片山 勇八


作成2005年8月7日

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主題:「御鷹匠同心片山家日常襍記抄」に見る御鷹匠同心の生活と野先

文政十一年(1828年)


副題:片山 勇八(敬称略)

 この日記の作者に付いてまず紹介しておきましょう。

 幼名徳蔵、寛政八年六月九日生。この日記を書いた文政十一年の時点では数え年で三十三歳。筆が達者でしかも絵も得意で大岡雲峰に習い、画號を「百薬」と言う。この辺が結構副収入に繋がっているが、それは「勇八の副収入」で紹介したい。 また、宮内省式部職編「放鷹」(505ページ参照)にも名前が出て来る。それも文政十年に勇八の書き写した物を中田英太郎が献上したと有る。ここでも書の腕前が中々の者で有った事を物語っている。

※余談ですが、、「国立公文書館」で直筆の書を見る事が出来ます。

 初めに編者の追記で片山家の人間関係に付いて触れている。勇八は片山家八代、その前の六代と七代に付いては記載されていない。しかし、この十一年の日記の中に「拙者が養母、彦右衞門が妻ちよ・・・・・・拙者が実父等には」と有り、 七代目は彦右衛門で、さらに勇八は養子で有る事が解る。名前からして血族でない事はうかがい知れる。では片山勇八の旧姓はなんだったのか知りたくなるが、それはまたの機会に譲って六代目は 誰かと言うと、文化六年の雑司が谷職員名簿では、鷹匠同心に片山吉蔵と言う名前が出て来る。多分この人物が片山家六代で間違い無いであろう。

 さて、片山勇八がこの日記を書いてくれたおかげで、雑司ヶ谷の人間関係がはっきり見えてきた。感謝すると共に、返す返すも処分された資料が残念でならない。

 片山勇八は嘉永六年八月十六日卒と記されている。今の数え方で、五十七歳で没している事になる。 

 

参考文献:「続徳川実記」、「文化六年雑司ヶ谷職員名簿」、「武士の家計簿」、「放鷹」 、「御鷹匠同心片山家日常襍記抄」
 

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