをひもとくまでもなく、人間社会は争いの巷である。幸いどんなエゴイストでも、おのれに不利なことは望まない。ある程度平和におのれの欲望を遂げたいのである。それがネガティヴな意志となって、<社会契約>を生みだすわけである。しかしそれはあくまでも他者の欲望をある程度尊重するということであって、それをないがしろにする自由までも否定するものではない。社会的規則、法律、倫理などを破る自由もまた人間に具わっている。むしろそうした自由がなければ、真の自由ではないのである。言ってみれば、悪をなす権利もまた、人間的自由に属するのである。それによって社会的制裁を蒙ったとしても、それは自由の結果として予測されたことであり、それは自由がそもそも人間社会において危険な行為であることを思い知らされることである。
 個人の意志は一方で個体保存の欲求、他方で種の保存の本能によって牛耳られている。個の欲求と見なされるものも、じつは種の保存の本能から派生したり、そのためのものであったりする。食欲や性の快楽は個のものか、種のものか、たいていは区別がつかない。おのれの自由な行為と思うものが、じつは種の保存や<全体への意志>によって操られているということもしばしばである。確信したエゴイストでなければ、意志の自由は非常にもろいものである。スピノザの小石のように、全体への意志に呑みこまれながら、喜喜として自由であると思い込んでしまうのが、大衆にとっての自由である。それは<自由からの逃避>ではなく、ある種の意志の自由なのである。しかも盲目的な自由である。この世界の本質が盲目的な意志であり、意志自体としては絶対に自由なのであるから、すなわちこの世界は盲目的世界意志の自由な創造物なのであるから、究極のところ政治的自由といえども、世界意志の圧倒的な力の前には無力であり、全体への意志が人間の自由を支配するのである。  
2015年7月19日(日)
意志と情緒

 呼んでいるのは 嵐だろうか争ひだろうか
 鷲だろうか 意志だろうか
 よわよわと呼んでいる
                  ――立原道造

 人間のタイプには二種類ある。意志型と情緒型である。意志は意欲と激情とに彩られている。活動と生命と、闘いと交渉と、策略と陰謀と、要するに現実が要求するすべてのことに対応する根本の欲求である。自然的意志は動物界、植物界を問わず、生命界全般にわたる根源的意志であるが、人間の場合はさらに社会的、政治的意志へと分岐してゆく。このタイプの人間は、事実・現実がすべてであり、生活のための営みはもちろんのこと、経済活動、政治的活動、社会的意識のほかにはなんらの関心も興味も抱かない。<意志的人間>は徹頭徹尾、世界意志の命ずるままに生きている。
 これに対して、情緒型の人間は、事実や現実に嫌悪を抱く。情緒は何と世界意志とは異なった、穏やかな、平和な状態を希求して止まないことだろう。事実や現実はたちまちにして忘れ去られる。現実に触れることによって、情緒はけがされる。これは誰もが、絵画や音楽の鑑賞において知るところである。リアリズムは、真の<情緒的人間>にとって邪道であり、唾棄すべきものである。抒情こそがすべてである。
 このように二つのタイプを並べてみたが、実はこの相反する傾向はすべての人間に多かれ少なかれ、具わっているのである。ヒトラーも政治的人間である前には画家であったし、毛沢東も詩作し、暴君ネロも音楽愛好者であった。血なまぐさい戦闘をおえたアキレウスが、琴などを奏でているのは、日本の戦国武将が能楽に魅せられたのと共通する。不快な現実と、平和な情緒の世界。この分裂が人間社会では極端である。
 存在への無限の衝動である世界意志の発現したこの世界では、地獄の様相の中に自ずと救済の萌芽が内包されている。さもなければ、世界は永遠の地獄であり、釈迦もキリストも迷妄に生きたことになる。救済は争いや激情の中にではなく、平和と理想の希求の中にある。その希求が青空のようにとらえどころなく、到達し難いものであるとしても。
 そこへと導くものは、穏やかな意志とでもいった<情緒>なのである。これは世界を変えようとか、世の中で成功しようとかの、いわゆる野心や志などではない。まさにinteresselosな(利害関心のない)穏やかな心情の波立ちなのである。ここにストア派の言う心の平静(アタラクシア)が生まれてくる。子供の頃、夕月や宵の明星を眺めていると、不思議に心が鎮まっていったものである。大人になって失った、そうした純粋な情緒の働きを、とりもどすことができないものだろうか。
 <意志>の向かうものが権力や支配や、そのための富や知識であるとすれば、<情緒>の向かうものはそれらすべてを否定した、芸術であり、美であり、思索である。一人の人間の中にはこの二つの傾向があい拮抗して存在している。意志を無視すれば不安と、困窮と、疎外におちいる。情緒を拒否すれば、粗暴な、不満と挫折に満ちた人生が待っている。<意志的人間>は基本的に不幸である。この世界での究極の成功などありえないからである。そうした人生の決算において不幸であった人たちを、周囲においていくらでも見ることができるであろう。なにもシェイクスピアの戯曲を読むまでもないのである。
 <情緒>だけに生きる人間もまた不幸におちいりがちである。意志を無視することは生活を放棄することであるから、たいていは破滅が待っている。文学や詩や芸術に生きようとするならば、そもそも生きることをあきらめねばならない。ネルヴァルやポオやゴッホがその模範となる。情緒の向かう先にはまた救済への希求がある。純粋な宗教者は情緒を頼りにして意志の根本的滅却へと向かう。心の平静の先にあるものは、無もしくは空の境地である。そこではもはや情緒は梯子の役割を終えて、情緒すらが消滅してゆくであろう。しかし、そこはすでに形而上学の領域である。
 現実へ向かう意志から派生した意志である情緒は、現実と反対方向を向くことによって、本来の世界意志と衝突する。これが人間であることの基本的な悲劇の根源である。意志と情緒の間に引き裂かれた人間は、一種の精神分裂におちいっている。いわば人類は皆一種の狂人なのである。地上での生命進化の果ては、狂った知的生命を創りだすことであった。人類は人格の統合失調において、狂った文明を作りあげてきた。自らが狂っていることに気づかないことは、狂人の典型的な特徴である。普通に狂人と見なしているのは、実は逆にこの意志と情緒の分裂を、完遂することによって純粋化した人たちであるといえるかもしれない。意志そのもの=完全な動物であればこれほど楽なことはない。情緒そのもの、純粋な観念にのみ生きる人間であれば、この現実界などどうでもよい。むしろ狂人と称される人たちのほうがまともなのである。
 

2015年4月29日(水)
蔵書一代

 蔵書は一代限りということは、若い頃から分かっていても、なかなか抑制が利かない。それでも引越などを何度もしているうちに、昔の岩波文庫ではないが、百冊だけを残してあとは処分してしまいたい気がする。その百冊を選び出そうとしても、たちまち数百冊にふくれあがってしまい、お手上げである。あきらめて本の山に埋もれている他はない。これは自分の蔵書だけではない。
 身内の蔵書を整理するときにも、衣類や家具などのように簡単にはほうむれない。興味や関心がわいてきて、つい残してしまうのである。しかも蔵書にはその人の一生の思想や趣味がしみついている。それをゴミ捨て場に出すのは、よほどの思い切りがいる。かつては庭で燃やすことができたが、今は環境問題がうるさいので、紙一枚燃やすのも近所に気兼ねする。蔵書は自ら火葬にするのが一番よいと、若い頃から思っていたのであるが。
 物理的存在としての書物の価値は、それを所有し読む人の、思いや愛着の加わった付加価値に過ぎない。他人にとってはただの紙くずである。内容そのものに価値をおくなら、図書館で借り出して読めばよい。今ではたいていの本はそうしている。電子書籍の価値もそこにある。そこで蔵書の廃棄の仕方で最も抵抗の少ないものは、電子書籍として自炊することであるということになる。
 業者に売却するということもあるが、古本業者は基本的に屑屋と見てよい。廃鉄のような屑を集めて高く売る商売である。だから書物を屑としか見ていない。よほど良心的な専門店に、専門書を売るのでない限りは、業者は避けるべきだ。そもそも金銭としての価値に変えようとすること自体が、愛書家にとっては不快であろう。その場合は駄書に対する懲罰の意味もあるが、そんな手間をかけるなら捨てた方がよい。
 それにしても、ゴミ捨て場に司馬遼太郎全集などが無雑作に捨てられているのを見ると、書物の世界の無常を感じる。書物にもそれなりの葬儀が必要である。捨てるならカバーや表紙は剥がしておくべきだろう。白無垢の姿で、ゴミ処理場という墓場に送るべきだろう。知っている人の本や自分の書いた本ならなおさらである。自費出版したものの山のように残った在庫を見て、絶望感にとらわれない人はいないだろう。それを処分するにはある種の自虐的な非情さが必要である。そうした処分できずに死後まで残った身内の本を処分しながら、わが身を削るような苦行者の気分になる。
 若い頃読んだ本を手にしながら、ふと死後にはこれがただの紙くずになるということを思うと、なんともやりきれない気分になる。それが人間の所有欲の果てに待つ虚無なのである。誰かが読んでくれるという気休めなどは考えない方がよい。その書物はおのれが読んだからこそ価値があるのである。誰もおのれの愛着までは引き継がない。人にあげたところで、迷惑になるだけで、書物は少しも救われない。むしろおのれの思いをけがされさえするだろう。だから少年の頃のわたしは、死ぬ時にはおのれの愛蔵書とともに燃やされたいと願ったものである。
 いまはそこまで執着を引きずることはない。すべては無に帰する、この身体としてのわたしも、人類も、宇宙も、それらの行き着く究極には虚無が待っている。そう思うことによって、書物もわたしも成仏できるのである。そう思うことで、わたし自身の始末さえつけば、蔵書の始末などはどうにでもなるといえるのだ。所詮わたしの肉体が脱殻であるように、わたし亡き後の書物も脱殻である。せいぜい残された者の迷惑にならないように整理しておけばよいのである。   

2015年4月7日(火)
<志さない>人生・その2

 「いつものあなたらしい主張ですね。国に価値を置かないというのは、私も同感だけど、人類まで否定してしまうのはどうかしら。人類全体、地球に帰属するという意識は、必要ではないかしら。」
 「そもそも帰属するという意識そのものが間違いなのだ。国に帰属するとか、人類に帰属するとか、アイデンティティがどうのこうのという、そういうことを私は否定したいのだ」
 「また揚足取りをする。あなたが読めというから読んであげたのに、すぐ反論するからいやになるのよ。地球生命に属しているということまで否定できないでしょう。この宇宙でほかに生命が見つからない限り、地球を離れるのは無意味です。」
 「それはたとえであって、実際に火星人はいないだろうが、地球人であることに特別の意味はないということだ。まして日本国民においてをやだ。なにかに帰属することを希求したり、ありがたがっていることは、なんといっても人類の度し難い欠点だよ。国家、宗教、神、みなしかり。それらはもし必要ならば所有すべきものであって、従属したり、帰属したりするものではないということを私は言いたいのだ。君のおかげで、言い足りない点を補えばそうなる」
 「人間にはほかの生命と違って、理想というものがあります。単なる物質を離れて、歴史とか文化とかいうものがあるではないですか。そうしたものを尊重し、それに連なっているということは、価値のあることではないですか。それを帰属といっているのです。」
 「確かに一個の身体的人間は、そのものとしては弱い。生命の法則の中に取り込まれているから、その法則に従うほかはない。しかしそれを所有している私という存在まで、生命の法則に従属する必要があるだろうか。同じことは、社会や、国や、人類全体についても言える。いや、この宇宙そのものについても言える。私は私の身体を所有することによって、この宇宙と関与せざるを得ないが、ある意味でこの宇宙は私の身体の延長なのだ。その意味で私の所有物だ。実にやっかいな、扱いがたい所有物ではあるがね。」
 「いつものあなたの妄想です。妄想です。妄想です。」
 「そう何度もくり返さないでくれ。デカルトも妄想だというのかい。デカルトはこの世の中で唯一信じられる、確実な存在は、この考える私のほかにはないということを発見したのだ。それは唯一確実な事実だ」
 「確実なのは、科学的で、客観的な事実だけです。あなたの言うのは主観的な妄想です」
 「確かに普通事実というと、客観的に証明された事柄でなければならない。宇宙人が乗ったUFOなどはその証明がないから事実ではない。ではことばを替えて、データ(所与)とでも言おうか。意識の直接所与としての私の存在は、絶対に疑い得ないのだ。」
 「でも所詮意識ではないですか。意識は脳の産物であり、脳がなければ存在しないでしょう。身体の機能の中で、意識だけが特別であるわけがない。それならば、呼吸する肺が絶対の存在で、消化する胃もまた絶対の存在であってもいいわけでしょう。」
 「まいったね。私も自信を失いかけるよ。客観的方法がすべてだとは思わない。科学では探究できないこともあるだろうし。逃げ口上のようだが、私は意識の事実をもとにした形而上学を探究しているのだ。しかも単なる理論ではなく、実践的な形而上学をね」
 「またテレパシーとか、超能力とか言い出すんでしょう」
 「いや、究極においては神現象の本質を暴きたいと思っている。宗教はメルヘンであって、その背後にあるものを明るみに出したいのだ。もっとも相当に精神的危険を伴うがね」
 「それもまた妄想です。それよりも早く引越が出来るように、我が家の経済を何とかしてください。超能力でも何でも使って。」
 「それではギャンブルでもやろうか」
 「でてゆきます」
 「ちょっと待ちな。冗談だよ。」

2015年4月5日(日)
<志さない>人生

 今年の大河ドラマを見ていて気になるのは、登場人物がやたらと<こころざし>という言葉を口にすることだ。吉田松陰という前時代的思想の持ち主を中心としたドラマであるが、この頃やたらと維新の頃がもてはやされるのは、世の中がどこか全体主義的な過去へ回帰していくさきぶれのようでもあり、その右傾化の象徴的人物がこの松蔭であるらしい。松蔭の<志>というのは単純で、‘国を守る’の一言に尽きるであろう。これは今現在政権のトップに立つ人物がしきりに口にしていることである。NHKという準国営放送が、その中枢を政権に乗っ取られて、ソフト・ファシズムのおさき棒をかつがされているのである。
 NHKは過度に上品な(近頃はそう上品でもなくなったが)報道の自主規制と、政権順応体質が昔から変わっていないようだ。このドラマも暗に政権の意向を受けて、あるいは政権の意向をくみ取って、露骨な国家主義の人物を中心に仕立て上げたのであろう。松蔭の国家主義はもちろん天皇主義である。勝者の歴史である明治維新では、松蔭は維新の立役者としての偉人であり、彼を処刑する井伊直弼は社会の進歩を妨げる悪党として描かれる。徳川体制も、天皇制も、どちらもtotalismへの志向を持っているから、どちらが勝っても大した違いはなかったかもしれない。
 <こころざし>という言葉はそれ自体ではそう悪い言葉ではない。人はなにかの計画や企図を立てることによって、生活を整え、場合によっては人生に意味をあたえることが出来る。問題はこの言葉が、幕末の勤皇志士などによって使われたことによって、特殊なニュアンスを帯びることになったことだ。つまり、世の中や国家など、集団のために働く、モラル的な意味を持つようになったことだ。<少年よ、大志をいだけ>などは、いかにも日本的な訳し方である。自分のために、世の中でなりあがったり、金持ちになることは、大志の中に含まれていないのである。まして美的生活だとか、快楽主義などは、大志に含まれないであろう。
 <こころざし>に代わる良いことばはないものだろうか。特定のイデオロギーやモラルに奉仕するものではなく、人が生きるにあたって、希望を与え、生活に拠り所と活力を与える根本的なことばはないものだろうか。実存主義の企投などというのは、学者の一人よがりである。ことばがないというのは、そうした思想が一般ではないということである。
 子供の頃から、おのれの存在が人の存在によって成り立っているということに強い反撥を覚えたものである。確かに群や集団に向かう意志には強力なものがあった。それに挫折することによって、疎外感にさいなまれはしたものの、己を見つめなおすことがそれによって可能になった。そこに見い出した自己自身は他者とは無関係であった。親であれ、兄弟であれ、クラスメイトであれ、国であれ、そも人類であれ、私とは別であった。両親は仲が悪かったが、ある時母親が子供の私にぐちをこぼすので、結婚しなければよかったのにと言ったところ、そしたらHちゃんは生まれてこなかったよと、いかにも恩着せがましい言い方をしたのには、非常な不快を覚えたものであった。私という存在は両親から生まれたのではない。その頃からそうした確信のようなものがあった。いかに私の身体が両親や、そのまた祖先から受け継がれたものであろうとも、私の存在そのものはそこに求めることができない。それは唯一無二であり、無根拠である。まして国や、天皇などというものとは無関係である。日本人であることなどは何の価値もない。たまたま日本に生まれ、不幸にも日本語を使わねばならない。私は火星人であってもよかったのである。
 私が唯一無二の私を生きるにあたって、価値があるのは私自身の自己目的性以外にはない。私は本来何一つ必要としない存在なのであるが、シュティルナーの用語を用いれば、身体という所有物を持っている。その所有物をいかに用いるかが、私の人生の内容をなすのである。それを所有しないという選択もありうるが、この所有物の魅力と、強力な意欲とが何はともあれ生へとおもむかせるのである。この生命界は何よりも種の時間的存続を本質としている。個としての身体はそのための道具に過ぎない。個は全体への意志に奉仕する。私の<意志>や<こころざし>が、得てして集団の安全や、繁栄への自己犠牲にとらわれるのは、この所有物たる身体に翻弄された私の末人的な姿である。
 私の<意志>や身体を、もっぱら私のために使用することが、私の人生をよりよく導くことになる。それには常に全体への意志と格闘していなければならない。格闘するだけではなく、それを上手く籠絡して、馴致しなければならない。釈迦はその方法を説いたのであるが、何も宗教者である必要はない。性欲を断つために独身者である必要もないし、食欲を断つために断食する必要もない。性欲も食欲も私の所有物であり、それに翻弄されさえしなければ良いのである。家族や社会や国も、言ってみれば私の身体につながる私の所有物であり、所有するものに所有されないように心がければよいのである。その本末転倒を、全体への意志によっていとも容易に行なってしまうのが、これまでの人類史であった。ヘーゲルのいわゆる<承認願望>が歴史を牽引したのである。
 孔子は「人知らずしてうらみず(いきどおらず)」と述べているが、こう語ったことで承認願望のいかに克服し難いかを暗に告げている。真の隠士であるならば、このように語ることさえしないであろう。こう語ったことで彼は世に知られたのである。<こころざし>やambitionや他からの承認や、世間での評判・名誉などと言ったものと、全く無関係に、意識することなく人生を計画でき、一人おのれに生きることができたならば、何と穏やかな一生を送ることができることであろう。末人たちの跋扈するこの世界では、<こころざし>にはやる者たちが、<戦争の出来る国> を作り上げようとしているのであるから、不快感に耐えねばならないのであろうか。

2015年2月26日(木)
書物の魔力

 紙の本を手にし読むことと、パソコンないしリーダーの中に保存した電子書籍として読むことには、どんな違いがあるだろうか。ともに直接の対象でないことにおいては、同じ世界に属している。子供の頃、本の世界にひっそりと存在している事物や人物へのいとしさから、思わずページに接吻したことがあった。その時感じたもどかしさ、はかなさは、未だに書物というものの本質を考える時、常によみがえってくる。書物の中の世界は現実ではないのだ。
 現実の世界に暮らしながら、現実以外の世界に惹かれているのが観念的存在(ideational being)としての人間の宿命である。その象徴的存在が書物であり、広く言って文字などによる記録である。その根源にあるのが、人間が過去というものに強く引かれる存在であり、その保存場所としての記憶に絶大な価値をおくことである。人間が言葉をしゃべるのも、ある点ではこの記憶による保存のための手段であるといえるかもしれない。動物は自らしゃべったことをすぐさま忘れもするであろう。それを意味あるものとして記憶にとどめておくことが言語の役割である。
 記憶自体が既に非現実である。それは意味であって現実そのものではない。意味のない記憶は記憶とは認知されないであろう。記憶の媒体である言語は、従ってその意味が本質である限り非現実であり、非現実の世界を生み出す。人間が言語的コミュニケーションによって文明を築いているといえるならば、その文明は非現実であり、架空の世界なのである。それはこの現実界のどこにも存在していない。ただ記憶という観念の広大な広がりの中に築かれた幻のバベルの塔なのである。
 だから、あらゆる言語的情報が、パソコンなどの電子機器の中に保存されたとしても、それは人間の記憶の代用品であり、少しも違和感を与えることはないであろう。言語が記憶による保存のための道具に過ぎないのであるから、それを記すものが石であろうと、紙であろうと、シリコンであろうと、何の違いもないはずである。そこから立ち上がる観念の世界は、本質的に同じである。
 とはいえ、紙の本にはなにか魔法的な魅力がある。美しい書物にほお擦りすることはあっても、nexus7を抱きしめたいとは思わないであろう。一個の書物は個としての魅力を持っている。その中には著者その人の人格と、ひとつの完結した世界が封じこめられている。もちろんそうした魅力のある書物であっての話だが。そしてその世界と人格とが、人生の伴侶として、つねにそばに存在しているという観念的であって、同時に物質的確かさが、紙の本を手放せなくさせているのである。
 観念の世界はそれ自体でははかない。モーゼの十戒も記憶ではなく、石に刻まれなければならなかった。文明が、観念的存在としての人間の生存そのものが、空中楼閣を築くことに他ならないとしても、それにしても実在界に投げ込まれた現実存在である限りは、現実界につながる錨のようなものが常に必要なのである。あらゆる情報を、脳内の記憶と化してしまうような究極の書物が出来上がるまでは、まだまだ物質の援けが必要なのである。 

2014年10月22日(水)
本の自炊事情

9月17日
 どうしても処分し難い大量の蔵書を、あの世まで持ってゆくわけに行かないので、少なくともクラウドの世界に成仏させようと自炊を思い立ちました。ふところの事情から、スキャナーは二万円を切るbrotherのADS-2000にしました。断裁はロータリーカッターとアルミ定規などを使って、一日一、二冊のペースに甘んじることとしました。下敷きは100円ショップです。
 道具を揃えて、さて本の解体までは問題なく進みました。スキャナーの設定に入って、マニュアルが不親切なのか、初心者のアンラックとでも言うか、四苦八苦が続きます。紙が黄ばんだ本から始めたのが、カラーでスキャンしたため、そのまま薄汚れた黄色の背景でした。グレーにすると、今度はグレーの背景で読みにくいことこの上なし。結局、白黒がベストでした。
 縦一段組み、縦長の本は、パソコンの大きなモニターで見ても、文字が小さくて見づらい。拡大すると一行が収まりきれず、その都度の操作が面倒この上ない。本のカットの時に、余白をできるだけ少なくするしかない。これはスキャナーに同梱されていた、<いきなりpdf for自炊>というソフトでもできるらしい。
 次に三段組の文学全集の自炊を試みた。これは200%以上に拡大しても、一メートル先でゆったりと見れる最適の自炊であることがわかった。昔の重くかさばる文学全集が、軽く雲に乗って、デスクトップでも、 nexus7でも楽に読めるのである。ただし活字への執着であろうか、解体した本のいく分かはあっさりゴミ箱に捨てられずに残してある。時にはまるごと残して、これでは何のための自炊か。
 スキャナーに関しては、50枚ぐらいまで連続して読み込み、めったなことで重送もないが、初め取り込みがあまりに遅いので、故障かと思いキャンセルをクリックしてしまったら、すべてクリアーされてしまった。焦りは禁物である。重送は裁断のときに、表紙や裏表紙近くに切り離されていない部分があるので、こちらの不注意であった。重送されたら、とにかくそこで読み込みを終わらせ保存しておく。改めて別ファイルとして読み込みを続ける。これが一番良いようだ。これにはファイルの結合とかのソフトが必要になる。
 このスキャナーについている二種類のpdfソフトは、結局あれこれ試してみて、ほとんど役立たないか、使いにくいことに気づいた。そこでunity-pdfというフリーのソフトをいれた。これがシンプルでとても使いやすいのである。しかし分割は面倒そうなので、結合mergeと抽出extractだけを使うことにした。余計な部分や、削除したい頁が入ってしまったときには、分割すると何だか分からなくなるので、必要な頁を抜き出して、結合するのが分かりやすい。元のファイルは紛らわしいので削除してしまう。
 こうした手順をやっと飲み込めて、作業がはかどるようになった。自炊した活字本をnexus7で読むには、なぜかデスクトップからusb接続で読み込むことができないので、有料のソフトが必要かと思ったが、グーグルドライブであっさり解決。クラウドに保存しておけば、いつでもダウンロードできる。adobe readerの動きも悪くない。
 さて、スキャナーにはpdf変換だけでなく、ocr読み取り機能が付いている。ocrつきpdfにすると検索などができるということだが、特に必要ないのでとりあえず普通のpdfにし、ocr変換そのものを利用することにした。pdfにしたものを、さらにocr変換すると、メモ帳に横書きでテキストファイルとなって現われる。このままでは編集しにくいので、notepadにコピーし、まともに読めるテキストに修正する。これをグーグルドキュメントにコピーし、さらにグーグルのテキストと相性の良いsigilにコピーしてepub変換をする。電子書籍の完成である。kdpなりと送ることができる。
  このpdfをテキストファイルに変換してくれる機能は大変ありがたいのだが、問題はその変換能力である。全文をキーで打つよりは、手間も時間もかからないのであろうが、欠陥品というのもおこがましい、未完成のソフトというべきであろう。まず一つ一つの行に改行がかかっているので、それを外しながら誤変換を直して行かねばならない。はとか、−とかの単純な文字・記号がまともに出ていない。もとのpdfでかすれたり、黒い部分などが入っていると、わけの分からないでたらめなものになっている、等々。苛立つことこの上ない。しかし、修正のこつさえ飲み込めれば、けっこう役立つ。
 以上、費用を節約した分だけ、それだけ手間も時間もかかるのは、本の自炊に限らず、世の中あらゆることに当てはまるようです。
 (10・22につづく)

10・22
 本の自炊を始めて一カ月ほど、様々な不具合が相次いで起こるようになった。brotherのad-2000は5千枚ほどまでは順調に作動していたが、突然ある本から二重送りが頻発するようになり、あげくは一枚スキャンするごとに重送という羽目になった。ローラーの寿命が五万回というのに、不良品なのかと思う。とにかくスキャンを終わらせるために、手で一枚ずつ紙を送るという原始的な手段に出た。戦前の古い本で、紙自体が薄く痛んでいたせいなのか。次に比較的新しい本ではこの問題は起こらなかった。紙の質や薄さによって、重送の起こりやすい機種であることが分かった。重送を防ぐ方法としては、ネットで調べると、給紙の時に先端を少しずらすことにしているのだが、その際横にもずらせておくのが良いらしい。しかし一にも二にも紙の質や状態に因るようだ。
 用心することでしばらくうまく行ったが、今度は、次の紙を引き込むのが遅くなるという、あべこべの現象が起こってきた。一枚ごとの区切りがなくなって、唸りっぱなしである。しかしスキャンの方に問題はないので、取り込みのスピードがのろくなるのを我慢すればよいということか。あれやこれやで、やはり安物を買うと苦労する。
 25冊ほど自炊したところで、ロータリーカッターが使い物にならなくなった。最初2,30枚の紙を10回、5往復で切れていたものを、段々50回、最後には100回腕を動かさないと切れなくなり、ついに体力的に限界であることを覚った。替刃は500円ほどするので、一年360冊の自炊で、13回の交換6000円超の出費であるから、これに体力の消耗を加えたら、割に合わない人生の時間の無駄といえる。結局定番のcarlのディスクカッターdc-210nを購入。これが実に軽々と切れるので、やはり効率を考えたらそれなりの金額の物を買うべきである。

2014年9月20日(土)
エゴロギア

 自我は心理的かつ脳生理学的に三要素に分かつことができる。一つは自意識、二つは見当識、三つはそれらの基盤となる記憶である。これら三要素は、脳においてはdefaultの機能として、つねに無意識に活動しているそうである。自意識は前頭葉に、見当識は脳後部に、記憶は中央部に位置し、離れていながらつねに同期している。意識的活動よりも、脳が休んでいる無意識において、脳のその三部分は強く活動しているのであるという。
 自意識は、広く自己自身の体と心の内部における状態の意識、または情報であり、内面に向かう意識である。自己の身体が基準となっているので、人間に限らず、あらゆる動物にも備わった意識であるといえる。即ち動物的自我である。ある点で動物的自我は、意識的よりも無意識においてよりよく働くといえる。それには見当識が深く関わってくる。
 見当識は、自己の身体を取り巻く環境の意識であるといってよいだろう。時間空間の観念を基礎として、身体の置かれた位置、事情を、自我は常にとらえていなければならない。この意識がたぶん、自己意識に先立って、動物界に生じてきたことであろう。食いつ食われつの生命界では、基本的に自意識などにかまっていられないので、この見当識はほとんど無意識に働いたことであろう。それと対応して、身体内部の反応が自意識を生み出した、あるいはその反応そのものが自意識となったのであろう。
 この見当識と自意識の関係は、身体的運動においては圧倒的に無意識に成立したことであろう。今でも、スポーツや楽器の演奏や、そもキーボードのブラインドタッチにしても、意識などはほとんど関与していない。これが<考える人>の正体である。人間は普段は考えてなどいないのである。脳は意識とは無関係に不断に活動している。脳もまた無意識的生命の一環なのである。環境の刺戟からの余裕があって、初めて自我は意識的に働く。あるいはそもそも、自我意識は必要とされない。脳に意識に遊ぶだけの余剰がなければならない。たいていの動物は、環境の刺戟から免れている時は、まどろんでいる、つまり無意識でいるのである。
 
 このように見ると、意識=自己意識とは非常に特殊な現象であると言える。それ自体では、生命活動に対して大した役割を持たない。それどころか、無用で、場合によっては有害でさえある。それを精神と名づけて、生命や物質と対峙させたのは、まさに人間の驕りである。それにしても、自己意識が見い出した世界は、ショーペンハウアーの言う表象としての世界に当たるが、なんとも美と驚異に満ちた世界である。それを自然界と名づけようと、感覚界・観念界と名づけようと、ある種の存在の世界である。人間が、または動物が知りうる唯一の世界なのである。快適さとは、その世界の美的享楽でもある。この苦の世界に生まれてきた、ある種の報酬であるともいえる。それがなければ、この世界は全くの地獄なのである。恐竜たちに追われていた人類の祖先の哺乳類にとって、こうした美的享楽は夢にも考えられなかったであろう。この世界が美として映るようになったのは、人類または動物が、比較的安定した時を持つことができるようになってからである。
 それでは自己意識は、とりもなおさず生命界の超越であるといえるのだろうか。単に生命界の余剰物、おまけ、よく言って報酬に過ぎないのではないか。生への意志に追い立てられている驢馬の鼻先にぶら下げられた、人参のようなものではないのか。それを精神と、理念と、美的イデアと名づけようと、生への意志がそれによって鼓舞され、たぶらかされていることに違いはないのではないか。それによる充足は一時的であり、いかにそれを永遠・絶対視しようと、誰もそれに到達したものはいない。プロティノスも生涯それを数回垣間見たに過ぎない。表象としての世界は幻である。そこにイデアを見、その中に永遠を探求しようとする自己意識もまた、自己欺瞞にすぎないのであるかもしれない。
 しかし、表象としての世界の中には、たとえそこに到達したり、それを手に入れたりすることはできないとしても、ある種の永遠の面影があることは認めても良いであろう。それをプラトンやプロティノスはイデア界と名づけた。イデアは直観的な美であると同時に、抽象的な概念でもある。それの影のようなものがこの表象界であり、またそれの不完全なモデルが人間の精神の中にも具わっている。東洋では天の観念の中にそれを見、天に従うことが、単なる生命を超越した生き方とされた。現代では自然科学が、プラトンの理論を代表するであろう。現象の背後に、普遍妥当の法則を求めることは、イデアの探求にほかならない。現代のイデアは、全くの数式と化してはいるが、プラトンもまた数学の研究からイデア論を展開したのである。しかし人間精神の探求しうるイデア界は、精神そのものがイデア界の不完全なモデルである以上、不完全な、相対的な像であるにとどまるだろう。精神という鏡の歪みが、またイアデ界をゆがめて映すのである。こうして物理学の奇妙きてれつな宇宙観が生まれるのであるかもしれない。人間精神にはそうとしか捉えられないのである。物質が、粒子であろうと、波であろうと、ヒモであろうと、それは究極のイデアそのものではないであろう。
 自己意識は結局、それ自身の限界によって行きづまらざるを得ない。自然における人間の位置という、見当識によるとことんの探求であれ、自己の内面に向かう心理的深層の探求であれ、前者はカントの言う理性の限界により、後者はフロイトの探求した無意識界の闇により、挫折をよぎなくされる。人間は生への意志という、盲目の世界原理から発し、自己意識と理性によってイデア界に目覚めながらも、ついには究極的に自己自身を理解する能力を持たないのであるか。世界意志に従う限りはそのとおりであろう。そこには目的もなく、ただ存在への闇雲な意欲があるだけである。肉欲を始め、心情も知性も理性も、イデアの探求ですら世界意志の手のひらの上で踊る他はない。自己意識もまた付録にすぎないのである。意志の道具としての知性や理性に従う限り、自己意識は意志のくぐつに過ぎない。
 すべてをリヴァースさせることによって、別の可能性が生まれる。このことに気づいたのは東洋人であった。表象をマーヤ(幻)と見、知性や理性をまやかしと見、意志の滅却へと向かった禁欲的な修行者たちが、究極の自己意識を見い出していったのである。自己意識は空となり、無となることによって、意識そのもの(Bewusstsein an sich)へと到達したのである。そこに見い出された超越的自我こそが、自己意識の本質である。それは神としての自己の発見である。あらゆる神秘主義者が発する言葉、それによって迫害を受け、場合によっては処刑された、存在の究極の神秘を表わす言葉、<神は私であり、私が神である>という真理が見い出されたのである。世界意志やその表象や、知性や理性や、イデア界や、自然科学が、どれ程の真理であるかは、私は知らない。私が確実に知ることはただ一つ、私が間違いなく存在するということである。その究極の自己意識を見つめることで、私はあらゆる迷いを断つことができるであろう。あらゆるものを疑い、否定しても、ついには疑い得ない私の存在こそが、この宇宙の唯一確かな原理なのである。

付記・脳理論における私の意識
  最新の脳科学では、自我意識は脳の神経細胞のネットワークそのものに過ぎないとされる。何兆という数の脳細胞が互いに連絡しあい、全体としてネットワークをつくり活動することそのものが、意識、即ち自己意識=自我なのであるという。これはかつてヒュームが、自己意識=私とは観念の束であると言ったことを、脳科学的に言い換えたに過ぎないであろう。観念の束がどうして自己を意識するのか、その観念の束を離れては何事も言えない。そうした懐疑論の影もなく、現代の脳科学は、神経細胞の束ばかりか、コンピューターや機械にも意識が可能であるとする。そればかりか、物質も何らかのネットワーク・システムを作れば、意識が生まれるということになろう。
 脳が滅びれば、自己意識もないではないかと誰もが考える。私が私を意識できるのも、神経細胞のネットワークが、それを統括する意識として自意識を生み出しているからである、ということになろう。ではその統覚は、脳の一体どの部分にあるのか。モニター室のようなものが作られているのであろうか。そうなると、単にネットワークだけでは、自己意識は作られないことになる。観念の束だけでは、統覚は説明できないのである。カントはそれを先天的な機能として、精神の能力に加えた。それに対応するものを、脳科学も見つけなければなるまい。仮にそれが可能であったとしても、自意識は単に脳の機能であると言い切れるであろうか。
 自意識は私が他ならぬこの私であるという、特有の意識によって色濃く染められている。たぶん動物的自我は、相互に交換可能かもしれない。ミラーニューロンのような情報交換装置によって、自我は他我と融合する。集団的、群衆的行動においては、もはや本質的意味での自我は存在していない。そこでは陶酔や、怒りや、欲望によって、誰の自我も同じ色に染められている。私が彼で、彼が私であっていけないわけはない。すべての人間が、一人のヒトラーであっても良いのである。既に論じたように、全体への意志が自我を消滅させ、まさに人類全体が一つの個となるのである。そうしたところに自意識は生じようもない。ただ一人のヒトラーがいるだけである。
 ネットワークが自意識であるという考えは錯誤であろう。単に意識装置に電流がながされたようなものである。意識のエネルギーは電子の軌道のように、ある跳躍的な段階を取るようである。スイッチを捻ったように、特定の明るさで灯るのである。それは自意識を照らし出す光であって、自意識そのものではない。)

2014年8月28日(木)
愛について(愛の形而上学)
 愛は何らかの対象に向かう心情的な意欲である。他であれ自己であれ、対象のないところには愛は動かない。その点で愛は欲望=世界意志の発現そのものである。世界意志は表象を欲する。対象化された世界を、世界意志は自ら貪るのである。その際意志は個別化されて、貪っているのが自ら生み出した表象界であることに気がつかない。ヒドラの頭部の様に、互いに互いを貪る蛇の群がこの世界である。
 愛は対象を貪る心であるから、果てしなく貪欲である。無慮無数の対象を自己のものとしてとどめておく、または消化しようとする、基本的に他へ向かう欲求である。現実存在への意志一般であった世界意志が、他への所有の意志へと変化し、そのようなものとして発現しているのは、時間空間における個別化の原理をその発現の形式としたためである。そこにまた自己愛の本質がある。
 愛は心情的な意欲であるから、心情的な満足を求める限り、自己自身の意欲の充足以外の何物も求めない。その点では愛の対象が他者、他物に向かう場合でも、自己自身に向かう場合でも違いはない。愛が自己自身に向かうとは、自己の身体や、思想や、心情を愛することであるが、愛が他に向かった場合もまた、自己自身における愛の充足を求めていることに違いはない。しかも、愛は自己を対象とするよりも、他者や他物を対象とする場合の方が、はるかに強い満足を与えるのである。これはそもそも自己自身に充足できないことから世界を創造した、世界意志の本質にもかなったことである。自分が死ぬことは場合によっては我慢できる。なぜなら自己の死は、個としての自己の消滅であり、その過程はどうあれ、それ自体は苦ではない。しかし愛する他者の死、または他物の消滅は、自己が消滅できないだけに執拗な苦しみとなる。人が自己犠牲によって、他者の生命を救うことがあるのは、まさにこの世界意志のジレンマにある。満たされない愛欲を抱きつづけるほどの心理的苦痛は、他にないのである。
 基本的に個としての世界意志は、自己愛のかたまりであるといってよい。その愛が他へ向かおうと、自己犠牲であろうと、世界意志は常に自己の充足を求めているのである。人類の罪を背負わなければ満足できないのならば、それも自己愛である。まさにキリストは愛(世界意志)である。隣人愛もまた、それが隣人を愛することによって自己に満足をもたらすならば、それも自己愛である。自己自身の身体や、知性や、人格や、を愛することによっては得られない満足を与えてくれるであろう。自己とは何とやっかいな存在であろうか。
 世界意志がふと反省によって、おのれの本質をかえりみた時、この世界が悪魔の創造物であるように思われるのも不思議ではない。カタリ派もそう考えたことによって、教皇という別の悪魔によって滅ぼされた。自己自身の悪魔性をかえりみた時、世界意志は自己の根源への回帰を始めたのである。それは表象としての世界の否定であり、この世界が発現する以前の、空無への回帰である。それはどこぞやの、この世界のコピーのような天国や極楽ではない。個の消滅によって、普遍の本質に帰り、存在の迷妄を断つことである。
 おそらくこの宇宙は存在へといたる限り、愛欲の世界であることを免れないであろう。プラトンによればイデア界でさえ、知的愛欲(エロス)の対象なのである。イデア界は本来”存在”であってはならないであろう。”真の存在”である必要すらない。存在の迷妄を断つときは、イデア界もエロスの対象である限りは消滅する。自我もまた、愛欲に支配された、動物的自我である限りは消滅する。純粋自我はもはや対象を持たないであろう。おのれがおのれである(Ich bin der ich bin)以外の存在ではなくなる。世界意志の消滅とともに、すべては空無にやすらう。再び世界意志の創造はくり返されるであろうか。もはや世界意志と共にない純粋自我である私には、それを知ることはできない。再び世界創造がくり返されるならば、再び釈迦が現れ、再び世界は消滅へともたらされるであろう。それがこの宇宙のどうにもしがたい輪廻であるならば、常に救済の可能性がそなわっているだけましというべきか。
2014年7月17日(水)
おのれを空しくすること
 少年期にクラスメートとの関係がうまく行かなかった時、ある一つの発見をした。人と一番うまくいく方法は、人のために何かをすることであることに、気づいたのである。それを初めて衝動的に実践した時、それは単に昼のパンを代わりに買ってあげることではあったが、普段取りつきにくいクラスメートが、顔を赤らめてその押しつけの親切を受け入れたことで、その奉仕が他者に対する抵抗感を思いのほか軽くしたのである。おのれのためよりも、人のために何かをすることが、対人関係をよくするための秘訣であることに、幼いながらも気づいたのであるが、その実践は長くはつづかなかった。
 おのれを空しくすることは、おのれを他者に認めさせるための一つの方法であるが、その心地よさはまた、それが裏切られたり、うまく行かなかった時の、自我の反動によって、自己愛への沈潜をさらに深くしてしまう。あるいは、それが自己愛に基いていることの本性が、かえって露骨に明らかになってしまうのである。裏切られた愛や親切ほど、恨みがましいものはない。それにしても、自我はおのれのためよりも、他者のために生きる方が、生きやすくできているのに違いはない。エゴイストは、最も困難な生き方なのである。中学生の頃、保健委員に選ばれた時、人の世話をするのが嫌いなので、できませんと、はっきりクラスの前で断わったことがある。クラス中がしらけたが、本心を言うことが、少しも悪いこととは思われなかった。人に親切にしなかったが、人からの親切は大いに利用した。最後にはそれもうっとうしくなった。おのれ一人で、充足できる世界を求めた。しかし、世の中はそのようにできてはいなかったのだ。
 おのれを空しくすることの意味は、今では違っている。自己愛を抑えて、または隠して、他者に奉仕することではなく、自己愛そのものを空しくすることである。なるほど、他者のために奉仕する人生ほど楽なものはない。自己という最もやっかいなものを、少なくとも見かけの上で退治できるからである。それは、単なる観念や、理想であっても、充分におのれを欺くことができる。隣人に親切にするよりは、人類の幸福を思うことの方が遙かに楽である。気持においても遙かに“高尚”である。しかし人間嫌いでも、理想主義者になることができるのだ。その偽善に気づいていようといまいと。方便としては非常に良い。子供は自分を抑えることによって、他者から愛されることをよく知っている。しかし、それが上手くいっている間はよいが。
 他者に奉仕するかしないかは、おのれを空しくすることの本質とは無関係である。それをショペンハウアーは interesselos と言っている。いかなる利害からも離れた、何らかの純粋な営みである。自己愛や、他者への愛、類への愛が働くかぎり、そこに何らかの利害が働いている。あらゆる苦悩は愛からいずる、と釈迦の言うことを、額面どおり受けとってよいであろう。生命的な欲求から初めて、虚栄心や理想主義に至るまで、愛による interesse に浸透されていないものはない。せめて、営み自体の純粋さにおいて、おのれを忘れることはできないであろうか。
  思索や美的観照においても、やはり愛は忍びこんでいる。誰もおのれの愛さない思索をしたくはないであろうし、不愉快なものに美を感じたくはない。思索や美的観照において生じる静謐な喜びも、また自己愛の一つの姿である。学問も芸術も、自己愛から離れることができないとすれば、もはや自己滅却の境地とされるニルヴァーナ(涅槃)のほかにはないのであるか。しかしニルヴァーナの真の本質については、だれ一人知らない。もし釈迦がそこに到達したとしても、語ることはできなかったであろう。釈迦はそこに至る方法について、語っただけである。古来聖賢皆寂寞であって、そこに到達した者は、それについて語ることもしないであろう。釈迦は全くの例外である。ニルヴァーナに至らんとならば、先ず沈黙しなければならない。 
2014年7月15日(火)
人間社会という環境
 環境は生命にとって、その死活に関わる問題である。というよりも、環境が生命を生み出すといってよい。動植物にとって、物理・化学的環境がすべてである。個体間のコミュニケーションも、その延長の上に成り立っている。縄張りや、棲み分けが、物質環境によって決定されていることに典型的に現われている。人間も基本においては、物質環境の上で、その生存範囲が決定されている。その限りでは、動物と違いがない。しかし人間は観念的動物であることによって、言語によって成立する、特別な環境をその上部に作り上げたのである。
 観念はそれ自体では社会性を持たない。それを言語によって交換することによって、初めて普遍的なものとなる。普遍化された観念が、人類共通の意識という特別の環境を生み出すのである。それを保障しているのは言語のほかにはない。言語以外には、精神界も、客観的世界も、それを表現する手段はないのである。そればかりかその存在を保証する手段さえないのである。神が世界を保証するのではなく、普遍化された観念である言語がそれを保証するのである。言語を使うこと自体が、個人を実にやっかいな事態へと巻きこむことになる。
 言語を使うことによって、自己の思想なり情念なりを対象化してしまう。対象化された自己は、客観視されることによって、自己と離れた存在と意識され、場合によっては自己と対立する。そうした第二の存在を、社会の中で自己として表わす外はなくなるのである。言語化され、対象化された自己は、確かに、社会の中で客体として通用するようになる。人は他者を、または自己を、何かとして言葉で言い表わすことによって、理解したと考える。彼は、のん兵衛である、好色である、けちである、堅物である、等々。その言葉がその人なのである。それが通用するのは、言語によって保障された社会環境である。そこでは、人は言葉として存在する。
 言葉としての自己の存在を社会の中で確立しなければ、人は社会の中で生きてゆけない。あるいは少なくとも、非常に不利な人生を生きなければならない。それは自己の発する言葉であろうと、他者の発する言葉であろうと、違いはない。背景に共通な意識があるかぎりは、誰の言葉でも普遍化される。それが人間の第二の環境である。そうであるならば、言葉を発した途端に、個人の自己疎外(Selbstentaeuserung)が始まると言えよう。自己を自己でないものへと譲り渡すのであるから。譲り渡されて客体化された自己は、勝手に一人歩きしかねない。それを個人はどう防ぎようもない。その絶望的な個人のあり方を、救うことができるのが、また言語の外にはないのだが、圧倒的な言語環境の力の前に、押しつぶされてしまうのである。言語でもって言語に抵抗する、それによってますます個人は言語の虜となってしまうのである。その例を漱石の初期の、悲憤慷慨する作品に見ることができよう。
 言語はだれ一人聴くものがいなくても、それを発したものに影響を与える。言語を発した途端に、そこに世間や社会の幻が現われるからである。その幻に自ら傷つきもしよう。その言葉の力を、他者へ向けない限りは。ペンは剣よりも鋭く、人を刺しうるのである。言葉は客体化することによって現実以上に現実となる。人間社会にとって、現実とは言葉であり、言葉は現実である。隠遁者たちが、言葉を警戒し、ついには沈黙をこととするのもそのためである。汚らわしい言葉を聞いたときは耳を洗い、時には耳を閉ざすことが必要である。そして自らも、汚れた言葉を発しないことである。社会環境の良し悪しは、その言葉の良し悪しによって決まる。この国の現在は、その言葉によって見る限り、最悪の状態にあるといえる。そのような環境の中で、なおも言葉を発しようとならば、せめて自分自身が傷つかないように心すべきである。
2014年4月26日(土)
脳と自我
 「消化が胃腸の機能であり、呼吸が肺の機能であるように、意識は脳の機能です。身体が滅び、脳が滅びれば、あらゆる機能は停止し、存在しなくなります。それなのに何故意識だけが不滅であり、永遠であるなどと言えるのですか。ただの妄想に過ぎないではないですか。たしかに意識の機能には、それが個々の人間にとって特別であるという意識が伴います。それはただ、ある人にはこの意識、またある人にはこの意識というように、個体に分かれているだけのことであって、ひとつの意識だけが特別であるということではありません。消化や呼吸などの機能には、自分自身を意識するということがないだけで、誰でも胃袋があれば消化の機能を持つように、誰もが脳ががあれば、自己意識を持つのです。あなたの自我だけが、唯一で、絶対であるという根拠はどこにあるのですか」
 「たしかに、意識というものをそんなふうに客観的に機能としてとらえたならば、なんら区別がないことになる。たぶん、今後人工頭脳を持ったロボットが作られたならば、ロボットの自我はどんな個体でも交換可能な自我になるかもしれない。鉄腕アトムには、本当は自我などないはずだ。単なるモニター機能なら、どんな動物でも持っているだろう。動物もロボットも、自分が自分であることを不思議に思うことはないだろう。しかし、それもまた、意識を統括する前頭葉の働きだということになれば、自我意識に何のミステリーもないということになるかもしれない。死によって、前頭葉の機能が止まれば、自己意識も消滅する。あとには何もない。個体のあらゆる機能と同様、意識にとってもみごとな無が待っている、ということになる」
 「そのとおりです。お分かりではないですか。それが理解できているだけでも、あなたにも、まともなところがあるのですね。事実がすべてなのです。トンデモや、カルトに騙されないためには、科学が明らかにする客観的事実に基くべきなのです」
 「科学の解明には、私も大いに興味を持っている。しかし事実には二種類あると思う。ひとつは、今言う科学が対象とする、いわゆる客観的な対象だ。今目の前に見ている赤い色は、実は波長何オングストロームかの波動であり、同時にフォトンという粒子なのだ。だが、一体どこに赤い色のフォトンがあるか、指し示すことは出来ない。それは頭の中の観念でしかないのだ。それがあなたの言う、科学的事実だよ。脳だって同じだ、今私の脳細胞のシナプスが、どう化学反応しているかなんて、意識と同時に見ることも、触ることも出来ない。たとえ画像に変えたところで、それは化学反応そのものではない。それが、私の知ることのできる科学的事実だ。科学とはつまり、現象を観念化し、概念化することなのだ。それが人間の思考力に良くかなっていることは認めざるをえない。なんと言っても、物事を合理的に理解できることは、気持の良いことだからね。ところが、我々の生きているのは、単なる観念や概念の世界ではない。世界がそれらだけだったら、実に気持の良いことだがね。
 私が直接赤い色としてみているのは、赤い色以外の何物でもない。それを意識の直接所与とでも言っておこうか。つまり意識に直接現前している事実だ。この赤の意識は意識に固有のものであり、言ってみれば、私のこの意識の世界以外には存在していないのだ。他の個体にも、同じような意識が存在しているかもしれない。しかしそれを私の意識と比較することは不可能である。この赤い色の意識は、この宇宙で他にどこにもない、唯一無二の意識内容なのだ。この意識の直接所与としての事実を、科学は対象とすることが出来ない。可視光線をすべて混ぜると、なぜ透明になるのか、意識のこの基本的事実を、科学は説明できないのだ。しかしそれもまた脳の機能だということになれば、とにかく物質現象であるということは言えるかもしれない。物質の根源は、ヒモのようなものであることが明らかになりつつある。脳の知覚や認識機能は、おそらく量子的レベルで行なわれているかもしれない。いわゆる意識の質なるものも、量子的物質現象と考えることができる。フェヒナーがかつて、感覚の対象として現われる世界はそのまま存在すると考えたように、赤い色は幻でも表象でもなく、まさに物質の反応そのものなのである。意識に現われたものはすべて、物質の存在そのものである。言い換えれば、意識は物質現象そのものである。」
 「そこまでお分かりなら、あなたの自我もあなたが亡くなる時に、脳の機能と共に消滅なさってください」
 「胸の痛くなるような落胆を覚えさせるね。長年抱いてきた思想を捨て去らねばならないとは」
 「真理は、感情や願望には影響されません。それらは単なる価値なのであって、事実ではありません。死について一番確かなことだけを考えるべきなのです。身体や脳の機能が止まれば、あなたも私も存在しなくなるのです。あとには世界が残ります。この世界だけは唯一の客観ですから」
 「私はあくまでもデカルトの原点に帰ろう。何が最も確実であるか、それを探究するとき、すべてを疑い、世界を疑い、わたしの意識を疑い、わたしの思考を疑っても、最後に疑っているわたしの存在だけは疑えない。その明証性、確実性に何の意味があるかといわれれば、たしかにそれに特別の意味を求めること自体不思議である。それこそが、私が常に強調している自我の不可思議である。その明証性や確実性は、生への意志によってたちまち吹き飛ばされてしまう。食べることや、欲望や、身の安全のほうが、はるかに大事である。空腹に苦しんでいるわたしの明証性などに何の意味かこれあらんだ。とはいえ、trotz alledem、たとえ私が飢餓で死のうと、私の明証性、確実性は飢餓によって滅びはしない。私の飢餓や苦痛は幻であるかもしれない、少なくとも私はわたしの身体を疑いうる。世界意志を疑いうる。いかに悲惨な死を迎えようと、私は私の死を疑うことが出来る。そもそも肉体の存在を疑えるなら、肉体の死をも疑えるのだ。しかし死があろうとなかろうと、死んでいく私の明証性、確実性だけは疑うことが出来ない。私は死を超えているのだ」
 「なぜそう言えるのか、私にはやはり解りません。死ねばあなたはない。あなたも私も、死ねば何一つ残らない。身体も、脳も、あらゆる機能が失われて、ただの物質に帰るだけです。あとには、客観的に唯一確実なこの世界が残るだけです。この世界が滅びるならまだしも、まだまだ何億年、何兆年と続いてゆきます。あなたが存在しようとしまいとです」
 「私が死んだあとに果たしてこの世界は残るだろうか。時間・空間というものを考えてみよう。私もあなたも、なぜかこの現在と言う特異な時点に生きている。不思議なことではあるが、この時点から離れることが出来ないのだ。しかしこの今という時点は果たして絶対なのだろうか。18世紀に存在していたニュートンは、彼にとっての今と言う時点を持たなかっただろうか。ニュートンにとっては、私やあなたの生きているこの現在などは存在していないのだ。彼にとっては彼の生きている現在こそが唯一の実在的時間なのだ。20世紀に生きていたアインシュタインにとってはどうだろう。ニュートンにとっての現在も、私とあなたにとっての現在も、アインシュタインには存在していない。彼にとっての唯一の実在的時間は、彼の現在のほかにはない。なぜ私らのこの時だけを絶対と見なすのか。絶対の時は、今でも、過去でも、未来であっても良いのだ。すると、私の肉体が滅びたあとに存在する世界というのは、いつ、どこに存在していると言えるのだ。もし今2014年4月26日午後3時50分に私が死んだとしたならば、世界は時計のように、はたして私の時間を引き継ぐのだろうか。なぜそれが50億年後であったり、1兆年前であってはいけないのか。どの今も同じだけの絶対性を持っているならば、それはどこであっても良いわけだ。どこであっても良い時間などは、もし私が輪廻転生でもしないかぎりは、無意味である。もし私が生まれ変わるならば、私が死んだ次の瞬間には、途方もない未来か、過去かに、どこの宇宙とも知れない世界に、何らかの存在として、再び目覚めているだろう。それが私の不滅の意味だ。私が死ぬとき、私の知る世界も滅びる」
 「よくもマア、一介の人間がそんなことを言えますわね。あなたは一体何様なのです」
 「マア、ある種の神様でしょうか。絶対であり、不滅である点では、神のようなものでしょう」
 「神様なら、我が家の生活を何とかしてください。百円ショップで、百円の買い物をすることを恥ずかしがらないで下さい」
 「いや、またそれは別の話で。いまは形而上学を論じているので」
 「そんなものは妄想です」
 「プラトンやアリストテレスを、妄想だというのかい」 
 「歴史上の人たちではなく、あなたの妄想だというのです」
 「たしかに、形而上学は、20世紀以来流行らない。哲学者達も相手にしなくなってしまったが、私は形而上学の実践をめざしているのだ。いわば応用だね」
 「そんなことよりも、もっと仕事をして稼いでください」
 「それとこれとは別だがね・・・」
2014年2月2日(日)
観念人について

 動物が人間よりもずっと穏やかでありうるのは、記憶に苦しめられることが少ないからであろう。眼前の脅威や危険がないかぎりは、動物は極力過去を忘れようとする。人間は極めて観念的な存在であるだけに、恐怖やその他のネガティヴな記憶を、意識の中で反芻する悪癖を持っている。文明や文化を生み出した人間の観念的存在としての長所は、同時に人間の不幸の源でもある。文明は人類を生命界の頂点に押しあげたが、同時に生命界の悲惨を極限にまで推し進めていった。
 生命界の相食む争いは、基本的に食欲と性欲に基づいている。恐竜時代のティラノザウルスのような一見おぞましいキラーであっても、それ以外の残虐性は持ち合わせていなかったであろう。もちろん食われることは、個体生命にとって最大の悲惨である。しかしそれさえ逃れていればよい、単純なゲームであった。種や類の存続をはかることでは、その闘いは一方的ではなかったが、子孫を守るという点ではやはり単純な争いであった。食物連鎖や、種や類の間のバランスは、生命全体の繁栄に寄与していた。
 この生命全体の、バランスの取れた全体的繁栄を破壊し始めたのが、文明を持った人類であった。道具の発明がその発端であり、それによって従来考えられない方法によって、食糧獲得と、種の存続が可能になった。人類は武器によってマンモスやたぶんマストドンを狩りつくした。農耕や畜産や鉱工業によって環境を変え、多くの種を滅ぼした。そしてその破壊の衝動は、他の生命界ばかりでなく、さらに人類内部の抗争へと向けられていった。
 食欲(個体保存)と性欲(種の保存)という、生命界の単純な欲求から発して、単純な棲み分けに甘んじることのない、人類の果てしない欲望の肥大は、どこから生じるのであろうか。単に農耕文明が戦争の起源であるというだけでは、それは単に欲望の契機を言い表わしているに過ぎない。豊かになれば、人間の欲望はさらに膨らむ。豊かさはなぜ人間の欲望を膨らませるのであるか。それは人間の本有的性質なのか。それならば人類は救いようもなく滅びへと向かう。人類がひたすら豊かさを求める限り、争いは決してなくならない。
 生への意志は無限の、底なしの欲望である。豊かさや幸福を<求める>限り、その充足は限りなくくり返されねばならない。何がその欲望をとことん引き出しているのであるか。動物は基本的に食欲と性欲以外に、欲望を鼓舞されることはない。そして食欲も性欲も、現在にとどまる欲求である。現在において満たされれば、もはや欲はない。明日のことを煩うことはないのである。それを保障しているのが自然界である。恐竜はそうやって3億年もの間繁栄したのである。
 人類はわずか数百万年の間に、生命界に成り上がってきた。その秘訣は、一にも二にも余剰な脳を持ったことである。余剰な脳が成したことは、動物が生きているこの現在的な現実界の上に、専ら観念だけの世界を作り上げたことである。記憶と想像力の発達によって、現在という三次元空間に加えて、未来・過去という次元をそなえた、文字どおり四次元の観念界に生きるようになったのである。欲望は新たな次元に沿って肥大してゆく。時間こそがまさに、人類の欲望を果てしなく鼓舞する元凶なのである。
 *   *    *
 ここで観念という言葉の定義をしておこう。観念という用語は、認識論的には表象と同じ意味であり、認識もしくは知覚のあらゆる対象をいう。しかし、ここで観念といっているのは、狭義の、感覚的な印象と対置される対象である。ヒュームが印象の影と言っているものであるが、厳密に言って、印象と観念を区別するのは認識論的に困難である。ただ単に強弱の違いに過ぎなくなるからである。ここでは単に便宜上、身体表象を基準にして、頭の中に浮かぶ記憶像や想像や思惟に伴うイメージなどを狭義の<観念>としている。身体を基準とすることもまた曖昧であって、夢や幻覚の場合に観念は身体表象の外に投影されているのであるが、それら現象もまた身体の中にあると見なされることで観念の範囲に属している。
 観念の特徴としていえることは、たいていの場合、恣意的に想起や忘却ができることである。もちろん夢や幻覚のように例外がある。夢や幻覚は現実に近いのであり、知覚している対象を恣意的に消し去ったり、単なる意志によって変えることはできない。しかし現実と区別することは可能である。現実に知覚しているものは、それを物理的に処置しない限りは、私の前から消えることも、変えることもできない。現実に対する操作は身体的、物理的であり、観念、夢、幻覚に対する操作は心理的であるといえる。現実は観念の源ではあるが、観念とは独立した法則によって動いている。観念は現実に対しては、その法則とその動きをなぞるだけである。観念が現実の法則とその動きから離れずに操作される働きを、記憶や想像力と名づけておく。これらは現実に密着した観念作用である。そこから因果的な推論や、未来への配慮・予想が生まれる。
(以下7・23記)
 現実とは、ヒュームの用語を用いれば、どこからともなく心に与えられる様々な印象である。印象そのものを、認識主体は作り出したり、変えたりすることはできない。しかしその影である観念に対しては、それらは再生されるものであり、心の能力の範囲内にある。それらが正しく現実を反映していると見なされるかぎり、事実とされ、それらが推論されたり、改変されたりすれば、想像や空想とされる。単なる事実であっても、それが観念化されれば、もはや現実そのものではない。そこには時間が介入しているからである。記憶としての事実は、もはや現実そのものではないのである。しかし、人間は記憶によって現実界を観念的に拡張していると言ってよい。時間を事実として把握できるのは、たぶん余剰な脳を持つ人間だけであろう。セネカは、すでに確定した過去である歴史こそが、最も確実な事実であるとまで言っている。そのような現実の倒錯的な把握は、観念を肥大させた人間のみに可能なのである。
 唯一確実な現実は、現在における事実の他にはない。今という時のほかには、少なくとも自己意識を持った存在者には、真に実体的な存在の場はないのである。それなのに、確定した過去や、よりましな未来が、唯一の現実よりも希求されるのは、人間は実のところ現実存在としてよりも、より多く観念的存在として生きているからである。この人間の余剰な脳が生み出した Idealitaet こそが、時間観念によって現実を拡大生産することによって、文明を生み出し、激越な争いと戦争を生み出した原動力であり、同時に欲望を果てしなく肥大させることによって、人類を破滅へと至らせる元凶でもあるのだ。
 確かに観念人 Ideal-Menschであることは、良くも悪くも、人間であることのほぼすべてを尽くしているといえる。時空の拡大によって、飛躍的に認識力が増し、宇宙の謎の多くを解き明かすまでになった。それもまた時空の拡大に応じた、知識欲の肥大であった。その欲は究極の謎に迫るまでは満たされることがない。かつてのように、神の怒りがそこに待っているわけではないが、究極の謎を解いたところで、人はそこに何を得るのであるか。時空の果てに、果たして究極の解答が潜んでいるのか。観念人であることが、果たして究極の真理により近いのであるのかどうか。真理を求めさせるものが、そも世界意志であるとすれば、真理愛もまた、世界意志とともに滅却すべきものではないのか。
 科学であれ、哲学であれ、宗教であれ、確実に言えることは何一つないが、少なくとも観念人であることが絶対の真理に近いとは、誰にも言えないであろう。歴史はなくても少しも困らない。未来は、今より良くなることは期待できても、いまだ実現していない。極端な苦痛さえなければ、今という現実にもくつろぎの時はある。現にあるものの中にすべてを求めて悪いわけはない。あらゆる動物がそうしているように。彼らははたして真理に遠いのだろうか。時空によって肥大した認識だけが、真理に近いと言えるのか。人間は意識的存在であることによって、同じ今に生きる存在でありながら、自己自身を考えることができる。自己が今ここにあるという驚異的事実の中にも、真理はあるであろう。

2014年1月27日(月)
動物人について(2)
動物人と超人                                                        動物は食欲や性欲やの本能が満たされ、生存条件が安定している限りにおいて、人間よりもずっと平和的である。家畜化またはペット化した動物においてそれが最もよく見てとれる。家畜またはペット同士の間では、めったに争いは起こらない。人間の管理の下で、群としての、または家族としての安定性を獲得している。人間だけが、社会や国家といった群もしくは集団の生活の中、あるいはそれら同士で絶えず争いを続けている。動物もまた個体や群の生存条件の不安定な中では、絶えず闘争している。しかしそれが比較的安定した中では、生存そのものに充足した平和な暮らしを好むものである。
 人類は今現在、動物の中では最も安定した生存条件の中に暮らしている。食糧生産は、もし平等な分配が可能ならば、全人類に行き渡って余りある。動物としての生活に必要なだけのものを生産しながら、それを無駄に無意味に浪費しているのである。まさに飼い葉おけの中の犬のような振る舞いをしているのが人類である。しかし実際にそのような振る舞いをする犬などは、野生であれペットであれ、ありえないであろう。一時的な争いはあっても、弱い動物は食べ残されたものや、こっそりと盗むことで、分配に与るであろう。
 人間はその意味では悪しき動物である。消費しうる以上のものを、欲望によって独占するのである。人間は本能の狂った動物であるとは、フロイトの言であるが、そこから言えることは、文明は動物のよき本能を堕落させたということである。生存競争のおぞましさの中で、かろうじて得られる安らぎの中で、ひと時の平和を実現している野生動物の中に、あらゆる良き本能の起源がある。生への意志は存在=生存への無限の欲求であるかもしれないが、生き残りの闘争だけがすべてではないであろう。存在すること自体の安定した快適さ、それがなければ生命界は無限の苦痛の地獄である。欲望・欲求は絶えず快適さを乱す。それが絶えず闘争へと生への意志をうながす。確かに欲望・欲求はポジティヴであり、快適さはそれらの充足されたネガティヴな状態である。快適さを求める限り動物は、そして動物人としての人間も、欲求・欲望に従って行動し、それらを満たすほかはない。
 しかし欲望・欲求はあらゆる動物・人間に本質的な生の衝動であるから、そこから必ず生命同士の争いが生じる。さらに他の動物・人間からの欲望・欲求の的となることを、生命は絶えず警戒しなければならない。動物はその両面からの生存条件に、環境への適応という本能的行動によって、対処している。そのバランスが崩れる時は、種または類の滅びる時である。人間は動物人として、この生存条件のバランスを積極的に崩してきた。本来この本能が崩れた時に、人類は滅びの危機に瀕したはずであるが、人類は本能を犠牲にした代わりに、環境を大がかりに作り変えるという大胆な振る舞いに出たのである。畜産を含めた農業が、地表を変えたばかりか、人類の本能をも変えた。食糧が生産されることによって、欲望・欲求は肥大化し、生存競争は人類内部の闘争へと移っていった。欲望・欲求の肥大化は、闘争のこれまでの動物界にないほどの激化をもたらした。種の内部において、これほど殺しあっている動物はほかにないであろう。
 人間よりも動物に心の平安を求める人は多い。そこには確かに平和の本能が本来のままに見られるのである。もしそれが狂うときは、人間がそれを狂わせているのである。人間が幸福を求める時にいだく快適さや、心の平静は、本来純粋な動物であった人間が持っていたものであろう。動物であって人であるという、中途半端な存在をよぎなくされている動物人の不幸は、その求めるものがすでにかつてあったものであり、もはやそこにもどることが不可能であり、しかも人間社会はその否定の上に成り立っていることにある。動物人である限り、もはや幸福はない。いや、あえて動物に返るか、幸福そのものをもはや求めてはならない。文明が幸福の否定であるならば、幸福を求める限り、文明もまた否定されねばならない。
 文明が動物の持つ本来の幸福感を失わせるならば、その限りでの文明は否定されねばならない。文明の目的は何であるか。上述のように、単なる欲望の肥大と、生存の闘争の激化であるならば、それに未来はない。もはや単なる動物であることのできない動物人としての人間は、平和な動物であることもできない。欲望だけの肥大した奇怪な動物人であるほかはないのか。人間は中間者であるという。何から何への中間者なのか。人間は超えられるべき何ものかであるとニーチェは言う。確かに動物人としての中途半端な人間は超えられるべき存在であろう。どのような存在へ向かってか。もはや単なる動物であることも、動物人であることもできない人間の向かう方向はどのような道か。もはや欲望・欲求によって闘うことをしない、欲望・欲求の充足によって幸福を求めることもしない、たとえどのように平和な欲求の充足であっても、単なる快適さを求めることをしない。そのためには進んで苦を求めなければならない。欲望・欲求が満たされない苦は大きな苦である。苦を克服することによっては、確かに快適さのような幸福は得られないが、心の波立つことのない平静さ、利害を離れた無関心の状態が生まれるであろう。苦は世界の本質であるが、単なる動物には不可能である進んで苦を求めるという行為によって、動物人を超え、ひいては世界意志を超克する端緒がそこに生まれるであろう。

良き動物として
 動物であることは、動物人であることほど悪いことではない。人間が高級な心情と見なしているたいていの感情は動物が具えている。特に顕著なのは夫婦愛と家族愛である。この点で動物と人間の間に何の違いもないばかりか、動物の方が勝っている場合がある。人間の自然愛や崇高の意識や、芸術的感興も、動物の間に顕著に見られる。檻の中に閉じこめられた動物の不幸は、誰もが感じるであろう。動物は人間以上に自然を好んでいるのである。ある時羽の揃ったばかりの雛鳥が、ガラス窓の外の青空をじっと見つめていたかと思うと、思いがけず硝子に向かって飛び立った。その眼を見て、鳥にも憧れがあるのが分かった。一日中飽きもせず囀っている小鳥が、誰よりも音楽好きであることは疑いあるまい。時には隣にいる雌を無視しても囀っているのだ。
 人間の心情はすべて動物から受け継いでいると言ってよかろう。たとえどんなに繊細・微妙な感情であろうとも、動物の中にその雛形を見つけ出すことができるであろう。ましてや、欲望や、怒りや、憎しみや、嫉妬などといった攻撃的な感情は、普通人が動物的と見なすように動物界普遍の感情であろう。その反対の、懼れや、不安や、恐怖などというネガティヴな感情も、動物界に普通に見られる。人間の心情の中で特に人間的と言えるものはないのである。子を殺された親の悲しみは、象の母親も、トロイアの王プリアモスも、何ら違いはない。ヒューマニズムとは冗語である。人は動物の心情の中に、おのれの心情の鑑を見い出す。動物人である人間がヒューマニズムを唱えざるを得ないほど、動物の中から悪しきものを人は発展させたのである。
 人は先ず良き動物であることを目ざすべきである。動物としてのおのれを見つめることによって、食欲・性欲から心情に到るまで、生への意志によって支配されたおのれの存在を、文明によって毒された過度の欲求・欲望から解き放たねばならない。集団・社会の条件が許すかぎり、生存への競争・闘争を避けるべきである。そして穏やかな心情を、他の動物から学ぶべきであろう。人間から心情的に学ぶべきものは大してないのであるから。動物と同じように自然によって癒され、自然の崇高さに打たれ、音となった心情である音楽によって心を洗われ、そして出来ることならば、動物のように自然に恋愛をする。もし文明人から動物に返るのならば、あらゆる点で高尚な動物でありたいものである。
 良き動物であるとは良き心情を持つことである。それは極力生活の欲求から遠ざかった
心情であるべきだ。生存の不安や恐怖や、また攻撃的な心情を離れ、それ自体がplaisir de vivre であるような心の状態をもたらすものである。その完全な状態を動物は時として実現しているようである。

2014年1月25日(土)
動物人について―人間動物論

 アリストテレスは孤独な人間は動物と変わらないとしたが、それは動物に対する偏見である。集団的、社会的人間も同じく動物とほとんど変わる所がない。動物であるか人間であるかの違いは、どちらも身体的、生命的存在であることにおいて、ほとんど見い出し難いほどである。生命的存続への欲求において、両者の間には、社会的存在であれ、孤独者であれ、100%違いはない。
 食欲・性欲・個体や群の間の縄張り闘争などにおいて全く違いがないばかりでなく、感情・情念・心理においても、基本的に生命本能に基づく限りにおいて、動物と人間の間には何の違いもない。一体何をもって、人間は動物との違いを誇ることができるというのか。
 ただ単に、現今の地球において、哺乳動物として最も成功し、繁栄している種類に過ぎないのである。文明や文化などが、決して人間が動物であることを否定する根拠になるわけではない。文明や文化、言語や思想などは、それらによって人間を動物界の覇者とした道具であるに過ぎない。文明や文化が動物を人間にするのではない。文明や文化の中で、人間はより快適に動物であることができるのである。それは文明や文化が、動物としての人間に何をもたらしたかを検討してみればすぐに明らかになる。
 文明は食糧や繁殖の不安をまずもって解決しようとする。集団間の大がかりな縄張り争いである戦争も、文明の産物である。技術や言語は、集団の存続を安定させていく。そうしたことが可能になったのは、人間がほかの動物以上に脳を発達させたことによることは確かだ。脳はしかし、身体の中で生命的欲求の上に君臨することになったとはいえ、生命のあらゆる維持機能を引き受けていなければならない。その意味では世界で最も忙しい君主であり、同時に最も忠実な従僕である。
 その脳が人間を動物から区別すると言えるのであろうか。ヘーゲルは思想史を含む人類史の原動力を、他者からの承認の欲求に置いているそうである。その限りでは、人類史もまた動物的縄張り本能に基づいていることになる。どんなに高尚な思索であっても、その原動力は群の本能なのである。ボスとして認められたい若猿が、群のボス猿に挑戦するのと、人間の虚栄心や自己愛や、承認願望も、さして違ったものではないであろう。政治的動物である人間は、集団内や集団間で、さらに複雑な権力闘争を営むのではあるが。
 知性や理性が、人間を動物から区別するのであろうか。より賢く、より効率的に、動物的欲求を満たすために、人間は知性や理性を道具として用いているのである。賢く生きるとは、幸福な人生を送るための合い言葉である。幸福とは、たいていの人にとって苦痛を避けて、快適に生きることであり、その限りにおいて、苦を避け、快を求める動物となんら違った生き方ではない。知性や理性が、純粋にそのもののために用いられることがあるとしても、はたしてそれがヘーゲルの言う承認の欲求を免れることができるであろうか。誰にも伝えられない思想などにふけることができるであろうか。
 純粋な思索はむしろ無念無想に近いであろう。動物的欲求のために、知性や理性を働かせることをやめれば、おそらく本来生命の道具として作られた脳のその機能は、自律的オートマティックに何かを考えるのでなければ、純粋直観に近いものになるであろう。それが人間特有のものなのか、他の動物にも具わっているのかは定かでない。もし動物が無意識に考えているならば、後者の可能性があるであろう。
 人間が文明によっても、思想によっても、知性や理性によっても、本質的に動物であることから免れないならば、この世界の本質である<生への意志>から解脱することは永遠に不可能になる。人間はホモ・サピエンスとしてまるごと生への意志の産物であり、徹頭徹尾生への意志そのものであるということになる。いかに思索的人間であっても、おのれの中に渦巻いている様々な情動・情念・欲求をおのれから切り離すことはできない。まして食欲や性欲を他人事と見なすわけにはいかない。そればかりか、進んでそれらの欲求に身を任せるであろう。その時おのれがいかに動物的であるかを、理性的であればあるほど痛切に感じるであろう。人間は基本的に動物人(Tier-Mensch) である。