作成2005年8月7日
このページの最終更新日は2015/09/25です。
主題:御鷹匠同心 森覚之丞と鷹術四季書法儀
「御鷹匠同心片山家日常襍記抄」に見る御鷹匠同心の生活と野先に掲載した物ですが、新たに「森 覚之丞のページ」としてリニューアルしました。(2015年9月25日)
元々、御鷹匠同心「森覚之丞」(もりかくのじょう)殿の資料を調べている内に、この本に出会い。「御鷹匠同心片山家日常襍記抄」に見る御鷹匠同心の生活と野先を書き始めた次第です。私が一番敬愛する人物こそが、この「森覚之丞」殿であり、ここではテーマから外れない範囲で書きたいと思います。(2005年8月9日)
下は記念碑に彫られた森覚之丞殿の名前です。
さて、まずは森覚之丞殿に関する現存する徳川家の公的資料からご紹介しましょう。これは「独立行政法人国立公文書館」所蔵の「多聞櫓文書」の中の「明細短冊」と呼ばれる一群の資料群の中に有ります。下の左側が森覚之丞殿が提出した短冊の内の1枚です。ちょっと読みにくいのですが、訳文は右側を参照下さい。
※正式に国立公文書館の掲載許可を受けております。よってこのデータの二次利用は出来ませんので、ご注意下さい。
短冊の内、読みにくい一番左側の一行を紹介しましょう。原本通り書くと「慶応ニ寅年五月七日従御鷹匠同心組頭老衰ニ付御褒美被下置小普請入」となります。これを現代語読みにすると、「慶応二年(寅年)五月七日、老衰(ロウスイ)ニ付き御鷹匠同心組頭(オタカジョウドウシンクミガシラ)より御褒美(ゴホウビ)を下(クダ)し置(オ)かれ、小普請(コブシン)へ入る。」となります。つまり、この年数えで八十五歳の森覚之丞殿が老年退職(定年は無い)して無役の小普請へ入り、年金受給生活に入ったと言うものです。この短冊には一定の決まりが有り、石高(コクダカ)、姓名、生年、年齢、本国(先祖の出身地)、生国(生まれた国)、祖父の名前、父の名前を書き、同じ物を二部提出する様になっていました。さらに由緒書きを追加する例も有ります。残りのもう一部はもう少し詳細な事が書かれていましたが、この詳細部分は虫食いがひどく、「雑司ヶ谷」位しか連続した言葉として判読できませんでした。
此れによると天明二年(1782)生まれで、村越家より森家に養子に入ったと言う事になります。実の父は村越半十朗、祖父は村越十左衛門です。これに付いては御鷹匠同心村越家の人々で触れていますが、村越半十朗の八男で、村越才助(仙太郎)にとっては異母兄弟で、義父に当ります。実子は森半十朗(幼名:喜助)と言い、覚之丞殿の実父の名前を取っています。
さて、主題であります「御鷹匠同心片山家日常襍記抄」に見る御鷹匠同心の生活と野先と言う事で、この本の中で森覚之丞殿がどの様に描かれているか、片山勇八の目を通して紹介して行きたいと思います。(2007年2月20日)
天保十一年(1840)正月の日記に「今年位階を取リたれば」(48歳)と有る。位階と書くと良く分からないが、階位と書くとよく分かると思いますが、ただ今作成中です。
森覚之丞殿が活躍したのは、江戸文化が栄えた文化・文政期(1804〜1829)で、この自由な風紀の下、日本の鷹狩技術もまた最高峰に達しました。時は、徳川宗家の中で最も長い在位50年(1789〜1837)を記録した11代将軍徳川家斉(イエナリ)公の治世下で、さらに歴代将軍の中で鷹狩に出掛けた回数 が一番多い将軍でした。しかし、天保に入ると台所事情は厳しくなり、風紀が乱れ賄賂が横行して家斉公が天保12年(1841)に亡くなり、12代将軍徳川家慶公の代(1837〜1853)になるとすぐに天保の改革(1841〜1843)が行われ、粛清が行われ ましたが、結局改革も失敗に終わり、続いてすぐに天保の飢饉ともうすでに徳川幕府の力は衰え、時代の流れは幕末に向かって行きました。その後、ペリー来航の黒船事件と時を会わせ家慶公が急死し(1853)、もはや鷹狩など行う時代では無くなって行 いきました。但し、家慶公も父親に習い鷹狩を好みましたが、すでに残照期に入っていたのでしょう。 森覚之丞殿は、公に鷹狩が廃止された慶応2年(1866)迄、御鷹匠同心の職に就き、その技を詳細に文字に残した唯一の人物で、それを現在我々が目に し、手にとって読む事で、往時の優れた技術を知る事が出来ます。その功績により森覚之丞殿が再評価されています。
※但し、この様な事が一御鷹匠同心の手で出来たのではなく、第9代出雲松江藩主松平斉貴(なりたか又は、なりたけ)公が大の鷹狩好きで、斉貴公の要望で書かれた物です。その他の著作にもこの斉貴公が関わっております。
松平斉貴公
※この、斉貴公ですが 藩政よりも鷹狩や相撲が好きで、ついには放蕩がたたって藩主の座を引き下ろされて隠居させられてしまいました。但し、藩主と言う事で多くの資料が現存しています。何方か松江近辺に在住の方で、斉貴公の鷹狩に関する資料を研究されてはいかがでしょうか。そして私にお教え下さい。私には此処まで研究する時間とお金が無いので宜しくお願いします。
宮内省式部職編「放鷹」の中に「本邦鷹書改題」と言う項目が有り、日本の古典(古文書)から鷹書を集めて紹介した物ですが、この中で21回も名前が出て来るほど多くの著書に関わっています。特に有名なのが「鷹術四季書」です。これは現在私の知る範囲では5ヶ所の官公庁、公共施設、大学で保管されています。この他にも未だ有る可能性も有りますし、この中の一部は民間からの買い上げなので、民間でも所有している人がいるかも知れません。所謂 (いわゆる)写本で存在する物が多いのですが、どれもレベルの高い物です。中には一部抜粋して別の名前で存在している物も有ります。
つまり江戸時代の完成された鷹狩を研究するには森覚之丞の関わった著作を読む事が最高の資料と言えます 。ただ、その辺は興味の有る方に任せ、私は別な角度から研究しているので、ここでは「鷹術四季書」の説明に留めておきます。 一言付け加えると、鷹狩の為に古文書を読むのなら、最低でも享保以降に書かれた物で無いと意味は有りませんし、 それ以前の物は呪術的な色わいが強く、参考になる点は少ない物です。
さて、下記のリンクから「鷹術四季書」の目次にお進み下さい。
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参考文献:「文化六年雑司ヶ谷職員名簿」、「放鷹」、「多聞櫓明細短冊」、「御鷹匠同心片山家日常襍記抄」
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