江戸流の系譜その後

 

作成2007年6月20日

このページの最終更新日は2019/01/25です。


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主題:「鷹狩の近代史」

 このページでは「江戸流の系譜」に対し、新たに入手した情報により全てを見直し、「江戸流の系譜その後」として発表する事にしました。前回の「江戸流の系譜」では一般的に認知された現存する資料からのみ探って行きましたが、今回は私自身に寄せられた情報と私自身が個人的に知り得た情報により書きました。前回の「江戸流の系譜」とは全く内容が異なります。


 副題:江戸流と丹羽茂彦氏(鷹匠:庭茂)の系譜

※以下に付いては多くの関係者から寄せられた情報を元に記載しています。但し、真実を書くのは数十年後になると思います。

 結論から申し上げると丹羽茂彦氏も目黒弘氏も「江戸流」を名乗っていません。むしろ二人は吉田流の鷹匠として紹介されています。「文化庁編:狩猟習俗」が正しいとすれば、丹羽茂彦氏や目黒弘氏、丹羽有得氏も「江戸流」になってしまいます。

また、寄せられたビデオを見ると高橋進氏がNHKテレビに出演した時に江戸流の鷹匠と言う事で出演しています。これで公(おおやけ)に江戸流を名乗っていた事が判明しました。「江戸流」の始めは高橋氏であり、ここで目黒氏まで続いた吉田流は終わって、新しい流派が生まれたことになります。この時、吉田流を名乗っていたのは丹羽有得氏の系統ともう一派となります。

 さて問題の「文化庁編:狩猟習俗」ですが、その文面を引用すると「村越仙太郎の指導を受けた茨城県の丹羽茂彦氏と春日井市の丹羽有得氏および丹羽茂彦氏の愛弟子目黒広氏・・・・・・・この人たちの流派は、幕府の流れを受け継いでいるので、江戸流と称すべき人々である。」それに続いて「息栖鴨場は、江戸流に基づいて丹羽茂彦が・・・・・」と書かれています。ここにははっきりとこの三人が「江戸流」とは書かれていませんが、「江戸流と称すべき」と言う確定的な書き方になっています。これを高橋進氏が根拠として「江戸流」を名乗ったと言うのが現時点では最も有力な説ですし、関係者の話とも一致します。

 しかし、ここで疑問が一つ有ります。それは「文化庁編:狩猟習俗」の元となる海老原氏の一連の鷹狩研究の成果として昭和42年から43年に掛けて3回に分けて発表された「鷹匠」と言う資料が有ります。この資料は海老原氏の没後の平成5年に再度編集されて発表もされています。このどちらにも江戸流と言う言葉は一切出て来きません。その代わり吉田流が使われています。「この三人は吉田流の流れをくむ」と書かれ、鴨場に付いては「吉田流に基づき」と書かれています。何らかの理由で「文化庁編:狩猟習俗」発行の昭和48年にはこの部分が故意に江戸流と書き換えられたと言う事になります。いったいこれは何故か、カギを握る海老原氏は平成二年に他界しています。なお、「文化庁編:狩猟習俗」が発行された昭和48年の時点で、丹羽有得氏以外の関係者は他界しています。

 疑問はさらに深まる一方ですが、高橋進氏がNHKテレビに出演した時に正式に「江戸流」の鷹匠として紹介されていますので、「江戸流」の呼称の始まりは高橋進氏で有る事は事実のようです。 要するに丹羽茂彦氏も目黒弘氏も江戸流では無い事がはっきりしました。、前記の「江戸流の系譜」は全く間違った内容であり、あの中に丹羽茂彦氏と目黒弘氏の二氏の名前を掲載してはいけなかったと言うことです し、お二人に付いては吉田流と表現すべきでした。つまり、現在の「江戸流」の呼称は最近始まったものと考えるべきです。

 さて、「江戸流」は新しく生まれた流派と言う事がわかりましたので、ここで取り上げている近代史の範疇からは外れますので、江戸流に関する調査はこの位にします。但し、丹羽茂彦氏に付いては今後も調査を継続して行きます。また、現在も 吉田流の流れを汲む「江戸流」関係者が伝統を守る為に活動されていますので、これからの更なる発展を期待したいと思います。今後、何か新しい情報が有れば再度内容を見直したいと思います。

 ※個人的には古い流派に囚われず、多くの人が新しい流れを作っていく事は鷹狩の発展には必要不可欠と考えています。

 最後になりましたが、ここで引用させて頂いた海老原氏(海老原先生と言うべきでしょうが)の研究は先の大戦を挟んで活躍された鷹狩及び鴨場に関った人々に直接取材した非常に貴重な資料です。但し、一部に間違いも有りますが、これはどちらかと言うと情報源側の問題で、記憶違や時間の経過による情報の風化、故意によるものと思います。今後もこの研究成果は鷹狩り関係者にとって貴重な資料になる事でしょう。

作成2008年6月13日

 ここまで書いた所で発表は控えていましたが、また新しい事実が出て来ましたので、再度内容を見直しました。 

 1962年(昭和37年)にアメリカで発行(印刷は日本)された本で「THE HAWKING OF JAPAN」(日本の鷹狩)と言う本が有ります。漢字で表紙に「大和鷹」とも書かれているこの本の著者は当時日本で鷹狩りを行っていた人を訪ねた他、鷹狩の歴史に付いても調査しています。この中に江戸流の記述が有りましたので紹介します。なお、この部分の英文を 私が意訳しました。

「宮内庁の鷹匠は、オオタカを仕込むため、それはたぶん広く日本で昔から行われて来た伝統的な方法に非常に近い方法に従う。
以下の仕込みの手順は坊城俊良氏と宮内庁の鷹匠との会話から書かれた。暗い鷹部屋および厳密な詰めとが共に連携し、それは江戸流(言い換えれば東京方式)として知られている。」これに続き、宮内庁での仕込み方が解説されています。

 東京方式などと書かれると我々は笑ってしまいますが、これが外国人の理解程度と考えれば納得がいきます。大事な事はここに江戸流と言う言葉が出て来た事です。この江戸流は私の意訳ではなく、「Edo-ryu」とはっきり書かれています。つまり宮内庁が保存して来た鷹狩や流派をを総称して江戸流と呼称している事になります。また、この本の著者が勝手に江戸流と名付けたとは考えられません。 名付けたのは東京方式の方でしょう。また、丹羽有得氏とも関係が有りました。

 この中で宮内庁の主猟官時代にあの有名な「放鷹」の内、鷹の調教と狩猟を担当出筆され、自らも実際に鷹を仕込んでおられた坊城俊良氏が関っている事は非常に意味の大きい事です。その後、氏は主猟課長、侍従、皇太后宮大夫、伊勢神宮大宮司(S32〜S41年)と進まれ、伊勢神宮時代にこの著者と会っている事になります。

 ※坊城俊良氏に付いてはまた別の機会に触れたいと思いますが、鷹狩に限らず、非常に大きな功績の有る方です。

 江戸流と言う呼称は上記の「文化庁編:狩猟習俗」も合わせて考えると、特定の流派を指すものではなく、江戸時代の鷹狩の伝統を受け継いで来た日本古来の放鷹術全体を指す物と解釈するのが正しい様です。ですから、日本古来の放鷹術を受け継ぐ者で有れば誰もが「江戸流」と名乗っても 良い事になりす。但し外国人に対して江戸を単純に東京と訳して東京方式と言うのだけは止めてもらいたいものです。(今日本に伝わっている伝統的な鷹狩は、一括して江戸流と呼ばれた事になります。)

 さて、この「THE HAWKING OF JAPAN」ですが、現在アマゾンで販売しています。無論アメリカのアマゾンですが、日本にも輸出出来るそうです。私はあまりこの本は薦めません(内容と価格が 余りにも折り合わないと思います)が、お金と興味の有る方は購入されたらいかがでしょうか。


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