野 先


作成2005年8月7日

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主題:「御鷹匠同心片山家日常襍記抄」に見る御鷹匠同心の生活と野先

文政十一年(1828年)


副題:野 先(のさき)

 ※まず初めに野先に付いて少し説明しましょう。専ら将軍が鷹狩をする御拳場の外側に、鷹匠が鷹の仕込みや、獲物を獲って献上する為の「取飼野」と言うのが有る。※歴史資料の中では「御捉飼場:おとりかいば」と表現されるケースが多いが、捉(とらえ)と正しい読み方で注記を付ける現代資料も有るが、鷹匠用語では(とり)と読むのが正しい。大体で悪いが江戸城を中心として半径20キロの外側に御三家の水戸、紀伊、尾張の鷹場と並んで雑司ヶ谷と千駄木の取飼場が有る。(詳しく知りたい人は専門書が出ているので読んでください。)

さて、そこに出掛ける事を総称して「野先」と呼ぶ。つまり今で言う所の出張である。この野先には「仕込」、「据回し」、「遠据」、「上鳥」等目的により表現は違うが、結局の所最後は野先と総称している。最低でも一週間から一月位の長期に渡って鷹を据えて獲物を求めて各地を徘徊するので有るから大変な仕事である。


葛飾北斎 富嶽三十六景、下目黒より

江戸期の浮世絵に出て来る鷹匠はほとんどが二人連で有る。最低二人一組で出掛けるのが決まりで有ったが、三人も居たら絵の構成上多すぎるので、二人にしたのではないか。この二人の服装は冬の雑司ヶ谷部屋の鷹匠の正装である。片山勇八がこの格好で野先に出たかは不明。


 十月二十日の日記によると二十三日より稲毛筋(品川筋稲毛領)へ出張する様にと上から指示が来たが、(この部分だが、二十五の日記に「今日府日中稲毛筋野先出立」と書かれている。そのまま読むと「こんじつ、ふひなか、いなげすじ、のさきしゅつたつ」となるのだが、おかしい。「今日府中稲毛筋野先出立」なら話しが通じる。現代文に直すと、「今日(きょう)府中稲毛方面へ出張に出掛けた。」)この時、札差を替える件(宿替え)でもめていたので、未だ御切米(給料)を貰っていないし、急に言われても準備が有るから二十五日に日を伸ばして貰う様に片山勇八他、二名が話し合い、この年組頭になったばかりの近藤平兵衛(御御鷹匠同心の出張指示は御鷹匠組頭の指示。)に対し、久保田茂八が代表でお願いに行く事になった。そして二十五日出立の許可を貰ったが、結局二十五日のメンバーから久保田茂八は 外れていて片山勇八と同僚の沼尻又三郎の二名で行く事になった。 ※理由は編者が意図的に省略してしまったので分からず。

 まず、どのようなルートで行ったか説明しておくと、現在なら雑司ヶ谷霊園から徒歩でJR池袋駅まで行き、そこから山の手線で、新宿駅まで行き、小田急小田原線に乗り換えて途中、下北沢駅で降り、一服してから世田谷まで行き又小田急線に乗り、登戸駅で下車したと思われる。決して雑司ヶ谷霊園の幽霊の話では無い。

 では、話を元に戻そう。二十五日、手明(助手)も居ないまま犬追一人を連れた一行は夜明け前、提灯を下げて 雑司が谷の御鷹部屋を出発。その後、内藤宿(新宿)を越えた頃夜が明け、北沢村( 現、下北沢駅近く)の淡島神社の前の茶店で休んでから世田谷に向かう。そこで旅の準備をしてから、この日の目的地登戸へ向かった。そしてこの日は登戸へ宿泊している。多分この日は名主の家に泊まり、鷹は土蔵の中に繋いでおいたものと思われる。

※鷹匠が訓練に訪れる場所を捉飼場(とりかいば)と呼び、管理は鷹匠頭が行っている。さらに村毎に鳥番所を設けさせ、毎日二人づつ詰めて 、いつ鷹匠がいつ来てもいい様に準備しなくてはいけない。さらに、勢子や人夫、水夫等、鷹匠一人に付き一人を出さなくてはいけないが、二人位出して機嫌を損ねない様にしたり、大変であったが、人足分は後で規定にそって代官所から支払われるから半分は回収出来る 。宿代は鷹匠一人一泊百二十四文と決まっているので、酒とか暖房費を入れると大赤字になってしまう。そこで近隣の村で互助会的な組合を作りお互いに助け合っていた。鷹匠といざこざを起こさず帰ってもらう為に随分と苦労していた様である。

 翌二十六日、東のしらむ頃と言うから日の出前に御鷹を据え出して多摩川上流の榎戸(現、矢野口駅近く)まで行き、今度はゆっくり多摩川沿を登戸に向って下り、登戸を過ぎてその先の宿河原まで行き、登戸の宿に帰って朝食を取っている。その後十時頃宿を出て五反田(現、川崎市多摩区小田急線生田駅近く)にゴイサギがいると言うので出掛けている。農家の裏の木に止まっていたのだろう同行の又三郎が勇八の鷹を据えて梯子で土蔵の屋根に登り鷹を放して捕らえている。(鷹で獲物を捕らえた記事はこの他にあと一件有るだけである。)その後は道沿いで売っていた羊羹を買い、食べ歩きながらこの日の宿、矢の口(現、矢野口駅近く)の名主、源吾の家に泊まっている。

 翌二十七日は午前九時頃出発して押立(現、稲城インターチェンジ近く)で船に乗り多摩川を渡り、府中(現、府中市へ行っている。) 日記の内容から現在の稲城市と府中市周辺で狩りをしている事になる。


星下り(ほしさがり)の梅

 その後しばらく日記は省略されているが、晦日(みそか)十月末日に片山勇八一行は、多分前々から計画していた「星下りの梅」見学ツアーを実行に移した。情報は仲間の鷹匠から仕入れていたのだろうが、現、相模原市「磯部」から磯辺の渡しで現、厚木市「猿ヶ島」へと相模川を渡る。※この間、府中から は「府中道」を歩いてここまでやって来たと思われる。

※2006年3月19日私もこの星下りの梅ツアーを実施してみた。やはり梅が咲いていないとさびしいのでこの日にしたが、1週間早い方が良かった様である。写真はこの日に撮影した物です。(青色の文字と写真が今回追加した物です。)

 2007年2月17日、去年梅の開花時期に間に合わず、綺麗な花が撮影出来なかったので、暖冬の今年は早々と再度写真撮影に出かけました。


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磯辺の渡し(相模原市)                     磯部より猿ヶ島側を望む

 その後、「猿ヶ島」からすぐ近くの「上依知村」に有る「星梅山妙伝寺」で「星下りの梅」を見ている。

 現在は2代目に成るのか、古い株の枯れた跡に新しい梅が二本生えている。今回、回った中ではこの寺が一番立派で、二天像、近世では神奈川県随一の大きさを誇る釈迦如来立像など片山勇八が見た建物がそのまま残っている。また、周りの風景も当時を偲ばせてくれている。

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妙伝寺遠景                               星梅山妙伝寺

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星下りの梅(後は釈迦堂)                                     昔の株と思われる跡が残る



釈迦堂の中の釈迦如来立像

梅に関係なく、この仏像は皆さんに見て貰いたいと思います。(2007年2月17日撮影)

 その後、三キロほど下流に当たる「中依知村」の名主の家で昼食を済ませ、この村に有る「宝塔山蓮正寺」で又も「星下りの梅」を見ている。

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宝塔山蓮正寺                              蓮正寺

 現在、お寺は本堂を新築中で有るが、今有る本堂は昔からの建物である。なお、この三つのお寺の一つは我家から10分ほどの距離にある。

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星下りの梅(白梅)                   蓮正寺以前に有ったと言う三光山梅香寺跡

 蓮正寺の出来る以前は三光山梅光寺と言うお寺が蓮正寺の下に有り、相模川の氾濫で流されて無くなってしまったそうである。片山勇八も梅光寺は見る事は無かったであろうが、一つ疑問が生まれて来た。この石碑に「本間役宅」と書かれているが、もしかしたら本当はここに星下りの梅が有り、川の氾濫で流された後、星下りの梅に関係の深い本間氏が金田村に住居を移した可能性も十分に有る。

 さらに一キロほど下流になる「金田村」の「明星山妙純寺」で又も「星下りの梅」を見ている。

 現在は、立派な建物に建て替えられて往時を偲ぶ物が少なく梅も三本有り、石囲いも新しく個人的にはあまり興味が沸かなかった。歴史的価値から言ったら、妙伝寺、蓮正寺、妙純寺の順番になる。特に妙伝寺は一見の価値が有る寺であるし、蓮正寺もその当時の面影を残した味わい深い寺である。

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明星山妙純寺                           星下りの梅(白梅1本、紅梅2本


(2007年2月17日撮影)


※金田村は相模川を越えた国道246号線と129号線が交差する金田陸橋周辺で、この三つのお寺も現存している。現在は全て厚木市の一部になっています。また、246号線は当時、「矢倉沢往還」と呼ばれ東海道の脇往還として、また「大山街道」とも呼ばれ大山信仰の重要な街道として栄えていました。

 片山勇八はこの「星下りの梅」のいわれに付いて詳しく書いているが、すぐ近くの三つの寺に同じ「星下りの梅」が有ると聞き、どれが本物か確かめに来たのだと思う。そして三番目の「明星山妙純寺」の「星下りの梅」こそが日蓮上人ゆかりの木だと判断した様である。その後。金田の渡しで相模川を現、海老名市側に戻り(丁度、246号線の当たりです)相模川沿いに下り、午後二時頃この日の宿、社家( しゃけ:相模線社家駅近く)に付く。

※この後、稲毛領(多摩川下流の現神奈川県側の品川筋に含まれているが、実際は御拳場であり取飼場はさらに離れた鶴見川のさらに外側で稲毛領とは呼ばれていない)に出掛けたものと思われる。

 その後しばらく日記には別な事を書いたり省略されていて所在が分からないのだが、十一月十二日は又再び矢の口に表れ、(現、東京都稲城市矢野口)オシドリのオスを獲っている。その後の記事から推察すると十一月十五日には雑司ヶ谷に戻った様である。約二十日間に及ぶ長い出張であった。

 この本の中で野先の記事が出て来るのはここだけであるし、鷹に関する記事もほとんど無い。これだけ見ているとあまり熱心に仕事をしている様には思えない。又、生活が苦しい為と思うが、日記の多くに交際費や収入の記録が多く、月々の日帰(日給)に付いては必ず書かれていて、この日記の五月には遠据日帰十五日と有るから五月にも出掛けてた様である。

 そして、日記にはさらに十一月二十六日鷹匠挌三名と同僚一名の都合五人で「稲毛府中の方へ御鷹の据廻しに旅立つ」と有り、翌十二月二日には帰宅しているので、今度は一週間の短い出張であった様である。 これは、鷹匠が付いて来たので短かったのであろう。


風俗画報より

 こちらは千駄木部屋の正装だが、冬場の頬かむりは特に暖かくて、また仕込にも使えるので便利である。地方の藩でもこれが正装の所も有るくらいで、私も仕込中には頬かむりをしますが、夜中にこの格好で一般道に出る訳には行かないので家の敷地内に留めています。 但し、江戸時代は決しておかしな格好では有りませんでした。


あまり長く書く積もりは無かったが、ついつい書きすぎてしまった。関係有るのは日記にしたら二ページ程度です。さて、少し飽きたのでしばらくしたら又書き出したいと思います。

続く

 歴史に興味有る方で実際に「星下りの梅ツアー」を希望される方はメールでご連絡下さい。都合が付けば梅の開花時期に合わせてご案内いたします。(2009.6.28)

 

参考文献:「文化六年雑司ヶ谷職員名簿」、「放鷹」、「御鷹御場所全図」 、「御鷹匠同心片山家日常襍記抄」
 

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