サロン・ウラノボルグ


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  4.アフララ作<仙人>


(再びウラノボルグ城サロンの場。ブルフローラ、アフララ、ナタニエル登場。閑散とした広間のおちこちに灯っていたプラズマーナが、主を迎える犬のように三人のところへ寄り集まる。)

ナタニエル 「先ほど来たばかりというのに、もうなつかれてしまいました。触ろうとするとパチパチはぜるような音のするのが、少々気味悪いですね」
ブルフローラ 「猫のようなところがありますの。きっと気持ちよがっているのでしょう。でもあまり手をちかづけると、風船のように弾んでしまいます。カイメラ先生の話では、昔の人が考えた肉体と魂の関係みたいなものですって。いつも一緒にいながら、決して触れあうことがない、どちらも互いを必要としながら、決して一つになることがない、それなのに神さまが互いに近づくように、そして近づきすぎると離れるように設計したんですって」
ナタニエル 「なるほどね、それでかわいがろうとすると逃げるんですね。昔の人が想像した魂のようにできている」
アフララ 「わたくしの肉体に惹かれているのではなく、わたくしの魂が引き寄せているのだと思います。そして魂と魂を隔てている肉体が嫌悪を起こさせるのです」
ナタニエル 「肉体とはべつの、魂の存在をお信じになるのですか」
アフララ 「私たちは肉体に閉じこめられた魂ではないのでしょうか」
ナタニエル 「魂の存在を証明した人は誰もおりません。すべてはこの脳髄という自然界で最もすぐれた精神装置の働きなのです」
アフララ 「そんなことはどなたがおっしゃったのですか。わたくしは長らく魂の世界におりましたので、今の世界の思想にはなじんでおりませんの」
ナタニエル 「それは失礼しました。あなたが体験なさったことをわたしは否定するつもりはありません。ただ、オッカムの剃刀ではありませんが、魂を持ち出さなくとも、すべてが脳現象によって解明されてしまう以上、魂にはもはや出番がないということなのです」
アフララ 「それでは私がこの世界へ戻ってまいりましたのは、間違いだったのでしょうか」
ブルフローラ 「いいえ、アフララさん、ここウラノボルグにいらっしゃる限りは、この世の思想は何の影響力も持ちません。ナタニエルさんのおっしゃることは、カイメラ先生からもうけたまわっています。ウラノボルグではあらゆる思想が万華鏡のようにやり取りされますが、それらは真理という重しからまぬがれていて、こころを自在の世界に遊ばせるのです」
ナタニエル 「ここウラノボルグにおじゃましている間は、私もそのルールに従いましょう。私のことばを悪く取らないで下さい、アフララさん」
アフララ 「ご心配なく、わたくしはただこの世界を恐れているだけなのですから」
ナタニエル 「この世界を恐れて、魂の世界へ逃れたのですね。まあ、よくあるケースです」
アフララ 「そうでしょうか」
ナタニエル 「生まれたばかりの赤子は世界を恐れて泣きます。けれどもすぐに母親の乳房というよりどころを与えられて、世界と妥協し、泣きやみます。でも母乳が与えられなかったらどうでしょう」
アフララ 「多分わたくしは母親の母乳が足りなかったのでしょうか。その足りなかった分が、きっとわたくしにとって魂の世界なのでしょう」
ブルフローラ 「わたくしはアフララさんと違って、ここウラノボルグで育ち、ウラノボルグの外へほとんど出たことがありませんから、恐れということをまるで知らずにすごしました。この世の知識はすべてカイメラ先生から授かりましたが、それに対して特別の感情を抱いたことがないのです。その世界へ出てみたいとも、その世界が怖いとも思いませんでした。わたくしは自分のことを、花園に巣をかけている一匹の色鮮やかな蜘蛛のように思うことがあります。巣の真ん中に坐っているだけでわたくしは満足なのです」
ナタニエル 「そして網にかかるものを待ち望んでいるわけですね。この荒野の真ん中の花園に巣を張って、どのような獲物がかかりましたか」
ブルフローラ 「いろいろとございました。後でお見せしましょう」
ナタニエル 「ご冗談でしょう」

(バロン・ナイトとモーグル氏登場。)

バロン 「相変わらずの酒豪ぶりですな。とてもかない申さぬ。ウラノボルグのワインが底をつく日もまぢかじゃ。その時はカイメラさんが、例のグラーフ・マリネンコの売り上げで何とかするじゃろうことよ」
モーグル 「ウラノボルグを破産させては申し訳ない。自前のワインを調達いたしまする」
バロン 「なあに、カイメラさんがいる限りウラノボルグは安泰じゃ。実を言うと、プラズマーナもカイメラさんの発明で、ガリガリ商会に特許を売ったのだそうな。マリネンコ伯爵には失礼ながら、カイメラ氏がいなければワイン一本食卓に上らんのが、今の平民社会での現状なのでな」
モーグル 「マリネンコ伯は物質には一切頓着なさらぬ方ですから、少しもお困りにはならないでしょう」
バロン 「まことにそのとおりでござる。余輩のレベルでものを申してしもうたわ。しかも、マリネンコ伯は、いざという時にはとっておきの特技をお持ちゆえ」
モーグル 「その特技はあまり使われて欲しくないものですな」
バロン 「ごもっとも。ところでお若い方々がお集まりじゃ。われわれ老骨もお話に加えていただこう。ナタニエル君、美しいお嬢様方を、どうか独占しないで頂きたい」
ナタニエル 「これはバロン、そんなつもりは毛頭ありませんよ。ちょっとした議論です」
バロン 「美しい女性相手に議論とな。それは野暮というもの。若者たちは詩と恋を語りなされ」
ナタニエル 「知的なお二方ですから、私も負けそうなのです」
バロン 「女性に議論で勝っても、すこしも自慢ではありますまい」
ナタニエル 「バロン、失礼ながら、それは今の世では女性蔑視というものです。私はフェミニストですから、男女で話し方を変える事はありません」
バロン 「それはまた殊勝な心がけでござる。それで議論でもって、どのように女性が口説けるのかな」
ナタニエル 「それこそ下心と言うものです。女性をそのようなものとしか見ない、時代遅れの心性です」
バロン 「はて、余は下心なしに女性と語らったことは、記憶にござらんのう。モーグルさん、いかがじゃ」
モーグル 「相手によるのではなかろうか」
バロン 「ごもっとも。しかし、余はそれこそ、すべての女性を女性と思うておる。すべての女性を恋人にしたいと思うておる」
モーグル 「それこそフェミニズムでありましょう」
ブルフローラ 「夜おじ様が結婚なさらないのは、そんな欲深い思いからでしたの」
バロン 「永遠の女性を希求したレオナルドも、生涯独身であったそうな。それよりも、姫こそなにゆえの男嫌いであられる」
ブルフローラ 「誰がそのような噂を立てましたのか知りませんが、私はナタニエルさんと同じ考えです。というよりも、兄ダックスとこの点ではよく議論しました。女は男にとって、恋や愛欲の対象でしかないのでしょうか。または、子を産む機械に過ぎないのでしょうか」
バロン 「ふむ、兄妹でそのような議論をされたとはな。ウラノボルグではポリティクは禁物であったはずじゃが、これも堕落した世の影響であろう」
ブルフローラ 「いいえ、フランケンシュタインさんのお母様のメアリーさんが、ウラノボルグに寄られたときに、お父君の本とお母君の本を置いてゆかれたのです」
バロン 「ふむ、フランケン氏のよしみでもなければ、ポリティクと名の付く本は、ウラノボルグからは追放されておった事じゃろう。それで、ナタニエル君。君の議論と言うのも、ポリティクの口なのかね」
ナタニエル 「いいえ、魂と肉体の問題です」
バロン 「それならばウラノボルグにふさわしかろう。どうやら今宵は、ワインの後のアイネ クライネ ナハト メタフュジーク とまいりそうじゃな」

(マリネンコ、ダルシネア、カイメラ登場)

ダルシネア 「長い間お飲みにならなかったのに、お二方に張り合うなんて、馬鹿げています。あの方たちは普通の人間ではありません」
マリネンコ 「にゃにょにゅうんにゃ。にょんのにょきともにょ」
ダルシネア 「ますますお口が回らなくなりました」
カイメラ 「グラーフ・マリネンコをご用意いたします。お口が回るばかりか、酔いも飛んでゆきます」
マリネンコ 「にゃ、にゃ。にょんはにょんのにゃをかんしたてーにゃんどにょまんにょ、かいみゃらくん」
ダルシネア 「なにをおっしゃってるのやら」
カイメラ 「ティーは飲まないとおっしゃっています」
マリネンコ 「にょんはにょっとりゃんにょ。わいんにゃ、かいみゃらくん」
カイメラ (ダルシネアに) 「どういたしましょう」
ダルシネア 「とんでもございません。またお寝いりになってしまいます」
カイメラ (小声で) 「おまかせを。近頃はやりのノン・アルコールにいたします」
マリネンコ 「わいんひとたるにゃ、かいみゃらくん。にょんのにょきともりゃも、にょみたらんにゃらん」
カイメラ 「今地下室を調べてまいります。しばらくお待ちを」

(カイメラ出て行く。客たち、マリネンコ、ダルシネアのもとへと集まる。)

バロン 「久かたぶりのワインに酔われなさったか、マリネンコ殿」
マリネンコ 「にょんはさけににょうたのではあらにゃん。いまのにょのくうーきが、にょんにゃあわにゃんにょにゃ」
バロン 「ごもっともなこと。三百年前の空気と、今の世の空気とでは大いに違うてござる。空にも穴が開いたとかいうことで、人々は有害な光線を恐れるようになり、モーグルさんの故郷の極北のトゥーレでは、厚い氷河も次第に薄くなり、この世から寒冷が消え去ろうとしておりまする。人間たちの精神にも大きな変化が生じ、科学やら技術やらがこの世の唯一の真実のように振舞っておりまする」
マリネンコ 「それにゃ、ばろん、にょんがいまのにょのくーきをにゃんとにょういきぐるしゅうおもうにょは。ゆいいつのしんりとにゃらがにょんのむねをしめつけるのにゃ」
モーグル 「マリネンコ殿の予感は既に事実です。ウラノボルグもこれまでのようには・・・・・・いや、この話はいずれまた折りを見て」
ダルシネア 「何か心配事でもおありですの。先ほどの鏡狩りとか言い・・・・・・」
モーグル 「今すぐにと言うことではありますまい。幸いにも、マリネンコ殿が目覚められたと言うことを知るのは、われわれ、つまり、ここにいらっしゃる方々だけですから」
バロン 「モーグルさんが心配なさる事態は余も気がかりじゃが、多少の不安はかえって今宵の物語に良き刺激を与えることでござろう。かのスペッサルトの宿のように」
マリネンコ 「にょんのことにゃらしんぱいはいらにゃんにょ。いずれかがくにゃらぎじゅつとにゃらにもおめにかかって、ものがたりをうかがわにゃん。ところでスペッサルトのにゃどをものがたったにゃかきたびびとは、そにょごいかがした」」
ダルシネア 「わたくしとブルフローラに見送られ、隊商と一緒にアラビニアへ旅立ちましたが、その後モンガリアへも出かけて皇帝の密使になったとか、ものの本に書かれています」
マリネンコ 「はにゃしにょうずのにゃかものであったにゃん」
ダルシネア 「そのあと、あなた様は、あのいまわしい、退屈至極なお話をした魔法使いに、眠らされてしまったのですわ」
バロン 「今の世にも‘退屈な話’として伝わってござる」
ナタニエル 「その話は私も読みました。頭もしっぽもない、牛のよだれのように延々とつづく話ですが、意外なことに批評家たちには好評で、これこそが純文学の鑑と言われています」
バロン 「さればこそ、マリネンコ殿の存在が邪魔であったのじゃな」
ナタニエル 「その辺の事情は詳らかでありませんが、‘退屈な話’が物語国を眠らせて以来、退屈な日常を描く話が小説の世界の王道を歩みました。現実を描かない小説は意識の低い戯作とされました」
マリネンコ 「おはにゃしのこしをおるようにゃが、にゃたにゃーるくん、しょうせつとはいかにゃるものか。みみにゃれんことばにゃり」
ナタニエル 「小説とは何かと言うお尋ねですか。説明すると長くなりますが、一体どこから始めましょうか」
バロン 「マリネンコ殿はあまり書かれたものは読まれぬ。書物の事情には以前から無頓着であられる」
ナタニエル 「そうですか。そういうことでしたら、物語国は小説とは無縁であったわけですね。少なくとも小説は目で読むものですから。グーテンベルグの発明以来、物語を語らせるカリフは少なくなりました」
マリネンコ 「グーテンベルギューはあしきまほうつかいにゃり。にょんのたのしみをうばうにゃり」
ナタニエル 「グーテンベルグの子孫は、今では世界中の書物のコレクションをしています。その中には厖大な小説が集められています。物語が紙の上に印刷されるようになると、人々はそれまでの空想的な物語にあきたらなくなりました。たぶん活字というものがあまりに立派に見えたからだと思います。世の中に貢献しないような物事を書物にするなどは、お金の無駄と考えたのです。そこで物語も、何か世の中のためになる新奇なことを伝えねばならなくなりました。そこでノヴェラ(小説)が生まれたのです」
マリネンコ 「よのなかのためににゃることを、にょんはしておらにゃきゃったともうすきゃ」
ダルシネア 「にょん様はにょん様のためになることをなさっていればよいのです。それだけで世の中は平和です」
マリネンコ 「にょんもそうおもっておったにゃれど、よのなきゃがものがたりこくをみすてたにゃり」
ダルシネア 「それはにょん様が三百年も居眠っていられたからです」
ナタニエル 「えーと、お話がそれておりますが、要するに、小説はこの世の出来事を描くことが主流となりまして、物語国で語られているようなことは時代遅れとなってしまったのです」
バロン 「さればこそ、マリネンコ殿は伝説の存在となられ、サロンも忘れ去られたのであったことよ。余もまた時代の逆風の前には、夜の中に身を潜めてよりよき時代を待たねばならんかった」
ナタニエル 「時流は今は少しずつ良い方に向かっています。若者たちは仮想現実を好むようになり、アヴァターと称してその中に住まっています。小説もそれに呼応して、だんだんに現実離れしています」
バロン 「それもまた余には憂うべきことに思われる。仮想現実とは言いじょう、若者たちは現実のコピーを求めておるのではあるまいか。現実とは別の世界ではなく、現実もどきの代用品をじゃな」
ナタニエル 「確かに、バロンの仰有るとおり仮想現実は単なる夢や空想ではなく、その中でこの世界のような生活が営まれる空間です。言ってみれば発達した小説の世界であって、そこで第二の生活を営むのです」
バロン 「その事態は想像や空想が現実の奴僕となることではないか。さような世界に余輩やマリネンコ殿が住むことはかなわぬことじゃ」
ナタニエル 「アヴァターとしてならどのような存在も居住可能です」
バロン 「余はアヴァターでもなければ、そのような傀儡(くぐつ)になりたいとも思わぬ。余は余なればこそ余なり」
マリネンコ 「さようにゃり、ビャロン、ひっく、にょんはにょんなればこそ、ひっく、にょんなり。にょんは、ひっく、きゃそうでもあびゃたーでも、ひっく、にゃきにゃり。ひっく・・・にょんは・・・ひっく・・・」
ダルシネア 「しゃっくりがお鎮まりになってから、お話なさいませ」
マリネンコ 「さようらくにはい、ひっく、きゃんにゃり。にょんは、ひっく・・・げんじつを、ひっく・・・すきゃん・・・きゃいめらくん・・・よきところへ、ひっく・・・はやくわいんにゃ・・・ひっく・・・」

(カイメラ、ワインの壜数本とティーセットをワゴンに載せて登場。)

カイメラ 「いかがなさいました」
マリネンコ 「ひゃ、ひゃ、ひっく・・・」
カイメラ 「わかりました」(ワインをグラスになみなみと注ぎ、マリネンコに差し出す。マリネンコ一息に飲み干し・・・)
マリネンコ 「にゃんにゃ、こにゃわいんにゃ。まるでちがうにゃり」
カイメラ 「お気づきになりましたか、さすがにマリネンコ様。地下倉のワインが尽きてしまいましたので、仕方なしにわたくしの発明した合成ワインを持ってまいりました」
マリネンコ 「ごうせいわいんとにゃ!」
カイメラ 「近頃では本物よりもヴァーチュアルが流行りますので、いくら飲んでも悪酔いしない、よったような気分だけ味わえる、ワインもどきを造りまして、売り出しましたところ、大変よく売れまして、特に女性には人気です」
マリネンコ 「あみゃりおどりょいて、ひゃっくりもひっこんだにゃり」
モーグル 「済まないことをしました、マリネンコ伯。私たちが飲みすぎたばかりに、お酒倉を空にするとは」
マリネンコ 「すまないのはにゃんなり、お二人をもてなさんがためにワインはあるものを」
ダルシネア 「あら、少しはお口がお回りに」
カイメラ (小声に) 「ワインもどきのおかげです」
バロン 「マリネンコ殿、気になさることはない。三人で五樽も空けたのであるから、今日のところは充分飲み足りてござる。それにしてもカイメラさん、プラズマーニャといい、口の回るティーといい、ヴァーチュアル・ワインといい、ご商売上手なことでござる。感心いたした」
カイメラ 「それもこれも、ウラノボルグとマリネンコ様のためでございます。近頃は天国といえども経済が必要でございますから」
マリネンコ 「カイメラ君、ウラノボルグの経済を心配してくれるにょはありがたいが、本物のにぇんだい物のワインだけは欠かさないように」
カイメラ 「承知いたしました。明日早速手配いたします」
バロン 「今宵は久方ぶりの物語の饗宴に酔いとうござる。のう、マリネンコ殿」
マリネンコ 「さようじゃ、バロン。して、つぎの語り部はどなたかにゃ」
バロン 「先ほどお若い方々が、魂と肉体についての議論をなされていたそうな。どうだね、ナタニエル君、アフララさん、ブルフローラ姫、どなたか魂についての最新の事情をお聞かせ願えんか」
ナタニエル 「私は魂に関しては科学の立場に立っていますので、あまり麗しい物語はできません。さっきもアフララさんに申しましたが、脳髄こそが魂の座であり、魂そのものであると言って良いのですから、魂について語ることは脳髄について語ることになります」
マリネンコ 「脳髄とにゃ。脳とはにゃんの頭の中に詰まっておるものか」
ナタニエル 「そうです。自然の作り出した最も精緻なコンピューターといってよいでしょう」
マリネンコ 「そのコンピューターにゃるものが、にゃんの魂であると申すか」
ナタニエル 「はい。自ら考えるコンピューターが魂です」
マリネンコ 「しかし、にゃんはコンピューターとかいうにゃんの脳について考えることができるが、コンピューターがどうしてにゃんについて考えることができるのにゃ。にゃんが考えなければ、どこにコンピューターやら脳やらがあるのにゃ」
ナタニエル 「それは詭弁というもので、脳が脳について考えているだけです」
マリネンコ 「にゃんは、脳が魂にゃりという、そちの考えこそ詭弁と思うが。にゃんの魂が存在しなければ脳もなく、肉体もないと思うがにゃ。にゃん思うがゆえに、にゃんあり。にゃんあってのちに脳あり、肉体あり、世界あり。どうじゃな、バロン」
バロン 「お見事な論理でござる。ルナトゥス・カルテシウスも同じように申してござる」
ナタニエル (傍白) 「今どきルナトゥス・カルテシウスか!やれやれ」
マリネンコ 「カルテシウスの令名はにゃんが物語国にも伝わっておる。亡くなる前に、方法についての物語を一席お聞きしたかったにゃん」
ナタニエル 「えーと、デカルトが出てまいりましたので、わたしは議論をアフララさんに譲りたいと思います。私はメタフュジークが苦手ですので。アフララさんは魂の世界を放浪なさっているそうですから」
アフララ 「あら、わたくしも難しい議論は苦手ですの。私が魂と呼んでいますのは、単に心の世界をそう呼ぶまででして、それを傷つけようとする肉体や物の世界から逃れて、ひたすら心だけの世界を求めて放浪しておりますのです」
バロン 「それはわれらとて同じでござる。それぞれがおのれの求める心の世界を、この世のいずこかに見出さんとするのでござる。のう、モーグルさん」
モーグル 「そうですな、わたしも長らく希求したはてに、私のエレメントを見出したのだが。アフララさん、幻の中であなたに出会わなかったのは不思議だ。夢みる者たちは共に夢みることがあるものだが、一体アフララさんはどの辺りを彷徨われたか」
アフララ 「わたくしはクレピュスクルムを彷徨いました。今も彷徨っております」
モーグル 「クレピュスクルム・・・いずこかで詩人の口から聴いたような気もする。バロン、覚えはなかろうか」
バロン 「Baudelaire でござろう。

   Voici le soire charmant, ami du criminel;
   Il vien comme un complice, a pas de loup; le ciel
   Se ferme lentment comme une grande alcove
   Et l'homme impatient se change en bete fauve.

  (こころゆかし、とが人の友、宵の来る
   ともに企む者のごと、狼の足して。
   空は静々と閉ざさん、大いなる寝屋
   心せくものは、野の獣と化す。――ボドレール「宵の黄昏(Le Crepuscule du soir)」)


モーグル 「このように剣呑な夢魔の国に、あなたのような方がアリスのようにさ迷い入られたのか」
アフララ 「わたくしは悪の手によって奪われたわたくしの亡き妹の魂を探して、黄昏の国を彷徨っているのです」
バロン 「黄昏と夜とは親戚のようなものなれば、余も黄昏の魔力については知らぬこともない。して、どのようにしてクレピュスクルムに入られたのじゃ」
マリネンコ 「そうにゃ、そうにゃ、あふりゃりゃさん、その物語をぜひお聞かせにぇがいたい」
ダルシネア 「お口がまた回らなくなりました。ワインもどきを・・・」
マリネンコ  「いりゃん、いりゃん、それよりもお話にゃ」
カイメラ (ティーを女性たちにサーヴしながら) 「マリネンコ様がお口が回らなくなったのは、l'homme impatient se change en bete fauve. ということでございましょう」
アフララ 「そのことを皆様の前でお話しするのは、今でも胸のふたぐ思いがします。わたくしにはとてもその勇気はございません」
バロン 「どなたにも秘しておきたい悲しみはあるもの。御身の心の傷に触れることを余が所望したとならば、ご無礼をお許し願いたい」
ダルシネア 「そうでございますとも。女性には知られたくない心の秘密があるものでございますわ。バロン・ナイトがお謝りでございます。マリネンコ様も無遠慮に過ぎませんか」
マリネンコ 「アフララさんの心の秘密までも、にゃんは知らんとするにあらず。クレピュスクルムのことが知りたいのにゃ。どのような世界で、どのようなことが行なわれておるのにゃ」
アフララ 「物語国へ参りましたのに、わがままなことを申してすみません。私自身のことを直接お話しするのでなければ、少しは心も静まります。クレピュスクルムは西の果ての黄昏の森の奥深く潜む、暗黒の井戸が入口でございまして、そこへはどのようにして辿り着きましたのやら、今では記憶も朦朧としております。追憶と夢とが混沌と渦巻く中をわたくしはさ迷っておりました。

“・・・・・・そんな時でした。この世の果てにクレピュスクルムという夢の国があるといううわさを、誰からともなく耳にしたのは。それはかすかなかすかな夢の記憶のように頼りないものでしたが、それを伝え聞いた時から、なぜでしょうか、わたくしの人生がつらく、味けなく、無意味に思われるたびに、天上のメロディーのように、記憶のひだからいざない、ささやきかけてくるのででした。クレピュスクルム、クレピュスクルム・・・ただの夢なのだとわたくしは、落胆を予防するかのように自身に説き聞かせました。
・・・・・・ある夕暮れ時、それは紅蓮の後光が西の地平を大火のように燃やしていた、めったにない荘厳な色彩の交響にさそわれてのことであったかもしれません、わたくしはクレピュスクルムへの旅立ちを決意したのです。わたくしは空を燃やす炎の峰によじのぼり始めました。もはや地上のことを忘れ、ただひたすら眼を天上に向けて歩いていたわたくしには、そのように思われたのです。そして地の回転するにつれて、しだいに移り、薄れてゆく荘厳を、わたくしの足がとりもどせでもするかのように、まるで七里靴で翔けているかのように、いよいよ歩を速めてゆきました。しかし闇が急速に憂愁の翼を地のうえに広げてゆきました。わたくしはまだ人間の世界にいるわたくしを見いだしました。”

 もし小説風に語るなら、このようになりましょうか。先ほどナタニエルさんが小説の歴史について講釈なされましたが、わたくしはこの世の出来事を描く小説は書くことができませんし、また書きたいとも思いません。小説は文字通りにFictionであると思っております。述べて創ることによってこそ、わたくしは初めてわたくしを語ることができます。ですからわたくしはクレピュスクルムについて事実そのものではなく、小説風に物語りたいと思うのです」
ナタニエル 「実を言いますと、わたしも小説は事実よりもフィクションであると思っているのです。小説は現実のコピーではなく、人間や世界の真実を描くものと考えています」
バロン 「ウラノボルグで通用する小説はそのようなものでなければなるまい」
マリネンコ 「にゃにはともあれ、アフリャリャさん、物語の、にや、小説の続きをお話にぇがいたい」
アフララ 「クレピュスクルムのすべてを語ることは、とても短い時間ではできませんし、わたくしにその能力もありません。いつかお話しすることがあるかもしれませんが、今宵はクレピュスクルムで出会いましたある不思議な人物について、短い小説風に物語らせてもらいます」

         *       *       *

            仙人

          作: アフララ

 ある時、森の中を散歩していた。樹々は比較的疎らであったが、どれも葉の一杯に繁った、見上げるぱかりの大樹で、暗緑の天蓋の下を行く小暗い小径には、どこからともなく薄明が漂っていた。朝であったか、昼であったか、夕であったか、とりとめのない広さをもつこの森を行く、とりとめのない散策のあてどのなさに、時の移る感覚も失われるようであった。すると葉のひときわ密生した大きな広葉樹の蔭に、一軒の普請中の家があるのを見つけた。一階はほぼ形を成していたが、二階から上はまだ木組みもあらわなむきだしの木材だけで、どういう事情か、そのまま長くほったらかしにされているらしかった。二階から更に上があるようであったが、枝葉に隠れてよく見分けがつかない。
 <ここが例の仙人の家だ>――突然頭に響くものがあった。たぶん新聞で読むなりして、森の中にそういう人が住んでいるという噂が、記憶のどこかにしまわれていたのであろう。そこで、足を止めて家の中を覗いてみることにした。それは造作ないことだった。人の棲めそうな一階も、まだ縁側や勝手口に戸障子の類が一切はまっていないので、中の様子がつつぬけに見透せたのである。勝手と十畳ばかりの部屋であったが、どちらにも家具調度の類は見当たらない。部屋にはそう傷んでもいない古畳が敷かれていて、それが吹きさらしの中でかえってあばら家の印象を与えるのだった。人の姿は見られなかったが、どうも留守には思われなかった。覗いているところを見られているような気が、しきりとするのである。
 案内を乞うべきかどうか躊躇していると、背後に人の気配がした。ふりむくと一人の男が森の奥からやってくるのが見えた。この家を目ざしているようだが、どうやら家の主ではなく客らしかった。その服装とビジネスライクな足取りは仙人のイメージとは遠かったし、手には手帳を持ち、腕には腕章を巻いていた。<きっと新聞記者にちがいない>――ちょうどよい所へ来た、彼のあとについて入ってみよう。記者はいかにも用ありげな、そのせかせかした動作に似つかわしく、ズボンと色違いのジャケットに、ノーネクタイというラフないでたちであった。足早にやってくると、こちらの存在にはろくに目もくれず、仙人の家の勝手口から土間に入っていく。すると今までどこにいたのか、家の住人がいそいそと姿を現わし、記者を迎えた。見るからにむさ苦しいなりをした、髪の薄い若者だった。二人は以前からの知り合いとみえて、記者は若者に軽くうなずいただけで、挨拶もなく上がりこんでいく。わかものは特に嬉しそうでも迷惑そうでもなく、やはり黙って記者のあとに従う。記者につづいて土間に入った時には、記者はもう部屋の真ん中で遠慮なく胡座をかいていた。間をあけるとばつの悪い思いをするので、急いで靴を脱いで上がりこみ、記者から少し離れた場所に、そ知らぬ顔で腰をおろした。
 むさ苦しいなりの若者は押し入れを開けて、なにやらごそごそやっている。先程姿が見えなかったのは押し入れに潜んでいたのであろうか。この男が仙人だろうか。色のさめた染みだらけの汚らしいズボン、いつ洗濯したとも知れない模様のわからなくなった暗色のシャツ、めくった袖口から、すりきれたズボンの裾から、棒のように突き出ている垢の黒く浮んだ蒼白の手足、振り向けた顔を見ると、やはり不自然に白く、長く日光を避けたために、闇に漂白されてこうもなろうかという蝋じみた白さであった。顎一面に無精髯が生い、髪は時々自分で鋏を入れるのであろう、短くはあったがいいかげん段だらになっていた。額際ではかなり後退して、その部分の猥雑な印象が全体の禁欲的な感じをかなり割り引いていた。若者の目は黄色くよどんでいて、意外と鋭かった。無関心のようでいて、何事も見のがさない鳥類のそれのようだった。顎の線の頑固さとつり合っていた。
 押し入れから立った若者は、左右の手にそれぞれ一升壜と電気焜炉を提げていた。それらを記者の前に置くと、もう一度押し入れへ戻り、今度は湯呑みを取り出している。記者はじれったそうに若者の動きを追っていたが、こちらの存在にはあい変らず関心を示さない。若者は湯呑み二つと何かつまみの入ったビニール袋を持って、やっと記者の前に腰を下ろした。両膝を揃えて正座したのは、特にあらたまったというよりは、それが彼の日常的習慣であるらしかった。記者に対して一目置いているようでありながら、どこか昂然の気を発散させているのでも、そのことが見てとれた。
 ――先生は?
 記者がはじめて口を利いた。
 ――例の場所です。
 若者は首を斜めにして上を見るしぐさをした。つられて天井を見た。薄暗く高い。おそらく天井板もなく、梁や桁がむきだしのままに、二階の床板までつつぬけなのであろう。
 ――待つとするか。
 記者の声がする。
 ――むだでしょう。あの方を待つのは。
 若者は一升壜を手元に引き寄せて栓を抜いた。半分ほど入った白濁した液が、ねっとりと揺れた。どぶろくというやつであろうか。若者は湯呑みを取り、なみなみとついで、記者の前に置いた。この時まで若者はこちらに全く無関心だった。意図的に無視しているのか、関心を及ぼすに値しないと考えているのか、いずれにせよその態度は記者と全く同じだった。どこまで無視しつづけるつもりか、興味と居心地の悪さが半ばするなかで見まもっていると、次についだ湯呑みをすっと目の前の畳にさし出した。眼はしかしこちらを見てはいなかった。きっと記者の連れと考えたのであろう。
 記者はすでに白濁した液をちびちびとなめていた。若者はすっと立って、電気焜炉のコードの先を柱のどこかへ差しこんだようだった。焜炉がうなり始め、黒ずんでいた渦巻線に赤味がさしてきた。若者は座に戻ると、ビニール袋の中から干涸びた小魚を取り出し、赤いニクロムの溝の上へじかに並べた。たちまち香ばしく焦げる匂いがただよった。若者は三つ目の湯呑みをどこからか取りだして、それにどぶろくをついで自分でも呑みだした。記者は遠慮なく干魚に手を出し、自分でひっくり返してよく焼けたのを拾い、ぽりぽりとかじっている。かじりながらちびりちびり液体をなめている。しばらく無言のまま、若者と記者はささやかな酒宴をつづけた。若者の年の割りにこけた両頬の間で禁欲的に結ばれた口唇に、白い液体がこぼれるのを見、対照的に精悍だがどこにでも見かけそうな中年男の記者の貪欲そうな口の動きを見して、自分では湯呑みに口をつける気は起こらなかった。
 電気焜炉の上の干魚の方は、香ばしい匂いにひかれて手を出しそうになる。それをかじっている音を聞くのも実に誘惑的だ。しかしどう見ても普通の“にぼし”だった。味も素っ気もない、苦いだけの・・・。どうしてそんなものをあんなにおいし気に食べられるのだろう。はたで嗅いで、聞いているぶんにはよいが・・・。飲み食いに一息入れたところで、記者が言葉をついだ。
 ――ところで、どうだい、近頃は。
 ――お蔭様で。話題になりましたお蔭で、この通り、古畳を、えー、畳を寄進なさる方や、電気の供給も、わざわざ骨折られる方もございまして、お蔭様で、いよいよという所までこぎつけましたわけでして・・・・・・
 若者の話し方は、口髭にたれた酒のしずくの間で、よだれのようにだらしなく響く。
 ――新しい宗教を興すんだろう。
 ――宗教などはまだ、そんなまとまった所までは。今は協力者の力が必要でございまして。なにしろ、“あの方”がめったに降りて来られないものですから、私らだけで勝手にことを運ばせましても。いろいろ手を回したりもいたしましたが、なにしろご本尊のお顔が見えませんことには、説得力に欠けるというものでして。でもお蔭様で、最近はいろんな方がお見えになって、人生相談というやつですか、いろんな悩み事をもちこんでまいりまして、あの方にぜひとも会わせろと、なにしろめったに降りてこられない、それで時にはわたしが代りをつとめたりいたしまして・・・
 若者は言葉の途中で初めてこちらをじろりと見た。<失礼な、こちとらを人生相談と見るとは・・・>――若者の眼の鋭さに狼狽を覚えた。記者はあい変らず若者だけに眼をやって、
 ――そういうことなら、今度カメラマンを連れてくるかな。
 ――でも、いつ降りて来られるかわかりませんので。
 ――ご本尊の写真が欲しいんだろう。
 ――それは、そういうものがあれば便利にゃ違いありませんが。
 ――じゃあ、今度降りて来たら、何とか引きとめる方法を考えるんだな。なんならカメラマンを泊りこませたっていい。
 ――そこまでやってもらえれば、感謝の言葉もありません。でも、あの方が何と言われるか。写真嫌いですから。
 ――なあに、かまやしないよ。宗教を興すのはあんたなんだから。あの方には高みにいてもらうだけでご結構。
 ――しかし、わたしらはそうは考えません。すべてはあの方から発し、わたしらはあの方のお心を体した手足にしかすぎませんので。
 ――その手足がなければ、心だけでは世の中通用せんのだよ。
 ――ごもっともで。でもわたしらは、その心がなければ動けないのです。
 ――結構だ。そこをうまく調和させることだな。人はパンのみで生くるにあらず。だがキリストもまた人を生かすためには、パンを分けなければならなかった。そのパンを分ける手だよ、君らは。
 ――分かりました。わたしはあの方の手であり、足であります。あの方のパンを分けることだけがわたしの手の使命であり、またあの方のパンを遠くまで運ぶのが、わたしの足の使命であります。
 ――民衆には、食いものの話だと、事柄が手っ取り早く呑みこめるらしい。高尚な話をするのはくれぐれもよしたまえ。
 ――ご心配なく、わたしにはその能がありませんので。
 ――ともあれ、いずれ君はあの方の第一の使徒として、世に出ねばならんのだからな。世間を知らねばいかん、世間を。あの方は無知であってもよろしい。いや怒らんでくれ。むしろ積極的に無知であられなされと、わしはそう言いたい。俗世間のつまらん垢などに染まらんほうがよいのだ。大衆の心などは本来稚いものだよ。度外れた力、度外れた純潔、度外れた無垢などには、手もなくまいるものだ。だが、それを演出する者がいなければいかん。大衆は猜疑心が強いからな。だが一度猜疑心が寝返ると、どこまでも忠実なのも大衆だ。彼らは彼らの夢のすべてを賭けてしまうんだな。裏切られても、それが裏切りとは信じられない。なぜなら自分の心そのものを否定することだからな。
 若者は一升壜を持ち上げて、記者の空になった湯呑みについだ。その動作は心服を表わすようでもあり、丁重さに隠された皮肉がこめられているようでもあった。記者は若者が慎重に注ぐ間、言葉をとぎれさせていたが、あふれるほどに注がれた液体を一口すすってから、
 ――ええと、何だったっけな。そうだ、演出するということだ。君、宗教なんてこの一語につきるではないか。本来宗教というのは、あの方のように孤独な修行であり、孤独な行いなのだ。だがわれわれ凡愚はなかなかその境地までは到達しない。なんとかそういう達人たちにあやかりたいと思う。そこに二次的な宗教が発生するんだよ。それには合い言葉が必要であり、儀式が必要でありして、結局古代人の“まつり”や呪術に近いものになっていく。そうでなければ大衆の中に入っていくことができないのだよ。宗教が人を救うというのはね、君、弱い人間同士が宗教という儀式の中で互いに慰め合っているに過ぎないのだ。ためしに、彼らを一人で神や仏の前に立たせてみたまえ。彼らは恐怖のあまり逃げだすよ。
 ――あの方から逃げだす人はいませんでしょう。
 ――それはあの方は人間だからな。人間ならどこかで理解が通じ合うはずさ。だがそれでは宗教にはならない。人間同士慰め合っているだけだということが、あからさまになってしまってはいけないのだよ。人間よりも高度の原理というやつさ。それを何かの拍子に思いついた人が、宗教の開祖になるんだよ。あの方もその一人にはちがいない。だが問題は、それを共通の感覚にすることだ。どんな凡愚でもその真理が感じ取られる、そういう儀式というか、段取りというか、演出が必要なのだ。小道具のない宗教なんて考えられるかね、君。
 ――あの方はそういうものは一切使いません。
 ――あの方はな。だが君は使わなければいかん。宗教を興そうとしているんだから。写真が欲しいというのもそこだろう。
 ――それほどには・・・それにあの方にお聞きしなければ・・・
 ――欲しくはないのかね。
 ――・・・・・・。
 ――望遠で撮るという手もあるんだ。
 ――実は、あんまりあの方が姿を見せないもので、なかにはあの方の存在を疑う人もありまして・・・私自身も時々不安になるんです、あの方が本当にあそこにいられるんだろうかと。
 若者は斜めに首をひねって、上目づかいに天井を見た。ここでこの家に入ってから初めて口を出してみた。
 ――でも、どうしてご自分で上ってみないのですか。
 若者はびっくりして眼をこちらに据えた。眼の中に妙な表情が流れた。質問の内容が意外であったのか、それとも質問されるはずのない相手に質問されたという不意打ちのいらだちであったのか、いずれにしても憤怒がこめられていた。
 ――わたしはね・・・高所・・・恐怖症なんですよ。
 声がうわずっていた。
 ――でも、それならどうして仙人の弟子なんかに・・・・・・。
 ――それは無礼な質問だよ、お嬢さん。
 むっとしている若者に代わって、今やっとこちらの存在に気づいたといった顔の新聞記者が答えた。
 ――だいたい、弟子というのは先生より劣っているのにきまってるんだ。十ニ使途のだれかが、キリストより偉くなってごらん。キリストのように水の上を渡ったり、天なるパパと直接会話をかわしたり、そんなことができたら、その男は弟子なんかに甘んじてるはずはないんだ。自分自身で宗教の開祖になるよ。
 若者はうなずいて平静な表情にもどった。だがもうこちらを見なかった。最初はこちらを見て喋っていた記者も、相手にするのもつまらないといった様子で、若者のほうに顔をもどしている。お喋りは延々とつづいていくらしい。さっきから部屋の隅の方に見えている梯子段が気になっていた。二階へ通じるのだろう。そこに仙人がいるのだろうか。それともその上があって、さらにのぼって行くのだろうか。高所恐怖症というからにはそうらしい。黙って座を立った。二人は議論に熱中して、気づきさえしないようだ。梯子段の所へ行き、木の段をにぎってみるとしっかりとした手ごたえである。ほぼ九十度の勾配がある。もう一度二人の様子を見ると、こちらの企てには気づいていない。足をかけてそろそろ攀じのぼる。急に暗くなる。見下ろすと、もうこんなに上がったのかと思うくらい、下の二人がぼんやりした光の輪の中に小さく見える。
 ふいに怖くなった。このまま上りつづけたら、もうあそこまで下りられなくなるのではないか。だがあわてて下りていったら、あの二人に嘲笑されそうな気がする。そ知らぬふりをしているのも、この惧れを見こしてのことでは。たかが二階のことと思い、気を取り直した。手でしっかり段をつかみ、足でしっかり段を踏む。見上げても真っ暗で、いつ頭がつかえるか、それが心配だ。やっぱり黙ってのぼらないで、尋ねてみるべきであったか。するとやっとのこと、真上にほのかな明るみが見えてきた。元気づいて手足に力が入った。念のために下を見てみると、もはや暗黒で、どのくらいの高さなのかも知れない。闇の深さが知れないだけに眩暈がした。手足から力が脱けていった。眼をつぶって必死に梯子段にしがみついた。強く眼をつぶったため、闇の中で光が踊った。とりとめのない光の縞の乱舞に眼をこらしていると、眩暈が引いていった。目をあけて真上のほの明るみを見た。それだけを眼にとらえるようにして、手足に力をこめた。明るみは明るく、大きくなって、四角い形をはっきりさせた。もうある程度以上明るくならない。
 四角い穴をぬけ出ても、あたりは薄明である。板組みの床に身を投げだして、しばらく息をついた。二階はまだ作りかけなのか、あるいはわざとそのまま放置してあるのか、材木が縦横に組まれ、粗板の床が敷かれているだけで、ほとんど櫓の上と変わりなかった。仙人はどこにいるのだろうかと身を起こした。狭い二階の範囲を、手足ではいずるようにして見て回った。うっかり立つと、縁から下へ落ちるのが怖かった。見下ろしても闇ばかり・・・。いつの間にか日が暮れたにしても、ここだけ黄昏が残っているのは、ずいぶん高い所へ来たせいだろう。仙人はおろか、物一つ見あたらない。ただ手足にざらざらする板と材木の四角い檻・・・。がっかりして下へ戻ろうと思った。梯子に手をかけると、まだまだ先があるのに気づいた。
 空は木々の枝葉に覆われているのだろう。星ひとつ、雲ひとつ光らない。ただこの一角だけが、ぼんやりと黄昏の光に包まれているらしい。梯子は見上げる闇の中に消えていた。ここまで来てあと戻りできるだろうか。ともすれば力が脱けて、顫えそうになる手足に叱咤を加えた。梯子はしっかりした手応えで、その点では倒れたりする心配はなさそうだった。屋根裏か、三階へ出るのであろう。しばらく守宮のように梯子にへばりついてから、一歩二歩のぼりだした。先程と同様に、薄明はたちまち闇に変わった。ちらりと下を見ると、もう二階ははるか下にほの見えていた。急に瘧(おこり)のような不安が体を揺さぶった。梯子が揺れだし、しないだしていた。目をかたく閉じて梯子にしがみついた。しがみついても手足に力が入らない。そのままずるずる滑落しそうだ。梯子はもうゴムのようにしない、ゆるゆると傾いていく。落ちる、落ちる、落ちる! ・・・・・・梯子はどこで引っかかったのか、ぴたりと止まった。落下の大きな恐怖が、ふいに釣り針でつり上げられたように軽くなった。救かった。まだ胸ははげしく動悸を打っている。眩暈はかえって恐怖のために引いていた。気がつくと、もとの通り垂直の梯子にしっかりつかまっていた。
 自分の眩暈が梯子を揺さぶったのだということに気づいた。大胆にならなければ・・・・・・。弱気が落下を招く。手足は今の動揺でぎごちない。一度離れたら、もうそのままつかみ返し、踏み返す力もなくなりそうだ。あわてずに、心を鎮めて・・・木のぼりの途中で息んでいるパンダを想像しよう。ゆっくりと腰をかがめ、脚を一方ずつ段の間にくぐらせ、とうとう腰かけてしまった。そのまますべり落ちないように気をつけて、梯子段を抱えこむように丸まっている。なんて奇妙な居眠り・・・・・・煙突男さながら・・・・・・。両足がぶらぶらしているのが落ちつかない。足の先から高所恐怖感がぴりぴりと伝わってくる。その下にはどこまでも足応えのないそこ深い闇が・・・。梯子の両脇を脛で押さえるようにはさむ。するとようやく落ち着いた。何てはしたないスタイル・・・・・・でもこの闇の中だから見られるはずはない。でもひょっとして、もうカメラマンが来ていて、望遠でねらってるかも・・・・・・油断できない。
 眼をあけた。パチパチとまばたきする。目を開けても、閉じても同じなどという暗闇は、一瞬ショックを与える。息苦しい、光を呼吸できないのは・・・。心臓までが闇の圧力を感じている。早くどこかに出なければ。休んだためにかえって安定感のなくなった、ふやけた足を片膝立てにもちあげて、段に乗せた。次いでもう一方の足を乗せ、ナマケモノのような格好でぶら下がった。腰が重い。腕ごとしがみついているのを、思いきって手を伸ばした。のぼらなければ・・・・・・。一段、二段、三段・・・・・・ぼんやりと明るみが頭上に見える。あんなところに三階を造ってどうするつもりだろう。さらに一段、二段・・・・・・もう一息。四角い入口が見えている。ずいぶん狭い、体が抜けられるだろうか。肩幅ぎりぎりの広さ。あの肩の広い記者にはむりだろう・・・。まるで芋虫か何かのように、板敷きに這い出た。そのままうつぶせにしばらく息んだ。
 あたりを見回した。三階もまた二階とどこも違わない櫓のようなつくりだ。ただひどく狭そうだ。寝返りをニ三度うてば、端から転げ落ちてしまうだろう。人の姿はない。まだこの先のばらねばならないのか――がっかりしてあおむくと、意外にも星空が目を射た。薄明りは星からの明りだったのだ。するとここが頂らしい。仙人はどこにいるのだろう。半身を起こして、もう一度櫓を見回した。姿はない。ではやっぱり仙人なんて存在しなかったのだ。あの弟子が懸念していたとおりだった。ここまで来たのはむだな骨折りだった。カフカの小説だって、こんな落胆はさせないだろう・・・。あきらめきれずに、もう一度星空を見上げた。たしかに梯子は中途でつきている。いくら仙人だって、そこから先はのぼれまい、羽でもないかぎり・・・。
 すると櫓の一方に、夜空に黒々とシルエットを浮かべて、大樹の頂がおおいかぶさっているのが目に入った。よく見ると梢近くの枝の股に、何やらちょこなんとのっているものがある。鳥のように見えたが、鳥ではない。鳥は胡座をかかないからだ。どう見ても人だった。行儀の悪い広葉樹の枝の股の一方に背を気持ち良げにもたせ、ハンモックにでも揺られているように体をくの字にして、もう一方の枝に足を組んでいる。両腕を腹の上で重ね合わせ、落ちても飛行を心得ている鳥のように、何の不安もなげに見えた。見つめると、だんだんに姿かたちがはっきりしてきた。身にボロをまとった乞食のような男だった。少し気おくれしたが、せっかく来たのだから、櫓の上を縁から落ちないように用心しながら、そちらへいざって行った。床板に横ずわって、あらためて見上げてみた。身の丈ほどの高さに、仙人の顔がはっきり見てとれた。幾分横向きだったが、一瞬はっとするほど下の弟子の容貌に酷似していた。彼が先回りしたのではないかと勘ぐってみた。しかし、よく見ると、細かい点で違っていた。似ていると思えたのは、頬がこけているのと、汚らしい無精ヒゲのせいだった。もともとヒゲを伸ばすたちではないのに、むやみに伸ばしても見映えがしない、そういうむさ苦しさだ。髪はさんばらに長い。歳は中年であろう。何よりも弟子と違っているのは、仙人の目と口唇だった。星明りでそれとわかるほど、仙人の目は羊のように穏やかだった。ほころびた口唇にはかすかな微笑が浮んで、楽しい夢を見ているようだった。思いきって声をかけてみた。
 ――仙人さん、何を見ていらっしゃるのですか。
 仙人は空を見上げていた羊のように柔和な眼をふりおろした。しばらく夢から覚めやらぬように、こちらの顔を見るともなく見ている。弟子の鋭い目つきのようには、見つめられても狼狽を覚えさせない。汚らしい口髭に囲まれてはいたが、穏やかな微笑が警戒心をほぐさせた。
 ――ごめんなさい、お邪魔しちゃったのかしら。どうぞわたしに構わずに、見ていらしたものを見ていて下さい。わたしここまでのぼって来ただけで、すっかり疲れちゃったの。少し息ませてもらってから、また戻りますから。
 ――あなたは、わたしに用があって来たのではないの。
 仙人の声は女性のようにやわらかかった。高みの空気を吸いすぎたためか、少し鳥類のようにしゃがれていたが。
 ――ええ、どんな方かしらと思って。下にいる人達が噂していたものですから。
 ――噂するだけで、なかなかここまで来ようという人はいないのですよ。
 ――でもあなたの所に、いろいろな、悩み事をもった人が尋ねてくるとか。
 ――ここまでは来ません。わたしも煩いから、いつもここにいるんですよ。鳥と語り、星と語るのがわたしの楽しみなのです。
 ――では、さっきから星を見ていらしたのですね。
 ――そうです。星くらい見あきないものはありませんね。
 仙人は照れたように星空を見あげた。
 夜空は空気が希薄なためであろう、黒ずんで見えた。<夜の空ってこんなに墨のように黒かったんだな>――新しい発見だった。星は文字通り、光る砂のようにばらまかれていた。
 ――星ってこんなに小さかったかしら。
 ――高くのぼるほど、星は小さくなるんですよ。
 ――でも、こんなにごちゃごちゃ、たくさんあったら、どれがどれだかわからないわ。
 ――どれがどれだか、わからなくていいんですよ。
 ――わたし、南の魚座って、気に入ってるの。フォーマルハウトはどこかしら。
 ――さあ。でも、こんな詩を知っていますよ。

       ひとつ星
       隠れ棲む庵
       魚の口

 ――フォーマルハウトは孤独なのね。
 ――でも、ここの空には孤独な星なんてありませんよ。
 ――きっとここからは見えないんだわ。それとも一晩待たなくちゃいけないのかな。
 ――何を待つのです。
 ――星が昇ってくるのを。
 ――ここでは星は昇りませんよ。
 ――でも星は動いているのよ。一日に一回、空を巡るの。
 ――星はもちろん動いています。でも巡っているのではなく、流れているのです。
 変わったことを言う仙人だ。星が流れているって・・・。でも、そう表現できないこともない。
 ――うそだと思ってるんでしょう。わたしは星の流れるのを見ていたんです。何がこの世の無常を一番覚らせるかといって、流れる星を見つめるにしくはありません。
 ――でも、わたしには流れてるように見えませんわ。
 ――それは見つめかたが足りないからですよ。もっとじっと見つめてごらんなさい。
 星は数えきれないほどの細かな光の粒だった。どの粒も地上で見るようにはせわしく瞬かない。おまけに、どの星も一様な明るさで、夜空にまんべんなくまかれている。仙人に言われたとおり、目をいたいほどに凝らしてみた。すると星々がぐんと目の前に近づいた気がした。星の砂と砂の間に遠近感が生じた。つづいて、実に少しずつだが、星の粒が近いものは速く、遠いものは遅く、一方に流れだしていた。それは透明な川の水に、砂粒が運ばれているようだった。暗い、暗い川底を背景に、今星たちはさらさらと流れている。流れながら、だんだん、だんだん近よって来る。近づいても、細かな光る砂粒に変りはない。星たちは目の前をゆるゆると流れている。いつの間にか前だけでなく、横も、後ろも、星の砂が流れている。いつしか地上を離れて、星々の間に漂っていた。星の砂と一緒に流れていた。どこへ流れていくのだろう。見回すと右手に暗黒星雲のような影があった。よく見れば、腕を重ね合わせ、胡座をかいた仙人だ。
 ――仙人さん、一体どこまで流れていくの。
 ――さあ。
 ――わたし、怖いわ。
 ――どうして。
 ――隕ちてしまいそうだもの。
 ――ここにはどこにも隕ちる場所なんてありませんよ。
 ――そういえばそうね。どっちが上だか、どっちが下だか。
 上下、左右、前後、星の砂に囲まれていた。光の粒は緩急とりどりに、こぞって一方向へ流れていた。その中で見方によっては、共に流れているようであり、静止しているようであり、また遅れているようだった。体を流れに垂直に保てば、川水につかっているようであり、足が先に流れれば隕ちているようであり、また頭を先にすれば飛んでいるようだった。
 ――仙人さん、世界の果てはどうなってるのかしら。
 ――さあ。
 ――きっと滝みたいに、星たちと一緒になだれおちていくのではないかしら。
 ――そう考えて心配する人もいます。
 ――あなたはどう考えますの。
 ――わたしは考えません。
 ――でも、想像ぐらいなさるでしょう。
 ――さあ。
 ――さあ、さあって、そういう答え方は卑怯ですわ。
 ――さあ。
 ――はい、か、いいえで答えてもらいたいの。
 ――わたしは肯定も否定も嫌いなのです。特にそれが自分の意見として訊かれる場合にはね。
 ――でも、それじゃあ人を教えることができないじゃありませんか。
 ――私は人を教えたりはしませんよ。私はただ観察するのが好きなのです。たとえば、こんなふうに星の流れをね。そして時々は、こうやって一緒に流れてみるのです。あんまり見てばかりいると、いつの間にか泳ぎを忘れてしまいますからね。一泳ぎしたら、また新鮮な気分で岸にあがるのです。でも、こういう私の態度が、自然に人を教えているのだと、そう考える人もいます。私の弟子と称している若者にお逢いになったでしょう。わたしは何一つ彼に教えませんが、本当は教えることができないんですが、彼はわたしを師とあがめています。
 ――でも、あの人は高所恐怖症だって言ってました。
 ――それがこまった点なのです。高い所を恐れる人は、いつのまにか高い所に畏敬の念をいだいてしまうのです。彼がわたしをあがめているのも、ただわたしが高い所にいるから、それだけなのです。自分で、もしその気にさえなれば、ここまでのぼって来れるのですが、それが面倒くさいばかりに、代りにわたしをあがめているのです。でも、それがあの若者の力になっているようですから、わたしには何とも言えませんがね。実のところ、わたしはあの若者がけむたいのですよ。私自身の戯画を見ているようですし、それに、わたしというものが、あの若者の中で、ある固定したものになってしまうことを思うと、怖くさえあるのです。
 ――でも、師が弟子を恐れるなんて、おかしいわ。
 ――弟子を持つと、何かと定見を持たねばなりませんからね。それが自分を縛るのが怖いのです。自分の考えることに、油断というものが許されなくなりますからね。考えずにすむことを、むりに考えさせられますからね。
 ――でも、弟子なら師のそういう態度を理解してくれないかしら。何一つ教えないことが、仙人さんらしい態度だということを。
 ――そのことを教えなければならないのが面倒なのです。もしわたしが教えずして教えるものだということになれば、わたしはもはや何一つ教えないものではなくなります。わたしは固定した何かになるからです。
 ――それでは何も教えられませんわね。
 ――ですから、わたしは人を教えられないと言ったのです。
 ――仙人さんを責めたわけではないんですの・・・・・・
 ――わたしは自由が欲しいのですよ。何ものにも縛られない、他人にも、自分にも縛られない自由が。人間との間に関係を持つことは、とりも直さずその自由を譲歩することです。人間から完全に離れるために、わたしは仙人になったのです。
 ――でも、人間から完全に離れちゃうなんて、不自由じゃないかしら。
 ――私は心の話をしているのですよ、お嬢さん。現にあなたがわたしの所へ話しにこられる。あなたのお話はわたしの心を楽しませはしても、少しも束縛しない。あなたの身体はわたしには少しも誘惑ではない。それはあなたとわたしの間に、何ら束縛する関係がないからです。少なくとも私の心の中では、関係の原因となるものが鎮められているからです。
 ――それは少し寂しすぎはしません。あなたにとってわたしは何なのかしら。
 ――あなたは一羽の気まぐれな小鳥のようなものです。枝に飛んできて、囀っている間は、心の慰みです。でも飛んでいってしまえば、それまでのことです。心はほかの慰みごとに向かうでしょう。
 ――それはわたしを責めていらっしゃるの。
 ――とんでもない。人を責めるというのは、関係の最たるものではありませんか。私は人を責める前に、逃げだしますよ。人を責めれば、結局はそういう状態に追いつめられた、おのれの機転のなさを責めることになりますからね。
  星の流れが少しずつ速まっていくようだった。仙人の声がずっと遅れて、後ろの方で聞こえた。はぐれてしまうのではないかという不安。
 ――仙人さん、仙人さん、何だかずっと流れるのが速くなったみたい。
 振り向くと、仙人の影が遠くに、小さく染みのように見える。
 ――仙人さーん・・・・・・
 ――心配いりませんよー・・・・・・
 蚊の鳴くような声が聞こえた。星の砂はいよいよ急に流れていく。その急流に巻きこまれて、体がゆるゆると回転した。頭と足とが先になったり後になったり、ふわふわと漂っていく。星と衝突している圧力なのか、それともあたりの目まぐるしさに眩暈を起こしているのか、流れはあちこちに小さな渦を起こし、さらに全体が左方向に大きく旋回しはじめている。その旋回の角度が増すにつれて、流れはいっそう激しさを加えていく。すべては音のない巨大な光の渦巻だった。あっと思う間もなく、渦巻星雲の中心部に小石のように落ちこんでいった・・・。熱のない光の雲が、あたりを包んでいる。雲は見つめると、次第に遠ざかっていく。遠ざかりながら、一つ一つ星の粒に分かれていった。やがて暗い夜空に静止して、ふりまいた無数の銀の粉と化した。
 いつのまにか、板敷きの上に仰のいたまま寝てしまったらしい。夢でも見ていたのだろうか。むっくり身を起こした。仙人は――と見れば、あいかわらず樹の枝の股に、ここち好さげに寝そべっている。こちらが目覚めたのに、どうという反応を示さない。仙人とかわした対話も、また夢だったような気がする。寝ている間、じっと猛禽のようにこちらを見ていたのかもしれない。気がつかなかったが、ずいぶんと高い鼻をしている。寝ている間に伸びたのだろうか。まなこにも、心なしか翳りがさしている。呼びかけようとして、ふと口が噤まれた。もう話すことは何もなくなっていた。むりに会話の興味をもりたてようとするのは、不機嫌の萌しだ。仙人の目もむだ話の徒労を望んでいない。それに、高い所にはもう飽きてしまった。一休みするには相応しい空気だけれども・・・。
 ――仙人さん、さようなら・・・。
 梯子に手をかけながら、囁くように言ってみた。聞こえなかったのだろう、返事がない。足をかけて、もう一度仙人の方を見てみると、顔は前を向いたまま、目だけこちらを見ていた。<一羽の鳥がたっていくところを、お見送りにならなくてもいいんですよ。>――そう言ってあげてもよかった。まなこの中の翳りは、ひょっとして悲哀なのかもしれない。仙人らしくもない・・・。でもまた明日は、別の小鳥が飛んでくるでしょう。囀るだけ囀って、それから、<さよなら>もなくたっていく。<さよなら>を言ってはいけなかったのだ・・・。
 一歩足を踏みおろした。たちまち仙人も、梢も、星空もかき消えてしまった。ただ闇があった。闇の中の垂直の梯子にしがみついてのアクロバット・・・。もう一歩踏みおろす。すると闇はいささか明るんだ。もう一歩・・・なーんだ、何を怖がっていたんだろう、すぐ眼の下に二階の櫓が見える。自分の用心深さにあきれて、さっさと下りて行く。二階には道草をしないで、すぐさま一階へ下りる。首が一階の空間へくぐると、普通の高さに畳が見おろせた。部屋の中央に先ほどと同じ様子で、弟子と新聞記者があいかわらず向き合って、あいかわらずにぼしをかじり、どぶろくを舐め、仙人の噂に興じている。とんと音を立てて畳に下りたっても、こちらには目もくれない。ちょっとこそ泥のような気持ちで二人の横をすり抜け、勝手の土間に下り、沓を履き、屋外へ出た。外はあいかわらず朝とも、昼とも、夕暮れとも知れない薄明にとざされている。
 少し行ってから、ふいと気になって頭上を見上げた。樹々の枝葉が密生して、嫉妬深く視界を遮っている。その一箇所、、葉の奇跡的に薄れたところに、眼差しを感じた。井戸の底から見上げるような高みに、仙人の姿が見えた。ひょっとして仙人ではなく大鳥であったかもしれない。樹の梢に巣づくりした大鳥であったかも・・・。孤独という卵を後生大事に抱えこんで、羽搏くことを忘れた鳥・・・・・・。

          *        *        *

アフララ 「お話は以上でございます。拙いながら小説としての工夫をいたしましたので、お耳にはお聞きづらくもあったかと思います」
バロン 「ふむふむ、噂に聞くアヴァン・ギャルドとはかような物であったか。」
アフララ 「いいえ、このような語り口はカフカ以来もはや飽きられております。わたくしは現代の時流とは相容れませんので、こんな古めかしい物語となりました」
バロン 「われらのように古めかしい物語を好むものには、充分モダンであることよ」
マリネンコ 「アフリャリャさんにはいささか失礼にゃことを申すが、にゃんには少々合成酒の味がいたしたにゃり」
アフララ 「お口に合いませんでごめんなさい」
マリネンコ 「あやまられることはにゃか。面白き物語であったにゃり。仙人との対話はことのほかうるわし。にゃんも仙人と語らってみたきぞにゃん」
アフララ 「おほめを頂いてほっといたしました。ハウフさんやレアンダーさんが訪れたサロンで、わたくしのようなものがお話をするなんて、出すぎたことをいたしました」
ダルシネア 「いいんですのよ、アフララさん。サロンではどなたもお話しするのが決まりなんですの。にゃん様はお話さえ面白ければご満悦なんですから」
ナタニエル 「えーと、小説としての見地から一言批評させてもらいます。この小説の語り口には、アフララさんの隠れた性格が現われていて、面白く思いました。たぶん意図的にそれをお出しになったのでしょう。地の文と会話との不協和が二人のアフララさんを表わしています。それと、前半と後半の調子の際立った違いが第二の不協和です。この二重の不協和は作者の意図に反して、欠陥と受け取られかねないのではないでしょうか」
アフララ 「同好の方のご批評、ありがたく承っておきます」
バロン 「ナタニエル君にも、ぜひ小説を披露して頂きたい」
ナタニエル 「私はどちらかといえば批評をこととするのですが、いつか自分でも納得のいく小説を書こうと、材料だけは集めています。短いものならいくつかの習作がありますが、それでよろしければ」
マリネンコ 「次の語り部はナタニェール君にゃり。にゃれど、その前に仙人のその後の事を、アフリャリャさんにおうかがいしたいにゃん。サロンにも招きたくにゃん思える」
アフララ 「仙人さんには、その後お会いしてません。でも、ある人の噂に聞きましたところでは、とある国の都で仙人と名のる占い師に出会いましたそうです。でも、若い女性の連れ合いがいましたそうですから、別人かもしれません」
バロン 「若い女性が連れ合いでは、仙人には不釣合いとお考えか。星と語らうお人なら、星占いがこの世のなりわいとして相応しかろう」
モーグル 「わたしもアフララさんの物語を聞いていて、東の方の国で耳にはさんだクーメ仙人の逸話を思い出しました。空を自在に飛び回っていたクーメ仙人が、ある時山あいの川の上を翔っていると、すぐ下に白いはぎをあらわにして洗濯している女が眼に入った。たちまち神通力を失って、女のそばに落ちたそうです。そのまま、その女人とめおとになって、俗界に暮らしたとのこと」
バロン 「アフララさん、あなたは気づかずして仙人を落下させたのかもしれませんな」
アフララ 「・・・・・・」
マリネンコ 「いつか仙人夫婦をサロンに招こうにゃん」

           (サロン・ウラノボルグ第四章完。2007・7・1)
                   copyright: eposbungakukan,2007

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(次回はナタニエル作<虹を追う少年>の予定です。なお画像はチコ・ブラーエの天文台ウラニボリ。)