作成2007年1月11日
このページの最終更新日は2015年10月16日です。
主題:「鷹狩の近代史」
副題:吉田流と丹羽茂彦氏(鷹匠:庭茂)の系譜
このページの製作に当たっては、故丹羽茂彦氏の御家族の方々の御協力により、貴重な写真等の情報を提供頂きました。この場を借りて改めて御礼申し上げます。
なお、故人の肖像権及び著作権保護の目的から、掲載許可を受けた物のみを使用しています。また、出版物からの写真の違法転載、家族の許可無く故人の写真を使う等の違法行為は一切しておりません。なお、著作権が設定されておりますのでご注意下さい。
※文章構成上一部敬称を省略させて頂きます。
オオタカを据る丹羽茂彦氏
※この掌の向きが正しい据え方です。もう一方の流れは全く違っています。
今回、ご家族の方々より貴重な資料をご提供して頂きました。資料の中には、丹羽茂彦氏の鷹狩を紹介した記録映画「鷹匠」(岩波映画)が有ります。当時、この映画はNHKで放送された物ですが、これを見ると丹羽茂彦氏の鷹の据え方は吉田流の特徴である「神輿据え」でした。現在及び過去に吉田流を名乗っている方の中に、この特徴的な神輿据えをしている人を私は知りません。丹羽茂彦氏が吉田流を十分継承出来なかったから、吉田流を名乗らず江戸流 を名乗ったと言う人が居ますが、これはどう言う事でしょうか。(隼をやらなかったからと言う人の中傷の様に聞こえるが、江戸時代の雑司が谷部屋では隼は一部の専門の鷹匠だけが使っていました。)なお、丹羽茂彦氏は江戸流を名乗っていませし、この映画の中では有りませんが、吉田流の鷹匠として紹介されています。 吉田流は鷹狩り全般に及ぶ技術を指し、鷹の仕込みだけでは有りません。それ以上に鴨場(鴨猟)に力を入れていて、そのもっとも重要な技を民間人として唯一受け継いだのは丹羽茂彦氏だけです。一般的には故高橋進氏がNHKに出演した時に初めて江戸流の鷹匠と して紹介されています。(詳しくは「江戸流の系譜、その後」で紹介したいと思います。)
この映画の中では丹羽茂彦氏と共に鷹を据えて銀座を歩く目黒弘氏も紹介されています。この年、大学を卒業したばかりの目黒弘氏は学生時代の半年間、丹羽茂彦氏宅に住み込んで修行をしたそうです。さて、映画の内容は鷹の捕獲から仕込みまで紹介する一方、鴨場での引掘りを使った鴨の捕獲まで紹介されています。但し、一部に演技(暗闇の撮影などは当時の撮影装置では不可能ですし、鷹を捕獲する所等)も有りますが、反対に仕込みの細部まで紹介されています。伝統的な鷹の仕込み方で大変興味深い物でした。
※丹羽茂彦氏主演の「鷹匠」ですが、この時期に撮影された多くの記録映画と共に「日本文化の源流」第二巻に収められて、現在DVDとして発売されています。興味有る方はぜひご覧下さい。(2007年4月16日追記)
故丹羽有得氏と中島欣也氏(が出演した「日本の鷹狩」(NHKテレビ)や丹羽有得氏の「鷹匠」(登川直樹氏撮影)と共に鷹狩関係者としては是非一度は見て置きたい物の一つと思います。
「江戸流の系譜」と一部重複しますが、新しく見つかった資料に基づき見直した経歴です。「江戸流の系譜」の元になった文化庁、文化財保護部篇、「狩猟習俗」の内容に関しては事実との違いが有る事は前々より知られていますが、その一つに私の恩師に関しても間違った記載をしています。これに関しては、故花見薫氏が調査内容と事実が異なっている事を書簡で送っていますが、訂正されないまま出版に至っています。ここに書かれた内容も新たな発見により将来、見直される可能性も有ります。
経 歴
・ 明治31年(1898年)3月5日、鈴木清彦氏の次男として東京、麻布に生まれる。
・ 大正元年(1912)14歳で藤本茂治軍医少佐に付いて朝鮮に渡る。その後、何度か日本と朝鮮の間を行き来きする。
・ 朝鮮では西大門中学に学び、日本にて麻布中学を卒業。
・ 明治大学の商課に入学。卒業年度等は不明。
・ 大正8(1923)年頃、親戚の丹羽家の長女と結婚し、鈴木から丹羽姓となる。
・ 大正12(1923)年9月1日、浦賀にて関東大震災に遭遇し、新しい仕事を求めて名古屋の会社に勤める。
・ 昭和3年頃から二度目の大阪の住吉へ。この頃、朝早く家の前を鷹を据えて歩く人を見つけ、早速家を訪ねて弟子入りする。丁度この頃近所に住んでいたのが村越仙太郎氏にで、毎朝一緒に鷹の仕込みに出掛け、鷹狩りを習う。元々犬を飼って銃猟を行っていたので狩猟には精通していた。
※先に海老原幸氏が書かれた「狩猟習俗:文化庁編」の村越仙太郎氏との姻戚関係は全く認められなかった。
・ 昭和9年9月21日大阪地方を襲った室戸台風によって新しく始めた事業が大打撃を受ける。(死者990名にのぼった)
・ 事業の再開を断念して、東京の親戚を頼って上京。
・ 新聞広告で募集していた朝鮮産の大鷹を預かる事になり、この時から本格的に鷹狩りにのめり込み始める。
・ 東京に戻っていた村越氏宅をたびたび訪れ師事する。
・ 昭和10(1935)年10月、上野動物園で餌指の講習会を開催。
・ 餌差し(餌差し:鳥もちを付けたモチ竿で鷹の餌にする鳥をとる事、又はその職業)の修練をしていた丹羽茂彦氏が、誰も捕獲出来なかった白いスズメ(アルビノ)をモチ竿で捕獲し、その写真が読売新聞に載った事がきっかけで有名になり、読売ランドで鷹狩りの実演を行い民間唯一の鷹匠として一躍有名人となる。この後、名古屋や出雲大社でも実演を行った。また、当時小学校入学前の娘さんも参加して、鷹の渡りを披露して鷹狩りの普及に努めました。
・ 昭和11(1936)年1月、日本放鷹倶楽部を設立に参加。実は鴨場建設の為、クラブを作り資金調達をした。
・ 昭和12(1937)年7月7日、盧溝橋事件勃発(日中戦争)。日本放鷹協会設立に参加。
・ 昭和13(1938)年3月、鷹狩研究会設立に参加。
・ 昭和16(1941)年12月8日、太平洋戦争に突入。(真珠湾攻撃)
・ 昭和17(1943)年4月、出資者を募り、茨城県鹿島郡息栖に土地を購入し、鴨場を着工。
・ 昭和20(1945)年8月15日、敗戦。
・ 戦後、昭和22(1947)年から25(1950)年まで続いた農地解放のあおりを受けて土地を手放す危機を迎えるが、農林省標鳥放翔試験場と言う形でこの危機を乗り越える。
・ 昭和29(1954)年、戦中戦後の工事の中断期を経て息栖鴨場を開く。この影には旺文社社長で第3代全猟会長の赤尾好夫氏の強力な支援が有った。
・ 鴨場の経営も順調になった昭和38(1963)年、体調を崩し急遽、鴨場を手放す。この年から鴨場は民間企業の経営に移る。
・ 昭和40(1965)年11月千葉大学病院で肺ガンの為逝去。享年67歳。
お孫さんと鷹を据えて(昭和34年5月)
太平洋戦争の最中(さなか)に着工され、完成までに10年以上の歳月が掛った鴨場の経営は大変厳しいものが有ったと想像されます。戦後の食料難や法改正により鴨猟により生計を立てる事も難しく、民間で唯一の鷹匠として生きる道を選んだ丹羽茂彦氏及び家族の方々の苦労がしのばれます。但し、丹羽茂彦氏の努力で今日(こんにち)まで受け継がれて来た民間に於ける鷹狩りの伝統が、今後も継承される事を切に望みます。
最後に丹羽茂彦氏が半生を掛けて開いた息栖鴨場に付いてもう少し触れて置きたいと思います。現在日本に残っている鴨場は宮内庁の埼玉鴨場と新浜鴨場の二つが有ります。未だ民間にも一つ有るような話も聞きますが、もし有ったとしても秘密裏に運営されていて一般には目にする事は無いと思います。丹羽茂彦氏が開いたこの息栖鴨場は一般に開放されて、鴨猟を楽しむ事が出来ました。ここで鴨猟をされた方は大変貴重な経験をされたと思います。現在鴨場で鴨猟をしたいと思っても一般の人が出来る鴨場は有りません。私も鴨猟をやってみたい一人ですが、こればっかりは自分で鴨場を作る以外不可能なようです。あとは国会議員になるかです。また、息栖鴨場の他にも戦前、戦後を通じて宮内省以外でも公営、民間の手による鴨場が幾つか存在しました。
さて敷地1万坪、中央の池(元溜:モトダマリ)の面積は1600坪ですから、鴨場としては中規模になります。鴨猟によって生計を立てるとしたら、最低でもこの位は必要になると思います。しかし、丹羽茂彦氏が鴨場を開いた時はすでに猟期は短縮され、非猟期は広大な鴨場の維持管理に膨大な時間と費用が掛ります。特に猟期が終わってから始まる剪定や夏場の草刈など、肉体労働が狩猟解禁間際まで続きます。さらにオトリのナキアヒルの世話と、猟期に向けての堀さらいや道具の準備をたった2人で行うとしたら大変な重労働になります。こんな訳で実際には狩猟期間の3ヶ月間の収入で1年を暮らさなくてはいけないのですから、その厳しさは想像が付くと思います。
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息栖鴨場の設計図
上は息栖鴨場の設計図ですが、丹羽茂彦氏が設計した初期の状態を良く伝えています。正に吉田流がとく意図する鴨場の設計技術が受け継がれてきた事になります。
実際には丹羽茂彦氏が開発した大引き掘りと言う、普通より幅の広い引き掘りがボールペンで書き加えられています。一般的な叉出網(サデアミ)による捕獲ではなく、引き掘りに入った鴨に一気に網をかぶせて、逃げ場を失った鴨を叉手網で掬い取る為の設備で、これは少人数で効率良く鴨を捕獲する為に開発されたものです。(息栖鴨場だけでなく他の鴨場にも同様な仕掛けが有りました。)
叉手網と獲物を手にした丹羽茂彦氏
手にした叉手網は一般の鴨猟に使う物と少し違って、引掘りの中の鴨を掬い易い様に先に太い針金が渡して有ります。
鴨場を作る為に情熱を傾けた丹羽茂彦氏の半生、そしてその結果として鴨場を完成させ、鷹狩や鴨猟を研究して後世に残した。それも民間人で戦中戦後の動乱期に一貫した目的を持って生きた生き様(いきざま)は本当に尊敬に値いします。今でこそ元宮内庁鷹匠であった故花見薫氏に教えを受けた人々が諏訪流を名乗り活躍されておりますが、それ以前に於いては、丹羽茂彦氏及び丹羽有得氏又はその関係者に教えを乞う以外、鷹狩りを習得する事は非常に難しい状況でした。(戦前戦後を通して宮内庁関係者より教えを受けた人が全く居なかった訳では有りません。)この為か、自称鷹匠の中途半端な粗製乱造時代がしばらく続いた事も事実です。 残念ながら、この人達の中には巣鷹を密猟したり、そのた鷹を密売したり、自分の使い古した道具を宮内庁で使っていた物(見ればすぐに分かりますが)と偽り、高く売り付ける人も何人も居たそうです。
五位鷺(背黒五位)を捉えたオオタカ
さて、現在残っている宮内庁の二つの鴨場は日本の貴重な有形文化財ですし、そこで連綿と受け継がれて来た鴨猟は貴重な無形文化財です。今では捕獲した鴨を殺す事も無く、標識調査の為に足環を付けて放鳥しています。もはや捕獲した鴨を殺す事の無い以上、この事はもっと一般に周知されても良い事だと思います。また、法改正してでも鴨場での捕獲期間を延長したり、予算を増額するなど、国家全体として守り続けてもらいたいと願っています。私は世界遺産に登録されても良いと考えています。
幸いにも地元市民の応募者の中から抽選で選ばれた人には鴨場の見学が許されるそうです。地元で興味有る方は応募してみたらいかがでしょうか。なお、時間が有れば、息栖鴨場以外の鴨場に付いてもご紹介したいと思っています。
無形文化財とも言うべき人から人へ伝えられる技術は時として社会情勢により、あっと言う間に途絶えてしまいます。歴史を振り返ると明治維新により庇護を失い、太平洋戦争や日中戦争戦争により継承径路が途絶えてしまって、多くの日本の伝統文化が失われました。特に鷹狩りの様に現代社会に必要性が見出されない伝統文化は、いつか消え去る運命かもしれませんが、それにたずさわ った人々の記録を少しでも後世に伝える義務が、今の我々には有ると思います。未だ人々の記憶の中に残っている内に多くの情報をお寄せ頂ければと切に願っております。 また、丹羽茂彦氏に関しては今後も調査を続けて行く積りですし、未だ調査課題が沢山残っています。また新しい発見が有れば随時、内容を更新して行きたいと思っています。続く
息栖鴨場のその後
2008年4月12日息栖鴨場の跡地の調査に行って来ました。当然当時の物は何も残っていませんし、今年中には多くの住宅が建ち跡地全体を見渡す事が出来るのも今が最後の様です。
今回の出発点、成田線「小見川駅」
成田線、小見川(おみがわ)駅からタクシーで20分も掛からずに鴨場跡地へは行く事が出来ます。今は橋が出来て交通の便も良くなりましたが、丹羽茂彦氏が鴨場を経営していた頃は利根川を渡し舟で渡らないと行けませんでした。先に紹介した丹羽茂彦氏主演の「鷹匠」の中にもこの利根川を渡るシーンが有りますが、これは多分丹羽茂彦氏が映画の撮影に来た人達を駅に出迎えに行った折に撮影されたものと思われます。
今は交通の便も良くなり鴨場跡地のすぐ近くからも高速バスが東京へ向けて20分置きに出ています。こちらの方は所要時間1時間30分、1750円(調査時)で電車で行くよりも安く、早い様です。
大沼弁財天
唯一、昔ここに大沼と言う池が有った事を物語るものが、この大沼弁財天の社(やしろ)ですが、もう人々の記憶からは忘れ去られているようです。この弁才天の場所がかつては大沼に突き出していたと思われる遺構が見られました。社を少し調べたら嘉永年間の創建の様です。元々この周辺には数件の家しかなく、今この辺に住んでいる人は30年ほど前に来た人達で、鴨場が有った事など知りませんし、鴨場建設当時の事を知る人は二人だけになってしまっています。
息栖鴨場跡地
今の息栖鴨場跡地です。分譲中の看板が建ち、もうじき道路の舗装工事が始まり住宅も建ち始めるとの事です。もうすでに跡地内に三軒の家が新しく建っています。感じとしてはここに写っている約3倍の面積が有ります。歩いてみるとかなり広い事に驚きますし、最長区間では250mにもなります。実は航空写真で見るとかなりはっきりするのですが、このデータをここに掲載するには許可が必要なので、今はお見せ出来ません。
旧丹羽茂彦氏宅跡地?
丹羽茂彦氏宅が有ったと思われる場所に建つ民家ですが、現在事実関係を確認中です。今は別な人が住んでいるのでやたらに写真をとる訳にもいかず、ただの風景写真とお考え下さい。但し、木の陰に隠れていますが、古い建物も残っているので、かなり期待しています。
最後になりますが、歴史は闇の中とかよく言われますが、歴史は言い換えると勝者の歴史といえます。それは戦(いくさ)に勝った者が歴史の記録を書き換える事が出来るからですが、その様な歴史を変える大事件以外でも常に我々の周りでは勝者の歴史は書き換えられています。人が相手に勝つにはもう一つの方法が有ります。それは長生きをすることです。ライバルより長く生きれば生き残った者が勝者となって歴史を書き換える事が出来るのです。ペンは剣よりも強(つよし)です。それが特殊な世界で行われればなおさらです。真実を探るには多くの人の情報が必要です。今後も色々な方の情報提供をお待ちしています。
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