鷹狩の近代史のページ


作成2005年6月28日

このページの最終更新日は2009/11/05です。

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主題:「鷹狩の近代史」

鷹狩の近代史のページでは幕末から昭和までの鷹狩の歴史を探ってみます。但し、一部のタイトルではその発生の歴史をたどる為、この範疇から逸脱するものも有ります。


 鷹狩という世界は秘密主義的な所が多く、鷹狩の近代史を探る上で大きな支障となっています。近代の鷹狩に於いても都合の良い事は記録に残すが、都合の悪い事は残さない風潮が有り、鷹狩に関する情報も限られてい ます。これは、口伝、秘伝、一子相伝と言う様な第三者が入り込む余地の無い閉鎖的な継承方法から生まれたものと思われる。この為 、間違った情報があたかも真実のように伝えられて、今日まで残っているケースも多い。 書いた者勝ちの世界のような気がしてならない。(私もそうかな?)

 現在伝わっている鷹狩は、ほとんどが徳川家(公儀)の御鷹匠同心より伝えられたものだが、鷹場制度の研究者でさえも御鷹匠同心の事を鷹狩の時の警備が仕事と書いている。これは八丁堀同心、又は八王子千人同心が持つ同心のイメージから創造したものでは無いかと思うが、江戸時代の同心には色々の職業の人が居た。私はこの同心の意味は御目見え以下の軽輩の武士の職位程度と考えるのが正しいと思う。

 ちなみに御鷹匠同心の本業は鷹の世話係と言った所で、無論鷹の仕込みも行っていた。家禄三十俵二人扶持高(吏徴)前後で、これでは生活はかなり苦しいが、この外に鷹の仕込が始まれば今で言う所の特別勤務手当や鷹の仕込みに出掛ければ、出張手当が付く(御鷹匠同心片山日常家襍記抄)。この鷹匠同心こそが江戸時代の鷹狩を支えていた上に、今日伝わっている鷹狩の基礎をなす人々である。

 私が敬愛する御鷹匠同心に関し、間違った情報も個人の創造の産物さえも本だけならいざ知らず、今では簡単にインターネットで情報が配信され、それを知らない人々には真実として受け取られてしまっている。 御鷹匠同心に限らず、中には出典元を明かさずに過去に出版された本の丸写しの様なページも有り、残念で仕方無い。

 なぜここであえて厄介で、しかも研究者や鷹狩り関係者から批判を浴びる様な事をテーマに書く事にしたかと言うと、一つは間違いを正したい気持ちと、インターネットという道具を使って情報を収集し、鷹狩の近代史を纏める為の資料としたいからです。 また、これをきっかけに多くの鷹狩関係者がホームページ上で情報を公開される事を切望します。

  私はこの研究を仕事にしている訳では無いので、今一歩で事実に手が届かない事が何度もありました。もう一年早ければ等とと思わされる事ばかりです。時間に限りが無ければもっと多くの事をお伝え出来るのですが、残念です。これを読まれた方の中に我が家は江戸時代は鷹匠だったとか、関連有る仕事をしていたとか、古い資料が有るとか、戦前まで鷹狩りをしていた人を知っている 等の情報が有ればぜひお寄せ下さい。お寄せ戴いた情報は記録として公開又は保存し、研究に役立てたいと思って おります。 一人では出来る事は限られますが、多くの人の協力により失われ行く事実を少しでも多く残して行きたいと思っています。

※尚、東北地方のマタギの間に伝承された鷹狩りで、鷹使い(今では鷹匠と呼ばれていますが)と呼ばれた人々の間に継承されたものは専門の研究者の人が 於られ、私の研究範囲ではありません。

 さて、「鷹狩の近代史」をUPするに当たり、幾つかのテーマを予定しています。順次 、準備出来次第掲載して行きたいと思いますが、 資料を整理して全てを書き上げるにはこの先何年も掛かりそうです。また、皆様からの情報提供により内容を さらに充実して行きたいと思っていますが、ここでは簡単な紹介に留め、別な機会に詳しく発表したします。


bullet江戸流の系譜 海老名幸氏が「狩猟習俗:文化庁編」に書かれた江戸流という呼び名が何時から始まったのだろうか。 吉田流の丹羽茂彦氏が受け継いだこの正当な流れは今どうなっているのだろうか。

bullet江戸流の系譜その後 江戸流に付いて多くの情報が寄せられ、調べて行くと江戸流 と始めて公式に名乗ったは高橋進氏である事が分かった。丹羽茂彦氏及び目黒弘氏とは別な流派を名乗り始めたのはなぜか新たな疑問が生まれてきた。また、江戸流という呼称に対する新たな解釈を寄せられた資料から探って行きたい。(2015年10月04日追記)

bullet丹羽茂彦 丹羽茂彦氏に関し 、ご家族の方より貴重な写真や資料の提供を頂き、ここに丹羽茂彦氏に焦点を当てたページをアップする事が出来ました。まずは第一弾ですが、今後さらに内容を充実して行きたいと思います。(2007年1月11日追記)第二弾として、現在の息栖鴨場跡地を紹介します。(2008年4月18日追記)

bullet吉田流の系譜 吉田家久を流祖とする吉田流、織田信長、豊臣秀吉、徳川家と仕え、綱吉公の時代に鷹狩が廃止になり、鷹匠としての仕事を失う。しかし、吉宗公の時代に再び鷹狩が復活して、はたして吉田家はどうなって行ったのか。

bullet吉田門流 吉田流家元が鷹狩から隔離された後、吉田流の門人の流派である吉田門流が江戸中期以降非常に栄えた。これは一つに家元が無くなったお陰かも知れないが、その歴史はどうなっているのか。

bullet禰津流とその終焉 禰津流は多くの流派の祖となったと言われるが、その発生には神格化された部分も有る。禰津氏は江戸時代初頭一万石の大名に成ったものの 、世継ぎ問題で絶家となる。はたしてその流れはどうなったのだろうか。

bullet諏訪信仰と鷹狩 鎌倉時代に最も盛んだったと思われる諏訪信仰、多くの御家人が日本全国から御射山の祭礼に訪れ、地元に勧請してその末社は現在日本全国で約1万、軍神、狩猟神として崇められ諏訪の呪文は今でも我々鷹狩り関係者の間に受け継がれている。


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